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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第125回 “絶対安全”と“しかたなさ”の間
 公立高校の前期試験が2日に終わり、受験生たちの不安な気持ちにしっかりと付き合う必要がある時期です。前期試験で合格してしまおうと期待するのは、子どもたちにとっては当然のことですが、そこをなんとか引き締めて、後期試験の準備に向かわせるのも大切です。あと一ヶ月、すでに私立高に進学を決めた生徒と、公立第一志望の生徒とが混在するなかで、それぞれの子にとっての精神的・実質的に最適なプログラムを考えていかなければなりません。それが一段落したら、また、(サイクリングではない)自転車の遠乗りに出かけようかな、と思っています。

 わたしは「絶対安全な受験はありえない」と書いたことがあります。ゆうゆうと合格する学力の生徒のほとんどは、もうひとつ上の水準の学校を受けているだろうし、絶対に届かない学力の子はほとんど受験していないからです。それでも、実は「ほぼ絶対安全に近い受験」は存在します。私立高校のA推薦で、高校との事前の約束ができている場合です。受験の際まったく予想外の成績であったり、入学前に何かトラブルでも起こさない限りは、まず不合格になることはありません。不安の時代を反映してか、このA推薦を選択する家庭が増えているような気がします。

 ところで、この“絶対安全”を求める傾向は、いつごろから強くなったのでしょうか。奈良の小学生誘拐殺人事件のあと、奈良県では、子どもに声をかけることを禁止する条例の制定が進められているそうです。わたしは、自転車の遠乗りのとき、職業柄、つい気軽に子どもたちに道を尋ねてしまうのですが、こういう条例が全国に広まると、これからは気をつけなければならないことになりそうです。川に転落する子が一人でも出ると、鉄条網と柵で“絶対に”落ちない対策を講じます。佐世保の事件のあとは、多くの学校で、工作用のカッターナイフの持込を禁止したようです。大阪池田小事件のあとは、学校関係者以外の訪問には、どの学校も神経を使っているようです。

 事件が起きるたびに「2度とこのような事件がおきないように、万全の対策をとる」ということばが繰り返されます。そして、なぜその事件が起こったのかの分析をすることなく、子どもへの声かけ禁止条例ができたり、放課後の校庭使用禁止が決定されたりします。安全のために子どもに持たせた携帯電話が悲劇を増幅しました。すると、さらにGPSで子どもの居場所を常時監視していくシステムもでてきているようです。

 道を歩いていると、警備会社のステッカーが貼られ、高い塀と強固な門扉、窓がほとんどない“完全セキュリティーハウス”のような家を見かけることがあります。多分、ご近所との付き合いはまったくないお宅なのでしょう。訪ねてくる人には、疑心暗鬼で応対しているのかもしれません。食品は、絶対に食中毒が出ないように保存料をたっぷりと使い、包装にお金をかけます。家電製品には、水につけるな、子どもの手が届かないところに置け、だとか、信じられないような注意書きが並びます。

 危険・不便・不安・不都合・痛み・・・、わたしたちの社会は、この数十年という短期間に、これらの「望ましくないこと」をできるだけ排除してきました。しかも、個々人の努力や知恵の結果としてではなく、社会からの要請としてそれぞれの管理者や行政や企業に求めてきた結果、どういう事態が起きているでしょうか。自分で危険を察知できない、不便を乗り越える工夫ができない、わずかの痛みや寒さや暑さをがまんすることができない次世代の人間をどんどん生み出しています。そして、なによりも、失敗したりトラブルになったり責任を取らされることを極度に恐れる一方で、他人の失敗に寛容でない風潮が高まっていきます。

 危険・不便・不安・不都合・痛み・・・など、「望ましくないこと」を一定程度受容することは、わたしたちの社会が持続可能な社会になるためには、必要不可欠なことのように思えるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか?


**2月2日(水)掲載**
(す〜爺)

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第124回 “開けたら閉める、借りたら返す”
 前回のコラムで、以前のツッパリたちが「やっていたことはかなり分別に欠けるものだったが、彼らに共通するのは、自分がやってしまったことは自分で責任を取るという姿勢を持っていたこと」と書きました。ある国立大学教員養成学部で教えているわたしの友人が、これから先生になる学生たちに「“開けたら閉める、借りたら返す”この2つが人生の要諦だ」と言うそうです。これは、まさに自分でやったことの後始末と責任ということを意味しています。これは、昨年よく耳にした“自己責任”とはやや意味が違います。後者が「おまえが勝手にやったことだろう。オレは知らん。自分で責任を取れ」という“外側からの突き放し”であるのに対して、前者は「やってしまったことの後始末と責任を取れることが、次のステップへの原動力にも、自分の行動に対する“誇り”にもなる」というメッセージを含んだ“次の世代へのまなざし”です。

 教科書や問題集あるいはコンパスなど、塾の備品を借りてそのまま置きっぱなしにして帰る子どもが多くなっています。自分のいすを出しっぱなしにしたままのこともあります。なかには、玄関も開けっ放し、靴も脱ぎっぱなしで散乱したままの子もいます。この“〜っぱなし”が、“後始末のできなさと責任感の薄さ”を象徴的にあらわしているような気がします。「子どもだからしようがない」ではなく「子どものうちにこそ」と考えて、かなり根気強く要求します。「それぐらいのこと、やってくれたっていいじゃん」と言う子もいます。もちろん、こちらがやってしまったほうが、ふくれ面を見ない分ラクにはちがいありません。だから、こちらの体調が悪いときには、ついついそっと片付けてしまうこともあります。この“〜っぱなしっ子”のお母さんたちが、たいてい働き者で、よく気のつく人が多いというのも皮肉なことです。忙しく立ち働いていると、疲れているときのわたしと同様に、やらせるより自分でやってしまったほうが早い、という気持ちになるのでしょうね。

 最近では、おとなでも借りていった本をなかなか返してくれない人がいます。わたしたちの世代にとって、本は貴重なもので、借りた本は汚さないようにカバーをして読み、長くても1ヶ月以内には返すものでした。図書館の本でさえ返却率が下がっているということですから、物が豊富な時代に育った人にとっては、悪意で返さないのではなく、借りていることを忘れてしまうことのようです。わたしのところの傘も多くは返ってきません。ところが、帰りの電車賃などだと、少額のお金でも、じつに律儀に返しに来ます。何かを借りて助かったり、楽しんだりしたことへの感謝や、貸してくれた人に対する礼は軽いものらしいのに、「お金は借りたままだと気持ちの負担になる」ということなのかもしれません。

 一方、わたしのところには、シャープペン・消しゴムなどの文具はもちろんのこと、だれのものかわからない手袋、何週間も持ち主が現れない自転車のチェーンキイ、ハンドタオル、傘・・・、いろいろな忘れ物があります。そのうえ、持ち主がわかった場合でも「どっかで落としたんだろうなと思っていた」と、いやにさっぱりしていて、見つかったことを喜んでいる様子も見えません。以前だったら、こういうものが残されていると、かならず電話がかかってきて「取っておくよ」と言えば、「ありがとう」と弾んだ声を聞くことができました。

 “所有概念”がうすい反面、ほしいものに対する執着は大変強く、手に入れるまで言い続けます。そして、手に入ると同時に、急速にその物への愛着は薄れていくように見えます。子どもたちの万引きや自転車盗に“罪悪感”が感じられない、というのも、こんなところからきているのでしょう。

 しかし、こうなったのはすべて大人社会の責任です。犯罪には至らないまでも、預かっているお金が自分のものであるように錯覚している官僚や、権限を持っている立場で受け取ったものは、個人のものではなくその権限に属するものであることがわかっていない政治家、過去の歴史に対するきっぱりとした糾弾と毅然とした答責意識を持たない政治家、公共の施設や道路などを平気で汚して恥じないおとなたちなどなど、子どもたちへの“反教育効果”は計り知れません。修身復活を声高に叫ぶ人がいますが、それを言うなら“修身斉家治国平天下”の意味を噛みしめ、一人一人の大人たちがまず自らの身を修めることから始めなければならない、とつくづく思うこのごろです。


**1月25日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第124回 “開けたら閉める、借りたら返す”2005/01/25 16:41:23  
                     高一の親

 
今に時期、受験生の生徒をもつす〜爺さんは
さぞかしお忙しいでしょうに、
それにもかかわらず毎週原稿を読むことが出来てうれしいです。

122回も、昨年でしたら涙ながらに読んだのでしょうけど、
今年は、受験生さん達がんばれ!って気持ちで読ませていただきました。

今回の「お言葉」は、プリントアウトして、居間に貼ることにします。
ほんとうに、そうなんです。
後のことは振り返らず、出しっぱなし、使いっぱなし・・・
欲しいときは、スゴイ執着で、その割に、大事にしない・・・・
そして、それは子供だけでなく、大人さえもそうなんです。

自戒をこめて、そして子供達が始末の良い人間になれますようにと願いつつ。
 

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お恥ずかしい2005/01/27 15:13:44  
                     す〜爺

 
「高一の親」さん、“ググる”以来ですね。どこかホッとしています。
 今年は、不安傾向の子が多いせいか、このところになって、学校から直行で来る子がいて、なかなかパソコンの前に座ることができません。レスが遅くなりました。
 今回のテーマは、書いていて冷や汗をかく思いでした。
 わたし自身、「〜っぱなし」のことが少なくないからです。さすがに、家事や書類の整理など、家の中のことは、そこそこしっかりやっているつもりですが、「やってみるよ」と約束しながら実現していないこと、研究会などで案を出したままになっているもの、「今年こそは会いましょう」なんて年賀状に書きながら、何年も会えないでいる友だち、思えば、無責任なこともずいぶんやってきています。
 でも、まずは「冷や汗をかく」ことから始めようと思います。そして、やれそうもないことは、はっきりと知らせたりする勇気?も必要なのかな、と考えています。
 
 
 

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第123回 ツッパリ
 この10数年まったくといってよいほど見かけなくなったのが、いわゆるツッパリと呼ばれた子どもたちです。茶髪やピアスの高校生はいますが、彼らはツッパリとは違います。あれはただのファッションに過ぎません。テレビや雑誌で見たもののマネをしているだけです。もちろん非行少年でもありません。

 1980年代、荒れる学校の時代がありました。授業妨害も徹底していて校内暴力も多発し、警察力が学校に導入されたのもそのころです。その当時のある寒い日、わたしの塾にひとりの女の子から電話がかかってきました。「働きながら定時制に通っているのですが、大学に進学したくなったので、勉強をみていただけますか?」と言います。数日後、約束の時間に現れた彼女Sさんは、銀ぎつねのショールにミンクらしきコート、なめし皮の超ミニスカートにブーツといういでたちで、しかも、自分で運転してきたのが、当時人気のアメリカンスポーツ車、真っ白なシボレーカマロです。さすがのわたしもびっくりしました。なぜわたしのところに電話をしてきたのか、というところから話を聞き始めました。

 「小学生のときに年上の子達からいじめられたのが口惜しくて、中学になってその連中に借りを返していたら、いつのまにか地域の不良を束ねていたんです。学校の授業はつまらなかったけれど、一生懸命聴いていたつもりです。それでも、どうでもいいことで生徒を殴ったりする教師に腹が立って、ねじ込んでいるうちに、先生たちがみんなわたしを避けるようになってきたんです。そのなかでT先生だけにはメチャクチャに殴られて、いつか殺ってやろうと思うくらい憎みました。わたしの学力なら当然入れるはずだった公立高校が不合格になったのも、中学から高校へ通報されたからだと思いました。それで、一人でその高校の校長に会いに行って、そのことを確かめようとしたんだけれど拒否されたので、その高校の事務室で暴れてきたんです。しかたなく定時制に入りました。そこでは先生も友だちもいい人が多くて、それはよかったんだけれど、授業はわかりきったことしかやらない。働こうと思って職安に行ったら、おまえがやれるのはこんなところだ、と言って風俗店の求人票を出してきたんで、そこでもカウンターの書類を全部叩き落してきました。そんなこともあって、絶対バカにされたくないから大学に行こう、と考えたのですが、だれにも相談できない。そこで思い浮かんだのが、ふしぎなことに中学のときのあの憎いT先生だったんです。たぶん、このわたしをまともに相手してくれた、という気持ちがあって、今度もまともに話ぐらいは聞いてくれるだろうと考えたんです。そうしたら、T先生が、オレの高校のときの友だちで、浦和で塾をやっているヤツがいる。あいつだったらおまえを受け止めるかもしれない、って言うのでお願いに来たんです。」少し長くなりましたが、Sさんの話を総合すると、ほぼこういうことでした。

 その場で旧友のT君に電話をしたら「性格は激しいけれど、根はやさしくてまじめな子だからよろしく頼む」というので、週1回の個人授業が始まりました。さすがに並外れたエネルギーの持ち主だけあって知識と考え方の吸収は早く、それとともに、われわれ夫婦とも急速に打ち解けるようになりました。
 ある日、ちょっと遠出の買い物の相談をしているのを聞きつけた彼女が「わたしの車で行けば早いから」と言うので、例のカマロの助手席に乗せてもらって出かけたときのことです。信号待ちのためにとまってのんびりとした話をしていたら、突然Sさんが車から身を乗り出して「ばかやろう。ナメんじゃねー、降りて来い」と叫びました。見ると大きな陸送車の運転手が、あわててそ知らぬ顔をしています。聞けば、高い運転席から彼女のミニスカートの中をのぞいてニヤニヤしていたと言うのです。肝がすわったスケバンの面目躍如といったところでした。

 当時、中学時代不登校気味でおとなしいM君が、たまたま彼女の定時制高校に入学しました。心配になったわたしが、Sさんに事情を話してM君のことを頼んだのですが・・・。数週間後、M君が困った顔をしてやってきたのです。「なんか、すごくこわそうな人たちが、『大丈夫か、いじめられてないか、なんかあったら言ってくれよな。』ってかわるがわる教室に来るんです。だからクラスのだれもぼくと話してくれないんです。」と。どうも、Sさんが、主だったツッパリ君たちを集めて「なにがあってもM君を守れ」と厳命したのが、事の真相でした。

 Sさんについては、このほかにもたくさんのエピソードがあります。どれひとつとってもかなりユニークな話ですが、彼女が、なぜ高価な服を着てカマロを乗り回すことができたのかも含めて、プライバシーの奥に踏み込むことになるので、これ以上は触れないことにします。Sさんは、その後結婚したのですが、もう10年以上もまえから連絡が途絶えています。もしこのコラムを目にすることがあったら、ぜひ連絡してほしいと思います。

 Sさんのほかにも、何人かのツッパリ君と出会いました。やっていたことはかなり分別に欠けるものでしたが、彼らに共通するのは、自分がやってしまったことは自分で責任を取るという姿勢でした。ちなみに、ツッパリの尻馬に乗って騒いでいるだけの連中のことを、彼らは「半ツッパ」と言ってバカにしていました。「とりあえず嫌なことはやりたくない、でもそのまま無視されるのもイヤだから、後ろ襟はつかんでいてほしい」という“甘え型反抗”の子たちも、大人たちが自分の責任を取らない現代社会の現状の反映だと考えれば、さもありなんと思い、彼らツッパリ君たちの気風をなつかしく思い出します。その当時と現在を比べてみれば、学校や子どもたちの現状が、教師や学校自体の問題というよりも、社会そのものに起因しているのだということに、なぜ思い至らないのか、わたしには不思議です。


**1月18日(火)掲載**
(す〜爺)

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責任をとるということ2005/01/19 22:11:26  
                     

 
 ツッパリの話。すっきりしました。人間だから誰だって失敗したり、迷惑をかけたりします。でも他人のせいにする傾向がはなはだしい。政治家や企業のお偉いさんがそう。残念ながら子どもの手本になっているような気がします。
 『新しい歴史教科書』感情的なのはだめですね。説得力が失われます。その内容を信じた生徒がいたとしたら、それこそ国際化の時代、世界から笑われる以上に、信頼されなくなります。軍隊慰安婦や南京虐殺など、実際にあったことがなかったことになるのですから…
 力がある教師だったら面白い授業が出来るかも知れませんが、多忙で、勉強不足の教師には期待できません。
 

元の文章を引用する

 
Re: 責任をとるということ2005/01/21 15:37:07  
                     す〜爺

 
風さん、こんにちは。
 「新しい歴史教科書」に対しては、おっしゃるとおり、感情的に反発しても逆効果になる可能性がありますね。まずは、できるだけ多くの人たちがその内容を知ること、そして、その歴史観の背景に「新自由主義」という国家戦略があることを知った上で、論議を深めたいところです。それには、われわれもいっそうの勉強が必要ですね。
 「多忙で勉強不足の教師には期待できない」とありますが、もし現状がおっしゃるとおりであるならば、この教科書が導入されることは大変危険であると思います。
 これとは少し論点がずれます。勉強不足の教師はむかしからたくさんいましたが、問題は、子どもたちのために使う時間以外のことで多忙にさせられている先生たちの時間をどのように取り戻すかだと思います。このあたりは、ぜひ現場の先生方からのご意見をいただきたいところです。
 「つくる会」が、従来の教科書を「自虐史観」であると糾弾していますが、いま、すすめられている教育制度改変の方向が、先生たちや教育現場から誇りとうるおいをさらに失わせ、自虐的な思いに捉われるものか否かについても、現場からのご意見を期待しています。
 
 

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第122回 受験生とその家族のかたへ
 今年は10日が休みであることで、ひさしぶりに長い冬休みになりました。私立学校の入試は実質的に終わってしまったところも多くありますが、大学入試センター試験まであと4日、埼玉県公立高校前期試験まであと3週間です。受験生にとっては、いよいよ正念場が近づいてきましたね。

 そして、とくに高校受験生にとっては、それぞれの塾の冬期講習が終わり、9日に最後の北辰会場テストを受け、11日に学校が始まって、すぐに実力テストがあるこの時期が、一番不安で緊張する時期でもあります。また、受験生の家族、とりわけお母さんたちにとっては、受験校の情報やほかの受験生の動向など、真偽取り混ぜてのうわさ話を耳にするたびに、不安が募るはずです。そこで、この時期の塾の子どもたちにわたしがいつも言っていることを、公開してみようと思います。
 
 まず、お母さんたちへ
 ここでは、公立高普通科第一志望の場合について取り上げてみます。現在の段階では、ほぼ受験校は決定しているとして話を進めます。今年の県公立高校入試は、いくつかの点でこれまでと大きく異なっています。しかし、基本的には、これまでと同様、多くの普通科の前期募集は、募集定員の約4分の1程度なので、ここでの合格を期待し過ぎないようにしましょう。ただ、従来の推薦入試よりも、当日の頑張りが功を奏する可能性は大きいと思います。後期募集では、前期に受験した高校と別の高校を受験することは、もちろんできます。なかには私立の合否結果によって変更する例も見られますが、できれば変えないほうが望ましいと思います。同様に、後期には志願先変更期間がありますが、よほどのことがない限り、ここでの変更も得策ではありません。これは、本人の心理的動揺を惹き起こす場合が多いからです。とちゅうで多少の見込み違いがあったとしても「選ぶときに慎重に選んだのだから、これで最後まで押し通そう」というぐらいのほうが、後悔は少ないものです。

 受験直前になって、のんびりとテレビなどを見ているわが子を見ると、ついイライラしてしまう人が多いようですが、のんびりしているように見えても、ツラくて不安なのは、なんと言っても本人です。いまの時期になれば、勉強の時間や量そのものよりも、健康管理(風邪の予防、生活のリズム、栄養のバランスなど)が大切になってきます。また、家族でピリピリと気を使いすぎたりすることは、かえって本人にとってはプレッシャーになることがあります。なによりも、お母さんが、ふだんどおりにおいしい食事を作ってくれて、ドンと構えているのが、一番です。

 受験生たちへ
 きみたちが受験する高校には、絶対に合格する子も絶対に不合格になる子も受けに来ていません。だから、結果を考えてくよくよするのではなく、自分が一番よかったときの状態に近づくようにしましょう。自分が持っている学力を出し切ることだけ考えることが大切です。これから受験までの勉強について言えば、これまでどうしてもわからなかった事項や難問はできるだけ避けたいものです。そういう問題は、同じ学校を受験しているほかの受験生のほとんどができないと思ってかまいません。それよりも、わかっているはずなのによく失点する事項に力を入れましょう。読み落とし・計算ミス・カン違いを起こしやすいところを徹底的にチェックすることです。これらは、いままでやった北辰テストや、学校や塾での実力テストなどのなかに、いくつも見つかるはずです。とくに、悪かったテストは、全力発揮アイテムがいっぱい詰まった宝箱のようなものです。

 入試は昼間にあるものだから、できるだけ朝型勉強に切り替えていく必要もあります。静かな夜のほうがたくさん勉強をやれそうな気がしますが、寝不足の害のほうが大きいものです。また、ラジオやCDを聴きながらの勉強は、どうしても手と目だけの勉強になりがちです。手と目と頭を連動させて早めに集中できるようにすれば、力を発揮しやすいはずです。健康面では、こまめにうがいと手洗いをすることだけで、かなりの程度インフルエンザや風邪を防ぐことができます。ちなみに、わたしは、紅茶の出がらしを洗面所に置いてひんぱんにうがいをすることで、予防注射ナシで何年もインフルエンザや風邪にかかっていません。そして、朝ごはんは、少しでもいいから必ず食べて、規則正しい食事をすることも大切です。

 いろいろ書きましたが、これらはすべて、現在自分が持っている力を最大限出し切るためのものです。肩の力を抜いて全力を出し切ってください。これまで述べてきたような状態で受験できれば、かりに万が一のときでも、かならずあとになってよい結果となって表れてきます。「学校は酒の容器のようなもの。大切なのは酒の質(その人の中味)です。その意味で、たかが容器(高校)。でも、それぞれの酒(人間)にできるだけふさわしい容器(高校)があるはずです。その意味では、されど容器(高校)」というのが、わたしの持論です。悔いのない受験を祈っています。


**1月11日(火)掲載**
(す〜爺)

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第121回 教科書
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 埼玉県の教育界では、昨年の暮れ、県教育委員の人選をめぐって大揺れでした。結局、「新しい歴史教科書をつくる会」前副会長の高橋史朗氏の起用が決まったことは皆さんご存知の通りです。これについては、様々な意見がありますが、法律論や政治的な問題から少し距離を置いて、<子どもたちが使う教科書>という観点で、高橋氏がかかわってこられた扶桑社の「市販本・新しい歴史教科書」(以下扶桑)を見てみたいと思います。
 
 一つ一つの歴史的事実については、専門家ではないわたしがその当否を論じることはできません。この教科書の市販本まえがきで、代表執筆者の西尾幹二氏が「教科書の全体を無視して、叙述の細部に向けられた不当な批判がほとんど・・」と書いています。また、巻頭の「歴史を学ぶとは」のなかには、「過去の事実をいくら正確に並べても、それは歴史ではない。歴史を学ぶとは、過去の事実について過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである」という趣旨のことが述べられています。

 現在、さいたま市の中学では東京書籍の教科書(以下東書)が使われていますので、これと比較しながら、上記のまえがきや巻頭文を踏まえて検証します。
 まず、取り上げられている歴史事項については大きな違いはありません。各時代の記述の割合も、扶桑が鎌倉幕府から江戸幕府までの、武家政権の時代の記述がやや少ないことに気がつくくらいで、これも大きな違いはありません。目立っているのは、東書が各単元の終わりに、総合学習を意識した史料調査、体験学習のページを設けているのに対して、扶桑は、コラムを随所に設けていることです。列挙してみると、日本語の起源と神話の発生・神武天皇の東征伝承・出土品から歴史を探る・日本武尊と弟橘姫・浮世絵と印象派・日本の国旗と国家・明治維新と教育立国・戦争と現代を考える、です。また、人物コラムとして最澄・空海から昭和天皇までの8編が取り上げられています。課題学習は、事物の起源調べ・郷土史を調べよう・郷土の偉人調べ、があるだけです。

 これらのコラムは、この教科書の基本的な考えがよく表出されている点では、大変興味深いものです。編纂にかかわった人たちが、最も言いたかったことがここに凝縮されています。要約すると「日本は、世界に類を見ない高い文化と伝統のある国である。明治維新によってヨーロッパにさきがけて公平な社会になった。日本が行ってきた戦争は、どれも正当なものかやむを得ないものであって、戦争犯罪は、どの戦争にもあり、日本も大きな被害を受けた。」というものです。これに対して、東書のほうは、図版や年表をふんだんに使いながら、比較的坦々と書き進められています。

 扶桑の教科書本文に特徴的なのは、感情語が多用されていることです。「改新の精神を力強く推進」(天武天皇)「防衛努力は国家統合の意識をおのずから高めた」(防人・水城)などの古代史から、「兵員の高い士気とたくみな戦術で・・・世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた」(日本海海戦)、さらに「英軍を撃退しながら・・快進撃を・・」(マレー作戦)「鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って・・・」(沖縄戦)など、近代史のなかまで頻繁に出てきます。このほかにも、「断固として拒絶」「国難に対する意識」などの主観的な表現は多くありました。とくに、明治維新については、「徴兵制・学制・税制において、西洋に先駆けて公平な社会を実現した」と、大変高い評価を与えています。

 なにやら、「新しい歴史教科書」の紹介記事のようになってしまいましたが、わたしの意図はそこにはありません。これまでのことでもおわかりのように、「歴史を学ぶとは、過去の事実について過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである」と表現しながら、じつはこの編者たちの政治的な主張を述べているところに、他の教科書との最大の相違点があります。それは、西尾幹二氏・藤岡信勝氏・今回の主役高橋史朗氏などが、様々な機会に述べてきた「新自由主義」という政治思想が背後にある点です。この思想について述べるには膨大な紙幅が必要ですが、要約すると「徹底した市場主義・能力主義的な競争原理の導入と、その結果生まれる階層化社会に対応する国内治安強化、対外的にはグローバル化を支える軍事の整備・・」などです。

 じつは、中学生たちが定期テスト勉強をするときに歴史の教科書が足りなかったので、わたしは、この扶桑の市販本も“動員”したことがあります。しかし、これを使った生徒たちからは、神話や教育勅語についてなど活発に質問が出て、かえっておもしろい結果になりました。その意味では、この教科書が採用されたからといって、授業の中での使い方によっては、歴史とこれからの社会を考えるうえで、編者の意図とは異なるものが出てくるかもしれません。

 ただ、教職員や子どもたちに対して、「過去の人が考えていたこと」のように考えることを強制されるとしたら、まったくちがう意味を持ってくることになります。これは、“君が代・日の丸”が、それぞれの自由な思いで、口ずさまれたり仰ぎ見たりするのではなく、そこに強制を伴うことによって教育現場に深刻な亀裂を生じているのと同じことになるからです。それは、この教科書の巻末の「歴史を学んで」という文の最後に「なによりも大切なことは、自分を持つことである。・・・編者が最後に送りたいメッセージはこのことである」と結んでいることばからも大きく外れてしまうことなのだと思いませんか。


**1月4日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第121回 教科書2005/01/09 10:44:51  
                     まっち

 
新しい教科書って何?とずっと疑問に思っていました。
すこしわかりました。これからもわかり易い解説を
お願いします。それにしてもさいたまの教育
がどう変わるのか見守る必要がありますね。
 

元の文章を引用する

 
埼玉の教育2005/01/09 22:56:19  
                     す〜爺

 
まっちさん、はじめまして。
 さいたまタワー誘致に熱心な上田知事だけではなく、だれでもがカッコいいこと、すっきりとしたこと、威勢がいいことのほうを好みます。世の中に不満が鬱積している現代社会ではなおさらのことでしょう。小泉首相や石原都知事の人気も、たぶんそのあたりが基盤になっているのだと思います。「いつまでも敗戦の影を引きずっているのではなく、誇り高い日本人を取り戻さなくてはいけない」という高橋史朗氏らの考え方に、上田知事が共鳴したのも、同じ感性から発しているようです。
 ここでは詳しく述べられませんが、さいたまタワー建設によって大きな被害をこうむる可能性がある人たちまでが建設を推進しているのと同様に、本文で触れた「新自由主義」が日本を席巻することによって、つらく不幸な立場に追い込まれるはずの人たちまでが、そのカッコいい方向を支持していることに強い危惧を感じています。「世界のリーダー日本」「強く誇り高い日本」ということばは、かつて「八紘一宇」「万古不易の國體」というカッコいいことばがどのような結果を生んだかを思い起こさせます。
 いつの時代も、あるいは、どういう政治体制のなかでも、社会の矛盾から国民の目をそらし、政治目標を実現する手段として“教育制度”がありました。少し考えてみれば、学力低下を初めとする“子どもたちや教育現場の困難”の原因が学校教育だけにあるのではないことは、多くの人が感じていることだと思います。
 それぞれの個人が、自分自身や自分の子どものなにを大切にし、なにを誇りとするか、どういう意味で強い人間になってほしいのかを真剣に考えることによって、ことの本質が見えてくるのではないかと考えています。
 

元の文章を引用する

第120回 海外に夢を追った若者たちーその3
 今回紹介する2人は、現在も海外で活躍中です。

 小学生のときから、繊細で好奇心旺盛だったK君が、じつは馬が大好きで、ひそかに競馬の騎手をめざしていると知って、とても驚いたことを思い出します。当時、小学生クラスはK君一人で、わたしと二人だけで、それこそ自由奔放に勉強しました。勉強は大好きだったけれど学校が苦手だったK君は、中学生になると自由教育をかかげるJ学園に進学し、家も学校の近くに引っ越したため、わたしのところには来られなくなりました。

 数年後、たくましく成長した姿で現れたK君は、「JRA(日本中央競馬会)に入って、なにか馬にかかわる仕事をしたい」と言い出しました。入社試験もあるので、わたしのところに通って勉強したい、ということで、K君との数年ぶりの勉強が始まりました。中学高校と勉強をサボっていたらしく、かなり学力は落ちていましたが、そこは素地がしっかりしているK君のこと、あっというまに本来の学力を取り戻しました。ところが、どうしたことか、JRAは不採用になってしまいました。若干名という採用枠と、K君の控えめな印象がマイナスに働いたのかもしれません。

 わたしがネットで検索したところ、たまたまオーストラリアのトレーニングセンターで日本人学生を募集していることを知り、ご両親といっしょに説明会を聴きに行きました。両親からのあたたかいまなざしと経済的援助と、そして、渡航までの何ヶ月かの間、わたしのところで英語の特訓?をしたりと、かなり恵まれたスタートをしたK君でした。しかし、わずかな心配が現実のものとなってしまいました。ことばの壁、ケガ、人間関係など、さまざまなトラブルが彼を苦しめたようです。そして、やっとそれらを乗り越えて、2年間の研修が終わったあと待っていたのは、「仕事の壁」でした。学校からの紹介はあまり当てにできず、なんとか探し当てたのは、タコ部屋のような労働環境の厩舎で、馬に触れる機会さえほとんどないようなところでした。

 さまざまな紆余曲折を経て、今年になって、地方競馬の新人ジョッキーとして、K君はデビューしました。お母さんからわたしのところに送られてきた地元オーストラリアの競馬新聞には、手綱さばきも鮮やかに、さっそうと騎乗するK君の姿がありました。渡航して5年がたっていました。

 N子さんは、たぶん浦和では知る人ぞ知る有名人です。「T荘アパート異聞ーその1」にも登場した抜群の運動神経の女の子です。小学校3年からソフトボールを始め、中学のソフトボール部では、すでに傑出した選手でした。かなりの学力を持っていたN子さんでしたが、勉強よりもソフトボールが何より好きで、全国屈指の強豪、埼玉栄高に入り、のちに、アトランタ五輪(96年)世界選手権(98年)の代表選手として活躍しました。当時、過酷な代表合宿のわずかな休みであった年末に、わたしのところで夜遅くまでかつての仲間たちとおしゃべりするのが、彼女の楽しみの一つだったようです。

 彼女は、膝、腰などに故障をかかえながらも、持ち前の負けん気で乗り越えてきました。リハビリ、復帰を繰り返したあげく引退を決意してからは、自身のリハビリを通して知った福祉ボランティアをやってみたい、と言っていました。ところが、やはり、ソフトボールへの気持ちと何度かの海外遠征での経験から、JICA(海外青年協力隊)に応募してみたい、と言い出しました。採用枠一人という厳しい試験をみごとにクリアして、ちょうど1年前から、中米のエルサルバドルで、1部チームの選手兼コーチとしてがんばっています。スペイン語で報告書を書き、スペイン語で指導する苦労は大変なものだと思いますが、彼女はそれすらも楽しんでいて、いまでは、さほど不自由のないレベルまでになっているようです。いずれは、ナショナルチームのコーチとして、日本代表と戦うのが夢だということです。

 現代の若者たちの状況については、これまでも書いてきたように、深刻なものもありますが、わたしの周辺、というごく狭い範囲でも、これだけの若者たちが夢を追い続けています。日本全国では、まだまだすばらしい若者たちがたくさんいるはずです。そう考えると、明るい希望も見えてこようというものです。


**12月21日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第119回 海外に夢を追った若者たち−その2
 外国から来た人たち、あるいは、海外生活が長かった人たちからは「四季があって気持ちのメリハリがある、食べ物の種類が多い、おだやかな人が多い・・・」という“日本評”を聞きます。この年齢になるまで、わたしは本州・四国・北海道の3つの島の外に出たことがありません。しかも、関東から出たのは、せいぜい4、5回といったところでしょうか。そんなわたしでも、机上の知識ながら諸外国の様子を知るたびに、恵まれた国に住んでいるなあと実感します。これで、政治状況がこれほど貧しくなければ言うことはないのですが・・・。

 それはともかく、祖国に不満はなくても、若者たちの海外へのあこがれは、古代から現代まで連綿として続いています。T子さんの目が海外に向けられるようになったのも、そんな若者の好奇心のあらわれです。ただ、彼女の場合、たったひとりのバックパッカーとしてヨーロッパ各国を回ったのが、高2の夏休みでした。家族はもちろん大反対、それでも、彼女は、一年近く貯め続けたバイト代で自分の夢を決行しました。わたしも心配で、行く先々から電話するようにと、国際テレカを持たせました。

 T子さんは、得意科目ではあるけれどよそれほど流暢だともいえなかった英語一本で、ユーレイルパスを使ってフランス・ドイツなどを遍歴しました。ユーロシティの列車の中では、いろいろな国の若者と出会い、ビザなしの国境越えに協力?するなど、楽しくもスリリングな経験がいろいろあったようです。何度か電話があったり、ときにはホームシックにかかって気弱な手紙をくれたりと、度胸がよいとはいってもさすがに17歳の女の子の一人旅ではありました。この一人旅を通して、T子さんは、世界の広さと文化の深さ、人々の営みの多様さを感じたようで、高校卒業後、某国立大学の国際関係学部に進みました。

 大学には、いろいろな国からの留学生がいます。彼らの英語もまたさまざまで、大学の先生方との意思疎通もままならないことがあるそうです。こういうときこそ、実践で鍛えた彼女の語学力がものを言って、通訳を引き受けたこともあったといいます。

 大学2年の夏、再びヨーロッパに飛んだT子さんは、ベオグラードで民主野党連合によるミロシェビッチ政権の追い落とし運動に遭遇しました。彼女は、前回の一人旅のときに知り合った各国の仲間たちをベオグラードに呼び集めて、その打倒集会に参加したということです。

 彼女の武勇伝?はまだまだあります。ヨーロッパに向かっていた彼女の関心は、勉強が進むにつれアジアに向けられるようになりました。とくに、フィリピンの歴史と社会事情についての問題意識は強く、とうとう大学を休学してマニラ郊外のスラムに単身住みつく、という暴挙?に出ました。ところが、帰国費用だった7万円ほどの現金を取られて困ったことがあったぐらいで、半年ほどのスラム生活を無事に終えて帰ってきました。

 大学を卒業したT子さんは、アジアのどこかで、日本語の教師として働きながら勉強を続けるという夢を持っています。ずっと連絡がなかったかと思うと、突然やってきて、びっくりするような話を聞かせてくれるT子さんです。そんな彼女から「わたしの生き方の1/3は、おじさんの影響だからね。だから、こうして自分の今の位置を確かめにここに来るんだ」などと言われると「そんな大それたことは何もしていない」とおそれおののき?ますが、半面、ジワッとくるうれしさと、ぴりっと感じる緊張がまじった感覚が背筋を走ります。

 現在も海外で活躍している若者がいます。次回は彼らのことを書こうと考えています。書くに当たって彼らの承諾は取っていませんが、直接の知り合いにとっては周知の事実ということで、ゆるしていただきたいし、みなさんには、こんな若者たちがいることを知っていただければ、と思います。


**12月15日(水)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第118回 海外に夢を追った若者たち−その1
 先ごろ、イラクで無残な最期を遂げた香田証生君の事件は、きわめて衝撃的であるとともに、無念憤懣やるかたない思いがいつまでも残ります。訪れた多くの国で人々からの親切をうけた彼が「人間はなぜ憎み合い、殺しあうのか、その現場に身を置いてみたい」と考えたとしても不思議ではありません。あまりにも甘い、軽率な行動には違いありませんが、「なんとなく・・」やってしまう若者が多い現代では、特別に異常な行動ではありません。「迷惑なヤツ」と怒っているのは、自衛隊の派遣を“国際貢献”であると信じている人たちだけで、わたしには、好奇心旺盛な一人の若者の死を、痛切な悼みとともに見つめることしかできません。

 わたしの身近にも、海外に夢を追った、そして今も追い続けている若者が何人もいます。そのなかに、香田君とはまったく違った形ながら、はるかアフリカのケニアで、ちょうど2年前の11月14日の朝、思いもよらぬマラリアのため、23歳の短い生涯を閉じたS君がいます。わたしはいま、不器用なわたしのために、出国直前のS君が1時間もかけて組み立ててくれたPC用チェアに座って、断腸の思いでこの文を書いています。わたしが手術入院したとき、忙しいツレアイに代わって、出発準備の忙しさのなか、病院と家のあいだを何往復もしてくれたのも彼です。

 そんな彼が「オレがいることで、だれかが救われるような仕事をしたい」と言って、ケニアでのボランティアを望んだのです。大学進学に備えて、自分で働いて貯めたお金をはたいて渡航費に充てました。あかるく精力的に働くS君は、現地の人たちにもすっかり溶け込んでいるようすが、ときどき送られてくる手紙やメールの文面からも伝わってきました。サッカー少年だったS君は、「真っ暗な部屋で真っ黒な人たちに囲まれてワールドカップを観戦。盛り上がった。」と覚えたてのスワヒリ語を交えて書いてきたこともあります。「マラリアにかかっちゃったけれど、軽くてすみそうだ」という手紙が来たときも、いまはいい薬があるからだいじょうぶなんだろうな、ぐらいに考えていました。あとから読ませてもらった彼の最後の日記にも「きょうはうどんがうまかった。ちょっと気分が悪いから早く寝る」と書いてありました。

 まるで仲のよい姉弟のような明るいお母さんと2人だけの家族で育った彼は、お母さんに負担をかけたり心配させたりしたくない、と言っていたのです。それなのに・・・、そして、わたしとしては、旅立つ彼へのはなむけだったはずの「若いうちは命を落とす以外の失敗はない。失敗は全部自分の宝物にして、いろんな経験をして帰っておいで」ということばが、わたしの頭の奥で割れ鐘のように反響し、2年たったいまでもわたしをさいなみ続けています。現地でいっしょに活動した人から、「S君から何度かそのことばを聞き、彼はそのことばをよりどころとして、いろいろなことに挑戦していったようです。」というメールをいただけば、また、張り裂けそうな胸の痛みとともに、彼の表情、動き、口調、声色、すべてが生々しく迫ってきます。

 絵を描くことが大好きだったS君の自画像は、彼らしいはにかみを含みながら、むしろ憮然としてわたしを正面から見据えています。

 彼からの最後のメールは次のようなことばで締めくくられていました。「スワヒリ語は少しずつわかってきました。食べ物は美味い。動物いっぱい。空広い。月明るい。星無数。日本ではありえないことが、生活の中で現実に成り立っている。人は様々。妙な力を感じます。強いし、弱い・・・」

 彼がアフリカの空と大地のなかで感じていたものを、わたしは懸命に読み取ろうとして、何度も何度もこのフレーズを読みました。「S君、ほんとうに精一杯生きたね。きみと出会えてほんとうによかった。ありがとう。いつの日か、また巡り合おうね。」

 S君のことを、このコラムに書く予定はまったくありませんでした。わたしにとっては、あまりに重くつらい出来事です。でも、ちょうど2年たったいま、ひたむきに生きた一人の若者のことを、このコラムの読者の皆さんにも知っていただきたいな、という気持ちになったのです。


**11月30日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第117回 競争意識を育てる?
 「ウチの先生、ストップウォッチ持って競争させるんだよ。早い子はいいけれど、あせってやろうとするからボロボロ間違えるんだよ。」「(校内の)合唱コンで3組に負けるな、とか言って、先生一人で入れ込んでいるんだ」などと子どもたちが口々に言います。なかには、「○○君に計算競争で負けて悔しい」「1組に負けないようにがんばる」という子もいます。棒グラフを作って忘れ物を管理する先生は相変わらずいるようです。

 「運動会のかけっこで、みんなで手をつないでゴール」なんてことが流行ったり、「全員ができるまで授業を先に進めない」という、子どもたちにははた迷惑な実践があったりした反動からか、競争をさせることで子どもたちの意欲を引き出そうとする動きが増えてきたような気がします。
 
 自然な競争心はだれにでもありますし、それが活力になる場合が多いこともよく経験することです。そして、「みんなでなかよく」であろうと「おたがいライバルだ」であろうと、こういう取り組みが、先生ひとりひとりの発意から出たものである場合は、先生の個性が反映されるという意味で、子どもたちに伝わるものがあると思います。

 ところが、教育の制度あるいは教育行政として、「競争意識を育てる」方向が打ち出されるとき、わたしはとても不安な気持ちになります。11月4日、中山文科相は経済財政諮問会議に出席して、「甦れ、日本!」という教育改革私案」を提出しました。この“私案”のなかでは「新しい日本人像を育てる『教育基本法の改正』」「教員免許更新制」「義務教育費国庫負担金の廃止」「学校評価制度の確立」などを打ち出しました。さらに、経済関係閣僚を務めるなど経済界とのつながりの強い中山氏らしく「国際的な競争社会のなかで、教育を国家的な戦略に位置づけ、競争意識を育てる『全国学力テスト』の実施」を提案しました。基調として全体に流れるのは、「国の負担を減らして、教育現場と国民に一定のプレッシャーをかけていく」という考え方です。

 かつての「学テ」のように学校ごとの平均点を出して学校同士を競争させるものになるどころか、コンピュータ処理の技術が進んだ現代では、個人の詳細な“学力データ”までも、国が把握できないとも限りません。それが住民基本台帳と連動して・・・などと想像すると、たいへん恐ろしいことになりそうです。

 このコラムの書き込みでもたびたび見られるように、学校や教員に対する社会の目は大変厳しいものがあります。先生たちの相次ぐ不祥事や、子どもたちを取り巻くさまざまな問題が、そういう一般社会からの要請となって、教員評価・学校評価の動きは急です。なかには、教科書会社が教育評価事業に進出してくる例もあります。いずれは教員の世界にも能力給が導入され、生活のために自分の評価を上げるのにキュウキュウとする先生が増えて、先生同士の連携が崩れ、ひいては子どもたちからもますます活気が失われていくのではないか、と心配です。

 子どもたちにしても、教員にしても、基本的に人間には能力差があるものだと思います。しかし、その能力は、じつに多彩多様です。そのさまざまな能力の人間が、学校も含めお互いの能力を出し合って共存する社会こそが、活気のある社会であるはずです。社会のなかに生起するさまざまな問題も、そこが失われてきているからこそであると考えています。自然な競争心はお互いを高める働きがありますが、制度としての競争原理は人と人の関係を壊す方向にしか働きません。

 文科相の“私案”は、制度として競争原理を積極的に取り入れている点で、「教師だって一般社会と同じ厳しい競争のなかにいるべきだ」「競争させてこそ子どもたちの学力も向上する」という社会の風潮に合致しているのかもしれません。学校や先生に対する正当な批判は当然あるべきですが、高度消費社会のなかの子どもたちが惹き起こすさまざまな問題の原因を、先生の対応や学校教育に求めすぎてきたことが、教育行政のこのような動きにつながっていくのではないか、とヒソカな自省を込めて考えています。みなさんのご意見をお聞かせください。


**11月24日(水)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第116回 働くって?
 書き込みをして下さる人たち以外にも、何人もの方がこのコラムをお読みくださっていると思います。その中に、わたしの知人、塾仲間もいます。遠慮してか、はたまた面倒なのか、彼らが書き込むことはほとんどありません。「ほとんどない」と書いたのは、これまで1、2回は仲間による書き込みがあるからです。彼らは、直接あるいはメールなど折に触れ、コラムの論旨や文体について、じつに厳しく的確な批評をしてくれます。いわく、「なにを言いたいのかわからない。」「『昔はよかった』なんてことを書かれても、現在直面している問題にとっては、何の役にも立たない」等々。たまには「今回は、塾の日常からの視点で書いてあるので説得力があったよ。」と“お褒めのことばをいただく”こともあります。仲間の中では最年長のわたしですが、彼らから教わることは多く、ありがたい仲間です。この回のコラムが遅れてしまったのは、先日、仲間内の研究会(読書会)での彼らのことばが頭から離れないこともあるのかもしれません。しかし、この場では、所詮彼らはオブザーバーにすぎない(怒るかな?)ので、開き直って書き直すことにしました。

 このように、仲間のことを話の枕にしたのは、104回「心の教育ーその危うさ」で取り上げた「心の専門家はいらない」「心を商品化する社会」の著者、小沢牧子さんと中島浩籌(ひろかず)さんを招いての、仲間の研究会で聞いた話が、今回書きたかったテーマに深くかかわることだったからです。

 「NEETにしても、ひきこもりにしても、親に経済的な余力があるなど、働かなくてもいい条件の中にいるから働かないので、そのうち働くようになるよ。」というのが、多くの人の共通認識なのですが、どうもそうではなさそうなのです。「出勤しようと思うけれど、いざ家を出て行こうとすると、頭痛・吐き気などいろいろな症状が出て、まるでこの世の終わりに立ち会わなければならないような恐怖感が襲う」のだそうです。そこだけみると、不登校の状況に似ているようですが、仕事は嫌いではない、職場の人間関係がいやなわけではない、“働くこと”そのものへの強い拒絶感がある、ということです。

 塾の子どもたちと“働くこと”が話題になることがあります。わたしがハッとしたのは、ある子が「学校って、いろいろイヤなことさせられたりすることがあるけど、けっきょく、わたしたちは“教育されてる”ということは、“保護されている”んだよね。仕事って、お金もらってること以上に保護されたりはしないよね」と言ったときです。彼女が言いたかったのは、法律的な保護のことではなく、厳しい・温かいの違いはあっても“保護する目”に囲まれているのと、基本的に“評価する目”にさらされていることの落差のことだと思いました。

 前回のコラムに書いたY君が、先日訪ねてきました。やはり、吐き気がするほど悩んだ末に会社を辞めて、この2ヶ月ほど、契約してくれた人やお世話になった人たちにお礼とお詫びをしに回っているのだということです。いかにも、誠実でやさしい彼らしい行動です。彼の苦悩の表情を見ながら、わたしも胸が詰まる思いでした。彼は、経済的に親に頼れる状況ではないので、早急に収入を確保しなければなりません。彼には“人に対する気配りと物を扱うときの気働き”はありますが、いい悪いは別にして、相手を引っ張っていくような気迫も、技術もありません。その意味で、彼には営業などという仕事は、およそ向いていないようです。彼には実現したい夢があるので、失業保険金がもらえる間に、まずは“やりたいことよりやれること”から始めて資金を貯めることについて話し合いました。いろいろ話しているうちに、かつての屈託のない表情を取り戻したY君を見て、わたしもホッとしたものです。

 自分がやりたかったことを実現して、順調に社会人をしているOBがほとんどなのですが、そういう彼らでも、仕事に慣れてきて、ふと振り返るとき「このままでいいのか、もっと自分を生かせることはないのか」と立ち止まることがあります。何年も顔を見せなかったのに、ふらっと立ち寄ってわれわれをびっくりさせるのは、たいていそんなときです。それも、仕事の話などほとんどしないまま、教室のあちこちの席に座りながら、子どものころの話をとりとめもなく話して帰るだけです。あとで「転職しました」などとメールがあるので「ああ、悩んでいたんだな」と知れるのです。

 「他県の者」さんが書き込んでくださったように、いまの世の中では、親として、子どもたちが社会に出るまでにしてやれることは何か、と考えてしまうのも無理からぬことです。しかし、彼らが社会への入り口に立ったとき、そこにすっと足を踏み入れるか、それとも足がすくんでしまうかは、まったく予測のつかないことです。これからの社会の状況も、ひとりの人間の成長過程も、あまりにも不確定な要素が多すぎるからです。その意味で、先々を予測するより、子どもにとって、いま最善と思われることに力を注ぐほかないのではないか、と考えています。

 “現在の世の中で働くことの意味”について考えようとしていたのですが、やはり、言いたいことが尻切れトンボになってしまいました。また、項をあらためて取り上げたいと思います。


**11月17日(水)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

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