す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。 「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。 ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。 |
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第105回 夏休み真っ最中 | ||||||||||||||||||
「やった〜、夏休みだ〜!」と子どもたちが叫びます。ここまでは、むかしと変わらない風景ですが、そのあとに「学校に行かなくてすむよ〜、うれしい」と続きます。「学校って、友だちはたくさんいるし、楽しいじゃないか。夏休み中だってずっと塾はあるし、勉強休めないぞ〜」とわたし。「だってえ、学校おもしろくないよ〜」という声が返ってきます。塾でだって特別楽しそうな顔をしているわけではないのですが「なんか気持ちが落ち着く」などと生意気なことを言う子もいます。
宿題がたくさん出ている子もいるし、まったくない子もいます。宿題を出す先生は以前よりは少なくなりましたが、それでも、相変わらず子どもたちがきらいな「読書感想文」なんてものが出る学校もあります。その読書感想文に悩む鉄道大好きなN君に、「“鉄道時刻表”を選んでみたら?」と言ったところ、「それならいくらでも書ける。連載だってできるかもしれない。」と大喜びでした。はたして、先生は、この“読書”感想文を認めてくれるでしょうか。わたしにとってもヒソカな楽しみです。 なかには、夏休みがあまり楽しそうでない子もいます。もちろん「学校大好き、友だち大好き、先生大好き」で、夏休みはきらいだ〜、という子もいるのですが、あれほど楽しみにしていた夏休みを前に、サエない表情の子がいます。いざ、休みになってみると「何にも楽しそうなことがない。どこへも連れて行ってもらえそうもないし、友だちは他の塾の講習に行っているし(わたしのところでは講習は中3だけ)、テレビだってあきちゃうし・・・」と週2回の塾の日を楽しみにしている子もいます。自分から楽しいことを見つけたり、作り出したりすることがどうも苦手なようです。こういう子たちには、かつて、わたしが子ども時代に経験したさまざまな楽しみ方を“伝授”することがあります。 むかし、わたしの挑発に乗って、(ちょっといけないことだけれど)一駅分の切符でどこまで行けるか、をやってみた中学生がいました。水戸線のどこかの駅のベンチで弁当を食べて帰ってきたようです。「楽しかった〜」ということで、その後何回か試みたようです。新聞記事の中の“変なことば”ばかり収集してスクラップブックを作った子がいました。宿題となるとつらいものですが、遊びならばかなり夢中になってやれるものです。 わたしのところでは、このところ毎年名栗川へ川遊びに行きます。カヌーの達人(?)である友人の好意で、8人乗りの大型ワンボックスカーで出かけるので、楽しいことこの上ありません。友人とっておきの穴場らしく、ほとんど人がいない広い川原で、カヌーをしたり、釣りをしたり、泳いだりと、それこそ夢中になって遊びます。こういう遊びの中で、ふだんは見られないそれぞれの子どもの特性が発揮されて、びっくりすることがあります。学校と違って、子どもたちの体調と天候と帰りの時間だけが行動の基準なので、のびのびと動けるのかもしれません。川の水は体が冷えるので早めに上がらせるのですが、それがまた一苦労です。このところ、川遊びでの事故のニュースをよく聞きます。疲れすぎたときに事故が起こりやすいので、2人の大人で8人の子どもの行動と体調を常時監視しています。また、友人もわたしも増水情報や雨にはとくに注意を払っていて、すこしでも危なそうなときは早めに切り上げることを、子どもたちには何度も言い聞かせます。帰りの車の中は、子どもたちの寝顔と気持ちよさそうな寝息でいっぱいです。 中3は、夏の講習です。4週間びっしりあるので、わたしたちとの距離が急激に近くなる時期でもあって、勉強の内容もさることながら2学期以降の子どもたちの勉強の方向、気持ちのコントロールにとっても、きわめて重要な意味を持ちます。いつもは学校の勉強に追われて手一杯の子が、抜け落ちている基礎事項をじっくりと修復できる時期でもあります。その意味で、わたしのところでは、中3夏休み以降の入塾はお断りしているのです。 あと一ヶ月ある夏休み、子どもたちは、夢中になれるものにどれだけ出会えるでしょうか。 例年の通り、勝手ながら8月はコラムを休載させていただきます。8月は、さまざまな意味で日本の過去と現在、そして将来を考えるのにふさわしい月です。忙しいとはいえ、レスや寸信を書く時間はありますので、みなさんの積極的なご参加をお待ちしております。では、9月にまたお目にかかります。 **7月29日(木)掲載**
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第104回 「心の教育」−その危うさ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
神戸の酒鬼薔薇事件以降「心の闇」「子どもの心のサインを読み取る」という動きが始まり、その一方で少年法の対象年齢が引き下げられ、さらに、今度の佐世保事件では、「心の教育」が大きく取り上げられています。
約2年前、第21回「心のノート」を書く以前から、「心の教育」については疑問がありました。そのわたしの疑問を明確な形で表現している本に出会いました。小沢牧子・中島浩籌(ひろかず)著『心を商品化する社会』(洋泉社新書)です。小沢さんは、かつてカウンセリングの第一線にいながらも、多くの疑問を感じて、先に『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書)を出して大きな反響を呼んだ人です。 とくに今回の本の第3章「『心のノート』と心理学」では、『心のノート』が、子どもたちが目を通すだけで自分の内面に関心を集中させられ、人と人の関係や社会の状況には目をふさがれていく、そういう心理学的手法が随所にちりばめられている“ノート”であることを、一つ一つ論証しています。 教育基本法や憲法を変える見通しが立った権力機構が、その前に時間のかかる国民の「愛国家心」を植えつけるための先取りとして『心のノート』があるのだということを再認識します。「そんなばかなことが・・・」とお考えの方は、「神道政治連盟国会議員懇談会」(神道議連)のHPをぜひ検索してみてください。「天皇の大御代の光栄と永久を祈る・・・」と綱領にうたうこの組織に所属する国会議員が、すでに4割を超えている事実をご存知でしょうか。この神道議連は、かつて小泉首相が副会長を務め、現事務局長は安倍晋三自民党幹事長です。この動きを知った上で、「心の教育」について、改めて考えてみたいのです。 「勉強ヤダー」と逃げ出したいけれど逃げられない、そういう中学3年生のためにできるだけ負担を軽くしようと、各中学校で副教材・自主学習教材として採用されている受験参考書があります。いくつかの出版社から同工異曲のものが出ていて、その構成は、親切な解答がついた例題のすぐ右にほとんど同じような類題があって、容易に“自分の”解答が導けるようになっています。じつはわたし自身も生徒たちにそれを推奨しているので、えらそうなことは言えないのですが、『心のノート』や心理カウンセリングはまさにこれと同じような手法で、あたかも“自分で”導いたように、仕掛け人の意図に沿っていくのです。 わたしのところには、若者だけでなく大人も老人もさまざまな問題を抱えてやってきます。ただし、この人たちはすべて、かつて塾生であったり、塾生の親であったり、古くからの友人であったりします。つまり、わたしと彼らとは、対等な信頼関係なのであって、わたしが彼らに相談することも多いのです。だから、わたしは、彼らが抱えるこれらの問題に対して、具体的な知識・知恵以外のことで解決したためしがありません。とくに、悩みや迷いについては何もできません。ただ、いっしょに悩んだり、迷ったりするだけです。人と人はトラブルを起こすもの、悩みは生きている限り付きまとうもの、簡単には解決できないものがいっぱいあるのが当たり前の人生です。悩み、苦しみ、迷い、それらは、人と人の信頼関係を通して「社会の中の問題」として考えることで初めて本質的な問題に行き着くものだと思います。 このことで思い出すのが、若き文化人類学者・上田紀之氏がスリランカへの旅で出会ったという「悪魔祓い」です。患者の家の前で親戚や地域の人を集めて行われる一大パフォーマンスで、夜を徹して楽しみ笑い語り合う中で、患者は元気を回復していくというのです。上田氏はその著「覚醒のネットワーク」(1989年カタツムリ社刊)の序文で、「命はつながりの中にあって、ほかの命とのつながりを失うと生命力が弱る、という考えと、命は個々別々のもの、だという考えのどちらが合理的で、どちらが迷信であるかを問いかけています。 「心の教育」は、まさに後者の考え方に基づいていて、人とのつながりの中に問題を求めるのではなく、個人の内面に立ち入っていくものです。全国の小学校教職員1500人を対象とした日本教育新聞のアンケート調査によれば、約8割の教員が「心の教育・命の教育の充実が必要」と答えていることがわかりました。教員ひとりひとりが、そのそれぞれの人間としての感性や能力そして子ども一人一人との関係の強さに応じて、子どもたちの“心のサイン”を聴いていっしょに考え模索することと、学校として教育行政として、『心の教育』に取り組むことは、まったく次元が異なるものです。「心の教育」が、「子どもたちの問題」の切り札的解決策として学校現場に入りこんでいくことに、わたしは恐怖さえ覚えています。ぜひ、皆さんのご意見をお聞かせいただきたいところです。 **7月20日(火)掲載**
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第103回 子どもの残像 | ||
先日、高学年の担任を続けているベテランの小学校教師の話を聞く機会がありました。いま小学校では、多くの教師が高学年の担任を嫌がるということです。そこで、彼のような経験豊富で積極的な教師が引き受けるか、何も知らない若い新任教師が“押し付けられる”ことになるのだそうです。
話は、例の佐世保の事件から始まりました。マスコミの一部が「特殊な状況の特殊な生徒が起こした事件」と捉えることへの違和感を述べた上で、現在の小学生、ことに高学年の生徒たちの状況が語られました。 彼の観察によると、子どもたちは9歳までは、おおむね親や教師の言うとおりに動いていくけれど、9歳を過ぎたころから「自分の親とよその親、自分のクラスの教師と別のクラスの教師」など“比較する目”が芽生えてきて、それらを優劣、好き嫌いなどでランク付けをする、というのです。 これはむかしから、[ツ離れ]と言われ、ココノツ(9歳)の年齢までに必要なしつけをしておく、という伝統的な家庭教育と通じるものがあると感じました。 このなかで、小学校高学年の女子は、とくに親に対する反応が変わる、同世代の人間関係をとても気にするようになる、他人に対する嫉妬心やコンプレックスが具体的になる、などの変化が5年生ぐらいを境に出てくるというのが、彼の観察です。これらの変化が子どもたち自身を戸惑わせ、その結果、大人びた行動をするかたわらで、子どもっぽいことをする、という現象がおきるというのです。 こうして女子が早くも思春期に入るのに対して、男子はますます幼稚化して、かつての低学年の生徒並みの行動をとることが多いそうです。 このあとも話は続き、消費文化が進んだことによる子どもたちや親たちの意識の変化のなかで、子どもたちの行動が「ほしい、やりたい、いい気持ちでいたい」あるいは「うざい、かったるい、いやだ」という、いわゆる「快・不快の価値観」だけにシフトしていく様子が語られました。 その一方で、相変わらず「善悪の価値観」で子どもたちに接しようとする教師や親たちとの間で、どんどんとギャップが広がっていて、「してはいけないことだ」と指摘されても、ぴんと来ない子どもたちが増えているとの感想がありました。 当日の出席者たちからは、彼の観察や分析に同意する声が多かったのですが、わたしの塾の子どもたちとは重なる部分と、まったく違う面があるのに気がつきました。わたしのところでは、小学生からの長い付き合いの子どもが多いためか、男子ばかりでなく高校生の女子でさえ、幼い表情を見せます。屈託なく笑い、たわいのないいたずらをしては喜びます。ツレアイなどは「あの子たち、学校ではもちろん、家でもあんな表情はみせないかもしれないね」と言います。 たしかに、ふと見せる横顔に“もう子どもではない”ものを漂わせることもあります。それは、むしろ自分の内面のとまどいや悩みと直面したときのもののような感じがします。すでに「快・不快の価値観」だけでは通じない“社会のルール”を感じ始めている姿なのではないか、と思うのです。 先日、夜の小学校の校庭を訪れる機会がありました。その校庭の隅でたむろしていた中学生らしい一群が帰ろうとしていて、そこにはペットボトルや菓子の袋などが散らかっていました。わたしは「おじさんも手伝うから、後始末していけよ」と声をかけたのです。彼らは、口々に「おれたちが来る前からあったんスヨ」と言いながら、逃げるように帰ってしまいました。 もちろん彼らは“かったるいから”そのままにして逃げたのです。ここには「快・不快の価値観」が働いていたのですが、見知らぬオヤジから声をかけられたとき、たしかに「善悪の価値観」も働いたはずなのです。だからこそ、そういう言い訳をしたのでしょう。そのあとで、わたしたちがごみを拾っているようすを、彼らは遠くから見ていたはずです。 彼らは「おまえのしていることは悪いことだ」と指摘されれば、“彼らの中の子ども”が反射的に“不快シグナル”を発して、もしかしたらわたしに殴りかかってきたかもしれません。でも、こうして声をかけられることは、彼らもヒソカに待っているような気がするのです。おとなたちが、彼らに声をかけることの必要を感じるのです。 ところが、外で見かける子どもたちの様子を苦々しく思っているだけで声もかけず、そのうえ、その様子を学校に連絡して対処させようとする大人がとても多いような気がします。 そういう人たちが、学校を糾弾し教師を非難することはできないはずです。子どもたちは、身近な教師や親からの指摘のほうがずっと甘え型の反抗をしやすいのです。大人たちが、ちいさな声かけをすることでこそ「善悪の価値観」も育っていくのではないかと考えるのです。わたしも、地域のおじさん・おばさんたちに叱られたり、教えられたりして育ってきたことを思い出します。 **7月13日(火)掲載**
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第102回 七夕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在の北浦和公園のところにあった旧制浦和高校から依頼されて、わたしの祖父が建てた学生下宿が、職住一体のわが家の原型です。あちこちを直し、少し増築をしたりしましたが、本体は、安普請のまま築70年を越した正真正銘の(中古ならぬ)大古住宅です。その狭いわが家の丑寅(北東)の方角、いわゆる鬼門に小さな空間があって、生垣の中に数本の孟宗竹や亀甲竹が生えています。毎年の春には小さな筍(たけのこ)が顔を出し、そのうちの何本かはお吸い物や木の芽和えや刺身となってわれわれの胃袋に納まり、何本かは壊れかけた垣根の代わりとなり、また何本かは廊下や玄関の床を突き上げます。
閑話休題。小学生たちは、年に一度、やわらかくて細工しやすい若竹を使って、さまざまなオブジェを作ったりすることが大好きです。ナイフの安全な使い方を初めて覚える子もいます。今年は、冬が近づいたら竹馬を作ってみようかな、とヒソカに計画しています。 そのなかでも、小学生から高校生までみんなが楽しみにしているのが、七夕の短冊書きです。今年も、手ごろな竹を選んで枝を切り整え、5色の短冊をたくさん用意しておきました。 小学生は、時間をかけて真剣な表情で書きます。中学生以上の子たちも、帰り際の時間を使って書いては、竹の枝に結んで帰っていきます。つるしていった短冊を見ていると、それぞれの子の表情とその子の現在の関心事が思い浮かんできます。 「成績がよくなりますように」「志望校に合格しますように」「数学ができるように」「頭がよくなりますように」「お金がたまるように」「野球がうまくなるように」「絵が上手になるように」「宇宙に行きたい」「○○がほしい」「夏休みに本をいっぱい読みたい」「あこがれの○○さんと話がしたい」等の定番は、むかしから変わらぬ子どもたちの願いのようです。なかには、「妹が志望校に合格できますように」という優しいお姉ちゃんからの願い事や、「○○先生となかよく、とまではいかなくても、ふつうに話せるようになりますように」などという健気な願いもあります。 「この1年間死にませんように(まだいっぱいすることがあるので・・)」とか「一年中健康でいたい」というのは、大好きだった少年野球の監督の病死、という現実に直面した小学生の男の子たちのものです。その痛みはまだまだ心の奥深く沈んで消え去ることはありません。 「よい家ができますように」というのは、来春、ご両親のふるさとの中学に進学することになった6年生です。なじんできた環境や仲のよい友だちとの別離のつらさを、新しい生活への期待に変えることで懸命に打ち消そうとしている想いが感じられる短冊です。 中3や高校生の女子ともなると「あたらしい恋ができますように」「イイ女になれますように」などといっぱしの大人を気取っていて、まだまだ幼い彼女たちの顔を思い浮かべて、思わず笑ってしまいます。「お父さんがこれ以上ハゲませんように」「お母さんの口数が少なくなりますように」などというユーモラスなものもありますが、書いた当人たちにとっては意外に“マジな願い”だそうで、笑ったわたしのほうがしかられてしまいました。 中1の男の子は「塾で毎日マージャンやトランプができるように」と書いています。こんな短冊を通りすがりの人が読んだら、当塾の逆宣伝になってしまいますが、じつはわたしが考案した英語マージャンや、むかしからやってきた数学花札・正負の数トランプのことなのです。これに勝ちたいために英語や数学を勉強するというほど、子どもたちお気に入りのゲームになっています。 五色の短冊にこめた子どもたちの想いは、曇り空もものともせずに、竹の葉の間から一直線に天の川に向かってのぼっていくようです。7月7日は晴れますように。 **7月6日(火)掲載**
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第101回 “指導力不足”教員? | ||||||||||
教員、教師、先生と呼ばれている人たちのことは、これまでも何度か取り上げてきました。よくも悪しくも“先生”に対しては、みなさんそれぞれの思い入れが強いようで、このコラムだけでなく“教師”をテーマにすると比較的多くの反応があるようです。
埼玉県も教員の評価制度を取り入れることに決めたようです。この評価は給与も将来の昇進にも反映されるようです。その一方で、文科省は、“指導力不足教員”の研修と指導に積極的に乗り出す構えです。世に多く見られる“教師バッシング”の人たちからの快哉が聞こえるようです。 暗い外部から明るい部屋の中が丸見えであるように、塾という視点からは学校のようすが手に取るように見えます。その中で、さまざまに“大変な先生たち”を見てきました。 質問を一切受け付けずひたすら板書する先生、あきらかに学力がないと思われる先生、毎回雑談だけで終わりテスト前にバタバタと授業を進める先生、ひたすらしゃべる続ける先生、生徒に反抗されて泣きながら職員室に帰ってしまった先生、自分の政治的立場をはっきりと述べる先生・・・。文科省や教委などの“指導力不足教員の定義”によれば、こういう先生たちはまさに“指導力不足教員”とされるのかもしれません。 知人の教師たちから聞く“ものすごい同僚教員”の話もあります。生理休暇が月に3回もある教師、「授業はいらんかね」と言って職員室で代講を募る教師、「先生、うちのクラスの子たちが言うことを聞いてくれないんです」と先輩教師に泣きつく教師・・・。まさにいくらでも出てきます。 ここまで書いてきて、みなさんは、そういう教師たちなら“指導力不足教員”とされるのはあたりまえだろう、とお考えの方が多いと思います。では、次に挙げる教師たちはどうでしょうか? 宿題をやってこなかった生徒のノートをみんなの目の前でびりびりと破った先生、受験の前日に「おまえは絶対落ちる」と生徒の自宅にわざわざ電話をしてきた先生、担任クラスである1年生の教室に、自分が顧問をしている部活の3年生を引き入れて殴った先生、教室での失くし物を探すために子どもたちの指紋を取った先生・・・。これらは、わたしの塾の子どもたちを通して見えた事実だけです。わたしは、この教師たちに対しては許せない気持ちを強く持ちます。3,4段落で述べた"指導力不足”の教師たちと、ここで述べた教師たちとの大きな違いは、人間としての尊厳を傷つけているかどうかです。しかもこの教師たちの多くは“指導力のある教育熱心な先生”と見られているのです。“指導力のある熱心な先生”たちの言動は、子どもたちの心を大きく傷つけてしまいます。何か事件があると、管理職の口から「生徒指導にも授業にも熱心な先生だった」というコメントがよく聞かれます。 反面、以前に、このコラムでも書いたことのある戦後の新しい教育課程を知らないおばあさん先生の例や、人柄はいいけれど、ぜんぜん授業がわからないので、子どもたちが自分で調べ協力して学力をつけていった例、など、ほほえましい話もあります。そうでなくとも、頼りない先生や変わった性格の先生は、子どもたちにとっては、あとになると意外にいい思い出として残っていることが多いようです。授業にも熱心で、生徒指導もたくみ、生徒たちの気持ちも的確につかむ、そんな先生ばかりだとしたら、学校はとても息苦しいものになるはずです。 先生たちが人事評価を気にし、“指導力不足”の烙印を押されることに戦々恐々となっていったとしたら、それこそ第一の被害者は子どもたちです。繰り返しになりますが、子どもたちの人間としての尊厳を傷つけない限り、一般社会にいろいろな大人たちがいるように学校にもいろいろなタイプの先生がいていいのだと思います。ただ、あきらかに“心を病んでいる”と思われる先生もいます。この場合は本人にとっても周囲の生徒や同僚たちにとっても、早く現場から離れて治療に専念したほうがよいのは、一般社会の仕事と同じです。 余談になりますが、塾の子どもたちが、わたしへのからかいともつかない声を上げることがあります。「おじさんのような先生が学校にいてくれるといいな」すると、きまって別のほうから「だめだよ、一日ももたないよ。」と合いの手が出ます。事実、わたしも学生のころ「教員にでもなろうかな」とチラッと考えたことがあり、すぐさま、「自分は学校という組織の中では、やっていけないだろう」と思い直した記憶があります。子どもたちの直感は正しいのでしょう。もし、わたしが学校教員をやっていたなら、“指導力不足教員”のレッテルが貼られていたに違いありません。たぶん校務分掌などはつい忘れて、子どもたちと付き合ったり、子ども一人一人の様子を見ながら説明も変えるし課題も変えていく“一貫性のない”授業になるはずだからです。 **6月29日(火)掲載**
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第100回 教育基本法 | ||||||||||||||||||
この連載も、おかげさまで100回を数えることになりました。そこで、このところもっとも気にかかっていることを取り上げようと思います。それは、参院選後、すぐにでも上程される可能性のある「教育基本法」(以下教基法)の行方です。このことについて書かれている本も多く、この小さなコラムの中で述べることができるほど、また、わたしなどが論じることができるほど単純な問題ではないことは承知しています。それでも、子どもたちとかかわっている人間として、教育に関する憲法ともいえる「教基法」についての議論は、避けて通れない問題です。
最近の『与党教育基本法改正に関する協議会』の中間報告では、去年春の『中教審答申』(文科省のHPでみることができます)とあまり変わっていません。 すなわち、第2条の「教育の方針」と第5条の「男女共学」を削除し、あらたに前文に「伝統・文化の尊重」さらに「生涯学習社会への寄与」「家庭・学校・地域の連携・協力」「家庭教育」などを盛り込むというのが骨子のようです。現行法とこれらとを比べてみると、“改正”の理由として挙げられているのは、憲法と同じく、1.施行以来半世紀の間変えられていないこと。2.現在の教育的諸問題に対処するため。という2つの理由だけです。そして、具体的な改正案には、文言の細かい点が変えられているだけで、何度読んでも、これらはほとんど現行法の精神に含まれているか、もしくは否定していないもので、わざわざ「改正」するほどの意味が感じられません。 『中教審答申』などは、現行法の最重要立法趣旨の1つであった第10条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。・・・」を、引き続き規定することが適当である、と明言しています。 それでは、なぜ、いま「教基法改正」なのでしょうか。従来、与党や文科省が「教基法改正」の根拠にしていたものが、「“学校現場の荒廃”と“少年犯罪の凶悪化”の原因が、戦後日本の教育政策の誤りであって、その根本的な方向を示してきたのが、"教育基本法”である。したがって“教基法”は変えなければならない」というものでした。しかし、検討を重ねていくうちに、これらが“教育の問題”だけに原因を求めることに無理があることは気がついたはずです。ところが、与党が国会の多数を占め、“改憲”がにわかに現実味を帯びてくるとともに、その前に“国民の心”を教育する必要を感じたからではないかと、わたしは推察しています。そこで出てきたのが、「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」という表現です。与党内では「国を愛する心」か「国を大切にする心」かで調節しているようです。 話を少しやわらかくします。わたしたちさいたま市民が、レッズやアルディージャの勝敗に一喜一憂し、甲子園大会で地元チームを応援するのも、じつは本来の“愛国心”の原型です。広くは、W杯やオリンピックなどで日本選手に熱狂的な声援を送るのも、メジャーリーグの日本人選手の活躍に小躍りするのも“愛国心”の発露であるといえなくもありません。 海外で大きな事故があると、まっさきに「日本人の犠牲者はない模様です。」と報道されるのも、苦々しく思う人はいるけれど、これとても“愛国心”の一種であるはずです。ここで言っている“愛国心”の対象は、土地、生活様式を含む生活世界の全体です。これは、上で述べたような懐かしさや親近感、郷愁のような淡い感情から、現在のイラクの人々のような、対象との強い一体感や熱狂的な献身に至るまで、大きな幅があるものです。これらは、どの時代、どの地域でも見られるものです。これは、英語ではpatriotismと呼ばれているものです。こういう感情にしても、巨人の応援席に迷い込んだ阪神ファンのように、その地域に住む他地域出身の人には大きな疎外感を感じさせるものではあります。そして、上で述べた幅の前半部分については、例に挙げたように、現在の日本人はすでに過剰といえるほどに持っています。 これに対して、19世紀以降の国家が国民に忠誠心を求めてきたものは、natinalismであって、country(郷土)に対してではなくstate(国家)に対するものでした。日本の場合、とくに近代においては、愛国心が国家権力によって作られ育成されてきた歴史的過程があるので、政府が「愛国心」というとき、どうしてもnationalismの意味が付きまとうのは当然のことです。国家とその国家を動かす経済界が、patriotism(愛郷心)をnatinalism(愛国家心)に移行させようとするとき、特に国家の統合を象徴するもの(国旗・国歌)の強制や、国家をイメージできるようなカリスマ的な人物を置こうとします。 そういう意味で、現在の日本人には、すでに充分にあるはずの“愛郷心”を、教育基本法にあえて盛り込もうとしたり、教育現場に強烈に<君が代・日の丸>を持ち込もうとする動きに“愛国家心”への執念と思惑を感じ、将来の徴兵制や思想統制への布石ではないかと危惧しているのです。 フランスでも「教育基本法」を15年ぶりに改正しようという動きが進んでいるそうです。でも、こちらは、低下の一途をたどる生徒たちの学力を維持するため、と限定されているそうで、それでも、全国13,000箇所で各2回、さまざまな立場の100万人以上の人が意見を述べ、国民討論委員会が、その結果を報告書に取りまとめた上で、さらに分析を重ねていく、という手法を取っているそうです。われわれの将来にもっと大きな影響がある日本の「教育基本法」の改定作業こそ、最低でもフランス並みの真剣さで取り組んでほしいと思いますし、できるだけ多くのかたに、「教育基本法」のことを知っておいていただきたいと考えます。 **6月22日(火)掲載**
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第99回 命令語と否定語 | ||||||||||||||||||||||||||
小学生の日本語の授業でのことです。イントロが少し長くなりますが、雰囲気を感じていただくために、当日のプリントの冒頭を引用します。かっこのなかにはいることばはな〜んだ、というものです。
[1.@おもしろい話を聞いてもぜったいに( )ない人がいるよね。Aそういう人だって、かならずいつかは( )ますよ。Bたのしいときにはおもいっきり( )おうよ。Cあんまりおもしろいんで、ぼく、おもわず( )ちゃったよ。Dあそこはあんまり( )場面じゃないとおもうけれどなあ。E( )ば( )ほど健康になるってホント?・・・] ここまで、子どもたちは嬉々としてやっていました。単語しかしゃべらないという現代っ子でも4年生ともなれば、さすがにこれぐらいの動詞の活用はどの子もよどみなくできています。そして[Fおかしいときには、えんりょなく( )よ。]まできたとき、いっせいに「むかつくー」という声が上がったのです。一瞬驚きましたが、すぐに「ははあ」と納得しました。「笑え」という命令形がむかつく、ということでした。 そういえば、真新しい教科書をもらったばかりの新中1が、「この書き方むかつく〜」と叫ぶようになったのはいつのころからだったでしょうか。小学校の教科書では、すべて「〜しましょう」という表現に統一されているのに、中学の教科書は「〜しなさい」となっているからです。「命令されているようでヤダ」「えらそうに言うなよ、って思っちゃう」という子どもたちの感想には「イヤーな勉強をしてやってるのに、その上命令されてる」という気持ちが現れていて、思わず笑ってしまいます。以前は、中学の教科書にも問題集にも、「次の計算をせよ」「方程式を解け」「次の問いに答えよ」と書かれていました。わたしのところでは、むかし手書きで作っていた膨大な量のプリントを、現在の学習事項や子どもたちに合わせて、リニューアルしながら使っているものもあります。そういうプリントの一枚を、「〜せよ」という命令口調?を訂正するのを忘れたまま、子どもに渡してしまったときも、彼らは、何か理不尽な要求をされたような表情をしていました。高校の教科書や問題集やセンター試験では、「〜せよ」「〜を解け」という“命令調”が健在です。しかし、一部の問題集や私立大の入試には「〜しなさい」が多くなっています。 同じミスを何度も繰り返す子に、思わず「バカだなあ」と口走ったとき、長い間付き合ってきておたがいに気心も知れているはずの子が、キッとした表情を見せたこともあります。20年前だったら、頭ポリポリ舌をぺロッと出して終わったところです。時間をかけて築いてきた信頼関係というものは、ちょっとしたことば尻などで崩れてしまうものではなかったはずのものです。そのまたはるかむかしのわたしの高校時代などでは、親友と何度も殴り合いのけんかをし、そのたびにお互いの理解が深まっていったという野蛮な?経験があります。 またまた以前の話になりますが、塾の初期のころは、生徒を呼び捨てすることが多かった記憶があります。ところが、ある時期から「〜くん」「〜ちゃん」とわが子を呼ぶ親が増えてきて、さすがにこちらも呼び捨てすることに気が引けるようになってきました。不思議なもので、親とわたしとの信頼関係が厚い子どもたちに対しては、いまでもつい呼び捨てにしてしまうクセが抜けません。逆差別ではないかと反省していたところ、ある親が「うちの子はいつになったらおじさんに呼び捨てしてもらえるんだろう」と言っている、ということを人伝に聞いてびっくりしたことがあります。 その一方で、一生懸命説明しているわたしに対して「そんなこととっくにわかってるシ」と言う子がいて、「そこはもうわかっているよ」と言えばいいんだよ、と言うと、キョトンとした表情で「そう言ったよ」と怪訝そうです。あながちうそをついているようには見えません。ことばが乗せてきたはずの“悪意”などさらさらないのです。それでいて、同じ子が「えっ、どうしてそういう答えになるの?」というわたしのことばに、強く反応したりするのです。 大人同士の初対面ではきちんとした丁寧語で交わしていた会話が、親しさを増すにつれて丁寧語が取れてくる、というのが、われわれのコミュニケーション術でした。いま、若い世代を見ていると、いきなりの“タメ口”で始まることが多いようです。逆に、なかなか話し始めるきっかけがつかめないまま、何年も顔見知りのままで終わってしまう場合もあります。なかには、かなり信頼関係を持てているはずなのに、わずかの否定語・命令語(のようにきこえることば)で関係が切れてしまうことがあります。 自分は傷つきやすく、また人を傷つけることには気がつきにくい、そんな時代にわれわれはいるのかもしれません。「心のあり方」を問う前に、命令語・否定語・丁寧語などの、ことばの使い方を通じての“他人との距離の測り方”について、もう一度考えてみる必要を感じています。 先日、親しい仲間たちから、このコラムについてかなり辛辣で的確な指摘を受けました。「言おうとしていることはわかるけれど、どこか押し付けがましいひとりよがりな語調を感じる」というのです。「双方向だから、それもまたいいんじゃないかなあ」と思いながらも、読み返してみると、たしかにそのような箇所も多く見つかります。こういう指摘をしてもらえるのも、彼らとのホンネの付き合いを続けてきたおかげだと、改めて感謝しているところです。 **6月15日(火)掲載**
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第98回 「命を大切にする指導」? | ||
前回、マミーさんから「生き抜く力」というレスをいただきました。その中で、佐世保の事件についても触れられていたので、それに関連したことで、ふだんから考えていることを書いてみることにします。
上のコラムで、大関直隆さんが結論として述べられているように、わたしも「学校や保護者がお互いに責任を押しつけ合うのではなく・・・」という意見に賛成です。マスメディアが伝える事件の概要は、新聞にしてもラジオにしても、センセーショナルな部分が大きく取り上げられているので、いくら読んでも、わたしにはまったく真相が見えません。そもそも微に入り細を穿って報道しようとすればするほど、真相からは遠ざかるはずです。日常、子どもたちと接している状況からの視点では、「ある程度の期間“空気”を共有しなければ、ことばで伝えようとしてもたぶん理解不能だろう」と思われる現象に出会うことが多いからかもしれません。 個々の教師が“人として”どう受け止めるかはともかくとして、“学校としての対処”を求めるのは、筋違いであるような気がしています。 その意味で、佐世保の事件は、社会的に大変重大な事件ではあるけれど、“学校の対応”を問題にするのであれば、6月3日に所沢の小学校で起きた「防火シャッター事件」のほうがはるかに大きな事件です。 6年前、浦和の別所小でも同様の事件が起きて児童が死亡しています。このときは誤作動が原因だったようですが、今回は、どうも子どもが操作した可能性が大きいようです。これこそ、「ふだん、児童たちに、どこでなにをすることが危険であるかを知らせていたのか、今回の場合、床まで降り切るのに30秒近くかかるというシャッターが、万一動き出したらどういう行動をとればいいか、をどの程度伝えていたのか」という“学校の対応と責任”が徹底的に問われなくてはならない事件です。さいわい、児童は回復に向かっているようですが、その結果よりも、“教育現場としては”そうなった過程こそがはるかに重大な、しかもお膝元で起きたこの事件に対して、埼玉県教委は「学校の施設設備の安全点検」の通知文の中で「児童生徒が自ら危険を予知し、回避できる知識と能力を育成する」と述べるにとどまっています。 その一方で、埼玉県教委は6月4日付で、「命を大切にする指導の徹底について」と題する通知文を出しました。その中で「保護者の皆さまへ」として、「保護者に生命の尊さ、生きることのすばらしさを訴え、子どもたちが発する「心のサイン」を見逃さず、気持ちを汲み取りながら励まし、支え守るようお願いし・・」「親として、教師として『人間の尊厳』、『命の尊さ』を子どもに語り伝えよう!」と呼びかけています。ここにも、マスメディアのセンセーショナリズムに振り回されている姿があり、それを受けた学校現場は、大関さんが目にされたような、妙な「緊急のお願い」を出すことになります。しかも、さらには、そういう教育行政の姿こそが“学校では対処しきれない”ことに対処を求められてしまう要因なのではないか、とさえ考えています。 『命の尊さ』や『人間の尊厳』をいくら説いたところで、何の対処にもならないばかりか「人に対して憎しみを持ってはいけない」「怒ってはいけない」「親から与えられたかけがえのない命を大切に」さらには「ましてや、人に殺意を抱く、などは人間ではない」というメッセージの洪水の中で、子どもたちをますます追い込んでいくことになりかねません。 一生のうちに1度や2度、軽重の違いはあれ“殺意を抱いた瞬間”や“この世から消えてしまいたいと思う瞬間”の経験を持つ人は少なくないはずです。それがすべて実現してしまったら、人類は滅びてしまったかもしれません。“殺意”から“実行”への落差は限りなく大きいのに、そして“死にたいと思うこと”と“自殺してしまうこと”との距離はとてつもなく遠いのに、それを極めて近いものにしてしまうのは、上で述べたような、“心のあり方を説く”メッセージです。余談ですが、わたしが「心のノート」に対して感じる危惧も同じようなところにあります。 だれでもが“人に対して殺意を感じる”可能性があり、“死んでしまいたい”と思うことがある。むしろ、それらが“実行”されたとき、どのような事態が起こり、ふだんは素っ気ない態度で接しているように見える最愛の人たちが、どれだけ苦しむかを、子どもたちと信頼関係のある大人ひとりひとりが、ことばのやり取りではなく、気持ちの交流の中で伝えることが、まずは第一歩なのではないかと考えています。根本的な原因を絶つことは、現代社会の中では不可能だという前提に立ったほうが、まだしも“思うこと”と“やってしまうこと”との距離を広げる力になるのではないか、と思います。 **6月10日(木)掲載**
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第97回 親の体験と子どもの現在 | ||||||||||||||||||
先日、ひさしぶりにテレビのニュースを見ました。知人との話の中で、拉致被害者の人たちの親としての表情や、北朝鮮から両親の祖国にやってきた子どもたちの表情が話題になったからです。新聞記事で概要は知っていたものの、さすがに情報量の多いテレビだけあって、彼らの微妙な表情の変化がよくわかりました。知人が言っていたように、親たちも、現在わたしたちがよく出会う人たちとはかなり違っていたし、また、緊張の真っ只中に立っているとはいえ、子どもたちの表情こそ現代日本の若者たちには見られないものでした。とくに、たまたま見た曽我ひとみさんの表情とことばのひとつひとつのなかに、無条件に子どもを思う気持ちと、自分たちの力ではどうしようもないものに翻弄される親子の運命を必死に凝視する母親の真髄を見たような気がしました。
でも、冷静に考えてみると、過酷な状況ではあっても、ストレートに子を思い家族を思うことができる彼らよりも、親子・家族関係という意味では、現代日本の親たちのほうがはるかに大変なのではないかと思い至ったものです。 江戸期には、自分たちが育ったのと同じ自然環境の中で、自分が親に育てられてきたのと同じように子どもを育てればよかったようです。親に見習い、親に語り聞かせてもらった体験や知恵を、そのまま自分の子どもたちに伝えればよかったのです。その分、親の思いは子どもの心身の健康を願うことにだけ注がれたのかもしれません。ところが、時代が下るにつれて、子どものおかれている環境と状況は加速度的に変化しました。いまや、親子どころか兄弟間でさえ、以前の体験が当てはまらない、ということが珍しくありません。 そうであるにもかかわらず、わたしが知る限りでは、遺伝子に刷り込まれた親の本能?であるかのように、自分の体験を子どもに当てはめようとする人たちが多いような気がしています。 「わたしは勉強がそれほど好きではなかったけれど、それでも毎日2,3時間はやりました。あの子は、30分と机に向かっていられないんです。」「将来の目標をしっかりもって計画的に勉強しろ、っていつも言っているんです。」など、勇ましく語るのは、どうも父親に多いようです。多くの場合、母親のほうが子どもたちと過ごす時間が多い分だけ、わが子の状況を的確に把握しているような気がします。それに引き換え、父親たちが自分の勉強体験・学校体験として思い浮かべるのは、自らの高校時代の記憶に基づいているようです。高校生ともなれば、自分自身のことがある程度見えてきます。だから勉強の目標も、勉強時間の確保も自分の問題として考えられるようになります。(なかなかそうはならない人もいますが・・・)その点、中学生までは未分化の状態で、まだ自分が持っている能力の方向も限界もわからない場合が多く、霧の中をひたすら歩いているような気分なのだと思います。 薄切りハムのように精緻な偏差値によって受験校が選ばれ、すべり止めと称する私立高校を何校も受験したのが多くの親の世代です。少子化がどんどん進み、自己推薦が取り入れられて、どこかの高校には入れるのに、親たちの時代よりも必要以上に不安をあおりたてられるいまの子どもたちの状況は、かえって深刻さを増しているのかもしれません。 第3段落で述べた時代が終わり、大学に入ることが、それだけで社会に入っていくときの大きな武器になっていた時代がありました。その後、大学の大衆化が進むにつれて、大学は、前々回のタイトルにもなった“勝ち組”ではなくなりました。今では、いわゆる一流といわれる大学を出ても、自分の“売り”がなければ、就職活動はかなり厳しいし、大学名を伏せて選考をする企業も増えています。そういう時代を反映して、大学には進まずに、自分自身がほんとうに活き活きと働ける職業を目指す若者も増えています。 その意味では、受験のためや成績のためではなく「自分自身の世界を広げ、大人社会に出て行くための準備」という本来の勉強に本気になって取り組む時代がきたのではないかと考えています。親からすれば、曽我さんたちのようにストレートに子どもたちへの愛情を注げる時代が回り回ってやってきたのだと言えなくもありません。それぞれの子どもにとって、なにが充実した生き方につながるのか、そのためにはなにが必要なのかを、しっかりと見据えていたいものです。 **6月1日(火)掲載**
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第96回 カンとコツ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
このところの土・日は、中間テスト準備勉強の中学生・高校生たちで、朝から夜まで大盛況でした。日曜日などは、中2から高3までの10人で席が埋まってしまいました。不思議なもので、定例の授業日には比較的早めに集中力が切れてしまう生徒も、ふだん顔を合わせたことのない生徒たちに囲まれると、神妙な顔をしてかなり長時間勉強に取り組んでいました。その中を、ツレアイとわたしが一人一人見て回るのですが、さすがに高3ともなれば、教えてもらったあとに「ありがとうございました。」と言います。日ごろ「わかんねえよ」などと言っている中学生がびっくりします。また、高校生が「自分も中学生のときには、あそこがわからなかったよね」と感想を漏らすこともあり、逆に中学生が「高校になると、あんなむずかしいことをやるのか」と、それを教えているわれわれを見直したりします。こうして、この多学年勉強は、その後の塾の授業になかなかおもしろい余韻を残します。
こうして見ている中で、中学生高校生を問わず、「どうしてこうなったの」「なんとなくカンで」というやり取りをすることが何回かあります。たしかに答えは合っているのですが、うまく説明ができません。数学でいえばプロセスがないまま正解にたどり着いているのです。「わかった」という心の動きや脳の働きについて書くことは、わたしにはできませんが、こうした子どもたちの反応の中に「本質を捉えているのではないか」と思われるものがときどきあります。 たとえは適切でないかもしれませんが、いろいろな酒を呑んでいるうちに舌が酒を利き分ける、ということがあります。「どうしてその違いがわかるか」と聞かれても、まさに、ことばでは表せない違いを舌がはっきりと感じています。精密な成分分析をすれば、ある程度はその違いを区別できるのかもしれませんが、舌はさらに微妙な違いまでも利き分けているようです。芸術作品の真贋を見分けるのも同じようなことがあるようです。「たしかに違う」と言う専門家の鑑定は「なぜ」を超越してしまいます。国際的にも有名なある建築家の図面に首をかしげた家具職人がいました。設計図どおりに作り付けの家具を入れると、絶対にうまくいかない、と進言したのですが、あらゆる状況を計算しつくしたと自負する建築家は却下してしまいました。案の定、後になってトラブルになったという話を聞きました。 「なんとなくカンで」というなかに、これらと同じようなものを感じるときがあるのです。こういう場合、ともするとその価値を認めずに「説明できないものはわかっていないことだ」と切って捨ててしまいがちです。以前にも書いたことがありますが、方程式を立てる代わりに、細かい表を作って一致するところを見つける作業をした生徒がいました。このときも、彼は「なんとなくこうすれば求められると思った」と言っていましたが、わたしは、彼の直観と実用的な処理の仕方に、内心舌を巻いたものです。 西欧合理主義に由来する近代の学問は、ものごとを理解するのに分析と総合という手法をとってきました。つまり、一つ一つの要素を細かく分けてその性質を探り(分析)、さらに、共通する原理を見つけていくこと(総合)で本質に迫ろうとしてきました。学校で要求されてきた勉強にも、この学問の手法が多く取り入れられています。「なんとなく」では理解したことにはならない、という態度はわたしの中にも根強くあります。多くの生徒の「なんとなく」には、たしかに文字通りテキトーにやっている場合もあります。でも、「本質を捉えている」と思われる「なんとなく」に出会うとき、近代の学校教育が捨ててきてしまったものを感じます。 近代以前は、文化や技術は、いわく言いがたいものを伝えるものであり、見習うものであったはずです。それが、カンとかコツとか呼ばれてきたものでした。現代では、従来の学問の手法であった分析と総合は、コンピューターにその役割を奪われています。そうしてみると、あらためて、この「カンとコツの世界」を見直してみる意味はありそうに思えるのです。ひょっとすると、従来の“劣等生”“優等生”が逆転するのではないか、などという楽しい?想像もします。 **5月25日(火)掲載**
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