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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第5回 「進路」についての幻想
 バブル崩壊とそれにつづく構造不況、大企業の経営不振・倒産が進むなかで、「いい学校を出ていい会社に入れば、あとはもう安心」という考え方(これもマスメディアが言うほどに一般的であったかは疑問ですが)は、さすがに1時期ほどには耳にしなくなりました。しかし、進学実績を売り物にする塾のチラシには相変わらず「名門」と言われる学校の名がずらりと並び「バラ色の幻想」を振りまいています。

 実は、わたしには、進学に関してはやや苦い経験があります。勉強は嫌い、本も読まない、もちろん学校でも家でも勉強などしない、しかし潜在的な処理能力はかなりのものを持っている中学生とつきあったことがあります。その子がある強い動機から名門といわれる高校を目指すことになりました。もちろん学校の担任も「絶対に不可能」と大反対しました。その動機がなんであるかを知らなかったわたしも彼の決意を意気に感じて、徹底的につきあったのです。その結果、彼は見事にその志望校に合格したのです。本人も家族も大喜びで、担任の先生も「奇跡だ!」と喜んでくれたようです。しかし、わたしは手放しで喜ぶ気にはなれませんでした彼の動機を知ったからです。案の定、彼はその目的を達して、高校に入学するとまた全く勉強をしなくなりました。わたしは彼の心を悟れなかった自分を恥じました。その後、彼とは会っていませんが、あまりいいうわさを聞きません。

 彼の例は特殊だ、と思われるかもしれません。しかし、わたしが言いたかったことは、とりあえず高校受験レベルでは「見かけの学力」を上げて、持っている能力を搾り切ることは不可能ではないけれど、それでいいのだろうか、ということです。

 子どもたちが勉強をすることを要求される時期は、また、人生でこころの揺れがもっとも激しい思春期と重なります。子どもたちは、投げ出しもせず、無理に搾り切りもせず、それぞれの自然な努力の結果で選ぶことのできる進路でこそ、充実した人生に近づくのではないかと、一人前の社会人・家庭人になったかつての子どもたちを前に思うのですが・・・。


**4月29日(月)掲載**
(す〜爺)

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第4回 「実例」という幻想
 世の中には、ダイエットから健康食品、宗教に至るまで、「わたしはこのようにして大成功だった」という成功実例談があふれています。こういうことについては、たぶん多くの人たちが、いったん「眉に唾をつけて」読んでいるのではないでしょうか。

 でも、どういうわけか「教育」に関するものだと、いとも簡単に納得してしまう人が多いような気がします。

 すぐれた教育実践を読めば「なるほど、すばらしい! ウチの学校の先生もこの実践記録の先生のようにやってくれれば・・・」と感心します。しかし、よく考えてみると実践記録というものは、うまくいったものだけが公表されているのだ、ということに気がつきます。それまでに試行錯誤した膨大な失敗例はすべて反故にされているし、滅多にうまくいかないことだからこそ発表する価値があるのです。

 また「わたしは底辺校といわれる高校からこうして難関大学に合格した」というような合格体験記を読めば「ほら、この人はこういうふうに勉強したんだって。あなたも同じようにやれば?」と我が子の尻をたたきます。でも、よくその実態を知ってみると、その筆者は高校受験の際の大きな手違いから選んでしまった学校でほとんど授業も受けずに受験勉強をしていたことがわかったりします。そのうえ、その「合格体験記」通りにしっかりと実践したのに不合格になった人も、実践しなかったおかげで(?)合格した人もいるはずです。そもそも「不合格体験記」なるものはみたことがありません。

 果ては教育関係事件のニュースまで「実例」があふれかえっています。こういうニュースを見れば「ひどい事件だよね。やっぱり近頃の教師は・・」となっていきがちです。これもまたあとで実態を知ってみると、特殊な教師による特殊な事件であることがわかることもあります。あまり起こりそうもないことだからニュースバリューがあるとも言えます。

 われわれにとって本当に役に立つ情報とは、滅多に起こらない珍しい例や特別な状況にある人の並はずれた努力の結果などよりも、どちらかというと、平凡でどこにでもあるような事実の集積ではないかと思えるのです。


**4月22日(月)掲載**
(す〜爺)

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第3回 加工された数字ーつづき
 前回の文をあらためて読み直してみると、かなり舌足らずのところがありました。そこで、今回は角度を変えて、テストの点数が加工されていく過程を考えてみました。

 ここに「12÷3= 」という問題があるとします。子どもAはおいしそうなお菓子12個を友だち3人で分けるようすを思い浮かべ、子どもBは両手の指と足の親指まで使って3本ずつ折っていく、子どもCはサンイチガサン・サンニガロク・・・サンシジュウニと見つけていく、子どもDは筆算をしてみる、子どもEはなんのためらいもなく・・・子どもたちの頭の中にはまだまだたくさんのイメージがありますが、それらを今度は、うすい字、ふとい字、曲がった字・・・いろいろな字で、自信ありげにまたは自信なげに「4」と答えを書きます。

 こういう問題がいくつも集まってそれぞれの子どもの得点が決まっていきます。この数字は、自然数の働きのうちの「個数」です。この得点を高い順に並べた数字が順位で、こっちは自然数の働きのうちの「順序数」です。ここまでを「ナマの数字」と呼ぶことにします。ここで、わかりやすくするためにAが71点、Bが70点、Cが69点の場合の平均点と、Aが97点、Bが62点、Cが51点の平均点を比べると、どちらも70点です。ここで70点という数字には「解釈」が必要となります。これが加工された数字です。さらにこれを加工して平均を50とした偏差をとると、いかにも精緻な学力表示に見えますが、子どもたちのそれぞれの理解度の実態からどんどん遠ざかっていきます。やむを得ず数字での評価をするにしても、子ども一人ひとりの視点から見ていくときには、できるだけ「ナマの数字」に近いところでみていきたいものだと考えています。


**4月15日(月)掲載**
(す〜爺)

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第2回 加工された数字
 冬季五輪が終わったと思ったら、Jリーグが始まり、プロ野球、メジャーリーグと次々に開幕ですね。そして、あと50日あまりでW杯。

 ここで、サッカーファンのPIDEさんの表現をヒントにお借りすると、日本人のスポーツ観戦好きのなかには、スポーツそのものが好きで、一つ一つのプレイに酔いしれる人たちももちろんたくさんいますが、その一方で、「きのうどっちが勝った?何対何?」「得点圏打率は?防御率は?」などと、試合結果やデータの数字の方に関心が強い人たち(どうも野球ファンに多いような気がするのは、昔からのサッカーファンであるわたしの偏見でしょうか?)が少なからずいます。

 例えて言えば、ジャストミートして野手の正面を突いた打球よりもよけたバットに当たったテキサスヒットのほうが、そしてピンポイントのパスを受けて放った矢のようなシュートがGKのパンチングに阻まれた場合よりも明らかなミスパスがゴールに転がり込んだ場合の方が、数字の上の評価は高いことになります。そして、この数字がさまざまなデータとして加工されるほど実態がわからなくなってしまいます。さらに困ったことに、データ好きの人たちほどこの加工された数字がお好みなのです。

 長々とこんな話をして、いったい「教育」となんの関係があるんだ?と思われたかもしれません。実は、この人たちの感覚と「どの学校に何人入った」「A高校は偏差値○○だ」などというのととても似ていると思うからです。そして、この加工されたデータに呪縛され、振り回されている最大の被害者が子どもたちであり、さらに教師たちであり、親たちでもあるのだと思います。


**4月8日(月)掲載**
(す〜爺)

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第1回 「文教都市浦和」という幻想
 「浦和ですか?教育熱の高いところでしょう」と初対面の挨拶代わりに声をかけられることがよくあります。わたしの中学時代を思い返してみると、市内の知り合い宅に仮住所を置かせてもらう寄留制度(現在は認められていない)を使って春日部や岩槻などから通学してきた友人がたくさんいました。しかも職員室の前にはテストの度ごとに上位100人の名前と成績が張り出されるなど、いまでは考えられないほど過酷な状況でした。そして、現代でも市内の「名門」と呼ばれる中学を取り囲んでマンションが林立しています。また、この少子化の時代に首都圏では有数の子ども人口の多さをねらって、大手の塾が次々に参入して生徒の獲得競争が激化しています。

 こうした状況を指して「教育熱が高い」と言われるのでしょうが、わたしにはこれらが二重の意味で「幻想が生んだ現象」であると思えてなりません。一つには、進学競争、成績競争の激しさを「教育熱」の高さと混同していること(数字だけの関心と、教育内容への関心との違いと言ったらいいでしょうか)、次に、他の地域から浦和に転入して来た方たちがこの状況に動転し「こんなのおかしい」と思っているうちにいつの間にか自分自身もこの「熱」の中に巻き込まれていき、そして、じつは、浦和に元から住んでいる人たちも「浦和はもっとのんびりしていたよなあ」と思っているうちに、あれよあれよという間に浮き足立ってしまってきた、というのが事実ではないかと考えています。この幻想の仕掛け人とその背景についても、子ども、親、学校、教師、塾、教科書をはじめとする教材、教育制度などの全国的な状況や様々なエピソードをまじえて、このコラムの中で考えていくつもりです。


**4月1日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第1回 「文教都市浦和」という幻想2002/04/05 9:58:16  
                     婆〜薔薇

 
同感です、のんびりしたお国柄のオーストラリアのある州では、毎年公立、私立あわせての共通テストをしています。田舎の公立小学校がトップになることもあり、だからといって寄留する親などいません。

今朝のTVでまだ数少ない公立校の取り組みが紹介されていて、習熟度別にクラス内をわけ、音楽や家庭科の先生まで動員し限られた時間内に算数を教えている例が紹介されました。

競争はいけないというけれど、社会にでればそうはいきません。勉強は別にして、スポーツ、芸術の分野や、親切を評価して、学校内を紅白にわけ子供たちがリーダーを選び、点数化して学年末に優勝を決めるとか校内を活性化し、土曜休日でも親が働いている家庭もあるでしょう、遊ぶ空き地のない今、知恵を出し、親と学校、社会が工夫と協力しあって何とかするのが大切と思います。
 

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競争できるものとできないもの2002/04/07 14:28:28  
                     す〜爺

 
婆〜薔薇さん、こんにちわ。レスをありがとうございます。
 おっしゃるとおり、学校の中でさまざまな試みが行われることはとてもいいことだと思います。そしてそういう試みを通してそれぞれの持ち味を生かした競争があることもまた大切なことですね。さらに、競い合うことでおたがいの個性が見えてきたり、子ども集団が活性化するのであれば、テストの点数さえその対象に含めていいのではないかと考えます。
 ただ、少し異論があります。1つは、競争の対象としては不適切なものもあるのではないかと思うのです。スポーツやテストの点数のように(その前提に主催者や出題者の主観が入るとはいうものの)どちらかというと客観的に結果が見えるものでは競争が活性化につながることもあると思います。しかし、例えば、芸術や親切などのように、それぞれのおもしろさ・美しさ、さまざまなやさしさ・温かさの表現が併存するはずのものでは逆に活動が硬直化したり、萎縮したりはしないでしょうか。2つめは、評価の手段としての点数化のことですが、じつはこの連載でいずれ取り上げようと思っていたことなので、婆〜薔薇さんのレスのお力を借りて、急遽2回目のテーマとして取り上げることにしました。これからもご意見をお寄せください。
 

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Re: 競争できるものとできないもの2002/04/09 9:28:56  
                     婆〜薔薇

 
す〜爺さんと婆〜薔薇では何だかヤラセみたいで困りますが、たくさんの方がご意見をお持ちのはずで是非参加して頂きたいです、皆が黙っているとスポーツ観戦のようになり、大切な教育が人事のようになってしまいます。

私達の頃は公立中、校で上位の得点が張り出されるのは当たり前でした、塾はありませんでした、す〜爺さんと私では早くも意見に相違が出てきましたね、今日は忙しいので改めて、楽しみにしています。
 

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