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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第45回 志望校合格!
 今年の高校入試も、それぞれの思いを抱えながら終わりました。進学塾のチラシには“難関”といわれる高校の名がハデに踊り、生徒たちの名がびっしりと並んでいます。

 「○○先輩A高校だって、すごいなあ。ひとりで高校をいくつも受けさせられたらしいよ。塾の実績を上げるためだって・・」子どもたち同士のそんなうわさ話を聞き流しながら、いつもの通り「さあ、この前の続きから始めようか、自分のファイルを開いてみてね」と呼びかけると、すかさず「ここの塾ではどういう高校に入ったのかは発表しないの?」という声が飛びます。「うん、全員それぞれの志望校に合格したよ」と答えます。

 じつは一人だけ最後まで不安だったAくんが、公立高校不合格になってしまったのです。いっしょに受けたBくんは合格したのですが、彼はAくんとは中学もちがうので様子がわからず、自分のことそっちのけでAくんのことを心配していました。発表後の塾の日は、彼にしてはめずらしく連絡もナシで欠席でした。「あいつオレよりアタマいいくせに、なんで落ちちゃったんだよ。納得できないよ。だいじょうぶかなあ。立ち直れるかなあ。オレからはメールも電話もできないからなあ」というのです。こちらのほうが泣きたくなるほどやさしいBくんです。

 そこで、わたしがAくんに電話をしてゆっくりと話を聞くことになりました。Aくんはとっても落ち込んでいましたが、いろいろ聞いてみると、不合格だったこともそうだけれど、いちばん気になっているのは「自分が私立に入ったら、親が経済的に大変だろう」ということなのでした。お母さんに聞いてみると「そんなことを考えていたの」とびっくりして、「そういうお金はちゃんと確保しているからだいじょうぶ」と言ってくれたのです。親が励ましのつもりで「うちは苦しいのだから、絶対に公立じゃなければダメだよ」と言っていたことを、正直に受け止めて、だれにも言えないまま大きなプレッシャーにしていたAくんも、ほんとうにやさしい子なのです。そして、確保してある私立高校で思いっきり自分の力を試してみる、という気持ちになってくれたのです。土曜日には塾に現れて、心配していたBくんをびっくりさせました。

 公立推薦入試での不合格はめずらしくはないものの、何年かぶりの一般入試の不合格者です。それにもかかわらず、冒頭のように「全員志望校に決まったよ」と言ったのは決してウソではなく、こういう経過があるからです。それに、本人にとっては、結果として進学することになった学校こそが、自分にとっていちばんいい学校であってほしいのです。わたしのところには、いわゆる難関校に入った生徒も何人もいるし、そうでないところの生徒もいます。でも、悔いが残る生徒にしても、こつこつと積み上げてきた子、どの子にとっても自分なりに頑張った結果として進学します。

 以前のレスにも書いたように、学校は一時的な入れ物に過ぎません。そして、入試での難易度と、それぞれの生徒にとっての学校の適合度はちがいます。それを、ランク付けされたりすれば、たとえ自分が“難関校”に合格したとしても、プライドが高い生徒ほどいい気持ちはしないはずです。AくんやBくんのやさしさこそが、合否の違いを乗り越えて、彼らの将来にとって大きな希望になるような気がするのです。


**3月18日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第45回 志望校合格!2003/03/18 20:24:33  
                     MOTER MAN

 
私も来年度受験を経験しますが、本当に不安です。
最近テストの点が伸び悩み、親に
『頑張んないとどこもいけない』
とくどくど言われます。真面目に授業受けてノートも取ってるのに・・・。
あせらず頑張りたいと思います。
 

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第44回 山登りと勉強
 山に登ることを、広い意味の「勉強」と置き換えてみます。
 すこしでも早く、すこしでも高い山に登ることこそが「登山」である、と考えている人がいるとします。ところが、あえぎながら頑張っている彼のそばを、重そうな荷物を背負っているのに、いとも軽々と追い越していく人がいたとき、たぶん3通りの反応が考えられます。

 1つは、アセってしまって、自分の体力を考えずにムキになってスピードを上げてオーバーぺースになってしまい、早々とダウンしてしまう人。2つめは、頂上直下の絶壁に取り付いて最短コースをめざす人。何回もふもとまで滑り落ちることを繰り返すうちに大けがをすることもあるし、なによりも無力感におそわれて、山登りそのものがすっかりイヤになってしまうかもしれません。そして、3つめは、自分の体力を知り尽くして、ペースを崩さずに一歩一歩着実に登っていく人。もちろん3番目の人だけが、早さについても高度についても、その人なりの最高の記録を出すことができるでしょう。

 一流の登山家といわれる人たちの多くは、3番目の登り方を考えるようです。中にはロッククライミングを楽しむ人もいますが、これは、<早く高く>をめざすというより、トレーニングを含めて準備を万全に整え、岩登りの技術そのものを楽しんでいるようです。勉強に例えれば、ひとつの難問にこだわって楽しんでいることと似ています。いずれにしても、彼らは自分の体力と技術を知り尽くしていて、<自分なりのペース>というのは、一人ひとりまったくちがうのだ、ということもまたよく知っているはずです。だから、パーティーを組むときには、とくにメンバーの体力と技術を客観的に見ようとします。

 こう考えてみると、頑張りさえすれば、だれでもエベレスト(チョモランマ)に登れるはずだ、という考え方は、自分なりの努力をしている人にとっては「まだまだ自分の努力が足りないのではないか」と苦しんだ末に、やはり山登りから遠ざかっていくことになるのではないかと思うのです。

 しかし、ここにまったく別の山登りの楽しさがあります。それは、足元のかれんな花、谷川のせせらぎ、おいしい空気、さわやかな木々の緑、そういうもののひとつひとつに目を留め、耳を澄ませ、体で感じることです。ここには、競争もありません。ミエもありません。こころから山を愛し、自然の中に溶け込んでいくことができる<山の達人>は、こういう人の中にいるのかもしれません。

 きょうも、子どもたちがいい表情で勉強に向かえるように、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、準備を始めます。いい表情で取り組んだことは、その子なりに最高の理解をしていくし頭も活性化していく、ということを、30年以上も子どもたちに教わってきているからです。


**3月11日(火)掲載**
(す〜爺)

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ウチの場合・・・2003/06/24 19:34:11  
                     かーやん

 
我が家の息子は典型的な2番目のタイプです。
何をやっても中途半端で、長続きしません。
3番目タイプになるよう、親や先生が仕向けていく必要がありますかね?
 

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Re: ウチの場合・・・2003/03/12 10:54:31  
                     す〜爺

 
かーやんさん、おひさしぶりです。
 上に挙げた1番目や2番目の子の場合、よ〜く見ていると、むしろ先生や家族が、ホンネのところで、早く<目に見える結果>がほしいと望んでいることがほとんどです。子どもはそれに答えようとしているだけ、という気がします。わたしも、いろいろな親子と接していて、いちばんとまどうことのひとつです。かーやんさん始め、みなさんのご意見をお聞きしたいところです。
 

元の文章を引用する

 
反省・・・2003/06/24 19:34:41  
                     かーやん

 
す〜爺さんのレスを読んで、ドキリとしました。
確かに私は、すぐに目に見える結果が出るよう考えていた部分があるからです。

息子はもともと発達が遅く、3歳の頃に保健婦さんから「小学校に上がる時は、
普通学級か特殊学級か考えた方がいいかも」と言われ、療育専門の先生からは
「この時期の実年齢と発達年齢との差は、将来追いつくことはほぼ無理です」と
言われました。
私は必死になりました。結果を出さなければ、「普通の子」ではなくなってしまう
という考えにハマってしまったのです。
ある程度自由気ままに振舞える幼児期に、我が家はさながら療育現場のようでした。

何をもって「普通である」とみなすのか、その疑問に気付くのに何年もかかりました。
あるがままの息子を、まずそのまんま受け入れてあげようと思うにはさらに時間が
必要でした。(この点は現在進行形かもしれません)
さらに私は息子に、もう結果を求めていたのかもしれません。
2番目のタイプです、と書きましたが、そう仕向けたのは他ならぬ自分であったのか
(100%ではないにしても)と反省した次第です。

 ※上記の保健婦さんや療育の先生は、当時私達が住んでいた地域の人たちであり、
  浦和(さいたま市)の方たちではありません。念のため。
 

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山登り自体がイヤな子もいたりして・・2003/03/15 23:37:54  
                     教師23号

 
お久しぶりです。色々な方が参加されていてイイですね。

 さて、山登り。山登りのペースが色々あってそれぞれなのはいいのです。登ろうとするだけでもオーケーでしょう。ただ、山登り自体がしんどくてイヤだという子もいますね。
 その面白さを、色々伝えたりします。以前もレスしたように、自分なりに努力して頂上に到達した時の爽快さ等も・・・

 しかしここには、山登り自体には価値があるという考えが前提にあるのでしょうか。まあ、何に例えてもいいのですが、そのような前提が成り立たなくなっていることが多々あるのが近頃の状況のように思います。
 
 それも個性と言えば個性でしょうが、それを個性だとしたらどうなるのでしょうね。

 意欲が出るまで待っていますか・・キャンプかスキューバーにでも目を向けさせますか・・
それも同じことのくり返しのような気もします。
 

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Re: 山登り自体がイヤな子もいたりして・・2003/03/16 12:32:32  
                     す〜爺

 
「教師23号」さん、ひさしぶりです。
 どういうことにしろ、人間の判断や行動に「絶対的な価値」を与えることは、宗教でもない限りできない相談だと思います。まして、「勉強」をどういうものとして捉えるかの議論は別としても、それに取り組むことに「絶対的な価値」を置くという考え方からは文部科学省でさえ撤退し始めています。
 でも、「山登りがいいかどうかわからないけれど、わたしが山に登ってみたら楽しかったよ」と伝えてもいいのではないかと思います。
 学校と塾とでは基本的なスタンスがちがうのでむずかしいとは思いますが、「山登り自体がイヤな子」に対してわたしは山登りを強いることはしません。誤解されるかもしれませんが、そういう子の存在を否定的なものとして捉えるか、新しい感性として考えるかについて、わたしは関心を持ちません。わたしは一人ひとりの子とかかわりながら、自分のメッセージを出し続けていくだけしかできません。その中で、「山登り」に対して偏見を持っていた子や、山に出かける体力もない子等々、いろいろな子どもの顔に出会うことになるからです。
 「教師23号」さんがカラんで(?)くると、がぜん話がおもしろくなります。それに、わたしもあらためて自分の考えを検証することもできます。「教師24号」さんになっても、ときどきはレスをください。とくに差し支えない範囲で学校現場の実態を教えていただけるとありがたいですね。
 

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単に、山登りを勉強に例えたことに対しての絡み(?!)でして2003/03/18 1:24:51  
                     教師23号

 
 早速のレス有り難うございます。

 絶対的価値云々でなくて、「山登りを広い意味での勉強に例えると・・・」というところで
ちょっと書いてみただけなのです。

 勉強(余りこの言葉はすきではないのですが・・)には、それぞれのペースや方法があるというのは、その通りなのですが、それを始める前に「いやだ〜」となっちゃう子にはどうしようかなということでして。

 ちょっと昔みたく<どの子も、学びたがっている>というお題目で向かえるほど、現状は易しくないなという感じですね。

 このぐらいの絡みでいきましょうかね。現場の話は又今度。今日も、ちょっとつらい話がありましてね。
 

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第43回 青は藍より出でて・・・
 もうだいぶ以前、将棋にハマってしまった子がいました。わたしが駒を八枚落として、歩9枚と王様と金2枚だけから始めました。彼が連勝するとハンディが1ステップ減り、わたしが3連勝するとハンディが重くなる、といういわゆる指し込み勝負でした。負けず嫌いの彼は、負けても負けても挑戦し続け、休みの日にまでやってきて、わたしと指しているうちにどんどん強くなっていきました。そして、高校生になって将棋部に入った彼は、なんと高校将棋選手権にまで出て、アマチュア三段の腕前になってしまいました。

 ところが、その彼がひさしぶりに訪ねてきて、さて一局、と指し始めてみると、せいぜいアマ初段程度の棋力であるはずのわたしにコロコロ負けるのです。わたしが何の気ナシに指した手がとてもすばらしい妙手に見えるらしく、彼は信じられないような悪手を連発してしまうのです。弱かったときに刷り込まれたものはなかなか拭いきれないようでした。しかし、一度彼が圧勝して、はっきりと彼我の差が分かってからというものは、わたしはもう彼の敵ではなく、それこそ一勝もできなくなってしまいました。

 小学生の男の子たちは、取っ組み合いが好きです。ところが、最近では学校でも「危ないから」といって禁止されるし、家では兄弟が少なくて、子どもたちは取っ組み合う機会がほとんどありません。だから、スキンシップも手加減もいつまでも身に付かなくて、かえって大けがをするのだ、というのがわたしの持論です。

 それはさておき、小学生の男の子が何人もいたころは、塾が終わったあとのホンの10分ほど、つくえを隅に寄せ、危ないものをどかし、角張ったものには座布団を巻き、わたしが見ているところで取っ組み合いをさせました。当然、何人かはわたしにも挑戦してきます。中学・高校のときに少しばかりかじっただけのわたしの柔道の技(?)で小学生たちはコロコロところがされます。こういう中で危険な動き方や自分の体の守り方も教えます。こうした彼らが中学生になり、もうわたしなどよりもぐっと背が高く、腕力もついておとなびてきたのに、ときどき思い出したようにじゃれかかってくる彼らは、わたしには到底かなわない、と思っているようなのです。そして、高校生ともなると、今度は、わたしの方からじゃれかかっていって「わっ、じじい、まだ強え! 負けた負けた」などと、軽くあしらわれるようになります。

 将棋や取っ組み合いのように表に現れるものだと、子どもたちも比較的早く自分の成長を確かめられるのですが、学力ともなるとなかなかそうはいきません。わたしは、ひとりひとりの子どもと1対1の交換ノート(このことについては、いずれ稿をあらためて書くつもりでいます)を続けています。このノートを毎回英文で書いていたT子がいました。わたしもその英文を一切添削せずに、やはり英文で返事を書いていました。こうして、その英文交換ノートは、彼女が中2のときから高校を卒業するときまで続きました。初めは文法もスペルもメチャクチャだったのが、わたしに伝えたいことを手持ちの英語の知識を総動員して必死に書いているうちに、目を瞠るほどのりっぱな英文エッセイになり、わたしの英語スキルも彼女のおかげでずいぶん上達しました。そして、T子は、高2のときには英語一本でヨーロッパを1人旅をし、多くの国の人たちと交流してきました。現役で国立大学に入った後は、休学して半年もマニラのスラムに住み込むなど強烈な体験を重ね、数多くの民族の友達を作りました。その結果、彼女は、訛りの強い留学生たちと大学の先生たちとのあいだの通訳を引き受けるほどに、練達の英語使いになっていました。

 その彼女が、ときどきふらっと立ち寄っては「こんな表現を見つけたのだけれど、どう思う?」などと言います。「そんなの分かるわけないよ。」と言うと、「ここに来れば分かると思った」などとけげんな顔をします。彼女に言わせると、わたしのところに来るのは、自分の成長を測るためなのだそうです。T子はもう、わたしなどが逆立ちしても届かないほどの語学力と国際性を身につけてしまいました。

 「青は藍より出でて藍よりも青し」(荀子)の例にはまだまだ事欠きません。あるいは、すべての子どもたちが何らかの形やさまざまな分野で、とっくにわたしを乗り越えていっているのだなあ、と感じることが多いこのごろです。


**3月3日(月)掲載**
(す〜爺)

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学校があるから・・・2003/07/03 16:48:12  
                     す〜爺

 
「中2の親」さん、こんにちは。
 わたしも、同じようなことを言われることが多いのです。でも、決して謙遜ではなく「イヤ、学校でわからなーい、という思いをしたり、それ以前にたくさんの時間をかけてテストや授業をくりかえしているから、きみの方に『分かりたい』という気持ちが出てきて、説明を<聞く耳>ができてくるからだよ」と言います。まさに、この<聞く耳を持つ>というの、おもしろいテーマですね。いつか使わせてください。レスが遅くなってごめんなさい。今年の入試も、やっときのうで終わりました。
 

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わかる気がする彼女の気持ち2003/03/07 22:46:45  
                     さくら

 
年度末の忙しい行事が少し落ち着きました。
お気楽オヤジさんピアノ習う中年の方々多いですよ。是非!ずいぶん前の話題ですが・・・。   
T子さんの話、ここにくれば解るかと思ったという一言。私も同じかも。大人になって認められ責任がある立場になるとなかなか反対意見を言われない寂しさみたいなものを時々感じます。T子さんはちがうかもしれないけれど。仕事を続けていて何年経ってもこれでいいのかなと悩むことが逆に増えていくなんて、思いもしなかったな。
 

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第42回 修学旅行
 「は〜い、おみやげ」「つかれたよ〜。帰ってきたばかりなのに、もうすぐ学年末テストだよ。ひどいよ〜」とT中の2年生何人かが教室に入ってきました。彼らはおとといの土曜日に修学旅行から帰ってきて、日曜日の昨日は学年末テストの準備のためにわたしのところにやってきたのです。

 その勉強の合間のお茶の時間には、他校の友だちも混じって修学旅行の話で盛り上がります。現地では班別の行動になるので、集合時間に遅れそうになってあわてたり、とんでもないところに行ってしまって迷子になったり、言うことを聞かない仲間たちに班長がふててしまったりと、いろいろあったようです。それにしても古都の風情を味わったなんて話がまったく聞こえてこないのは、昔から変わらぬ修学旅行のみやげ話です。

 中2の2月に修学旅行!なんていつごろから始まったのか、記憶をたどってもはっきりしません。費用と交通手段、それに受け入れ先の旅館の手配、他の中学とのトラブルを避けるなど、さまざまな理由で観光の閑散期をねらったとはいえ、底冷えのする京都盆地を散策するのはチトきつかったようです。でも、子どもたちはこの一年ですっかり親しくなった級友たちとの3日間を、思う存分楽しんだようです。わたしの塾でみる限り、M中も2月の初めでしたが、他の中学は3年生になってからというところが多いようです。

 聞くところによると、市内のK中学は、ここ何年か、まだクラスメイトの顔もおぼつかない中3の新学期早々に修学旅行を実施しているようです。これから受験期を共に乗り切っていくクラスを、修学旅行を通して早いうちにまとめてしまおう、という学校としてのねらいが見えます。ちょっとうがった見方をすれば、生徒同士がまだなじんでいないうちの方がトラブルが少ない、ということがあるのかもしれません。いずれにしても、受験に向けての動きが過密になる秋を避けよう、というのは、どの中学でも共通した気持ちなのでしょう。

 わたしが中学生だった昭和30年代半ばのころは、1学年600人の大所帯が移動すること自体が大変で、しかも京都まで片道約9時間という長旅では、関西なんて夢のまた夢でした。だから、修学旅行は、たしか箱根芦ノ湖の一泊だけだったように記憶しています。それでも、級友たちとの楽しい語らいや湖畔の夕暮れの景色などなつかしく思い出されます。いまでは、海外旅行に行く私立の中学もあると聞いています。

 もう10数年前、市内某中学の先生たちが、東北地方のある村でそれぞれ農家に分宿し農作業を手伝う、という修学旅行を企画したことがあります。この企画が発表されたときには、親からだけではなく生徒たちからもかなりの抵抗があったと聞いていますが、いざ行ってみると、現地の人たちの温かい歓迎を受け、なにもかも初めての経験をしたようです。帰ってからの生徒たちの感想文を読ませてもらいましたが、ほとんどの生徒にとって、新鮮で充実した修学旅行だったようすがうかがえました。

 その後、どのような経過をたどってか、このユニークな修学旅行はなくなったようです。広辞苑によれば、修学旅行とは「児童・生徒たちに日常経験しない土地の自然・文化などを見聞学習させるために、教職員が引率して行う旅行」であるのだそうで、まさに<総合学習>を先取りしたようなこの修学旅行が復活する余地はないものでしょうか。

 今、3年生は、公立の一般入試が終わる2月末から合格発表までのおちつかない約1週間のあいだ、東京ディズニーランドなどのテーマパークや球技大会など、各学校さまざまに工夫を凝らしています。だとしたら、この期間こそ修学旅行にふさわしい期間であると思うのですが、なぜか、そうしている学校の話を聞いたことがありません。もしかしたら、先生たちも親たちも<修学旅行>どころではない、という気持ちなのでしょうね。


**2月24日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第42回 修学旅行2003/03/02 21:37:16  
                     中2の親

 
うちの子もついに塾に行き始めました。塾に行って来て開口一番「いやーさすが塾。わかるように教えるよ〜」だって。じゃあ、学校はどんなんだ?学校は忍耐を学ぶために行っているのか?!
 

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第41回 高校入試
 「15の春を泣かせるな!」ということばを聞いたことがあるでしょうか? 昭和30年代から40年代のはじめ、進学希望の中学生は全員高校へ、という高校全入運動の関係者たちからよく聞かれたフレーズです。昭和50年頃、高校進学率が90%を超えるとともに高校も“準義務教育”と言われるようになりました。また、その後少子化が進むにつれて、数字の上では高校進学率はほぼ100%に近くなっています。そして、さらに絶対評価導入、公立中高一貫教育・・と全入運動はその目的を完全に達成したように見えます。しかし、たぶん、だれもこの現状に満足している人はいないはずです。どのように制度を変えたところで必ず不満が出てくるのが、この「受験」という仕組みの宿命だからです。

 このコラムを書いている2月16日現在、中学3年生たちは県内都内の私立高校の推薦入試・一般入試と公立高校の推薦入試の結果が出そろったところです。そして、2月26・27日の公立高校一般入試に向かう受験生たちにとっては、今がまさに正念場、といったところです。

 今さら<正念場>なんて遅い、と思われる向きもあると思いますが、これがそうでもないのです。たしかに学力面ではとっくに<仕上げ>は終わっているのですが、大学受験とちがって、さすがにまだ中学生、これからの健康管理や精神面でのケアがとても大切なのです。

 かつて、というよりわたしが高校受験をした昭和34年当時(ホントにはるか昔ですネ)埼玉県は、寄留が認められていたために実質的にほぼ全県1学区で、国・社・数・理が各50点満点、英語・職業・図工・音楽・体育が各30点満点の計350点という入試で、出題範囲もやたらと広く、勉強量よりも雑学の量で勝負したような記憶があります。そのうえ、経済状態もまだ良好とはいえなかった時代だったので、県内トップ高を受験した生徒でも、失敗すれば定時制に通いながら就職、などという話もあちこちで聞きました。

 前回のレスに、「もうこれで受験しなくてもいい!」という、推薦合格の生徒の感想を書きました。まして、周囲のかなり多くの級友が私立のA推薦や公立の推薦で決まってきているなか、公立高一般入試に臨む生徒のほとんどが私立高校を確保しているにもかかわらず、彼らがかかえているプレッシャーは相当のものです。冒頭に述べた時代やわたしの時代の生徒たちよりも、そのプレッシャーははるかに大きいように感じます。受験で決定的に失敗することが充分あり得た時代より、失敗者があまりいない現代の方が<失敗>への恐怖が強い、という皮肉な現象でもあります。

 わたしは子どもたちには「風邪ひくな。テストは昼間だから、夜はしっかり寝て、朝はすっきりと起きられるように」「わからない問題はできる必要はない。自分の力を出し切ることだけ考えてね。それだけがきみの責任だ」と、呪文のように唱えています。ほんとうに透明人間になって、そばに立っていてやりたい思いです。わたしがだまって指をさすだけで正解を得られることが多いのが、この時期の子どもたちなのです。


**2月17日(月)掲載**
(す〜爺)

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自己レスです。2003/02/18 15:04:41  
                     す〜爺

 
 上のコラムの中で、少し訂正と説明が必要だったかな、と思われる箇所がありました。
「県内トップ高を受験した生徒でも、失敗すれば定時制に通いながら就職、などという話もあちこちで聞きました。」という部分です。
 そういう人もたしかにいましたが、「あちこちで」というほど一般的ではありませんでした。そして、わたしが知っていたそのうちの1人は自分の選択に誇りをもっていて、その後、自分が貯めたお金で大学に進学した、と聞いています。つまり、学校は一時的な自分の<容器>にすぎない、ということをよく知っていたのだと思います。
 
 

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学校は2003/02/21 9:55:58  
                     みっちゃん

 
一時的な自分の〈容器〉か〜。早く自分の立ってる場所を見つけられれば、なんなく過ごせる学生時代かもしれませんね。
 

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第40回 インフルエンザ
 「寒気がするのでお医者さんに行ったら、インフルエンザだって。だから休みま〜す」「学級閉鎖になっちゃった〜、きょうの塾休むね」この1,2週間、こんな電話がかかってきて、ポツポツと空席ができます。1人復帰したと思ったら、べつの子が休むこともあります。8人しかいないクラスで2人も休むと、なんだかとても寒々とした感じになります。

 「○○が休みだと、勉強に集中できるよ」なんて、さわがしさのサンプルのような子が憎まれ口を叩きます。「よし、その言葉たしかに聞いたぞ」とわたし。「うちのクラスもあと2人休むと学級閉鎖なんだけれどな。だれか休まないかな〜」という声があがれば、すかさず「おまえが休めよ」と別のほうから声が飛びます。

 学校ではこの時期、欠席する子が多いために授業を先に進めにくいということもあってか、学校によっても先生によっても授業進度が大幅にちがってくることもあります。中2などは、これにスキー学校やら修学旅行などが重なるので、調整に四苦八苦しているのではないかと思います。なかには、「ひさしぶりに授業に出たけど、先に進んでいて、わかんなくなっちゃったよ〜」と言って、日曜日のきょう、勉強をしに塾に来た子もいました。

 今年のインフルエンザによる児童・生徒の欠席者数は、県内で2万人を超え、昨年の5倍近くになり、学級閉鎖は昨年の約7倍の約2200学級だそうです。A香港型ウィルスが多いそうで、わたしのところでも、「39度も出て救急車で運ばれた」とか「頭がガンガン痛い」という話を聞きます。2週間も休んだ高校生がいて、ずいぶん心配しました。例年2月上旬が流行のピークだそうで、まだまだ油断はできないものの、きのうのニュースでは流行のスピードが鈍りはじめたということで、ホッとしているところです。

 予防接種が有効かどうかは諸説あるようですが、全員が予防接種を済ませている中3生が1人もインフルエンザにかかっていないところをみると、流行型にジャストミートしたことに加えて、受験直前の緊張感がインフルエンザをはねつけているのかもしれません。

 もちろん、少しぐらい風邪気味でもインフルエンザの兆候があっても、症状が軽ければ子どもたちは塾に来ます。あっちで鼻をグシュグシュ、こっちでゴホンゴホンと、あちこちの学校から持ち込まれるウィルスがいっぱいです。ひょっとして塾なんかがインフルエンザ拡大の元凶になっている、なんて報道が出てきてしまうかなあ、などと、つまらない心配をします。

 ところで、このウィルスいっぱいの教室で、わたしとツレアイのふたりは、予防接種もしていないのに、ほとんど症状が出ません。少しアブナイかな、と思っても翌朝にはまったく正常です。

 子どもたちにも勧めているわたしたちのウィルス撃退法は、紅茶の出がらしをボトルに入れて洗面所に常備しておき、塾の授業の合間でも、終わったあとでも、できるだけ頻繁にのどの奥までうがいをすることです。紅茶は粘性が高く、粘膜についたウィルスを包んで出してしまうそうで、これはよく効きます。また、鼻がグスグスいいはじめたら、<鼻うがい>をします。<鼻うがい>は、その紅茶を鼻孔のとちゅうまで吸い込んで、片方ずつ鼻を押さえながら出します。あとは、徹底した<手洗い>を心がけ、睡眠をとり食事に気をつけていれば、わたしたちのようにウィルスにさらされている<高齢者?>でも、まず完璧な予防ができます。

 今回は、<教育>というテーマからちょっと離れてしまいましたが、このところの塾の教室で、もっとも気になる日常のひとつなのでとりあげてみました。みなさんもどうぞお気をつけください。


**2月10日(月)掲載**
(す〜爺)

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元気が出ます!2003/02/12 12:20:40  
                     す〜爺

 
お気楽オヤジさん、こんにちは。
 バタバタと忙しい日が続いて、また月曜日になってしまいました。せっかくイキのいい書き込みをいただいているのに、毎回気の抜けたビールか半乾きの刺身のようなレスになってしまってごめんなさい。
 前回の書き込みからずいぶん元気をいただきました。ありがとうございます。わたしのところは、まさに、ほとんどが口コミで訪ねてきます。そして、なんの変哲もないボロ家なので、初めてのひとは気がつかずに通り過ぎることが多いのです。
 お気楽オヤジさんがおっしゃっているとおり「ほんとうにいいものは宣伝しなくてもわかってもらえる」といきたいところですが、こちらの対象は<生身の人間>なので、やっぱり来てもらってほんとうにその子にとってプラスになっていくのかどうかの確信が持てないのです。イヤむしろ、そんな確信は持ちたくない、といったところがホンネかもしれません。それは、こちらが判断するより、来てくれる子たち、安くもない月謝を払って子どもを通わせている親御さんたちの判断だろう。という気持ちがあるのです。それと、今のところ、中学生・高校生は定員いっぱいだ、というところが広報の意欲が出ない真因かもしれません。
 数年前、われわれ夫婦の親が3人相次いで他界したときに、あまりの疲労のために小学生クラスを廃止したのがたたって、廃業の瀬戸際に追い込まれた時期がありました。そのときは必死になってチラシを作り、OBたちの協力も得て配布したのですが、結局は、以前から支持してくださっていた人たちの口コミの力に助けられました。でも、そのとき、そのチラシを読んで来た方の中にはとても気に入ってくださった方が何人かいて、その方たちの紹介で新しいおつきあいが始まったという経緯がありますので、すくなくとも、宣伝というよりは「こういうところもありますよ」という広報活動だけはしなければ、と自分に言い聞かせているところです。
 

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鼻うがい2003/02/12 15:54:29  
                     中2の親

 
お久しぶりです。 鼻うがい、効きますよね。そんなこと出来ないっていうひとが多いけどこれはホントに有効。ちなみに私は塩水でしてます。紅茶はふつうに飲んでます。昨日、腹が痛んだのは菌を飲んじゃってたからだな、きっと。  このところなんとなく晴れ晴れとした中学生を公園などで見かけますが、進学先が決まった子たちなんでしょうね。  
 

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Re: 鼻うがい2003/02/14 13:50:24  
                     す〜爺

 
「中2の親」さん、おひさしぶりです。
 鼻うがいはまったくダメという子や、コップの中で鼻をぐちゅぐちゅやるのだと思い込んで「きたな〜い」と言う子もいます。でも、紅茶の出がらしをつかってやらせてみると、まったく刺激がないので、そういう子たちでもやれるようです。また、花粉症の症状もラクになるようです。
 10日に公立高校の推薦入試の合格発表があって、受かった子たちは、もう「我が世の春」です。合格そのものよりも、もうどこも受験しなくてもいい、ということがうれしくてたまらないのだそうです。受験プレッシャーがどれだけ強いものか、あらためて実感させられます。
 

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Re: 第40回 インフルエンザ2003/02/14 21:42:09  
                     MOTER MAN

 
ほんとにインフルエンザは恐ろしいです。
死に至る病ですからね。皆さんも気をつけて!
私もかかりましたが、ほんと困る!四日休んだだけで、勉強が進みに進んで分けわかんなくなっちゃいました。
どうにかもどしましたが、トホホ
 

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第39回 耳に心地よいことば
 親しくしている八百屋さんがこんなことを言っていました。「突然、マイタケを買いに来るお客さんが増えたり、納豆が早々と売り切れてしまったり、ということが何度もあるの。不思議だなあ、と思っていたら、テレビの健康番組でとりあげられたらしいんですよ。」産地直接買い入れの有機野菜や、無添加食品を扱っている彼女は、憤懣やるかたないといった表情です。

 うわさには聞いていたものの、テレビというものをほとんど見ないわたしも少々興味を持って、昼過ぎにやっているその番組を見て驚きました。まるで薬の宣伝ででもあるかのように食品の効能を並べ立てています。これでは、わたしだって食べてみようかな、という気持ちになります。

 でも、どんなによい食品でも必要以上に食べ過ぎた分は排泄されてしまうし、さらにこわいことには、単品を多く摂取すると、さまざまなバランスが崩れて取り返しのつかないことになる、というのは医者から得た知識です。

 そして、こういう番組がなぜ人気があるかというと「・・・を食べると効果がある」「○○はからだにいい」というように、耳に心地よい肯定語が多いことです。健康に不安がある人たちにとっては、飛びつきたくなるような<情報>がいっぱいです。

 いったいこういう話が<教育>となんの関係があるの? という疑問が出てきそうです。

 今は塾の折り込みが多い時期です。いわく「成績向上保証」「確実に成績が上がる」「一流高校合格者多数」「群を抜く○○メソッドの効果」・・etc.35年も塾をやっているわたしでさえ、「なるほど、もしかしたら・・」と思ってしまうことがあるほどに、期待が膨らむようなメッセージが並びます。

 前々回のコラムで書いたように、こういうキャッチフレーズにとても弱いのが親というものです。もっとうまい勉強法があれば、もっと上手に教えてもらえれば、ウチの子はこんなものではないはずだ、と思っています。そういう親心に、こういうメッセージは実に心地よく響いてくるはずです。

 自分の塾を知ってもらうということはとても大切なことで、わたしもなにがしかの広報活動をしなければと思う時期でもあります。ところが、上に挙げたようなきらびやかなチラシを見ると、とたんにユーウツになってしまいます。

 長く塾をやってきて、子どもがどこにつまずいているかを見つけ、それをその子のわかり方の都合に合わせて理解できるようにすることには、いささかの自負があります。そして、その結果、すくなくともほとんどの子どもたちの<理解の度合い>は確実に進んでいるはずです。これは子どもたち自身がいちばん知っているはずなのです。

 しかし、<成績>ともなると、子ども一人ひとりのそのときどきの体調、気持ちの状態、テストの出題状況、などによって、大幅に上がる子、それほどでもない子、下がってしまう子、それこそ千差万別の結果が出てきます。そうなってくると、「わたしの塾に来れば、成績は上がります」とはどうしても書けないのです。ある塾OBからは「どの親だって心の底ではそんなことはわかっているんだ。でも、『成績が上がる』って言ってほしいんだと思う。」と、半ば叱るように指摘されます。

 わたしにできることは「子どもたちが勉強を通してその子なりに活性化すること、をお手伝いすること、そして、つきあっている子どもたちを心から大切に思うこと」だけです。こういう<ことば>は、必ずしも<耳に心地よいことば>とは言えません。もっとはっきりと、<効果>を示す必要があるのかもしれません。でも、わたしには、こういうメッセージだけでも精一杯の表現です。それでも、ありがたいことに、そんなわたしの塾でも信頼してくださる方がおおぜいいたおかげで、これだけ長くつづけて来られたのだなあ、とふりかえってみると、わたしの塾では<耳に心地よいことば>は必要ないかな、などと虫のいいことを考えてしまいます。

 「マイタウン浦和」に深くかかわっていながら、いまだに自分の塾を登録できないわたしの、<耳に心地よくない>いいわけでした。


**2月3日(月)掲載**
(す〜爺)

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自己レスです。2003/02/03 16:54:44  
                     す〜爺

 
お気楽オヤジさん、こんにちは。
 せっかく書き込んでくださったのに、このところ月曜日だけのチェックになりがちで、遅くなりました。前回分のレスとして書いてありますのでよろしくお読みください。

さくらさん、こんにちは。
 前回の書き込みについては、いずれこのコラムのテーマにしたい問題を含んでいましたので、レスをパスさせてもらいました。よろしくお願いします。書き込みによって新しいテーマが展開するのは、このような双方向コラムの最大の利点なので、みなさんもぜひいろいろとご意見をお寄せください。
 

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口コミ広告2003/02/04 13:09:00  
                     お気楽オヤジ

 
(前回のテーマに対しては、前回の方にレスしました)

す〜爺さんの塾は、結局のところ、口コミによって成り立っているんですね。
素晴らしいことだと思います。

私は技術文書作成会社(通称「マニュアル作成会社」)に勤務しているのですが、口コミだけで仕事が入ってきます。
他の会社は業界紙に「安い」、「速い」、「分かりやすい」、「丁寧」等を強調した広告を打っていますが、我社はそんなことをしたことは一度もないそうです。
もしも我社が正直に広告を作るなら、まず「分かりやすい」と「丁寧」の文字は入るでしょう。しかし、分かりやすく丁寧にマニュアルを作ると、絶対に「遅く」なり、そして時間がかかるので人件費もアップして「高額」になってしまいます。
「遅くて高いが品質は最高!」 
これが我社の広告になるのでしょうが、顧客吸引力は乏しいでしょうね。というわけで、我社は広告を出したことがないのです。
にも拘わらず、仕事は入ってきます。最近はこの業界もご多分に漏れず非常に厳しい情勢なのですが、我社は常に右肩上がりで、開業してから15年間1度も業績がダウンしたことがありません。
口コミで商売が成り立っているというのは、それは「非常に良い何かがある」という証だと思っています。

塾の広告の話しに戻りますが、ここ数年、過激な広告はやや減ってきているようです。ご存知とは思いますが、おそらく旧訪問販売法の11年改正において「塾」が誇大広告禁止義務、クーリングオフの対象業種として法令に明記されたためでしょう。
勿論、誇大広告にならなきゃ良いということで、未だにデタラメ(例えば、模試受験者に過ぎないのに受講者として人数にカウント)がまかり通っているようですが。

現在のところ私の子供たちに塾を勧めてはいませんが、親として塾の広告には興味を持って目を通しています。そして、色々な広告の中で「この塾、なんか良さそう」と思わせるフレーズがあります。
「近い」と「塾長が塾生一人一人を把握」の二つです。

昼休みが終わってしまうので、ここまでとします。理由はご想像にお任せします。
もし、す〜爺さんが広告を作るなら、この2つのキーワードをご参考にしてください。
 

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第38回 テストがないと勉強しない?
 昨年の5月、近づいてきた学年最初の中間テストに、のんきな子どもたちもさすがに少々アセリはじめていたころ、塾の教室で「ええっ、おまえのとこ、中間テストないの? いいな〜」という声があがりました。うらやましがられた当のD君は「でも、期末テストの範囲が広くなるからなあ」と、なかなか冷静です。それに、その後も学校の授業にもかなり腰を据えて取り組んでいるように思えました。

 これまでも、子どもたちは、ほぼ2ヶ月に1度の定期テストのたびに浮き足立っていました。だから、総合学習の導入などで実質授業時間が減った分の補充と、学習目標への到達度を測る絶対評価の導入などを考えて出てきた試みなのだろう、と納得していました。浦和ではいくつかの中学で実施されたようです。

 こうした中で、春日部の谷原中学では、今年度、中間・期末とも定期テストの廃止を実行していたようです。その代わりに科目ごとの小テスト、単元テストなどで学習の到達度をみて、さらにレポート提出や授業態度などを総合的にみて評価をつけてきたということです。新聞記事の校長談話によると、この取り組みによって、日常の授業を大切にするという意識が教職員にも生徒にも浸透してきていたらしいのです。わたしも、現在の学校制度の中で、ベストではないにしてもよりよい方向に向かうモデルのひとつではないかと思っていました。

 ところが、この谷原中学で、来年度からまた期末テストを復活することが決まった、という記事が出ました。

 期末テスト復活の原動力となった昨年末の保護者対象のアンケートと、それに先だって行われたという生徒へのアンケートの結果との相似と食い違いに、まさに親と子の<思い>が象徴的に表れているように感じました。

 保護者では「1学期1回程度の定期テスト」を望む人が56.1%だったのに対して、同じように、生徒の側も何らかの形で定期テストを望む子が52.4%いたのは高校受験への不安からなのでしょう。あるいは、このあたり、定期テストを望んでいる生徒のほとんどは、自分の親の意向に沿った回答をしていると思われます。反抗期の中学生でも、受験とか進学に関しては親の価値観を反映した考え方をするような気がします。

 ここでおもしろいのは「順位が出るテストで刺激されてがんばる子ども」「定期テストがないと勉強しない」という保護者側の指摘とは逆に、生徒たちは家庭での学習時間に関して「少し増えた」」「かなり増えた」を合わせて62.2%、「変わらない」が27.9%、そして「減った」というのが、なんとわずか9.7%だったといいます。

 もちろん、この記事からだけでは実態はわかりません。定期テストがなくても、小テスト、単元テスト、レポートなどで追いまくられていたのが実情かも知れません。でも、親や大人の側が「テストがないと勉強しない」と決めつけているのと裏腹に、少なくとも子どもたちの意識の中では、定期テストや順位が勉強をする動機にはなっていないようです。また、以前にも書いたように、テストや成績のことを離れると意外にキラキラした好奇心を発揮しはじめる子どももけっこういるのです。

 先生の立場からも「成績のためにテストをする」というより「自分の授業がどれだけ生徒に伝わったか」を検証するための小テスト・単元テストであるなら、それこそ<本来のテスト>としての意味を持つわけで、「日常の授業を大切にする姿勢ができてきた」という校長談話にもうなずけるものがあります。

 「テスト廃止」というのは、案外、現代の子どもたちの極端な<勉強嫌い>の歯止めと、先生たちのプロ意識の復活という一石二鳥になり得たかもしれない、と思うのは、わたしの独りよがりでしょうか。


**1月27日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第38回 テストがないと勉強しない?2003/01/27 22:15:58  
                     MOTER MAN

 
う〜ん中間・期末が無い・・・。私はむしろそっちの方がいいかな。
でも無いと勉強しない・・・、そんなことありません!ちゃんと真面目に授業受けてます!でも確かにクラスの半分以上は、人が変わったように勉強しますね。
でも私は、無い方がいいと思います。
小学校を思い出して。
 

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勉強するって?2003/01/30 15:50:25  
                     す〜爺

 
MOTER MANさん、こんにちは。
 すなおな感想を書いてくれてありがとうございます。「なんのために勉強するか?」ではなく「勉強するってどういうことだろう?」と考えたことがありますか? そのことを深く考えていくと、ひょっとすると<勉強>がとても味わい深くて、充実したものになるかもしれませんよ。

 

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Re: 第38回 テストがないと勉強しない?2003/01/31 8:30:34  
                     お気楽オヤジ

 
今朝はじめて、このコラムの存在を知りました。とてもおもしろいです。

私が中学生だった頃、もう30年前になりますが、父は、飲むたびに上機嫌で、「家でなんか、別に、勉強せんでもよいぞ」と言ってました。
当時、父は中学校の先生でしたので、私はなんてオヤジだ、と心の中で思っていました。
まあ、父がそんなもんですから、当然、私は自宅学習なんてものは宿題以外、中三の1学期まで殆どしませんでした。
そして、寝た寝た。中学1年、2年は10時間睡眠。3年生の2学期になって、さすがに受験の恐怖を感じて受験問題集をやったので、睡眠時間は8時間に減ってしまいましたが。
ただ、この十分な睡眠が良かったのでしょうか。学校の授業に集中していたんでしょうね。成績は上の部類で、高校も、先生に無理と言われた私立高に入ることができました(公立は落ちましたが)。
高校に入ってからは、自分に欲が出てきましたので、自宅でも勉強するようになりました。

結局のところ、私の場合、小・中時代での自宅学習時間はひどく短かったわけですが、幸い、その後の人生に悪影響を及ぼさなかったようです。
ですから単純に、勉強の「時間」について、あまり大人たちが過剰反応しないのが良いのでは、と思っております。

今、私には中学生の娘と息子の二人の子供がいます。
さすがに「勉強しなくていい」なんて大胆なことは言いませんが、子供たちが家でゴロゴロしてても「勉強しろ」とは言ったことはありません。
但し、私の父が「勉強せんでもよいぞ」と言った後、母がいつも付け足しに言っていた言葉。それを、よく言います。
「暇だったら本読め!マンガでもなんでもいいから、本読め!」
(だからマンガばっかり読んでます。私と同じ。歴史は繰り返す)
 

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勉強はきらいでした!2003/01/31 22:55:50  
                     さくら

 
お気楽オヤジさんこんにちは。すー爺さんこんにちは。
お気楽オヤジさんのコメントを見て、同じ世代なんだなぁと思い「そうそう!」と、いいたくてレスしました。やる気を出せば伸びていく人はいましたよね。
でも私は勉強嫌いでした。そして、その人たちのその行動に励まされて自分なりに頑張ったりするわけですが、上手くいかないのです。というか、要領が悪い。勉強が面白くなくて先生と仲間に会えるから塾に通う。(今思えば先生には申し訳ないぐらい勉強以外のことをしようと、塾でやる気などみせなかったですねぇ) だから、勉強をしないでうなぎのぼりに頑張った分だけ伸びる人がうらやましいと思いました。やらないくせにズルイいい訳だけど。
 我が子と一緒に積み木やパズルをしているときにこのごろよく思います。これって数学?結構面白いかも。今頃気づくの遅いけど…
 

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Re: 勉強はきらいでした!2003/02/04 13:06:11  
                     お気楽オヤジ

 
さくらさん、こんにちは。

>でも私は勉強嫌いでした。

私も学校の勉強は嫌いでした。特に社会科は大嫌いでした。暗記しないと点にならなかったからだと思います。
これも父が酔っぱらった時のことなんですが、私が歴史の年代の質問をしたら「昨日の昼飯に何を食べたか覚えていないのに、奈良時代が何年から何年なんて、そんな大昔のことなんか覚えてるわけないだろ」と答えたことがあって、私も、そりゃあそうだと妙に納得して、歴史の年代を覚えることをやめたのも一因です。
でも、今は歴史や地理は大好きなんです。まあ社会科というよりも、人が好きなんでしょうね。
社会科って「人がいつ、どこで、何をしたか」のお勉強だったのに、私の中学時代の社会科には「人」が存在していなかった。いても、ちらっとしか顔を見せず、興味が半減してしまっていたようです。

>そして、その人たちのその行動に励まされて自分なりに頑張ったりするわけですが、上手くいかないのです。要領が悪い。

確かに、私、要領はとても良い方だと思います。でも、要領が良いわりに、コツコツとやるということができないのです。
どちらが大切かというと、コツコツ型だと思いませんか?
私の人生、何度もコツコツ型の人に逆転負けを食らっていますが、コツコツやるのも持って生まれた才能のようで、しかたなく私は要領だけで生きてます。

>我が子と一緒に積み木やパズルをしているときにこのごろよく思います。これって数学?結構面白いかも。今頃気づくの遅いけど…

数学もパズルとして楽しむって方法があると思います。お子さんと一緒に。
私は今、ピアノを習いたいです(やっぱり「遅いかなあ」と思ってしまう)
 

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初めまして2003/02/02 19:45:36  
                     す〜爺

 
お気楽オヤジさん、こんにちは。
 とても率直で、さわやかなレスをありがとうございます。わたしも、成長期の子どもにとって、睡眠時間と食事は勉強そのものよりずっと大切だと思っています。食べることと寝ることは一生の問題、勉強することを要求される時期は人生の中でたかだか十数年です。
 食べることと寝ることがおろそかになっている子は、わたしが見てきた限りで言えば、多くの場合、勉強に向かう気持ちや好奇心も低下しています。お父様は、たぶんそういうことを、現場で肌で感じておられたのではないでしょうか。わたし自身の中学時代も、じつは夜9時過ぎまで部活をやり、帰れば勉強は宿題さえも放りっぱなしでしっかり睡眠時間をとり、その分授業はいっしょうけんめい聴いていた記憶があります。
 ところが、いまの時代、その2つを阻害するものがあまりにも多すぎます。ファーストフード、コンビニ弁当、テレビ、ゲーム、ケータイ・・手軽で便利、取りあえずおもしろい、そういうものに囲まれている現代の子どもたちはほんとうに大変です。
 これ以上は長くなるのでこの辺でやめておきます。
 これからも、率直なご意見をお聞かせください。レスが遅くなってごめんなさい。

 
 

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Re: 初めまして2003/02/04 12:59:34  
                     お気楽オヤジ

 
す〜爺さん、こんにちは。
昼休みです。どこまで、書けますか。

>わたしも、成長期の子どもにとって、睡眠時間と食事は勉強そのものよりずっと大切だと思っています。食べることと寝ることは一生の問題、勉強することを要求される時期は人生の中でたかだか十数年です。

なるほど。食事も確かに大事ですね。その点、我家は最高ですよ。きっちり、朝、昼、晩、食べてます。

>ファーストフード、コンビニ弁当、テレビ、ゲーム、ケータイ・・

うちの子の状況です。
@ファーストフード・コンビニ弁当・・・興味薄。
Aテレビ・・・興味有り。但し、ビデオを活用して見たいのだけ見ている。
Bゲーム・・・大いに興味有り。但し、部活のため、やる時間が殆どなくなった。
Cケータイ・・・買ってくれとうるさい。(買ってなんかやるもんか)

このご時世では、比較的、健全な方と思ってますが、パソコン=インターネットという強力なおもちゃが、我家に入り込んでます。こいつには、私も完全にはまっていますので、子供たちが使っていてもあまり文句が言えなく、困ってます。
 

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第37回 親子の情
 先日、ウチの塾の親の会で聞いた話です。「ウチの子のこういうところはどうしようもないなあ、困ったなあ」と思っていても、その同じところを、他人とくに学校の先生に指摘されるとムッとする、というのです。

 何年か前に、詩人の伊藤比呂美さんが、同じようなことを書いていたのを思い出しました。母親の強烈な個性を受け継いだかのような中学生の長女に手を焼いていて、こんなこと書いていったい親子の仲はだいじょうぶなのかな、とこちらが心配するほどに「ひねくれ者」「じゃじゃ馬」と、それこそ言いたい放題に新聞の連載コラムに鬱憤をぶちまけていました。ところが、ある日、学校の先生に「お宅のお子さんは、ほんとうに素直じゃないですね。」といわれた途端、頭にカーッと血がのぼって、気がついてみたら、ふだんはとても発見できない長女の「いいところ」をまくし立てていた、というのです。

 親という存在は、こと自分の子については、塾のわたしから指摘されても気分が悪くなることに変わりはありません。「きみは、問題に取り組むとき、ほとんど目と手しか使ってないなあ、目と手と頭を連動させていかないと、こういうミスはなくならないよ」と、子どもに言った場合、これが親の耳に入るとかなり大変です。「ウチの子は頭を使っていないんでしょうか?」となります。また、親との面談で「ちょっと雑学が足りないから、もう少し新聞や本を読む習慣をつけるといいんですけどね」と言ったとすると「家では、テレビのニュースなども見ていて、ああ見えてもかなり雑学があるんですよ。」と返ってきます。「○○君は、もうちょっと落ち着いてくれば、よくなりますよ」と言えば「塾ではそんなに落ち着きがないんですか?」と、トガめるような目になります。

 若い親だけではありません。40才にもなろうとする息子に、長年の貯えを崩してまで援助している70才過ぎの母親に、「もう、いい加減にして自分の老後資金を確保しておかないと」と言うと「あの子は、この間も手土産を買ってきてくれたりして、やさしいところがあるんだよ」と目を細めます。

 こちらからすれば「せっかく親切で言っているのに、勝手にしてよ」とでも言いたくなるところですが、実は、わたしは、こういう<親の習性>を、どちらかと言えば、好ましいものとしてみています。無条件に、あるいは反射的に<わが子をかばってしまう>のは、親として自然な本能です。昔、学校に<権威>があった時代には、先生からいろいろ言われて、ひたすら頭を下げて、家に帰ってから我が子を抱きしめて泣いた、という話を聞いたことがあります。そういう親の思いが解き放されたのが現代だとすれば、学校の先生たちにとっては<やりにく〜い時代>ではあっても、望ましい傾向なのかもしれません。外側からの<わが子への攻撃>に対する最後の砦は親しかいないからです。

 むしろ、学校が、親を動かすことによって生徒を変えよう、とするところに問題を複雑にする原因があるような気がします。体罰は絶対に容認できることではないにしても、一発バシッと殴って終わり、親を呼び出すこともなく、その場で一件落着、といった時代のほうが、生徒と先生の信頼関係があったような気がするのは、昔のことがよく思えてしまう老年の悪いくせでしょうか。

 先ほどあげたいくつかの例でも、本人は、こちらの指摘をかなり正確に、しかもすなおに受け入れている場合がほとんどなのです。すこしふくれたり、反発したりしても、時間をかけて作ってきた信頼関係は案外強いものです。だから、子どもが塾に入って日が浅く信頼関係ができていないうちは、わたしも無意識に<否定語>を避けているような気がします。

 そういうこともあって、わたしは、子どもにまつわる様々な問題を、極力子ども本人との間で解決しようと努力しています。

 また、こちらからみれば、子どもに対してどう見ても理不尽な要求をしている親がいるとします。そのことを切々と訴える子どもに「それは、確かにお母さんがわかってないかもしれないよなあ」と言えば、我が意を得たり、というような顔はするものの、じつは、ひそかに親の期待に応えようとして苦しんでいる場合が多いのです。

 わたしがつきあったことのある<家庭内暴力の子>の場合でも、親からの期待に沿えない自分自身に苛立っているのだなあ、と感じたことがありました。

 げに、<親子の情>は、あたたかくも度し難く、理屈では割り切れないものですね。


**1月20日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第37回 親子の情2003/01/24 21:20:04  
                     MOTER MAN

 
この間の三者面談でこのような発言の雨嵐でした。
親とはそんなもんなのかな?友人の中には、泣き泣き教室から出てきた輩もいます
 

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かーやんさんへ。2003/01/22 16:39:49  
                     す〜爺

 
 時機を失して気の抜けたようなレスですが、前回のかーやんさんの書き込みのあとに入れておきました。よろしくお願いします。
 

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Re: かーやんさんへ。2003/01/25 1:49:34  
                     かーやん

 
返信レス、ありがとうございます。
今日読ませていただきました。

確かにマスメディアのモラル自体、???と思うことが私もよくあります。
まあ普段の人間関係でも、実態より噂話が先行してしまい、誤解が生じたり、問題が
ややこしくなったりするのはよくあることですが。
一番大事なのは、自分の考えや判断をきちんと持っている、ということでしょうか。
でも実はこの点、私自身も、特に子育てに関してはまだまだ迷い人です。
自分とはまったく違う人間を一人前に育て上げる、というのは本当に大変な事ですね。


 

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Re: 第37回 親子の情2003/01/25 22:19:55  
                     さくら

 
親の性格がはっきり理解できる年になり、きっと友達にはいないタイプだろうと思いつつも嫌なところもかわす術を身につけ、自分はわが子に同じ思いはさせないぞと決意をしながらも時々遺伝か環境のせいか似ている欠点と面と向かうとドキッとします。
 面倒なことも多いのだけど大切なもので、親に対して小さいころからいい子になる習性がぬけません。きっと生まれてすぐの無防備で一人では生きて行けなかったころ無条件の愛情をそそいでくれたから?かなぁ… 
 

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無条件の愛情2004/05/15 13:35:02  
                     す〜爺

 
さくらさん、こんばんは。
 無条件の愛情を注いでもらったから親に対していい子になっちゃうんだな、という感想は、なんともあったかい照れと困惑がないまざったような、不思議にやさしい響きを感じます。
 いい子になりたいけれどなれなくて苦しんでいる子や、まるで親のコピーのようになって大人になっても親離れできない子を見てきたわたしですが、さくらさんの感想を読むと、ご両親のお人柄とさくらさんの素直さとが伝わってきて、いいなあ、と思いました。さくらさんもたぶんお子さんに無条件の愛情を注いでいるのでしょうね。
 

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Re: 無条件の愛情2003/01/26 21:40:49  
                     さくら

 
いつもやさしいコメントをありがとうございます。妙に照れてしまいますがうれしく思います。
 わが子の子育ては悩みも多いものの、楽しんでいるほうだと思います。
でも、すばらしい子育てをしているわけでは決してないのです。
こどもは、小2と4才児の二人なのですが、仕事をフルにしながら(シフト体制もある)は結構大変で、毎日がはちゃめちゃです。
正直いって食事もおろそかだし、洗濯だってたまるし、仕事をうちに持って変える日々だし...。人が生きていくってこういうことじゃない!などと思いながら勇気と考える力が足りないために日々に流されているのが現状です。               ゆえにこどもたちに何かしてあげていることはこれといって見当たらないのですがいつも思うのは、この子達はわが子でありながら一人の別の人間だから考えていることも違うし、性格も違うから何をしでかすかわからずおもしろいなぁと。なんて、余裕あるように聞こえるかもしれませんが、今はまだまだ小さいから悩みも小さいのでしょうね。
 

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第36回 人に成る!?
 正月と盆の16日前後に、奉公に出た息子が故郷に帰るのが「藪入り」でした。落語にもあるように、ひさしぶりに見る息子がすっかり大人になって、父ちゃん母ちゃんに土産のひとつも持って帰ってこようものなら、親としてはもうまぶしくて、まともに息子の顔も見られない思いだったのでしょう。その前日の15日が小正月で、江戸のあちこちの空に乱舞するとんびや奴の凧は、家路を急ぐ若者たちのそぞろな気持ちをあらわす光景だったにちがいありません。

 そういう歴史的背景があって制定された1月15日の「成人の日」だったはずですが、不況対策のレイオフなのか、休日を増やすために3年前から1月の第2月曜日が成人の日になりました。今年は、このコラムがUPされる予定の13日にあたりますが、わたしには、まだどうもまだしっくりしません。

 塾に行けば必ずだれかがいる、ということで、毎年の「成人の日」には、新成人たちが晴れ着姿で立ち寄ります。なかには、親といっしょに車で乗りつけ、庭でわたしとのツーショット写真を何枚か撮って、そそくさと帰っていく女の子がいました。親の話では、この子が育ってくるまでに<世話になった場所>を、晴れ着で一回りするのだそうです。

 でも、大部分の新成人たちは、塾での<同窓会>を当てにして集まってきます。みんなで時間を示し合わせて来て、酒盛りをはじめるグループもありました。いっぱし大人ぶってビールなんかを飲んでいる彼らの顔を見ながら、中学生だったころのあれやこれやの記憶をたぐりながらも、わたしにとっては、とても<おとな>になっている、とは思えない彼らです。そういうなかでも、子どもたち同士のつきあった期間が短かったり、おたがいに親しくなれなかった学年の子たちは、バラバラにやってきて、仕事のこと、学校のことなどを、ひとしきり話して帰っていきます。

 「成人式」が荒れたり、あたりかまわずの私語やケータイの着メロで<来賓>の話ができない、という毎年定番のニュースが今年も流れることでしょうが、これを「学校教育」に原因を求めようとするマスコミの風潮も、困ったものです。彼ら新成人にとっては、つけっぱなしのテレビの前でひさしぶりの友だちと<同窓会>をやっている感覚なのだと思います。その<テレビ>の音量を大きくして、彼らに聞かせようとしたところで、自分たちのほうの声を大きくするか、「うるせー」と言って切ってしまうだけなのでしょう。だから、こうした現象を、学校や家庭も含めた<教育>のせいにして嘆いてみせるマスコミを見ると「一番の原因はテレビをはじめとするマスメディアだろう」と憎まれ口のひとつも叩きたくなるのです。

 行政が「成人式」を続けてきたのは<大人としての市民>を自覚させようという<教育的配慮>からのことだと思いますが、権威の失墜と情報の洪水の中で育った彼らにとっては、ほとんどその意味を為さなくなってきています。だとすれば、人気アイドルを呼んだりTDLに招待したりまでして「成人式」にこだわるのではなく、生涯たった1回だけ<公費同窓会>をセットしてあげるだけで充分なのではないかと思うのです。

 「大人になる、とはどういうことなのか」とは、古来むずかしいテーマのひとつですが、このところ、生活年齢×0.7=精神年齢? という説をときどき実感しているわたしでも、晴れ着を着てちょっとはにかんでいるあどけない彼ら彼女らの表情の中に、ふと「もう、子どものままではいられない」という<あきらめ>のようなものを感じてしまうことがあります。<大人になる>ことが<希望への旅立ち>である時代をまた取り戻さなくてはならない、と思う瞬間でもあります。


**1月14日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

 
成人式は必要?2003/01/14 12:33:55  
                     かーやん

 
つけっぱなしのテレビと、式典でのお話の違いをわきまえないのは「成人」とは言えませんなあ。(これは、大人でも例えば、学校の授業参観中の親同士の私語と同じですが)
これでは、大人の方から若者の気をひこうとあの手この手(人気アイドル、TDL)をやっても所詮、無駄ではないですかね〜。
知り合いの方は、式典に出席できず振袖も着なかったかわり、家に親戚一同を呼んで会食をしたそうです。その場で父親に「今日来ていただいた皆さんにあいさつをしなさい」と言われ、お礼と20歳になった感想・これからの豊富などを話したそうです。
私はこの話を聞いたとき、なんとも暖かい、すばらしいご家庭だなあと思いました。
やはり、マスメディアよりも家庭の方に責任が大きいのではと思います。

ちなみに『公費同窓会制度』にしてしまうと、私のように高校を卒業後その地を離れてしまった者は、同窓会には出席できず、かといって住所地の見知らぬ学校の同窓会に出るわけにもいかず、行く場所がなくなってしまいます。(出席する・しないに関係なく、ちょっとさみしいかも・・・)
 

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Re: 成人式は必要?2003/01/22 16:35:17  
                     す〜爺

 
かーやんさん、こんにちは。
 かーやんさんのお知り合いの話、すばらしいですね。わたしの友人の息子や塾のOBにも、成人の日を定めて家から独立して生活をはじめた子、お世話になった人たちを呼んで、バイトで稼いだお金で小さなパーティーを開いた子などもいました。
 でも、多くの人はそうではありません。大学でも講義中の私語は当たり前になっているようですし、かーやんさんがおっしゃるように、授業参観中の親の私語に閉口しているという教師の話はよく耳にします。まさに、それぞれの家庭の問題なのですが、こういう人たちに向かって「家庭の問題だろう」と言ったところで、たぶんなんの解決にもなりません。上記の子たちもひょっとして講義中に私語をしていたかもしれません。
 わたしがマスメディアを目の敵のようにしていることについては、研究会仲間からも批判が集中していますが、すくなくとも<なんでもあり>の演出と情報を垂れ流しにしておいて「学校が・・」「家庭が・・・」と言える立場ではないと思います。もちろんマスメディアがどうであれ、自分の家庭の文化をしっかり持っている人もたくさんいて、そういう人たちは矜持もTPOも知っているはずだと思うのです。
 「公費同窓会」の提案ですが、少し配慮が足りなかったようですね。子どもたちは、部活や塾を通して、他の学校の生徒とも親しい場合が多くあります。そういう意味で、すでにいくつかの自治体で試みられているようですが、学校単位ではなく、市主催のいまの成人式の演出・進行をすべて新成人に任せてみたら、という提案だったのです。因みに、こんなことを言っているわたし自身は、出席しなくともよいセレモニーにはいままで出たことがありません。大学の入学式・卒業式も欠席して親を怒らせたことを思い出しました。やはり、言える立場ではないかもしれませんね。レスが遅くなってほんとうに失礼しました。
 

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Re: 第36回 人に成る!?2003/01/15 19:33:57  
                     MOTER MAN

 
そういわれれば少なかったですねえ、そういう話題今年は。
キレる世代と騒がれたにもかかわらず、日本刀を振り回した輩は一人もいませんでしたね。
 

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