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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第15回 子どもたちの周辺 その3 TVゲーム補遺
 20年ほど前ファミコンが発売され、つづいてドラクエシリーズがつぎつぎと発表されて子どもたち(特に男の子たち)の話題のほとんどがゲームの話で占められていたころのことです。ーどういうわけか、その当時、ゲームの話をする子どもたちの表情は、今よりもずっとキラキラと輝いていたような気がしますー

 それでも、わたしは「まったく、大人が作ったゲームで遊ばせてもらっているなんて、君らも情けないよな」などと子どもたちに毒づいて(?)いたものです。そういうわたしに、必死になってゲームのおもしろさを説明していたJ君が、とうとう業を煮やしてわたしのところにゲーム機とソフトを持ち込んできました。「まず、やってみてから文句を言ってくれ」というわけです。もっともな言い分なので、ある日曜日の昼下がり、彼の“指導”で「ドラゴンクエスト」を始めました。

 わたしがゲームをやるというので、興味を持った何人かの子どもたちも押し掛けてきて「あ、そこに行くのまだ早いよ」「薬草をもっと買っていかないとだめだよ」「うるさいな、黙ってみていろよ」と騒々しいことこの上ありません。

 ところが、ゲームが進むにつれそういう子どもたちの声も耳に入らなくなって、ふと気がついたら、子どもたちが不思議そうな顔をしてわたしを見ているのです。「どうしたの?」と聞いてみると、J君が「ゲームってそんなにマジに楽しめるものだって知らなかったよ。だって、さっきから見ていたら、洞窟に入る前に何度も装備を確かめたりしてすごく緊張していたし、モンスターが出てきたら、すごい顔して戦っていたよ」というのです。わたしは耳まで赤面することになりました。

 そう言われて思い当たったことは、子どものころ、縦横につながった防空壕の中をろうそくを掲げて探検したときの胸の高鳴り、まだ明けやらぬ暗い林の中に落ち葉を踏みながらカブトムシを取りに行ったときの薄気味悪い感触、廃業した工場の中に侵入したときの恐怖などが、ゲームの中の洞窟や廃墟の中によみがえってきていたのです。そして、それから数ヶ月の間、恥ずかしながら、ゲームの世界に浸ることになりました。その後ゲームがすこしずつリアルになるとともに、ストーリーも稚拙になってきて、わたしはゲームから離れました。

 その時期、たしかにわたしは心の底からゲームを楽しんだようです。それは、かつて実際に経験したことの擬似的な追体験として、自分なりのイメージをふくらませながらゲームに取り組んだからなのでしょう。しかし、子どもたちがゲームをやっている横顔を見ていると、まるで淡々と作業をこなしていくような表情をしています。そして、思いっきりゲームをやった子は<ゲーム顔>と言われる独特の生気のない無表情になるのですぐわかります。実体験どころか疑似体験すらしていない、クリアすることだけが目的の<作業>に見えるのです。だからこそ、ゲームのおもしろさを半減させるとしか思えないような攻略本が売れるのでしょう。

 聞くところによると、最近のゲームは、ますますリアルに、そして複雑になっているようです。その割にはゲームを話題にする子どもたちの表情はさえません。

 ただ、以前に比べると、虫に親しんだり、ものづくりに凝ったり、自転車の遠乗りに出かけたりと、すこしずつフィールドを広げている子どもたちが目につくようになりました。<遊びの喪失>が究極まで達して<遊びの復権>が始まっているのかもしれません。


**7月8日(月)掲載**
(す〜爺)

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自己レスです。2002/07/08 10:50:34  
                     す〜爺

 
教師23号さん、瓢箪徳利さん、大関さん、みなさん、こんにちは。
 せっかくレスをいただいていたのに、そのままになっていて大変申し訳ないことです。この2週間、多忙の上疲れも激しく、送稿するのがやっとという状態だったので、失礼をしました。それぞれの方へのレスは各回の最後にいただいたレスのあとに書いてありますので、ご覧ください。
 わたしの文は、浅学非才故か、生来の引っ込み思案で持って回ったような表現になりやすい所為か、細心の注意を払っているつもりでも、真意が伝わりにくいようです。どうかこれからも、どんどんご指摘ください。なお、今後のレスはできるだけ新しいコラムの下にいただけると読みやすくなると思いますので、よろしくお願いします。
 

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Re: とは言うももの…2002/07/10 12:05:40  
                     瓢箪徳利

 
 忙しい中、返事を頂きありがとうございました。
 前回と今回のTVゲームのお話、面白く読ませていただきました。確かにある意味ではその通りだと思います。す〜爺さんも内心では感じていられるとは思われますが、この状況を引き戻すことはとても困難なように思うのです。
 というのは、息子が小学生の頃、我が家にはTVゲームがありませんでした。それはす〜爺さんのあげられた理由から(妻と僕との合意の上で)、意図的に購入しなかったわけです。ところが、息子の様子が何だか変なのです。つまり、友達を我が家に連れてくることが少なくなり、そのうちまったく友達の出入りがなくなってしまったのです。ゲームのない家はつまらないと言うのが恐らく子ども達の気持ちなのでしょう。それに、息子は「でも友達の家に行っても僕は面白くないよ」と言っていました。何故でしょう。彼の言うのには「だって順番でやっても、僕がゲームやればすぐ終わってしまい、A君はうまいからずーっとやってるんだもの。その間僕は見ているだけなんだ」と。親としてちょっと頭を抱えてしまいました。結局我が家にもTVゲームが…。
 こうして、一家族が単独で、子どものためを思い行動しても流れには逆らえない悲哀を感じることになります。大人が自転車の遠乗りを良しとしたり、虫取りは面白いと思ったって、それは現代の子ども達の多くには通じないような気がします。
 さて、我が家にもTVゲームが入りそれ以後ゲームをずいぶんやっていた息子は、今、大学生です。でも現在ゲーム漬けかというと、そんなことはありません。あまり勉強はしないとは言え、アルバイトやサークルの合間にちょこっと思い出したようにするだけです。今となってはたいした問題ではなかったのでは?と思うのです。
 それに、す〜爺さんや大関さんも言うように、どんなに良かれと思って大人の好みの遊びを子どもに与えても、それは子どもにとっての遊びではありません。しかも、もしかしたら今の子どもが大人になり、自分の息子や娘にTVゲームの攻略法を伝授するのが新しい文化伝達の仕方なのかもしれないと思うのですが…。如何でしょう。
【追伸】
 ここまで書いてきて、はたと気が付きました。す〜爺さんのコラムは、「子ども達の周辺」でしたね。と言うことは、「今の子ども達の現状を把握すること」が目的だったわけで…。とすれば僕の書き込みは、それにそぐわないような気がしてきました。子ども達の現状は、す〜爺さんの言われる通りでしょう。せっかく書いたので送りますが、無視して頂いて結構です。
 

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第14回 子どもたちの周辺 その2 TVゲーム
 テストに追われ、部活に追われ、塾にも追われ、<忙しくて息吐く暇もない>子どもたちが、テストもないし、部活も休み、塾もない事態になると「ヒマだあ〜、たいくつだあ」と言い出すことがあります。あまり強くない部活の夏の大会が早々と終わってしまったころに、ときどき聞かれるぼやきです。

 そういう子のひとりK君に「あんなに遊びたいって言ってたんだから、思いっきり遊べばいいじゃないか」というと、「持っているゲーム全部クリアしちゃったし、遊びに行く金ないしなあ」とホントにつまらなそうな顔をします。「あれっ?あんなに忙しいって言ってたのに、いつクリアしたの?」と聞くと、ふだんから的確な分析をして感心させてくれるK君が説明してくれたことをつなぐと、次のようになります。

 「ゲームって、どういうわけか疲れているときにやりたくなるんだよ。テスト前とか、宿題が終わらなくてイライラしているときだとか、そういうときほどハマッちゃうんだよな。たまにおもしろいゲームだな、と思うものもあるけれど、だいたいもうパターンが決まっちゃっているからね。ハマルからっておもしろいわけじゃないよ。ヤバイなって思いながら、何となくやっていることが多いんだよ」

 格闘ゲームやレースゲームにはまる子よりも、どちらかというと、こだわり型の好奇心の強い子ほど、RPG(自分がヒーローになって冒険をするゲーム)の害が大きいようです。

 ゲームは大人が作ったものであって、作った人の発想から逃れられない、という点で、わたしには、TVゲームはどうしても<遊び>だとは思えません。

 遊びは、特に何かの利益や効果を考えてするものではなく、とにかく楽しい、ワクワクする、だから表情も生き生きしてくる、新しいアイディアもどんどんうかんでくる、そんなもののはずです。その意味でも、TVゲームは子どもにとっての<遊び>というより<時間つぶし>になっているように思うのです。

 古謡に「遊びをせんとや生まれけむ」(梁塵秘抄)と歌われ、「人間は遊ぶことのできる種(ホモ・ルーデンス)」(ホイジンガ)と定義されてきたほどに、遊びは、人間の成長にとって何よりも大切なことだと考えられてきました。ゲーム疲れで表情をなくしている子どもをみるたびに、<遊びの復権>の必要性を感じるのです。

 大関直隆さんのコラムに「ソニーや任天堂やセガをつぶせるわけないんだから・・」とありましたが、たしかにその通りである以上、TVゲームに代わるおもしろいものを見つけていってほしいと、外に誘い出したり、このところ流行り始めた囲碁を教えてみたりするのですが、これも<大人からの仕掛け>ですね。

 最近では、女の子たちを中心に、<ケータイメール疲れ?>も目につくようになりました。


**7月1日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第14回 子どもたちの周辺 その2 TVゲーム2002/07/02 7:14:11  
                     大関直隆

 
引用してくださってありがとうございました。
私も「遊び」はとても重要だと考えています。けれども「遊び」が「大人からの仕掛け」になっているとすれば、それは私の考えている「遊び」とは質が違います。子どもたちは「やらされること」には慣れているけれども、「自分たちで考えて行動する」ことには慣れていません。
大人の役割は子どもに遊びを提供することではなくて、子どもたちが遊びを考え出せる空間(場所、時間、心 etc.)を提供することだと考えているのですが・・・。
最近子育ての中でもっとも心配しているのは、ボランティアという考え方が増えてきていることです。一見とても良さそうに映るのですが、子どもを持った親の立場から言わせてもらうと、どんなものにしろボランティアをやっている「大人の遊び」にしか映りません。「大人が与える」という発想をやめて、「子どもが獲得する」という発想で考えていったらいいのではないでしょうか。
 

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ありがとうございます2002/07/08 6:16:32  
                     す〜爺

 
大関さん、レスをありがとうございます。
 おっしゃるとおり、<大人からの仕掛け>によるものは、とうてい「遊び」とは言えませんね。「大人からの仕掛け」や「大人から与える」ことを肯定的に書いているようにお受け取りになったとすれば、わたしの文章力の貧しさが原因で、申し訳ないことです。<ボランティアとして子どもに遊びを提供する>ことに問題があるということも同感です。
 そして、おっしゃるように<子どもたちが遊びを考え出せる空間を提供する>ことが大切、というのもうなずけます。
 大関さんのレスから、2つのことを考えました。1つは、遊びは考え出すものであると同時に、伝わっていくものであるということです。地域社会がまだ健全に機能していたころ、近所のお兄さんやおじさんにいろんな遊びを教わりました。彼らはボランティアとしていいことをしている、などという意識はサラサラなく、得意満面にメンコやベーゴマの勝ち方や虫の取り方・けんかの仕方まで教えてくれたものです。それらの遊びは自分たちの工夫を加えてさらに下の子どもたちに伝えられました。
 2つめは、<子どもたちが遊びを考え出せる空間を提供する>ことも、やはり<大人の役割>として為されるとすれば、問題があるかもしれません。広い野原に子どもたちを連れて行って「さあ、自由に遊びなさ〜い」と言ったら、みんな小さく固まってとまどっていた。というエピソードを聞いたことがあります。まさに、おっしゃるように、子どもたちは「自分たちで考えて行動する」ことには慣れていないのです。
 大人にとっても、子どもにとっても、地域社会が再び柔らかく機能し始めることこそが、大関さんのおっしゃる<空間>につながるのかもしれないと思ったことです。そして、<マイタウン浦和>のさまざまな試みが、新しい時代の地域社会のモデルを創り出すのではないかと密かに期待しているのです。
 長年、子どもたちと正面から向かい合い、寄り添ってきたつもりですが、思い惑うことがたくさんあります。これからもご教示をお願いします。ありがとうございました。 
 

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第13回 子どもたちの周辺 その1 部活
 ある中学教師から、こんなことを聞いたことがあります。いわく「子どもに自由な時間を与えたらロクなことをしない。だから、休日練習も朝練も必要なんだ。体もくたくたになれば、悪いことをするエネルギーは出てこないだろう」。また別の教師は「家庭サービスさえも犠牲にして休日返上で部活の指導に取り組む教員に対して、『頭が下がります』という親がいるけれど、なあに、あれは、ふだんの授業では言うことを聞かない生徒たちが、部活ともなれば自分を頂点にした上級生からの命令系統の下にテキパキと動くからです。あんなに気持ちのいいことはないですよ。手弁当でも休日返上でもやりたくなるわけです。」と解説してくれます。

 一方、早くからやりたいものが決まっている子どもは別として、多くの子どもたちにとって中学入学後の最初の迷いは「どの部活に入るか」です。「オレ帰宅部がいいなあ」なんて言おうものなら「どこにも入らないと、内申書が悪くなってあとで困るよ」と言われ、仮入部期間中、先輩や友だちからの誘いにさんざん迷ったあげく、すこしはラクそうで、そこそこに楽しそうな部活に入ります。ところが、4月もすぎて本入部ともなれば、今までやさしかったはずの先輩たちもちょっぴり怖くなり、朝練、日曜練習と厳しさが増すにつれ、1年生の体力は限界に達し、授業中に居眠りをしたり、食欲をなくす子も出てきます。それとともに、先輩たちの試合の応援にでかけ、ルールやテクニックを覚えてくるとすこし部活が好きになり、でも、テスト前1週間の部活休みになると「やったー!」と複雑な喜びを表すのが、部活に対する平均的な子どもたちの反応でしょう。

 部活は、多くの人にとって中学時代のもっとも鮮烈な思い出の一つになるようです。その意味では、大会などの実績を競うだけでなく、肉体的にも精神的にも最大の成長期にある中学生たちにとっては、あるいは日常の授業以上に影響が残るものかもしれないと考えています。

 部活については、まだまだいろいろなエピソードや思いがあるのですが、ここは、ぜひみなさんのご意見を伺いながら、議論を盛り上げていきたいと思います。


**6月24日(月)掲載**
(す〜爺)

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部活って何だろう?2002/06/30 15:12:53  
                     瓢箪徳利

 
 僕は常々、部活って何だろう? そんなに大切なものなのかな? なんて思っています。部活の時間は時として塾の時間と重なりますよね。生徒が「塾の時間だから帰りたい」と言うと顧問の教師から「塾と学校とどっちが大事だ」と叱られたなんて話はしょっちゅうあります。
 部活が強制になり始めたのは東京オリンピック(古〜い!)からだといわれています。結局強いスポーツ選手を作るためなんでしょうか? それから、す〜爺さんも書かれていたように、1980年代(?)頃から生徒の非行防止のため、も加わって、ますます強制度が強まっていって今日にいたっているみたいですね。
 さて、これは教師23号さんが言われる「学校の役割なのかどうか」の問題になります。僕個人は、そんなの学校の役割ではないのでは?と思うのですが…。そして僕は、学校がしなければならないことは、(あまりにも単純すぎると思われるかもしれませんが)「基本的な学習を子ども達に身に付けてもらうこと」が一番で、それ以外はすべて副次的なもののような気がするのです。それに、部活で世界的なスポーツ選手が生まれるとも思えないし、非行の防止になっているとも信じがたいし。だから部活は所属しようとしまいと自由で良いように思います。確かに今年から形式的には自由になりました。今後、この部活自由参加が進むかどうかはわかりませんが…。
 しかし、システムとは恐ろしいもので、僕がどう思おうと、できてしまうとそれ自身が動き始めてしまう(でも、決して変更できないものではありません)ので、教師は「内申書に影響するぞ」と脅し、「親は内申書に影響したら困る」と思い、生徒は「少しでも有利にしたい」と考え始めたりするのです。こんなことを書くと教師23号さんに叱られるかもしれませんが、教師の中には、無給に近いのに部活命(ここに教師生命をかけている)が現れたりしています。外部から見ればなんとも不思議なのですが…。そして、それがその教師個人の楽しみですんでいれば問題はないのですが、そういう教師を教育熱心な教師として親も管理職も評価し、他の教師にもそのラインで横並びにさせようとしているように見えるのです。もしそう(このような横並び)なら、やっぱりすー爺さんの言うように「自分にはできない」といわなければますます普通の教師にできない(苦しい)ことを要求されることになるのでは?と思うのです。
 何だか長くなってしまいました。というより、前号のす〜爺さんと教師23号さんのやり取りを何回も読んだせいで、混ざってしまったようです。お許しを!! でも、部活を介してお二人の問題に関われた気がします。
 

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Re: 部活って何だろう?2002/07/08 6:47:44  
                     す〜爺

 
瓢箪徳利さん、レスが遅くなりました。
 子どもたちの話を聞くかぎりでは、部活の自由化は簡単に進みそうもありませんね。甲子園出場校の監督から「子どもたちがわたしを甲子園に連れてきてくれました。すばらしい子どもたちです」というコメントを聞くことがありますね。あの発想は中学の部活の顧問にもよく見られます。
 わたしが子どものころは、明るいうちはサッカー部、暗くなってきたら柔道部、夕飯を食べてからは新聞部、家に帰るのは9時過ぎ、などという、今では信じられないことがまかり通っていました。その意味では今よりもきつかったはずですが、楽しい思い出しかありません。
 愚弟は某スポーツ協会の役員をしていますが「中学ではまず基礎体力をつけながら、ともかく楽しむことを教えてほしい。中学生は体を作る意味では一番大切な時期なのに、せっかくの逸材が高校入学と同時にやめちゃうことが多いのは、目先の勝ちだけをめざして無理な練習をさせるからだ。合理的で楽しい練習をすれば、子どもたちはほっておいても勝っていこうとするよ」と言います。
 そういう過酷な練習にも耐えて、オリンピックの代表選手にまでなっても、中学時代の無理な練習のために、ずっと腰や膝の故障に悩まされ、引退してからも後遺症を抱えている人もいます。
 

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第12回 一人ひとりの子どもを見る視点
 子どもたちの周辺の問題を取り上げる前に、ぜひ触れておきたいことがあります。
 <ゆとり教育>への批判の中に「教育はそのときどきの子どもたちのためにあるという、戦後民主主義のイデオロギーが作ってきた根本的な思い違い、をベースにしている」というものがあります。

 たしかにある時期「子どもは純真無垢の存在で、どの子も無限の可能性を持っている。学校の主人公は子どもであって、多くの教育問題の原因は、子どもたちをそのように追い込んでしまった学校と教師にある」という論調がマスコミを中心にもてはやされたことがあります。そして、むしろこういう論調こそが、教師ばかりでなく、子どもたちまでも苦しめ、文部(科学)省を右往左往させて学校現場を混乱させる一因になってきたのではないか、と考える点ではわたしも同意見です。

 しかし、この批判の骨子は、「教育は、どんな文化・社会にあっても、それを今受けている子どものためにあるのではなく、わたしたちの共同社会の秩序と繁栄を未来においても維持するためにある」というところにあります。ただし、これはあくまでも<社会システムとしての教育>についての話であって、生身の子どもを見る視点とは、はっきり区別しなければなりません。

 一人ひとりの子どもを見る視点では<学校教育>という場面だけでなく、消費・情報・対人関係など、子どもたちを取り巻くさまざまな環境の変化を視野に入れる必要があると思います。親として、教育関係者として、社会人・市民として、それぞれの立場のみなさんの見聞やご意見をたくさん書き込んでいただけることを望んでいます。


**6月17日(月)掲載**
(す〜爺)

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ごった煮では、味も何も分からない。2002/06/18 22:03:46  
                     教師23号

 
 視点を変えると、色々なものが違って見えてくるというのは、その通りだと思います。
 学校教育も、イコール教育ではなく、本当はその一部であり、教育を考える場合の視点の一つの筈だと思います。ところが今は、視点の一つの筈の学校教育が、あたかも教育の全視点を負っている筈のような論調や巷の声が多いように思います。
 この見方は、読んでいるとす〜爺さんと同じような気がするのですがいかがでしょう。

 現場に即して、少々前回の続きを書きながら、話を絡められればと思います。
 教科書以外に副読本というのがあります。道徳や体育の本は教科書ではなく、副読本と言います。その副読本に、環境副読本・福祉副読本というのがあります。多分各市町村で教師が出張を重ねながら何年か前に作ったモノです。大体が積まれっぱなしだったと思います。
 子どもたちに環境の大事さを学校で教えるべきだ。お年寄りを大事にすること−福祉をもっと教えるべきだ云々のその時々の声を反映して、文部省の指示等を受けて作成しました。でも実際には教える時間がなかったのです。エイズが問題になれば、エイズ教育をしろ。今の流行は薬物教育。サラ金の問題の時は消費者教育。近頃は、金融教育。極めつけは、PC使えなきゃということ!その時々の各界(!?)の要請に応えて色々資料等作りましたが、教える時間がなかなかとれませんでした。
 子どもたちの直接体験が少なくなっているようだという声もよくあがりましたね。
 そこで文部科学省は考えた。はい、総合です。指導要領では各校で計画をとなっていますが、例示として掲げているのは、環境・福祉・健康・情報・国際理解等を体験的に学習させるべし。
 はい、しっかりと世の皆さんの要望がとりいれられています。税金で作られた、環境や福祉の副読本もやっと使えるようになりました。昨年までの授業時間も確保しながら、ハイ社会的要請に対応してつくられたました。どうして総合が批判されるのか、わかりませんね。
 
 皆さん、子どもにとってこれが大事と叫ぶのはいいのですが、最後の結論は皆同じ。学校で教育すべし。
 小さいところではこんなことも似たようなことで。色々な企業・団体から○○コンクール・○○アンケートの類が山のように学校に送られてきます。それぞれいいこと企画して書いていますが、最後は学校に送って募集。担当者は来るわけではない。結局、はい先生。あんまり多いので、ゴミ箱に直行させますが、それでも教委の後援や協力を取ってくるものは、仕方がないのでやることになります。うまいモンだ!
 更に、加えていくと様々な保護者の声。近頃、学校の権威が下がってきたもので、まあ色々とマスコミ論調と同じで右から左と幅広く。(声は出しても、きちんとしてくれればいいのですが、中には給食費を払ってくれない方も増えているので、時には給食費の催促も先生の仕事。これは蛇足ですが)この辺はきりがないのでまあそのうちに。
 それと当たり前ですが、最後に短く一言、教科の学習指導と学校行事。

 す〜爺さんの話しに戻ります。更に、こんな現場にとどめを刺すように降りかかってくる、戦後教育批判から、人権−反管理派、新自由主義に新保守主義とまあ色々な言説。

 正直に言って、ごった煮。或いは闇鍋状態。味も何も分かりません。取りあえず、すくってみたモノを食べるのが精一杯。

 こんな状態に何年もいると、子どもを見る視点は・・・なんて考えている間に、1年がすぎてしまいます。やっぱり、本来一部分の筈の所に、全体に関係する視点が一緒くたに入れられすぎているような気がします。

 さてここで一つのお願い。本来、教育の部分であるはずの<学校教育>の役割って何なんでしょうか。あまりに複雑怪奇すぎて教師の私自身23年やってきて、却ってわかりません。分かったのは、教育=学校教育じゃあないんだということぐらい。
 極端な話し、右でも左でもいいですから、社会的にはっきりしたものが欲しいですね。
 尤もそれがないから混乱しているのだとしたら、少なくとも混乱していることの責任だけ学校や教師におっかぶすのはご遠慮いたします。
 この場のように、みんなで一緒に、それぞれの場で考えていこうという方向のみ歓迎したいと思います。

 いや〜今日はけっこうレスしました。主宰のす〜爺さんが少し遠慮された分、ガンガンいきました。すいませんでした。
 あとは、塾も含めて所謂<教育>関係者以外の方が入ってこられないかと思います。
  

 す〜爺さんに質問が一つ。文章で教育となっている箇所は<教育>一般について語られていると考えていいですよね。<>付きは文脈判断。<ゆとり教育>の教育は、文脈から見て学校教育。こんな感じで・・・・



 

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自己レス&Re: ごった煮では、味も何も分からない。2002/06/25 11:48:20  
                     す〜爺

 
 第12回で取り上げた<ゆとり教育>批判は、教育評論家・小浜逸郎氏に代表される      言説で、「戦後民主主義教育は<お子さま中心主義>であって、その潮流こそが学校教育を歪め、現在の教育荒廃を招いてきたのにもかかわらず、<ゆとり教育>はさらにそれを加速させるものである。<学校教育>は、共同社会の繁栄と維持のためにあるのであって、そのときどきの子どもたちのためにあるのではない」というものです。
 このところ、経済も政治も閉塞状態になっていて、石原都知事の物言いのように、何かを標的にして一刀両断に切り捨てる“わかりやすい”論調が受け入れられがちで、少々右バネが効き始めてきているように思えます。
 そういう中で、マスコミが羅列する、いじめ・不登校・学力低下・少年非行などのいわゆる「教育問題」に苛立つ人たちが、「教師にもっと強い指導力を、社会に貢献できる子どもを育てるために強い父権の復活を」と言う言説に傾きやすくなってきています。これは的はずれであると同時にとても危険なにおいを感じます。
 以前にも書いたように、われわれの社会は、約50年をかけて“死の恐怖と飢えの苦しみ”から最も遠いところに来てしまったのです。そして、ラク・トク・ベンリを追い求めたあげく、環境も人間関係も経済も閉塞感が漂っています。先が見えにくいという意味では、われわれは半世紀前よりはるかに過酷な状況の中で生きていると思います。だからこそ、子どもたちがおかれている状況は、そう単純なものではないはずです。むしろ、現在、多くの子どもたちは健気にも懸命に生きようとしています。
 “わかりやすい言説”が、われわれの世代が作ってきたこの過酷な社会の<繁栄と維持の装置>としての学校教育を考えているとすれば、むしろ、そういうかけがえのない一人ひとりの子どもたちとしっかりと向かい合っていくことが、ますます大切になってくるような気がします。そして、それは“子どもを好き勝手にさせる<お子さま中心主義>”とも“強い指導力”とも全く異なるものです。
 さて、教師23号さん。気合いと熱のこもったレスを、こちらも丹念に読みました。おっしゃるとおり、世間は<学校教育>にありとあらゆるものを求めてきました。これまでのコラムでも触れてきたように、だからこそ子どもも教師も疲れ果ててしまう状況が現出したのですよね。
 でも、教師23号さん。ここで一つ申し上げたいことがあります。それは、学校の側にもそういう要請に嬉々として応じてきた側面がなかったでしょうか?「そういうことは学校の手に余ることなので、家庭や地域でやっていただきたい」とは言えずに、さまざまなものを学校の中に取り入れてしまったことはなかったでしょうか?
 友人の教師たちが、学校の外で生徒がやったことについて、休日もなげうって奔走しているのをみて「なんで、そこまでやるの?すこし思い上がっていないか?」と問うたことがあります。そのときの彼の答えが「何でも学校に連絡してくるんだよ。それを、学校は関係ありませんとでも言おうものなら大変だよ。」というのです。その当時<金八先生>がもてはやされていたという事情もありました。「子どもたちのため」という殺し文句に弱く、子どもたちの専門家は自分たちだけだ、という自負も手伝ってそういうことになってしまうのかもしれません。
 教師23号さんがみごとに列挙したさまざまな<・・・教育>を、総合科の中でそれぞれの教師の裁量と能力の範囲でやることには大賛成です。しかし、ここに、問題になる例があります。毎日学級通信を出している教師に、同僚からクレームが付くというのです。それは「あまり通信を出していない自分が、怠け者にみられるから」と言うのが理由だそうです。「通信を出さない分、自分は子どもとつきあう時間をとっているんだ、ぐらいの気持ちがあってもいいんじゃないか」と、クレームを付けられたその教師は言います。教師自身も横並びの意識を捨て、ときには「わたしにはできない」「わたしだからこそできる」と言えるようになることも大切なのではないかと思うのです。
 <学校教育>が<教育>の一部であることは自明のことです。ただ、同世代の多数の人間と出会い、教師というさまざまなタイプ(ここが大切)の大人と出会う場、であるという意味での学校の重要性は今後とも失われることはないと思います。
 最後に、教師23号さんもおっしゃってくださるように、いわゆる<教育>関係者以外の方が、どんどん入ってこられると議論も深まると思います。
 いわずもがなのことながら、議論とは「事実を探り、すこしでも真実に近づくための共同作業」なのですから、楽しく真剣にやっていきたいものです。
 

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そりゃ〜ないでしょう!2002/06/26 22:29:54  
                     教師23号

 
 す〜爺さん、今日は少々疲れているので、軽くいきましょう。

 学校が嬉々として受け入れてきた・・・そりゃあ、ないでしょう。横並び意識一杯のこんな教師もいるよ・・・そりゃあ、ないでしょう。

 鶏が先が卵が先かの議論じゃあるまいし、側面的と断っていながら、結構マジに語っていませんか。ちょっとレトリック。
 教師に色々なのがいるのは、私もよく知っています。ただ、今の風潮はこんな教師ばっかり云々で教師の質の問題に還元してしまって、肝心の学校教育を巡る構造が隠されてしまっているのが問題の筈です。それは、す〜爺さんも今までの論調から察すると理解されていますよね。ちょっと似たような論法の感じ。そんなタコツボに陥るのを避けるために、高度経済成長期以降の社会構造の変化に位置づけて捉える見方がより必要と考えられていると思います。

 そうすると、今回のレスにはそりやあ〜ないでしょうと思ってしまいます。後者の教師の問題などは、片方があまりに低レベルなので二人の教師にそれ以外で重なってきた人間関係があるのではと思ってしまいます。
 教師論は別な問題として語るべきであり、そのことと社会システムの一つとしての学校教育の問題を一緒にすると、それこそ右側の言う強い指導力のある教師の育成に行ってしまう傾向が今の風潮では強いと思います。アブナイ、アブナイ。
 私は、基本的に横並びでもかまわないと思います。(程度にもよるし、私自身はいやですが・・)だって、それって日本人の一般的な傾向でしょ。教師にだけ、普通と違うのを求めるのは、同じように却って危険です。アブナイ、アブナイ。
 むしろ、ごくふつうの大人の一人としての教師が、ふつうに働いて、ふつうに子供と関われば、ふつうに子供が育つ学校システムがいいんだろうと思います。

 例えば、休日まで走り回る教師について言えば、システムの一つとして事故報告書というのがありますね。学校で事故が起これば教委に提出もやむを得ないのですが、学校外で起きた事故でさえも、どのように対応したか面密に記載した報告書の提出が求められます。この存在を支える社会的理念として、学校や教師は子供の全生活にわたって関わるべきもの−聖職者的な理念があるのではないでしょうか。
 私は、こんなシステムを残しておいて、走り回る教師の意識云々と言ってもしようがないと思います。ごく普通の教師ほど走り回って、管理職に報告して、しっかりとした事故報告書を作成して教委に提出するのです。 

 繰り返しますが、こんな学校教育のシステムの第一の犠牲者は子供です。教師自身もその一人ですが、残念ながら余り意識せず、大体まじめでがんばるほどに昔の言葉で言えば体制補完的な役割を果たしている人がほとんどでしょう。
 だから色々いる教師をあげてもしようがないのでしょう。基本的には、気がついた人が学校の内と外で声を出して、システムを変えていくより方法がないのですから。

 そのために、まずはじっくりと分析して考えてみましょうというのがねらいではなかったのですか?まさに、議論とは・・・・ですよね。

 す〜爺さん、でも他の文章が格調が高い割に今回のレスは結構感情が出ていたような気がして
私は楽しかったです。挑発しているのではありません。いやほんと!
 
 まあ、のんきにやりましょう。今日はこの辺で・・・。やっぱり長くなったかな?!
 

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Re: そりゃ〜ないでしょう!2002/07/08 7:48:30  
                     す〜爺

 
教師23号さん。大変レスが遅くなりました。
 これまでもこのコラムを丁寧に読んでくださっていた教師23号さんなので、わたしが、いわゆる「教育問題」の背後には、社会構造の大きな変化がある、と考えていて、学校をあげつらったり、教師の資質云々という主旨がないことはよくご理解いただいているものと思っていましたが・・・。ただ、「ごった煮では、味も何も分からない」のなかで、「世間がさまざまな要望を学校に押しつけてきた」とおっしゃっていたので、学校の側から、それらを積極的に取り込んできた部分もあるのではないか、ということを述べたものです。
 また、2番目に、教師だけにふつうと違うことを求めている、というのは誤解です。ふつうの教師がふつうに子どもとかかわっていくことについて異論がないことは、6/25のレスの、下から6行目に書いたとおりです。
 ただ、<横並び>については、意に反して横並びになったり、他の人に対して横並びであることを強要することについて述べたもので、自身が横並びを好む人を対象にしたものではないつもりです。
 わたしには、学校教師の友人が何人もいて、その大変さはよく聞き及んでいます。社会のツケを学校に回す風潮には、以前から大いに異議を唱えていることは、第11回、第12回あたりのコラムをお読みくださるとご理解いただけると思います。
 教師23号さんのお怒りの趣意に正しくレスし得たかは不安ですが、遅ればせながら、お返事申し上げます。今後ともご教示ください。
 

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第11回 「ゆとり教育」と学力低下
 「ゆとり教育」を話題にするときかならず取り上げられるのは、「学習内容の削減と週5日制になったことでますます学力が低下するのではないか」という議論です。

 この場合、気をつけなければならないのは「学力とは何か」「何を、そしてどの時代を基準にして学力が下がってきた、と言っているのか」をはっきりさせることです。

 わたしは実のところ「なんで0で割ることはできないの?」と真剣に悩む子や、「areは複数用のbe動詞なのに、どうしてYou are a student.なんて言うの?」と気がつく子に「学力」の可能性を感じてしまう方なのですが、これを言ってしまうと話が拡散してしまいます。

 そこで、まずは「学校で学習する知識の定着度」と「テスト問題を解く力」を「学力」と考え、社会教育学者で東大教授の苅谷剛彦氏がさまざまな角度から時代を追って分析した結果を借用すると、いずれの場合でも、学力は低下傾向にある(「教育改革の幻想」ちくま新書)ということです。文部科学省は、この原因を学習内容の多さとそれに伴う「過度の受験競争」が子どもたちから学習意欲を奪ったため、として「ゆとり教育」を推進してきたわけですが、苅谷氏の分析によると、この学力低下傾向は学習内容の量とはどうも関係がなさそうです。

 「ゆとり教育」を学力低下の元凶とみる考え方は、その意味では少々的をはずれたものになります。そのうえ文科省が「ゆとり教育」の目的として掲げる「意欲」「関心」「生きる力」は、上で述べてきた意味の「学力」とはかなり異なるもののように思えるのです。そして、そのいずれの場合も、学力低下の歯止めを学校に代表される「公教育」の中に求めようとするところに大きな無理があるのではないかと思うのです。

 結論めいたことを言うのは早すぎるかもしれませんが、わたしは「高度経済成長以降の大きな社会構造の変化こそが、諸問題の根っこにある」という旧知の佐々木賢氏の指摘(「親と教師がすこし楽になる本」北斗出版)に大きな共感を覚えています。

 そして、子どもたちを取り巻くさまざまな環境の変化について、わたしが見聞きしてきた範囲で、すこしずつ触れていきたいと考えています。


**6月10日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第11回 「ゆとり教育」と学力低下2002/06/10 13:01:35  
                     瓢箪徳利

 
す〜爺さん、僕の書き込みに丁寧に答えて頂きありがとうございました。それに「知恵を貸してください」なんてとんでもない。僕の方こそお知恵拝借です。そのために読んでいるのですから。
本当に「学力」の定義ってよく分かりませんよね。す〜爺さんも言うように、これまでの学力観からすれば「学校で学習する知識の定着度」「テスト問題を解く力」みたいな感じだし、ここ10年くらいの文部(科学)省の学力観は「意欲」「関心」「生きる力」だし、これでは議論が成り立ちませんよね。どう考えたら良いのでしょうか。これまでの<幻想シリーズ>や<ゆとりシリーズ>を読む限りでは、す〜爺さんは後者に近いのかな?なんて何となく思っていたのですが、如何でしょう? 違っていたらゴメンなさい。
でも、今回の文章を読んでいると、どうやらそれらを超える何かがありそうですね? 子どもたちを取り巻く環境の変化を対象にした後、もう一度学力観に戻って頂けたら嬉しいな、なんてまたまた勝手に思っているのです。
 

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仲間に入ろうかな!2002/06/10 21:04:13  
                     教師23号

 
 す〜爺さん、瓢箪徳利さん、こんばんわ。教育に関することだから、学校の教師も誰か入ってこないかなと思っていたのですが、みんな疲れているようなので、そんじゃまあとちょっとおじゃまします。
 <ゆとり教育>に関して、あちこちで大騒ぎですが、多分教師はみんなウンザリしていると思いますね。少なくても、現場にはゆとりなんてほとんどありません。
 尤も、私個人は違う意味でウンザリしています。簡単に言えば、「何を今更」って感じです。
学校教師を23年やっていますが、ほぼその全時期にわたって学校はその都度たたかれてきましたね。慣れましたね。ついこないだまでは、管理のしすぎ・詰め込みすぎとマスコミも騒いでいたような気がしますよ。それじゃあと文部科学省がそれなりに腰を上げると、今度は低学力批判。やれやれです。
 何年か前に、黒磯で教師が生徒にナイフで刺された時は滑稽でした。教師は、みんなそれほど驚かなかったですよね。ついに来たかという感じ。それよりも、その後にマスコミが持ち物検査みたいなことをしろと言っていたこと、それに多くの人が頷いていたことを思い出します。
 当時すでに生徒の持ち物検査ができるような環境は、おかげさまですでに失われていたにもかかわらず、自分たちがそれを押し進めたにも拘わらず、学校はもっと毅然とした態度をとれみたいな論調。滑稽でしたね。
 今の風潮。何か似た感じです。マッチポンプみたいです。まあ、はっきり言って現場の教師はウンザリです。多分、子どもたちもそうでしょう。

 大体、どこまで皆さん実態を知っているのでしょうか。授業時間数は、昨年までと比べてほとんど減っていません。昨年までは週2回程度土曜日があって、大体どの学校も2時間やっていましたね。つまり、月あたり4・5時間が土曜日の分。今は、その分週6時間の日が増えていますので、授業時間は今までと同様に確保されています。敢えて言えば、例の総合的な学習の時間の分、普通の教科の内容が減ったのでしょう。
 それでは文部科学省が勝手に総合を作ったのか。実はそうでもないのです。私からすると、マスコミ等に代表されるような世論の声と思っています。皆さん気づいていないかもしれないけど、文部科学省にしっかりと合図を送っていたのだと思います。

 このぐらい書くと、色々な声が聞こえてきそうです。
 
 す〜爺さんの話は面白いのですが、格調が高すぎてかなかなか外野の声が入ってこないので、ちょっと石を投げてみました。
 
 重い課題なのかもしれませんが、余り落ち込まずに、楽しくワイワイやりたいと思っています。だってそれが本当の意味で<ゆとり>なのだとも思っています・・・


 
 

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ワイワイと盛り上がるといいですね。2002/06/16 10:55:59  
                     す〜爺

 
瓢箪徳利さん、教師23号さん、こんにちわ。せっかくありがたい書き込みをいただいたのに、レスが遅くなってごめんなさい。
 教師23号さんの嘆きは多くの先生たちに共通のものだと思います。教師は聖職者だと言われるいっぽうで、<教育荒廃>の原因の大半を<教師の質の低下>に求められたのでは、たまったものではありません。このコラムの前書きにも書いたように「教育は、だれでもが何らかの形でその体験者であるという自覚があることから、だれでもが一家言を持つ」という意味で、いわば特殊な社会現象ですね。ここに、ニュースバリュー・視聴率などという観点しか持たないマスコミが、一番叩きやすい学校と教師を標的にして「教育問題」を取り上げる理由がありそうです。
 このコラムでは、そういうさまざまな幻想や誤解をできるかぎり取り去って、現実をしっかりふまえたところから、考えていきたいと思っています。わたし自身も全体の一部しかみていないのではないかという不安が強く、みなさんのお知恵を拝借、というのは、わたしがこのコラムをお受けした一番の理由です。
 ただ、教師23号さんもご指摘の通り、わたしは、どうも、実像と違って(?)文章が硬くなる傾向があります。いろいろな立場の方が入って、ワイワイと楽しく議論するためには、どうしてもみなさんのお力が必要です。よろしくお願いします。
 

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教師23号さん、よろしく2002/06/17 11:27:39  
                     瓢箪徳利

 
教師23号さん、学校の中の様子、少しわかりました。そうですよね。外部から見ただけでは分からないことが結構多いように思います。TVの放映は偏っているのは知っていても、それ以外から情報が入りにくいのです。教師の方に一緒に書き込んでいただけると助かります。
そうなると僕の素性も書かなくてはなりませんね。僕は小さな私塾を営んでいます。塾をはじめて奇しくも23年。つまり「塾23号」です。塾と言うと教師の方は嫌な気分がするかもしれませんね。でも、子ども達の未来に関わっている点では共通しています。学校と塾、共通項もあれば違った部分もあり…。
す〜爺さんのコラムはどうやら「子ども達の未来」と「学校」と更には「社会のあり方」に関わっているように思うので、何となく書き込んだのですが、教師23号さんの登場で、より面白い展開になりそうです。
これからもよろしくお願いします。
 

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第10回 「ゆとり」って? その3
 ある人が「ゆとり教育といっても、学校の先生がラクをするだけじゃないの?」と言いました。わたしは学校の教員ではないので、具体的なことはわからないこともあります。しかし、友人の教員たちからは、次のような話がよく聞かれます。

 「ゆとりなんて、とんでもない。週5日制になって学習内容が減ったようにみえても、いままで小さなステップがいくつもあったのが、ステップが減ったために段差が大きくなってかえってわかりにくくなる子どもが多いので、その隙間をうめる作業が必要になったりする。その上、総合学習というあいまいな性格の授業が多くなって、その準備に追われる。だいたい総合学習って、基本的な読み書きの学力があってこそ、調べたり、考えたり、分析できたりするはずなのに、その基礎的な力がない子もけっこういるのだから大変ですよ。」こう言う彼らは、どちらかといえばまじめに子どもたちと向かい合い、授業にも工夫を凝らしてきた教師たちです。その中の一部に「総合学習は建前としては自由度が大きいので、いままでやりにくかった校外学習やフリートーク?に時間を使いやすくなりましたよ」という人もいます。

 また、率直に言って、これまでもなにかと「手抜き授業」をしてきたと思われる人は、ますます「手抜き」が進んで、ビデオだけの授業や図書室学習が多い、などという話も聞きます。総合学習の時間を使って、すでに1学期の予定を全部終わらせてしまって、さあ、あとは何をしようか、という先生もいるようです。

 中には、週5日制になって以降、校外で「問題」を起こした生徒のことで、休みの日の度に奔走している高校の校長も知っています。

 「ゆとり」は、先生たちにとってもさまざまなようです。


**6月3日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第10回 「ゆとり」って? その32002/06/08 18:08:50  
                     瓢箪徳利

 
はじめまして、す〜爺さん。
僕は、「うかうかと暮らすようでも瓢箪の胸のあたりにしめくくりあり」の瓢箪徳利です。このす〜爺さんの「ゆとり」シリーズ、面白く読ませて頂いています。学校も週5日になり、子ども達にとって「ゆとり」ができたはずなのに、僕の周りの中学校では相変わらず部活動が忙しく、土日は毎回試合が組まれているようです。それにテレビやメールやゲームなどの時間が増えているのではないかと想像します。まぁ、ワールドカップの時期だから仕方ないのかもしれませんが…。ともかく、あまりゆとりがある生活のようにも見えません。どうやら、ゆとり教育は勉強への意欲には結びついていないように思えるのですが、す〜爺さんはどう思いますか?
本文中では不登校のSちゃんのほうが自分から勉強しているように書かれていました。もしそうなら、学校って何なのでしょうか? ちょっと不思議な気分で読みました。
ずいぶん話が大きくなりましたが、これから少しずつその辺に触れていただけると面白くなりそうです。楽しみ〜!
 

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Re: 第10回 「ゆとり」って? その32002/06/09 20:21:07  
                     す〜爺

 
瓢箪徳利さん、こんにちは。どうも逆さ瓢箪のように落ち着きのないす〜爺としてはドキッとさせられるハンドルネームです。このコラムのスペースで1回ごとにまとめ切るのに四苦八苦しているわたしへの温かいメッセージありがたく、うれしく読みました。
ところで、この「ゆとり」シリーズでは、学習内容や授業時間の削減によって生まれるものはホントに「ゆとり」なんだろうか、ということを考えてきたつもりです。おっしゃるように、わたしのまわりにも、増えた時間をすべて部活に埋め尽くされてヒーヒー言っている子どもも多いですし、月曜日になると、休み中にハマってしまったゲームのやりすぎで、ぼーっとしている子もみかけます。はたまた、進学塾の土曜特訓に参加して疲れ果てている子もいると聞きます。ユトリ?アセり?サボリ?なんて言うと駄洒落のようになってしまいますが、子どもたちが生き生きとした表情でいることがホントのゆとりだと思うのですが、これは、学習内容の削減や週5日制にすれば生まれるというものではないように思うのです。考えるほどに難しいテーマです。これからも知恵をお貸しください。
 

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第9回 「ゆとり」って その2
 いわゆる「不登校」とされる子どもたちのなかには、学校に行けない自分を責めて苦しんだり、自分をそこまで追い込んだ学校に対する恨みつらみを募らせていく子もいますが、少数派ながら「学校を捨てた自分」を肯定的に捉えていく子もいます。

 横浜から埼玉の中学に転校してきたSちゃんは、授業も友だち関係も横浜とは全くちがう中学のようすに、一種のカルチャーショックを受けていました。それでもすこしずつ慣れていこうとしていたころ、腰まで伸びていた長い髪を校則で切らなければならないことになって、学校に行かなくなりました。もちろん、両親も本人も当初は苦しみ抜いたようで、わたしを訪ねてきたころはとても暗い表情をしていました。

 数ヶ月の間、Sちゃんは本を読んだりものを作ったりと、ゆったりとした時間を過ごしていたのですが、ある日突然「勉強がやりたい。それもふつうの中学生がやっている勉強をしたいんです」と言い出しました。そこからわたしとSちゃんとの猛烈な「特訓勉強」が始まったのです。

 Sちゃんは決して格別に「頭脳明晰、記憶力抜群」という子ではありません。しかし、1回2,3時間、週2回の勉強を通して、わずか4ヶ月ほどで中学で要求される主要5教科の必修事項をほぼマスターしてしまいました。その間でも、仕事で多忙な母親に代わって、家事のほとんどをやっていました。

 詳しい経過は省きますが、その後、Sちゃんは他の子どもたちと合流してから「学校に行ってないとヒマでしょう」と言われて「うん、朝6時に起きてからみんなが出かけるまでは、食事の支度やらお弁当作りなんかで忙しいよ。それからあとは掃除・洗濯を済ませてお勉強、午後からは図書館に行っていろんなことを調べたり、美術館に行ったり、洋裁をしたりして、また夕方の買い物があって、夕飯の支度・・」と、のんびりした口調で言ったものです。

 学校に行っている子どもたちは、いつも何かに追いかけられているようで、Sちゃんよりずっと忙しそうには見えるのですが、その実、テレビを見ている時間や遊びに出かける時間は、Sちゃんよりはるかに多いようです。

 はて、「ゆとり」って、一体何なのでしょう。


**5月27日(月)掲載**
(す〜爺)

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第8回 「ゆとり」って?
 だいぶ前のことになりますが、定期テスト直前の日曜日に、何人かの中学生がテスト勉強にやってきました。いつもの通り「テストの山掛けはしないけれど、どの科目をやる?」とリクエストを促したところ「体育やろう」「調理実習やって、なんか食おう」などと、テスト前とは思えないほど元気がいいのです。

 「音楽ぜ〜んぜんわかんない」という子に拍の取り方を説明したり、理科のプリントをみてやったりしているうちに、そこにいる子たちのほとんどが「地理なんてだいっきらい」であることがわかりました。学校の授業は板書とプリントだけで、眠くなっちゃうと言うのです。「じゃあ、みんなでいっしょに地理をやろう」と言うと、いっせいにブーイングです。

 はじめは、テスト範囲の「世界の気候」をひとつひとつ、つまらないジョークを交えながら覚えていきましたが、そのうち、だれかが「なんでそんなにたくさん気候があるの?世界中おなじ気候なら覚えるのラクなのに」と言い始めました。そこで、立体地球儀やライトやたらいなどを取り出してきて、地球の自転と太陽の高度、内陸部と臨海部の関係を説明し始めたところまではよかったのですが、子どもたちとのやりとりのなかでどんどんと話がズレていって、世界各地の野生動物の話で盛り上がり、気がついたらそれぞれの家の犬自慢になっていたのです。

 さすがに「ごめん。テストと全然関係のない話になっちゃったなあ」と謝るしかないわたしに、子どもたちは「おもしろかったー。またこんど地理やろうよ。」と、風呂上がりみたいな顔をして帰っていきました。

 これは、もう10数年前、「ゆとり」どころか、輪切り偏差値による進路指導がさかんだったころの話です。いまも、子どもたちはテスト勉強をしにやってきますが、テストに出そうもないことはまったく受け付けないか、不安そうな顔をします。「ゆとり教育」導入の経緯やその真意がなんであれ、子どもたちの「心のゆとり」と好奇心は「学習内容の3割削減」などとはほとんど無縁のところで、変化をしてきているような気がするのです。 


**5月20日(月)掲載**
(す〜爺)

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第7回 ゆとり教育
「ゆとり教育」を理念の中心にかかげる「新学習指導要領」が本格的にスタートして約40日が経ちました。さまざまな立場から批判が噴出していますが、そのうち最も多く、かつ、鋭い指摘が目立つのが「ゆとり教育は学力低下を招く」というものです。さらに、「ゆとり教育は個性的なエリートを創り出す手段である」という論調もあります。

 70年代中ごろから80年代にかけて、大学の研究者、企業のトップたちが「処理能力は非常に高いにもかかわらず、具体的に指示されたこと以外は全くなにもできない新人たち」という不満を口にし始めたことを、非常に印象深く思い出します。だから、10年ほど前「新しい学力観」が登場したとき、これはまさにその要請に応えるべく出てきたものだな、と感じました。なぜなら、その「新しい学力観」が提示するものは、誤解を恐れずに言えば「勉強しなくてもできる子はできる。必死にマル暗記してもできない子はできない」というものだったからです。しかし、学校教育をはじめとする教育現場はそのようには移行せず、従来通り、項目を教えるー練習させるーテストをするー評価をするというパターンが変わることはなかったようです。

 そのうえ、いわゆる「学校問題」とされるいじめ・不登校などが社会問題化し、さらには少年犯罪が増加している、としきりにマスコミが言い始め、そこで、いよいよ登場したのが「新学習指導要領」なのではないか、というのがわたしの感想です。

 教育に関するさまざまな問題の原因の多くを学校教育に求めている点で、ゆとり教育を推進する側も批判する側も、大差がないのではないかと、わたしは考えています。

 今後、ゆとり教育についてわたしなりの分析をし、方向を探っていく予定です。みなさんからのご意見もぜひお聞かせください。


**5月13日(月)掲載**
(す〜爺)

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第6回 「努力」をめぐる幻想
 「努力」についての幻想ほど書きにくいものはありません。「努力すれば必ず報われる」と思うからこそ,ひとはその栄光を求めて、どんなに苦しくてもつらくても頑張るし、その努力の集合が社会を活性化させているのかもしれません。仕事に打ち込み、人の信用を勝ち取るために黙々と努力している人の姿は美しいものです。かつて「二宮金次郎」の銅像が全国の小学校に建てられ、「おしん」が一世を風靡したのも人々の「努力」に対する賛美とあこがれを示しているのでしょう。

 しかし、「努力」については、その目的と内容をしっかりと見据えないと、徒労になるばかりか(ちょっと大げさですが)人生を誤りかねない危険をはらんでいます。

 努力しさえすれば、だれでもがイチローやタイガーウッズ・高橋尚子のようになれるとは思わないでしょうが、頑張ればだれでもがあの人のように数学ができるようになる、もっと努力すれば、あの難関校には入れる、と考える人は意外に多いものです。

 そして、これまで述べたすべての場合、その結果努力できる人は問題ないのです。問題なのは、その「栄光」だけを見つめて、どうしても体も心も動かない、挙げ句の果ては努力できない自分を責めて苦しみ、さらには、その努力ができないことをだれかのせいにしてしまう、そんな子どもたち(あるいは親)がとても多いことです。わたしが出会ったそういう子どもたちのなかには、せっかく恵まれた才能を持ち、その方面には驚くほどの努力ができるのに、「勉強努力幻想?」にとらわれ、自己否定の地獄に落ち込んでいった人が何人かいます。

 ゲーテの言葉に「天才とは努力し得る才である」というのがあります。つまり「努力」とは強制されてできるものではない、ということです。そう考えれば、前回に書いたように「自分が自然に努力できる範囲」をみていれば、その結果を自然に受け入れることができるようになるはずです。わたしはそれを「たくさん無理しちゃだめだよ。でも、いつもちょっとだけは無理しようね」と、子どもたちに呼びかけているのです。


**5月6日(月)掲載**
(す〜爺)

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<幻想>シリーズ・楽しく読んでいます!2002/05/06 22:01:05  
                     反抗期の親父と息子

 
す〜爺さん、こんばんわ。
 <幻想>シリーズ楽しく読んでいます。
  でも、ちょっと難しいかなとも思います。ここで少し話が広がってくれればと、思ったこと を2つほど書いてみます。

 まず一つは、確かに「努力すれば必ず報われる」というのは、今や幻想の一つと思います。社会的にもそんな風潮がひろまっているようです。中身のないガンバリズム・根性主義の批判としては妥当と思います。
 反面、努力することがマイナスイメージになっているようにも感じられるのは、私の思いすぎでしょうか。

「努力すれば必ず報われる」というのが一つの幻想だとしても、
「努力しなければ、なにものも得ることはできない」というのは、一つの真実のように思えます。
 子どもの教育という意味では、後者を伝える必要はあると思うのですが、一緒くたに否定されていっているような気がします。

 次に、「自分が自然に努力できる範囲」といった場合でも、何か目標がないと、努力の方法も含めてなかなか難しいものがあると思います。
 多分その目標が、見えにくくなっているのが大きな問題なのだろう思います。これって、大人の側の責任ですよね。私は、学歴社会というのは結構崩れてきていると思うのですが、なかなか根強く感じられるのは、とりあえずの目標にしやすいのだろうと思います。
 あたかも、大人が稼いだお金でブランド物を買って身につけることを願うように。いい学校が、子どもたちに対して、中身ではなく外側に身につけさせるブランドと化しているようにも思います。
 
 ブランド物に縁がない生活をしている私のひがみというわけではありませんが、今日、高二の息子と言い争いをしました。「今俺は、反抗期なの。竹刀を振り回さないだけ、まだましなんだよ俺は!」「反抗期なら、そのエネルギーを親に向けるだけではなく、少しは自分の生き方を考える方に向けろ!」「それがわかんないから、反抗してるんだろ」
 “なるほど”と変に納得しながら、そんなことを考えて書いてみました。

 同じようなことを言っているかもしれませんが、話のタネに書きました。長くなってすいませんでした。
                               
  
 
 

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Re: <幻想>シリーズ・楽しく読んでいます!2002/05/08 17:21:28  
                     す〜爺

 
 とても誠実にお読みくださっているうえに、丁寧なレスをいただき大変うれしく、今後のテーマを書き進めるエネルギーをいただきました。ありがとうございました。レスが遅くなって申し訳ないことです。
 さて、おっしゃるとおり、趣旨は大きくちがわないような気がしますが「努力しなければ、なにものも得ることはできない」までを含めて否定した、とお読みとりになったのは、わたしの文章力の乏しさが原因です。
 わたしの真意は、わたしの文章力とこの短い記事ではとうてい表現不可能であるにもかかわらず、「だれでもが、どういうことでも、必ずその目的を達成できる、と信じ込んだ結果、心身を呪縛されたかのようにそこに向かって努力できない自分を責め、他人を呪う人々の悲惨さ」という、自ら戒めたはずの特殊な場合を引き合いに、性急に論じようとしてしまいました。
 大部分の人たちは、ご子息が的確に表現しているように「目標がわからないから、もがいている」のですね。考えてみれば、長年、わたしも子どもたちとの1対1の交換ノートを通して、その「目標探し」にもっとも心を砕いてきました。子どもたちは、その「自分が目指すもの、目指すことができるもの」に出会ったとき、まさに「ちょっと無理しながらの自然な努力」を始めています。あとは、わたしたち大人が彼らを適切にサポートをしていくことが大切なのではないかと考えています。以上が今回のテーマの補足です。
 おかげさまで自分の考えを整理することができました。今後とも、よろしくお願いいたします。次回からは、「社会システムとしての教育」について考えていく予定です。     社会の最前線で活躍している方々からの体験に基づくご意見などいただけると大変ありがたく思います。
 

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