す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。 「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。 ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。 |
全265件中 新しい記事から 251〜 260件 |
先頭へ / 前へ / 16... / 19 / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 26 / 27 / 次へ / 最終へ |
第15回 子どもたちの周辺 その3 TVゲーム補遺 | ||||||||||||||||||
20年ほど前ファミコンが発売され、つづいてドラクエシリーズがつぎつぎと発表されて子どもたち(特に男の子たち)の話題のほとんどがゲームの話で占められていたころのことです。ーどういうわけか、その当時、ゲームの話をする子どもたちの表情は、今よりもずっとキラキラと輝いていたような気がしますー
それでも、わたしは「まったく、大人が作ったゲームで遊ばせてもらっているなんて、君らも情けないよな」などと子どもたちに毒づいて(?)いたものです。そういうわたしに、必死になってゲームのおもしろさを説明していたJ君が、とうとう業を煮やしてわたしのところにゲーム機とソフトを持ち込んできました。「まず、やってみてから文句を言ってくれ」というわけです。もっともな言い分なので、ある日曜日の昼下がり、彼の“指導”で「ドラゴンクエスト」を始めました。 わたしがゲームをやるというので、興味を持った何人かの子どもたちも押し掛けてきて「あ、そこに行くのまだ早いよ」「薬草をもっと買っていかないとだめだよ」「うるさいな、黙ってみていろよ」と騒々しいことこの上ありません。 ところが、ゲームが進むにつれそういう子どもたちの声も耳に入らなくなって、ふと気がついたら、子どもたちが不思議そうな顔をしてわたしを見ているのです。「どうしたの?」と聞いてみると、J君が「ゲームってそんなにマジに楽しめるものだって知らなかったよ。だって、さっきから見ていたら、洞窟に入る前に何度も装備を確かめたりしてすごく緊張していたし、モンスターが出てきたら、すごい顔して戦っていたよ」というのです。わたしは耳まで赤面することになりました。 そう言われて思い当たったことは、子どものころ、縦横につながった防空壕の中をろうそくを掲げて探検したときの胸の高鳴り、まだ明けやらぬ暗い林の中に落ち葉を踏みながらカブトムシを取りに行ったときの薄気味悪い感触、廃業した工場の中に侵入したときの恐怖などが、ゲームの中の洞窟や廃墟の中によみがえってきていたのです。そして、それから数ヶ月の間、恥ずかしながら、ゲームの世界に浸ることになりました。その後ゲームがすこしずつリアルになるとともに、ストーリーも稚拙になってきて、わたしはゲームから離れました。 その時期、たしかにわたしは心の底からゲームを楽しんだようです。それは、かつて実際に経験したことの擬似的な追体験として、自分なりのイメージをふくらませながらゲームに取り組んだからなのでしょう。しかし、子どもたちがゲームをやっている横顔を見ていると、まるで淡々と作業をこなしていくような表情をしています。そして、思いっきりゲームをやった子は<ゲーム顔>と言われる独特の生気のない無表情になるのですぐわかります。実体験どころか疑似体験すらしていない、クリアすることだけが目的の<作業>に見えるのです。だからこそ、ゲームのおもしろさを半減させるとしか思えないような攻略本が売れるのでしょう。 聞くところによると、最近のゲームは、ますますリアルに、そして複雑になっているようです。その割にはゲームを話題にする子どもたちの表情はさえません。 ただ、以前に比べると、虫に親しんだり、ものづくりに凝ったり、自転車の遠乗りに出かけたりと、すこしずつフィールドを広げている子どもたちが目につくようになりました。<遊びの喪失>が究極まで達して<遊びの復権>が始まっているのかもしれません。 **7月8日(月)掲載**
|
第14回 子どもたちの周辺 その2 TVゲーム | ||||||||||||||||||
テストに追われ、部活に追われ、塾にも追われ、<忙しくて息吐く暇もない>子どもたちが、テストもないし、部活も休み、塾もない事態になると「ヒマだあ〜、たいくつだあ」と言い出すことがあります。あまり強くない部活の夏の大会が早々と終わってしまったころに、ときどき聞かれるぼやきです。
そういう子のひとりK君に「あんなに遊びたいって言ってたんだから、思いっきり遊べばいいじゃないか」というと、「持っているゲーム全部クリアしちゃったし、遊びに行く金ないしなあ」とホントにつまらなそうな顔をします。「あれっ?あんなに忙しいって言ってたのに、いつクリアしたの?」と聞くと、ふだんから的確な分析をして感心させてくれるK君が説明してくれたことをつなぐと、次のようになります。 「ゲームって、どういうわけか疲れているときにやりたくなるんだよ。テスト前とか、宿題が終わらなくてイライラしているときだとか、そういうときほどハマッちゃうんだよな。たまにおもしろいゲームだな、と思うものもあるけれど、だいたいもうパターンが決まっちゃっているからね。ハマルからっておもしろいわけじゃないよ。ヤバイなって思いながら、何となくやっていることが多いんだよ」 格闘ゲームやレースゲームにはまる子よりも、どちらかというと、こだわり型の好奇心の強い子ほど、RPG(自分がヒーローになって冒険をするゲーム)の害が大きいようです。 ゲームは大人が作ったものであって、作った人の発想から逃れられない、という点で、わたしには、TVゲームはどうしても<遊び>だとは思えません。 遊びは、特に何かの利益や効果を考えてするものではなく、とにかく楽しい、ワクワクする、だから表情も生き生きしてくる、新しいアイディアもどんどんうかんでくる、そんなもののはずです。その意味でも、TVゲームは子どもにとっての<遊び>というより<時間つぶし>になっているように思うのです。 古謡に「遊びをせんとや生まれけむ」(梁塵秘抄)と歌われ、「人間は遊ぶことのできる種(ホモ・ルーデンス)」(ホイジンガ)と定義されてきたほどに、遊びは、人間の成長にとって何よりも大切なことだと考えられてきました。ゲーム疲れで表情をなくしている子どもをみるたびに、<遊びの復権>の必要性を感じるのです。 大関直隆さんのコラムに「ソニーや任天堂やセガをつぶせるわけないんだから・・」とありましたが、たしかにその通りである以上、TVゲームに代わるおもしろいものを見つけていってほしいと、外に誘い出したり、このところ流行り始めた囲碁を教えてみたりするのですが、これも<大人からの仕掛け>ですね。 最近では、女の子たちを中心に、<ケータイメール疲れ?>も目につくようになりました。 **7月1日(月)掲載**
|
第13回 子どもたちの周辺 その1 部活 | ||||||||||||||||||
ある中学教師から、こんなことを聞いたことがあります。いわく「子どもに自由な時間を与えたらロクなことをしない。だから、休日練習も朝練も必要なんだ。体もくたくたになれば、悪いことをするエネルギーは出てこないだろう」。また別の教師は「家庭サービスさえも犠牲にして休日返上で部活の指導に取り組む教員に対して、『頭が下がります』という親がいるけれど、なあに、あれは、ふだんの授業では言うことを聞かない生徒たちが、部活ともなれば自分を頂点にした上級生からの命令系統の下にテキパキと動くからです。あんなに気持ちのいいことはないですよ。手弁当でも休日返上でもやりたくなるわけです。」と解説してくれます。
一方、早くからやりたいものが決まっている子どもは別として、多くの子どもたちにとって中学入学後の最初の迷いは「どの部活に入るか」です。「オレ帰宅部がいいなあ」なんて言おうものなら「どこにも入らないと、内申書が悪くなってあとで困るよ」と言われ、仮入部期間中、先輩や友だちからの誘いにさんざん迷ったあげく、すこしはラクそうで、そこそこに楽しそうな部活に入ります。ところが、4月もすぎて本入部ともなれば、今までやさしかったはずの先輩たちもちょっぴり怖くなり、朝練、日曜練習と厳しさが増すにつれ、1年生の体力は限界に達し、授業中に居眠りをしたり、食欲をなくす子も出てきます。それとともに、先輩たちの試合の応援にでかけ、ルールやテクニックを覚えてくるとすこし部活が好きになり、でも、テスト前1週間の部活休みになると「やったー!」と複雑な喜びを表すのが、部活に対する平均的な子どもたちの反応でしょう。 部活は、多くの人にとって中学時代のもっとも鮮烈な思い出の一つになるようです。その意味では、大会などの実績を競うだけでなく、肉体的にも精神的にも最大の成長期にある中学生たちにとっては、あるいは日常の授業以上に影響が残るものかもしれないと考えています。 部活については、まだまだいろいろなエピソードや思いがあるのですが、ここは、ぜひみなさんのご意見を伺いながら、議論を盛り上げていきたいと思います。 **6月24日(月)掲載**
|
第12回 一人ひとりの子どもを見る視点 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
子どもたちの周辺の問題を取り上げる前に、ぜひ触れておきたいことがあります。
<ゆとり教育>への批判の中に「教育はそのときどきの子どもたちのためにあるという、戦後民主主義のイデオロギーが作ってきた根本的な思い違い、をベースにしている」というものがあります。 たしかにある時期「子どもは純真無垢の存在で、どの子も無限の可能性を持っている。学校の主人公は子どもであって、多くの教育問題の原因は、子どもたちをそのように追い込んでしまった学校と教師にある」という論調がマスコミを中心にもてはやされたことがあります。そして、むしろこういう論調こそが、教師ばかりでなく、子どもたちまでも苦しめ、文部(科学)省を右往左往させて学校現場を混乱させる一因になってきたのではないか、と考える点ではわたしも同意見です。 しかし、この批判の骨子は、「教育は、どんな文化・社会にあっても、それを今受けている子どものためにあるのではなく、わたしたちの共同社会の秩序と繁栄を未来においても維持するためにある」というところにあります。ただし、これはあくまでも<社会システムとしての教育>についての話であって、生身の子どもを見る視点とは、はっきり区別しなければなりません。 一人ひとりの子どもを見る視点では<学校教育>という場面だけでなく、消費・情報・対人関係など、子どもたちを取り巻くさまざまな環境の変化を視野に入れる必要があると思います。親として、教育関係者として、社会人・市民として、それぞれの立場のみなさんの見聞やご意見をたくさん書き込んでいただけることを望んでいます。 **6月17日(月)掲載**
|
第11回 「ゆとり教育」と学力低下 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
「ゆとり教育」を話題にするときかならず取り上げられるのは、「学習内容の削減と週5日制になったことでますます学力が低下するのではないか」という議論です。
この場合、気をつけなければならないのは「学力とは何か」「何を、そしてどの時代を基準にして学力が下がってきた、と言っているのか」をはっきりさせることです。 わたしは実のところ「なんで0で割ることはできないの?」と真剣に悩む子や、「areは複数用のbe動詞なのに、どうしてYou are a student.なんて言うの?」と気がつく子に「学力」の可能性を感じてしまう方なのですが、これを言ってしまうと話が拡散してしまいます。 そこで、まずは「学校で学習する知識の定着度」と「テスト問題を解く力」を「学力」と考え、社会教育学者で東大教授の苅谷剛彦氏がさまざまな角度から時代を追って分析した結果を借用すると、いずれの場合でも、学力は低下傾向にある(「教育改革の幻想」ちくま新書)ということです。文部科学省は、この原因を学習内容の多さとそれに伴う「過度の受験競争」が子どもたちから学習意欲を奪ったため、として「ゆとり教育」を推進してきたわけですが、苅谷氏の分析によると、この学力低下傾向は学習内容の量とはどうも関係がなさそうです。 「ゆとり教育」を学力低下の元凶とみる考え方は、その意味では少々的をはずれたものになります。そのうえ文科省が「ゆとり教育」の目的として掲げる「意欲」「関心」「生きる力」は、上で述べてきた意味の「学力」とはかなり異なるもののように思えるのです。そして、そのいずれの場合も、学力低下の歯止めを学校に代表される「公教育」の中に求めようとするところに大きな無理があるのではないかと思うのです。 結論めいたことを言うのは早すぎるかもしれませんが、わたしは「高度経済成長以降の大きな社会構造の変化こそが、諸問題の根っこにある」という旧知の佐々木賢氏の指摘(「親と教師がすこし楽になる本」北斗出版)に大きな共感を覚えています。 そして、子どもたちを取り巻くさまざまな環境の変化について、わたしが見聞きしてきた範囲で、すこしずつ触れていきたいと考えています。 **6月10日(月)掲載**
|
第10回 「ゆとり」って? その3 | ||||||||||||||||||
ある人が「ゆとり教育といっても、学校の先生がラクをするだけじゃないの?」と言いました。わたしは学校の教員ではないので、具体的なことはわからないこともあります。しかし、友人の教員たちからは、次のような話がよく聞かれます。
「ゆとりなんて、とんでもない。週5日制になって学習内容が減ったようにみえても、いままで小さなステップがいくつもあったのが、ステップが減ったために段差が大きくなってかえってわかりにくくなる子どもが多いので、その隙間をうめる作業が必要になったりする。その上、総合学習というあいまいな性格の授業が多くなって、その準備に追われる。だいたい総合学習って、基本的な読み書きの学力があってこそ、調べたり、考えたり、分析できたりするはずなのに、その基礎的な力がない子もけっこういるのだから大変ですよ。」こう言う彼らは、どちらかといえばまじめに子どもたちと向かい合い、授業にも工夫を凝らしてきた教師たちです。その中の一部に「総合学習は建前としては自由度が大きいので、いままでやりにくかった校外学習やフリートーク?に時間を使いやすくなりましたよ」という人もいます。 また、率直に言って、これまでもなにかと「手抜き授業」をしてきたと思われる人は、ますます「手抜き」が進んで、ビデオだけの授業や図書室学習が多い、などという話も聞きます。総合学習の時間を使って、すでに1学期の予定を全部終わらせてしまって、さあ、あとは何をしようか、という先生もいるようです。 中には、週5日制になって以降、校外で「問題」を起こした生徒のことで、休みの日の度に奔走している高校の校長も知っています。 「ゆとり」は、先生たちにとってもさまざまなようです。 **6月3日(月)掲載**
|
第9回 「ゆとり」って その2 | ||
いわゆる「不登校」とされる子どもたちのなかには、学校に行けない自分を責めて苦しんだり、自分をそこまで追い込んだ学校に対する恨みつらみを募らせていく子もいますが、少数派ながら「学校を捨てた自分」を肯定的に捉えていく子もいます。
横浜から埼玉の中学に転校してきたSちゃんは、授業も友だち関係も横浜とは全くちがう中学のようすに、一種のカルチャーショックを受けていました。それでもすこしずつ慣れていこうとしていたころ、腰まで伸びていた長い髪を校則で切らなければならないことになって、学校に行かなくなりました。もちろん、両親も本人も当初は苦しみ抜いたようで、わたしを訪ねてきたころはとても暗い表情をしていました。 数ヶ月の間、Sちゃんは本を読んだりものを作ったりと、ゆったりとした時間を過ごしていたのですが、ある日突然「勉強がやりたい。それもふつうの中学生がやっている勉強をしたいんです」と言い出しました。そこからわたしとSちゃんとの猛烈な「特訓勉強」が始まったのです。 Sちゃんは決して格別に「頭脳明晰、記憶力抜群」という子ではありません。しかし、1回2,3時間、週2回の勉強を通して、わずか4ヶ月ほどで中学で要求される主要5教科の必修事項をほぼマスターしてしまいました。その間でも、仕事で多忙な母親に代わって、家事のほとんどをやっていました。 詳しい経過は省きますが、その後、Sちゃんは他の子どもたちと合流してから「学校に行ってないとヒマでしょう」と言われて「うん、朝6時に起きてからみんなが出かけるまでは、食事の支度やらお弁当作りなんかで忙しいよ。それからあとは掃除・洗濯を済ませてお勉強、午後からは図書館に行っていろんなことを調べたり、美術館に行ったり、洋裁をしたりして、また夕方の買い物があって、夕飯の支度・・」と、のんびりした口調で言ったものです。 学校に行っている子どもたちは、いつも何かに追いかけられているようで、Sちゃんよりずっと忙しそうには見えるのですが、その実、テレビを見ている時間や遊びに出かける時間は、Sちゃんよりはるかに多いようです。 はて、「ゆとり」って、一体何なのでしょう。 **5月27日(月)掲載**
|
第8回 「ゆとり」って? | ||
だいぶ前のことになりますが、定期テスト直前の日曜日に、何人かの中学生がテスト勉強にやってきました。いつもの通り「テストの山掛けはしないけれど、どの科目をやる?」とリクエストを促したところ「体育やろう」「調理実習やって、なんか食おう」などと、テスト前とは思えないほど元気がいいのです。
「音楽ぜ〜んぜんわかんない」という子に拍の取り方を説明したり、理科のプリントをみてやったりしているうちに、そこにいる子たちのほとんどが「地理なんてだいっきらい」であることがわかりました。学校の授業は板書とプリントだけで、眠くなっちゃうと言うのです。「じゃあ、みんなでいっしょに地理をやろう」と言うと、いっせいにブーイングです。 はじめは、テスト範囲の「世界の気候」をひとつひとつ、つまらないジョークを交えながら覚えていきましたが、そのうち、だれかが「なんでそんなにたくさん気候があるの?世界中おなじ気候なら覚えるのラクなのに」と言い始めました。そこで、立体地球儀やライトやたらいなどを取り出してきて、地球の自転と太陽の高度、内陸部と臨海部の関係を説明し始めたところまではよかったのですが、子どもたちとのやりとりのなかでどんどんと話がズレていって、世界各地の野生動物の話で盛り上がり、気がついたらそれぞれの家の犬自慢になっていたのです。 さすがに「ごめん。テストと全然関係のない話になっちゃったなあ」と謝るしかないわたしに、子どもたちは「おもしろかったー。またこんど地理やろうよ。」と、風呂上がりみたいな顔をして帰っていきました。 これは、もう10数年前、「ゆとり」どころか、輪切り偏差値による進路指導がさかんだったころの話です。いまも、子どもたちはテスト勉強をしにやってきますが、テストに出そうもないことはまったく受け付けないか、不安そうな顔をします。「ゆとり教育」導入の経緯やその真意がなんであれ、子どもたちの「心のゆとり」と好奇心は「学習内容の3割削減」などとはほとんど無縁のところで、変化をしてきているような気がするのです。 **5月20日(月)掲載**
|
第7回 ゆとり教育 | ||
「ゆとり教育」を理念の中心にかかげる「新学習指導要領」が本格的にスタートして約40日が経ちました。さまざまな立場から批判が噴出していますが、そのうち最も多く、かつ、鋭い指摘が目立つのが「ゆとり教育は学力低下を招く」というものです。さらに、「ゆとり教育は個性的なエリートを創り出す手段である」という論調もあります。
70年代中ごろから80年代にかけて、大学の研究者、企業のトップたちが「処理能力は非常に高いにもかかわらず、具体的に指示されたこと以外は全くなにもできない新人たち」という不満を口にし始めたことを、非常に印象深く思い出します。だから、10年ほど前「新しい学力観」が登場したとき、これはまさにその要請に応えるべく出てきたものだな、と感じました。なぜなら、その「新しい学力観」が提示するものは、誤解を恐れずに言えば「勉強しなくてもできる子はできる。必死にマル暗記してもできない子はできない」というものだったからです。しかし、学校教育をはじめとする教育現場はそのようには移行せず、従来通り、項目を教えるー練習させるーテストをするー評価をするというパターンが変わることはなかったようです。 そのうえ、いわゆる「学校問題」とされるいじめ・不登校などが社会問題化し、さらには少年犯罪が増加している、としきりにマスコミが言い始め、そこで、いよいよ登場したのが「新学習指導要領」なのではないか、というのがわたしの感想です。 教育に関するさまざまな問題の原因の多くを学校教育に求めている点で、ゆとり教育を推進する側も批判する側も、大差がないのではないかと、わたしは考えています。 今後、ゆとり教育についてわたしなりの分析をし、方向を探っていく予定です。みなさんからのご意見もぜひお聞かせください。 **5月13日(月)掲載**
|
第6回 「努力」をめぐる幻想 | ||||||||||||||||||
「努力」についての幻想ほど書きにくいものはありません。「努力すれば必ず報われる」と思うからこそ,ひとはその栄光を求めて、どんなに苦しくてもつらくても頑張るし、その努力の集合が社会を活性化させているのかもしれません。仕事に打ち込み、人の信用を勝ち取るために黙々と努力している人の姿は美しいものです。かつて「二宮金次郎」の銅像が全国の小学校に建てられ、「おしん」が一世を風靡したのも人々の「努力」に対する賛美とあこがれを示しているのでしょう。
しかし、「努力」については、その目的と内容をしっかりと見据えないと、徒労になるばかりか(ちょっと大げさですが)人生を誤りかねない危険をはらんでいます。 努力しさえすれば、だれでもがイチローやタイガーウッズ・高橋尚子のようになれるとは思わないでしょうが、頑張ればだれでもがあの人のように数学ができるようになる、もっと努力すれば、あの難関校には入れる、と考える人は意外に多いものです。 そして、これまで述べたすべての場合、その結果努力できる人は問題ないのです。問題なのは、その「栄光」だけを見つめて、どうしても体も心も動かない、挙げ句の果ては努力できない自分を責めて苦しみ、さらには、その努力ができないことをだれかのせいにしてしまう、そんな子どもたち(あるいは親)がとても多いことです。わたしが出会ったそういう子どもたちのなかには、せっかく恵まれた才能を持ち、その方面には驚くほどの努力ができるのに、「勉強努力幻想?」にとらわれ、自己否定の地獄に落ち込んでいった人が何人かいます。 ゲーテの言葉に「天才とは努力し得る才である」というのがあります。つまり「努力」とは強制されてできるものではない、ということです。そう考えれば、前回に書いたように「自分が自然に努力できる範囲」をみていれば、その結果を自然に受け入れることができるようになるはずです。わたしはそれを「たくさん無理しちゃだめだよ。でも、いつもちょっとだけは無理しようね」と、子どもたちに呼びかけているのです。 **5月6日(月)掲載**
|
全265件中 新しい記事から 251〜 260件 |
先頭へ / 前へ / 16... / 19 / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 26 / 27 / 次へ / 最終へ |