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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第55回 学校信仰
 <学校に期待してはいけないもの>シリーズを読んだある若者から「なぜ、そんなに学校や教師をかばうの?」と言われました。これは大変な誤解を受けているのかもしれない、と思い、シリーズの総まとめをかねて<学校信仰>について考えてみることにしました。 

 わたしは学校や教師をかばっているのでもなければ、学校や教師はどうやってもダメなのだから期待しないほうがいい、と言っているのでもありません。子どもにかかわる様々な問題を学校に依存し、あるいは思うようにならない結果を学校の責任にする、というような発想をそろそろ転換して、親あるいは生徒の一人ひとりが学校という制度を<利用>する主体になっていく必要があるのではないかと考えているのです。

 一人ひとりが主体となる上での障害となるのが、いろいろな意味での<学校信仰>です。「学校さえ出ていればなんとかなる、学校を出ていないと社会に出ていけない」という全面依存型。「学校は子どもたちのためにあるのであって、知識の量も知的能力も人格もすぐれた教師たちがわれわれの子どもを教育・指導しているところ、あるいはそうあるべきところ」という信頼型。そして、こういうものの対極に「学校こそが現代教育のすべての元凶だ。学校をもっと楽しく明るい場所にしていかなければ」という全面改革型があります。どれも学校を主体に考えているという意味では<学校信仰>に陥っているのではないかと思います。

 それでも、学校さえ出ていれば・・、という<全面依存型学校信仰>は徐々に崩れつつあるようです。不況が長引き、企業も、従来のように学歴や学校学力だけで採用するような安易な方法では、この時代を乗り切っていくための有能な人材は確保できなくなっていて、ソニーなど一部の大企業でも、採用時には学校名を一切伏せたまま、本人の独創力・適応力などを先入観なく測る、という動きが進んでいます。また、終身雇用制はほぼ完全に崩れ、いつリストラされるかわからない時代に、全面肯定型の<学校信仰>は薄れていかざるを得ないでしょう。その一方で、<資格社会>といわれるように、さまざまな資格を付与する法人が次々と現れ、10年以上前から、あたかも<資格信仰>とでも言いたくなるような現象が起きてきています。

 つぎの<信頼型学校信仰>は強く残っています。中でも1970年代以前に中学時代を過ごした大人たちには、この傾向を強く持った人をよく見かけます。それでも、IT革命・情報化社会が進むにつれ、学校でなくとも必要な知識はいくらでも手に入る時代になって、若者たちにとっては、これもだんだん影が薄くなってきた<学校信仰>です。

 最後の<全面改革型学校信仰>こそ、ほんとうに根強い学校信仰です。この種の信仰を強く持つ人は、学校の現状や教師に対する不満がいっぱいです。そして、「子どもたちにとってより楽しく、より過ごしやすい学校を求める」というのは、いかにも正論のように聞こえてきます。しかし、これは、子どもの人間的生活をすべて学校という理想的な枠の中に囲い込んでしまうという発想がベースにあると思います。これでは、子どもたちも教師もますます窒息状態に陥ってしまいます。各地で、<理想の教育>と銘打って発足した私立学校が非常に厳しい状況に置かれているのは、その一つの表れではないでしょうか。

 こうして<学校信仰>の基盤は次々と崩れていっているにもかかわらず、ほとんどの人が学校に通っているなかで、子どもが<不登校>にでもなったら、親はほんとうに家庭崩壊でも起こしかねない状況、というのがいまだにあります。そして、それをなんとか克服していっても<中学卒業資格認定試験>や<大学入学資格検定試験>などで、何とか<学校というコース>に戻ろうとします。げに、<学校信仰>は根深いものだなあ、と思います。

 このようなことを書いてくると、今度は、す〜爺は学校を否定しているのか、と言われそうです。そうではありません。今後、少しずつ述べていくつもりですが、わたしは、学校勉強は大切だと考えています。また、さまざまな個性を持った同世代と過ごす学校生活は、人間の成長にとって、そして、将来の社会にとっても大切なことだと思います。しかし、それは、学校に依存することではなく、生徒本人と親たちが主体的に学校とかかわっていくことによって、学校の存在意義が装いを新たに浮かび上がってくるのでないでしょうか。その中には、当然、学校に行かない、という選択肢も、学校というインフラと教師という人間的なツールをフル活用していく選択肢もあっていいのではないかと考えています。


**5月29日(木)掲載**
(す〜爺)

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自己レス&「小学1年生の父親」さんへ2003/05/28 13:36:31  
                     す〜爺

 
前回のスレッドが長くなりましたので、こちらに書くことにします。
 わたしの文章は、どうも未熟なせいかわかりにくいようで、慎重にことばを選んでいるつもりでもときどき誤解を招くこともあり、ほんとうに申し訳ないことです。
 まず、わたしは件の校長を擁護しているのではありません。もし万一、わたしがこの校長の人事権を持つポストにいたとしたら、降格・停職を含むかなり厳しい処分を検討すると思います。
 その他のことについては、過去のコラムを含めてお読みいただければ、賛否は別にして、わたしの文意はある程度ご理解いただけると思うのですが・・。
 

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Re:「小学1年生の父親」さんへ2003/05/28 18:07:03  
                     ありり

 
「小学校1年生の父親」さんへ
私も南区に住んでいるので、どこの学校の校長なのか、是非に発表して欲しいと願っています。
全く非常識な人間で、す〜爺さんが言われている通り、社会人としての適格性に疑問がありますね。社会人としての適格性に疑問がある人が管理職の地位にあることは間違っていますから、早急に処分すべきだと思います。
ただ「辞職」とか、「教師が世間知らず」などの過激な言葉は適切でしょうか。校長が一般企業で役員クラスとの指摘も疑問です。せいぜい支店長クラスの中間管理職でしょう。それでも管理職には間違いはありませんから、何れにしろ降格・停職等の処分は必要だと思いますが、私が心配するのは、教師の間違いを「許さない」とする風潮です。
人間ですから誰でも間違いはありますし、気の緩みもあります。「小学校1年生の父親」さんからすれば許せない言動でしょうが、いきなり「辞職」などを主張するのは如何なものでしょうか?
一般企業でも「解雇」する場合には厳重な要件が必要です。あくまでも本人に反省を求めて、それでも更生しない場合に次の厳しい処分が行われるものだと思いますが如何でしょうか?
尤も、何年も授業を放棄している教師にも給与を支給しているなどの報道を見ると、怒りを通り越して情けなくのも事実ですが。
 

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Re:「小学1年生の父親」さんへ2003/06/01 10:11:20  
                     す〜爺

 
「ありり」さん、はじめまして。 
>私が心配するのは、教師の間違いを「許さない」とする風潮です。人間ですから誰でも間違いはありますし、気の緩みもあります。あくまでも本人に反省を求めて、それでも更生しない場合に次の厳しい処分が行われるものだと思いますが如何でしょうか?
>尤も、何年も授業を放棄している教師にも給与を支給しているなどの報道を見ると、怒りを通り越して情けなくのも事実ですが。
 まったく同感です。冷静な書き込み、ありがとうございました。
 要は、建前ではなく、少しでも住みやすい地域社会、ひいては学校という場を構成する子どもたちと教師たちが過ごしやすい環境があれば、というのが、わたしの思いです。
 

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Reす〜爺さんへ2003/06/02 10:26:45  
                     小学1年生の父親

 
なんか話しがいろんな方向へいってしまったような気がしますので、もう一度言わしてください。私が納得できないのは、教師歴1年目ぐらいの先生ならあのような替え歌で生徒の注目をえようとしたのは、よくはないけど1度ぐらいの過ちとして許せるけど、ベテランのまして校長ならやはり出る所へ出てちゃんと謝罪するのが当然の義務だと思うのです。でも私の小学生の頃などは、教師に殴られ「なんでぶつの」と聞くと「俺は巨人と輪島が負けると機嫌が悪いんだ」と言って生徒にやつ当たりする教師がたくさんいました。そんな環境で育ったせいかなるべく学校の行事には参加するようにしています!うれしいことにうちの子の学校の先生達は校長をはじめみなさん熱心だと感じられます。今特に1番弱い小学生を狙った犯罪がほんとに多いことも教えてくれました(刑事事件になってないのも含めて)親として自分の子供だけではなく地域の子供達を守るために何ができるのか父親として考えたいです。
 

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Reす〜爺さんへ2003/06/02 12:14:18  
                     す〜爺

 
「小学1年生の父親」さん、こんにちは。
 きちんと場合を分けて書いてくださって、ご意見の趣意は大変はっきりとしてきました。ありがとうございます。「ありり」さんもわたしも、そして「小学1年生の父親」さんも、そう大きな意見の違いはないようです。
 視点を変えて、わたしがくだんの校長本人だったら、自分がやってしまったことの恥ずかしさに耐えられず、即日辞職を申し出たと思います。ただ、それと行政の処分、社会からの制裁、子どもたちへの影響は、それぞれ冷静に分析して考えたほうがいいのではないかと思うのです。彼のためではなく、わたしたちとわたしたちの子どものためにです。
 行政や大企業が「不祥事」を起こしたとき、幹部が記者団に対して頭を下げている写真を新聞紙上で見ると、わたしはあまり愉快ではありません。それより、具体的な善後策を文書で示すことの方がよほど大切な気がするからです。
 今回のことも、そうなってしまった後の学校の雰囲気はどうなったのか、もし仮に、子どもたちや親、教職員の間の動揺が治まらないとしたら、それについて、どういう対処をするのか、それこそ、「小学1年生の父親」さんがおっしゃる「出るところに出て謝罪すること」まで含めての検討が必要になるのかもしれません。
 

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第54回 学校に期待してはいけないもの−しつけ
 「親がいくら言っても言うことを聞かないので、先生から強く言い聞かせてください」とか「おたくの学校の生徒が店で万引きをした。何とかしてほしい」などということばはよく耳にすると思います。

 でも、親が言っても聞かないことを、他人である教師が言うことで結果として子どもが受け入れたとしたらどうでしょうか。それは、教師から受ける何かの威圧であったり誘導であったりして、当の子どもが心から納得したものではないかもしれません。また、仮に子ども自身が先生のことばに深く感じるものがあって受け入れたとしても、それは、たまたま親からの要請の内容が教師個人として深い共感があり、そのうえ、教師と子どもとの強い信頼関係がある場合に限られるような気がします。そして、その分、当の親と子の信頼関係を築くチャンスが遠ざかってしまうのではないでしょうか。
 
 以前から、本の万引きは一つの書店をつぶしてしまうほどだと聞いたことがありますが、このところは、いわゆる新古書店というのが増えて高く本を引き取ってくれるので、被害はさらに拡大しているそうです。そして、その多くが子どもたちによるものだそうで、罪悪感もかなり薄いのが最近の状況のようです。

 こうした万引きを見つけた場合、商店によって対応はさまざまですが、まず学校に通報するというのも多いようです。その結果、教師は放課後でも親といっしょにあやまりに行くことになります。なぜ、学校外で起きたことで教師が責任を負わなければならないのでしょうか。これは、たぶん商店の側からすると、<学校の責任>と考えているからではなく、子どもにとっては親に連絡されるよりも、学校に知られることはいろいろな意味で困ることなので、その抑止効果を期待してのことだと思います。しかし、これが繰り返されると「学校はいったい子どもたちに対してどういう教育をしているんだ」という定型句が力を得て、学校が何かしらの手を打つことを迫られたりします。
 
 ある中学では、校長が「早いうちに犯罪の芽をつみ取った方がいいから、当校生徒の万引きを見つけたら、直接警察に通報してください。」と発言したそうです。これもまたおかしな話だと思います。学校が学校外の生徒の行動について、そういう<公式見解?>を出す必然性がありません。

 浦和の調神社の十二日町のパトロールについても、同じような奇妙さを感じます。子どもたちは、何時頃はヤバイ、どの辺りには○○先生がいる、などと情報交換をしてスリルを味わって(?)います。

 万引きのことについても、いろいろな場面での生徒に対するアドヴァイスにしても、十二日町のパトロールにしても、教師一人ひとりの人間としての個人的な関わりを否定しているのではありません。人間としてやむにやまれず行動したり、かかわってきた子どもがどうしても心配で動くことは、ある意味では当然のことです。しかし「学校だから、教師だから」という理由で、そういうことを期待したり、また学校もその期待に応えようとしていくことには疑問を感じます。

 わたしがこのシリーズを通して言いたかったことは、社会や家庭が教師や学校に対する要求をどんどん増やすことによって、学校という場の主体である子どもたちにとっても教師たちにとっても、学校がますます住み難いところになっていくのではないかと感じているからなのです。


**5月20日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第54回 学校に期待してはいけないもの−しつけ2003/05/22 22:10:59  
                     さくら

 
私は教師ではないのですが、やはりそう思います。クレイムがあるとそれに納得のいく説明などすることなく指導があり、いつの間にか子どもたちへの指導内容の幅が狭くなっていくので仕事への活力も奪われているのが事実です。現場を知っている職員の声をもっとアピールできたらいいのに今は開かれた教育現場として、受け入れることが優先されているような気がします。共に育てていくにはどうしたら子どもたちに一番いい方法が見つかるのでしょうね・・・。
 

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Re: 第54回 学校に期待してはいけないもの−しつけ2003/05/24 12:45:25  
                     イカル母

 
まんびきについてですが、テレビなどで、芸能人やスポーツ選手が
「昔、こんな悪さをした」などと、とくとくとしゃべっていますが、
そのような話は、内輪話にしておいてほしいと思います。昼間たくさん
の子供がみてる人気番組で、自慢しないでほしい。「もう時効でしょう」
なんていわず、しっかり借りを返しなさい!といいたい。
 

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レス&自己レス2003/05/25 19:51:56  
                     す〜爺

 
 学校に対してしっかりとものをいうことは、親としても市民としてもとても大切なことだと思いますが、学校が“消費”の対象のようになっていき、さくらさんの指摘のように、親からのクレームを無前提に受け入れてしまうというのは、ほんとうに困ったことだと思います。
 わたしは、テレビ番組というものをほとんど見ないので、どういうことをやっているかはよく知らないのですが、「イカル母」さんの指摘のように、先生の“お説教”などよりも、子どもたちが興味を持って見る分、テレビからの影響の方がインパクトが強いのではないか、というのがわたしの持論なのですが、これには異論が多いようです。
 先週、南区の小学校の校長が、4年生の教室で「ドはどくろのド」で始まる替え歌を歌い、最後に「さあ、死にましょう」とやったことが新聞等で報じられました。これも、事実とすればとんでもないことです。事実とすればというのは、それ以前の教室の雰囲気、校長と生徒との気持ちのつながり方など、さまざまな要素によって、同じ言動でも子どもたちが受け取る意味が違ってくるからです。でも、本人が“事実”として認めているようなので、まずはあきれ果てた言動だと断言していいと思います。しかし、それはそれとして、このことが「子どもたちが死を軽く考えてしまう」ことにつながる、というのは見当違いのような気がします。それ以前に、よほどその校長を信頼していた子は、オトナに対する軽侮感、不信感、さらには嫌悪感が深まっていくと思いますが、多くの子たちにとっては、後になって「そういえば、そういうアホな校長がいたなあ」と思い出すくらいなものだと思います。周囲としては、深刻に受け止めるより「校長先生ってアホだったんだねえ」と笑っちゃうくらいの反応でいいとは思うのです。市教委がその校長の教師適格性を検討するかどうかは、またべつの問題になると思っています。
 

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Re: レス&自己レス2003/05/26 11:24:55  
                     小学1年生の父親

 
この校長の処分は、あまりにも甘い。テレビのお笑いタレントが言ったのと訳が違う!校長として教育者として言っていいことと悪いことがある。私は南区に住んでいます。どこの小学校かなぜ公表しないのか?1日でも早く辞職すべきだ!教育者として自分の行動には責任もつのが当然であり、したがって校長と職から下りなさい。
 

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「教育者」2003/05/26 15:51:36  
                     す〜爺

 
「小学1年生の父親」さん、こんにちは。
 わたしだったら、たぶん、宴席でもそんな歌は歌わないと思います。多くの人たちもそうではないかと思います。つまり、この校長さんは「社会人」としての適格性に疑問がありますよね。それで充分だと思います。少なくともフツーの社会人(これもむずかしい定義ですが)が子どもたちと接してほしいものだと思います。ただ、子どもたちに対する影響力という視点だけで見れば、テレビのお笑いタレントの影響の方が大きいのではないでしょうかね。
 「教育者」ということばは、実態から離れてステレオタイプな使われ方をし、先生たち自身も呪縛されて苦しんでいる人がいる、という点で、わたしにとっては苦手なことばです。
 できれば、こういう“事件”をきっかけに、センセイとは社会からどういうことを要請され、余分に負わされているものはなんなのか、センセイとはどのような権力であり、どのような意味で「子どものため」の存在なのか、などということを、学校という教育制度やこれからの自分たちの社会がどういう方向に進んでいくのかをベースにして、深く考えていきたいと思います。
 

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Re: 「教育者」2003/05/27 16:36:18  
                     小学1年生の父親

 
あなたは教師なのですか?校長と生徒の心のつながりがおだやかでも教師という職業ならとっていい行動と悪い行動があるでしょう。それはどんな職業でもあります。社会人ならみんなそういう中で一生懸命働いているわけでなんで一度子供と接してみればなどど言えるのですか?あなたがたは自分で教師という職業を選んだんでしょ!それは逃げてるとしか思えませんね!教師は大変なんだと言いたいのですか?それはどんな職業でもおなじですよ、アホな校長がいたなではけしてすまない問題です。校長といえば一般企業でいったら役員クラスです、そういう人達はそんな軽薄な行動はとりません。どういう方向に進んでいくか考えていくなどとのんきなこと言ってる場合ではないでしょ!一般的に言われてるように教師は世間知らずですね!!
 

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第53回 学校に期待してはいけないもの 教師の人柄
 またまた、クレームが付きそうなタイトルです。初めに断っておきたいのですが、「教師の人柄なんてどうでもいい」と言っているわけではないのです。人として社会人として当然に要求されるものはあるはずです。しかし、今回のコラムでは、「先生のくせに・・」「教師としてあるまじき・・」という非難や「先生なんだから当然・・」という期待について書こうとしています。そして、このシリーズで言い続けてきたとおり、日常接している生徒たちが教師に対して要求することは、大いにあっていいと思うのです。つまりは、親や外部の人間が、教室での教師の言動にかかわるとすれば、教師によるひどい言動や強い体罰など、子どもでは対応できない事態に限定されたものであってほしいと考えているのです。

 「E先生ってすごいんだよ。球技大会に勝ったら、だれを胴上げしようかって話していたら、そんなの、まず先生を胴上げするに決まっているじゃない、と怒ったんだ。それでね、Aくんがね、先生重いからみんなつぶれちゃうよ、って言ったら、また怒って、Aくんは立たされちゃったんだ。」小6のMちゃんが話す中年の女教師E先生のエピソードは、どれもユニークです。5月頃には1学期の分を終わらせてしまって「先生は優秀な先生だから、ほらこんなに早く終わっちゃったでしょ」とすましています。親が聞いたらびっくりするような話がいっぱいです。でも、Mちゃんだけでなく、クラスの子どもたちは、そんなE先生に不満を漏らしながらも、どこかおもしろがっているようすが伝わってきます。中学生になったMちゃんたちは、今度E先生を訪ねていくことをとても楽しみにしているようです。

 学校を休みがちのT先生がいます。その先生の担当クラスだけ大幅に授業は遅れるし、親たちはもちろん、子どもたちからも不満が噴出していました。推測ですが、さまざまなストレスが原因のようです。ところが、そんなT先生のことをとても慕っている生徒たちがいるという話を聞きました。「オレたちはどうせ嫌われ者さ」と言って授業をエスケープして学校の廊下などでたむろしている生徒の一群です。T先生は彼らのつらさや不安を真剣に受け止め、親身になって心配していたようです。たぶん自分が置かれている状況と彼らのそれを重ね合わせて、<教育的配慮>としてではなく一人の大人>として接していたのではないかと思います。

 E先生やT先生のような先生ばかりではありません。生徒たちからバカにされ無視される先生、子ども顔負けにすぐキレて職員室に引き上げてしまう先生、授業中はまったくさえないのに、部活の顧問としてはオニの○○に変身する先生、わたしの耳に入ってくる話だけでもさまざまな先生たちがいます。

 でも、幸いなことに、子どもたちにとっては、どんな先生であろうと3年も同じ一人の先生に習うということはほとんどありません。仮にそうだとしても、何人もの他の教科の先生、他のクラスの先生たちと接しています。前回にも書いたとおり、学校は社会の縮図なのだから、さまざまな教師がいていい、欠点も弱点も持った生身の人間としての先生たちからこそたくさん学んでいくのではないかと考えています。

 教師という職業は特殊なもので、だからこそ一般人よりも高い人格や広い社会常識を身につけていなければならない、とか、教師ってヘンな人種だ、ということを言う人は多いと思います。上に書いたように、あるいはときどき報道されるように、確かに首を傾げざるを得ない教師もいるにはちがいありません。しかし、これはその人たちが<人間>としておかしいのであって、単に一般社会がヘンになっているのと比例しているにすぎないのだとしか思えません。むしろ、<完成した人格?>の教師ばかりがいる学校があるとしたら、その方がずっとこわいような気がしています。

 子どもたちが日常接する親以外の大人として、少年団のリーダー、お稽古ごとや塾の先生、近所や商店街のおじさんおばさんなどがいます。教師たちがこういう人たちよりも<高い人間性>を要求されるいわれもありません。逆に言えば、教師たちに要求される<人間性>があるとしたら、子どもたちと日常接する大人たちにはみな同程度に要求されるはずです。

 そして、かくいうわたしも、子ども時代を生きている人たちと日常接する人間の一人として、自分自身の未熟をいっしょに鍛え上げていくという気持ちで生きていこう、と考えているのです。


**5月14日(水)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第53回 反面教師に教えられ2003/05/16 9:36:48  
                     婆〜薔薇

 
息子が小学3〜4年の時、先生が登校拒否でした、運の悪い私はそういう時に限ってPTAの学級委員という貧乏籤をひき苦労しましたが、いろいろ当たってみても教育委員会でさえも何の手も打たずじまい、先生は精神不安定で個人攻撃できる状態ではありませんでした。
時間不足で算数の基本的な部分が抜け落ちていました。息子は塾の先生の厭な面も敏感に感じ取り、塾も拒否、私の放任的手抜きのまま成人。教師という人種は嫌いだよ、といいました。私の人生も多くの反面教師に学ぶことが多かった、結構いい教訓になっていますけれど。
 

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Re: 第53回 反面教師に教えられ2003/05/17 16:14:38  
                     す〜爺

 
婆〜薔薇さん、おひさしぶりです。
 昨日、わたしは知人といっしょに顔見知りの中華料理店に行きました。ちょっと重大な話の方に気が取られていたせいか、2〜4名様2500円と書いてあるコース料理のメニューを見るともなく見ていて、注文を聞きに来られた奥さんに「これは、一人分の値段ですか?」と聞いてしまいました。とたんに「これだけの料理を一人600円そこそこで出しているぐらいだったら、寝ていた方がマシです」と言われてしまいました。考えてみれば道理で、まったく非常識なことを聞いてしまったものだと赤面しました。奥さんはたぶんわたしの職業を知っておられたはずで、<世間知らずの教師>(主観的には教師ではないつもりですが・・)の1人と思われたのではないかと感じました。ついでに、帰りの会計のときにもそのことの非礼をわびるきっかけを失ってしまいました。それもまた、あとで悔やむことになりました。
 帰宅してから妻に話すと「自分でお金は出しても会計はいつも人任せだからそういうことになる。奥さんも相当気を悪くしたんじゃないかな」と言われてしまいました。
 こんな非常識な人間がやっている塾なんて、心配で自分の子どもはやれない、と考える人がいるのもムリはありませんが、それでも通ってきてくれる子どもたちがいます。それは、まさに一人ひとりの人間と人間の問題で「教師という人種は・・」とか「そんな非常識な教師に子どもを預けるわけにはいかない」ということではないような気がしています。こういう言い方もまた、<世間知らずの教師>的な感覚なのかもしれない、と自問しているところなのです。
 
 

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私も、あるある!2003/06/24 19:31:00  
                     かーやん

 
中華料理店でのお話、楽しく(失礼!)読ませていただきました。
誰にだって、ついうっかりよく考えずに口に出したり行動したりすることはあるもの。(実は私もよくやるので。後から「あちゃー!」って頭かかえてます)
相手に指摘されて、す〜爺さんのように「考えてみれば道理」と素直に思うか、「客に対してそんな言い方することないだろう!」と反発を感じるかで、常識度がまた違うと思います。
もちろん、ついうっかり、の前に ♪よ〜く考えて〜 が大事ですけどネ。


 

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Re: 第53回 反面教師に教えられ2003/05/18 11:49:17  
                     中3の親

 
えーと、どちらかというと、すー爺さんがそこまで恐縮するところが世間知らずというより「世間ずれしていない」というところかと・・・その、中華料理屋の奥さんがそこでお客をやりこめることは不適切かとおもいますが。「お一人様でこの値段です!これでもとてもお得なコースなんですよ!いかがですか?」っていえばお客も引けなくなって「じゃ、それを」ってもんでしょう。お客を気まずくさせて繁盛するか?って思いますが。
 

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Re: 第53回 反面教師に教えられ2003/05/18 17:52:08  
                     す〜爺

 
みなさん、やさしく弁護してくださって申し訳ない気持ちです。
 そのお店は誇りを持ってやっておられるので、その奥さんの怒りはもっともなのです。そして、わたしは漠然と、2人でこの値段なのかなあ、という気持ちで聞いたような気がします。また、奥さんも初めてのお客や若い人が聞いたのなら、ああはおっしゃらなかったと思います。わたしが顔見知りで、そこそこには常識がありそうに思っていたので、あきれ果てたのだと思います。恥ずかしくも申し訳ない限りです。
 ともあれ、わたしが言いたかったのは、このエピソードのことではなく、いろいろ弱点や欠点があっても、多種多様な人間が子どもと接していていいのではないか、という自己弁護(?)だったのです。ありがとうございました。
 

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お人柄ですね!2003/05/18 21:44:41  
                     さくら

 
皆さんのコメントも皆さんの優しさが伝わってきて読みながらついほほえんでしまいました。
今日、日曜日なのですが息子たちのクラスで今飼っているアゲハの幼虫に新しい葉を入れに行くというので珍しく私もついて行ったのです。主事室に用件を言って入るのに息子は駆け出して「伊藤先生だといいなぁ」とつぶやいてました。期待通りその先生が主事室にいました。挨拶もしたかしないかで「あのね、アゲハのね・・・」と話し出す息子に、にこにこ耳を傾けながら応対してくれたその先生のことを私は知らず(学校に対して無知なことが多いこともある)いろいろ一緒に話を聞きながら虫のことを教えてもらいました。担任でもなく理科の専科の先生でもなく息子の話だとどういう立場の先生かがわからないのですがとても信頼を寄せているのが息子の姿からもわかりましたし、その先生の子どもへのまなざしがとてもあたたかかったので親としてありがたく思いました。

子どもへどんなことを伝えたいと思っているか、子どもの気持ちに応えようとするかが自然にできるその先生だから、息子が走り出したのでしょうね。
 

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Re: 第53回 反面教師に教えられ2003/05/18 12:34:30  
                     なつこ

 
100円のうどんをたべたり、80円のカラオケ(30分)など行ったりしたあと、金銭感覚が狂いますよ。
 

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第52回 学校に期待してはいけないもの−授業の質
 「えっ? だって、今年の先生は当たりかな?ハズレかな?っていうのが、年度初めの話題の中心でしょ。なんでそれがいけないの?」今回のタイトルを見て、そう感じた方は多いと思います。

 新年度の授業が本格的に始まってまもなく、中1のMちゃんが「ねえ、社会科ぜ〜んぜんわかんないから教えてください。社会の先生、なに言ってんだかわかんない、ってみんなも言ってるよ」とすっとんきょうな声で言います。どれどれ、と授業のノートを見せてもらうと、子どもの写し違いの可能性の分を割り引いたとしても、あまりにもわかりにくい板書です。ふだんは英語・数学をやるだけで精一杯なのですが、ほかの子もまだ来ていないときだったので、地図の経線・緯線の見方から世界の時刻の話を始めていました。

 すると、あとからやってきたべつの中学のAちゃんが「あっ、わたしもそれわかんない。でもさ、ぜんぜんわかんない授業ってヤバいって思うから、自分でちゃんと調べたり、こういうふうにして聞くから、だいじょうぶだったりしてね。おもしろい先生の授業って、笑っているうちに時間が過ぎて、なにやってたんだかわかんなくなちゃうってことあるよ」と、なかなかうがったことを言います。
 
 ひどい授業のために勉強がわからなくなってしまった、という話を聞きます。長年、学校の外側から子どもたちを通していろいろな先生を見てきました。Mちゃんの社会科の授業のように、あきらかに先生自身が力がないと思われるもの、逆に、殊更むずかしい問題をテストに出したり、進学塾顔負けのようなハイテクニックの解法を示して悦に入る先生もいます。手ヘンのハネが小さいだけで×にする先生、ピリオド一つで英文全体をペケにして英語苦手っ子を増やす先生・・それこそ枚挙にいとまがありません。できるまで何度でもやらせる熱血先生のために、まちがえることに強い恐怖心を持つようになった子もいます。

 当面は、確かに困ったことではあります。でも、Aちゃんの言うように子どもたちは意外にたくましいところがあります。それに、同世代を生きる人たちはもとより、先生も含めてさまざまな人間と出会い、悲哀を感じたり、失望したり、感動したりすることこそ、社会の縮図としての学校の最大のはたらきだと思いませんか? その意味では、上に挙げた状況をどのように克服していくかというのも、人間の成長にとっては大切なことだと思っています。

 以前のコラムでも書いたように、食欲だって、本来は生きていくための本能として自然に備わっていたはずなのに「おいしいよ。栄養があるよ。だからどんどん食べなさい」といって、毎日のように豪華な料理ばかり並べられたら、食欲も減退するし、拒食にだってなるはずです。勉強も同じことです。勉強することだけに価値と目的があって、すばらしい素材をすばらしい教師たちが理想的な手際で展開する授業ばかりに接していたら、ほとんどの生徒にとっては、じわじわと息が詰まるような気持ちになってくるはずです。まずい素材をうまく料理する先生や、いい素材をわざわざまずくするような授業、あるいはまずい素材をさらにまずくする先生など、いろいろいてこそ生徒たちにとっては、多面的な見方ができるのではないかと思っています。 
  
 つまり、長い目で見れば、勉強は単なる素材に過ぎないのであって、その料理人である先生とのさまざまな人間関係こそが、目的だとさえ言えるのではないかと思っています。オトナになったみなさんも、学校時代を振り返ったとき、先生にどういう教科内容を教わったかよりも、良くも悪くもどんな先生だったかを鮮明に思い出すことの方が多いでしょうし、それがかりに劣悪な師弟関係(?)だったとしても、その後の人生に与えた影響は、授業内容よりもずっとプラスに働いているのではないかと思います。

 かなり大胆なことを書きましたので、すこしでも誤解が少なくなるように補足すると、生徒たちは上記のような授業に対して、わかるように教えてほしいと要求していいと思いますし、先生たちもまた、少しでもいい(と自分自身が考える)授業をする努力があってもいいと思うのです。しかし、それはまさに現在進行で向きあっている教師と生徒の個別の関係、の中で言えることであって、「授業はかくあるべし」などと一般論でくくったりすることはできないのではないかと考えています。


**5月6日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第52回 学校に期待してはいけないもの−授業の質2003/05/07 2:46:19  
                     中3の親

 
お久しぶりです。とは言っても、いつも拝見しております。
塾にいきはじめたうちの子が学校から帰ってなんか偉そうに「ちょー疲れたシ。塾いきたくねぇ」を連発してましたんで「行きたくないならやめればいい。普通に過ごして、入れる学校にはいればいいだけのこと。選ばなければ高校なんかたくさんある。」といったら、逆に「そうゆう訳にもいかないでしょ」とかいっていそいそ支度していきました。
学校に期待できないことを身にしみて知っているんでしょう。
 

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いい親子関係ですねえ。2003/05/07 13:34:51  
                     す〜爺

 
「中3の親」さん、こんにちは。
 そうか、お子さんも中3になって、お母さんのハンドルネームも進級したというわけですね。
>「行きたくないならやめればいい。普通に過ごして、入れる学校にはいればいいだけのこと。選ばなければ高校なんかたくさんある。」といったら、逆に「そうゆう訳にもいかないでしょ」とかいっていそいそ支度していきました。
 な〜んか、どこかで聞いたようなことばですね。思わず笑ってしまいました。けっこう<効果>あるでしょう。子どもってのんびりしているようで、かなりのプレッシャーを抱えています。「中3の親」さんのような対応がちょうどいいのだと思います。でも、これを<テクニック>として頻繁に使い出すと見抜かれますよ。ほんとうにそう考えていていいのだと思いますよ。受験が迫ってお母さんもパニックになりかけたとき、ぜひ、また思い出してみてください。
 

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自己レスです。2003/05/08 16:57:19  
                     す〜爺

 
第42回 「修学旅行」のコラムについて、ある中学の先生から指摘をいただいたので、遅ればせながら訂正です。

>聞くところによると、市内のK中学は、ここ何年か、まだクラスメイトの顔もおぼつかない中3の新学期早々に修学旅行を実施しているようです。これから受験期を共に乗り切っていくクラスを、修学旅行を通して早いうちにまとめてしまおう、という学校としてのねらいが見えます。ちょっとうがった見方をすれば、生徒同士がまだなじんでいないうちの方がトラブルが少ない、ということがあるのかもしれません。いずれにしても、受験に向けての動きが過密になる秋を避けよう、というのは、どの中学でも共通した気持ちなのでしょう。
 これはいかにも勘ぐりすぎというもので、市内中学どうしの重複を避けるために取った措置だそうで、上記のような意図は全くないということです。ごめんなさい。

>もう10数年前、市内某中学の先生たちが、東北地方のある村でそれぞれ農家に分宿し農作業を手伝う、という修学旅行を企画したことがあります。この企画が発表されたときには、親からだけではなく生徒たちからもかなりの抵抗があったと聞いていますが、いざ行ってみると、現地の人たちの温かい歓迎を受け、なにもかも初めての経験をしたようです。帰ってからの生徒たちの感想文を読ませてもらいましたが、ほとんどの生徒にとって、新鮮で充実した修学旅行だったようすがうかがえました。その後、どのような経過をたどってか、このユニークな修学旅行はなくなったようです。
 これも、わたしの早とちりで、当の三室中学では、まだこのユニークですばらしい修学旅行が健在だそうです。最近の状況をご存じの方がおられたら、ぜひ教えてください。
 
 ご指摘ありがとうございました。
 ところで、開き直りのようですが、このコラムは双方向なので、<正確な情報を偏見なく>というより、<わたしの視点から>ということを大切にしたいと思います。その意味では、これからも誤解や事実誤認がついて回るはずです。ぜひ、どんどんご指摘いただければありがたいですね。 
 

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第51回 学校に期待してはいけないもの
 昨年の暮れにこのコラムで取り上げた「学校が見える!」というシリーズをご記憶の方はおられるでしょうか? その後、お母さん方や学校の先生たちと話す機会が多く、学校に対するさまざまな注文が年々増えているようなことを耳にしていますので、改めて、そのことについて考えたいと思います。

 わたしが塾を始めた30数年前は、学校はまだまだ敷居の高いところでした。「ウチの子が先生に殴られてケガをして帰ってきたのですが、たぶんウチの子も悪かったはずですし、しようがありませんね。」という親や、「学校できちんと教えているのに塾に通うなんて、学校を信頼していないんですか?」と言われて、塾をやめていった子もいました。

 その後、塾を主体にした研究会や学校教師を中心とした教育市民運動の第一のテーマは<学校の垣根を低くすること>でした。教師による体罰・進路選択の半強制など、当時学校が抱えていた問題の根っこが、「学校の垣根の高さ」にあると考えられたからです。その甲斐あってかどうかはわかりませんが、学校を取り巻く社会状況の変化もあって、学校の垣根は急激に低くなっていったような気がします。

 それは、理想に一歩近づいたかのように見えて、反面では、無分別な教師バッシング、それまでは曲がりなりにも成立していた授業の不成立、それにともなう教師たちの困惑、疲れ、自信喪失を生み出したと言われています。

 子どもたちは日常的に学校や教師と接し、学校の楽しさも不合理さも知り、教師のすばらしさやダメさ加減、頼りがいやくだらなさを身を以て感じているはずです。その意味では、生徒と教師は、まさに人間対人間として対等の関係であっていいと思います。誹謗・罵倒・暴力など、教師が人間として生徒に対してしてはいけないことは、生徒も教師に対してしてはいけないはずです。そういうものに対して、教師も人間として毅然としているべきだと思うのですが、そうもいかなくなっているのが、一部の学校現場の実態です。  

 その原因の一つに冒頭の<学校に対するさまざまな注文>があるように思います。当の教師を跳び越えて、いきなり管理職や、教委にクレームを付ける、しかも「ウチの子が・・」というものが多いと聞きます。これが高じると、教師たちは<当たらず障らず>になるか<神経過敏な対応>のいずれかになってしまいます。

 行政機関としての学校のあり方だとか、生徒が畏怖を感じるほど教師が威圧的な場合などは、親は大いに出ていくべきだと思うのです(意外にも、こういう教師に対しては親も沈黙することが多い)。しかし、必要以上に学校や教師に期待したり、その裏返しとして、細かいクレームを付けることは、結局は<子どもをあずけているわたしたちの側>にとっては、こと志とはちがって、学校がどんどん居心地の悪い場になっていくのではないかと、ひそかに心配しているのです。

 次回から、2,3回、「学校に期待してはいけないもの」について考えてみたいと思います。ご意見をお寄せください。


**4月28日(月)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第51回 学校に期待してはいけないもの2003/05/04 12:10:23  
                     

 
 初めまして。初回からの愛読者です。ハンドルネームが決まらなくて今日になってしまいました。職業は中学校教員です。毎回興味深い話題ですが、2・3言わせて下さい。
 @人が生まれ育った環境(時代背景も含めて)が与える影響は間違いなくあると思います。ただ、「こうだからこういう結果が出る」という方程式が成り立たないのが人間。そこに可能性もあるのでしょう。
 A「生徒と真剣に向き合う」ということ。自分は真剣だったのか?と自問自答しいています。でも、それってどういうことなんだろう?「待つこと」は逃げ?去年辛い思いをしました。未だに考えてしまうこれが『トラウマ』?もっと深刻なトラウマがあることを、自分を通して想像しました。
 B生きる意味、夢についてマドンナがインタヴューに答えています。MSNです。参考までにお知らせします。
 C「愛国心」が通知表で評価される。量れないものを量る過ち。量ってはいけないものを量る思い上がり。絶望的…
 今までの流れの中から書かせていただきました。
 

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Re: 第51回 学校に期待してはいけないもの2003/05/05 14:07:37  
                     す〜爺

 
「風」さん、初めまして。初回から読んでくださっているそうで、ありがとうございます。
 さまざまな立場の人が参加して、議論が沸騰し、わたし自身の視野を広げ、考えを深めていきたい、という下心?からコラムを続けさせていただいています。「風」さんが中学の先生だというので、まさにいろいろ教えていただくチャンスだと思います。わたしの事実誤認・認識違いなどありましたら、どんどんご指摘ください。そうあればこそ、まさに誤解を恐れず、言いたいこと、書きたいことを書けるというものです。今後ともよろしくお願いします。

>人が生まれ育った環境(時代背景も含めて)が与える影響は間違いなくあると思います。ただ、「こうだからこういう結果が出る」という方程式が成り立たないのが人間。そこに可能性もあるのでしょう。
 まさに、クローンでさえ違う個性になる、ということですから、この方程式は超多変数関数ですね。でも、違う個性を作る要素としての環境要因(時代背景も含めて)は視野に入れておいてもいいのかなあ、と考えています。

>「生徒と真剣に向き合う」ということ。自分は真剣だったのか?と自問自答しいています。でも、それってどういうことなんだろう?「待つこと」は逃げ? 去年辛い思いをしました。未だに考えてしまうこれが『トラウマ』?もっと深刻なトラウマがあることを、自分を通して想像しました。
 何度か書いてきましたが、子どもたちがどんなにふてくされていても塾の生徒たちは<選んで来ている>と思える分だけ、わたしたちは学校教員とは比べものにならないくらいラクです。

>「愛国心」が通知表で評価される。量れないものを量る過ち。量ってはいけないものを量る思い上がり。絶望的…
 本当にこわいと思います。政権党は翼賛国家への急勾配を登り始めています。みんなが、ではなく、わたしができることから行動する必要性を感じています。
 今後とも学校現場のことなども含めて「風」さんのお立場を損なわない範囲でいろいろ教えてください。最近、組織の中で生きる人たちにとっての「立場」の大切さを切実に感じているものですから・・。
 

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第50回 時代の子
 学校の新年度が始まって2週間が経ちます。子どもたちは、それぞれ新しい担任やら、それぞれの教科の先生、部活の新顧問、そして初めて同じクラスになった級友の品定めに忙しい時期です。

 ところで、まったく根拠のない話なので、本格的な話題にはならないのですが、かなり広い範囲のわたしたち塾仲間が集まる会では「今年の中1は、何となく幼いんだよね」「そういえば、ウチの中1もそんな感じだなあ」「中2はガキっちょって感じでおちつきがないしなあ」「そうそう」「中3はうるさいけれど私語は少ないんだよね」などという話がときどき聞かれます。
 
 友人の学校教師に聞いても、なんとなくの学年カラーというものがあるようです。わたしのところのように小さな子ども集団だと、末っ子や一人っ子が大部分を占めているとか、男子が多いとかいうように、たまたまの組み合わせによるのではないか、と思われることもあります。でも、かなり広範囲の地域での塾のようす、多くの子どもたちがいる学校でも、同じような傾向にあるというのが大変興味深いのです。ほんの1学年の違いでずいぶん印象がちがう、というのが実感です。こういうことは学者がいくら分析してみたところで、はっきりした要因を突き止めることは不可能なのでしょう。

 ツレアイとときどき話しているのは「そういえば、いまの中3の子たちはポケモンってほとんど関心なさそうだけれど、中2の子たちは、小学校のときけっこう夢中になっていたよね。」「あの子たちが生まれたころ、なにか大きな事件ってあったかなあ」などと、根も葉もないようなことです。

 だいぶ以前、1964年東京オリンピックの年にカラーテレビが一気に家庭に普及して、その前後に生まれた子たちが中学生になってきた1970年代後半、高校進学率が90%を超えたのだそうです。そして、その後に到来した校内暴力の嵐・・・。こういうものに何かしらの相関関係があるかどうかなんて、だれにもわからないことです。でも、その当時、わたしは漠然とですが、「カラーテレビに育てられた子どもたち」というイメージを彼らから感じたものです。

 そして、バブルがはじけたころに生まれたいまの中学生たち、ファストフードが当たり前になり、不況の時代を乗り切るためなりふり構わぬテレビ番組、コマーシャル、は節度がなくなり、そのうえゲーム、ケータイと、彼らはとてつもなく大変な時代を生きているような気がします。

 オウム真理教事件が連日テレビに流れ、阪神大震災の悲惨が日本中を駆け抜けた1995年生まれの子どもたちは、いまちょうど8歳になり始めています。イラク戦争の報道と底なしの不況の世の中が茶の間に流れる現代に生まれた子どもたちはどうなるのでしょう。人間が成長する1時期、<時代>がどのような光と陰を与えるかが、どれほど影響があるものなのか、だれにもわかりません。
 
 子ども一人ひとりをみている限り、昔と少しも変わらないものが見えるのですが、集団の目で見ると、それぞれの時代によって、子どもたちのカラーはずいぶん変化しているような気がするのです。わたしが、「子どもは両親の子であると同時に<時代の子>なのではないか」と感じるのはこういうことです。


**4月22日(火)掲載**
(す〜爺)

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時代の子って・・・2003/04/23 21:40:24  
                     さくら

 
これまで子どもたちに携わる仕事をしていて思うことがあります。15年ほど前は確かにヒーローごっこといわれる遊びをしていたのは3歳児クラス。「大きくなったら。○○マンになりたい!」と誇らしげに言っているのですが、小学校入学前までには「大きくなったら○○の(仕事をする)人になりたい!」に変わっていくのが常でした。
 でもこの頃はヒーローごっこは年長児のあいだでも流行して卒園式に「おおきくなったら○○マンになります。」といった子がいました。どこか時代が変わっていくような気がしました。
 もう一つ、子どもたちの中でケンカが少なくなり、たまにケンカがあると怪我もひどかったりします。大人もケンカはいけないことだ!仲良くしよう!とすぐに声をかけすぎてしまってるのではないかと思うことがあります。仲直りなんてすぐにできなくて当たり前です。お互いの気持ちを考える時間がなければ心から誤れるわけはありませんが、待つことができないのは大人のほうです。大人は子どもたちに人の気持ちがわかり仲良くできる子になってほしいと考えているようです。もっと長いスタンスで見ることができればいいのですが・・・。
 同じ年頃を持つ親として、自分たちの生まれた時代を振り返りながら、その時代に子育てしてきた人たち(自分たちの親の時代背景)のことも理解しなければ今の子どもたちの立場を理解することができないようにも思います。
 
 

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Re: 時代の子って・・・2003/04/24 12:17:08  
                     す〜爺

 
さくらさん、こんにちは。
 今回は、やっぱり・・のお仕事をカミングアウトしてくださって、さすがしっかりと見てきているんだなあ、という書き込みをいただき、ありがとうございます。
 塾OBたちが連れてきてくれる<孫>以外は、小学校高学年以上の子どもたちとつき合ってきたので、彼らが幼児だったころはどうだったのだろう、と考えることが多くあります。
 子どもたちと真剣に向き合うオトナとしては、家族以外で初めて出会う幼稚園や保育園の先生たちって、とてもとても大切だと思います。中学生の親たちの話を聞いても、ああ、この子は、そういう保母さんに出会ったんだ、と納得することがあります。
> もう一つ、子どもたちの中でケンカが少なくなり、たまにケンカがあると怪我もひどかったりします。大人もケンカはいけないことだ!仲良くしよう!とすぐに声をかけすぎてしまってるのではないかと思うことがあります。仲直りなんてすぐにできなくて当たり前です。お互いの気持ちを考える時間がなければ心から誤れるわけはありませんが、待つことができないのは大人のほうです。大人は子どもたちに人の気持ちがわかり仲良くできる子になってほしいと考えているようです。もっと長いスタンスで見ることができればいいのですが・・・。
 引用が長くなりましたが、まさに、その通りだと、わたしも考えます。
> 同じ年頃を持つ親として、自分たちの生まれた時代を振り返りながら、その時代に子育てしてきた人たち(自分たちの親の時代背景)のことも理解しなければ今の子どもたちの立場を理解することができないようにも思います。
 いろいろな人たちの家族史を聞いてみると、生々流転、転生輪廻とは、言い得て妙だなあ、と感じることが多いですね。さくらさんのご両親の子育ては、受け継ぎにせよ反面にせよ、さくらさんの子育てに反映しているはずですし、さくらさんのお子さんたちは、またいずれ親となって、さくらさんに育てられた経験から子育てを始めるのでしょうね。うれしい書き込みありがとうございました。 
 

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第49回 「男の子」という精神的弱者たち
 このところのコラムで、どちらかといえば「男女共学推進派」としての議論を進めてきましたが、これは「<さいたまの教育状況>が自然なものになるためには」という、いわば真正面からの議論でした。しかし、わたしの周辺のせまい見聞に限ってみると、男の子たちがますます弱くなってきているような気がしています。「男女共同参画社会」とは言っても、今のままではかなりバランスの悪い、つまり、極端な女性主導型の社会になるのではないかと思っています。ジェンダーバイアス(性別役割意識)という非常に危険なテーマに踏み込んでしまうおそれを感じながらも、「近ごろの男の子たち」のことを考えてみたいと思います。
 
 「じつはオレ・・・ふられちゃってさ。いま、駅のそばの電話ボックスからかけているんだ」夜中の1時過ぎに、塾OBのK君から電話です。「ホントはケータイ持っているんだけれど、知らない人に涙見られそうで恥ずかしいからさ・・」「わるいけど、ここまで来てくれる?」というわけで、そそくさと着替えて出かけてみると、彼はボックスにもたれかかって呆然としています。「ま、歩きながら話すか」と声をかけると、黙ってついてきました。問わず語りにポツポツと話し始めます。「わかってたんだけどなあ、つらいよ・・・。なんか、オレの気持ちをもてあそばれたような気がしてさ」K君からの電話とメールは、それから2,3ヶ月は続きました。

 「ほかに好きな子ができたんだってさ、チョームカツク・・」と憤懣やるかたないのは、A子ちゃん。ひとしきり当たり散らして「ま、いーか。じゃあね。ありがと」と、さっぱりした表情で帰っていきました。

 失恋のときだけではなく、進学についても、職探しでも、決まるまではあれこれ迷うものの、いったん決まったあとの割り切りが比較的早いのは女の子たちのようです。男の子たちは、決まったあとで「やっぱりまずかったかなあ。止めてくれればよかったのに・・」とグチることが多かったような気がします。大学などでも、男子ばかりの中の女子学生は比較的たくましく学生生活を楽しむのに対して、女子学生が多い中に入った男子学生はほとんど無視されてしまう、という話を聞いたことがあります。
 
 「母親が男の子に甘い」というのは、昔から言われてきたことですが、このところ「どうも、兄(弟)のほうにばかり目がいって、妹(姉)のことは、まあ、いいかって思っちゃうんですよね。」と言ってのけてしまう母親が年々多くなっているような気がします。「お父さんが頼りないから、せめてこの子だけはちゃんとした教育を受けさせたい」などと言う人もいます。女の子には家事をさせて、男の子には勉強をやって・も・ら・う・ために、ついついほしいものを買い与えてしまうことさえあるよう
です。

 なにやら、戦前の男尊女卑が復活したかのようですが、旧時代とちがうのは、「男は、やってしまったことの責任から逃げるな」とか「いざというときには、命を懸けて女子どもを守り抜け」という、いわゆる<男子教育>がなくなったところに、<甘さ>だけが与えられるのですから、たまったものではありません。かくして精神的に弱い男の子たちが量産されているのではないか、とさえ感じるのです。

 元来、男は女性に比べて<精神的に弱い性>だからこそ、<武士道>や上述のような<男子教育>が必要だったのだ、という説を聞いたことがあります。少女の犯罪に比べて少年による犯罪が圧倒的に多いのも、腕力の違いだけではない、この<精神的な弱さ>から来ているようです。だとすれば、ジェンダーバイアスに陥らないような新しい時代の<男子教育>を、<家庭での子育て>という観点から考えてみるのも必要かもしれませんね。


**4月15日(火)掲載**
(す〜爺)

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確かに!2003/06/24 19:31:39  
                     かーやん

 
今回のす〜爺さんのご意見に、皆さんどんな書き込みをするのかなあ…と、“気弱な”男の子を持つ母としては楽しみにしておりましたが、反応ないですねえ。
私自身も、痛いところを突かれたというか、我が子を省みると堂々と意見できない実態がありますので。

> 元来、男は女性に比べて<精神的に弱い性>だからこそ、<武士道>や上述のような<男子教育>が必要だったのだ、という説を聞いたことがあります。・・・新しい時代の<男子教育>を、<家庭での子育て>という観点から考えてみるのも必要かもしれませんね。

最近私も、意識して<男子教育>をする必要があるのではと感じています。
別に男女で差別をするわけではなく、やはり「持って生まれた性別による特性」に合わせた対応が必要かと。今はそのあたりが、「ジェンダーフリー」「自由に」「のびのびと」という風潮のもとに、何かごっちゃになってしまっているような気がします。(ん〜、うまく表現できないんですけど…)
要は息子に、もう少したくましくなってほしいんです。はい。
 

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第48回 エリート意識
 前回のコラムでは、みなさんからの活発な書き込みをいただいて、楽しく読ませていただきました。しかし、わたしが<男女共学の問題>と<イナカ臭いエリート意識>を並列的に扱ってしまったために、議論が混乱してしまったようです。そこで、今回は予定を変更して、この<エリート意識>について考えてみたいと思います。

 自分が行きたかった私立高校にA推薦(以前の単願推薦)で入学した男の子がいます。その男の子のお母さんが、悲しそうな顔でやってきました。そして、「ウチの子のところに遊びに来ている子がいるんですが、その子が母親のわたしの目の前で『おまえの高校、クズみたいだから、オレなんか100回受けても受かるよ』って言うんですよ。その子、浦高に受かった子だから、言われてもしようがないし、ウチの子もあまり気にしていないようなのだけど、わたしはとてもいやーな気分なんです。」と言います。それを聞いたわたしは二の句が継げなくて「本人はジョーダンのつもりで言ったのでしょう。それにしても、もしかしたら、品性の低い親に育てられた気の毒な子かもしれないなあ」と言うのがやっとでした。
 
 中学生だったころ、非常に深く鋭い思考力を持ちながら、学校が要求する時間制限や既成の解答からズレているために劣等生とみなされてしまった同級生がいました。教師はもちろん、本人自身も劣等生だと思っていたフシがあります。反面、当てはめ、模倣の能力に長けていたおかげで優等生を続けて、現役で東京大学に入ったけれど、どうしようもなく品性下劣としか言いようもない人間に会ったこともあります。感性豊かで見識も広く、ひたすら謙虚ながら卓越した技術を持つ小学校卒の家具職人を知っています。もちろん謙虚で好奇心旺盛で温かい人柄の東大教授もいます。

 <テスト適応力>という限られた能力だけで見ても、中学で優等生、高校で優秀といったところで、たかがしれています。<井の中の蛙(イナカ)>は広い世界に出るほど、自分が小さいことを思い知らされるはずです。そうなれば、少なくとも学歴だの<学校のレベル>だのといった次元で人を見下げたりプライドを持ったりすることはできなくなるでしょう。スポーツであれ、技術であれ、学問であれ、超一流と言われる人ほど謙虚になるのは当然なのだと思います。たぶん、それだけ広い世界を知っているからです。

 そして、客観的にはどうであれ、ある分野で自分が<エリート>であると考える人は、一番の強者が登山パーティーの殿(しんがり)を務めるように、1歩も2歩もひくことにプライドを持つものではないでしょうか。英語に「noblesse oblige」ということばがあります。もともとは、高貴な身分の人間は、その分、いざというときには率先して身を挺して皆を守り、財をなげうつ義務を負う、という意味だそうです。そう言えば、東洋にも「君子は先んじて憂い、後れて楽しむ(先憂後楽)」ということわざがありましたね。自分が<エリート>になりたい人も、エリートとはそういうものだと考えていてほしいものです。   
 
 高級官僚や政治家が、エリートとはとても呼べなくなって久しくなります。身分制度は無くなりましたが、それにともなって<エリート>がいなくなり、<エリート意識>だけが残った社会は不幸です。

 下世話な話ですが、飲み屋の<ほんとうの常連>というのは、女将さんや大将に顔を利かせて威張る客ではなく、一歩譲って、一見の客を立てて常客にする人だ、と聞いたことがあります。これも一種のエリートの香りがします。


**4月8日(火)掲載**
(す〜爺)

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「勉強ができる」≠「かしこい」・「頭がいい」2003/04/08 14:39:47  
                     元一女

 
勉強って、その人の能力も確かにありますけれど、繰り返しの積み重ねでカバーできるところもありますから、それだけできれば「頭がいい」ってわけではないんですよね。
「人格」とか「機知」、「知恵」なんてのも、トータルで生きていく上には重要な位置にあるんじゃないのかな、と。

出身大学を見ないで新入社員の選考をしている企業も増え始めた昨今が、それを象徴しているのかなぁと思います。

積み重ねの努力は認めますけれど、それだけで全人格を決めるようなものの見方はして欲しくはない、そう思います。

一女から日東駒専クラスの大学を出て、一部上場クラスの企業にも一時期おりましたが、どうにもなじめずに2年ほどで辞めてしまったもので、自分みたいな者は世間から見るといわゆる「リタイヤ」組に当たるんでしょうね。
でも世の中が言う「エリート」って場所が、自分の居場所ではなかったことがよく分かったので、とてもいい経験ではありましたけれど。

自分を生かせなければ、どんなところにいても意味はないです。
今はまぁまぁ自分が役に立てるフィールドにいるので、以前よりはよっぽどいいやと思っています。


一家庭あたりの子供も減って子供に視線が集中して、早期知育だ英才教育だって「教育」に対して大騒ぎになっている世の中を傍目に見つつ、まだ子供はいませんが、この先自分に子供ができたらどう育てていくべきなんだろうな〜ってことは、たまに悩みますね…。
#あ、話それましたね、すみませんm(__)m。


 

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Re: 「勉強ができる」≠「かしこい」・「頭がいい」2003/04/11 15:15:24  
                     す〜爺

 
元一女さん、こんにちは。
>自分を生かせなければ、どんなところにいても意味はないです。
>今はまぁまぁ自分が役に立てるフィールドにいるので、以前よりはよっぽどいいやと思っています。
 まさに、それこそが大切ですよね。わたしも、ありがたいことに今の仕事が楽しいし、おかげさまで充実しています。わたしには<宮仕え>の能力がまったくありません。それは大昔にさんざん思い知らされました。それと同じように、定収入のある<宮仕え>を長くやっている旧友たちにとっては、わたしの自由さをうらやみながらも、このような不安定な生活は信じられないらしいのです。
>一家庭あたりの子供も減って子供に視線が集中して、早期知育だ英才教育だって「教育」に対して大騒ぎになっている世の中を傍目に見つつ、まだ子供はいませんが、この先自分に子供ができたらどう育てていくべきなんだろうな〜ってことは、たまに悩みますね…。
 子どもは、<両親の子ども>であると同時に<時代の子>でもあります。この両方がしっかりわかっていれば、世間の風潮に振り回されることはないはずなのですが、そうは言っても、揺れ動いてしまうのが<親>というものなんですよね。
 

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時代の子かぁ…2003/04/14 11:19:09  
                     元一女

 
>  子どもは、<両親の子ども>であると同時に<時代の子>でもあります。この両方がしっかりわかっていれば、世間の風潮に振り回されることはないはずなのですが、そうは言っても、揺れ動いてしまうのが<親>というものなんですよね。

自分たちの子だから、蛙の子は蛙、無理してエリートに育て上げようとしちゃいかんな〜とは思っていましたけど…。

「時代の流れ」っていうのと、「世間の風潮」っていうのも、また混同しやすくて難しいものですね。
 

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Re: 第48回 エリート意識2003/04/08 21:14:33  
                     さくら

 
お久しぶりです。 
 小学3年生になる我が子の友達のお母さん方の話では、「中学受験をするために好きでしている習い事もやめなければついていけないそうだ。」ということです。 
 我が子にはす〜爺さんの塾へ通わせたいと思い、中学で電車通塾?させようかしらぁと真剣に考えている私です。一人一人ちがう個性を大切に、自分を知ることができるように努力する大人になってほしいなぁと、親にもまだできぬことを願うわけです。
 

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ありがとうございます。でも・・・2003/04/11 15:13:00  
                     す〜爺

 
さくらさん、ひさしぶりです。
> 小学3年生になる我が子の友達のお母さん方の話では、「中学受験をするために好きでしている習い事もやめなければついていけないそうだ。」ということです。 
 そうまでして入学した中学が、果たして我が子にとってどうであるか、を見極めている人は少ないかもしれませんね。中学受験についてはいろいろな考え方がありますが、さまざまな人間がいるのが<社会>というものです。大切な成長期にそういう人間関係を体験せずに、またさまざまな状況を乗り越える知恵もつけずに<社会>に出ていくことの怖さを、わたしが接した何人かの例で感じました。さくらさんは、たぶん周囲のうわさ話に振り回されないとは思いますが、親ともなるといろいろな不安を抱えていくものかもしれませんね。

> 我が子にはす〜爺さんの塾へ通わせたいと思い、中学で電車通塾?させようかしらぁと真剣に考えている私です。一人一人ちがう個性を大切に、自分を知ることができるように努力する大人になってほしいなぁと、親にもまだできぬことを願うわけです。
 う〜ん、そこまで期待していただけるのは、とてもうれしいのですが、中学になれば部活もあるし、友だちづきあいもある。そこに<電車通塾>なんてものが加われば、決していいことはないような気がします。それまでも含めて自然に育っていくことが一番いいと思いますよ。さくらさんのお子さんたちは、お母さんからのあったかいまなざしを体中で感じているはずなので、それで充分だと思います。
 

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Re: ありがとうございます。でも・・・2003/04/12 19:39:39  
                     さくら

 
す〜爺さん返信ありがとうございます。
電車通塾についてはもっとものご意見でした。改めます。
ということで、中学になったら、このコラムを教えることにします。親に話しにくいこともきっとす〜爺さんには話せるかもしれませんから。
息子の学校は6年生まで、1クラスです。今年の1年生は17人という都内の過疎地帯です。そして同じ敷地内に中学もあり、9年間通して縦の関わりが非常に多く喧嘩もあるけれど自然に仲の良い学校です。子どもが楽しく安心して過ごす中で、長い付き合いとなるクラスメートと共にきっといろいろな経験をして行ってくれる事と思います。が、1クラスということが不安になる保護者が多く、学区から越境して行ってしまう子が後を絶ちません。残念です。
話題からずいぶんそれましたが、親の気持ちって複雑なんだなぁと思いました。
 

元の文章を引用する

 
いい環境ですね。2003/04/13 13:33:26  
                     す〜爺

 
>電車通塾についてはもっとものご意見でした。改めます。
>ということで、中学になったら、このコラムを教えることにします。親に話しにくいこともきっとす〜爺さんには話せるかもしれませんから。
 う〜む。コラム執筆者としてはとてもうれしいことながら、さくらさんのところの坊やが中学生になるということは、あと4年。このコラムが続いている可能性は100%ありません。それに、考えてみたらわたしの塾もそれまで持つかどうか。子どもたちに必要とされる限り続けようとは思っているのですが、さてどうなりますか。
 塾のOBたちが、ときどき自分の子どもたちをつれてきてくれます。子どもがいないわれわれ夫婦にとっては、まさに孫たちです。「ジータン」と叫びながら入ってくる子もいます。中には、もう高校生になっている子もいます。まだまだ高校生と対等に自転車を乗り回すほどの元気はあるのですが、本人の自覚と実態はどんどん離れていっているはずです。さくらさんの坊やとは、いつか「ジータンと孫」として会えるといいなと思っています。
>息子の学校は6年生まで、1クラスです。今年の1年生は17人という都内の過疎地帯です。そして同じ敷地内に中学もあり、9年間通して縦の関わりが非常に多く喧嘩もあるけれど自然に仲の良い学校です。
 マイナスのことを考えるといろいろあるでしょうが、縦の関わりが多いというのはなによりもすばらしいことです。子どもは子どもから教えられることが一番身に染みていきます。なにも心配することはなさそうですよ。 
 

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第47回 共学化見送り
 「ねえ、おじさんはどこの高校出たの?」子どもたちは、ときどきこんなことを聞いてきます。聞いている子どもの気持ちの状態によっては「オヤコウコウ」だとか言って受け流すこともありますが、だいたいは、あっさりと「浦高だよ」と正直に答えます。「すっげえ、おじさんアタマよかったんだあ」という反応を示す子から、「えっ、ホント? オレ安心したよ。浦高出ても(車も電子レンジもない)恵まれない生活している人もいるんだねえ」と妙な感心の仕方をする子もいれば「昔は今よりもずっと入りやすかったんじゃない?」と憎まれ口を叩く子もいます。ことほどさように、この地域では、かつてほどではないにせよ、まだまだ浦高(県立浦和高校)という名前の威力は健在のようです。

 公立高校が全盛だった時代、この<浦高>を目指して、県内各地から浦高の学区域の中学に寄留する生徒が多くいました。わたしの母校の中学もご多分に洩れず、大宮・川口・岩槻・蕨などの近隣は言うに及ばず、遠くは春日部市や小川町あたりから地域に下宿して通学する生徒もいました。その結果、1学年600人にまでふくれあがりましたが、男子約300人のうち浦高に入学する生徒が50名近く、6人に1人の割合でした。わたしの中学からは女子の名門といわれる<一女>(県立浦和第一女子高)も同じようなもので、入学者数では浦和市立高を含めた3校が群を抜いていました。そのうえ、近所のお兄さんお姉さん、自分や友人の親兄弟もあたりまえのように両校の卒業生だったので、わたしの近辺での<浦高><一女>は、エリートでもなんでもなかったのです。

 高校入学後にびっくりしたことの一つは、いわゆる地方(失礼!)出身の人たちのエリート意識の強さで、村で花火が上がって村長さんが駅まで見送りに来た、とからかわれる同級生もいたりして、いわば十把一絡げで入ってきたわれわれは驚くばかりでした。それでも、旧制中学の気風が残る男ばかりの高校生活は、思春期の少年たちにとってはきわめて快適で、夏の暑い日などは上半身裸、短パン一つで授業を受けることもありました。保健室に初めて若い女性の養護教諭が赴任してきたときには、授業中気分が悪くなる生徒が続出し、それを保健室まで連れていく役の保健委員の志望者が引きも切らなかった、というウブな時代でもありました。

 そういうなかで、年1回の神奈川・湘南高校との定期戦はスポーツの楽しさもさることながら、共学の彼らが異性同士で話すようすがじつに自然であることに、うらやましさを超えて、自分たちがどこか特異な青春を送っているのではないか、と自問したことを覚えています。

 そんな感覚が尾を引いていたのでしょうか、塾を始めて間もなく、友人に誘われて高校の同窓会に出たときのことです。先輩諸氏の意気軒昂とした<村夫子>丸出しのエリート意識に辟易としていたわたしは、若気の至りで「こういう学校があるから埼玉はいつまでも井の中の蛙(イナカ)なのじゃないか。浦高も一女もなくしてしまえばいいと思うよ」と、隣にいた友人に話しかけたのを先輩の一人に聞きつけられて、
「きさま、それでも浦高生かあっ(この言い方もまた時代を感じます)」と怒鳴られました。「伝統の大切さが分かっていない」と諭してくれる先輩もいました。それ以来同窓会に顔を出したことはありませんが、ときどき送られてくる同窓会誌は、その当時の<オラが浦高>という意識に変化は感じられません。

 以前、その同窓会有志から「共学化反対署名せよ」という手紙が来ました。<一女>についても同様だったようです。都立高校出身のわがツレアイは、異国の文化に触れたような顔をして「大学の同期で『わたしはイチジョです』という子がいて、とても不思議な響きを感じたけれど、この手紙を読んでなんとなく分かったような気がする。ほんとうに埼玉はイナカだねえ」と感じ入っていました。
 25日、県教委は県立高校の一律共学化を当分見送る、という決定をしました。男子校の楽しさを充分味わい、田舎暮らしにもあこがれているわたしですが、政令指定都市になっても「さいたま」は当分イナカのままなのかなあ、とホッとしたような遠くを見るようなこのごろです。


**4月1日(火)掲載**
(す〜爺)

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確かに2003/04/08 14:02:34  
                     元一女

 
エリート意識っていうのは他よりも強かったかもしれませんねぇ…(遠い目)
でも県外に出てしまえば知名度は低いですからね。
神奈川の大学に行って、やっぱり「井の中の蛙…」だなぁ、と思いましたよ。
社会人になったら、高校なんてもっと関係ありませんでしたしね。
先生には「そのエリート意識を早く捨てなさい」と率直に言ってくださる方もおりましたけれど。

好きで女子高に行ったわけではありませんでしたが、実際入ってみたら、ある意味では意外と快適な高校生活でしたよ。
スカートの下に平気でジャージは履くは、授業中にカーラー巻いてる人はいるは…(笑)
男の先生がよく嘆いておりましたが (^^;

同性だけの自由・大らかさといったものもありましたから、選択肢として別学が残っていてもいいような気もしますけどね。
同性だけで生徒会〜部活なんかまで全部動かしていきますから、そういうところからリーダーシップを発揮できていった人もたくさんいたみたいですし。
共学だとどうしてもその辺は女性が出て行きにくいみたいだし。
(まぁ、両性いる中で発揮できなければ意味がないという意見もあるかもしれませんが)

あ〜、地元にいるくせに、もう全然顔も出さなくなって早10数年… (^^;。
 

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Re: 確かに2003/04/03 19:04:03  
                     す〜爺

 
<元一女>さん、初めまして。
 本文でも触れたとおり、わたしも男子校だったからこその快適さと充実感を満喫しました。反面、わたしの個人的な理由からかもしれませんが、その快適さの思い出は社会に出てからの女性に対する妙な構えと、煩わしさにつながったような気がします。塾を始めてからも、女生徒の扱いにとまどわなくなるのに何年かかかった記憶があります。たぶん、この快適さも煩わしさも共に、中学までとはちがった<青年前期>を自然な形で異性と共有しなかったことから来るように思うのです。
 また、わたしの個人的な感覚では、この地域特有の<イナカ>くさいエリート意識が共存しているところが苦手なのかもしれません。MOTER MANさんも言っているとおり、今の子たちにとってはまさにどっちでもいいことで、騒いでいるのはおじさんおばさんたちなのでしょうね。
 

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べつにどっちでもいいと思う2003/04/02 21:42:04  
                     MOTER MAN

 
僕は別にどっちでもイイと思います。むしろ男女差別が厳しかった時代の名残みたいで、僕は共学の方がいいと思います。
難しい問題ですね。
 

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私には大切な母校。2003/04/03 22:34:39  
                     元川女

 
共学化論争には一応決着がついたようでホッとしています。
別学の是非については賛否両論あっていいと思います。

ただ私にとって母校はあくまでも川女です。
共学になってしまうと間違いなくこの名前は消滅ですよね。
共学、別学にかかわらず母校がなくなったり、名前が変更されると寂しくないですか?
大げさかもしれませんが青春の3年間を否定されたような・・・
別学については卒業生としては、女だけの3年間(実際は大学も女子大だったので7年ですが)を経験できたのは私の人生にとってとっても貴重でした。

あと公立高校の別学は今全国的に共学の方向に進んでいるのに、国立大学の女子大はOKなんですかね?
素朴な疑問です。
 

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共学も楽しいよ2003/06/24 19:33:23  
                     かーやん

 
私は共学でしたが、多感な年頃に異性の目があるって、刺激的で楽しいですよお。
クラスのみんなも先生方も公認(?)のさわやかカップルが誕生したり、それを「いいな〜」
なんて指をくわえて見ているグループ(私もその1人だった)もあったりして。
そんな私も、部活帰りに家が同じ方向の男の先輩と一緒の時はちょっぴりドキドキしたりして・・。
もうすっかりセピア色の思い出ですけどネ。
 

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まだまだか・・・2003/04/04 19:28:48  
                     いちじょ

 
ひと昔前に一女を卒業したものです。
うちにも共学化反対の署名を求める手紙が来ましたが、もちろん出しませんでした。
まだこんな意識なんだなーと悲しくなりました。
そして別学化見送り・・・さいたまはやはりムラ意識の強いところなのでしょうか。
社会に出ればまだ男性中心のシステムの中で、競争していかなければならないのに。
最近の教育事情を知らないので、不適切な発言でしたら申し訳ないのですが、
私がいた当時は、中学の時はトップクラスの生徒が浦高、一女に進んでいたのに
そこから大学へ進学する時には、浪人する人の数を考慮しても
進学する大学のレベルにかなりの差が開いてしまっていて、
なぜだろうと疑問に思っていました。
別学ののんびりした学生生活も、確かに居心地のいいものではありましたが、
共学で切磋琢磨し、いろいろな面で力を発揮できる環境も必要かな、と思っています。
 

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Re: まだまだか・・・2003/04/04 19:44:41  
                     いちじょ

 
すみません、意味のわからない書き込みをしてしまいました。
別学化見送り→共学化見送りでした。
 

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Re: まだまだか・・・2003/04/08 14:03:03  
                     元一女

 
ひと昔前ってことは、大体同じくらいの世代ですね〜。

>私がいた当時は、中学の時はトップクラスの生徒が浦高、一女に進んでいたのに
>そこから大学へ進学する時には、浪人する人の数を考慮しても
>進学する大学のレベルにかなりの差が開いてしまっていて、

「大学のレベル」って、問題ですか?
おそらく偏差値でのレベルを言われているのでしょうけれど、行きたい学部・学科がある大学に進めているのなら、レベルなんて関係ないと思いますよ。
ここの第45回のコラムにもそういう趣旨のことが書かれていると思いますし。
それよりも、表向きは「進学率ほぼ100%の進学校」、でもその実態は、卒業する時には浪人生がほぼ過半数ということの方が問題な気がしますけどね… ^^;
(あ、もちろん今の比率は知りませんが…)

結局のところ、その「トップクラス」「大学のレベル」っていう辺りが「プライド」だの「エリート意識」だのってやつを無意識に意識しているところなんじゃないかな〜という気もします、はい…。
 

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浦高2003/09/26 16:46:59  
                     MDおじさん

 
はじめまして。楽しいホームページページをいつも拝見しています。
ここを知ったのは、ごく最近です。

浦高についての書きこみを読ませて頂いて、なつかしくなりコメントさせていただきます。
さてさて、わたしも大昔に埼玉の県北の田舎から浦高に進学し、国立大医学部に進学。医者になって20年です。総合病院の勤務医です。
わたしは、恩師の勧めもあり田舎の公立中学じだいに医者になりことを志しました。金銭的にも国立医学部しか選べませんでしたので、県下一と評判の浦高に県北の田舎から通学しました。入学当時は、都会の秀才たちについていけるのか、不安な気持ちが一杯でした。
数学が得意で、浦高の早いスピードの授業と学校から渡される問題集を必死にこなした結果、入学後最初の数学テストが満点。浦和や大宮出身の同級生から「凄い、田舎の秀才!」とおだてられたことがきっかけで、田舎コンプレックスも吹き飛び、比較的順調に学業もこなして目標の国立大医学部にも合格して、今に至っています。
わたしは、東大や国公立医学部などの難関大学を目指していわゆる”秀才”が競って浦高に入学してくるのは良いことだと思っています。公立ですので、学費の負担も少なく、経済状況に関係なく将来のための準備に必要な勉学に励める浦高の教育環境が、これからずっと続いていって欲しいと願っています。わたしが卒業してから学区制が厳しくなって、わたしの中学からは浦高を受験できなくなりましたが、来年2004年の入試から学区廃止で、再び浦高進学のチャンスが巡ってきたので嬉しい気持ちです。
男子高ということは、在学中は意識していませんでした。医学部進学を目指す自分にとって、ベストの高校が浦高であったから進学しただけです。進学した高校がたまたま男子高であっただけに過ぎません。個人的には、公立ですから性別(年齢、宗教、信条、国籍、身体障害の有無)に関係なく、能力だけで選抜すべきと考えており、共学化は賛成です。
子供は娘なので、できれば一女ではなく共学化した母校の浦高で優秀な男子に混じって勉強に励んで欲しいですね。

わたしの出身大学、職業は世間的には”エリート”と呼ばれますが、普段は自分がエリートであると意識したことはありません。お会いした人に大学・学部名や職業を聞かれて正直に答えて、「エリートですね」と返答されると、「あっ、エリートなんだ」、まるでひと事のように内心で思う程度です。資格を持ったプロだから、プロとしての知識・技術を落とすことのないように普段から努力を怠らないようにと、肝に銘じています。

 

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第46回 イチローのコーチ
 「高校生クラスって、どんな科目をやっているのですか?」と聞かれることがあります。「どの科目でもいいですよ」と答えると、「えっ、先生一人でですか?」と電話の向こうで驚いた声が聞こえます。「文系科目はわたしが主で、理系の科目はツレアイが中心になりますが、二人とも何でもやります。・・」と、このあたりで、「そうですか・・、では失礼します。」と電話が切れることもあります。

 高校の教科は科目数が多い上に、中学までとちがってどの教科も奥が深く、学習量も膨大です。そんなものを、一人や二人で全部できるわけない、という気持ちが働くのでしょう。たしかに、受験勉強を終えたばかりの、むかしの国立大学(かつては、文系理系とも受験科目は英数国のほかに理科・社会それぞれ2教科)の秀才1年生だったらともかく、すべての教科の内容に精通するのはムリというものです。しかも、英語・数学・古典・漢文などに加えて、物理・化学はいうに及ばず、地学・生物、世界史・日本史・倫理社会・現代社会から、はては、工業高校の「機械設計」、商業高校の「商業簿記」まで持ちこまれるのだから、「サギじゃないか?」と思う人がいても不思議ではないかもしれません。

 しかし、いわゆる難関校といわれる高校の生徒も、商業・工業・看護などの専門学科の生徒も、音楽などを専攻している私立高の生徒も来ています。そして、ありがたいことに、どの生徒もそれなりに、ここに来ていることに満足してくれているようです。

 わたしたちが、これらの教科のすべてに精通し、どんな事項でも<指導・教授>できると、豪語できるはずはないのです。それどころか、仮に、彼らと同一の問題を時間を決めて解いていったとしたら、われわれよりも高得点を取る生徒は何人もいるはずです。そんな塾で、まちがったことを教わったらどうするんだ、と思われるかもしれません。

 そこで、あのシアトルマリナーズのイチローのことを思い描いていただきたいのです。彼の野球の才能を引き出したといわれるチチローことお父さんはじめ、高校の監督、オリックスの新井コーチなどに、イチローを上回る打撃の見本を示して見ろ、と要求する人はいないでしょう。でも、イチローにとって、彼らの存在は絶対に必要だったのです。彼らコーチにとって、自分が打てる必要はないのです。イチローが打てればいいのです。イチローのフォームをチェックし、メンタルのバランスやフィジカルのコントロールに気を配り、彼の能力を最高度に引き出すのが彼らの仕事でした。長島茂雄前巨人監督がコーチとしては失格と言われたり、現役東大生に家庭教師を頼んだら全然ダメだったという話を聞くのも、生徒が達成する前に、彼ら自身が易々とできてしまうからなのかもしれません。

 わたしたちも、同じようなことをしています。どんな事項でも「もう一度教科書を読んでみてね」といい、「この本に載っているはずだよ」と資料を渡し、受験問題なら、はじめから解答をチェックしながら説明します。学校の授業が分からなかった生徒には、ノートを持ってきてもらって、もう一度先生の説明を繰り返してもらいます。「機械設計」だって「商業簿記」だって、これでほとんど解決します。スランプに陥った生徒の話はじっくり聞きます。まさに聞くだけです。

 子どもたちは、たまたま10代という年齢を、現在生きている人たちです。こと勉強に限らず。われわれの計り知れないさまざまな可能性を秘めている存在です。<指導>したり<授業>する、というより、彼らの勉強の現場に立ち会っている、と表現した方が当たっているかもしれません。


**3月25日(火)掲載**
(す〜爺)

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驚き!だけど期待!?2003/03/27 20:31:34  
                     MOTER MAN

 
ひえー!教科多!めちゃくちゃ大変そうだ〜!
だけど、いろんなことが分かったりしたりして、案外楽しそう!
やっぱ高校って漫画やドラマの舞台によくなるけど、楽しいところなんだな!?
 

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Re: 驚き!だけど期待!?2003/03/27 20:59:33  
                     す〜爺

 
MOTER MANさん、こんにちは。
 ずっとお返事書かなくてゴメンね。あなたが、来年の受験を不安に思っていることも、高校生活に期待していることも、どっちもそのままの素直な気持ちだよね。今のまましっかりと努力をしていってください。以前に書いたとおり、部活も生徒会活動も普通にやって、その結果としてあなたが選べる範囲の高校が、あなたにとって一番充実した高校生活が送れる学校のはずです。ふだんはとてもやれないような勉強をやって、精根尽き果ててラッキー!で入った学校も、適当にグータラやってラクーに入ってしまった学校も、あなたにとっては満足できる学校ではないはずです。この一年間、そういう気持ちで、<負けんのキラい>ではない自分なりの努力をしていってください。
 

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