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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第95回 勝ち組・負け組
受験のことについて、もう少し突き詰めて書いてみようと考えながらラジオをつけてみたら、「勝ち組・負け組」という言葉が飛び込んできました。わたしはよく知らないのですが、ベストセラー本のタイトルがテーマになっているようです。その中で、高校1年の女の子が「体育の内申点が悪かったために志望校をあきらめた。自分の両親も高卒なので、うちの家族は“負け組”なんだ、と思った」と言っているのを聞きました。そこで、今回はこの言葉に刺激されて、書いてみることにしました。

 スポーツや囲碁将棋など、勝負を目的とし明確な結果が出る競技ならともかく、長い年月の営みや、多様な価値が並存するような場面にまで「勝ち・負け」という感覚を持ち込もうとする人たちが多くなっているような気がします。わたしの記憶では、これは新しい感覚のように思えます。なぜかというと、人々の中に“生活感”が色濃くあった時代には、そんなことを考える余裕すらなかったと思うからです。多くの庶民は日々の生活を支えるのに必死で、その中にこそ確かな実感がある自分がいたはずです。

 わたしが高校生だったころ、哲学書などを読んでいると、明治生まれの祖母が「哲学なんてものを勉強しているとロクな人間にならない。朝起きてから夜寝るまで、生まれてから死ぬまで、一生懸命働くこと以外何を考えることがあるんだい?」と言っていたのを思い出します。中流意識が進み、いつも他人と比較することでしか自分の位置を確認できない時代だからこそ、「自分探し」などということばも出てきたのでしょうか。いわゆる支配者層のなかには、“出世コースから外れた人”というのがいましたが、これも生活にゆとりがあったからこそあり得たことです。

 最近、大変勉強熱心な若者グループの研究会に参加したときのことです。彼ら若者もその議論に加わってはいたのですが、やや基礎的な知識に不足があって、どちらかというと、飛び入りした大人たち同士の議論が中心になりました。なかなかよい話し合いができたなあ、と考えていたのですが、後日、その日の感想を聞いたある大人に対して、彼らが言ったことは「あの議論はどっちが勝ったんですか?」というものだったそうです。「議論というのは、お互いが意見を出し合って“ほんとうのところは何なのか”に近づくための共同作業なんだ」と、その大人は言ったそうです。しかし、彼らはアタマではわかっていても、体の中に根強く“勝ち負け”でしか判断できない習性が染み込んでいるようです。

 冒頭の女子高校生の話に戻します。彼女のご両親もまた、既にそういう感覚の中で育った世代なのかもしれません。かつて、中学を出てすぐ就職する人が少なくなかった時代には、近所のお母さん同士の立ち話の中で「お宅の子は親孝行だねえ、早くから働いてくれて。うちの子もそうしてくれるとどんなに助かるか知れないけれど、上の学校に行きたいなんて言い出してねえ」などという会話が真顔で交わされていました。団塊の世代であるわたしのツレアイでさえ、「勉強したいのなら、学費のことは自分でなんとかして」と言われ、奨学金とアルバイトでやっと大学を出ました。わたしもまた、学費のほとんどをアルバイトで捻出しました。こういう時代には、少なくとも庶民の間には“人生の勝ち組・負け組”という発想そのものが出てくる余地がありません。

 そうは言っても、いまはそういう時代ではなくなっているのも事実です。そこで、わたしの身近に起きたエピソードを紹介することにします。

 大変努力家のA君と才気煥発型のB君が同じ高校を受けて、大方の予想とは逆にA君だけが合格しました。しょげかえって「もうオレの人生はだめだ。」と口走るB君に、わたしは「どこに行っても、きみの能力は変わることはない。口惜しかったら自分の能力の限界を示してみろ」と言いました。A君は、夢を追い求めて2浪したあと大学に進みました。B君は、現役で東京大学に入りました。A君は、その後すばらしい学校教師として活躍しています。B君は、8年間大学に在籍したのち、大学院を経て某大企業の研究所に入りました。A君は4人の子どもに恵まれ、充実した家庭生活と教員としての仕事に生きがいを見出しています。B君は、現在まで家庭を持ったという話は聞こえてきませんが、第一線の研究者として活躍しているようです。みなさんは、この二人のどちらが“勝ち”で、どちらが“負け”だと思いますか? こういう例はいくらでもあります。わたし自身経済的には大変不安定な生活をしていますが、大企業の幹部として活躍しているかつての同期生から、自由な(勝手な?)生き方をうらやましがられることもあります。

 いずれにしても、他人との比較という無限ループに陥ってしまうほど不幸なことはありません。学歴であろうと、財産であろうと、技術であろうと、自分の“価値の物差し”の中で勝者になったと思っても、かならずその上がいるからです。だからこそ、どの分野でも一流といわれる人は、他人との比較ではなく“自分自身との限度いっぱいの競争”に挑み続けるのではないでしょうか。

 これからの社会を支える子どもたちには、“勝ち組・負け組”などということにエネルギーを吸い取られるようなことなく、人類の歴史の中で、後にも先にもただひとりの“かけがえのない自分”を大切に生きていってほしいと願わずにはいられません。


**5月18日(火)掲載**
(す〜爺)

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庶民とパンピー2004/05/22 16:31:16  
                     す〜爺

 
 上のコラムで、庶民ということばを2度使いました。考えてみれば、生活感のあるひびきをもつ“庶民”がいなくなって久しいような気がします。もう、10数年前になりますが、ある若者から“パンピー”ということばをきいてびっくりし、さらに、由来を聞いて大笑いしたことがあります。みなさんはご存知でしたか? “一般ピープル”の短縮形だそうです。その生活感のなさといい、多少の自嘲と軽侮を含んだひびきといい、現代の大衆の状況をみごとに表現しているように思えました。
 そういう意味では、もう庶民は“絶滅?”しかかっているのかもしれません。われわれの中に庶民の生活感覚を取り戻すことはできるのでしょうか。
 

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第94回 中学受験
 ゆとり教育と同時に進行しているものに、中高一貫教育への流れがあります。私立だけでなく、伊奈総合学園のような公立の中高一貫校も増えていきます。

 子どもを中学受験させる主な理由は、1.高校受験をしなくてすむこと。『中学受験は親の受験』と言われるように、中学受験は親子の協同事業であるのに対して、高校受験は、学力的にも心理的にも親のかかわり方が難しいと考えられているからでしょう。2.公立中学に対する不信感です。「荒れている」「中学校の授業では高校受験に対応できないから、塾に行く。それならいっそ、中学受験で塾に通わせる」3.中学受験のほうが選択肢が広い。現在中高一貫制をとっているいわゆる進学校のなかには、高校からは募集しないところも少なくない、という考え方でしょう。

 さいたま市でも、中学受験専門コースを置く塾は大変多く、それぞれにかなりの数の小学生が通っているようです。子どもたちの話を聞くと“アタマのいい子”が中学受験をするのだそうです。わたしは、成績がよいことを“頭がいい”と表現することにかなり違和感を感じるのですが、それはさておき、「成績のよい生徒は中学受験」というのが、子どもたちの間でさえ、セオリーのようになっていることにも驚かされます。

 わたしも、一時期、中学受験指導にかかわっていたことがあります。まさにアクロバットのようなテクニックを駆使して解く算数の文章題や、巧妙な補助線一本で正解を手繰り寄せる図形の問題など、若かったわたしは、生徒たちといっしょになってワクワクしながら、さまざまな問題に取り組みました。まるで、パズルやゲームに挑戦するような楽しさがありました。国語にしても、出題者の意図をどう見抜いて正解に到達するかを、生徒たちにトクトクと“伝授”していた記憶があります。理科も社会も重箱の隅をつつくような知識が問われたりするのですが、考えようによっては、いま人気の“トリビア”のような面白さがありました。

 ところが、事はそれほど簡単ではありません。“親子協同事業”である中学受験は、成績の上下に親の目の色が変わり、それにつれて子どもたちの苦しそうな表情が見えるようになってきます。なかには、上で述べたような勉強をめいっぱい楽しんで合格していく子もいましたが、多くは、親の期待に沿わなくてはいけない、という小学生らしい健気なプレッシャーで押しつぶされそうな顔をし始めます。志望校に入れなかったときの絶望的な表情も、高校受験生の比ではありません。わたしも、そういうことがどんどん苦痛になっていって、30年も前に中学受験には一切かかわらなくなりました。

 その後、超難関校といわれる某中学の女子生徒が入塾してきたことがあります。好奇心旺盛で、自然体で勉強する生徒だったので「さすがだね。きみのところでは、みんなキラキラした目で授業に取り組んでいるんだろうね。」と聞いたところ、「いえ、大体3分の1ぐらいの人が授業中寝ていたり、ほかの本を読んでいます。自分から発言する人はあまりいません。」という意外な答えが返ってきました。「そんなことをしていたんじゃ、これだけのレベルのテストをクリアするのは大変なんじゃないかなあ。」とつぶやくと「ウチの中学専門の塾に通う人が多くて、そこで勉強をしているんです。だから、結構みんないい点数を取っています。わたしは、そういうのはおかしいと思っているので、ゆとりを持って勉強を楽しみたかったので、ここに来たんです。」と、彼女はイタズラっぽく微笑んで言ったものです。

 親しい人から、中学受験をするべきかどうかの相談を受けたとき、わたしは次のように答えています。
 読書でもスポーツでも音楽でも、あるいは友だち関係でも、子ども自身が活き活きとかかわっているものを犠牲にしないで受験できること。小学校で深刻なイジメにあっているような場合ならば、中学入学を機に場を移す、という意味での中学受験も選択肢の一つだろうけれど、公立の中学で、いろいろな人間関係の中でもまれ乗り越えていくたくましさを身につけてほしいこと。特に優秀といわれる生徒なら、思春期前期の大切な3年間を、文化的にも経済的にも限定されているなかで過ごすことは望ましくない。もし、“ほんとうのエリート”として育てたいのなら、公立中学を避けてほしくない。などです。

 先ほど述べたように、このところの中学受験事情にはまったく疎く、認識のまちがいがあるかもしれません。皆さんからのご意見もぜひ伺いたいところです。


**5月11日(火)掲載**
(す〜爺)

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えいこさんへ2004/05/11 18:37:42  
                     す〜爺

 
前回のレスを書き込んでありますので、よろしくお願いします。
 

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Re: 第94回 中学受験2004/05/12 14:04:36  
                     MOTER MAN

 
受験てモンは高校からでいいと思います。
話は中学受験でしたが、最近では幼稚園や小学校の受験もあるそうですから。確かに子供にいい将来を送って欲しいと親が子を思う気持ちも分かりますが、子供にとっては遊びたい時に遊べないという苦そのものです。
 

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Re: 第94回 中学受験2004/05/13 13:13:54  
                     す〜爺

 
MOTER MANさん、こんにちは。
 ちょうどいい書き込みをしてくれましたね。きみが言うように、受験は、喜びも悲哀も“自分のもの”として考えられる高校受験からでよいと思います。
 自分の子どもに“いい将来”を送ってほしいと願うのは、きみの言うとおり、親として当然の願いです。でも、どういうものを“いい将来”と考えるかは、それぞれの親の価値観の問題です。幸福観も、生きがいや仕事に対する考え方も、家庭観も千差万別です。そのなかで、多くの親たちは、「ともかく苦労させたくない」と考えますが、なかには「どんな事態になっても乗り越えていけるようになってほしい」と考える親もいます。どちらも親としての切実な思いなのでしょう。みなさんはいかがですか?
 

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ん〜2004/05/15 6:27:04  
                     マミー

 
子供にとって遊びたいときに遊べないのは苦・・・とありましたが
遊びながら受験するって出来ないですか?
一般的に親の受験と言われがちですが、親がするものじゃないので
結局のところ本人じゃないのでしょうか?
家は小学校のテストはいつ?と子供に聞かれて、親の方が「えっ」と
驚いた始末でしたよ。
塾も行かず何校か受験しましたが、合格させて頂いたところもあります。
落ちたところもありました。本人が今回のテストで学んだことは、
時間内に問題を解かなくちゃいけない事だそうです。結局のところ
お母さんの希望として、ちかくの小学校に通って欲しいと伝えたところ
学校のあとスイミングに行かせて欲しいというので、それなら近くないと
通えないよと教えたら、公立の小学校に行っています

近頃受験は低年齢化しているのは事実ですよね。どう受験していくか、
どういう環境に子供をおくか、といのは親として一緒に考えていくべき
ことではありますが、勉強は苦、大変いうイメージを与えるのも
一番身近にいる親だったりするものです。
受験するしないは、どんなに幼い意見でも子供の意見も聞き進めるべき
ではないかと思いますが、まずは親が勉強は大変というイメージの付け方でなく
新しい発見があって楽しいものというイメージを与えると
いいのではないでしょうか?

子供が味覚を覚えるとき、お母さんが必ず脇で、「しょっぱいね〜」とか、
「あまいね〜」とこえかけすることで味と言葉が結びつくと言います。
一緒にしたらいけないのかもしれないけど、そういうことのような気がします
受験もマイナスに考えず、経験としてとらえるともう少し苦じゃなくなるのでは
ないでしょうか?
 

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Re:ん〜2004/05/15 11:42:37  
                     す〜爺

 
マミーさん、初めまして。
 MOTER MANさんの書き込みについてのご意見ですね。受験勉強真っ最中だったころの彼のいくつかの書き込みをお読みいただくと、彼が勉強そのものについてはかなり楽しんで取り組んでいたことをお分かりいただけると思います。
 彼が言いたかったことは、勉強そのものの苦痛よりも“受験”という状況がもつ重苦しさです。遊ぶことが本当に楽しかった自分の小学校時代を振り返って、あの時代に、あんな受験の苦しさを味わいたくなかったなあ、と考えたのだと思います。彼はいま高校生になって、難しくなった勉強に受験時代以上に頭を痛めながらも、それを楽しんでいるようです。
 マミーさんのお子さんはとてもしっかりなさっていて、わたしが本文の最後の段落に述べたような受験をなさったようですね。マミーさんのように「受験もひとつの経験」と考えられるお母さんのもとで受験できるお子さんは幸せですが、やはり、中学受験をする多くのご家庭では「人生の岐路」に近い感覚で受験に向かうのではないでしょうか。いろいろご意見をお聞かせください。
 マミーさん、書き込みありがとうございました。
 

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第93回 たたみいわしの会
 この道の偉大な仲間であり先輩であって、わたしが心から敬愛してきた八杉晴実さんという人がいます。八杉さんは、人間に対する底知れない温かさとストイシズムをもって子どもたちの側に立ち、その鋭い感性で徹底的に私塾のあり方を問いかける人でした。彼の元には、全国から多士済々の私塾人が集まり、あたかも梁山泊の様相を呈していました。その八杉さんがまだ56歳の若さでガンに倒れ、ついに帰らぬ人となったのが1990年の8月のことでした。

 すでにその年齢をはるかに越えたというのに、わたしは、いまだに八杉さんのことについて語れるほどのものを持ち合わせていません。その八杉さんの畢生の仕事とも言えるのが、死の3ヶ月前に発足させた『家族ネットワーク』という活動でした。

 その主旨の中で八杉さんは次のように書いています。「今、個々に孤立したままで子育てをしている家庭が増えています。(中略)ひととひととが心ふれあいながら生きるーそんな人間環境の中でなければ、子どもも本当に豊かには育っていかないのではないでしょうか。大人同士がまず、親しくつながりあいませんかー(後略)」つまり、単独家庭の子育てでなく、彼の表現を借りれば“心のお隣さん”の関係の中で子どもたちを育てていこう。という趣旨の呼びかけでした。まさにわたしが考えてきた“手渡しのメッセージ”をさらに、壮大で有機的に働かせようという試みでした。

 八杉さんが、その発足準備会のなかで述べた「たたみいわしのように・・・」という表現をいただいて、以前に書いたことがある「浦和・教育を考える会」を母体として「たたみいわしの会」を呼びかけました。たたみいわしとは、いわしの稚魚を薄く板状に延ばして天日で干した酒のつまみです。あっちを向いたりこっちを向いたりと無数につながっているようすが、まさに「家族ネットワーク」の精神と通じるものを感じたからです。「みんな同じ考え、同じ感覚をしているのは気持ち悪い。それぞれが違っていていい、でも、頭でもしっぽでもどこかひとつだけでも共通のことがあれば、そこから少しずつつながっていけば、何かが生まれる」という意味です。

 学校の先生、八百屋さん、工芸作家、市民運動家、塾の先生、などなど多くの人たちが参加してくれました。会では、何かを話し合うよりも、大人同士で楽しんでみよう、ということで、荒川でのカヌー遊び、ピクニック、サイクリング、草木染めや工芸に挑戦など、大人たちが無邪気に心の底から楽しみました。こうして親たちが解放されることで、不思議にそれぞれの子どもたちも元気になっていったようです。

 子どもたちも大きくなり、初期のメンバーもそれぞれ忙しくなってきて、会の活動は低調になってしまいました。でも、どういうわけか、今でも年1回の忘年会だけは盛大です。毎年入れ替わり立ち代り、お菓子屋さん、新聞記者、能面師、アメリカ人の青年、営業マン、家庭の主婦など、さまざまなひとが一品持ち寄って、なかには明け方まで飲み明かす人もいます。わたし自身は、口下手で場を盛り上げるのも大の苦手なのですが、どのひとも「楽しかったあ」と帰っていきます。ほとんどの人が、前の段落で述べたかつての楽しい会を知りませんが、初対面の人でもすぐに打ち解けてしまうのが、まさに「たたみいわし」の精神がまだ息づいている証拠かもしれません。

 八杉さんが提唱した『家族ネットワーク』の本部の活動は停止してしまいましたが、その精神は全国各地で脈々と受け継がれているようです。「たたみいわしの会」も、あまり肩肘張らずに、こういう時代だからこそ「大人が楽しむ」ことを目的に、かつての会を再生しようかなと、考えているところです。入退会自由、実費持ち寄りの会ですので、そのうち、このサイトの“サークル”欄で見かけたら、みなさんもぜひご参加ください。


**4月27日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第93回 たたみいわしの会2004/05/10 20:23:13  
                     えいこ

 
こんばんわ。
久しぶりに拝見します。冒険遊び場の会の者です。
たたみいわしの会・・・いいですね。

ぜひ、その会の会合がありましたら、私達にも声をかけていただけませんか??
今でも、子育てのサークルや、個々に、ネットワークを主体に活動している・・仲間や
つながりなどをもとうとするグループはいますが、ぜひ、私達の為。だけでなく、
次の世代の為にも、今、子どもの環境に対しての理解が云々されている今に、お知恵を貸していただきたいのです。

子育ては、確かに、家族が主体ですが、家族だけで動いていては、限界があります。
子育てを育ってしまった、かつて子育ての問題を考えていた世代の方達の力は、、絶対、必要です。

そうでないと、またまた、次の世代が、悩み、苦しみ、また一から、つながりをもとうとする動きを個々にしてゆくしかありません。

よろしくお願いします。こちらからも、連絡を取らせていただきます。
 

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Re: 第93回 たたみいわしの会2004/05/12 0:11:57  
                     す〜爺

 
えいこさん、こんにちは。
 たたみいわしの会は、本文にもあるとおり、いわゆる団塊の世代以上のメンバーが中心であったために、子どもたちも成人し家庭を持って、それぞれがジジババになろうという年齢になり、忘年会だけの会に成り下がって(?)しまいました。
 しかし、まだまだ好奇心旺盛で遊び好きな連中のこと、呼びかければ、乗ってくると思います。
 ただ、えいこさんと同世代の子育て中のお母さんたちこそ、何のしがらみもないこういう集まりが必要なのかもしれませんね。
 えいこさんのレスを読んで、やはり「新生たたみいわしの会」を立ち上げてみたくなりました。具体的には、1.お互いにストレスなく楽しむ 2.参加費はそのつどの実費だけで、入退会自由 3.宗教活動や政治活動への強引な勧誘は一切ナシ 4.場所は、公園・喫茶店などそのつど決める事務局負担の少ない方法をとる ぐらいのことを考えています。ご相談したいので、えいこさんから、サイトの管理人を通して連絡をいただけますか? 

 
 

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第92回 手渡しのメッセージ
 テレビが苦手である理由のひとつに、そのメッセージが手渡しでないことがあります。じつは、自分のメッセージを発するということに限って言えば、わたしはかなりの小心者です。最近でこそやっとメールにも慣れてきましたが、以前は電話も苦手で、特に、初対面の方や多少距離を感じる人とは、やはり直接お会いして話したいと思ってきました。そうでないと、相手が言っていることを誤解するのではないか、自分が言いたいことが正確に相手に伝わっていないのではないか、という不安感があるからです。

 また、わたしのような者のところにも、ごくまれに、大勢の前で話をしてほしい、との依頼をいただきますが、極力お断りしてきました。生来の話下手ということもありますが、不特定の人に一方通行のメッセージを送っているような居心地の悪さを感じるからです。このコラムをお引き受けする時も、そのことにこだわりました。しかし、ここはまさに“双方向”であって、書きながら自分自身が学べるところである、読んでくださっている方々とのやり取りを通して自分の考えを確かめ、深めていくことができる場である、と考えました。

 “手渡し”という意味では、塾の日常こそそうでありたいと心がけてきました。基本的に1クラス6〜8人を定員にしていますが、ここにツレアイと二人で入って、ほとんど一対一のやり取りです。この“やり取り”というのは、教えるという営みの中でのことばのやり取りであったり、さらには、気持ちのやり取りまで含めて“手渡し”をしている、という感覚です。

 さらには、中学生以上の生徒は、ひとりひとり「おじさんとの交換ノート」を持っています。もう十数年続けている試みです。年に4,5冊も書く子がいれば、6年間で1冊、という生徒もいます。このノートの内容については、親兄弟にも友だちにも口外しないという約束なので、子どもたちは本当にさまざまなことを書いてくれます。みんなにも読んでほしい、見てほしい、という生徒もいますが、大半はわたしとの信頼関係のなかで書いているので、親に見せれば仰天するようなことも書いてあります。この交換ノートは、現在の子どもたちが直面しているさまざまな事象が網羅されているという点で、たいへん興味深いものです。いずれこのコラムでも取り上げようと考えていたものもあるのですが、子どもたちとの約束でもあり、墓場まで持っていこうと決めています。ただ、これまでも、このコラムの中に形を変えて何度か取り上げたこともあります。公開してもよさそうなものは本人の承諾を得て書くことがあるかもしれません。

 ところで、最近は、授業料は銀行振り込みという塾も多いようですが、来月もお互いにしっかりと付き合いましょう、という気持ちを込めて、手作りの授業料袋と一人一人の親ごさん宛ての一言コメントを添えた教室通信を渡します。そして、月初めには、半数ほどのお母さんから一言メッセージが添えられた授業料をいただきます。コメントが入っていなくとも、授業料袋からお金を取り出すとき、その紙幣の一枚一枚から親の思いが伝わってきて、毎回身が引き締まる思いがします。

 固くお断りしているのですが、お中元お歳暮を下さる方もいます。とりわけ、デパートの宅配で届いたりすると暗然とした気分になって、こちらも儀礼的なお礼の手紙を書くことになります。うれしいのは、「実家から送ってきたばかりの山菜です」とか、「ちょっとおいしくできたので、ホンのおすそ分け」と届けてくださる煮物、「わたしが大好きなお菓子なので、自慢しようと思って」などとうれしそうにコーヒーを飲みに立ち寄ってくださったり、といういただきものにはつい相好を崩してしまいます。これもまた、わたしにとっては、心地よい“手渡し”のメッセージです。



**4月20日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第92回 手渡しのメッセージ2004/04/23 20:24:10  
                     MOTER MAN

 
手渡し・・・。確かに最近は何かと機械化やデジタル化なんていってそーいうのがなくなってきてる感じがします。
やっぱりこう、相手とのふれあいってのは大切なもんですね。

ヤー高校生は忙しい。でも楽しい。勉強大変だけど苦にならないんです、中学とちがって。なんか不思議ですね。部活はワープロ部なんですが、3000人級の学校なのに部員五名、実質2名で楽しくやってます。
 

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楽しいなんて最高!2004/04/24 12:55:20  
                     す〜爺

 
MOTER MANさん、こんばんは。
 いいねえ。勉強って、苦しむためにやるもんじゃなくて、自分の世界を広げるためにやるものだから、ほんとうは楽しいはずのものだね。でも、成績だとか先生や親の顔だとかいろいろ考えると、つらくなってしまうよね。高校ともなると、簡単にはわからないこともいろいろ出てくるし、覚えなければならないことも多い。でも、そういうことに出会うたびに「これを乗り越えると、自分の世界がまたひとつ広がるぞ」と考えると、ちょっと元気も出てきます。それでも、そのうちどう逆立ちしても乗り越えられないことにも出会う。そういうときこそ、学校の先生なり塾なりのサポートやアドヴァイスを受ける。それでも、なお乗り越えられないとき(高1の今はまだ考える必要もないけれど)それが自分の限界です。「限界なんてひどいよ」と言う人もいるけれど、自分の限界を感じるのもまた高校時代というものだ。す〜爺もそんな悲哀をいっぱい感じて、大人になってきたような気がするなあ。なかには、自分の限界も悲哀も感じないままに大人になってしまうひともいるけれど、す〜爺はそういう人にあまり魅力を感じません。
 

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Re: 楽しいなんて最高!2004/04/24 22:01:48  
                     高一の親

 
こんばんわ。す〜爺さん。MOTER MANさん。
ワープロ部って、すごいですね。
ワープロって死語なのかなと、あえて使わないように気をつけていました。でも、花の(?)現役高校生が使っているのなら、旧人類の用語ってわけでもないですよね。ちょっと安心しました。

す〜爺さんにはお詫びしなくてはなりません。
じつは、うちのこどもは、女子なんです。
「ちょうぜーしぃ。まじキモっ。」とか言って、壁を蹴るような子ですが・・・
まぁ子供の頃からよく間違えられてきましたし、こちらのコラムも「言葉遣いが悪いから、坊ちゃんと思われるのよ」と戒めにしてるんですが。

本人いわく「男子の方が、言葉きれいじゃん?」だそうです。
すぐに訂正しなくて、すいませんでした。
 

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こちらこそごめんなさい。2004/04/26 11:38:12  
                     す〜爺

 
と言いながらも、思わず高笑いしてしまいました。
 むかしから、そういう元気な女の子にたくさん会ってきたはずなのに、わたしはいつごろから、思い込んでしまったのでしょうか。げに“思い込み”とはオソロシイものです。
 「高一の親」さん、おはようございます。早朝、2階の寝室まで上がってきた犬にたたき起こされて、彼女の散歩につき合わされました。そういえば、うちのは柴系の雑種で、しかも男の子の友だちのマネをして足を上げておしっこをするので、よく「りりしいですねえ」「ケンカ強そう」と言われてきました。これもまた、ジェンダーの問題かもしれないなあ、と思いながら、そのわたしが、やはり、まだまだジェンダーフリーになっていないんですね。
 “お嬢さん!”が指摘するように、このところはたしかに男子のほうがやさしいことばを使う子が多くなっているかもしれませんね。男の子とお母さんの関係がそれだけ密接になっているのでしょうかね。
 それにしても、中学生くらいまでは勇ましかった女の子が、お年頃になると急に言葉遣いがおとなしくなったのをたくさんみてきました。結婚しても、相変わらずべらんめえだったのに、ママになったとたんに変わってしまった人もいます。だれかを好きになったり、最愛のわが子を抱きしめたときに、自分のジェンダーを意識するのでしょうか。女性たちにうかがってみたいものです。
 「高一の親」さん、さぞこそばゆい思いをしていたのでしょうね。あらためて粗忽な思い込みをおわびします。 
 

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第91回 再び・反テレビ論
 塾の春休みの間にしたことのひとつに「テレビを観ること」があります。わが家のテレビは、リビングから一番離れた事務室兼自習室の隅にある古い14型のもの1台だけです。休日勉強をしに来る生徒がたまにつける程度で、われわれ夫婦はあまりみることがありません。それでも、わたしは好きなサッカーの中継をたまに見ることがありますが、ツレアイなどは、美術関係の番組でどうしても見ておきたいものがあるときだけ年に1時間ぐらい、コーヒーカップを片手に食い入るように見ています。

 そんなわけで、子どもたちと話題が合わないことはなはだしいのです。でも、よくしたもので、芸能人の名前も何も知らないわたしたちに驚きながらも、得意げにいろいろと解説してくれるので、これもまたコミュニケーションの材料にはなっているようです。「○○という番組ぜったいおもしろいからみてみてよ」「○○くんってすっごいカッコいいんだ。きょうの7時半からの日テレみればでてるよ」などと言われても、ふだんはなかなか見ることもできないので、今回は“一念発起?”してテレビの前に座る時間を作ってみたというわけです。

 ニュースをはじめとして、バラエティー番組、ワイドショー・・・と話に聞いていた番組を、おもに民放を選んでみてみました。そして、わかったことがいくつかありました。まず、異様に疲れることです。1時間もしないうちに頭が痛くなりました。番組が悪いというより、目や耳から一度に入ってくる情報量が膨大だからです。聴覚障害の人のためなのか、多くの番組では、出演者のせりふ一つ一つが大きなテロップで流れています。画面に映し出されているものとは別に隅のほうに場面に反応する出演者の顔が出ています。まるで「ここは笑う場面だぞ」「感動するんだ」と指示されているような圧迫感を感じます。さてこれからというときに、とつぜんCMになります。これがまた、めまぐるしくけたたましくたたみかけるようなものが多いのです。それに、バラエティーといわれる番組に出ている人たちの妙な話し方としぐさ、思わず「あっ、これか」と声に出していました。まさに、日常子どもたちから発せられているものと同じです。

 ニュースもまた例外ではありません。ニュース原稿は一見冷静で公平を装っていますが、センセーショナルな場面を何度も繰り返し流しながら、あるメッセージを強烈に押し出しているように感じます。インタビューなどでも、おもしろい部分だけを拾い出して、たぶんその前後にある大切な部分をカットしたのではないかと思われるものがあります。そういえば「自分の言いたいことと正反対の意見を言っているように編集された」と、新聞に書いている人がいました。

 先頃、小児科学会が「乳幼児の時期の長時間のテレビ視聴が、コミュニケーション能力に与える影響」について警告を発しました。しかし、すでに50年前のテレビ放送の初期に、評論家大宅壮一氏は「テレビ一億総白痴化論」を打ち出しています。

 子どもたちが惹き起こすさまざまな問題、社会のなかに浮き沈みする奇妙な現象や事件、それらのすべてを“テレビのせい”にするつもりはありませんが、この短い間のテレビ視聴を通じて、社会や子どもたちの間にときおり流れる“奇妙な気分”とおなじ種類のものを感じました。いわく、ふかく追求するより早くわかりやすい結論を出す・いったん“ワル”と決めた相手には、みんなが正義派であるかのようにふるまう・「わたしからあなたへ」の手渡しのメッセージがない・そして、ウケればよい・・・。そういう“気分”が子どもたちや人々にしみこんでいくのと、学校教育が社会に与える影響とを単純に比べることはできないまでも、そこに向かう気持ちの入り方と、接する期間の長さとで、テレビは圧倒的な力を人々に及ぼしているように思えるのはわたしの偏見なのでしょうか。

 永六輔氏、秋山ちえ子氏など、戦後の草創期から放送にかかわってきた人たちが「テレビには出演しない」という態度を貫いているのは、こうしたテレビの怖さを知り抜いているからであるように思えます。

 テレビ局で働いている人たちの多くは、おそらくまじめでやさしい生活人なのでしょう。少しでも多くの人の共感を呼ぶ(視聴率を稼げる)番組を作って、できるだけ多くのCMを獲得したい、と仕事に燃えているのでしょう。古くからの知人である某テレビ局の大変有能な幹部がまだ若かったころに「テレビ見るバカ、作るバカ、そのまたテレビに出たいバカ」と自嘲気味につぶやいていたのを思い出します。彼は、かなり冷めた目で自分の仕事を見ていたのでしょう。しかし、いまではそういうテレビの最先端で、そんなことを振り返る余裕もなく、神経をすり減らす毎日を送っているようです。


**4月13日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第91回 再び・反テレビ論2004/04/17 12:21:05  
                     高一の親

 
ハンドルネームも持ち上がりました。高一の親です。
 
テレビの害については、わたしも痛感しています。私は家庭で、この無責任なメディアの扱いに気を使ってきました。ただし気を遣わない人にとっては、その害を実感しにくい事がジレンマです。

こどもは高校で新しく友達ができ、中学の同級生たちともメールがひっきりなしです。高校にはいったら、ゆっくりテレビを見るのかと思いきや、結局見る時間はなさそうです。ただし、常に携帯を打っているのをみると、新たな心配をしたほうがいいのかなと思います。

ところで、おそくなりましたがMOTER MANさんも入学おめでとうございます。しっかり者のMOTER MANさん、いろいろご意見をきかせてくださいね。
 

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ケータイメール?2004/04/18 12:49:06  
                     す〜爺

 
「高一の親」さん、MOTER MANさん、ひさしぶりです。こんにちは。
 思えば、「中二の親」さんから始まって・・・時のたつのは早いものですね。まさにネット上だけのお付き合いですが、いつもありがとうございます。
 テレビについては、まだまだ言い足りないこともあるのですが、まずはこれくらいからと思って書いてみました。轟々たる?反論があるかと考えていたら、なかったですね。「マイタウンさいたま」になってもこういうコラムを読む人は少ないのかもしれません。 
 ところで、ケータイメールにハマっているのは女の子に多いようですが、男の子がケータイメールにハマるときには、ある兆候があります!! さて、「高一の親」さんのお子さんにも当てはまるかどうか???(こういうところで、顔文字を使うのだそうですが、残念ながら、わたしには使えません)。
 MOTER MANさん、高校生の気分はどうですか? 新しい友達はできた? 高校の勉強は、大変かもしれないけれど、中学の勉強よりもずっとおもしろいはずなので、特にスタートでは、いっしょうけんめい取り組んでください。
 

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Re: 第91回 再び・反テレビ論2004/04/17 18:57:28  
                     MOTER MAN

 
私も高校生になれました。
テレビは毎日のように見ていますが、やはり気になる感じがします。
テレビは本当のあり方を見失っているのではないか?
と感じます。
 

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第90回 「アセリ」をあおるもの
 新年度になりました。合併には反対していたわたしですが、このサイトだけは「マイタウンさいたま」になって、視界が開けたような気持ちです。浦和の北辺に住んでいるので、「浦和の隅から・・・」ではなく「さいたまの真ん中から・・・」になってしまったからでしょうか。あるいは、旧大宮にも旧与野にも、多くの知人・友人、そして塾生や塾のOBたちがいるからかもしれません。

 そのうちの一人Aさんが訪ねてきました。わたしのところでは、祝日やテスト前の日曜日を休まない分、春・夏・冬とそれぞれ1週間前後の休みをもらっています。この休みの間に、たまったプリントを整理し、新しい教材を作り、ふだん会えない友人に会いに行ったりします。でも、こういうときを狙って(?)AさんのようなOBが訪ねてくることもあるし、学校の課題がたまっている生徒たちが毎日のように勉強しに来たりと、あっという間に過ぎてしまいます。

 さて、そのAさんが「そんなに長い間、のんきに塾を休みにしていていいの? 休みが明けたら、ほとんどの生徒がよその塾に行っちゃったりして・・・」などとコワいことを言うのです。まあ、これまで何年もこうやってきて問題はなかったのだから、と思いながらも、先日の話を思い出して、ちょっと不安になりました。

 このところ、生徒たちの家には、電話・DM・訪問など、ありとあらゆる方法で塾からの勧誘があるそうなのです。「いまの塾で、成績は上がっていますか? 受験はますます厳しくなっているので、早くスタートしないと、どこの高校にも入れませんよ。さあ、春の講習で無料体験してみよう」などと言われた子もいます。長い付き合いの生徒は、さすがにまったく動じないようですが、入塾して間もない生徒や、子どもの現状に不満な親たちにとっては、かなり不安になったり、あせってしまうのは当然です。毎朝のように新聞に折り込まれる塾のチラシには、一流と言われる高校に入った生徒の顔写真が載り、細かくコース分けしたクラスはそれぞれの目標を明確に持っていて、“びっしりと勉強させて”くれて、その顔写真の先輩たちのような高校に入れてもらえそうな気持ちがするのでしょう。こういうチラシを見ていると、信頼してくださっている方たちからの口コミがほとんどであることに、心から感謝したくなります。

 以前書いた“ネガティヴ・キャンペーン”のように、講師を多く抱える塾は、あの手この手でアセリと不安を増幅させて生徒を呼び込み、この少子化の時代を乗り越えていかなければなりません。わたしのところのような個人塾は(たぶんどこの個人塾でも)子どもをあせらせたり不安がらせたりはしません。逆効果になることが目に見えているからです。一人一人が精一杯の努力で、一つ一つわかることを広げ、わかったことが身に付くまで確かめる。そしてこうして身についたことがその教科全体のなかでどんな働きをするのか、を理解していく。この極めて当たり前のことを子どもたちの気持ちに添いながら毎回積み重ねていくだけです。いわば、山登りや長距離走のように、自分のペースを守りながらステップを踏んでいくことが、それぞれの生徒にとってのベストであるはずです。「早く、早く」と急かせれば、あごだけ前に突き出して足腰が後ろに残るのと同じことになるし、ともかく早く結果を出そうとして、ガケを登るようなこともしたくなり、その結果投げ出してしまいます。「早くよりも、確実に。そして、その確実がすこしずつ早くなればよい」と言い続けています。

 業者テストも、中学入学直後から会場テスト受験を勧め、お母さんたちも、何に乗るのかわからないけれど、ともかく乗り遅れまいと必死になって受験を申し込みます。しかし、そのテストを有効に活用できる人はわずかです。たいていは成績結果と列挙される高校名を見て、得体の知れない“あせり”を生んでおしまいです。わたしのところでは、中3の夏休み前からの会場テスト受験を勧めています。私立高の選抜資料としても、テスト慣れとしても、それで充分だからです。

 一生懸命やることとアセルこととは違うのに「間に合わないぞ、早くしないと大変だよ」と言われれば、とりあえず走り出してしまうのも人の性というものかもしれません。ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」のテビエのように、「だが、まてよ」と踏みとどまってみるのも、ときには必要なことだと思いませんか。


**4月6日(火)掲載**
(す〜爺)

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第89回 『教えることの復権』は可能か?
 大村はま、という有名な教師がいました。いた、というより、教育現場での実践について考えるとき、時代を超えて、たぶん98歳の今も“教える立場の者”にいつまでも新鮮な刺激を与え続けている人です。そして、わたしもまた、かつて『大村はま国語教室』に触発され、その“単元学習”のいくつかを試みたことがあります。ところが、用意周到に臨んだつもりが、ことごとく失敗してしまいました。子どもたちは“一応”おもしろがったものの、それっきりでした。そこには、何かの力がついたとか、次につながる何かを獲得したとか、いま思い返してみても、そういう感触はなかったような気がします。

 大村さん(ほんとうは先生と呼ぶにふさわしい人ですが、手垢のついた呼称は使いたくはありません)は、実に厳しい実践者です。このコラムの初期のころ、いわゆる“実践記録”が生み出す幻想について書きましたが、『教えるということ』(ちくま学芸文庫)で読む限り、彼女のそれは、メソッドでもコンセプトでもなく、現役の教師を退いた現在まで変わらない“生きる姿勢”の表れだと思えます。大村さんは、この本のなかで「子どもが大好きで、やさしくてあたたかくて、子どもたちに慕われるというのは、教師としての資質ではない。自分自身が日々勉強すること。わからないこと、やれないことの責任を子どもたちに負わせない。指示する言葉を使わない。・・・」と書いています。「わかりましたか?」「家でやってきましたか?」「あなたは勉強が足りません」「静かにしなさい」ということばは、彼女にとっては禁句なのです。

 大村さんは、同じ教材は2度と使わなかったそうです。一人一人の子どもの顔を思い浮かべながら準備をしていく、まさにライブの授業であったといいます。形式は一斉授業であっても、一人一人に問いかけ、具体的な方向を指し示していく、そして、授業が終わったときは、あたかも生徒本人が自力で達成したかのように思える授業を心がけたということです。ここには「教える」技術をもった誇り高い専門職である教師としての厳しい目を感じます。大村さんは、繰り返し「未来の建設に携わる人間を育て上げる、または育てようとすることこそ教師の仕事である」と言います。

 このような大村さんの姿勢と対極にあるように思えるのが、現在多くの場面で耳にする「自ら学び、自ら考える力」という考え方です。正直に言うと、わたし自身も、そういう考え方に傾いていた時期がありました。自分で気づき、自分で発見することが大切で、できるだけ教えない、というスタイルをとっていました。もちろん、本人が当然わかっているはずのことや、もう一度読めばわかることに対しては「もう一度考えてごらん」と言うことはあります。しかし、「自ら学ぶ」ことは、学ぶ側の姿勢であって、教える側の「教えない」態度であっていいはずがありません。

 今回のコラムのタイトルは、大村さんの教え子でもある苅谷夏子さん、彼女の夫君でかつてこのコラムでも取り上げたこともある教育社会学者・苅谷剛彦氏、そして当の大村はまさん、この3人の対話の中で生まれた『教えることの復権』(ちくま新書)をそのまま借用したものです。

 際立って優秀であったかつての教え子の口から語られる大村教室の授業は、これまで読んできたものをさらに具体的に活写するものでした。ピーンと張りつめた緊張感、生徒との真剣勝負のなかの明るい活気のある授業、それらの一つ一つが30年前のこととは思えないほど新鮮に語り出されます。わたしのような“私教育“の世界に身をおくものであろうと、“公教育”の現場にいる教員であるとを問わず、教える立場で現在子どもたちと接しているものにとっては、大村さんの迫力と能力の高さ、真摯な使命感には、冷や汗の出る思いがするのではないでしょうか。

 しかし、ここで、わたしにはいくつかの疑問があります。“公教育”の使命感を持って、徹底的に一人一人にかかわっていく、という大村さんの姿勢は、彼女が並外れた力量の教師であったからこそあり得たものではなかったか、そして、社会から「教える(授業する)こと以外の責任」を際限なく負わされる現代、大衆消費社会のなかで知的欲求を失っている多くの子どもたちの中に、かりに大村さんのような教師がいたとしても、空回りしてしまうのではないかということです。そして、さらに、「教育のシステム」として彼女の実践を取り入れようとすれば、大多数のフツーの教員たちは、冒頭でわたしがやってしまったような失敗を繰り返すのではないかと思うのです。

 以上のような懸念をこえて、「なにを教えるべきか」「学力を伸ばすとはどういうことか」「今しか教えられないことは何か」そして「なぜ教えるのか」について、“公教育”は、改めて真剣に考えなければならない時期にきています。


**3月30日(火)掲載**
(す〜爺)

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第88回 公教育の私教育化
 わたしのところでは、入塾案内に“学び”についてのつぎのような“考え方”を載せています。
 [自分のペースでやりたい人、わかりたいことをたくさん持っている人、やりたいことを探している人、大歓迎! 自ら学ぶ心・楽しく学ぶ心を大切に、(中略)「わかろうとしてもわからない」のは教える側の責任。しかたなく通わされるのではなく、子どもたち自身が少しでも意味を感じて通ってくるような塾でありたい。]
このコラムで、わたしの塾の宣伝をしようというわけではありません。これが、まさに“私教育”の考え方だと思うからです。

 「生徒の側に立つ」というとカッコいいのですが、むしろ、それぞれの生徒や家庭のニーズに応えることが、その本質です。場合によっては、「勉強なんかしたくないけれど、このままではまずいので勉強させてほしい」という生徒に対して、とりあえず目の前のテストに彼らが望む結果が出るように、あれこれと知恵を絞ることもあります。一つ一つのつまずきを発見し、その原因を取り除いていくのは当然のこと、一人一人の生徒とゆっくりと付き合って、その生徒に合った学習の方法や、わかりかたを見つけていきます。さらに、中学生以上の全員とわたしとの1対1の交換ノート(これについては、いずれ書くつもりですが)のなかで、それぞれの生徒の“感じ方”や傾向を知ることもあります。

 しかし、いくら生徒や家庭のニーズに応えるといっても、こちらの分を超えることや、明らかに本人にとってマイナスでしかないと思われることはできません。ツレアイと2人で、一人一人に目を配れる限度は8,9人まで、というところですし、中3の夏休み以降は、たとえ中3の在籍が2・3人しかない年度であっても、兄弟が塾生であるなど、家庭との信頼関係が強い生徒を除いて、新入塾は受け入れません。これまでにも書いてきたように、中学生は“気持ち”の部分がとても大きいので、夏休みからでは信頼関係を築く時間が足りないからです。また、「なにがなんでも○○高校に入れてほしい」という“ニーズ”も丁重にお断りしています。「いっしょに最善を尽くします。最善を尽くした結果選ぶことができる高校が本人にとって“よい高校“です。」とお話しています。

 なんと傲慢な、と思われるかもしれませんが、われわれの分を超えたり、結果として本人や在塾生にとってマイナスになることをすれば、塾は成り立っていきません。曲がりなりにも40年近くやってこられたのは、大きな意味で、一人一人のニーズに応えようとしてきたからだ、という自負があります。

 つまり、「“私教育”とは『生徒たちになにかを教育してやろう』ということではない」というのが、わたしの考え方です。目の前の生徒の一人一人にとって、よりよいことを双方で探していくこと、だと考えてきました。もちろん、その過程での“副産物”として、わたしが次の世代の彼らに伝えたいことが語られ、表現されることもあるし、われわれ夫婦の暮らし方に影響を受ける生徒もいます。しかし、これらはあくまでも“副産物”であって、目的ではありません。

 それに対して、「人類が獲得してきた知識や知恵など、われわれの社会が次の世代に伝えるべきこと、次の世代の社会人として身につけておいてほしいこと、を子どもたちに施す営み」が、“社会システムとしての公教育”である、と考えています。その意味では、“あるべき社会”がどういうものであるのかを、現在の社会を構成しているわれわれ一人一人が真剣に考えなければなりません。“学校の責任”だけを声高にあげつらう意見にわたしが加担できないのは、そういう理由からです。なお、公教育の現場では、“私教育”とは逆に、個々の教師が一人一人の生徒の状況を把握して、生徒のニーズに応えていくことが“副産物”になるのではないかと思います。

 ところが、前回の県教委の新方針の例に見るように、“公教育の私教育化”がどんどん進んでいるような気がするのです。税金で運営する公教育に、私教育的なものを求めるのは、たとえて言えば、公道を私物で占拠することと似ています。もっとも、最近は、電車の中での化粧など、公空間のプライベート化が目立っているので、これもまた、社会の流れというものかもしれません。しかし、その一方で、別の意味での“公の意識”“国家に殉ずる気概”を求める動きが不気味に進んでいます。“公教育の私教育化”にうつつを抜かしている間に、“私”が根こそぎ奪われていく社会になりはしまいか、と心配しています。


**3月23日(火)掲載**
(す〜爺)

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第87回 県教委の新方針−小学校に塾のノウハウ?
 先日、遠方の塾仲間から次のようなメールが来ました。「現在、コラムでは公教育をテーマにしているようだが、2月21日の朝日新聞夕刊のトップに、埼玉県教委の新方針についての記事が出ているのを読んだか」という趣旨でした。朝日新聞の購読者ではないわたしにとっては初耳で、さっそく県教委のHPをのぞいてみたのですが、どこにも見当たりません。

 そこで、思い切って県教委を訪ね、担当の方に直接質問をしてみました。丁寧に応対してくださって、記事のコピーまでいただいたのですが、その記事以上のものはないとのことでした。わたし同様、記事を見過ごした方のために、概要を紹介します。「塾・民間教育研究・保護者ら20人ほどで構成する研究促進委員会を設け、実践協力校として指定した小学校10校ほどで学習到達度テストを実施、その実態を踏まえて教材やプログラムを作成する。06年度には県内すべての公立小学校に普及させ、授業のほか宿題・補習などにもその教材を使う」というものです。

 担当の方の話だと「小学校4年あたりから分数や小数など数の概念が広がり、小5では、同分母分数の加減・小数の乗除が出てきて、このあたりでつまずく児童が多い。ここでわからなくなると、中学・高校でもついていけなくなる。」そして、中学・高校での不登校や中退の理由として“学業不振”があり、「その根本は小学4,5年にさかのぼる」からだというのです。

 塾の子どもたちを見てきた実感からすると、よほど算数が苦手であっても、小6で習う異分母分数の加減までは、ほとんどの子がクリアしていきます。むしろ、分数の概念があやふやなため定着しない生徒が多いようです。これが、学力低下論争の発端になった、例の「分数ができない大学生」の正体です。つまり、やり方だけ教わっているので、すこし時間を置くと、すっかり“忘れて”しまうのです。もっとも、子どもたちの話から学校の授業を推量すると、先生自身が分数の概念を理解していないのではないかと思われることもときどきあります。割合としての分数と、有理数としての分数の概念、あるいはそれ以前の割り算との関係、さらにその割り算も、等分除と包含除のちがいなどが意識されないままに、やりかただけ教えられている節があります。

 さらに、この記事の中に見える“塾のノウハウ”というのが問題です。もし、これが大手のいわゆる進学塾のノウハウであるとすれば“分数ができるようになるための最短距離”をめざすことになります。一部の生徒は大丈夫でしょうが、多くの子にとっては、とりあえず計算はできるようにはなっても、ますます“算数嫌い”になりそうです。以前にも書いたことですが、子どもたちは「わからないからツラい」というよりも、「ひとつのことができると、さらに難しいことが待っていて、それがどこまでも際限なく続くような・・」そんな感じでいるのです。つまり、同分母分数の加減ができるようになると、つぎに異分母分数、それをやっと乗り越えたかと思うと、今度は乗除が待っている、という具合です。だから、「もう、わかりたくなんかな〜い」と叫び出す子も出ようというものです。

 低学年のころ、「時計の時刻が読めない」といって心配することがありますが、そういう子でも、特に訓練をしなくても、高学年になるころには当たり前のように時刻が読めるようになります。なにも、いついつまでに何ができるようになる、という必要はないはずです。幼児の歩き出しやしゃべり出しが多少違っていても、多くの場合、そのうち問題なく歩いたりしゃべったりするようになるのと同じで、けっして決定的な能力の違いではありません。

 むしろ、小学生のころには、できないことで否定的な評価を受けないことが、その後の“勉強嫌い”を少なくする最大の要諦だというのがわたしの実感です。どの子も落ちこぼれないように、という善意から出てきた県教委の新方針だと思いますが、たとえ、どれほど栄養がありおいしいご馳走でも、毎日食卓に並べられて食べることを要求されては、どんどん食欲が減退します。必要なのは、どれだけ早くたくさん食べさせるかではなく、どれだけ食欲を引き出すか、ということではないでしょうか。

 今回の県教委の新方針に関しては「公教育の私教育化」について考える予定だったのですが、あまりにも長くなるので、別の機会に譲ることにします。


**3月16日(火)掲載**
(す〜爺)

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第86回 根は深いぞ
 今回は、「中三の親」さんと「風」さん、お二人の書き込みに刺激されて、ちょっと寄り道したくなりました。

 塾の授業の中でも、子どもたちによる学校の先生の品定めがときおり出てきます。「○○の授業わかりにくいよな。勝手に話していて『ウン、ウン』なんて一人で納得していたりしてさ」「○○先生(この“先生”がつくかどうかもけっこうビミョーなのです)は、ノートをとる時間もくれるし、だいじなところではクラス全員の顔を見ながら確認してくれるし、わかりやすいよ」「えぇ〜、いいなあ。うちの学校、そんな先生一人もいないよ」などなど、先生の話になると、学校の違いを越えて盛り上がることもあります。

 こういう話なら、まだ平和なのですが、あるときの塾の帰り際、子ども同士の雑談が耳に入ってきました。「あいつ絶対に怒らないよ。授業中近くに来たから、足引っ掛けてやったらコケてさ。一瞬睨まれたから『ヤベー』って思ったんだけど、何も言わないで足をさすりながら授業やってたよ」「××先生の時間は怖いから、みんなシ〜ンとしてるけど、あいつのときはなにやってもだいじょうぶだしな」―――ここまで聞いたわたしは、気がついてみるとその生徒たちの胸ぐらをつかんでいました。彼らは、なにが起こったのかわからずにキョトンとしていました。「きみらは、そんなになさけないことをしていたのかあ。もう塾に来なくていいよ」と怒鳴るわたしの激怒の意味がわからずに戸惑っている彼らの表情を見て、ハッとわれに返りました。気を取り直して「学校の先生たちが、みんな××先生のようになっていいのか?」と聞くと、「どうしてそうなるの?」と別の生徒が聞き返してきました。「おとなしかったり優しかったりする先生の授業がさわがしくて、怖い先生の授業が静かだったりすれば、どうなると思う?」と言うと、「あっそうか」と、まさに根は単純なのです。そして、そういう行動は、先生や大人に対する“反抗”とはまったくちがう、卑怯で野蛮なものだ、ということを言い添えました。

 以前に、生徒からさんざんバカにされていた教師が、別の中学への転任を機に極め付きの暴力教師に変身した例を書いたことがあります。これもさまざまな学校から生徒が集まる塾だからこそわかった情報です。「風」さんがおっしゃるように、生徒の人権を真っ先に考えたり気持ちを受け止めようとする教員が舐められてしまう傾向はたしかにあります。しかし、これはイジメとも通底する心理で、反撃の恐れがなければ、とりあえず相手が困ることをするのがおもしろいのです。残念ながら、大小さまざまな心の傷を負っている子によくみられることです。被虐待児のためのグループホームを運営する知人から聞いた話では、彼らはありとあらゆる手段を使って、大人の神経をズタズタにしようとし、それでも自分のほうを向いてくれるかどうかを試すそうです。それほどではないにしても、「風」さんが経験された生徒たちにも、それに近いものがあったのかもしれない、と考えます。

 反面、「中三の親」さんがおっしゃるように、「生徒を人間としてみていない」と思われる教員がいるのも事実です。これもまた、先の例の変身教師のような苦い思いが積み重なってのことかもしれません。あるいは、突然、自由裁量の余地が多い「総合的学習」などが多くなる一方で、教師への評価と君が代・日の丸などのシメツケが強くなるなかで、マニュアル的な授業しか身につけてこなかった一部の教員たちがどんどん硬直化してきている現象なのかもしれません。

 わたしは、「風」さんの言う“心無い生徒”と「中三の親」さんが言う“生徒を人間としてみていない教師”とは、同根なのではないかと考えています。

 そうだとすれば、教員一人一人や、親たちがそれぞれ、次代の社会人となるべき人たちとかかわる大人としての責任を自覚するのはもちろんですが、なにがこのように荒んだ空気をもたらしているのかを、真剣に考えなければならないと思います。

 そして、少なくとも、「風」さんや「中三の親」さんのように、こういう事態に真摯に立ち向かおうとする人たちが、立場の違いを越えて知恵を出し合うことこそが、得体の知れない殺伐な空気を打ち払うきっかけになるはずです。


**3月9日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第86回 根は深いぞ2004/03/14 20:51:12  
                     MOTER MAN

 
どうもお久しぶりですぅ。
受験が終わって、無事第一志望に合格しました。
いやあ、怖い生徒さんがいるんですね。僕の学校じゃ考えられません。
確かに先生に対する態度は個々によってちがいますが、流石にそこまではしません。
先生と生徒との関係はとても難しいものですね。
 

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合格おめでとう!2004/03/15 10:51:00  
                     す〜爺

 
MOTER MANさん、合格おめでとう。
 いよいよ、高校生MOTER MANの誕生ですね。
 これからは「高校生の目」からみた“教育”について、いろいろ書いてみてください。 コラムに書いた生徒は5年ほど前のことで、いまは、そういう子はいません。でも、彼らも、じつは根はやさしい子たちなのです。そういうことが卑怯で野蛮ではずかしいことだということがわからなかっただけなのです。
 

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