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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第225回 豊かに生きる その2
 さて、翌日は、周防大島のKさんの家を辞してから、宮本常一記念館のある交流センターを経て、大小の島々が点在する瀬戸内島の小雨にけぶる風景を堪能しながら、島を半周してもらいました。島の東端のフェリー乗り場では、お世話になったKさん、武蔵野のIさんと別れて、Aさんとの2人旅になります。

 ここで、Aさんのことについて、本人の承諾を得て書くことにします。「〜さん」と書いてきましたが、じつはおたがいに「〜ちゃん」づけで呼び合う古い仲間たちです。とくに、Aさんとは30年越しの付き合いです。人が多くなるほどに隅のほうに引き下がる傾向のあるわたしが、これまでなんとか塾仲間と付き合ってこられたのもAさんがいたからこそです。そのAさんが、研究会の司会をしているときに脳内出血で倒れ、そのまま右半身不随で言語障害が残る重度の身障者となって、まもなく9年が経ちます。飄々としたふるまいのかげで懸命のリハビリを続けていた彼がすっかり参ってしまったのが、その彼を叱咤?し支えてくれていた奥さんに、脳梗塞で先立たれてしまったときでした。

 中央線中野駅からほど近い彼の塾は、あの八杉さんに「とてもかなわない」と言わしめたほどの、弾けるように活き活きした表情の子どもたちでいっぱいの塾でした。冒頭のプロフィールにある「学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会」とは、そのAさんの塾の教室を使っていまも続いている読書会のことです。きさくで交際範囲の広く好奇心の塊のようなAさんらしく、ほとんど毎回著者自身を招くというぜいたくな読書会です。この読書会の中で、これまでこの連載でとりあげた教育社会学者苅谷剛彦氏をはじめ、各分野の最先端で現代教育を考えている多くの若い知性たちと出会うことができたのも、Aさんがもつ魅力ゆえであるといえるかもしれません。

 Aさんという男は不思議な人で、「まあまあ、そんな固いこと言わないで」と、まるで関西人のような調子で自分の思いを通すかとおもうと、さりげない思いやりを示す、だから「勝手なヤツだ」と思いながらも、振り返るとさわやかな印象だけを残す人です。わたしは、彼の行動を通して、人に依頼することの大切さとその作法を学んできたような気がします。

 さて、そのAさんとの旅は、さらに“豊かに生きる”ことをあらためて考えさせてくれるものになりました。
 
 フェリー乗り場では、いつもは頑として歩くことを主張してゆずらない彼が、船員さんのガッシリとした背中におぶさって乗船しました。桟橋にいる2人から手をふって見送られ、わたしにとってもひさしぶりの船旅になりました。四国は初めて、というAさんは、こころなしか浮き立つような表情で、雨に煙る瀬戸内を窓越しに見つめていました。小一時間ほどで松山の三津浜港に着きましたが、松山も雨、人と車が全部下りてから、ゆっくりと時間をかけての下船でした。船員さんも、折り返しで周防大島に渡る人たちも、わたしたちの下船をゆっくりと待ってくれました。

 タクシーを呼んでもらって松山に向かいました。運転手さんに「予約なしで来てしまったので、ホテルを探してもらえますか?」と頼んだところ、「きょうは平日ですし、何もイベントはないから、たぶんだいじょうぶです。」と、早速無線連絡を始めました。ところが、どういうわけか、道後温泉も松山市内もすべて満室状態だということで、若い運転手さんは、「そんなはずないんですけれどねえ」と首をかしげながらも、あちこちで車から離れて聞きまわってくれました。わざわざタクシーのところまで出てきて「ほんとうに申し訳ありません。」と謝りに来られた旅館の女将さんには、わたしたちのほうが恐縮してしまいました。

 「残念だけれど、もうこのまま空港まで行ってもらって、帰ろうか。」とAさんと話していると、運転手さんが「障害者の方ですよね。念のために頼んでみましょうか?」と言って連れて行ってくれたのは、身障者センターと隣接するホテルでした。「夕食のオーダーには間に合わないけれど、みつくろいでよければ・・」という話で、お願いすることになりました。若い運転手さんは、車椅子を取ってきてくれたりと最後まで親切でした。

 こんな難儀の末に決まったそのホテルは、Aさんにとっては願ってもない設備が整っていました。すべてバリアフリーで、2階からの避難路もすべてスロープで外に出られるようになっています。さらに洗面所もトイレも身障者への配慮が行き届いていました。大浴場にもなだらかなスロープで手すりを伝って入れるようになっていましたが、ざんねんなことに、その手すりの途中に出湯口があったために、Aさんは湯の勢いに押されてそれ以上なかに入ることができませんでした。そのことを責任者の人に告げたところ、熱心にメモを取っていたのが印象的でした。

 翌日は、年配の運転手さんの案内で松山市内を回りました。退職後の悠々自適の生活に飽きてなにか郷土の役に立つことをやりたい、と始めた仕事だそうです。Aさんの目的の一つだった坊ちゃん球場のなかの野球記念館は、本来ならば車が入れない場所でしたが、運転手さんの奔走で車を横付けしてもらうことができました。子規堂や松山城も、Aさんにとっては、一苦労する場所でしたが、気長に待ってくれたり、城の遠望がすばらしい場所に連れて行ってくれたり、とじつに細やかな心配りをしてくれる運転手さんでした。

 その後、松山空港から羽田までANAで帰ってきたのですが、搭乗から羽田でリムジンに乗るまで、航空会社の人たちだけではなく、多くの人に親切にしてもらいました。

 Aさんとの旅を通じて、われわれの社会がこんなにも親切な人たちで溢れていることに驚きました。しかし、それは同時に、ものおじせずに世話になり、そのあとでさわやかに「ありがとう」と言えるAさんの人柄がもたらしたものでもありました。


**4月10日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第224回 豊かに生きる その1
 先週は、姫路(兵庫)→周防大島(山口)→松山(愛媛)と、3泊4日の旅をしました。こんな長旅?は20数年ぶりのことです。この旅ではいろいろな“収穫”がありましたが、とりわけ“豊かに生きる”とはなにかを、あらためて考えた4日間でした。

 八杉晴実さんのことについては、3年ほど前に「人間に対する底知れない温かさとストイシズムをもって子どもたちの側に立ち、その鋭い感性で徹底的に私塾のあり方を問いかける人でした。彼の元には、全国から多士済々の私塾人が集まり、あたかも梁山泊の様相を呈していました。」と書いたことがあります。八杉さんは、17年前に56歳の若さでガンに倒れましたが、彼が遺した「子ども支援塾ネット」は、その後も脈々として続いています。今回、その支援塾の研究合宿が姫路で開かれました。わたしにとってはひさしぶりの合宿です。

 わたしが参加していたころの盛会を考えると、近畿から3人、関東から3人、あとは仙台と山口から1人ずつ、というさびしい人数でしたが、内容は濃く深いものになりました。テーマは、「若者」と「塾」。とくに若者たちの労働の現状についてと社会の構造的変化、そして、そのなかでわたしたちができることはなにか、というものでした。テーマはとても大きいものでしたが、それぞれの参加者から出てくる話は、どれも具体的でした。非正規雇用を増やし続ける経済界の流れの中で、われわれは、もしかしたらワーキングプア(働く貧困層)を作り出す手伝いをしているのかもしれない、「どうやって生きていけばよいか」とつぶやく若者たち、派遣社員として使い捨て状態にされ、危険な仕事に従事している若者の話、などなど深刻な話題もたくさんありました。

 テーマの発案者である姫路のEさんの教室での話し合いを切り上げて、場所は築100年という彼の旧宅に移りました。明治の民家の風情を残すこの家も、残念ながら近々取り壊すのだそうで、その前にぜひみんなに泊まってもらいたいという彼のありがたい申し出でした。酒を酌み交わしながらの談論風発は深夜まで続きました。そのなかで、東京武蔵野のIさんが「長期にわたって多くの子どもたちとかかわってきた立場から、それぞれに若者や社会に対して発信しよう。そしてホームページをおたがいにリンクさせてすこしでも大きな流れにできればいいね。」と提唱しました。そして、彼の持論である「いい人間関係にめぐまれた豊かな人生だったよ」のメッセージを次の世代に残したい、という思いは参加者みんなの心に伝わったようです。

 翌日は、Eさんの現在のお宅におじゃまし、姫路城と姫路市内を一望に見渡せる“穴場”を案内していただいたあと、Iさん、Aさん、わたし、の関東組3人が、Kさんの車に同乗して、山陽自動車道を一路西に向かいました。Kさんは、岩国市の先にある瀬戸内海の周防大島(屋代島)からの参加で、われわれ3人はKさんのお宅に泊めていただくことになっていました。

 周防大島は、行動する民俗学者として名高い宮本常一(1907〜1981)の故郷として、かねてからその名は知ってはいました。しかし、Kさんに島を一周して案内してもらい、想像以上の大きさと多様な風景におどろきました。うっそうとした山道から垣間見える瀬戸内のおだやかな海、山頂からのパノラマをみるように点在する島々の姿、漁村の静かな夕暮れ、なにもかもすばらしい眺めでした。

 それにもまして感動したのは、Kさんの家とそのご家族でした。これまた歴史の重みを感じさせる風格のある広い家に隣接して作られた塾の教室のすばらしいこと。塾を営む姿勢というものは、その教室の佇まいにおのずと表れるものだと、あらためてわが身を振り返ったものです。掃除の行き届いた教室、温かさを感じるつくえやいす、子どもたちが休むことができる別室、そこに用意されている本の選び方、まさに、そこには子どもたちに対するKさんの思いがいっぱいつまっているようでした。

 島の旧家である彼の家は、瀬戸内海を見渡せる高台にあって、みかんを栽培し野菜を育て、そして塾で島の子どもたちとかかわるという、まるで江戸時代の寺子屋の師匠さながらの生活です。さて、夕食は、Kさん夫妻が腕を振るった鯛やタコの刺身、かわはぎの煮物、菜の花のおひたし・・・。わたしたち夫婦も食いしん坊で、食べることにはお金も手間も惜しまないのですが、そのわたしがあきれるほどおいしい料理の数々を堪能しました。魚は近海、野菜は畑からの採りたて、料理の腕は極上、ときては言うことばもありません。さてその後は、わたしにとっては初めての『五右衛門風呂』体験でした。そうはいっても釜の上に直接板を載せてあるのではなく、Kさんの工夫によってとても入りやすいものになっていました。薪で焚いたやわらかい湯にやさしく包まれ、からだの芯から温まりました。

 そして、明るくて好奇心旺盛な奥さんの話もおもしろく、なによりも、あとから恥ずかしげに現れた中1の坊やと今度高校に入学するという娘さんの表情のいいこと、残念ながら、喧騒とめまぐるしさの中で暮らしているわが町の子どもたちにはない自然な表情でした。この豊かな自然だけではなく、Kさん夫妻の豊かな生き方が、お子さんたちの表情にそのまま表れているような感じがしました。


**4月3日(火)掲載**
(す〜爺)

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第223回 旅立ち
 子どもたちにもわたしたちにとっても、毎年3月は“旅立ち”の月になります。中学を卒業し、高校での新しい出会いに不安と希望がいっぱいの中3の子どもたち、それぞれの思いで塾から離れる高3の子どもたち、そして、彼らを見守るわたしたちにとっても“旅立ち”です。

 まず、公立高校入試が終わって合格発表までの間に、中3たちの“打ち上げ?の会”をやります。それぞれが結果への不安を抱えながらも、なにはともあれ「終わった〜、もう受験しなくてもいいんだあ」と言う彼らの解放感は相当なものです。どの顔にも、受験前の不安と緊張でいっぱいだった表情は消え、以前のあどけなさがもどっています。彼らは、まだまだ充分に子どもなんだ、と感じるときです。

 わたしの塾では、すこしまでほとんどの子が公立高校に進学してきました。この数年私立A推薦を選ぶ子が出てきた中で、今年は全員公立高校を受験しました。そして、いよいよ発表、なんと3人も不合格だったのです。ひとりはやや背伸びをした受験、ひとりは直前のインフルエンザ、もうひとりは、かなりのスロースターターで、それぞれに不安はありましたが、わたしたち夫婦は、あまりのことにその日は呆然としていました。「もうすこし強く志望校変更を勧めておけば・・、うがい・手洗いの大切さをもうすこししつこく、本人だけではなく家族にも言っておけば・・・、もうすこし早くから頻繁に塾に来させれば・・・」など、悔いは次々と出てきます。

 ところが、発表当日はかなりのショックを受けていたという彼らが、2,3日もすると明るい表情で新しい学校の話をしてくれる姿を見て、内心の葛藤はあるはずの彼らの、めざましい内面的な成長を感じてホッとしたものです。

 さらに、その10日後、見沼氷川公園でのリクリエーションの日、いったい何人来ることかと危ぶんでいたわたしでしたが、全員集合の顔々は、そんな心配を吹き飛ばすような元気に溢れていました。カンけり、フリスビー、ドロ警などのたわいない遊びに夢中になって走り回っている彼らの姿を見ながら、胸の中は熱いものでいっぱいになりました。いまのところ全員高校生クラスに継続してくれるという、彼らとそのご家族を力の限りサポートしなければという思いを新たにしたものです。

 その高校生クラスは、高校の授業は進度も教科書もまったく違うので、完全無学年制です。授業をしっかり受けて、その上でわからないこと、補充したいこと、予習をやっておきたいことを塾に持ってくるように、というのが“お約束”です。

 ところで、今年の高3たちは、昨夏天寿を全うしたわたしたちの茶色の娘と同年齢で、小学生からの付き合いの生徒が多い学年です。その彼らの“旅立ちの会”が先日ありました。「(わたしの)ハゲが増す会」という、あまり上品とは言い難いけれど、彼らなりの温かい気持ちと多少のテレがまじったネーミングの会でした。ある年度以降、わたしたちとは個人別の親しい交流が続いていても、塾生同士ではほとんどことばを交わさない学年が続いていたので、“旅立ちの会”は、じつに15年ぶりのことです。

 中学までと高2までに退塾した子たちも含めて、11人に声をかけたようです。そして、当日は、まず8人が集まりました。保育士を夢見るRちゃん、医療事務のエキスパートを目指すMちゃん、理系4年制大学に進学するSくんとHくん、美術の先生をめざしているKくん、文系4年制大学に進むYくん、Mくん、Mちゃんの8人です。

 会長?のMくんがなにやらしゃべって、パフォーマンス好きのKくんが一発芸を、その合い間をぬってYくんがこまめにみんなに飲み物をサービスしている、という妙な始まりかたでした。そのあと彼らが用意していたのは、なんと中1のときに夢中になって遊んだプラスマイナストランプ(正負の数の導入ゲーム)と、わたしが創案した英語マージャンでした。ひさしぶりに顔を見せた子たちの表情もほぐれ、だれかの上がりに歓声があがるころ、バイト帰りのTちゃんが息を切らせて駆けつけました。彼女は医療技師を目指すのだそうです。そして、みんなの気持ちも充分に中学生のようになったころあいに、その日、精密機械の会社への入社式を済ませたSくんがゆっくりと登場し、みんなからの拍手を浴びて恥ずかしがっている彼もまた、次第にむかしの仲間たちの輪に溶け込んでいきました。

 「では、おじさんから一言」と会長?のMくんから声がかかり、何の用意もしていなかったわたしは「積極的に挑戦していって失敗することは、若さの特権だ。命を失う以外の失敗はいくらでも取り戻せる・・」と短い話をしました。彼らが中2のときにお兄さん役をやってくれたことがある、若くしてケニアで命を落としたあのS君のことを思い浮かべながらの話でした。シラケさせてしまうかなと心配しながらの話でしたが、意外にもみんな神妙な顔をして聞いています。そして、話し終わるや何人かが声をそろえて、むかしの小学生のように「はい、わかりました。」と返事をしてくれたのにはびっくりしました。

 しばらくすると、Mくんが「わるいけれど、おじさんは奥の部屋で待っていてください。」と言うので、ツレアイとふたりで「なにを考えているんだろう。なにかおどかすつもりなのかな?」などと話していました。

 しばらくして、「お待たせしました」との声がかかり、ふたりで教室に入ると、みんな一斉に拍手です。Mくんから「いままでありがとうございました。みんなからの気持ちを込めて・・」と言って渡されたものをチラッと見ると、美術担当のKくんがみごとに手作りをしたアルバム1ページごとに、一人一人からのわたしたちへの“ことば”が書いてあります。(これを今読んだらもうダメ、こらえ切れない)と思ったわたしは、すばやくツレアイに渡して「ありがとう。みんなも元気でね。」などと、わけのわからないことを言っていました。このアルバムには、案に違わず一人一人の個性の輝きがいっぱい詰まっていて、心の底から揺さぶられました。しかし、わたしたちの至宝なので、公開すると飛んでいってしまうような気がするので書くことはできません。

 彼らは その後みんなでカラオケに行ったようでしたが、授業があるわたしたちは同行できませんでした。そして、しばらくすると、1ヶ月まちがえていたと言う11人目のKくんが到着して、浪人することを決めたという彼の思いをたくさん聞きました。

 今回は、気持ちが落ち着かないまま文もまとまらず、冗長に書いてしまいました。


**3月27日(火)掲載**
(す〜爺)

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第222回 リアルからバーチャルへの流れの中で
 前回は、“知の世界”が学問・芸術至上主義(アカデミック)から実用主義(プラクティカル)へと移行している社会の流れについて書きました。ところが、その実用志向も、さらに現実(リアル)世界の実用から仮想(バーチャル)世界での実用(有用?)へと、形を変えて先鋭化していくような気がします。

 ところで、昨年もさまざまな分野の本を読みました。感動した本、啓発された本、深く考えさせられた本、楽しかった本いろいろありました。しかし、その中でもっとも衝撃的で刺激的だったのは、ベストセラーとなった梅田望夫(うめだもちお)著「ウェブ進化論」(ちくま新書)と、それに続く梅田氏と平野啓一郎氏の対談「ウェブ人間論」(新潮新書)でした。

 わたしにとって、パソコンはやっとのことで扱えている“道具”です。やっていることは、このように文章を書くこと、メールのやりとり、ネット検索、画像や音声の保存などです。しかし、これらは数あるパソコンの機能のうちのごく一部のようです。そんなわたしにとって、梅田氏が次々と紡ぎ出すように語るウェブの世界の物語は、めまいがするほど難解でいてまぶしく、パソコンが新しい世界への“どこでもドア”になりつつあることを教えてくれました。同時に、このウェブ世界の拡大は、これからの人類社会がいったいどうなっていくのだろうか、という不安と希望をもたらします。

 彼の本の中に出てくるわたしと同年代とおぼしき経済界のトップが、「これまでの人生でいろいろな新しいことを吸収してきたけれど、グーグルの本質についてのあなたの話などは、わたしには絶対に理解できない」と言ったそうですが、さもありなん。ことばとしては理解できますが、物語の広がりの大きさと恐ろしいほどの深さには、わたしもまた、とてもついていけるものではない、と感じます。

 そこで、わたしは、次代を形成する子どもたちと接している、という視点からこの世界を眺めてみようと思います。

 わたしの塾の小中学生とは、ネットの話などあまりしたことがないので、彼らがどれくらいその世界に入り込んでいるかは知らないのですが、なかには立派なホームページを立ち上げている中学生もいるようです。ただ、そのTくんは、頑として自分のページをわたしに教えようとはしません。まさに自分とその仲間たちだけの世界なのでしょう。この仲間というのは、かならずしも学校の友だちなどの顔見知りとは限らず、アクセスしてきた大人なども、彼のコミュニティーのなかにはいるようです。

 梅田氏の言を借りると、インターネットの真の意味は「不特定多数無限大の人々とのつながりを持つためのコストがゼロになった」ということだそうです。さらに、彼はおどろくべきことを言います。ネット世界は、1.神の視点からの世界理解 2.ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏 3.(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something,あるいは消えて失われていったはずの価値の集積、この3つの法則に基づき、発展を始めた、のだそうです。

 これらについての詳細は、「ウェブ進化論」を読んでいただくとして、最高の若い頭脳が集積したグーグルという会社が描く世界戦略には、身震いするほどの興奮を覚えます。また、そのグーグルは、世界中の知と情報をウェブのあちら側の世界に再構築しようとしているし、アマゾン・コムは、すべての小売業をアマゾンのインフラに依存しなければ生きていけないような世界を目指しているそうです。

 現在、ブログやホームページを持っている子どもたちは、わたしの知る限りでも何人もいます。その中には、アフィリエーターとして企業の広告とリンクしてお小遣いを稼いでいる(らしい)子もいます。大学生の話を聞くと、授業中でも、あちらこちらでモバイルなどで、mixi(ソーシャルネットワークシステム)をやっていたり、ユーチューブを見ている姿は珍しくないと言います。

 さらに、まもなく日本でも公開される『セカンドライフ』(http://secondlife.com/world/jp/)は、仮想空間に社会を作ってしまうといいます。これからの子どもたちは、そういうウェブの“あちら側の世界”とわれわれの現実(リアル)社会を自在に出入りして生きていくのかもしれません。

 そうだとすると、わたしたちは次の世代に向かって、人と人の血の通うふれあいのすばらしさを伝え、さらに、わたしたち自身が、これまで以上に濃密な人間関係を築いて「生きるってすてきなことなんだ」というメッセージを残さなければならない、と考えています。


**3月20日(火)掲載**
(す〜爺)

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久しぶりな野郎です2007/03/22 21:59:11  
                     MOTER MAN

 
かなりお久しぶりです。MOTER MANです。

久しぶりでエンジンの調子が完全ではありません(なんだそりゃ)。今回はリアルとバーチャルのお話ということで、私のリアルにまつわるちょっといい話をしたいと思います。

一個目。
この春めでたく大学への進学が決定しました。うおおお!ってな受験ではなく、最近流行のAO入試とやらで合格しました。そうしましたら大学から「AO入試で合格した皆さん、ちょっといらっしゃい」と連絡がありまして、行ってみましたらあらびっくり。大学は大変スモールなところなんですが、それぞれの学科ごとに別れ(約40人)、学校にまつわることや事前学習の説明の後、お食事会と自己紹介が行われました。もちろんまわりは初対面だらけで私は太平洋に投げられためだか状態でしたが、慣れてしまえばコッチのもの。楽しくコミュニケーションができました。大学もなかなかシャレのきいた粋なことをしてくれるものですなぁ。

二個目。
上にも書いたとおりAO入試だったもんで自由な時間ができました。そこで人生初のアルバイトにチャレンジしてみました。これが楽しい(今現在)!接客業なんですが、同じ店員もお客さんもなんというか表情豊か。なんでもコミュニケーションを大切にしている企業らしくて、かなり色々なことを教えてもらっています。

番外編。
詳しくは言えませんが、ある人と一対一で向き合う機会がありました。自分の希望とは正反対の結果でしたが、私の生きるうえでの糧になったと思います。これはバーチャルではできませんなぁ。

とまァこんな感じです。バーチャルの世界も便利で楽しいけど、リアルの世界ってやっぱり面白いですなぁ。
 

元の文章を引用する

第221回 実用志向の社会
 先日友人と会ったとき、前回書いたことについて「早すぎる拍手や、ファスナーの音、咳、やりすぎのアンコール、長蛇のサイン会・・、って、もうおどろくようなことではない。もしかしたら、ピアニストだって聴衆のそういう反応を歓迎しているかもしれない。」という感想をもらいました。なるほど、言われてみればそのとおりです。

 「すくなくとも、何千円かのチケットを買ってクラシック音楽を聴くためにここに来ている人たちなのだから・・」という気持ちが、わたしに強く働いていたことはたしかなようです。音楽を聴くことは、どう考えてもプラクティカル(実用的)なことではありません。それなのに、わたしが違和感を感じた聴衆たちの行動からは、なにか具体的なもの手に取ることができるもの、さらに言えば“おトク感”のようなものを求めているように感じました。

 また、中学の教師である友人から「成績上位の生徒たちのなかに、受験が近づくと学校を休む例が目立つようになってきた。」という話を聞きました。似たような話は別のところからも聞いていて、それも、3学期の欠席日数は高校の合否判定には関係しないので、悪びれることなく親も公認で休むのだそうです。それと関連して、「知的好奇心と学校学力とは、かなりの程度相関関係がある」という従来からの“常識”は通じなくなっているのではないか、という話も出ました。先生が授業の補足のような説明をしても、テストに直結しないとみると授業を聴かない、はなはだしいのは問題集を広げている、という話も聞きました。

 このこととリサイタルの聴衆の話が妙にオーバーラップします。先に挙げたpracticalの対義語がacademicであることは興味深いことです。ジーニアス英和大辞典(大修館)によると、academic(アカデミック)とは「学校的、学究的」という意味のほかに、非実用的な、現実離れした、今日性のない」という意味があります。さらにOALDには「重要でない」という意味まであります。

 子どもたちから頻繁に出る定番の疑問「勉強はなんの役に立つの?」に対して、わたしは「何の役にも立たないよ。役に立たないからおもしろい」と言っていたことがありましたが、これは、まさにアカデミズム(学問・芸術至上主義)の立場です。アカデミズムなどというものは、かなり前から滅亡の一途にあることは知っていましたが、いよいよ絶滅目前のようです。学校も学問も芸術も文化も、およそ実用的でないものは排され、あるいは実用的なものに転換されて“消費”されていきます。

 中学の授業にあきたらなかったツレアイが、それだけの理由で進学教室に通ったことがあります。そのときの印象がとても強烈で、その後の彼女の進路に大きな影響があったようです。当時講師をしていたのは、ほとんど大学生か大学院生で、自分が今直面している研究テーマについて、(中学生を相手に!)髪をかきむしりながら話すことがよくあったそうです。それは、量子力学の話であったり、トポロジー(位相幾何学)の話であったり、あるときは、時代区分の意味づけの話であったり、中国古代の殷周時代の金文の話など、まさに当時としては、最先端の学問でした。そんな話が始まると、“優秀な”中学生たちはすぐさまテキストを閉じ、目を輝かせて彼らの話に聴き入ったそうです。

 わたしもまた、最近まで、ごく普通の学力のわが塾の生徒たち(失礼!)に対して、脱線授業をすることがありました。歴史の話が発展して、十干十二支と定時法、十六方位の関係、日本の4つの色の話と四神、四季、四方位の関係まで触れたことも、漢の武帝に追われた匈奴が、400年の時を超えてボルガ・フンとなってゲルマン民族の大移動を起こした話も、みんな活き活きとした表情で聴いていました。英語のIがいつも大文字なのはなぜか、areが二人称単数のbe動詞として使われるのはなぜか、1+1=2は絶対なのか、などなど、その時々の子どもたちの話を契機に、単なる知識としてだけではなく、大きな世界観にもつながるものとして話したつもりです。

 しかし、このところ急速にそういう話が通じなくなった感があります。テストに出るかどうか、受験に役立つかどうか、それ以外のことには頑として耳を傾けようとしない、ほとんどの子がそういう傾向になっているようです。むしろ、「勉強いやだ〜」という子のほうが、(勉強やらなくて済むから)“脱線”を望むことがあります。

 進学実績全国No1を誇るK学園中学に子どもが在籍している人に聞くと、トップクラスの一握りの生徒たちはいまでも好奇心が旺盛で、それぞれが現役の研究者でもある先生たちの非常に高度な授業にも嬉々としてついていくそうです。そういう生徒たちは、スポーツにも芸術科目にも活き活きと取り組んでいると聞きます。しかし、体力もないし、好奇心もない、授業にもついていけない生徒が少なからずいるそうです。小学校では、どの子も優等生であったはずの子どもたちです。

 聞いてみると、トップ校を目指す進学塾の授業も、いまでは“受験に役立つ”ことしかやらない(やれない)ようです。塾で脱線授業などとんでもない、という親からのプレッシャーも強いのだと思います。

 ということは、全国的に見ても、ごく一握りの学力エリートを除いては、アカデミズムや知的好奇心だとか呼ばれるような“非現実的で、非実用的な、役に立たない”ものからはどんどん遠ざかっているのかもしれません。リサイタルの聴衆からわたしが受けたさまざまな違和感も、そんな現代の風潮の表れなのでしょうか。

 しかし、その一方では、現実(リアル)的とは別の意味で対照的な、仮想(バーチャル)の世界が進んでいることが現代社会の方向をより複雑にしているのではないかと考えています。


**3月13日(火)掲載**
(す〜爺)

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工夫を感じない授業、それを受ける生徒。2007/03/15 2:00:52  
                     よっちゃん

 
 今回は「実用志向の社会」ということで、余計なことは教えないということですが。
まさにその通りだと思います。
脱線の多い授業が増えていくなか、自分の学力を向上させるためにがんばる生徒。
しかし、自分がもっと知りたいのに、必要以上のことは教えてくれないということがしばしばありました。
テストで出るところ以外はあまり教えてくれない。
これも一種の「実用志向」なのでしょうか?
自分の興味のある話以外には耳を傾けず、興味のある話でも今後役に立つのかを考えてからきちんと聞くかを考える。
そういう思考の子供が増えている気がします。(たぶん、自分もその一人です。)
そういう子どもたちに興味を持たせるにはやはり多少の脱線を含まないと、いけない気がします。
工夫や興味を感じないから受けないのか、それとも単純に受けたくないのか・・・。
少なくとも同じ授業を受けないなら、自分はいつまでも前者の理由でいたい・・・。
 

元の文章を引用する

第220回 “お行儀のよい”聴衆
 このところ、「わたしも歳を取ったものだなあ」と実感することが多くなりました。かつて、わたしよりも1、2世代上の老人?たちが若い世代に対して、あれこれと細かいことを言っていたことを思い出すからです。

 4日の日曜日、さいたま芸術劇場へ「仲道郁代ピアノリサイタル」を聴きに、ツレアイと2人で出かけました。芸術劇場には、コンサート、映画、演劇などで、それぞれ別々に出かけることはよくありました。しかし、“尻尾のある娘”がいたので、2人そろって家を空けることさえほんとうにひさしぶりでした。

 塾生のピアノ発表会に招待されたときのような騒々しさは、さすがにありません。すこし見回しただけでも、“お行儀がよさそうな”聴衆ばかりのようです。じつは、このことが今回のタイトルの伏線になります。

 いつもは何の気なしに座席に向かうのですが、ツレアイといっしょのせいか、なぜか一つ一つの行動が意識的になっている(ここは深く立ち入らないでくださいね・・・)ことに気がつきます。段を降りるときにはキョロキョロせずにまっすぐ向かえるように、自分の列をおおよそ見定めます。さて、目指すところに来ると、端の数人はすでに着席しているので、「失礼します。」と声をかけて入っていこうとしました。

 ここで、(あれっ、いつもはどっち向きに入っていくのかな?)と、とまどいました。つまり、ステージと座席のどちらにおしりを向けて入っていくか、ということです。そこで、ツレアイに「先にいって」と声をかけると、彼女は座席の人におしりを向けて入っていきます。つづいてわたしもそうしてみると、いつもそのようにしていることがわかりました。開演まで時間があったので、ツレアイに話してみると「だって、座っている自分の目の前を、こちら向きに通られてみたときのことを考えればわかるでしょ。」と言われました。

 意識的に行動するということは、こんなことまでも混乱することがあります。手足を交互に動かすことを意識しつづけながら歩くと、途中からおかしくなるのと似ています。なにげなく妙なことをやってしまう子どもたちに、「もうすこし意識的に行動してごらん」と言うとき、その行動の意味を納得させずに行動の形だけを示すと、同じような現象がおきます。

 さて、演奏が始まりました。“アイドルピアニスト・ベートーヴェン弾き”の定評がある仲道さんが全曲ショパンを聴かせてくれました。バラードからノクターン、そしてアンコール曲のシューマンまで、わたしはひさしぶりに至福の時間を過ごしました。ここは音楽について書く場ではないので、演奏についてはこれくらいにします。

 ところで、着席したときに「風邪が流行っているんだなあ」とツレアイと話していたように、あちこちで激しい咳が聞こえます。いざ、演奏が始まるとさすがに静かになりましたが、それでも、ピアニッシモの最中に咳をする人がいます。どうしても出てしまうのはしかたがありませんが、それなら、奔流のようなアルペジオになるまでがまんして、タオルなどを口に当ててすれば、極力音を抑えることはできるはずです。

 あきれたのは、ノクターンの流れの中に陶然と心をゆだねていたわたしの耳に、バッグかなにかのファスナーの音が入ってきたときです。いっぺんに現実に引き戻されたわたしは、「ピアニストの耳には届かなかっただろうか」と心配になりました。幸いというかさすがというか、仲道さんの音楽にはいささかの乱れもなかったようです。

 そして、一曲目の演奏が終わり、その余韻に浸っていたかったわたしの耳に聞えてきたのは、間髪を入れない拍手の嵐でした。どの演奏会に行っても、あの“お行儀のよい”聴衆たちは、競うようにすかさず拍手をします。フィニッシュの音が鳴ろうとするときにはすでに両手が体の前に用意されているかのようです。これは最後の一曲まで続きました。いつになっても演奏会でわたしがなじめないことの一つです。それとも、わたしが鈍感なために感動を即座に表せないからかもしれません。

 最後に、アンコールのしつこいこと。仲道さんは何度もステージに現れて4曲もアンコール曲を演奏し、聴衆に感謝のことばを語りかけました。感動というのは、このように表すものなのでしょうか。

 さらに、演奏会が終わってからのサイン会です。CDを手にしたファンたちが、まさに長蛇の列です。あれだけの演奏をした後のピアニストの尽きせぬ強靭な体力に感嘆すべきなのでしょうか、わたしには、自分たちだけでもその負担を減らさなければならないと思えて、早々に会場を後にしました。つぎつぎと出てくる“お行儀のよい”聴衆たちへの違和感が、冒頭のわたしの述懐につながるのです。


**3月6日(火)掲載**
(す〜爺)

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第219回 メールの“文章”
 最近の中学生・高校生の、とくに女子からのメールには、判じ物のようなものが多くておもわず苦笑いさせられることがあります。

 次のメールは、高校生のAちゃんからのものです。彼女は中学生まで在塾した子で、久しぶりに塾を訪ねたいという内容です。とくに問題はなさそうなので、本人には無断で引用することにします(ゴメンネ、Aちゃん)。

「ぢつゎ-明日塾行こぅて話してたンですケド行って平気ですか-??・ω・)ノ 塚ぁたしら夕方の〓時以降トカぃンですケド何時くらぃなら平気か教ぇてくらさ-ぃ・∀・♪♪+」

 ついついすべての文字から意味を汲み取ろうとしてしまうわたしの習性で、頭の中が混乱一歩手前の状態になりますが、大人なら、さしずめ「(○○ちゃんと)明日、塾にうかがいたいと話していたのですが、いかがですか? わたしたちは、夕方2時?以降が都合がいいのですが、そちらのご都合をお知らせください。」と書くところだと思います。

 装飾文字、絵文字、それに音符まで駆使して書かれたメールは、相手にメッセージを伝える、というよりはファッションなのでしょう。それでも、文意を読み取ることにさして支障はないということがわかります。わたしがなかなかわからなかったのは「塚」です。入力ミスなのかなと思ってみているうちに、「具体的に言うと→って言うか→つーか→塚」となることに気がついて、思わず笑ってしまいました。

 次は、定刻を過ぎてもなかなか塾に来ないSちゃんへ、わたしが出したメールに対しての返信です。Sちゃんは、ふだんはとてもいい文章を書くのに、いつになっても携帯メールを書くのが苦手な高校生です。

「ごめんなさいいいわすれとめした父が風で変わりに仕事でコンサートでしあた」

 これは、ある程度事情を知っているわたしが、つぎのように解釈して、あとで本人に確かめたら「ピンポーン!」でした。つまり「ごめんなさい。連絡するのを忘れていました。父が風邪を引いてしまい、仕事上の義理で行かなければならないコンサートに、わたしが父の代理で出席したので・・・」ということです。

 アメリカの高校生から塾のK君に来たメールには、「i want to wish yu goood luck. MAKE SOOOME FRIENDSSS!!!!! ^0^;;;; just kidding ~! BYebyeeee」などというのがあっておどろかされました。わたしがこのところつくづく感じるのは、こうした子どもや若者たちのメールは、ファッションであったり、誤記や文法がヘンだったりすることが当たり前なので、かえって文意だけ読み取ってもらえるのではないかということです。

 一方、わたしたち大人のメールはどうでしょう。月刊誌『人格・社会心理学会ジャーナル』からの孫引きによると、『電子メールのメッセージを正しく捉えている可能性は50%、ところが、多くの人は、自分が受信したメールのメッセージを90%まで正しく解釈していると考えている』というのです。この研究では、さまざまな場面で、送信者と受信者のずれを調査した結果、こうしたずれの生じる原因は、自己中心性――自分独自の観点を捨てられないという、一部の人が抱える障害――であるのだそうです。つまり人は、メッセージが他人の観点からどのように解釈されるかを想像するのがあまり得意ではないということのようです。

 わたしの経験で言えば、相手を心配して書いたことが「同情されるいわれはない」となってしまったり、用意周到のつもりで、いくつかの考えられる状況を想定して書いたことが、相手には、こちらが最悪の状況を望んでいるかのように受け取られたりすることもありました。一方、こちらのほうも、相手が一般論として書いていることが、じつは暗にわたしに対して言っているのではないか、と感じてしまったり、「〜は」ですむところを、「〜さえ」とあるような助詞ひとつの使い方のちがいで、落ち込んでしまうこともありました。

 いまも、こうしてキーボードを叩きながら文章を書いて(打って)いますが、ごくかんたんにフレーズやパラグラフを入れ替えることができるので、時間が切迫していると、大きな流れを見失ってしまうことがあります。メールなどでは、もっと気軽にことばを使ってしまいがちです。

 メールを送信する側としては、こういう気楽さがあるのに対して、同じ人間が受信する側になると、ふだん文を読む習慣のある人間はとくに、メールの“文章”の一つ一つにゆるぎない意味を読み取ろうとする習性があるので、よけい誤解が生じやすいのかもしれません。

 携帯メールという伝達手段を当たり前のように手にしている世代は、まったくと言ってよいほど“文”を意識していないようです。その意味では、上で取り上げた研究結果や、大人たちが起こすトラブルは、これからの世代には当てはまらないのかもしれない、とさえ考えます。


**2月27日(火)掲載**
(す〜爺)

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若者の使うメール、それを理解できない自分・・・。2007/02/28 14:22:37  
                     よっちゃん

 
最近す〜爺の文章がついつい返信したくなる内容なので書いてしまう自分。

さて今回は「メール」ですが、Aさんの文章を読んだら最初「・・・えっ?」と思いました。
同じ年代だとは思うのですが、「塚」や「〓時」なんていうのを使ったことが無かったので読み取りにくく、混乱してしまいました。
自分も「・ω・)ノ」←このような絵文字はよく使いますが、あまり多用はしません。
多用すると読み手がわからなくなるからです。
バイバイを表すのに「ノシ」とかこの程度です。

最近はギャル文字などと言う物が流行りましたが、あれは日本語ではないような気がします。
理解できないし・・・。
こういうところから言葉の乱れというのが発生していくのでしょうか?
 

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第218回 “叱ること”と“罰すること”
 前回は“ほめことば”のちからについて書きました。今回は、“罰”がもたらすものについて考えます。

 それというのも、今月初めに、文科省が全国の都道府県教委などに向けて、(1)生徒指導の充実(2)出席停止の活用(3)懲戒(罰)、体罰について−を通知したからです。趣旨としては「教師が体罰の範囲を誤解して萎縮(いしゅく)することがないようにしたい」(同省児童生徒課)ということのようです。

 ここでは、だれでもが否定する典型的な体罰についてではなく、今回、文科省が通達を出したような、他の生徒の教育権を保障する目的での体罰、“愛の鞭”的な体罰、さらには、広く子どもたちに対する“罰”が、どのような意味を持つかについて考えます。

 塾でも、気が散りやすく立ち歩きをしたり、ほかの生徒にちょっかいを出す生徒はいました。まさに、ほかの子が勉強しに来ているのに困った子です。でも、その生徒自身も塾が気に入っていました。親もまた、家に帰ってくると塾であったことを楽しそうに話すわが子にシアワセを感じていたようです。彼が好きなことは、手を動かして何かを作ることなので、みんなが図形の勉強をプリントでやっているときに、工作用紙で立体図形を作ってもらいました。実に精密な仕上がりでした。文章題をやっているときには、ほかの子の分まで図解をしてもらいました。もちろん、そんなことが通じないほど荒れているときもありました。そんなときは、いまは亡き“理事長犬”の出番でした。「野々(のの)とお話しておいで」と送り出し(出席停止か?!)ました。しばらくすると、すっきりした顔で戻ってくることが多かったようです。

 弱そうな子に意地悪をする、どこまでやればわたしが怒るかを試すように悪態をつく生徒もいました。できるだけエスカレートしないうちに、腹の底からの気合を込めての一喝が彼には通じたようです。その一喝で彼がおびえたのでないことは、帰り際の甘えた口調でわかりました。

 いずれの場合も、「塾」というせまい空間で小人数、しかもわたしの塾を選んで通ってきている子どもたちである、という特殊な状況下でこそ成り立つことかもしれません。以前にも書いたとおり、わたしは、この40年近くの間に、子どもに対して3回手をあげました。そのどれもが心痛む思い出です。しかし、たぶんそれ以上に知らず知らずのうちに、子どもたちの心を傷つける言動をしてきたのだと思います。

 前後の細かい状況は忘れましたが、ある中学生の女子が「月謝払っているんだから、なにしてたっていいじゃない。」と言ったとき、「月謝は全部返すから、いますぐ塾を辞めなさい。」と、月謝袋と教材を持たせて外に出してしまいました。その後、お父さんがみえて「娘が、部屋にこもって泣くばかりで出てこない。いったいなにを言ったんだ。」とすごい剣幕でした。わたしも、彼女への対応はふかく後悔していたので、ひどく落ち込んでしまいました。彼女はそのまま塾に来ることはありませんでした。このことは、その後も、ことあるごとに自分の負い目になっていました。ところが、そのことがあって7年後のある日、友だちといっしょに顔を出した彼女が「あのときのことがずっと気にかかっていました。父がひどいことを言ったようですが、ごめんなさい。」と言うのです。大人になった彼女の顔を見つめながら、わたしはこみ上げてくるものを隠しきれませんでした。

 塾を始めたばかりの血気盛んなころ、わたしは、きちんと勉強に取り組まない子どもたちに、“罰として”漢字を書かせたり、英語のスペルをたくさん書かせたりしていました。ところが、子どもたちのようすをみると、漢字は偏だけをダーッと先に書いて、あとから旁(つくり)だけを書いています。また、50も同じスペルを書いているうちに途中で間違えてしまって、そのまちがえたほうのスペルが定着してしまうことにも気がつきました。それに、“罰勉強”がどれだけ子どもたちを勉強嫌いにするかということも、子どもたちから教わりました。

 “叱ること”と“罰すること”は根本的に異なるものだとわたしは考えています。文科省の通達も含めて、世間に流れる体罰論議は、そのあたりを混同しているような気がします。成長途上の子どもたちは、しっかりと叱られる必要があります。“叱る”ということは、叱る側の大人も、自分の目の前の子どもに対して、大げさに言えば、自分自身の生き方を懸けて叱るのだと思います。その意味では、場合によっては手が出るかもしれません。正直に言ってしまうと、入塾してまもない子や、偶然紛れ込んだように入ってきていつまでもなじめない子に対しては、この“叱る”ということができません。叱る側のわたしと叱られる側の子どもとの信頼関係ができていないからだと思います。

 それに対して、“罰する”というのは、理屈っぽく言うと「ある言動に対してその代償として行われ、周囲の人たちをその言動の被害から守る」ために行われるものです。これは、すくなくとも“教育”という名で行ってはいけないものだと考えます。学校の場合ならば、教師個人の判断で行うには、リスクが大きすぎます。もしありうるとすれば、まちがっても「児童生徒を“正しく”教育するため」ではなく、「学校という組織と場を守るため」であることを明確にして、“学校として”為されなければならないのではないでしょうか。“罰”は、一時的表面的に人を萎縮させ、行動を抑制する効果はありますが、その人を活性化することはありません。

 政治経済は、利害得失の世界だからこそ罰の効果があります。現在、中心となって“教育改革”を進めているのは、その政・財・官の人たちです。教育に 政治経済の原理を持ち込んではいけない大きな理由は、当然のことながら、対象が“利害得失を超えた存在”であるからです。


**2月20日(火)掲載**
(す〜爺)

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“罰すること”で残る【心の傷】2007/02/20 12:47:52  
                     よっちゃん

 
まず先週はすみませんでした。
詳しくは塾で話します。


さて今回の事ですが、自分も今問題になっている「体罰」に近い物を受けたことがあります。
小学校4年生の頃に担任のT先生から近いものを受けました。
まぁ自分も悪いのですが、当時プールカードなるものがありました。
それにあさ時間が無くて、自分で体温を書いて、サインも書いてプールに入りました。
クラスでは他にも2,3人のクラスメートが同様の方法を使いプールに入りました。
しかし、その後自分だけ呼び出され、「罰」として2時間以上教室に立たされていました。
そのことは当時の自分には相当ショックな物でした。
立っている間も「なに睨んでるの?」や「邪魔でしょ、そっちにいなさいよ」など傷つく言葉を散々言われました。
その次の日、また学校に行ったらなにか言われるのではないか?
それ以前に先生に会いたくないという思いから、部屋にカギをかけ、篭りました。
小・中・高と12年間の学校教育の中で、最初で最後の「不登校」でした。

昔に比べたら甘い物かもしれません。
しかし、今の子供たちは昔に比べて「こころ」が強くないのかもしれません。
また、周りとのコミュニケーションも十分に取れず、自分の思いを上手く伝えることが出来ないために「自殺」などに走ってしまうのではないでしょうか?
 

元の文章を引用する

 
Re: “罰すること”で残る【心の傷】2007/02/20 14:59:42  
                     す〜爺

 
よっちゃん、こんにちは。
 先週休んだだけなのに、なんだかひさしぶりのような気がします。
 そのことは、今度聞くとして・・・。

 よっちゃんが受けた「体罰」は、その後のよっちゃんにとって、なんのプラスにもならなかったどころか、それこそ“先生”という存在に対する不信感だけを残したことがわかります。

 文科省の解釈では、よっちゃんが受けたものは“体罰”に当たらない、とされています。ところが、よっちゃんが言うように、そのときの先生のことばは、いや〜な記憶とともによっちゃんの心の中に残っています。もし、その先生が、「そんなごまかしをしてはいけないぞ」とコツンと頭の一つも叩いて、「どこも悪くなさそうだからプールに入っておいで」と言ったら、よっちゃんの心にはなにが残るでしょうか。
 
 わたしが子どものころは、先生に殴られるのは当たり前。多少のケガならば「おまえが悪いことをしたからだろう」と親に言われるのがオチでした。もちろん、ひどい殴り方をする教師に対しては、気が強かったわたしは、何度殴られてもテコでも言うことを聞きませんでしたが、こちらへの気持ちがある場合は、殴られても納得ができて素直に反省ができたものです。それと、まさにその場だけのことで決着がついて、親を呼び出すなどのことはありませんでした。親を呼び出すなどのほうが、よほど子どもの心に傷を残すような気がします。
 

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第217回 “ほめことば”のちから
 前回の最後に触れた歌人・島秋人(しまあきと)は、昭和42年(1967年)の晩秋、33歳で刑死しました。24歳の時に、ひもじさに耐えかねて犯した強盗殺人の罪により死刑囚となってから、短歌を詠むことに目覚めたことはよく知られています。わたしがここで書こうとしているのは、彼の短歌(一首一首、胸がえぐられるような苦悩と一点を見つめるひたむきさと赤子のような無垢とに満ちていますが・・・)についてでも、彼が犯した犯罪のことでもありません。

 彼の歌に魅せられていた高校生である女性が、後に都立高校の教師として就職が決まったことを知らせた手紙の返信として秋人が書いたものを、「遺愛集」(東京美術刊)巻末の「島秋人さんの想い出」(前坂和子著)から所収文のまま引用させていただきます。
 
 「教師は、すべての生徒を愛さなくてはなりません。1人だけを暖かくしても、1人だけ冷たくしてもいけないのです。目立たない少年少女の中にも平等の愛される権利があるのです。むしろ目立った成績の秀れた生徒よりも、目立たなくて覚えていなかったという生徒の中に、いつまでも教えられた事の優しさを忘れないでいる者が多いと思います。忘れられていた人間の心の中には一つのほめられたという事が一生涯くり返えされて憶い出されて、なつかしいもの、たのしいものとしてあり、続いていて残っているのです。」

 極貧にあえぎ、学校一の劣等生と言われた秋人が、かつて中学生であったとき、ただ一度「絵はへたくそだけれど、構図がとてもよい」とほめられたことを、あるきっかけで思い出し、獄中からその美術の先生に手紙を出したのが、彼が作歌を始めるきっかけになったということです。その思いが上の手紙に表れています。

 手紙を書いた当時、すでにクリスチャンとして受洗していた秋人にとって、ごく自然な感慨であるはずの「教師は、すべての生徒を愛さなくてはなりません」というくだりよりも、秋人の手紙のなかでとくに印象深いのは、「忘れられていた人間の心の中には一つのほめられたという事が一生涯くり返えされて・・・・残っているのです。」というところです。

 「すべての生徒を愛さなければならない」としたら、わたしは子どもたちと付き合うことができません。これは、とりもなおさず「すべての人間を愛さなければならない」ということと同じだからです。そうありたいと思うことはあっても、敬虔な信仰者でも聖者でもない身には、とても不自然なことです。これまでにも書いたように、どうしても苦手な子や性の合わない子は、40年近い塾の歴史の中に何人かはいました。“教師聖職論”のこわいところは、周囲も教師本人も、「子どもはだれでも平等に愛さなければならない」と呪縛されてしまうことです。

 秋人の手紙から推察しても、その美術の先生がとくに聖者のような慈愛深い教師であったとは読み取れません。ただ、なんの取り柄もないと考えていた少年秋人の心の中に、ただ一度「ほめられた」という思いを残したこと、この一点で事足りるのではないかと思うのです。その「ほめられた」という思いは、死刑囚となった秋人が言うほどに、繰り返し思い出されるように強く残っていたものではないはずで、その後の彼の凶行の歯止めになどなるべくもありません。しかし、ふとしたことで思い出すほどには、子どもにとって「ほめられた」という気持ちは大きく、大切なものだと思います。

 たとえば、およそ数学的センスがあるとは思えない子が、「数学大好き」「数学は得意」と言うので聞いてみると、ある先生にほめられたとか、あるときテストでたまたまよい点を取った、という場合が何度もあります。第155回に書いた“人生最高のほめことば”をわたしにくださったI先生も、まだ若かったこともあり、失礼ながら高潔な人格者でもそれほど優秀な教師でもありませんでした。しかし、その“ほめことば”は、還暦を過ぎた今でも、折に触れ、わたしを支えてくれることがあります。

 毎月の塾の通信に“おじさんからの一言”として、ひとりひとりにコメントを書いています。そのなかでは、年少の生徒ほどできるだけよい面だけを書くようにしています。親御さんたちからは好評なので、“ごますり”のように言われることもありますが、それでよいと考えています。上の例で見るように、明らかな見当ハズレでない限り“ほめことば”は、その人のエネルギーになりうるからです。何年も経ってから、「一言コメントに○○と書いてくれてから親の態度が微妙に変わってきてうれしかった。」と言われてびっくりしたことがあります。

 その反面、苦言やきびしいことは直接言うことにしています。かなり厳しいことばでも、きみのことが心配なんだ、という気持ちで言ったことは、ほとんどの場合、相手に伝わるようです。そこには、わたしの表情や声の調子、まわりの様子など、ことば以外のさまざまな要素が加わるからなのだと思います。

 ネットやメールの世界では、ことばだけが独り歩きしてしまうので、よほど注意をしないと、誤解したり罵詈雑言(ばりぞうごん)の応酬になってしまいます。子どもたちの現状と合わせて、現在のところ、わたしにとってもっとも関心の深い問題になっています。


**2月13日(火)掲載**
(す〜爺)

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第216回 再々・反テレビ論
 テレビについては、この連載の16回と91回に書きました。これまでの2回では、ザッピング(リモコンで次々をチャンネルを変えること)とCM効果の関係。一度に入ってくる膨大な情報量を、わたしの頭が処理しきれなかったこと。あらかじめ設定されている結論に向けて番組が作られている節があること。わたしたちの意識や頭脳に与える影響は想像以上に大きいのではないかということなどを書きました。

 このことについては、何人もの知人や子どもたちから批判を受けました。子どもたちからは、「見てごらんよ、絶対おもしろいから・・・」「見てないのに批判するのはヘンだよ」。大人たちからは、「シリアスな番組もたくさんあるし、映像で見ることではじめてわかることもある。」「現実に多くの人たちが見ているのだから、ネガティヴに捉えてもいいことはない。」というものでした。

 最後の意見については異論がありますが、そのほかの意見は、わたしも同感です。興味のある番組なら、わたし自身たぶんテレビの前に釘付けになります。まずテレビを見ることなどないツレアイでも、たまに美術仲間からの情報をえて、どうしても見たい美術番組があります。用意万端整えてテレビの前に座って、手に握ったコーヒーカップに口をつけるのも忘れて見入っていたのに、「ああ、無駄な時間を過ごしちゃった。本物を見るまで何年でも待てばよかった。」などとつぶやきます。めったにない時間のために、精魂込めてコーヒーを淹れ、おいしいお菓子を用意したわたしは、すこしがっかりです。

 テレビを心から楽しんだり、客観的に見ることができる人にとっては、テレビはほどほどの娯楽や情報を与えてくれるのだと思います。批判をしてくれた大人たちの大半はそういう人たちです。そういう人たちや、テレビが生活のほんの一部でしかない子どもたちにとっては問題ないのだと思います。わたしが憂慮しているのは、一日中テレビをつけっ放しにし、情報やニュースの大半をテレビから得ている人たちです。あるいは、そのなかにいる子どもたちです。

 「新聞の情報だって不確かなものや意図的に処理してあるものもある」という意見もあります。しかし、新聞は、大雑把な分類ながら、産経・読売は右派、朝日は左派というように、各社ごとの大枠でのスタンスの違いはあり、広告主への配慮はあるものの、記事ごとにスポンサーがついているわけではありません。それに、ゆっくりと読んでいけば、根拠のうすい情報や、意図的に取り上げたりあるいは隠しているであろう記事が見えてきます。
 
 “納豆騒動”などは起きるべくして起きたものです。視聴率競争のなかで、情報でも、ニュースでも、討論番組であろうと、決まった時間枠のなかで端的に結論を出し、しかも視聴者の好奇心や欲望、わかりやすく一般受けのする悪者叩きをし、すこしでもインパクトを持たせようとするのが、テレビというメディアの本質です。先に結論が設定されているのもむべなるかなです。広告代理店は、その視聴率を見て広告を打ちます。先の政権はそういうテレビの特質を実にうまく活用しました。そして、宮崎県では、評価はまだまだ先ではあるものの、テレビで活躍していたという人が知事になりました。

 “納豆騒動”などでは、自らの不明を恥じない人たちからの抗議が殺到したということです。テレビでコメントを述べたのに肝心なところをカットされたり、まったく違う結論を導くための道具にされたりと怒っている人がいましたが、テレビというメディアでは当然のことです。かつて、ある不登校生の取材のためにアポなしで塾の門前まで来たテレビクルーをお断りしたとき、「テレビに映るんですけどねえ・・・」と言い、「だから困るんです」と返答したわたしのことばが理解できずに、とまどっていた担当者の顔が忘れられません。50年前に“テレビ一億総白痴化論”を唱えた大宅壮一氏の予言が実現しつつあるようです。

 じつは、先日、かねてから関心があった窪田空穂と島秋人という2人の歌人の交流を描いたテレビ作品がドキュメンタリー大賞を取った、という新聞記事を見て、ひさしぶりにテレビの前に座りました。秋人やその縁者の人たちのようす、空穂や秋人の交換書簡などにはそれなりの感慨がありましたが、写真だけでよいはずの、秋人への手紙をしたためる空穂、さらには独房の秋人までもタレントが演じているのをみて、とてもがっかりしました。やはり、秋人の作品「遺愛集」のなかにすべてがあることを、図らずもテレビに教えてもらったように思いました。秋人の絶唱「この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温し」を口の中でつぶやきながら、秋人に対してなにかすまないことをしてしまった、という気持ちになったものでした。


**2月6日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

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