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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第245回 便利さのツケ
 わたしが初めてデジタルカメラを手にしたのが5年前のことです。ごついくせに低画質のわたしの古いデジカメでも、スナップ写真を撮ったり、メールに添付して送るには充分の機能がありました。フィルムの残量を気にしたり節約したりする必要がないだけで、実用写真しか撮らないわたしには画期的なカメラでした。その後、デジカメはどんどん“進化”しているようで、最近では、人の顔を認識して自動的にピントを合わせるものまであるそうです。それを見たとき、思わず口をついて出たのが「これじゃあ、ますます、工夫したり考えたりする必要はなくなるなあ」ということばでした。

 つい先日までの酷暑の日々、塾が始まるまでの時間は、あちこちの窓を開放して家中に風が回るようにしていました。それでもなんとかしのげるのが、この古家のよいところです。ところが、子どもたちは飛び込んで来るなり「クーラーつけて、早く早く」と言います。裏のマンションのクーラー群からの排熱のため、数年前やむを得ず取り付けたエアコンですが、除湿機能しか使ったことがありません。これには子どもたちも大いに不満のようです。それでいて長袖のジャージを着ていたりします。

 ここで、次のような会話が進みます。わたし:「下はなに着ているの?」生徒A:「体操着」わたし:「だったらジャージを脱いだら?」生徒B:「あっ、そうか」生徒C:「でも、それとクーラーつけるのとは関係ないよ。」わたし:「???」

 そして、この2,3日のように急に涼しくなってくると「暖房入れてよ。」となります。そういう子がTシャツを着ているのだから、わからなくなります。

 ほんの5、6度の気温変化でも、「暑い、暑い」から「寒い、寒い」になっています。初めは、耐性の幅が狭い(堪え性がない)からだ、と考えていましたが、どうもそうではなさそうです。つまり、その日そのときの気候に合わせて着るものを調節する、という習慣がないようなのです。もし、そういう習慣があれば、自分の判断が甘かったわけだから、多少の寒暖は我慢するはずだからです。彼らの判断は「いまある服の中で、どれを着たいか」なので、居場所の環境はそれに合わせることが当然なのです。まさに、「快か不快か」で“反応”しているわけです。

 突然話は飛びますが、思えば、明治維新から現代まで140年の間、日本は、富国強兵・脱亜入欧・殖産興業の道を歩んできました。あの悲惨な戦争があっても、基本的にこの方向は変わっていません。そして、ここ30年、とくに前世紀末からの目まくるしい変化のなかでも、この動きは通奏低音のように流れているような気がします。

 冒頭に述べたデジカメに象徴されるような商品だけではなく、日常の生活空間そのものに、工夫したり考えなくても何の支障もなく過ぎていく“装置”が溢れています。これらは、学校教育でも家庭教育の責任でもありません。「必要は発明の母」と言われます。まさにこの格言?に基づいて、ありとあらゆる知恵を絞って“ラク・トク・ベンリ”を追求した結果がもたらしたものです。この点でのわが民族の能力の高さは、世界屈指といえるかもしれません。

 いまさら、取り上げるまでもありませんが、家事は日進月歩で省力化されています。とくに、まきで火を起こし、井戸で水を汲んでいたわたしの子どものころ(そんな昔の・・・、と言うなかれ、人類史を考えれば一瞬の時間です。)と大きくちがっているのは炊事です。前の晩に煮干を浸しておき、毎朝6時起床で米を研ぎ、土釜で炊いているわたしにとっても、ガスや水道のありがたさを身にしみて感じます。食器洗いは、なにがどのように食べられたかを検証するために欠かせない作業です。ツレアイは、洗濯機のオートをすべてはずして、完全マニュアルで1枚1枚点検しながら洗い分けています。おかげで20年以上着ている服がいくつもあります。

 歩くことは運動の基本なので、近くへ行くのでも車、駅でもエスカレーターという人を見るとびっくりします。まして室内運動器具などが売れていると聞くと、首を傾げたくなります。人との連絡方法も、消息文と言われた手紙の時代から電話になり、わたしも使っているメールの時代になりました。使っていながら、気楽に連絡できる分だけ人とのつながりの薄さと怖さを感じています。せめて、街で公衆電話を探す行動の中に、連絡することの必然性を感じていたいと思います。情報は、新聞・ラジオだけの時代から、テレビ・ネットなど、瞬時にして大量かつ同時に届くメディアの時代になりました。音楽もコンサートに出かけなければ聴けない時代から、慎重に扱わなければならなかったSP、LPなどを経て、いつまでも音が劣化しない高音質のCDで手軽に聴けるようになりました。

 思えば、家事の重要な担い手であった子どもたちが、親の目を盗んで読み書きを学び、むさぼるように知識に飢えていた時代も、さして遠いことではありません。それが、学校制度ができ、学ぶ環境が整えられ、だれでも学べるようになった現代の多くの子どもたちが“勉強嫌い”です。ここに、わたしのような塾もまた、加担している、という忸怩(じくじ)たる思いもあります。
 
 あの巨大恐竜たちは、その大きさゆえに地球の気候変動に対応できずに絶滅したといわれています。このような短い期間に、考えなくてもすむ・工夫がなくても生きていける、死の恐怖も飢えの苦しみもない“理想の”社会を作り上げてしまったわたしたちは、その大きなツケを払い続ける時代が来るような気がしてしかたがありません。人類が滅びれば、地球環境は(地球年齢にすれば)短期間に修復するとのことなので「地球にやさしく」などと傲慢(ごうまん)なことは言っていられません。この状況の中で、わたしたちの社会は持続可能なのか、いま、わたしたちにできることはなにか、とても大きなテーマのように思えますが、子どもたち一人一人の顔を思い浮かべながら考えていると、とても身近で緊急の課題であると思います。


**10月2日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第244回 “学力” その4
 “学力”について書き始めてみたものの、考えれば考えるほどむずかしいテーマであることをヒシヒシと感じています。シリーズの回数だけ重ねて、あっちこっちと見苦しく経巡ることになってしまいました。

 ここで、なぜ、いまさらながら学力について考える必要を感じたのかを書くことで、一応の区切りをつけようと思います。

 長い間、塾を通して子どもたちのようすを見てきていると、2,30年前とはかなり様相が違ってきていることを感じています。もちろん、これは少しずつ変容を重ねてきていて、気がついてみると大きな変化になっていたものです。そして、子どもたちだけではなく大人たちについても、大きな変化がありそうです。子どもたちが比較的ありのままの姿を示すわたしの塾でだけのことなのかと考えていましたが、さまざまなデータや情報に接するたびに、やはり、かなり普遍的な現象なのではないかと思うようになりました。

 その第1が、学校勉強とは無縁であるはずの知識・技術が身についていないように思えることです。つまり、ふだん何気なく見ていること、触れていること、耳にしていることなどに、疑問を持ったり、好奇心を抱いたりすることが少なくなっていることです。言い換えると、従来なら日常の生活の中で自然と身につけてきたはずのものが、身についていない。たとえば、物をたたむ・折る・切る・止めるなどの所作、自分の家のどちらの方角から太陽が昇るか、温まった空気はどうなるか、鰺(アジ)はヒラキの姿で泳いでいるのではない、などの“常識”・・・。ほかにもびっくりするような例をたくさん見聞しましたが、思い出せないのが残念です。

 これらは「生活が変わってきていて、現代では必要のないことになったのだから身についていないのは当然だ」と言う人もいます。しかし、要不要にかかわらず、これらのことは、現代の日常生活でも、あたりまえのように身近にある現象です。

 その第2が、「でもさあ、ちょっと待ってよ。どうしてそうなるの?」などと言う子がほとんどいなくなったことです。学校・家庭・勉強などについての不安、不満は渦巻いているのですが、疑問や怒りなどをぶつけることもほとんどなくなりました。今回のシリーズで何回か引用させてもらった池見さんのサイト(http://mure-m.com/adult5.html)で、現代社会と教育状況について、多くの優れた所見を示したきた佐々木 賢氏が「(前略)フリーターもそうでない人も含めて、今の日本の若者たちは、人間の尊厳を傷つけるような働かされ方をしている人を見て、腹が立たないのだろうか(後略)」と書いています。不安、不満は積もり積もっているのに、心からの怒りがない若者たちは、どのようにして出てきたのでしょうか。

 教育研究機関などの調査によると、中学生たちの学習態度は、以前に比べるとおおむね“まじめ”になってきている、ということです。これは、塾生を通してのわたしの実感とも一致します。その反面、明らかなプリントミスやこちらの言い間違えなどでも、そのまま受け入れられてしまって、あとから気がついてわたしの方があわてることがあります。以前なら、“勉強大嫌い”な塾生でも、どんどん指摘してくれました。

 すなわち、「ほんとうはやりたくないことだけれど、がんばってすること」という本来の意味での“勉強”はやるけれども、よく観察していると“考えている”のではなく“反応している”としか思えないことがよくあります。

 じつは、テストの成績(受験学力)の高低にかかわらず、ああでもないこうでもないと“考える”のではなく、この“反応する”場面に出会うことが多くなってきました。つまり、「なにが正しいことで、客観的な事実は何なのか」を“考える”のではなく、ものごとを「好きか嫌いか」「快か不快か」で“反応する”子どもや若者が、わたしの周辺には多くなっているような気がするのです。

 受験学力の低下も、考える力が弱くなってきたことなどの主な要因が、「詰め込み教育」や「管理教育」あるいは、「ゆとり教育」、さらには「戦後民主主義教育」など、学校教育のあり方であるとは、とても思えない、というのが、現在のところのわたしの結論です。“考えること”が少なくなったのは、現代の子どもたちだけではなく、まさに現代の大人たちも含めてのことだと思うからです。

 その最大の原因は“高度情報化社会”だと考えています。あの小さな画面から、膨大な量の情報(色・形・人の表情・文字・・・)を瞬時に送り出すテレビを初めとして、底知れないウェブの世界や、多岐多様な商品情報の量などは、どれほど処理能力にめぐまれた人間でも、すべてをインプットすることはできません。流れてくる情報のかなりの部分を、本能的に除外・無視(omit)しないわけにはいきません。ゆっくりと考えたり、繰り返し余韻を楽しむなんてことはできません。いわば、ご馳走攻めになっていて、取捨選択する余地なく食べ残したり、食欲が減退してしまって機械的に食べる行為だけをしているようなものです。美味を喜ぶ舌も、滋養を摂っている本能的な肉体の喜びも、およそ食事の楽しみを失ってしまっている状態と非常に近いものを感じます。

 この傾向は、これからますます強まってくるはずです。そういう時代の中で、われわれができることはなにか、次代に伝えていくべき“学び”とはどんなものなのかについて、機会があれば、具体的な場面で考えてみるつもりです。


**9月25日(火)掲載**
(す〜爺)

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本を紹介するということで2007/09/30 10:31:51  
                     

 
毎回、いろいろ考えさせて頂いています。『競争やめたら学力世界一』フィンランド教育の成功(朝日新聞社)を読みました。題名は必ずしも内容を表してはいないのですが、人間の尊厳なども含めて、現在の日本と正反対のことが紹介されています。学力についての考え方も… 個人の努力では難しいでしょうが、まずは自分の足元での小さな一歩から始めたいと思います。高度情報化社会は日本だけではないので、世界中の共通問題だとは思いますが、現状を見ていると、日の丸や君が代をもって『愛国心』を唱える方々に「自然を粗末にしたり、人を大切にしない社会のありかたは亡国ではないですか?」と訊ねてみたい気持ちです。
 

元の文章を引用する

 
Re: 本を紹介するということで2007/09/30 19:21:04  
                     す〜爺

 
風さん、お久しぶりです。
 いつもお読みくださってありがとうございます。
 日本の場合は、残念ながら、経済界も政治も官僚も、グローバル経済を志向しながらそこで勝ち残ることしか考えず、一般国民のほうには目が向いていません。したがって、経済は野放図に成長することだけをよしとしている結果、高度情報化・大衆消費社会の影響が複合的に働いてきているような気がしています。このことに関連したことを、次回に書くつもりです。
 聞くところによると、フィンランドでは、学力を伸ばすという意識ではなく、一般に大人も含めてよく本を読むそうです。「なにかのために、」ではなく、好奇心や楽しみとしての読書が、国民の広い層に定着している、と聞いています。
 風さんがおっしゃるように「まずは自分の足元での小さな一歩から始めたい」とわたしも考えます。
 

元の文章を引用する

 
面白みがない2007/10/01 10:35:37  
                     k

 
今の若い子をみてると面白みが無いように感じてしまいます。
本人たちは本当に楽しみをかんじているのか疑問。
価値観は多様化してる反面、その幅自体は狭くなってるように思えてなりません。
公園でも電車のホームでもゲームや携帯電話を眺める人等を見るたびに、
時間をもてあそぶ事も難しい時代なんだと思います。




 

元の文章を引用する

 
Re: 面白みがない2007/10/01 17:36:50  
                     す〜爺

 
kさん、こんにちは。
 書き込みありがとうございます。気がつくのが遅くなりました。
 子どもたちを見ていると、じつは一人一人に内在しているものはとても豊かで、まだまだ捨てたものではない、という感じがあります。ただ、子どもはやはり“時代の子”でもあるので、表現されているものは、疲れ、退屈、面倒くさい、になってしまうのかもしれません。
 kさんが言われるように、ゲームもテレビも、体ごと充実して楽しんでいるというより、そういう気持ちの穴を埋めるように、いつも何かに追われているような、そしてどことなく後ろめたいような気持ちでやっていることが多いので、ケータイゲームなどをやっているときの彼らはみんな同じような表情に見えてしまうのかもしれませんね。
 

元の文章を引用する

第243回 “学力” その3
 前回までに書いたところをまとめると、“学力”は、
1.“受験学力または文科省学力のA”。これは、与えられた課題や要求されていることが明確である限り、安定的に的確に対応できる力です。
2.“生きる力”。これは、このシリーズの一回目の最後に取り上げた池見さんが考える“学力”と、それに近いと思われる文科省学力のBです。
 この2つに大別してよいのではないかと思います。いずれも第241回をご覧ください。

 結論から言うと、この1、2、は別のものではない、とわたしは考えています。ただ、1、について言えば、社会の中で、一定程度以上処理能力が優れている層が占める割合は、時代の変化に左右されず、一定なのではないかと思います。これは、苅谷剛彦氏の力作『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社)が示唆するところでもあります。

 そして、前回にも書いた、一部の大学のエリートと呼ばれる学生を除けば、世間的に“難関大学”にランクされる大学に属している学生たちも含めて、1の“学力”も、2の“学力”も低下しているものと考えます。さらに、経済界や学界が望んでいた“独創的で型破りな発想”が少なくなった、という意味では、“超受験エリート”たちの中での学力低下も進んでいるのかもしれません。

 幸か不幸か、わたしの周辺に“超受験エリート”は少ないのですが、上で述べた世間的に“難関”と言われている大学の学生のことは見聞する機会もあるので、そこも含めて、子どもたちや若者たちの実例を取り上げたいと思います。

 まずは、漢字力です。漢字テストを含むテスト学力についてはそこそこ以上の成績を示すのに、手書きの手紙やノートについては、みごとにひらがなだけだったり、実に奇妙な誤字を“発明”する子がいます。みなさんは「わたしの願いが“乗受”するよう祈っていてください。」「ぼくの努力も“見止め”てほしい。」などという文がわかりますか? もちろん、前者は「成就」後者は「認め」です。これらの字に接したとき、ある種の軽い感動を覚えたものです。なんとなく「じょうじゅ」「みとめる」ということばが持っている意味を含んでいるような気がしませんか? 矛盾を“無順”、と書いた例を見たこともあります。これもまた、妙に納得させられるような誤字です。

 いつの時代も、若者が大人と比べて漢字を知らないのは当然のことだ、という人もいます。わたしがここに注目するのは、第一に“乗受”“見止め”“無順”などの造字には、ことばの意味を“考えた形跡”があること、それに、少なくともこれまで「成就」「認める」「矛盾」という文字には何度となく接してきているはずだということ。第二に、“就”の旁が“犬”になったり、“認”の“刃”の部分が“刀”になっている、あるいは“矛盾”が“予眉”だったりする間違いは昔からあったし、そういうミスをする子どもたちの漢字テストでの成績は芳しくなかったはずです。ところが、例に挙げたような誤字を書く子の漢字テストの成績は、むしろ平均以上であることが多いこと。の2点です。

 前者に注目すれば、彼らが、これまで「成就」「認める」「矛盾」という字に接したときに、なんとなくスキップしてきたのではないかと思われる節があることです。わからないことばに出会ったときにスキップすること自体は、わたしもときどきやることですが、それは、どこかしら“軽い罪悪感”のようなものが残っていて、同じことばが2度目に出てきたときには調べずにいられません。漢検1級にでも出てきそうな難読文字ならともかく、これらは日常的に接する文字です。多くの人が知っていそうなことがらやことばを知らないことに恥ずかしさを感じる人は、それを陰でこっそり調べたり、ちょっとごまかしたりすることもあったはずです。でも、彼らは一度直しても、堂々と同じ字を書くことが多いのです。これは、漢字に限ったことではありません。自分が事足りることに関しては、“知らないこと”に恥ずかしさもストレスも感じていないようです。

 そして、後者について言えば、範囲を示された漢字テストはしっかりと点を取るのですが、範囲外の漢字や、学校では習っていないけれど日常よく見かけるはずの「渋」などという字が書けないこともあります。

 パソコンや携帯メールなどでの文字変換に慣れてしまったため、と考えられないこともありませんが、どうもそれだけではなさそうです。手書きでは妙な文字を書いていた子がくれたメールのなかで、その同じことばが正しく変換されているのを見たことがあるからです。

 そういえば、いつのころからか、大手IT業界や銀行などの一流と言われる企業から送られてくるお知らせの中に、「〜していただけますようお願いいたします。」という妙な文言を見かけることが多くなりました。「○○さんに〜していただく」は、相手の行為に対するこちら側の謙譲、「○○さんが〜してくださる」は、相手に対して敬意を表し、その行為によって恩恵を受ける意味なので、本来ならば「〜してくださるよう・・」であったはずです。それが、不必要に丁寧語を重ねために、妙な言い回しになってしまっています。「〜していただきますよう」に至っては、「客であるこちらが、だれに頼んで〜してもらわなければならないのか」と言いたくなります。

 あまりこんなことをあげつらってばかりいると、小言幸兵衛になってしまうので、このあたりで切り上げるとして、次回は、別の面から考えてみることにします。


**9月18日(火)掲載**
(す〜爺)

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第242回 “学力”その2
 前回、文科省が考えている“学力”について触れました。
 あらためて読んでみると、文科省が考える“学力”は、単なる“受験学力”とは、どうも少し違うようです。これは、文科省が1990年代に「ゆとり教育・新学力観」を打ち出したときの背景に“与えられた課題は正確に早く処理するのに、自らテーマや課題を見つけようとしない若いエリートたちの増加”という、経済界や、主に理系の研究者などからの指摘があったからである、と考えています。

 ついでに“受験学力の本家−東大生受験コンサルティンググループSynapStyle”のHPを見てみると、つぎのように“学力”を定義しています。1.合格に必要な質と量の問題を設定し、2.原理原則を理解(input1)し、演習の中で定着(input2)させ、3.試験時間内に引き出せる形で、頭の中に整理しておくこと(output)。

 わたしの乏しい経験から見ても、これらはまさに“受験勉強の要諦”です。ただし、このレベルになると、“よくわからなくても『でき』てしまう”ものは少ないように思います。しかし、“与えられた課題に対して、その要求されているところが明確である限り、効率的にしかも安定して的確に対処するためのスキル”が詰まっています。この意味での“受験学力”は低下どころか上昇さえしていることが、受験情報や東大の第2段階選抜などからうかがい知ることができます。そして、これこそが、冒頭に書いた経済界・学界そして文科省が憂慮したものです。しかも、トップレベルと言われる大学入試の現状は、ここからほとんど進んでいません。

 かつて、文科省が秘策として繰り出した「ゆとり教育・新学力観」は、その限りでは功を奏さなかったことになります。このレベルでは、どのような形であれ、入試問題が“既定の解答を求める限り”受験生本人も受験業界も、それに照準を当てた対策を打ち出してくるからです。

 そして、明確に“学力低下”したのは、前回にも書いた大多数の大学の“受験学力”です。これは、大学というパイが増え、少子化が進み、進学率が上がってきたことによる必然的な結果です。池見さんは「学力が下がったということは、受験の壁が低くなり、若者たちの進路が進みやすくなったと考えることができ、若者が“生きやすい社会”になったと言えます。これは“よいこと”と言えると思うのですがどうでしょう?」と書いています。“学力低下”の結果、“若者が生きやすい社会になった”と言えるかどうかは、わたしはやや疑念を持ちますが、それについては、別の機会に述べることとして、この池見さんの意見もひとつの見方だと思います。

 適切な表現ではないかもしれませんが、文科省は、今回、“トップレベル”での効果をあきらめ、この“第2線”(社会の中心となる層)での“学力低下”を、授業時間数の増加・体育教科の増強(特に武道科目の重視)という形で“テコ入れ”を試みたのではないかと思います。

 ところで、前回「文科省が考える“学力”のうち、Bに当たる“知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力、様々な課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力”は、庶民の多くが持っていた」と書きました。これは、昔の生活を知るわたしの実感でもあり、かつて必死に生きてきた庶民たちが残したさまざまな証もあります。

 これらが失われたのは、「詰め込み教育」が原因でしょうか。はたまた、その後の「ゆとり教育」のせいでしょうか。さらに大きく「学校教育」あるいは、保守層がよく口にする“戦後民主教育”が元凶なのでしょうか。いずれにしても、それらの要素はかなり小さいものである、とわたしは考えています。

 今回は、具体的な場面を提示しながら考える、とお約束したのですが、とうとうそこまでたどり着くことができませんでした。次回こそは、若者たちのどんな“学力”が低下し、それらの原因が何であるのか、わたしなりに考えを深めてみるつもりです。


**9月11日(火)掲載**
(す〜爺)

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第241回 “学力” その1
 毎年のことながら長いお休みをいただきました。今回は、前回に続いて、すこしのんびりと夏休み中の子どもたちの様子などについて書いてみようと考えていたところ、先月末に、文科省の「新学習指導要領」の骨子が発表されました。

 この小さな場で、教育行政について述べることは、“蟷螂(とうろう)の斧”のようなものです。しかし、今回、文科省が中教審に提出し了承されたという“検討素案”は、国の教育行政が「何を学力と考え、学校現場と子どもたちに何を要求しているのか」ということが、如実に表現されているように思われます。また、この“素案”は、ほぼそのまま「新学習指導要領」として、4年後から具体化されるということなので、あらためて“学力”について考えてみることにしました。

 今回の“素案”で目を引くことが2点あります。ひとつは、小中学校とも、国語・数学(算数)などのいわゆる主要教科と並んで、体育(保健体育)の授業時間数を増やしていること。もうひとつは、総合学習の時間の削減です。細かい検討は、わたしの任ではないので省きますが、新聞各紙が、今回の“素案”について「ゆとりからの逃走」(毎日)「脱ゆとり」(読売)「ゆとり教育の見直し」(朝日)など、ゆとり教育との関連で捉えていることが気になります。

 「ゆとり教育」は、本来「新しい学力観」とセットで出てきたもので、「児童生徒の“意欲”“関心”“生きる力”を伸ばす」ことを目的としたものでした。発足当時の学習量の削減は、その分を問題解決能力を高める方向に向かわせたい、という意図があったものです。その意味では、文科省は「ゆとり教育の理念」を見直したり放棄しているのではなく、その理念をさらに進めるための手法を転換したものであると考えられます。例のOECD生徒の学習到達度調査(PISA)2003年調査がでて、文科省は、次のような結論に達したものと思われます。

 「 我が国の子どもたちの学力は、国際的に見て成績は上位にあるものの、(1)判断力や表現力が十分に身に付いていないこと、(2)勉強が好きだと思う子どもが少ないなど、学習意欲が必ずしも高くないこと、(3)学校の授業以外の勉強以外の勉強時間が少ないなど、学習習慣が十分身に付いていないことなどの点で課題が指摘されているほか、学力に関連して、自然体験・生活体験など子どもたちの学びを支える体験が不足し、人やものと関わる力が低下しているなどの課題が明らかになっています。」(文科省HPより)
 
 この認識が、今回の“素案”のベースになっているように思います。また、今年度から始まった「全国学力・学習状況調査」と連動したものです。

 これらを見てみると、文科省が考える“学力”がどのようなものであるかが見えてきます。つまり、A「身につけておかなければ後の学年等の学習内容に影響を及ぼす内容・実生活において不可欠であり、常に活用できるようになっていることが望ましい知識・技能」および、B「知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力、様々な課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力」の2点を“学力”と考えているようです。

 一方、世間で“学力低下”と言われている“学力”とは、「与えられた問題に対して出題者が意図する結論を出すことができること」つまり、「テスト得点力」あるいは「受験学力」と呼ばれるもののようです。

 この意味での“学力”について言えば、わたしと同世代の高校進学率は20%弱、大学進学率は10%弱でした。それが、現在では高校進学率は95%を超え、大学進学率も、統計では50%強となっていますが、このところの学生不足?からくるハードルの低さを考えると、さらに増えているのではないかと感じます。つまり、かつては進学など考えるより“手に職をつけ”たり、“早く家計の担い手になる”人たちが「高校に行きたかった」「大学さえ出ていれば・・」という親の思いを背景に、受験・進学するようになったのですから、“受験学力”あるいは“大学生の学力”が低下するのは、あまりにも当然のことです。

 早くから進学志向が強かったここ浦和の中心部でも、わたしの同級生の約13%は中卒のままで社会に出て行きました。しかし、わたしの記憶では、彼らの多くは、文科省が考える上記の“学力”のうち、Bに当たる「知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力、様々な課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力」は充分にもっていました。

 第238回で登場していただいた池見さんが考える“学力”とは、「考えて生きてゆくことで、みんなと・楽しく・そして自分らしく生きてゆく、それを実現し・そういう自分を支える力」だということです。子どもに限らず、「考えない人が増えてきた?」「考える前に反応する人が増えてきた?」と池見さんは疑問を投げかけ、その意味での“学力低下”を憂いています。

 次回は、これらの“学力”の具体的な場面について、さらに考えてみる予定です。


**9月4日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第240回 小さな庭の小さな生命たち
 今回は、ネコの額ほどの小さな庭と、太古ならぬ大古住宅に同居したり、訪問してくる生命たちのことを紹介することにします。

 わが家の庭は、文字通り15坪にも満たない小さな空間で、中央の古井戸のまわりに、カエデ、ツバキ、ネズミモチ、南天、アオキ・・・などがひしめいています。キンモクセイが開花する10月ごろには、あの強い芳香が近隣に漂い、小さな落花は狭い庭に橙色のカーペットを敷き詰めます。いろいろな種類の小鳥が枝から枝へと飛び交っていましたが、わが家には不釣合いな大木に育ってしまったので、数年前、半分くらいに剪定をしてもらいました。ところが、芳香も弱くなり、カーペットもまだら、小鳥たちのさえずりも心なしか元気なく、日当たりを多少犠牲にしてもあのままにしておくべきだったか、少し悔やんでいます。

 わが庭のトップスターは、なんと言っても花海棠(はなかいどう)でしょう。これは、亡母が苗で購入しツレアイが移植したもので、いまでは約5メートルにもなろうとしています。ソメイヨシノが葉桜になるころ、たくさんの濃紅のつぼみをつけ、やがて見事なピンクの花が木全体に広がります。道路2本隔てたマンションの高層階に住む塾OBのベランダからも、ピンクのお饅頭のようなふわっとした花が見えるそうです。庭の一番奥にあるのですが、最盛期には表の道を通る人たちも楽しんでくれているようです。これもまた落花のころには、庭一面がピンクのカーペットになります。

 門のそばには梅(白加賀)の木があって、多いときには1sほどの実をつけます。したがって、わが家の梅干の1部は自家産品です。門前のユスラウメの小さな赤い実は、子どもたちの口に入って、庭では種飛ばし競争が始まります。

 垣根は元々四つ目垣で、若いころのわたしはシュロ縄で竹を組んだこともありましたが、すっかり朽ち果ててしまって、今では主にツツジとアカメの生垣になってしまいました。その内側に、初めは数本だった孟宗竹がどんどん増えてきたので、垣根代わりになりそうなところを残して、毎年2,3本の筍を収穫します。垣根には、ほかに木瓜(ぼけ)、ガクアジサイ、萩、サザンカ、侘助(わびすけ)などが混在しています。

 これらの植栽と手入れは、もみがら、米のとぎ汁、調理クズなどの堆肥などを使って、ツレアイがほとんど一人でやっています。八百屋さんなどは「ここに入って来ると、すっと涼しいねえ」と言ってくれます。裏のマンションからのエアコンの排気がなかったころは、真夏でも窓を開け放つだけで涼しい風が入ってきました。

 ところが、わが家では殺虫剤や除草剤などを一切使わないので、さまざまな動物たち(昆虫、鳥、哺乳類、爬虫類)が訪れます。とくに、夏は虫たちとの闘いです。高気密のマンションに住んでいる子どもたちは、やっと見えるぐらいの小さな虫でも大騒ぎしますが、かく言うわたしも口ほどでもなく、虫は苦手なほうです。とくに蛾については、とてもいやな記憶があるので、室内を飛び回られるとどうしようもなく、あとで子どもたちにからかわれる材料になります。ただでさえすきまだらけの古家である上に、玄関を開け放しのまま入ってくる子がいると、ヤブ蚊の襲来、ときにはゴキブリの登場でパニックになります。

 このように“授業妨害”する生き物たちとは別に、やわらかい土中には、もぐら・みみずがときおり顔を出し、地蜘蛛やアリ・団子虫がせっせと働き、空中には、アシナガバチ・トンボ・蝶が舞います。あるときには、スズメバチが巣を作って駆除作戦を展開したり、茶毒蛾の幼虫の焼却作業に追われることもあります。

 そして、塾生やわたしたちを楽しませてくれるのは、小鳥たちです。よく見かけるスズメ・鳩・カラスだけでなく、キュッキュと鳴くムクドリ、ピーヨピーヨと鳴くヒヨドリ、キュリリリと鳴くオナガ、かわいいメジロ、などは常連です。姿はなかなか捉えられませんが、春先にはうぐいすのさえずりが聞こえることもあります。

 わが愛犬が元気だったころ、悠然と庭を通り過ぎていたブチのネコの2代目が、にらみを利かせながらきょうも通って行きます。カナヘビがササッと庭を横切ります。

 なかでも、夜になると窓ガラスに張り付いて狩をするやもり一家?は、いまやわれわれ夫婦のペットで、どうも3匹はいるようです。「大ヤモ・中ヤモ・小ヤモ」と名付けて楽しんでいます。じっと動かずにいて、虫が捕獲距離に入るとスパッと動いて捉えることもあれば、一瞬の差で逃げられてしまうこともあります。首尾よく食事にありついたときには早々と姿を消しますが、逃げられてしまうと何時間でも待っています。生きることの厳しさとユーモラスな動きとのギャップに、不思議な感慨を覚えます。

 毎年8月は、本業の多忙期と重なるのでお休みをいただいています。ただ、折に触れてこの欄をチェックしていますので、子ども・家庭・学校・地域・社会など、広く子どもたちや教育に関するご意見をお寄せください。


**7月31日(火)掲載**
(す〜爺)

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狩りの報酬2007/08/03 23:28:59  
                     よっちゃん

 
やっとこさ前期試験も終り、サークルの練習がいっぱいの夏休みに突入しました。
(関東は梅雨明けしたのかな?)
でも塾にまさかこれほどの植物があったとは思いませんでした。
塾での思い出は夏の天敵「蚊」を狩ることですかね。
蚊を退治するとお菓子の「報酬」をもらえる(確か金平糖一粒)のために一夏に10匹狩ったこともありました。
しかし、一度ももらったことはありません・・・。
いつかほしいです(笑)
思い出話の短文ですが今回はこれで失礼します。
また近々お伺いするやもしれません。
では・・・。
 

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Re: 狩りの報酬2007/08/08 17:36:27  
                     す〜爺

 
よっちゃん、こんにちは。
 充実した夏休みを送っているようですね。こちらは夏休み前期の日程が、きょうで一区切りつきます。しかし、それまでストップしていた用事が山積みで、一息つけそうもありません。あすは野々の命日なので、野々にとって一番の身内である3人だけで静かに過ごします。
 ところで、「狩の報酬」が出ていなかったとは失礼しました。あれは、金平糖がたくさんあったころ、だれかの発案で「蚊一匹で一個」ということになったのですが、金平糖も無くなり、いつのまにか「狩」は完全なボランティア活動?になったようです。でも、せっかくのよっちゃんの活躍なので、次に塾に顔を出したときには、アメ10個で勘弁してください。
 

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Re: 第240回 小さな庭の小さな生命たち2007/08/18 12:02:18  
                     

 
いつも貴重な話しをありがとうございます。感想や意見を書きたいのですが、いい加減には書けないと躊躇してしまいます。
今回の、こういう話「も」いいですね。我が家にもヤモリやカナヘビがいます。菜園にもカンヘビがいます。今年はミミズが多く、喜んでいます。
暑いのでお体に気をつけて下さい。
 

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のんびりと過ごしています2007/08/18 21:09:11  
                     す〜爺

 
風さん、おひさしぶりです。
 おかげさまで、この2,3日はとてものんびりと過ごしています。一人でコンサートを聴きに行ったり、夏休みの課題をかかえる高校生につきあって博物館めぐりをしたり、昨日は、ツレアイといくつかの美術館と朝倉彫塑館(ここはよかった!)を回ったりしました。きょうはさいたま芸術劇場でのジャズダンスのミュージカル、つづいてアヴェ・マリア集などの合唱を楽しんできました。あさってから後期の講習が始まります。
 学校の先生である風さんは、夏休みもお忙しく飛び回っておられると思いますが、おたがい、体からのメッセージに虚心に耳を傾けて、この夏を乗り切りたいものですね。

 ところで、書き込みを躊躇されることがあるとのこと、現場で真剣に取り組んでおられる先生の感想は、次代の子どもたちのことを考える上でも貴重だと思いますので、ぜひ、いろいろお聞かせいただきたいものです。そこから、また議論が広がっていくことも意味のあることだと考えますが、いかがでしょうか。
 

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第239回 0か100か
 テストが近づくと、パニックになって「どうしよう、もうダメだあ」を連発する子がいます。「勉強なんかぜ〜んぜんやってないよう」という子までいます。「もっと前からしっかりやっておけばいいのに」というのは大人の考えで、じつは子どもたちのこの叫びは、「やっていなかったので、どうしよう」ではなく、テストが近づいてくる恐怖のことばです。「生きていけないよう」「成績下がったら塾やめさせられちゃう」「もう、なにがなんだか全部わからなくなっちゃったよ」・・・ありとあらゆるアセリのことばのオンパレードです。子どもたちにとって、“テスト”とは、かくも強いプレッシャーになるものです。

 そんな子どもたちに、テスト範囲の事項を一つ一つ示しながら、「このときは、おじさんどんな説明したっけ?」と聞いたり、「このプリントをもう一度やってごらん」と渡すと、ほとんどが「ああ、それかあ、それだったらバッチリだ。」と安心します。あるいは、塾でやる時間がない理科・社会のプリントを渡すと、「よし、これをやればだいじょうぶなんだよね。」と元気を取り戻します。

 ところが、「でもね、一度わかったことでも、テストで点が取れるかどうかわからないよ。理社のプリントも、ただやるだけではなくて、一つ一つ理解して、納得できないところはちゃんと質問してね。」と言うと、今度は、またまた「なんだあ、もう全部OKだと思っていたのに〜、やっぱりやらなきゃダメなんじゃん」とがっかりします。子どもたちにしてみれば、極端に言えば「“なにもやらずに”テストができればいいのになあ」という気分なのでしょう。

 ふだんの勉強のときでも「これでもいいんだけれどね、こうするともっといいね。」と言うと、「それで、結局○なの×なの?」と、それだけしか関心がない子もいます。一つ一つ説明していった結果「さっぱりわかんな〜い。」と言うので、同じことをゆっくり繰り返すと「な〜んだ。チョーかんたんじゃん」となります。この場合も「ん? そんなにかんたんじゃないかもしれないよ。ここはどうしてこうなっているのだと思う?」と聞きなおすと、「やっぱむずかしいんじゃん。」さらに「でも、ここのところを声に出して読んでごらん。」と言うと「今度はバッチリわかった」となります。

 勉強のことだけではありません。「あの先生、嫌い」となると、服装から話し方だけではなく、授業の内容まで信用しなくなる子もいます。逆に、「大好き」となると、こちらからみて少々アブナイ先生かもしれないな、という場合でも、全面的に信頼してしまいます。塾の時間にいつも遅刻してきた子が、たまたま塾の始業時間ピタリに到着したことがあってから、塾の門前で時間を見計らって飛び込んでくるようになったのは、ほほえましいエピソードでした。

 わたし自身も、ほとんど興味関心がない分野のことでは、おおざっぱで熱も入りません。その一方で、好きなことや大切にしたいことでは、人がなんと言おうと、(表面的には譲ることがあったとしても、少なくとも自分の気持ちの中では)妥協できません。しかし、そういうわたしと同じような大人は、むかしからわたしの周囲にはいくらでもいました。

 ただ、子どもたちに限らず、われわれの社会の中に、上例のように、まったく同じ事柄や現象について「0か100か」「全否定か全肯定か」「行き当たりばったりかカンペキか」という場合を見かけることが多くなってきてはいないでしょうか。

 「抗菌グッズ」があふれかえっている一方で、食品の管理が雑な人。地域のちょっとした声掛けがなくなって、城塞のような塀やホームセキュリティの家が増える。沼も川も完全護岸と防護柵ができていて、地域の目がない。

 なぜ、こういうことを書き出したかというと、このところ噴出している企業の不祥事も、社保庁の年金管理のずさんさも、根っこは同じなのではないかと考えるからです。つまり、利潤を上げることが至上命令になって、すべてがそこに向かって動いていった結果、本来、その企業が持っていたはずの社会的な使命(福祉、食、エネルギー供給・・・)が忘れ去られていったのではないでしょうか。また、国民生活安定が目的であったはずの年金が、集めた金をどう使うかのほうに比重が移っていった結果が年金問題です。

 これらはどれも、「0か100か」ではなく、適切な判断が連続的に為されなければならないものです。利潤と企業の社会的使命のバランス、国民生活安定の目的のために預かったお金をどのように還元するか、が常に検証されていれば、いまのようなことにはならなかったはずです。

 前述の子どもたちとの一見無意味に見えるやりとりのなかに、「0か100か」に割り切れないところに大切なものがある、ということも考えてほしいのです。

 最後に蛇足をさせてください。現在だけではなく、遠い将来の子孫にまで責任を持つべき原発の管理については、すこし異なる考えを持っています。日本の原発は、まずエネルギー供給ありき、で推進されてきました。本来ならば、仮に10万年に一度のメルトダウン(原子炉溶融)も許されないはずのものです。その(確率論的)危険性があれば、われわれのライフスタイルを全面的に変えてでも、廃棄すべきものであるはずです。それにもかかわらず、それとは正反対のずさんなリスク評価をしています。今回の柏崎刈羽原発の事故では、いっそうその思いを強くしました。


**7月24日(火)掲載**
(す〜爺)

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第238回 “わかる”と“できる”
 “ゆとり教育”の是非をめぐって、一時期『学力低下論争』がさかんになりました。この連載でも、その問題に関連したことを何回か取り上げたことがあります。この論争は、「子どもたちの学力が低下しているかどうか」を論じる以前に、学力とは何か、どの時代を基準にしているのか、などの前提がはっきりしないままに、実りのない議論に終わってしまいました。そして、『学力低下論争』は、新指導要領、新教育基本法、教育再生会議の一連の提言、新教育関連3法など、結果的にいずれも次代の子どもたちを取り巻く教育環境や社会の大きな変容を導き出す起爆剤になってしまったのではないかと考えています。

 そこで、今回は、「学校で学習する知識の定着度」と「テスト問題を解く力」を「学力」と考え、子どもたちの“わかる”と“できる”について考えてみることにします。じつは、塾仲間で三鷹(武蔵野市)にある「数学塾 むれ」の主宰・池見恒則さんが、7月の塾通信につぎのようなことを書いているのを読んで、ハタと考え込んでしまったからです。(引用の承諾を受けようとしたのですが、連休中ということもあって連絡がつきません。そこで、毎回この連載を読んでくれているはずの彼に、事後承諾をいただくつもりです。)

 『(前略)よくわからなくても「できる」ことは沢山あります。そのとき、できないと大学にも入れないし就職もできないのです。ですから、まず「できること」が一番大切になります。そして、できてしまえばそれで十分なのです。その結果が先述した大人たちの姿(す〜爺注:国債残高を増やし続ける政府、儲けをごまかす企業・・・)です。
 でも同じできるのなら「わかったほうがいいよね」という言葉が教育に携わる人たちからよく出てきますが、本当にそうなのでしょうか?人生において「やらなければならないこと」・「やること」は無限にあります。とりあえずその場ではできることが要求されます。その上『できることは全てわからなければいけない』などといわれても、そんなことは無理です。何をわかり、何ができないといけないのか?自分で決めてゆけばよいことです。人からとやかく言われる必要はありません。今一番必要なことは、そのような判断ができることのように思います。(後略)』

 池見さんは、ものごとを真正面から考えようとする姿勢を貫いている人です。真摯(しんし)でありながらも柔軟な包容力で、彼を知る若者たちから圧倒的な信頼を得ている塾人です。その彼が、一見、特訓進学塾の塾長の結論のようなことを言うまでには、さまざまな苦渋を重ねてきたことを、わたしは知っているつもりです。そして、彼のこの結論の奥には、子どもや若者たちに対する彼の限りないやさしさがあります。

 彼は、通信の前段で『私がしてきたことは・・目の前にあったテストの点数のとり方を教えただけで・・・ことがすんだら忘れてしまうもの・・・。(しかし、それはまったく意味のないことだっだのではなく)あの時必要だったことをやりきったことの意味がある。目の前の困難をどうすればやり過ごすことができるのか?身をもって彼(生徒)は体験したのだ!・・・』と書いています。いかにも彼らしい思慮と優しさに満ちています。

 しかしながら、さまざまな意味で人が大きく成長する時期に、「とりあえず、そのときその場を切り抜ければよい」とは、わたしにはなかなか考えられないのです。もちろん、なにをわかり、何をできる必要があるのかは本人が決めればよいことには違いありません。わたしたちもそのようにして育ってきた思いがあります。“あたまごなしに”教え込まれることを拒否してきたはずです。それにもかかわらず、わたしたち大人は、自分たちが学んできたこと、獲得してきたことを伝えていく必要があるのではないかとの思いがあります。

 以下の話は、数学塾である池見さんに対しては“釈迦に説法”になります。
 現在、中2の数学は、一次関数を勉強しています。わたしたちは、ここで、x軸とy軸が、それぞれy=0、x=0と表されることを“わかってもらうように”します。これは教科書からカットされてしまった事項ですが、ここがしっかり“わかって”いるかどうかで、高校数学の関数までの“テストのでき方”というより“安定度”がちがうのです。すでに中1で学習している2x+4=0のような一元一次方程式の解の意味もここでやります。そうすることで、その次の変域も連立方程式とグラフも、その後の二次関数も比較的スムーズになります。

 こうして、なんとかx切片y切片の意味もわかり、変域の意味も理解していきます。そして、テストにもそれが反映してそこそこの点数も取れるようになったKちゃんが、あるとき「でもなあ、やっぱり、なんでx軸が“y”=0なんだ、ってずっとひっかかっているんだよね。」とつぶやくのを聞きました。「う〜む、“きちんと”理解していなかったのかなあ」と思いかけて、彼女のプリントを見ると全部できています。彼女のこだわりが「なんでxがyなの」ということばの響きにあることがわかります。

 ただ、わたしのところでも、テスト直前になって「テストで、苦手な証明問題も出る。」「英語の長文問題がわからない」という子に対しては「点数を取りたい? それともその苦手なところをわかりたい?」と聞くことがあります。それは、そこに時間を割くよりも、得点できるところに集中するほうが総合点がよくなるからです。

 関数も英語の長文も、多くの子どもたちにとっては、たしかに“その場でできさえすればよい”ことで“わからなければいけない”ことではありません。しかし、少し遠回りでも、その意味を納得することで“安定したできかた”を獲得することが多くあります。そして、将来、直接にそれらを使うことはなくとも、「あっ、そうなんだ」と納得した記憶は、なんだかわからないうちに“できちゃった”よりも、なにかの問題に遭遇したときの力になるのではないかと、池見さんの文を読みながら考えたことでした。


**7月17日(火)掲載**
(す〜爺)

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第237回 学校内と学校外
 昨年の秋ごろ、エスカレーターに群がる高校生たちの状況に憤り、学校にその対処を求めるこのサイトの旧掲示板での意見に対して、異論を唱えたことがあります。何人かの知人や高校生の意見も聞いてみましたが、旧掲示板に載った上記の意見と同様のものはありませんでした。

 ところが、世間一般では相変わらず、子どもたちに関する学校外でのトラブルを学校に持ち込むケースが後を絶たないようです。「学校帰りの子どもたちがマンションの敷地に入り込む」「お宅の学校の生徒たちが道を占領している」に始まって、万引き、ケンカなど街中でのトラブルを学校に通報し“善処”を求める例は日常茶飯事であるということです。そして、そういう状況に際して「学校は何かしらの対応をせざるを得ない。」と知人の教師たちも言います。彼らもまた、本音としては、おかしなことだ、と考えているようです。

 現在、流行語になりかけている「モンスターペアレント」と呼ばれている人たちも、そういう発想の延長上に現れたのかもしれません。わたしが聞いた範囲では「うちの子とあの子を別の班にして」「担任を代えてほしい」など・・・、しかし、これはむしろありきたりで穏やかなほうだといいます。世間には、もっと信じられないようなクレームをつけてくる親もいるとのことです。

 こういう人たちの発想はわたしの理解を超えるものです。限りない学校依存の体質を持っている人たちなのか、それとも学校時代の底知れないトラウマを抱えている人たちなのではないかとさえ考えてしまいます。

 これまでにも書いてきたように、塾で子どもたちの様子を見ていると、あまりにもひどい授業の状況が見えてくることがあります。自分の授業がどのように子どもたちに理解され浸透したかを把握するのが、テスト本来の目的であるはずですが、どうみても教師の個人的な趣味としか思えない問題を出す教師がいます。若いころは、教師あての手紙を書こうとしたこともありましたが、ある程度の期間観察していると、少なくとも小学校高学年以上では、子どもたちのほうが無言有言さまざまな形で抵抗していることがわかります。そして、その方が、紆余曲折しながらもよい方向で収束していくことも見てきました。そこに親が関与することで事態が複雑になっていったようすも耳にしました。

 多くの子どもたちが長い時間をすごす学校という空間がよりよいものになるために、地域住民や親が協力し、知恵を出し合っていくことは必要ですが、それは、学校にクレームをつけて頭を下げさせたり、子どもたちの学校外のトラブルにまで学校に責任を取らせることではないはずです。なぜなら、それは、子どもたちのすべてを学校に管理されることにもつながり、また地域や家庭という、いわば子どもたちにとっての私的空間の喪失でもあるからです。

 文科省は、6日「災害共済給付制度を見直し、いじめなどを原因とする学校外での子どもの自殺などにも見舞金を給付する」と解釈を拡大することを発表しました。これは、日本スポーツ振興センターが主管するもので、2年前までさかのぼって適用されるのだそうです。該当する生徒の遺族がこの決定を歓迎するのは、ある意味で当然の流れですが、わたしの知るところでは、新聞各紙も、この文科省の決定をおおむね歓迎しているようです。しかし、わたしは2つの点で、危惧を感じています。ひとつは、この制度が、保護者も掛け金の一部を負担する“災害共済”であり、過失の有無を問わず“学校管理下”で起きた被害について、見舞金という形で給付されるものであるので、管理上の法的責任は別の問題であるにもかかわらず、これが支給されると管理者(行政機関)が負うべき賠償額が減額されること。このことがしっかりと報道されていません。2つめに、“学校の管理下”の範囲が広がり、学校からの管理・監視が、地域社会や家庭にまで及ぶきっかけになるのではないかという心配です。

 そんなことは杞憂にすぎない、という人もいるかもしれません。しかし、教育再生会議が示しているさまざまな提言、教育関連法の矢継ぎ早の成立、その他、現在急ピッチで進んでいる政治的動きと無関係ではないはずです。学校依存さもなくば学校敵視、という世の中の趨勢を背景に、なにかが動いていると感じるのはわたしのうがちすぎでしょうか。今回は、「学校は、生徒の学校外の行動にまで責任を持つべきだ」とお考えの皆さんからの建設的な反論を期待して、あえて挑発的に書いてみました。


**7月10日(火)掲載**
(す〜爺)

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お久しぶりです!2007/07/11 0:32:18  
                     coco

 
 もう、何年前になるのでしょうか?このHPが立ち上がるときに、掲載するお店を紹介する事をやっていて、一緒にお食事をしましたね!おぼえていないかもしれませんが、私はずっとコラムを拝読させていただいてました。
私も二人の子供の母として、毎日悪戦苦闘しています。
今回は、ちょっと気になったことがあったので、返事を書くことにしました。
 先日、近所の中学生が、公園の遊具に、スプレーペンキで落書きをしているところを見かけました。注意しようか迷いましたが、勇気が出せずに注意できませんでした。
数日後にまた落書きをしているのを見て、警察に通報しようかと思いましたが、PTA副会長の友達がいたので、学校と警察どちらに言うべきか?
相談しましたら、警察に言っても、いずれは学校に連絡が行くはずだから、学校としては警察から連絡が来るより、まず自分達で生徒を指導したいと思うだろうから、まずは学校に言ってみたら?といわれたので、学校に連絡をし、その生徒に指導をしてもらいました。
しかし、それから一ヶ月以上たっても、公園の落書きはそのままです。
同じ絵が落書きされていた団地の壁は、市役所か警察がかかわったのか、すぐに塗りなおされました。
毎日公園の落書きを見るたびに、どうすべきだったのか?と考えてしまいます。

 

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Re: お久しぶりです!2007/07/13 11:28:46  
                     す〜爺

 
cocoさん、ほんとうにおなつかしい!! 
 もちろん、みなさんとご一緒にお食事をしたときのことはよく覚えています。たしか6年前の夏でしたね。cocoさんはお子さん連れで参加なさっていたような記憶がありますが・・・・。それにしても、拙文お読みいただいていたとは、ありがとうございます。

 そして、わがままで挑発的な今回の文章にレスをいただき、うれしい限りです。この2日ほどは、一度もこのサイトを訪れることなく、お返事がすっかり遅くなって失礼しました。

 さて、cocoさんが目撃されたのとおなじような場面に、わたしも出くわしたことがあります。わたしの場合は、何人かの中学生が公園の植え込みに空き缶やペットボトルををボンボン投げ込んでいたところを通りかかり、「どうしたんだ? なにかいるのか?」と聞いてみると、「べつにー」と言うので、「それじゃ、そのあたりがゴミ捨て場になっちゃうなあ。おじさんも拾うから、いっしょにかたづけようか。」と言いました。黙って立ち去りかけるなかに、一人の子が「やっぱり、拾おうぜ。」と言って、わたしといっしょに拾い始めました。

 以下は、わたしの周辺に見えていることからの感想です。中学生たちが、そういうことをやるときは、1.「何の気なしに」だったり、わるふざけだったり、みんなといっしょの“ノリ”でやってしまったり、という場合、“悪いことだからこそ”やってみたい、という場合、2.なにかへの八つ当たり(フラストレーションの捌け口)だったり、3.特に一人でやる場合は、ワルい自分を晒す自傷行為に近い気持ちである場合、などがあります。多くの場合、たぶん、彼らの表情を見ていると見えてくるものがあります。1、に類する場合は、できるだけおだやかに、しかも毅然とした態度で言えば通じるはずですし、それでもダメなら警察に通報、でもよいと思います。cocoさんが経験されたように、学校に通報して、先生が“説教”したところで、多くの場合効き目はなさそうです。それに、本文にも書いたように、中学生とはいえ、地域社会でやったことは地域の大人が(警察への通報まで含めて)責任を持つべきだと考えます。
 以前、わたしの塾の高校生が、品物が出てこない自販機を何度も蹴飛ばしていて警察に通報されたことがあります。親に連絡され、明け方まで当直の刑事に絞られたのですが、このことは、その後の彼にとってよい経験になったようです。

 2.や3.に類する場合は、なかなかむずかしいと思います。だれかが様子を見てゆっくり話を聞いてあげられたらいいなと思います。とくに3、の場合は、やったその行為よりも、そうなっている本人の気持ちを少しでも汲み取ることができる大人(これは、少し年上の若者でも親でも教師でも地域のおじさんおばさんでも)を探すことが必要な気がします。

 ただ、そうは言っても、見知らぬ子どもの表情を読み取ったりすることは、本当にむずかしいことだと思います。上記の空き缶のときでも、わたしが日常子どもたちと接しているからこそできたことかもしれません。たとえは悪いのですが、犬が苦手な人はどの犬を見ても怖いそうですが、自分の家で犬を飼うようになると犬の表情が見えてきて、その犬の気質が伝わってくるのと似ているような気もします。
 
 いずれにしても、学校の外の子どもは、厳しさも温かさも含めて地域で育てたいものです。もちろん、教師たちが個人の裁量で学校外の子どもと接するのは大いに結構だと思いますが、“学校として”の処置や管理責任を問うことには疑問がある、というのが今回の文章の趣旨です。

 cocoさん、ご意見、ほんとうにありがとうございました。 
 

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第236回 「太初(はじめ)に言(ことば)あり」
 わたしはクリスチャンではありませんが、高校時代、このヨハネ伝福音書冒頭に惹きつけられました。さらに引用すると「・・・ことばは神とともにあり。ことばは神なりき。このことばは初めに神とともに在り、万の物これによりて成り、・・・」と続きます。余談になりますが、手元にある「旧新約聖書」は正字文語文の格調の高いもので、その言葉の響きの美しさにも魅せられていたかもしれません。

 2年ほど前に、この連載の中で「ことばが通じない!」という文章を書いたことがあります。そのなかで、わたしは「子どもたちのことばが、センテンスではなく単語になってしまっている。さらに、その単語も、われわれと同じことばを使っているのに、まったく別の意味になっていることが多い。こちらが話すことばを、文脈や発せられた状況のなかで理解することなく、パッと聞き取った一部分だけで受け止めてしまう。」などの例を列挙し、「ことばによるコミュニケーションがむずかしくなるということは、文化の伝承の危機だけではなく、社会の成り立ちそのものが危うくなる。」としています。たぶん、このころまでは、“ことばの絶対的な力”を心のどこかで固く信じていたような気がします。そして「ことばは正確に使わなければならない。相手のことばも丁寧に聞き取って理解しなければならない。」と考えていました。

 もちろん、現在でもそのように心がけてはいますが、以前ほどには“ことばの絶対性”を重視しなくなりました。

 「おじさんなんか嫌いだよ」ということばに乗って、微動だにしない“安心感”が伝わってくるときがあります。中高年の男性など何人も歩いているはずの街中で「おじさ〜ん!」という声が聞こえて、紛れもなくわたしが呼ばれているという確信を持ったことがあります。もう1年近く付き合ってきた5歳児がそっとわたしの手を握ってきたとき、彼の寂しさと不安が伝わってきました。

 ずっと以前、ある薬物中毒の若者と、彼の部屋で一晩過ごしたことがあります。わたしも彼も、ほとんどことばを発することなく、ただ黙々といっしょにいるだけでした。覚えているのは、わたしが壁のカレンダーを見ながら「もうすぐ春になるなあ」とつぶやき、彼も黙ったまま、カレンダーの新しい月をめくったことだけです。一ヶ月ほどして、彼のお母さんから「カレンダーに○をつけ始めたんですよ。初めはなんだかわからなかったけれど、クスリをやらなかった日だったんです。最初のうちは飛び飛びだったんだけれど、いまはずっと連続して○がついています。」という電話がありました。もちろん、わたしといっしょだったこととの因果関係はわかりません。

 人間ではありませんが、昨夏旅立ったわが家の犬も、わたしたちにさまざまなメッセージを送ってきました。はじけるような喜びから、そっと寄り添うような深い喜び、悲痛な叫びからじっと耐えている悲しみ、憤怒の形相からひがみ・そねみ・すねるまで、あらゆるメッセージは、そのことばではなく彼女の全体の有様から発せられていました。

 あの大村はま先生の教え子、苅谷夏子さんは、中1で転校してきたその日に、自分の名前を呼ぶ大村先生の“不思議な声”を聞きました。休み時間独特のざわめきを通して「長い間親しくしてきた人にしか出せないような、わたしという人間をちゃんと呼んでいるのだぞ、というような呼び声だった。(中略)懐かしいような、はあい、と返事したくなるような呼び声。・・・」(『中学教育』(小学館)連載エッセイ「ことばを見つめた日々」より)と苅谷さんは書いています。呼びかけられたのは彼女の名前ですが、それはことばそのものではなく、その音声に乗せられたメッセージです。

 それでも、わたしたちは“ことば”に頼ってコミュニケーションをとろうとします。親子の激しい葛藤の内容を聞いてみると、初めはどうということのない会話だったのに、どんどんエスカレートしていって“ことばがことばに反応する”やりとりになっています。そして、さらに聞いてみると、それは“ことば”というより感情のぶつけ合いになってしまっているようです。そんな場合「ことばのやりとりではなく、気持ちのやり取りをする」ことを提案することがあります。極論かもしれませんが、長いこと、起居を共にしてきた間では「心配だよ」という“気持ち”があれば、たぶん“ことば”は必要ないようにも思えます。

 黙って見つめること、黙って寄り添うこと、黙って支えること、黙って聞くこと、そして蛇足ながら、わたしたち夫婦のことで言えば、黙って心を込めてコーヒーを淹れること、これらは“ことば”よりもずっと大きな力を示すことが多いようです。

 思えば、この連載も適切なことばを探して苦しんできました。どのことばを選んでも自分の言いたいことが表現できなくて、何時間も立ち往生することもありました。その一方で、「〜も」「〜は」「さえ」など細心の注意を払って使った助詞のニュアンスをまったく汲み取ってもらえないこともありました。

 「ことばを持ってしまった不幸」。冒頭のタイトルとは正反対の、こんな思いが浮かぶこともあります。しかし、反面、ことばに拠って生きていくしかないはずの政治家による無神経な発言と、それをあっさり撤回する整合性のない態度は、わたしたちの社会にとって大きな不幸です。そして、世論調査に見られるように、威勢のよいことばや甘いことばに振り回されて、本質が見えないわれわれ国民の有様のほうが、むしろ大きな不幸につながりそうな気がしてなりません。


**7月3日(火)掲載**
(す〜爺)

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