す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。 「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。 ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。 |
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第235回 夢をこわすもの | ||||||||||||||||||
子どもたちに「将来の夢は?」と聞くのは、いわば、初めて会う大人たちからの定番の“儀礼”の一つかもしれません。わたしのところの入塾申込書には、新しくお付き合いする親子へのアンケート欄がありますが、そこにも「将来は、どんなことをやりたいと思いますか?」という質問を作っています。“いま”を生きている子どもたちに対しては愚問であるとは思いながらもこの質問を削除しないのは、これを書く子どもたちの反応がさまざまでおもしろいから、に尽きます。
入塾申込書にアンケート欄を設けたのは20年ほど前のことです。その当時は、小学生は、「お花がいっぱいある家に住みたい」「動物とお話ができるようになりたい」「お母さんみたいな大人になりたい」などというかわいいものや、「郵便屋さん」「電車の運転士」「保母さん」「プロ野球選手」「学校の先生」などなにかの職業にあこがれているものが大部分でした。中学生も「テレビのプロデューサー」とか「コンピューター技師」「商社マン」「ファッションデザイナー」など、その時代を代表するような職業が多かったようです。 ところが、上に書いたような夢を書く子はいつの時代もいましたが、年を経るにつれて、その割合は少なくなってきました。代わって「お金持ちになりたい」「ふつうのサラリーマンになりたい」「何とか生活していける程度の仕事ができればよい」などと書く子まで出てきました。当人に聞くと、ふざけているわけではなくて、まじめにそう考えているようです。 そういう子たちが入塾後しばらくして、わたしとの関係もスムーズになってきたころ「お金持ちになったら、そのお金を何に使うの?」と聞くと、「わからない。でもお金があればなんでもできるじゃない。」「その“できること”や“したいこと”を教えてよ」と言うと、やっと何か考え込む様子です。「ふつうのサラリーマンになりたい」と言う子には、「ふつうのサラリーマンって何だろう。サラリーマンって、それぞれみんな営業や経理や総務や技術なんかのプロだと思うよ。きみは、どの分野に興味がある?」と聞くと「えっ? 会社へ行って仕事して帰ってくるだけじゃないの?」「うん、だから、その仕事ってどんな仕事?」「考えたことなかった。」と、これまた新しい世界を知ったような顔をしています。「何とか生活していける程度」と書いた子には「どれくらいのお金があれば、何とか生活していけると思う?」と聞くと、自信なさそうに「月に50万円ぐらいかなあ。」とつぶやきます。「じゃあ、おじさんたちは生活していけないかもしれないなあ。でも、おじさんよりもずっと多くの収入がある人でも、生活が苦しいって言う人もいるし、その反対に、おじさんから見ても、とても大変だろうなあ、と思えるような収入しかない人でも、とても明るく健康に暮らしている人もいるよ。」と言うと、少し不満そうな顔をしながらも「う〜ん」と考え込んでいます。 それにしても、そういう子どもたちの感覚は、いまに始まったことではないかもしれません。学生時代、当時、比較的優等生だった中1の男の子3人の家庭教師をしていたときのことです。わたしが「こうして勉強したことが、これからの君たちの世界をもっともっと広げていく力になるといいね。」というようなことを言ったところ、一人の子が「先生、勉強って将来金を稼ぐためにするんでしょう。ぼくがつらくても勉強がんばるのは、そのためです。先生の言っていることは、甘いと思います。」と言い放ち、若かったわたしは絶句してしまったことがあります。その彼は、その後国立大医学部に進み、現在は開業医をしています。あれから40年、すでに50代半ばになっている彼に会うことがあったら、勉強について、お金について、そして人生についてあらためて聞いてみたいなと思います。もっとも、当の本人は、子ども時代の自分がそんなことを言ったことなど、すっかり忘れているはずです。 つい先日のことです。中1のクラスで、一人の子が「世界では、戦争で死ぬ子どもがたくさんいるんだって。テレビでやっていた。」と言うと、別の子たちが「戦争になったら、オレらも死ぬかもしれないね。こわいよ。」「おじさん、日本もいつか戦争するの?」などと口々にいい始めました。すると、一人の男の子Aくんが「どうせいつか死ぬんだから、国のために死ねればカッコいいじゃない」と言い出して、みんなをびっくりさせました。「えっ、それはきみが考えたことなの?」と聞くと、「知り合いのおじさんが言っていたことだけれど、オレもそう思うよ。だって、これから長く生きていたって、たいしていいことなんかなさそうじゃん。」と答える彼の表情からは、彼のその思いをかんたんには否定できない真剣さを感じて、深く考え込んでしまいました。 「長く生きていても、いいことない。」わずか13年ほどしか生きていない子どもが、こういうことを考えてしまう社会、わたしたちは、いったいなにをしてきてしまったのでしょう。次のそのまた次の世代のことを考えて、わたしたちは暮らしてきたでしょうか。環境も経済も教育も、すべては、次代の若者たちが希望と夢を持てるものでなくてはならないはずです。 食品会社や建築会社の不祥事が次々と明るみに出ます。当の食品会社の社長がいみじくも言い放ったという「安いものだけを求める消費者が悪い」と言うことばや、例の耐震強度偽装事件の関係者が言ったという「起きるかどうかわからない大地震よりも、まず安くして売れることが大切」ということばには、盗人猛々しいと怒る前に、一掬の真実が含まれていることを知るべきでしょう。人間生活の基本である食と住を節約して、いったい何に金を使うのでしょうか。あるいは、何に金を使わせようとしているのでしょうか。新聞の紙面に踊るケータイや車やテレビの新機種の全面広告を見ながら、もしかしたら、食べることや住むことよりも、こういうことに優先的にお金をかけさせようとしている社会なのかもしれない、と思ったものです。一度の人生を、“目標も定かではない金稼ぎ”のためだけに費やす大人社会が、子どもたちから“夢”を奪っているのかもしれません。 **6月26日(火)掲載**
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第234回 お金のありがたみ | ||||||||||||||||||
「おじさん、はい、生活費」「はい、今月分の給料」。授業料袋をわたしに手渡しながら子どもたちが言います。「う〜む、これで一ヶ月暮らすのかあ。キツ〜い。」と頭を抱えながら言うと、別の子が「おじさん、ほら、おこづかいだよ。」と言ってくれます。「うれしいな。おじさんはおこづかいもらってないから、こんなにもらえたら、なに買おうかな〜」「ウッソー!? おじさんのおこづかいナシなんて、かわいそうだよ、おばさん」ウウッ、なんとやさしいことを言ってくれるのか、と感激していると、となりの部屋から「おじさんはね、他からおこづかいもらっているからいいのっ」とツレアイの声が聞こえてきます。「えっ? 他からって? どこから?」と、またまた騒動です。まったく、夫婦そろってよけいなことを言ってしまったものです。
わたしが家計からこづかいをもらっていないのは、ほんとうのことです。みなさんお察しの通り、過分にも、この拙い連載エッセイの稿料をいただいていますし、そのほかに“時給700円のお仕事”をやっています。このワクワクするような“お仕事”の正体については、しばらくのあいだ伏せておくことにして、いずれにしても、サラリーマンをしている塾OBや友人のこづかいに比べれば、はるかに少ない金額です。それでも充分に足りているのは、外で飲むことはほとんどない上に、外食も少ない、遠出もほとんどしない、ケータイはない、車もない、新しい服は数年に一度くらいしか買わないなど、およそ世間一般からズレた生活をしているからかもしれません。その分、ほとんどを本や音楽CDなど、貧しいあたまと疲れた気持ちに栄養を送るために使っています。ちなみに、月2、3回行く映画や美術館・博物館は“低料金身分”なので助かっています。 連載エッセイや“時給700円のお仕事”からこづかいをいただいていることは、わたしにはとてもよい刺激になっています。これらを合わせてわたしがいただく月額報酬は、おおよそ塾生1人の月額授業料分に当たります。そして、そのためもあってか、塾生から授業料を受け取るときは、そのありがたみと責任をいっそう感じています。 先日、教室に50円玉が落ちていました。「だれのかな?」と回りの子たちに聞くと「わたしはお金持ってきていない」「1000円札は持っているけど、小銭は持っていない」などと口々に言います。その中に「もしかしたらオレかも」という子がいて、「そうか、はい、こんどは落とさないでね」と渡すと「うそだよ〜ん。オレもカネもって来てないもん」とおどけます。「えらいねえ。」とごまかさなかったことをほめると、「50円ぽっちだからもらっちゃえ、と思ったけど、おじさんがあっさり信用してくれたんでもらいにくくなった」と言います。「小学生のとき、道で100円拾って交番に届けたら、おまわりさんが自分の財布から100円くれたよ。」とA君。「そうだよね。どんなに少ない額でも、自分のお金ではないものを使うのはイヤだな、」とB子ちゃん。みんな、なかなかのものです。結局だれのものかはわからずじまいで、あれから10日もたったいまでも、その50円玉は教室のチョーク置きのところにあります。もうすこし日が経ったら、子どもたちのための寄付金に加えようと考えています。 ところで、前回、「新生 中2の親」さんが、若者たちをターゲットにした悪質商法についてアドヴァイスをくださっていますね。じつは、わたしのところにも「20万円払ったらいろいろな商品が送られてきて、それを梱包したまま指定されたお客の住所に送れば60万円送られてくる、って言うんだけれどだいじょうぶかなあ。」という相談がありました。すこし考えれば、おかしい話なのですが、この20万円という金額は、どうも若者たちには危ない金額のようです。彼らにとって、すこしムリをすれば出せない額ではないし、かといって、海外旅行や最新のパソコンなど大きな買い物をするにはすこし足りない、といったところでしょうか。微妙な金額を狙うものだと、妙なことに感心してしまいました。この場合は、品物が送られてきたのが前日だったこともあって、訪問販売法のなかの通信販売に関する条文と、返金がなければ消費者センターおよび警察に通報する旨の内容証明をつけて品物を送り返し、数日後に返金を受けて無事に収まりました。 FX取引(外国為替取引)については、違法ではないもののレバレッジという方法にハマってしまう若者もいるようです。比較的小口の投資で、大きいのは200倍もの差益を宣伝する業者もあります。ねずみ講などでは、自分が被害者であったとしても、友人などを誘っていた場合には検挙される可能性があります。 置き引き、万引きなど、子どもや若者が比較的陥りやすい犯罪では、できるだけ早めに発覚したほうが、その後の人生にはプラスの経験になるようです。かなり以前、フラフラっと万引きをしたところを捕まって、とてもつらい思いをした子がいました。両親ともにしっかりした家庭の子だったので、家中がパニックになりかけてわたしのところに相談に来ました。「初めてのことだからだいじょうぶ。そこのお店に親子で行って丁寧にあやまってきたら。」と言ったところ、本人が涙を流しながらあやまりに行ったそうです。彼は、いまでは立派な社会人、そして2児の父として温かい家庭を作っています。 冒頭に書いた「どんなに少ない額でも、自分のお金ではないものを使うのはイヤだな、」というB子ちゃんのように健全な金銭感覚と、苦労して手にしたお金こそ価値があるという考え方を若いうちに身につけておくことで、すくなくとも金銭にかかわる犯罪の加害者にも被害者にもなりにくいのではないかと思います。 それにしても、公務員や政治家のなかに「自分が裁量権をもっているお金や権力が、じつは自分自身のものではなく、国民から預かっているものである」と心底まで身に染み込んでいる人がどれほどいるのでしょうか。それがあれば、贈収賄や談合などは論外としても、政治はもうすこしましになるはずだなあ、と考えたことでした。 **6月19日(火)掲載**
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第233回 大きいことはいいこと? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
だいぶ以前に「大きいことはいいことだ〜」というCMソングを聴いたことがあります。高度経済成長の真っ只中のころ、そして、たぶん塾を始めてまもなくのころ、子どもたちが声をそろえて歌っていたのが印象に残っています。小さな塾の小さな教室で子どもたちが歌うそのCMソングを、どことないおかしみを感じながら聴いたものです。そのころは、塾といっても、学校の勉強がすこしラクになればいい、くらいの気持ちで通ってくる子が多いのんびりとした時代でした。しばらくすると、大きなビルにたくさんのクラス、多くの講師を抱える大手の塾が進出してきました。そして、ほんとうに「大きいことはいいことだ」と考える親子は、そういう塾を選ぶようになりました。
今回は、すこし視点を変えて、塾のことだけではなく「大きいことはいいことか?」について書いてみることにします。 塾という仕事は文房具が必需品です。これには大手のOA機器販売会社が参入していて品揃えも豊富ですぐに持ってきてくれるし、大変便利です。しかし、わたしは、緊急のものでない限り、古くからのお付き合いの地元の文房具屋さんにお願いしています。それは、そこのご主人が、当然のことながら文房具のことをよく知っていて、だれがどのような目的で使うのかを的確に判断してくれるからです。また、エンピツを2,3本など小口の物も気持ちよく出してくれるし、たまには「こんな製品が出ましたよ。先生の塾では、生徒のプリントをファイルするのに便利だと思いますよ。」と勧めてくれることもあります。それに、つい不急不要なものを注文すると「これは、まだなくならないでしょう。注文すればすぐ入るものだから急がなくてもいいですよ。」と教えてくれます。 日曜大工は趣味ではありませんが、やむをえず家のどこかを修理したり何かを作ることがあります。そんなときは、近所の金物屋さんに行きます。ほんとうにたまにしか訪れないわたしをよく覚えていて、ペンキ1缶、木ねじ一本でもじつに丁寧に説明してくれます。そのアドヴァイスはまさにプロの知恵に満ちていて簡にして要を得ています。ときには「そういうのは、ウチでは置き切れないので、○○ホームセンターでこれこれと言って聞いてみてください」というアドヴァイスまでくれます。 そういえば、ずっと以前から使ってきたマヨネーズが、JAS表示基準不適合とされたのが、5年前のことです。合成添加物を使わず、精製糖の代わりに蜂蜜を使っているので、有機卵など厳選された素材の味がとてもまろやかですばらしいマヨネーズです。ところが、それが表示基準不適合なのだそうです。現在は名称を変えて、基準見直しのためにたたかっています。小さな会社の「すこしでもおいしいものを、からだによいものを」という心意気は、大きな会社の「すこしでもコストを安く、利益が出るものを」という力に押されていきます。 電化製品だけは、残念ながら量販店になってしまいました。以前は、すこしの故障なら地元の電気屋さんが直してくれたものですが、このところちょっとした故障でもICレベルなので、結局、メーカーのサービスカウンターに持ち込むか、メーカーに郵送するかになってしまいました。おまけに、わたしは車を持っていないので、この地域では北区周辺に集中しているソニーやシャープのカウンターまで、えっちらおっちら自転車で何度か通いました。「新しいものを買っちゃえ」という気になかなかなれない世代なのです。 最近、大きく取り上げられた訪問介護最大手の会社の不正でも、規模が大きくなるほどに「利潤優先、業績重視」の姿勢になるのは当然である、ということがはっきりしています。経営者には、利用者や消費者一人一人の顔が見えていないからです。見えているのは数値だけです。働く人たちは、生活がかかっている以上、その経営方針に従うほかはありません。どの業界でも、急成長した企業にはとくにそういう傾向があると聞いています。 今回は 第226回で取り上げなかった小さな企業や個人商店を紹介しましたが、これらはどれも、消費者や利用者の表情や人柄まで見える経営者によって営まれています。だからこそ、「利益が上がりさえすれば、多少ごまかしたって・・」などとはけっして考えません。ある八百屋さんでは、「これ、賞味期限ギリギリなので、もう店には置けないんだけれど、まだまだ充分おいしく食べられるから食べてね。」と言っていろいろなものを置いていってくれることがあります。魚屋さんでは「ゴメン、そのいわしは朝のうちに処分しようと思っていたものだから、こっちのを持っていって。」と言ってくれます。見た目ではまだまだ新鮮そうですが、プロの目が許さないのです。 けっして人付き合いが得意とはいえないわたしが、こういうお店とお付き合いさせていただいているのは、「安い・品数が多い」という基準で品物を選んでいないからかもしれません。やや牽強付会気味になりますが、いいものがほしい、信頼できるお店がよい、という観点だからだと考えています。お医者さんでも、「非常に腕がいい」という評判よりも、人柄が信用できる先生を選びます。なぜなら、患者優先で考えてくれるので、症状によっては自分のところで抱え込むよりも他の専門医を紹介することを考えてくれるからです。 そして、最後に我田引水になります。これまでも書いたように、わたしの仲間の塾は全国にあって、彼らの多くはとても誠実に子どもたちと接してきています。ところが、大都市周辺ほど大手の塾や予備校に生徒が流れ、どこも経営が楽ではありません。それでも以前は、個人塾のよさを認める人が多かったのですが、このところは、見栄えのよい宣伝や根拠のない実績に踊らされる人が多くなって、その結果、塾そのものの実力はあるのに、低迷してしまっているところが多く、残念です。たとえば、一口に個別指導と言っても、大規模チェーン塾の個別指導と、小規模で責任者から一人一人の生徒がみえている個別指導とは決定的にちがうのです。 企業も商店も塾も、自分の手と目と思いが届く範囲でがんばっている人たちがつぶされていく社会は、次代の子どもたちにとっても生きやすい社会ではない、との思いが強くなる一方です。 **6月12日(火)掲載**
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第232回 “まちがえること”の効用? | ||
「へー、おじさんでも悩むことがあるんだ。」と何年も付き合ってきたはずの塾OBのA君が言います。わたしは、口まで持っていったティーカップをあわてて持ち直して、「そりゃそうだよ。この歳になっても、毎日のように迷ったり悩んだりしているよ。でも、どうしておじさんが悩まないと思ったの?」と聞き返してみました。A君がポツポツ話したことをつなげてみると「だって、塾で教えているときなんて、『それでだいじょうぶ』とか断言したり、いろんな質問にも、ほとんどすぐにヒントを出したり答えたりするよね。それに毎月出している『教室通信』にもいろいろな分野の話題をとりあげているじゃない。だから、悩みなんかすぐ解決しちゃうのかな、と思って・・・」だいたいこんな話でした。
「う〜む、まさか、きみがそんな風に思っていたなんて、意外だった。他の子も、そう思っているのかなあ。」と思わずつぶやいていました。 中学生たちが、A君のように考えているのは、ある程度折り込み済みです。こちらのほうがあまり迷ったりあいまいだったりすることは、かえって子どもたちを不安にさせてしまうからです。それに、わたしの日常の姿を見ていれば、中学生たちでも、わたしの断定的な態度のなかに、自分たちを安心させようという気持ちがあることを感じ取ってくれると考えてきました。ただ、A君も含めて、わたしからの“押し付け”とは受け取っていないようであるし、“傲慢なおじさん”というイメージも持っていないらしいことはわかりました。 このところ、年齢のせいかプリントミスをすることが多くなりました。内容についてはいまのところミスはなさそうですが、アポストロフィを「’」とするべきところが「‘」となっていたり、句点を消し忘れて「。。」となっていたり、ということが目立ちます。また、そういうミスを目ざとく見つけるのが得意な子がいて、トントンとエンピツでプリントをノックします。「またやっちゃったか、ごめんな」と頭をかきながら言うと、ニヤッとしながら「だからあ、わたしのこの間違いも○にして」と言います。「よし、おわびに○にしてあげよう。」と言うと、さすがに「冗談だよ。おじさんわかってないなあ。」「もちろん、○にしてあげるんだって冗談だよ。わかってないなあ」と笑い合って一件落着です。 そう言えば、小学生のクラスで人気の授業メニューがあります。“逆漢字テスト”(これが生まれたいきさつについては、いずれ書くことがあるかもしれません。)です。テストは、ふつう、先生が生徒に対してするものですが、これは、その名の通り、1冊ずつ辞書を持った子どもたちが、わたしに対して漢字を出題するものです。ただし、「自分が知っていることば」というのが条件です。わたしが書けないことばを出題した子は得点して、わたしはその子に頭を下げて“教えて”もらいます。どの子も、辞書を見比べながら意気揚々と教えてくれます。そして、それは次回までの、わたしへの宿題になります。 子どもたちは、なんとか得点しようとして、憂鬱、贅沢、髑髏などという画数の多い字を見つけて、「どうだ、書けないだろう。」という顔をします。ところが、こういう字は、これまでもいろいろな子から出題されているし、ほとんど限定的に使われる字なので、あっさり書いてしまいます。そして、そのあたりのコツがわかってきた子は、わたしが弱そうなものをどんどん出してきます。とくに花の名はにがてで、ツツジ(躑躅)、カラタチ(枳殻)などは、何度もまちがえて宿題になってしまいます。なかには、「ほととぎす」と出されて「不如帰」と書くと「ブーッ、ちがうよ」とうれしそうです。「?」と思って書いてもらうと「時鳥」と書きます。「そうか、ほととぎすにはいろいろな字があったんだね。ありがとう」と言って、確かめてもらいます。 A君が言うように、いつもすぐに答えるようなおじさんより、“できない・書けない”おじさんを見ていると、ホッとするらしいのです。そして、おとなげなくムキになって思い出そうとしているわたしを見ている子どもたちの表情は、とてもうれしそうです。 以前、英語が得意なお母さんが、「この子は、わたしがいくら教えても英語がきらいで、まったくやろうとしないんです。」と中1の男の子を連れてきました。本人に聞いてみると、お母さんに英語を見てもらうと、待ってましたとばかりにいっぱい説明してくれるし、まちがえるとすごくガッカリした顔をするので、すっかり英語が嫌いになったと言います。わたしのところでも、しばらくその状態が続いていましたが、あるとき、わたしがごく基本的なミスをしているのに気がついた彼の顔がパッと輝いて、「こうじゃないの?」と指摘しました。「そうだったね。すごいね、よく気がついてくれたね。助かったよ。」と言うわたしに「おじさん、これからはオレが英語教えてあげるよ。」と言って笑いました。おもしろいことに、それからは、彼の英語力は急激に伸びて、アメリカの高校に留学し、いまでは英語を専門に勉強しています。 子どもたちの中には「まちがっているかもしれないけれど、」「たぶんまちがえているよ。」を連発する子がいます。これも、まちがえることの恐怖?があるからです。「『ぼくは、こう思う。こう考えてこの結論になった』と言っていいんだよ。そのほうが『知らなかった、考え違いをしていた』と気がついたとき直りやすいもんね。」と言います。 わたしが「教室通信」に自分の主張をそのまま出すのも、それが手渡しのメッセージであって、わたしのドジやボケぐあいを知っている人だけが読んでいるからです。また、この連載エッセイに対しても、友人から「大上段に物を言っている」という批判を受けたことがありましたが、これも、読んでくださっている方々からのレスポンスがあるからこそのことです。これからも、わたしの思い込み・ミス・無知など、お気づきのことがありましたら、どうか書き込みをいただきたい、と願っています。 **6月5日(火)掲載**
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第231回 損得勘定 | ||
「お母さんがね、塾には1時間で1,200円も払っているんだからしっかり勉強しておいで、って言うんだよ。」と中学生のA君が言います。「えーっ、いいなあ。おじさん、そんなにもらってるのかあ、オレの1ヶ月分のこづかいとあまり変わんないじゃん。」とB君。「わたし、塾やめたことにして、その分もらっちゃおうかなあ」とC子ちゃんが笑います。中間テストが終わってホッとしたこともあって、帰り際に、わたしとの交換ノートを書きながらのおしゃべりが弾みます。
「A君のお母さん、いいこと言うねえ。みんなも1200円分がムダにならないようにいっしょうけんめい勉強しよう。」とわたし。「たしか、ウチのかあちゃんのパートの時給1,200円って言ってたなあ。高いんだ、ってジマンしてたけど・・・」とD君。「ウチのママは、塾の月謝お安くて助かる、って言ってるよ。」とE子ちゃん。 ここで、わたしは前々回に書いた“択一的”を思い出していました。「高いとか安いって、どこで決まると思う?」と聞くと、「ほかの塾との比較」と何人かが答えます。「でもね、ピカピカの教室で、カッコいい先生がいて、すごい進学実績が書き並べてあって、同じ月謝だったら?」とわたし。「う〜ん、そうしたら迷うかも」「ウチのお母さんなんかもっと迷う。」「でもさあ、自分と合っていなければ意味ないじゃん。」「1,200円が高いか安いかは、人それぞれでちがうと思う。」みんな、なかなか鋭く本質を突いています。 子どもたちが言うように、あるサービスや商品が高いか安いか、自分の選択が損か得かは、大きく言えば、まさに一人一人の生き方の問題にかかわってきます。あまり適切な例えではありませんが、わたしにとっては、ファミレスの半額セール(そんなものがあるかどうかは知りませんが・・)のステーキを食べるより、そのお金があれば、信頼のおける肉屋さんの牛フィレを買いに行きたくなります。これは、あながちわたしがひねくれているわけでもなさそうで、実際、ツレアイが焼いたそのフィレステーキを食べた人が「え〜っ! いままで食べていたのはなんだったんだろう。」と言ったことがあります。 自転車を盗まれたMが「どうせまた盗られちゃうんだから、安売りのチャリを買うよ」と言うのを、「まあ、待て。おじさんからの紹介だと言って○○自転車屋に行ってごらん。」と勧めてみました。しぶしぶ出かけた彼は「やっぱり高いよう。安売りだったらあの半分ぐらいのがあるよ。」と帰ってきました。そこで、すこし強引かなと思いましたが、気心知れた彼のお母さんに電話をして「たぶん、Mにとっては安売りじゃないほうがいいと思う」と言ったところ、お母さんがついていって買うことになりました。そして、何ヶ月か経ちました。「やっぱり、おじさんが言ったとおりだった。店の前を通ると声をかけてくれてチャリの調子をタダで見てくれるし、大切なチャリだから、カギのかけ忘れもしなくなった。」とMはうれしそうです。 もちろん、自分の家でステーキを焼いて失敗するよりファミレスで食べる、という選択をする人もいるでしょう。初めのときのMのように、“自転車は消耗品”と心得て、量販店の安売り自転車を買うのもその人の判断です。しかし、もし、同じ金額で「おいしいものを食べたい」なら、上質の肉を家で焼いてみることに挑戦してほしいし、快適・安全に、そして長い年月いつくしんで自転車に乗りたいのなら、信頼できる専門店で買ったほうが断然“おトク”であることは、言うまでもありません。 1円でも安いスーパーを探して車で走り回っている、という笑い話をどこかで読んだことがありますが、これと似たような話はときどき子どもたちから聞きます。「ウチのお母さん、安売りのTシャツいっぱい買ってくるんだけれど、すぐに伸びたり穴が開いちゃうし、家族はみんなデザインが気に入らないって言って、だれも着ないまま袋にたくさん詰めてある」という子もいました。 似ているようでいて、これとは反対の話もあります。もう30年も前のことです。子どもとわたしに1袋ずつティーバッグを使い、自分の分は、使い終わった2袋をいっしょにして使っていた塾生の母親がいました。(なんとみみっちい!)と思いながら見ていたら、「ケチだと思っていたでしょう。わたしには、濃い1杯目よりも、この出がらしがちょうどいいし、だいたいごみが少なくなるでしょ」と見抜かれ、若かったわたしは、自分の不明に赤面したものです。 「人間関係にも損得勘定があるか」どうかは、別の問題も含むのでここでは触れないことにします。「すくなくとも、わたしたちと社会との関係では、上で述べた日常生活まで含めて、大きな意味での“損得勘定”を考えてみよう」と子どもたちや若者たちに言うことがあります。環境問題も政治的な選択も、大きな損得勘定を計算するには、幅の広い知恵と深い洞察が必要だと考えるからです。とりもなおさず“学び続け、考え続けること”これは、なによりも自分自身に言い聞かせていることでもあります。 今回の少年法の“改正”は、将来の子どもたちにとって大変重要なことなので、どうしても書きたかったのですが、このところ固い話が続いていたこともあり、また、少年法については何人もの人たちが触れているので遠慮することにしました。(ところで、テレビでは、この超重要法について取り上げているのでしょうか?) そして、わたしにとって、一番大きい“おトク状態?”は、というと、自分の命が終わろうとするとき「振り返ってみると豊かでいい人生だったなあ」と森羅万象に感謝できること。かなうかどうかわかりませんが、そこを目指して毎日を大切に生きていこうと考えています。 **5月29日(火)掲載**
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第230回 教育関連3法案を導いたもの | ||
じつにさまざまな事件が起こります。それらの事件の内実については、新聞報道だけからではほとんどなにもわかりません。まして、番組ごとにスポンサーがついている視聴率至上主義のテレビなどでは、人目を引くセンセーショナルな部分だけを取り上げがちなのは、やむを得ないことでしょう。ただ、そういう皮相の部分だけからあれこれと論評する人たちの無神経さには、怒りを通り越してあきれるほかはありません。
そうこうしているうちに、これからの学校と子どもたちにとって大変重要な法律が成立します。21日(月)に参議院でも審議入りした教育関連3法案です。 これまでの旧教育基本法を初めとする教育関連法が、学校運営に関しては、どちらかというと地方行政や学校の自主性にある程度ゆだねられていたのが、かなり強力に政府主導で統制していこうとするのが、審議中の教育関連法案です。 「学校教育がこれまでよりもよくなるのならいいのではないか」という意見を読みましたが、そのような意見は、学校教育をめぐるいろいろな問題が、教師や学校そのものが原因であるとする見方から生まれました。単純な教師・学校バッシングもその一因です。社会構造の変化や経済の大きな流れのなかに大人も子どもも翻弄されている中で、その仕掛けを隠して、矢継ぎ早に憲法と教育とにその矛先を向けようとしています。 そこで、またまた固い話になりますが、現内閣の最重要法案である教育関連3法案について、手遅れながらも考えてみることにします。 まず、学校教育法です。これは、成立したばかりの新教育基本法を具体化するためのものです。とても大きなこととしては、校長・教頭のほかに副校長・主幹教諭・指導教諭などの管理職を置くことです。『規範意識』『公共の精神』『わが国と郷土を愛する態度』という“精神性”を大きな教育目標として掲げ、それを徹底していくための仕組みです。具体的には、現行法が「・・・教科に関する事項は・・・文科大臣が定める」となっているのを「・・・教育課程に関する事柄は・・・文科大臣が・・」となっています。つまり、教える内容や順序までも国が関与する、ということです。さらに、全国学力テストが学校評価の材料になる可能性があります。根拠だけを示すと、改正法42条、43条がそれです。 つぎに、地方教育行政法です。ここには、地方の教育委員会に対して文科省が勧告・指示ができる、とあります。教育委員会は、本来、市長や知事からも独立した部門であるのに、それさえも超える「措置要求」が復活します。これが実現すると、愛知県犬山市が今回の全国学力テストをパスしたようなことはできなくなります。 さらに、教員免許法です。教員免許が10年ごとの更新制になります。教員免許は、「教員となることができる資格」であって、教員になってから後の問題は人事管理の問題です。なにか支障があったときには個別に判断し、もし教員としてほんとうに不適切ならば、本人の意見も含めて配転などの適切な処遇をすることが大切だろうと思います。現在、わたしの周囲でも「子どもとかかわることは大好きなので、学校の教師になりたいけれど、これから教師がどんどん大変な時代になりそうだから・・」と二の足を踏む若者がいます。公教育の分野からの人材流出が加速する前兆のような気がします。 新自由主義教育観に基づく“教育改革”がどんどん進んでいます。しかも、改憲や集団的自衛権容認の動きとあわせて異例の速さで進んでいます。これがどんな意味を持つのか、わたしたちはしっかり考える必要があります。 前回、わたしは“択一的思考”が増えていることへの心配を書きましたが、まさに、国民一人一人のその択一的思考こそが、上記のような動きを支えているような気がするからです。 現在、世の中で起きているさまざまな問題の多くは、人々の気持ちにゆとりがなくなりイライラが充満した社会になっていることにあると思います。その原因が新自由主義経済にあり、その結果が択一的思考として表れているのだとわたしは考えます。イライラが溜まれば、すっきりはっきりしてほしくなります。 毎日新聞論説室の与良正男さんが、「前首相の靖国参拝に反対していた毎日新聞に、『小泉さんはわたしたちに誇りを与えてくれたのに、なぜ反対するのか』という反論が、若者を中心にかなりあった」と書いています。あのシンプルに言い切るワンフレーズが、自分自身の中にイライラを抱えた若者の心に響くのでしょう。現首相も、「うつくしい国・日本」などと、人々の情感に訴えながら勇ましいことを推進しようとしています。 次の世代の人たちが、まず自分に誇りを持ち、家族と周囲の人々との豊かなつながりをもてるようになれば、と思います。そこに至るささやかな一歩一歩を積み重ねたいものです。 **5月22日(火)掲載**
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第229回 択一的思考 | ||
「A高校とB高校と、どっちがいい高校なの?」高校入試が学校や友だちの間でちらほら話題になり始めるころ、子どもたちからよく出る質問です。以前は中3生から出る質問でしたが、最近はどんどん低年齢化しています。それだけ、必要以上にアオられ、アセらされるようになっていると言えるのかもしれません。
それはともかくとして、そんな質問を受けると「きみがいっしょうけんめい努力して合格できた高校が、きみにとって一番いい高校なんだ。」と言います。すると、ほとんどの子は「そんなことを聞いているんじゃなくてぇ〜、どっちが“アタマ?”がいいのか、っていうこと」とぶぜんとしています。 「今度の日曜日はテスト勉強日でしょ。その日は部活がないから友だちと約束しちゃったんだけれど、どうしたらいい?」「きみはどうしたいの?」「ビミョー」という会話があることもあります。「ダメとか間違っていると言われたらイヤだ。」という気持ちが強く働くようです。 「ウチの担任、中1の家庭学習の時間は1時間、中2は2時間、中3は3時間だって。わかりやすいよ。」「たぶん、少しずつ増やしていこうね、という意味だと思うよ。同じ学年でも、集中できる時間は一人一人違うからね。」という会話もありました。 子どもたちや若者が、わかりやすさ・シンプルさを求める傾向は、いまに始まったことではありませんが、大人社会のこのところの風潮がその傾向をいっそう加速させているような気がします。 わたしは、ほとんどテレビをみることがないので世の趨勢には疎い、という自覚があります。それでも、見聞きする新聞記事やラジオ放送、月刊週刊雑誌の広告などをみても、「あなたはどっちを支持しますか?」という類の見出しを多く見かけます。「日本での大リーグ人気を歓迎しますか?」という他愛もないものから、「憲法を変えるべきですか、変えるべきではありませんか?」という非常に重大なことまで、2択から5択ぐらいまでのきわめて粗い分類があちらこちらで見られます。 「右か左か」「どっちが優れているのか?」「どっちがおトク?」「どちらが正でどちらが悪?」(そう言えば、中1の数学で「正の数の逆は悪の数?」と言った子がいたっけ)「どっちが安心・安全?」「どちらがおもしろい?」などなど、見聞きしない日はありません。 統計調査は、その性質上、この択一的なアンケートや分類によってデータをとります。そして、このようにして得られたデータが、マーケティングなどの面では意味のある場合があることも確かです。しかし、それは、あくまでもデータに過ぎません。 しかし、わたしたち一人一人がものごとの実態を捉え判断をするときに、択一的判断はとても危険ではないかと考えます。事実、アンケートなどで、1.とても満足 2.まあまあ満足 3.やや不満 4.とても不満 のどれをチェックしてもしっくりこないという経験はだれにでも少なからずあると思います。それは、その“満足”という感覚が、その対象から受ける非常に細かい要素だけではなく、そのときの本人のさまざまな身体・精神の状況、周囲の環境などによって引き出されているからです。 択一的思考法に慣れてしまうということは、それらの多くの判断要素を捨ててしまっているということです。たとえば、さまざまな場面での“こころのツラさ”に対して、いともかんたんに病名のレッテルを貼ってしまう精神科医、犯罪を犯した人間の人格すべてを極悪非道であるかのように報道するマスメディア、その一方で、完全無欠の万能であるかのように宣伝される商品、名前が知られている人の意見というだけで、あっというまに世論化してしまう言説・・・、いくらでもあります。 このような択一思考がいつごろから増えてきたのか、はっきりとしたデータを持っていませんが、あの“共通一次世代”(1979年から1988年まで行われた大学入試共通一次テスト世代)が社会の中心になり始めたころと重なるのではないか、と漠然と考えています。もっともその後のセンター入試も択一式なので、共通一次世代と呼ぶのは適切ではないかもしれません。 もっとも、“共通一次世代”を自称する人たちの文を読むと、「数値を見ると思わず反応してしまう」とありますから、あながち暴論ともいえないような気もします。 あるいは、この択一的思考は、デジタルの普及とともに増えてきたのではないかという思いもあります。デジタルはどちらかと言えば苦手な分野ではありますが、いずれはこの連載でも取り上げてみなさんのご意見を伺いたいと考えています。おりしも、小中高での全国学力テストが択一式で行われ、その結果がデジタル処理されています。こういう動きが、ある大きな意図を持っているのか、それとも偶然の産物なのかをしっかりと見極める必要がありそうです。 民主主義とは、いろいろな考え方や感覚が並立し、それらを時間をかけて調整していくたいへん非効率かつ粘り強さを必要とする社会体制です。充満しているように見える“択一的思考”が、この民主主義をこわしていく尖兵になるのではないかとヒソカに心配しているところです。 なんだかとても“固い文章”になってしまいました。わたしが言いたいのは、ものごとはすっきりと割り切るだけでなく、もっと、ああでもないこうでもない、と考えることを止めないようにしましょうよ、ということです。 **5月15日(火)掲載**
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第228回 「子どもの日」に考える | ||
わたしの塾は、春・夏・冬の休暇を少しずついただいているので、祝祭日の休みはありません。カレンダーどおりの休みにすると、月曜日のクラスの時間数だけが極端に減ってしまうという現実的な理由もあります。
連休中に塾があることについて先刻承知の子どもたちからは、ほとんどブーイングは出ません。下の学年は、家族旅行に行く子もいれば、イベントに参加する子もいます。しかし、上の学年ともなると、部活があることもあって、連休中に塾を休む子はだれもいません。 5月5日の子どもの日には、前々回に書いた和菓子屋さんの柏餅を、帰り際の子どもたちみんなに食べてもらいました。このところ「あんこは嫌いだ」という子が多いので、みそあんを多めに買ってきたのですが、品定めした挙句「パス」という子が何人かいてびっくりしました。「おなかがいっぱいなのかな?」と聞いてみると、「柏餅きらい」と言います。「ここのはおいしいよ。食べてごらん」というとおそるおそる手を伸ばして、みそあんをパクッとやって、「ん? 初めて食べた。ヘンな味」と言います。別の子は「これって“大人の味”なのかなあ」と言いながら食べています。おどろいたことに、気がつくと、どの子も柏の葉を取ってしまって、手に直接取って食べ始めています。昔ながらの作り方なので、当然のことながら、もう手はベトベトです。わたしが葉でくるむように食べているのを見て「なんだ、言ってくれればいいのに」と口を尖らせます。この程度の失敗はするに如かずと、わたしは素知らぬ顔でうまそうにバクつきます。 そんなやり取りのなかで、ある子が「母の日や父の日は、派手にプレゼントの宣伝をするのに、なんで子どもの日のプレゼントの宣伝ってあまりないのかなあ」とつぶやいた顔が妙に真剣だったので、ちょっと吹き出してしまいました。「子どもは、クリスマスだとかお正月だとか誕生日なんかに、いつもたくさんプレゼントもらえるからじゃないかなあ。」などとのんびりした話をしながらも、頭の中では、わたしたち大人がこの子どもたちに残すことができる最も大きなプレゼントは、一体どんな社会なのだろうか、という思いが巡っていました。 大型連休中に、大渋滞のなか家族といっしょのドライブや行楽を楽しむ、ファミリーレストランで“家族団らん?”の食事、東京ミッドタウンなどの大型ショッピングモールや、テーマパークなどに家族で出かけた、という話が周囲からもニュースからも聞かれます。仮に、それだけの時間的経済的体力的な余裕がわたしにあったとしても、とても考えつかない連休の過ごし方です。わたしなら近所の空いている美術館や公園でのんびりと過ごすか、家でゆっくりと音楽を聴くか、おいしい料理を作って楽しむか、子どもたちと遊びたいと思います。しかし、これもわたしの個人的な思いに過ぎません。 その一方で、政府の“教育再生会議”が、先月末に「『親学』に関する緊急提言」なるものを発表したことは、ご存知の通りです。いわく、(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない(3)早寝早起き朝ごはんの励行(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施(6)企業は授乳休憩で母親を守る(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施(9)遊び場確保に道路を一時開放(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める、です。 したしい親や身内には、わたしもこれに近いことを言ってきました。この連載のなかで取り上げたものもあります。しかし、これらは信頼しあう人間同士の間か、あくまでも“個人の意見として”という注釈つきで言われるべきことだと思います。公的な機関、それも政府機関が、国民に向けて発するものであるとは到底考えられません。 人間の生育環境は多様であって、したがって感性や知性の方向も多様です。ある意味では、この多様性こそが、人間社会を豊かに発展させるものであるはずです。それを、上記にあげたような、消費一辺倒のレジャーを現出し、テレビに振り回され、遊び場を奪い、人間の自尊心を失わせてきたものは何か、を考えれば、この提言が政府から出されることのおかしさが見えてくるはずです。 社会全体が「ラク・トク・ベンリ」の風潮に染まる一方で、6割近い国民が風説と気分で、国の方向を変えようとしています。学力だって極めて多様であるはずなのに、小・中・高の全国学力テストが実施されました。「道徳の時間」も成績評価の方向に動きそうです。以前に教育再生会議が打ち出した(1)教員免許法(2)地方教育行政法(3)学校教育法 のそれぞれの“改正”案が審議入りしています。あたかも、今日の教育や社会をめぐる諸問題の根源が、親や子どもたちや学校現場だけにあるかのようなこれらの動きを、多くの人たちがなぜ容認しているのか、わたしにはどうしても理解できません。 フランスまでもがグローバリゼーションへの途を選んだ現代の中で、わたしたちには、もう抗うすべはなさそうです。しかし、嘆くばかりではなく、まだまだわたしたちがなすべきことはありそうです。 **5月8日(火)掲載**
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第227回 モラルについて | ||
アメリカで、また悲惨な乱射大量殺人事件が起きました。日本でも長崎市長狙撃殺害事件、東京・町田の立てこもり乱射事件がありました。新聞記事に、残虐事件の報道がない日がないほど、次々に起きています。よく言われるように、凶悪事件は、現代になって急増したわけではありません。暴力団が起こす事件や精神的なバランスを崩した人間が起こす事件、人間の果てしない欲望が惹き起こした事件は、いつの時代でも社会を不安に陥れてきました。
しかし、日曜日(4/22)の朝刊各紙に載った記事ほど、ショックを受け考え込んだことはありません。各紙とも同じような内容なので、詳細は(http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20070422k0000m040054000c.html)などでお確かめください。各紙とも同じような記事であるのは、警察発表そのままを報道したものであると思われるので、現場の状況そのものとはすこし違っているかもしれません。たとえば「乗客40人沈黙」という見出しにしても、その40人全員がその場の状況を察していたとは限りません。しかし、特急列車内という状況から考えて、把握していたのが1人や2人だったとは思えません。仮に、数人だったとしても、他の乗客たちと協力して制止するか、通報ボタンを押すなどの行動は取れたはずです。それが、なぜこんな結果になってしまったのでしょうか。被害者の女性は、生涯にわたって癒えることのない傷を負っただけではなく、深い人間不信・社会不信に陥っているのではないかと思います。 この事件の被疑者は、その後2件の同種事件を起こした容疑があるそうで、そうだとすれば、初めの事件に居合わせた乗客たちは、3人の被害者たちに対して共犯者に等しい責任を問われることになります。さらにこの事件からは、その乗客たちを責める前に、わたしがその場にいたならば、どんな行動を取ったのだろうか、ということを深く考えさせられます。第205回のエピソードに書いたように、判断に迷って行動する機会を逸してしまうかもしれないし、凶暴な人間からの脅しに一瞬ひるむかもしれません。しかし、目の前の事態が、個人間のトラブルではなく“事件”であることが明らかになった時点(たぶん多くの乗客が、このあたりの確信をもてなかった可能性があります)で、なんらかの行動を取ったのではないかと思います。周囲の乗客を促して一斉に起立するだけでも、抑止する力になるかもしれません。 もし、乗客たち一人一人に「なにも、自分が率先してやらなくても・・」という気持ちがあったとしたら、社会が変質してきた兆候かもしれません。それとも、われわれの社会は、もともとこういう体質を持っていたのでしょうか。(「世界の日本人ジョーク集」早坂隆著・中公新書ラクレ)の帯文を読むと、ギョッとします。) たしかに、われわれの社会は、周囲と異なる行動を取ることに勇気が必要な社会ではあるかもしれません。しかし、ある異常な状況下でとっさに取る行動は、6年前の新大久保駅の韓国青年らの惨事、今年2月の警視庁巡査部長による人命救助のために命を落とした事件などに見られます。たとえ、そのとっさの判断が無謀であったとの非難があるにしても、ギリギリの場面に遭遇したとき、理性や分析ではなく、「目の前の人を助けたい」という強い“感情”に突き動かされるのが人間の本性ではないかという思いがあります。 霊長類学者として知られる山極寿一教授は、その「“感情”こそが“モラル”と密接に結びついている」と言います。山極教授によれば、ニホンザルは優劣社会で、ボスが自分の立場を前面に出し、攻撃やストレスの対象がどんどん弱い者のほうに向かうのに対して、ゴリラなどの類人猿は、弱い者にエサを与えたり、いざケンカになっても、雌や子どもに仲裁させたりして、あえて勝者を作らないなどの知恵を持っているそうです。 “モラル”というと、倫理・道徳などということばを連想して、古臭い印象を持つものですが、憐憫(れんびん)や心配りなどの“感情”が生み出すもの、と考えることで、現代社会の最も重要なキーワードになるかもしれません。 現代の社会が、形に見えるもの、数値として表されるもの、さらには、力関係や経済的価値などに支配されるようになってきていることは、政治・経済・教育のさまざまな場面で感じます。そして、それらは“優勝劣敗の論理”となって、若者や子どもたちの心の中の、かなり深いところまで浸透してきているように思えます。その結果、一部はグレードやレベルを競うことに狂奔し、残りの多くは底知れない不安をかかえています。もし、このままの状態が続いていけば、われわれの社会が行き詰るのは、そう先のことではないような気がします。 あらためて、“モラル”が“感情”の産物であることを考え、人と人が対立しながら争うのではなく、人と人は、支えあう知恵とつながり合う豊かな感情によって生きていくものであることを伝えていきたいものです。 **4月24日(火)掲載**
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第226回 豊かに生きる その3 | ||
先日、ある若者が雑談の中で「ニュースで見たけれど、豪華客船で世界一周するんだって。豊かな人たちがいるんだよねえ。」と言いました。たしか“飛鳥U世号”。5万トンの豪華客船で、1人あたりおよそ400万円〜2000万円の4ヶ月の船旅であるということを、わたしもラジオのニュースで聞きました。ふだんならあまり気にも留めないニュースなのですが、それと前後して、毎日新聞ロサンゼルス支局の國枝すみれ記者のコラムで、アメリカの子どもたちの「有名人(celebrities)になりたい症候群」を読んでいたので、印象に残っていました。そこで、前2回とは別の角度から、「豊かに生きる」について考えてみることにしました。
このところ、ペットボトルに入れた水を、折に触れて飲んでいます。これはわたしなりの体調管理で、風邪やインフルエンザの予防にもなっていると思います。先日も、教室で一口含んだところ、ある中学生から「そのペットボトル、ずっと前から同じだよね。不潔だよ。」という声がかかりました。地元で飲料水を買うことなどめったにないので、たしかにもう3,4ヶ月同じボトルを使っています。「でも、いつもサッと熱湯消毒してから洗っているよ。きみたちこそ飲みかけのペットボトルを置きっぱなしにしてないか?」と聞くと、「だって、あれは工場(飲料会社)で機械で詰めたんでしょ?」と言います。「そうだよ。おじさんのほうが不潔だよ。」と他の子の合いの手が入ります。ちょうど授業も終わったところなので、飲み物や食べ物のどんな状態が危険なのかを手短に話すと、すこし納得します。 食べ物といえば、先に書いた「旅立ちの会」で、こまめに働いていたY君が「うすいゴム手袋ありますか?」とツレアイに聞いてきました。お菓子を取り分けるのに、素手でつかんではみんなに悪いから、ということのようです。Y君の心配りに感心しながらも、ツレアイは「手をしっかり洗いさえすればだいじょうぶだよ。」と言いました。ここでも、一人一人が衛生に気をつけることよりも、なにか企業製品(ここではゴム手袋)に対するある種の“信仰”のようなものを感じます。 人が手間ひまをかけ、気持ちを込めて工夫をし作りあげたものよりも、“清潔な”工場で大量に作られた物のほうが安心できる、という感覚は強いようです。問題になった洋菓子メーカーの場合でも、創業時代には、わずかについた機器のほこりさえチェックしたそうですが、会社の規模が大きくなるにつれてそれが忘れられていったようです。テイクアウトの食品はめったに買わないわれわれですが、ときには、非常に吟味した食材をプロの手で調理していることがよくわかるものに出会います。ところが、しばらくしてデパートに出店したり支店が増えてくるにつれて、食材の質を落としたりずさんなあつかいをしていることが明らかになって、がっかりすることがよくあります。 だからこそ、自分が扱う商品や製品、サービスなどに愛着がある人ほど、規模が大きくなっていって自分の手から離れていくことにためらいがあるはずです。 浦和のまちにもそういう人がたくさんいます。自分が口にできないものは絶対に作らないという和菓子屋さん、上質の酒を最高の状態で飲んでもらうために、細かく神経を配って厳しい品質管理をしている酒屋さん、自分の店で売った自転車は、何年経っても無料できちんと整備してくれる自転車屋さん、自分の目と足と人間的な信頼関係で、農家から直接買い付ける八百屋さん、素材にも製品にもいつでも研究を怠らない洋菓子屋さん、普通の市民が普通の暮らしをするためのお手伝いがしたい、といって長時間話を聞いてくれるのにほとんど相談料を取ってくれない弁護士さん、必要以上の薬はけっして処方しないお医者さん、出前をして味を落としたくないからと、頑として店でだけ営業するおすし屋さん、まだまだいます。こういう人たちは、どの人も、商品や製品あるいはサービスなどを、すべて自分の目が届くところに置いています。そして、どの人も自分の仕事にこの上ない愛着をもっています。 もちろん、自分が愛着のあるものを多くの人に知ってもらいたい、そしてできれば、そのことですこしは経済的な余裕も持ちたい、と考えるのは自然なことです。でも、それが本末転倒して、多くの人に知られるようになり規模も大きくなった、そして従業員も多くなった、その結果、今度は、それを維持し発展させていかなければならなくなります。これは、自分が手がけるものへの愛着から離れて、事業欲・資本の論理によって動かされていくことになります。そこには、もう受け取る人たち(お客)の顔は見えなくなり、“売り上げ”という顔のない消費者がいるばかりです。 そして、その消費者は、安ければよい、メンドーなやりとりなどなしに買えればよい、とばかりに、宣伝上手な“有名な”大型店に群がります。その結果、上に書いたような人たちが営む仕事は、ますます先細りになっていきます。でも、それは彼らの不幸だけではなく、消費者としてのわたしたちの不幸なのだと思います。 ここで、冒頭のエピソードに立ち返ってきます。わたしのまわりの子どもたちには、「有名人(セレブ)になりたい。金を稼ぎたい」というアメリカの子どもたちのような直接的な表現は、まだあまり見られませんが、「人と人との豊かな信頼関係のなかで生きる」という感覚は、確実に薄れていっているように思います。 まだ、遅くはないはずです。わたしたち大人が、「“豊かに生きる”とは、どんなことなのか」を、ことばではなく、身をもって伝えていくことが必要ではないでしょうか。 **4月17日(火)掲載**
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