【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

全265件中  新しい記事から  51〜 60件
先頭へ / 前へ / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / ...16 / 次へ / 最終へ  

第215回 給食費未納問題雑感
 文科省は、昨年度の小中学校での給食費の未納額が22億円あまりに上ると発表しました。こういう話は、授業料の滞りなどほとんど経験したことのないわたしから見ると、まるで別世界のような話です。しかし、塾仲間のなかには「塾の授業料を何ヶ月も払わないで知らん顔をしている親もいるんだから、別に不思議ではない」と言う人もいます。「ウチの塾はどう見ても貧しそうだから、滞納なんかしたらつぶれる、と思っているのかもしれないなあ」と笑いながら、ノートを忘れるのは毎度のことなのに、授業料を忘れると即日届けに来る母子の顔を思い出しています。ありがたいことです。

 一方、子どもたちの話を聞くと、給食費に限らず、学校の集金を「忘れた」と言い続けている子もわずかながらいるようです。全国ともなれば給食費未納22億円というのもうなずける話です。

 身近にそういう家庭が見当たらないわたしがこの問題をとりあげるのは見当違いかな、と初めはためらいました。しかし考えてみると、子どもたちの“食”や、親たちの“お金”に対する感覚の問題、さらには、近年の社会意識に根ざす問題ではないかとさえ思えたので、取り上げることにしました。

 雇用の不安定や低収入であることを理由とする未納も多いと言います。しかし、この場合は、生活保護による教育扶助や学校教育法のなかにも就学援助制度があるわけですから、不払いの理由にはなりません。なかには、制度を利用して給食費相当額を受け取りながら、学校に納付しないケースもあるということなので、問題の根は深いようです。校長に直接交付したり、強制執行や氏名の公表などの強い手段をとる自治体もあるということですが、当面の対策ではあっても、そういう手段を受けた子どもたちの心の中に残るものは決して平穏なものではないし、社会的な観点からも“負の社会意識”を再生産してしまいます。

 「学校給食は義務教育の一環なのだから国が負担するべきだ」と主張する人もいると聞きます。しかし、公立学校の義務教育とは<就学機会の均等>が目標なので、授業料(教科書を含む)についてだけ公費負担です。教育行政に対しては物申すことが多いわたしですが、教育扶助や就学援助制度がある以上、給食費の支払いを拒否する理由にはならないと考えます。

 給食費の不払いは、むしろ、昔から一部の人々に根強くあった「しなくても何とかなるものはしない。」「払わなくても済むものはできるだけ払わない」「見つからなければラッキー」という感覚の延長上にあるのではないかと思います。この感覚は大人から子どもまで広く見られるようになってきたのは、最近のことなのかもしれません。

 このところ問題になっている政治家の事務所費問題や洋菓子から車までのさまざまなメーカーのトラブルなどはこの典型です。給食費未納の人たちと同じような感覚は、わたしたちの周辺にいくらでもあります。高校の単位未履修問題、原発のトラブル隠し、公共事業の談合、贈収賄・・・・、近年起きているさまざまな問題はどれもここから発しています。

 歴史を見ていると、洋の東西を問わず、自分の損得にかかわるそういう対処法や策戦は、民衆が大きな権力に抵抗するときしばしば取ってきた手段です。弾圧されにくい抵抗の知恵でもありました。農民出身の秀吉が検地と刀狩を徹底して行ったのは、そのことをよく知っていたからだという説は、それなりの説得力があります。

 しかし、対等な人間関係や村落共同体のなかでそれをやってしまっては生きていくことはできないというのも、また民衆の知恵であったと思います。さらに、売る側と買う側、何かを任せる側と任される側など、本来、信頼がなければ成り立たないはずの関係のなかでそれをやってしまったら関係が壊れてしまう、というのも暗黙の了解事項だったはずです。そして、なによりも現代は、“すくなくとも建て前としては”民衆が主権者なのだから、この「しなくても何とかなるものはしない。」「払わなくても済むものはできるだけ払わない」「見つからなければラッキー」という感覚は、自分で自分の首を絞めるようなものです。

 共同体も信頼関係もどんどん薄くなる社会のなかで、給食費未納はまさに象徴的な問題です。顔が見える近所の商店を離れ、大型スーパーでしか買い物をしない人たち、一人一人の客が喜ぶことを基本に調理している店ではなく、外食といえばファミレスになる人たち、家族の口に入るものさえ食材の質などお構いなく、一円でも安ければ買いに走る人たち、そういう人たちの感覚と給食費未納問題はどこかでつながっているような気がするのは、わたしの偏見でしょうか。

 そして、“納豆問題”などを見れば、最後にやはり、充分にしたたかだった民衆にそういう感覚を植え付け助長してきたのがテレビである、というわたしの持論に立ち戻ってしまうのです。


**1月30日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第214回 わたしが塾を続ける理由
 このところ、わたしの頭を占めていることがあります。
 ふと気がついてみると、塾生の人数が、ひところよりもかなり少なくなっています。新しく入塾してくる生徒が少なくなっているからです。ありがたいことに、わたしのところでは、入塾した生徒のほとんどが中学・高校の卒業という切りのいいところまで在籍してくれるのですが、今年度は高校3年生が多いので、このままでいくと新年度はかなり少なくなりそうです。

 以前から付き合いのあったタウンページ以外の広告は出さず、ほとんどが塾生やOB・OGからの口コミ紹介だけで支えられてきましたが、いよいよなにか手を打たなければならない、と周囲からも言われ、わたし自身もその必要は感じています。

 ところが、わたしにとって、この広告宣伝はもっとも苦手な仕事です。最後にチラシを作ったのがもう9年も前で、そのチラシもツレアイとの仲が険悪な状態になるほど苦しんだあげく、1年近くかけてやっと作ったものです。勉強となると頭が働かなくなる子どもたちのように、自分の塾を宣伝するとなると、わたしの頭もまったく動かなくなって、なにから手をつけてよいのか、さっぱり見当がつきません。

 このことを知った若い友人からいろいろとアドヴァイスをもらいました。彼はいわばプロなので、そのアドヴァイスは一つ一つが的確で「まずは、本人がなんとかしようという気持ちがなければなにも進まない」というところなどは、苦手な数学の問題を前にして途方にくれている高校生に向かってわたしが言うことばそのものです。

 まず、ホームページを作ること。これはもう何年も前に始めて途中で投げ出しているので、友人にお願いしました。つぎに、チラシを作ること。これは、わたし自身の塾への思いが変わらない以上、9年前のチラシを現状に書き換えるだけでよいかなあ。さらに、近所の人からさえ「こんなところに塾があるなんて知らなかった、」と言われるので、道の入り口に道しるべの看板をつけさせていただく。これは、以前、入り口のお家から「どうぞ、どうぞ」と言われているので、この際改めてお願いすることにします。

 しかし、友人に「本人がなんとかしようという気持ちがなければなにも進まない」と指摘されるように、本人であるわたしのなかに「いままで以上に、子どもたちや親たちと誠実につきあっていって、それでこの過当競争の中で“淘汰”されるのならしかたがない」という気持ちがないとはいえません。

 そこで、表題の通り、わたしたち夫婦が塾を続ける、あるいは続けたい理由はなんだろうかを考えてみました。

 ある高校の校長をしている友人が、管理職になったことを悔やんでいたことがありました。いわく「もっと、子どもたちと直接つきあいたいけれど、教員を差し置いてはなかなかできない。授業のあのワクワク感がなつかしい・・・」。この述懐は、裏返せばそのままわたしのものです。

 勉強プレッシャーや不全感で元気をなくしていた子どもたちの表情に生気がもどってきたとき、「なにもわからない」と苦しむ子の“わからなさの元”を発見したとき、「わかりたくない」とふてくされる子の、その“気分の元”に触れたとき、「勉強、つまらない」と言っていた子が「そうかあ、目からウロコだ〜」と叫んだとき、「自信が出てきたよ」という笑顔に出会うとき、「学校ではそんなこと教えてくれなかった。いろんな考え方があるんだね」と喜ぶ顔に出会ったとき、」塾生の親から「ウチの子ったら、湯上りみたいな顔で塾から帰ってきます」と言われたとき、まだまだ塾を続けたいと思います。

 何年も音沙汰がなかったのに、ふらっと立ち寄ってくれたOBが「おっ、まだつぶれてないじゃん」と憎まれ口をたたきながらうれしそうな表情を見せてくれたとき、もう80歳を過ぎたOBの母親が「あの子がなんとかやっているのは、あんたと出会ったおかげだよ」と言ってくれたとき、しみじみと「塾をやってきてよかったなあ」と思います。

 築70年を超えるボロ家、古い障子、板張りの廊下、せまい庭には古井戸や木々があり花が咲き小鳥たちがきて、夏には虫さえ飛び込んでくる。ときには、塾をやっているときでも八百屋さんだとかクリーニング屋さんが来たり、塾のOB・OGの一家が訪ねてくることもある。煮物のにおいが教室まで流れ、洗濯機の回る音がかすかに聞こえ、一世代前の生活そのもののなかの塾。そんな時代遅れのような塾に、40年近くもの間たくさんの子どもたちが通ってきてくれました。

 もちろん、いいことばかりではありません。つらいことも悲しかったことも、情けなくなったことも言い知れぬ怒りに震えたことも、ぜんぶわたしの塾で起こったことです。ここで生まれてこの地域で育ち、この地域の子どもたちや親たち、そして学校を見てきたわたしができること、やらなければならないことはまだまだありそうです。

 多くの人の力を借りながら、もうひと踏ん張りする元気が出てきたようです。


**1月23日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

 
Re: もったいない2007/01/23 22:22:14  
                     高3の親

 
いつもながら、お久しぶりです。
複雑な入学試験制度に目をまわしている、高3の親です。

開けて見なくちゃわからないというセンター試験が終わり、
開けてみたら、あれ?、少ない?
と思ったら、蓋にくっついてた・・・だと良いなぁと言う気分です。

なんとまあ、もったいない話でしょう・・・。
偶然おじゃまするようになったこのページで知った、
憧れのす〜爺さんの塾の、定員が空いてるなんて!!

もし、近所なら、絶対に通わせたい!!と強く思ってきましたのに。

これは、ぜひ、「人助け」だと思って、広報してください。

大手ぼったくり、アルバイト講師の塾に、泣く泣く通わせている親は、たくさんいます。
定期試験頃には、しつこいニセ家庭教師電話に悩まされ、
家庭教師かと思い申しこんだら、高額な長期間の役にたたない教材の契約だったとか、
中途解約を拒否する悪徳学習塾などに関わってしまい、困っている人はたくさんいるんですから。

せちがらい世の中で、勉強と人間同士の関わりを学ぶことのできる塾は、
本当に、貴重なんです。

しつこいようですが、
人助けですので、ぜひ、新聞チラシで広報してください。

その際には、このページのことも是非書かれると良いと思います。
きっと、す〜爺さんがたのファンになって、入塾されることになると思いますよ。

 

元の文章を引用する

 
よい結果に恵まれますように。2007/01/26 0:17:15  
                     す〜爺

 
「高3の親」さん、ごめんなさい。
 あたたかくも力強いはげましのことばと、よっちゃんからの書き込みに感激して、つい自分のことだけ書いてしまいました。おはずかしい。
 お嬢さんも受験ですね。ほんとうに複雑な入試制度です。でも、まず自分が持っている力を出し切ること、そのためには体と気持ちを快適な状態にしておくこと、これが受験の鉄則です。選んだ受験校は、よほど無謀な受験でない限り、いまの自分の力を出し切ればだいじょうぶです。いまからあれこれ新しいことを詰め込むより、今までやってきたことを信じて再確認してみてください。
 しっかりと詰めたご飯なら、蓋どころではなく丸ごとあがってきますよ。
 ご成功をかげながら祈っています。
 

元の文章を引用する

 
Re: 今までも、そしてこれからも2007/01/25 22:32:15  
                     よっちゃん

 
いつも土曜日お世話になっています。
す〜爺の塾は今の世の中大切なのではないかと自分は(勝手に)思っています。

実際自分も母親がこのコラムを見つけ、訪ねたのがきっかけでした。
指定校をいただけるように勉強できたのも、す〜爺の塾のおかげではないだろうかと思います。
訳のわからない参考書などを渡され、ドンドン進んでいく授業ではなく、解らないことがあれば徹底的に教えてくれる。
コミュニケーションが取れやすく、自分の悩みも親身になって聞いてくれる。
そこが個人塾の強みではないでしょうか?
大手の進学塾ではなかなか出来ないことです。
時代遅れな感じも新たな刺激となり、良いのではないでしょうか?
整備された四角い「箱」のような教室ではなく、自分の家にいるような「家」の教室。
色々な塾に通った自分ですが、す〜爺の塾以上に落ち着いて勉強できた場所はありません。

大手の進学塾では「全」を見てはくれても「個」まで目が回らないことが多いと思います。
「○○塾はマンツーマンスタイルを実施しています」と宣伝していても、結局は「全」を相手にしていて「個」を疎かにしているところがあります。
そうして考えるとす〜爺の塾は「全」も「個」も見れていて素晴らしいです。

「それは人数が少ないからだよ。」と言うかもしれません。
でも、たとえ人数が多くてもす〜爺は「個」をキチンと見てくれる人だと思います。
そのことはOBやOGが卒業しても塾に来てくれる。
この事実が物語っているのではないでしょうか?

今年の3月、或いは2月で自分もす〜爺の塾を去らなくてはなりません。
しかし、自分はす〜爺の塾を「第2の我が家」だと思っています。
だからす〜爺の塾がなくなるのはとても寂しいです。

卒業してフラッと近くを通った時、笑い声が聞こえてくる。
そんなす〜爺の塾であって欲しいと思います。

がんばってください。

PS.
この記事の事は塾では話さないでください。
何か恥ずかしいので(*^^*)
 

元の文章を引用する

 
心の底からの元気をいただきました2007/01/25 23:47:03  
                     す〜爺

 
「高3の親」さん、そして、よっちゃん。
 今回の文章は、冒頭にあるように「いま自分の頭を占めていること」をそのまま書いてしまったものです。送稿した後で、なんと恥ずかしいことを書いてしまったのか,と後悔しました。連載に名を借りて塾の宣伝をしていると考えられれば、このサイトに迷惑をかけることになるのではないかと心配したのです。
 それにもかかわらず、いつもながら「高3の親」さんには、身に余る励ましのことばをいただいて感激すると同時に、これまで、“いい子”ならぬ“いい塾”ぶりっ子の書き方をしてきたかな?と、コラムをさかのぼって読み返したりしていました。
 ところが、現塾生の「よっちゃん」から、思いがけなくこんなレスをもらい、恥ずかしくも涙が止まりません。(これ、みんなに言わないでね。おたがいだよ。こんど顔を合わせるの恥ずかしいなあ。知らん顔しような。ほかの連中からみると、なんかキモチ悪いかも・・・。)
 小学生からの付き合いの生徒が多いなかで、よっちゃんとは、高校生からの付き合いです。遠くに引っ越してからもずっと通い続けてくれたこと、本当にありがたいと思っていました。それなのに、わたしがよっちゃんのためになにをすることができたのだろうと考えると、いつも申し訳ないという気持ちでいました。
 それに、もうとっくに大学が決まっているよっちゃんやKくんMくんRちゃんなどが、まだ塾生として引き続いて来てくれていることもうれしくてしようがありません。もうすこしきみたちの顔を見ていたい、というわたしのわがままを察してくれているのと、新入塾生が入ってくるまで支えてくれているのかなあ。爺としては、そういうきみたちに甘えてばかりいられないので、「高3の親」さんがおっしゃるように、苦手な広報活動に取り組むつもりでいます。ありがとう、そして、これからも“第二のわが家”として顔を見せてください。
 ところで、よっちゃんのお母さんがこのコラムを見て訪ねてこられた、というのは初耳です。わたしの記憶では、たぶんタウンページではなかったかと思います。なぜならよほどの偶然かサイトの管理者からでないかぎり、わたしの塾に辿りつけないはずだからです。逆に、そう思えるからこそ、今回のような文が書けるのです。これは、ぜひお母さんに確認してくださいね。
 「高3の親」さん、よっちゃん、ほんとうにありがとうございました。
 

元の文章を引用する

第213回 職人
 たいへん遅ればせながら、明けましておめでとうございます。つたない文章ですが、本年もよろしくお願いいたします。
 
 わたしの周囲にはOB・OGに限らず、どういうわけか美術系・手仕事系の人が比較的多いような気がします。ツレアイがかつて手描き友禅の職人であり、いまでも古画の現状模写を長く続けていること。わたし自身も、時間をみつけては各地の博物館や美術館に工芸品を訪ねていくことが多いということも、そういう人たちとの交流がおのずと多くなる理由かもしれません。

 わたし自身は、ものづくりや細かい手仕事などの能力が皆無に近い人間なので、子どものころからそういう才能にあこがれていました。ツレアイの父は職人肌の家具職人で、そのたんすは30年を経た今でも、何の抵抗もなくスッと引き出され寸分の狂いもなくピタッと収まります。わたしは、刷毛職人であるツレアイの叔父が作った料理用刷毛を焼きおにぎりなどのタレ塗りに使っていますが、瞬時にたっぷりと含み均一に伸びます。

 無農薬野菜由来の自然着色と無添加にこだわりながら次々と新しい試みに挑戦する和菓子職人のNさん、やはり素材と技術に絶対の自信をもつ洋菓子職人のMさんとは顧客の関係を超えての個人的なお付き合いをいただいているし、わたしのギター(演奏は不問!)は、埼玉どころか日本が誇る手作りギターの至宝野辺正二氏じきじきの作品です。余談ですが、このギターはOBの間での形見分け候補人気No.1です。

 プロではありませんが、毎年、秋田のK伯母さんが送ってくださっていた絶品の漬物や山形に帰郷したAくん一家のおばあちゃんがつくる数々の伝統食品は、この上ない職人の技であるにちがいありません。

 OB・OGでは、わたしの塾の看板を作ってくれた陶芸家のMさん、その弟で金工作家のKくん、漆工芸からマルチアニメーターとして活躍するOくん、新進服飾デザイナーとして認められてきているTくん、など枚挙にいとまがありません。

 そのなかで、今回紹介しようとするMくんは、もっとも感動を与えてくれた一人ですが、この2、3年連絡が取れない状況なので、あえて取り上げることにしました。

 Mくんは兄のYくんが塾生だったこともあって、中学生のころは塾に入ることを固く拒んでいたようです。その彼が高校を中退しすこし荒れていたころ、やはり塾生だった従姉のTさんに連れられて訪ねてきました。いっぱしのツッパリを気取ってイキがっている少年でしたが、どういうわけかわたしとは不思議とウマがあって、その後もちょくちょく顔を見せるようになりました。

 あるとき「ブーたれているのもあきちゃったから、なにか始めたいんだけど・・・」と言い出しました。「なにをやっているときが楽しい?」と聞くと「なにもないけど、プラモ作っているときが楽しいなあ」と言うので、ピンときたわたしは「でかいプラモみたいなものだけれど・・・」と言って、伝手をたどって木造建築職人のところに彼を連れて行きました。彼はかなり興味を持ったようでしたが、そこの職場にはあまりしっくりしなかったようで、その後父親の知り合いの職人気質の大工さんに弟子入りしてどんどん腕を上げていきました。ところが、おりしもバブル崩壊で棟梁の考えが180度変わってしまったことがきっかけで、彼はケンカして飛び出してしまいました。

 しょんぼりと現れたMくんは「民家の建築よりも、寺社建築をやってみたいんだけれど、どうやったら棟梁と出会えるかわからない」と言います。そこで、とりあえずタウンページで調べてみると、大宮に寺社建築の会社があることがわかりました。「本気でやりたいのなら奉公させてもらうつもりで頼んでごらん。場合によっては土下座するぐらいの気持ちがあれば受け入れてくれるよ。」と言ったところ、彼は実際に土下座をしてお願いしたそうです。その会社で宮大工の技をみるみるうちに吸収していったMくんは、全国各地の寺や神社の新築や修理工事の現場に召集されることが多くなりました。

 あるとき「いま千葉の現場にいるんだけれど、寛永って何年前?」という電話がかかってきました。「350年ぐらい前だと思うよ」と言うと「そうかあ、オレの名前は300年以上も残るんだなあ」とつぶやくので、聞いてみると「寺の天井を修理していたら“寛永○○年、大工○吉”と書いてあったんで、住職に言ったら、きみの名前も書いておいたら、って言われたんで、“平成10年5月 M”って書いたんだ」とうれしそうです。

 宮大工の技は、現代でも手取り足取り教えるのではなく“見習う”あるいは“技を盗む”ことを基本とするそうで、時間を見つけては各地の古刹を回っていたようです。ときどきは建築現場の写真をたくさん持ってきて、わたしに技法やら手順を説明してくれるのもうれしいことでした。あるときは、大伽藍の格天井(ごうてんじょう)を一人で任され、みごとに仕上げたときは、とても誇らしい表情をしていました。「そのうちオレがこのボロ塾を建て直すから、しっかり金を貯めておいてよ。」「屋根に反りが入った塾なんか作られそうだなあ」などと冗談を言い合ったこともあります。

 その後、彼の会社はつぶれたようですが、技を見込まれている彼は、仕事の声がひきもきらずかかり、一級建築士である兄のYくんよりも収入が多いとのことでした。それでも、休みの日には、現場で集めた端材を使って、くぎや接着剤を使わない木組みの五重の塔に取り組んだり、ともかく仕事が楽しくてしようがない、というようすでした。

 ただ、経済効率や実用性に高い価値を置く現代では、Mくんを初めとするこれらの職人的技術や職人的資質の人間が生活する環境がどんどん狭まっているような気がします。工芸の世界でも、個人の独創性を売り物にする作家と呼ばれる人たちは出ていますが、鑑賞眼の高い注文主の要望にぴったりの物を作る“職人”はますます少なくなっています。子どもたちを見ていると、勉強は苦手だけれど、明らかに優れた職人的資質を持っている子を何人も見かけますが、Mくんのような途を勧める勇気はとても出ません。


**1月16日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第212回 昭和30年代
 「おじさん、『ALWAYS三丁目の夕日』という映画みた?」と聞かれました。じつは、安倍首相の「美しい国へ」の中で取り上げられていた映画なので、名前は知っていましたがみたことはありません。「おじさん、氷を使う冷蔵庫って知っている? ぐるぐる回して洗濯物を絞るのって? 力道山の試合みたことある?」と次々と聞いてきます。

 わたしにとっての昭和30年代というのは、まさに青春期の真っ只中、中学入学から大学生までのことです。「もちろん、みんな知っているよ。」と言うと、帰り支度に入っていた子どもたちまで立ったまま興味しんしんです。

 まもなく2006年(平成18年)も終わろうとしています。どんどん遠ざかる昭和の時代を、子どもたちに話したことをすこしふくらませて書いてみることにします。明治を過ぎることわずか四半世紀の年に、俳人中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と吟じたことを思えば、昭和30年代ははるか半世紀も遠くなった昔語りです。

 小学校の高学年ともなると、冷蔵庫の氷一貫目(約3.75キロ)を買いに行かされました。ゴムの前掛けをつけた氷屋さんのおじさんが、コの字型の金具を使って引き出した氷を大きなのこぎりで切り分けて、持っていった籐(とう)の買い物かごにちょうど一杯の氷を入れてくれます。それを真っ赤な顔をして、やっとこさ家まで運んできて、木製の冷蔵庫のブリキのような金属板が張ってある庫内に押し込めて、ハンドルを閉めます。そんな冷蔵庫でも、当時70歳を過ぎていた祖母は、「便利になったねえ。」と喜んでいました。祖母が現役の主婦だったころは、魚は干物、野菜は地元のものでない限りは漬物、肉は塩漬けぐらいしかふだんは口にできなかったと言います。

 洗濯機もわたしの家にあったのは、“最新鋭”の攪拌(かくはん)式で、洗濯槽の真ん中にある棒が右回転・左回転と交互に回って洗うものでした。洗い終わったときには洗濯物はこれ以上ないほど固くからみ合って、それをひとつひとつほぐしながら、2本のローラーにはさんでハンドルを回して絞ります。わたしは早く終わらせたい一心で次々にかけていくので、シャツのボタンをピンピンといくつも飛ばしてしまって母に叱られたことを思い出します。一枚一枚ボタンの向きを確かめながら絞らないと、こういうことになるのでした。

 わが家の父はいわゆる新しい物好きで、裕福でもないのに、まだ街頭テレビがにぎわっていたころ白黒のテレビを買いました。学校から帰ってくると、近所の人が何人か来ている様子なので、びっくりして家に入るとテレビが居間に置いてあり、画面には歌舞伎かなにかの場面が映っていたのを思い出します。

 初期のころのテレビは、ドラマもスポーツもすべて生放送なので、ハプニングがそのまま映し出されました。画面を人が横切ったり、出演者の上に突然何か落ちてきたりということもありました。なにがあったのか、出演者のみんなの笑いが止まらなくなってメチャクチャになった番組を見たこともあります。そんなとき「しばらくお待ちください」と書かれたボードが人の手とともに画面に差し出されて、番組がしばらくそのまま途切れるなどということは珍しいことではありませんでした。子どもたちに、カチャカチャと回してチャンネルを変えたんだよ、と話すと「へえー、おもしろそう」と言っていました。

 もちろん、そのテレビで、力道山やルー・テーズ(わたしは力道山よりも好きだった)の試合を見たり、皇太子(現天皇)の婚礼パレードもみました。当時の社会党委員長浅沼稲次郎が、わたしと同年の山口二矢(おとや)という右翼少年に壇上で刺殺されるというショッキングな場面をたまたま見てしまったりもしました。60年安保に際して、友人たちと高校内に安保研究会を立ち上げて国会デモに行ったのも、テレビで見た大学生たちの真剣に議論する姿に動かされたからかもしれません。

 しかし、もし、タイムマシーンがあったとしても、わたしは決してあの時代に戻りたいとは思いません。もちろん、当時の友人たちを初めとして、両親や祖母、近所のおじさんおばさんなど、今は亡きなつかしい人々や記憶の中の風景に再会したいとは思いますが、自分自身があの時代をもう一度生きなければならないとしたら、それは願い下げにしたいと思います。大人の世界は発展途上のエネルギーに溢れた時代であると同時に、いじめられっ子がいじめる側に回り始めたような、どこかウソっぽい時代の空気が漂っていたような記憶があります。敗戦によっていじけていた気持ちが、経済成長につれて周囲の国に対しても少しずつ傲慢になっていった社会の動きが、そういう空気を感じさせたのかもしれません。また、わたし自身についていえば、内面の葛藤に苦しみながら煩悶していた時期でもあったからです。

 その意味では、「ALWAYS三丁目の夕日」という映画が、仮によい映画だったとしても、むしろ時代の空気を忠実に写している映画ならなおさら見たくないのだろうな、と思います。室生犀星の詩をもじれば「青春(ふるさと)は遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・」なのかもしれません。

 新しい年が希望に満ちた年でありますように。来年もよろしくお願いいたします。


**12月26日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第211回 センセイ
 町を歩いていると、たまに「せんせー」という声を耳にして振り返ってしまうことがあります。多くの場合、ほかの人にかけられた言葉だということがわかって、自分自身のその反応にヒソカに赤面することがあります。まれには、現塾生だったりOB・OGだったりその親だったこともありますが、人ごみの中などで声をかけられると、すこし回りを気にしてしまいます。

 この心理は摩訶不思議なもので、たとえていえば、つまらないことをボーッと考えている横顔を人に見られていることに気がついて、取り立ててどうということはないのに、なぜか心の中を見透かされたような気持ちになって、ややうろたえた受け答えをしてしまう、そんな感じかもしれません。

 これまでにも書いているように、現在の塾生たちは、わたしたちのことを「おじさん、おばさん」と呼んでいる子がほとんどです。子どもたちがそう呼ぶので、親たちも多くは「おじさん、きょうちょっとご相談に行ってもいいですか?」などと言います。一部の子どもと親からは、“勉強を教えている人”という意味で、世間の通例どおりに「せんせい」と呼ばれますが、これは、塾という仕事が「何かを伝える、教える」という行為が主である以上、わたしとしてもそれほどの抵抗は感じません。

 わたし自身も、これまでに月謝をお支払いして習い事をしたことがあります。そのときは、自分より年少であっても「先生」と呼びました。“習う”ということは、ある種の傾斜関係が必要だというのが実感だからです。

 世の中には“センセイ”と呼ばれる職業がいろいろあります。1.学校教師をはじめとして技芸の師匠や塾・家庭教師などなにかを教えることを業とする人、2.医師、弁護士、美容師、臨床心理士、税理士、司法書士・・など資格を表す“〜師〜士”3.特殊な能力や知識を持っているとみなされる作家・書家・画家などに加えて評論家や政治家などの“〜家”と自称他称で呼ばれる人々、の3つに大別できるように思います。

 これらの職業を挙げてみると“センセイ”という呼称が不思議な響きをわれわれに与える理由の一端が見えるような気がします。なぜ不思議な響きをもたらすのかについては、もうすこし緻密な分析をしてみるとおもしろいと思いますが、それは、わたしの役割ではなさそうなので、もうすこしわたし自身の体験を書いてみることにします。

 それまではわたしを通称で呼んでくれていた人から、わたしがある失態をしたことに関して「先生」という書き出しでメールをもらったことがあります。わたし自身の失態が原因であるにもかかわらず、ひどく情けない気持ちになったことがあります。その人とは、「先生−生徒」の関係でも生徒の親という関係でもなかったので、たぶん、わたしの気持ちの中に“誹謗された”という気持ちが生じたのだと思いました。でも、その後よく考えてみると、当のご本人は「もうすこししっかりしてくださいね」という軽い叱咤の気分をまじえての「先生」だったのだろうと思い当たりました。わたしのほうが「先生」という呼びかけに対して過敏に反応したのかもしれません。しかし、その後現在までのあいだ、内容的にはともかく、業務上では同じ失態を演じなくてすんでいるのは、あの「先生」という呼びかけの効果であったと、ヒソカに彼に感謝しているわたしです。

 子どもたちが学校教師を話題にするときの呼び方に、その教師に対するその生徒の心情が読み取れることがあります。わたしたちの時代から「○○」と呼び捨てにすることはありました。親たちの中には、それを耳にすると「○○先生と言いなさい」と叱る人もいますが、これは、かならずしも○○先生を低く見ているわけではなく、子どもたち同士のあいだでは一種の“照れ”が混じった感情で発せられることが多いようです。

 もっぱらニックネームで登場する教師もいますが、これも好意的なつけ方をされている教師もいれば、あきらかにからかいや侮蔑の気持ちが混じったものもあります。そういうニックネームを子どもたちから聞くとき、「言っている人の品性が疑われるからやめようね」と言うと、きょとんとした顔をする場合があるます。初めにつけた生徒には悪意があったのでしょうが、言っている子どもたちは単なる“呼び名”以上のものではないようです。

 最近では、「○○T(teacher)」という呼び方に、その先生に対する親しみを感じることがあります。子どもたちのあいだの話でも、まれに「○○先生」と呼ばれる先生がいます。よく聞いてみると、親しみというより“尊敬”の気持ちが感じられます。

 「センセイ」という呼称ほど、さまざまなニュアンスと響きがあって人をエラそうにもコケにもするものはないだろうと思います。とくに学校教師に対してのそれは、「世間知らず」「ルールを守らない」などの一般論を修飾語としてつけることが世の中に受け入れやすいようです。でも、多くの人のそういう感覚が新教育基本法成立の大きな力になったことを忘れてほしくありません。心を病んでいる教職員がこの8年で倍増し、休職教員の半数以上を占めるようになったといいます。この原因がなにであるか、そして、この現象が、今後子どもたちにどのような影響をもたらすのかについても深く考えてみる必要があると思います。

 法律が成立するまでに必要なのは、それにかけた時間や手続きなどではなく、有権者一人一人の深い理解と洞察です。タウンミーティングの多くが“やらせ”であることは、今回に限らず周知の事実だからです。

 教師や学校をランク付けし、愛国心の明文化などさまざまな規制を強める教育基本法が成立しました。学校の先生たちを一色に染めようとした結果どのようなことになるか、「先生という人種は・・・」と言い続けてきた人たちの思い通りにはなったとしても、次代の子どもたちには、これまでよりもさらに悲惨な学校生活が待っているような予感がします。


**12月19日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第210回 “いじめ”の本質?
 奥の洗面所でツレアイがうがいをしている音が聞こえてきます。すると、「うわっ、キタネー」と叫ぶ子がいます。わたしがうがいをしているときも同じであるようです。1人が言えば、他の子も同調します。わたしは「うがいと手洗いは一番いい風邪予防なんだよ。」と言います。以前は、そこで「なんで汚いと思うの? うがいをしないほうがよほど汚いよ。のどの奥のほうまで何度もうがいをしないと、風邪菌は取れないからね」」などと言っていましたが、子どもたちにとってはとりあえずふざけたいだけなので、“正論”を言ったところで意味がありません。

 洗濯が間に合わなかったのか、A君が兄のお下がりのグリーンのジャージを着て塾に到着しました。「みどりのジャージ、キモいよ。」とだれかが言うと、回りの子も「キモい、キモい」とはやし立てます。当のA君は「いいじゃないかよ。オレのうちのジャージなんだから・・」と顔をやや赤くしながら言います。おしゃべりモードに入りそうなその一瞬に「さあ、目の前のプリントを見て」と声をかけると、からかいの声は止んでエンピツを走らせる音が聞こえます。

 ひと区切りついたところで、A君は「まったくひどい奴らだよね、おじさん」とすこしニヤニヤしながら言います。「Aだって、もっとイカってもいいんだぞ。」と言うと、「こんなんでムカついていたら、生きていけないよ」と頼もしいことを言います。他の子たちも、「おじさん、Aとは、小学校のときからこんなこと言い合っているんだからだいじょうぶだよ。でも、なかにはマジでキレるヤツもいるからなあ。そういうやつには言わないよ。」と、こっちもなかなかのものです。ついでに、「いじめられている子はいるの?」と聞いてみると、B君やC君が口々に「いるよ。でもさ、集団でボコられたり、完全シカトされたりしているならかわいそうだけど、さっきのAに言ったみたいなジョーク(?)で学校に来なくなっちゃうヤツって、わけわかんないよ。こっちがびっくりしちゃうよ。」と言います。

 「どっちにしても、いじめるヤツが絶対に悪い」と言いかけながらも、「う〜む」と考え込んでしまいます。「いじめられていると感じれば、それが“いじめ”である」という“いじめの定義”に異論はありませんが、こういう定義だけで、苦しくて悲しくてツラい思いをしている子が救われるとはどうしても思えません。B君やC君が言っていることにも耳を傾ける必要があるようです。

 「でもね、同じ中学生でもすごく体力があるヤツとすぐ疲れちゃうのがいるよね。勉強だって、あっさりわかっていくのもいれば、君らみたいに苦労するのもいる。(ここで「ヒデぇ〜、いじめだ〜」の声)。だから“ジョーク”に強いやつと弱い子がいてもおかしくないと思わない?」と言うと、今度は彼らのほうが「同じこと言われても、言い方だとか、だれに言われたかでも違うし、その日のこっちの気分でも違うよな」と、これほど整然と話したわけではありませんが、彼らもまた、すこし考える様子です。

 わたしが子どものころの話になりますが、お菓子屋さんをやっている女の子の家に男の子たちが集団で“遊びに行く”という話を聞いたことがあります。男の子たちが来るのは、お菓子が目当てなのははっきりしていました。それがわかっていても、軽い知恵遅れがあって友だちがあまりいなかったという当の女の子や両親は、とても喜んでお菓子を配っていたと聞いて、複雑な気持ちになったことがあります。それが比較的“育ちがよい”とされている学校の男の子たちだっただけに、“庶民の学校”に通っていたわたしはちょっとした“義憤”を感じた覚えがあります。この例などは、気分としてはかなりよくないのに、当事者たちにとっては“いじめ・あそび・からかい”のどれでもないのかもしれません。

 もっとも激しく過酷ないじめがあったのは軍隊だ、と従軍経験者から聞いたことがあります。これはどこの国の軍隊でもおなじようなもので、上層部からの規律遵守の通達が厳しいほど、残酷極まりないいじめやしごきが巧妙に隠されるといいます。でも、それが原因で自殺した兵士の話はあまり聞いたことがないそうです。日々死に直面している兵士たちにとって、自ら死を選ぶなど到底考えられないことだったのでしょう。

 このところ、急激に報道が少なくなった“いじめによる自殺”にしても、死ぬこと以外に苦痛から逃れられないと思い詰めた結果のこともあったでしょうが、自分が死ねば、テレビなどでこんなに騒がれて、自分をいじめたあいつらに復讐できる、と思い込んでのこともあったかもしれません。グチャグチャした気持ちをすっきりとリセットしたいという衝動からの死もあるかもしれません。死を選んだ子たちよりも、たぶんはるかに過酷なツラい日々を生き抜いた人だってたくさんいたはずです。

 “いじめの本質”などわかっている人がいるのでしょうか。したがって“いじめの本質に迫る”などということができるとも思えません。これまでにも何度か書いてきたように、個々の人間の営みについては、そこにかかわる人たちが個別、具体的に取り組んでいかなければならないと考えます。

 それにしても、出席停止や学校評価などの“いじめ対策”を提言している人たちは、仮に、彼らが定義している“いじめ”が学校から“見えなくなった”としたら、どんな恐ろしいことになるかを想像しないのでしょうか。


**12月12日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第209回 教育再生会議
 新・教育基本法は、とうとう衆議院を通過してしまいました。たぶん、参議院もクリアして、成立するのは時間の問題です。現場に対する国の関与(新法第16・17条)を大幅に強め、“市場原理”を学校現場に導入し、“真の愛国者”を自認する人たちでさえ首を傾げる“愛国心の涵養”を掲げた新法が、これからの社会にどのような変化をもたらすのか大変不安です。しかし、これも、選挙を通じて多くの国民が選択した結果です。

 ところが、首相官邸の強力な意向で始まった「教育再生会議」が、この新教育基本法の成立前から、早くもつぎつぎに新提言を打ち出し始めました。はじめに、「いじめ問題に関する提言」、つぎに「教育現場の管理強化素案」です。まさに、上記の“国の関与”を先取りして実現しようとする構えです。のんびりした話を書こうと考えていたわたしは、これらの提言を読めば読むほど、これからの学校の恐ろしい光景を想像して背筋が凍る思いです。

 「いじめ問題に関する緊急提言」については、「子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!」のなかで、大関直隆さんが書いてくださっているので、わたしは、学校再生分科会が出した「教育現場の管理強化素案」について考えてみることにしました。

 いずれにしても、一見かっこいい“正義の旗”を掲げているようにみえますが、どの項目をとっても、もしこれらが実現すれば学校の“息の根”が止まるのではないかとさえ考えます。

 この素案には、大まかに分けると次の3つのことが提言されています。
【教員の資質向上】
 教員評価に保護者などが参画▽良い教員は、給与・昇進・手当てなどで優遇▽不適格教員を排除するため、あらゆる制度を活用▽不適格教員排除に役立つ教員免許更新制とする▽不適格教員は教壇に立たせない。

【教育委員会の見直し】
 教育に対する国の責任を明確にする▽校長の権限や教育委員会制度のあり方などを抜本的に見直し▽一定の要件を満たす市町村教委に人事権を委譲▽教委委員や教育長の人選の見直し▽教委、学校に対する評価、監査機関の設置検討。

【学力向上】
 学習指導要領を改訂し、ゆとり教育を見直し▽教育内容についての学校権限の強化▽基礎学力の強化▽全国学力調査の全校実施を確保。
 
 まず、全体として国による強い“教育支配”の意志が鮮明に表れています。これは、新教育基本法16条が、旧法の「・・・国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」という文言をなぜはずしたのか、その理由がはっきりと示しています。一つ一つ検証していきます。

【教員の資質向上】
 子どもや保護者による教員評価が“制度”として取り入れられることがどれほど不適切なことか、教員に対する強い批判を持っている人たちでさえ感じるのではないでしょうか。「〜という声が出ている」「アンケートに〜と書いてあった」という理由で評価されるとなれば、授業であれ、子どもとのかかわりであれ、真摯な気持ちでなにかを伝えることができるでしょうか。“制度”としての教員評価は、教員や学校に対して個別に異議を述べることとは本質的に違います。

 “不適格教員”排除についての熱意はすさまじいものがありますが、わたしが子どもたちや教員、保護者などを通してみえる“不適格教員”とは、心身のバランスを崩していて、本人も教員でいることが苦痛であるような人です。こういう人こそは、まず子どもたちのために、そして本人にとっても退職することが望ましいとは思います。しかし、この提言の方向では、むしろこの意味での“不適格教員”が増えるだけです。それを承知の上での提言であるならば、これは官邸サイドのある企てを嗅ぎ取らざるを得ません。

【教育委員会の見直し】
については、まさに教育の国家統制の影を感じます。まず、人事権をできるだけ現場に近いところに移した上で、国の方針に沿わない教委や学校には国が指導・監視をするというもので、これは、戦前の軍国教育を確実なものにした視学官制度を視野に入れているのではないかと考えられます。

 これまで政府が進めてきた「小さな政府」「地方分権」の流れに逆行してまでこのような政策を提言させるところに、これもまた首相官邸の強い意志を感じます。

【学力向上】
1990年以降の社会構造の変化が大きな要因をなしていると思われる学力低下問題の原因を“ゆとり教育”に求め、国語、数学(算数)、英語、理科の授業時間数を補習授業も含めて増やす、ということです。これらの重点的な科目の中から社会科の授業が除かれていることも象徴的です。社会に関心を向け、時代を見通す力を養うことは、次の時代を築く子どもたちには欠かせないことですが、これを軽視する提言の含意はいったいどんなところにあるのでしょうか。じつは、これに代わって「ふるさとの時間」の導入や、ボランティア活動の実施、「家族の日」の創設などが提言されています。国家のために一身をささげる人材を育成しようとしている意図が読み取れます。

 また、来年4月に実施される全国学力調査の結果を夏休み前の7月に前倒しし、学校評価を強め、上の2つの提言と併せて学校現場を強力に管理することになりそうです。


 今回は、胃の痛くなるような思いの中で書くことになってしまいました。冒頭にも書いたように、これは多くの国民が望んでいたことなのでしょうか。わかりやすくカッコよいワンフレーズや、“正義の旗を掲げる”ようにみえることばに振り回されて、気がついたら後戻りのできないところまで来てしまった、ということにならないでしょうか。みなさんからもいろいろご意見をいただきたいところです。


**12月5日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第208回 レッテル貼りと一般化の怖さ
 塾の子どもたちのなかには、早めに来たときや帰り際などに、学校の先生やクラスメイトの悪口やうわさ話を口にする子もいます。わたしたちはふたりとも、それがとても苦手なので、「塾では、そういう話は禁止」と言っていますが、それでも、そういう子たちにとっては、一種のストレス発散の好機らしく、門外に出てまで話をしているときもあります。まさに、大人たちの赤提灯話や井戸端会議のようです。

 あるとき、「学校の友だち同士だと、いろいろまずいこともあるし、塾でしか話せないこともあるから、自由に話をさせて」というので、塾が終わったあと時間制限をしてOKを出したことがあります。わたしは、そばで仕事をしながら聞いていてもよいということでした。「おじさんはほかの人には言わないだろうからね」と、妙な信頼をしてくれました。すこし前のことではありますが、約束でもあるので内容は書かないことにします。

 その中で「○○ってやつマジきもいんだよ。」とか「ウチの担任チョーうざったい」という話がよく出てきます。話が一段落したころ、わたしが「その○○という子、どんなところがきもいの?」と聞くと「えっ、どんなところって? きもいからきもいんだよ。」と不思議そうな顔です。具体的に、あんなところがイヤだとか、こんなことで迷惑しているとかいうことではなさそうです。そこで「その子に向かって直接言うの?」と聞いてみると、「言うよ。だってきもいんだもん」「言われたとき、その子はどんな顔する?」「べつに・・。見てないもん。」すると、別の子が「おじさんもそういうこと言うんなら、口を出さないで」とシャットアウトされてしまいました。非難されていると感じたようですが、わたしの心配だけは伝わったようなので、約束の時間まで別室に退散しました。

 じつは、この話はもう数年前のことです。現在では、携帯メールでのやりとりで済ませてしまうためか、わたしとのこんなやり取りさえなくなっています。その分だけわたしたちとの“摩擦”が少なくなるのと比例するように、関係もウスくなってきているようで、一体どんなことになっているのか心配です。そして、ことばだけがどんどん過激になってきています。ただ、「過激だ」と思うのはこちらの感覚で、使っている当の子どもたちはそれほど大変なことを言っているとは考えていないようです。

 たとえば、相手に対する拒否のことばとして「イヤだ」と言っていたのが、「近くに来るな」「死ねっ」「死んでいいよ。」「死ねばいいのに」「お願いします。死んでください。」など、書いているだけでも気分が悪くなるほどどんどんエスカレートしていくのと反比例するように、じつに軽い気持ちで口にします。プリントにエンピツを走らせながら隣の子に「あした死ねば?」と口走ったりします。こちらはキッとなって聞きとがめますが、本人は自分がなにを言ったかわからないようすです。言われたほうも何事もなかったかのように聞き流しているように見えるので、こちらがムキになってとがめても逆効果です。「ことばに対して敏感に反応する子は、それだけでもものすごく傷ついちゃうよ」と言うにとどめておきます。

 観察していると、子どもたちの「きもい」「うざい」「死ねっ」などのことばも、彼らにとっては、ことば遊びか決まり文句を言っているに過ぎないという感じです。わたしたち大人からの「どんなところがうざいの?」「ほんとうに死んだらいいと思っているの?」などという問いかけは、ほとんど無意味のようです。実感を伴っていないという意味では、中1ぐらいの男の子が覚え立ての性的なことばを連発するのと同じような気がします。わたしの塾では、ごくシンプルに「人に向かってそういうことばを言ってはいけない。」としっかりと言い渡すことで、案外あっさりと口にしなくなることが多いようです。

 ちょっとむずかしい数学の問題に出くわすと「こんな問題イジメだあ〜」と叫びます。「おじさん臭いよ。」と1人が言うと、他の子も鼻を押さえるしぐさをします。「ほんとうに臭いのかなあ」とツレアイにチェックしてもらうと「ぜんぜん臭くない」と言うので、言った本人にあらためて聞いてみると「おじさんって臭いんでしょ?」と言います。“おじさんと呼ばれる人種は臭いもの”というレッテル貼りがあるようです。

 子どもの世界は大人社会の反映だと言われますが、気がついてみると、われわれの社会はそういうレッテル貼り(ラベリング)や決まり文句が溢れています。政治の世界でも、わかりやすい“ワンフレーズ政治”が幅を利かせているし、「イジメによる自殺」と見られる事件が発生すれば、犯人捜し悪者探しに取材競争が過熱し、その劇場的なモードの中で、さらに同じようなことが誘発されるという悪循環があります。

 「PであるならばQである」という命題は、Pという集合の要素が例外なくQという性質をもっていることが確認できなければ成立しないということは、論理の初歩です。それなのに「子どもは純粋だ」「教員という“人種”は世間知らずだ」という一般論が受け入れられやすいのは、個別具体的にみていくことが面倒な人たちにとっては、これまたわかりやすい決まり文句になるからでしょう。「〜のときの子どもは純粋だと思う」「〜をするような教員は世間知らずと言われても当然」というならば、やや強引ではあってもまだしもある事実を伝えている場合があります。

 「政治は〜である」「愛国心はだれでももっている」という言い方も困りものですが、これは、言っている人のいわばモノローグに近いものと考えれば害は少ないものです。ところが、主語が人間のあるカテゴリーを表すとき、非常に危険な毒をもってしまうことがあります。まさに子どもたちが言っている決まり文句、ラベリングそのものです。そして、この種の「わかりやすさ」「受け入れやすさ」を意識的あるいは無意識的にマインドコントロールする機能を内在的に持っているのがテレビという媒体です。わたしの周囲にも新聞を購読せず、テレビだけが情報源であるという人が増えていることから考えても、われわれの社会に蔓延するラベリングや一般化、シンプルでわかりやすいことばが増加していることが感じられます。わたしはひそかに“思考停止社会”の到来ではないかと考えています。

 われわれの社会が、今どのような地点に立っているのかを深く考えないわけにはいきません。


**11月28日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第207回 おたがいさま
 あるお母さんが体調を崩してしまって入院・手術ということになりました。お父さんは仕事を休めないうえに子どもがまだ小さいので、同じ年頃の子を持つお母さんたちが交替で面倒をみていました。聞くところによると、みんな「おたがいさまだから」ということで気持ちよく引き受けていたようです。

 ところが、入院する当のお母さんのほうの気持ちの負担が大きくなってきたといいます。よくしてもらえばもらうほど「申し訳ない」という気持ちとともに負担感が重くなってくるようです。こんな場合、多くの人はだれかにお金を支払って割り切りたいと考えます。そうすることで負担感が軽くなるからでしょう。

 このことに関連して思い出すことがあります。わたしが18歳のときに父親が他界したことは以前にも書きました。大学進学を断念しようと考えていたわたしは、父親の友人たちから「大学に行きたいか?」と聞かれました。「はい、大学でやりたいことがあります。」と答えるわたしに「きみの父親はなんの遺産も残さなかったから、これは遺産だと思って受け取りなさい。」と言って、有志を募って集めてくださったお金をいただきました。当時としてはかなりまとまった金額で、わたしたち兄妹3人の現在は、この“奨学金”のおかげであると考えています。

 「これは、たくさんの人からいただいたお金だから、返す必要もないし返しようがないよ。人間はみんな“おたがいさま”で生きているのだから」と言ったのは、2,3人だけでも充分に資金を出し合えるほどの経済的余裕のある方たちでした。それを、あえて多くの人からの募金の形にしたのは、わたしたちに対する深い配慮であることを知ったのはかなり後のことでした。わたしたち3人の兄妹は、その多くのみなさんの期待にこたえられるような生き方はできませんでしたが、たくさんの方たちの温かい視線を背中に感じながら生きてきたと思います。そして、その発起人名簿に名を連ねておられる方々のほとんどは、わたしの知る限りすでに鬼籍に入っています。

 いつだったか「借りたら返す」ということを書いたことがあります。この場合は「やったことの後始末と責任を取れることが、次のステップへの原動力にも、自分の行動に対する“誇り”にもなる」という意味でした。「いただいたものをお返しする」というならば、直接お返しする人たちはすでにこの世にはいません。したがって、すこし大げさな表現ながら「いただいたものをどのようにお返しするか」は、わたしにとってのライフテーマとでもいうべきものです。

 この思いは、塾の子どもたちとの関係の中で、折につけ形を変えながら表れてきました。おこがましい話ですが、次代を生きる人たちである目の前の子どもたちと精一杯かかわろう、というのもそのひとつです。

 あるとき、われわれの実の娘のように出入りしていた塾OGが、しみじみとした口調で「わたしは、この家でこんなにしてもらって、いったいいつ恩返しができるのだろう」と言うのを聞いて、いつもは能天気な顔をしてわが家のようにふるまっている子が、そんなことを考えていたことにふたりともびっくりしてしまいました。そのとき、わたしは「ぼくたちだって、いままでたくさんの人たちのおかげで生きてきたんだ。きみも、大人になったら自分の子どもや次の世代の人たちにその思いを託せばいいんじゃないかなあ」と言いながら、あの発起人の方たちも同じようなことを言いたかったのだなと思い当たったものです。

 以前のコラムにわずかに登場したことのあるアメリカ青年のJ君が、ある日のわたしとの会食の後「いつも先生におごってもらっているから、きょうはぼくが」と言い始めました。自分の夢のためにいっしょうけんめい倹約をしているのを知っているわたしは、それを制して「きみがそう思うのなら、いつの日か、今の自分と同じような境遇の自分の後進たちにそうしてあげればいい。ぼくも若いときにそうしてもらってきたから」と言ったら、彼は「そうかあ、いいことばを聞きました。なんか元気が出てきたなあ。それアメリカに帰ったら実践します。」と喜んでくれました。

 高校時代の努力の成果で、一般入試ではまったく手が届かないような大学の工学部に指定校推薦で合格してしまったS君が「不安だから、大学生になっても塾に来ていいですか?」と言ったとき、「大学では、たぶんほとんどの級友がきみよりも学力が上であるはずだ。だから、だれにでも教えてもらうつもりで、みんなにお願いしてみよう。人に教えることが嫌いな人はあまりいないし、教えることで自分の理解も深まることがわかっている人はみんな快く教えてくれるはずだよ。先生だって研究室に押しかけて質問をしにくる学生に対していやな顔はしないはずだから。」と言いました。元来、素直な彼はその通りに実行して、たくさんの友人を作り、そのうえ、気がついたときには成績表に「A」がずらりと並んでいました。いまでは、彼は「ありがとう」ということばが骨の髄まで染み込んでいるような青年になっています。

 だれかになにかをしてもらったときに、「やってもらってトクをした」という気持ちの人、「気持ちの負担になるから、早くお返しをするか、今後はお金を出してやってもらえば気がラクだ」という人もいます。でも、わたしは、こころからの「ありがとう」があれば、それだけでいいのだと思います。冒頭の話のお母さんも「みなさん、ありがとう」とたくさんの好意を受け取ればよいのでは、と思います。


 だれかのためになにかをしたとき「やってあげるばかりで損だ。恩義を目に見える形で返してほしい。」という気持ちでいるよりも、「おたがいさまだよ。役に立てたのならうれしい。」と考えるほうが、何よりも自分自身の元気が出るはずです。

 なんだか、柄にもなく“道徳家”のようなことを書いてしまいましたが、良質なコミュニティの復活のポイントは、“おたがいさま”という気持ちにあるのではないかと考えているからです。


**11月21日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

第206回 ダイレクトな愛情
 このところずっと考えていることの一つに“ダイレクトな愛情”があります。このことばは、夏の長いお休みをいただく前に何度か使ったので、覚えている方がおられるかも知れません。“建て前でなく見栄でもなく打算でもなく惰性でもなく、わが子に注ぐ愛情・まなざし”とでも言ったらよいかもしれません。

 これまでにも書いたとおり、わたしたち夫婦には子どもがいません。「親の気持ちがわかってたまるか」と言われれば口をつぐむしかありません。しかし、この数十年間、ほんとうにさまざまな親子と接してきて、大半の親御さんのなかに、この“ダイレクトな愛情”を見てきました。「そんなことはない、やっぱり子育ての過程では、見栄もでてくるし、子どもの将来のことを考えれば打算もはたらくし、なんとなく惰性で物を買い与えてしまうこともあるし、・・・・」と言う人もいます。

 ところで、ついさきほどまで何人かの中学生が自主勉強に来ていました。一通りの勉強が終わったところで、1人が「ウチの親はオレのこといつまでも子ども扱いにして、すごくいやだ。」とか「ウチの親は、一度モンクを言い出すと次々に広がっていってむかしのことまで言い出すよ。」と口々に言い始めました。そこで、前回書いた電車内でのエピソードを話してみました。すると「いくらなんでも、そんなことは言われたことないなあ」「オレの友だちで、いつも『あんたなんか生まなきゃよかった』って言われているやつがいてさ。オレだったらそんなこと言われたら生きていけないよ。」と、いささかショックを受けている様子です。「親がうるさくて、家に帰るのがつらい。」と日ごろ言っているSも「まあ、オレのことが心配らしいんだけれどさ。」とけろっとしています。

 そのエピソードの思わぬ刺激で、どの子も「いろいろあるけど、自分は親に愛されているようだ」ということを再認識したようです。わたしは、彼らが親からの“ダイレクトな愛情”を受けていると感じます。したがって、冒頭の“定義?”をもうすこし正確に言えば、「建て前、打算、見栄がちらつきながらも、“かけがえのないわが子”という意識が確固たるものであること」というべきだったかもしれません。

 今となって考えてみると、前回「1人の母」さんが「お母さんがなぜ理不尽に自分を責めるのか、どうしたらお母さんが笑ってくれるのか、子どもなりに必死に考えていたことでしょう。」と書いてくださったことにホッとし、そうであってほしいなと思いながらも、ちょっとちがうかな?と考え始めています。あのお母さんのツラさ苦しさは痛いほど伝わってきましたが、先ほどの中学生たちの親たちのような、子どもに対する“ダイレクトな愛情”は伝わってこなかったように思うからです。

 親といえども、さまざまな性格を持って大人になってきています。きちょうめん−神経質、こだわらない−だらしない、テキパキ−せっかち・・・・人の性格はTPOによってまったく逆の様相を見せます。どれも善悪の問題ではなく、その人の“傾向”とでもいうものです。その自分の傾向を変えようとしてもムリがあります。その意味で、過干渉気味であったり、放任気味であったり、多少理不尽であったりすることは、さまざまな親子関係に触れてきたわたしには、それほど決定的なこととは思えません。

 離婚を決める家族会議に立ち会ったことがあります。「どっちといっしょに暮らす?」と迫る両親に、当時小4だった女の子は「お父さんとお母さんは他人同士でも、わたしにとってはそれぞれたった一人のお父さんとお母さん。どっちが悪いなんて関係ない。わたしは、施設でもどこでも入って、それから1人で生きてゆく」と泣きながら宣言しました。両親が離婚を思いとどまったのは、この一言でした。

 ほかにも両親が離婚して、父または母と暮らす子、離婚はしないまでも崩壊家庭といわれる家に育った子、そのほかにも、さまざまなしがらみを抱えた子どもそして親と出会ってきました。そういうことが、子どもたちの精神形成になにかしらの陰を残すのは当然ですが、それはかならずしもマイナスのことばかりではないし、マイナスの要素があったとしても決定的な要因であったとは思えないのです。

 もう、高齢者といわれるような年齢になったのに、容貌に生まれつきの異形を抱えていた子どものころ、母親からの「あんたは、そんな顔に生まれてかわいそうだったね」という一言にいまだに苦しんでいる人もいます。夫婦ゲンカの後、母親が自分を見つめてつぶやいた「あんたさえいなければ、別れられるのに・・」ということばが深い傷になって、結婚しないままで一生を終えた人もいます。また、父親から「おまえのようなバカがオレの息子だなんて・・・」と言われたことが、その父親が要介護状態になっても親身になれないと嘆いている人もいます。

 この親たちのことばは、表記上は「あんたがいるからがんばるよ」とか「おまえはバカな子だ」と大差ないように思えますが、実際に発せられたことばが子どもの心に与えた打撃の大きさは計り知れません。他ならぬ親によって、自分の存在を否定されることほど悲惨なことはありません。教師や友人からのそれとは比較になりません。

 人間は不完全な存在です。自分の不幸を嘆き、境遇を呪い、そういう自分にした相手を恨み、ということは充分に理解できます。しかし、そのつらさ、苦しさを子どもに向けないで・・・と叫びたい気持ちが、前回書いたわたしの自責の念の元にあります。

 かつてよりもはるかに複雑な社会の中で、孤独な子育てを強いられている人が多くなっているといいます。そして、だからこそ、だれかを責めるのではなくみんなで知恵を出し合っていくようなサポート体制はできないものかと考えています。


**11月14日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

全265件中  新しい記事から  51〜 60件
先頭へ / 前へ / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / ...16 / 次へ / 最終へ