す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。 「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。 ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。 |
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第255回 “公教育”の意味を再考する | ||
リクルート出身の藤原和博氏が校長を務める東京都杉並区立和田中学校で今月から始める予定だった進学塾SAPIXによる有料授業「夜スペシャル」について、都教委は、いったん「学校教育の機会均等などの観点から疑義がある」などとして実施の再考を求めました。しかし、石原都知事の「家庭の経済状況に応じた授業料設定などの調整をすれば実施は可能。ポジティブに、子供のために足りないものを補うのはいいことだ」という具体性のない意見表明を受けて「指摘した問題が解消されれば開催可能」という、これまた意味不明の理由で これを撤回しました。
このニュースは、公教育と私教育、公立学校の意味、教育行政と学校現場、学力を上げるとは何かなど、さまざまなことを改めて考えさせられる契機になりました。(例によってテレビはまったくチェックしていないので分かりませんが)新聞・ラジオ・ネットなどのメディアを通して聞こえてくる論調を、わたしなりに分類してみると、 賛成意見: 1.“吹きこぼれ”対策をするのも学校の役割 2.勉強の機会を与えることはよいこと 3.民間から校長を登用した時点で、各学校の独自性を認めた 4.塾の授業のほうが楽しいし、塾の先生のほうが能力が高い 反対意見: 1.学校や教師の無能力を示すもの 2.憲法26条違反 義務教育の無償原則 3.SAPIXの営業戦略に乗っている 4.子どもの負担が大きい などがありました。 結論から言うと、この和田中の試みは、3つの点で問題があると考えます。 第1の問題点は、反対意見の2に挙げられているものです。憲法26条2項後段では、「義務教育は、これを無償とする」とあります。これは、昭和39年の最高裁大法廷判例でも、給食費などの付随的な費用については応分の保護者負担はあるとしながらも、「この条項の無償とは、授業料不徴収の意味」としています。ただし、私立学校は学校教育法6条で除外規定があります。「和田中地域本部」が主催するのだとしても、区立中学である和田中が、学校施設と教員を提供して有料の“授業”を行うことは違憲で、教育基本法第5条4項違反です、都教委の初めの判断は教育行政として当然の結論でした。それが、知事の意見表明で、いとも簡単にくつがえってしまうところに問題があります。もっとも、年商23億円といわれるSAPIXからすれば、これだけ話題に取り上げてくれれば、たとえ授業料無料でも、充分に採算が見込める取引であることは言うまでもありません。 第2の問題点としては、この“夜スペシャル”が、教員と塾講師が共同でテキストを作り塾講師が授業をするという形で、進学塾が関与することです。上記の賛成意見の4のように、「塾の授業のほうが楽しい」というのは、1.週2,3回短時間の非日常であること、2.目的が明確なほぼ同レベルの少人数が対象であることなどを考えると、あたりまえのことです。また「塾の先生のほうが能力が高い」というのは、一般論としても成立しません。進学塾のベテラン講師を学校の臨時教員としてある程度の期間やってもらえば、それが証明できるはずです。さまざまな教務・雑務を抱えた上、レベルも傾向も家庭環境もまちまちの今の時代の生徒たちを、1年間自分の授業に引きつけておくことは、ほとんど授業だけに専念すればよい塾の講師にとっては至難の業です。すくなくとも、わたしは自信がありません。これは、学校教員との優劣の問題ではなく、置かれた状況の違いだからです。 また、進学塾では、進学実績を上げることが至上命令であるので、短時間に多くの問題をこなすための“効率のよい解法”を教えます。近年では進学塾に通塾経験がある学校教員も増えているので、学校の授業やテストにもそういう傾向が見られます。たとえば、数学の2次関数の変化の割合を出す簡便法を教えたり、英語のlook forward toという熟語のように、私立でしか出題されない迷わせ問題を取り上げます。この種のことは、わたしの塾生たちが「進学塾に通っている友人から教わった」という“解法”の多くに見られます。わたしは「意味を分かって使わないと混乱するよ」と言って、それらを封印することもあります。トップクラスの生徒はともかくとして、多くの生徒たちは、それらをそのまま“覚えこもう”とするので、ごく基本的な問題を解く際にも混乱していることがあるからです。 最後に、この企画が、藤原氏という、ある意味で特殊な管理者だからこそ成立した点です。藤原氏は、リクルート時代からアイディアマンとして知られ、和田中校長となってからも「よのなか科」の創設(これは、わたしも大いに刺激を受けた)、四季制の導入、土曜寺子屋(ドテラ)の実施、いじめ問題への取り組みなど、ユニークな活動をつづけています。わたしが挙げた上記2つの問題点を仮に不問にするとしても、このようにカリスマ性があり、力のある管理者のもので成立した企画は、その後、ごく普通の校長に引き継がれた場合、うまく機能しないばかりか極度に混乱しがちであることを、何人かの学校教師から聞いています。 じつは、本論とはビミョーにはずれるのですが、この問題についての、さまざまな人の意見を調べる中で、わたしが特に注目したのは、元中学教師が「どこの学校でも、落ちこぼれ対策と問題行動指導、学区の夜間パトロール、PTA対応、部活指導などに追われているので、満足な授業準備ができない。その上、できる生徒のケアともなると身が持たない。塾の先生に面倒を見てもらえるのであれば助かる」という賛成意見でした。この意見の中に、多くの中学で、教員たちが疲れ果てて自信を失っている現状が垣間見え、これこそが、子どもたちにとっても社会にとっても大きな問題であると考えます。 **1月15日(火)掲載**
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第254回 年賀状 | ||
遅まきながら、あけましておめでとうございます。一ヶ月のお休みをいただき、おかげさまでアタマも気持ちも少しリフレッシュしました。ありがとうございました。
お恥ずかしい話ですが、わが家の年賀状が元日配達に間に合ったことはほとんどありません。今年こそはと、12月の初めにはすべて版を作っておいたつもりでした。ところが「いざ仕上げ」となってから時間が取れないまま、今年の提出期限の25日を過ぎてしまいました。あとはままよ、と30日になって仕上げ、さて印刷に取り掛かってみるとインクが乗らない、ずれる、結局31日になって手書きで仕上げる羽目になりました。事情と手順は違っても例年のパターンを繰り返してしまいました。 かくして、恒例の3が日年賀状書きと相成りました。今年は、来る予定だった年始客の訪問がなかったので、ツレアイが暮れの28日からかかりきりで作っていた五段重のおせち料理もなかなか減らないまま、のんびりした時間の流れの中での年賀状書きでした。 わが家の年賀状は、ここ数年、プリントごっこや手刷りを組み合わせての干支デザインでしたが、戌(いぬ)年だった一昨年だけは、塾OBでありアニメ作家のO君が、愛犬野々(のの)の写真を合成し、7匹の犬の一家の祝宴風景を作ってくれて大好評でした。 こんなわが家にも、今年もたくさんの年賀状をいただきました。こういう仕事をしていると、会社関係のものや儀礼的なものは少なく、ほとんどの賀状に心のこもった一筆が添えられていて、その1枚1枚の差出人を確かめ、顔を思い浮かべながら読むのは、お正月の大きな楽しみの一つです。自分のところはまだ一枚も出していないくせに「○○くんのところからはまだ来ないねえ。どうしたんだろう」などと話しているのだから、いい気なものです。 長いお付き合いの友人からの賀状は、もう何年も顔を見ていなくてもお互いの無事を静かに喜ぶ思いが、短いことばの中に込められています。一応の子育てを終えた塾のOB・OGからは、老いてゆくわれわれへのいたわりのことばが送られてきます。 そして、なんといっても多いのが子育て中の家庭からのものです。どなたも経験されているように、そのほとんどが子どもの写真で飾られています。いつの時代も、親にとって『子は宝』なのだ、と実感させられます。独身だったときには、たしか「よその家の子の写真見せられてもしようがないよ。」と言っていたはずの晩婚のNくんまでが、生まれたばかりの、まだ目も開いていない息子の写真を何枚も載せています。もう、その親たちの表情を思い浮かべるだけでも楽しくなってきます。 こうして、一度も会ったことのない子どもたちが、年賀状の写真のなかで、年々成長しているのが分かります。あの赤ちゃんだった子が、七五三の晴れ着を着て、お兄ちゃんお姉ちゃんらしく下に生まれた子を抱きかかえ、次にはランドセルを背負っている、しばらくすると、ちょっとおませなポーズを取っています。そして、さらに何年か経つと、いかにも「イヤなのに、親に強制的に撮られた」とでも言いたそうな表情で、家族写真に納まっています。 あのあどけなかったわが子を、じっと見つめ続けてきたからこそ、反抗期になり親の思い通りにならなくなった子どもたちのこともゆっくりと見守っていくことができるのだろうと、年賀状のなかでポーズを取っている子どもたちを見ながら、考えたものです。 大人びた風をして目の前にいる青年に、つい「きみは、あのときこんなにちっちゃくて、こんなことをしていたなあ」と言ってしまうことがあります。これは、どうも年寄りが陥りがちな禁句のようです。まさに“今を生きている”若者にとって、憶えてもいないころのことを言われるのは、とても心外なものです。昨年暮れ、お父さんになったJ君が2歳になったばかりの娘を連れてきたときも「はい、ごあいさつは?」と言う彼に、「うっせーな、オレの勝手だろ」と言っていた中学生の姿を重ねて思わずふきだしそうになったわたしは、ツレアイにわき腹をつつかれてしまいました。 今年80歳になる先輩からいただいた年賀状に、「日は常に新しく、人は日々古くなります」とありました。いかにも生粋の詩人らしい感慨です。しかし、次から次に成長してくる世代からのメッセージを受け取ることができるわたしは、「人も日々新しくなる」という思いをいただいているようです。 ところで、このお休みの間に、これまで書いたものをあらためて読み返す時間がありました。そして、同じようなテーマやエピソードが繰り返し出てくることに気がつきました。当然のことながら、わたしの思考力や記憶力が鈍化(今更?との内面からの声あり!)してきていることにも原因がありそうです。 振り返ってみれば、もう254回、6年近く書き続けたことになるので、能力不足は言わずもがな、経験年数ばかり多くても経験内容も豊富であるとは言いがたいわたしが書きたいことの大半は、すでに書き尽くした感があります。塾の日常は一日として同じものはないので、それを書き綴ればよいという人もいますが、子どもたちに間接的に伝わるものは、善きにつけ悪しきにつけ、相手を見て直接話したこととは異なる効果が出てきます。それはできるだけ避けたいと考えてきました。 しかし、わずかながら書きたいことも、まだ残っています。もう少しの間、駄文にお付き合いくださるよう、今年もよろしくお願いします。 **1月8日(火)掲載**
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第253回 プライドの復権 | ||||||||||
第250回「プロフェッショナル」の最後に「“誇りのもてる仕事によって糧を得ることができる社会”に近づくためにもっとも大きな障害となるのが“グローバル経済”である。」と書きました。しかし、この流れは非常に大きなもので、いくつかの国が束になっても押しとどめることはできません。この流れに肯定的な専門家の解説によれば、“グローバリゼーション”とは、「市場経済の持つ競争機能と資源配分の効率化機能を、一国経済を超えたグローバル経済という、より広い舞台の中で発揮させようとするプロセス」であって、「よりすぐれた技術の導入と生産の効率化を促進することで、社会をより豊かにさせ・・・」(野口旭著:〜グローバル経済を学ぶ〜ちくま新書より)ということのようです。
経済の活性化という視点だけから見れば、グローバル経済は、国内産業を守りさえすればよいという国際競争主義よりは、さまざまなメリットがあるようです。しかし、われわれ庶民が今後どのように維持し生き延びていくか、そして次代の子どもたちにどのようにして“誇り(プライド)をもって生きていける社会”を引き渡すか、という視点で考えると、大きな疑問と不安があります。わたしは、経済の専門家ではないので、グローバル経済の光と影については、これ以上踏み込むことはできませんが、ある意味では、戦争への途よりも大きなターニングポイントを過ぎてしまったような気がしてなりません。さまざまな偽装事件や、びっくりするほどずさんな製品管理、インフラの危機管理のなかに、すでにその兆候が見て取れます。このまま事態が進んでいけば、地道な産業社会そのものが崩壊していきます。 この流れを食い止めることができないとすれば、いったいどうすればよいでしょうか。自分の利益だけを追求し、自分の生ある間だけよければよし、と考える人たちには、どのような提言も無駄かもしれません。しかし、多くの人々は、自分の次の世代がどうなるかに思いを馳せるはずです。目の前にいる子・孫の時代が苦難の時代であることを望む人は、ほとんどいないはずです。いや、そういう不安があるからこそ、自分の子・孫が“勝ち組”に残るようにがんばっているのだ、と考える人がいるかもしれません。 しかし、事はそう単純ではないはずです。以前のエッセイに書いたように、農業・漁業などの第1次産業や生産者・流通などの現業の中で、自分の手と目と思いが届く範囲でがんばっている企業や人たちが、効率と利益率、投機と金融至上の流れにつぶされていく社会は、次代の子どもたちにとっても生きやすい社会ではありません。まともな食も、安全な住宅も、持続可能な環境も、すべて失われてゆきます。 ついさきほど、高校生のM子が「勉強なんか大嫌い、頭を使うなんてもういやだ。」とつぶやきました。彼女は、ある事情から、結果的に学年トップクラスになってしまうような高校に進学してしまい、先生たちからも頼りにされ、いつも成績がよいことを期待され、大学に進学することも当然と周囲に見られることに非常に苛立ち、傷ついているようです。本質をズバリつく感性の鋭さと、運動しているときのはつらつとしたM子の数年前の姿からは、かなり遠のいているようです。本人が言うほどには勉強も嫌いではなく、好奇心もあるのですが、好成績や大学進学を当然と考えられることがツラいのです。 彼女を見ていて、これまで出会ってきた何人もの塾生たちの姿を重ねました。非常に繊細な手作業にきらめくような才能とエネルギーを持ちながら、そこそこに成績がよかったために、担任の勧めに従って、世間的な評価は高いけれどそれほど向いているとも思えない社会科学系の大学に進んでしまったA君。成績はよかったけれど大学進学はせずに、好きなデザインの道に進んで、活き活きと活躍しているB君・・。A君が大学生のとき、わたしに刑法のレクチャーを頼みに顔を出したときの憂鬱な表情と、家族をともなって訪れ、自分の仕事の楽しさを活き活きと語るB君の表情を忘れられません。その後のA君の消息はわかりませんが、すくなくとも彼が充実した人生を送っている姿を思い描くことができないままでいます。 以前にも書いたように、人間は多彩な能力を持っています。これは、長い間さまざまな子どもたちと出会ってきたわたしの実感です。「自分には何の能力もない」という子がいますが、自分が夢中になったりこだわることの周辺に、その人の才能があります。人は、その能力が発揮されるときにこそ輝き、またそこに“誇り(プライド)”が生まれます。それが、今回のタイトルである“プライドの復権”の真意です。 自分にないさまざまな能力への畏敬の念を持つことと同時に、自らのかけがえのない能力に対する矜持、この2つを子ども時代から充分に理解し、大人たちもそれを支えていくことこそ、一人一人にとっても、社会が苦難の時代を迎えないためにも大切なことであるように思えてなりません。 本当に書きたいことからはやや離れてしまいましたが、それについては、もう少し練り直して書くつもりでいます。 **11月27日(火)掲載**
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第252回 J君のこと | ||
先週の水曜日の夕方、郵便受けを覗いてみると、いつものダイレクトメールではない分厚い大型の封書が入っていました。そこには見覚えのあるきっちりと角張った文字で、わたしの宛名、そして、なつかしいJ君の名前がありました。
J君と初めて会ったのは3年ほど前のことです。英会話教室をしている知人から「あなたと気が合いそうなアメリカ青年がいますよ。とても勉強家で好奇心が旺盛な人です。」と紹介され、まずは、わたしの英語の先生としてお願いしました。塾で教えているにしては、わたしの英語力は貧弱で、とくに会話力ときたらまるで役立たず、と言ってよいほどです。そんなわたしのところに、それまでの“アメリカ人”という既成概念を覆すような、物静かで知的な青年がやってきました。それが、J君でした。 彼は、18歳のときロータリーの交換留学生として盛岡に約一年滞在し、その後、大学の交換留学生として半年間、早稲田大学に在籍しました。つまり、わたしに会うまでの滞日期間の合計は、わずかに1年半あまりにすぎません。ところが、彼の日本語の文章たるや、おそらく、並の日本人高校生など、およそ及ばないほどの語彙力と構成力を、すでに備えていました。 流暢な日本語を身につけているうえに、彼の専攻が日本文学、比較文学、哲学とあっては、わたしの英会話の勉強どころではなく、日本文化から古典、夏目漱石から三島由紀夫に至るまで、どんどん話は広がっていきました。 そんな話のなかで、J君が日本文学の英訳に取り組もうとしていることを知り、彼から、なにかよい演習になるものを、と言われました。わたしが選んだのは、齋藤孝著「理想の国語教科書」(文芸春秋刊)でした。毎週土曜日の午前中、J君が英訳してきたものを二人で検討する作業が続きました。漱石の『夢十夜』、中島敦の『名人伝』、太宰治『走れメロス』を初めとして、小林秀雄、坂口安吾、菊池寛、宮沢賢治、幸田文、新美南吉など、日本人にとっても難解な作品を。それもかなりの量をこなしてくるJ君の真剣なエネルギーと並外れた読解力には、圧倒される思いでした。それでも、微妙な表現や婉曲的な言い回しなどを誤解しているところもいくつかあり、わたしの役割もいくらかはあったようです。 このころのことは、J君の今回の手紙にも「毎週土曜日の『のの塾翻訳会』(彼はわたしの塾をこう呼んでいました)は、大学院より楽しいかもしれません。手でコーヒー豆を挽いて、ゆっくり話しながらののちゃん(わが愛犬)を撫でて・・すべてがよい思い出です。」と書いてくれています。わたしにとっては、彼が訳出する英文は、これまで読んできたどのテキストのものよりもきらきらと輝き、なによりも、英文がこれぼど文学的な香りを漂わせるものであることを初めて知った思いでした。 J君は、その後、日本語能力検定1級に合格し、さらに、コーネル大学の大学院(日本文学専攻)に進みました。このとき、わたしに「大学に提出するための『日本語能力に関する所見』を書いてほしい」との依頼があり、聴解力・陳述力・読解力・文章力の4部門についての所見を書いたのも、今となってはなつかしい思い出です。 あるとき、J君が教室の廊下を通り過ぎようとしたとき、茶目っ気のある中学生が「あっ、アメリカ人だ」と指差しました。彼は、にやっと笑って「どうしてアメリカ人だと思った? ぼく、ドイツ人だよ。」と応じたことがあります。ウィットに富んだ彼の表現が、先入観の危うさを子どもたちに教えてくれたようでした。 そう言えば、彼の日本語勉強法はなかなかユニークで、まったく日本語を知らなかったころ、まず、漢字だけをできるだけたくさん憶えたそうです。漢字かな混じり文の日本文は、表意文字である漢字の意味をつかむと、あとは文脈推理でどんどん読めるようになったということです。難解な言語と言われている日本語の修得方法としては秀逸であると感心した記憶があります。 上欄のプロフィールにある研究会に誘ったのもよい思い出です。抽象的なことばが飛び交うかなり難解な議論だったはずですが、彼は充分にその議論の輪の中に加わっていました。 上述の『翻訳会』は、04年の8月から翌年の初夏まで続きました。わが愛犬野々(のの)は、その間にも衰弱が進み、J君と勉強しているそばで粗相をしてしまうことがありました。彼がいやな顔ひとつ見せず、野々の排泄物の処理を手伝ってくれたのには感動してしまいました。彼が帰国した後、野々がどうなったか、ついつい知らせそびれていた怠惰なわたしのことを責めるでもなく、この連載の第196回「“理事長”の死と塾の子どもたち」を見つけて読んでくれていたことを、今回の手紙で初めて知りました。これにはなんとも申し訳なく、自らの年甲斐のなさを恥じたものです。 帰国する直前、J君は、わたしにすばらしいプレゼントをしてくれました。それは、彼が幼かったころママから読み聞かせてもらっていたというシェル・シルヴァスタインの130篇に上る詩のCDでした。彼は、マンションの自室で、すこしずつ録音していったようです。それは、あるときは朗々と、あるときは切々と、そしてあるときは軽やかに、ときには擬音まで使って、彼の全身全霊がこもっているような見事な朗読でした。その後、たまたまAFN(米軍放送)を聴いていたとき、同じものをプロが朗読しているのを耳にしたのですが、身びいきではなくJ君の朗読は、それをはるかにしのぐものでした。この2枚のCDは、わたしの宝物です。 彼からは日本語でわたしからは英語でメール交換をしよう、と話し合ったことがあります。しかし、彼の日本語を読んでしまうと、わたしの英語はあまりにもみすぼらしいので、近々毛筆の手紙を送ろうかな、と考えています。昨日(アメリカではきょう)はJ君の28回目の誕生日でした。さきほど、ー英文で!!−お祝いのメールをしたところです。そして、彼と彼の最愛の家族に会うために渡米できる日を夢見ています。 **11月20日(火)掲載**
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第251回 一人旅 | ||||||||||||||||||||||||||
もう立冬も過ぎたというのに、この時期になると、そぞろ一人旅の誘惑に心が揺れます。忍び寄る冬が「雑念から逃れて、ひたすら自分だけの世界にこもりたい」(冬眠願望?)という思いを募らせるのでしょう。とはいっても、いまの状況では、とてもそんな余裕はありません。
30年以上前のこと、いまよりも生徒数も多かった時代なのに、独り者の気楽さもあいまって「2、3日塾を休みにするので、勉強が必要な人は日曜日に来てください。」などと言ってフラッと出かけたこともあります。いまから思うと、どうしてそんな時期に行けたのか不思議ですが、塾生たちも親たちものんきなもので、「ちゃんと帰ってきてね」と言って送り出されました。いまだったら、さしずめ「そんな無責任な塾は・・」と、帰ってみたら何人もやめていた、などということになるでしょう。その当時は“丸ごとのお付き合い”と考えてくださるおうちが多かったようです。 思えば、幼いころから一人でいることが好きで、いまならさしずめ“ネクラ”と言われたかもしれません。初めは、たしか3歳のとき、北浦和駅近くのわが家から別所沼まで三輪車での一人旅です。じつは、現・さいたま市役所近くにあった母の実家まで行こうと考えていたらしいのですが、迷いに迷って別所沼にたどりついたようです。途中で何人かの大人から声をかけられた記憶がうっすらと残っています。そのころの別所沼は、昼間でも薄暗く、葦の生い茂る水辺はどこからが湿地なのかわからないような危険な場所でした。その後の細かいことは定かではありませんが、祖母や母のこわい顔は記憶にあります。 父の仕事の関係で、4歳から小学校入学直前まで3年ほど住んだ上尾では、やはり、一人で遠出をして家族に心配をかけたようです。自転車を買ってもらったころからは、よく遠乗りをしました。 中高生のころは、さすがにそういう時間もありませんでした。長い休みがある大学時代が、わたしの一人旅の全盛期?だったかもしれません。ナップザックひとつぶら下げて、駅の改札で1000円札を出します。それほど乗客も多くなかった北浦和駅の駅員さんに頼んで、1000円の切符の棚から、初めに目に付いた切符を渡してもらいます。当時の切符は、すべて行き先が書いてありました。ちなみに当時の1000円の切符には、あるときは福島県白河、伊豆の修善寺、また、あるときは千葉県の千倉までという印字がありました。その“出たとこ勝負”で出かけるのがなかなかスリリングだったので、よく一人旅をしたものです。とくに千倉という町は、それまで聞いたことがなかったので、一泊のつもりでひなびた駅に降り立ち、駅前の駐在さんに宿を教えてもらいました。漁師が副業でやっているこじんまりした宿でした。客はわたし一人で、最上等の部屋を2つ用意してくれた上、獲れ立ての海の幸をふんだんに使った豪華な料理を出してもらって、宿賃はわずか500円、その当時でもびっくりするような安さで、恐縮してしまいました。 ある寺の住職に紹介状をいただいて、東北各地の寺を境内の掃除などをしながら泊まり歩いたこともあります。どのお寺の住職さんも快く泊めてくださって、なかには旅費まで下さるところもありました。ある寺では、住職に言われるままお檀家さん回りについていって、お経を上げているうしろで合掌していたところ「小僧さん、どうぞ」と言って、お布施までいただいたことがあります。「居候の学生なので・・・」と辞退すると、「まあ、いんでないの」と押し付けるように手渡されました。住職の顔をチラッと見ると、「いただきなさい」というしぐさなので、ありがたくいただいてしまいました。青森県の弘前に着いたときがちょうど4月の終わりで、満開の桜の中に浮かぶ天守閣を夢見心地で仰いだのは、遠い思い出です。 30歳前後のころ、真冬の北海道を約2ヶ月間放浪したことがあります。このときは、塾をいったん閉鎖して出かけました。塾生とそのご家族には「再開できたらお知らせします」という約束でした。今から考えると、いい年をしてまったく無責任で無謀な行動でした。現在のわたしの身近にこんな人間がいたら、強く叱責しているところです。それでも、旅から帰ってきたわたしのところに、半数以上の塾生たちが戻ってきてくれました。心の底からの申し訳なさとありがたさで、涙がとめどなく流れたことを思い出します。 吹雪の青森駅に降り立ち、凍りついた桟橋から青函連絡船に乗るころには雪も上がり、船窓から差し込む津軽海峡の夕日が、ペンを走らせている白地のノートをオレンジ色に染めていました。大きめのナップザックの中には、筆記具とノートと防寒着と着替え、それに選びに選んだ本が10冊ほど、それで全部でした。 冬の北海道の夜は氷点下20度にもなります。まったくの貧乏旅行なので旅館に泊まるお金の余裕もなく、そんなとき、駅舎は暖房が効いていて、待合室でのごろ寝なども大目に見てもらってとても助かりました。それでも大きな駅では追い出されてしまうので、一晩中夜行列車に乗っていたこともあります。旅中ただ1度だけ泊まったサロマ湖畔の宿では、その家の高校生が、片道3時間近くかかる網走の高校へ行くために、始発列車に乗り込むのを見送りました。「札幌に行くのも東京へ行くのも同じだあ」ということばが今でも耳に残ります。 釧路原野の雪中で、ただ一人丹頂の優雅な群舞に何時間も見とれていたこと、そのまま何かに憑かれたように雪原を歩き出して、気がつくと、道も、長く伸びている高圧線も、もちろん家も、およそ人間の気配が一切ない白一色の世界にいました。小さな地吹雪で足跡も消えて、死も予感し始めたころ、地平の果てにSLの煙が見えて、数時間かけて生還したのも忘れられない思い出です。 「一人でいるのは不安だあ」とか「他の子たちはどうしているの?」などという子どもたちのことばを聞きながら「人生は一人旅なんだよ」とつぶやいてみて、ふっと、勝手気ままで傍若無人に生きていた若い日のことを思い出し、柄にもなく感傷に浸ってしまいました。次回からは、また正気?に戻りますので、お許しください。 **11月13日(火)掲載**
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第250回 “プロフェッショナル” | ||
今回は、前回の最後に「人々が、“学力神話”から解き放たれて自らの生き方を選択でき、それぞれが経済的にも社会的にも評価され、誇りを持つことができる社会などというのは、夢物語なのでしょうか、」という文を書きました。その後も考えるほどに、「新生・中2の親」さんのレスにある“誇りのもてる仕事によって糧を得ることができる社会”こそ、われわれが目指すべき社会ではないかということに深く思い至ります。そして、それと同時に、世界経済の流れや日本の政財界の潮流、さらには国民の意識の大勢(たいせい)を考えると、それがどれほど困難なことであるかについても考えないわけにはいきません。
かつては、すばらしい独創性と工夫に富んだ職人たちがたくさんいました。「眺め八分」と言って、縁側にドカリと腰を下ろして、タバコをくゆらせながら半日も庭を眺めていたかと思うと、やおら腰を上げたあとは、休むことなく見事な剪定を仕上げる植木職人。家具職人であった義父が作ったたんすは、衣類がなにも入っていないときひとつの引き出しを押し込むと、ほかの全部の引き出しが飛び出してくるのに、着物が入るとピタッと止まるものでした。中学の同期生であるK君は、いまでは“洋菓子の鉄人”として知られていますが、彼がてすさびとして作ってくれたりんごのケーキやショコラのノエルは、芸術品といってもよいほどの品格をたたえた形と、極上の味わいでした。やはり中学同窓である塗装職人のY君の仕事は、隅々まで刷毛目を一切残さない見事な仕上がりです。このほかにも、この連載の中で何人ものすばらしい職人たちを紹介してきたと思います。わたしが直接知っているだけでもこれだけいるのですから、世の中にはまだまだたくさんの練達の職人さんがいるはずです。所作事が苦手なわたしにとって、職人仕事は一種のあこがれで、彼らの仕事を観察し彼らの話を聞くときは、いつでもわくわくします。 職人だけでなく、農業・漁業・林業・各種の製造業などの現業、会計・営業・人事・総務などのオフィス業務、広告宣伝・出版・メディアなどの情報産業まで、世の中のありとあらゆる分野に“プロフェッショナル”と呼ばれる人たちがいました。そして、いまでもいるはずです。もちろん、これは政治家や官僚、さらには医師・弁護士などという世の中では“エリート”と呼ばれる分野にも当てはまることです。かく言うわたしもまた、いつでも新鮮な気持ちを維持していこうと、できるだけ“プロ的”ではないことを心がけてきましたが、それでも、塾講師という仕事に“プロフェッショナル”としての意地を持ってきたつもりです。 もちろん、どの職業でも“プロフェッショナル”ではない人がいます。道具の手入れもろくにしない、仕事の手を抜くことだけがうまい職人、時間が来るまで適当にサボってウソの報告書を出す営業マン、耐震強度をごまかして設計をする建築士、接待や賄賂を受ける政治家・官僚、不要のクスリを処方して儲ける医者・・・。これらの人たちは、とても“プロフェッショナル”であるとは言えません。 “プロフェッショナル”を自認する人たちは、技術や経験や知識もさることながら、自分の仕事に誇りを持っています。ちなみに“誇り”を広辞苑で調べると「ほこること、自慢に思うこと」となっていて、どうもしっくりしません。英語のprideを調べると「自らの本来の尊厳や価値に対する感覚」(by AHD)となっていて、わたしが言いたいのはどうもこちらに近いかもしれません。仕事に対するプライドがあれば、偽装だの手抜きだの業務上横領だのはしないはずです。スリの親分が、最近の武装スリ団の横行を唾棄する勢いで怒っていたのもむべなるかなです。 そして、みなさんもご承知のように、このところ相次いで偽装・手抜き・公金横領・汚職・・・ありとあらゆる“アンプロフェッショナル”な出来事が起こります。ただ、そのなかに、プロフェッショナルとしてのプライドを失わない人による内部告発と見られるものもあるようなので、それは、わずかな救いでもあります。 それはそれとして、どうしてこれほどまでに“アンプロフェッショナル”な出来事が起こるのかを考えてみると、これは、よく言われる「モラルの喪失」ではなく「誇り、あるいはプライドの喪失」ではないかと思うのです。 このところ、原油高から始まった値上げラッシュが続きます。パン・即席めん・ビールなどの小麦製品、さらには穀物価格が上がるので、それを飼料とする食肉価格も上がります。11月は、まさに生活必需品の値上げが続き、そのあとは公共料金、消費税率の引き上げです。 誇りやプライドとどんな脈絡があるの、と思う人もいるかもしれませんが、“誇りのもてる仕事によって糧を得ることができる社会”に近づくためにもっとも大きな障害が、ここに凝縮されています。つまり、実体経済の流れの中で、原材料が品薄になったためや需要が増えたための価格上昇ではなく、大豆・とうもろこしなど一部の穀物は大豊作であるにもかかわらず、金融不安のため、これらに向けて膨大な投機マネーがどんどんつぎ込まれているということです。ここには、“プロフェッショナル”は存在しません。どれだけ利益を出したかだけを評価される世界がどんどん広がっています。そこには、誇りもプライドも吹っ飛ばされてしまう冷酷な原則だけがあります。どんなにまじめに働いても、その成果が認められないどころか生活さえできなくなってくる、それが、いま強烈な勢いで全世界を席巻している“グローバル経済”の行き着く先です。 これ以上書き続けるとかなり長くなるので、ここでいったん中断して、いずれこの続編を書くつもりでいます。 **11月6日(火)掲載**
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第249回 全国学力テストを考える | ||||||||||||||||||
異例のことで申し訳ないのですが、前回「新生中2の親」さんの書き込みに気がつかないままでいたことを、冒頭をお借りしてお詫びします。レスを書きましたのでよろしくお願いします。
今年の4月24日、小6と中3約233万人を対象に、43年ぶりに実施された全国学力テストの結果が、ちょうど半年後の10月24日に公表されました。 前の学力テストは、自治体や学校間の競争が過熱して1964年度に廃止されました。それにもかかわらず、教育行政は、くりかえし全国学力テストの実施と定着をもくろんできました。なぜならば、国の根幹は教育にありという伝統的な「教育立国」の考え方をベースとした国家戦略の一環として推進するためだからです。そのためにこそ、77億円もの国費を投じ多くの反対を押し切って、政権が順風であった小泉・安倍政権の下で決定したものです。 この全国学力テストについては、以前と同様に「序列化につながる」「学校間競争が過熱する」という批判がありましたが、文科省は「調査結果を教育の質の向上に役立てる」「市町村ごとの結果を公表しないので、序列化や競争にはつながらない」といって強行しました。ところが、予想通り、問題事前漏洩や事前対策は、問題が明るみに出た足立区ばかりではないようです。2月に出版された“担任向け”と銘打った「学力調査テスト予想問題集」(科学新興新社)は、学校などから1日十数件の問い合わせがあり、8000部以上が売れた(毎日新聞4・24)ことからも推し量ることができます。 今年になって次々と成立した教育基本法を初めとする学校教育法、地方教育行政法、教員免許法、などで教員や学校の評価が強化推進されることと併せて行われた全国学力テストなので、これらは、いわば必然的な動きであるといえます。「市町村や学校は自らの判断で結果を公表することができる」となっていたので、わがさいたま市も公表することになりました。このような実態があるにもかかわらず、文科省は「調査の結果だけを見て一喜一憂するのではなく、きちんと現状を把握して改善につなげていくことが大事」(高口努学力調査室長)などという“建前”を押し通しているのはなぜなのか、深く考えてみる必要がありそうです。それに、国の方針で学力テストを実施している英米などでも、同じようなテスト不正が頻発しているといいます。ちなみに、例のPISA学力世界一フィンランドでは、学校外部のテストは実施していないようです。 今回の結果発表に際して、奇異に感じたことがあります。各新聞社が申し合わせたように「基礎的な学力は問題なく、応用力に課題を残す」という見出しを掲げたことです。こんな当然のことを取り上げて、ことの本質を見ていないように感じます。 これは、ジャーナリストと言われる人たちの多くが“学力勝者”であることと無関係ではありません。この意味の“学力”とは、受験学力、考える力を問いません。彼らは、基本的に、「学力はあるに越したことはない、できるだけ多くの子どもができるだけ高い学力をつけることができればよい。」と考えています。これだけ長い間さまざまな子どもたちと出会ってこなければ、わたしもまた同じような考え方になっていたはずです。 処理能力としての“学力”、言い換えれば、数値として表される“学力”という発想からは、“みんなが100点を取れる授業”という考え方が導き出されます。「国民だれでもが(学力テストで評価されるような)学力をつけなければならない」という考え方は、輝かしい平等主義のように見えて、その実は子どもたちや学校教育を萎縮させ、ひいては社会を貧しくするのではないか、と考えています。 さまざまな能力の人間が、その能力を十分に発揮できる社会こそが 持続可能な充実した社会ではないでしょうか。身分社会であり、職業選択の自由がほとんどなかった江戸時代でさえ、武士の家に生まれ武道も漢学も苦手だったけれど、ものづくりに才を示した平賀源内、数理の世界に魅せられた関孝和、魚屋のせがれに生まれながら農政家・儒学者として知られた青木昆陽など、父子相伝の家業を継がずに、必ずしも栄達につながらない道に踏み出して名を成した人もたくさんいました。 そして、現代でもさまざまな能力の人間がいます。わたしが直接出会った人たちだけでも、数学は苦手だけれど、曲尺一本で微妙な曲線を割り出す金型職人、文字や書物を見ただけで頭がガンガン鳴り始めるのに、古仏の写真や古刹の構造の本などは、何時間も食い入るように見つめている宮大工の青年、理科の生物の勉強は苦手だけれど、植物のことばを聞き取れる子ども、英語はまるでダメなのに、日本語がまったく話せない外国人とみごとな人間交流ができるお年寄り・・・、まだまだ何人でも挙げることができます。 彼ら一人一人が発揮する“能力”をだれもが持たねばならない、としたらどれだけ息苦しくなるでしょうか。また、彼らが秘めている“能力”が一顧だにされず、数値化できる“学力”と呼ばれる能力だけで評価されるとしたら、多くの人々は自らの能力とは別のところでそのエネルギーを費やし、社会はどんどん殺伐となっていきます。ここには、“学力”がそこそこあったがために、かえって本来の自分の能力を活かせずに汚職役人やグータラ学者に成り下がってしまう人も含まれます。さらに、これらのことは、現代の労働問題、格差問題となって顕在化してきています。 「天才とは努力し得る才である」とは、かのゲーテの言だったと思います。「気がついてみたら、自然に努力(執着?)していること」の周辺にその人の才能がある、と言います。人々が、“学力神話”から解き放たれて自らの生き方を選択でき、それぞれが経済的にも社会的にも評価され、誇りを持つことができる社会などというのは、夢物語なのでしょうか。 **10月30日(火)掲載**
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第248回 大人と子どものはざま | ||||||||||||||||||
本日(10月23日)再開される教育再生会議が、12月に取りまとめる予定の第3次報告書素案を公表しました。
素案の段階なので、不明確なところもありますが、概略は次のとおりです。 1.理科などで、小学校高学年からの専科教員による専門的指導、2.小中学校を四・五制または五・四制への移行、カリキュラムの連携や教員・児童生徒の相互交流を含めた小中一貫教育 3.習熟度別授業の拡充 4.飛び入学制度の促進、などです。 これらの提言の底流に流れるのは、意図的か誤解に基づくものなのかはわかりませんが、「子どもが早熟化している」という認識です。これは、「子どもといっても前より成長が早く大人並みになった、犯罪の年齢も下がって凶悪事件が増えた。」として、少年法の対象年齢が引き下げられ、厳罰化の方向に進んだのと同じものです。 20年ほど前、身長180cmを超える中学生男子が3人いたことがあります。当時存命だったわたしの母が、反抗期の彼らに囲まれているわたしを心配しているのを知って、笑ってしまったことがあります。小学生からの付き合いで気脈が通じていた彼らは、わたしから見ればかわいい存在でした。そのころは、ほとんどの男子生徒が中2ともなると、わたし(165cm)よりも高くなっていました。塾生名簿を繰ってみると、こんな小さな塾でも時代の空気を反映していて、それから10年ほどの間は体は大きいけれどストレートな性格の子が多かったような気がします。表にあらわれる分、学校では扱いにくかったようですが、わたしにとっては、激しくぶつかり合うことはあってもコミュニケーションが取りやすい生徒たちでした。 10年ほど前から少しずつ変わってきたような気がします。なかなか打ち解けにくいのにはっきりと反発もしない、割り切って付き合えばある意味で“ラク”な子どもたちが目に付くようになりました。当初は、わたしが年老いてきたためであると考えていましたが、そうではなさそうだということもわかってきました。わたしのことがイヤなわけでもないらしいけれど、なにを考えているのかわからない(ようにみえる)子どもたちです。 こういう子どもたちを見ていると、以前よりも“大人っぽく”なってきたと思いがちです。ある子は、いつまでも(妙な)丁寧語で話したり、「はい、いいえ」しか言わなかったり、間違えていることを説明しても、黙ってこちらをにらむ(ような)目を向けています。 そんなあるとき、彼らは、大人と(あるときは同世代とさえ)どのように接していいかわからないのだ、ということに気がついたことがありました。それは、ある生徒に、英語の文法を説明していたときのことです。説明を受けているA君がチラチラと視線をさまよわせているので、「ちゃんと聞いていなさい。」と言いました。すると、彼の視線がわたしの背後を指すので、振り向いてみると、遅刻してきたB君が立っていました。前後の様子から、ある程度の時間そうしていたような感じだったので、「どうしたの?」と聞いてみると「通れない。」とボソッと言います。わたしが彼の席へ行く道をふさいでいた、ということのようです。A君もB君も、まるでことばを持っていないかのようです。 このところ、少年院の法務教官、家裁の調査官、少年警察補導員などが書いた雑誌記事や本を読むことが多いのですが、彼らが一様に書いているのは、近年の犯罪少年たちの示す“幼さ、稚拙さ”です。ことばを獲得する前の幼児のような無垢な純粋さを感じることさえあるようです。 彼らの話は、わたしが上述した子どもたちの様子とも重なります。ある少年鑑別所の職員は「矯正するなどとはほど遠く、一から“育て直し”ている」と書いています。 これ以上書いていると、どんどん深みにはまりそうです。従来から言ってきたように、ことは、“子どもたちの問題や教育の問題”ではなく、わたしたちの社会そのものにかかわることであるからです。 ともあれ、現代の子どもたちが、けっして“早熟”ではなく、むしろ非常に幼いということが共通認識としてあれば、少年法の改正だの、教育カリキュラムの前倒しだのということは出てこないはずです。ちなみに、体格がよいとか、早期に性行動が始まるとか、大人びた口を利くとかいうことは、人間としての“成熟度”とは何の関係もありません。 爛熟した消費文明と高度情報社会のなかで、わたし自身もふくめた大人たちも“社会的成熟”を身につけることは容易ではありません。最近の老舗の和菓子屋を初めとする企業の不祥事や、高級官僚の汚職、役人たちの情報隠蔽など、自分が社会の中でどのような存在で、どのようにふるまうべきかを適切に身につけていない典型のような事件は、いわゆる“悪事を働いている”という意識が感じられない点でも、少年犯罪のそれと重なるものを感じます。「最近の子どもはわけわからない」と言いながら、じつは、“わけのわからない大人”もどんどんと増えている時代ではないかと感じています。 **10月23日(火)掲載**
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第247回 “待てない”社会 | ||
よく言われることですが、 ニワトリ、ウシ、サル、ヒト、それぞれの個体同士の関係、つまり社会構造は、この順に複雑になるので、成年に達するまでに要する時間も、それに比例して長くなります。ちなみに、知能もこの順に高くなるとも言いますが、それは、むしろ自然に対する傲慢(ごうまん)さに比例しているのではないかとさえ思います。それはともかく、ヒトの社会だけとって考えてみても、時代が下るにつれて、成年に達するまでの期間がどんどん長くなっていることはよく知られています。
これまでも書いてきたように、子どもは、社会が複雑になるほど成長への時間を必要とします。ところが、一方では“待てない社会”という状況がどんどん進んでいます。さきごろの少年法の“改正”に当たって、「子どもといっても前より成長が早く大人並みになった、犯罪の年齢も下がって凶悪事件が増えた」という言説が力を得て、刑事罰の対象年齢引き下げと厳罰化が実現してしまったのも、その一つの表れです。 かつては、ほしい本が店頭にない場合、書店に注文を出しましたが、手元に来るのはたいてい1週間以上かかっていました。わたしは、よほど急ぐものでない限りは、相変わらず書店の店頭で注文していましたが、これも、書店では「ネットにつながるならば、書店などが作るe−honネットのほうが早いですよ。」と言われます。たしかに、書店まで出向かなくても、ネットで在庫を見て注文、出荷メールを確認して書店へ行く、というパターンが多くなりました。これとても、わたしにとっては画期的な便利さです。ところが、アマゾンドットコムなどのネットショップでは、遅くとも2日後には届くようです。その上、「お急ぎ便」と称して翌日には手に入る、というのもあるようです。 子どもたちや親しい友人のつきあいで、たまに長い行列にならぶこともありましたが、そんなときでも黙々と並ぶ人たちの従順さに感心していました。ところが、最近では、割り込みはしないまでも、後ろのほうから罵声が飛んだり、やたらと前に押してくる輩もめずらしくないようです。 待ち時間に関する意識調査を調べたサイト(http://www.citizen.co.jp/research/time/20030528/index.html)には、待つことに耐えられる時間の調査結果が出ています。これを見ると、病院、役所、ATM,レストラン、エレベーター、レジ待ち、交通機関、パソコンのアクセス時間、さらに携帯電話の伝言に対するレスポンス、それぞれの場面での待ち時間のモード(最頻値)は、10秒から1時間という違いがあります。ふしぎなことに、そのどれをとっても世代間や男女間でのモードには、明確な違いがほとんどありません。このことも大変興味深いことではあります。 ところが、おもしろいことに、世代間の差が唯一はっきり出るのが、ケータイメールの返信をどれくらい待てるかです。こう言うと「そりゃ、若い人たちが待てないのだろう」と思います、ところが、意外なことに、20代・30代のモードが30分であるのに対して、40代以上のモードが5分、というのです。さらに、男性のモードが60分であるのに、女性はわずか10分というのが、興味津々のデータです。 この調査はすでに4年も前のことである上に、調査対象が首都圏のビジネスマン400人、ということなので、どれだけ統計的有意があるかわかりませんが、現代の都会人の意識の特徴は表れているような気がします。ある程度、経験期間があるものの待ち時間は、しだいに、一定の数字に収束していることを考えると、ケータイメールの返信も、現在では世代間の違いがなくなっているかもしれません。それどころか、10代の子どもたちの間では、すぐにリメールを送らなかったり自分からやり取りを切ると、それだけでネットいじめの対象になるといいます。 交通機関はますます速く、売れ筋商品の入れ替わりもあっという間、古いなじみの家がつぎつぎと取り壊されてマンションやビルに生まれ変わるのが早いこと、世の中の動きの早さが、まさに“待てない社会”を作っています。 この“待てない社会”の中で生きる子どもたちも、目に見える結果(成績)をできるだけ早く出そうとあせり、親たちもまた、ゆっくり待つ余裕がありません。そのために、“考える力”にとって、もっとも大切である試行錯誤や醸成などということからは、どんどん遠くなっていきます。そこからは、脆(もろ)い促成の力しか出てきません。 「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」ということばがありましたが、海外体験の多い友人に聞くと、地球上には、ゆったりと力強く時間が流れている国がまだまだあるそうで、そういう国の子どもたちは、未来をしっかりと見据えているような目をしているといいます。 わたしも、年齢を重ねるほどに“せっかち”になってきているような気がします。われわれの社会も終焉に向かって、ますます“せっかち”になっているのでなければよいが、と心配です。 **10月16日(火)掲載**
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第246回 虞犯(ぐはん)少年 | ||
子ども(少年)にかかわる法制度について、石井小夜子弁護士などの専門家を中心として研究活動している「子どもと法・21」(http://www.kodomo-hou21.net/)という団体があります。その会が発行する通信9月号の緊急告知で、「警察庁が、国会で削除された“警察の虞犯調査権”を規則で明記した」とあったので、びっくりしました。以前から、少年法の虞犯少年条項には関心があったのですが、この“警察の虞犯調査権明記”については、新聞などにも1行も報道されなかったので、まったく知りませんでした。
ここで“虞犯少年(少女も含む)”とはなにかについて少年法の規定を引用します。 次に掲げる事由があつて、その性格又は環境に照して、将来、罪を犯し、又は刑罰法令に触れる行為をする虞のある少年 イ 保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。 ロ 正当の理由がなく家屋に寄り附かないこと。 ハ 犯罪性のある人若しくは不道徳な人と交際し、又はいかがわしい場所に出入すること。 ニ 自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。 虞犯少年については年齢の下限はありません(注:児童福祉法では小学生以上を少年)これに対して、14歳以上で犯罪を犯した少年(犯罪少年)、14歳未満で刑罰法令に触れる行為をした少年(触法少年)という区分があります。 このうち、触法少年と虞犯少年については犯罪ではないので、これらの少年についての調査は福祉事務所や児童相談所がおこない、時間をかけて本人や親などの話を聞き、状況に応じて、当人に必要な方法を探るものでした。ところが、「少年事件は増加し、凶悪化している」という誤った認識をもとに少年法“改正”案が提出され、第197回でその一部について触れたように、それ自体さまざまな問題点がありましたが、とくに、14歳未満を含むすべての“虞犯少年”について警察が調査できる、となっていました。 触法少年については、その法案のまま成立してしまいました。これとても、警察の調査対象が14歳未満にまで広がる点で、たいへん大きな問題です。しかし、虞犯少年については、“虞犯少年である疑いのある”小学生でも警察で調べられる可能性があるので、さすがに、この項目は削除されたうえで成立しました。 ところが、その国会で削除された“虞犯少年に対しての警察の任意調査権”を、警察庁は「少年警察活動規則の一部を改正する規則」によって明記しました。(http://www.npa.go.jp/comment/shonen2/katsudou.pdf)つまり、「親の言うことを聞かない子は、おまわりさんに連れて行かれるよ。」「い〜けないんだ、いけないんだ。おまわりさんに言ってやろう」という、いわば家族や子ども同士の間での戯言が、現実になってしまうのです。一言付け加えるならば、おまわりさんが、街角で見かけた子どもの問題行動に対して“注意”するのは、町の大人の一員としての行動であって、法的な根拠はありませんでした。これが根拠を持ってきて、場合によっては警察に呼ばれて取調べを受けることになります。 本田和子(ほんだますこ)さんの名著「異文化としての子ども」(ちくま学芸文庫)が書かれてからもう25年が経ちます。そのなかに、「・・・とりとめなく、不安定な動き、あるいは曖昧なもの、分類し難いものへの執着・・・それらは、私ども(おとな)の身体の奥深いところに働きかけ・・・」とあります。“子どもという存在”が、どういうものであるかを無前提に捉えようとしています。じつは、わたしが見てきた幼児期の子どもたちも、こういう存在でした。しかも、それはわたしが子どもであったころから変わらないものであるようにさえ感じます。そして、それらは学校という“世間”に触れ、先生・友だちという他者と交わるに従って、すこしずつ“大人にもわかりやすい”存在になっていきます。本田さんは、それを「自分らしさを覆い隠すことで秩序の中に組み込まれ・・・、文化の内側で生きようとする、・・文化の外から内への移動は、常に大きな喪失に裏打ちされている・・」と表現しています。 ところが、近年、その“文化の外から内への移動”が行われにくくなってきているように感じるのです。これは、現代大人社会の既成の秩序に対するカウンターだと思うのですが、このことに深入りすると、またまたわたしの能力を超えてしまいます。 “学力”シリーズでも述べたように、「学校勉強とは無縁であるはずの知識・技術が身についていない子どもたち。不安、不満は渦巻いているが、疑問や怒りなどをぶつけることもほとんどない子どもたち」の状況が、それを象徴しているような気がします。つまり、多くの子どもたちが、本田さんのいう“異文化”のなかにとどまっているのではないかということです。 子どもは、社会が複雑になるほど成長への時間を必要とするのに、一方では“待てない社会”という状況が進んでいます。今回取り上げた警察庁の規則“改正”の動きが、警察国家、監視社会への流れかどうかは別にして、こうした社会の変容が、その流れの後押しをしていることは確かなようです。 **10月9日(火)掲載**
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