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浦和の隅から教育をのぞく
す〜爺です。30数年間さいたま市(浦和)の片隅で小学生から高校生までのさまざまなタイプの子どもたちと楽しさや苦しさを共有しその成長を見守ってきたことと、 ここ10数年来、学校教師・塾教師・教育社会学者・精神科医などからなる小さな研究会で学んできた者の一人として、みなさんのお知恵を借りながら考えを進めていくことにしました。
「教育」はだれでもがその体験者であることから、だれでもが一家言を持つことができるテーマでもあります。この連載がみなさんの建設的なご意見をお聞かせいただくきっかけになればうれしい限りです。
ただ、わたしとしては、一人ひとりの子どもの状況について語る視点(ミクロ)と「社会システムとしての教育」を考える視点(マクロ)とを意識的に区別しながらも、 わたしなりにその相互関係を探ることができれば、と考えています。よろしくお願いします。

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第165回 おとなが魅力的であるために
 11月最後の週に、わたしにとって大切な人が相次いで亡くなりました。
 ひとりは高校時代の恩師で、家族ぐるみのお付き合いをいただいてきたT先生です。英語の教師であったT先生は、若いころ研究者の道を志していた大変な勉強家でした。ご自身にも厳しい先生でしたので、英語はしっかりと鍛えていただきました。そこそこにボリュームのあるセンテンスを、毎日30ずつ暗記してくることを課題に出されました。お世辞にも勤勉であったとはいえないわたしでも、そのうちのいくつかは、半世紀近く経ったいまでもふっと口をついて出てくることがあります。

 その課題をやってこなかった生徒は、小学生のように教室の後ろに立たされるのですが、わたしは授業が始まる前から後ろに立っていて、苦笑しながら叱責されたことを思い出します。たいへんなロマンチストでもあった先生が、わたしの席のすぐ脇で“fallen leaves”を情感込めて「病葉(わくらば)よ・・」と訳すのを、「落ち葉と病葉とはちがう・・・」と、先生だけに聞こえるような声でつぶやいて叱られたこともありました。目をつむり腕組みをして授業を聴くような生意気な高校生であったわたしと「きみは、また妄想に耽っているのかね」「いや、瞑想しています」などというやりとりをしたことも、「彼(わたしのこと)は今、夢の世界にいるようだから、大切なことをあえて小さな声で話す」と言われたこともありました。

 厳格でありながら茶目っ気に溢れ、生徒と真正面から向き合う姿勢を終生貫かれました。管理職になってからは授業ができなくなったことを悔やみ、欠勤した教師の授業の代講を嬉々として買って出たようです。恵まれなかった少年期を思い、ご自身の家庭をとりわけ大切にしてこられました。退職後も先生のお宅を訪ねる多くの教え子たちとの文化・経済・政治・言語など多岐にわたる話題を楽しんでいました。わたしもそのひとりで、学生のころは、先生のお嬢さんの勉強をみるように言われたり、ご家族と食事を共にすることも何度かありました。また、世界各国に友人を持ち、彼らと積極的に文通したり国際電話で話すことも多かったようです。

 3年前転倒して骨折したのを引き金に、ことばを失ったうえに寝たきりになってしまわれました。意識は以前と変わらずしっかりしていたので、さぞ悔しい思いをされたのではないかと思います。振り返れば、病に臥されてからの先生のお気持ちを察して2度しか伺わなかったのですが、むしろ、病を慮るあまりの人々の足が遠のくことを嘆いておられたと聞き、今更ながら悔やんでいます。

 もう一人は、われわれ夫婦にとってかけがえのない友人であった女性です。3年余りのガンとの戦いの末、力尽きました。彼女について書くには、このコラムのスペースもわたしの筆力も足りません。長年のすばらしいパートナーであった彼が、彼女の死の2日前にすべての障壁を乗り越えて婚姻届を出し、われわれ夫婦がその証人になりました。また、息子と娘がともに塾のOBであり、彼女の係累全員を知る者として、わたしが式の進行を担当させていただきました。まったく無宗教のお別れの会で、友人の笛の音が流れる中、彼女の幅広い活動と交際を物語る多方面からのさまざまな参列者一人一人が献花をし、全員がそれぞれの思いを込めて、彼女へのメッセージを色とりどりのクレヨンで、ひつぎの周囲すべてを書き埋めました。お清めの料理はすべて友人たちの手作りでした。しんしんと心に染みとおるような、さわやかな悲しみとでもいうようなものに満たされたお別れの会でした。まだまだやるべきことをたくさん残して逝った彼女を思い、わたしたち仲間は、まだその慙愧の思いから立ち直っていません。

 お二人とも、真正面から人生と向き合い、力の限り生き抜きました。それぞれまったく異なる道を歩き、20年近くの世代の差はありましたが、それそれの告別式・お別れの会では、お二人の生き方に多くの人が感銘を受け、教えられ、育まれてきたことを改めて実感したものです。「社会的な地位でも財産でもなく、人と正対しながらひたむきに生きること」、タイトルにした“おとなが魅力的であるために”は、まさにこのお二人が実践してきたことです。わたしは、お二人には到底及びもしませんが、すこしでもそこに近づけるように、自分の生を全うしたいと考えています。


**12月20日(火)掲載**
(す〜爺)

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Re: 第165回 おとなが魅力的であるために2005/12/20 15:31:51  
                     高2の親

 
そんな、魅力的な方々のお話をしてくださって、ありがとうございます。

肉体が滅びても、人間というものの想念は存在します。
生前やりのこしたことも、誰かに想念として、受け継がれていくそうです。

こうして、話題にしてくださって、
まったく面識のない私たちに知らせてくださること自体、
ご供養になると思います。

す〜爺さん、お連れ合い様も、元気だしてくださいね!
悲しい気持が強まると、免疫下がって、風邪引いちゃいますからね〜。
 

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温かいお気持ちありがとうございます2005/12/21 17:44:13  
                     す〜爺

 
高2の親さん、こんにちは。
 ことしは、親しくしてきた人を何人も見送りました。そのなかには、わたしよりも若い人が3人もいます。コラムのお二人が亡くなる直前の日曜には、以前書いた、3年前アフリカで23年の早すぎる生涯を閉じた青年の納骨式がありました。
 今回のことも、2人のことを書くことをギリギリまで迷っていましたので、高2の親さんの温かいおことば、とてもうれしく思います。ありがとうございます。おかげさまで、心の底まで温めていただいたので、風邪も退散しそうです。
 

元の文章を引用する

第164回 小父(おじ)さん・小母(おば)さん その2
 前回の続きです。
 今までにも書いたことがありますが、かつては、どこの地域にも良質なコミュニティーが存在しました。そしてそれは“ご近所づきあい”という名で呼ばれていました。到来物(よそからのいただき物)があれば“おすそ分け”をし、ちょっと多めにつくったからと言っては、子どもたちは夕食のおかずを近所に持って行かされました。それは、近所の子どもたちにしても同じで、その結果、煮物がダブってしまって、わが家の食卓で味比べをする羽目になったこともあります。

 反面、この当時の“近所づきあい”のわずらわしさは、その時代を経験した人たちからよく聞くところです。プライバシーも名誉毀損もどこ吹く風の前近代性を嫌って、そういうわずらわしさのない都会にあこがれた人も多くいました。

 大人たちにとってはかなりわずらわしい面もあったこの“近所づきあい”でしたが、、子どもたちにとっては、ご近所のどの家にも、親戚の叔伯父母よりずっとコワくて、自分のことをよく知ってくれていて、だんぜん頼りになる小父さんと小母さんがいました。あるときは親以上にこっぴどく怒られたり、逆に激怒している親からかばってくれたりもしました。自分の親がお出かけのときなどは、ご近所の家に上がりこんでその家の子といっしょにちゃっかりとお昼を食べていることもありました。コマ回し・竹馬作り・あや取り・お手玉などを教えてくれたのも、近所の小父さん・小母さんたちです。病気になったといっては心配しておかゆを作ってきてくれたり、うれしいことがあれば自分のことのように喜んでくれたのも、この小父さん・小母さんたちでした。

 時代が移って、その小父さん・小母さんたちはすべてあの世とやらへ旅立ってしまい、道で会えば挨拶を交わすだけの次の世代の人たちが“ご近所”になりました。子どもたちが自由にくぐり抜けた四つ目垣がブロック塀に代わり、それとともに古くからの住人が多いわたしの地域からも、子どもたちにとっての小父さん・小母さんは消えてしまったようです。

 いまでは、“おじさん”といえば、つまらないギャグを飛ばしちょっとエッチでうす汚いイメージ。“おばさん”といえば、厚化粧でずうずうしくておしゃべり、と相場が決まっているようです。むかしの小父さん・小母さんたちにも、すこしはそんなところがあったけれど、おたがいが運命共同体であるようなところがありました。

 わたしが“おじさん”と呼ばれることに心地よさを感じるのは、あの小父さん・小母さんたちの役割のほんの一部でも果たすことができるような感触があるからです。なかには、「おじ」や「おば」の後に小さく『い』や『あ』を入れて喜ぶ子もいますが、そう呼ばれることがとても自然に聞こえるほどに、わたしたちも年齢を重ねてきました。

 それはともかくとして、「勉強を教えてくれる人に『おじさん』なんて言ってはいけない」と親に叱られた子もいるようですが、むかしの小父さん・小母さんたちからは、もっともっとかけがえのないほどたくさんの大切なことを教わりました。わたしたちもまた、「おじさん、おばさん」と呼ばれることで、子どもたちと“運命共同体”である、ということを強く実感することがあります。

 もっとも、入塾まもない子どもたちは、この呼び方になかなかなじめなくて、「先生、あっ、まちがえました。おじさん!」と言い直す子もいて失笑させられます。「いや、先生って呼んだっていいんだよ。」と言うと、何年も塾に在籍している子までが「えーっ?先生って呼んでもよかったんだあ」とおどろくので、わたしのほうがびっくりします。あるいは、わたしの塾でも時代の流れとともに、徐々に「先生」という呼称が復活してくるのかもしれません。いっそのこと「この塾では『おじさん・おばさん』と呼ぶ」と決めてしまおうか、などとツレアイと話しているところです。


**12月13日(火)掲載**
(す〜爺)

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第163回 小父(おじ)さん・小母(おば)さん その1
 このコラムのなかに、これまで何度となく「おじさん・おばさん」という言葉が登場しました。“現在の”塾の子どもたちはわたしたち夫婦をこう呼んでいます。
 
 わたしが塾を始めたのが1968年(昭和43年)、今年で37年になります。その当時のプリントや資料を引っ張り出して眺めていると、さまざまな感慨があります。それらについても、いずれは書くこともあると思いますが、今回は、わたしたちの呼称について、のお話です。

 わたしの両親は、ふたりとも教師ではなかったものの、“先生”と呼ばれる仕事をしていました。わたしは、成長の過程で「先生のクセに、先生の子どもなのに・・」ということばをときどき耳にして、とてもいやな思いをしたことがあります。そのせいか、若いころは、自分が「先生」と呼ばれることにかなり強い違和感を感じていました。

 塾の初期のころ、子どもたちは、当然のようにわたしのことを「先生」と呼んでいました。「先生なんて呼んでほしくないなあ」と言ったものの、「じゃあ、なんと呼べばいいですか?」と聞かれて、代替案も考えていなかった若いわたしは、グッと返事に詰まってしまったようです。そして、いつのまにかわたし自身も慣れてしまって、そう呼ばれることに何の抵抗も感じなくなっていました。さんづけで呼ばれることもありましたが、むしろ、不審に思ったことさえあったと思います。

 およそ20年ほど前の塾の時間に、高校時代からの友人が訪ねてきたことがあります。彼は大学で教えていることもあり、子どもたちにも気楽に話しかけていました。そのなかで、彼の口からたびたび出るわたしのニックネームに、子どもたちは大喜びでした。それ以来、わたしは子どもたちからむかしのニックネームで呼ばれることになりました。兄弟で来ている生徒も多く、学年縦断のつながりが強いわたしの塾では、それからしばらくのあいだこの呼称はつづきました。

 そうなってみると、わたしの肩の力も抜け、子どもたちとの距離もどこかしら以前より近くなったような気がしたものです。この当時のOBたちからは、いまでもこのニックネームで呼れています。

 結婚当初、ツレアイは別の仕事をしていましたが、塾を手伝うようになってからは、元物理教師だったため、当初は理科だけを教えていました。そんな彼女を、子どもたちは「理科の先生」と呼んでいました。しかし、子どもたちが「塾のおばさん」と呼ぶようになるのにそれほどの期間はなかったように記憶しています。

 わたしがニックネームで呼ばれ、ツレアイが「おばさん」と呼ばれていた時期は数年続いたと思います。

 ところが、10年ほど前のあるとき、子どもたちのだれかが「おばさんだけが『おばさん』っていうのはヘンだよね。ねっ、『おじさん!』」と言い始め、それ以来「おじさん、おばさん」が定着してしまいました。

 いまでは、わたしたち夫婦は、この呼称をとても気に入っています。この呼称にまつわるエピソードや、子どもたち・周囲の人たち・わたしたち自身の心理的な変化、さらには、なぜ「小父さん、小母さん」なのか?についてまで書くと、またまた長くなりますので、次回に書くこととします。


**12月6日(火)掲載**
(す〜爺)

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第162回 “眠る”ということ
 前回までの“食”と同じように、子どもたちの“睡眠”についても心配です。

 席に着くなり、朦朧としている中学生がいます。「ねむくて、どうしようもない」と言いながらも、けなげにも目の前のペーパーに取り組もうとしますが、そのうちエンピツの動きが止まったかと思うと、ポロッと手から落ちてそのまま寝てしまいます。10分ぐらいそのままにしておくと、おもむろに顔を上げてまたエンピツを動かし始めます。そういう状態が目に余るときには、「きょうは、家に帰って寝なさい。」と言います。それでも、本人はがんばってみようとしていますが、こんなときにムリに勉強をやらせても、それまでせっかくわかってきたことが、かえって混乱してしまうのがオチです。

 こういう状態に近い子を週のうち何人か見かけます。聞いてみると「慢性寝不足だよ。学校も部活も休みの日には、ほとんど一日中寝ているよ」と言う子さえいます。「でも、その日の夜は眠れないんじゃないか?」「うん、だから、次の日の学校の授業中に眠くなるんだ」

 遅刻常習の子に聞くと「家に帰ると、疲れてそのままテーブルに伏せて寝ちゃうんだ。気がつくと塾の時間になっていて・・・」と言います。わたしがなんでそんなに疲れるの?」と言うと、他の子までが「おじさんも学校に行ってみたら、なんで疲れるかわかるよ。」と同調します。

 それにしても、です。かつて、新陳代謝が旺盛な中学生たちは、どんなに疲れていても、一晩ぐっすり寝ると翌日はケロッとしていたはずです。それどころか、激しい練習を終えてから塾に来ているはずの子どもたちが「こんばんわ〜」と元気よく入ってきたものです。子どもたちのこうした変化を感じ始めたのはいつのころだったか、定かではありませんが、それほどむかしであったとは思えません。

 すくなくとも、テレビやゲーム、朝練などの悪影響が話題になってからでも、わたしの塾に限っていえば、子どもたちの疲れは一過性の風邪のようにケロッとなくなってしまうものでした。

 そこで思い出したのが、幼児の就寝時間です。夜の11時ごろまで起きている幼児が増えているというニュースが問題になったのはいつごろだったか、いろいろ調べてみましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。なんとなく、平成に入ってからのことのように思います。なぜ、そういう風潮が出てきたのかの分析はともかく、そのころの幼児たちが現在の中・高校生だというのは、牽強付会に過ぎるでしょうか。

 なかには「寝るのがたのしくない」とか「いやな夢ばかり見る」と言う子もいます。「夜中に、何度も目が覚めてしまう」と老人のようなことを言う子もいます。

 「睡眠、食事、排泄、運動」は、生命活動には欠かせないものです。そういうところに、なにか変化が起きているのではないか、というのがわたしの杞憂であればよいのですが・・・。


**11月29日(火)掲載**
(す〜爺)

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第161回 “食”を考える
 前回に引き続いて“食”を取り上げます。
 塾の子どもたちやその親に対して「勉強をやらなければならない年月はたかだか10数年だけれど、食べることは一生の問題。塾には遅刻しないほうがいいけれど、食べる時間を削ってまで勉強しても、アタマにとってよいことはない」と常々言っています。

 以前にも書いたとおり、このところ「疲れた、眠い」を連発する子が目立ちます。塾に来るのがつらいのかなと聞くと「そんなことはない」と言います。お母さんたちに聞くと「体調が悪くても眠くて倒れそうでも、ふしぎに塾には出かけていきます。」との話です。さらに聞くと、「ウチの子、朝もろくに食べないで部活の朝練に飛び出していくんですよ。その上、せっかく作った夕飯もちょこっとはしをつけるだけで自分の部屋に入ってしまうし、困っているんです。」と言う人もいれば、「ウチの子は、朝も夕飯も食べるには食べるんですが、好きなものしか食べなくて、あとはスナック菓子なんかを食べながらテレビ見ているんですよ。」と嘆く人もいます。

 じつは、ここだけの話?ですが、このお母さんたちの言い分を、それとなく子どもたちに伝えると「お母さんにはだまっててよ。ホント言うと、わるいけどお母さんが作ったものより給食のほうがずっとおいしいんだ。」「きょうはファミレスで夕飯、ってことになるとうれしいな。いろんなメニューがあるし」と口々に言います。

 「きょうは塾から帰って、しゃぶしゃぶだあ。たのしみだなあ」と帰り際に言う子に「肉とおなじ重さの野菜も食べてる?」と聞くと「う〜ん、サラダが出るかもしれない」と言います。「野菜食べてるよ」と言う子でも、そのほとんどがレタス・きゅうり・トマトなどの生野菜で、下ごしらえが必要な根菜類の話はあまり聞きません。

 若い主婦の間では、どれだけ食費を節約しているかということを半ば自慢げに語られることがあるそうです。それも、残り物にすこし手を加えて一品を作るという質素倹約ではなく、できるだけ安い食材を買ってきて簡単に済ませる家庭も少なくないそうです。

 「ウチでは子どもの好きなものを食べさせているからすこし偏るかもしれないけれど、給食でいろいろなものを食べさせてもらっているから」と“給食頼み”の声も多いということを聞きます。このごろの給食は、たしかに質・量ともになかなかバランスのよいメニューのようです。それでも、子どもたちに聞くと、食べ始めてからわずか15分足らずで片付け始めるということで、食べ盛りの子たちなのに、早食いの子以外はどうしても残してしまうそうです。文科省が言うように、給食が食育の一環と考えるなら、せめて30分くらいかけてゆっくりと“楽しむ”ことも必要でしょうね。

 話がすこしずれますが、給食を残したり好き嫌いがある生徒に対して、教師が無理強いすることが問題となり、子どもたちが残すにまかせている学校があると聞きます。しかし、こんなときこそ、食物アレルギーの有無、ふだんの食生活などを知って、子どもたちとのコミュニケーションを深めるまたとないチャンスのような気がします。そのためにも、給食の時間はたっぷりと確保してほしいと思いますが、どうでしょうか?

 インスタント食品・コンビニ食と便利なものがあふれている現代に、それに逆行するような食生活を提言しても不自然なことだとは思いますが、子育て中の若いお母さんお父さんたちには、そういう“便利な食品”は、せめて“いざ”というときだけにしてほしいとお願いしたいところです。
 
 食べることは、あらゆる生活場面の中でもっとも大切なことなので、お父さんも子どもたちも総動員で“楽しい食卓”を実現し維持することが、個々の家庭の問題としても社会全体にとっても、思いのほか大きな意味を持つように感じています。


**11月22日(火)掲載**
(す〜爺)

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第160回 “食”の崩壊
 158回の冒頭にとりあげたような家庭は、わたしの周辺に限ってみても珍しいことではありません。現在ではむしろ、かなりありふれた話のように思えます。「塾に来る前に、送ってきてくれたお母さんといっしょに車の中でコンビニ弁当を食べていたので、遅刻した」と言いながら教室に入ってきた中学生がいます。「マーボカレー丼、うまかったよ。お母さんも『家で食べるよりよかったでしょ』って言ってた。」と無邪気に喜んでいます。

 「きょうの夕飯は野菜炒めだった」と言う子に「ほかには?」と聞くと、きょとんとした表情で「あと、ご飯をレンジで温めた」。ちょうど、塾が終わったところで、残っている子も少なかったので、さらにくわしく聞いてみました。すると、野菜炒めの実態は、スーパーマーケットで千切りにしてあるキャベツとひげ根を取って処理してあるモヤシを買ってきてそのままなべ?!で炒めただけ、ご飯はパックになっているのを電子レンジに入れて温めるだけ、というものでした。「お母さん、きょうは忙しかったのかな?」と聞くと「いつもそんなもんだよ。それに肉が入っていたらラッキーだ。」と言います。

 以前、わたしのところでは、塾の授業時間の間に1時間ほどの休み時間をとって、夕食を食べていました。職住一体ということもあり、子どもたちはよく食堂をのぞきに来て、「きょうはだれの誕生日?」と不思議そうな顔をしています。「どうして?」と聞くと「だってご馳走が並んでいるじゃない。」と言います。われわれの食卓に並んでいるのは、塾が始まる前に下ごしらえなどをしたり調理しておいたありふれた煮物、酢の物、漬物、焼き魚などが5,6品と味噌汁とご飯です。これが、もう20年以上前の話です。そのときの“子ども”たちは、もう親になって小中学生を育てている年齢になっています。

 ところで最近「<現代家族>の誕生」岩村暢子著(勁草書房刊)という大変衝撃的な本を読みました。2000以上もの食卓を5年にわたって調査した結果を基に書かれた、同じ著者の「変わる家族 変わる食卓」という前著と併せて読むと、“食”だけにとどまらず、家族や子どもたちの今後、これからの社会、を読み解く大きな示唆をもらったような気がします。本の紹介をするのが目的ではないので、要約すると「1960年生まれ前後で“食”に限らずあらゆる価値観においてはっきりと大きな断層がある。さらに調べを進めると、それは、彼女彼らの親世代が、非常に特異な激動の時代のなかで成長期を過ごし、さらに経済の急成長・情報の多様化などの時代に家庭生活を始めた世代であることと深い相関性がある。」というものです。

 この本によれば、1960年前後は、自宅出産から施設出産への大転換、児童福祉法の成立、育児書ブーム、現皇太子誕生、子ども向け商品や子ども向け番組の急増、等々、偶然とは思えない“お子様時代”が一気に到来したようです。

 これまでこのコラムで取り上げたさまざまなテーマのほとんどは、個々人の問題というよりも、時代の大きな流れのなかで捉えていかなければならないものである、ということを、この本は改めて教えてくれたようです。そして、われわれは、その時代の流れのなかのどの部分を受け入れ、どの流れに抵抗しなければならないのかを深く考える時期にきているようです。


**11月15日(火)掲載**
(す〜爺)

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第159回“社会意識”と“公の意識”その2
 前回の続きです。かつては、家族が互いに協力しなければなし得なかったことがたくさんあった、と書きました。これは、なにも家族に限ったことではありません。

 近所が声を掛け合うことで、空き巣の被害も防ぎました。葬儀になれば、隣近所の人が受付をしたり、お清めの席を取り仕切りました。近所の子どもたちのことは、おたがいによく知っていたので、挨拶をし声を掛け合いました。

 企業は利益追求の組織だとしても、中小の経営者たちは地域の中での評判を大切にしなければならなかったし、大企業では、法・行政・銀行・労組・マスメディアなどの監視のなかで、従業員の雇用を守り、経済社会の一員としての“社会的責任”を果たすというのが、経営者の当然の仕事でした。

 「なにをいまさら年寄りの繰言を・・」と言われるかもしれませんが、家庭でも地域でも企業社会でも、これらは、戦後60年の中のごく最近まで存在していたことです。

 世紀をはさんで急に台頭してきた新自由主義、グローバリズム、脱近代能力主義といわれる一連の動きが、経済資本、文化資本、社会資本など社会のさまざまな状況を決定的に変えてしまったようです。

 いろいろなサービス産業は、従来家族や夫婦の間で行われてきたほとんどのこと、食事・家計管理・家族旅行・介護・衛生・性までを、市場での取引の対象にしてきました。翻って考えてみれば、塾もまたそういうすき間に入り込んでいった“徒花(あだばな)”であるわけです。

 ホームセキュリティーが普及し、葬儀はほとんど喪服を着るだけで済むし、地域管理のほとんどを業者委託しています。

 フランチャイズ化され、派遣や契約社員、パートタイマーがほとんどになっている企業の経営者にはごく少人数のスペシャリストがついているだけで、マニュアルに従って働く大勢の一般の従業員はもちろん、会計・営業・技術のプロたちさえも、自分たちに利益をもたらす“道具”にすぎません。

 つまり、“社会意識”の必要のない社会が現実のものとなってきています。一人では生きられない“社会的動物”であるはずのわれわれは、こういう社会の中では、少なくとも表面上は一人で生きることができてしまいます。しかし、何万年と培われてきた“社会的動物”としてのDNAは、この急激な変化に耐えられるはずがありません。支え合う家庭、寄るべき地域、信頼できる企業社会を失えば、大きな不安が生まれます。

 そこに“国家を愛する意識”“公の意識”が、大きな力を持って植え込まれようとしています。われわれが年月をかけて獲得してきた“自由で平等な社会”をどのようにして維持していくかという正念場を迎えているような気がします。


**11月8日(火)掲載**
(す〜爺)

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第158回“社会意識”と“公の意識”その1
 「今日はお父さん出張で、お母さんは友だちと飲み会、お兄ちゃんはバイトで帰ってこないし、大丈夫なんだ」塾の授業が終わってからも、なんとなく帰りそびれている中学生に声をかけると、こんな答えが返ってきました。「夕飯はどうするの? おなかすいたんじゃない?」と聞くと、「ここに来る前にお菓子食ってきたし、帰る途中でコンビニ弁当買って帰るから大丈夫」とあっけらかんとしています。

 わたしの家の裏は5階建ての賃貸マンションですが、そこのごみ収集場には、近所のアパートの住民や通勤途中の人たちが、分別や収集日とは無関係にごみを投げ込んでいきます。散乱したごみは、マンションの管理人から委託された業者や、わたしを含めた近隣の“老人”たちが後始末をします。アパート・マンションの人たちの多くは名前も知らない人たちです。

 企業社会では、わたしのような在宅労働者(?)には想像もつかないことが進行しているようです。先日、ひさしぶりに立ち寄ってくれた塾OBのN君の話では、彼の会社で働いている人の大半は派遣社員、契約社員、パートタイマーだそうです。なかには非常に高い専門知識や技術を持っていて、各種の税や保険などが天引きされる正社員よりもずっと高い給与をもらっている人もいるけれど、そういう人たちはそれぞれが独立した自営業者のような立場だということです。それに、こういう企業はどんどん増えているのだそうです。
 こうして考えてみると、家庭でも地域でも企業でも、急速に個別化が進んでいるようです。そして、こういう状況の中では、前回わたしが取り上げた“社会の中の自分”などは、まるで“前世紀の遺物”でもあるかのように無関係に生活している大人が大勢います。
 かつては、家族で考え、家族が協力しなければなしえなかったことがたくさんありました。病気になれば、家族で見守りながらおかゆを炊いたり水枕をしたり湯たんぽを用意したりしました。家族旅行ともなれば、みんなで手分けして時刻表から現地の様子を調べたり、荷物の割り振りをしたりしました。もちろん、食事は暗いうちに準備を始め、掃除は子どもたちの分担でした。(つづく)

 「初期のころに比べると、このところの1回分が長すぎないか? なにが言いたいのか却って見えにくくなっているよ」とある知人から指摘されました。あらためて調べてみると第1回の約3倍、2年前の約2倍になっています。そこで、今回はすこし短めにしてみました。皆さんのご意見もお聞かせください。


**11月1日(火)掲載**
(す〜爺)

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第157回 “社会の中の自分”
 前回、“かけがえのない自分”とは「古今東西人類の歴史の中で、自分という存在はただ一人で、いままでもこれからも現れない」という意味だと書きました。一方、人間は一人では生きられません。アリストテレスのことばを借りるまでもなく、“人間は社会的動物”であるからです。

 ところが、若者や子どもたちにとって、“かけがえのない自分”という意味は比較的受け入れやすいのですが、“おおぜいの中の自分”“社会の中の自分”となると、とたんに不安な表情になります。不安になるだけでなく「社会なんて関係ない。まだ社会になんか出ていないし、自分がどう生きるかだけしか考えられない。」と言い切る若者もいます。

 しかし、母子−家族という人間関係から人生が始まって、学校という厳然とした“社会”と出会うことになる過程で「自分はたくさんの人の中の一人なんだ」と認めなければならないことがどうしても出てきます。

 幼かったころ、自分の母親が祖母に向かって「お母さん」と呼びかけるのを聞いてとても奇妙な感じになった、という経験は、多くの人が持つようです。「お母さんにもお母さんがいて、お母さんはおばあちゃんの子どもなんだ」という感慨です。ほどなく、自分にとって動かしがたく固定した存在である“母”が、“父の妻”であり“お兄ちゃんの母”でもあり、さらには“伯叔父母にとっては姉妹”である、ということまで“自分の母”の呼ばれ方から学んでいきます。そして、自分自身もまた、お兄ちゃんであり、孫であり、というさまざまな人間関係のなかの存在であることを知ります。

 ここまで考えてきて、ふと気がついたことがあります。それは、英語の勉強で、子どもたちが比較的高学年まで迷うことのひとつが、人称代名詞だということです。わたし−I・my・me、あなた−you・your・you、彼−he・his・him、彼女−she・her・her、などと丸暗記して覚えているので「父は自分の名前が気に入っている」という日本文を「My father likes my name.」などとやって、その間違いになかなか気がつかなかったり「Are your brother and my sister classmates at school?」に対して「Yes,we are.」という類の間違いは、英語が得意な高校生でもよくやります。頭の中でその状況を思い浮かべれば間違えるはずがない、と思うのですが、なかなかこれがむずかしいようです。こういうことが、近頃の人間関係の把握の希薄さに起因するのかどうか、はっきりしたことは言えませんが、むかしの中学生・高校生では、とくに人称代名詞でこんなに苦労した記憶がありません。

 話がちょっと横道に逸れてしまいました。ともあれ、成長するにつれて「人間は、お互いの関係の中で役割や立場が違ってくるもので、自分もまたそういう“おおぜいの中の一人”である」と認識するようになり、社会もまたそういう人間関係の複合体であって、自分自身も“社会のなかの一員”であると自覚するようになるのが自然の摂理である、と多くの人たちは考えてきたのではないでしょうか。

 “社会の中の自分”を意識すれば、自分自身の生活と直接関係のなさそうなことでも「この社会状況はおかしい、このルールは変えたほうがよいのではないか」という意見が出てきます。好き勝手にふるまう個人や国の集合では社会も国際社会も成り立たない、共存しなければ、社会も国際社会も崩壊し、さらには“自分という存在”も崩壊する、共存するためには一体どうしたらよいのかを、必然的に考えるようになるはずです。

 ところが、このところ、そういう意識が若者たちの中から急速に失われてきている、と思えてなりません。比較的知的欲求の高い若者たちが社会や政治について論じることはあっても、“社会のなかの自分”という視点が抜け落ちているので、自分の生き方と不可分で切実な問題としてより、観念の世界の話をしているように感じることがあります。

 かなり以前から“公的空間と私的空間との混同”ということが言われています。大学の講義中の私語から始まって、電車内での化粧やケータイ、人目もはばからない“いちゃつき”などの、文字通り傍若無人なふるまいが大人たちを驚かせていましたが、このごろでは話題に上ることも少なくなりました。気がつくと、授業参観での親たちの私語、電車内でケータイを耳に大声で仕事の打ち合わせ、など、大人たちまでが公的空間を私的な空間にしています。いや、そういう人たちが大人として社会の中心になってきたのだと言う人もいます。

 あるタレントが言っていた「見も知らぬ人から、まるで友だちであるかのように話しかけられることがとても多い」ということばが、わたしにはとても印象的でした。行ったはずのない場所のことをとても詳しく知っている子がいます。大災害の一部始終を、現場にいたかのように教えてくれる子がいます。社会的・公的空間であるはずのものが、本来はまったくプライベートであるはずの家庭や自室などの空間にどんどん入り込んできた結果が、そういう現象を惹き起こしているのだと思います。どんな公的空間もすべてディスプレイの中の世界と同じなのかもしれません。

 そういう中で“社会の中の自分”という意識が育つのは、とてもむずかしいことなのかもしれませんが、社会が健全に持続するには、なんとしても、次の世代の人たちひとりひとりが、“社会の中の自分”に目覚めてもらわなければなりません。それこそが“教育の本来の目的”といってもよいのではないでしょうか。


**10月25日(火)掲載**
(す〜爺)

元の文章を引用する

 
Re: 第157回 “社会の中の自分”2005/10/25 20:27:58  
                     高2の親

 
 いつものごあいさつですが・・お久しぶりです。
高2の子は中間テスト玉砕です。

 社会の中の自分を知って、
社会に上手く適応することの重要さに文部科学省もようやく気づいたようですが、
なんせ、バーチャルな技術の進度がハンパ無くて、
「バーチャルはもういいから、リアルを体験したい」
というような青少年が出現しているように思います。
それが、犯罪でなければ良いのですが。

 そんな世の中で、良い大人が(いい大人が・・・と言う意味ではなく、良心ある)
子供とじっくり関わってくれる機会は、リアルで貴重です。
学校の先生方は忙しそうだし、
利益追求の教育産業にかかわる大人は良心の面では期待できないので。

つまり、すー爺さんの時代が来ましたよ〜ということです。
近所だったらお世話になりたいです。ホントに。

 

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御礼2005/10/28 18:01:31  
                     す〜爺

 
高2の親さん、うれしい書き込みありがとうございます。お返事遅くなりました。
 中間テスト玉砕とのこと。高校では、評定平均を上げて指定校推薦を狙うなら、定期テストの成績はしっかり確保している必要があります。しかし、中学とちがって、先生や学校による定期テストの傾向やレベルの違いは際立っているので、AO入試・一般受験を目指すならあまり気にせず、赤点を取らない程度に勉強(要領は前回書きましたよね)して、受験科目あるいは得意分野については絶対の自信がもてるくらいの備えをしておいたほうがいいですね。

 ところで、<「バーチャルはもういいから、リアルを体験したい」というような青少年が出現しているように思います>という指摘は、充分あり得ることでぞっとしますね。

<つまり、すー爺さんの時代が来ましたよ〜ということです。>なんて、身に余ることばですが、わたしの時代はとっくに終わって、若い人たちが新しい感覚で次の世代を育てていく必要があると思います。
 じつは、このところ、わたしの塾とは直接関係のないお母さんたち(塾生の親が一人いますが)と月に一度公民館などで勉強会をしています。30代からたぶんわたしと同年代までのメンバー7〜8人と、(現在は憲法の話がメインテーマですが)社会・政治・食・環境・子どもなど、いろいろなテーマについておしゃべりをしています。自由な議論の中からわたしが学ぶことも多く、若い世代が、来るべき時代について真剣に考えていることを感じてとても心強く思っています。なかにはこの連載を読んでいるメンバーもいるので、そのうち鋭い批判も飛び出してくるのではないかと楽しみにしています。
 
 どちらかと言えば引っ込み思案のわたしが、この勉強会のお誘いに乗ったのも「高2の親」さんを初めとするみなさんが、こういうやりとりをしてくださってきたことが大きな機縁となっています。あらためてお礼を申し上げます。
 

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第156回 “かけがえのない自分”
 前回“プライド”を取り上げたついでに、よく言われる“かけがえのない自分”“only one としての自分”とは何かを考えてみたいと思います。
 
 かれこれ20数年前の話で、いまではもう特定できる人もいないはずなので、その当時のある塾生の話をすることにします。T君は、母一人子一人の家庭で育ちました。わたしが、ある事情でこの親子を以前から知っていたこともあって、彼は道で会うと実に愛くるしい顔で「こんにちは〜」と元気よく挨拶をしてくれました。その彼が中学に入るとまもなく、目つきが暗く鋭くなってきて、そのうち同じ中学の塾生からも、学校での彼の悪いうわさを耳にするようになりました。

 そして、ある日のこと、お母さんが「じつは、学校でいろいろ問題を起こしているんです。わたしの言うことも先生の言うことも聞きません。勉強がぜんぜんわからないことがつらいようなので、塾に入れてもらえませんか。」と言ってきました。ちょうどその学年のクラスの席も空いていたので、引き受けることにしましたが、彼が塾生になることを告げたときには、同じ中学の子たちはどことなく不安そうでした。ところが、その子たちを説得して彼を受け入れてみたものの、勉強に対する強いストッパーがかかっているので、勉強を始めるとすぐに頭が痛くなってしまい、机に突っ伏してしまいます。

 それからしばらくすると「T君が、お母さんに対してかなり激しい暴力を振るっているらしい」という話が聞こえてきました。お母さんに確かめると、それまでもどなったり小突いたりすることはあったけれど、塾に入ったころから暴力がエスカレートしてきた、と言うのです。わたしは、彼がひとりになる機会を見計らって「塾に来るのがつらいか?」と聞いてみました。彼はしばらく黙ってうつむいていましたが、そのうちボロボロと涙を流し始めました。

 「オレは勉強もできないし、学校でもワルをしているし、かあちゃんにつらい思いばかりさせている。それなのに、一生懸命働いて、オレを塾にやってくれて、自分は化粧もしないし服も買わない、オレに『食え、食え』と言うのに、自分はいつも残り物ばかり食っている。そういうかあちゃんをみていると、もうたまらなくなって手が出ちゃうんだ。気がつくと、かあちゃんの口から血が出るくらいに殴っている。オレなんか生きていてもしょうがない。早く死にたい・・・・・」すでにわたしよりもりっぱな体格になっていたT君が、幼児のように泣きじゃくりながらとぎれとぎれに言ったことばをつなぐと、こういうことでした。

 なんとまじめでやさしい子なんだ、わたしは胸を熱くしながら彼の涙を見つめていました。でも、不器用な彼は、母親の悲しい目に出会うたびに暴力をエスカレートさせ、同時に自分自身を極限にまで傷つけていたようです。

 わたしは、そういう彼にポツポツと次のような話をしました。「オレは、きみに会うことができてとてもよかったと思うよ。きみほどまじめでやさしい子はめったにいない。そういうきみに会う前のオレと会ったあとのオレとでは確実にちがっている。“心のアンテナの向き”がすこしちがっているはずだ。そうすると、オレの“心のアンテナの向き”が違えば、塾生たちの“心のアンテナの向き”だってほんの少しはちがう。そういう風に考えると、世界中の人と人はどこかでみんなつながっているのだから、きみがいるかいないかで世界がちがってくるのかもしれないよ。だから、きみは世界に対して“責任”があるかもしれない。」われながら少々変な理屈だと思いながら話したのですが、T君はとても素直に受け止めてくれて「そうかあ、オレと会えてよかったんだあ。オレにも責任があるんだあ」と言ってくれました。T君は、相変わらず勉強は苦手のままでしたが、すこしずつ本来の能天気な表情を取り戻していきました。

 “かけがえのない自分”というと、思春期には、みんなから「すごい!」と言われ、特別な存在でなければいけないように思うものです。でも、“かけがえのない自分”とは、そんな自分意識とは無関係に存在します。もちろん“なんの取り柄もないつまらない自分”という意識とも関係がありません。古今東西人類の歴史の中で、自分という存在はただ一人で、いままでもこれからも現れない、というのが“かけがえのない自分”という意味です。そのあたりのことが、理屈抜きに体にしみこんでいくことが大切なのではないかとT君の顔を見つめながら考えていたことを思い出します。


**10月18日(火)掲載**
(す〜爺)

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