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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2015/06/19(金)
第253回:北極圏直下の孤島へ(11)
 読者諸賢へ。現在、「福島 -『失われた地の記憶』- 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細をお伝えしています。ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 ソロフキ滞在許可は8日間だった。しかし、この日数では、諸島をくまなく歩き回ることは到底不可能だ。訪島してからの3日間は、クレムリンとその周辺ばかりをうろつき、修道士とのバトルに明け暮れた。この島には歴史的にも重要な場所がいくつもあり、ぼくは次なる撮影場所を定める必要に迫られていた。

 この旅に備えて、ぼくはふやけきった足腰を鍛えようとリュックに5kgのダンベルを2本詰め込み、2ヶ月余、約70日間にわたり連日1時間半のウォーキングに勤しんだ。そして、この鍛錬がどれほどバカバカしいものであるか、いかに腹立たしいものであるかを思い知った。この鍛錬はぼくにはまったく不似合いなものだった。

 それは効果の程を窺うことではなく、行為そのものがひどく空虚なものに感じられたからだ。1時間半の非生産的な時間が無性に惜しいのである。
 ウォーキングに費やした105時間に一体何冊の書物が読めただろうかと思うと、居ても立ってもいられぬほど、その愚行を恨めしく思ったものだ。地獄のような苦しみを味わったといっても過言ではない。ぼくは世の中のありとあらゆるものに憎しみを抱くようになっていた。万歩計とかいう無意味かつ滑稽なものを身につけ(ぼくは持っていない)、悪霊に取り憑かれたように嬉々としてその業に励む人を見ると、同じ人類とは思えず、人類愛などというおためごかしに思わず大きな喝采を送りたくもなる。
 ぼくはウォーキングに打ちのめされ、すっかり臍が曲がっていたのだった。

 その成果を、地の果てと思われるようなソロフキで試そうとはつゆほども思わなかったが、ソロフキも滞在3日を過ぎ、ひとまずクレムリンから身を離し、次なる目的地は、クレムリンより北西11kmに位置するセキルナヤに定めた。
 そこはソロフキでも悪名を馳せたところであり、20世紀に於ける人類の最も残虐非道な所業があったその象徴ともいえる場所だった。“囚人たちに一番恐れられた場所”との予備知識は、ぼくの鍛えられた足を重くしたが、ソロフキを語る上で外せない場所でもあった。血も凍るような凄惨極まりない拷問・処刑が行われ、ここからの生還者はほとんどいない。
 セキルナヤの存在は、国家の隠蔽工作により長年ひた隠しにされてきた。1920年代後半にソロフキに於ける残虐行為が欧米に流布され始めると、政府は世界に知られた作家マクシム・ゴーリキー(1868-1936年)を担ぎ出し、事実隠蔽・捏造のための宣伝工作 (プロパガンダ) に乗り出した。
 ゴーリキーは1929年6月、チェーカー(KGBの前身)監視のもとソロフキに3日間滞在し、セキルナヤを視察している。ゴーリキーは政府の望む筋書き通りのソロフキ訪問記をものし、流布され始めた悪評はたちまち打ち消されたのだった。いつの時代も、プロパガンダは、知らずのうちに人間の良心を蝕むものだ。自由・平等・民主を標榜し、教育を受けた国民でさえ、プロパガンダに抗する手立てを持てずにいることを、私たちは認めなくてはならない。

 セキルナヤまでカメラバッグを担いで往復22kmの行軍はしかし、いくらバカバカしい鍛錬を積んできたとはいえ、大手術の回復期にあったぼくは、体力を極力温存しておきたかった。1ヶ月におよぶぼくの旅は始まったばかりなのだから。
 どうやってセキルナヤへ行くかという難題につきまとわれていたぼくは、ある妙案を思いついた。宿の女将カーチャの一人息子が自転車を乗り回している姿を思い出し、ぼくの悩みは解消された。13歳の可愛いロシア少年には、ぼくがセキルナヤから無事帰還したら、柔道の必殺技を指南するという約束で、自転車を借りることにした。ぼくは日本文化を伝える親善大使の役を買って出たのだった。

 穏やかなアップダウンの続く道を行くと、やがて心細い路先の真正面にロシア正教会が豆粒ほどの大きさで現れた。視界のほとんどは森の木々で覆われ、まるで覗き穴から見ているようだった。10kmのデコボコ路を走破してきたぼくの呼吸は乱れてはいたが、19世紀末に撮られた味わい深い写真(参考写真01)を思い起こし、それはどのあたりから撮られたものであろうかと推察する余裕があった。その写真に写っている馬糞までもが思い起こせた。
 当時の撮影はもちろん三脚を据え、大型カメラに感光乳剤を塗った乾板を差し込み、時間のかかる面倒な作業だったので、馬はその間を堪えきれずに粗相に至ったものと思われる。この場所で、現代の写真屋は200mmの望遠レンズをつけ、三脚を使わず、当時の写真師がびっくりするほどの早業でやってのけた。現代なら、馬の面目を保ってやることができただろうに。

 教会がぼくの網膜に鮮明に映し出され、奇妙なことに気がついた。ネギ坊主の上にあるべき十字架が見当たらない。しかも、十字架の代わりに今まで見たこともないようなおかしなものが備え付けられていた。そのおかしなものは昔の写真にも存在している。それは灯台の灯火であり、白海を航行する船に安全を提供していたのだろう。ソロフキの最高地点(海抜73m)に灯台を設置したのは理のあることだった。灯台付き教会とは洒落ている。そのお洒落な教会が苛酷無比の懲罰房として利用されたとは、なんという皮肉だろうか。
 敬虔な祈りの場と、そして暴虐の限りが、同じ場所で起こったことについて、誰がどのように説明してくれるのだろうか? ドストエフスキーは、「ロシア正教徒でないものはロシア人にあらず」とまでいったではないか。ぼくはこの地でまたまた大きな難題を抱え込むことになってしまった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/253.html

★「01 19世紀末の写真」。
ヤコフ・I・ライツィンガーが19世紀末に撮ったセキルナヤ丘。

★「02 セキルナヤ」。
「01」とほぼ同じ位置から撮ったセキルナヤ丘。焦点距離200mmの望遠で。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/200秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03 囚人慰霊碑」。
セキルナヤには2つの囚人慰霊碑が建てられている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/50秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「04 M.ゴーリキー」。
セキルナヤの教会内に貼られていたゴーリキー(右から2番目)の写真。ソロフキへの定期船グレープ・ボーキーという名の船上であるらしい。撮影厳禁ながら修道士の目を盗んで。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf1.8、 1/30秒、ISO400、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2015/06/12(金)
第252回:北極圏直下の孤島へ(10)
 読者諸賢へ。現在、「福島 -『失われた地の記憶』- 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
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http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 ロシア気象庁のホームページで本日のソロフキ(北緯65度)の日没・出時間と気温を調べてみると、日の入り午後11時29分、日の出午前1時44分、日中平均気温+7℃とある。お天道さまは2時間15分だけ、つかの間の仮眠を取るようだ。地平線へ深く沈み込むわけではなく、やがて到来する完全な白夜に備えていつでも顔を出せるよう身支度を整えているといったところだ。
 北緯60度のサンクトペテルブルク、62度のシベリアのヤクーツク(サハ共和国の首都)などで、いわゆる白夜というものを何度か体験したことがあるが、ソロフキの太陽が最も威勢がよく、気力に優れている。しかし、夏の働きぶりに比べ、冬はお愛想程度にちょっとだけ顔を出し、冬眠状態を決め込んでいる。その対比はあまりにも極端で、何事に於いても極端から極端に走るロシア人そのものであるようで面白い。そのようなロシア人の民族的な気質は、四季の日照状態によるものだというぼくの説に、うなずく者は今のところ誰もいない。

 2015年の今年は、6月22日が夏至にあたるそうだが、その前後の何日間かは、お天道さまは労働意欲に長け、不眠不休で24時間地平線に沈むことなく天空をぐるぐると舞い続ける。今、来たるべき夏至を控え、本日わずかながらの時間、陽は沈みこそすれ浮沈戦艦のようにすぐさま出番に向けてつつがなく準備を整え、体力を温存しているのだから、ソロフキの太陽は偉いのである。

 白夜というものに馴染みのない我々日本人の感覚からすれば、白夜についてどこかロマンチックな情景を描きがちである。ぼくもそのような感覚を抱いていたひとりである。
 かつてレニングラード(現サンクトペテルブルク)で、コンサートに行った時のこと。ぼくはレニングラードを訪れるたびに、名オーケストラの誉れ高いレニングラード・フィルハーモニー・オーケストラの演奏会を愉しみにしていた。強引な手法でリハーサルを撮影させてもらったこともある。
 演奏が終わり、席にうずくまり、心地よい余韻に浸りながらとばりの降りた夜の街を思い描いた。エルミタージュ美術館の存在にふさわしく、レニングラードはとても美しい街だ(1990年世界遺産登録)。演奏会での感動をそのままホテルの自室にまで持ち帰ることができる雰囲気に溢れている。ドブ板を踏みながら帰るどこかの国とはそこが大違いだ。ホテルまで帰る途上にあるレストランで軽い夕食を取ろうと心積もりをした。しかし、コンサート会場を一歩出たところでぼくの夢はあっけなく潰(つい)えてしまった。
 夜の11時近く、忍び寄る夜に歴史的な建造物が、色とりどりの色彩を放ちながら鮮やかに浮き上がり、街灯(点光源)に照らされ強いコントラストをなしていると勝手に想像し、そのフォトジェニックな光景を写し取ろうと意欲をかき立てていたのだが、あにはからんや、表はギンギラギンの夕陽に染まっておりました! 往来も多く、子供たちが歓声を上げて遊び回っているではないか! なんたること!
 夕陽に染まったレニングラードの街は世界有数の美しさを誇っているに違いないが、あまりにもぼくの想像とかけ離れていたので、ぼくは意気消沈し、撮影意欲も萎え、落胆を隠せなかった。それがぼくの白夜初体験だった。

 ソロフキの女将カーチャ(正式名エカテリーナの愛称。カチューシャともいう。ロシアの人名にはすべて愛称があるので、これを知らないとロシア文学を読んでいて、わけが分からなくなる)によると、白夜真っ盛りの6月から7月上旬にかけて、ソロフキはまだところどころに残り雪があるとのことだった。
 白夜に慣れているはずのロシア人でもこの季節は睡眠不足になると笑っていた。サンクトペテルブルク出身の彼女は、「白夜なんかないほうがいいわ。調子狂っちゃう。ロシアにおかしな人間が多いのはきっと白夜のせいよ」と言い切り、ぼくの怪しげな説に多少の同意を示してくれた。確かに写真屋もどきのコーリャを見ていると、どこかタガが外れている。彼はモスクワから北方2000kmにある北極圏最大の街、ムールマンスク(北緯69度)で幼少時代を過ごしたといっていたから、ぼくの説はますます信憑性を帯びてくるのだ。

 ぼくの滞在した9月中旬のソロフキは、日没が午後8時半頃で夜明けは6時頃だったと記憶する。お天道さまが適正な睡眠時間を取り、かなりまっとうな仕事をし始めた頃で、この時期を選んだのは正解だったと今になって思う。
 そして、お天道さまが真面目な仕事ぶりを発揮する短い期間に見せる朝焼けと夕焼けは尋常なものではなく、日本では滅多に見られぬくらい赤の濃度が強烈だ。自身の出勤時を誇示しようとしているのだろうが、いささかやり過ぎである。そこまで空を燃やす必要もなかろうと思うのだが、「ロシアはこのくらいでちょうどいいのだ。“赤の広場”(モスクワのクレムリンにある広場で、“赤”とは元々“美しい”というロシア語)っていうじゃないか」と変なこじつけをしないでもらいたい。
 ソロフキの赤は鮮やかさを通り越して不気味でさえある。ヤケクソのように飽和しかかった赤、十分に睡眠時間を取った元気あり余るような赤だ。そこには恥じらいも、しとやかさもない、まさに文字通り赤裸々ともいうべきもので、夏季睡眠不足の“埋め合わせ”というにはかなり度が過ぎている。
 夕焼け写真のあまり好きではないぼくが、「それなら2枚くらいは記念に撮ってやろうじゃないか」と、しぶしぶ撮影したものを、恥ずかしげもなく掲載させていただく。ぼくは控え目な人間なので、赤の操作はしておりません!

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/252.html

★「01クレムリンの夕焼け」。
すべての希望を奪われた囚人たちは毎日このような鮮やかな夕陽をどのような面持ちでながめていたのだろうか?
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50 F1.8II。絞りf7.1、 1/500秒、ISO100、露出補正-1。

★「02沈み行く陽」。
午後8時22分。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/320秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2015/06/05(金)
第251回:北極圏直下の孤島へ(9)
 読者諸賢へ。現在、「福島 -『失われた地の記憶』- 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
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http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 野外ミサが終焉に近づき、ぼくは行方知れずのコーリャが気になり出した。撮影中は虚仮(こけ)も一心(愚者でも一心に仕事をすれば良い成果を得られるという意)だから、姿をくらました彼の動静を探る余裕などなかったが、正気を取り戻した今、「あれほど興奮し、撮影意欲満々だった彼は、一体どこに雲隠れしてしまったのだろうか? ひょっとすると、修業の足りない平役修道士の罠にはまり、繩をかけられ、地下牢にでも幽閉されているのではないだろうか? あの平役は見るからに悪知恵が働きそうだし、意地も悪そうだから、神隠しの呪いくらいはかけるかも知れない。あの気配はどこか油断ならないものがある」と、ぼくはコーリャの身を憂えた。
 そして、ぼくにはもう一つの憂いがあった。コーリャは自称プロなのだが、カメラさばきや身のこなし、撮影に対しての情炎というか使命感のようなものが、どうしてもプロにそぐわないのだ。彼もまた修業が足りないかのように見えた。気概というものが全体に希薄で、何かが欠落していた。意欲に相応した撮影技術が不足しているのではないかという懸念をぼくは抱いた。ちなみに「気概」を辞書で引いてみると、「困難にくじけない強い意気」(広辞苑)とあるから、この場合「気概」で間違いない。

 儀式が終わり、修道士や信者たちが一団となりぞろぞろとクレムリンへ引き返す頃、ぼくは彼らに拿捕されぬように湖岸からはなれ、「君子危うきに近寄らず」よろしく、遠目に彼らを見送った。ほぼイメージ通りの撮影ができたことに胸を撫で下ろし、村の雑貨屋で仕入れたロシア煙草を一服していると、後方よりごそごそとコーリャがにこやかな表情でお出ましになった。
 お互いに健闘を称え合うも、ぼくは彼のカメラに付けられたレンズを見てギョッとした。と同時に、彼の姿がぼくの視野から消失したことにも合点がいった。焦点距離300mmの超望遠レンズだ。「それって、反則技じゃね?」といいかけたが、幸か不幸かぼくはそんなニュアンスに合致したロシア語を知らなかった。彼はぼくのそんな心情を推し測ることもなく、「うまくやったぞ」と機嫌がいい。ぼくは内心、「そんな横着をしてうまくいくはずがない」と、彼の自称プロを強く否定した。ぼくはちょっと機嫌が悪かった。

 300mmのロングレンズに1.4倍のエクステンダー(レンズの焦点距離を1.4倍に伸ばすアクセサリー)を付け、しかも受光素子はAPS-Cサイズだから、焦点距離672mmというとんでもない望遠レンズということになる。35mm換算(フルサイズ) でも420mmである。
 どんなレンズで撮ろうと、それを他人がとやかくいうのは筋違いだが、あの状況を知っていれば、それは単なる横着に過ぎない。自称であってもプロだというのなら、「体を張ってなんぼ」である。隠し撮りをするための望遠レンズ使用など、あってはならないことだ。パパラッチでもあるまいし。
 いつも述べるように、写真には、すべてが真っ正直に再現されてしまうから恐い。それを隠せると思っているうちはプロではない。自己のアイデンティティを世に晒すのが、プロのプロたるゆえんではないだろうか。
 
 凱旋気分に浸る彼とともに宿に戻ったぼくは、気を取り直そうと女将にコーヒーをねだった。いつもコーヒーをガブ飲みするぼくに、女将は気を利かせて大きめのカップをふたつテーブルに置いてくれた。「食事の前だから、クッキーはあとにしましょうね。焼きたてで美味しいわよ、あとでね。でもそんなにコーヒーを飲んで昼食に障らない?」と、20歳以上も年上のぼくを、まるで子供をあやすようにいった。偉大なる母性というべきか。
 ぼくの気持が和みかけた時、コーリャが無粋な叫びを上げた。カメラのモニターを確認している彼の顔がみるみるうちに変色していった。ブレとピンぼけのオンパレードだと、察するに余りある。撮影したものを、ふたりでモニターを拡大しては、嘆きに沈む。彼の凱旋気分はたちまち敗戦の将に取って代わった。
 聞き及ぶに、彼はソロフキに来る直前に大枚をはたいて、この日本製の300mmレンズを手に入れたとのことで、いわばぶっつけ本番で使用したことになる。ぼくはかつてこのレンズをファッション写真に多用したが、とても良いレンズだ。
 彼は、もしかしたら高価な買い物をしてしまったという後悔が一瞬頭をよぎったようだが、ぼくがそのレンズを褒め称えると、失敗の原因は自分にあると潔く認め、安堵したようだった。彼を納得させるためにぼくは表に彼を連れ出し、望遠レンズの使い方を手ほどきした。モニターを拡大し、彼は自分の毛髪やまつ毛が鮮明に描写されていることを確認し、「オーチン・ハラショー!(“Great!”)」と何度も歓声を上げた。
 彼は、撮影失敗の悲嘆にくれることなく、レンズが優秀であることに気を紛らわせていた。大枚をはたいた価値があったという喜びが、彼の心を大きく支配していたのだった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/251.html

ミサを終えて宿に戻る途上に撮った3枚。

★「01ミサを終えて家路を急ぐ信者たち」。
ドス黒い血に染まったような赤レンガだが、画像補整で彩度を上げたわけではない。この建物の前に囚人たちはいつも整列させられた。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02修道女」。
修道女は修道士と異なり、写真を撮っても襲ってこない。やはり女性の方が、人間ができている。空が白飛びを起こさぬよう露出補正は多めに。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/320秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「03ボート」。
打ち捨てられたボート。いつの時代のものだろう。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/80秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2015/05/29(金)
第250回:北極圏直下の孤島へ(8)
 読者諸賢へ。現在、「福島 -『失われた地の記憶』- 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
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 「撮ってはいけない」といわれれば、「撮りたい」と願うのが正常な感覚の持ち主である。それが人情というもの。この感覚は、人としてとてもまともなことだ。ここまではいい。やがてその思いが昂じると、「できれば撮ってみたい」、「なんとかして撮れないものだろうか」に、人の心理は推移していく。それが自然な感情の流れだ。
 そして、撮影者は「もし撮ってしまったら」それがどのような結果をもたらすかに考えを巡らす。近年、ほとんどの人が、「法に触れるのではないか」というネガティブな方向へ傾くようだ。最近は必要以上に気弱な人が多い。
 そして、「撮れない」ことに対する自己弁護をあれこれとさかんに探し求めるのだ。違法行為は厳に慎むべきことが我が国の習わしだし、それは法治国家の根幹でもある。誰にとっても、法律とは、いってみれば黄門さまの印籠のようなものだ。本当に違法行為かどうかはさておき、「撮れないことはだから仕方のないことだった」と結論づける。うん、これって潔い?

 自分の欲をしまい込むことは(それを“自制”とか“抑制”とかいうらしい)、一種の理性のように思われがちだが、あながちそうともいえない面もある。
 この場合、撮影に関しては明らかな敗者となる。敗者の自覚をもって自己を諦めに導く。欲を通せば、なにがしかのペナルティを受けるかも知れず、したがって、この諦めは、“お仕置き”から逃れるよい方便でもある。印籠は敗者であることの屈辱感を解放する。また、自分を理性的な、分別をわきまえた人間として得心する。

 一方、違法行為でない限り、あるいは誰かを傷つけるのでない限り、理性に囚われない輩も存在する。「撮ってはいけない」といわれれば、反射的に「絶対に撮る」というあまのじゃく的決意を固める撮影者もいる。“お仕置き”などとっくに覚悟の上だし、制止を意に介すことなく、尊大なる使命感を旗印に、燃え上がるような情熱のしもべとなることを厭わない者もいる。これが「1枚の写真に体を張る」という意味なのだと、ぼくは今、我田引水を強引に押し進めようと試みている。

 しかし実際、ぼくの撮った修道士たちの写真は、新生ロシアとなったソロフキでの宗教活動の証として、米ハーバード大学の教材として役に立っていると聞く。余談だが、ハーバード大学のロシア研究者は、未だにこの地へ足を踏み入れることができないとのことだ。
 けれど、ぼくの尊大なる写真的行為など、たかが知れている。ぼくは、『罪と罰』(ドストエフスキー著)の主人公ラスコーリニコフの「ひとつの微細な罪悪は百の善行に償われる」というような哲学的な問題に立ち入ろうとしているわけじゃない。情緒と理知の問題なんて、そう簡単に裁かれるべきではないとも思う。しかし、ラスコーリニコフの微細な罪悪とは殺人だから、ぼくの「かすめ撮り」とは次元の異なる高尚な芸術的深化がここに認められる。この小説は何度読み返しても飽きることがない。

 ぼくがソロフキにやってきた翌日、ロシア人の同業者(コーリャ)が対岸のケミから船に揺られてやってきた。ここに異国の同業者がすでに居座っているという事実に彼は驚きを隠しきれないというふうだった。同業ということもあってか、ぼくらはすぐに打ち解け、ペチカの前は情報交換の場となった。
 翌朝、彼は息せき切って、朝食を取っていたぼくのところに駆け込んできた。 「今日、野外ミサ(ロシア正教では、正しくは“聖体礼儀”といい、ミサはローマ・カトリックのいい方)がある。11時からだ。信者も多く集まる。面白いだろう。一緒に撮ろう」と、興奮を抑えられず、早口でまくしたてた。
 「わかった。ありがとう。あとで行くよ」とぼくは不慣れなロシア語ながら、気後れすることなく堂々と返した。
 聖体礼儀の段取りを知らないぼくは少し早めに宿を出て、クレムリンの正門から出て来るであろうその一団を、テロリストのような心境で待ち構えた。しかし、コーリャの姿はどこにも見当たらなかった。もう儀式が始まりつつあるというのに。

 儀式は司祭が聖湖から聖水を汲み上げるところから始まった。ぼくは可能な限り至近の湖岸に身を寄せ、多くの修道士がいるなか、その情景を2 枚切り取った。太陽が司祭の捧げる十字架にキラキラと反射し(参考写真01)、そのフォトジェニックな光景に、ぼくの写真屋的・道徳的信念は誰にも止めようがないのだと首唱した。
 とっ捕まろうがお仕置きを受けようが、「撮った者勝ち。おれは確信犯だ」と、開き直っている。情緒だの理性だのと、誰がかまっていられようか。このような時、写真屋は自身の天涯孤独を嘆くのである。
 撮影をしているうちにぼくにもささやかな知恵が回ってきた。祈りの間、修道士は狼藉者が身辺をうろつきながらシャッターを切ろうが、彼らは身動きができず、したがってぼくを追い回したりすることができない。ぼくはじっくり仕事に没頭することができるのだ。祈りが終了する頃合いを見計らい、ロシア正教式十字を切り、さっと退却すればいい。祈りの輪のなかに抜き足差し足、忍び寄る猫のように柔らかい身のこなしをもって静々と躍り出、神に感謝を捧げつつ、一発必中の技を(参考写真02)披露してみせるのだ。このような場で、はしたなくも連写などしてはいけない。相手の弱みにつけ込むなど、写真屋の風上にも置けないではないか。野外ミサは、修道士や信者ばかりでなく、写真屋にとってもこの上ない修業の場だった。

 それにしても、あれほど興奮していたコーリャはどこに姿をくらませてしまったのだろうか? そしてまた、ぼくにカメラぶれを起こさせた修業の足りない平役の姿もなく、きっとどこかに隔離されたに違いない。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/250.html

★「01聖水を汲む」。
クレムリンの前にある聖湖より司祭が聖水を汲む。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF135mm F2.0L USM。絞りf5.0、 1/200秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02聖水を信者に振りかける」。
刷毛のしなる瞬間を見計らい1枚だけいただく。一発必中、といったかな?
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF135mm F2.0L USM。絞りf4.5、 1/320秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03祈りの輪」。
この輪のなかへ静々と分け入る。司祭はぼくに目もくれず粛々と儀式を執り行う。やっぱり、修業ができている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「04イコンの整列」。
村の信者が家から持ち出したイコンを太陽に向けて整列。女性はイコンを持たせてもらえないのだろうか?
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF135mm F2.8L USM。絞りf6.4、1/320秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/05/22(金)
第249回:北極圏直下の孤島へ(7)
 読者諸賢へ。現在、「福島 -『失われた地の記憶』- 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細をお伝えしています。ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 ぼくの滞在した2004年当時、鬼ヶ島(ソロフキ)には25人の修道士が活動していた。宗教や布教活動が禁じられていた旧ソビエト時代、宗教者は施政に不都合な者として存在そのものを否定され、言われなき弾圧や迫害を受けた。あるいは収容所に送られ、命脈を絶たれた宗教者は膨大な数にのぼる。
 新生ロシアとなり、宗教の自由が認められると、国教であるロシア正教(正しくはロシア正教会)は春の芽吹きのように、いっせいに花芽を伸ばし始めた。また、教会や宗教施設も同様に破壊されたが、1ヶ月に及ぶこの旅の行く先々で復興が行われていた。ソロフキもその例外ではない。

 ぼくと修道士との天敵関係が結ばれたのはこの旅からではなく、1987年の初訪ソにさかのぼる。旧ソビエト政権が宗教弾圧政策をとるなか、細々とした活動を認められた修道院のひとつが、モスクワの北方約90kmに位置するセルギエフ・ポサードにあるセルギイ大修道院(1993年世界遺産登録)で、ぼくはロシア正教の聖地であるここにお忍びで出かけたのである。ここにはイコン(聖像画)画家として世界的に著名なアンドレイ・ルブリョフ(1360-1430年)作の『至聖三者』がある(現在はモスクワのトレチャコフ美術館蔵)。

 当時、ソ連のビザは都市ごとに発給され、しかも市街地の中心から半径40km以遠に出ることは御法度だった。ぼくはセルギエフ・ポサードのビザを得てなかったので、この地を訪れるにはどこかのツアーにこっそり紛れ込む必要があった。ぼくはこの手をよく使った。ドイツのツアーだろうがスペインのツアーだろうが、どこでもいい。ホテルに貼り出されているツアー予定表のなかに目的地を見つけ、そこのツアーガイドに「連れて行ってくれ」とお願いすれば、いずれも快く「OK」といってくれる。お堅い政府と異なり、ロシア人は決して「ビザを見せろ」なんていわない。

 セルギイ大修道院は、修道士の姿を見ることのできる稀なる場所のひとつだった。ここで初めて見たロシア正教の修道士に向けて、ぼくは条件反射のようにシャッターを切った。ぼくはまだ「かすめ撮り」に習熟しておらず、その未熟さ故に修道士に目ざとく発見され、こっぴどく叱られた苦い経験があった。実のところ苦くもなんともないのだが、ここでは一応そういうことにしておく。
 初訪ソ故、ぼくはロシア語のアルファベットさえ知らずにいたのだから、ましてや言葉が分かるはずもない。「なにか怒っているようだ」と感じるのが関の山で、その理由も根拠も理解できず(しようとさえしない)、ぼくは「これは言葉の通じぬ外国人の特権を利用するに限る」と決め込んだ。ぼくの「蛙の面に小便」という無手勝流の起源はここにある。

 ソロフキ初日、クレムリンに立ち入ると、巡礼者や村の信者と立ち話をしている、おそらく修道士としては平役と思える衣装を身にまとった宿敵と出会った。ぼくは思案を巡らせ、威風堂々たる修道院にレンズを向けるふりをしながら、まず事始めに何気なくその平役を撮ってみようと画策を始めた。
 神に祈りを捧げるが如く、「私はあなたに如何なる類の敵意も悪意も持ってはおりません。ごらんの通り善意に満ちあふれた人間であります。そのことはイエスさまもとっくにお見通しでしょう。ですから私の撮影行為をお咎めになりませんように」と、その場限りの呪文を何度か唱え、平役に向けて渾身の力を込めて、レンズとともに気を送ったのである。
 なにしろ相手は神がかりだから、油断も隙もない。こちらも万事怠りない準備をして挑まなくてはならなかった。しかし、敵も然るもの、ぼくの入念で隙のない目論見を十分に予見しており、レンズを向けた瞬間、じゃれ猫のように素早い反応を示し、手のひらをぼくに向け、総身の力を振り絞りながら霊波を送り、ぼくの身体髪膚(はっぷ)を揺らし、カメラぶれを起こさせたのだった(参考写真01)。それは、ぼくがこの旅で記録した唯一のカメラぶれだった。
 自分の未熟さを棚に上げていうのだが、どうせカメラぶれを誘発させられるのであれば、然るべき高位の修道士でありたかった。どうみても写真の修道士は神々しさや威厳に著しく欠けている。見るからに下っ端然としている。ぼくはこんな修道士に一敗地にまみれたのである。忿怨(ふんえん)が焔の如く燃え起こるのだ。
 ぼくはふてぶてしくも、「人は見かけによる」といつも豪語している。ぼくの人相学にならえば、この修道士はぼく同様に修業が足りない。
 悔しまぎれの感情が多少含まれているとはいえ、驟雨に立つ巡礼のおばあちゃん(参考写真02)の醸すその雰囲気と品位を見比べていただきたい。見事な顔容ではありませんか。その端厳なさまは、まるで鼠と獅子ほどの差があると、写真は忠実に記録している。写真、恐るべきかなといったところだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/249.html

★「01平役修道士」。
「撮っちゃいかん!」と手でぼくを制す平役。無念至極、わずかにブレが。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF35mm F1.4L USM。絞りf4.5、 1/80秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02巡礼のおばあちゃん」。
毎年1ヶ月間、ソロフキに巡礼に来るのだとか。通り雨のなかで。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF135mm F2.0L USM。絞りf4.0、 1/200秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「03祈りを捧げる老女」。
過酷なスターリン時代を生き抜いてきた老女。礼拝堂の前で身じろぎもせず祈りを捧げる。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF135mm F2.0L USM。絞りf4.0、1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/05/15(金)
第248回:北極圏直下の孤島へ(6)
 読者諸賢へ。現在、「福島 −『失われた地の記憶』‐ 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細をお伝えしています。ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 「北極圏直下の孤島へ」シリーズはいつまで続くのか、書き手のぼくにも予想がつかないでいる。その日の気分次第というぼくのいい加減な生き方にも起因するところだが、福島同様に人類の歩んだ歴史の、看過できない忌むべき事柄の一片を、ぼく如き一個人のフィルターを通して語ろうというのだから、気紛れが災いして、思うようにはなかなか事が運ばない。

 このシリーズで、掲載されるすべての歴史的建造物は、囚人を収監するための監獄として使用された。美しい宗教施設をスターリンはちゃっかり監獄として利用したのだ。世界から隔絶されたこの孤島で、何が行われようと、外に漏れ出す心配はないとの算用が、悪党スターリンを突き動かしたに違いない。事実、この孤島での出来事が外界に知れ渡るには多くの時間を要した。
 
 スターリンばかりでなく、ヒトラー、毛沢東と、その他この手合いの人相はなかなか整いにくく、見るからに悪相である。
 悪相は個人の問題だが、さらに恐ろしいことは、このような輩を熱狂的に支持した民衆が少なからずいたということである。いつの時代も、権力欲に取り憑かれた人間は、人格や命の尊厳など一切顧みることがなく、それは歴史の証明するところだ。ソロフキは、ナチズムや毛沢東の大躍進・文化大革命と双璧をなす20世紀最大の暴政の、ひとつのシンボルなのである。

 帝政時代、自らシベリア流刑を体験したロシアの代表的作家F. ドストエフスキー(1821〜81年)は、その体験に基づき『死の家の記録』をものし、そのなかでこう述べている。
 「わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。
 血と権力は人を酔わせる。…人間の尊厳への復帰と、懺悔による贖罪と復活は、ほとんど不可能となる」(工藤精一郎訳)。

 人間の三大欲に、もうひとつ御しがたいものとして権力欲がつけ加えられるということだろう。この欲は人間の理性を根こそぎ奪い取り、かつ暴力を正当化するので、まったくもって始末が悪い。ここで人間は悪魔に魂を売り渡すことになる。
 その悪霊が、ここソロフキに16年間(1923〜39年)も住み着き、この地に何百年も続いた豊かで高度な文化とその科学的業績を、木っ端微塵に吹き飛ばしてしまった。旧ソビエト時代も現在も、収容所としてのソロフキは未だ深い謎に包まれたままだ。

 ここで一体何人が虐殺されたのか? という問いに答えられる学者、研究者はいない。旧ソビエト連邦が崩壊した際に、旧KGB(ソ連国家保安委員会)から膨大なファイルや公文書が公開され、今日まで研究が進められているが、その全貌が明らかになるにはまだまだ時間がかかるかも知れないし、あるいは永久に解らないかも知れない。
 収容所時代の悪事を隠蔽し、その痕跡をぬぐい去ろうと旧KGBは収容所が閉鎖されてからの30年間、遺骨を砕いて白海に投棄する作業を続けたが、未だ多くの遺骨がタイガに眠っているという。

 ぼくが訪れてからすでに11年が経過したが、近年ソロフキはヨーロッパで最も人気のある文化遺産とのことだ。しかし、宿泊施設も訪問できる季節も限られているので、この島が今後大きく変貌することはないだろう。加え、ロシア人というのはどこぞやの人種と異なり、文化遺産だから多くの観光客を招き入れ、それで一儲けをしようという意欲に著しく欠けているように思える。いくら人気があっても、この島に不似合いな近代的ホテルを建ててしまうようなことをロシア人はしないと断言してもいい。

 今、平和そのもののこの島には、ぼくにとっての長年の天敵が住み着いていた。この天敵は修道士という聖職者の群れで、黒いマントをこうもりのようにひらひらと翻して足早にぼくの許に駆け寄り、ぼくの撮影行為を著しく妨害し、時によってはぼくを拉致し、「私たちを撮ってはいけない。なぜなら・・・」と、懇々と説教をたれようとするのだ。ロシア語、わかんないもんね。だから蛙の面に小便。ぼくは頑丈だからびくともしない。
 クレムリンを歩き回れば遭遇不可避で、至る所で宿命的な接触が生じる。とっくに面の割れたぼくと天敵は、そのたびに火打ち石のように火花を散らし、クレムリンは鬼ごっこの場と化した。ぼくは常に25人の鬼に追いかけ回されながら、掏摸(スリ)のように彼らの姿をかすめ撮ったのだった。ぼくが、早撮りの技を磨けたのは、ひょっとして天敵のおかげかも知れない。
 しかし、巡礼者にレンズを向けても彼らはにこやかな笑顔を絶やさず、常に心地がよい。決まって、「どちらから?」とやさしく微笑んでくれるのだ。人間的な情が瞬時に通い合う。聖職にある修道士より、修業の身である巡礼者や信者の方がずっと人格者なのではないかと思いながら、排他的な鬼ヶ島の主人たちにさまざまな挑戦を仕掛けたのだった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/248.html

★「01囚人慰霊碑」。
通称「銃殺通り」に立てられた慰霊碑。このように雲が地から湧き出すように出現する光景はこの地特有のもの。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/400秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02墓」。
修道士の墓なのか囚人の慰霊碑なのか不明。カモメが1羽横切る。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/250秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03自室」。
女将はもっとも居心地の良い部屋をぼくにあてがってくれた。窓からクレムリンが見える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20〜35mm F2.8L USM。絞りf8.0、1/1.6秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/05/08(金)
第247回:北極圏直下の孤島へ(5)
 ソロフキへの中継地点であるアルハンゲリスク州の州都アルハンゲリスク市で、ソロフキへの渡島を担っているお役人さんから流暢な英語で、「外国の職業カメラマンとしてソロフキに渡るのはあなたが初めてだ。単身で、というのも私の記憶ではあなただけだ」と聞かされた。そして「あなたの職業を“Photographer and an Explorer(探検家)”としておく」とつけ加えた。
 彼のいたずらっぽい笑顔を未だ忘れることができない。
 しかし、ぼくは探検家でもなく冒険家でもないので、一番乗りを得難いこととして捉える意識はまったくなかった。ぼくは写真屋なのであって、大切なことはそんなことではないのだから。
 お役人さんいうところの「探検家」の意味を、ぼくはこの時まだ理解していなかった。

 ペレストロイカの始まった当時、旧ソビエト連邦の取材は従来より比較的容易となり、マスメディアはこぞって旧ソ連の知られざる映像を公開し始めた。その時の決まり文句は、「外国の取材班として初めて」とか、「閉ざされた地の初映像」とか、「秘密のベールを今・・・」などというもので、それを大仰に売りものにしているさまは、なんだかあまりにももの寂しく、滑稽であるように思えた。いや、そんな謳い文句は映像屋としてはなんだか聞き苦しい。
 彼らテレビクルーは、大枚をはたいて取材許可を得、常に複数人で行動し、コーディネーターや通訳が付き、そして身の安全を保証されている。いわば「守られながらの撮影」である。夜、ホテルのレストランにたむろして、仲間うちでワイワイやっている姿をよく目にしたものだ。それを悪いとはいわないが、あの緊張感の希薄さで、現地の真の姿を多角的にどの程度捉えることができるのであろうかとの疑問を、ぼくは常に抱いていた。

 改革・開放を前面に打ち出し、世界の耳目を集めたゴルバチョフ政権ではあったが、それでもソロフキは禁断の土地であった。1991年、ゴルバチョフは失脚し、旧ソ連は新生ロシアとなり、ソロフキはロシア人にも堅い門戸を開き始めた。ぼくのソロフキ行きは実際のところ、旅行者としての旺盛な好奇心と恐いもの見たさの本能で満たされるはずだった。ところが不幸にしてぼくは写真屋としての義務感と使命感に襲われてしまった。ソロフキをテーマにするには、荷が勝ちすぎる。写真など撮らずに、世界の至るところで、いつの時代にも行われてきた非人道的な政(まつりごと)や独裁主義、全体主義の育まれた土壌について、またその犠牲となった数多の死という問いに対する自分発見の旅とするほうが、多少は気が楽だった。ぼくはどこか怖じ気づいていた。
 
 そしてまた、デジタルを使い始めて日が浅いことも不安材料のひとつだった。ぼくはデジタル使用に異常なほど神経質になっていたし、臆病にもなっていた。レンズは焦点距離20mm〜200mmを揃えておけばほとんどのものに対応できると言い聞かせた。持参するレンズは故障も計算に入れ、6本と決めた。私的な写真ではモノクロ写真を愛好するぼくだが、今回はすべてのイメージをカラー写真に固定し、ソロフキのありのままをできるだけ忠実に写し取ることに専心しようと決心。
 表現の範囲を絞っておくことは精神的な負担を軽減することにもつながる。あれもこれもは、つまずきの第一歩。色気は邪意に通じているので、失敗の可能性を高めることに他ならず、だ。自己暗示をかけ、これで少しは気が楽になった。

 希望が現実のものとなって、ぼくは空港から完全にショックアブソーバーのいかれた超オンボロ・激ポンコツバスのなかで、何度も尋常ならざる刺激を受け、宙を舞い、床に叩きつけられ、バスの鉄柱にしがみつきながら(決してオーバーな表現ではない)、やっとの思いで宿にたどり着くことができた。愛想の良い、上品な女将がぼくを出迎えてくれたが、バスの、この世のものとは思えないような激しい衝撃に体中を打たれ、ぼくの脳みそは弁当箱に入れられた絹ごし豆腐のように、まだゆらゆらとして、直進歩行さえままならなかった。
 9月10日、招き入れられた応接間にはすでにペチカ(ロシア式暖炉兼オーブン)が赤く燃え、女将は唯一の客であるぼくを紅茶と手製のクッキーでもてなしてくれた。閉島間近のこの時期、巡礼者の姿はわずかを残すのみで、島全体が閑散とし、静寂に包まれていたが、ソルジェニーツィンの描写通りソロフキのかもめが上空を舞い、鳴き声をあげていた。
 閉島とは、交通の行き来が途絶えることで、村の住民はその期間この地に閉じ込められたままとなる。船は海が凍りつき航行できず、飛行機は荒れ狂う天候に飛行の予定が立たないからだ。

 女将の話によると、あと1ヶ月もすれば、この島はある日突然すべてが凍りつき、氷と雪に閉ざされるらしい。「ある日突然」という言葉に、ぼくは得体の知れぬ凄味を感じ、ゾクッとしたものが背中を走った。生ぬるい気候に甘んじているぼくらには、きっと想像することのできない現象なのだろう。そしてまた、オーロラを背景に浮かび上がるクレムリンの美しいシルエットは想像に余りある。オーロラの燃え上がる時期の、今はそのプロローグだったのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/247.html

★「01ソロヴェツキー諸島の位置」。
Google Earthより。北緯65度。
★「02ソロヴェツキー諸島」。
Google Earthより。大小6つの島から成る。
★「03クレムリン俯瞰」。
Google Earthより。赤線で囲った舟形を逆さにしたものが、クレムリン。左が白海。右が聖湖。ぼくの宿の窓からはクレムリン全景を望めるロケーションだった。
★「04クレムリンの夜明け」。
オーロラならぬ朝焼けを背景に、クレムリン修道院のシルエット。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80〜200mm F2.8L USM。絞りf5.6、1/50秒、ISO100、露出補正ノーマル。
★「05買い物帰り」。
天空から白い一条の光が射した。それを背景に買い物帰りの主婦を待ち構える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF35mm F1.4L USM。絞りf5.0、1/80秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/05/01(金)
第246回:北極圏直下の孤島へ(4)
 読者諸賢へ。「福島 −『失われた地の記憶』− 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いです。

 この連載でかつて(第154〜165回、176回〜197回、224回)原発事故後の福島県の「立ち入り禁止区域」を取り上げました。
 無人となったあの地の惨状を、一介の写真屋として「後世に記録として残し、伝えていく」ことの使命を強く感じております。そのための写真集制作のご支援をクラウドファンディングで募ることになりました。合わせて拡散していただければ嬉しく存じます。
 写真集制作が叶えば、関連団体への寄付はもちろんのこと、被災者支援団体などに書籍を寄贈させていただきます。

 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細を伝えていますので、ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 もう一つご案内です。私の主宰する写真クラブ“フォト・トルトゥーガ”の写真展を、5月5日(火)から10日(日)まで、埼玉県立近代美術館で催します。開館時間は10:00−17:30分、入場無料です。ぜひお越し下さい。お待ち申し上げます。
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 ソロフキに対するぼくのイメージはただ1点に集約される。ソルジェニーツィンが『収容所群島』第三巻第二章の冒頭で記したソロフキについてのくだりである。ちょっと引用してみる。

 「半年も白夜の続く白海でボリショイ・ソロヴェツキー島は水の中からいくつかの白堊の教会を持ち上げている。それらの教会のまわりには岩の城壁がめぐらされており、その城壁には地衣がついて錆びた赤色をしている。そして灰白色のソロフキのかもめたちが常に城砦(クレムリン)の上空を飛びかい、鳴き声をあげている。」(木村浩訳)。

 ぼくはこの一節だけを頼りに、長い間その光景を思い描いてきた。1976年にはじめてこの書物に接してから、すでに28年が経過していた。
 アルハンゲリスクを飛び立ったお化けのようにでっかいヘリは、28年間も恋煩いをしてきたぼくを、やっとのことでソロフキ上空まで運んだのだった。機上から見るソロフキは、タイガ(人の入れぬような針葉樹林帯)とツンドラ(1年中ほとんど凍結し、夏期だけ溶け出して湿地となるような土地)からなり、そこに無数の湖沼が点在し(前回の空撮をご参照に)ている。それはまるであばたのようでもあり、クレーターのようにも見えて、海を隔てたこんな小さな島にもカレリア地方特有の地形が広がっていた。
 長い間、想像をたくましくしてきた大虐殺の地を踏みしめて、感慨あらたに深呼吸をしながら、ぼくの生きてきた一節(ひとふし)を心に刻印し、記憶に留めておこうと一意専心、とはいかなかった。ただ、ピリピリと刺すような青白い粒子が極北の淡い光を切り裂きながら、不規則に飛び交っているように思えた。その粒子は静電気を帯びた雷雲のようにあたりを覆い、ぼくにまとわりついてきたような記憶を残した。

 胸に迫り来る思いに浸る間もなく、あらたな試練が待ち受けていた。鉄板を敷き詰めただけの突貫工事のような滑走路と、青いペンキを塗りたくった木造の掘っ立て小屋のような空港事務所は砂地のうえに建ち、ぼくを歓迎しているのか、厄介者のように見ているのか、見当さえつかなかった。
 試練とは、ここからどうやって宿にたどり着くかであった。地図もない。交通機関もない。タクシーもない。つまり旅の基本がここでは失われているのだ。徒歩という最も文明的な手段だけが残されていたが、24kgの荷を抱えていては、それもままならずといったところだ。
 荷物を砂の上に放り出したまま、思案していると、「北極圏をナメるんじゃないよ!」とばかり、挨拶代わりの風が吹き抜け、ぼくの白髪を一瞬額から引き離し、なで上げた。寒くはないが、冷やっこく、なかなかの切れ味だ。曇天。気温13℃。

 立ちん坊のままでは埒が明かぬとみたぼくは、荷物を砂地に放り出し、歩き出した巡礼者の群れを追った。美人のロシア娘を見つけ出し、うろたえる中年東洋人を演じながら、窮状を訴えた。ぼくの怪しい、語尾変化完全無視のロシア語を最後まで真剣な面持ちで聞き入っていた彼女の第一声はロシア語ではなく、味も素っ気もない英語だった。ぼくのロシア語を直訳すれば以下の如し。「私、日本から来た。道、わからない、プリユットホテル。あなた、わかるか?」。
 彼女は両手を大きく天に向けて広げ、「あなた、おひとりなの? ホントにおひとり? オ〜ッ、なんということでしょう!」と、ため息まじりに、珍獣でも見るが如き視線を向け、あきれ顔でぼくを無謀な勇者だと衷心より称えた。そして、明らかに、あってはならないことに出くわしてしまったという様子が容易に見て取れた。
 彼女の言葉には、「グループ・ツアーならまだしも」とか、「ロシア語が堪能ならいざ知らず」というニュアンスが言外に込められていた。ぼくはこのふたつの条件を満たしていなかった。なぜ彼女はそんな驚きの表情を見せるのか、もう収容所時代ではないのに、ここはそんなにヤバイ所なのだろうか。
 彼女は遠来の客を丁重にもてなし、なんとかしてやろうという気概を示し、手を差し伸べてくれたのだった。ぼくの手を引き(こういうことは日本では起こり得ない)、掘っ立て小屋に取って返し、そこに駐車していた博物館にでも展示されていそうなオンボロのボンネットバス(ぼくは木炭車かと思った)の運転手を探し出し、今度は韻を踏んだ見事なロシア語でなにかを訴えていた。
 ぼくはタイガとツンドラの地に置き去りにされなくて済むという確かな手応えを感じ始めていた。なんとかなる。ここはやはり「ニチェヴォー」の国なのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/246.html

★「01山羊の巡礼」。
ソロフキはロシア正教の聖地でもあり、巡礼の地でもある。城壁の赤は、この地特有の地衣(苔)で、『収容所群島』で述べられている通りだ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02チャペル」。
このような世界遺産のチャペルが村の至る所に。空港の隣で。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf7.1、 1/125秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03空港から村へ」。
遠くにクレムリンが見える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF35mm F1.4L USM。絞りf8.0、1/100秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/04/24(金)
第245回:北極圏直下の孤島へ(3)
 ソロフキ(ソロヴェツキー諸島)は1992年にユネスコの世界文化遺産(歴史、文化、自然の複合遺産という珍しい位置づけ)に登録された。ソビエト連邦崩壊とほぼ時を同じくしての遺産登録だが、ユネスコ本部のホームページには面白いことが記されている。
 ロシア政府の思惑がどうであったのかぼくには見当すらつかないが、1991年10月、ソロフキへはユネスコの審査委員会(ICOMOS)の誰一人訪問できなかったが、満場一致で世界遺産に指定されたということだ。それほど由緒ある島であることは、昔からヨーロッパに知れ渡っていたらしい。その見事な建造物をスターリンはとんでもないことに利用した。
 世界遺産登録に、絶滅収容所としての負の遺産(その痕跡は島の至る所に残されている)は触れられていない。あくまで人類の高度な芸術・文化様式と宗教的な価値が評価されたようで、そこがポーランドのアウシュヴィッツとは異なる。
 しかし、世界遺産に指定されたからといって、この島をすぐに訪問できるわけでないところがロシアのロシアたる所以だとぼくは思っている。

 ソロフキはモスクワの北方約1300kmのアルハンゲリスクから、さらに西北西に290km、北極圏まで160kmの白海に浮かんでいる。我々の感覚からすれば、そこは最果ての地、地球のてっぺんであり、とんでもないところに、とんでもないものが存在しているということになる。
 飛行機を乗り継いで、ぼくは24kgの荷物を担ぎ、喘ぎつつも、這々の体で中継地のアルハンゲリスクにたどり着いた。ここに至るまでのさまざまは、聞くも涙、語るも涙の連続で、まったく先が思いやられた。
 荷物24kgの正体は、実はデジタルの仕業だった。インフラの整ったロシアで、電源の確保はそう心配ないと思われたが、万が一のことを配慮しての機材追加である。何しろそこは地の果てであり、ほとんど情報のないところだった。起こり得るあらゆることへの対処だけはしっかりしておかなければならなかった。
 フィルムであれば5kg以上は節約できただろう。デジタルを使用しての初めての海外ロケだから、その配慮は涙ぐましいものがあった。ぼくとてプロの片割れ、「予期せぬあれこれに見舞われて撮れませんでした」なんて言い訳は一切通用しない。獲物はしっかり捕獲しなければ生きていけないのだから、およぶ限りの準備をした。それでだめなら、あとはのたれ死ぬか、笑ってごまかすか、そのどちらかに徹すべし、という覚悟がプロには必要なのだ。
 海外での不自由なロケは十分に馴れていたつもりだったが、こんなに難渋した撮影旅行はかつてないことだった。あれから11年後の今、もう時効となったので(と、勝手に解釈している)、当時の内輪話をひとつだけ披露しておこう。11年後の憂さ晴らしである。

 アルハンゲリスクからソロフキへは、小型のプロペラ機(機種名アントノフ)で訪島する手はずが整っていたのだが、空港でチェックインをする際に品の良い金髪碧眼の係官がつかつかとやって来て、「搭乗機が間際で変更となり、ヘリコプターであれば予定通りあなたをソロフキへお連れできるが、それがお気に召さなければ来週まで便はないので待ってもらわなければならない。どうする? このことはどうかご内密に」と、流暢な英語でたたみかけてきた。ぼくは「OK, no problem!」と即答した。どんな手段であっても行ければいいのである。旅での予期せぬ変更こそ面白いものとぼくは心得ているし、この国で起こる天変地異には、もうとっくに慣れっこになっていた。そんなことでいちいち目を丸くしていたら、この広大な国を旅することなどできない。
 何でも「No problem!」と軽くいなすことが肝要で、そうでなければあの鷹揚で楽天すぎるロシア人たちとは勝負ができない。決して彼らに、日本人的気質をもって正面から勝負など挑んではいけないのだ。勝てるわけがないというのは、滞在日数のべ400日間で得たぼくの経験則である。ロシア人というのは、老若男女、美人、不美人(あっ、ロシアには不美人はいないんだっけ)にかかわらず、彼らは二言目には「ニチェヴォー」(気にしない。どうにかなるさ)という伝家の宝刀を抜いてくる。

 軍の払い下げのようなプロペラの2つ付いたどでかいヘリに、ぼくは荷物とともに放り込まれ、アルハンゲリスクを飛び立った。日本ではまだ残暑の厳しい9月上旬、当地の気温は14℃。気のいい操縦士がぼくに「地平線に見えるのがソロフキだ」と遠くを指さし教えてくれた。やがて眼下に夢にまで見たソロフキが姿を現わし始めた。ぼくは操縦士に「なんて美しい海!」と、語りかけた。彼は「きれいだろう。冬なら海が氷結するので下りられるのだが。でも今、海に着水でもしてみるか」と、ウィンクをしてみせた。ぼくは「ニチェヴォー」と、ロシア人の常套句を真似た。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/245.html

★「01ソロフキ島空撮」。
湖とタイガとツンドラ。写真上は波立つ白海。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf8.0、 1/125秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02湖とタイガ」。
島は湖とタイガばかり。このような風景の連続。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20mm F2.8 USM。絞りf5.6、 1/160秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03虹」。
一日に何度も虹が出る。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf5.6、1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

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 担当の方から許可をいただきましたので、読者諸賢へ拡散・ご支援のお願いです。

 この連載でかつて(第154〜165回、176回〜197回、224回)原発事故後の福島県の「立ち入り禁止区域」を取り上げました。
 無人となったあの地の惨状を、一介の写真屋として「後世に記録として残し、伝えていく」ことの使命を強く感じております。そのための写真集制作のご支援をクラウドファンディングで募ることになりました。合わせて拡散していただければ嬉しく存じます。
 
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細を伝えていますので、ご覧いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

(文:亀山哲郎)

2015/04/17(金)
第244回:北極圏直下の孤島へ(2)
 旧ソビエト連邦への初訪問は1987年のことだった。ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革。立て直し)を唱え、西側の国々が彼の新基軸に沸き立っていたころである。そのおかげで、今まであまり耳慣れなかったロシア語が頻繁にTVやラジオから流れ始め、急速に身近なものになっていった。ゴルバチョフのロシア語は南ロシアなまりとのことだが、ロシア語のわからないぼくは、その言語の持つ明瞭で音楽的な、独特な響きに心地よい酔いを覚えたものだった。
 多くの日本人が、ぼくも含めて、社会制度の異なるこの国を禁断の隣国としてとらえていたが、東西冷戦のさなかにあって、その隔たりが少しずつ氷解し始めた時期でもあった。そのくらいゴルバチョフの登場は、世界に大きな期待と波紋を投げかけたのである。

 出版社のN氏に、「ペレストロイカやグラスノスチ(情報公開)といいつつも、まだまだ日本では情報が乏しく、資料もない。特に映像はその最たるもので、かめさん、未知の国を撮りたくない? 撮りたいでしょ。行ってきてよ」との甘言にそそのかされ、ぼくは鼻息荒く、二つ返事で了承した。
 以来、N氏はことあるごとに謀(はかりごと)を巡らせ、ぼくにロシア行きを命じた。
 この国で写真を撮ることの困難さと際どさは縷々として語られていたので、“出たとこ勝負”に嬉々とするぼくには、まさにおあつらえ向きの訪問先だった。

 実は、ぼくはロシアの大地にほのかなロマンを抱いていた。青年時代から読みふけったロシア文学やその登場人物にただならぬ興味と興奮を覚えていたのだ。ぼくにとって、そこは文学の宝庫のように思えた。
 そしてまた、無限の広がりを見せる大地やネギ坊主の教会群は、ヨーロッパ文化とは一線を画した異国情緒を与えている。ヨーロッパ、アラブ、アジアの三種混合文化は、バタ臭さと洗練の交じり合った一種独特の世界を織りなしている。民族色豊かな文化であろうことは、この地に足を踏み入れずとも十分に想像可能なことだった。

 ぼくが、ソロフキの存在を知ったのは、ロシアのノーベル賞作家A. I. ソルジェニーツィン(1918〜2008年)の文学的ドキュメント『収容所群島』(邦訳、1976年)によってだった。ソロフキに於ける恐るべき実体が生々しく描かれており、ぼくは大きな衝撃を受けた。それ以来、シベリアのコルィマ地方とともにソロフキという名称がぼくの脳裏に深く刻印されたのである。
 この書物により、スターリン時代の負の遺産が全世界に知れ渡り、そのかどによりソルジェニーツィンは国外追放となった。しかし、この書物はロシア文学の偉大な倫理感を世に知らしめる結果となったのである。

 ソロフキに人間が住み着いたのは、紀元前5000年にまでさかのぼる。それだけここは豊かな地だったのだろう。1430年代に2人の修道士(ロシア正教)がソロフキにやって来て、修道院を建立し、見事なクレムリン(城砦)を築き上げていった。
 この由緒ある島の長い歴史に、たった16年間(1923〜39年のスターリン時代)だけ人智を超越した悪魔が住み着き、クレムリンをはじめ諸島各地に点在する立派な宗教施設で、あらゆる手段の拷問と殺人法が考案され、大虐殺が行われ、文字通り絶滅収容所と化していったのである。
 ナチスの強制収容所よりもずっと早い時期に、囚人虐待、虐殺がシステム化され、やがてそれがソビエト全土にガン細胞のように繁衍していった。収容所の数、約1万。犠牲者は二千万にのぼる。そのいちばんはじめのガン細胞がソロフキであった。

 ソロフキ行きを何度申し出てもスゲなく断られ続けてきたぼくだったが、新生ロシアとなった2004年にとうとう8日間の滞在許可が下りた。
 当時ぼくはデジタルカメラを使い始めたばかりであり、使い慣れたフィルムでいくか、デジタルでいくか、散々頭を悩ませた。時代はデジタルに突入し、新しもの好きのぼくは、今後のことも考えて、果敢にデジタルで挑む決心をした。訪ロする前の何ヶ月間はテストに明け暮れた。何千枚のテストを繰り返したおかげで、デジタルのおおよその特質(主にシャドウとハイライトの再現能力)を把握でき、不安が徐々に消えていった。このテストが与えてくれた成果はとても大きなものだった。機種が新しくなった今も、ぼくは非常な恩恵を被っている。

 デジタル使用の次なる不安は、撮影したデータをどのように保管して、無事に持ち帰るかだった。当時のCFカード(コンパクト・フラッシュ)は最大2GBで、価格も高価だった。今から思えば隔世の感がある。ぼくはストレージにデータを確実に移し替える練習にも励んだ。
 ソロフキ(人口約千人)で世話になった宿屋(日本でいえば清潔なペンションのような佇まい)の女将にいわせると、「あなたがこの島を訪れた最初の外国人カメラマン」とのことだった。世界初なんて、そんなことの気負いはまったくなかったが、じわっとした責任感だけが重くのしかかってきた。ぼくともあろうものが。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/244.html

★「01ソロフキの第1カット目」。
宿を飛び出した時、思わず目を見はる。「何でこんなところで携帯が。嘘だろ!」。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02聖湖よりクレムリンを望む」。
前回掲載のクレムリンを反対側から。極北の光は淡く、どこかおぼろげ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03サモワール」。
民家の軒下にサモワール(ロシア式湯沸かし器)が置かれていた。バックは煙る白海。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)