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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2023/04/21(金)
第640回:普遍性を探ることの難しさ
 先日、さまざまな分野の専門家の集まりに出席するため、都内のあるホテルに出向いた。ぼくもこの会合の委員を務めているので、午前10時という、非人間的で、尋常でない集合時間にも関わらず、眠い目を擦りながら電車に乗る羽目となった。
 とはいえ、後期高齢者のぼくはどんなに睡眠時間が短くても、取り敢えず1日だけの頭脳労働であれば(肉体労働は後遺症がひどい)、ほとんど支障を来さない。頭の回転は年相応に鈍くなっているけれど、苦もなく事を済ます自信は、まだ辛うじて保っている。これは負け惜しみではなく、しかし、2日連続となると、そこはそれ、多分たちまちアゴを出し、使いものにならなくなるだろう。

 時に、「まだいけるかも」などとの甘い見立ては、「無理は禁じ手」であることを知っているので、「もうこれ以上はダメだ」という振りをすることにしている。そうでもしないと、老人の特権を無為に放棄することになり兼ねず、加え、都合の良いように使われ、損をするような気がしてならない。ジジィが、年甲斐もなく気張ってはいけない。年寄りを敬うことを忘れた無慈悲な人々に囲まれていると、このような知恵が泉のように湧き出し、そして知らずのうちに自然と護身術が身についていくものだ。
 この最たる処世術に、ぼくの、まだふさふさの白髪は大きな貢献を果たしてくれる。ぼくは、甘塩のような味わい(ぼくの白髪を称した友人の言葉)を出汁とし、我ながら巧妙に立ち回るのである。

 下車駅である地下鉄虎ノ門駅はおよそ20年ぶりであった。地下から地上に這い出ると、見上げるような超高層ビルが乱立しており、ぼくは一種の感動すら覚えた。「一体いつの間に? 誰が?」が、高所恐怖症であるぼくの率直な感想だった。仰ぎ見ているうちに平衡感覚を失い、ふらふらした。
 カメラを持っていなかったぼくは、何故か良心が咎め、「この位置なら、24mmの広角がいいね。16mmなら面白味は出るが、最上階に行くに従って小さくすぼみ過ぎて、ぼくのイメージとは合わない」と、一応は写真屋を気取り、言い訳がましくも格好を付けてみせたのだった。
 「おれは、損な性分だなぁ」とも呟き、委員のなかで最年長者であるぼくは、ダラダラ坂の途上にあるホテルに息切れすることなく辿り着いたが、午前中とはいえ夏日を思い起こさせるような強い日射しが眩しかった。古稀を迎えたばかりの委員のひとりは、この上り坂で一度立ち止まって、息を整えなければならなかったと告白し、ぼくはなんだか勝ったような気持になり、安堵したのだから面白い。

 で、写真の話をしなければならないとの強迫観念に駆られつつ、この集まりでの興味深い話に花を咲かせたいのだが、そうもいっておれず、意を強く持たなければと観ずることに。

 国内外を問わず、ぼくは展覧会に何度通ったかは計りようがないが、多かったのは写真展ではなく、圧倒的に美術展のほうだ。美術展と写真展の絶対数など知る由もないが、数の問題ではなく、ぼくは美術展のほうに足が向く。
 絵画の歴史的な長さもおそらく影響しているのだろうが、写真屋のぼくは絵画を見ることによって、多くの写真的示唆を受ける。作画についてヒントとなることがたくさん見つかる。それは、ぼくばかりでなく写真の好きな人であれば、心持ち次第で、絵画を観賞することにより、写真を撮ったり、暗室作業をするうえで、たくさんの気づきを与えられ、また学ぶことができると思う。写真にしか琴線が触れないという人をしばしば見かけるが、そのような人は別である。

 絵画の色使いや構図、トーンやタッチなどの “描き方” を含めて、どれもが写真には欠かせぬ有益で普遍的な要素がそこにあるとぼくは考えている。たまに「絵と写真の構図は違う」という人がいるが、ぼくは大局的な見地からして、それはへそ曲がりの一家言に過ぎないと断定している。何かをいわないと気の済まぬ半可通の人に、そのタイプが多い。あなたの周りにも、そういう人、いるでしょ。
 絵と写真は元々異なるものとの認識から、ぼくを指して「一緒くたにして語ってはいけない」とおっしゃる。そんなことはぼくとて、先刻とっくにお見通しだ。

 多種多様な創作分野から、良いもの、美しい点、優れた部分を抽出し、吟味しながら、自分の作品に如何にして取り込むかに苦心するのは、ぼくの見方からすれば、とても謙虚で好ましい姿に見える。
 他の分野の美しいものに感応できずに、写真のあれこれにもっともらしい蘊蓄(うんちく)を傾けても、説得力など無に等しいとぼくは思うのだが、どうだろうか?

 写真が絵画的である必要はなく、写真は写真特有の美をおおいに開花させたいと願うばかり。「写真特有の美」と一言でいってしまったが、そのありようは、まさに百人百様なのだが、そこに宿る普遍性はそう多くはないはずだとぼくは考えている。あと何年かで、それが少しでも掴めればいいのだけれど。

https://www.amatias.com/bbs/30/640.html

カメラ:EOS-R6。レンズ : RF100mm F2.8L Macro IS USM。RF24-105mm F4L IS USM。
群馬県館林市。埼玉県加須市。

★「01館林市」
かつて波板のトタン板ばかりを撮っていたが、日の当たった部分と影のバランスが巧妙だと感じ、思わず撮ってしまった。
絞りf13.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-1.00。

★「02加須市」
今まで加須で何十回も撮った被写体。一度も撮れたためしがなかったが、やっとイメージ通りの写真が撮れた。微妙な、何かの差なのだろうが、「第636回」で題目とした「現場百回」は、どうやら当てはまるようだ。
絞りf7.1、1/100秒、ISO 500、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/04/14(金)
第639回:老人とデジタル
 先週、遠方よりの来客に懐かしい写真をお見せしようと、古いアルバムを引っぱり出した。ページを繰っているうちに、糊の剥がれた1枚の変色しかかったプリントがはらりと落ち、それを手に取り、目を近づけて眺め、つくづく感じたことは、前々回に記したフィルム写真の「曖昧なる美しさ」だった。

 42年前の1982年に、金沢の兼六園で友人を写したその写真は、Rollei 35(ローライ35。ドイツ製で1967発売。沈胴式のレンズを備えたコンパクトな筐体は手のひらに収まり、とてもカッコのいいデザインだった。レンズはカール・ツァイスのTessar F3.5、40mm)によるもので、フィルムカメラとして特出した描写をするわけではないのだが、ぼくはこのカメラの「曖昧な描写」が当時から好きだった。
 セピア色に変化した友人とは現在連絡の取りようがないので、残念ながらその写真を本稿で掲載するわけにはいかないが、みなさんもフィルム時代に撮られたアルバムを引っぱり出してみたらいかが。曰く言い難しの「曖昧なる美しさ」について、ぼくの言わんとするところが、おそらく多少はお分かりいただけるのではないだろうか。

 また、今年の正月に同窓生のジジババが毎年「今生の別れかも」なんてことを口実に、いや、もう口実とはいえなくなり、現実味を帯びているかも知れないのだが、「会いたさ見たさ」に、取り敢えず新年会を催した。
 中学時代の集合写真を引っぱり出し、肝心の1枚は見るも無惨なピンボケ写真だった。一体誰が、どんな悪意と恨みと、そして救い難いほどのふやけた脳味噌を持って、こんな酷いボケボケ写真を撮ったのだろうかと、取り敢えず写真屋もどきのぼくはその異次元世界に唸ってしまった。呆れをとうに通り越し、もはや言葉を失い、押し黙ってしまった。しようと思ってもなかなか成し難いほどにピンが外れている。
 ここまでくると、ぼくは撮影者の歩んできた人生やそこで形成された人格をも疑わざるを得なかった。その人物をここに連れてきて、荒縄で縛り上げ、木に吊し、折檻しなければならないと思ったくらいだ。世の中には、許されることとそうでないことがある。見る者を厭世的な気分にさせてしまうこのピンボケは、明らかに後者である。

 辛うじて目鼻と髪の毛の存在がボヤーッと分かるというほどの究極的なボケボケ写真ではあったが、しかし、不思議不思議、そこに居合わせた誰もが、「これは何君、これは何ちゃん」と、嬉々としながら次々に正確に指摘するのだった。その写真にどんな魔力が潜んでいたのだろうか。もちろんぼくも美人で有名だったTちゃんを見つけ「これはTちゃんだ」と目尻を下げ、白髪を逆立て、抜け目なく言い当てた。上下6mmほどの顔のボッケボケ写真であり、曖昧の極致であるかのような写真にも関わらず、不可能をものともせず、人物を特定できてしまったのである。「これが、齢75の成せる業だ」、なんてことは絶対ない。
 「写真って凄い! 偉い! 水彩画を水にたっぷり漬けたようなふやけきった写真なのに、しっかり面が割れちゃうんだ!」とぼくは叫んだ。ぼくばかりでなく、誰もが写真の偉さに感服した瞬間だった。そしてまた、写真への認識を改めた非常に意義深い、新年早々の宴会でもあった。

 監視カメラによる犯罪捜査などの映像を見て、ぼくは、「あんなやくざな映像で、犯人の顔など、どうやって判別し、断定できるのだろう? 誤認逮捕もあり得るんじゃない?」と怪しんでいたのだが、新年会で見た気持ちが悪くなるほどのボケ写真にくらべれば、監視カメラのほうが、ずっとしっかりして、断然目鼻や髪型などが、はるかに人間らしく描く能力を有している。
 少なくとも、先述の途方もないくらい不鮮明な写真にくらべれば、原チャリ(排気量50cc以下の原動機付き自転車)とナナハン(排気量750ccの大型バイク)くらいの差がある。これなら容易に犯人を割り出せるだろう。ここでも、ぼくは認識を改めた。

 さて、今風にデジタルの話だが、先日ひょんなことから最新のフルサイズ・ミラーレス一眼を、「遊んでみて」と手渡された。我が倶楽部にも最新のミラーレス一眼を使用している人が2名おり、その描写性能の素晴らしさは十分に認識しているのだが、ぼくは夕刻の銀座で、借りたカメラを振り回しながら撮った画像のラチチュード(露出再現範囲)の広さと抜けの良さにほとほと感心してしまった。もちろん解像感も素晴らしい。
 ちょうど、時を同じくして、友人がフィルムの8 x 10インチ大型カメラで撮影した風景写真を、データにして送ってきた。ぼくも8 x 10インチサイズのカメラは、今まで散々使用してきたので、その描写力は熟知している。

 両者を同じ土俵で比較するほどぼくの頭はまだふやけていないが、重く、撮影に時間のかかる8 x 10インチカメラを使用する利点は何であろうかとの答はすでに得ている。それは、精神的な面での、電気の抵抗器のようなものである。この負荷が、被写体への観察眼を養い、撮影意識を高揚させる。すべての操作がマニュアルなので、撮影の全責任を自身が負うことになる。つまり、まったく、逃げ場がないのだ。全自動の、昨今のカメラとはここが根本的に異なる。

 しかし、だからといって、この種の面倒なカメラを使えば良い写真が撮れるかというと、そんな保証はどこにもないのだが、現代に於いて忘れかけたものを思い出させてくれる良い道具立てではあることは否めない。だが、原チャリでもナナハンでも、良い写真という同じ目的地に辿り着くことは平等にできる。体力と燃費の悪さを否応なく背負わなければならず、それが間尺に合うか、そうでないかは個人の価値観による。
 ぼくは大型カメラの素晴らしい描写力を認めつつも、文明の利器を使いこなし、そのエネルギーを撮影自体に注ぎたいので、粋がらずに、もう体力に見合ったカメラを使用しても良いのではないかと思っている。ぼくのふやけ始めた頭脳に、多機能過ぎるデジタルはかえって良薬かも知れない。

https://www.amatias.com/bbs/30/639.html


カメラ:EOS-R6。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
群馬県桐生市。

★「01桐生市」
有鄰館の煉瓦蔵。かつては酒・味噌・醤油等を醸造し、それを保管するための蔵だった。現在は、展示やコンサートなど、さまざまな催しが行われている。
絞りf8.0、1/50秒、ISO 64000、露出補正-1.33。

★「02桐生市」
有鄰館。味噌・醤油蔵の壁に一瞬光が射す。
絞りf6.3、1/15秒、ISO 500、露出補正-1.67。
 
(文:亀山哲郎)

2023/04/07(金)
第638回:老いの気づき
 写真という分野に限らず、創作に携わる(もしくは趣味としている)多くの人たちは、「他と異なった自分独自の表現方法」を見つけ、それを我がものにしようと努めている。と同時にそれを愉しんだり、生き甲斐を感じているのではないだろうか。
 その行為や思惟は、創作を形づくるうえで、大きな醍醐味のひとつであろう。この醍醐味に、創作者は魅了されるのだ。このことはまた、良い意味での自己顕示欲のあらわれであり、写真という行為を通して、本能としての自己顕示欲を、手の込んだ厄介さをものともせず、満たそうとしている。ホントにご苦労なことだと思うが、ぼくとて他人事ではない。

 創作のありようは千差万別だが、なかには極少数であると思われるが、自分を表現するのが第一目的ではなく、観賞する側の心地に塩梅の手を差し伸べようとするタイプの人がいる。「世のため、人のため」というわけだ。
 他人の生き方や嗜好に口を挟むのは野暮というものだが、ぼくは写真を生業としている一方で、頼りない指導者の真似事もしているので、その立場を以てすれば、ぼくはこれを、鑑賞者に「おもねる」ことであるとし、したがって、本来の創作の姿ではないとの信念を持っている。

 端的にいえば、我(が)を捨てているので、そのような作品には面白味がなく、独自性も見られず、陳腐で退屈なだけだ。しかし奇妙なことに、そのような代物は、いわゆる「大衆受け」するのだが、およそ創作とはほど遠いところに位置している。我を殺したものを創作とはいわない。
 今回、この手の人々については、ぼくの創作の定義には当てはまらないので言及しない。ただ、写真を記録、記念として撮っている人々はこの限りではない。ぼくはそれを、ひとつの写真のありようとして十分に認めている。

 今、何故このようなことに思い至ったかというと、ある大きな作品展のための作品をつぶさに審査選考する必要に迫られ(ぼくはへとへとになったけれど)、また、我が倶楽部の人たちの上達ぶりと彼らの良い作品を見るにつけ、彼らの「他とは異なる何か」に向かって精励する様子が直に伝わってきて、改めて自分自身を見つめ直す機会を強要されたように感じてしまったのだ。まったく以て、迷惑このうえない。

 けれど、正直にいうと「自身を見つめ直す」ことなどしたくない。そんな面倒で、厄介なことは真っ平御免だとの気持が勝る。自然の理として、見つめ直すことによって、得心のいく作品が生まれる保証などどこにもないことを、ぼくは及ばずながらも知っている。
 得心がいかないから、何十年も写真という作業を続けられる。どんなに精進しようが、満点をやれるような作品など生まれようはずがない。その懊悩にもがくことが創作の原点である。
 それは、写真の上手い下手に関わらず、創作に於ける普遍的摂理なのではあるまいかと、ぼくは考えている。自分の作品を自画自賛できる人は、どんな人なのだろうかと、尽きぬ興味を抱いている。そのような人は、仕合わせなのか、不幸なのか? きっと不幸な人に違いない。やっかみなどではなく、「やはり気の毒な人だなぁ」とぼくは無意識のうちに、本音を漏らすのだろうと思う。

 ただ、努力が報われないなどということはあり得ず、努力は良い方向に向かって歩を進めることができる力強い方策であるというのも自然の理であろう。努力は上達の、これ以上にない強力な味方でもある。
 ぼくは哲学者ではないので、これ以上の話はできないが、「努力は裏切らない」との文言を信ずるより他なし。何かにすがって、「信ずる者は救われる」ことにしようと思うが、信ずる対象はもちろん神でなく、自分にあることを明示しておかなくてはね。「努力の賜物」ともいうしね。「神頼み」はダメだ。

 「十年一日」の如く写真に対峙してきて、今ひしひしと実感するに、それは対義語である「一日千秋」のように思うことが非常にしばしばある。年を経るに従って、ぼくの写真は “えぐみ” (あくが強くて、舌やのどがひりひりとするような感じや味。大辞林)が増しているとの自覚がある。これを進歩と捉えるか、退化と捉えるかを、謙虚に顧みながら、しかし会釈もなくいうのであれば、絶対的に進歩であると、ぼくはめでたくもそういって憚らない。

 長年、雑多なことを通り抜けながらも、未だ「酸いも甘いも噛み分ける」境地には到底達していないが、一つひとつの体験を通して、ぼくの写真は、年寄りのダミ声とともに自然にえぐみを増していったのだろうと思っている。人間も作品も、灰汁(あく)の強いほうが、おそらく他人は辟易とするから、なおさら面白いじゃないかとぼくは嘯(うそぶ)く。そして、「作品は人格の鏡」とも嘯いている。
 えぐみを増すことによって形成される個性や人格は、必ずしも他人に心地良さをもたらすものではないだろうが、それが自分の偽らざる姿・佇まいだとすれば、終生作品もダミ声を発しながら、嘘偽りなくあるべきというのが、この1週間の、老人の不気味な発見だった。猫なで声で、退屈極まりない写真を羅列するより、このほうが何十倍もましである。


https://www.amatias.com/bbs/30/638.html

カメラ:EOS-R6。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
群馬県桐生市。

★「01桐生市」
ショーウィンドウのマネキン。向かいには、有名な矢野園の看板が映り込んでいる。
絞りf5.6、1/100秒、ISO 200、露出補正-0.67。

★「02桐生市」
桐生出身の女優の篠原涼子氏は、桐生市観光大使なのだそう。その宣伝ポスター。
絞りf6.3、1/800秒、ISO 1000、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/03/31(金)
第637回:スマホに返り討ち
 フィルム時代にくらべ、デジタルになってから、写真人口は圧倒的に多くなったのだそうだ。数字的なものを確認する手立てをぼくは持っていないが、感覚的にはぼくも同意する。厳密には写真人口(ぼくの定義によるもの)が多くなったというよりも、誰もが手軽に写真を撮れるようになり、より身近な存在になったといういい方が正しいのではないだろうか? 
 そしてまた、写真撮影の熱心さについては、スマホを除外して考えれば、「さて、ホントのところはどうなのだろうか?」と、ぼくは首を傾げながら訝っている。

 一歩外に出れば、今は何処でも見事な桜が見られる。あっちでもこっちでも、多くの人がスマホ片手に、これでもかと桜に食らい付いている。なんと、写真を撮っていらっしゃるのだ! 一昔前には、信じ難くも、鬼気迫る光景である。 
 ぼくは「う〜ん、すごい! すごい!」と、 “すごい” の意味も分からず連発し、改めて現代に於ける写真撮影者の姿に、握りこぶしを作りながら感嘆の声をあげる。何が “すごい” んだか訳も分からずに、この言葉を使ってしまうぼくも、彼らに負けず劣らず、やはり “すごい” 。

 現在は、「なぜ写真が写るのか?」との理論やメカニズムを知らなくても、シャッターを押しさえすれば、写真は写って “しまう” 、というのが実態だ。この現実は、ぼくのような化石人間(いわれぬうちに、先回りしていっておく)にとっては、未だ別世界のように映る。到底考えられぬことだ。
 首から単独露出計をぶら下げ、露出を決定し、同時にフィルムの現像時間を捻り出していた昔気質の写真愛好家から見れば、やはり何もかもが現代のデジタルカメラは “すごい” のひとことに尽きるのだ。オートフォーカスの凄まじさにも舌を巻く。秒間20コマとか40コマとか、特写でない限り、こんなもの、一体何に使うんだい? 
 これをして、ぼくを含めたマニュアル操作専門だったかつての写真人間にとって、まさに「隔世の感を禁じ得ず」といったところだ。

 以前にも何度か述べた記憶があるが、フィルム時代を懐かしみ、あの描写の淑やかさを捨てがたいものとしつつも、それに囚われることなく、ぼくのフィルム離れは同業者のなかでは目立って早かった。その因は、文明の利器をなんとか使いこなそうというような、建設的で、かつ前向きなものではなく、デジタルを我がものにしないと、飯の食い上げになってしまうとの危機感を抱いたからだった。 
 つまり、家族や愛犬を路頭に迷わせないための算段であり、「仕方なく」というのが正直なところだ。デジタルへの移行は、それはそれは、聞くも涙語るも涙の物語であり、悲鳴混じりの、大いなる悲哀に満ちたものだった。フィルムとの決別は、仲違いでなく、リアリティ溢れた生活のためだったのである。

 ぼくはもう、私的写真であってもフィルムに戻る気持はまったくないが、昨今の新技術を搭載したカメラやレンズの写りを体感するにつけ(メーカーからの借り物だが)、「どうあっても、君は写り過ぎなんだよね。デジタルに淑やかさとか奥ゆかしさが少しでもあればそれを購入するにやぶさかではないのだけれど」と、辺り構わず、そんな決まり文句を吐く。
 「写り過ぎて何が悪い!」と反論されれば、返す言葉が見つからないのだが、何か特別に大切なものが欠如しているように感じてならない。何故そう感じてしまうかを考えるに答は明白で、知らずのうちに、ちゃっかりフィルムと比較している自分がいたりするのだ。
 それは一言でいうならば、「曖昧なる美しさ」という装いがフィルムにはある。これがデジタルにはない。それを重々承知で、デジタルを使わざるを得ない理由は何なのだろうかと、やはり昨夜も、福をもたらすという座敷ワラシ、というより妖怪のように、ぼくは湯船のなかで含み笑いをしながら考え込んでいた。

 デジタルの、あまりにも厚かまし過ぎる描写ではあるが、それを差し引いたとしても、撮影や後処理(暗室作業)に於いて、その長所はフィルムをはるかに凌駕している。これは個人的な嗜好にもよるだろうが、頭に描いたイメージを具現化するには、ぼくにとって、デジタルのほうがずっと融通が利く。そして、イメージの描写範囲が何倍も広く、多岐にわたる。この発見により、ぼくは玩具を与えられた子供のように、欣喜雀躍、後戻りができぬほどに飛び跳ねてしまったのだ。
 カラーフィルムでは、暗室作業での操作は極めて困難だった。特に厳密さを要求される液温の管理は、素人では打つ手がなかった。そんなフィルム時代にあって、自身で操作できるのはモノクロ写真に限られていた。

 そのような狭い、窮屈なフィルムの世界を骨の髄まで堪能 !? してきた化石人間のぼくにとって、デジタルの表現域は、青天の霹靂ともいうべきものであったが、今度は「その利点を何%ほど生かしているのだろうか?」との疑念を抱き、使えば使うほど不安が増すようになった。この不安こそ知性の証とだとの考えがムクムクと頭をもたげてきた。手放しでの喜びは、いつしか手痛いしっぺ返しを食うものだ。

 その例ではないが、昨夜遅く、散歩がてらに夜桜を撮ろうと思いつき、カメラ性能が良いと定評のスマホで(ぼくは滅多に撮らない)、いたずら半分に何枚か撮り、あがりを見て、ぼくは「ギャッ! ギエ〜ッ!」といって、押し黙ってしまった。
 先端技術の粋を集めたスマホという狭い筐体のなかで、何がどのようにして、映像をこしらえているのかぼくは知らないが、しかし、水銀灯に照らされた夜桜は見るに堪えぬほどの画質の悪さだった。 “すごい” でなく、 “すんげぇ” と声を振り立ててぼくはしばらくの間、然もありなんと呟きつつベンチに座り込んでいた。

https://www.amatias.com/bbs/30/637.html

カメラ:EOS-R6。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
群馬県桐生市。

★「01桐生市」
八百屋の店先で。小学生の使うような木の椅子にトマトが一盛り乗せられていた。
絞りf8.0、1/400秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02桐生市」
長い間風雪に打たれたと覚しき看板に、画材、文具との文字が微かに読み取れる。とっくに廃業した店に街灯が、影絵のように転写されていた。
絞りf8.0、1/400秒、ISO 100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2023/03/24(金)
第636回:現場百回
 流行り病も落ち着きつつあるなか、久しぶりに群馬県桐生市へ足を運んだ。前回に続き今回もそこで撮った写真を掲載させていただく。ここはかつて数度訪れたことがあるのだが、ぼくは「何とかのひとつ覚え」で、いつも同じ所ばかりを(桐生市本町通りを中心に、その辺りを)行ったり来たりしていた。したがって、何度か通いつつも、桐生市のごく一部しか知らない。
 プロ・アマを問わず、写真愛好の士というのは、刑事の「現場百回」と同じように、ひとつの被写体に何度も対峙することが大切だし、また、その都度新たな発見があるものだ。とはいえ、ぼくはいつも同じものばかり、同じように撮ってしまい、進歩のない自分に「出るはため息ばかりなり」だ。

 だが今回は、お目当てとした「桐生が岡遊園地」とそこに隣接する「桐生が岡動物園」が生憎お休みで(どうやら休園は不定期らしいのだが、ネットにはちゃんと告知してあった)、思わぬ肩透かしを食い、少しばかり恨み辛みに似たお門違いの感情を抱いた。
 遊園地前にある駐車場には、休園を知らずして来てしまった不運な10台ほどの車が家族とともに所在なく佇み、やはりぼくと同じように彼らも、やり場のない感情を持て余しているように見えた。
 手落ちのすべてが自身にあることを誰もが悟っていたので、顔が合えばお互いに気恥ずかしく、そして照れ隠しに笑うしかない。そんな仕草は嫌なので、ぼくは彼らに目を向けることなく、その場から逃げるように、すぐ近くの、いつもの場所(本町通り周辺)へと取って返した。気まずさが先に立ち、残念ながら「同病相哀れむ」を確認し合うには至らなかった。

 桐生市は、ぼくにとって特段胸に迫り来るような被写体があるという訳ではないのだが、しかし所々に気をそそられる佇まいが見受けられる。撮影の意欲や緊張度はどこでも同じだが、気楽に身構えられるのは、老体にとってありがたい。「淡々と撮る」ことができるようになるには、まだしばらく時間がかかりそうだが、一日でも早くそうなりたいものだ。

 そして、桐生に好感が持てることのひとつは、他の観光地にあるような「これ見よがし」な感じがしないことだ。揉み手をして媚態を晒す様子が窺えないのが、ことさらよろしい。衒(てら)いを感じさせずに、市民が肩を張って暮らしているのではないことが窺える。つまり、「ひけらかし」の度合いが極めて低いのだ。観光客が列を成して歩くわけでもなく、食べ物を頬張りながら闊歩する姿もここでは見かけない。桐生は、まことに行儀が良く、清々しい。
 車で往復4時間弱なので、寝坊助のぼくにとって、午後出立はあまり効率的な時間の使い方ではないが、最後は少し息が上がっていたくらいだから、ちょうど良いのかも知れない。近いうちに、休園日をしっかり見定め、少し早起きをして、暑くならぬうちに遊園地と動物園を再訪し、カメラを振り回したいと思っている。

 この日は1時間40分滞在し、160枚ほど撮った。だいたいぼくのペースはいつもこのようなもので、これが多いか少ないかは、場所やその時の気分にもよるが、他人と一緒に撮ることはほとんどないので、比較の対象がなく何ともいえない。
 多く撮れば良いというものでは無論ないが、しかし質と量の因果関係は、65年間の写真生活を以てしても、ぼくにはやはり分からない。ということは、畢竟関係がないと結論づけてもいいのではないかと思う。

 写真は、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」という具合には決していかず、また「写真にまぐれはない」というのが真理だが、可能性ということに限定して考えると、良い写真が撮れる割合が増えるということはあるように思う。いや、その執念がより良き方向に導いてくれる可能性があるということなのか。
 気に入った被写体に対して、「アングル、絞り値、露出、必要とあらば、時間やレンズの焦点距離などを変え、全知全能を総動員し、納得いくまで撮ること」と、人様にはくどくどという。「フィルムではなく、デジタルなのだから、心ゆくまで撮るべし! 惜しむものは何もないじゃないか。ただし、安易に流れないように」と、ぼくはとても正しい御託を並べ立てる。

 そんな指摘が正しいかどうか、ぼくは前号に引き続き、湯船に身を横たえ、昨夜は少し気のぼせしながら、もっともらしい顔で、考え込んでいた。
 写真を絡めて話しをしようとするため、厄介かつ大変なのだ。写真抜きで、「何故ぼくは遊園地や動物園が好きなのか?」について述べるのであれば、ずっと気楽に、しかももっと面白おかしく書けるのだが、題目が「写真よもやま話」ときているから始末に負えない。ここらへん、どうぞご理解をいただきたい。と、ひとまず “示し” を付けておき、実はこっそり「次回に書いてしまおう」と目論んでみたものの、もう一度当地へ行かないと遊園地と動物園の写真を掲載できないことに、今遅ればせながら気がついた。

 往々にして、文と写真の組み合わせがちぐはぐになってしまうことは、今までの例によりとっくに承知しているのだが、そのたびにぼくは、遊園地前の駐車場で体験したような気まずい思いを余儀なくされている。

https://www.amatias.com/bbs/30/636.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ : RF50mm F1.8 STM。RF16mm F2.8 STM。
群馬県桐生市。

★「01桐生市」
初めてこの地を訪れたのが20年前。当時からこの建物があり、何度か撮っている。けれど、1枚も思い通り撮れたためしがない。さて、今回はかなり思い切ったつもり。
絞りf6.3、1/160秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02桐生市」
無隣館(旧北川織物工場。大正5年頃建設。国登録文化財)のノコギリ屋根。清々しい桐生に相応しいトーンに。
絞りf8.0、1/320秒、ISO 100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2023/03/17(金)
第635回:今さらながらに
 湯船に浸かりながら、他愛のないことについて、真剣な面持ちで考えを巡らすのはぼくの大切な日課のひとつとなっている。「おれは、これでもいろいろなことをちゃんと考えているのだ」と自己暗示をかけつつ、意味不明な安堵感を得るために、この作業をもう何十年も続けている。
 湯船で没頭するあまり、ゆでだこ状にならぬよう、湯温は低めに設定してある。何事にも不用意なぼくだが、こと湯船に関しては用意周到なのだ。精神ばかりでなく、肉体までもがふやけてしまっては、写真屋として、もはや手の施しようがない。

 風呂は精神を開放させ、ぼくは取り留めのないことを真面目に思考するのだが、何ひとつまとまらないうちに、気づくと濡れた体をタオルで拭いている。この流れるような一連の動作は、実は用便に似て、まるで茶道の立ち居振る舞いのように一切の無駄がない。一日を締め括るにはもってこいの安定的動作手順だ。しかもこの所作は、用便同様に虚無であるので、なおさらに美しい。
 写真撮影も斯くありたいと願うのだが、そういかぬところが、写真に駆り立てられる原動力となっている。写真は、いろいろと未熟であると自覚しているうちが華というものだ。

 要らぬことと知りつつ敢えて記すのだが、生涯の用便回数(75年間に及ぶ大小を含めて)と今まで切ったシャッター回数は、どちらが多いのだろうかと、数字アレルギーのぼくは計算機を持ち出し、わざわざ計算に及んだ。この手のことに、ぼくはすぐに血道を上げたがる。何故か、嬉々として計算機のキーを叩くぼくがいた。
 いうまでもなく、シャッター回数のほうが “圧倒的に” 多い。ぼくがどのような恰好をして写真を撮っているのかは知りようがないが、用便より遙かに多い回数をこなしながらも、しかしきっとその撮影姿は洗練とはほど遠く、どこかおどおどし、へっぴり腰であるに違いない。同じ動作を飽くことなく繰り返しているうちに、姿形というものは自然と恰好がつき、いわゆる「身のこなし」がはまるものだが、さてぼくはどうかと案じるに、きっと怪しい。

 話をもう一度快楽の湯船に戻す。そこは一種の精神安定剤の役目を担っている。しかし時に、ここで得た結論や決着がいつも弱気で脆弱なぼくの精神をいくらか鼓舞し、確信を持たせる場合がたまにある。謎解きに挑み、それを解いた時の喜びは一入(ひとしお)だ。

 昨夜の決着を、筋道立てて綴ると以下のようになる。今さらながらの感があるのだが、ここにもう一度反芻してみる。
 被写体を選択し、シャッターを切る時、頭のなかでまずイメージを描く。今まで何度か述べたことだが、写真は「初めにイメージありき」をぼくは信条としている。どのようなイメージを描くかで、写真の質は決定する。技術は二の次だ。ぼくは撮影に至るこの経緯と考えを後生大事に懐にしまい込み、そして信じ続けてきた。もちろん、今も変わりない。

 イメージを描く礎となるものは、撮影者の思想と感受であり、延いては人生観によるところが大きい。また、何を、どの様なかたちで体験してきたかに依拠するところ大であろう。
 ぼくが暗室作業をことのほか大事にし、また重んじるのは、描いたイメージを二次元の世界に、より正確・精緻に具現化したいとの思いからだ。ぼくの、そのような思いを指し、「強すぎる我」だとする友人もいるが、それがなければ、物づくりなどする必然性がない。
 撮影時に大胆なイメージを描き、それを自室に持ち込み、パソコン上に再現しようとすると、ぼくは途端に尻込みをし、縮み上がってしまうということに気がついた。ぼくの「強い我」は、何時しか、臆病風に吹かれているのだ。

 一旦は大胆に描いたものを、「それでよし」とする勇気がどうしても持てないでいる。誰に忖度するでもなし、ぼくは理由が分からずに、ただ怖じ気づいている。自身の写真を、他人に気に入られようがそうでなかろうが、まったく頓着しない質のぼくが、何故、この時になると身を縮めてしまうのか? 
 この疑問が、湯船で解けたのだった。パソコンの前には、もうひとりのぼくがおり、彼はコマーシャル・カメラマンという分際ながら、作画については至って行儀が良すぎるのだ。その彼が、いつもぼくの耳元で「ちょっとやり過ぎなんじゃない。いつもお前は、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』といってるではないか」と、意地の悪い目つきをしながら、囁き戦術に出てくる。ぼくの冒険を諫めたり、過ぎたる「我」を押し止めようとしてくる。姑のようなもうひとりのぼくに打ち勝たないと、次なるステップに進めないことを、ゆでだこ一歩手前のぼくは悟った。 “一般受け” をことさら嫌うぼくにとって、昨夜の湯は、上機嫌だった。

 しばらくは勇気を持って、なり振り構わず、うるさい姑を完全無視しながら、晩年の写真生活に臨む決意を、まずは、今さらながらにしたところだ。「人生は取り敢えず」が口癖だった亡父の教えに従い、ぼくは写真の楽しみがひとつ増えたように感じている。さて、どうなることやら。

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カメラ:EOS-R6。レンズ : RF24-105mm F4.0L USM。RF50mm F1.8 STM。
群馬県桐生市。

★「01桐生市」
塗装が剥げ、錆びだらけの、かなり年季の入った歩道橋。早速、気難しい写真に打って付けの被写体を見つけ、ぼくは「一発必中」との気構えで、1枚だけ撮る。
絞りf11.0、1/160秒、ISO 100、露出補正-0.67。

★「02桐生市」
平面性に劣るガラス戸とそこにゆらゆら映り込んだ家。「やはり昭和。映り込んだ家にもう少し風情が欲しいんだが」と無いものねだりをしながら。
絞りf2.0、1/1000秒、ISO 100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2023/03/10(金)
第634回:都内桐ヶ丘団地に赴く(4)
 やっと疫病が治まりつつあるなか(これが一時的なものかどうかは先行き不透明だが、流行り病というものは歴史的に見て、いずれ治まることになっている)、ぼくはかつて何度か通った近県のいくつかの街に足を向けた。約3年ぶりの訪問だった。
 それらの街でぼくが撮ろうとしたものは、おそらく以前と変わり映えのしないものなのだが、気が晴れれば見え方も、捉え方も以前と多少異なるのではないかとの期待を込めてのものだった。もしかしたら、この3年の間に、ぼくは何かが成長しているかも知れない、いや断じてそうに違いないと、相も変わらずの極楽とんぼだった。

 だが、勝手知ったる横丁や家屋の様相が、この3年余りの間に姿を消し新しいものになっていたり、あるいは更地になっていたりして、茫然自失とまでは行かないが、多少の意気込みがあっただけに、狼狽えた。
“そこにあって然るべきもの” が、断りもなく知らぬ間に消失しているのだから、新米の後期高齢者は慌てふためき、そしてあろうことか取り乱した。ぼくは口惜しいかな、まだまだ修業が足りない。

 この世のありとあらゆるものは、生滅流転し、永遠なるものはひとつとしてないという真理を知ればこそだが、何もこの期に及んで、ぼくの油断をあざ笑うかのように、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の掟を持ち出さなくてもいいではないか。
 「気も晴れ晴れと、心も軽く、やっと来られたのだから、そのような無常観を示すのは、今でなくともよいではないか。酷というものだよ」と、相手の顛末も考えずに、ぼくは恨み辛みを込め、天を仰いだ。

 話は急に本題に入るが、桐ヶ丘団地の何人かの方々とお話しをする機会を得た(高齢の方ばかりだったが)。そのあらましを聞くにつれ、どこか昔を懐かしむ面と、上記したような、寂しさや持って行きようのない心の鬱積に近いものを彼らに感じた。
 一言でいえば、栄枯盛衰は世の常であり、そのやるせなさが言葉の端々から漏れ聞こえた。それはおそらくぼくの、この団地に対する過ぎた思い入れや感情移入によるところのものが主ではなく、あくまで団地や商店街を視覚から読み取ったところでの素直な感想だったように思われた。その思いと、住民の方々の言葉が同期し、錯綜していると考えるのが順当だと思う。そこにはきっと、視覚によるぼくの情趣的直感も多少は入り混じっている。

 ひとつつけ加えるのであれば、桐ヶ丘団地に限らず、ぼくの撮影時間は(私的写真に限り)ほとんどが夕方近くであり、その光のもたらす情緒的な気分と光景が、撮影時の意欲や動機づけに大きく付与している。光は、晴れても曇っていても、ぼくは斜光と日没から30分程度が好みなのだ。したがって、ぼくの撮影時間は、いつも2時間〜長くても3時間というところだ。集中力もこのくらいが限度である。ぼくが多作屋ではないことの言い訳としておく。
 もうひとつ、ついでにつけ加えるのであれば、ぼくは午前中が滅法弱いという生活習慣上の理由がある。午前4〜5時頃まで仕事や読書、時には音楽や落語を愉しみながら寝入るのが、還暦後のしきたりとなっている。したがって最近は、仕事も午前中の撮影はお断りするという放逸ぶりだが、もう許されてもいいんじゃないかな。

 今から13年前のことだが、我が倶楽部の撮影会に初参加した人がいうに、「日光での撮影会の時、午前11時半に北浦和駅前に集合って、一体どんな倶楽部か? この倶楽部は何かが間違っているのではないか、と非常に面喰った」とのことである。
 因みに、北浦和駅前から日光東照宮までの道のりをナビで調べたところ、高速利用で1時間48分とあるから、何ら不思議も不都合もない。至極まっとう、十分過ぎるくらいの待ち合わせ時刻ではないか。ぼくは日が傾いた頃に写真を撮っていればそれでいいんだし。

 閑話休題。

 今は多くの店舗が店終いし、いわゆるシャッター街と化した感のある桐ヶ丘中央商店街だが、それほど広くない中庭を歩くと、閉じられたシャッターにスプレーで、様々な絵が描かれてある。スプレーアートというんだそうだ。
 人気TV番組「プレバト」の新企画として2020年に、閉じられたシャッターを利用し、そこに描かれたもので、まだ当時のものが残っている。拙話第632回に、その一部を掲載させていただいたが、説明文に記した通り、ぼくは写真的な様々な要素を勘案し、極力彩度を落としスプレー画を描写している。

 が、今回は「くっきーさん」の描いたものを中心に、頭のなかで僅かながら彩度を落としたイメージを描き、夕刻のシャッター街を「丁寧に、丁寧に」とひとりごちながらシャッターを押した。
 話を伺った方々の気持が、そこはかとなく伝わって来るような情景だった。

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カメラ:EOS-R6。レンズ : RF24-105mm F4.0L USM。
東京都北区。

★「01東京都北区」
桐ヶ丘中央公園北エリア。公園の裏手の細い道を通っていたら、車窓からぼくの眼鏡に適った公衆トイレが。夕日が一瞬射したところを、油断なく撮る。
絞りf6.1、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.00。

★「02東京都北区」
上記した桐ヶ丘中央商店街のスプレーアート。
絞りf8.0、1/25秒、ISO 400、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2023/03/03(金)
第633回:都内桐ヶ丘団地に赴く(3)
 写真の仕事に従事してかれこれ40年近く経つ。その間いつも感じていたことは、ベッドに潜り込んだ時の、「ああ、これでやっと寝られる。寝てしまえばこっちのものだ」と、それは半ば不貞寝にちかく、だがその感覚は得もいわれぬ心地良さをもたらす。するべきことを果たしたとの思い込みによる充溢感は安堵感に取って代わり、それはぼくにとって極めて贅沢な時間なのである。もちろん、その感覚は今も変わりない。
 だが、「寝てしまえばこっちのもの」との不貞寝の代償は悪夢(撮影現場に於けるありもしない失態)に取って代わり、生涯この厄災からは逃れられそうもない。

 「やっと寝られる」との感覚がぼくは殊のほか好きで、却って寝るのが惜しく感じられるほどだ。一日の、唯一の安住の地を得たとの思いから、この貴重な時間をできる限り長引かせたいと思ってしまうのだから、それは子供じみた健気さのようでもある。この状態をいつまでも続けるには、どの様にしたらいいかを真剣に考えてみたりもする。こんな自分の姿は、しかしながらどうみても痛々しく、やはり子供じみている。父の言葉を借りれば、「もうよか加減、解放してもらえなかっちゃろうか」(いい加減、解放してくれ)ということになるのだろう。
 余談だが、歳を取るにつれ、無意識下にある父の地言葉が何の抵抗もなく知らずのうちに出て来るようになった。面白かもんやね。人間って、そのようにできているのかな。先祖返りとでもいうんですかね?

 この数年、意識的に仕事写真から距離を置き、遠ざかろうとしている自分がいるのだが、それでもこの心地良い感覚はまったく変わらない。変わったことといえば、最近頓(とみ)に感じるのだが、以前にくらべ「撮影時の緊張感」の質が異なってきたということだ。これは良し悪しや強弱の問題ではなく、ぼく自身の、写真への対峙の仕方が変化したということなのだろう。
 
 仕事写真は、強いていえば、クライアントや一般の方々への責任。プライベートな写真は、自分への責任。分けて考えるべきものでないことは承知しているのだが、やはり仕事写真は、責任の大きさとその性質的な問題からどうしても言い知れぬ「恐さ」を伴うものだ。一方、プライベートな写真の恐さは、自分の姿が明確に露呈することで、それは即ち「自分はこの程度の人間であります」と公表するに等しい。決して誤魔化しは効かない。この不気味な恐さから逃れるには、写真屋を辞めるか、そうでなければ開き直るしか目下のところ手がない。だからぼくは、いやいやながら開き直っている。

 「責任」という言葉を無定見に使用するのは好ましいことではないと思っている。何故かといえば、責任をことさら強く追求したり、こと細かく問題にする人間ほど、義務を果たすことに使命感が薄く、責任逃れのために過ぎたるご都合主義や屁理屈を持ち出し、自ら何も反省することなく、平然としているからだ。このような事例が多すぎる。責任と義務は両輪であることを知ってか知らずか、振り向こうともせず、その厚顔さったらありゃしない。
 したがって、「責任」という言葉を持ち出す時は、非常な慎重さを要するというのがぼくの考え。

 翻って拙稿についてだが、ぼくは団地住まいをしたこともなければ、団地に対する浅薄な知識しか持ち得ぬのだから、記述について大きなことはいえない。もし、どこかに本稿の大義名分を立てるのであれば、一介の写真屋として、やがて消えゆく歴史の断片を記録として残しておくことは、義務の一部であるように思う。
 写真はその伝、最適な表現手段(もしくは記録媒体)であるように思われる。「思われる」というのは写真に対する一般的な感覚で、写真以外にも、文章や絵画、その他の手段もあるのだから、この役目を担うのは必ずしも写真の独擅場(どくせんじょう)というわけではない。

 ついでながら、「写真は真を写さない」とぼくはことあるごとにいっている。それは今のところ、自身のなかだけで完結しているのかも知れず、写真を記録性のみに留めようとする人もいる。だがいずれにせよ、程度の差こそあれ、大雑把にいえば、主観性と客観性のどちらに重きを置くかということだろう。
 ぼくは、仕事写真で自身の意図や意志をある程度抑制しなければならず、そのような習性がすっかり身についているので、私的写真となると、その反動が大きくなってしまうようだ。目で見たものより、頭に描いたイメージやより象徴的なものに映像は大きく傾く。またそれが、自己表現のありようだと思っているので、この数年は控え目ではあるが絵を描くような感覚で、写真を愉しんでいる。
 一般的にいえば、それをして時に「心象写真」と位置づけることもできるのだが、ぼくにとっての心象写真事始めはモノクロ写真にあり、本来ならそれについての言及を避けるわけにはいかず、いずれ筆硯を新たにしようと思う。

 今回の掲載写真は、目覚ましい高度経済成長期の真っ只中に建造された壮大な団地群の一つである桐ヶ丘団地だが、建設から60年近くが経ち、解体を間近に控えているその様子を、かなり主観的に捉えてみた。

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カメラ:EOS-R6。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
東京都北区。

★「01東京都北区」
4階建ての本棟に2階建ての建築が後から併設されたと住民の方が教えてくれた。面白いシステムである。本棟の廊下を歩いてみたが、どの位の人が現在住んでいるのか見当がまるでつかなかった。
絞りf5.6、1/50秒、ISO 100、露出補正-0.67。

★「02東京都北区」
別棟の踊り場に斜光が強烈に差し込む。ドアの塗装が剥げ、そこから錆止めの赤い塗料が見え、印象的だった。頭に描いた通りの映像に仕上げることができた。これだからぼくの写真は好かれない。「何? この汚い写真!」という声があちこちから響いてくる。だが、「してやったり」である。
絞りf8.0、1/125秒、ISO 320、露出補正-0.33。

(文:亀山 哲郎)

2023/02/24(金)
第632回:都内桐ヶ丘団地に赴く(2)
 団地に関しての成り立ちや建築学的な構造には滅法疎いぼくだが、「昭和の匂い」とか「昭和レトロ」との言葉を聞くと、無知さ加減を放り投げ、すべての事情を脇へ置き、取るものも取り敢えず駆けつける習癖がある。無知蒙昧の成せる業でもあるし、またそれが、“昭和の”お調子者たる所以でもあるのだろう。

 ぼくにとって、その類の言葉は魅惑的ではあるが、残念ながら事実は「撒き餌」のようなものであり、そして麻薬的な響きを感じさせる何かがあるので、したがって、「無知」をかなぐり捨て、思考を失い、アッホーなぼくは、とたんに釣り上げられてしまう。釣り人にとって、こんなに好都合な魚はいない。

 古くからの友人はぼくを指して、「野良犬」のようだと減らず口を叩く。魚になったり、犬になったりと、ぼくは忙しい。
 「良い物を見せたり、与えたりしても、君は尻尾を振らない。それはまるで野良犬の仕草であり、可愛げがない。損な性格だから改めろ」と彼は言い放つのだが、それはとんでもない見立て違いだし、大きなお世話というものだ。
 第一、人の性格を断定していうことこそ、救い難いほどの「無知さ加減」である。彼はぼくの生活の5%も知らないではないか。人は自身の無知さ加減が如何ばかりかを知るようになって、はじめて賢くなるものだ。と、ここで息巻いてどうする。

 前号に述べたことだが、物心ついた頃から多感な時期、そして目眩(めくる)めくような高度経済成長期(昭和30-48年、1955-1973年)を過ごしてきた昭和人間のぼくとしては、同時代の風雪に打たれてきた団地群をひと目見ておきたかった。
 木造建築が大勢を占めた当時にあって、コンクリートづくりの巨大な団地は、三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)も身近に感じられるような憧れの住まいだった。桐ヶ丘団地も斬新で革新的な佇まいだったのだろう。そんな思いを抱きながら、当時から60年以上も経った巨大団地にぼくは辿り着いたというわけである。

 ぼくの知る昭和は(昭和23年以降)、「ごっちゃ混ぜの昭和」であり、「何でもありの昭和」でもあった。加え、「寛容で、どこかいい加減で、愉快な昭和」でもあった。世の中のすべてが、良くも悪くも、大きく、激しく揺れ動いていた。個人も大衆も世間も、様々なものの振り幅が今よりずっと大きかったのだ。
 それをして「活気」とか「躍動」というのであれば、確かに平成・令和(少なくともこんにちまで)は、停滞の時代であり、「何もかもが不寛容で窮屈。どことなく息苦しい時代で、人々は鬱屈した日々を余儀なくされている」ように思えてならない。

 今、ぼくが「昭和」と聞いて色めき立つのは、古き良き時代への、多少の懐古趣味の表れなのかも知れないと、小声で遠慮がちにいっておく。若いころは、懐古趣味というとどこか「古くさいもの」を直感し、年配者の嗜好との思いがあったが、今のぼくは年代や時代に関わりなく、「良いものは良い。ダメなものはダメ」と、辺りを憚ることなく率直に、柔軟に対処できるようになったと思い込んでいる。家人はぼくのそんな気振りを認めようとしないが、ぼく自身はお陰で生きやすくなった。昨今は、「頑固ジジィは嫌われる」を座右の銘としている。

 この時代しか知らぬ人たちには何の責任もないのだが、とはいえ、老いも若きもスマホにかじりついてばかりいる姿を見ていると、時の流れとはいうものの、背筋に冷たいものが走るのはぼくだけであろうか?寸暇を惜しんでスマホとの格闘に余念のない人たちって、自身の頭で考えたり、良書を嗜むことなどあるのだろうかと、お節介ながら気になって仕方がない。

 今、ぼくも友人に負けず劣らず減らず口を叩いているようなので、話を本題である「桐ヶ丘団地」に戻す。帰宅後、高度経済成長期とともに歩んできたこの団地についていろいろ調べていたら、ぼくの行ったところ(E棟群)からほど遠くないところに古いN棟群(昭和30年代初めに建設)があることを知った。NはNorthの意味で、北エリアを指す。
 ここの団地事情に疎いぼくは、得た情報を頼りに、「目指せN棟群」とばかり、土地勘のないところを再び心細げに車を走らせた。しかし、カーナビで位置を確認してみるのだが、古びて佇むはずのN棟たちがまったく姿を見せないのだ。あるはずの場所には広大な更地が無情に広がっており、車窓から容易に覗けないよう銀色の金属板でそこは遮られていた。
 「もしかしたら、ぼくの得た情報はかなり以前のもので、今建物はすっかり取り払われ、再生を待つばかりなのかも知れない」との思いが頭をよぎった。

 ぼくは正しい情報を得ようと車を降り、散歩をしていた年配のご夫婦に「N棟を見たくてやって来たのですが、もう取り壊されてしまったんでしょうか?」と訊ねた。「ほとんどが取り壊されてしまったが、数年前にその一部が登録有形文化財に登録され、現在でも残されていますから、そこに行ったらどうでしょう」と親切に教えてくれた。
 さて、ぼくはそこを目指して、またしても車で走り回ることに。途中、色々な人に伺い、駐在所のお巡りさんも丁寧に調べてくれ、1時間半近く探し回ったのだが、結局埒が明かず、とぼとぼ帰宅。自宅のパソコンで「赤羽台団地」を検索したら、ありゃりゃ、ちゃんと出てきよった。やっぱりぼくは、昭和のお調子者だ。
 現場で、スマホに頼ればよかったのか?いや、この悔しい実体験が写真撮影に役立つのだと信じ、ぼくはやはり元来の頑固ジジィに返り咲き、なり振り構わず「老いの一徹はやはり嫌われる」を実践してみるのも一興かと思った。嫌われても写真が写るのなら、「男子の本懐、これに過ぐるものなし」ではないか。

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カメラ:EOS-R6。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
東京都北区。

★「01東京都北区」
団地の中央に位置する桐ヶ丘中央商店街の裏手。団地ではないが、このような空気感が漂っている。
絞りf6.3、1/125秒、ISO 100、露出補正-0.67。

★「02東京都北区」
桐ヶ丘中央商店街の中庭。シャッターに描かれた絵はもっと鮮やかなのだが、実物通りに描写すると絵にならず。ここが写真の難しいところ。
絞りf8.0、1/125秒、ISO 320、露出補正-0.33。

(文:亀山 哲郎)

2023/02/17(金)
第631回:都内桐ヶ丘団地に赴く(1)
 団塊世代の真っ只中であるぼくは、75年の生涯のうち半分以上の41年間、昭和の時代を過ごしてきた。連合国軍(実質的にはアメリカ軍)占領下の実情もリアルタイムで味わってきた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部。1945〜1952年)下の、いわゆる “進駐軍” との共存も体験している。
 だからといって、その時代を過ごしたことが別に偉いわけではないのだが、父が京都の進駐軍で通訳をしていたお陰で、米軍の物資をよくくすねてきてくれ、ぼくはそのおこぼれに与ることができた。それは、当時の日本国民からすれば、どれもこれも、相当な贅沢品であり、憧れの品々でもあった。第一、手に入るようなものでもなかった。
 父の家族思いで前向きな略奪精神により、ぼくは当時の子供たちがよく口にした「ギブ・ミー・チョコレート!」という屈辱的なおねだりを、米兵にせずに済んだ。

 父の運転する(無免許だったが、当時は進駐軍の許可証のほうに分があり、効力があったと聞く。今思えば日本国民としてそれは屈辱的なことだが、まだ日本は占領下にあり、主権国家ではなかったのである)進駐軍のWillys製ジープにぼくを乗せて、京都を走り回っていたのだそうだが、あの格好いい本物の軍用ジープの記憶は細切れでしかない。ただハーシー(Hershey’s)のチョコレートだけはよく覚えている。
 大文字でHERSHEY’Sと記された茶色の包装紙を剥くと、白い蝋紙で包まれたこげ茶色の、何とも艶かしくも香しいチョコレートが出現し、ぼくはそれをアメリカの象徴的なお菓子として毎日頬ばっていた。一方父は、Bond Streetという名のパイプ煙草を吸い、西部開拓時代に創業されたMJB製の珈琲を毎日煎れていた。

 とはいえ、ぼくの家は、上京区寺町通りにあるいわゆる京長屋風の一部であり、ぼくは我が家を「ぼろくその家」と呼び、面白がっていた。3〜4歳の子供はすでにそのような感覚を持っているものだと、今さらながらの思いに至るが、これが最も古い記憶の一端なのだろうと思う。1,2歳の確かな記憶って人間にはあるのだろうか?
 「ぼろくその家」は、Hershey’sやBond Street、そしてMJBなどとはどう見ても似つかわしいものではなく、とても奇妙な取り合わせに思える。アメリカの占領はそのようなチグハグしたものまで日本にもたらしたのである。

 京都は戦火を逃れたがゆえに、その家は戦前のものであり、建材の何もかもが黒光りをし、家の水平・垂直さえ怪しいものだったのではないだろうか。
 因みに京都の人間にとって、戦前戦後とは、第二次世界大戦を指標とするのではなく、応仁の乱(1467〜1477年)というのが通説である。「嘘と間違ったことは、わしはいわぬ」といつも大見得を切っていた母方の爺様(いつぞや紹介した祖父で、祇園では芸妓に「わしは肛門科の医者だ」と大嘘をついていた)は大真面目な顔で、ぼくにそう教えた。ホンマかいな。したがって、ぼくの家は重文か国宝級だったのである。

 人生の、若く多感な時期を過ごした昭和は、ぼくにとって思い出のぎっしり詰まった良き時代であり、平成や令和はいわばどことなく実感に乏しく、借り物のようなものに思えてならない。あまり古いことをことさらに持ち上げ、それを懐かしむ様子を見せたり、いったりすると、それを揶揄する人々にぼくは取り囲まれることになるのだろうが、あなた方だってやがてはそうなるのだ。「順繰り」の法則を侮ってはいけない。老いの繰り言、「昔は良かったなぁ」と大きな声でいいたくはないが、半分は事実であると思っている。

 郷愁に駆られるというのは、人間的な本能の一部であり、過ぎ去った時、失った時間を取り戻す縁(よすが)でもある。とても貴重な瞬間なのだとぼくは思っている。またそれが生きるための養分と化すこともある。誰もが、そのような年齢にやがては辿り着くのだ。過去があって、こんにちの自分が形成されているのだしね。すべてのものが過去からの現在進行形であり、それが自然の摂理というもの。

 ぼくにとって、興味ある多くの被写体は、やはり「昭和どっぷり人間」に相応しく、その時代を彷彿とさせるようなものにどうしても惹かれがちだ。コロナ禍以前は、そのようなものを求めて関東近県をうろついていたが、疫病のために出かけることが憚られるようになり、近所の花ばかり撮り、それを掲載させていただいていた。

 やっとコロナも下火となりつつあり、以前から少々気になっていた古い団地(アパート)に出向いてみた。そこは、東京都北区にある、都内最大級の団地密集地帯のひとつである都営桐ヶ丘団地で、友人から「戦後の深刻な住宅難と人口増加に備えて作られ、まだ昭和のレトロな香りが存分に漂っている」との情報を得た。団地の詳しい仕様についてぼくは音痴だが、軍用地を利用して最初の団地棟が作られたのは昭和30年(今から68年前)ということだった。興味深い被写体に出会えるのではないかと期待し、取り敢えずは下見気分で観察してこようと車を走らせた。
 膨大な団地群なので、週末あたりにもう一度出かけてみようと思っている。

https://www.amatias.com/bbs/30/631.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4L IS USM。
東京都北区。

★「01東京都北区」
3月には取り壊わされるとの立て看板が。すんでの所で、間に合ったというところか。もう一度行って、再撮を試みようと思っている。
絞りf8.0、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.00。

★「02東京都北区」
桐ヶ丘中央商店街の一角。シャッター街と夕日に照らされた万国旗。う〜ん、な〜んか侘しくもあり、これってレトロなんかなぁ〜。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-0.33。

(文:亀山 哲郎)