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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2015/08/28(金)
第262回:北極圏直下の孤島へ(20)
 ソロヴェツキー諸島はクレムリンのある最も大きな島である大ソロヴェツキー島をはじめ大小5つの島からなる。長いロシア正教の歴史のなかで、ソロフキ修道院は傑出した修道士を多く輩出してきた。島の各所にはさらに厳しい戒律と修業の場を求め、隠遁所が設けられた。ムクサルマ島にある隠遁所もそのうちのひとつである。
 高度なソロフキ文化が花開いた17世紀には400人ちかくの修道士が常時居住し、氷の溶け始める6月から結氷する10月までの期間には、ロシア各地からの巡礼者は1万人を超えたといわれる。ロシア革命(1917年)以前、ソロフキはロシア正教の一大聖地だった。
 そしてまた、それだけの大所帯をまかなうことができるほどソロフキは豊かでもあった。植物園や温室が設けられ、薔薇やキャベツをはじめとする極寒の地には育たぬ植物などが多く栽培されていた。

 ムクサルマ島には、多くの家畜が大切に飼育され、2階建ての巨大な家畜舎があり、収容所時代はおあつらえ向きの囚人獄舎として利用された。現在は人っ子ひとりいない廃墟となっているが、往事の名残を色濃く留めている。
 特出すべきは、ムクサルマ島は1800年代初頭に巨大な石を積み上げた堤防でソロヴェツキー島とつながれていることだ。堤防のまわりにはいくつもの生け簀が作られている。海を埋め立てたこの堤防は幅約6〜7m、長さ約1kmあり、当時は土木建築の奇跡といわれ、ロシアの高い技術水準を示していた。
 ぼくはその堤防や、かつて栄華を誇った隠遁所が、収容所時代(1923〜39年)に血と腐臭に満ちた、おぞましき実験場と化したその空気に何としてでも触れておきたかった。時空を飛び越えた先に何があるのかを確かめたかった。

 ムクサルマ島についての情報をほとんど得られないままに、ぼくは出立した。先入観に侵されない分、その役得や余得に期待するのも一興だが、“一寸先は闇”という事情は一方で胸が高鳴り、ワクワクとさせる。それは、“恐いもの見たさ”の願望が満たされたときの、非常にエゴイスティックな満悦であり、気ままな悦服なのであろう。
 ぼくのムクサルマ行きは探検というほど大袈裟なものではないが、多くの探検家の底流には、常に“恐いもの見たさ”という心腹の病が宿っている。これは恐れや怯えから逃れようのない、いってみれば探検家の宿痾のようなものだ。そこには麻薬的な何かがあるのだろう。
 ドイツの社会学者N. ルーマンは、「危険」の対語は「安全」ではなく「リスク」だと説いている。彼のいう「リスク」とは何かを説明しようとすると本題を大きく外れてしまうのだが、文明やその利器というものが天災としての危険を「リスク(人災)」に変質させてゆくとする論理なのだが、ぼくは頷くところ大なり、である。

 カーチャに黒パンのサンドイッチを持たされて、ぼくは強奪した10段ギアのオフロード用自転車にまたがり意気揚々と走り出した。カーチャやマリーナの脅しなどどこ吹く風。
 村のはずれの二股でコンパスを頼りに道を確認しようと立ち止まっていると、良い具合に向こうから青年がやってきた。彼は単純な道を丁寧に教えてくれるのだが、言葉の端々からぼくがムクサルマに行くことに賛同しかねるという様子がうかがえた。理由を訊ねたのだがお互い言葉の障壁があってなかなか前進しない。ぼくのロシア語と彼の英語能力はほぼ同程度といってよく、したがって意志の疎通は進展のきざしを見せないでいた。ぼくのいかがわしいロシア語はいつもロシア人を悩ませたに違いないが、誰もが面倒がらずに最後までじっと耳を傾けてくれたことに感謝せずにはいられない。

 彼の話を我流に要約するとこういうことらしい。数年前に若い修道士見習いがソロフキにやってきて、ひとりムクサルマに出かけて行った。聖地巡礼を兼ねて、そこで虐殺された囚人たちを弔うためだったらしい。2晩、3晩と経っても彼が戻ってくる気配はなく、心配した仲間が島に行ってみると、宗教施設のある草原で彼は顔色を失い、形相も変わり果て、眼球を一つ失い、完全に気が触れていたらしい。後に精神病院で生害して果てたということだった。真偽のほどは定かでないが、ロシア人はとても迷信深いところがある。
 しかし、まったく迷信深くないぼくには躊躇する理由もなく、加えサムライの子孫でもあるので、ロシア男女こぞっての威喝になど屈するわけがない。

 村の領地を離れると一本道は次第に細くなり、樹木が覆いかぶさり暗さを増していった。人が来たという気配がどんどん薄れていった。ほどなく行く手を阻むような水溜まり(前号。参考写真01)の連続となり、セキルナヤへの行軍と大差なしと踏んだぼくは、とんでもない読み違いをしたことに気がついた。その水溜まりは自転車の車輪が隠れてしまうほどの深さがあり、さすがバイカル湖(貯水量は世界最大。深さも1600m以上で世界最深。透明度も世界一)の国だと、変な感心をする。それは悪路などという生易しい表現から遠く離れたもので、当時4輪駆動車に乗っていたぼくは「チェーンを巻いてもとても走行不能」と断じた。またある所ではツンドラが侵攻し、道は湿地帯となり(前号。参考写真02)跡形もなく消えていた。

 あるべき道が何の予兆もなく突如姿を消すというのは、とてもエキゾティックで面白く、そして刺激的で、手品のように感動的で拍手喝采であるが、目的地がある以上、拍手などしている場合ではなかった。
 ぼくは水溜まりと格闘しながらも、次々と力強く、時にはヨロヨロと制覇し、ぐしょ濡れの泥だらけになりながら、「ここで引き返しては男がすたる。吾は大和男子なり」とさかんに自らを鼓舞していた。「ここで後退りしては、日露戦争に勝利したご先祖様に申し開きが立たぬであろう」と奮い立った。
 その時のぼくの恰好は、ズボンを首に巻き、パンツ一丁となり、靴下を脱ぎ裸足でスニーカーを履いていた。遙かなり203高地である。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/262.html

★「01 叱られて」。
ムクサルマへ向かう村はずれで、叱られて家を放り出された少年。3匹の猫が見守る。ぼくも子供時分、家から放り出されて犬小屋に潜り込んだことがある。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf3.2、 1/640秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02 堤防を横から」。
高さおよそ2m。約200年の時を経てもびくともしていない。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/800秒、ISO100、露出補正-1。

★「03 廃墟」。
草原に建つかつての修道士用独居房。後に囚人用の監獄として利用された。収容所が閉鎖された1939年当時のまま打ち捨てられている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/08/21(金)
第261回:北極圏直下の孤島へ(19)
 雑貨屋でどうにか男の面目を保ったぼくは、帰り道、自然保護官のマリーナ(前号参照)に、「乞う、ムクサルマ島の情報を」と簡潔にいった。雑貨屋で彼女の購買に札びらを切ったのは、そのような下心からだった。ムクサルマの情報を多少でも得られれば安いものだ。ぼくが彼女ににじり寄ったのはあくまで学究的向学心の表れであり、「ナンパしようなんて不心得な動機からではない」と、前号に続きここでもう一度繰り返しておかなければならない。情報と引き換えにぼくは彼女にささやかな恩義を押し売りしたのである。
 ロシア人は、同じ白人種でも、合理主義的かつ個人主義的な欧米人にくらべ、日本人的な義理人情に篤い面をより多く持っているというのが、延べ400日間のロシア滞在で得たぼくの経験則である。

 雑貨屋のアッパレなばぁちゃんがぼくの義理人情に寄りかかった凡庸なる策略を見透していたとは思えないが、苛酷なスターリン時代(粛清や強制収容所で、そして人為的飢餓で約2000万人の命が奪われた)を生き抜いてきた老女は、生きるための知恵と感覚を研ぎ澄まし、身につけてきたのだから、「この異邦人は何かの目論見があるのだろう」と、鼻眼鏡の奥から漠然と捉えていたに違いない。ばぁちゃんの「いい年をして、若い娘に」というぼくの意訳的解釈は大らかすぎて、したがってぼくには罪がない。

 マリーナは快く、「夕食後、地図を持ってあなたの宿に伺うわ」といってくれた。恩義を感じているのだ。
 夕食を済ませ、ペチカの前でコーヒーを飲みながら、女将のカーチャに「明日ムクサルマに行くのだが、行ったことある?」と訊ねてみた。
 彼女は、「ソロフキに来たばかりの数年前に、一度だけ徒歩で出かけたことがあるが(ムクサルマ島は偉大な堤防で結ばれている)、あの道を自転車で行くのは“如何なものか?” しかも一人でしょ」と、まるで政治家のような科白(ぼくの意訳にすぎないが)を交えていった。
 「どうしてもというのであれば、私は船を勧める。漁師にお願いしてあげましょうか? 保護官のマリーナは多分ムクサルマの状況に詳しいと思うから、彼女の意見を優先すべきね」とつけ加えた。
 人口約1000人の村にあって、よそ者はすぐに身元が割れる。マリーナとはすでに知り合いのようで、カーチャはぼくの学術的嗜好の強い人品を呑み込んでおり、「いい年をして・・・」などとは思っていない。ただ、ぼくを自転車で行かせたくない、ということを言外ににおわせていた。

 マリーナがやって来て、ぼくは3杯目のコーヒーをすすった。薪が焔を上げパチパチと音を立て、樹脂の焦げる香りがペチカから漂い、なんとも心地がいい。香を焚いたように、ぼくの気持は安らぎ、あらゆる煩悩から解き放たれていった。
 彼女は地図を広げて説明を始めた。そして、「この地図を貸して上げるわ」と好意を示してくれたが、「東に一本道だから、このコンパスがあれば地図は要らない。貴重な地図を汚したり、失ってはいけないのでいいよ。そのかわり複写をさせて欲しい」と、あたかも写真屋のような科白が口をついて出た。
 「私もカーチャに賛成。道なき道のようなものだから船の方が確実だし、そうしなさいよ。徒歩ならまだしも、自転車で行くなんて敢為にすぎる。ダメッ! 止めなさい!」と、マリーナは恩義を横に置き、保護官としての使命に目覚めたかのように、徐々にビシバシ調の強靱なロシア女に変貌していった。

 ぼくはこの時、ロシアのカムチャッカ半島で地元ガイドの制止を振り切って無謀にも外にテントを張り、その結果ヒグマに襲われ落命した日本人カメラマンを思い浮かべた。
 「ソロフキはとても平和な島で、狼も熊もいないと聞いているけれど?」と向けると、「確かに彼らはここには棲息していない。でもね、白熊が徘徊しているという噂があるわ」と、片目をつむっていたずらっぽい笑顔を見せた。優しいロシアのおねえちゃんに戻っていた。ぼくはウィンクなどされたことがないので、ちょっとだけ眠っていた煩悩が蘇ったかのような錯覚に陥った。
 マリーナはガイド役としてムクサルマ同行を申し出てくれたが、ぼくは断腸の思いで彼女の善意を丁重に断った。後ろ髪を引かれる思いだったと、正直にいっておこう。「撮影は一人に限る」がぼくの信条であったからだ。まことに不都合というか分の悪い信条である。
 ムクサルマがどのような歴史を持った地であるかは、おそらくぼくの方が詳しいに違いないという思いもあったが、それにしても煩悩を振り払うということは、壮健な男子にとってやはり大変なことなのだ。「煩悩あれば菩提あり」(迷いがあるからこそ悟りを開くことができる)ともいうけれど、写真屋に悟りなどいらない。創造は煩悩がなければ成り立たないと考えるのが本筋である。

 彼女たちの話を統合するに、道なき道を自転車で踏破するのはえらい難儀なことで、「出来るものならダワーイ(やってみんしゃい)!」というわけだ。カーチャの息子がオフロード用の10段ギア付き自転車に乗っていることをぼくは知っている。彼女たちの話を聞くまでもなく、すでに自転車の強奪を決意していた。今度は相撲の技で恩義を売ろうか。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/261.html

★「01ムクサルマへの道」。
初っ端からこんな道が立ちふさがる。キャタピラの跡がついているがすぐに引き返してしまったらしい。単なる水溜まりと思うことなかれ。自転車の車輪が埋まってしまうほど深い。彼女たちの憂慮を実感する。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/80秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02ツンドラ」。
ツンドラがしゃしゃり出て、道の形跡が消されている。ひどい湿地帯となり、さてどうするか?
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/100秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03 19世紀に撮影」。
19世紀に撮影されたムクサルマ島への堤防。海を巨石で埋め立て、土木工学の奇跡といわれた。当時は木の柵が設けられていたが今はない。撮影者:不明。

★「04現在の堤防」。
堤防は昔のままの曲線を描いており、時折強い海風が吹きつけていた。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/80秒、 ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/08/07(金)
第260回:北極圏直下の孤島へ(18)
 ソロフキに関心の深い読者から、「今回の“北極圏直下の孤島へ”シリーズは、亀山さんが今までソロフキについて活字媒体で発表された以外のことが随所に述べられているので、とても楽しみです」とのメールをいただいた。
 いささか味噌を上げた書き出しではあるが、読者の励ましにぼくはすっかり気を良くし、今回も未発表話を織り込むことにした。

 けれど、喜んでばかりもいられない。メールをよくよく読むと、“述べられている”とあるからだ。ぼくはここに若干の引っかかりを感じている。つまりぼくは写真屋なのだから、文章より写真に期待していただきたいのだ。文章の方はしょせん素人の戯れ事にすぎない。「未発表写真をもっと見せろ」との指摘であれば、ぼくはさらに気を良くするのだが。
 しかし、残念なことにソロフキ滞在の8日間で、ぼくは約1500枚の写真しか撮っていない。すでにこのシリーズで54枚を費やしている。30枚に1枚の割合で意図したものが撮れるとして、すでに写真はネタ切れだ。写真は物理的に限りがあるが、文章のほうはいくらでも水増しできるし肉付けだってできる。こんな料簡だからぼくはいけないのだ。

 『収容所群島』をものした作家のソルジェニーツィンは、たった1日の収容所生活を『イワン・デニーソヴィッチの一日』という中編小説に著し、おまけに国外追放に遭いながらもノーベル文学賞を受賞してしまった。なんと剽悍(ひょうかん)で野太いことか! とはいうものの、この微に入り細に穿った文学的洞察力の純度と、そこから得た情報の芸術的昇華は凄まじい。どこぞやの国のノーベル賞作家とは雲泥の差である。

 セキルナヤ丘への往復27kmを走破したぼくはすっかり自信をつけ、その勢いを駆って再び自転車でクレムリンの東方12kmに位置するムクサルマ島へ出かけることにした。が、とにかく情報がない。地図もない。どんな道路状況なのかも皆目分からない。無い無い尽くしの無手勝流で挑むしかなかった。

 ムクサルマ島へ出かける前日、ぼくは村の雑貨屋(よろず屋)へ目的もなく立ち寄ることにした。馴染みとなった齡70くらいか、店番のばぁちゃんの顔が見たかったからだ。ばぁちゃんのロシア語は、日本でいえば遠野(岩手県)の語り部であるばぁちゃんの俚言(りげん)のようで、ぼくには聞き取ることができない。が、このロシアばぁちゃんとは言葉は通じないが、お互いなんとなく通い合うものがあった。相性がいいのだ。

 雑貨屋の入口でうろうろしていると、クレムリンの方角から金髪をふわふわなびかせながら、迷彩服に身を包んだ美人らしき女(ひと)がやって来た。猶予なくカメラをセットしながら、彼女の顔を空(宙)に浮かせて撮るか、それとも木造家屋を背景にし、顔と金髪のコントラストを強めるか、ぼくは素早い判断を迫られた。
 「両撮りはダメだ。1枚で決める。背景は木造家屋だ」と、ぼくは交通巡査の手旗信号(ああ、古い!)のようにテキパキと英断をくだした。
 この写真は目線が欲しい。広角ズームは最長の35mmに固定。フォーカスも約3mに固定。ぼくはなにかと忙しい。彼女はどんどん近づいてくる。もうカメラを構えないと間に合わない。露出補正? 「ノーマルでかまうもんか」。シャッタスピード? 「知るもんか」。

 美人さんは、ぼくがあたふたしているその恰好が可笑しかったのか、あるいはぼくに一目惚れしてしまったのか、おそらく後者であろうが、とにかく目線もしっかりいただき、ついでに素敵な笑顔もいただき、モデルとして在庫一掃の蔵払いといった感じで上手く写真に収まってくれた(参考写真03)。愛想のいい女は可愛い。男を磁場に引きずり込むような魅力がある。
 彼女は「こんにちは」と挨拶をし、ぼくの緊張は一気にほぐれた。彼女はどんな写真が撮れたのか見せて欲しいと遠慮がちにいった。「ほれっ」とぼくがそれを差し出すと、「この写真欲しいわ」と。モスクワの自宅に送ってあげると、ぼくは目尻を下げて約束した。
 2人揃って仲良く雑貨屋にドヤドヤと侵入した途端に、ばぁちゃんは鼻眼鏡の奥から、「あんた、もうガールフレンドを見つけたのね。最近の若いもんは」という目つきをした。最後の文言はウソだ、穿ちすぎだ、意訳のしすぎだ。だってぼくは若くはない。ここは、「いい年をして、若い娘に」と解釈した方が正しい。

 店内を物色しながら、ロシア煙草一箱と明日の強行軍に備えてチョコレートとミネラルウォーターを買った。ぼくは自然保護官(職業は英語で答えてくれた)である彼女の背後に保護者のように自然とへばりつき、迷彩服のロシア娘がどのようなものを買うのか興味があった。ナンパしようなんて不心得な動機からではない、と一応いっておく。
 キャンデー、黒パン、ハム、サラミソーセージ、キュウリ、ジャガイモ、玉ネギなどをカゴに詰め込んだ彼女は、鼻眼鏡のばぁちゃんにきれいなロシア語で「お勘定お願いね」といった。背後にピタリと控えていたぼくは、一応保護者を気取り、「わし、こう(買う)てやるけん」と博多訛りのロシア語で彼女に取り入った。
 ばぁちゃんはぼくの真率な善行にいたく打たれたようだったが、管理官に向かって「日本からの客人に払わせてはいけない」と、グニャグニャとしたぼくを横目に、なぜかぼくにも聞き取れる明瞭な発音でいってのけたのである。

 ぼくはこのようなアッパレなロシアのバーブシュカ(ばぁちゃん)に多く出会ってきた。しかし今、引っ込みのつかなくなったぼくは、男の目力をもって「ここはオレの顔を立てろ」(こんな難しいロシア語は知らない)と無言の行よろしく口をパクパクさせていた。ぼくはきっと間抜けな顔をしていたに違いない。ばぁちゃんはすべてを見透かしたようにぼくの手から札を素早く抜き取ったのだった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/260.html

★「01 老夫婦」。
自家農園でジャガイモを収穫中の老夫婦。カメラバッグにジャガイモを詰め込んで「持って帰りなさい」と。写真から2人のお人柄がにじみ出ている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/200秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02 少年」。
猫を抱いた少年。「ぼくの宝物」と自慢気にいっていた。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf4.5、 1/500秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03 女は愛嬌」。
文中のお嬢さん。ロシアの自然保護官は迷彩服を着るらしい。武器は所持していない。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/80秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2015/07/31(金)
第259回:北極圏直下の孤島へ(17)
 “満天の星を仰ぐ”という体験をここ何年もしていない。正確にいうとソロフキ以来、ぼくは海外の僻地に行っておらず、また国内でも高所に立っていないので、降るような星空を眺める機会を失ったままだ。

 趣味としての山歩きもスキーも、写真屋になり期するところがあってキッパリ止めた。カッコウをつけていえば、自分の快楽や楽しみのために自然を汚すことはできるだけ自制しようと思ったからだ。そしてまた、環境破壊や地球温暖化などの身近な社会問題についても、写真屋としての見解を語る資格を失ってしまうのではないかと思えた。
 もちろん、他人は自由である。ぼくの息子も休みを見つけては、山に出かけている。ぼくはそれを微笑ましく、羨ましい思いで見つめている。ぼくだって写真屋でなければ、きっと尾瀬通いを続けているに違いない。スキーだって名人なのだが、自分を極力律する何かを持たないと、あるいは何かを犠牲にする覚悟がないと自由な精神は保ちにくいものだと思っている。写真を撮りたいがために、時には煩悩!?を断ち切ることも必要だ。野放図であればあるほど迷いも多くなり、自責の念にかられ、畢竟自由を失う。肩身の狭い思いをするということだ。“逆もまた真なり”なのである。
 ヤブ医者ならぬヤブ写真屋はそうでもしないとやっていけないという自説にぼくはずっと囚われている。

 年々、空の透明度が失われていくように感じるのはぼくだけだろうか。年とともに星の数がどんどん減っていく。光度の高い星はいつもふんぞり返って居残り、透明度の低い濁った空気をものともせず突き抜け、鈍い光を放ち続けている。そして星くずは暗闇のなかに沈み込み、地平の片隅に追いやられ、姿を消していく。両者の共存は限られた地域でしか見られなくなってしまった。大気の汚染は被写体のコントラストを低め、視界を濁らせ、そして遮る。 
 夜空を仰ぎながら宇宙の神秘に思いを馳せ、果てしないロマンを描くことは、もう視覚では困難となり、遠い記憶だけが頼りだ。

 かつてモンゴルの砂漠で、シベリヤの原野で、白海のソロフキで見た、まさに降るような星空は未だ健在だろうが、あの時の感動と胸に響くような思いは終生忘れることはない。空一面に砂を振りまいたように星々がチカチカと瞬き、空全体を白く染めていた。石を投げれば必ずいずれかの星に当たり、地上にバラバラと落ちてくるのではないかと思わせるほどの数だった。

 天体写真には関心のないぼくだが、これを長時間露光で撮ったらどうなるのだろうかと。地球の自転に従い、星の軌道は曲線で表現されるが、あまりの星の多さにそれは線とはならず、真っ白な面となるに違いない。
 しかし一方で、無限と思われるような星たちが束になっても敵わないお天道さまの偉大な光量に、ぼくは物理学的・光学的な法則を無視してたじろいだ。夜空を仰ぎ見ながら、太陽の偉大さにすっかり感服してしまったのである。

 すっかり日の落ちた夜半10時頃、オーロラの話を聞こうと宿の女将カーチャを外に呼び出した。ぼくは夜空を見上げて言葉を失った。絶句したままぼくの首は捻挫状態となった。首を揉みほぐしながら、「いつの間に星がこんなに増えてしまったのか?」と、ぼくは思わず目下英語学習中のカーチャに訊ねた。
 彼女は、「私がサンクトペテルブルクからここにやって来た時に、急に星が大量に誕生したのよ」と満点の答えをし、クスクスと笑った。ぼくは、「いい加減なことをいうロシア人とばかり付き合ってきたが、そのなかではカーチャ、君が一番正直で正しいロシア人だよ」と返した。9月中旬だというのに、ぼくらは白い息を吐きながら笑い転げた。

 「ところでカーチャはオーロラを見たことがあるでしょ?」とぼくは本題に移った。ーーー本稿では未だ本題に移れず、この原稿はどうなってしまうのかとぼくは今少し焦っているーーー
 ぼくの「オーロラ」の発音が悪かったのか、あるいは彼女が英語の「オーロラ」という単語を知らなかったのか、彼女は「???」という顔をして、捻挫をしていない首を何度もかしげた。ぼくはちょっと得意気にロシア語で「セーヴェルノエ・スィヤーニエ」(北極光)といった。この専門的で語尾変化の難しいロシア語はたまたまアルハンゲリスクを発つ時に、ホテルの受付嬢に教えてもらったばかりの言葉だった。彼女も正しいロシア人だったのだ。
 カーチャは、「もちろん! とても素晴らしいわ。美しくて、ミステリアスよ。オーロラは北緯60-70度で最も多く出現し、これをオーロラベルトっていうの。ソロフキはその真ん中の65度なので、11月になれば頻繁に見られるわ。オーロラを背景にクレムリンが浮かび上がるの。せっかく日本から来たのだから、それを撮って欲しいわ」と、ぼくの撮影技術を信じ、ますます正しいロシア人になっていった。
 そして、「あなたはそれまでここにいるべきだわ。一冬ここにいなさい」と、ぐっと気丈夫なロシア女を演じ始めた。
 「今までロシアのいろんな所を旅して、親切な人たちに多く巡り会えたことは大きな財産となっているけれど、なかでもカーチャ、君が一番親切なロシア人だな」と、ぼくもこの地で改心をし、正直な日本人になり切っていた。

 この地で越冬しろといってくれたのは、暇を持て余す村でたった一人のお巡りさんとなにかと忙しいカーチャだった。お巡りさんは、「おれが面倒を見てやるから」といい加減なことを宣い、カーチャは、「うちに逗留すればいいじゃない」と本気でいってくれた。
 ぼくは殊勝にも、「かみさんが許してくれればそうしたい気持は山々なんだけれど」と、一応の世界共通概念としての心得をもってそのようなことをいった。
 「奥さんには、たくさんお土産を持って帰ればいいわ。ロシアにはね、たくさんの天然ガスや材木があるし、熊だって人間より多いんだから」と、目を丸くし、透き通るような白い肌を赤く染めて愉快そうに笑った。横に坐った彼女の目を凝視しながらぼくは英語とロシア語の混成語をしゃべり続けていたので、再び首を捻挫したようになってしまったのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/259.html

★「01 地下牢」。
半分地中に埋められた、ゼムリャンカと称する地下牢。北緯75度の北極海に浮かぶノーヴァヤ・ゼムリャー島がその名称の由来とか。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/4000秒、ISO100、露出補正-1。

★「02 囚人小屋」。
宿の前にある出来の良い囚人小屋。住民の話によると婦人と子供用のものだったとか。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/80秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03 囚人小屋」。
村に残る最も粗末な囚人小屋。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/200
秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/07/24(金)
第258回:北極圏直下の孤島へ(16)
 セキルナヤから戻り、ぼくは柔道の必殺技を伝授する親善大使としての大役を無事果たし、意気揚々と宿に引き返し、ベッドに大の字になった。その日の出来事を思い起こし、ノートに書き記す仕事が残っていたが、それに取りかかる前に、3時間近くの悪路走行によりギクシャクした筋肉をほぐし、気分を一新しようとストレッチを始めた。
 しかし、ストレッチで全身の血行を巡らせ、疲労の元となる筋肉に蓄積された乳酸を追い出してしまうと、記憶までもが一緒に逃げ去ってしまうような気がして、ぼくは慌ててストレッチを中止した。記憶に留めておかなければならないことの多い一日だったからだ。
 歳とともに、記憶の濃淡がつとにまだら状となり、出来事を時系列に整理する機能も失われつつあることを自覚し始めた気の毒なぼくは、齡56になっていた。
 1年前の大手術時の全身麻酔や、痛み止めのモルヒネを1週間あまり投与され続けた音韻が、まだ体のあちらこちらに不協和音のように残存しているかのように思われ、ぼくは健気にも某出版社の執筆依頼のために、日々メモを残しておくことを1ヶ月間に及ぶこの旅での日課としていた。

 写真とはありがたいもので、記憶散逸の阻止を手助けしてくれる重要な役目を担ってくれる。ノートへの書き損じや抜け落ちを補ってくれる。記憶を呼び戻す作用も兼務してくれる。特にデジタルは、撮影日や時間を秒単位で記録し、おまけに絞りやシャッター速度、露出補正やISO感度、使用レンズなどなど、義理堅くも克明にその記録を正確に刻んでくれる。デジタルはぼくと違い、とにかく几帳面だ。
 この几帳面さは、「写真よもやま話」と称しながら、撮影にはほとんど読者諸兄に貢献しない拙文をごまかすための掲載写真に、大いに役立ってくれている。おそらくこんな駄文より、大方の人たちは掲載写真の撮影データに関心を抱くのだと誰かがいっていた。それが写真好きの写真好きたるゆえんなのだと。そんな気休めをわざわざ具申してくれる誰かは、ぼくにとって心強い味方でもあるのだ。
 ぼくの逃げ口上を後押しするかのように、「まず写真を先に見るんですよ。気が向けば文章の方を読んでみるか、という具合ですかね」なんて、悪びれる様子などさらさらない。つまり写真好きにとって、こんな駄文には興味もないということなのだ。こう具申する人は1人や2人ではないのだが、彼らは必ずニコニコしながらいうのである。ぼくの心証をそんな小細工を弄して気遣っているつもりらしいのだ。

 ソロフキを語るうえで、ぼくにとってどうしても外せない事柄について述べておく必要がある。それは村の至る所に今日まで残されている囚人小屋についてである。ぼくの知る限りソロフキについての文献で、囚人小屋の現状について触れたものはない。
 ソロフキが世界文化遺産に登録された理由として、「人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体、あるいは景観に関する優れた見本であること」という認定条項を満たしているとユネスコの資料にはある。
 つまりソロヴェツキー諸島は、ポーランドのアウシュヴィッツのような国家犯罪の象徴としてではなく、あくまでも歴史的・芸術的価値が評価されたということだ。

 ソロフキには現在114の歴史遺産が存在している。そこには「歴史的記念物」と刻印された木版が掲げられているが、囚人バラック群に木版は掲げられていない。しかし、囚人小屋を前にしてどのようなことを想像し、感じ取るかは個人の自由だが、想像を奪い取るような暴挙、つまり遺産登録の枠外にある囚人小屋の撤去という事態をぼくは大いに懸念している。
 ソロフキがアウシュヴィッツと異なる点は、懲罰房や監獄として利用された建築群そのものが古い歴史を持ち、かつ芸術的な美を有していることだ。芸術的に価値のない囚人バラック群は今後どのように扱われるのだろうかと、ぼくは気を揉んでいる。

 ソルジェニーツィン著『収容所群島』には囚人小屋についての記述が散見できる。それを拾い出してみる。(木村浩訳)
 「黒い木造のバラック、つまり腐敗して悪臭を放つバラックでは《肋骨の上に寝る》ように命じられるのだ」。また、「何週間にもわたってすし詰め状態で立たされた」。
 さらに超過密は必然的に不衛生による疫病を蔓延させた。「誰かがその病気(チフス)にかかると、その監房の全員を閉じ込めて外出を許さず、食事だけを支給した。この状態はその監房の全員が死ぬまで続いた」。これは囚人小屋ばかりでなく、クレムリン内にあるゲルマン小礼拝堂(参考写真03)でも行われ、常に屍が床に転がされ、そのまま放置されていた。

 作家のM. ゴーリキー(第253回に掲載)が訪問した1929年のソロフキでは、2万人の囚人が疫病で亡くなり、一晩に300人以上が銃殺されたと、断片的な記録は伝えている。

 ソロフキの衛生についても前出の書物より、その一部を紹介しておく。
 「肌着一枚と袋しか身につけていない病人と老人たちは、なかなか冬に自分の板寝床から離れて風呂へ行けない。彼らはシラミに負けてしまうのである(余分な配給食料をもらうために、死人は板寝床の下に隠す。しかし、それは生きている人の利益にはならない。なぜなら、シラミは冷たくなっていく死体から温かい、まだ生き残っている人々の身体に移るからである)。・・・衰弱した神父たちも、梅毒患者たちも、年老いた不能者たちも、若い盗賊たちもほっておかれて、食事不足と残酷な扱いのために死んでいく」。
 叫喚地獄であった囚人小屋は、せめて贖罪の証として後世のために保存して欲しいものだとぼくは切に願っている。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/258.html

★「01 囚人小屋」。
村の至る所に点在する当時のままの囚人バラック群。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/100秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02 囚人小屋」。
窓にはこのような堅牢な鉄格子がはめられている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/80秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03 ゲルマン小礼拝堂」。
クレムリン内にあるゲルマン小礼拝堂。ソロヴェツキー修道院を設立するためにやってきた(1429年)2人の修道士のうちの1人であるゲルマンの名を冠した小礼拝堂。収容所時代はここも死の牢獄として使用された。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/100
秒、ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2015/07/17(金)
第257回:北極圏直下の孤島へ(15)
 今、自撮りというものが流行っているのだそうで、なぜそのようなものが
もてはやされる(?)のかぼくは理解に苦しむが、自分の生涯の一瞬を記録として後世に残しておきたいとか、旅行などの記念として、「行ってきたわよ」とか「今、ここにいるのよ」などと(なぜ女言葉になってしまうのか分からないが)、他人に押しつけがましくも知らしめたいという人間の写真的本能がそうさせるのではあるまいかと想像する。他人の旅行写真など見たくもないのにである。あれほど退屈する瞬間は人生にそうそうあるものではない。
 厳密にいえば、写真が発明されてから約200年しか経っていないのだから、写真的本能といういい方はそぐわないのかも知れない。生物的進化を考えれば200年で本能が備わるとは思えない。強いていえば、それは条件反射的自己顕示欲の揺らぎのようなものだと捉えるのが妥当だとぼくは考えている。
 流行とはいつか途絶える運命にあるのだから、この自撮りも、そして撒き餌のようなアホらしい現在のSNSも、あと10年もすれば廃れることになるだろう。流行の終焉は、人々がそのつまらなさに気づいた時に起こる。一過性のものに価値があったためしはない。
 いずれにせよ、自撮りは自己の存在をアピールしたいという欲求を写真で示そうということなのだろうと、ぼくはかろうじて理解することにしている。
 自撮りの愉快なところは、“自分が写っていないと勘弁ならん。我慢ならん”という浅はかな自我の発露でもある。本心をいえば、これは愉快を通り越して、ひどく滑稽なことに思える。ぼくは恥じらいというものをどうにか維持しているので、できるだけ自分の顔を晒しものにしたくないという、動物の本能に素直に従うことにしているし、だから常に遠慮がちなのだ。

 昔からカメラには「セルフタイマー」という便利なものが付属しているが、ご承知のように、それは自分がシャッターを押せない場合を考慮して付けられた機能だ。これは流行ではなく、写真の利便性と必然性を兼ねたものだから、その機能は今日まで消滅することなく、生き存(ながら)えている。
 「セルフタイマー」は、シャッターチャンスはカメラにお任せという機能だが、一般的な使用法は、その場に居合わせた人たちの記念写真として用いられることが多い。セルフタイマーがないと誰か(シャッターを押す人)が犠牲となる。ほとんどの場合、犠牲になってもいいよという遠慮がちな人にシャッターを押すお鉢が回ってくるのだが、時には全員が犠牲になりたくないという人々で構成された珍しい集団もいる。そこらへんにいる人をあたりかまわずとっ捕まえて、「シャッターを押していただけますか?」なんて、殊勝な振りをして、厚かましく頼み込む姿を見かけることも多い。ぼくも今まで見ず知らずの人にそう頼まれたことは、幾度となくある。本心をいえば、ぼくはプロなのだから“ただ押し”はしたくないのだが、気が弱いのでつい、「あっ、は、はい。ここを押すだけでいいんですね?」なんて、善人ぶっている。いや、根っからの善人なのだ。

 集合写真の「セルフタイマー」のシャッターの切れるあの瞬間は、誰もが何度となく経験しているはずだ。集合写真などで、シャッターを押した人がそそくさと集合の定位置に戻り、シャッターの降りるまでの、その居心地とバツの悪い間をさまざまな思いでやり過ごす。
 シャッターが降りるまで全員がいい顔の維持を心がけるのだが、あがった写真を見ると顔面筋肉の硬直した人もいて、あれはあれで味わいのあるものだ。
 これを1度で済まさず、5回くらい試してみると面白い。回を重ねるほど顔面が硬直し、引きつったような顔の人びとが、まるで感染症のように増えいくのだ。  
 また、ニーッと笑顔を形づくる緊張した筋肉が10秒を持ち堪えられず、弛緩した瞬間にシャッターが切れることもある。10秒の待ち時間は人それぞれの人生が垣間見えてまことに面白い。

 で、本題はこんなことではない。ソロフキにてぼくはこの記念すべき土地で奮闘したその瞬間を撮っておこうかどうしようかとずいぶん迷ったものだ。だが正常な神経の持ち主であるぼくはどうしてもそこに踏み切れなかった。誰が見ているわけでもないが、誰も見ていないところでこそ人間の本性が表れるものだという自説によれば、三脚を立て、セルフタイマーを使って自分のアホ面を撮ったとて、「それがなんだ」という気持に押されてしまうのだ。ぼくは自撮りの趣味とは縁遠いということを人知れず実証しておかなければならなかった。
 そこで妥協の産物として撮ったものが、話が前後してしまうが、第255回に掲載した「03。旅のお供」としての自転車であった。自転車をフレームのどこに置くか? 後ろの樹木との重なり具合はどうか? モノクロかカラーのどちらをイメージするのか? モノクロなら秋の色づきの感色性にどのフィルターを(現像時に)シミュレーションするのか? 所詮、自己を自転車に投影した記念的なものだから、考慮すべき事柄は以上の4点くらいでいい。

 ぼくは自撮りを放棄し、再び13.5kmの砂利道を小雨のなか、この自転車を駆って、下半身ぐしょ濡れになりながら村に戻った。自転車を奪い取った少年に柔道の必殺技を教えるという難業が待ち受けていた。ぼくは柔道など1度たりともしたことがないのだ。
 空はすっかり晴れ上がり、美しい虹がかかっていた。村には雨はやってこなかったようだ。クレムリン前の乾燥した芝生に子供たちを集めぼくは奥の手を彼らに披露した。苦痛にゆがんだ子供たちの叫び声に誘われ大人たちも駆け寄ってきた。大のロシア男たちもぼくの手にかかり、苦悶の大声を上げ始めた。レスリングの必殺技、“4の字固め”だ。この技、あまりの好評につき、ぼくはとうとう真実をいえなかった。とんだ親善大使である。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/257.html

★「01。村への帰路に」。
セキルナヤから村への帰路に点在する湖。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/160秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02。村で1人のお巡りさん」。
親しくなったお巡りさん。ぼくを見かけると「今日はどちらへ?」と待ち構えたように寄ってくる。事件などないので暇で仕方がないのだ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/250秒、ISO160、露出補正ノーマル。

★「03。クレムリンを背に」。
この芝生で“4の字固め”を柔道の技だと偽り、ロシア人をだます。画面中心にある緑屋根の建物の二階にぼくは滞在していた。この写真の色調はかつて社会主義時代の東欧で使用し、その独特な色調が気に入ったORWO社(オルヴォ。東独)のものをPhotoshopでシミュレーションしたもの。はるか昔のことなので、実際にこのような色調か確認は取れないが、そのイメージで仕上げたもの。昔は味のあるフィルムがありました。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/30秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/07/10(金)
第256回:北極圏直下の孤島へ(14)
 アシスタントを経てどうにかカメラマンもどきの第一歩をよちよちと踏み出そうとしたその頃、知り合いに「助手の修業を終え、これからフリーランスとしてこの道に入りますので、どうぞよろしくお願いします」と、挨拶回りを兼ね仕事の依頼をしたことを昨日のように思い出す。フリーランスというものは何の後ろ盾もない不安定なものだが、当時のぼくは、不思議と憂慮も不安もなく、それよりも形容しがたいほど自由な、そして開放的な気分に浸っていた。 
 一時的にせよ、その解放感は今まで体験したことのない心地よさを与えてくれたものだ。それはあたかも、座敷牢に10年以上も閉じ込められ、堪え難きお仕置きを受けてきた引かれ者が、突如お縄を解かれ、屋敷城から着の身着のまま娑婆に追い出されたようなものではなかっただろうか。

 編集時代に懇意にしていた人などのところに作品を束ねたポートフォリオを携えて、10件ほど営業に歩いたものだが、長い写真屋生活で営業活動をしたのは、後にも先にもこの時期だけだった。1ヶ月に満たぬくらいの営業生活だった。
 その後、写真屋として一緒に仕事をした人たちが、いろいろな人を紹介してくれ、仕事が広がっていった。そのありがたさは、今も忘れることはない。
 
 もちろん良いことばかりではなかった。駆け出しの頃は、「もし仕事依頼が来てしまったら(“来なかったら” ではない)どうしよう。相手の注文に応え、認めてもらえるかどうか。OKをもらえるかどうか。もし失敗したらどうしよう」と、それを考えると身も心も恐怖でぶるぶると震えるようだった。心胆を寒からしめるとは、まさにこれをいう。
 ぼくの恐怖は、「スタジオに入った時に、スタジオのアシスタントたちに適切な指示が出せるだろうか?」というものだった。あるいは、ロケ現場が近づくにつれ鬱々とし、恐怖でUターンをして帰りたくなる衝動に襲われたものだ。それまで、何万回も、飽きるほどシャッターを切ってきて、いざ初めてお給金をいただくとなると1回のシャッターが我が生涯を決定するかのように思われ、途端に怖じ気づいてしまったものだ。怖気を震って、撮影直前に逃亡してしまったカメラマンが実際に身近にもいたし、そういう話はスタジオの助手君たちからも聞いた。

 ぼくもその恐ろしさは十分すぎるほど身に染みていたはずなのだが、やがていつの間にかすっかり場慣れをし、その恐怖は忘れ去られ、同行スタッフと悪ふざけばかりを試みるようになっていた。ぼくはすっかり落ちぶれたのである。緊張感とリラックスのバランスを欠き、「仕事は愉しく」なんてうそぶいていた。

 しかし、単独行ではそうもいかず、「あんた、あの時『こう撮れ』って言ったよなぁ。おれはあんたの指示に従ってその通り撮ったんだぜ」と、責任の転嫁ができない。普段、真面目に物事を考える習慣のないぼくは、文句をいう相手のいないこんな極北の地で、仕方がないから妙に真面目ぶったポーズをしてみせた。セキルナヤではあまりにそれが過ぎたために、疲労困憊。慣れぬ事はするものじゃない。

 くたびれついでに、ぼくは小雨降り染むなか、セキルナヤを発ち2.5km遠方のサワチェヴォ隠遁所に自転車を走らせた。クレムリンからセキルナヤの小径はほとんどがタイガに囲まれていたが、サワチェヴォ隠遁所への道程は、ツンドラの平原地帯を横切り、比較的開放感があった。しかし、風景そのものは幽寂の趣が増し、そぞろ寒しといったところだ(参考写真01)。
 ぼくはカーチャの作ってくれたロシア定番の、黒パンのオープンサンド(サラミ、イクラ、チーズを乗せてくれた)を水気なしに喉に流し込んだものだから、それが声帯のあたりに張りついているような感覚だった。右手に見えた湖から手酌で水をすくい喉を潤した。約6,70年前、多くの遺体が投げ込まれたであろう湖だが、そんなことはおかまいなしだ。美味い水だった。

 サワチェヴォはセキルナヤよりさらに殺風景で寂しげな空間が広がっていた。廃墟となった教会や修道士用独居房は、収容所時代いずれも懲罰房として使用され、今は小雨のなかでことさら悲しげに何かを訴えているようだった。セキルナヤは地の底で得体の知れぬものの咆哮軋めく感があったが、ここはただ静かに、怨嗟もなく、「誰がこんな荒んだ姿にしてしまったのか?」と問うているように思えた。
 1時間ほど撮影に没頭していると、領地に通じた小径から年老いた男が足を引きずりながらやってきた。どうしてこんなところに人が? しかも齡80くらいの老人である。彼はぼくの際にやってきて、「どちらからきなさった?」と、半分以上ない歯から空気を漏らし、口をもぐもぐさせながらいった。「日本から」と、歯のあるぼくは明瞭なロシア語で答えた。「そうか、そうか、よくきなさった。ところであんた、昔ここで何があったか知ってなさるか?」と聞いた。
 ぼくはそれには答えず、じいさまに煙草を勧めた。じいさまは礼をいい、歯の隙間から煙を吐き続けた。煙草を吸い終わると、語り部のような口調で「多くの人がここで殺されたんじゃ。殺された人たちは、その小径を引きずられていった。あの小径はいつも血で真っ赤に染まっていたもんじゃ」(参考写真02)といい、寡黙になった。

 「じいさまはラーゲリ(強制収容所)の人?」。「いんや、そうじゃない」。「では、それを見たの?」。「いんや、見てはおらん。だがみんな知ってることさ」。「みんなって誰のこと?」。
 じいさまはそれ以上語ろうとはせず、きた小径を引き返していった。ぼくは貴重な証人を黙って見送った。夢か幻か、ここは不思議な空間だった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/256.html

★「01 湖で喉を潤す」。
セキルナヤからサワチェヴォへ行く道すがら。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/100秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02 血に染まった小径」。
この小径は白海に続く。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf6.5、 1/80秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03 焼け落ちた独居房」。
1850年頃に建設された修道士用独居房。ここも囚人用の懲罰房として使用された。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/30秒、ISO100、露出補正-1。

(文:亀山哲郎)

2015/07/03(金)
第255回:北極圏直下の孤島へ(13)
 個人的な撮影は大方1人で行くものだ、というのが以前からの主張である。ぼくは商売人なので、仕事と私的な撮影を区別する必要があり、“個人的な撮影”とは、つまり、誰かからの指示による撮影ではなく自発的な撮影のこと。
 しかし、一旦写真を生業にしてしまうと、“個人的な撮影”とはいえ趣味に埋没できない憾(うら)みにつきまとわれる。楽しいはずの撮影を、ただのお遊びにしてしまいたいのだが、なかなかそうもいかず、要らずの心労を託って悪態をつく。勝手なものだ。また、“個人的な撮影”のほうが今のぼくにとって、はるかに難しいので、声をひそめていえば、「厄介の極みだ」。

 撮影現場に於ける被写体についての知識や知見の反芻は、仕事や個人的な撮影に関わらず、時として非常な集中力を必要とする。不器用なぼくは、胃に留めた知識を反芻胃のように再び口に戻して噛み砕きながら、イメージを構築していくのが常だ。もちろん、直感に頼ってシャッターを切る時もままあるが(このほうがずっと愉しい)、ソロフキのように歴史や文化の断片を切り撮る場合、知識の集積により写真が異なってくるのはいわずもがなである。
 ぼくの反芻胃は、誰かと会話を交わしながらでは機能を果たしてくれず、消化不良を起こしてしまうので、よって1人での撮影行が相応しい。

 ソロフキの、囚人たちに最も恐れられたセキルナヤ丘に建つ昇天節教会(前号02写真)内部へは、教会に連結された修道士用木造独居房から入るしか手がなかったが、この時ばかりは普段の主張を翻し、単独行を悔やんだ。天敵である修道士と相見る不幸に遭遇する恐れも否定できない。
 いやなことはすべて助手君に押しつけるという写真屋の特権が行使できないからだ。絶対服従、隷属は素晴らしき徒弟制度の一環であり、それは生暖かいヒューマニズムとは一線を画した聖域なのである。ヒューマニズムをもってして、写真や芸事の修業などできるものではない。
 しかし今ここに至って、助手君不在の写真屋は、斥候のいない戦闘部隊のようなものだった。実に心許ない。

 相手が修道士と決まったわけではないし、ひょっとして人の好いロシアおじさんかも知れない。それにもまして、もしや美人の修道尼(しゅうどうに)ということだって、ここは何でもありのロシアなのだから十分あり得ることだ。
 ぼくは妄想と希望的観測にすがりつき、祈るような気持でドアを叩いた。油の切れた頑丈な蝶番に支えられた木製の分厚い扉が、ギーッ・ギ・ギ・ギーッと、まるで映画の1シーンを思わせるかのような音とともに厳かに開かれた。
 
 そこに現れたのは見るからに陰鬱で、物憂げな顔を黒頭巾で覆った、いかにも排他的で内向的資質たっぷりとした、身長190cmはあろうかというひょろ長い中年修道士だった。ひげ面の長髪ときている。その容貌はまるで怪僧ラスプーチン(ロシア帝政末期の祈祷僧。1869-1916年暗殺。出生年については諸説ある)のようだった。
 もしこの陰鬱な修道士が、「私はもう30年以上も笑ったことがない」といえば、ぼくはその言葉を信じて疑わなかっただろう。笑顔とは無縁の人間を思わせる彼の視線とぼくの視線が交差し、目に見えぬ火花が散っていた。
 聖職者と写真屋がなぜいがみ合わなければならないのか? 我々がこのような間柄でなければ、ペチカの前でともにお茶でも飲みながら、彼の身の上話を興味深く聞けたに違いない。

 ぼくは取りなすように、「教会のなかを見せていただけないでしょうか?」と申し出た。黒頭巾は怪訝な表情を見せ、小声でぶつぶつと独りごち、感情の欠落した手招きでぼくを教会に引き入れた。カメラを指さし、「写真はならぬぞ!」と、彼ははじめて明確な意志を示した。
 黒頭巾に誘導されるままにぼくは教会に入った。そこはまだところどころ鮮やかな色をした赤い煉瓦がむき出しになっており、痛々しく荒んだままだった。著名な画家たちによって描かれた壁画は無残にもはげ落ち、修復の手が入らぬままに放置されていた。外気を閉ざされたその空間は、光量不足のために気温が上がらず、そして薄暗く、すべてが陰気で湿っぽく、地の底から氷のような冷気が這い出していた。
 礼拝堂特有の荘厳で厳粛な雰囲気を失ってしまった空間は、ここでの出来事を想像するには十分すぎる舞台装置だったが、なぜかぼくの頭は空転を続けた。
 あまりにも赤裸々で迫真的に過ぎたために、かえって収容所時代を偲ぶ隙がなく、ぼくの出しゃばりがちな想像をむしり取ってしまったのだろう。
 ここに、未だ神は戻らずだ。

 この悪女の深情け的な舞台装置に加え、ラスプーチンもどきの刺すような視線が煩わしく、ぼくはすっかり嫌気がさし、早くここから立ち退く算段をし始めていた。カメラを床に置き(この時点でぼくは意気地のない写真屋に成り下がっていたのだが)、撮影意図のないことを身をもって示したにも関わらず、猜疑心に満ち溢れた黒頭巾の物腰にどうにも我慢がならなかった。
 ぼくは彼を憐れむことによって、どこかに勝機を見出そうとしていたのかも知れない。憐れみの文言は拙写真集で詳しく述べたが、あれから11年を経た今、ぼくはさらなる悪罵を心の中で連発している。それは放送禁止用語ばかりで、とてもここに書ける代物ではない。

 ロシア正教式十字を切り、ぼくは教会を辞した。霧のような小雨が降り染むなか丘を下り、ベンチでカーチャの持たしてくれたサンドイッチをパクつく。ここから2.5km北にあるサワチェヴォ隠遁所(修道士が俗世を離れ修業を積む場所)までもうひとっ走りすることにした。ここは、1923年(ソロフキに収容所が開設された年)12月19日に、ソロフキで最初の無差別銃殺が行われた場所でもあった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/255.html

★「01 崩れ落ちた教会」。
サワチェヴォ隠遁所の教会。「02」の19世紀末にはネギ坊主があり、隣には鐘楼もあったことが分かる。煉瓦造りの独居房は屋根が落ちているが堅牢。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/100秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02 19世紀末に撮影」。
19世紀末に撮られたサワチェヴォ隠遁所。湖を結ぶ運河が築かれ、平和だった当時を偲ばせる。写真集『100年前のソロフキ』(1899年サンクトペテルブルクの出版社から出された復刻版)を複写。最後のロシア皇帝ニコライ二世の蔵書から発見された。

★「03 旅のお供」。
宿の少年から奪い取った自転車。サワチェヴォ隠遁所の中庭で。Photoshopのプラグインとして使用しているDxO社のFilm Packで何通りかのモノクロ化をし、それをレイヤーで重ね、マスクを使いブラシで気に入った部分のみを残し、統合した。それに、コダックのモノクロフィルムT-Max3200の粒子をかけている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/30秒、ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2015/06/26(金)
第254回:北極圏直下の孤島へ(12)
 読者諸賢へ。写真集制作のためのご支援は6月24日をもって終了いたしました。目標金額に達することはできませんでしたが、それでも246万円という多大なご支援をいただいたことに、この場をお借りして篤くお礼申し上げます。
ありがとうございました。

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 セキルナヤ丘の麓にたどり着いたぼくは自転車をそこに転がし、カメラバッグを肩にかけ、徒歩で登ることにした。登るといってもたかだか72m、大して時間はかからない。頂上に建立された教会(昇天節教会。1862年再建)を仰ぎ見ながら(写真02)、ここで繰り広げられた血なまぐさい絶望的な出来事を思うと、ぼくの鼓動は強く震えた。
 1926〜1929年の3年間だけでも、6736人がセキルナヤで銃殺されたことが公文書に残されている。その前後13年間の公式記録は今日現在まで公表されていない。その他の処刑・拷問による死を含めると、セキルナヤで失われた命は膨大な数と推測できる。

 セキルナヤからの生還者はほとんどいなかったために、その実体については奇跡的に生き残った人々の証言に頼る他ないが、それでもそこに残された拷問のための器具や痕跡から、現在はかなりの事柄が正確に読み解かれている。
 ソルジェニーツィンが1974年に著した長大な文学的考察『収容所群島』全6巻にも、セキルナヤで何が行われていたかを記した部分は1ページに満たない。その貴重な部分を引用してみる。※はかめやま註。

 「新入り(※ソロフキに新たに引っ立てられてきた囚人)は、他のソロフキ先住民(※古参の囚人)から自分の目に映る光景よりもはるかに恐ろしい話を聞かされる。彼の耳には『セキルカ』という死の言葉が入ってくる。それはセキルナヤ丘のことである。そこの二階建ての大寺院には懲罰監房がある。懲罰監房はこんな具合である。すなわち、壁から反対の壁まで太さ腕ほどの棒がいくつか固定してあって、罰せられた囚人たちはその棒に坐るように命ぜられる(夜間は床の上で寝るが、超過密のため折り重なるようにして寝なければならない)。棒の高さは、それに坐ると足が床まで届かない具合になっている。棒の上で均衡状態を保つのはたいへんで、囚人は一日じゅう棒から落ちないように努めるのが精一杯だ。棒から落ちれば、看守たちが飛びこんできて殴りはじめるのだ。でなければ、三百六十五の険しい段のある外の階段へ連れ出す(大寺院から湖まで通じているが、これは修道士が築いたものだ)。囚人に重量をつけるためにバラン(丸太)に縛りつけてから、そのまま突き落とすのである(この階段は踊り場が一つもなく、段が険しいだけに、人間を縛りつけた丸太は止まることなく、下まですべり落ちていく)。」(木村浩訳)

 ぼくは教会(ロシア語を正しく訳せば“寺院”ではなく“教会”)の中庭に立ち、日本から持参したこの書物のこのページをもう一度めくった。そして、恐る恐る365段もある“死の階段”を覗き込んだ。高所から下を覗き込む時、誰もがするようにぼくもきっと上歯を上唇で包み込むようにし、鼻の下を伸ばしながら、眼球を目一杯下方に向けていたのだろう。そのくらい急な階段だった。極端な言い方をすれば、それは感覚的に階段とはしごの中間のようなものだった。
 不意を突かれたぼくは、思わず「なるほど、こいつはすごいや!」とひとりごちた。写真ではその急峻さが実感できないが、こんな階段から丸太にくくられた状態で突き落とされたらひとたまりもない。体中の肉が引きちぎられて、間違いなくひき肉となってしまっただろう。なんとおぞましくも恐ろしい。
 当時、冬場は凍りついた屍をそのままの状態で階段下に積み上げ、定期的にすぐ近くにある湖に放り込んだのである。現在、その場所には慰霊碑(前号写真03)が建てられている。まさに、血塗られた階段だった。
 現在の復元された階段には踊り場があり、手すりがつけられているが、19世紀末に撮られたぼやけた写真(写真04)を見ると、手すりは片側だけで、踊り場は見えない。そして如何に急峻な階段であるかが見て取れる。

 ぼくはしばらく中庭に茫然と佇んだ。時折、北極海からの冷たい風が吹き抜け、木々はざわめき葉を振り払いながら大きく身をよじり、庭先ではつむじのように枯れ葉を舞い上げた。ひとたび凪ぐと、物音ひとつない静寂があたりを包み込んだ。眼下に広がる色づき始めた森、そして湖や白海の美しい眺望(写真01)が多少なりともぼくの気持を落ち着かせてくれた。
 しかし、罪なき囚人たち(90%以上が冤罪による囚人)も同じ風景を見ていたのだと思うと、刹那ぼくの情緒は大きく揺らぎ、思考を奪い去り、せっかくの自然の恩恵も帳消しとなってしまった。

 気を取り直そうと、シャッターを切らずにレンズをあちらこちらの被写体に向けるうちに、ぼくは“棒坐りの刑”が行われた教会内部に侵入しようと思い立った。
 しかし、教会の扉はどこにも見当たらず、教会に連結された修道士用木造独居房(1890年建造)からしか入れぬ様子だった。そこには人の気配があるもののひっそりと静まり返っていた。教会の内部を見せてもらうには誰かを捜し当てて、頼み込むしかないが、それが天敵である修道士だったらどうしたものかと、ぼくは再び頭を抱え込んでしまった。ぼくの狼藉はクレムリンから11km離れたここにも聞こえ、すでに手配書なるものが配られ、ぼくの面はすでに割れているかも知れなかったのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/254.html

★「01 中庭よりの眺望」。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02 昇天節教会」。
雲の湧き上がるタイミングを計りながら。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/80秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「03 死の階段」。
中庭から“死の階段”を覗き見る。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/40秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「04 19世紀末に撮影」。
修道士たちが階段を上っていく。階段というよりはしごのように急であることが分かる。片側に手すりがついているが、収容所時代には取り払われたと思われる。これも教会内部にあったものをこっそり複写。写真自体が鮮明ではない。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf1.8、 1/30秒、ISO400、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2015/06/19(金)
第253回:北極圏直下の孤島へ(11)
 読者諸賢へ。現在、「福島 -『失われた地の記憶』- 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細をお伝えしています。ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 ソロフキ滞在許可は8日間だった。しかし、この日数では、諸島をくまなく歩き回ることは到底不可能だ。訪島してからの3日間は、クレムリンとその周辺ばかりをうろつき、修道士とのバトルに明け暮れた。この島には歴史的にも重要な場所がいくつもあり、ぼくは次なる撮影場所を定める必要に迫られていた。

 この旅に備えて、ぼくはふやけきった足腰を鍛えようとリュックに5kgのダンベルを2本詰め込み、2ヶ月余、約70日間にわたり連日1時間半のウォーキングに勤しんだ。そして、この鍛錬がどれほどバカバカしいものであるか、いかに腹立たしいものであるかを思い知った。この鍛錬はぼくにはまったく不似合いなものだった。

 それは効果の程を窺うことではなく、行為そのものがひどく空虚なものに感じられたからだ。1時間半の非生産的な時間が無性に惜しいのである。
 ウォーキングに費やした105時間に一体何冊の書物が読めただろうかと思うと、居ても立ってもいられぬほど、その愚行を恨めしく思ったものだ。地獄のような苦しみを味わったといっても過言ではない。ぼくは世の中のありとあらゆるものに憎しみを抱くようになっていた。万歩計とかいう無意味かつ滑稽なものを身につけ(ぼくは持っていない)、悪霊に取り憑かれたように嬉々としてその業に励む人を見ると、同じ人類とは思えず、人類愛などというおためごかしに思わず大きな喝采を送りたくもなる。
 ぼくはウォーキングに打ちのめされ、すっかり臍が曲がっていたのだった。

 その成果を、地の果てと思われるようなソロフキで試そうとはつゆほども思わなかったが、ソロフキも滞在3日を過ぎ、ひとまずクレムリンから身を離し、次なる目的地は、クレムリンより北西11kmに位置するセキルナヤに定めた。
 そこはソロフキでも悪名を馳せたところであり、20世紀に於ける人類の最も残虐非道な所業があったその象徴ともいえる場所だった。“囚人たちに一番恐れられた場所”との予備知識は、ぼくの鍛えられた足を重くしたが、ソロフキを語る上で外せない場所でもあった。血も凍るような凄惨極まりない拷問・処刑が行われ、ここからの生還者はほとんどいない。
 セキルナヤの存在は、国家の隠蔽工作により長年ひた隠しにされてきた。1920年代後半にソロフキに於ける残虐行為が欧米に流布され始めると、政府は世界に知られた作家マクシム・ゴーリキー(1868-1936年)を担ぎ出し、事実隠蔽・捏造のための宣伝工作 (プロパガンダ) に乗り出した。
 ゴーリキーは1929年6月、チェーカー(KGBの前身)監視のもとソロフキに3日間滞在し、セキルナヤを視察している。ゴーリキーは政府の望む筋書き通りのソロフキ訪問記をものし、流布され始めた悪評はたちまち打ち消されたのだった。いつの時代も、プロパガンダは、知らずのうちに人間の良心を蝕むものだ。自由・平等・民主を標榜し、教育を受けた国民でさえ、プロパガンダに抗する手立てを持てずにいることを、私たちは認めなくてはならない。

 セキルナヤまでカメラバッグを担いで往復22kmの行軍はしかし、いくらバカバカしい鍛錬を積んできたとはいえ、大手術の回復期にあったぼくは、体力を極力温存しておきたかった。1ヶ月におよぶぼくの旅は始まったばかりなのだから。
 どうやってセキルナヤへ行くかという難題につきまとわれていたぼくは、ある妙案を思いついた。宿の女将カーチャの一人息子が自転車を乗り回している姿を思い出し、ぼくの悩みは解消された。13歳の可愛いロシア少年には、ぼくがセキルナヤから無事帰還したら、柔道の必殺技を指南するという約束で、自転車を借りることにした。ぼくは日本文化を伝える親善大使の役を買って出たのだった。

 穏やかなアップダウンの続く道を行くと、やがて心細い路先の真正面にロシア正教会が豆粒ほどの大きさで現れた。視界のほとんどは森の木々で覆われ、まるで覗き穴から見ているようだった。10kmのデコボコ路を走破してきたぼくの呼吸は乱れてはいたが、19世紀末に撮られた味わい深い写真(参考写真01)を思い起こし、それはどのあたりから撮られたものであろうかと推察する余裕があった。その写真に写っている馬糞までもが思い起こせた。
 当時の撮影はもちろん三脚を据え、大型カメラに感光乳剤を塗った乾板を差し込み、時間のかかる面倒な作業だったので、馬はその間を堪えきれずに粗相に至ったものと思われる。この場所で、現代の写真屋は200mmの望遠レンズをつけ、三脚を使わず、当時の写真師がびっくりするほどの早業でやってのけた。現代なら、馬の面目を保ってやることができただろうに。

 教会がぼくの網膜に鮮明に映し出され、奇妙なことに気がついた。ネギ坊主の上にあるべき十字架が見当たらない。しかも、十字架の代わりに今まで見たこともないようなおかしなものが備え付けられていた。そのおかしなものは昔の写真にも存在している。それは灯台の灯火であり、白海を航行する船に安全を提供していたのだろう。ソロフキの最高地点(海抜73m)に灯台を設置したのは理のあることだった。灯台付き教会とは洒落ている。そのお洒落な教会が苛酷無比の懲罰房として利用されたとは、なんという皮肉だろうか。
 敬虔な祈りの場と、そして暴虐の限りが、同じ場所で起こったことについて、誰がどのように説明してくれるのだろうか? ドストエフスキーは、「ロシア正教徒でないものはロシア人にあらず」とまでいったではないか。ぼくはこの地でまたまた大きな難題を抱え込むことになってしまった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/253.html

★「01 19世紀末の写真」。
ヤコフ・I・ライツィンガーが19世紀末に撮ったセキルナヤ丘。

★「02 セキルナヤ」。
「01」とほぼ同じ位置から撮ったセキルナヤ丘。焦点距離200mmの望遠で。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/200秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03 囚人慰霊碑」。
セキルナヤには2つの囚人慰霊碑が建てられている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/50秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「04 M.ゴーリキー」。
セキルナヤの教会内に貼られていたゴーリキー(右から2番目)の写真。ソロフキへの定期船グレープ・ボーキーという名の船上であるらしい。撮影厳禁ながら修道士の目を盗んで。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf1.8、 1/30秒、ISO400、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)