プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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| 2021/06/18(金) |
| 第551回:素晴らしきアマチュア回帰(3) |
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このテーマについてじっくり書こうとすると、ぼくの文章は天ぷらのころもばかりが厚味を増し、時にはそれがブヨブヨにふやけ、どこに肝心の海老が潜んでいるのかが分からないような状態となる。きっと7〜8回の連載になりかねず、なかなか中身にありつけないような、腹立たしくもイライラする天ぷらとなる。中身がなければさらに腹立たしいものとなる。そんな天ぷら、誰も食べたくないわなぁ。このことは、実は、 “本人が一番よく承知している” ことなので、いわれる前にいっておかなければならない。でも、今回でこのテーマは最終回にしようと、今ぼくは自分に、懸命に暗示をかけている。
読者の方から、「 “プロは親を質に入れてでも優れた機材を手にしなくてはならない” (第549回)と書かれていますが、やはりそういうものなんでしょうか?」とのメールをいただいた。将来はこの世界で飯を食っていきたいとの希望をお持ちだった。 「プロになろうとするのであれば、 “身の丈に合った機材” というおかしな考えを取り払わなければなりません。でなければ、プロにはなれないと、かなりの確信をもって申し上げます」と即答した。 「もし安物で賄おうとするのであれば、それ相応の仕事しか来ないでしょう。仕事を依頼する人や、現場の担当者はあなたがプロとしてどのような自覚と厳しさ、そして誠実さを持っているかを、あなたの機材で測ることが往々にしてあります。それは厳然たる事実です。つまり、機材で値踏みをされるということです」と、冷徹な真実の一面を正直に伝えた。 「安物買いの銭失い」というが、それは「安物買いの仕事失い」ということになる。 さて、ここからが「しかしながら」なのである。どのようなことなのかというと、たとえば最高級のレンズを用いて意気揚々と撮影をし、誇らしげに納品しても、「このレンズの描写やボケ味、シャープ感や発色など、素晴らしいですね」といわれることはまずないだろうと思う。少なくとも、ぼくの長年の経験では、レンズの味わいについての注文や指摘をされたことは一度たりともない。レンズ評などで必ず取り沙汰されるボケについてのことなど、ついぞ聞いたことがない。そのようなことより、意図したものが的確に表現されているかが問われる。 撮影後、デジタルはすぐに結果が見られるので、ぼくのほうからカメラモニターやパソコン画面を指し示し、稀に「ボケ具合はこんなものでどう?」と訊ねることはあるが、担当者から注文されたことは一度もない。フィルム時代は、撮影前にポラロイドを切るので、同じようにお伺いを立てるが、ここでもボケについての云々は聞いたことがない。 使用機材でカメラマンの値踏みをしておきながら、優れた機材によって得られた長所について言及されたことは今まで一度もなかった。なんだか割に合わない話と受け止められがちだが、カメラマンとクライアントはこのような相性でつながっているのだと思う。 「良い物(機材)について彼らは何もいわないが、安物を使えば、相手は不安がる。しっかりあなた自身を値踏みしているのだということを知っておいて欲しい。不安感を抱かせては、仕事をもらえない」とぼくはつけ加えた。 写真屋は、所詮は道楽者の成れの果てだとぼくはいつもいっている。やくざに似たりだが、道楽者と侮ることなかれ。道楽をした人間こそが、ものの良し悪しを知り、そしてその値打ちや奥深さを図る素養を身に付けているものだ。道楽をしたことのある人間と、そうでない人間との落差は非常に大きなものがあるとぼくは日頃から感じている。これは生き方の問題であり、善悪を指していうのではない。 広告会社の人間、デザイナー、編集者という種族は、おそらく一般の堅気とは少なからず距離のあるところに位置しているとぼくは見ている。ぼく自身がかつてその世界にどっぷりと浸っていたので、間違いない。そして、彼らはどちらかというと、やくざ系といってもいい。そして、趣味について、やたら凝り性の人が多い。なにかと厄介な人種といってもいいだろう。 したがって、道楽や道楽者に対する理解度も普通より進んでおり、安普請でも良しとするカメラマンを見る目は冷たく、やはりそれなりのものとしか見てくれない。ぼくは、彼らの見識を正しいことと認めるにやぶさかではない。 友人の写真愛好家(アマチュア)が、ぼくと同じ旧型のマクロレンズを使用していて、何故か業を煮やし、「どうして、マクロなのに、このレンズは手ブレ防止機能がついてないのよ!」と、ヒジョーにお怒りであった。彼女は自分の癇癪をなだめようと、愛用のマクロレンズを手放す決心をし、手ブレ防止機能の付いた新品のマクロレンズを買ってしまったと報告してきた。 “なんちゃってカメラマン” の多い昨今、「ガンバレ、オバチャン!」とぼくは快哉を叫んだ。その気概やアッパレ。これが上達の一番の早道だ かくいうぼくも、来月下旬発売予定のマクロレンズをすでに予約したが、このメーカーの常で、多分発売日に手に入れることはできず、しばらく待たされるのだろうと思う。 これは商売道具としてではなく、ぼくの玩具(おもちゃ)だが、アマチュア回帰のぼくにはちょっと贅沢かな? オバチャンと張り合ったわけではないが、アマチュアであっても、「道具はケチっちゃダメ」という正しい話なのだ。写真にプロ・アマなんて本来はないんですね。ぼくは自らアマチュアを気取り、したがって、崖っぷちに立ちながら、クライアントを喜ばせようとの写真を撮らなくて済む。これで寿命が多少延びるかも。 http://www.amatias.com/bbs/30/551.html カメラ:EOS-R6。レンズ:EF100mm F2.8 Macro USM。RF24-105mm F4.0L IS USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 野に群生するうちわサボテン。サボテンの花びらは繊細で透明感があって美しい。しかし、目に見えぬほどの細かい棘にはくれぐれもご注意あれ。近づきたくないので、100mm望遠マクロを使用。 絞りf10、1/160秒、ISO640、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 同じくうちわサボテン。ここにある目に見える棘はまだしも、見えない棘が恐いのだ。とにかく「触らぬ神に祟りなし」。焦点距離105mmで、遠巻きに。 絞りf7.1、1/80秒、ISO400、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/06/11(金) |
| 第550回:素晴らしきアマチュア回帰(2) |
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仕事用のカメラ機材を「商売道具」とするなら、私的写真用に新調したそれらはさしずめ「遊具」といったところか。「遊具」とはいえ、「商売道具」にくらべてまったく遜色のないクオリティを提供してくれるばかりではなく、設計が最新なので、目下その余剰ともいえる御利益にも与っている。
ぼくはどちらかというと控え目な質であるので、機能満載のカメラに向かって「そこまでしてくれなくてもいいよ」という。しかし、ここだけの話、「大きなお世話なんだが」といいながらも、これがけっこう便利で、こっそり使っている。けれど、秒間12コマ連写とか常用最高ISO感度102400とか、ぼくには縁なき衆生、ではなく縁なき機能であるが、重宝する人も多いのではなかろうか。 余談だが、メーカーのHPではEOS R6を“NEW STANDARD” と銘打っているが、「こんな優れものが “スタンダード” であってたまるか」というのがぼくの偽らざる評価である。ここでぼくのいう「優れもの」の第一は、もちろん使い勝手ではなく、画質の素晴らしさにある。第二に、その軽さだ(重量約680g。仕事用はどれもその約2倍)。 しかし、それより何より、今のぼくにとって、玩具を与えられた子供のように、邪気なくはしゃげることが殊更嬉しい。このことは、このカメラの素晴らしい機能のすべてを凌駕してなお余りある。 仕事から解放されて、好きなことに没頭できる喜びは、何にもましてこれからの余生に貴重なものとなるであろうと思われる。まだそれが断定できるほど、ぼくは先を見通せる能力を持ち合わせていないが、自身の標語である「人生は取り敢えず」に従えば、今少しの間写真を撮る機会を与えられているような気がしている。ぼくは、もしかしたら写真が好きなのかも知れない。そして何十年ぶりかで「欲しいカメラ」を手にすることができ、有頂天になっているのだろう。 今回手にしたカメラとレンズたちは、ぼくにとってかなり贅沢な遊具であるけれど、それを弄(もてあそ)びながら幻想の世界を彷徨い、そこに浸ることは、同時にとても贅沢な瞬間でもある。幻想のなかに、自分にとってのリアリティを発見しようと努めることは、程良い精神的な活性剤となるに違いない。心の持ちようひとつで、写真の面白さと醍醐味を存分に味わうことができそうだ。ちょっと気障な言い方だが、「虚構の世界に遊ぶ」ということだ。 大仰な出で立ちで近隣を徘徊するのではなく、お手軽なのでどこへ行くにも気軽にご同伴願え、衰えがちの足腰や精神を補助してくれる。 プロであれ、アマであれ、道具に対する正しい知識は、写真を撮ることの技に通じる。ものの本質や作用を感受するだけでは、当然のことながら写真は写ってくれない。感受を具現化するのが技であるのだが、ぼくのような長く写真に取り組んでいるだけの化石写真屋は、最新の機材に追いつく(知識を身に付け使いこなす)ことは大変である。使用説明書(詳細ガイド)だけでも、850ページになんなんとする。ほとんどが既知の事柄ではあるが、それでも面喰ってしまう。 写真事始めの人であっても、このカメラを購入して、正しい趣味のあり方を踏襲しちゃおうという剛の者が必ずやいるはずだ。そのような烈士・烈女は長篇小説を読むが如く850ページを読破するのだろうか? 途方に暮れることはないのだろうかと、他人事ながら心配になってくる。だが趣味の世界に「身の程知らず」という言葉は存在しないというのがぼくの持論なので、心配無用だ。そのような人は、勤勉という糧をすでに心得ているので、なんとかちゃっかりと使いこなしてしまうものだ。何事も「案ずるより産むが易し」である。 カメラを握り、右手で操作できるダイアルやボタンが19個もあるのだから、他人を心配している場合じゃない。自分の意志と老いぼれた指を連動させるには、どれ程の時間がかかるだろうか。のんびり訓練すればいいじゃないかと言い聞かせてみるのだが、このカメラ、実は仕事にも十分すぎるほどの対応能力を有しているので、安穏としてはいられない。だが、仕事には使用しないと割り切るのが、分別という名の知性。せっかくの愛玩用として買ったのだから。 かれこれ2ヶ月ほどこのカメラに馴染もうとを毎日弄(いじ)っている。そして、自他共に認めるテスト魔のぼくだが、未だカメラテストもせずに未知のレンズ(RFレンズ)をあれこれと楽しみながら、悠然と構えている。これが商売道具であれば考えられぬことであり、出来る限りのテストに明け暮れ、正体を見極めた上で、実践に投入するのだが、そんな定番の作法を無視しているのは、意識的にこのカメラを遊びの道具として扱いたいとの欲望が勝っているからだろう。 楽しむことが最優先という今までに味わったことのない感覚を得て、ぼくは得々とし、喜色満面なのだが、ぼくの写真を評する人が誰もいないということにふと気がついた。撮影をしたその結果についての声が聞こえてこないことはとても不思議な感覚でもある。これが、人生の綾(あや)というものか。嗚呼! http://www.amatias.com/bbs/30/550.html カメラ:EOS-R6。レンズ: RF35mm F1.8 STM。EF100mm F2.8 Macro USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 薔薇を撮ることはないだろうと以前記したが、散歩中にどこかの生け垣から風に吹かれ、ゆらゆらしながら可愛い薔薇がひょいと首を出した。 絞りf4.0、1/400秒、ISO200、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 黒薔薇のような色をした芙蓉。花粉と花柱にフォーカスを合わす。虫の糞が写っている。 絞りf8.0、1/200秒、ISO800、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/06/04(金) |
| 第549回:素晴らしきアマチュア回帰(1) |
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カメラやレンズはぼくらの想像を超えて精密に作られている。謂わばそれらは “精密機器” の最たるものだが、それだけに壊れやすく、また取り扱いにも殊のほか神経を使う。おまけに高額ときているから、なおさらである。ここまでは、光学に関して素人のぼくでさえも容易に理解し、受け入れることができる。
10歳の時に初めて自分のカメラを手にして以来、こんにちまで60年以上もそれらはぼくの愛玩物となっている。カメラがどうの、レンズがどうのと、思い悩みながらの、長〜い、ながい付き合いである。 カメラやレンズの仕組みについて、玄人であるメーカーの技術者にさまざまな設計上の話を伺うにつれ、撮影する立場の者は「知らぬが仏」故の「恐いもの知らず」を武器とし、カメラやレンズについての蘊蓄(うんちく)を傾けていることに気づかされる。時には彼らに厚かましくもあれこれご注進申し上げることもある。自分の言葉を振り返りながら、「知りもしないで、よくいうわ」と、自嘲気味につぶやく。 先ずは何事に於いても、作る側と使う側の立場は対極に位置するため住む世界が違うのであって、それぞれの役割を誠実に担ってこそ、お互いが引き立つというものだ。相互扶助という切っても切れない縁がそこにはある。そして、ぼくと彼らの関係は永遠に素人と玄人の間柄で、ある時それが逆転することはあっても、「餅は餅屋」(物ごとにはそれぞれの専門家がおり、それは素人の及ぶところではない、という意)であり、お互いにその域を出ることは決してない。 半世紀以上もカメラやレンズを扱い、それを商売道具としてきたぼくだが、では実際にカメラやレンズを作れるかというとまったくそうではない。つまり、目的とする分野が異なっているので、それが当然の成り行きというものだ。「餅は餅屋」なのである。 良いものと欲しいものが一致するわけではないという事実がぼくにはある。この現象が、読者のみなさんに当てはまるかどうか分からないが、この半年ばかり自分の「欲しいカメラ」を物色し始め、その事実に改めて気がついた。そしてまた、技術者いうところの「良いカメラ」が即ち写真愛好家の求めるものと直結するわけでもない。このことは両者がすでに了解済みであろう。 今までぼくが使用してきた大仰なカメラは、あくまでぼくの仕事仕様と職業倫理に従ったものであり、本来なら私的写真の撮影には持ち出したくないものだ。ただでさえ年齢による衰えがひしと身にこたえる今日この頃、仕事仕様の重量級カメラやレンズを振り回したくないというのが本音であり、第一気が滅入ってしまう。あんなものを携えていては意気が揚がらないのだ。 “仕事仕様” は “絶対に良いものでなくてはならない” のだが、私的写真の撮影はまずその行為を愉しめるカメラでなくてはならない。ここが一番の違いだ。 このことは裏を返せば、第546回に記した、 “プロは「親を質に入れてでも」優れた機材を手にしなくてはならない” という自身のご託宣に従わなくてもよいということである。質に入れたくとも、もう親はいないのだけれど。 「素晴らしきアマチュア回帰」のために、あれこれカメラを試した挙げ句、ぼくの選択したものは、キヤノンの最新モデルであるミラーレス一眼のEOS-R6だった。ここではぼくの「新しもの好き屋」は関与していないが、期せずして、結果としてそうなっただけである(2020年8月発売)。R5という選択肢もあったのだが(価格が約15万円高いが、趣味の世界に於いて価格は購入の条件にはまったく考慮に値せず、がぼくの信条でもあるので)、取り急ぎぼくはR5に用意されている多機能な動画撮影には気がないことと、今時まだ存在する化石のような「高画素数信奉者」ではないので(R6のフルサイズ2010万画素に対して、R5は同じくフルサイズ4500万画素)、迷いはなかった。 R6に採用されているイメージセンサー(撮像素子)は、キヤノンのプロ用フラグシップモデルのEOS-1D X Mark IIIと同じもので、加え映像エンジンも同じである。デジタルになってからEOS-1D系のボディを5台使用してきたぼくとしては、R6のイメージセンサーは信頼に値するものだ。ローパスフィルターは若干異なるようだが、実写テストでの不満はまったくなく、ぼくの気分を高揚させてくれるものだった。 以前、拙稿で述べたことがあるが、画質を左右する最も大きな要因は、第一にイメージセンサーサイズであり、映像エンジンとローパスフィルターがそれに次ぐ。画素数は5の次、6の次ともいえ、画質そのものには直接に関係するものではないとぼくは言い切る。ぼくが “化石のような「高画素数信奉者」” と皮肉を込めていう謂れでもある。画質って、画素数で測れるものじゃないんです。 キヤノンの最高級モデルが、多画素センサーではなく、昨今では少ないとも思える2010万画素なのはどうしてなのかを考えてみればよいだろう。 R6は新しいRFマウント採用なのだが、従来のEFマウントのレンズにはアダプターを介して使用することができるので、今までのレンズ資産を無駄にすることなく活用することができる。ぼくは新たにRFマウント用のレンズを4本新調(うち1本は来月下旬発売)したが、好き嫌いは別として、久々に購入した現代のレンズとはこうしたものなのかと、感慨新たでもある。レンズ性能としては明らかに進化している。 今回の掲載写真に用いたレンズは、従来のEFと新RFの両刀遣いである。 http://www.amatias.com/bbs/30/549.html カメラ:EOS-R6。レンズ:EF100mm F2.8 Macro USM。RF35mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 暗い茂みをバックに、目の高さにアザミが咲いていた。バックを整理するため望遠マクロを使用。 絞りf10、1/80秒、ISO400、露出補正-1.33。 ★「02さいたま市」 RF35mm は倍率0.5のハーフマクロを兼ねている。ぼくは紫陽花が嫌いなのではなく、咲いているその環境が好きになれないのだと最近分かった。「運鈍根」を旨とするぼくは、同じ被写体を何千、何万と撮らないと、良い写真が撮れないと自覚している。だから、飽きもせず、紫陽花。 絞りf4.0、1/60秒、ISO100、露出補正-0.67。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/05/28(金) |
| 第548回:何十年ぶりにカメラを物色する |
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写真を生業にして長い年月が過ぎ去った。その間、フィルムからデジタルへの大転換期があった。世の習いに従い、ぼくもその転換期に大なり小なり翻弄されたが、同年代のカメラマン諸氏とくらべれば、デジタルの作法に右往左往しながらも比較的スムーズに事を運んだのではないだろうかと思っている。
ぼくより一世代年配の同業者のなかには、デジタル時代の到来とともに、やむを得ず廃業を迫られた人が少なからずいたものだ。ぼくの知り合いにもそのような気の毒な人がいた。まったく原理の異なる表現方法に如何に対応し、順応していくかという大問題に直面し、自身のありようを変えなくてはならないという事実だけが厳然と目の前に横たわっていた。デジタル写真への変遷は、ぼくの写真人生に於ける一種のルネッサンス !? であるかのように感じていた。その予感は今のところ当たっている。 端境期や過渡期の混乱にあって必ず論争の的になる「どちらが良いか」も盛んだったが、ぼくは当事者であるが故に、そんな優劣論よりも、避けることができぬ「デジタル時代到来」に万事怠りなく備えたほうがより建設的であるとの判断を下していた。したがって、その論争にはまったく興味も関心もなく、一顧だにしなかった。良いか悪いかは、それを使用する本人次第という不変の真理をぼくは認めていたし、信奉さえしていた。デジタルであろうがフィルムであろうが、それが写真自体の質を左右するものではないとの固い信念を持っていた。 第一に、商売人は、ともあれかくもあれ食っていくための手段なのだから、そんなことにかまけていても意味がないというのが本寸法というものだ。ぼくはこの件については、珍しくリアリストだった。 今までに学んできた長い歴史を持つフィルムの特徴や好きな部分、良いと思えるところをデジタルに転化し、生かすことのほうがより大切なことだ。ましてやそれはとても愉快なことだし、また挑戦し甲斐のあることだとぼくは決め込んでいた。そんなわけで、デジタル到来に対する不安や戸惑いは最小限のもので済んだ。 以前、本稿にも記したが、デジタル時代を迎えるにあたって、ぼくはデジタルカメラを買うより前に、パソコンとプリンター、フィルムスキャナーなどをあらかじめ備え、また、高額な画像編集ソフトであるPhotoshopをデジタルの暗室道具として購入し、画像補整の基礎的な事柄を勉強した。 プロの使用に応えることのできるようなカメラが発売された時のために、「出たとこ勝負」の得意なぼくは、この時ばかりは心を入れ替え、「備えあれば憂いなし」の教えに従った。 まわりにはPhotoshopを使用している人がほとんどいなかった。当時はまだこのソフトに関して満足できるような教本も非常に少なかったが、ため息をつきながら、懸命に取り組んだものだ。Photoshopを修得するには、「いじり倒す」より他に良い手段はなかった。「習うより慣れよ」を地で行ったものだ。 ともかくも、教本に書かれている言葉そのものが理解できないのだから、前途多難さに何度もくじけそうになったことをよく覚えている。パソコンもPhotoshopも、ぼくにとっては初めてのことばかりで、路頭に迷ってばかりいた。まさにあらゆることが、五里霧中だった。そんなことが2年ほど続いた。 ある程度デジタルやPhotoshopの要領が分かりつつあった頃、プロの酷使に対応できるフルサイズのデジタル一眼レフ(初代EOS-1Ds)が発売され、ぼくはこの時からフィルムに対する一切の未練を絶った。デジタル撮影に付随する機具・機材も購入しなければならず、大変な散財を強いられたが、2年近いデジタル修行のお陰で(都内大手印刷会社の人たちにも教えを請うた)、撮影から納品まで、勝手が分からずまごつくことはほとんどなかった。 今でこそ、デジタルカメラは誰にでも手軽で身近な存在となり、また多くの人々にとっても不可欠なものとなっている。カメラというものが斯くも身近になったことは喜ばしきことなのだが、我が身を振り返ってみると、写真を生業にしてからというもの、「欲しいカメラを買ったことが一度もなかった」ことに気がついた。 この事実は、写真熱中症のぼくにとって “物の哀れ” を誘う。ちょっと大仰ないい方かなぁ? どうだろうか? 因みに “物の哀れ” を辞書で繰ってみると、「自然・人生・芸術などに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀感」(大辞林)とあるので、当たらずとも遠からずといったところか。 ぼくが身にまとっていた高額なすべてのカメラは「食べるために必要なカメラ」であって、「欲しくて買ったカメラ」ではなかった。その現実は、陰に籠もって物凄いといわざるを得ない。やはり “哀れ” そのものではないか。ぼくの写真人生と相似を成しているように思えてならない。もうそろそろ、本心より写真を楽しんで良いのではないだろうかと思い始めた。そんな欲求が日々増していった。 そんな気づきと心変わりを与えてくれたのは、まったく皮肉なことに流行り病である武漢コロナであった。自由気ままに撮影に出かけられないことも手伝い、近所の花ばかり撮りながら、徐々に相当なストレスが溜まっていったに違いない。 そんな折りに、光明を見出すべく、「必要なカメラ」ではなく「欲しいカメラ」を手にして、心より写真を楽しもうじゃないかと言い聞かせた。ぼくは半年ほど前から誰知れることなくこっそりと、あれこれ物色を始めたのだった。 http://www.amatias.com/bbs/30/548.html カメラ:EOS-5D Mark IV。レンズ:EF100mm F2.8 Macro USM。マニュアルフォーカス。手持ち。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 紫陽花が咲き始めた。友人に貸していたマクロレンズが戻って来たので、勇躍撮影に出かける。ひとつの花びらに、ツートンカラーってあるんだ。 絞りf3.5、1/160秒、ISO400、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 開花前の紫陽花。 絞りf4.0、1/125秒、ISO400、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/05/21(金) |
| 第547回:大口径レンズでの失敗(2) |
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大の男がふたり揃って自分たちの仕出かした失敗に慌てふためき、脂汗を滲ませながら、どこに責任転嫁をしようかと周章狼狽。せこい輩たちだ。ぼくらはすっかり小の男に成り下がっていた。ピント(合焦)が来ていないボケ写真を撮るなんて、これはまったくの、プロの名折れである。
心の奥底では、失敗の原因は己の技術不足と経験不足にあることを素直に認めていたのだが、絞り開放値f 1.2という極めて明るい中望遠レンズを携え、意気揚々、羨望の眼差しを一身に受け、これ見よがしに振り回しての結果なのだから、どうにも恰好がつかない。それはあたかも、大仰な鎧に身を包んだ侍が、いざ戦闘のかけ声とともに穴に落ちてしまい、役立たずを演じているようなものだ。ぼくらは、予想外の不始末に身の置きどころがなく、まさに「穴があったら入りたい」との気持に襲われていた。洒落ている場合ではないのだが、もう30年以上も昔のことなのに、思い出すだに、顔が火照ってくる。 絞りf 1.2で写真を撮ることがどれほど恐ろしいことかを知らなかったのだから、これはもはやプロとはいえない。 この不始末に於いて、ぼくにとってただ唯一の救いは、共犯者がいたことと学びの場を与えられたことだった。ぼくは新調したレンズを自慢していたわけではなく、「貸し与える」という好意・善意を前面に打ち出しての結果だったので、「誰からも恨みを買うようなものではないはずだ」と盛んに正しい申し開きをしていた。なるほど、理屈としては正しい。 それに加え、内心「君たちだって、この規格外といっていいようなレンズを使ったら、まずはおれたちと同じドジを踏むんだよ。おれたちのような名人でさえこのざまなんだから」と諸行往生(念仏以外のさまざまな善行によって往生できるという説)の一端を実践したに過ぎないのだと主張していた。この期に及んで、少しでも咎め立てを減じようと論旨のすり替えを目論んでいた。見苦しくも、やはり小の男だ。 これがプライベートな写真であれば、愛嬌たっぷりに、笑って誤魔化してしまえばよいのだが、恐れ多くも結構な報酬をいただいての失態なので、「ここは今宵が見納めか」と、ぼくは打ち首を覚悟した。せこいながらも、最後の一瞬くらいは桜のような潔さを示そうではないかと思った。散り際の潔さは、いつだってカッコイイものだ。ぼくは大石内蔵助よろしく、仲間たちに「おのおの方(武士用語で、 “みなさん” の意)、お先に」という科白もちゃんと用意した。 ぼくのレンズを借りたばかりに同罪となってしまった仲間も、この際だから道連れにしてしまおうと、ぼくはいとも容易く義侠心を捨てた。「同病相憐れむ」をもじって「同罪相憐れむ」とか、また「旅は道連れ」ともいうし。 悲嘆に暮れるぼくらを生暖かい目で眺めていた先輩カメラマンであるAさん(この仕事を紹介してくれた好漢)が、そばに来て「かめさん、大丈夫だよ。あのカットはぼくがちゃんと抑えてあるから。ぼくはフツーの50mmF1.4を開放絞りで撮ったけれど、ピンはちゃんと来ているから」と、にんまりしながら安心させてくれた。 生暖かい眼差しではあったが、助っ人であるAさんには眩いばかりの後光が射していた。あれ以来ぼくは彼に頭が上がらなくなったが、それから3年後、彼は脳溢血という不意の病に襲われ急逝。彼の死とともに、義理立て不要となったぼくは、放送局の仕事を辞めた。ここでの4年間は、とても良い修行の場となった。 お陰様で、f 1.2開放絞り(これがいわゆる “カミソリピント” という超極浅被写界深度)でポートレートを撮る際、ピントを少しずつずらして撮るという芸当も身に付けた。この作法はややもすると快感を伴うものだということも同時に知った。暗所でなければ、何本目のまつ毛にピンを合わすという技術も習得するに至った。ぼくはまるでプロのような !? 技術を身に付けていった。 キヤノンNew F-1の後、EOSが発売され(まだデジタルではなくフィルム時代)、ぼくは迷うことなくそれに乗り換えた。カメラマウントがFDからEFに変わり、今まで使用していたFDレンズは使用できなくなった。メーカーは愛好家から不評を買ってはいたが(当たり前)、ぼくにとっては新たなEFレンズへの興味が勝った。ここで初めてぼくはオートフォーカス(以下AF)に出会った。それをいじくりながら、「へぇ〜、ほんまかいな?」を連発していた。 AFは確かに便利だし、近年その精度もかなり上がったが、昔気質の人間(ピントは自分の左手でヘリコイドを回し、合わすもの! それが撮影のリズムとなっていた)であるぼくは、それを頭から信用するようなことはない。ただ、この頃は歳とともに肉眼の精度が落ち、加え便利にかまけてもっぱらAFという場面がないわけではないと正直に白状しておく。ブレにはまだ自信があるが、ピント合わせはAFという横着に頼ること多し、というところか。 メーカーの技術者の方々と話す機会が時々あるが、彼らによると、AF使用時のf 1.4に於ける合焦確率は30%前後であるという。歩留まり3割だって。「だからいったでしょ。信用しちゃダメだって」。 これは写真愛好家にとってかなり衝撃的な数字ではなかろうかと思う。したがって、AFで合焦させたらピントをマニュアルで少しずつずらして何枚か撮るのが、今でもやはり賢い方法なのだそうだ。 また、レンズは絞りによってピントの位置がずれる。この理屈は技術者でないぼくでも理解できる。通常使用されるAF動作のユニットは、絞りf 5.6くらいで、正確なピントが来るように作られているとのことだ。f 8.0ならバッチリということらしい。 花の撮影を始めて久しい。これから少しずつマクロレンズを使い、被写界深度の浅い花の写真を撮る勇気を持ちたいと思っている。ぼくにそんな勇気と感受が持てるだろうかといささか不安な日々である。 http://www.amatias.com/bbs/30/547.html カメラ:EOS-5D Mark IV。レンズ:EF35mm F1.4L USM。マニュアルフォーカス。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 陽がすっかり落ちた曇天下、ホタルブクロがひっそりと咲いていた。 絞りf2.5、1/25秒、ISO200、露出補正-1.33。 ★「02さいたま市」 ネギ坊主にハエ、という組合わせが如何にもぼくらしい。ミツバチや蝶でないところが、お似合いなのか? このリサイズ画像では分からないが、ハエの足の毛まで解像している。中間リングを付けて。 絞りf2.8、1/30秒、ISO200、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/05/14(金) |
| 第546回:大口径レンズでの失敗(1) |
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デジタルを使用する以前の、まだオートフォーカスレンズが巷に流布していないころの話である。今から30年以上前のことだが、ぼくはある放送局の番組宣伝用の写真を定期的に撮っていた。そこに出入りしていたカメラマンと「東京コレクション」(ファッションショー)の撮影で知り合い、「放送局の仕事を手伝ってくれないか」と誘いを受けたのが始まりだった。
彼は人柄も然ることながら、カメラマンとしての職業意識やスキルも高く、今は少なくなってしまった立派な職人気質を備えた人で、なかなかの好漢でもあった。ぼくには未体験の撮影だったので、間を置くことなく快諾した。 放送局での仕事は、ビデオ撮りの本番やラン・スルー(テレビ放送のビデオ撮りの際に、本番とまったく同じに前もって行う通し稽古)時に、様々なシーンを静止画に収め、それらは新聞の番組宣伝や他の媒体(雑誌、広告など)に提供された。現場での撮影上の制約も多く(ビデオカメラの視野に入らぬように注意しながらの撮影で、撮影位置が極めて限られていた)、また局内でのスタジオ撮影は非常に照明が暗く(それでもビデオは写ってしまうから嫌になる)、特に時代劇はさらに暗くカメラマンにとって鬼門ともいうべきものだった。修行の場としては最高である。 ぼくは大方、大河ドラマと称する時代劇の撮影をさせられた。何故か一番辛い撮影を受け持たされていた。局から支給されるカラーポジフィルムは、スタジオ用にはISO160の、コダックのタングステン用フィルムだった。野外撮影にはISO64のコダックエクタクロームとISO100のフジのプロビアが支給されたように記憶している。写真部より支給されたフィルムですべてを賄えというわけである。制限のないデジタルとは大違いだ。 ぼくの修業時代は主にスタジオワークだったので、テレビ局の仕事は未体験の状況が多く、大変良い勉強になった。ここでの訓練は、後々のフィールドワークに大いに役立ってくれた。 当時ぼくが使用していたカメラは、キヤノンのNew F-1を2台、モータドライブ付きで使用していた。このカメラはニコンのF3とともに1980年代を代表するプロ用一眼レフカメラだった。レンズマウントも今のEFではなくFDだった。ぼくのNew F-1は、地球の僻地にまで駆り出され、大活躍をしてくれたものだ。軍艦部の黒色の塗装が剥げ、黄色の真鍮があっちこっち露出していた。ハゲちょろけのカメラは、見るからに歴戦の勇士を物語っていた。「ぼくも歳を取ったらこんな風に年輪を刻み、貫禄が出るのだろうか?」と考えたが、未だ至らず、皺ばかりが増えていく。 放送局の仕事に限らず、これを2台ぶら下げて走り回ったのだから、「若かったんだねぇ」と、感嘆措(お)く能(あた)わずといったところだ。おまけに当時は、ズームレンズを使用することはなく、すべてが単焦点レンズだったので、数本はカメラバッグに忍ばせておかねばならなかった。その労力たるや、いやはや・・・である。 当時のズームレンズの性能は、解像度も、コントラストも、各収差も、使い勝手も、イマイチ、イマニ、イマサンといってよく、到底プロの使用に耐えるものではなかった。レンズといえば、プロも写真愛好家(いわゆるハイアマチュア)も、単焦点レンズを指したものだ。昨今の、ズームレンズの性能の飛躍的な向上には目を見張るものがある。 セットの組まれた暗いスタジオでの撮影は殊のほか難儀したが、そんな折り、キヤノンの絞り開放値がf 1.2という驚異的な明るさのレンズを購入する決意をした。役者さんをビデオ撮影に合わせて撮るので、ビデオ優先のこの世界では「もう一度お願いします」という常套句が使えない。まさに一発勝負。 時代劇の照明の暗さに恨み辛みを抱きながらたじろいでいたぼくは、この高価なレンズを購入するためにカメラ店に飛び込んだ。当時のぼくは、駆け出しのカメラマンから脱し、すぐに減価償却できるほど忙しくなっていた。「良い機材を持てば、それに見合った仕事がちゃんと来る」というのがぼくの信条でもあったので、迷いはまったくなかった。借金をしてでも、親を質に入れてでも、優れた機材を手にするのがプロというものだ。 番組宣伝の撮影では、3〜4人のカメラマンが同時にスタジオ入りし、お互いに譲り合いながら撮影するのだが、こんな明るいレンズを持っていたのはぼくひとりしかいなかった。新調したキヤノンのNew FD85mm F1.2L を誰もが矯(た)めつ眇(すが)めつ眺め、「かめやまさん、これで安心ですね。いいなぁ、欲しいなぁ」と羨んでいたものだ。ぼくも大船に乗ったような気分になっていたのだから、おめでたい。テスト撮影もそこそこに、ぼくは羨む仲間を尻目に、お墨付きと保証書を同時に携えたような気分でスタジオ入りした。「太鼓判を押される」とはこういうことかと、妙に納得もした。 二度目のラン・スルーで、仲の良かったカメラマン(カメラマン同士はみんな案外仲が良いもの)に「使ってみる?」とぼくはいい、恵方巻きのように太いこのレンズを手渡した。 撮影済みのフィルムを写真部に渡し、後日現像のあがったそのポジフィルムをルーペで確認しながら、選別する。ボツフィルム(ピント、ブレ、露出、構図などが良くないもの)はハサミを入れ、その場で廃棄処分にして、すべての作業が終了となる。 みんなが羨んだチョー明るいレンズで撮った役者さんのバストアップ写真を見て、ぼくは「ギャーッ!」と叫んだ。どこにもピントが来ていないのだ。レンズを貸した仲間もぼく同様に「ピンが来てない!」と泣きを入れた。ぼくは何だかちょっとだけ救われたような気がしたから不思議である。この話、次号に続く。 http://www.amatias.com/bbs/30/546.html カメラ:EOS-5D Mark IV。レンズ:EF35mm F1.4L USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 「薔薇は撮らない」といいつつも、「その一部を抽出して撮るのはいい」と自分に言い訳を。35mmレンズに中間リングを付けて。f8.0に絞っても近接故、被写界深度はこのように浅い。 絞りf8.0、1/30秒、ISO200、露出補正-0.33。 ★「02さいたま市」 ペチュニアの鉢植えが置いてあった。Rawデータを見たら油絵のようだったが、色調や明度・コントラストなどのバランスを整えていったら、まるで写真のようになってしまった。 絞りf5.6、1/200秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/05/07(金) |
| 第545回:写真は人を騙すもの |
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前号にて、「さらに大きな果報について報告しなければならない」と書いたが、内容的に「写真よもやま話」には違いないのだが、もっと個人的な、しかもかなり限定的な話題となるので、写真にまつわる出来事とはいえ、今公に語ることなのかどうかぼくは迷っている。
持って回ったようないい方だが、もう少し煮詰めてから(テストを重ねてから)のほうが、ぼくとしては書きやすいので、この果報についてのご報告は先送りとすることにした。 連休前に旧知の間柄であるカメラマンから電話があった。彼とはもうかれこれ40年近い付き合いで、徒話(むだばなし)とともに時折情報交換などを交えながら、昨今の写真事情などの話に花を咲かせている。 「各論は異なるところもあるが、総論はほとんど同じ」、つまり彼との写真に関する考えには大した違いはなく「大同小異」といったところか。同年齢ということも手伝ってか、彼とは何かと相性が良い。また、写真に非常にストイックなところもぼくが彼に好感と信頼を寄せる大きな要因のひとつとなっている。 同じ時代の空気を吸って育っているので、分かち合える部分も多いのだが、不用意に「昔は良かったねぇ」などという不粋で手前勝手な繰り言は吐かないので、なおさら気分がいい。お互い批判精神こそ旺盛だが、物事とか事象には、常に功罪というものがつきまとっていることを理解しているので、価値観の公平さとか平等といったものに重心を置けるのだろう。 そんな彼が、「かめさん、SNSやインスタグラムはしてないよね」と、わざわざ否定形を用いて問いかけてきた。彼はぼくがアナログ時代に、フィルム現像からプリントに至るまでのプロセスに尋常ならざる熱意を傾けてきたことをよく知っていたので、遠慮がちな気持から否定形を用いたのだと思う。ぼくに問うたその心底には、「まさかね」という気持があったのではないかと推察する。 そしてまた、アナログに一心不乱に向き合ってきたぼくが、ある日突然それを打ち捨て、何の未練もなく新参のデジタルに取り組んだことも知っている。彼のデジタル化はぼくよりずっと遅く、ぼくの変わり身の早さに彼は唖然としていたくらいだった。 その様は、ちょいとした浮気心などという生易しいものではなく、何の未練もなく未知の佳人(美しい女性)に幻惑され、そして入れ込み、じゃなくて現代の先端技術に迷うことなく突進し、我ながら見事なる鞍替えを図ってしまったのだ。ぼくは人知れずデジタルに向けた準備期間を設けた。用意周到な浮気だったといってもいい。 デジタルになってからも、「如何に思い通りのプリントをするか」に注力してきたぼくを彼は知っていたので、ぼくのSNSに対する考えを知りたかったのだろう。 「SNSに関してぼくは今のところ何もしていないけれど、まったくの肯定派。自分の作品をスマホやパソコンのモニターで観賞されるのは、『今や当たり前のこと』と考えるのが、良い意味での進歩的写真人だと思う」とぼくは返した。 某カメラメーカーによると、写真の90数%がモニターで観賞されているのだそうで、今はそのような時代なのだ。ぼくのような暗室作業に極力こだわる人間でさえ、これが時代の要請(趨勢)であることを素直に認めている。オリジナルプリントでなければ作品の真意が伝わらないという人も多くいるようだが、それは随分と穿った見方であるとぼくは思う。 写真を自己表現の手段として嗜んでいる人にとって、自分の作品はオリジナルプリントで見て欲しいとの気持は強いものがあって当然だが、それでは鑑賞者をかなり限定させ、狭めてしまう。見られないよりは、たとえSNSであっても見られるほうがずっと良いと考えるのが妥当というものであろう。 SNSでの鑑賞者が100人いれば、100通りの見え方が存在する。そこがオリジナルプリントでの鑑賞と根本的に異なるところだ。自分と同じモニター(色温度、明度、色相、彩度、コントラストが同じという意味)は、まずお目にかかれないだろう。ぼくの当欄に於ける掲載写真も、見る人の数だけ異なった見え方をしているはずである。斯くいうぼくも、自分のiPhoneやiPadでそれを見て、「へぇ〜、こんな風に見えるの」なんていっている。 「自身の写真は是が非でもオリジナルプリントでなくては」と我を張る保守的な人は、写真を音楽や絵画に置き換えてみると良いのではないか? 演奏会場(つまり生演奏。写真ならオリジナルプリント)に出向くことなく、CDやレコード、ラジオやテレビ等々の媒体で音楽鑑賞をすることのほうが、普通の生活を送る人にとっては圧倒的に多いはずだ。生演奏はかけがえのない体験を提供してくれることは否定しないが、しかしそれだけが音楽から感動を得る唯一無二のものではない。雑音だらけのSPレコードからでも音楽や演奏者の素晴らしさはしっかり伝わってくるものだ。 懇意にしていた美術館の館長(美術評論家でもあった)が、「時として、原画より撮影されたポスターのほうが、人々に感動を与える不思議があるものだ」とぼくに語ってくれた。写真屋であるぼくは奇妙な感覚に襲われたものだったが、しかし、美術に対して相当な慧眼を持つぼくの友人も同じようなことをいっていたことを思い出す。 京都広隆寺の弥勒菩薩を彼とともに拝観に行った時のこと。曰く「アムステルダムで観たゴッホも、この弥勒菩薩も、写真のほうが美しいと感じてしまうんだが、ぼくの目がおかしいのかなぁ」と、彼はすっかり自信を失ったようだった。写真屋であるぼくは、「写真はね、実物より美しく撮らないと、銭をもらえないんだよ。人を騙してナンボの世界なんだ」と、少し鼻を膨らませていった。 SNSであろうとプリントであろうと、見る人が100人いれば、100人を騙す。それが写真というもの。騙されること、即ち観賞行為なのだ。 http://www.amatias.com/bbs/30/545.html カメラ:EOS-5D Mark IV。レンズ:EF35mm F1.4L USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 夕暮れ近く、路地で色鮮やかに咲く一輪のポピーを見つけた。ボケ足のきれいなこのレンズの特徴を生かして。 絞りf2.5、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 薔薇の花びらがひとつ、排水溝の蓋に乗っていた。どこからやって来たのか、あたりを見回しても分からず。花びらの白が飛ばぬように露出補正。 絞りf5.6、1/125秒、ISO100、露出補正-1.33。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/04/30(金) |
| 第544回:花に学ぶ |
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チューリップに関する私見をあれこれと述べてきたように思うが、思い返してみると案外そうでもないことに気がついた。けれど、これ以上のことはぼくとしても書きようがなく、もし何かを述べようとするのなら自他ともにいささか食傷の感ありだ。たいした思い入れがないので、捻り出そうにも出て来ない。
チューリップを褒め称えることも、貶(けな)すこともこれ以上はなく、良くも悪くも「淡々( “単々” のほうが適している)とした花」なので、ぼくとしてはこれにて十分である。 第542回で、「早くチューリップの季節が去ってくれないかな〜と思う今日この頃」と、恩知らずで勇ましいことを述べたが、今やっとその季節が去りつつある。散々お世話になっておいてこういうのも憚られるのだが、たくさんのチューリップと睨めっこをして気づいたことは、「チューリップというのはイマイチ知的要素に欠け、その姿は憂いがなく、あくまであっけらかんとしており、毒を感じさせず、健康優良児的佇まいを誇示しているような花。かといってひまわりのような本心からの朗らかさもない」ということだ。それが故に、ぼくにとって否が応でも目につく花なのである。ぼくばかりでなく、誰彼なしに「親しみの持てる花」と言い換えても良いのだろう。 チューリップに悪態をつく理由は何一つないのだが、彼らは、枯れたり朽ちたりする姿に味わいが窺えない珍しい花だ。多分、そのような状態の期間が他にくらべ極めて短く、あっという間に花びらを落としてしまうのだろう。そこに愛惜の情やもの悲しさ、寂しさといったものを感じ取る隙間がなく、どうも情感に乏しいような気がする。滅びゆく美しさのようなものを連想しにくい。 自分の生き様を照らし合わせるには不具合の多い花なので、共感するところが極めて少ない。それはもしかしたら、日本人的宗教観からして多少のずれがあるからだろう。無常観などのありようが少し異なるというのが、ぼくの勝手な見立てである。 チューリップは、「きれいではあるのだが」という条件が常につきまとう希有な存在であり、ぼくはこの際それに免じて、この花に寛容さを示しているのだと思う。丹精して育てた薔薇のような気品を持ち合わせていないかわりに、庶民的な、親しみやすい感受を与えてくれる。ぼくの勝手な思い過ごしは、チューリップにいわせれば「大きなお世話」なのだろうけれど。 「きれい」とか「美しい」というのは、後先を考えない野放図ないい方だが、物づくり屋にとってそれらの形容詞は極めて強力な免罪符となる。そればかりでなく、敢えて彼らの名誉のために書き加えるのであれば、花の少ない端境期にあってチューリップはぼくの欲求をある程度、もしくはかなりの頻度で満たしてくれたことは間違いがない。ありがたいことと感謝こそすれ、チューリップの生き様にあれこれ口を挟むのは、罰当たりというものだ。 この原稿を執筆している今日4月29日は、たまたま去年の同日にぼくが生涯で初めて花の写真をテーマに撮り始めた日でもあった。それは自分でも意外なことだったが、現世で体験したことのないような悪質な流行り病(武漢ウィルス)のために、県またぎの移動が自粛となり、撮影に不自由していた時のことだった。 近くのお寺さんの境内で、今を盛りと咲く多くの牡丹に出会った。「牡丹ってなんだかいうにいわれぬ不思議な雰囲気を醸す花だなぁ。何故だろう? “牡丹” という漢字もなんとなく趣があっていい。 “立てば芍薬(しゃくやく) 座れば牡丹” ともいうし」とつぶやきながら、ぼくは夢中でシャッターを切った。陽の沈みかけた、燃え残りの太陽の光が薄い花弁を透かし、ぼくはその瞬間を惜しむように、わずか20分のうちに100枚ほど撮った。 余談だが、昨日は娘の愛犬を撮らされ、2時間で1400枚を撮った。花のような静止物ではなく、元気に飛び跳ねる小さな物体なので大変である。娘の手前、しくじるまいとぼくはムキになり、久しぶりに職人気質が頭をもたげた。歩留まりの良さは褒められて良い。ぼくへのギャラは、ビーフジャーキー2袋と「やわらか いか天」、ポテトチップ2袋と好物のサラミソーセージ。数の子のたくさん入った松前漬けに、何故か寝心地の良い枕も。とにかく大盤振る舞いだった。ぼくの写真によって育てられた娘。物分かりが良くて当たり前だ。 閑話休題。 今まで何度も目にした牡丹だったが、流行り病のために不自由という鎧を身にまとい、感じ方がいつもと異なっていたことは否めない。ぼくは余程被写体に飢えていたのだろう。あるいは、「もう花に取り組んでも良い年頃なのかな」と、なんとなく思い始めたことも確かだった。 花を人生に準(なぞ)らえる心境に近づいてきたのかも知れないし、命あるものへの愛おしさから自然に発せられた欲求なのかも知れないが、今のぼくにその自覚はない。おそらく、当たらずとも遠からずといったところだろう。 いずれにせよ、忌むべき流行り病により、長い間の写真生活で、終生取り組むことはないと思われた「花」に執心させられたことは、ぼくにとって得られた唯一の果報だったと思っている。否、唯一ではなく、さらに大きな果報がもたらされたこともご報告しなければならないのだが、亡父の真似をすれば、「嗚呼、紙数ここに尽きたり」といったところか。 http://www.amatias.com/bbs/30/544.html カメラ:EOS-5D Mark IV。レンズ:EF135mm F2.0L USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 逆光のチューリップ。花弁のハイライトを飛ばさぬように、露出を極力控える。花の周辺を焼き込んだだけ。 絞りf2.0、1/2000秒、ISO100、露出補正-1.33。 ★「02さいたま市」 同上のチューリップと同じような条件。暗室処理も周辺を少し焼き込んだだけ。 絞りf4.0、1/800秒、ISO100、露出補正-1.33。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/04/23(金) |
| 第543回:「絞り開放」を適宜汎用する |
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ここしばらくの間、「赤面の至り」とつぶやきながら、何故かチューリップの撮影に痛くご執心だった。特別、チューリップに魅せられていたわけではないのだが、気がつくと知らずのうちに、こっそりとすり寄っていた。そこには何か得体の知れぬこの花特有の魅力、あるいは魔力(色気ではなく、屈託のない可愛さとでもいうのかな)のようなものが存在していたのかも知れない。
高貴な優雅さは感じないが、しかし誰が見てもチューリップというのは色鮮やかで(少なくとも写真表現を対象とした言い方をすれば)、加え色とりどりであり、それはどこかぼくの好きな薔薇に相通じるものがある。かといって、ぼくは薔薇にレンズを向けることはまずないといってもいい。その理由は以前に触れたことがあるので、ここで改めて記すことはしないが、チューリップのほうが人懐っこさとか、あっけらかんとした趣きがあり、また女性的でもあるので、「癇癪持ちのジジィが撮る花じゃないだろう!」といいつつも、ぼくは撮影による体力の消耗を惜しまなかった。 チューリップは花の位置が総じて低く、あれこれ考えながら良いアングルを得るには、しんどい撮影体勢を維持する必要があり、かなり身に堪える。シャッターを切り終わり、立ち上がるとしばし軽い立ちくらみ。なんてこった。 片膝もしくは両膝をつきながら、時には尻をつき、しゃがみ込んで睨めっこに興じるわけだが、今まで撮ってきた様々な花とは異なり、チューリップはこれまでと同様の写真表現を踏襲するには不向きであるとぼくは感じていた。 前々回に記したように、チューリップは「優しく、柔らかく、そして少しだけ幻想的に」を心がけた。ぼくの独りよがりな考えによると、チューリップは単一の世界観を示す最右翼の花だと定義づけても良いと思っているので、それに応じた描写をすれば自身に得心がゆく。端的にいえば、チューリップを単体で撮るのであれば、多くのバリエーションを組みにくいと感じる。 ぼくの望む表現意図に従えば、中望遠レンズ(できればf値の明るい単焦点レンズが撮りやすい)を絞り開放(数値の少ない)近くで撮るのが方法論としては齟齬がない。今ぼくは実験的にキヤノンの焦点距離35mm(フルサイズ換算。広角レンズ)のマクロ機能(最大撮影倍率0.5倍)の附属したレンズを使って撮ってみたが、重い中望遠を使わずとも遜色のない良い結果が得られている。 今回の掲載写真は、キヤノンの中望遠EF135mm F2.0L USMを使い、絞り開放(f2.0)で撮ったもの。このレンズは、凍てつくツンドラから灼熱の砂漠、そして熱帯雨林にまで苦難を共にしてくれた頼り甲斐のある古参兵であり、ぼくのお気に入りの1本である。まさか、チューリップを撮らされるとは夢にも思わなかったに違いない。「お前、正気か!」との声が聞こえてきそうだ。 今シーズン、花の撮影にはまだ使用していないが、同じくキヤノンのEF85mm F1.2L USMというツチノコのように太い胴体をした重両級のレンズもそのうち使ってみようかと思っている。これもぼくの所有するレンズのなかでは、軍曹のように逞く、臨機応変の働きをしてくれた。開放絞り値がf1.2という驚異的な明るさを持つこのやんちゃなレンズ(f値の違いによって性格を変えるという愛すべきレンズ)は使い方が難しいが、カミソリのように薄い被写界深度が得られるので、上手に使用すれば、まったく異なる世界を演出することができる。 レンズや絞り開放についての事柄は、書き始めるとかなりの分量となるので、筆硯を改め、近いうちにお話しできればと思っているが、表面だけ撫でておくと、f値の明るいレンズを一般的に “大口径レンズ” と称する。レンズが1絞り分だけ明るくなると、取り込める光の量が2倍となり、それだけ早いシャッタースピードが切れるという利点(光学的・物理的な道理による)がある。そのかわり、価格のほうも当然のことながらそれにつれて高騰する。重量も増える。これはものの道理で仕方ないことだが、それ相応の利得がある。高価なレンズを購入して、「損をした」という後悔の念をぼくは今まで一度も聞いたことがない。 絞りを開ければ開けるほど(数値を小さくする)、被写界深度が浅くなり、ピントの合ったところ以外のボケの量が大きくなる。好事家の間では、このボケ味についての蘊蓄(うんちく)がかまびすしいが、都市伝説を含めての誤った解釈が散見できるので、ぼくは極めて主観的なこの話題に触れたくないし、また好きでもない。したがって、我が倶楽部の人たちには、レンズによる描写の違いやボケ味に関する話題からは意識的に距離を置くようにしている。 写真には、レンズの描写云々よりはるかに大切と思われることがたくさんあるのだから、そちらのほうに重心を置くようにしている。ぼく自身は、そのようなあり方がより健康的であるとの確信を持っている。レンズ道楽をし過ぎて、身上(しんしょう)を潰しかけた人間がいうのだから、どうか信じていただきたい。 今回の掲載写真は、データを参照していただければお分かりのように、135mm中望遠レンズを絞り開放f2.0で撮ったもの。どのように優秀なレンズでも、開放絞り値というのは、解像度やコントラストが甘くなる。そして、大口径レンズであるほど周辺光量が落ちるとの性質を有している。周辺光量の落ちに関しては、ぼくは敢えてその味わいを残したい時がしばしばあり、補整はしない。 事上磨錬(じじょうまれん。観念的にではなく、実践により精神を練磨すること)された135mmが、「歴戦の勇士であるわしが、何でチューリップを?」と訊ねてくれば、「長年の酷使に耐えてくれたそのご褒美」とぼくは無愛想に答えるのだろう。 http://www.amatias.com/bbs/30/543.html カメラ:EOS-5D Mark IV。レンズ:EF135mm F2.0L USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 「チューリップはね、縦に撮るといいのよ」とご指南くださったご婦人に従って、縦位置で撮る。輪郭にフォーカスを合わせたので、手前花弁の質感を際立たせることなく、柔らかく表現。 絞りf2.0、1/1600秒、ISO100、露出補正-0.33。 ★「02さいたま市」 後方の赤いチューリップを最大限にぼかすため、逆光に映える黄色のチューリップを最短距離で撮る。 絞りf2.0、1/5000秒、ISO100、露出補正-0.67。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2021/04/16(金) |
| 第542回:恥ずかしながら今回もチューリップ |
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「誰も見ていないって」とか「自意識過剰なんだってば」と思いつつ、不思議にもチューリップを撮るのは何故か気恥ずかしい。ぼくにとって、チューリップとの関連性はそのようなものだ。
声を潜めそんなことをいいながらも、1時間半ばかりかじりついていたので、今回の掲載写真もそれに臆せず発表というところだ。「せっかく、恥を忍んで撮ったのだから、もう少しだけ世間に晒してみよう」と、僭越ではあるが過分な自意識も手伝って、今回も掲載写真はチューリップ。何度もいうが、恥ずかしい思いをして撮った(お前の勝手だろう)のだから、ぼくのチューリップ写真掲載は「せっかく」という大義名分を盾に、もう少しばかり続きそうな気がする。 チューリップは、どうみても女性専科の花だよなぁ。白髪ジジィ向きじゃ〜ないと思うんだけれど。「嗚呼、オレとしたことが、なんてこった!」と、ぼくは一応体裁を整えるために、ここでそううそぶいておく。これを世間では、「照れ隠し」というらしい。 道路際に咲いていた(掲載写真「01」)チューリップが逆光に映えていた。黄色い花弁に、わずかな赤が混じり、それがまるで血管のように透けて見えた。ちょっとした立ち位置の変化(光の角度差)で、その血管は消えたり浮き上がったりもした。 それを捉えるため、ぼくは嫌々ながら右片膝をつき、低く伸ばした左膝にカメラを乗せ、身をかがめながらできるだけ低い位置からファインダー越しに観察していた。ぼくの体は人並み外れて柔らかいが、こんな時には、普段は無縁のバリアングル機能付きカメラが欲しい。 主人公となる花の向こうには、色鮮やかな赤いチューリップが二輪、日陰のなかで自己の存在を主張するように彩度を上げながら咲いていた。 撮影位置が限られていたので、レンズ位置の微調整に時間を取られた。しかも、かなり辛い姿勢を余儀なくされてのことだから、少々息が上がる。そのまま立ち上がれば軽い立ちくらみを覚えるに決まっている。その頻度が最近は多くなった。 バランスの良い位置に赤いチューリップを配置し、極めて控え目に表現したかったのだが、なかなかそうはいかなかった。両者の位置関係を納得できるものにするには、花をもいで、位置を移すしかない。ここは他人の私有地であり、そこに咲く花なので、それは犯罪行為となってしまう。そんなことをしては、即座に写真を撮る資格を失う。この花たちが、たとえぼくの所有物であり、そして私的な写真であっても、ぼくは写真愛好家として、そして職業写真屋の端くれとしての身を保つ。それがささやかな矜恃でもある。 両者の色合いや配置を、自然光下で思い通りに描くには、何が主人公なのかをしっかり定めることが重要。いつも述べるが如く「写真は引き算。何を写すかではなく、何を写さずに画面を構成するか」にある。何やら禅問答のようだが、 “あれもこれも” というのは人情としてはごもっともであるけれど、そこをぐっと堪えてナンボであるとぼくは思っている。第一、その欲ははしたない。 あれもこれも欲張って説明したくなるのだろうが、それをしてしまっては失うもの多々である。それが作品づくりの常ではないか? そのような細工を施すことを、ぼくは「色気を出す」(悪い意味での)とか「助平心」だといい切っている。「写真は、捨てる勇気を持った者勝ち」との確信に至っている。いわば「簡素化のすゝめ」である。 この情景がコマーシャル写真撮影であれば、ここに何灯かのストロボを持ち込んで、光を自在に操作し、あたかも見映えのする写真に仕上げるのだろうが、私的写真で、そんなことをしては意味がない。自身の知恵(そんなものがあるのだとすればだが)を信じたいものだ。与えられた条件のなかで、最も自分らしい写真を描こうと努めるのが、創作の一番の醍醐味だと思っている。 私的写真を撮る時のぼくは、アマチュアリズムの素晴らしさと良さを満喫することにしている。写真は楽しむことが第一で、第二は苦しむこと。相反するこの2条件の狭間を行ったり来たりするのも、また楽しからずや、というところだ。思い通りにいかずとも、「首を取られるわけではない」のだから、のびのびと撮ることが一番だ。写真を楽しんでいた約40年以前の、若かりし頃のぼくに戻れるのだ。 上記した厄介なチューリップを前に四苦八苦していると、年配の男性が車を止めて運転席から身を乗り出し、「はぁ〜、あの〜、写真って〜、そ〜やって撮るんですか〜、な〜るほどね〜、う〜ん」と音引き一辺倒で声をかけてきた。ぼくの撮影スタイルはよほど奇妙なものだったのだろう。しからばぼくも、「はぁ〜、そ〜ゆ〜ふ〜に見えますか〜? かっこ〜悪〜いっしょ〜」と、音引きおじさんに負けじと返した。 つい先日、ネギ坊主を撮っていたぼくは20代後半と覚しい麗しき女性に声をかけられたが(ぼくはナンパされたと思い込んでいる。多分正しい)、今回は還暦前後のおじさんでありました(これは “ナンパ扱い” はしない。したくない。それが正しい)。 近くいた2人のおばさまの1人がぼくに、「チューリップはね、縦に撮るといいのよ」とご指南くださった。ぼくの難儀している姿を見るに見かねたのだろう。30歳近く年上であろうぼくに対して、「あのお年寄り、もう見るに忍びないわ。あたしが何とかしてやらないと」との母性本能をくすぐられたのかも知れない。ぼくがどれほどの慇懃さをもって彼女に礼を尽くしたかは言を俟(ま)たない。 早くチューリップの季節が去ってくれないかな〜と思う今日この頃。 http://www.amatias.com/bbs/30/542.html カメラ:EOS-5D Mark IV。レンズ:EF135mm F2.0L USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 本文にて述べたチューリップ。わずかにグローをかけただけで、ほとんど補整なし。 絞りf2.0、1/4000秒、ISO100、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 孤独なチューリップ。これを撮った後立ち上がったら、軽い目眩を覚えた。明るい単焦点レンズ特有の描写。これもわずかにグローをかけただけ。 絞りf2.0、1/4000秒、ISO100、露出補正-0.67。 |
| (文:亀山哲郎) |