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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2019/04/19(金)
第443回:京都の遊郭跡を訪ねる(5)
 前号にてご登場願った二人の “がんまち” (この言葉を標準語に翻訳するにはなかなか困難。強いていうなら “手前勝手” とか “我が強い” とか “頑固” を混ぜ合わせたニュアンスか?)なおじいさんたちの話によると、売防法(昭和31年。1957年)以前の橋本には、枕席にはべることのみを業とした娼妓(一般的には “公娼” を指すが、明治以降 “娼妓” は官制用語となり、それ以前の “遊女” と対比する)ばかりでなく、舞踊などの芸事にも長けた芸妓もいたので、あの異様に大きな建物(前回と今回に写真掲載)は検番ばかりでなく歌舞練場としても使用されていたはずだという。
 ぼくは判断材料を持ち合わせてはおらず、建物の中を覗き見ることもできないので、がんまちじいさんたちの話にただ頷きながらボールペンを走らせる他なかった。
 栄枯盛衰は世の習いであり、長い歴史を持つ橋本も、ぼくの推測だが過去には格式のある傾城(けいせい。太夫やその次位である天神などの上級遊女)が多くいた時代もあったに違いない。

 おじいさんたち(84歳と85歳)が遊郭で大らかに遊ぶことのできた時代を計算してみると、あくまでぼくの勝手な計算なのだが、彼らが18歳の時は昭和27年(1952年)なので、未だ合法であり、正々堂々と振る舞えたことだろう。今からもう67年も昔のことだ。彼らが遊郭を有効利用 !? したと仮定しての話だが。
 防売法により「橋本遊郭解散式」が、あの大きな検番兼貸席組合(グーグルの地図上には未だ「天寿荘」と記されている)の講堂で行われたのは昭和33年3月のことである(京都新聞)から、彼らが合法的に大手を振って遊ぶことができた期間は長くても6年間だったに違いないと、ぼくも彼らの “がんまち” を勇敢にも真似、手前勝手にそう割り出した。
 その当時は約80の妓楼、700名余の娼妓が登録されていたと聞くから、遊里としては相当充実していたと思える。 

 遊里にはいつも付きまとう人身売買ともいえる非人道的な習わしを廃除すべきとの「娼妓解放令」が、明治5年(1872年)に布告されたが、江戸時代以前からある古い遊郭は、その名目を「貸座敷」に改変したに過ぎず、名ばかりのもので実態は少しも変わることなく、娼妓を解放するには至らなかった。いわばザル法のようなもので、雇用主にとっては都合の良い、抜け穴だらけの布告だった。この「娼妓解放令」は、明治31年(1898年)の民法施行とともに廃止された。

 おじいさんたちは親御さんからの受け売りだと断りを入れ、メモを取るぼくに話を続けた。
 娼妓に対する待遇は極めて苛酷・悲惨といえるもので、病死が多発し、自殺者が相次いだとは、明治・大正・昭和を生き抜いてきた彼らの親御さんの話。遊女たちの悲劇に、「赤い自動車(救急車のことか)が橋本を所狭しと始終走り回る、そんな時代だったんですね」と、ひとりが腕組みをしながらボソッとつぶやき、更地の砂利を足で軽く撫で回した。

 そしてぼくの最も興味ある話題を持ち出す機会が到来したと感じ取った。それはつまり、妓楼に対する現在の住民の意識や如何にというものだった。
 善は急げと、ぼくは二人のご老人が大あくびをしないうちに議題を切り出さなければと思った。
 「往事の妓楼がこれ程見事にそのままの姿で残っていることに、よそ者のぼくはとても感動しているんですが、保存しようとの意識は住民の方にとってあるのでしょうか?」と。
 「残っている」のと「保存している」のとは、天と地ほどの差がある。「残っている」のは受動であり、自然消滅もやむなしとの意があり、「保存している」とは文化遺産として後世に残すという意を込めた能動であるからだ。

 そして、それに関連してもうひとつ。映画やテレビなどのドラマで利用された、いわゆるロケ地を地元の人たちは概ね地域振興や観光のために大いに活用しようと試みるものだ。ぼくは、時にはそれをとても押しつけがましく思い、煩わしく感じることがある。「だから何なのさ!」といった風に。
 ここ橋本は、任侠映画『鬼龍院花子の生涯』(1982年公開。ぼくは任侠映画にも、監督にも、役者にも興味がなかったので観ていなかったが、急遽観る羽目に)のロケが行われたところだ。映画の冒頭に「昭和10年橋本遊郭」と字幕が出る。
 ところが当地のどこにも『鬼龍院花子の生涯』のロケ地であったことの痕跡がまったく認められなかった。よく見かける「〜のロケ地」というこれ見よがしの立て看板や案内が見当たらないのだ。これはこれで心地良いのだが、地元の人はロケ地であったことなど歯牙にも掛けていないように思われ、それが不思議だった。

 妓楼について、おじいさんたちの言葉を要約すると、「国から街並保存の補助金が出るわけではないしね。ましてやここは遊郭。私たちはこの街並に愛着を持っているけれど、自然消滅していくのも時間の問題だと思っている。ここで育った者にとっては寂しい思いがするが、どうにもならないさ。ここがなくなる前に私たちが消えるよ」と本音が垣間見える。
 二人のご老体にとって、橋本はどうやら「おらが里のお国自慢」とはいえないようだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/443.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
検番兼組合講堂。歌舞練場であったかどうかは確認できなかった。敷地の中に入ってみたかったが私有地につき断念。
絞りf11.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02橋本」
妓楼の続く京街道。前回掲載写真とは逆方向から。太陽を背にして。入口だけは新しいが、他はかつてのままだ。
絞りf11.0、1/80秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/04/12(金)
第442回:京都の遊郭跡を訪ねる(4)
 3月上旬にしてはポカポカ陽気の橋本だった。妓楼が取り壊された更地で、80過ぎのおじいさん二人が滑舌よろしく相方(あいかた。ここでは配偶者のこと。遊里でいうところの遊女ではない)への不平不満を、時に口をすぼめながら、何時尽きるともなく、どこか得意気な様子でおしゃべりに興じていた。
 おじいさんのひとりが聞き役と覚しきもうひとりの相棒に、「嫁の悪口をあれこれいえるのは世間広しといえども、もうあんただけになってしまった。昨日もな、うちの嫁がわしに向かってこんなことを憚りなくいうんだ。聞いておくれよ。もう本当に嫌になるよ」(彼らの古式ゆかしい京都言葉を標準語に翻訳)を、壊れた蓄音機(古いなぁ)のように繰り返している。まさに老いの繰り言だ。

 人生のベテランの、相方に対する鬱憤晴らしの業をぼくも身につけ、磨きをかけても損はないと思い、後学のために耳を澄まして聞き入っていた。体(てい)の良い盗み聞きというやつだ。そして彼らがお互いに言い合う愚痴やぼやきに聞き耳を立て、ぼくは吹き出しそうになりながら笑いを堪えていた。
 心うち、「それって、悪いのはあんたたちのほうであって、奥さんに落ち度はないよ。いつだって男というのは身勝手で、まったくしょうのない生きものだ」と、彼らの常軌を逸したほどの我田引水ぶりに、ぼくは呆れながらも面白がっていた。
 その口上たるや、理論的にあまりにもごり押しが過ぎて、もしここに奥方がいれば、彼らは無残にも容赦のない返り討ちに遭うこと必至と思われた。木っ端微塵に粉砕されるに違いない。世間相場では、気弱な男たちは奥方には悲しいほど面と向かっていえないものである。ぼくもそうだ。
 しかしながら、彼らの話を聞いていると、あと10年経とうが、ぼくはこれほど身勝手な論理を振り回すようなジジィにはならないだろう、と今は思っている。もちろん、これは善悪の問題ではなく、性分のそれであろう。

 しかし、彼らは仕合わせだとぼくはつくづく思った。人も羨むほどの傍若無人さと牽強付会(けんきょうふかい。道理に合わないことを、自分の都合のいいように強引にこじつけること)を併せ持ち、ここに至れば即ちそれは憧憬の的ともいえる。生きるに恐いものなしだ。「人生、生きやすいだろうなぁ」とぼくは感嘆しきりだった。このような “眼中人無し” を踏襲できるのであれば、ぼくもこれからの老後は斯くありたいと願っている。

 挨拶だけはすでに済ませていたので、ぼくは彼らににじり寄り、仲間入りを果たそうと努めた。彼らに「溶け込む」ことに一意専心したのだった。このような時に限りぼくは自分を老人だと素直に認め、そしてなり切ってしまおうと自分に言い聞かせることにしている。
 前回述べたように、古希を過ぎた年相応の「人懐っこさ」を前面に押し立て、できることなら相手を懐柔してしまおうと目論んだ。「懐柔」は言い過ぎだが、ぼくはとにかく情報が欲しかった。
 陽が西から昇っても、生涯決してすることがないと信じて疑わないゲートボールやゴルフ(ゴルフは若い頃撮影で何度か経験がある)だって、「溶け込む」ことによって情報を得、それが写真に何某かの寄与を果たすとの確約が得られれば、ぼくはそれをすることを厭わないだろう。
 情報を得るということは、ことほど左様に自分を捨てて相手と同じ土俵に立たなければできないことだと、こんにちまで国内外を問わずそう学んできたし、正しかったと思っている。

 ぼくは頃合いを見計らいながら切り出した。「踏切の脇にある朽ち果てて、枯れ草の絡まった異常に大きな建物は何なのでしょうか? 歌舞練場(かぶれんじょう)のようなものがかつてここにはあったのですか?」と。
 「歌舞練場」とは、京都の祇園や先斗町、上七軒などの花街にある劇場兼芸妓や舞妓のための歌・舞踊・楽器などの練習場のことなのだが、ぼくの感覚では、橋本は花街というよりもっとドライな意味での色町だったと想像しており、ここに歌舞練場らしきものがあったのか、もしそうならここなのかを知りたかった。
 「花街」と「色町」の厳密な差異は辞書を繰ってもぼくの知恵では判然としないのだが、この問題はさておき、ぼくは時代の生き証人である二人のおじいさんの答えを待った。二人は互いに顔を見合わせながら、ぼくを厄介者扱いにせず、ありがたいことに「知る限り正確な情報提供者」であろうとしていた。
 「あれが歌舞練場だったかどうか記憶にないが、検番(料理屋、待合、芸者屋の業者が集まって作る三業組合の事務所の俗称。芸者の取り次ぎや玉代の計算などもしていた)であったことは確かだ」と、二人は60年以上も昔を懐かしむようにいった。「あの頃は、賑やかだったねぇ。どこを歩いても肩が触れ合うほど混雑していたもんだよ。あそこは貸席組合の講堂でもあったんだ」と、目を細めた。

 昭和31年に売防法が決まった後、町が廃れないように、広い組合講堂(約300坪。990u)を利用してラジウム温泉にすることを決め、組合員の協同出資で運営したとのこと。それがその後どうなったのか、二人の記憶はまことにあやふやで頼りないものだった。町で出会った他のお年寄りに聞いても埒が明かなかった。半世紀以上も昔のことなので、仕方がない。
 その後、この広い建物は中仕切りをして、集合アパートに鞍替えをしたそうだ。その痕跡は今も荒れ果ててはいるが残っている。噂ではこの検番は近いうちに取り壊されるらしい。
 史料の少ない橋本遊郭跡を訪ね、写真を撮りながらわずか3時間足らず。イメージを練るには要再訪というところか。

 お知らせ:4月16日(火)〜4月21日(日)まで、埼玉県立近代美術館にて我が写真倶楽部のグループ展を開催いたします。
 「第13回フォト・トルトゥーガ写真展 光と影の記憶 2019」。ご来場を心よりお待ち申し上げます。お気軽に、お声がけください。

http://www.amatias.com/bbs/30/442.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
京街道に建ち並ぶかつての妓楼。細部にまで意匠を凝らした佇まいは重厚で、堂々たるものだ。風格さえ漂わせている。
絞りf13.0、1/100秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02橋本」
枯れ草に絡まれたかつての検番の裏側。最後はアパートとして使用され、その証として、何十本ものアンテナが共に朽ちていた。
絞りf11.0、1/160秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/04/05(金)
第441回:京都の遊郭跡を訪ねる(3)
 いろいろなところに撮影に行って、この頃見知らぬ人から声をかけられる機会がつとに多くなった。この珍妙で不可思議な現象は、特にこの数年の間に頻発している。
 声がけをしてくれる人たちは、この高齢化社会にあって暇を持て余した年齢の人々が、これ幸いとばかり満を持して話し相手を求め、ぼくのような鴨を探し出すのかと思いきや、ところが然にあらず、意外にも老若男女いろとりどりなのである。その年齢幅、実に大学生から80歳を超えるまでと、バラエティに富んでいる。写真を撮りに出かけると、好むと好まざるに関わらずあらゆる階層の人間的多様性にどっぷり浸れるというわけだ。

 何故このような現象が多発するようになったのか、その理由をぼくなりにあれこれ考えてみるに、ぼく自身が白髪の、身だしなみはともかくも、物腰だけは一見穏やかで優しい人間に見え(本当はそうなのだが)るらしく、何に対しても「はぁ、ごもっともでございます」と従順かつ素直な言葉しか発しない、少し頭のタガが緩み、かつ大べらな老人に見えるからかも知れない。ぼくはどうやら知らず識らずのうちに、相手に油断を与える特技を有しているらしいのだ。
 つまり、ぼくは人畜無害の平安な人柄であり、おおよそ人に危害を加えたり、悪態をついたりなど決してしないとの気風を十分に漂わせているらしい。どんな犬もぼくには尻尾を振ってくるので、動物的感覚と嗅覚の鋭い犬を以てしても、騙し遂せてしまう優れた技能をいつの間にか持ち合わせるようになったのだろうと思う。 “歳ここに至って” ということになるのかな?

 そしてもう一つは、人見知りの激しかった若い頃とは異なり、今誰彼となく、見ず知らずの人に気軽に声をかけることができるようになったからかも知れない。いつの頃からか、懐っこくなっていったようだ。そのことは反面、年老いて恥じらいを失うという最悪の事態に陥っているのかも知れない。ここ、極めて要注意である!
 「私はあなたの敵ではありません。こうしてお声がけするのはあなたに親しみを感じ、人格を尊重しているからです」を無言のうちに、しかも自然なかたちで体現できるようになったともいえる。そんなぼくの偽らざる心情が相手に直に伝わるのではないかと思っている。普段から無愛想が身についてしまっていては、そうもいかないだろう。眉間にシワを寄せていては誰も寄りついてはくれない。

 相手に警戒心を抱かせず、気さくなジジィを演じることができるようになったことは、人間として幾ばくかの成長を果たしているのだろうとぼくはほくそ笑んでいる。ただし、写真にはそのような気っ風が現れることのないよう、ぼくは過ぎたるほどの警戒色を強めている。写真は人が逃げ出すほどのものであってちょうど良い。いつもの繰り返しだが、古今東西、万人受けするような作品に碌なものはないのである。

 長い歴史を持つにも関わらず情報の少ない橋本遊郭について、現地をぶらつき、シャッターを押しながらも、ぼくの話に応じてくれそうな年配の人を探し出そうと努めた。
 年配の方は、喜んでお国自慢をするというのが通り相場だが、ここ橋本は遊里であったために当時から住み着いている住民は、どこか後ろめたさのようなものを託ち、話したがらないのではないかとぼくは案じた。
 ちょっと大袈裟に見えるカメラとレンズを右手にぶら下げながら、あれこれ被写体を物色するよそ者に対して、彼らはどのように接してくれるのだろうかということについても、実は興味津々だった。

 ぼくの身ごしらえは、何時如何なる場合でも写真屋然としないことを最優先としている。見るからに写真屋というのは、第一ぼくの生き方にそぐわないし、大袈裟にいえば美学にも大きく反し、あまり格好の良いものではない。「カメラマンでござい」って格好悪いよ。
 しかし、カメラとレンズだけは商売道具故大仰なものにならざるを得ず、ぼくはできるだけ目立たぬようにカメラを下に向けて持ち歩いている。肩にかける時は、脇に抱えるような仕草だ。写真屋はいつだって隠密風でなければならない。そして、抜き足差し足、忍者の如くでなければならない。

 妓楼が主を失い廃屋となり、やがて取り壊され、更地となった場所に年の頃80前後と覚しきおじいさん2人が立ち話中。世間話に熱中の様子だった。ぼくは彼らが好戦的でないか、友好的であるか、ぼくに石をぶつける気配がないか、などなどを一瞬にして判断しなければならなかったが、どうやら好人物のように思えた。この2人を逃しては絶対にいけないと、刹那ぼくは感じ取った。
 ぼくは愛想良く「こんにちはぁ。今日は暖かくていいですね」と標準語で接近を試みた。おじいさん2人も、ぼくをよそ者とすぐに悟ったようだったが、敵対視するでもなく、「そやなぁ、今日はぬくうてええわ(暖かくて良い)」とニコニコ顔で応じてくれた。未知との遭遇は、お互い良い滑り出しだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/441.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
日の当たった右の道路が京街道。妓楼がかつての姿そのままに建ち並ぶ異次元空間に唖然とさせられる。左の大きな妓楼は旧石原楼。
絞りf11.0、1/160秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02橋本」
橋本を流れる大谷川沿いに、妓楼の裏側が窺える。左の土手を越えると、木津川、宇治川、桂川が合流し淀川となる。古来より水陸交通の要所だった。土手に上がると昔コマーシャルで有名になったサントリー山崎蒸留所が見え、その向こうに「天下分け目の天王山」がある。天王山をめぐり、天正10年(1582年)羽柴秀吉と明智光秀が争った。
絞りf11.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/03/29(金)
第440回:京都の遊郭跡を訪ねる(2)
 橋本遊郭についての情報は既知のものもあるのだが、今回はそれに加え地元のご年配の方々7,8人から直接聞き取った事柄も含めて記すことにした。
 ご年配といっても売春防止法(以下、売防法)が施行されたのは今から62年前の昭和32年(1957年。法律的に公布されたのは昭和31年法律118号)だから、当時を知り、記憶に留めていると思われるのは、年齢的に少なくともぼくくらい(現71歳)のジジ・ババか、それ以上であろう。

 昭和32年に橋本遊郭は非合法なものとなり、神亀元年(724年)より1230余年隆盛を極めた遊里の灯は儚く消え、長い歴史の幕を閉じた。人々の織り成すそれぞれの人生は音を立てて崩れ落ち、そしてそこで生を営んできた遊女たちは蜘蛛の子を散らすようにどこかへ消えてしまった。
 正確には昭和33年3月(1958年)に「橋本遊郭解散式」が行われている(出典、京都新聞)。
 橋本の大遊郭は約80軒の妓楼があったが、吉原などとは異なり、文献や資料と思われるものがほとんど残されていないので(あるいは散逸してしまったか)、人々の記憶や言い伝えに頼る他なしといったところだ。だが反面、想像を働かせる余地が大いにある。そこが妙味だ。

 ぼくの訪問は売防法の施行からすでに62年の歳月を経ており、彼らの記憶がどのくらい正確なものかは確認のしようがなく、多数意見を採用するしか手がないのだが、今回は史実を辿る旅ではなく、ぼくの遊郭に対する「勝手な思い入れ」と文化の一大発祥地としての遊郭を自身の記憶として「記録に残しておく」ことを主眼に置いている。それは他者のためのものではない。
 「記録」といっても、もちろんそれは学術的なものではなく、ぼく流にかなりデフォルメされたものだ。少なくとも行政的云々というものではなく、どちらかというと文学的、もしくは文化的な趣に荷担したいとの思いが勝っている。

 橋本遊郭跡の最大の魅力でもあり特徴は、町の決して広くはない区画に、未だ20軒前後の元妓楼や関連施設が往事の姿そのままに残されていることだ。このような所は日本全国でぼくの知る限り橋本だけだと思われる。遊郭好事家にとっても(ぼくはまだ好事家というほどの域には達していないし、また知識も乏しい)、ここは見どころ満載の遊里である。
 未だ建築的に健在なる妓楼は60年以上の歳月を感じさせず、その別嬪さんぶりにただただ驚嘆するばかりである。やはり特有の美しさだと、ぼくは倫理や道徳云々を打ち捨てて、敢えてそう讃えたい。
 しかし、如何に「保存状態」が良好であっても、妓楼という性格上、歴史的文化遺産の仲間に入れずにいるのは、部外者から見れば、どこか不遇を託っているように思えてならないから不思議である。ぼくは倫理・道徳に取り入ることなく、どうしても妓楼特有の美を文化の一形態として大切にしたいのだ。
 なお、現存する立派な妓楼は一般の人が生活する個人宅となっており、主人を失った妓楼は朽ち果てるか、取り壊されるかのどちらかである。また、取り壊された後、更地になってしまった部分も多々あり、現在の橋本はそれらが渾然一体となっている。

 保存状態の良い妓楼の建ち並ぶそんな景観は写真屋にとって、否応なしに精神の高揚をもたらし、今撮っておかないと次はもうないかも知れず、そう思うとカメラを握る手がジトッと汗ばむのだった。今後、存在の保証がまったく得られないということは、やはり一写真屋の正念場と捉えてもいいのではないだろうか。
 また美的で意匠を凝らした外観は、ここで繰り広げられたさまざまな男女の出会いと別れのたゆたうような綾(あや)を十分に窺わせるものとして貴重な史料であるかのように思えた。そこには情あり、また金銭のやり取りのみという乾いたものまで、色とりどりのものがあったに違いない。他を寄せ付けず、そして計り知ることのできない男女の交流が行き場を失った水の流れのように澱み、何百年もどろどろと渦巻いていたはずである。
 ぼくも記録と情緒の板挟みに遭い、その合間を揺れ動き、何とも締まりのない精神状態で同じ場所を行ったり来たりしていた。だがいずれにせよ、どうやっても冷徹な記録主義者になりきれないぼくは、自分を体良くあやしながら「一期一会」という重宝な言葉に寄り添うことにした。ぼくは自身に手を焼き、「なるようにしかならないものさ」と、高を括ってみせた。
 
 写真は現場主義なので、建築学的(あくまで視覚的な面で)に興味あるものが現存し、目の前に出現することほど喜ばしく、そしてまた意欲をそそられるものはない。しかもありがたいことは、少々の皮肉を込めていうのだが、それらが行政の手を経ないでしっかり保存されて!?いることだ。誤解を恐れずにいえば、行政の手が加わるほど歴史的遺構はその姿や思考を歪めがちである。おまけに拝観料までちゃっかり取られてしまうのだ!
 橋本は遊郭という性質上、公的な保存の対象にはなりにくく、栄枯盛衰が自然な形で現存し、訪問する度に異なる姿となっていることを目の当たりにできる。完璧な保存を目的としたものより考古学的な意味合いに於いて興味深い面が多々あるとぼくは感じている。

 今回の3枚の掲載写真は、一軒の妓楼をアングルと時間を変えて撮ったものだ。この妓楼は駅から歩いて0分圏内であり、改札を出た途端に「ウワッ!」となるのが橋本。この日は、晴れたり、曇ったり、雨模様だったりと、まるでぼくの心境そっくりだった。  

http://www.amatias.com/bbs/30/440.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。同じ場所を時間とアングルを変えて撮ってみた。時系列に3枚。

★「01橋本」
改札を出て踏切を渡るとすぐに妓楼が忽然と現れた。「そのままじゃん」しか言葉が出なかった。太陽は厚い雲に覆われどんよりとした光。
絞りf10.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「02橋本」
逆方向から。欄間飾が美しい。右も完璧な妓楼。正面の線路向こうに見える大きな建物は、検番兼遊郭の組合講堂。橋本は一般観光客の訪れない美しい京都。
絞りf13.0、1/80秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「03橋本」
踏切の赤色灯が点滅。京阪電車橋本駅は京都市の中心祇園四条駅から約30分のところ。遊郭に興味ある方は是非に。
絞りf13.0、1/25秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/03/22(金)
第439回:京都の遊郭跡を訪ねる(1)
 「銚子の “銚” の字も書かれていないではないか」と前回の拙稿について、口さがない友人は愉快そうに囃し立てた。指摘されるまでもなく、執筆時、すでに気づいていたのだが、ぼくは書き直す気力を失っていた。
 一通りざっくり書いてしまった後、推敲しながら「あれっ」と、決まり悪そうにつぶやいた。銚子について一言も触れておらず、可笑しさが込み上げてきて、どうしたものかと思案したが、銚子の写真を掲載するのだから免罪符を与えられるに違いないと決めつけ、加筆するのはよした。「ぼくは写真屋なのだから」と何度も言い立て、自身を庇った。自己弁護に奔走したのである。単機能人間の面目躍如といったところだ。
 そしてまた、別の言い訳を用意し始めた。「写真について久しぶりに一端(いっぱし)にもエラっそうに述べているのだから、銚子に触れずとも許されて然るべきではないか」と愚図つきながらも確(しか)と言い聞かせた。ぼくは義務から解き放たれたような気がして、一旦安堵のため息をそっと、人知れずついてみた。

 翌日から、義母の四十九日の法要とさまざまな後片付けを手伝うため、1週間ばかり京都に滞在しなければならなかった。そんな事情で、執筆は手抜きこそしないがいろいろなことに気を割かれ、急いていたことは確かだった。
 その原稿を書いてから、ぼくは義母と共に過ごした最期の8ヶ月間の日々について、故人を慕い法要に集う人たちに宛てて、4,500文字を費やし文章を認(したた)めた。「よもやま話」の約2倍の量だった。それを12部プリントし、封筒に入れ、バッグに詰めた。義母に対する惜別の情と、ぼくのせめてもの供養のつもりだった。

 京都は昨年5月以来のことで(余談だが、新幹線は何度乗っても一大感動巨編だ。あのスピードは夢見心地であり、麻薬的でもあり、非現実の極みである)、拙稿にてその時の体験を17回にわたり連載させていただいたが、神社仏閣の撮影にすっかり手を焼いてしまったぼくは、今回それをきっぱり諦め(せっかくの京都なのに、我ながら情けない)、かねてより興味と関心のあった遊郭跡を撮ってみようと決めていた。
 多事多忙の合間を縫って、京都府八幡市橋本(ほぼ大阪府との境)にあった「橋本遊郭」跡やかつての「五条楽園」界隈(市内)に足を伸ばすことにした。

 遊郭について、ぼく自身それほど詳しいというわけではなく、小説や落語、映画で知るくらいのものだ。日本中にあった遊郭が急に姿を消したのは、非合法なものとなってしまったからである。
 売春防止法が施行されたのは昭和32年(1957年)で、翌33年(1958年)に赤線(昭和33年より以前に公認で売春が行われていた地域の俗称。非公認を青線といった)が廃止された。
 当時10歳のぼくに遊郭の存在や実際を知る術はなく、幸か不幸かそこで遊ぶ機会はなかった。あと10年早く生まれ、その活動を目にできれば、描くイメージも異なったものになったかも知れない。

 しかし、赤線が廃止されて間もなく、ぼくを可愛がってくれた京都の親戚が、どのような事情かは知らないが、「五条楽園」にある妓楼(ぎろう。遊女をおき、客を遊ばせる店。青楼。女郎屋とも)によんどころなく間借りをしたことがあった。従姉妹の話によると、まさに “よんどころない事情” からであった。
 もちろん非合法故、妓楼は廃業していたが、家はそのままで、造りや構造、様子や雰囲気などは異次元の世界だった。ぼくは3歳年下の従姉妹と一緒にやたら広い家の中を走り回ったり、かくれんぼをしたりして遊んでいたのだが、子供心ながらに「不思議な家やなぁ。ここは何だったのだろう?」と、色とりどりのガラスが埋め込まれた窓を見つめながら不思議がっていたことをよく覚えている。
 しかし、不思議に思いつつも聞くことがなかったのは、聞いてはいけない何かを薄々感じ取っていたからだと思う。如何わしく怪しげな何かを、子供の直感はしっかりと捉えていたのだろう。
 
 ぼんやりとした記憶だが、家に入ると湯屋の番台のようなものがあり、そこにおばあさんがいつも置物のようにポツンと座っていた。ぼくにとっては見知らぬおばあさんだったが、物言えば叱られるような気がして、話をしたことはなかった。
 ぼくは「あのおばあさんは誰?」とも聞かなかった。このことも前述したことと同様に、聞いてはいけないことのひとつのように思われた。今、思い返すと、ぼくが人を警戒することを覚えたのはこの時からだったような気がする。
 ともあれ、ぼくは上京区今出川の出町からこの妓楼に一夏のうちに何度か訪れ、寝泊まりをし、靴を買ってもらったり、映画に連れて行ってもらったり、とても可愛がってもらった。従姉妹の家族は、ここに5年間滞在したのだそうだ。

 この妓楼はぼくの小学校時代のほろ苦くも懐かしい思い出でもあるのだが、非合法化する前の遊郭の匂いが色濃く染みついており、同期できるものがどこかにあるに違いないとの思いが、約60年の時を経て、「橋本遊郭」や「五条楽園」に走らせたのではないだろうかと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/439.html

帰京して間がなく、今回掲載は1枚のみです。次回は帳尻を合わせて3枚掲載いたしますので、どうぞ悪しからず。

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本

★「01橋本」
橋本に残る妓楼のひとつ。今は一般の方が使用しているようだが、普通に使うには広すぎない? このような妓楼がまだずいぶん残されている。解体され更地になった場所から撮影。左の赤い波板も妓楼。
絞りf11.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.33。
(文:亀山哲郎)

2019/03/15(金)
第438回:念願の銚子に行ってみた(6)
 今まで何度かアナログ(フィルム)とデジタルの相対的な違いなどについて思いつくままに述べてきた。その仕組みや扱いばかりでなく、双方に対する考え方の差異についても言及してきたつもりだ。
 ぼく自身、写真に関わってきた年数はアマチュア時代を含めこんにちに至るまで60年を超えてしまったが(ぼくは途中下車の好きな人間故、中断していた時期もあるけれど)、デジタル撮影は今年で17年目を迎えたに過ぎない。

 デジタルは始めた当初から自身の仕事に直結していたので、勤勉に学ばざるを得なかったのだが、ぼくにとってデジタルはアナログに比べ仕組みが複雑過ぎて、難解な部分が多々あった。パソコンを始めとする未知なることなどなど。このことは、決して歳のせいばかりではないと強調しておきたい。
 知識や技術の習得に於いて必要でない部分もあったりして、その繁雑さから如何にして免れるかという問題にも多く直面したものだ。自分にとって要るものとそうでないものの選り分けが、たいそう厄介だった。未だデジタルは鋭意勉学中というところ。
 しかし、デジタルにはフィルムにはない長所もあるので(もちろんその逆もある)、それを最大限に利用すべく努めてきた。そのうちのひとつが暗室作業(画像補整。レタッチとも)である。特にカラー写真の扱いは特出すべきものがある。アナログのカラー調整(フィルム現像やプリント)はとても難儀なもので、素人にはなかなか手出しのできない分野でもある。
 デジタルはその難儀さを容易に克服できるのだから、これを利用しない手はない。アナログを懐かしみつつ(涙するほど懐かしい)、戻ることがないのは、デジタルのほうが思い描いた映像をより得やすいからだ。デジタルにはまだまだ不満もあるが、もうアナログには戻らないと腹を決めている。
 
 色温度やカラーバランスの調整(つまりホワイトバランス)もありがたく貴重な機能に違いないが、「デジタル最大の利点は暗室作業にある」とぼくは誰彼となくいってきた。拙稿でも繰り返し述べてきたことである。
 ぼくにとっては、仕事の写真であろうと私的な写真であろうと、アナログに比べはるかに “精緻で自由” な暗室作業が可能となるデジタルは無限の可能性を与えてくれるように感じている。このことは、写真に心血を注いできた多くの人たちに計り知れないほどの恩恵を与えている。ぼくはアナログ時代からずっとそのような恩恵が欲しくて仕方がなかったのだ。

 しかし、少なくとも「写真が趣味」といって憚らない人の多くが、デジタル暗室作業の御利益に与っていないのではなかろうかと、あるいは関心が薄いのではなかろうかと、お節介ながらぼくはいつも案じてしまう。人様に「それこそ宝の持ち腐れですよ」などというのはまことに烏滸がましく、大きなお世話であることを重々承知の上で、やはり声高に叫んでみたいのだ。それほどぼくは暗室作業を大切にしている。 

 何故このようなことをぐだぐだと記したかというと、読者の方々から、要約すれば「どのようにして写真を仕上げているのか? その実際を知りたい」とのご質問を時折受けることがあるからだ。
 今週はたまたま丸1週間留守にしており、その間に2件ばかり同様の問い合わせをいただいた。この件に関して、ぼくは正確で誠意ある受け答えができずに、実は辛い思いをしている真っ最中。

 デジタルの暗室道具(代表的な例としてAdobe社のPhotoshopなど)の恩恵にたっぷり浴している身として、ぼくの写真のトーンや仕上げなどに関心や好感を示していただくことはとても嬉しいことなのだが、写真の補整は1枚限りのメソードでしかなく、そのプロセスを説明できないというのが正直なところだ。そこが辛い。
 つまり、この画像には適した暗室作法だが、他のものには適応できず、最大公約数的なものを探すわけにもいかず、ぼくは質問のあるたびに狼狽えるばかり。このことは決して出し惜しみをしているわけではなく、撮影時に描いたイメージ(写真は生涯唯一無二のもので、同じ写真は2枚と撮れないのと同様)に「追いつけ追い越せ」とばかり、トーンカーブや彩度、明度やコントラスト、明瞭度やぼかし、そして気に添ったソフトのプリセットなどなどを総動員して作り上げるので、お伝えしたくもできないとの事情がある。そのプロセスは自身でさえ複雑怪奇なものと思えるくらいだ。同じ補整は二度とできない。

 デジタル撮影を始めて以来、ぼくはRawデータ(「生データ」という意味で、現像しないと可視化できない)でしか撮ったことがない。ぼくにとってそれはあくまで素材でしかなく、暗室作業を経て撮影時のイメージが初めて映像化されると考えている。
 作品自体のクオリティはシャッターを押した瞬間にすでに決定されており、ダメ写真を暗室作業でどうにかしようとしても、それはどうにもならぬとの現実を、ぼくは記憶にないほど体験してきた。
 素材が良くなければ暗室作業をどのように凝らしてもまったく無駄であるという無慈悲な現象に真っ向対峙しなければならない。分かっちゃいるんですけれどもね。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川町。同じ場所を時間を変え、異なるアングルで撮ってみた。

★「01外川町」
西日に照らされた「防火水そう」の標識を空に浮かすか、建物と重複させるか悩んだ挙げ句の1枚。撮影日時:2月4日午後3時43分。
絞りf13.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02外川町」
陽は地平線の辺りにあり、雲が湧き上がる。撮影日時:2月4日午後5時02分。
絞りf11.0、1/30秒、ISO200、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/03/08(金)
第437回:念願の銚子に行ってみた(5)
 我が倶楽部月例の飲み会(勉強会後に必ず執り行われ、大半の人がこちらに重きを置いている)で、銚子に出向いた二人の婦女子から「私たちは何も悪事を働いていないのに、 “よもやま話” 上で、あたかも意地の悪い人間のような描き方をされており、まったく間尺に合わない。承服しかねる。今度あのような書き方をしたら承知しないかんね!」ときついお叱りを受けた。
 酒精混じりだから、舌の回りも滑らかで、ぼくは彼女たちの勢いのある風圧を体中で受け止め、思わずよろけそうになった。「はい、すいません。二度とあなたがたのことは書きません」とぼくは平身低頭し、神妙な面持ちで謝った。
 根が正直なものだから、ぼくは感じたことをついついありのままに書いてしまう傾向がある。書いていいこととそうでないことの区別ができずにいるので、舌の根も乾かぬうちにまた同じ過ちを冒しそうで恐い。今、正直に書くことの難しさを痛感し、また、「もう少しフィクションを交えて、遠慮がちに書くべきであった」と反省さえしている。

 しかし彼女たちは感心なことに、傾斜地にひっそりと佇むイワシ漁で賑わった頃の外川の姿を探し出し、活写するために2万歩以上歩き回ったのだそうだ。被写体を渉猟しようと同じ場所を行きつ戻りつすることは、より良き写真を撮るための非常に大切なメソードであり、その努力と熱心さには改めて敬意を表しておかなければならない。写真の出来不出来については、まだその実際を知らされていないので何ともいえないが、心がけは立派という他なし。
 ぼくも健康のためと称し老体に鞭打ちながら小癪で気恥ずかしいウォーキングをこっそりしているが、1万歩以上歩くことはそれほど多くない。ましてや2万歩などこの2, 3年経験がない。そんなことをしたら潤滑油の乏しくなった股関節を始めとして、体のあちこちが4,5日痛み、足腰が立たなくなってしまうこと請け合いである。

 平地でさえ2万歩歩くのはかなり大儀なことだ。彼女たちがどの程度のカメラ機材を携えてのことだったかぼくには分からないのだが、外川のあの坂道を上ったり下ったりと、いずれにしても大変な健脚ぶりである。雄々しいのは健脚ぶりばかりでなく、彼女たちは舌の滑りも達者であり、ついでながら極めつきの健啖家でもある。女二人の道中が如何なるものであるか、恐らく男同士より遙かに快活・明朗であろうこと、その姿は想像に余りある。きっとやっかましいんでありましょうなぁ。
 そしてまた、彼女たちの言葉をそのままに引用すれば、「外川に於いて生涯経験したことのないような凄まじい強風に煽られ、何度も体が一瞬フワーッと浮き上がり、時には吹き飛ばされそうになった」とその恐怖を語るのだ。ぼくは彼女たちの体が宙に舞う空恐ろしい姿がどうしても想像できないでいる。彼女たちの体型から推し測るに、その空中浮揚はにわかに信じ難いものがある。
 
 ぼくの行った日は風もなく早春を思わせ、比較的穏やかで心地よかった。仲ノ町駅構内と外川町で約4時間余りをブラブラと過ごしたが、彼女たちと同じスマホアプリによると9,213歩、5.5kmであり、1万歩にはわずかながら届かなかった。しかし、「今日も元気に精一杯歩いた」というには十分な歩数と距離だった。
 いつもは撮影を2時間前後で切り上げてしまう怠け者なのだが、この日は坂の負荷も加わり、1日4時間余ののんびりした撮影は年相応の程よい限度だったのだろうと思っている。

 ぼくが外川の町にかねてより行きたいと思っていた理由は、以前にも述べた通りであるが、やはり漁師町のノスタルジックな佇まい(それが実在しているかどうかの確証は得られていなかったが)に強く憧れたからだ。ただし、ぼくが神田の古本屋で見た外川の写真は多分昭和に撮られたものに違いなく、したがってそれは現在の様相とは大きくかけ離れたものであろうことは容易に想像がつくのだが、ひょっとしてその想像が外れ、憧れに似たものとの出会いが可能かも知れないと淡い期待を抱きながらの訪問でもあった。
 「見つかるかも知れない」とか「出会えるかも知れない」との期待は、いつの場合も心を躍らせ、青春期のワクワク感に似たものがある。
 思い込みの激しいぼくは、外川に心を躍らされるような痕跡というか名残のようなものがどこかにあるに違いなく、もし見つけることができれば幸運だと考えていた。ぼくの外川は、いわば幻想上の憧れのようなものであった。

 写真は常に現場主義だが、ロマンティシズムとリアリズムがほどよくバランスしていなければならないと考えているので、見知らぬ土地にある種の思いを描きながら出かけて行くことは、ぼくにとって大いなる冒険であり、夢多き賭けでもある。行ってみなければ分からないし、何に出会(くわ)すか皆目見当もつかない。未知なるものへの憧れと興味はますます深度を増していく。
 人跡未踏の地や極地に足を踏み入れるばかりが冒険ではない。ぼくにとって北極圏の孤島も外川も、「発見することの愉しさと醍醐味」は何ら変わるものではなく、常に同等だとしている。フォトジェニックなものに目が奪われる機会が多ければ、そこは即ちとても素敵な所であり、離れがたい場所ともなるのだ。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川町。

★「01外川町」
傾斜地に昔ながらの住居を見つけた。住人がいれば話を聞けたのだが、残念ながら見当たらず。夕暮れ時の空の表情がよかったので、飛ばさぬように露出を慎重に決める。
絞りf10.0、1/20秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02外川町」
年季の入ったモルタル造りの長屋。最近見かけることのなくなったトイレの排気煙突も立派なノスタルジーだ。
絞りf11.0、1/125秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/03/01(金)
第436回:念願の銚子に行ってみた(4)
 20年ほど前、古本屋の店先で立ち読みしたハードカバーの書籍に掲載されていた銚子市外川町の3枚のモノクロ写真に惹かれるものがあり、それ以来この地を訪れてみたいと思っていた。
 実行するまでに20年の歳月を要してしまったのは、同じ関東でありながらも感覚的・距離的に行きにくいことと、ぼく自身が本来愚図の怠け者であるからだ。忙しさにかまけて、といいたいところだが、「忙しさ」を理由にする者ほど責任逃れの上手な、延いては保身的で生命力に乏しい人間なのだとの信念をぼくは持っているので、やはりそんな言い訳はしたくない。怠惰だと告白するほうがずっとましである。
 仕方なく重い腰を上げざるを得なかったのは、この銚子シリーズで執拗に述べたが如く、我が倶楽部の婦女子たちに先を越された悔しさからであった。
 本来は、成田山の参道で鰻など食しながら久しぶりに人物スナップを撮る予定だったものが、彼女たちへの対抗心がむくむくと頭をもたげ、途上刹那カーナビに「銚子」と打ち込んでしまったのが事の始まりだった。
 20年の思いを込めて、ぼくはスマホのカーナビアプリにローマ字で「chousi」と綴った。この文明の利器は、ぼくのその悔しさを、「おまえは良い写真を撮らなければいけない」という写真屋としての使命感に昇華させてくれたのだった。ここで強調しておきたいことは、あっぱれなのはもちろんぼく自身であり、どう転んでも彼女たちではないということだ。

 ついでながら建て前をいえば、「足腰の達者なうちに行きたい場所に行っておかなければならない。うかうかしておれんわ」というところだ。本音をいえば、「20年も昔にぼくが先に唾を付けた場所であるにも関わらず、いとも容易く先を越されてしまい、彼女たちから揶揄されながら “二番煎じの男” との烙印を押され(彼女たちなら焼きごてを振り回してでも一番乗りに固執するに違いない)、終生それに甘んじなければならないのは、やはり男の沽券に関わる重大な問題なのである。それをできるだけ早いうちにとっくりと見返しておかなければ、今後のぼくの身が危ういのだ。一応指導者の振りをしている身としては、彼女たちの傲然な振る舞いをやり過ごすわけにはいかない。自身の怠惰を棚に上げ、ここは逆恨みをしても許されるのではないか」ということになる。結局のところ、彼女たちは、行ってはいけない所に行ってしまったのである。

 話が前後するが、神田の古本屋で手にしたものはどのような類の書籍だったかほとんど記憶にない。ぼくが心奪われたのは書籍に掲載された写真のクオリティではなく、そこに写された外川町の佇まいそのものだった。写真だけは不鮮明ながらも、脳裏の片隅に薄ぼんやりと座っている。
 おそらくそれは昭和中期の頃に撮られたものと思われるが、その写真からは町全体が哀愁と憂いに包まれ、どこか厭わしく思いの通りにならないもどかしさを漂わす何かを感じさせるものだった。当時の外川は、町というよりはむしろ江戸時代に栄えた集落の趣といったほうが当たっているのかも知れない。残り火といっては言い過ぎだろうか? 
 その写真は昭和のノスタルジーか、もしくは寂れた漁師町特有の匂いのようなものだったのか、今となっては正確な判断材料(記憶となるような)がないのだが、海に向かう傾斜地に、風雪に打たれた板張りの平屋が重なり、へばり付くように居を共にしていたように思えた。全戸が漁業に従事する一種の共同体だったのだろう。それがぼくの外川に関するすべての情報であり、想像でもあった。

 帰宅後、外川の歴史を紐解いてみると、銚子に漁業の繁栄をもたらしたのは17世紀初頭にこの地にやって来た紀伊(現在の和歌山県と三重県の一部)の漁民であった。房総沖でのイワシが大漁であったことから、ここに定住する人が増え始めた。
 なかでも崎山次郎右衛門は万治元年(1658年)、外川に港を築き、漁法を伝え、イワシ漁による「外川千軒大繁盛」といわれるほど栄えたと、ものの本には記されている。また、次郎右衛門は海沿いの小高い丘の傾斜地に碁盤目状の町並を作り、多くの漁民や干イワシを販売する商人などを呼び寄せたとある。また、同時に関西から醤油の製法も伝えられた。(一部出展『銚子漁港のみなと文化』中島 悠子著)。

 ぼくの見たモノクロ写真は、当時の面影がまだ色濃く残されていたと記憶する。だが、移り変わりの激しい現在にあって、あの写真から何十年も経た今はどうであろうかと、不安ばかりが頭をよぎる。

 しかしながら、ぼくの頭は自分本位なイメージで満たされ、それに得々としているのだから、お目出度(めでた)い。一茶の「目出度さもちう位なりおらが春」(「ちう位」は、「いい加減」の意)に、何故か強い共感を覚える。
 よそ者の常で、「喩え不便であっても当時の風情をそのまま保存しておいて欲しい」と、保守的で前近代的な文化論を振り回し、勝手なことを宣うのである。どうしてもノスタルジー(懐古趣味)に負けてしまうのは、人の情というもので、そこに近代化や能率というものを否定したがるもうひとりのぼくが必ず登場する。まったくもって厄介なやつだ。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川町。

★「01外川町」
外川町唯一?かどうかは分からないが、雑貨屋さんと覚しき店先を。ガラスの写り込みをあれこれ計算しながら。
絞りf9.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02外川町」
傾斜地に碁盤目状に路地が張り巡らされている。ぼくの早業も犬には通じず目線が合う。やはり動物は人間以上に聡い。坂を下って行くと間もなく漁港に出る。
絞りf8.0、1/160秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/02/22(金)
第435回:念願の銚子に行ってみた(3)
 前回掲載文の最後の段落にて、遅まきながらもやっと銚子の街に辿り着いた。口さがない友人は「やっと銚子に来たんですねぇ。長く遠い道のりでしたねぇ。まるで南極航路みたい」なんて、ぼくをからかうためにわざわざ長距離電話をかけてきたくらいだ。 
 文章より写真が先行してしまい、具合良く時制の同時進行とはいかないけれど、これはぼくの計画性のなさもあるのだが、それより感覚的に過ぎる「一本刀土俵入り」じゃなくて、 “出たとこ勝負一点張り” を露呈しており、素人の杜撰さによる時制のズレともいえ、ここに至ってどうかお目こぼしをいただきたい。
 原稿を書く時間は1時間足らずで済むが、写真の補整はとても1時間でできるものではなく、時によって2日〜3日がかりということも日常茶飯なので、それによる時間的・感覚的なズレも生じてしまう。またぼくのようないい加減で大雑把な性癖は(善意ある言葉遣いをするなら、それを “鷹揚さ” とでもいうのだろうか)、字数制限の緩やかなWeb原稿にはどちらかといえば不向きなのかも知れない。

 今さかんに計画性のなさを言い訳がましく述べ、取り繕おうとしている自分がいることに気づいている。また、本題から外れたことばかり書いているからだということもよく自覚している。そのような指摘をされれば、返す言葉もない。
 分かっていながらも実を伴うことがなく、それに従おうとする気配さえ見せないのは、如何にぼくの頭が小児化しているか、あるいは我が強すぎるかのどちらかだろう。「両方とも同じ意味だ」と、先述した口さがない友人は得意気にいうに違いない。

 しかし一方で、細かいことにこだわらない “鷹揚さ” を常に堅持し、あるいは何でも自分に都合良く解釈しようと試みたがる質の人間は(つまり何事も我田引水をもって由とすべし)、押し並べて風邪やインフルエンザという疫病神に何十年も取り憑かれずに済むのではないだろうかと、医学を無視し、敢えて暴論を吐いてみる。
 そして、 “気まま” そのものによるぼくの日常生活はまったくの不規則であり、また不養生の極みでもある。それはぼくの、写真を撮るためのたゆまぬ努力の末でもあるのだが、この伝、ぼくは非常に悪しき家庭人であったと自戒している。
 もし、あなたの周りにぼくのような人間がいれば、その人は間違いなく些々にこだわらず、 “鷹揚さ” を旨として威風堂々、リスクを顧みず(ここが肝心要)、闊達なる人生を送られているはずである。
 「ものは言いようだね」と、前出の友人が宣うであろうことはすでにお見通しである。

 “鷹揚” であることは、ぼくの重宝な便宜上の養生論であり、いってみれば風邪や熱発の元となる細菌やウィルス除けのコツのようなものだと極めて真面目に受け止めている。つまり “鷹揚さ” は、シャーマニズムに似た魔除けの一種であり、如何に「生き易い」方向に自分を仕向けるかと同義であるということだ。そしてそれに付随するもうひとつの肝心事は、ストレスを避けるための秘薬なのだと信じている。ストレスこそ諸悪の根源である。それは最も強烈な病原体だ。
 意地の悪い友人に「おまえは人から何を言われても、 “意に介さない” ことに慣れているようで、まったく羨ましい限りだよ。屁の河童だもんなぁ」などと皮肉を込めていわれたことがあるが、そのことはしかし、8割がた当を得ている。ぼくにとってそれは写真屋としてのストレスを避けるための、そして生きるための方便なのだ。 

 「病は気から」との諺もあるように、このことは今唐突に思いついたことではなく、30代の頃からの持論でもあった。 “鷹揚さ” こそ最高の良薬という自説は、医者や医学関係者に一蹴されるであろうことは百も承知だが(案外そうでもないという気持もある)、きっと今の科学や医学では解明できない何かがそこに潜んでいるに違いないと、ぼくは昔から本気でそう見立てている。根拠を問われれば論を成さないことは知っているが、神経質で几帳面な人、あるいは遊び心を失った人ほど虚弱であることは否めないのではないか。

 ぼくにとって写真を撮ることはストレスの細胞を繁衍させる行為そのものであり、写真屋になった瞬間からいつ写真屋を辞めるべきか、そればかり考えていたといっても決して過言ではない。「こんなことを今後絶えず繰り返していたら、ぼくはいつか癌か重篤な病に襲われてしまう」と直感していた。予見通り、ぼくは2度の癌に見舞われている。付録のように痛風も結石も。大したものだ。
 余談だが、昨日南青山で仕事の写真を撮っていたのだが、愉しさややり甲斐を通り越して、苦悩と苦痛の連続であった。思い通りのものが撮れないあの苦しみである。
 若い頃には克服できた(鈍いが故に撮れたと錯覚していた)ものが、歳を取るに従い、徐々に堪え難くなってきている。イメージ通り写ってくれないことに対して鋭敏さや深刻さを増すのはとても良い兆候だとぼくは思っているが、あまり鋭敏になり過ぎると疫病神に取り憑かれてしまうので、老後は写真の難易度には関係なく、程々の “鷹揚さ” を確保しておかなくてはならないと思っている。

 外川の町から小さな丘を下り、海岸に出た。ぼくは6年ぶりの海を見ながら、戯れに波を撮ってみようと思い立った。そこには石原裕次郎も加山雄三もおらず、心地よい波の重低音が身体を揺さぶり、潮風が白髪を撫で、そして脳を弛緩させながら、「飄々とシャッターを切ればいいじゃ〜ん」と、ぼくは若い人を真似て鷹揚にいってみた。

http://www.amatias.com/bbs/30/435.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF24-105mm F4L IS USM、EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川漁港。

★「01外川漁港」
心地良い重低音に身を任せ、波の形だけを凝視しながら数枚撮ってみた。
絞りf10.0、1/500秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02外川漁港」
恐らく漁師さんたちの物置小屋だと思われる。色合いが面白かったので、「面白いじゃ〜ん」と、何も考えずにシャッタ-を切った。
絞りf13.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/02/15(金)
第434回:念願の銚子に行ってみた (2)
 東関東自動車道を下るうちに心変わりをしたぼくは、行き先を「成田山」から急遽変更し、意気揚々「銚子」とカーナビに打ち込んだ。ミドリムシ的単細胞だと自他共に認めるぼくとしては、我ながらあっぱれな決断であり、上出来な浮気心でもあったと自賛している。これで20年来の願いをやっと叶えることができる。ハンドルを握りながら、ぼくの意識は高揚し、胸が高鳴り始めた。
 同時に、「きっと良い写真が撮れる」とさかんに自己暗示をかけた。頭の中で、まだ見ぬ絵柄(光景)が次から次へと、回り灯籠のようにぐるぐると現れては消え、消えては現れた。ぼくはその光景を脳内のどこかにある印画紙上にすでに再現していた。空想と現実が渾然一体となり、その区別がまるでできないのだから、おめでたいというか、ぼくはホントに得な性分である。

 前号にて述べたが、我が倶楽部のご婦人二人に先を越され、地団駄踏んだぼくは、1週間遅れながらも彼女たちと肩を並べたかった。先生と生徒が、対等な場に立って、銚子の仲ノ町や外川町について語り合いたかったのだ。たまには美しい師弟関係を演じる振りをしてみたかった。それはそれでお互いにとても良いことだと思う。
 けれど、1週間の遅れは時間的にも物理的にも取り戻しようがなく、致命的であるかのように思えた。この周回遅れは終生彼女たちをあらゆる面で優位に立たせ、事あるごとにぼくを「二番煎じの男」と見下し、陰になり日向になりこの僅かな時間差を針小棒大に捉え、執拗に拘り続けるに違いないのだ。
 ぼくの余生はこれからずっと彼女たちの勝ち誇ったような冷ややかな視線に晒され、それに甘んじなければならない。どうにかしてこのような不条理な仕打ちを、手遅れにならぬうちに打破しておかなければならない。そのための唯一とも思える手段は、ぼくが彼女たちを唸らせるような写真を撮ればいいのである。「やっぱり、おっさんには敵わないわ」とか「おっさん素敵!」とか言わしめればいいのだ。

 だがしかし、すでにこの倶楽部に10年以上居座り、古参となった彼女たちは誰彼なしに「うちの倶楽部は、先生より生徒が偉いのよね」といって憚らないので、指導者モドキのぼくはなかなか打つ手が見つけられずにいる。成長著しい彼女たちの写真は、質的にもぼくとの距離を縮めつつあり、おいそれとはいかないほど手強くなっている。この際、ぼくは彼女たちに写真を教えることより、「しおらしさ」を手ほどきすべきかも知れないと思い始めている。

 今ぼくは、1911年に南極点一番乗りを争ったロアール・アムンセン(ノルウェーの探検家。1872-1928年)とロバート・スコット(イギリスの軍人、探検家。1868-1912年)に思いを馳せている。アムンセンに南極点到達の後塵を拝したスコットの気持ちが、銚子と南極の違いこそあれ、ぼくにはよ〜く分かるのだ(なんと大袈裟な!)。
 ぼくがこの探検を知ったのはノンフィクションの名作『世界最悪の旅』(A. チェリー=ガラード著)を読んだ高校2年の時だった(原書の下訳に四苦八苦させられたので忘れがたい)。アムンセンが到達した約1ヶ月後にスコットは南極点に立ったが、争いに敗れた彼は失意のうちに、帰路悪天候に阻まれ帰らぬ人となった。そして隊も全滅した。
 勝敗を分けた最も大きな理由は、アムンセンが用意周到で経験豊富な職業探検家であったことに対して、スコットは軍人だったことだろう。野球に喩えれば、大リーグと高校野球くらいの差があっただろうと、ぼくはそんな印象を受けている。ただ、スコットの果たした科学的な調査は高い評価がなされている。

 ぼくは未だ南極どころか本題の銚子にも到達していない。何たることと思いつつ、「二番煎じ」とか「後塵を拝す」ことのちょっとした無念さを、恨み辛みなしに語ってみたかった(十分に恨みがましく語っているじゃないか!)。
 他し事(あだしごと)はさておき、自宅から東関東自動車道の終点である潮来ICまで、約1時間半でやって来た。潮来とは今まで縁も所縁(ゆかり)もないが、真っ先に思い浮かぶのは橋幸夫の歌った「潮来笠」であり、それはぼくの中学時代に大流行した歌謡曲だった。
 橋幸夫は、前回に記した石原裕次郎、加山雄三と同様に、ぼくにとってはやはりどうにもいただけない部類の人であり、それに「潮来笠」の歌詞もさっぱり意味不明ときているから、親しみが持てないのだ。

 そんな潮来を素早く通り過ぎ銚子に向かったのだが、土地勘がないためなのか、あるいは高速道路でなく一般道であるせいなのか、なかなか辿り着かない。高速を降りた後の一般道の35kmはかなり遠く感じるが、前述した通り銚子は念願叶っての場所なので、ぼくは高鳴る胸を押さえながら、ちょっとした興奮状態だった。
 彼女たちの言によると「夜、居酒屋を求めて銚子の町を徘徊したのだが、日曜日ということもあってか、まったく見つからず、海鮮料理にもありつけず、仕方なくコンビニでビール、日本酒を買い込んでホテルで祝杯を上げた」とやたら不満げであった。
 車は銚子大橋を渡り、やっと銚子駅前に差しかかった。予想外にとても静かな街の様子である。深閑としたなか、彼女たちの仏頂面がふーっと目の前に浮かんだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/434.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市。

★「01外川駅」
銚子電鉄外川駅に停車するクハ2501の運転席。窓越しに見える赤い電車はデハ801で、2010年に運転終了。今は外川駅に置かれている。
絞りf11.0、1/25秒、ISO200、露出補正-1.67。

★「02外川町」
木造やモルタルの長屋が何棟か残されている。居住していたりいなかったり。
絞りf13.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)