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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2018/08/10(金)
第409回:京都(12)
 前号で分別なく予告してしまった撮影に於ける「地の利」を得ることについて、ご質問をいただいた読者の方には率直なお返事をさしあげたが、そこには質問者の個人的な事情や立場を斟酌する余地が十分にあったので、焦点を絞ることができ、ぼくの思うところをお伝えしやすくもあった。ここでいう「地の利」を得るとは、撮影地の文化的背景や地理的条件を熟知しているという意味で使っている。
 けれども拙稿では、対象が不特定多数であるため、個人宛のものをそっくりそのまま流用というわけにはまったくいかず、いやそれどころか、そうしてしまうとあまりにも狭義になりすぎて、最大公約数的な真意が(もしそのようなものがあるとすればだが)伝えられず、歪んだものになりかねないということに気がついた。
 とはいえ顔の見えない多数への公言は、つまるところ「地の利」についてのありきたりな話に終始し、かえって雲を掴むような話になってしまうのではないかと、ぼくは今非常に困惑し、迂闊な予告を後悔さえしている。

 人は文化的存在、言い換えれば生まれ育った地の文化(言語的、地政的、歴史的な存在であるともいえる)が大切であり、それが如何様であろうとも、そこから逃れることはできないという自覚から出発している。生涯それに拘束され、束縛されているものだとぼくは考えている。
 いつまで経ってもふるさとへの個人的な感情は、如何なるものであれ否応なしに郷土的DNAを受け継ぎ、拭い去ることができない。心理や思考、及び情緒や感受に少なからず影響を与えていることを加味すればなおさらである。

 種々雑多な性格の異なる郷土愛が渾然一体となり、感情の吐露としてあらゆる場所に出現してくる。生まれ育った場所が同じであるが故に、共感や同族意識が心のなかに浮かび上がるのは自然なことだが、人によっては言語的・家族的存在でもある郷土愛が一種の郷土ナショナリズムのような形で熱を帯びることもある。
 ややもすると、そこに思考や感受の停止が生まれ、偏狭な郷土愛に転じることもあろう。これは郷土ばかりでなく、祖国に対しても同じようなことがいえるのではないだろうか。

 いわゆるグローバリズムを信奉する人たちの間には、郷土の文化的存在を進歩的ではないと認めたがらない傾向がある。ぼくにもそのような時期があった。「県人会」などと称するものに対して生理的に受け付けがたいものがあったことは確かだ。
 ぼくの体験をもってすれば、しかし誰もが、郷土愛の根幹にあるものが祖先や父母・兄弟・血縁者の言語的・家族的存在であることを否定できない。そこに無意識のうちに大きなジレンマを抱え込むことになる。

 とりとめのない話は、結論のないままこのあたりで打ち切らなければならないが、この京都シリーズで、よもやぼくが教育熱心であった祖父や叔父に触れるとは考えもしないことだった。
 「何故、あんなことまで書いてしまったのだろうか?」と振り返ってみると、郷土に対する文化的存在が歳を重ねるにつれ強く作用するようになったからではないかと感じている。とともにジレンマからも解き放たれたような気がしている。郷土愛についてのジレンマの解消は、率直な告白と懐旧の情によるところが大きい。ついでながら、知的向学心もどさくさに紛れてつけ加えておこう。

 若い頃は、京都に対する理解もないままに偏狭で身勝手なネガティブ・キャンペーン?を一端ながら張ったものだが、文化や歴史を、博覧強記(広く書物を読み、多くをよく記憶していること)を気取って勉強するにつれ、その心意気は徐々に薄れ、土地固有の文化的背景や必然性を理解するようになった。
 必然性との関わり合いのなかで、自分にとっての「地の利」をどのように捉え、それが如何なる影響を与えているかを顧みることが大切なのだと考えるようにもなった。
 
 「地の利」を得ることは、通り一遍の答えでしかないが、イメージを描く上ではバリエーションが組みやすい。撮影に有利をもたらすが、ただそれが即ち良い写真に結びつくわけではないので、事は複雑で厄介だ。厄介さとは、因果関係が判然とせず、何が何処で結びつくかが誰にも分からないという点にある。
 奈良や京都の住人が神社仏閣の良い写真を撮る機会により多く恵まれることは確かだが、だからといって良い写真の保証などどこにもない。山小屋の主人や登山家が必ずしも優れた山岳写真を撮れるわけでもないことは周知の事実でもある。反対に見知らぬ土地をふらっと訪れ、何の知識もないままに良い写真に恵まれることもある。

 ことほど左様に、「地の利」が与えられても、写真の良し悪しは撮影者のみに依拠すると結論づけざるを得ない。「地の利」や如何に、と大上段に振りかぶってはみたものの、なんだか身も蓋もないことになってしまい、ぼくは今身の置きどころがないのだが、孔子の有名な言葉によれば「知らざるを知らずと為せ、是知るなり」とある。 “知らないことは知らないとはっきりさせることが、本当の知である” のだそうだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/409.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈と四条大橋。

★「01祇園」。
正面から和服を着たお嬢さんがやって来た。後ろ姿をイメージし、ぼくの前を通り過ぎるのを待って、シャッターを切る。
絞りf11、1/200秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02東華菜館」。
大正15年(1926年)竣工。鴨川べりに立つ東華菜館は登録有形文化財となっている。小学生の時に祖父に連れられて1度だけ行ったことがある。日本最古のエレベーターに乗って嬉しがったことを覚えている。四条大橋よりフジペットで撮った記憶を頼りに、6 x 6 cm 版をイメージして撮ってみた。
絞りf10.0、1/400秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2018/08/03(金)
第408回:京都(11)
 当初、京都シリーズは10回ほどに止(とど)めておくつもりだったのだが、なかなか止(と)まらない。帰宅後、選択した写真の半分にもまだ手が付けられないという怠けぶりで、それらすべてを発表する意図はないものの、もう少々与太話をご勘弁いただきたい。

 撮影のため正味6日間で思いつくまま、計画性もないままに10数カ所を巡り、今振り返ってみると、撮影の成果は別として(ここが悲しい)、ぼくにとって近来にない良い思い出を作れたように感じている。しかし、辛さのほうが先に立ち、愉しいものでは決してなかった。辛い旅ほど、良い思い出として後に残るものだというぼくの主張はここでも実証された。

 写真を撮りながら「オレは何者なのか?」を無意識のうちにいつも問うていたような気がする。仏様と対峙し、睨まれ、お咎(とが)めを受ける機会が多かったのだからそれも致し方ないことなのだが、思い通りに撮れぬ苛立ち(自身のアイデンティティを示さなければ写真ではないというのがぼくの持論)とともに、シャッターを押すたびに不安な感情に襲われもした。ぼくに自虐趣味はないものの、それを “苦行” として処決しようとしていたのだから、なんとも浅ましい。

 今回の京都行きは、今から14年前の2004年に丸々1ヶ月間、広大なロシア極北の地を含めた歴史ある古い街々を訪ね歩き、精根尽き果てて帰国したあの時以来のような感覚を残した。
 あの時は、好きなものを自由に撮ってきなさいとの指令をスポンサーより受けてはいたが、それなりの成果を得なければとの必死さがあった。必死さは今回も変わらないが、14年の間にぼくも歳をとり、体力と集中力の衰えを懸念した。たかだか6日間の、それもスポンサーなしの自由な撮影を前にして、自身を見失うことが最大の敵だと自覚していた。ここは油断のならない海外と異なり、勝手知ったる日本であることの緩みを警戒していた。
 日々、陽が西に傾くに従い体力は限界に達し、あと10分も歩けば間違いなく行き倒れになると思うほど、くたびれ果ててしまった。集中力の散漫を免れ、気力も維持できたが、普段の不養生により体力の持続力は失われていた。

 残念ながら撮影の成果は予想に及ばなかったが、それは少しも悲観材料にはならず、かえって再訪の意を強くさせた。非現実的なたとえだが、もし仮に思いの通りに写真を撮れるようになれば、それは愉快なことかも知れないし、あるいは目標を失い途方に暮れるかのどちらかだろう。ぼくはきっと写真に興味を失うに違いない。撮れないから「下手の横好き」で、続けられるのだろうと思っている。

 同じようなものを同じように、相も変わらず懲りることなく撮り続けることにぼくは近頃大きな意義を感じている。それを一般では「堂々巡り」といい、あまり良い意味で使用されないが、案外そうでもなさそうである。
 同じところをぐるぐる回っているうちに、遠心力が働き、その輪から小さな粒子がいくつか飛び出し、それを繰り返しているうちに、写真が変容していくのではないかと思うことがしばしばある。遠心力を加速させれば効力が得られ、変容は少しずつ訪れるということもあろうし、また時にはある日突然ということもあろう。この説はきっと正しい。
 このようにして起こる自身の変化を面白がる日がやがてやってくるのだと、ぼくは信じている。信ずる者はやがて救われるというのが世間一般の通り相場ともなっているのだし、そのような理屈をこねていないと、ぼくなどやっていけない。「信心も欲から」ともいうしね。

 遠心力を高める方策のひとつは、とにかく撮ることしかないのだから、辛抱強く、飽くことなく「運鈍根」(うんどんこん)を貫き、それにしがみつくのが一番良い。体裁などにかまっていては、奥行きが図れず、常に蛇稽古(長続きしない稽古事のたとえ)に終わってしまう。
 写真という高価な趣味に大枚を叩いて、表面しか触れずに終わるのは、他人事ながらあまりにもったいないと思うのは、大きなお世話なのだろうか。

 ともあれ、ぼくのこのような考えや方策は、あまり一般的でないのかも知れない。趣味としての楽しみや上達の考え方はそれぞれが千差万別であることくらいはよく知っている。
 「信心過ぎて極楽を通り越す」ともいうけれど、自身の信条の最大公約数的な、もしくは共通分母のようなものを公にしているに過ぎないのだから、気休め程度に読んでいただければ、ぼくも気が楽である。

 先日、読者の方からご質問をいただいた。長いメールだったが、要約すると「撮影に、地の利というものはあるか?」と。地の利が写真にどのような影響を及ぼすかについては、ぼくには判然としないところもあるけれど、興味ある事柄でもあるので次号にてそれについて述べてみようと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/408.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈。

★「01祇園新橋通」。
お茶屋の並ぶ新橋通を1台の真っ赤なビートルが走ってきた。カメラをセットし、左上から右下への対角線構図を。ファインダーのなかで、走る車が意図した位置に来た瞬間にシャッターを切る。幸い人影が入らず。
絞りf9.0、1/600秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02祇園路地裏」。
一天にわかにかき曇り、驟雨が。コントラストの低い、しっとりとした空気の中で、「明瞭に写し出すこと」と言い聞かせて。
絞りf11、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/07/27(金)
第407回:京都(10)
 齡70にして、ぼくの故郷である京都撮影行の目的はすでに記述したので繰り返さないが、今改めて母方の祖父や叔父のおかげでぼくは子供では体験できないずいぶんとおませな場所に出入りしていたものだと、京都での過去のページを繰りながら懐かしく思い起こしている。

 道楽者のじいさまは祇園(ぎおん)や先斗町(ぽんとちょう)のお茶屋に、いつもフジペット(6 x 6 cmの中判カメラ)を首からぶら下げた小学生のぼくを連れて行ったし、叔父は行き付けの、新京極近くにある六角通御幸町のバーによく連れ出した。教育熱心なとても良い祖父・叔父であった。
 子供心ながら「ここはぼくのような子供の来るところではない」と呑み込んではいたが、芸妓さんやバーのママさんは子供を退屈させない凄技と洗練された女振りを存分に心得ており、気詰まりをまったく感じさせなかったものだ。今ぼくは原稿を書きながら、彼女たちのプロフェッショナルな仕事ぶりとその精神に非常な感謝をしている。
 「子供をこのようなところに連れてきて」との不粋で、あたかもものの分かった風なことを説教がましくいう人は誰一人としていなかった。そのような意味合いでは祖父・叔父はとても正しく、誰もが寛容で、住みやすい時代だったのである。
 そしてまた祇園の彼女たちは美妓でもあり、30歳前後であっただろうと思われるバーのママさんは、ぼくの記憶の中で一人歩きしているとはいえ、たっぷりとした母性を感じさせる魅力的な女(ひと)でもあった。やはり子供心ながらに一種の憧れに似た感情をぼくは人知れず抱いたものだった。
 小学生ともなれば、女性に対する憧れは大人のそれと何ら変わるところがないのではないかと、今の自分を顧みてそのような感慨に浸っている。

 ぼくは食欲旺盛な食い気一辺倒の中学生となり、叔父は「てつろうにはポタージュ(当時は珍しかった)と山賊焼(鳥のもも肉を焼いたもの)か、ステーキを食わせておけば良い」といい、祖父は「鱧(はも)か鰻を食わせておけば良い」と、ぼくをよく連れ回してくれた。とても気の利く良い人たちであり、優れた教育者でもあったのだ。
 叔父は、神戸牛、松阪牛、近江牛の違いをことごとくぼくに講釈し、祖父は大学生になったぼくに鰒(ふぐ)やすっぽんの味わいを教えた。ぼくは大変なマセガキとなっていった。京都での行状をおそらく知っていた父は、それについて何も語ることはなかった。そしてぼくも友人たちに京都自慢をすることは決してしなかった。マセガキではあったが、こましゃくれた驕慢(きょうまん)な子供ではなかったと、一応の弁明をしておく。

 ぼくがフジペットで彼女たちを撮ったかどうかはうろ覚えだが、室内では光量が足りず、ぼくに撮影技術の知恵もなく、もし撮っていたとしてもおそらく何も写っていなかったのではないかと思う。
 ただ記憶にあるのは、クラシック音楽好きのバーのママさんに連れられて新京極にあるレコード店にしばしば行ったことだった。ママさんは「何が欲しいの?」とぼくに訊ね、ぼくは都度果報に恵まれた。買ってもらったレコード(カラヤン指揮ベルリンフィルの『新世界』。1958年録音のLPレコード)を彼女に持たせ、「にっこりママさん」を撮ったことがある。ママさんは、思い起こすに女優の夏川結衣に似た人ではなかったかと思う。帰京し、あまりのブレブレ写真に愕然としたことがあった。その写真はいつの間にかなくなり、今手許にはない。

 昨今ならスマホでパチリとやればすべてが造作なくリアルに写し出され、生々しく記録に残せるのだろうが、当時ぼくにとって写真は原始の時代であった。リアルな記録を写し出すことができないが故に、今、想像や懐古の情が逞しく復活を遂げている。スマホでは望郷の念の昇華がままならないのではなかろうかと懸念さえしている。
 リアリズム(スマホ)vs.ロマンチシズム(フジペット)の図式をここに見るような思いだ。「昔は良かった」と言わしめるひとつの良い例であろう。

 ちょうど10年前にロケハン(撮影の下見)で京都を訪れたことがあった。ディレクター、デザイナー、助手君の3人を伴い、空き時間をみて撮影予定地ではない祇園界隈を歩いた。今や映画やドラマですっかりお馴染みとなった巽橋周辺を、ぼくは約50年ぶりに眺めた。
 そこは祖父に連れられてよく見た風景だったが、ちょうど半世紀の間に当時のしっとりした雰囲気や風情はかき消え、誰もがカメラや携帯電話のカメラを振り回し、記念撮影に興じている。時の流れといってしまえばそれまでだが、その賑わいたるや、まさにおどろおどろしいものだった。通りかかる舞妓さんを取り囲み記念撮影を目論む人々でごった返していた。

 あれからちょうど10年を経た今回の巽橋界隈は、以前と変わらぬ俗化ぶりだったが、変化は携帯電話のカメラがスマホに変わったくらいで、相変わらずの人出だった。
 ぼくも観光客の一員に乗じ、巽橋を撮ってみようと思った。超広角故、人影の入らない巽橋を撮るのはよほどタイミングを見計らう必要がある。運にも恵まれなければならない。ぼくは極めて気が短いので、待って撮るということは滅多にしない。2分と待てない性格なのだ。

 焦点距離を最短の11mm(APS-Cサイズであれば、6.875mmとなる)にセットし、誰も撮ったことのないような巽橋を頭に描いた。人影の入らない一瞬を捉えたが、イメージ通りとはいかなかった。しかし、我が身としては後に引けないので一応巽橋に行ったという証拠写真として掲載してみる。
 もう1枚は、巽橋にて群がる人々からやっと解放された4人の舞妓さんが、新橋通のお茶屋に向かう途上を、自転車のペダルを漕ぎながら後を追い、止まることなく3kgのカメラを片手で操作したもの。こんな横着な撮影をしてはいけないのだが、「オレはいいが、あ〜たたちはデッタイしてはいけない」という倶楽部の面々に対する常套句を、京の地でもつぶやいてみた。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/407.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈。

★「01祇園巽橋」。
極端なパース故どのような構図にするかだけを描いて。人影が消えた一瞬の隙に。
絞りf11、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02祇園新橋通」。
自転車で走る前に焦点距離24mm、露出補正-1、f8.0、フォーカスを5mに固定。ペダルを漕ぎながら片手撮りの横着を決め込む。補整でお茶屋のシャドウは潔く潰す。
絞りf8.0、1/400秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2018/07/20(金)
第406回:京都(9)
 話は多少前後してしまうが(ここが出たとこ勝負の一貫性のなさで、ぼくのダメなところだ)、前々回「京都(7)」に記した名刹に所狭しと掲げられている不粋で目障りな「撮影禁止」について、種々雑多な異論反論を重々承知で、私見を述べてみたい。

 お寺さんによっては、「撮影禁止」とともに「スケッチ禁止」というものも散見した。写真や絵画の製作をたしなむ人たちにしてみれば、然るべくして「何故?」との疑問が湧くに違いない。「誰に損害を与えるというのだ」との、通り一遍の反駁を心に秘め、やり切れぬ気持にさせられることしばしであろう。
 憤懣やるかたない思いを心の隅に閉じ込め、自らの道徳的規範( “法的規範” ではない)に従い、落胆を隠しきれず、「何故?」を解明することもままならずにすごすごと引き下がるのが通例であろう。
 撮影やスケッチの好きな人々が禁止令に対して無念無想のまま寂しくお寺さんの三門を出ることになる。お寺さんは本来礼拝の場であることを知りつつも、心残りながら後ろ髪を引かれるような思いで、その場を後にする人々が大勢を占めるのではないだろうか。
 
 感情的な面に荷担することが、稀には道理を詰むこともあるので敢えて記述してみる。
 拝観料を徴収しておきながら製作過程や作法の異なる写真と絵の双方に「禁止」という共通事項を持ち出すお寺さんの好ましからざる料簡に大きな疑問と異議を唱えることは罪ではない。

 帰京後、ぼくは「禁止」の理由を解明したく、直接東寺に電話をし、こう訊ねてみた。「お寺さんには確かに管理権というものがあることは知っていますが、それとは別に何故『撮影禁止』なのかがどこにも記されていません。拝観券にも記されていませんが、その理由をお教えいただきたくお電話をさしあげました」と。
 担当氏は「拝観料をお支払いいただいた時点で、『撮影禁止』はいってみれば暗黙の了解済みなのです」とおっしゃる。この説明は多くの矛盾や齟齬を含んでいるが、その点についてぼくは追究しなかった。きっと東寺の担当氏では埒の明かぬことと先読みをしたからだった。
 東寺五重塔(4度の焼失により1644年再建。国宝)は小さな鉄柵に囲まれており、その内側ではやはり「撮影禁止」だった。ぼくは五重塔の、300数十年の風雪に打たれた木材のアップを撮ろうとしたところ、すぐさま監視のご婦人に制止された。

 「何故ですか? ぼくがこの木材を写真に撮っても、国宝である五重塔には如何なる毀損も与えませんよ。著作権を侵害するわけでもなく、利益目的の撮影でもありません。どうしていけないんでしょうか? お教えください」と物腰柔らかく丁寧な口調で訊ねた。自分に落ち度はないと確信すればするほど、人は穏やかに問うものらしい。
 彼女の説明によると「撮影に夢中になり、ここから落ちる人がいるからです」とお答えになる。“ここ” とは、五重塔の基段のことであり、高さは1mにも満たない。なかには怪我をする人もいようが、落ちようと落ちまいとそれこそ自己責任である。東寺に落ち度はない。制止の理由は大きなお世話というものだが、おばちゃんと論争する気もなく、ここでもぼくは紳士的に引き下がった。

 現場の監視婦人と電話の担当氏の言質がまったく異なるということは、当事者である彼らでさえぼくの質問する「撮影禁止」の核心的問題について、どのような疑問も説得材料をも持ち合わせていないということが判明したに過ぎない。おそらく「規則だから」という根拠不明で紋切り型の説明に終始するのだろう。
 また他方では、「文化財保護のため」というまったく非科学的な大義名分が大手を振りながら御身大事と闊歩しつつ、臣民に対して「撮影禁止」の如何なる良心的な説得の側面さえ示していないのだということを率直に認めていただきたい。

 ぼくの感情論を大雑把にいえば以上のようになるのだが(まだまだ書き足りないが)、一方では別の見方が「撮影禁止」を支配している。曰く「撮影やスケッチを許可すれば、鑑賞者の滞留を招く」というものだ。それを伝家の宝刀を抜くようにしたり顔で宣うのであろうから敵わない。
 これは鑑賞者の関心の強さや興味の度合いを完全に無視した無感情論である。そこには「見せてやるのだから滞りなく歩を進めよ」との、血の通わぬベルトコンベア的扱いが露呈しているとみるのは穿ち過ぎだろうか? 鑑賞者をモノ扱いするような、結果としての暴挙であるように思われる。お釈迦様はきっと苦々しく思っていらっしゃるに違いない。

 建築物や仏像を前に、素通りする人もいれば、じっくり美の発見に努め、その歴史やいにしえに思いを馳せようとする人もいる。鑑賞者は百人百様であると認めることの基本が失われている。決して安価ではない拝観料を納めて、個人の尊重をよそに、十把一絡(じゅっぱひとからげ)げにされることにぼくらは甘んじなければならない。
 しかしぼくとて、第一にこの場が祈りの場であることは十分に承知している。だがしかし昨今では宗教的見地と商業主義が競い合い、どこかでどのような人も寛容に受け入れるという姿勢が遠のいているように思えて仕方がない。「撮影禁止」の理由の一端は案外そのようなところに因があるような気もする。
 ぼくにしてみれば、写真を撮る行為は己を知り、一種の精神修養のためといっても言い過ぎではないと思っている。神社仏閣に於いては、これでも精一杯自己を見つめ、お釈迦様に感謝しながらシャッターを押しているのである。

 西洋の考え方や仕組みに無批判に与することを由としないぼくだが、少なくともぼくの知る限り世界の代表的な美術館であるルーブル美術館やエルミタージュ美術館では当たり前のことのように「撮影可」だった。両美術館は年間1000万人を超える鑑賞者があると聞くが、人々の観賞のペースもまちまちであり、それを当然のことのように誰もが受け入れている。
 寺院と美術館を同列に論じることはできないが、もうそろそろ美観を損なう「撮影禁止」の看板や貼り紙を撤去し、岡本太郎記念館のように自由な撮影やスケッチの奨励を、お寺さんは考慮してもいい時期なのではないだろうか。

http://www.amatias.com/bbs/30/406.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01萬福寺通玄門」。
開山堂に向かう通玄門(重文。1665年)。空が夕陽に染まりつつあるなか、全身が石のように重くなり、青息吐息の体(てい)で、最後の砦ともう一踏ん張り。
絞りf11、1/125秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02萬福寺開山堂」。
萬福寺の塔頭(たっちゅう)である開山堂(重文。1675年)。開祖隠元禅師が埋葬(開山塔院)されている。特有の卍模様の高欄が見える。
絞りf11、1/125秒、ISO100、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)

2018/07/13(金)
第405回:京都(8)
 拙「写真よもやま話」は私的写真と同様、他者から「この題目で」との指示がないため(拙稿も、本当はあるのかも知れないが、ぼくにその自覚がなさ過ぎるため、結果としていつも出たとこ勝負になってしまう)当人ですら書き始めてみないと何が出てくるのか見当がつかない。弱ったものだ。
 話の展開が勧善懲悪のような予定調和でないだけに、難儀する部分もあるのだが、自由に書くのは気楽なようでいて、ぼくにとって実はこのほうがずっと難しい。しかもどこかに “写真” という語彙を無理やり紛れ込ませなければならないので、事はなおさら厄介だ。

 「お題目」をいただく原稿は初めから焦点を絞ることができるうえに、読者対象も限られているので、筆も滑らかに進む。主観的要素より客観的要素をより強く求められる場合が多く、調べものに費やす時間が多くなるきらいはあるが、やはり「お題目」をいただいたほうが書きやすい。
 しかし、ぼくのような自家中毒気味のタイプの人間は、それでは書いていて面白味を感じられず、手枷足枷の窮屈な思いに囚われることのほうが多い。不自由であるからこそ自由な「写真よもやま話」のような主観的要素の強いもののほうに気が向くのだろう。それが未だ懲りずに続けられる大きな要因ではないだろうかと思っている。

 他者がぼくにライター稼業を求めないのは(しかし何度か経験はある)下手くそなこともあるが、ぼくが客観的なことより、主観的なことに重きを置きたがるのを知っているからだろう。ぼく自身もライター稼業は性に合わないと思っている。つまり自己顕示欲が人一倍強いがためである。
 第一、ぼくが物書きなんて滅相もないことで、「写真屋なんだってば!」と声高に叫んだことが過去には何度かあった。けれど今は叫ばない。

 写真にも、文章書きにも、このような創造の類に、仕事として従事したことのない人ほど、「かめさん、写真屋より物書きになれ」と本気でご注進に及ぶ「勘違いおためごかし」の誠なる愚かぶりを示す者が世の中にはいるものだ。実際、ぼくの身の周りにもそのようなトンチンカンな輩が一人や二人でなくたくさんいる。
 そのような人たちに限って、物づくりの料簡にはとんと疎く、写真には恐ろしいほど音痴ときているから、ぼくはいつも「わざわざご丁寧に、どうもありがとう」と軽く受け流すことにしている。
 彼らは頑迷であり価値観もまったく異なるので話の共通項が見出せず、何をいっても無駄であることを、ぼくは遅まきながら70年の歳月をかけてやっと知ることとなった。おまけに彼らの不自由な脳ミソはいつだって「糠に釘」状態であるから、ぼくとて労が報われない。いろはがるたにある「骨折り損のくたびれもうけ」とは、まさにこれを指す。
 
 連載をお引き受けした当初は1年約50回で写真を始めたばかりの人たちに写真の基本的な知識と技術的な事柄に主眼を置き、またプロの現場で得た撮影のノウハウに触れながら書き連ねたつもりだ。
 一方で、多くのアマチュア諸氏が信じて疑わない怪しげな都市伝説(出所が明らかでなく、多くの人に広まっている噂話。すなわち、伝言ゲームの如し)の徘徊に警戒を呼びかけることもしたつもりだが、連載も1年を過ぎ「もう書くことがないなぁ」と思い始めてから、すでに7年が経過してしまった。なんたること。
 拙稿の担当諸氏から「このへんでお引き取りください」といわれないのをいいことに、8年間も穴を空けることなく、週一度の精勤さを示している。
 その間に読者層もきっと変遷したと思われるが、今は写真にそれほど関心を抱いていない方々からもメールをいただくようになり、継続することの意義や精神的な重責を自らかけることの大切さを教えられている。
 
 さて、題目の「京都」は何処へ行った? ぼくはまだ萬福寺から脱しきれずにいるが、なかには萬福寺が他寺の重文や国宝にくらべ創建年代(1661年)が比較的新しいことと様式が中国様式(明朝風)であることから、関心の薄い向きもあるだろう。
 ぼくがこのお寺さんを訪れて何故かホッと一息つけるような心持ちになるのは、日本的抹香臭さが薄く、大陸的な大らかさを感じ取れるからかも知れない。日本人であるためか、宗教的意味深長さや深刻さに迫られないので、こちらも何となく寺院の持つ大らかさに導かれてしまうのである。加えて、忌々しき「撮影禁止」のお触れがどこにも見当たらないことは、職業柄何ともいえぬような解放感を味わうことができる。
 また、創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は日本では類例がなく、萬福寺には歴史的・学問的にも興味深く、貴重なものがたくさんある。
 一例を記せば、我々が今日使用している字体の明朝体は、開祖隠元禅師が一切経(いっさいきょう。釈迦の教説に関わる教典の総称)を彫刻師に彫らせた版木4万8千枚が元になっている。ぼくが初めて萬福寺を訪れた当時は、字体というものは一般庶民にあまり縁深いものではなかったが、今や明朝体は誰もが知るところとなり、パソコンを扱う身は日々お世話になってもいる。萬福寺が発祥の地とはとても面白い。
 他にも、明朝からもたらされた煎茶、蓮根、孟宗竹、木魚、椅子と机による会食の習わしなどなども萬福寺由来である。

 心身の錬磨と自主独立を培う禅道場の利用は一般も受け入れており、特別指導訓練は5泊6日で行われている。ぼくももう一度精神を鍛え直さなければと思うのだが、永平寺での苛酷さを思い出すと、どうも腰が砕けてしまうのだ。うちの写真倶楽部にも禅道場での修業をお勧めしたい人がいるにはいるんだけれど・・・。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/405.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01法堂」。
法堂(はっとう。一重入母屋造。1662年)。背にした大雄宝殿の足の長い影が、法堂の前に敷かれた白砂をほどよく覆ってくれた。
絞りf11、1/160秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02卍崩しの高欄」。
法堂から大雄宝殿を望む。軒下に太陽をわずかに覗かせる逆光のアングルで。卍崩しの高欄の影が延びる。
絞りf11、1/320秒、ISO100、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)

2018/07/06(金)
第404回:京都(7)
 写真の好きな父はぼくの青年時代、当時高嶺の花だったスウェーデン製のハッセルブラッド(Hasselblad。6 x 6 cm判の一眼レフ中型カメラ)やドイツ製のライカをどこからか手に入れ愛用していた。その最大の理由は描写能力の良さや、ましてや贅沢趣味ではなく、デザインの美しさやメカの素晴らしさに憑(つ)かれ、惚れ込んだことにあったようだ。
 表に持ち出す時は、なるべく人目につかぬように、鹿革で自作した袋をカメラに被せ、撮る時だけ身を晒すようにしていた。それが彼の美学でもあったのだろう。これ見よがしに持ち歩くことをひどく嫌っていたようにも見えた。そしてまた、彼は照れ屋でもあった。照れ隠しに鹿革の袋は必需品でもあったのだ。

 「何故か?」とか「どうしてなのか?」を解説させれば人後に落ちない説得力を持っていた父は、ハッセルブラドやライカ、そしてそのレンズ群を手に取り「坊主(ぼくのこと)、ここを見てごらん」と、そのデザインについて、そして材質や加工について事細かく自説を展開した。あれから半世紀が経った今、ぼくはそれをとても興味深く聞いていたことを昨日のように思い浮かべている。
 ライカはどのような焦点距離のレンズをつけてもボディとレンズのバランスが崩れないと、その使い勝手の良さにも言及していた。当時、国産品を愛用していたぼくに、「いずれこれらは君のものになるんだなぁ」と高笑いをしていたものだ。
 写真屋になるための丁稚奉公(徒弟制度)を決心した時、父はこの世の人ではなかったが、ぼくはライカ道楽などしている場合じゃないと、ハッセルブラドを残して、父の貴重な遺品(ライカ)と自前のライカ製品すべてを潔く売却してしまった。父が亡くなって数年後のことだったが、父の高笑いも同時に消えていた。

 父の京都行きにはしばしば同行したことがあるが、仏教やその建築に精通していた彼が神社仏閣にレンズを向けているのを見たことがない。英・米の児童文学者や研究者、大学教授などが我が家にしばしばホームステイしていたが、遠来の客を京都に連れて行き、写真を撮らずに会話を愉しんでいた気配が濃厚であった。なかでも、桂離宮や修学院離宮は特に印象深かったが、写真はもっぱらぼくが請負っていた。

 父の解説に熱心に耳を傾けていたボストン大学教授であるE氏がぼくに、「桂離宮について、現代の若い日本人であるあなたはどう感じるか?」と問いかけてきたことがあった。
 ぼくは拙い英語をやり繰りしながら、「桂離宮は過剰だ。凝り過ぎだ。凝り過ぎていやらしい。『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』とはバウハウス(Bauhaus。1919〜33年。近代建築やデザイン分野の確立に大きな足跡を残した)の教え。その教えがすべてとは思わないが、本質的な部分を言い当てているような気もする。桂離宮はたいしたものだとの考えは変わらないが、ゆき過ぎや華美、たとえば先週行った日光陽明門(彼はそれを見て、“Too bright ! ” 派手すぎる、と評した)などは基本的に日本人の性に合うものではなく、ぼくは好きではない。何故ならそれは時によって不幸や不虞(ふぐ。思いがけない出来事。この場合は不調和や余韻を欠くこと)を招きかねないから。ぼくは修学院離宮のほうにずっと好感を抱く」と答えたことがある。
 誠に不全な受け答えだ。気のぼせではなく、明らかに知識と理解の欠如であるが、その嗜好は今も変わらない。
 ここでも父の高笑いが聞こえたが、彼はたとえ自分の息子であっても他人の浅学を笑うような人物ではなかったので、今となっては彼の意味するところは不明であるが、「桂離宮」という固有名詞を見聞きするたびに、ぼくは父の高笑いが気になって仕方がない。

 昨夜、萬福寺の三門を補整していてその最終段階に近づき、画像に荒びがないかを点検していた。多くの画像を重ねたり、調整を繰り返しているうちに画像は思わぬほころびを見せるものだ。補整画像は無論psd(Photoshop形式)かtif であり、jpegは御法度である。
 Photoshopで画像を200%に拡大し、荒びやほころびがあれば「ぼかしツール」でその箇所を丁寧になぞっていくのがぼくの常套手段なのだが(この作業で全体の視覚的解像感を損なうことはない)、拝観料を支払うところの足元に小さな立て看板が置かれてあることに気づいた。地面に立てられた高さ50cmほどのもので、ほとんどの人は見逃してしまうのではないかと思われる。
 そこには「僧侶の写真はご遠慮ください」とだけ書いてある。この文言を写真上で発見したぼくは、何故か喜びと安堵に近い感情が持ち上がってきたことを知った。
 「僧侶以外であれば何を撮ってもかまいませんよ」と、この看板は拝観料を支払った人々に大らかに訴えているように思えたからだった。どこの名刹へ行っても目障りで、無感情で、無愛想で、無慈悲な「撮影禁止」の4文字にうんざりしていたぼくにとって、この発見は思わぬ果報を得たような気分だった。「お鉢が回ってきた」とはこのようなことを指すのだろう。昨夜はぼくが高笑いをする番だった。

http://www.amatias.com/bbs/30/404.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01大雄宝殿十八羅漢像」。
大雄宝殿に鎮座する十八羅漢像。仏師・范 道生(はん どうせい)が1664年に製作したもの。
絞りf5.6、1/20秒、ISO400、露出補正-2.00。

★「02大雄宝殿羅怙羅尊者像」。
十八羅漢像のひとつである羅怙羅尊者像(らごらそんじゃぞう)。釈迦のご子息で、胸から仏様が覗いている。誰の心にも仏様が宿ることを表している。
絞りf5.6、1/30秒、ISO400、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2018/06/29(金)
第403回:京都(6)
 写真や文章が抹香臭くならないように心がけているつもりではいるけれど、この「京都」シリーズは、京都や宇治の神社仏閣を訊ね歩いたものであることを顧みればある程度は仕方ないこととご了承をいただきたい。
 とはいえ、ぼく自身は宗教に対して人並みの興味や探究心くらいは持っているが、信心家でもなく、また研究者でもなく、単なる一写真屋としての貧相な知識の開示に他ならないことも併せてご理解いただければと思う。

 大学を卒業し、他社より給金のほどよい出版社に入社し、ぼくが最初に購入した書物が出版されたばかりの「日本思想体系『道元』上・下巻」(1970年の初版本。岩波書店)だった。ケース入りのハードカバーで1冊1300円もし、当時の物価からすればかなり高値なものだった。同シリーズの『法然』、『親鸞』と続き、そこでぼくはついにギブアップしてしまったのだ。
 文章が古語であるうえに、いくら注釈が付けられているといっても難解そのものだった。興味だけで読み通せるものではなかった。第一、漢字が読めないし、意味も理解できない。古語辞典と漢和辞典、広辞苑をさかんに繰りながら、それでも意地になって通読した痛い経験がある。今その書籍は書棚の隅で埃を被り、カバーは黄色く日焼けして眠っている。

 それらの書物の文意が手にあまると、父に「とうちゃん、ここはどういう意味か?」と質問するのが常だった。父は仕事の手を休め、丁寧にさまざまなたとえを引き、噛み砕くように解説してくれた。それは大学教授が小学生に難しい方程式を教えるような仕草に似て、今思えば滑稽そのものだったように思う。ぼくはいつもものの分かった風な賢い教え子の振りをしたものだ。
 父は専門家ではなく、宗派には無頓着を決め込んでいたが、その分野には精通していた。英国滞在中にはケンブリッジ大学でインド哲学を小遣い稼ぎのためによく講義していたと、サー(Sir)の称号を持つ親しい英国人が教えてくれた。
 「人は清濁を併せ持つものだ。それでいい。その清濁こそが、人が人たるゆえんであり、清濁を認め、寛容であることが一番大切なこと。それを称して『清濁併せ呑む』というのだよ」と父に教えられたものだ。

 学生時代、道元(1200-1253年。禅僧。日本に於ける曹洞宗の開祖)ゆかりの地である福井県は永平寺に、その著書である『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の紙本墨書があることを突き止め、訪れたことがあった。今のようにネットで安直に調べがつかなかった時代のことだ。
 どのような拍子からか、ぼくは6日間だったと記憶するが、雪深い永平寺の宿坊に泊まり座禅を組む羽目になった。あろうことか、ここに漂う妖気に心負けし、血迷ってしまったのだ。座禅に対する興味もあったのだが、あまりの厳しさと寒さに、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、ぼくはほうほうの体(てい)で逃げ出した根性無しでもあった。

 今回、お寺さんを訪ねながらぼくはそんな昔を思い出していた。僅かながらの経験や知識がぼくの写真にどのような影響を与えるのかは皆目見当がつかないが、たとえ場当たり的であっても、被写体に対する知識や執心がまったくないよりは、あったほうがイメージの構築が成しやすいのではないかと思う。
 余談だが、東寺を訪れた時など、塔頭(たっちゅう。大寺院の敷地内にある小寺院や別坊。脇寺とも)のひとつ観智院にある宮本武蔵の筆になる「竹林の図」や「鷲の図」を見逃すというヘマを見事にやらかしてしまった。
 茶室「楓泉観」(ふうせんかん)に目を奪われ、第一の目的であった武蔵の絵をすっかり忘れてしまった。ここでもぼくは妖気に負け、魔が差してしまったのだ。
 つまりぼくの知識や向学心はそれほどのものでしかないということらしいが、父の教えに従えば「人は清濁併せ持つ」のだから、拝観料を惜しむくらいが人間的愛嬌としてちょうどいいのではないか。

 話はいきなり飛ぶが、写真を撮る人々を俯瞰してみると、やはり父の教えは生きているように思える。清濁を併せ持っている人のほうが面白い写真を撮る。「面白い」とは、「味のある」とか「色濃い」という意味だ。また、良い意味での個性(作為的でないという意)も際立つ場合が多いように感じてならない。
 いつだったか拙稿で「聖人君子は写真が撮れない」と喝破したことがあるが、今もその信条は変わらない。聖人君子などこの世に存在するとは思っていないが、そのようでありたいとかそれを人間の理想像として持ち上げ、自分の物差しとして「人物評価をしようとする人々」は面白い写真が撮れないと言い換えてもいい。濁を悪いものと定義し、「清濁併せ呑む」ことを知らないからだ。
 人間として大変な善人であり、極めて常識人ではあるが面白味に欠けるという人はたくさんいる。写真もそれに準じているように思えてならないのはぼくひとりだけだろうか?

 こんな持論を展開すればするほど、ぼくの掲載写真は墓穴を掘りそうな気もするのだが、これが生業だから、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」か?

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/403.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01萬福寺大雄宝殿」。
1668年建立(重文)。「大雄」とは釈迦如来の意。天井は円弧形の垂木を蛇腹梁や束で支える「蛇腹天井」(別称黄檗天井)で独特の建築様式。大雄宝殿は日本では唯一最大のチ-ク材(世界で最も優良とされる木材がチ-クとマホガニ-)を使った歴史的建造物。
絞りf10.0、1/40秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「02萬福寺大雄宝殿裏正面」。
ぼくはこの伽藍のプロポ-ションが気に入っており、画面内に太陽を入れた真逆光でシルエットのように。
絞りf11.0、1/200秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2018/06/22(金)
第402回:京都(5)
 お寺さん巡りをしているうちに、写真屋としてある種の職業的葛藤に悩まされた。それは理性(科学)と感情(心情)の相剋ともいえるもので、今回の旅ではそれを痛切に感じた。

 ひとつは、寺に祀られている仏様(神仏や菩薩の彫刻など)が、科学的人間の仕業によって無慚(むざん。戒律を破って心に少しも恥じ入ることのないこと)にも本来安置されるべく場所を追われ、陳列棚やガラスケースに移され、押し込められているということだ。
 仏様をそんなところに鎮座させ、見物・観賞という名のもと、ライトを当てて晒しものにしていいものか? 信心の希薄なぼくでさえそれはとても罪深いことと思え、 “魂を抜かれた” 仏様は、またいたましくも見えた。写真を撮れない(撮影禁止のため)写真屋は、さらにいたましい。

 今ぼくは無理難題を押し通して語っていることを十分に承知している。歴史的な人間の遺産として、あるいは芸術的な価値として、後世の人々に伝え残す意義をぼくはないがしろにしているわけではなく、それどころかとても大切なことと認識しているが、こと仏様にまでその手を伸ばしても良いものなのかという哲学的難題に突き当たってしまうのだ。それはまた倫理的な問題にも直結している。
 仏様は長い間人々の信仰の対象として、ありがたく祀られてきた。人々は堂宇(どうう。堂の建物)に祀られた仏様に、願いや安らぎや救いを求めて敬虔な祈りを何百年もの間絶えず捧げてきた。祈りの場としての重責を、仏様は十二分に果たしてきたし、これからもそうであろう。神の化身としての大役を担い続けてきたのである。心情的には科学的価値より人間の精神的価値のほうに荷担したいというのが、ぼくの偽らざる本心でもある。

 仏様の祀られた寺の構造的・建築的な配慮から見ても、伝統的に堂宇の前には白い玉砂利が敷かれ、それが一種の反射板(レフ板のような)の作用を成し、柔らかく(光源が広いので)、ほのかな光となり、仏様を下方からボーッと照らしている。
 仏や菩薩にあたかも後光が差しているように感じ、人々はなおさらありがたさや尊崇、敬仰、畏敬の念が自然に湧き上がってくるものだ。玉砂利の効用は、人間の視覚を巧みに応用した心理作戦でもある。堂宇の造りもそのような雰囲気作りに大きな貢献を果たしている。お寺の門をくぐれば、規模の大小に関わりなくそこはもう別世界であり、不信心者でさえ手を合わせながら、賽銭のひとつも奉納しなければならないとの気になる。

 お寺さんが存在する限り、本尊には当時の仏師(広義に解釈すれば仏像を作る工匠だが、素晴らしい彫刻家でもあった)が心を込めて制作した “生きた” 仏様を安置すべきだというのがぼくの考えだ。仏の尊顔を拝すとはそのようなことをいうのではないだろうか。
 イミテーション、もしくはレプリカで事を済ませてしまおうというのは、まさに「仏作って魂入れず」であり、画竜点睛を欠く(がりょうてんせいを欠く。よくできてはいるが、大事なところが欠落しているので不完全であるさま)に似ている。

 写真屋の身として、陳列棚やガラスケースに収められた仏像の類は、もし「撮影禁止」の貼り紙がなくとも意欲を著しく費えるものだということを、今回の旅は教えてくれた。
 前述したように、それらは保存を目的とされるがゆえに、本来のお役目を解かれている。魂を抜かれ、もはや信仰の対象でもなく、美術的、考古学的、学問的な意味に重点が置かれ、祈りではなく観賞の一端として、しかも乱暴なライティングに晒されている。美術鑑賞といえば聞こえは良いが、態のいい商業化にすぎない。

 境内を歩きながら、ぼくは後世に残すための保存の大切さと仏様の本来のあるべきお姿の板挟みにあい、どこで折り合いをつけるか考え込んでいたといってもいい。ぼくはこれでも見かけによらずきっと苦労性なんだね。

 さて、話を萬福寺に戻すが、高校1年時に総門(前回掲載)を見た途端にぼくは「この寺には他では見られない何かがある」と直感し、惹かれるものがあった。入口である総門のこしらえからして一風変わっており、ぼくの知る寺の概念からするとかなり異国風な装い(中国門の牌楼式。パイロウ)である。
 あとで知ったことだが、このお寺さんは中国僧の隠元 隆g(いんげん りゅうき。中国明代。インゲン豆やスイカをもたらした)が、1659年に新寺開創の上旨を受け黄檗山萬福寺とした。黄檗とは、三大禅宗である、臨済、曹洞、黄檗を指す。

 法堂(はっとう)の高欄は「卍崩し組子」(法隆寺などにも見られる)、開山堂は「卍文様」、大雄宝殿(だいおうほうでん)は「欅高欄」であり、これらはチベット仏教を源としているそうで、そのような設えが異国情緒を醸している一因でもあるのだろう(写真は後々掲載)。
 ぼくがこのお寺さんに強い魅力を感じたのは、第一に大雄宝殿のプロポーションにある(次号に掲載予定)。そして、萬福寺に安置されている仏像などは、当寺に電話で直接問い合わせたところ、レプリカではなく当時のオリジナルのままだという。大雄宝殿の読み方についても、物の本に書かれてある「だいゆうほうでん」は誤りで「だいおうほうでんです」と、おねえさんが京都弁のアクセントで力を込めて、しかと教えてくれた。

 そして最も肝心なことは、「撮影禁止」の貼り紙や看板がどこにも見あたらないという、写真屋にとって願ってもない気持ちの良い場所だったのである。しかしぼくは電話での問い合わせ時に、それを訊ねる勇気がどうしても持てずにいたのだった。もし禁止だと知れば、職業倫理に照らし合わせ、公開できないことになってしまう。今、禁止でないことを願うばかりだ。
 相剋のふたつめについては、今述べた社寺仏閣で頻繁に見かけるあの忌々しき「撮影禁止」である。これについてのウンチクはいずれ近いうちに述べようと思っている。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/402.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。EF24-105mm F4L IS USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01萬福寺廣目天」。
天王殿に構える四天王のひとつ、廣目天。
絞りf5.6、1/25秒、ISO400、露出補正-2.00。

★「02萬福寺韋駄天立像」。
天王殿。韋駄天立像は江戸時代の名仏師・范 道生(はん どうせい。中国福建省生まれ。1635-1670年)の作。
絞りf5.6、1/30秒、ISO400、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2018/06/15(金)
第401回:京都(4)
 京都に於ける撮影日数は正味6日間。じっくり撮るには少なすぎる時間だった。電車であちこち移動したのが2日、従兄弟から借りた車で走り回ったのが1日、義弟から借りた自転車漕ぎが3日という具合だった。撮影枚数は1日200枚前後だから(人物スナップがないので少な目。社寺仏閣が多かったのでさらに少な目)ぼくとしては順当な枚数といえる。
 若い頃は気にかかったものすべてをどの様な条件下であっても安心料として「取り敢えず」撮っておくことに励み、「取り敢えず」安堵して事を済ませたものだが、そんなことを何万回か繰り返しているうちにぼくとて少しだけ利口になり、また知恵もつき、被写体選別の機能が身についていった。
 とはいえ、撮らないことへの不安が解消したわけではない。気がかりなものは撮っておかないと不安感に襲われるのは写真を愛好する者の業のようなものではないか? 今のぼくは、「オレはダボハゼじゃない」のだから、撮らないことの勇気を持ちたいと願っている。実のところ、それは未練がましい勇気と言い訳をどこかで使い分けようとしているようにも思える。

 「取り敢えず写真」にはほとんど碌なものがないことを知りつつも、 “ごく稀” に「よしっ!」というものに突き当たってしまうのでまことに始末が悪い。
 「写真にまぐれはない。あってたまるか」との確信的信条を持ちつつも、この偶然性による結果が何によるものなのかは厳密に検証する必要があると考えている。無意識のなかで、何が知らずのうちに作用し、表出したのかということである。それが写真に表れるのだから、面白い。
 偶然性を見計らい予知することができないのは、未熟といえばそれまでだが、これはどの様な分野にも(特に陶芸など)あり得ることではないだろうか。ここに新たな発見を見出すこともままあるのだから、偶然性も大切なものだとぼくはしている。

 気になったものを撮らなかったことへの未練が生じ、いつまでも後悔の念がつきまとう。二度とない機会だったかも知れないとの思いをずっと引きずってしまう。居ても立ってもいられなくなる。「どうしてあの時シャッターを押さなかったのか?」との忸怩たる思いを払拭するのにかなりの時間を要してしまうのだ。実に後味が悪い。
 「よしっ!」との “ごく稀” は、まさに宝くじのようなものなのだが、しかし人々はこの千載一遇(せんざいいちぐう)を諦めきれず、博打を打ちながら、厚かましくもそこはかとない期待を抱く。宝くじは買わなければ当たらないのと同様に写真も然りだ。「取り敢えず写真」とて宝くじと似たような面があるのだから、「撮った者勝ち」だと、ついつい情にほだされて撮るはめに陥ることしばしば。

 撮るか撮らないかの分かれ目は、少々知恵づいたぼくにとって「イメージが醸成できるかできないか」に尽きる。それをさらに分析すると、一に「自分への懐疑」、二に「被写体と背景の調和」、三に「被写体と光(方向や強さや光質)の整合性」、四に「技術的な問題」、五に「面倒くさい」である。
 一〜四は、自身にフィードバックできるものが見つかり、得心すれば撮ることへの戸惑いはない。しかし、五の「面倒くさい」は、ぼく自身の本性とも稟質(ひんしつ)とも本能的なものともいえ、それを努力して解決するのはさらに大儀がつきまとう。したがって、ぼくはどうしても求道者たり得ない。だから、「撮らないことの勇気」などという禅問答のような放語をそれらしく駆使したがるのだ。

 一喜一憂しながらの京都撮影行は、当初生家や遊んだ場所など思い出深い場所を中心に撮る予定でいたが、当時の様相も長い年月の間に著しく変容し、あっけらかんとしていた。当然予測できたことだが、ぼくも湿っぽく悪女の深情けのような懐古的情感をあっけらかんと放棄することに手間暇がかからなかった。「取り敢えず」撮るには撮ってみたが、まだRawデータのまま放置している。
 それより、青春〜青年時代に何度か通った仏閣の一部を巡り、今写真を撮ったらどのようになるかに興味が移っていった。
 
 お寺さんや仏像を含む彫刻写真について、一応のお断りをしておかなければならないが、ぼくの掲載写真は、美術展の図録や考古学的研究を目的としたものとは大きな隔たりがある。かつて、そのような目的で何度か大がかりな撮影をしたことがあるが、今回は精神を解放したまったく奔放なるものであり、被写体の写実ではなく、自身の写実である。

 高校1年の夏休み、友人2人(小・中学時の)を伴って訪れた仏閣のひとつが宇治市にある黄檗山萬福寺(おうばくさん まんぷくじ。開創1661年)で、どこか異国風な趣が非常に印象的だった。今回は3度目の訪問にあたるが、何故このお寺さんに惹かれるのかが改めて分かったような気がする。
 創建当初の姿をそのままに伝える寺院は日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群である。詳しい解説はそこそこに、前回の石峰寺から這うようにしてぼくは萬福寺に辿り着いた。疲労の極致にあったが、ここでなんとか2時間カメラを振り回し生き延びてみようと決意も堅く総門をくぐった。

http://www.amatias.com/bbs/30/401.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01萬福寺総門」。
「帰りはどこかで行き倒れになる」と、覚悟しながらくぐった総門。意外にも小さな総門だ。
絞りf11.0、1/160秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02萬福寺三門」。
三門。山門とも書かれるが正しくは「三門」だと相国寺の坊さんが教えてくれた。三門とは、空門・無用門・無願門の意味で、三解脱を指す。
絞りf10.0、1/50秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2018/06/08(金)
第400回:京都(3)
 自身の体力が唯一の心配事と書いたが、実は京都に到着する前からぼくは困憊していた。重い荷物を抱えながら自宅から駅まで10分ほどを息せき切らせながら歩いたことが大きな要因だと思っている。これがしばらく尾を引いたことは間違いない。
 いつもは撮影というと車がもっぱらであり、このような苦行を強いられることはなかった。特に仕事では機材が重たいので北海道だろうが九州だろうが、勇躍車を飛ばしたものだ。海外へのロケもタクシーを呼んで自宅から空港へのターミナルである大宮まで行き、そこから高速バスに乗り込み成田へ向かうのが通例だった。体力の消耗を極力防げたわけだが、今回ぼくは自宅から北浦和駅へのタクシー代を惜しんだおかげで(というより体力を過信していたきらいがある)新幹線にへたり込んだというのが真相である。このことは今後の良い教訓となった。万全の体調で撮影に臨まなければならないのは、体力を要する写真人としてプロ・アマに関わらずのことだ。

 京都駅に辿り着いたぼくは相続で世話になった従兄弟たちへ心ばかりの手土産を買うため、荷物をロッカーに押し込め、勝手の知れぬ名店街をうろつかなければならなかった。普段、旅先で土産を買う習慣のないぼくにとって、あれこれ物色するのはことのほか負担だった。
 手荷物に埋もれるような出で立ちでぼくは一番初めに世話になる宇治市の従兄弟宅玄関に倒れ込んだ。体力はすでに限界に近づき、「こんなはずではなかった。明日から写真など撮れるだろうか? 8日間体がもつだろうか? どこかで行き倒れになるに違いない」と、初日からぼくはすっかり弱気になり、自信を失っていたのである。
 体力回復の特効薬は十分な睡眠と心得、缶ビールを3缶流し込み、ぼくは8時間の睡眠を確保したが、若い頃と違い、悲しいかなそう容易く復調とはいかなかった。

 仕事と異なり、予定をまったく立てていなかったぼくは、翌日の朝食時に従兄弟から「石峰寺(せきほうじ。石峯寺とも。度重なる災火に消失するも、1704-11年再建。拝観料を払い屋外の羅漢さんを撮影させてもらった)に行ったことある? 風雪に打たれた五百羅漢さん(製作1700年代。相国寺に縁の深い稀代の名画家伊藤 若冲の製作)が竹林のなかにたくさんあってな。なかなかのもんえ。お兄ちゃんの好きな万福寺さんも近くにあるので、ぐるっと回ったらええわ」とマネージャーのような顔をして京都弁で推薦してくれた。ぼくはすぐさま「よし、行ってくる」と返した。

 五百羅漢についての詳細は専門ではないので割愛するが、簡単にいえば仏教に於ける供養尊敬を受けるべく聖者500人のことで、正式には「阿羅漢(あらかん)」という。
 五百羅漢は全国各地に存在し、我が家からの至近では川越喜多院の五百羅漢が有名であり、ぼくも一度行ったことがある。あの造形は一般受けするだろうが、へそ曲がりのぼくは世評とはまるで異なり、どこか作為的であり、深い精神性が伝わってこないので当初から好感を持てずにいる。かつて写真を撮ったこともあるが、ぼくにとって撮影の誘惑に駆られるようなものではなかった。近年、川越には何度も赴いているが五百羅漢再訪の意思はまったくない。

 石峰寺本堂の裏手にある小さな山を歩くと、竹林のなかに様々な顔や姿態の、風情ある羅漢さんが数多く点在している。良い予感がしたのでぼくは地べたに腰を据え、高ぶる気持ちを抑えながらひとつひとつじっくり味わうことにした。
 伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう。1716-1800年)の芸術家としての生き方に、深い共感を寄せているぼくは、若冲の下絵をもとに石工が彫り上げた五百羅漢像に敬意を払い、地面に腰を下ろした低い視線(アングル)から暫し観賞した。それらは釈迦の誕生から涅槃までの一生を描いた石仏群であり、他に鳥獣を表したものもあり、苔むし長年の風雪によって丸みを帯び、200余年の歳月を物語っていた。深味のある玉容は川越の比ではない。

 竹林に混じり鬱蒼とした樹木の間からの木漏れ日が美しく、シャドウとハイライトの強いコントラストも相まって、それを利用して撮るのはとても難しい。
 光に恵まれることが第一だが、薄暗く柔らかい光のなか、どのくらい質感描写ができるか、そして立体感が描けるか、ぼくは戸惑いを隠せなかった。えらく難しい宿題を背負ってしまったかのような気がした。
 光を拾い上げる困難さに直面したぼくは、手っ取り早く光の条件に合った羅漢さんを選ぶことに専念したといってもいい。気に入った羅漢さんを理想的な光に合わせようとすれば、何日間も石峰寺にへばり付かなくてはならなかったからだ。

 ぼくは気心の知れた写真好きの友人に、気を静めるために竹林のなかから電話をした。「もの(羅漢さん)は素晴らしいんだけれど、光の強弱が際立って参っているよ」というと、彼は「かめさんならきっと上手く誤魔化すだろうよ。現像したら見せてくれよな」と。圧力をかけられたぼくは「電話なんかしなきゃよかった」と羅漢さんに訴えると、「この粗忽者が!」と叱られたような気になった。

http://www.amatias.com/bbs/30/400.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF24-105mm F4L IS USM。
撮影地:京都府宇治市石峰寺。

★「01石峰寺」。
赤子を抱いているのだろうか? 後ろは獣? 光の当たり具合を見て羅漢さんを選ぶ。
絞りf9.0、1/40秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02石峰寺」。
何をお困りなのでしょうね。
絞りf6.3、1/40秒、ISO200、露出補正-1.67。
 
★「03石峰寺」。
珍しい涅槃像。首から先が割れて落ち、尊顔を拝することができないのが残念。左後ろの羅漢さんが口を開けて「ありゃ、大変だわ」といったとか、いわないとか。
絞りf7.0、1/30秒、ISO200、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)