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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2021/11/26(金)
第572回:道具とは、「帯に短し襷に長し」?
 写真に肩入れをすると、誰でもが使用機材や関連ソフトに欲が出て、否応なく散財を繰り返すことになる。これはぼくだけの現象ではないと思う。趣味の世界に於いてごく自然な現象と思うが、熱を帯びるほどにそれが繁茂し、やがて抜き差しならぬ状況になってしまうことは、写真に限らずどの様な分野でも同じであろう。 
 自身を振り返り、また周囲を見渡すと、趣味に興じている限り(仕事ならなおさら)、永遠に続くものだとの確信をぼくは抱いている。逃れようのない業のようなものだ。出費を気にしつつ、それを警戒しながらも、抗うことはできず、知らずのうちに深みにはまっているという寸法だ。体温を測っていると、体温計の水銀柱(古い?)がどんどん上がっていくが如く、一般的には趣味に対する熱と出資も熱意に比例して上昇する。これはある意味、上昇志向の具体的な表れでもあり、それを測る指針ともなる。

 では、抜き差しならぬ深みにはまってしまった人は、必ずしも上達を約束されるかというと、世の中そんな甘いものではないので、事は厄介だ。だが、深みにはまらないと上達が思うに任せずという現実も一方にはある。ここに至って、その約束を果たそうとする人は、上達が保証される傾向がより強いものだ。
 機材やソフトの出資を惜しむ人は、「今あるもので間に合わせる」という “知恵” がそれなりにつくのだが、そこにはやはり限界がある。経済的な制約は誰にもあるが、その限界を何処に持って来るかで、その人の方向がある程度決まってしまうといっても過言ではない。このことは、ぼくが今まで助手君をも含めて、数十人の写真愛好家と触れあった、その経験則によるものである。
 ただ一言添えておかなければならないが、経済的に制約がなく、高価な道具を惜しみなく手にしている人は、道具と一心同体になれず、とんでもなく下手な人が多いことも事実だ。これは、ぼくのやっかみではない! 

 話は前後するが、「今あるもので間に合わせる」との “知恵” を以(もっ)てこそ、適材適所に使いこなすための機材を無駄なく選択する見識が生まれるものだとぼくは思う。
 だが、無駄を重ねないと深遠には行く着くことができないとの信念も、ぼくはついでに持っている。「無駄はできるうちにしておきなさい。無駄を肥やしにするか、できないかはあなたの心得次第」とえらっそうにいうが、それはぼくの偽りなきところだ。その本心を、ぼくは自身に向けてきたと、えらっそうでなく、ここでいっておきたい。

 この連載の初めの頃に、「弘法筆を択ばず」について触れたことがある。この諺について論じるほどの、十分な経験や学識、素養や知見をぼくは持ち合わせているわけではないが、たとえば生涯に約12万体の仏像を彫ったとされる江戸時代前期の仏師・円空(1632 - 1695年)は、鉈(なた)での一刀彫りのようにいわれているが、滋賀県や岐阜県で撮影のため20数体ほど実見したぼくは、円空が多数の彫刻刀を用い丁寧に彫っていることを知った。同行した学芸員も、円空が鉈1本で彫ったという風説はまったくの誤りであることを教えてくれた。
  “適材適所” の教え通り、性格の異なったそれぞれの彫刻刀を駆使しながら、あたかも一刀彫りであるかのような印象を与え、特有の作風に昇華させた円空という仏師は、紛れもない天才だと感じるのはぼくだけではないだろう。もともと円空仏に魅せられていたぼくは、非常な感銘を覚えながらシャッターを切ったものだ。

 道具の適材適所について、写真に限っていうならば、撮影目的に合致した道具立ては、撮影の困難さを軽減させ、また同時に画質や写真のクオリティーを保ったり、上げたりすることに少なからず貢献してくれる。
 8月末に新調した100mmマクロレンズ(以前使用していたものも同社のマクロレンズなのだが、マウントが異なるため新たに購入)をなんとかこなそうと目下奮闘中であることは、拙稿に何度か記した。今のところ、7勝3敗といったところか。

 マクロレンズを持っていない方は、接写リングやクローズアップフィルターで賄うという知恵も一方にあるが、使い方が限定されるので、やはりあくまで「間に合わせ」の感は否めない。限定的な選択肢のひとつだとは思うが、使い勝手やクオリティーを勘案すると、マクロレンズには到底敵わない。それ用に作られているのだから当たり前のことなのだが、諸収差(特に像面彎曲と歪曲収差)が極力抑えられているので、通常の望遠レンズと比べても、クオリティーにまったく遜色がなく、それどころか優位な点がいくつも見出せる。中心から周辺までの描写が均一(ピントの平面性が一般のレンズより優れている。像面彎曲)なのもそのうちのひとつといえ、この秀逸さは撮影時に神経を尖らせずに済む。どれほどありがたいことか。

 写真の道具立てのなかで、特に抜き差しならぬ状況に陥ってしまうのがレンズだ。それをして「レンズ沼にはまる」(ぼくはこの表現が嫌いなので、もう使わない)というらしいが、レンズほどではないにしても、ひとつで賄いきれないものに、三脚やカメラバッグがある。どのような製品でも「帯に短し襷(たすき)に長し」だとぼくは思っているが、使用中に我慢ができなくなると、まるでコレクターのようにあれこれ手を伸ばし始める。気がついてみたら、いつの間にか三脚もバッグも数個ずつなんてことになっている。ぼくの場合、すべてがこの有様である。
 このような状況に陥った時の恐さは、出費ではなく、実のところ女房殿なのだ。戦慄を全身に走らせながらも、必要と思い始めたらもう我慢ができない。針のむしろに座ったような心地を耐え忍び、やがてそれらがぼくの上達にわずかながらでも寄与していると思わなければ、やっていけないのである。

https://www.amatias.com/bbs/30/572.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF 100mm F2.8L Macro IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
彼岸花。以前(第517回)に掲載の彼岸花は赤のイメージを大切にしたが、今回はモノクロをイメージ。わずかに調色を施す。
絞りf2.8、1/160秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02さいたま市」
彼岸花の盛りは非常に短い。「01」と同じ日に撮ったが、もう2,3日もすれば完全に色褪せてしまうのだろう。
絞りf2.8、1/200秒、ISO125、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/11/19(金)
第571回:やっぱりぼくはおめでたい
 友人から「君は、 “よもやま話” を利用して悪態ばかりついているな。たとえば “コスモス” や “ウォーキング” などに恨み辛みを執拗にぶつけている。鬱憤晴らしを、何とか写真に託けて、ストレス発散の場にしている。そんなことをしている君を見ていると、なんとも羨ましい限りだよ」なんてことをいってきた。ちょっと的外れな指摘ではあったけれど、甘受しておこう。
 「今は誰でもがSNSを利用してぼくと同じようなことをしているんじゃないの? 自分の考えを何らかの形で文章化し、それを世間に公表したり、訴えることは以前には考えられなかったことだ。それをするには活字媒体を利用するしか手がなかったし、それができるのは限られた人たちだけだった。いってみれば、その分野のエキスパートと目されている人たちの特権ともいうべきものだったわけだ。
 だが、今はそうじゃない。誰もが自分の意見や考えを世に伝える手段を有することになった。それが時代の流れだと思うけれど、ぼくの場合はテーマが “写真よもやま話” と銘打ち、写真に関連付けられているので、その “紐付け” に苦心惨憺している。必ずしも、言いたい放題ではないのだよ。
 SNSやネット の風潮に倣って、“紐付け” とか “ハレーション” という言葉も一般化し、言葉の定義と使い方もそれに即して使用されるようになってきた。別に若ぶるつもりは毛頭ないけれど、言葉の使い方が独善的でなく、あるいは誤用や汚いものでなく、広義になるのであればむしろぼくは大いに歓迎すべきことだと思っているよ。社会文化に貢献するという意味でもね」と、ぼくも少々的外れな返答であることを承知の上で彼にそう返した。

 そして、読者の方からメールをいただき(以下、文面そのママ)、「私も亀山さんと同じ100mmのマクロレンズを愛用していますが、風に揺れるコスモスを等倍(倍率1.0倍)、あるいは限界の1.4倍(新しいRFマウント用の100mmマクロレンズは倍率1.4倍という驚異的なもの)で撮ろうとすると、ピンボケばかりで、ちゃんと撮れたためしがありません。亀山さんのようなプロでも、やはり相当苦労なさっているのですね。それを聞いて安心しました。どのようにすれば良いかと途方に暮れる次第です」(かっこ内は亀山注)と記されてあった。

 「私もそのお話を伺って安心しました。ぼくだけが意気地なしと思い込まずに済みそうです。カメラを担いで、国内はもとより、海外でも散々場数を踏み、修練を積んできたつもりの私は、フィールドワークにはそれなりの自信があったのですが、コスモスに恨み言を書き連ねました。自分の技術不足を棚に上げ、恨み骨髄に入ってしまいました。コスモスこそいい迷惑ですね。
 取り敢えずの解決方として、無謀に槍を振り回すが如く、被写界深度を深く取り、速いシャッター速度を用い(当然、それにつれてISO感度をやたらと上げなければならない)、マニュアルフォーカスで見当を定め、盲目的に立ち向かうという方法が順当なものかどうかは分かりませんが、コスモスをブレずに、しかもピントの合った結果を得る可能性は高くなるでしょう。しかしこれは、 “行ってこい” の運次第ということになりましょう。写真は、結果オーライという無秩序で粗雑なものではありませんしね。この連載の初めの頃に、 “写真は決して偶然に撮れるものではない” と主張しました。
 第一、被写界深度を深く取ればいいとの考えは、コスモスの背景描写をどの様に描くかということにまで気が回っていないことになります。背景はあくまで脇役であり、主人公の引き立て役を演じなければならず、脇役が出しゃばっては写真になりません。主人公と脇役はその意味では常に同等の役割を担っており、価値を共有するものです。この匙加減が大変難しい。
 被写界深度に頼らず、思い通りの絵が描けるように、くじけず研鑽を積むのが最も建設的な考えだと私は思います」と返信した。

 夕方、近所を歩いていると盛りを過ぎ色褪せたコスモスが、秋を惜しむように息絶え絶えに咲いていた。一輪だけポツンと咲いているその様は、哀愁を帯び、ぼくの心を打った。
 幸いなことにこの日は無風状態。「コスモスめ、油断しおったな。直ぐ戻るからそのまま待っておれよ。動くなよ」と言い放ち、自宅から2,3分の距離だったので、サイレンを鳴らしながら走る緊急自動車のような面持ちで、早速家に取って返し、100mmマクロレンズをカメラに装着した。息絶え絶えになったのはぼくのほうだった。
 約40年前に購入したハッセルブラド用のC. ツァイス製フィルター(ソフターI)も動員した。フィルター使用は背景の空模様と色合いが面白かったので(掲載写真「01」)、咄嗟に思いついたものだったが、その健気なコスモスに、この日ばかりは恩讐を越えて、ぼくは持ち前の寛容さ!?を発揮し、優しさを持って対峙するには、そのフィルターは似合った道具立てだと思った。
 「もうコスモスを撮ることはないかも知れない」と、半ばヤケクソで、悔しまぎれに言い放った尻から、この有様である。けれどこの時、コスモス相手に恩讐を乗り越えた自分を誇らしく感じたものだ。どこまでおめでたい男なのだ。

 だが、コスモスも「あたしを撮りなさいよ。今あたしを撮らないとあんたは金輪際コスモスを思うように撮れないんだかんね」と命令口調でいっているように思えた。やはり、ぼくよりコスモスのほうが、悔しいかな、位が上なのだ。 

 このフィルターはぼくのお気に入りのひとつで、約40年前、類似品をあれこれ試し、「この品位に勝るものはなし」と購入したものだった。ハッセルブラド専用で、他のカメラには装着できないが、レンズ径がフィルター径より小さければ、手でかざして使用できる。ソフトフィルターは、絞りf値を変えると、描写も変化するので、その違いを把握しておかなければ、自在にこなすことはできない。
 掲載写真は、脇役となる空の模様・色合い(色合いはPhotopshopで多少の調整をしている)、そしてシルエットになった枯れたコスモスの描写などを勘案し、一発撮り(あまり良い表現ではないね)を敢行。
 失敗を恐れ、何枚も撮るという魂胆では、またコスモスに見下されてしまう。料簡を見透かされているので、位を同等にするには、もしくは今後上位に立つには、1枚で決着をつけなければ示しがつかない。男の沽券に関わると思い込んだのだから、やっぱりぼくはおめでたい。

https://www.amatias.com/bbs/30/571.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF 100mm F2.8L Macro IS USM + フィルター。RF 35mm F1.8 マクロIS STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
今回記述したコスモス。フィルター効果も相まって、全体に柔らかく、ボーッとした仕上がりに。
絞りf4.0、1/250秒、ISO250、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
芙蓉? 色鮮やかな芙蓉を見ていたら、ちょうど良い光線が脇から射した。
絞りf5.6、1/125秒、ISO160、露出補正-1.33

(文:亀山哲郎)

2021/11/12(金)
第570回:写真は体力
 何事に於いても習慣とは恐ろしいものだ。以前、拙稿で述べたが、散々蔑んでいた「ウォーキング」を、苦々しく思いつつもまだ続けている。気がついてみたらぼくは重い尻を叩きながらもなんとか励行し、すでに4年目を迎えていた。
 ぼくが「ウォーキング」を疎ましく感じていた理由は、それに費やす時間が猛烈に忌々しく、もったいないものに思えてならなかったからだ。「ウォーキング」に費やす時間を他のことに回したかった。

 せっせと歩く自分に対し腹立たしく思えたものだが、では何故それを忌み嫌いながらも敢行したかといえば、「才能に劣る者は、ひたすら体力に頼る他なし」を信条としていたし、またそう吹聴もしていた。それに従えば、体力の衰えとともに自分の写真の質も衰えていくかも知れないと踏んでいたからだった。
 この事象はひょっとすると間違いのないことと思っている節があり、もしそうだとするのであれば、体力と精神の齟齬はきっと自分を苦しめることになる。その恐怖心を和らげようとの気持から仕方なく始めたものだった。
 歳を取って体力が衰えても、自分の写真は良い方向に変化しつつあることを願う気持は強く、写真を続けている以上はそうでなければならないと盛んに自身を鼓舞する必要があった。杞憂に終わればよいと願いつつ、もしそのような写真屋の性を失っては、芸なし人間のぼくなど、無駄飯を食らうばかりではないか。

 「ウォーキング」が体力にどのような良い影響を与えたかについては、残念ながら目下のところ自覚なし。書物やネットを散見する限り、「ウォーキング」はその効用とともに百利あって一害なしのように記されているが、効用が顕著に表れているとも思えなかった。
 もし「ウォーキング」をしていなければ、今の自分の状態がどの様であるかについては確かめようがない。世間で流布している効用があったのか、なかったのか、少なくとも自身に関する限りそれを証明することができないでいる。主治医や耳鼻科の医師、看護師さんたちの「ウォーキング」促進協会(そんなものがあるのかどうか知らないが)などは、口裏を合わせるように「非常に良いことなので続けるように」と微笑みながら、懐疑的かつ軟弱なぼくから金銭を当たり前の如く奪い取り、したり顔でそうおっしゃる。ぼくを無条件降伏させようと追い込んでくる。逃げ場のないぼくは、素直に従わざるを得ない。

 だが、いつの頃からかは定かでないが、腹立たしさも多少和らぎ、歩きながら目にする光景や事物に対して、「これを撮るとどうなる? 写真になるか、ならないか?」、「どんなイメージを描く?」、「あのおばさんの表情からして、昼飯には何を食べたのだろう? 夫婦げんかでもしたのだろうか?」、「そういえばこの風景、昔どこかで見たような・・・。あんなこともあった、こんなこともあった。今思い返すと・・・」などなどあらゆることを考えたり、思い起こすことに「ウォーキング」は寄与していることに気づき始めた。枯れ葉の美しさや愛おしさの発見もそのうちのひとつだった。
 体力の向上は分からないが、精神的な意味で様々な「気づき」に出会うことになった。この効用のほうがぼくにとってずっと好ましく思えた。腹を立てながらの「ウォーキング」は、効力を弱めるであろうと思えた。また、貧乏性のぼくは、「ウォーキング」をサボると今までに費やした約1,000時間をドブに捨てるような気に襲われ、もう後には引き下がれなかった。

 今ぼくのテリトリーには気をそそられるような花があまりない。目立つのは好きでない菊ばかりで、ぼくはまた途方に暮れることに相成った。もう、疫病もかなり下火になりつつあるので、意を決して来週あたり、花の呪縛から解放されんがため、隣接する県に出かけてみようと考えている。
 カメラもレンズもささやかな変身を遂げ(以前より嵩も重量も減った)、ぼくのアマチュア精神(仕事ではなく、趣味として写真を愉しむ)も約40年ぶりに復活を遂げつつあることだし、気を改めて、花以外の被写体を漁りたい衝動に駆られている。
 風に揺れ、大きく首を上下左右に振るコスモスの接写には散々な目に遭わされ、おまけに目眩や腰痛にも苦しめられ、コスモスはぼくの手に余ることも判明した。彼女たちはぼくの天敵となった。また、非日常の街をカメラをぶら下げて徘徊すれば、「ウォーキング」の効力が如何ばかりのものかが分かるかも知れない。

 学習能力に長けたぼくは、来秋この過ち(揺れ動くコスモスの接写)を犯さないだろうと思いたいが、被写体に対する執念深さは人並みではないので、怪しいものだ。あり余る悔しさと執念のため、また仇討ちのため、それに立ち向かうかも知れない。だが、確信の持てないことを公言してしまうと、後に引けなくなる。ここだけの話だが、もしかすると、ぼくはその愚を再び繰り返すような気がしてならない。ただ恐らく散々罵倒した「ウォーキング」の愚は、新たな発見を求めるため、性懲りなく続けていくような気がする。医者さまたちの言に従うわけではないことをここで明言しておかなくてはならない。

 秋の夜長、手元に溜まった枯れ葉をどの様に撮ろうかとのインスピレーションを得るために、この原稿を書き終わったら、枯れ葉の舞う夜道をこっそり歩いてこようかと思っている。秋の夜は長い。

https://www.amatias.com/bbs/30/570.html

            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF 35mm F1.8 マクロIS STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
マリーゴールド。赤というより深紅の輝くような縁取りを持ったマリーゴールドを初めて撮ってみた。いろいろプリセットを重ね、調整しているうちに、赤と黒だけになってしまった。これ以上派手にならぬよう、見た目に近い描写に。
絞りf5.0、1/30秒、ISO600、露出補正ノーマル。

★「02さいたま市」
少し時期の遅れたさざんか。補整時に、微妙な色合いを生かすべく、健忘症の頭をコスモスのように左右に振り思い出す。
絞りf9.0、1/30秒、ISO160、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/11/05(金)
第569回:一難去ってまた一難(続)
 前号に「そうは問屋が・・・」と記した。まず、それについて述べてみよう。花のRaw現像作法に倣って、枯れ葉も気楽にRaw現像できると踏んだぼくは、考えの甘いことに気がついた。「あれっ?、これってヤバくね。違うよね」がぼくの第一声。花と同じ感覚を以(もっ)てRaw現像すると、どうしても色味が実物より鮮やかになってしまうのだ。花はそのようには感じなかったが、枯れ葉はこれではまずいのではないかと思えた。花に限らず、ほとんどの被写体の現像時に彩度を下げることはあっても、上げることはほとんどない。彩度を上げると、イメージした枯れ葉の色味がぼくにはどうしても相容れない。
 つけ加えると、彩度を低めにRaw現像する理由は、ぼくの気に入ったいくつかのプリセット(具体的には、Photoshop、DxO、Nik、ON1などに附属したプリセットを自分なりに調整したもの)を重ね合わせていくうちに、どうしても自然と彩度が高くなっていく傾向が見られるからだ。花に限らず他の被写体でも、Raw現像はあらかじめ彩度を心持ち低く設定することにしている。彩度は後で自由が効くので、Raw現像時の彩度は控え目にというのがぼく自身の基本的なメソードだ。

 彩度が高くなっていく現象は、ソフトによるものなのかと一旦は考えてみたが、あれこれソフトをこねくり回し検討しているうちに、問題はソフトだけにあるのではないことに気づいた。ソフトは枯れ葉を認識すると、どうやら気を利かせて、「赤」をより鮮やかに演出し、「私はまだ枯れてはいない」と敢然とアピールをするように仕込まれているように思える。
 だが、0と1で出来上がっているデジタルにそんな器用なことが出来ようはずはない、と思うのは素人の浅ましさであろうか? AIだって、感情や感覚、情緒までコントロールが出来ないのだから。

 余談だがコマーシャル・カメラマンは、いわゆるポスターや雑誌、カタログなどの「物撮り」では、実物の色や質感、立体感を忠実に再現することを要求される。フィルム時代でも今のデジタルでもそれは同様であり、この困難な作業を克服する技術や知識がないと、商売上がったりとなる。「であるにも関わらず、たかが一葉の枯れ葉に」である。嗚呼、「♪ 枯れ葉よ〜♪」なんて歌っている場合ではないのだ。因みにぼくは、余計なことだが、シャンソンは昔から好みに合わない。

 ぼくの枯れ葉は、図鑑や図録用に撮っているのではないので、再現上あくまでイメージカラーを優先すれば良いのだが、枯れ葉はやはり “枯れ葉らしい” 色彩というものがあるはずだ。それが枯れ葉に於けるぼくのイメージカラーといってもいい。 “らしさ” の表現はとても重要な要素であり、それなくしては写真を撮ることの意味が極端に薄れてしまう。記録写真や記念写真ではないのだから、 “らしさ” にこだわって悪いことは何もない。 “枯れ葉らしさ” や “あなたらしさ” を失えば、創造の意味をも失い、それなくしては作品という存在意義さえ見出せない。

 もはやぼくも、枯れ葉同様に枯れかかっているはずである。認めたくはないが、現実にぼくの肉体は、不憫にもあっちこっち悲鳴を上げている。そのような現実に我が身を照らし合わせると、当然年相応の枯れ葉表現であって然るべしで、枯れ葉の色彩や質感をどのように扱うかをしっかり定め、自覚しておかないと、やり繰りができないということに突き当たった。ぼくの写真に対する精神や情熱は若い頃のままだが、体力が追随しないという悲哀と矛盾に苦しめられている。ここに大きな問題が生じている。

 ぼくはここしばらくこの重要な問題に取り憑かれ、それを勘案するとなかなか思うように進むことができなかった。未だにそうだ。たかが枯れ葉一葉に、なんと忌ま忌ましいことか! 今ぼくの部屋には撮れずにいる枯れ葉がどんどん溜まっている。
 枯れ葉の形態が、自分にとってどのようなものかをまずは検討することの必要性に迫られたといっていい。しっかり認識していないと前にも進めず、また後戻りもできないという無様さに、気がふさいでやりきれない。ぼくは、見た目通りの枯れ葉再現と “ぼくの枯れ葉” についての間を行ったり来たりしながら試行錯誤しつつ、頭を悩ませ、今振り返ると後退りばかりしていた。その結果が前号で掲載した枯れ葉だった。しばらく、枯れ葉は撮らずに、観察に徹しようと思っている。

 花より枯れ葉のほうがぼくにとって色再現が難しいことに突き当たり、「こんなはずでは」と、思わず口走ったくらいだ。花の、いわば官能的な形象に対し、枯れ葉をどこか宗教的観念と美術的観念の双方で捉え、それを結びつけようと、ぼくは欲をかいているからなのだろう。欲という毒を、少しずつ捨て去らないと身が持たぬお年頃なのにと思いつつ、「毒を食らわば皿まで」なんてぼくはへそ曲がりらしいので、さらに斜に構えて(物事に正面から接するのではなく、ことさらずれた対応の仕方をする。大辞林)、そううそぶいている。往生際が悪いったらありゃしない。

 樹木を生長させ、豊かな実りを得るために自然界はそれなりの様相を整えるものだ。手の込んだそのありように科学では説明できない神秘を感じ取ることができる。
 新緑の若葉がそれなりの役目を終え、やがて散って行く様は、生命の循環という視点からすれば、それ相応の感覚と表現が必要なのではないかとぼくは改めて感じている。
 しかし、四季の移ろいのなか、そこはかとない侘しさ漂う秋に舞うこの難しい被写体に挑むのも、年相応で乙なものかも知れない。「若気の至り」なんていう言い訳も通じないしね。

https://www.amatias.com/bbs/30/569.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
里芋の葉。今日は2枚とも一般受けしない写真で、すいません。でも、これが撮影時のイメージ。
絞りf11.0、1/30秒、ISO320、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
モノクロの花縮砂(はなしゅくしゃ)。花名が分からずにいたが、近くにいる人が花名を教えてくれた。
絞りf13.0、1/25秒、ISO640、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2021/10/29(金)
第568回:一難去ってまた一難
 風になびく首振りコスモスに散々悩まされたこの秋。街のあちらこちらに咲くコスモスを見るにつけ、ぼくの気持は晴れず、花を愛でる気持は沈んでいく。当てこすりのようにカメラを持っていない時に限って風は止んでおり、コスモスは造花の置物のように身を固めじっとしている。
 「話が違うじゃないか」とぼくは憤悶を増し、やり切れぬ思いに囚われる。コスモスとはもう縁を切りたいが、去年は気に入った写真を提供してくれたので、ぼくはやはり彼女たちに未練を残しており、捨て切れずにいる。「悪いのはコスモスではなく、ぼくのほうなのだ」と、健気で正しい気持をまだ失ってはいない。多少は正気を保っているようだ。
 前号でコスモスに悪罵を浴びせているので、これ以上は見苦しく、ややもすると品性の下落を招く恐れさえあるので、ここらで打ち切りにしたいと思っているが、実のところ、今秋のコスモスにぼくは相当手を焼き、堪えたと正直に告白しておく。

 「首振りコスモス + マクロレンズでの接写=自信喪失と諦め」というぼくの新たなる図式を克服するには非常な技術を要求されるが、それは精進と励ましを与えてくれるとするのが建設的な考えというものだ。
 けれど一方で、「自信喪失」や「諦め」は、誰にとっても最大の関所であり、それがために精神をも蝕まれ、時に三半規管に存在する耳石の移動を余儀なくされ、ぼくは生まれて此の方、体験したこともないような激しい目眩と吐き気に襲われてしまった。まだ時々フワーッとした変な感覚がある。コスモスを撮ろうとしたらぶり返すかも知れないという恐怖すら覚える。読者諸兄も、首振りコスモスに頭を同期させ、揺らしながらの超接写にはどうかご用心あれ。

 そしてぼくはご丁寧に、今まで体験したことのなかった腰痛まで味合わされている。コスモスとの接近戦は、まさに「貧すれば鈍する」、じゃなくて「踏んだり蹴ったり」である。ぼくは何と虚弱な写真屋になり果ててしまったことかと齢73にしてガックリしている。老いがそうさせるのかも知れないが、長い写真生活に於いて、今頃コスモスによるトラウマにつまずくとは考えもしなかった。
 すっかり気落ちしたぼくは、それ以来コスモスとはなるべく目を合わさぬように伏し目がちの状態で街を徘徊している。腰痛もあってか身をかがめながら地面を見つめ、静々と歩くようになった。
 コスモス・トラウマからの早い脱却を果たさなければならず、気分転換の必要性に迫られたぼくは、背を丸め、どこかうなだれるような恰好で歩くせいか、地面との距離が近くなり、今を盛りと地に撒かれた落葉に自然と目が行くようになった。前号で題名とした「落葉拾い」の如く、枯れ葉に心を奪われ、葉の厳選はしないが、気に入った落葉を何枚か片手に束ね、ウォーキングを愉しんでいる。
 これはこれで高尚なる精神生活の一部だと思えてきた。そして、落葉の発見は、心の暗闇に一条の光明が射したように感じている。コスモスへの仇討ち変じ、「江戸の敵を長崎で討つ」か。今、自分の執念深さに嫌気が差しているほどだ。来年は、コスモスと仲直りできればと願っている。仲違いしているうちは、良い写真など望めないしね。

 さて、家に持ち帰った落葉はできるだけ早く料理(撮影)したほうがいい。落葉の状態にもよるが、概ね時間が経つとグニャグニャと波打ち、時には乾燥してパリパリになり、欠けてしまうものがあるからだ。
 枯れ葉のなかには、波を打ったもののほうがプロポーションが良いと思えるものや、反対に押し花のように平面性を保ったもののほうが見映えがする場合もある。このへんの調整は撮影者の感覚次第だが、波を打ったものは接写ゆえかなりの被写界深度を必要とし、f値を大きくしなければならない。室内であれば三脚使用は必須条件となり厄介だが、しかし野外のほうが光や風などを勘案すると必ずしも良い条件とはいえない。じっくり腰を据えて撮るには室内のほうがやはり良いだろう。

 原則的には、マクロレンズの使用が好ましく(近接が容易なことと、描写性能などを含めるとそれが最善)、持っていなければより大きな撮影倍率を稼げるレンズやその他のアクセサリー(接写リングやクローズアップフィルター)を用いればいい。なお、接写リングについては「第172回『接写』(3)」に述べているのでそちらをご参照あれ。

 この1年半、花を再現する際に、Rawデータの色温度や色相(ホワイトバランス)はほとんどデフォルトで現像していた。Raw現像時にできるだけ詳細にわたって調整し、厳格に追い込んでいくべきというのがぼくの持論なのだが、花に関しては意外にもデフォルト状態のことが多く、鷹揚なものである。鷹揚すぎるくらいだといつも感じていた。
 それは、実際の色の通りに再現する必要性をあまり感じていないからだろう。撮影した花の色味はぼくしか知り得ず、しかも図鑑や図録ではないのだから、イメージカラーを重要視し、それを前面に押し出すことに力点を置きたいし、これからもそうだろう。自分ひとりがすべてをマネージメントすればいいのだから、気楽に構えていればいい。

 枯れ葉も花の作法に倣ってみた。枯れ葉は花のように立体的でなく、どちらかというと平面体であり、撮影も複写に近い。Raw現像を含めて、その後の補整にもそれほど手はかからないだろうと踏んでいたのだが、どっこい「そうは問屋が・・・」。嗚呼、一難去ってまた一難である。(次号に続く)

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
虫喰いで穴だらけになった桜の葉。公園の桜の木の下で偶然に見つけたもの。
絞りf13.0、2秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02さいたま市」
花水木。実物をPCの横に置いて補整。
絞りf16.0、2秒、ISO200、露出補正-1.00。

(文:亀山 哲郎)

2021/10/22(金)
第567回:「落穂拾い」ならぬ「落葉拾い」
 昔から「秋の日はつるべ落とし」(秋は日が、井戸のなかにつるべを落とすように、一気に沈むこと)といわれるが、ぼくは今年ほどそれを痛感している年はない。秋は老若男女に関わらず、ことさら、どこからともなくじわじわと寂しさの忍び寄る季節でもある。
 そして、さらに身につまされることの喩えに、「秋の入り日と年寄りは、だんだん落ち目が早くなる」(笑いながら感心している場合じゃない。意味は、 “秋が深まるにつれ日没が早くなり、老人も歳を取ると衰えが加速度的に早くなる” )のだそうだ。
 しかし悔しいけれど、その通りだ。江戸時代にはすでにこの比喩は使われていたという。当時の平均寿命は30歳代〜せいぜい40 歳までらしいが(正確な統計はない)、しかし長生きをする人は現代と変わらなかったという説が強い。だが世界的に「平均寿命」というものにはあまり関心が持たれなかったらしく、科学的探訪を標榜するヨーロッパでさえ、18世紀以降に広まった概念である。

  この “年寄り云々” の喩えは、なんとも嫌な言い草だが、まさに言い得て妙だとぼくは変に感心している。本当はそれどころではないのだが、還暦(60歳)を迎えた時には、「計算によると、ぼくは日本男児の平均寿命まであと20年ほどらしいが、今の状況(体調)を鑑みればそんなに早く世を去ることなど考えられぬこと。ぼくだけはきっと200歳くらいまで生き延びて、少しはましな写真を撮れるようになるに違いない」と思い込んでいた。つまり、老化の一片たりとも感じ取ることはなかったし、無縁のものだとも思っていた。

 親鸞聖人(1173-1263年。90歳で没。浄土真宗の宗祖で、主な著作に『教行信証』などがある)の口伝である『歎異抄』(たんにしょう)を捩(もじ)って、「いわんやぼくを於いてをや」と、中学時代の同窓生との還暦旅行でぼくはこっそりそううそぶいていた。「おれだけは超絶長寿を果たし、みんなの墓参りをしてやるわ」と、かなり本気で思い込んでいた。まことにおめでたいのだが、還暦など死を意識するような歳ではないということだ。
 また、「もしかするとぼくは人類史上初めて死を知ることのない人間かも知れない」とさえ思っていた。

 普段から「ぼくは科学信奉者」を自負しており、その一方で「森羅万象やそのありようについて、現在の科学では計れないことばかり。日進月歩の科学ではあるが、まったく頼りないこと夥しい。1世紀後に現在を振り返れば、「当時の科学は今から見るとなんと未墾の大地であったことか」と思うに違いない。現在の科学は現代人にとってみれば進化そのもののように思われがちだが、未解決なものがほとんどであり、それを疑う余地はない。否定する人は科学妄信者か誤信者であり、また御幣を担ぐ者であろう。
  “こんなに科学が進歩した” と思い込んでいるのは、いつの時代もその時代に生きる人間だけで、そのような思い上がりは奇特で滑稽な存在でもあるのだが、きっと人類の歴史から見れば、いつの時代だって、人間はそのように自惚れてきたのだろう。

 森羅万象や造化について人類の叡智によって知り得ることなど些細なものだ。人は、先行き不透明で不確かな未来に不安を抱きつつも、科学でなんとか立証できるものは信じようとする。それは頼り処のない人類の意地らしさと悲哀であり、またそれが真実というものだ。
 ぼくら人類が科学によって知り得ることなど、いつも微々たるものだということを、実は信じたくないというのが本当のところなのであろうが、科学を含め分からぬことばかりなので、かえってそれが生きる糧ともなるのだろう。それがぼくの本音でもある。
 写真も科学によって発達してきたが、今ぼくらはフィルムからデジタルへの科学的大転換期に立ち会うことができた。とはいえ、科学の発達により、良い写真が撮れるようになった保証などどこにもない。写真を撮るのは、いつも述べるようにカメラやレンズではなく、人間であるからだ。

 で、何の話だっけな? そうそう「秋の日はつるべ落とし」だった。特にこの1週間、急に気温が下がったが、まだ真夏の、あの気怠い暑さの余韻が身体に残っているので、にわかにこの冷気が信じられないでいる。これは多分、ぼくだけの感覚ではないだろう。ぼくの脳内の時間的な感覚も鈍化の兆しを見せ、日没時間を計算外にしたまま平然としているこのアホさ加減。
 日が短くなったにも関わらず、ぼくの徘徊時間はまだ夏と同じなので、どうしても出遅れとなる。何故こんな分かりきったことがお前はできないのか。日没を計算して、早く出ればいいものを、それがぼくにはできない。何事に於いても周回遅れの愚図ったれなのだ。

 ゴキブリ100匹より1匹の蚊が嫌いというぼくだが、蚊もそろそろ影を潜め、野外の花撮影は快適なはずなのに、周囲は首振りコスモスばかりで、まるで「憎まれっ子世に憚る」だ。100mmマクロレンズで、揺れに揺れ動くコスモスと勝負しながら、ぼくはこれほどまでに難しい撮影に辟易(たじ)ろぎ、うんざりしたことはかつて1度もない。
 マクロレンズは今までいやというほど仕事で使用してきたが、何百何千という被写体は、コスモスのように無駄に首を振らない。コスモスの毒気に打たれたぼくはすっかり不貞腐れ、「落穂拾い」ならぬ「落葉拾い」に化けてしまった。

 拾った落葉を家に持ち帰り、最近ご執心のレンズを使い、まさに静物をじっくり写生するような気分で、コスモスを見返している。因みに「見返す」を広辞苑で繰ると、「あなどられなどした仕返しに、立派になって相手に見せつける」とある。しかし、自分の不調法を棚に上げて悪態をつくと、「物言えば唇寒し秋の風」(芭蕉)となりそうだ。「秋」はなにかと忙しい。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
柿の葉。美人の枯れ葉を選んで拾った訳ではなく、「たまたまそこに落ちていたから」といったいい加減さ。ぼくの好物である柿の葉寿司(奈良県)を思い出す。2枚とも室内灯とトレーシングペーパーを使用したのみ。
絞りf25.0、1秒、ISO600、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
「01」写真の下に敷いたもう1枚の柿の葉。
絞りf16.0、1秒、ISO250、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2021/10/15(金)
第566回:雨降りは「水も滴るいい...」
 秋は聞くところによると、梅雨時よりむしろ雨の多い季節らしく、となると撮影条件としては良し悪し、好き嫌いの差があり、雨の中撮影に出かけるかどうかは撮影者の「気分次第」といった面が平常時より多い。
 ぼく個人は、撮影結果だけを考えれば雨のほうが断然好ましいと考えている。元々雨降りの好きなぼくだが、やはり撮影となると億劫さ(機材などの保護も含めて)が先に立ち、どうしても足が重くなる。本来の出不精に追い打ちをかけられ、言い訳がましくもなってしまう。

 雨降り時(もしくは朝露に濡れた)の水滴の付いた花や葉は、いつも見るそれとは別の趣や美しさを見せてくれ(他愛のない風情というなかれ)、写真好きは胸を躍らせるものだが、傘を差しての撮影はやはり骨が折れる。また、レンズに付いてしまった水滴による模様の修正は厄介この上なく、Photoshopなどの画像ソフトを用いても、なかなか上手くいかない。
 それ故、レンズに付着する水滴には非常な神経を使うが、花弁に付いた丸い水滴は、時にキラキラ輝いたり、格別の光沢感を演出したりと、いつもとは異なる豊かな自然を間近に見せてくれる。雨は、良いシャッターチャンスを与えてくれるものだ。いつもの花が、まさに「水も滴るいい女」に変貌を遂げるのだ。

 その他の利点として、雨天時は特に光が柔らかいので美しい作画を得やすい。ここでいう “美しい” とは、柔らかな光源下に於けるグラデーションの豊富さと、同様にして低コントラストによる色彩の滑らかさ(ハイライトからシャドウまでの輝度全域が再現可能となる。被写体の輝度域が狭いので、白飛びをしたり、黒潰れをしたりしないが、空は輝度が大きく異なる場合が多いので、白飛びには要注意)が得られる。

 水滴と光の具合がうまくマッチすれば、それだけで良い雰囲気の写真が撮れる。この条件下では、写真の美的要素の30%くらいは露出補正さえ間違えなければすでに達成できたと考えてよく、まさに「恵みの雨」といってもいいだろう。
 水滴の付いたガラス越しに見る女性は(いきなり花から女性に話は移るが、双方とも撮影の心得としては同じようなものだ)、普段より何倍も美しく、あだっぽく、いい女に見えるものだ。やっぱりここでも「水も滴るいい女」なのである。まぁ、それは女(ひと)にもよるのだろうが、一般論としては確実にそういえる。
 ぼくの説が信じ難いというのなら、雨の日に運転席や助手席に座るあなたのよく知る相方以外の女性を水滴の付いたガラス越しに見てみるがよろしい。思わずレンズを向けたくなるものである。そうでなければ、男衆は写真をやめたほうがいい。ぼくはかつて、仕事の写真に何度かこの手を用いたことがある。

 上記した「気分次第」(気分屋)は、別の言葉で「お天気屋」ともいう。また「女心と秋の空」ともいう? ちょっと違うかなぁと思いながらも、昔の人はうまいことをいったものだと感心する。ぼくなど「お天気屋」と「気紛れ屋」の二股をかけ、それに「愚図ったれ」が加わってしまい、自分で自分を持て余すことがよくある。秋に於ける撮影はその最たるものだと、季節のせいにしている。 
 30分も早く撮影に出かけていればもう少し時間的に余裕ができ、しかも陽のあるうちに撮りやすい条件(主にシャッタースピードやISOなど)で撮れたものを、その30分を愚図り、惜しんだがために良い被写体をみすみす逃し、すごすごと引き返すなんてことばかりしている。この学習能力のなさに、我ながら辟易とする。

 撮り損ねた花を横目に、「よしっ、明日再びここに撮りに来よう」と健気にいうものの(いつも必ずそう決心する)、行ったためしなど一度もないのだから、さらに呆れる。それでいて、他人には「日が暮れて撮れなかったものは、近くであれば場所をよく覚えておき、億劫がらず明日撮りに行けばいい。通うことこそ写真の極意」なんちゃって、まるで他人事のよう。よくもまぁ、こんなことをしゃあしゃあといえたものだ。これをして、「蛙の面に小便」(京都のいろはがるた)という。ちょっと違うか。しかし、「写真の極意」とは、ぼくも大きく出たものだ。こんな大風呂敷を広げてしまうと、さらに大きな墓穴を掘るに等しく、ミイラ取りがミイラになってしまいそうだ。

 秋になり、今ぼくは困っている。何がというと、ぼくの徘徊する近所ではあっちもこっちもコスモスばかりが目に付き、それはかまわないのだが、コスモスという花は、風にはまったく堪え性がなく、すぐにふらふらし、頼り甲斐のない気弱な振りをするから、扱いの難しいマクロレンズ1本で勝負しようとすると、ぼくのそんな弱味を盾に取り、たちまち意地悪をする。「撮れるもんなら、撮ってみんしゃい。ピントの合わんけんやろ」と啖呵を切り、首を左右に揺さぶりながら、日の暮れるまでぼくを見くびり、挑発してくる。「桜になれないからって『秋桜』なんて小洒落た名前つけるなよ。君は雨が降っても『水も滴るいい女』にはどうやってもなれないんだからね」と、ぼくは精一杯の悪態をつく。「明日、また来るよ」と、嘘までついてみせる。
 意気地のないぼくは小石を蹴りながら、虫喰いだらけの桜や柿の枯れ葉を拾って、それを後生大事に持ち帰る。コスモスに勝る美を発見し、次回にでも掲載させてもらおうと考えている。見るからにみすぼらしい枯れ葉を、上手く撮れるかね?

https://www.amatias.com/bbs/30/566.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
かなりの強風下、まったくじっとしていられないコスモスに、白髪を風になびかせて、食らいつく。このレンズの秀逸さにはいずれ触れることにしよう。
絞りf2.8、1/400秒、ISO640、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
エキナセア。左右相似形ではないところが気に入った。ぼく同様、性格がねじ曲がっているのか、偏屈なのか。花だって、十人十色、百人百様。
絞りf4.0、1/60秒、ISO250、露出補正-1.00。

(文:ツバメ)

2021/10/08(金)
第565回:写真愛好の士は、変態であるべし
 賢明なる読者諸兄を前に、改めて補足する必要もなかろうとも思うのだが、前号にて述べた箇所について誤解の種を蒔いてしまったかも知れないとの懸念から、一応念のために記しておきたいと思う。

 前号で、「自分のためだけの写真ほど大切にすべきものであり」と述べた。これは「普遍性を有する」ことと「凡庸さを廃除する」ことの、ふたつの確かな条件あってこそのもの、との意味で用いた句である。これについては、以下抽象的な説明にならざるを得ないのだが、ご寛恕を請いたい。

 「普遍性」とは、ちょっとややこしい哲学的用語であるが、平たくいえば、ここでの意味は、「すべてのものに当てはまる(共通する)美的概念、美的範疇、美的調和」の総体とでもいえばいいのかな。はみ出した(普遍性を逸脱した突拍子もないもの)が故に、本来の美を置き去りにし、醜くなってしまったものは、世の中に掃いて捨てるほどあるが、自身の作品はそうならないように、篤(とく)と戒めましょうとぼくは繰り返しお伝えしたい。これはもちろん自戒の念を込めてのものでもある。ぼくも、あなたも、カメラを振り回す人間は、誰でもがそのような性向を有しているものだ。

 「普遍性」を保つことは、冒険心や向上心に溢れた者ほど、実践は極めて難しく、この作業は強いていえば綱の上をバランスを取りながら歩くようなものなのだが、そこはアマチュアの特権を生かした者勝ちであるとぼくは思っている。
 綱から落ちても、家族が路頭に迷うわけではなく、恐れるものがないのだから、もう一度綱の上によじ登ればいい。何度も飽きずに試みた者が、欲しいものを早く確実に手に入れることができるという寸法である。これが真理。
 自分の作品を形づくることの醍醐味は、きっと傷だらけになった者ほど味わえるのだとも思う。これは極論ではなく、客観的な見地からして、仏教でいうところの「当位即妙」(何事もありのままで、妙なる働きを生ずること)でもあろう。
 「凡庸さ」とは、一言でいってしまえば「必然性の感じられないもの」のことである。つまり、「あなたの意志が垣間見えず、また作品の表現がどこかちぐはぐで、何故それを撮ったのかが伝わって来ない作品」を指す。
 いつもぼくが例に挙げる「紅葉の美しい上高地の、絵葉書のような、あるいはガイドブックかポスターのような写真をいくらきれいに撮っても、そのような正しくも退屈極まりない写真はまったく評価に値しない」とぼくは断じるけれど(でも、そういうものが世間では受けが良いという可笑しな事実)、それは「あなたがあなたであることの証や人生観が作品から窺えないから」であり、そのようなものは畢竟あなたが撮る必然性のないことと同義だといえる。
 独自の視点や感受を見出して、初めて「あなたの写真」であり、それが作品の価値というものではないだろうか。
 たとえ技術的に行き届かないところがあっても、ぼくは「上高地」よりも、こちらを高く評価したい。

 ぼくは今、自称アマチュアなのだが、商売人という長年の垢がこびり付いており、今までとは異なる、いわば破天荒な写真を撮ることの勇気を持てずにいる。なんとかしようと、目下足掻(あが)いている最中。シャッターを切る度に、「おまえ、失敗してもいいんだよ」と、秋風に揺れるコスモスを前にし、あっちこっち蚊に食われた足をボリボリとかきながら、優しく言い聞かせている。なんとも涙ぐましい。
 先日など亡父の口まねをして、わざわざ九州言葉で、「まともよりも変態んほうの、人間味のあっけん写真の撮れるたい。恐れるこつなんざなかとね」と、自分の変態志向にどこか後ろめたさを感じているのか、敢えて遠い郷の言葉でいってみたりもしている。

 「自分のためだけの写真」を意識しすぎると、その表現はややもすると、「唯我独尊」とか「独りよがり」とか「独善」に傾きやすくなる。それは、ぼくがいつもいうところの「見せかけの個性」や、あるいは「意図的に作り出した他とは異なる醜いもの」へつながりやすく、またそれはあざといものでしかない。そのようなものは、悲しいかな、たちまち馬脚を現すものだ。作者だけがそれに気づいていないという悲運に見舞われる。ぼくは長い写真人生で、助手君たちを含めてそのような手合いをたくさん見てきた。「同じ手合いの品になるな」と自他ともに怠りないつもりなのだが。
 それは、創作を志す上で最も警戒しなければならない事柄のひとつだとぼくは感じている。警戒ばかりだと前へ進めないし、反対に警戒を緩めると暴走して前のランナーを追い越し、監督に大目玉を食らい二軍行きを命じられることにもなりかねない。

 ここでもう一度、「誤解の種を蒔いてみたい」衝動に駆られるのだが、意を決していってしまうと、「暴走しがちな人間(これを “変態” という)のほうが味のある作品を生み出す」と、ぼくは幾多の経験則に照らし合わせて、誰彼なく確信をもってそういうことにしている。前を走るランナーを何の躊躇もなく平然と追い越してしまうような変態人間は組織には相応しくないかも知れないが、写真などというけったいなものに取り憑かれた人種にはお似合いなのである。

 物づくりの世界に於いて、他人とはより異なったものを創りたいとの欲求は誰しもが強く抱く願望なので、それ自体は進歩の一過程としてぼくは大いに推奨したい。だが変態は、やはり毎度いうところの「過ぎたるは猶及ばざるが如し」なのかなぁ?

https://www.amatias.com/bbs/30/565.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。RF35mm F1.8 Macro STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
去年の晩秋、実のすっかりなくなった柿を拾い、持ち帰る。10ヶ月ぶりに取り出し、新調した100mmマクロレンズで撮ってみる。室内の蛍光灯とレフ板のみ。
絞りf22.0、1.0秒、ISO400、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
陽が地平線に沈みかけた頃、35mmレンズをつけて近所を巡回中に見つけた後ろ姿の良いひまわり。花弁の黄色を極力抑える。
絞りf11.0、1/100秒、ISO160、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2021/10/01(金)
第564回:「不見転」(みずてん)三昧
 仕事用ではなく、純粋に写真を楽しむための機材(カメラとレンズ)選びをおよそ40年ぶりにし、ぼくはこの半年ばかりひとり悦に入っている。激しい目眩や腰痛に襲われながらも、やはり愉しくも嬉々として、晩年の写真生活に思ってもみなかった花などを集中的に撮り、文字通り花を添えようとしている(駄洒落ではない)。

 当初、武漢コロナのために行くところがなくやむを得ず撮っていた花だが、「ならばぼくの、自己を表現するための、必然性のある概念」を見出し、それをカメラに収めようとの努力は、今だからこそ尊いものなのではないかと思っている。「自分のためだけの写真ほど大切にすべきものであり、それが創作の真髄なのではないか」と自らに言い聞かせている。
 他人の目を意識しなければならないのは仕事用の写真だけで十分。そのようなものは、「もう御免蒙りたい」といってもいい歳だと思っている。今、時折仕事の写真を撮るのは、「緊張と責任を感じる貴重な瞬間であり、それを無下に放棄してはならない」と思っているからである。だから、たまに仕事をする。

 この40年近く、いわゆるカメラ雑誌の類を購入しなくなった理由はいくつかあるが(もう10年以上、店頭で手に取ってページを繰ることさえしなくなった。写真集は稀ではあるが時折ある)、そのうちのひとつは、自身の手で実際にテストをしないと納得することができないという損な性格にある。億劫がりのぼくには、まさにあるまじき行為である。先週述べたテスト方法をするには、「順列組み合わせ」を考えれば膨大な枚数を撮ることになる。その結果を見て初めてぼくはある程度機材の正体を把握し、納得するのだ。それで不安なく仕事に使用できる。
 雑誌のテストレポートを信用しないわけではないが、観点が異なることが多く、ぼくには必要のないものになっていった。

 今は、前号で触れた「不見転」(みずてん)に身を任せ、それを堪能し、あれこれ余分なことに頓着しなくなった。そのおかげで、写真(撮影)に集中できるような気がしている。あるいは、長年写真に携わってきて、そこで得た勘がどの程度正しいか、そして理に適っているかを問い質し、自身の「不見転」を意味あるものとし確認するのは、ある種スリリングな作業でもある。
 いくら歳を取っても、スリル(英語の “thrill” は、恐怖だけでなく、喜び、興奮などでわくわくするとの意も含まれる)のない生活はどこか「腑抜け」のようなもので、それでは進歩は遠ざかる一方だ。刺激のない生活はすべてをマンネリ化させ、感受を鈍らせる。

 ぼくに「不見転」の勇気を持たせた多方面での事柄についても述べておきたい。それは光学的に重要なことなので、敢えて記しておこうと思う。
 かつてはレンズの欠点として看過できなかった諸収差についてであるが、昨今は画像ソフトに優れたものが輩出し、完全とまではいわずとも、かなりのところまで修正・補正が可能となったことだ。このことはフィルム時代には考えられなかったことだ。デジタル時代となり、レンズもカメラの設計技術も進歩したのであろうが、画像ソフトが嫌な収差を取り除いてくれたり、気にならないところまで修正してくれる。
 今ぼくらはデジタルの多大なる恩恵を受けていることを正直に認めようではないか。

 良い画像ソフトを使用すれば、誰もが気になる「歪曲収差」や「倍率色収差」、あるいは「周辺光量落ち」(特に開放絞りではどんな優秀なレンズでも顕著。ぼくは敢えてこの修正をしない時が多いが)は、もはや頓着しなくても良いと思わせるほどに過不足なく修正・補正してくれる。それは、画像ソフト(特にRaw現像ソフトの優秀性に負うとことが大きい)の進化にあり、メーカーやレンズ設計者は、ソフトで修正・補正可能な収差はそのままに、修正しづらい収差を取り除くことに注力できるという利点をもたらしている。そのためより良いデジタル用のレンズ設計が可能となる。ぼくが「不見転」(もちろん、あるレベルに達していると推察するもの)に大きな不安を抱かない理由のひとつでもある。

 話は例の如く前後するが、カメラ雑誌の類にぼくが魅力を失った理由は上記した以外にもある。広告費用で成り立つ雑誌そのものにすべての責任を負わせることはできないが、内容に魅力を感じなくなったことは、購買意欲を削ぐ大きな要因だろう。つまり、金銭を払ってでも、読みたい・見たいと思わせるようなものがなかなか見当たらないことだ。また、そこにはネット時代に於ける紙媒体としての限界もあるのだろう。加え、個人的には、編集者として長年評論の世界に身を置いてきた挙げ句の果てであろうと思われる事象にも出会す。
 出版社は、近年の出版不況の嵐に見舞われ、そのような社会的現象の波に足元をすくわれているとの事情もあるのだろうが、インターネットに勝る部分に目をつむり、利益ばかりを追求して来たことも一因ではないかと思う。
 ぼくのように紙媒体に一生の大半を費やし、またその製作に従事してきた者として、出版事業の衰退は身につまされるし、歴史ある写真誌の廃刊が続くのは寂しい限りだ。

 「不見転」のマクロレンズを、ちゃんとしたテストもせずに、三脚も使わず、風速6m/s のもと、その横着ぶりに自己陶酔しながら、「♪マクロレンズに風は大敵 止むまで待とうほととぎす♪」と鼻歌交じりに百合と対峙。めったに見ないカメラモニターを見て、「このレンズ、凄い!」と、思わず身震いしながら雄叫びをあげる。 “嬉ション” しそうになるが、何とか堪える。 

http://www.amatias.com/bbs/30/564.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。2枚とも絞り開放。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
百株ほどの百合を見つける。主人公と脇役のバランスや構図を考えると、撮れそうで撮れないのが実情。何とか構図を取り、1枚撮り。
絞りf2.8、1/250秒、ISO250、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
定石通り雄しべにピントを合わす。風が収まらず、ぼくは自棄になり10数枚撮る。「撮る価値あったのかなぁ?」と、盛んに自問する。だがともかく、このレンズ、EFマウント版同様に、得もいわれぬ品がある。
絞りf2.8、1/500秒、ISO800、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/09/24(金)
第563回:テスト魔の独り言
 ぼくは病的といってもいいくらいのテスト魔(実際、カメラマン仲間の何人かにそういわれたことがある)だと過去何度か述べた。
 この5ヶ月間でぼくは主軸となるカメラとレンズを、自身の使用目的と体力を再思三考しながら少しずつ入れ替えたのだが、テストらしいテストをほとんど、というよりまったくせずに、いきなり花撮りの実戦に投入している。

 余談だが、ぼくをよく知る人たちは、ぼくが花を集中的に撮っているのがどうにも解せず、「かめさんが花など撮るのは似合わないから止めろ」などと要らぬちょっかいを出してくる。大きなお世話だっての! 
 忌むべき武漢コロナのお陰で、改めて花の美しさを発見し、そして感受しながら、自分の世界を見直したり、構築したりしている。今その最中にあるのだから黙っていてもらいたい。だが、この流行り病が沈静化したら、他人の指図を受けるまでもなく、従来撮っていた被写体に再びレンズを向けたいと考えている。ぼくを揶揄する輩にはいわず、こっそり撮ることにしている。
 閑話休題。
 機材を納得するまでテストし、また吟味する機会に恵まれてはいるが、今回ぼくはそれを利用せず、選んだカメラやレンズのほとんどが「不見転」(みずてん。出たとこ勝負。見通しもなく行動すること)である。それは仕事用に購入したものではなく、写真を楽しむためのもので、いつか述べたぼく流の「アマチュア回帰」への一環でもある。

 正体知れずのカメラとレンズを、ぼくは意気揚々と何の不安もなく持ち出し、このコロナ禍、出歩くことも憚られるので近隣の狭い範囲を、花を中心に据え、歩き回っている。
 「ぶっつけ本番」などという大胆で横着極まりない、こんなありさまは、ぼくの写真人生にあって前代未聞である。そしてまた、付き合ってみなければ得体が知れないという、ある種こんなに気楽で、スリリングであるが故の愉しさも30代を最後に、味わったことがない。
 幸いながら、今のところ「ギャーッ!」といった失敗はないが、「ゲッ!」と叫んだことは何度かある。それはカメラやレンズ自体に責任があるのではなく、ぼくが使用法を誤ったからに過ぎない。横着の報いを受けるのは当然のことと甘受している。

 しかし、横着とはいえ、枕元にカメラを置き、如何にして手に馴染ませようかと(ボタンやダイアルが、年寄りには意地悪とさえ思えるほど、あたかも思春期のニキビのようにたくさん付着しているのである)、この約5ヶ月間毎晩訓練に怠りない。目をつむったまま操作できなければ、写真屋の沽券にでも関わるとでも思っているのだろう。我ながら見上げた心得である。

 ぼくの不見転の、そんな放胆ぶりは、本(もと)を正せば、使用目的が仕事ではなくなったからだろうと思う。そしてまた、齢70を過ぎて、テストに費やす労力と時間が惜しくなったからでもあろう。精や根がなくなったのではなく、その必然性が減じたからである。「ぼくは写真に対していい加減になった」のではなく、「他にもっと重要視する事柄があるのではないかということに、遅まきながら気がついた」と、ここで一応優等生的な発言をして、それらしく体裁を整えておきたい。
 かつて、テスト魔に至るいくつかの理由を述べた。それらは嘘ではないが、元来自分の購入したものの正体を知らずして使用することを極力恐れていたというのが、本当のところであり、さらに深く自身の心をほじくり返すと、根が「テストが好き」で「物の正体を探る好奇心に満ち溢れている」という性格上でのことだと思う。

 カメラやレンズの長所・短所を知ることに快感を覚えてしまった(この麻薬的作用を “道楽” という)ことにより、ぼくは若い頃、身上を潰しかけたことはすでに述べた。だが、写真屋になってからは道楽ではなく、快感の伴わぬ義務となった。仕事で使うには、さすがのぼくも不見転、もしくはぶっつけ本番というわけにはいかない。最低でも半月はテストに明け暮れ、おおよその正体を見極めないと恐くて使うことができない。写真屋にとってそれは商売道具なのだから、当たり前のことだろう。
 テストをし、さらに1ヶ月(30日)は様々な条件下で実践してみないと、レンズの本来の力量や性質は推し測ることができない。そのくらい手のかかるものだとぼくは思っている。したがって、ネット上でよく耳にする、「今日初めてこのレンズを手にし、近所をスナップしてきました。早速このレンズの特徴などをレポートいたしましょう」との器用さを、ぼくはとてもじゃないが持ち合わせていないので、ただひたすら、その慧眼ぶりに感心するばかり。

 テストとは、しっかりした三脚を使い、普段からよく理解しているレンズとともに、被写体の距離を変え(室内と野外)、開放絞りから最小絞りまでを使い(最低でも1絞りずつ。できれば億劫がらずに1/3絞りずつが理想)、レンズチャートやカラーチャート、新聞紙などの平面体と立体物を撮る。室内なら、光の一定したストロボや蛍光灯を使用。野外であれば、被写体との距離を何通りか設定し、安定した光源下で撮る。明度やコントラストが変化しては、厳密なテストができないからだ。また、ホワイトバランスも手動で一定させておく。撮った写真を1枚1枚PCのモニターで拡大表示して、唸ったり、喜んだり、鳥肌が立ったり、悲喜こもごも。

 「こんなことをしなければ写真は撮れないのか?」と問われれば、「ここまでしなくても良いけれど、道具の性質はなるべく理解しましょう。その理解が撮影を助けてくれることは請け合います」と、テスト魔のぼくは上目遣いで、遠慮がちにいうことにしている。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro STM。RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ゆり。異様に長い雌しべが1本。雄しべにフォーカスを合わせる。風が強く、膝をついたままぼくも花に合わせて身体を前後左右に振る。
絞りf8.0、1/400秒、ISO1000、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
ピンクの大きな芙蓉。へそ曲がりのぼくは、きれいな色より花弁の質感に惹かれ、それをモノクロで。
絞りf7.1、1/80秒、ISO500、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)