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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2019/06/21(金)
第451回:データ保存の悩ましさ(補足)
 前回に引き続き、データ保存について書き残したことを未練がましくも補足(「続」ではない)としてお伝えしておこうと思う。とはいえ、このことは大上段に振りかぶって論じようとすれば、かなり専門的な知識が必要であることは明白なのだが、みなさんにしろぼくにしろ、まずは大半が写真の愛好家であり、記録メディアの専門家ではないであろうと思う。したがって、それぞれの編み出したメソードに添って、「保存」という悩ましくも厄介な課題を適宜扱っておられるのだろうと推察している。

 どの様な分野であれ、専門家と名の付く人は何故か「・・・でなければならぬ」とか「・・・であるべきだ」との断定的かつ窮屈な言辞を、素人に対してこれ見よがしに、鼻を膨らませながら弄したがる傾向にある。あなたの身の周りにもそのような人がたくさんいるのでは?
 では、プロの写真屋は果たして写真の専門家なのかというと、ぼくにはどうも判然としないものがある。第一、写真屋には当然のことながら国家試験もなく、資格審査のようなものもない。あるのは、理不尽極まりない徒弟制度に耐え忍んできたという無形文化財のような実績と矜恃だけである。
 「プロフェッショナル」という英単語を分厚い英英辞典で引いても、正しい定義がぼくにはよく分からないでいる。感覚的には「熟練者」とか「生業としている」との意味合いが強く感じられるので、ぼくはそのような解釈が妥当なのではないかと考えている。「専門家」は、「スペシャリスト」とか「エクスパート」との語彙がぼくにはしっくりくる。

 写真をはじめ、文学や絵画などなどは、厳格な数理・数式で成り立っているものではないし(成り立ちや約束事としての方程式はあるように思う)、スポーツのように点数で評価されたり、争われるものでもなく、人々の審美眼や慧眼に依拠したもので、それはあたかも浮き草の如し、とぼくは思っている。プロの写真屋とは、なんと儚くも心細いことか!
 専門家についてはさておき、世の中の多くの事柄が彼らによって形づくられていることに異論を挟む余地はないのだが、専門家というものはどうもその思考や流儀を門外漢にも押し付けがましく振る舞いたがる悪癖を有す。加え寛容さが不足している。「えっ、そんなことも知らないの?」という無神経で不届きな科白を平然と吐くあの蛮勇と不粋。そして、「親切」が「ありがた迷惑」に取って代わるということにも気がつかないでいる。得々とやるのだから、こちらはたまったものではない。これを称してぼくは「変態性エゴ」というのだが、興味のないことを強いられることほど鬱陶しいものはない。ことほど左様に、「融通」とか「切り盛りをする」という言葉に縁遠い人たちがたくさん現出することになる。
 その四角四面さをもって快刀乱麻を断つことができると大いなる勘違いしているのだから、敵わない。きっとそのような作法に辟易とした経験が誰しもあるでしょう?
 しかし、それが専門家たるものの自然の理であることを認めるにぼくはやぶさかではないのだが、ぼくらはまずそのような窮屈さから逃れて、一般的な約束事や、それにまつわる最大公約数的な原理原則を守ればそれで良いのではないかと考えている。それが至当というものだとも思う。

 毎度のことながら本題に入れず枕ばかり書き連ねているが、貴重な写真データをどのように管理・保存するかについて、多くの愛好家と接しても、喧々囂々(けんけんごうごう。大勢がやかましく騒ぎ立てること)となった経験がぼくにはあまりない。むしろ銀塩時代(フィルム時代)の好事家のほうが、フィルムや印画紙の保存に、より強い関心を示したように思えてならない。ぼくもその一派だった。昨今、デジタルのほうがデータを失いやすいにも関わらず、無頓着な人が多いように感じている。
 我が倶楽部に於いても、この話題に関して談論風発(談話や議論が活発に行われること)となったためしがない。とても大切な事柄であるのにほとんど話題にならない。データを飛ばしてしまい泣いた人、大枚を叩いて専門家に復元依頼をした人もいるが、それでもやはりどこか他人事(ひとごと)であるようだ。「明日は我が身」とか「人の振り見て我が振り直せ」との格言を軽んじているように思えてならない。
 データの損失は「自己責任」(好きな言葉ではないが)の範疇を出ることがなく、けれど専門家の手を経て復元できれば儲けものだ。常に復元可能とは限らないのだから、慎重の上にも慎重を期す “べき” であろう。「あとの祭り」ほど苦く、虚しいものはない。

 常識的な保存状態下では、10年に1度ほどデータをCD、DVD、BD(ブルーレイ・ディスク)などの記録メディアに焼き直すことをお勧めする。その時に、焼き直した日時を記しておけば、いろいろな意味で安心感を得られる。化学変化が恐いので、油性マジックペンでディスクに直接書き込むことはせず、ケースの外側に記しておけばなお安心。
 それに加え、メーカーは由緒ある国産品をお勧めする。ぼくは国粋主義者などではないけれど、この方面での「メイド・イン・ジャパン」は未だ健全であり、他の追随を許さぬものがある。
 そしてデータの記録面には、如何なるものも触れることは厳禁である。もし、誤って指紋などを付けてしまった場合は、できるだけ速やかに専用クリーナーで拭き取っておくこと。指の脂や汗が後々悪さをすることは想像に難くない。汚れたからといって、水やウォッカでごしごしやってはいけない。
 また、ディスクプレーヤーやレコーダーも使用頻度により一概には言い難いが、読み込みエラーを避けるためにレンズクリーニングを時折することもお忘れなく。
 以上思いつくままに、記録メディアの専門家でないぼくが常識的なことを再確認のためにお伝えしたけれど(第215回にも「データの保存」について述べているのでそちらも併せてお読みいただければと思う)、梅雨の今、レンズのカビ防止は要領を得ているが、さて上記の記録メディアに於けるカビの発生には幸か不幸か気づかずにいる。ここが専門家でない悲しさだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/451.html

カメラ:カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF35mm F1.4L USM。Fuji FinePix X100。
さいたま市桜区。
同じ場所を2年の歳月を経て、定点観測的に撮ったもの。現在は立派な道路になってしまった。

★「01さいたま市」
2009年2月撮影。夕暮れ、満月に近い月とともに。 
絞りf8.0、1/80秒、ISO200、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
2011年6月撮影。工事中の道路。Fujiの固定焦点(35mm。35mm換算)カメラで。
絞りf8.0、1/480秒、ISO200、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/06/14(金)
第450回:データ保存の悩ましさ
 拙稿を毎週律儀に読んでくれていると覚しき世話好きの友人が、久しぶりに電話をくれた。近況を報告し合いながら、ぼくをからかうようにこんなことをいう。
 「なぁ、かめさん。前号の題目に “最終回” とわざわざ書いてあったね。それがなんだかとても可笑しかった。笑ったよ。その次はきっと言い訳をしながら “最終回その2” なんてことをするんだろう? そしてその次は “最終回その3” とくる。そういうことをかめさんはしばしばする。なにしろお前さんはその手の前科持ちだしねぇ。いつだったか、 “これがホントの最終回” なんてのもあったな。あれは確か昨年の京都シリーズだ」と愉快そうに電話口で笑っていた。よくもまぁ、そんなつまらぬことを覚えているものだ。ホントに大きなお世話だよ。
 ぼくの未練がましさに託(かこつ)けて、わざわざ秋田県から長距離電話をしてくるのは何か事情があってのことに違いないのだが、あの口調や気配からして、せいぜい夫婦喧嘩くらいのことだろうと思っている。世話焼きも時にはいい迷惑だ。
 ぼくだって、世を忍び、人目を気にしながらこのような見苦しいしいことを人知れずこっそり(?)しているわけで、こう見えてもかなり気恥ずかしい思いをしているのだ。 “決まりが悪い” というのはこういう時に使う語句なのだろう。ぼくとて、人並みに “恥らい” というものを知っているつもりだ。

 「実をいうとね、前号は本文を書く前に、意識的にというか、用意周到というか、抜け目なく “最終回” と記しておいたんだよ。『今回で最終』としっかり自分に言い聞かせ、あらかじめ逃げ場を封じておかないとずるずるいつまでも書き続けてしまうことは、本人が一番よく知っているからね」と、ぼくは一応同意する振りを彼にして見せた。精米業を営む彼には美味い米を定期的にもらうための深謀遠慮なる事情があったからだ。
 だが白状すれば、未練を断ち切るために敢えて「最終回」と書いたというのは、真っ赤な嘘だ。ただ単に、事実は写真(五条楽園)の現像・補整が今週中には手を付けられず、間に合わないというだけのこと。正直に告白しているのだから、ぼくを指して嘘つき呼ばわりしてはいけない。正直さは人格を何倍にも向上させ、そして何ものにも勝る宝だとぼくは信じている。

 それにしても、帰郷以来、あまりにいろいろなことが降って湧いたように起こったものだから、本業を脇に置き、雑事にかまけざるを得ない状況に置かれ、目下なかなか補整のための時間が取れないでいる。自由に身動きができないのだ。
 とはいえ、月に2〜3度は日帰りで私的写真を撮りに近県を巡り、写真屋の所業として気が咎めぬ程度に励行し、取り繕ってはいるものの、当然のことながら、そちらにも手を入れる時間がない。原稿はなんぼでも(いくらでも)書けるが、写真の補整は時間がかかるのでとても同じペースというわけにはいかず、そこがとても悩ましい。
 理想をいえば、拙稿は可能な限り本文と写真の同時進行と心得るのが好ましいのだが、人生思うようにはいかないものだ。
 
 「困ったなぁ」と思いながら、この1週間近くぼくはある目的のため(友人の脅迫に屈して)、保存してある自分の撮った写真を分野毎に選び出すという面倒な作業を余儀なくされていた。
 写真データの保存や管理は誰もが頭を痛める難しくも厄介な問題なのだが、このことはそれぞれが工夫を凝らさなければならない大切な事柄でもある。どのような方法がベストなのかは個々人によって異なるであろうから、一概にはいえないが、「データの消失を未然に防ぐこと」が重要との考えに異存はないと思う。
 ぼくの方法は、撮影日と場所を記したフォルダを作り、そこにその日撮ったRawデータ(ぼくはRawデータでしか撮らない)と補整し終わったPSD(Photoshop形式)用のフォルダを作り、レイヤーを付けたまま保存しておく。レイヤーをつけておけば、いつでもやり直しが利くからだ。ただし容量は重くなるが、利点が大きいので、ぼくはデータの保存には好んで可逆圧縮のPSDやTIFを採用している。容量が問題となる人は、最も圧縮比を低くしたJpeg(非可逆圧縮)の採用がよいだろう。ただJpegは保存を繰り返す毎に画像が劣化していくので留意すること。
 
 フォルダがいくつかまとまれば、それをブルーレイディスクに保存する。数年前まではDVDに保存していたが、現在はブルーレイディスクを採用している。利点は容量が大きい(25GB、50GB)ことと、耐久性に優れている(といわれている)ので、この数年はもっぱらブルーレイディスクだ。
 それと併せて、外付けハードディスクを2つ用意し、そちらにも保存している。つまりぼくは3重の保険を掛けているということになる。2重にも3重にも保険を掛けるのは、撮影と同様である。
 しかしこれとて、ディスクに書き込まれたデータがいつまで生き長らえるか誰にも分からず、経年変化(データ自体ではなく、光学ディスクの物理的劣化という意味)による消失は免れようのないものだ。いつかは消えてしまう運命にある。ディスクの保存状態の良し悪しにもよるだろうが、今2000年に焼いたCDを再生してみたが、何の問題もなくPhotoshopで見ることができた。
 ディスクの寿命は10~100年(なんと曖昧な!)といわれるが、この件に関してぼくは「知らない」と答えるのが正直であり、正しくもあると考えている。もしかすると1〜90年かも知れない。けれど心配性な方、未練がましい方は、10年に1度くらいは書き換えたほうが無難だろうと思う。もちろん常識的な保存状態下でのことだ。直射日光が当たっていたり、高温多湿下は論外。
 さて、この話題に関しては書き足りないことがまだまだある。次回は「続」ではなく、「補足」程度にお話ししたいと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/450.html

カメラ:RICOH GR DIGITAL 2。固定単焦点レンズ。焦点距離5.9mm(35mm換算で28mm)。
千葉県勝浦市。
9歳の時、余命1年足らずと宣告された母は勝浦の病院に1年間ほど入院していた。ぼくは毎週父に連れられて見舞いに行っていた。勝浦の思い出は以前拙稿にて少しだけ述べたことがあるが、今回の掲載写真は、8年ほど前にコンデジを携えてふらっと訪れた時のもの。

★「01勝浦市」
釣り人2人。1人は釣れないのだろうか。椅子の下で不貞寝をしていた。
絞りf5.6、1/2010秒、ISO80、露出補正-0.33。

★「02勝浦市」
62年前にはここにコンクリートで囲ったプール、もしくは生け簀らしきものがあった。今はその名残さえすっかり消え失せ、代わりに若い男女が。
絞りf9.0、1/1700秒、ISO80、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2019/06/07(金)
第449回:京都の遊郭跡を訪ねる(11)最終回
 このテーマは10回までにしようと意を強めていたのだが、なんだか知らぬうちに、区切りの良い10回をオーバーしてしまった。随所に言い訳めいたものを散りばめながらも、今少しだけ気が咎めている。

 橋本遊郭と五条楽園に滞在した時間は、移動を除けばたかだか4時間強に過ぎない。第445回(7)にも記したことだが(連載ものなので重複は致し方ないものとお許し願いたい)、「恐れながら厚かましく、また太々しくもある・・・、この度胸と心胆に、我ながら開いた口が塞がらない」と精一杯の自嘲を示しながら、それでもやはりぼくは懲りないどころか、「継続は “力” なり」とか「塵も積もれば “山” となる」などとうそぶき、10回以下に止める気配をまったく見せなかった。野放し状態とでもいうべきだった。ぼくの心意気と心胆は、まるで野火のように方向性を失い、勝手気ままに、そして止めどなく広がっていった。こんな反省文など綴っているとどんどんやぶ蛇になるにも関わらずである。

 しかしよく考えてみると、ぼくに「力」も必要なければ、ましてやこんなことを「山」にしてどうする! との気持が強い。「力も山も」欲しくはなく一切不要なのだが、厚かましさによる開いた口はいつまで経っても抑止が効かない。これをして、 “減らず口を叩く” というようだ。でも悲しいかな、それは事実に違いない。ここにぼくの生まれながらにしての、やむを得ない複雑怪奇な事情による執拗一徹さと自己顕示欲が滲み出ている。
 口の悪い友人は、「滲み出ているのではなく、噴き出しているとかみなぎっているというほうが適切だ。それをかめさんは自覚しなければいけない」と茶々を入れてくる。大きなお世話だ。
 だが、このような性癖の主に、世間は「執着の人」とか「妄執の輩」との濡れ衣を、冤罪とも気づかずに着せるらしい。ついでに口やかましい人物だと決めつけてくる。「ついでに」決めるな!
 だが生憎、ぼくは『小言幸兵衛』(こごとこうべえ。世話好きだが口やかましい麻布古川の家主、田中幸兵衛を題材とした落語噺。転じて、口やかましい人を指す)タイプの人間ではない。
 
 そしてもうひとつは、精根尽き果てながら4時間強の自己的強制労働に赴いたその “宛てがい扶持” として、しっかり帳尻を合わせようとの姑息な考えに囚われているのかとも考えたのだが、否それはない。断固としてない。
 「純粋な創作活動というものは常に間尺が合わなくて当たり前。むしろそうあるべきだ」というのがぼくの昔からの変わらぬ信条でもある。私的写真撮影のための労働力を換金しようと企てることは、プロであるからこそ本末転倒であり、「天に唾す」ことにもなるとぼくは考えている。
 しかし、他人の純粋な好意や善意により「余儀なくお金になってしまう」場合が時折あり、それは別口だと、ぼくはちゃっかり澄ますことにしている。どこかに逃げ口上を見つけておかなくっちゃね。頑ななだけでは、無理が祟るから。
 何事も、自らの主義主張を一応の建て前にするのは、年相応のものがあるはずで、それはまた誰からも陰口の叩かれない優れた方便として取り上げてもいいのではないかと思う。この歳になって(ならなくてもだが)、後ろ指を指されるようなことは厳に警戒を要す。

 五条楽園については今も忘れられぬ思い出がまだある。ここの一角に仮住まいをしていた親戚に遊びに行った時のこと。叔母の学校の後輩で、家族ぐるみのつき合いをしていたSさん(当時20代の女性)に映画を観につれて行ってもらったことがあった。
 映画の題名は『フランケンシュタイン』(1931年アメリカ)で、街に貼られたカラーのポスター(映画はモノクロだった)を少年は矯めつ眇めつ(ためつすがめつ。あるものをいろいろな角度からよく見るようす)好奇心に満ちた目で眺めたものだ。そのイラストはおどろおどろしく、少年の感受をひどくくすぐるようなものだった。そこに描かれたフランケンシュタインの凄味ある顔に、好奇心と冒険心旺盛なぼくはぜひご対面を果たしたいと思ったものだ。
 Sさんが来宅し、ぼくを呼び寄せ「てっちゃんはどこに連れて欲しい?」と訊ねた。ぼくは即座に『フランケンシュタインが観たい』と甘えた。彼女は、ぼくのリクエストに快く応じてくれ、河原町四条にあった映画館に連れて行ってくれたのだ。
 ぼくがいつもねぐらにしていた場所は、祖父母や長兄夫婦の住む上京区の寺町今出川にあったが、親戚の家はそこから下る(京都では南へ行くことを “下る” という。表記は “下ル” )こと約4.5kmの所にあった。

 フランケンシュタインとの逢瀬に胸を膨らませ、ぼくは上映を待った。やがて映画が始まり、登場した人造人間であるフランケンシュタインの顔にぼくは飛び上がるほどの衝撃を受け、恐怖に戦いた。初めのうちは顔を手で覆い、指の隙間から覗き見をしていたが、次第に指の隙間では間に合わなくなり、ぼくはとうとう隣席のSさんの膝に顔を伏せてしまった。終演まで、ぼくは身じろぎもせず恐怖と闘いながら、Sさんにしがみついていた。迷惑なガキだ。
 その晩は恐くて眠れず、面倒見の良い優しい叔父が夜遅く寺町今出川までぼくをわざわざ送り届けてくれたものだ。叔父は親戚のなかでもお洒落で通っており、殊更靴にはご執心だった。翌日、叔父は何を思ったのか「てつろう、靴を買ってやろう」と、やはり河原町四条にあった靴屋に連れて行ってくれた。
 真っ白な革靴を買ってもらい、ぼくはご満悦で、昨夜の恐怖はもう忘れ去っていた。

 あれから約30年の月日が経ち、ぼくは『ミツバチのささやき』(ヴィクトル・エリセ監督。スペイン)をこんにちまでしばしば好んで観るようになった。この名画は、ぼくが京都で観たあの『フランケンシュタイン』が物語のベースとなっている。6歳の主人公、少女アナは町にやって来た移動映画の『フランケンシュタイン』を観るのだが、どこかの情けない10歳の男子よりずっと気丈だった。ぼくは30年後に顔を赤らめた。

http://www.amatias.com/bbs/30/449.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
高瀬川沿いに建つ格式あるお茶屋の大店「三友楼」。立派な唐破風を備え、正面玄関の看板には「本家 三友」とある。夕陽を浴びながら、人気がなくひっそりと静まり返っていた。
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
お茶屋が転業して旅館となっている。外国人に大層人気があるのだそう。夕闇迫るなか、この日最後のカット。
絞りf9.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/05/31(金)
第448回:京都の遊郭跡を訪ねる(10)
 3月8日、昼下がりから橋本遊郭跡を撮影した後、その足で五条楽園に向かった。小さめのカメラバッグに最小限の機材を詰め込んで、一日二箇所という普段は滅多にしない欲張った撮影を敢行した。敢行とはいえ、 “勢い込んで” というにはほど遠く、躊躇しながら、あるいは仕方なく、あるいはまた “時間を惜しんで” というべきか。
 ぼくは自身の強欲を戒めながら、江戸時代の川柳をもじって「頭禿げても写真(本来は、 “浮気” )は止まず、止まぬはずだよ先がない」と嘆いてみせた。ぼくの頭髪は現在のところ薄くもならず健在であり、従ってもちろん禿げてもおらずだが、しかし残念ながら全毛白髪といったところだ。
 「『慌てる乞食は貰いが少ない』ともいうしなぁ」と、なんとか五条楽園回避の手立てを懸命に算段していた。体力に自信がなくなると、闇雲に突進するわけにもいかず、やりくりも楽じゃない。

 わずか4kgの携行とはいえ、撮影をしながら、まったくの飲まず食わず(ここが我が倶楽部の婦女子たちとは決定的に異なる)で、ベンチで休むこともなく、20,000歩弱(スマホの万歩計による。案外正確)を闊歩しながら被写体を渉猟するのは、やはり相当身に堪える。しかも、突っ立ったまま、棒立ちの姿勢でカメラを構えることはほとんどなく、シャッターを切る毎に、アングルに適した体勢を取らなければならないので(ミニ・スクワットのようなものだ)、あっちこっちの筋肉に負荷がかかり、錆びた蝶番(ちょうつがい)のようにギシギシと音を立てて軋むのだ。嘘です。時にはブルブルと震え、挙げ句こむら返りを起こしそうになり悲鳴をあげた。ホントです。
 そんな時、義弟の嫁がぼくを気遣って持たせてくれたこむら返りの特効薬(だそうな)と称する芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう。漢方)を服用する。効用は気の持ちよう次第なので、「これは大層よく利くのだ」と自己暗示をかける。単純なぼくはすぐにこのトリックに引っかかり、事なきを得るという寸法だ。 

 ぼくはヤクに頼りながら、萎えることなく、そして老いを養うこともなく、夕闇が迫るまで600回もシャッターという苛酷そのものの鞭に打たれ続けた。この日は、精根尽き果てたけれど、最後の1枚までぼくに精神の混濁はなく、正気を保つことができた。
 「やっぱり人生は気力かぁ」と、雑多なる自家撞着に陥りながら、茶目な混ぜっ返しを精一杯してみせた。そしてぼくは、五条楽園の雰囲気満点のお茶屋を眺めながら、どこか粋がっていた。
 ジジィに無理は禁物と知りつつも、この日の足掻(あが)きはなかなかのもので、我ながら見上げた根性であったと褒めてやりたい。ぼくは五条楽園で、撮影の成果は別として(ここが悲しい)、老いの哀感に咽びながら !? 気丈な振る舞いを見せたつもりだった。

 子供の頃遊んだ場所はすっかり忘却の彼方となっていたが、克明に記憶していることがいくつかある。そのうちのひとつ、家を一歩出ると多くの土佐犬がいたことだった。ぼくは人並み以上の犬好きだと自認するが、当時ここにいた土佐犬だけは恐さが先に立ち、撫でることができなかった。
 五条楽園には京都一の反社会団体、つまり指定暴力団の本部があり、その構成員も近隣に居を構えていたのだと思う。現在は大きな総本部ビルが建っているが、当時土佐犬は組長やその舎弟が飼っていたのだった。
 世情から窺えば、土佐犬は闘犬のために飼われていたと考えるのが順当だとも思えるが、あるいはその手の人たちが一種のステータス、もしくはその性情や肌合いから、犬を飼うなら土佐犬と定めていたのかも知れない。彼らの愛玩犬がチワワやトイプードルでは様にならないだろう。
 今思うとぼくが土佐犬に触(ふ)れることをしなかったのは、犬も飼い主も気が荒いと察し、「君子危うきに近寄らず」の教えに、子供心ながら従ったのではないだろうか。子供のぼくはそのような諺は知らなかったはずだが、きっと本能がそうさせたのではないだろうかと今になって思う。

 そしてもうひとつ。ある固有名詞(ここでは仮にAとしておく)が、今日に至るまで脳裏にこびり付いている。この固有名詞Aが、人名なのか場所の名前なのか、あるいは屋号のようなものなのか、果たして何であったのかが長年どうしても分からないでいた。というより、子供だったぼくが、世間にあまり馴染みのないAという固有名詞が何であるかを推察する能力がなかったのだと思う。しかし、半世紀近くぼくはその固有名詞を忘れず、しかも正体不明のまま放置していた。
 今年、五条楽園を歩きながら「Aとは何なのかの謎が解けるかも知れない」と考えていた。くたびれた足を引きずりながら、柵のない駐車場を横断しようとふと脇に目をやると、そこに置かれた二つの大きなゴミ箱の横腹にAと記されていたのだった。
 ぼくは咄嗟にAという固有名詞がかつての組長の苗字だと感づいた。半世紀ぶりの謎があっという間に、如何にも呆気なく氷解してしまったのだ。その呆気なさにぼくは深いため息をつき、しかし感慨に浸りながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 従姉妹がよく口にしていたAとその屋敷、そのそばにある今や世界に冠たる任天堂(山内任天堂)の本社などは未だ健在。点在するお茶屋や京町家などなど、寂れ行く五条楽園は異様なほどの静寂さに包まれていた。もう、土佐犬の姿も見当たらなかった。

http://www.amatias.com/bbs/30/448.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
かつてのお茶屋が居並ぶ。家に掲げられた住所表示の立て看板が面白い。「下京區 六軒通木屋町東入 岩瀧町」とあるが現在の住所表示ではない。「下京區」の横文字が右から書かれている。懐かしい「仁丹 大礼服マーク」もある。このような昔の住所表示がまだ随所に生きている。
絞りf11.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02五条楽園」
廃業したお茶屋の脇の路地。幅1mほどの路地を行くと高瀬川に出る。どこか典雅な絵がペンキで描かれていた。
絞りf11.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/05/24(金)
第447回:京都の遊郭跡を訪ねる(9)
 感覚的に橋本遊郭についての情報より、五条楽園についてのそれのほうがずっと多いような気がする。正確な理由は分からないが、五条楽園のほうが規模も大きく、また京都市の真ん中に位置していたがために、史料の類が多く存在しているからではないだろうか。
 加えて、上記したことの解明にはならないのだが、ぼく自身が遊郭や花街に関して何分(なにぶん)の知識も持ち合わせておらず、情報の収集・蓄積に事欠き、不案内であることが大きな要因として挙げられる。その点に関してはどうかお目こぼしをいただきたい。
 つまり遊郭の何たるかをぼくはよく知らないのである。ぼくの子供時分(小学校高学年)にはすでに使用されなくなった五条楽園のお茶屋(もしくは妓楼か)で、寝泊まりをし、かくれんぼなどをして遊び回った経験から、そこの一風変わった異様な雰囲気や、カビと埃の入り混じったような湿っぽい臭いなどが未だ脳裏に焼き付いて離れないという面を有しつつも、遊郭好事家からみれば、ぼくの知識など取るに足らないものだろう。ぼくは、遊郭などに対する感情移入だけは人並み以上だと認めるが、橋本や五条楽園について、公に述べる資格を欠いている。

 被写体に関する知識や理解をなおざりにすべきではないというのが、撮影の鉄則、とまではいわないが、ないよりはあるほうがイメージの構築には断然有利であることに異論はない。
 しかしそれが即ち、良い写真に直結するかしないかは残念ながら断言できないのだが、「知識を有していること」=「イメージしやすいこと(焦点が絞りやすいこと)」=「良い写真につながりやすいこと」との三段論法に頼りたくなるのが人情というものだろう。したがって、知識はとても有用で大切なものと心得、そのように自己暗示をかけたほうが結果は吉と出る、というのがぼくの長年の経験則である。何をするにも、お勉強はしないよりするに越したことはない。
 また、同じ被写体でも、個々人によって「目の付け所」がそれぞれに異なり、それをどう表現するかで写真のイメージや見た目がガラッと変化するので、写真は面白くもあり、逆に怖いともいえる。静物であっても同じ写真は二度と、しかも永遠に撮ることができないという現実にも直面する。

 拙連載では、ぼくの好きな分野である「街中の人物スナップ」は掲載しにくく(昨今の窮屈でヒステリックな世の中にあって、個人が特定できてしまうとの嫌いがあるのでぼくは掲載を控えている。ぼく自身はそれに頓着しなくてもいいと思っているのだが。巷に蔓延る癌細胞のような “言葉狩り” 同様、このような現象はひどく気味が悪い)、故に掲載写真の被写体はどうしても静物に偏りがちとなる。それも、ぼくの場合は建築物が多い。

 建築撮影に関して、仕事の写真では水平・垂直・平行を神経質に調整し、またそれにこだわらなければならず、蛇腹アオリの利く(物の形やパースを自在に変えられる)大型カメラの使用がもっぱらとなるが、私的写真に関しては、ご覧の通りかなりの、場合によってはエキセントリックな広角歪みをぼくは敢えてものともせず、その特質を心底愉しんでいる。
 このような描写は、おそらく好みの分かれるところだということもよく心得ている。きっとぼくの建築写真に眉をひそめる御仁も多かろうことは百も承知だ。私的な写真に、制約だらけの仕事の撮影作法を持ち込まず、自由気ままに写真を愉しみたいとの強い思いが、超広角レンズの遠近感を大胆に、好んで利用する最も大きな要因となっている。

 水平・垂直・平行にこだわりすぎると、かえって味わいのない、無難さだけが取り柄のつまらぬ写真になりがちということもあるし、また、遠近法を無視しているがために、実際の視覚とは異なった不自然さを免れぬ場合もままある。
 「建築写真は、誰が何といっても(誰も何ともいわないのだが)、水平・垂直・平行がキッチリ出ていること」を金科玉条のように唱えるのは、明らかに間違った教えである。賢明なる読者諸兄には、どうかそんな言い分を鵜呑みにして欲しくない。
 今は大型カメラを使わずとも、画像ソフトにより水平・垂直・平行が容易に出せる仕組みになっているが、それよりも、レンズの焦点距離による遠近感の違いを体得し、それを愉しんだほうが得るものが大きく、それが本道だとぼくは確信を持ってお伝えしておく。
 
 さて、肝心の五条楽園であるが、それは鴨川にかかる五条大橋(牛若丸と弁慶が一戦を交えた)の南西に位置する遊郭を指す。最盛期には約150近いお茶屋(芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。東京の「待合」に相当)と置屋(芸者や遊女を抱えている店)があったと伝えられる。鴨川と高瀬川の間の中州地帯には、多くのお茶屋があったが、京都の他の花街(例えば、祇園や先斗町、上七軒など)との違いは性風俗を扱っていたことだ。五条楽園は赤線地帯でもあった。いわば庶民派の花街であった。
 昭和33年の売防法施行後、五条楽園(それ以前は、七条新地)と名を変えたが、平成22年(2010年)売防法違反で一斉手入れを受け、「五条楽園」の看板も取り外された。つい最近のことである。廃業に追い込まれたり、解体されるお茶屋もあったが、折りからの観光ブームで旅館や料理店、ショップなどに転じたものもある。まだ往事の匂いが漂うが、ぼくの思い出の詰まったお茶屋はどこだったのか、さっぱり見当がつかなかった。次回の里帰り時には時間的な余裕を持って探し出してみようと思っている。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/447.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
高瀬川沿いにある元お茶屋。現在は旅館として活用されているようだ。
絞りf9.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
思わず「う〜ん、すごい!」と感嘆。夕陽の当たったコテコテの(ぼくの写真や文章そっくり)カフェー建築は古色蒼然とした「旅館」という看板が掲げられてあるが、現在活動しているのかどうかまったく不明。両脇の建築物もおどろおどろしく、人の気配はない。京都市内のど真ん中ですよ!
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/05/17(金)
第446回:京都の遊郭跡を訪ねる(8)
 今回の京都行きは撮影が第一目的ではなく、第439回:京都の遊郭跡を訪ねる(1)で記したように、義母の四十九日の法要とそれに関わるさまざまな後片付けをするためだった。
 しかし、鉄道好きのぼくはわくわくそわそわ、そして麻薬的な新幹線に大枚を叩いて乗り込み(あの速さはやはり非現実の極みであり、まさに夢見心地だ。因みに東海道新幹線の最高速度は285km/h)、せっかく我が家から550kmも離れた京都くんだりまで行くのだから、写真を撮らぬ手はない。
 ぼくは抜かりなく最小限の機材をバッグにこっそりと詰めた。写真屋なのだからもっと大べら(人目を気にせずにするさま)に振る舞ってもよさそうなものだが、今回ばかりは義母への敬意と感謝の意を示すため、厳粛なる気持で法要に向き合わなければと思っていた。ぼくがいつになく控え目で遠慮がちな挙動に出たのは、そんな意識が強く働いていたからだろうと思う。

 根無し草のようなぼくにとって、古希を通り越した今、つまり「余命」という言葉がより身近に、かつ現実的なものになるにつれ、あわよくば「京都はぼくの故郷」といってみたくもなっている。急に「里心」がついてしまったのだろうか。まさに今回は「里帰り」の気分だった。

 巷では、京都人に対する杓子定規で決まり切った悪評が存在する。あるいはまた、団塊の世代に対する不見識で否定的な意見を耳にすることもある。そのような意見を述べる人は、ほとんどの場合実体験からではなく、根も葉もない噂話、あるいは伝言ゲームのような又聞き、もしくは流言飛語の類に頼ったものが多い。
 しかし、そんなものはぼくにとってまったく「屁の河童」同然で、それに頓着したりこだわったりする人を、むしろ道理に暗くトンチンカンな人として憐れむくらいだ。決して血の巡りが良いとは思えないし、貧血のため目眩を起こしているのだ、と憚りなく揚言しておこう。

 何故かといえば、人間はこの世に生を受ける時、「場所も時も人種も」選べないからだ。己の意志によって、ぼくは京都に生まれたのではなく、そしてまた団塊の世代として生まれる時を選んだわけでもない。このような自明の理を解さない人は自己を一切顧みることなく、やはり何かが頭のなかで著しく欠損し、神経細胞が糜爛(びらん)してしまっているのだろう。
 私たちは、「差別だ」、「人権蹂躙だ」と叫びながらもそのような人々に囲まれ、闘いながら生きている。貧血気味の人たちは例外なく道理に疎く、この手の人々に対抗するには無手勝流の恬淡(てんたん。欲がなく、物事に執着しないこと)さが一番だ。そうすれば愉快この上なしなのだが、ぼくの精神はまだ青年の域を脱しておらず、未熟であるが故に、つい熱くなってしまうのである。

 出生について選択の自由がないことは、人間ばかりでなく、生あるすべてのものが背負っている厳格な掟であり、あるいは神との契約でもあり、そこで生じる超自然的な現象を、私たちは避けることができないという道理と原理に付き従っている。
 それを知ってか識らずか、人の出生にケチを付けたがるのは愚かさの極みでしかない。浅薄に過ぎる。もしそれをいいたいのであれば、京都人や団塊の世代を非難するのではなく、単に「出生以外の事柄については、かめやま個人が悪い」という言い方に分がある。

 何故このようなことをくどくど書いたかというと、今回触れる「五条楽園(旧七条新地)」に居を構えた複数の人たち(ぼくの親戚や知り合い)がいたからである。元妓楼や元遊郭に短い期間ではあるけれど間借りしていたがために(第439回に記載)、謂れなき遇(あしら)いを受けたのである。
 最も年齢が近く、仲の良い従姉妹は「 “よんどころない事情” により5年間五条楽園に住んでいたことが原因で、破談を経験した」と、天を恨むことなく語ってくれた。出生云々とは多少意味合いが異なるが、小学生の彼女に選択の自由はなかったわけで、すでにこの時不条理という罪を貧血気味の人々によりなすりつけられたのだった。

 橋本遊郭の撮影を終え、ぼくの足はガクガクしていた。大谷川の道なき土手を川に落ちぬように神経を尖らせて歩いたせいだった。若い頃の平衡感覚はすでに失われているのだと言い聞かせていたので、ぼくは慎重の上にも慎重を期して、身体を斜めにしながら小股で歩を進めた。普段使わない筋肉をふんだんに使ったおかげで、疲労によるヨロヨロ症状が激しくなっていたが、「もう一度京街道を歩きながら、妓楼の凝った細部(細工)に焦点を当て、それを写し撮っておこう」と、自らを励ました。これらは記録写真のようなものであり、ぼく自身のイメージを具現化するものではないので掲載は控える。
 時間は午後3時半を回り、普段であれば撮影終了とするところだが、今回は撮れる時に撮っておこうとの気持が勝ち、橋本駅から京阪電車で30分の清水五条駅に向かい、老体に鞭打ち子供時分に遊んだ五条楽園に行ってみることにした。

http://www.amatias.com/bbs/30/446.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
破風の格としては最も高い唐破風屋根が映える遊郭。戦前に建てられたもの。
絞りf11.0、1/15秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
カフェー建築の元お茶屋。何ともいえない雰囲気に、ぼくは胸が高鳴る。凄いものを見つけたと、心臓の鼓動が聞こえるような気がした。
絞りf9.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2019/05/10(金)
第445回:京都の遊郭跡を訪ねる(7)
 橋本遊郭の写真と文について、読者諸兄からの反応の多さにぼくは少しよろけ気味だ。地元の人たちとの会話時間を除けば、ぼくが橋本に滞在したのは2時間そこそこでしかない。知ったか振りをする気持は毛頭ないのだが、短い時間であれこれ気ままに感じ取ったことをそのまま記してきた。遊郭の知識も高が知れたもので、だから大層なことはいえない。
 そんな言い訳をしながらも、7話にわたって書き連ねてしまい、それこそ恐れながら厚かましく、また太々しくもあると自覚している。大した見聞も持ち合わせていないのに、これも仕事の一部とはいえ、耳目に触れたものを躊躇うことなく公に認(したた)めてしまうこの度胸と心胆に、我ながら開いた口が塞がらない。
 今ぼくは随分と自虐的であることを粧(よそお)っているけれど、知識の不足分は写真が補ってくれると、高を括っている。「百聞は一見にしかず」を引き合いに、ぼくは程よく難を逃れようとしている。ここが写真屋の強みだ。

 しかし思いの外、読者諸兄のなかには遊郭のあの独特な風情に非常な関心を寄せ、ついでに未練らしきものを残しておられる方が多いことを知り、その意外性もまた妙と感じている。
 特にあの時代を知るご年配の方々は、同時に戦時体験者でもあり、遊郭風情に未練を絶ち切れないというが如く、売防法以前の何かを懐古し、幻影らしきものを追い求め、またくすぐられるものがあるようだ。
 加え、年齢に関係なく、ぼくの推し測るところ、妓楼特有の凝った、そして風変わりな建築的佇まいに関心を示される方もいる。「実際の妓楼というものは見たことがないが、写真を見て橋本に行ってみたくなった」という声も複数届いた。
 売防法以前の遊里の姿が最も生々しく現存している橋本遊郭を、写真的な出来映えを度外視しても、記録しておいてよかったとぼくは思っている。失われつつある日本の文化を写真に収めておくのも写真屋の大切な役割と心得ている。たとえそれが遊郭であったにしてもである。

 遊郭や妓楼に興味を示すのは男衆だけだろうというぼくの一方的な思い込みは呆気なく外れ、意外や女性もいることを知った。ぼくの当て推量だが、それはきっと男衆の懐古にも似た心情とは異なり、純粋にフォトジェニックな興味・妙味からではないだろうかと思う。そしてまた、文化的な側面という意味もあるだろう。男は情緒が心にまつわりついて離れないという面が強いと思われる。こと遊郭に関していえば、女性にはそれがない。
 女性が娼妓や傾城(けいせい)に憧れの情を抱くとは考えにくいことだし、それどころか「人権運動家」、あるいは「その類の団体」からすればもっての外だろう。

 余談だが、昨今は、誤ったことや偏ったことを「人権」を出汁に声高に叫び、盾にしながら正当化しようとの傾向が多々見られるのは、まことに嘆かわしい限りだ。「人権」を錬金術や免罪符のように取り扱おうとする輩がいる。本来は尊ぶべき「人権」という言葉の価値を貶め、色あせたものにしていることに気の付かないお粗末な人種が多すぎる。今さらだが、「人権」とは、人が人たる当然の権利を指すが、権利と義務は常に同居し、同等なるものであることを忘れている。義務を顧みず、権利ばかりを主張する醜い品形に気づいてもらいたい。

 先日、映画の好きな読者からいただいたメールに以下のようなことが記されてあったので転載(許可済み)。なお、かっこ内はかめやまの補記。
 
 「映画『鬼龍院花子の生涯』の主人公である花子が、橋本遊郭で自殺する場面からこの映画は始まりますが、冒頭、夏目雅子(仲代達矢演じる侠客鬼龍院政五郎の養女・松恵)が日傘を差して降りてくるあの階段は今でもあるのですか? また、映画の最終場面の橋の上でのシーン。あの橋は今もあるのですか?」との質問だった。

 ぼくはこのDVDをレンタル店で借り、興味深く観た。夏目雅子演じる養女の松恵が、橋本の土手向こうを流れる淀川の堤防から階段を降り、橋本遊郭にやって来るシーンからこの映画は始まる。「昭和十五年・夏 京都・橋本遊廓」と字幕が出る。
 映画の公開は昭和58年(1982年)なので、撮影はおそらく昭和56~57年頃と思われ、したがって40年近く前ということになる。撮影当時の橋本が現在とどのように異なるかは分からないが、今でもこの階段は存在している。ただ、映画で観る階段は両脇が雑草で覆われているが、現在はコンクリートで固められている。幅も少し広くなっているような気もするが、映画のシーンが残像として頭に残っていれば、すぐに「ここだ」と分かるだろう。
 ラストシーン、松恵が橋本の妓楼で花子の遺体を確認した後、大谷川にかかる橋の上から花子が実父である政五郎に宛てた葉書を破り捨てる。小さな橋はすでに木製ではなくアスファルトにガードレールという今時の仕様になっている。橋の石柱(明治2年製。1869年)の根本がアスファルトに少し埋まってしまっているが、「柳谷わたし場」と読める。淀川の向こう岸、山崎への渡し場があったのだろう。

 ぼくは見ず知らずの人の質問に、要約すれば上記のような返信をした。彼が橋本を訪問されるかどうかは分からないが、今年3月にぼくが行った時、立派な妓楼に、「解体作業中につき、ご迷惑をおかけしております」との看板が掲げられ、足場が組まれていた。ぼくは妓楼とは無縁の生活を送ってきたが、身を切られるような痛みを覚えた。それは体験した事のないような痛みだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/445.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
遊郭南端の陸橋上から。中央に見える赤い屋根は遊郭唯一の湯屋橋本湯。左が大谷川。瓦葺き屋根の建物が残っている妓楼。
絞りf9.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02橋本」
橋本湯玄関。入母屋破風に乗せられた何とも立派な意匠瓦。中央には「橋本湯」とある。湯船や洗い場は一棟奥にあり、ここも妓楼の一角として使用されていたのだろうか? 謎は残る。銭湯は数年前に廃業してしまったとのこと。しかし、なんだか凄味のある銭湯だ。

(文:亀山哲郎)

2019/04/26(金)
第444回:京都の遊郭跡を訪ねる(6)
 ぼくが勝手に命名した “がんまち” じいさんたちの遊郭についての話をもう少しだけ。
 売防法が完全実施されたのは昭和33年(発令は31年。2年間の猶予期間を経て実施)からのことで、当時ぼくはちょうど10歳(小学4年)の小僧だった。
 初めてカメラを買ってもらった記念すべき歳で、嬉しくてたまらない頃であり、当然のことながら、まだ売春や遊郭の意味も知らず、ぼくの生活意識のなかにもそれに関連する言葉や単語は組み込まれていなかった。時折耳に入ってきた、いわゆる「赤線」の意味も知らなかった。

 ぼくはどこにでもいる年相応の純朴な少年だったわけだが、ただどことなく「 “赤線” は、大人たちの前では口にしてはいけない言葉のひとつ」なのだろうという微かな記憶が残っている。子供ながらに何か良からぬものとして感じ取っていたのだろう。
 心の片隅に、「赤い色をした線に囲われた地」は未知なる「新しい地」で、如何わしさと妖しさを合体させたサンクチュアリ(聖域。禁猟区)のようなものとしてどこか湿っぽく付着し、心の底に澱のように溜まっていた。ぼくばかりでなく、当時の少年にとって大人たちのいう「赤線」とは、どことなく際どい語感を漂わせていたように思う。
 同じ年頃のおませな悪童(いわゆる “悪ガキ” )たちのなかには、「赤線」や「新地」の正確な意味を知らずに口走り、大人ぶる者もいたが、彼らとて実態は何も知らなかったに違いない。ただ無邪気に大人を気取りたかったのだろう。そして大人を請け負いながら年少者に見栄を張っていただけなのだろうと思う。いずれにせよ、ぼくの世代は幸か不幸か、遊里・遊郭とは圏外の間柄だったのである。

 ところが、がんまちじいさん(84歳と85歳。昭和9年と10年生まれ)たちは血気盛んな時代を、合法であったことをいいことに(?)有効活用していたと思われる。であるので、彼らは十分にいろいろな意味で圏内にあり、合法という恩恵に浴しながら生きてきたのだった。
 ぼくは彼らの形風俗(なりふうぞく。恰好や身のこなし)による自身の推量に自信めいたものがあった。穿(うが)ち過ぎと思われるかも知れないが、もう何十年も職業写真屋として、レンズ越しに数えきれぬほど多くの人たちの表情を追いかけ、凝視しながら写し撮ってきた。人物の姿形や表情から、正確でなくとも、その人物像はおおよそのところ見当がつくというものだ。外れたことはほとんどない。

 遊郭での彼らの体験について、ぼくは言葉を濁すことなく直裁に訊いてみた。
 「お二人とも青春のはけ口を求めて、おおらかに女性たちと交遊されたのですよね? 今は非合法なので白眼視されることでも、当時は合法だったわけですから、それは天下晴れてのことだった。悪びれることもなかったのでしょう?」とぼくは二人の顔を覗き込み、笑顔を見せながらいった。
 “合法であるのだからそれで良いのです。やましいことなどありません。60年以上も昔のことなので、とっくに時効です” という態度・口振りを示さないと警戒されて、本音が聞けないとぼくは思った。彼らにしてみれば、ぼくは見ず知らずのよそ者なのだから。

 ひとりがもうひとりを指し、「Aちゃんは羽振りがよかったからお盛んだったよなぁ。わしは金が続かなかったから、まぁ3ヶ月に一度くらいだった。しかし、橋本では人の目を気にしなければいけなかったので、地元の人間は橋本では遊ばずに、大阪まで行ったものだ」と二人は顔を見合わせながら、屈託がなかった。思いの外、明け透けに語ってくれた。「3ヶ月に一度」というのが、この世界ではどのくらいの頻度を指すのか、ぼくには判断ができなかった。
 しかし、いくら合法とはいえ、地元で大っぴらにというのは決まりが悪いと感じるのは人情としてよく理解できる。だが彼らを “がんまちじいさん” と決めつけているぼくの身勝手な思いとはちょっとした齟齬が生じ、そこが何とも面白かった。彼らは結構な融通を示してくれたのだった。

 「終電など、橋本駅は大変混み合ったと聞きますが、そんなに?」と訊くと、「長い間には、橋本は浮き沈みがあったと聞いているが、私たちの知る売防法前はそりゃ〜あんた、かなりの賑わいだったものだ。しかし、遊女の自殺ばかりでなく、売防法で将来を儚んだ雇用主の悲劇もあったんだよ。Xさんもそうだったしなぁ」と、ひとりのがんまちが初めて悲しげな表情を見せた。橋本の悲劇を話してくれたのだった。
 「ぼくは弱者である遊女の死は同情の余地があるように思うが、雇用主のそれには俄に応じかねる」と、ぼくも直裁に申し上げた。ちょっとした沈黙が辺りを支配した。せっかくのがんまちとの邂逅を気まずいものにしたくなかったので、ぼくは話題を切り替えた。
 「鳥羽・伏見の戦い(慶応4年。1868年。戊辰戦争の初戦となった)で、戦場となった橋本に土方蔵三が新撰組を率いて旧幕府軍として陣を張り、逗留したとの史実がありますが、その痕跡のようなものをご存じでしょうか?」と訊ねた。
 二人のがんまちは顔を見合わせながら、「そのようなものは見たことも聞いたこともない。まことにお恥ずかしい」と、小さくなった背中をさらに丸めていった。
 彼らが“がんまち”であるというぼくの見立ては、もしかすると誤っているかも知れない。職業写真屋の目も怪しいものだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/444.html

今回の2点は、妓楼が取り壊され、更地となった場所(双方とも駐車場)から撮っている。歯抜けのように更地が点在するが、妓楼の多くは棟がつながっていたようだ。ひとつが取り壊されると、一方の妓楼は壁面がむき出しとなり、トタンの波板で囲われていた。そのようなものが多く目に付いた。

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
何とも味わいのあるガラス窓。このようなデザインは妓楼特有のもの。白い雲を飛ばさぬように露出を極力抑える。
絞りf8.0、1/400秒、ISO100、露出補正-2.67。

★「02橋本」
ちょうど波板の形が隣接する妓楼の取り壊された部分ではないだろうか。屋根の下に見える窓が面白い。PLフィルタ(偏光フィルタ)を使用し、空を落とす。
絞りf10.0、1/200秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/04/19(金)
第443回:京都の遊郭跡を訪ねる(5)
 前号にてご登場願った二人の “がんまち” (この言葉を標準語に翻訳するにはなかなか困難。強いていうなら “手前勝手” とか “我が強い” とか “頑固” を混ぜ合わせたニュアンスか?)なおじいさんたちの話によると、売防法(昭和31年。1957年)以前の橋本には、枕席にはべることのみを業とした娼妓(一般的には “公娼” を指すが、明治以降 “娼妓” は官制用語となり、それ以前の “遊女” と対比する)ばかりでなく、舞踊などの芸事にも長けた芸妓もいたので、あの異様に大きな建物(前回と今回に写真掲載)は検番ばかりでなく歌舞練場としても使用されていたはずだという。
 ぼくは判断材料を持ち合わせてはおらず、建物の中を覗き見ることもできないので、がんまちじいさんたちの話にただ頷きながらボールペンを走らせる他なかった。
 栄枯盛衰は世の習いであり、長い歴史を持つ橋本も、ぼくの推測だが過去には格式のある傾城(けいせい。太夫やその次位である天神などの上級遊女)が多くいた時代もあったに違いない。

 おじいさんたち(84歳と85歳)が遊郭で大らかに遊ぶことのできた時代を計算してみると、あくまでぼくの勝手な計算なのだが、彼らが18歳の時は昭和27年(1952年)なので、未だ合法であり、正々堂々と振る舞えたことだろう。今からもう67年も昔のことだ。彼らが遊郭を有効利用 !? したと仮定しての話だが。
 防売法により「橋本遊郭解散式」が、あの大きな検番兼貸席組合(グーグルの地図上には未だ「天寿荘」と記されている)の講堂で行われたのは昭和33年3月のことである(京都新聞)から、彼らが合法的に大手を振って遊ぶことができた期間は長くても6年間だったに違いないと、ぼくも彼らの “がんまち” を勇敢にも真似、手前勝手にそう割り出した。
 その当時は約80の妓楼、700名余の娼妓が登録されていたと聞くから、遊里としては相当充実していたと思える。 

 遊里にはいつも付きまとう人身売買ともいえる非人道的な習わしを廃除すべきとの「娼妓解放令」が、明治5年(1872年)に布告されたが、江戸時代以前からある古い遊郭は、その名目を「貸座敷」に改変したに過ぎず、名ばかりのもので実態は少しも変わることなく、娼妓を解放するには至らなかった。いわばザル法のようなもので、雇用主にとっては都合の良い、抜け穴だらけの布告だった。この「娼妓解放令」は、明治31年(1898年)の民法施行とともに廃止された。

 おじいさんたちは親御さんからの受け売りだと断りを入れ、メモを取るぼくに話を続けた。
 娼妓に対する待遇は極めて苛酷・悲惨といえるもので、病死が多発し、自殺者が相次いだとは、明治・大正・昭和を生き抜いてきた彼らの親御さんの話。遊女たちの悲劇に、「赤い自動車(救急車のことか)が橋本を所狭しと始終走り回る、そんな時代だったんですね」と、ひとりが腕組みをしながらボソッとつぶやき、更地の砂利を足で軽く撫で回した。

 そしてぼくの最も興味ある話題を持ち出す機会が到来したと感じ取った。それはつまり、妓楼に対する現在の住民の意識や如何にというものだった。
 善は急げと、ぼくは二人のご老人が大あくびをしないうちに議題を切り出さなければと思った。
 「往事の妓楼がこれ程見事にそのままの姿で残っていることに、よそ者のぼくはとても感動しているんですが、保存しようとの意識は住民の方にとってあるのでしょうか?」と。
 「残っている」のと「保存している」のとは、天と地ほどの差がある。「残っている」のは受動であり、自然消滅もやむなしとの意があり、「保存している」とは文化遺産として後世に残すという意を込めた能動であるからだ。

 そして、それに関連してもうひとつ。映画やテレビなどのドラマで利用された、いわゆるロケ地を地元の人たちは概ね地域振興や観光のために大いに活用しようと試みるものだ。ぼくは、時にはそれをとても押しつけがましく思い、煩わしく感じることがある。「だから何なのさ!」といった風に。
 ここ橋本は、任侠映画『鬼龍院花子の生涯』(1982年公開。ぼくは任侠映画にも、監督にも、役者にも興味がなかったので観ていなかったが、急遽観る羽目に)のロケが行われたところだ。映画の冒頭に「昭和十五年・夏 京都・橋本遊廓」と字幕が出る。
 ところが当地のどこにも『鬼龍院花子の生涯』のロケ地であったことの痕跡がまったく認められなかった。よく見かける「〜のロケ地」というこれ見よがしの立て看板や案内が見当たらないのだ。これはこれで心地良いのだが、地元の人はロケ地であったことなど歯牙にも掛けていないように思われ、それが不思議だった。

 妓楼について、おじいさんたちの言葉を要約すると、「国から街並保存の補助金が出るわけではないしね。ましてやここは遊郭。私たちはこの街並に愛着を持っているけれど、自然消滅していくのも時間の問題だと思っている。ここで育った者にとっては寂しい思いがするが、どうにもならないさ。ここがなくなる前に私たちが消えるよ」と本音が垣間見える。
 二人のご老体にとって、橋本はどうやら「おらが里のお国自慢」とはいえないようだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/443.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
検番兼組合講堂。歌舞練場であったかどうかは確認できなかった。敷地の中に入ってみたかったが私有地につき断念。
絞りf11.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02橋本」
妓楼の続く京街道。前回掲載写真とは逆方向から。太陽を背にして。入口だけは新しいが、他はかつてのままだ。
絞りf11.0、1/80秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/04/12(金)
第442回:京都の遊郭跡を訪ねる(4)
 3月上旬にしてはポカポカ陽気の橋本だった。妓楼が取り壊された更地で、80過ぎのおじいさん二人が滑舌よろしく相方(あいかた。ここでは配偶者のこと。遊里でいうところの遊女ではない)への不平不満を、時に口をすぼめながら、何時尽きるともなく、どこか得意気な様子でおしゃべりに興じていた。
 おじいさんのひとりが聞き役と覚しきもうひとりの相棒に、「嫁の悪口をあれこれいえるのは世間広しといえども、もうあんただけになってしまった。昨日もな、うちの嫁がわしに向かってこんなことを憚りなくいうんだ。聞いておくれよ。もう本当に嫌になるよ」(彼らの古式ゆかしい京都言葉を標準語に翻訳)を、壊れた蓄音機(古いなぁ)のように繰り返している。まさに老いの繰り言だ。

 人生のベテランの、相方に対する鬱憤晴らしの業をぼくも身につけ、磨きをかけても損はないと思い、後学のために耳を澄まして聞き入っていた。体(てい)の良い盗み聞きというやつだ。そして彼らがお互いに言い合う愚痴やぼやきに聞き耳を立て、ぼくは吹き出しそうになりながら笑いを堪えていた。
 心うち、「それって、悪いのはあんたたちのほうであって、奥さんに落ち度はないよ。いつだって男というのは身勝手で、まったくしょうのない生きものだ」と、彼らの常軌を逸したほどの我田引水ぶりに、ぼくは呆れながらも面白がっていた。
 その口上たるや、理論的にあまりにもごり押しが過ぎて、もしここに奥方がいれば、彼らは無残にも容赦のない返り討ちに遭うこと必至と思われた。木っ端微塵に粉砕されるに違いない。世間相場では、気弱な男たちは奥方には悲しいほど面と向かっていえないものである。ぼくもそうだ。
 しかしながら、彼らの話を聞いていると、あと10年経とうが、ぼくはこれほど身勝手な論理を振り回すようなジジィにはならないだろう、と今は思っている。もちろん、これは善悪の問題ではなく、性分のそれであろう。

 しかし、彼らは仕合わせだとぼくはつくづく思った。人も羨むほどの傍若無人さと牽強付会(けんきょうふかい。道理に合わないことを、自分の都合のいいように強引にこじつけること)を併せ持ち、ここに至れば即ちそれは憧憬の的ともいえる。生きるに恐いものなしだ。「人生、生きやすいだろうなぁ」とぼくは感嘆しきりだった。このような “眼中人無し” を踏襲できるのであれば、ぼくもこれからの老後は斯くありたいと願っている。

 挨拶だけはすでに済ませていたので、ぼくは彼らににじり寄り、仲間入りを果たそうと努めた。彼らに「溶け込む」ことに一意専心したのだった。このような時に限りぼくは自分を老人だと素直に認め、そしてなり切ってしまおうと自分に言い聞かせることにしている。
 前回述べたように、古希を過ぎた年相応の「人懐っこさ」を前面に押し立て、できることなら相手を懐柔してしまおうと目論んだ。「懐柔」は言い過ぎだが、ぼくはとにかく情報が欲しかった。
 陽が西から昇っても、生涯決してすることがないと信じて疑わないゲートボールやゴルフ(ゴルフは若い頃撮影で何度か経験がある)だって、「溶け込む」ことによって情報を得、それが写真に何某かの寄与を果たすとの確約が得られれば、ぼくはそれをすることを厭わないだろう。
 情報を得るということは、ことほど左様に自分を捨てて相手と同じ土俵に立たなければできないことだと、こんにちまで国内外を問わずそう学んできたし、正しかったと思っている。

 ぼくは頃合いを見計らいながら切り出した。「踏切の脇にある朽ち果てて、枯れ草の絡まった異常に大きな建物は何なのでしょうか? 歌舞練場(かぶれんじょう)のようなものがかつてここにはあったのですか?」と。
 「歌舞練場」とは、京都の祇園や先斗町、上七軒などの花街にある劇場兼芸妓や舞妓のための歌・舞踊・楽器などの練習場のことなのだが、ぼくの感覚では、橋本は花街というよりもっとドライな意味での色町だったと想像しており、ここに歌舞練場らしきものがあったのか、もしそうならここなのかを知りたかった。
 「花街」と「色町」の厳密な差異は辞書を繰ってもぼくの知恵では判然としないのだが、この問題はさておき、ぼくは時代の生き証人である二人のおじいさんの答えを待った。二人は互いに顔を見合わせながら、ぼくを厄介者扱いにせず、ありがたいことに「知る限り正確な情報提供者」であろうとしていた。
 「あれが歌舞練場だったかどうか記憶にないが、検番(料理屋、待合、芸者屋の業者が集まって作る三業組合の事務所の俗称。芸者の取り次ぎや玉代の計算などもしていた)であったことは確かだ」と、二人は60年以上も昔を懐かしむようにいった。「あの頃は、賑やかだったねぇ。どこを歩いても肩が触れ合うほど混雑していたもんだよ。あそこは貸席組合の講堂でもあったんだ」と、目を細めた。

 昭和31年に売防法が決まった後、町が廃れないように、広い組合講堂(約300坪。990u)を利用してラジウム温泉にすることを決め、組合員の協同出資で運営したとのこと。それがその後どうなったのか、二人の記憶はまことにあやふやで頼りないものだった。町で出会った他のお年寄りに聞いても埒が明かなかった。半世紀以上も昔のことなので、仕方がない。
 その後、この広い建物は中仕切りをして、集合アパートに鞍替えをしたそうだ。その痕跡は今も荒れ果ててはいるが残っている。噂ではこの検番は近いうちに取り壊されるらしい。
 史料の少ない橋本遊郭跡を訪ね、写真を撮りながらわずか3時間足らず。イメージを練るには要再訪というところか。

 お知らせ:4月16日(火)〜4月21日(日)まで、埼玉県立近代美術館にて我が写真倶楽部のグループ展を開催いたします。
 「第13回フォト・トルトゥーガ写真展 光と影の記憶 2019」。ご来場を心よりお待ち申し上げます。お気軽に、お声がけください。

http://www.amatias.com/bbs/30/442.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
京街道に建ち並ぶかつての妓楼。細部にまで意匠を凝らした佇まいは重厚で、堂々たるものだ。風格さえ漂わせている。
絞りf13.0、1/100秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02橋本」
枯れ草に絡まれたかつての検番の裏側。最後はアパートとして使用され、その証として、何十本ものアンテナが共に朽ちていた。
絞りf11.0、1/160秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)