![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2025/10/10(金) |
第759回 : 憧れこそ原動力 |
6月10日にぼくは精根尽き果てて、小旅行からの帰路についた。いろいろな意味で、自信を喪失した旅であったが、とはいえ、写真に対する自身への愉しみと期待はこれからが本番との気概は失っていなかった。「まだ、オレも捨てたもんじゃない」というのが本心でもある。負け惜しみではなく、結果はどうあれ、何事もひとつずつ地道に積み上げるのが最良の方策。まさに「急がば回れ」の如く、それに従う余力はまだ十分にある。「遅すぎる」などとの言い草は、何とかの遠吠えに過ぎない。
これから少しずつではあろうが、自分の納得できる方向へ舵を切ろうとの覚悟を今回の旅で得た。自身の人生の型取りはこれからであり、齢77の残滓だとは思っていない。年甲斐もなく「余りあるエネルギー」だとさえ思っている。写真への憧憬は無限といって良いほどのものがあり、精進すれば、「少しでいいから、いつかはきっと叶う」と信じている。憧れはすべての原動力となる。 また、自分の写真が他人にどう映るかをまるきり気にしない極めておおらかなぼくは、それだけでも大きな得をしている。 帰京後、訃報を含めあれやこれやの雑務、約束に追われ、なかなか写真に対峙する時間が持てなかった。そうこうしているうちに、とんでもない猛暑の襲来となり、こればかりは嘆きの遠吠えも効果がない。 撮影に出れば熱中症の危険性もあり、今ここでくたばるわけにはいかない。次なるステップを窺うために、空調の効いた美術館や博物館で、美しいものに接し、新たな発見と霊感を得るのもひとつの手立てと考えた。家では、古今東西の優れた写真や絵画を改めてパソコン上で瞳を凝らし、ベッドに潜り込んでからは、かつて熟読した優れた文学の再読に努め、どのくらい新たな発見がきるかを見定めることも必須と考え、励行していた。老いの悪あがきと笑うことなかれ。 少なからず、様々なインスピレーション(ひらめきや思いつき。広辞苑によると、「創作・思索などの過程において、ひらめいた新しい考えで、自分の考えだという感じを伴わないもの」)を得たように感じてはいるが、それが直ちに印画紙上に再現できないところが味噌である。けれど、それがもっともな道理だと心得ている。それは一種の筋道であり、道程でもあるので、地道に継続すればそれでいいのではないかと考えている。せっかちなぼくにしては、意外にも上出来だ。せっかくの味噌を腐らせては、元も子もない。これをして、「急いては事をし損じる」と世間ではいうらしい。 酷暑ばかりを理由にしてはいけないと思い、8月中旬の曇り日の夕方、東北自動車道を走る用事がてら、通い慣れた「加須市」に立ち寄ってみた。 加須市を初めて訪れたのは今から20数年前のことで、ある雑誌の撮影のためだった。当時はまだ手描きの鯉のぼり店が多くあり(産業構造の機械化が進み、それにつれ職人の数が減少。現在では2店のみが「鯉のぼりの町加須」を支えていると聞く)、その制作過程を撮影した。 まだフィルム時代のことで、ぼくは大型のスタジオ用ストロボを何灯も使い、職人さんたちの描く鯉のぼりの制作過程を撮影した。昼食には名物である「加須うどん」をいただき、忘れがたい思い出となっている。 それから10数年が経ち、懐かしさ余って再び加須市を訪れてみたが、歳月の空白は街の様相を変え、お世話になった鯉のぼり店を見つけることはできなかった。ぼくは得体の知れぬ暗澹たる思いに駆られた。青春の(初訪問時、ぼくは中年のおっさんだったが)1ページが無残にも剥ぎ取られたような寂しさと痛みを感じた。 ただ、どこかに未だ昭和の香りがはらはらとかかるこの街に、ぼくは新たな親しみを覚え、「しばらく通ってみようか」との気持になった。廃れ行く昭和の風景を切り取っておきたかった。以来ぼくは、10数回加須市を、私的写真のために通うことになる。我が家から1時間の道のりなので、便が良く、好都合だった。 以前、街に残る唯一の銭湯で、10年前に物置場と化した脱衣所と浴室、当時の銭湯特有の山湖のペンキ絵を主人の説明を受けながら撮影したことがある。真夏の暑い日だった。上半身裸の年老いた主人は、「取り壊そうにもここには重機が入れず、また費用もかかるので、このまま放置しておく外に手がない」と悲壮感を漂わせ、日焼けした裸の上半身を汗で光らせながらしみじみと語ってくれた。この時の写真は本連載に掲載させていただいた覚えがある。 そして前述した今年8月の訪問時、この銭湯を訪ねてみたのだが、「人気(ひとけ)絶えて久しくなりぬれど」といった佇まいで、ぼくは失った宝物を探すように、銭湯に連結した住居の周囲を窺うように行ったり来たりしたが、裸の老人の姿はその気配すらなく、痛惜の念に堪えない思いだった。 雨が降り始め、陽も沈みかけ、電灯が灯り、帰路につこうと車に乗り込んだ。 車窓からぼくの心情を物語るような光景が眼前に現れた(写真「01」)。車を降り、この日の自身の思いと重ね合わせ、『方丈記』(鴨長明。1155~1216年の歌人、随筆家)の冒頭の名句「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」を気取りながら、丁寧に、思い入れたっぷりにシャッターを押した。 https://www.amatias.com/bbs/30/759.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 埼玉県加須市。 ★「01加須市」 文中に説明。重く垂れ込める雨雲を飛ばさぬよう、ヒストグラムを睨みながら露出補正を決める。 絞りf9.0、1/50秒、ISO 200、露出補正-1.33。 ★「02加須市」 「01」を撮った後、振り返ると雨に濡れた車庫が目に付いた。「うん、これはポラロイド写真風に。焦点距離は35mm」と即決し、隙のない構図に注力。 絞りf8.0、1/50秒、ISO 400、露出補正ノーマル |
(文:亀山哲郎) |
2025/10/03(金) |
第758回:彦根から金沢へ |
彦根城は戦に一度も使用されることのなかった平和の象徴という価値を有し、「平和の象徴」を憲章として掲げるユネスコへの世界遺産登録の大きなアピール材料となっている。いずれ彦根城の木造技法も評価され、ユネスコに認められるのではとぼくは思う。
そうなったらなったで、またもや観光客が今以上に押し寄せ、手放しで喜ぶわけにもいかず、日本人としては “痛し痒し” というところ。現在でも、天守閣に登るために、観光シーズン時はかなりの待ち時間を要すと城の関係者から伺った。 広大な面積(彦根城は甲子園球場の約13倍)に点在する見所のすべてを観賞し、撮影する心身の余裕をぼくは既に失いかけていた。撮影を必要とする時間を併せて考えれば、たっぷり時間を必要とし、撮影に夢中になってしまえば、金沢で午後6時開始の酒宴を待ち構える油断のならぬ5人の友人たち(特に3人の女衆)から、「遅刻!」との白い目を向けられることは火を見るよりも明らかだった。遅刻の理由をあれこれほじくり返してくるし、言い訳も辛い。 ここでホントの実話 !? を明かせば、彦根城でR7(キヤノン製ミラーレスカメラ)を手にした写真好きの妙齢の別嬪さんから声をかけられ、ぼくはあろうことか少々現(うつつ)を抜かしてしまった。 同類(写真同好の士)の白髪ジジィには、年齢の距離感も手伝ってか、そこはかとない安心感を抱くらしい。男として、それは如何なものかとも思うのだが、ただならぬ警戒心を抱かせぬ歳であるということは事実なのだろう。 空腹を満たすために、彦根城近くの評判のうなぎ屋にぼくらは潜り込み、ぼくは撮影の不出来をうなぎで補った。彼女を米原駅で見送る際、「ズボンの屁だね」といったら、「それって、どげな意味?」と博多女は返した。「 “右と左に泣き別れ” ちゅう意味ばい」と、ぼくは青春の気分で、別れの手を振った。 常日頃、何事にも「まったく以て分かりやすい奴」と、親しい友人たちに揶揄されるお人好しぼくは、約束の時間に遅刻なんぞすれば、その理由について、素直に「実はね…」とニヤケ顔で口を割るに違いない。したがって、何はどうあれ午後6時開始の酒宴に遅刻は許されないのだ。 金沢で待ち受ける3人の女衆は、材木を鋭い鑿(のみ)でほじくるように、人をおちょくることに全身全霊を打ち込んでくる。ことごとく手弱女(たおやめ。やさしい女。しとやかな女という意)を装う彼女たちに、柔(やわ)なぼくは、とても太刀打ちなどできるわけがない。これを捩って、世間では「悪女の深情け」というらしい。 「6時に金沢の近江町のAに予約を入れたので、デッタイ遅刻しないように!」とぼくは厳しく命じられていた。普段から「遅刻は厳禁」を心の糧としてきたが、今回も言わずもがなの冷徹なる上意下達だった。 天守閣てっぺんの板の間にしゃがみ込み、たどたどしくスマホを操りながら、彦根から金沢まで、乗り継ぎを含め、要する時間を調べあげ、約2時間かかることを知った。まめまめしくも涙ぐましいばかりの所行である。それほど、遅刻を恐れいていたのだった。特に、3人のご婦人方は “お仕置き” と “折檻” を享楽と心得ているので、ぼくは情けなくも服属そのものに成り下がっている。今回の金沢は、彦根の「平和の象徴」とはほど遠かった。 話は変わり(「写真よもやま話」の “写真” はどこへいった)、編集者時代に、金沢は冬と夏に取材で3度ずつ訪れたことがある。あれから半世紀が経とうとしているが、当時の思い出は朧気(おぼろげ)であり、記憶の片隅にどうにか鎮座しているのは、通い詰めた炉端焼き屋での舌もとろけるような美味三昧と犀川大橋のたもとにあった「寺喜屋」(てらきや。味わい深い木造3階建てで、魚料理は絶品だった。現在は閉店)、そしてぐしょぐしょの雪。夏の、わらじのように大きな岩牡蠣も終生忘れがたい。 加え、最も好きな作家のひとりである吉田健一の名著『金沢』にも揺さぶられていた。 冬・夏に都合6度訪れたが、カメラは持参していなかった(当時のぼくはライカのM3を愛用していた)。何故カメラを持参しなかったかというと、ぼくは編集者として取材に行ったのであり、会社の賄いで写真にかまけることは、どうしても不料簡であり、不見識も甚だしいと感じていたからだった。 したがって、金沢の名所旧跡探訪はまったくせず、去年が初めてといっていい。 去年に続き、神戸での仕事を終えた帰路、今年も金沢に立ち寄り、同じメンバーと酒宴に興じたが、鮮魚と酒の旨さは相変わらず格別だった。美味に酔いつつ、ぼくの脳裏をかすめたのは、やたらフィルムカメラ(フィルム表現)に思いが至ったことだった。懐かしさではなく、言葉にできぬフィルム特有の何かに突き動かされるような気がしていた。 元々、ぼくはいわゆる「懐古趣味」を嫌う傾向にあるのだが、生まれ故郷が恋しくなることとは異なる得体の知れぬ衝動に突き動かされていたのだった。昨今の、デジタルをバリバリ使いこなすのも結構だが、何か大切なものを失っているのではないかという疑問が頭をもたげた。それがフィルム回帰につながるのかは、現時点ではあやふやである。ぼくの頭が整理し切れていない。 とはいえぼく自身は、「再びフィルムを」との気持はないのだが、あの得もいわれぬ味わいはデジタルでも復元できるのではないかと考えると、居ても立っても居られない。そんな感情・感覚を満足させるような表現が果たして可能であろうか? 妙齢の別嬪に、現(うつつ)を抜かしている場合じゃないだろうに。 https://www.amatias.com/bbs/30/758.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 石川県金沢市。 ★「01武家屋敷」 もしぼくが訪れた半世紀前なら、武家屋敷はきっと現在のように観光地化しておらず、もう少し寂れ、しかし濃い空気感を醸していただろうと思う。モノクロフィルムで撮っておけばと、時すでに遅しといったところ。デジタルでしかできぬ精緻な暗室作業を施して。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 125、露出補正-0.67。 ★「02金沢駅」 このアングルは去年から試してみようと思っていたのだが、なかなか立ち位置と構図が定まらず見送っていた。今年はやっとイメージが構築できた(といっても、この程度か)ので、奇をてらわず正直に。モノクロに寒色系のフィルターをかけて。 絞りf4.0、1/80秒、ISO 100、露出補正+0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/09/26(金) |
第757回 : 滋賀県彦根城 |
神戸入りしてから、仕事を兼ねた小旅行も彦根城(天守閣は昭和27年、1952年に国宝。全面積は甲子園球場の約13倍。創建1600年代初頭)訪問で4日目を迎えた。ぼくの経験からして、国内外を問わず、旅の疲れの第一波に襲われるのがちょうどこの頃だ。ここを無事やり過ごせば自身の体力・精神力ともにある程度の手加減を加えることができ、撮影もスケジュール通り進むことになっている。今回もそのはずだった。
今まで何百回もそのような体験を繰り返しながら、時に1ヶ月以上の長丁場のロケを無事やり過ごし、特段のしくじりをすることなく仕事をこなしてきた。ロケ中、へばりつつもカメラを振り回してきたことを思い浮かべるものの、国内でさえも、近年頓(とみ)に、過去の経験則が思い通りに行かなくなってきたことを痛感している。「歳なのだから仕方がない。それに甘んじるしかない」との諦めが先に立つが、ぼくは、このような現実を素直に認める性格ではないので、どうにももどかしくて仕方ない。内心忸怩たる思いだ。 だが、この商売を始めてからの40年間、写真を撮ることだけがぼくの生きる証であり、それを一種の宿命・命運とし、「これで野垂れ死ぬのであれば本望」などと、空意地を張っている。物事は因果応報というが、自身の業によってそれに相当する果報や厄災を招くのだから、「学問して、因果のことわりをも知り」(徒然草。吉田兼好著)とはまことよくいったものだと思う。 ぼくの、写真という一極集中が物に成らぬ理由は、未だあれもこれもと邪心を捨てきれないでいるからだと兼好法師はいっているのだろう。 彦根駅に降り立ったぼくは、駅の通路で見つけたロッカーにリュックを放り込み、小さなカメラバッグだけを肩に掛けた。通路からガラス越しに、姫路城と同様、彦根城が視野に入った。「また、登山か」とぼくはちょっとげんなりしてしまった。彦根城は、実際には海抜136mなので、たいしたことはないのだが、前日の、山の中腹にへばり付く石山寺、三井寺に続いてのことだったので、「ブルータス、お前もか」との心境に襲われたとしても不思議はない。「また階段や坂を登るの?」との嫌気が先に立った。 ぼくはこの初冬に自身の体力を計ろうと、海抜599mの「高尾山冬季無酸素単独登頂」を優先事項に掲げているので、本来であればたかが136mの彦根城なんぞ朝飯前なのだが、すでに身体は油切れを起こしかけていた。撮影の集中力もそれに従い、途切れ途切れのまだら模様だった。だが逃げ出すわけにも行かず、気を奮い立たせることが先決だった。先が思いやられる彦根城だ。 ぼくが彦根城を初めて訪れたのは、今を去ること64年前のことだった。当時ぼくは中学2年生で、京都の祖父と叔父に連れられてのことだったが、彦根城の記憶はほとんど残っていない。ただ、キヤノンから発売されたばかりのキヤノネット(1961年発売のレンジファインダーカメラ。開放値F1.9の明るい35mmレンズを搭載したレンズシャッター付きカメラ)を父に買ってもらったばかりだったので、意気揚々。 その時、記憶にあるものといえば、駅から彦根城に至る道が、現在と異なりジグザグだったことだ。これはとても印象深い。物知りの叔父が、敵が攻めてきた時に城まで行き着くことを困難にするため、敢えて道をジグザクに仕組んだのだと教えてくれた。 敵襲の恐れのない現在は、駅から一直線の道が延び、城まで徒歩で約12分かかるとのことだが、当時は戦国時代の名残がそこかしこにあったと思われる。だが、「ひこにゃん」はまだ生まれていなかった。 駅前広場でぼくは気を取り直し、今回も昔と同じくキヤノン製のカメラを手に、彦根城まで歩くことにした。入口までやってきたぼくは、もう既にひと仕事終えたような気分になっていたのがおかしくも滑稽だった。いざ、これから撮影に臨むとの気概をどのように盛り立てるのかが分からず、多少の狼狽というあるまじき様態。 券売場のおねえさんに、「天守閣まで、ジジィの足でも容易に行けますでしょうか?」と、やんわりお窺いを立ててみた。ぼくは残念ながら「ひこにゃんファンクラブ」には入会していないので、入場無料ではなかったが、「大丈夫ですよ。無料の貸し杖も用意してありますし」と、強い関西弁の抑揚で可愛いおねえさんは不安がるぼくをなだめるようにいってくれた。「杖の世話になど、このおれ様がなるわけがないじゃないか」と内心哮(たけ)り立ったが、おねえさんが可愛かったのと関西弁の抑揚にぼくはすっかり腰砕けとなった。呆けている場合じゃないのに、まったく情けない。 国宝天守閣に至る坂道は、石段の間隔が不規則で極めて登りにくい。道も曲がり曲がって一苦労だ。途中、転(こ)けた中年のおっさんが2人もいたことから、この仕掛けも敵から天守を守るための工夫だったのだろう。 幸いにしてこの日は観光客も少なく、自分のペースで歩けたこともあり、ぼくはネット界隈でいわれているような身体的疲労感はほとんどなかった。天守閣にある階段の傾斜角度が62度とは驚きだが、ぼくは苦もなく最上階(3階建て)まで登った。 ただ、この階段、女性はスカートで登らぬほうが良い。女性は良いとしても、後に続く男は良からぬ妄想に取り憑かれ、間違いなく段を踏み外し、転げ落ちるだろう。そんな愉しいことを想像逞しくしながら、ぼくは急階段をものともせず登りきったのだから、まだまだ捨てたものではない。 アホなことばかりが頭に立ち込めていたものだから、写真は宜(むべ)なるかな、さっぱりだった。天罰を食らってしまったことは、長い撮影歴で初めてのことだ。罰当たりの撮影として、彦根城はぼくの脳裏に永遠に刻まれるだろう。おまけに肝心の天守閣も撮り忘れ、何たること。これも因果応報か? https://www.amatias.com/bbs/30/757.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 USM。 滋賀県彦根市。彦根城。 ★「01彦根城」 天秤櫓(でんびんやぐら。重要文化財)。戦時には、この廊下橋が落とされ、高い石垣を登らないと本丸へ侵入することができないように仕組まれている。写真の石垣は築城当時の打ち込みハギ積み。人物が雲をバックとしたシルエットになるように、その瞬間を狙った。 絞りf6.3、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。 ★「02彦根城」 天守閣内部。窓から射し込む光と年月を経た重厚な佇まいをどうバランス良く焦点距離16mmの超広角に収めるかに迷いながら。観光客が多い時はごった返し、この様には撮れなかったに違いない。ぼくはここで果報を得た。 絞りf5.6、1/40秒、ISO 3200、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/09/19(金) |
第756回 : 滋賀県三井寺 |
つい最近、友人から「仕事とプライベートの写真は、どちらが楽? 愉しい? 難しい? どっちが好き?」と、矢継ぎ早にとても乱暴な問い掛けをされた。同じような質問は過去何度かあるが、ぼくはいつも答えに窮してしまう。いうまでもないのだが、仕事写真と私的写真は方向性や意図がまったく別物なので、様相の異なる両者を同じ土俵で語ることは、そもそも道理に合わず、筋も通らない。同じ写真でも、似て非なるものなのだ。
無論、自分なりの明快な答はあるのだが、それを説明するにはかなりの時間と労力を必要とする。理解を得るには、多岐にわたる事柄について順を追って説明しなければならず、大変骨が折れる。 しかし、写真に興味ある彼らの質問を無下にするわけにもいかず、懇切丁寧を信条とするぼくは、いつも双方の写真に対する受け止め方について、小学校低学年の児童を諭すように、丁寧に説明する。ホントです。 質問者のすべてが、「 “私的写真のほうが楽で愉しい” であろう」との見方をしたがる。ぼくは心情的に彼らの言い分とその道理に理解を示すが、現実は決してそのようなことはなく、良い結果を得ようとすれば、どちらも一筋縄では行かない。ただ確かなことは、生真面目なコマーシャル・カメラマンには申し訳ないが、ぼく流の考えを以てすれば、どちらも道楽の域を出ないということだ。 道楽気分で写真を撮っているわけではないが(それどころか、眉間にしわを寄せながら死活問題として)、結果としては命懸けの道楽商売、もしくはやくざ稼業と捉えている。 石山寺から下界に降りてきたぼくは、近くに「手打ち蕎麦」の看板を見つけ、飛び込んだ。好物のにしん蕎麦をいただき、ややバテ気味ではあったが、京阪電車に乗り三井寺(正式名、長等山 園城寺、ながらさん おんじょうじ。天台寺門宗の総本山。創建7世紀)へ向かった。ここも山の中腹にへばりついた広大な敷地を有す。甲子園球場の約10倍とのことだ。石山寺、三井寺のふたつを1日で挑むには、気を入れ直さないと、とても撮影どころではない。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが、ぼくはそれをしようというのだから、欲どしい。 欲が徒(あだ)とならなければよいのだがと、ぼくは少々不安だった。「年寄りの冷や水」にならぬことを祈るばかりだった。年寄りにとって、このふたつの諺は心に染み入る。 三井寺も石山寺同様に、文化財の質・量は日本屈指といわれ(国宝10件、重要文化財42件。ユネスコの「世界の記憶」にも登録されている)、そのうち撮影が許されているものが、どれ程であるかが唯一の気がかりだった。 ぼくにとって名所旧跡の探訪は、実際に目で観てどれ程の感動を呼び起こすかはいうまでもないことだが、写真屋は撮影できてこそナンボのものである。美しいものを見てただただ感心ばかりもしていられない。自分がどう感じたか、どう表現したいのかとの手段を奪われることがどれ程の心痛を与えるか、誰も知らない。知らなくていいんだけれど。 仏像や建築の美しさに絆(ほだ)されつつ、「撮影禁止」という縛りは大切な何かを犠牲にしなければならないということだ。その状況は悲痛を伴い、神経を削られ、挙げ句神経症一歩手前まで病んでしまいそうだ。神社仏閣に於ける美の探索は、そこが痛し痒しというところ。単なる観光では事済まない点が、誠に忌々しい。この心情が現地に於いてぼくの気持を常に掻き乱してくれる。 「おまえ、感心している場合じゃないよ」と、意地の悪い何者かが必ず耳打ちしてくる。彼らはぼくに対して、何の遠慮会釈なく、もっともらしい顔をしながら、にじり寄ってくるのだ。 今回の撮影は、そんな呻吟ばかりが渦巻いていた。 仕事であれば、今回掲載の写真如きは認められない。ポスターやガイドブックの類が目的であれば、このような自我に没入した写真は使用目的を逸脱し、ダメ出しを食らうこと疑いなし。したがって、掲載写真のような表現はしない。 すべてヒストグラムを睨みながらRawデータで撮影しており、それをRaw現像ソフトで可能な限り調整(色温度、色相、彩度、明度、コントラストなどなど)。これで、いわゆる「映え」のする写真の出来上がりとなるのだが、ぼくがそれをしてどうする。そのような写真を撮りたいがために、滋賀県くんだりまで来たわけではない。 写真の最終形がどうであれ、Rawデータ現像時に可能な限り、視覚に忠実なものに仕上げるというのがぼくの流儀。ディープシャドウからハイエストライトまでを破綻なく仕上げるのが基本中の基本と考えている。 そのうえで、撮影時に描いたイメージに添って、画像ソフトを適宜使い分けながら描いていく。これは自身そのものを表現する描写が最も望ましく、また好ましくもあり、「他人に見せようと励む」写真(世間に蔓延)とは一線を画したものでなくてはならない。他人のために写真を撮っているのではないのだから。 与太ばかりしてきた77歳の、年老いた完全白髪のクソジジィなのだから、それに見合った写真でなければ、見苦しいばかりでなく、自己否定につながってしまう。ジジィはジジィ写真でなくてはならない。作品は、年輪に相応しくあれということだ。これがなかなか上手くいかない。 余談だが、過日、国立博物館で運慶仏師(平安時代から鎌倉時代初期)に会った(特別展「運慶 祈りの空間」)。その運慶さんが不意に夢のなかに現れ、前回掲載させていただいた「仁王像」(第755回。「01石山寺」)の写真をご覧になり、「ジジィの身の程知らずが。しかし、わしの姿をよくぞ撮った」と、身に余るお褒めの言葉をいただいた。ぼくって、いい性格してるでしょ。 https://www.amatias.com/bbs/30/756.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 滋賀県大津市。三井寺。 ★「01三井寺」 仁王門(重要文化財)を矯(た)めつ眇(すが)めつ仰ぎ見、立ち位置をじりじりと探りながら、やっとのことで構図を決める。門柱や印象的な垂木をモノクロでどう構成するかに決着をつけてから、初めてファインダーを覗く。 絞りf6.3、1/200秒、ISO 125、露出補正ノーマル。 ★「02三井寺」 金堂(国宝)。右斜めからの眺めを試みたが、そうすると右の石灯籠の配置が上手くいかず、美しいプロポーションの屋根を真正面から撮ることに。ダブルトーンのモノクロで仕上げてみたものの、 “鬱陶しい写真” やなぁと呟やいた。 絞りf5.6、1/400秒、ISO 160、露出補正ノーマル。 ★「03三井寺」 「弁慶鐘」(重要文化財。三井寺初代の梵鐘)、もしくは「弁慶の引き摺り鐘」ともいわれる。弁慶が三井寺から鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げた後、鐘を叩くと「イノー・イノー」(関西弁。「い(去)のう」、帰ろうの意)と響き、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒り、鐘を谷底に投げ捨ててしまったといわれている。その時のものと思われる傷痕や破れ目などが残っている。その他、様々な謂れがある。 絞りf5.6、1/50秒、ISO 1250、露出補正-1.0。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/09/12(金) |
第755回 : 滋賀県石山寺 |
滋賀県は神社仏閣に馴染んできたぼくにとって、京都、奈良と同様に大変興味深く、多感な思春期や青年期は無論のこと、そして写真屋になってからも、懐かしい想い出が幾重にも重なっている。仕事で重要文化財や国宝などを撮影する機会を与えてもらったことなど幸運の限りだった。写真屋としての役得にありついたという訳だ。
仏像に対する感応と知識に甚だしき乖離はあったものの、ぼくは何故かその御利益に与ることができた。長い写真屋稼業にあって、それは貴重な何かをもたらした。 神社仏閣に限らず、被写体について理解し、知識を得、そしてその歴史を知ることは、写真を撮るという行為に不可欠であることを知ったといっても過言ではない。それをさらに広義に捉えるのであれば、「被写体となるものを能く能く(よくよく。手落ちのないように、念には念を入れて、注意深く、という意)“観察する” 」ことに尽きる。「観察眼」を養わなければ、なかなか写ってくれないので、写真は厄介だ。そして、「何故それを撮るのか?」を直感することも必須条件に加わってくる。その直感をどう解釈し、感知するかということである。 「言うは易く行なうは難し」なのだが、それを心がけ、意識をする時、自ずと写真の表情(表現)が異なってくるのではないかと思っている。ぼくがここで言えた義理ではないのだが、上記したことが写真の深度(深味)に大きく関わってくる。「 “観察” なくしては、写真は写らない」とぼくは肝に銘じている。 これは神経戦を強いられるので、プロ・アマを問わず、撮影は心身ともに疲弊する。激しい感情や欲求は必要だが、冷静さに欠ける胆汁質の人は、写真に向いていない。 石山寺の初訪問は高校1年の時で、小学校から仲の良かった同級生2人を伴い、10日間ほど亡母の実家に滞在させてもらった。ぼくら3人は思春期真っ只中であり、石山寺は甘酸っぱい想い出に満たされていた。たまたま琵琶湖に水泳に行った際、そこで知り合った3人の同学年の女子高生と知り合い、後日ぼくらは人生初となるデートというものを体験した。 当時のぼくは、女性とは一体どのような生き物であるかについて、頭を満たされていた。学業などはそこそこに済ませ、すべての興味がそこに注がれていた。ぼくはこの歳になっても、「一人前の正しい男とはそうした過程を経るものだ」との確信を抱いている。「勉強にかまける男なんざぁ、碌なものではない。硬派を気取るんじゃないよ」と雄叫びを上げたいくらいだ。 正直にいえば、その津々たる興味は、 “オレとしたことが” 今以て何ら変わらないということだ。しかし思春期に於けるそれは、もう常軌を逸したものであった。3人の女学生がまるで天女のように思えたのは、不思議でも何でもなかった。朝な夕な、ぼくはその憧れに突き動かされていた。まったくたいしたものだ。 彼女たちと仲良くお喋りをしたり、食事をしたりできることは、別世界のことのように思われたが、女性というものも、我々男との共通点が少しではあるが存在するという発見は、我ながら成長の一過程のように思われた。とはいえ、未だに女性は永遠の謎である。 味方になってくれた時は、これ以上に心温まるものはないが、敵に回せば鬼より恐いのが女性の特質だ。 話を元に戻すと、ぼくらは6人で、滋賀県大津市にある石山寺(東寺真言宗大本山。創建747年、天平19年)と三井寺(正式名、長等山円城寺。天台寺門宗総本山。創建7世紀)に、京都から手を取り合って(嘘です)出かけた。何故、京都でなく大津だったのかは記憶にないが、彼女たちは京都の住人だったので、隣県である大津に足を伸ばしたのではないかと回想する。 石山寺や三井寺の佇まいは、お寺さんには申し訳ないが、道中ぼくは気もそぞろであり、さっぱり記憶にない。おそらく友人2人も同様だったに違いない。何十年か後に、「あのこたちの顔は朧げながらに覚えているが、大津に行ったんだっけ?」とは、3人が異口同音に発した言葉だった。したがって、石山寺と三井寺は、今回が初めての訪問といってもいい。 石山寺は、京阪石山寺駅から歩いて10分ほどの距離にある。道すがら「62年前にこの道を3人の女の子たちと、夢現(ゆめうつつ)で歩いたんだなぁ。当時とは様相が異なるに違いないが、ぼく自身は何も変わっていない。きっと彼女たちもそうだろう。しかし今道ですれ違っても、お互いまったく分からないというのが、唯一確かなこと。どんな記憶も年月とともに薄れ、やがて消えていくもの」と、ぼくはほとんど記憶にない過去を手繰(たぐ)っていた。 https://www.amatias.com/bbs/30/755.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 滋賀県大津市。石山寺。 ★「01石山寺」 石山寺の入口である東大門(重要文化財)の両脇には、阿吽(あうん)の仁王像2体が祀られている。鎌倉時代の仏師運慶・湛慶作と伝えられる。これは向かって右の阿形(あぎょう)。ぼくは、儚くも消えてしまった3人の女子高生のかげろうにしきりと思いを馳せていたら、「うつつを抜かすでない! 喝!」 と仁王様に活を入れられ、その仰せに従い撮った石山寺での第1カット。 絞りf11.0、1/80秒、ISO 2000、露出補正-0.67。 ★「02石山寺」 多宝塔(国宝。日本最古の多宝塔)を天然記念物の硅灰石(石山寺の名の由来となった岩。世界的にも珍しい岩石)越しに見る。多宝塔に至る途中に紫式部の供養塔がある。 絞りf13.0、1/60秒、ISO 400、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/09/05(金) |
第754回 : 神戸市三ノ宮(2) |
「へぇ、あ〜たでも罪悪感なんてあんのね。ちっとも知らなかったわ」とは、我が倶楽部のこわ〜いご婦人方。前回、ぼくは最後の段落で、「歳を重ねるごとに生きやすくもなるが、と同時に罪悪感も増す」と現在の心情を正直に吐露したその反駁でもあるらしい。
正直者が馬鹿を見るような世界は断固あってならないのだが、言葉尻を捉えて「隙あらば」と虎視眈々、標的を狙い撃ちしようとの女衆には、ほんに心(しん)が疲れる。ぼくはこれでも一応は指導者モドキをもう20数年間演じ続けているのだが、ご婦人方から “それなりの” 扱いを一度たりとも受けたためしがない。 女衆は、写真を愉しく学ぶことより、余生を如何に “いじめ” と “おちょくり” に徹するかということに全身全霊をかけておられるようだ。本来なら、そんな仕打ちにぼくはへこたれることなく、打たれ強くなって然るべきなのだが、柔(やわ)な性格が災いしてか、一向に男気を見せられずにいる。 続けて、「あのさぁ、どんな罪悪感なの。正直にいってごらんなさいよ。聞いてあげるから」と、「生き馬の目を抜く」(生きている馬の目を抜き取るほど素早く事を成すさま。ずるくて抜け目なく、油断のならないことを指す)ようにグイグイ迫ってくる。ぼくはしどろもどろとなり、いつも俯(うつむ)き加減で言い淀んでしまう。 したがって、ここ2年ほどは定例の写真評に於ける言葉の選択・使い方に、必要以上の神経を使うようになってしまった。畢竟言葉にストレートさを欠き、がために婉曲な言い回しとなり、 “いじめ” に特化した彼女たちの頭脳ではぼくの遠回しな表現を消化しきれないでいるらしい。「それみたことか」とぼくは精一杯の反逆を試みる。しかし、そうするといつもおぞましい返り討ちに遭い、意気消沈。多勢に無勢では、どう転んでもぼくに勝ち目はない。 前置きはこのへんにして、本題は三ノ宮だった。 写真評を含め、審査会などで作品の順位をつけなければならない時ほど、落ち込むことはない。そのような体験をする度に、「創作物に出来不出来の順位をつけること」への疑問と自身の傲慢さに居場所のないような感覚を抱いている。手早くいえば、「オレにそんな資格があるのか?」ということだ。 ものの良し悪しを瞬時に見極める程の慧眼や審美眼、それに見合う理知を持ち合わせているかといえば、まったく自信がない。 だがそれを有している人たちはこの世に少なくはあるが確実にいる。ぼくは彼らのそのような現場に何度か立ち会い、その実際を目の当たりにしたことがあるが、ただただ舌を巻くばかりだった。そのような人たちは、今までにどれ程の厳しい修練と研鑽を積み、自己規制を強いてきたのだろうかと感慨に浸る。 ぼくは写真評にあたって、いつの場合も「自分の好き嫌いを度外視して、作品のクオリティだけに注視する」ことを旨としてきた。それを骨子としてきたが、どうしても迷いの生ずる時がある。それは、自分の、ものを見る目が未熟であることを示している。写真評と撮ることは別次元の世界なので、この葛藤に悩まされている。自身の作品についていうならば、1年に片手で数えるくらいしか合格点を与えられないのだから、人様の作品に対してあれこれ注釈をつけるのは、身の程知らずもいいところだ。 身内について記すのは気の進むものでないことを承知しながらも、ぼくの祖父(父方の)は、明治天皇の膨大な美術品を鑑定する勅任官だった。ぼくが生まれた時は既に故人となっていたが、父によると祖父は、「様々な分野の美しいものだけを身近にすることに徹しなければ、美術品鑑定などできるものではない。本物の美に触れることの積み重ねだけが、眼を養う。自分の好みを排斥し、作品に対峙できなければ、曇り眼だ」といっていたそうだ。また、「佐賀県の実家には国宝クラスの陶器がたくさん転がっていた」ともいっていた。父を育てた姉に確認したところそれは事実だった。 父が、埼玉に移ってからも、御下賜品(ごかしひん。天皇や皇族が功績のあった国民や皇室のために尽力した人へ贈る品物)として明治天皇からいただいた刀剣二振があったが、父が恩人に差し上げたことはぼくもよく覚えている。 下世話なぼくのこと、今それがあったなら、すぐに売り飛ばし、懐にしまい込むだろう。やはりぼくは俗人の域を出られない。 神戸での仕事は、持ち寄られた多くの作品群から、各分野の上位5点を選び出し、その順位付けをしなければならない。作品は前もって送られて来たコピーとデジタル化された画像なのだが(それを見るためのiPadまで、準備怠りなくしっかり同梱されている)、この用意周到さは「何があっても〆切り期日までには所見を絶対提出せよ」との意志が強固に示されている。 ここでも、何故か我が倶楽部の女衆の姿が相似形として出現するので、もうかなわない。これをして「被害妄想」というらしいのだが、度重なる仕打ちにより、ぼくはかなりの重篤である。 何日も候補に挙げた作品と睨めっこをし、色の異なる付箋を貼っていく。それは自身との消耗戦のようなものだ。加え、選んだ5点の選考理由(全部で20点)を200〜300文字で理由を記さなければならず、それは作品をより深く読み解く訓練にもなるのだが、ぼくは焦りながらも、のらりくらりと1週間ほどをこの作業に費やす。 その後、他の専門分野の異なる4人の選考者と意見を戦わせる。ぼくはここでの評価に対する公明正大なやり取りがいつも心に染み、6年も続けられた一番の要因となった。ここには、身近の展覧会などで散見される身贔屓による独善ともいうべき仲間内の、忌むべき “お手盛り” が一切ないので、彼らの豊かな知性と深い感受が心に沁みている。この残響は、いつまでも心に宿しておきたい、謂わばぼくの得難い財産となっている。 https://www.amatias.com/bbs/30/754.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 神戸市三ノ宮。今回は、以前にしていたように、3点を掲載。「神戸市三ノ宮」は今回で終わりに。 ★「01神戸市三ノ宮」 「孤独のグルメ」ならぬ「孤独のラーメン」を味わうべく、店を探し歩いているうちに出会ったマリリン・モンロー。 絞りf4.0、1/60秒、ISO 160、露出補正-0.67。 ★「02神戸市三ノ宮」 満腹になって空を見上げたら半月が輝いていた。赤信号になるのを待って(画面左下の赤は信号灯の庇に反射した赤)撮ったものだが、ぼくにしてはちょいとあざといかな。 絞りf10.0、1/125秒、ISO 2500、露出補正-1.33。 ★「03神戸市三ノ宮」 ラーメンで膨れた腹をさすりながら歩いていたら、一見何でもない駐車場の看板が目に留まった。「あっ、きれい。でもなんだか孤独感ありありだな」と呟きながら、自然と何の力みもなく撮ってしまった。 絞りf5.0、1/25秒、ISO 200、露出補正-1.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/08/29(金) |
第753回 : 神戸市三ノ宮(1) |
梅小路での話は今少し続けたいのだが、となると掲載写真が蒸気機関車ばかりとなってしまい、鉄道に関心の薄い読者諸兄には食傷気味となってしまうと思われた。そんな気配と恐れから、潔く一旦打ち切ることにした。本心をいえば、ぼくは多少の未練を残している。
子供時分から蒸気機関車を夢見、憧れ続けてきたその集大成としての、おそらく最後の写真となりそうなのだが(とは口ばかりで、次なる機会を虎視眈々)、それを公の場である本稿で続けるのは、独りよがりになってしまうのではとの気持が勝ってしまった。我ながら、少々気が引けてしまったというわけだ。 蒸気機関車の最も象徴的であり、かつ魅力的な部分である動輪写真ばかりでは、ぼくとて気がつまる。とはいえ、動輪は蒸気機関車の一番の見せどころであり、また肝としての地位を確立していることは誰しもが認めるところだろう。そして、他の部位のメカ的、機能的な美しさも、鉄道の好きな方々には歓迎されるだろうが、昨今の、いわゆる “映え” のする写真とは元々距離を置きたいぼくは(ぼくの意固地からすると、職業写真屋が “映え” とか “一般受け” を意識し、狙うなんてお笑いそのもので、作品の自堕落を招くこと疑いなし)、ここだけの話だが、 “映え写真” 云々より、みなさんへの多少の配慮も必要だと、気を縮めて(こんな日本語あり?)しまったのだ。 近頃頓(とみ)に、「ジジィの頑迷さ」を警戒していることもあってか、独善に陥ることに、殊更神経を尖らせてはいる。それでいて、この程度だ。「皆の衆、笑うことなかれ!」だ。 「クソジジィ」と指を差されても、徐々に抵抗感が薄れているのは、自身を生きやすくしている(処世術とは異なる)その証左とも受け取れる。職人が、「上手にすり抜ける」ことを覚えては話にならぬとさえ思っている。「処世」(世渡り)に長けては、写真屋の名が廃ると考えているのは、ぼくだけだろうか。 けれど、40年間もこの道で飯を食ってこられたのだから、あながち間違えではないだろうと思っているが、それも周囲の理解あってのことである。 去る6月に神戸に出かけたことは既に記したが、ここでの仕事(撮影ではなく、世界的な大企業の催す選考会)は既に6年目を迎えた。ぼくはてっきり5年目だと思い込み、「早いもので、もう5年目になるんですねぇ」といつもの柔和 !? な表情を湛えながら感嘆まじりにいったところ、全員(選考者や関係者諸氏)から一斉に「違います。6年目ですよ!」と、何か悪事でも働いたかのような調子で誹られ、相も変わらずの数字音痴とボケをかましてしまった。 ぼくは最年長者なので、「もしかしたら、かめやまさん、ちょっと危ないんじゃない?」と思われたかも知れない。「なら、早くおいらの首を切れ」といいたいところだ。 そして、この仕事を6年も続けてこられたのは、良い仕事仲間に恵まれたことに尽きる。主催側も心のこもった厚遇を示してくれた。選考者の誰もが、互いに異なる専門的立場を尊重し合い、年一度の会合にも関わらず、「腹を割って話し合える」ことが、ぼくのなかで無上の喜びをもたらした。自己の良心に従い、敬意を払うことが自然に成り立っている人間関係はとても居心地が良く、ぼく自身の成長にも大いに寄与してくれた。 だが、最年長者のぼくはそろそろ身を引くべきと考え、来年は神戸に行くことはないだろう。もう後進に道を譲るべきだ。 神戸に前日入りしたぼくは、主催者に「美味いラーメン店を教えて」と頼んでおいた。地元の人間に聞けば間違いなかろうとの目算である。4件の候補店を直ちに教えてくれた。昨年は、選考メンバーのひとりが音頭を取り、誠に結構な神戸牛とハム、ワインを堪能したのだが、今年はぼくひとりで美味いラーメンをすすりたかった。その道すがら、夜の三ノ宮を撮りたかった。 過去5年は、旧外国人居留地にある静まり返ったブランド店の、夜のショーウィンドウを中心にレンズを向けていたが、今年は最近すっかりご無沙汰気味のスナップ写真を撮りたかった。 ぼくとラーメンの間柄は話し始めると小学校低学年時に遡り、以降のことは止めどなくなってしまうので、今回は記さないが、忘れがたい想い出につながる体験がたくさんある。今回の三ノ宮もそのうちのひとつとなるだろう。 教えてもらったラーメン店を探すためにスマホを見ながら、片やカメラを手に被写体を渉猟する有り様。ラーメン店往復の間に、残念ながら「これぞ!」という被写体に出会うわけではなかったが、というより発見できなかったというほうが正しいのだが、ただぼくの世情に対する反感らしきものの片鱗は辛うじて写し取ることができたように思える。 一抹の反感・反抗心とは、前述した “写真映え” についてのものだ。無論、表現の自由に反感を覚えている訳ではないのだが、「うわべだけを取り繕った深度に欠けるものの氾濫にすっかり嫌気が差している」ということなのだ。 ぼくはコマーシャル・カメラマンなので、「如何ようにも撮る」こともひとつの命題として常に課されてきた。それがぼくの務めなのだから、 “写真映え” を要求されるのも宿命といえばそうに違いない。だが、プライベートな写真にそれを持ち込むのは堪え難いものを感じている。 公にコマーシャル・カメラマンからリタイアを宣言した今、自身の今までの人生に於ける罪悪感や咎(とが)を印画紙上に、素直に、恐がらずに表現すべき時が来ているとの思いが日々強くなっている。では、どのような写真であるべきかを問う今日この頃。 「歳を重ねるごとに生きやすくもなるが、と同時に罪悪感も増す」のである。さて、それをどう咀嚼し、嚥下するのだろうか。「写真を撮る」ことは、愉快と苦痛が同居しており、その相反することを解消するのは、目下のところぼく自身でしかない。 https://www.amatias.com/bbs/30/753.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 神戸市三ノ宮。 ★「01神戸市三ノ宮」 絶対、一般受けしない写真! ラーメンを堪能した後、ガード下に架かる交差点で。老婆と女性の下半身に停車中の車のライトが虹色に掛かる。老婆は多くのものを背負って生きてきたに違いない。 絞りf4.0、1/40秒、ISO 1000、露出補正ノーマル。 ★「02神戸市三ノ宮」 パチンコ店の入口を覗いていたら、やって来た客と目が合った。そこへ折好く自転車に乗った女性が通りかかってくれた。万事、こういけば人生はいいのだが。 絞りf6.3、1/40秒、ISO 320、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/08/22(金) |
第752回 : 京都鉄道博物館(4) |
第752回 : 京都鉄道博物館(4)
お盆休みにつき毎年定例の休載をいただいたが、今夏は猛暑というより激暑というに相応しく、ただでさえ暑さに弱い老齢のぼくは身の危険を感じ、とうとう撮影に出かける勇気を持てなかった。 激暑のなか、カメラを抱えたまま車に轢かれたヒキガエルのように干からびた姿で野垂れ死ぬ白髪ジジィは、どうみても恰好がつかない。無情な身内から、「身の程知らず。先祖末代までの恥さらし」と罵られること疑いなし。激暑のなか、撮影を断行しようとすれば、そのような思いがよぎり、一時も心の安らぐ暇がない。ぼくはやはり何処にいても「無情」に囲まれている。 ただ掲載写真については、目下珍しくも十分な余禄があるので撮影に出ないことへの言い訳をせずに済み、「撃つ弾が足りない」との危機感に見舞われることもない。これは不幸中の幸いである。 このような余裕と安心感は長年の本連載に於いて、極めて稀なことだ。「備えあれば憂いなし」の諺とは縁遠いぼくにしては上出来だとほくそ笑んでいる。 去る6月に、年一度の恒例となっている神戸での仕事に出かけ、帰路故郷の京都をねぐらとし、滋賀県大津市(京都駅から約10分)の三井寺(円城寺)と石山寺を62年ぶりに再訪。ここは高校1年時以来となるのでぼくの記憶は遠く、初訪問と何ら変わりがない。その翌日には京都から足を伸ばし、同県彦根市の彦根城に立ち寄った後、金沢で友人たちと酒宴を催し、帰宅という道を辿った。 写真の出来映えは、よろしいとは誠に言い難く、パソコンと外付けHDDにRawデータを保存したまま、未だに現像する気力(楽しみ)が湧いてこない。撮影の手応えがなく、ぼくの心は萎えたままで一向に回復せず、それを理由にこんにちまでシャッターを切る気力がほとんどなかった。「暑いから」というのは隠れ蓑に過ぎない。 だが、この小旅行での写真も掲載写真の員数外にはしたくないとの気持も手伝ってか、余禄の一部として計算している。 ぼくの枕元には常時カメラが置かれ、ベッドに横たわる時は常にカメラを握っている。これは、感覚や操作が鈍ることの恐怖から逃れるための一番の方法だと思える。 現在、メインで使用しているEOS-R6 IIとRF24-70mm F2.8Lの組み合わせは総重量が1579gであり、それをベッドで仰向けになりながらあれこれ操作するのは、かなりきついが、気力と筋肉の劣化を防ぐには多少の助けと慰めになっている。そして不幸なことに、現役引退を公言してからも、現場での不安や焦りは未だ解消できずにいる。 撮影を、事なくやり過ごすには、カメラやレンズの操作に違和感を覚えるような事態は絶対に防がなければならない。「我が倶楽部の、こわ〜いご婦人方よ、あたしのこの格言をよ〜く心得るよ〜に!」。音引き( 長音符 “ 〜 ” の俗称)ジジィの格言を確(しか)と守るよ〜に! だがひょっとして、何事にも勇猛果敢な彼女たちは、違和感を覚えるなどという洒落た感覚は生来持ち合わせていないのかも知れない。ぼくはそんな彼女たちを時折羨ましく感じることもあるが、恐れ知らずの女衆ほど恐いものはない。 余談はさて置き、話を梅小路に戻すが、ぼくは鉄道マニアでも撮り鉄でもないので、鉄道に関する知識は実に浅薄なものだ。本稿執筆で出来る限り誤りを犯さぬようwebサイトなどを引っかき回し、確認作業をしている。 今回掲載したC62形蒸気機関車の遙かなる想い出は、かつて「鉄道博物館」(さいたま市大宮)訪問記(2022/9/16 ~ 23/2/10、第611回~ 630回:晴れて鉄道博物館)のどこかで述べた記憶があるが、梅小路に動態保存されている通称「スワローエンゼル」(C62形 2号機)の事故(梅小路敷地内で炭水車が車止めに衝突し脱輪)と逆走行の不具合ついては、ネットで知る限り。 そして今年8月、人気の「SLスチーム号」(本物の蒸気機関車が牽引する客車に乗車できる梅小路の目玉)がC62 2号機コンプレッサー(空気圧縮器)不具合のため運航が中止されたとYouTubeで知った。 YouTubeもぼくの写真(今回掲載「01」写真。5月撮影)とほぼ同じ場所とアングルで、整備員がコンプレッサーを懸命に調整している姿が映し出されている。ぼくはその映像を見て、非常な痛々しさを覚えた。 C62は昭和23 ~ 24年(1948 ~ 49年)に計49両が製造されているが、C62 2号機はきっとぼくと同じ歳だろう。いくら優れた整備士や秀でた機関士の手にあっても、その作動や反応には、人間同様に限度があるのではないだろうか。悲しいかな、「老いては事を仕損じる」(こんな諺があるのかどうかは知らないが)という訳だ。かつての雄姿をありのままに再現するには、すべての部品を新たに作り直す必要があるだろう。 といいながらも、ぼくはあらゆる乗り物のなかで、蒸気機関車が最も美しく、力強く、そして人間的に思える。あの造形美に加え、最も擬人化するに適した乗り物だと考えている。老朽化してもなお、決して色褪せることはないと感じさせるのは、やはり本物の美を宿しているからだ。 蒸気機関車は、見る者の視聴覚・嗅覚・触覚のすべてを満足させ、これほどにまで霊感を誘発するものは蒸気機関車を措(お)いて他にはない。そこには永遠の美が確かに息づいている。 ぼくはそのような自身の感覚や思惟を写真に託したいとの気持から、どのような蒸気機関車であろうと、半ば狂乱状態となり、瘋癲(ふうてん。精神の状態がまともでないこと。心の均衡を失っていること)ともなり、自分の世界に没入してしまうのだ。がために、思いが強すぎて不覚を取るのは致し方のないことだ。梅小路は1日の滞在ではとても無理だと悟ったことが一番の収穫というのは、ちょっと寂しいのだが. . . https://www.amatias.com/bbs/30/752.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 京都市下京区。梅小路。 ★「01京都鉄道博物館」 この日の「SLスチーム号」は、因縁のC62 2だった。駅に停車中で、これから園内約1kmの旅路に。雨のなか、何十年ぶりに嗅ぐ、あの独特な煙の香りに酔い、涙がこぼれそうになった。背後の塔は給水塔。 絞りf9.0、1/60秒、ISO 400、露出補正-0.33。 ★「02京都鉄道博物館」 ひと仕事終えたC62 2が転車台で回り、ねぐらの車庫No.2に入っていく。店終いだ。原画を100%で見ると、横殴りの雨粒がはっきり見て取れる。手前は車庫入り待機中のC61 2号機。毎年「ナイトミュージアム」が開催されるようだが、今年はどうなのだろう。夜の転車台や蒸気機関車庫をぜひ撮ってみたい。幻想的な写真とはあまり縁のないぼくだが、やはり蒸気機関車は別。 絞りf6.3、1/50秒、ISO 100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/08/08(金) |
第751回 : 京都鉄道博物館(3) |
高校1年生の読者からメールをいただいた。拙連載を始めて早15年の歳月を経たが、ありがたいことにその間、多くの読者諸兄からメールを頂戴した。そのなかでも、高校1年生は最年少者である。ぼくの拙文が幅広い(特に年齢層に於いて)方々に享受されるとはまったく思っていないが、それにしても高校1年生からのメールは、ぼくとて戸惑いを隠しきれず、ちょっと驚いている。
それだけ市井の人々にとって写真がより身近なものとなり、また誰でもが労を厭わず写真を撮れる時代になったと受け止めていいだろう。 それは同時に、写真や文章を公に発表する立場の人間にとって、身の引き締まるような思いでもある。ゆめゆめ油断なさるなということだ。改めて気を引き締めなければと感じた次第。 彼の質問は、「鉄道好きなんですがはじめてカメラを買いました。コンデジなんですが、コンデジでも頑張れば亀山さんのような蒸気機関車の写真が撮れるでしょうか? また、ぼくのような初心者はどんなことを心がけたらいいでしょうか?」(要約。原文ママ)。 ぼくは直ちに返信をし、こう書き記した。「写真を撮るにあたって、とても大切な要素を多く含む質問ですね。非常に重要な課題でもあります。これについてお答えするのはぼくのような人間にとって容易なことではなく、かつあまりにも多岐にわたる事象についてお伝えしなければなりません。それはあくまでぼくの考えから派生した流儀と考えに基づくささやかなものに過ぎないのですが、熟慮を要するご質問なので即答を避け、後日改めて必ずお返事を差し上げます。少しお時間をください」(ママ)。 高校生の質問内容については、筆硯を新たにしたいと考えているが、ぼくの身近にも同種(コンデジではなくスマホ)の愛用者がおり、奇しくも、「スマホ撮影に関する自身の考え方」の大筋を先日述べたばかりだった。 どのようなものにでも、短所と長所が表裏一体として混在するのが、ものの道理と真理である。そこで最も肝心と思えることは、カメラやレンズを操作する人間とそれに付随するところの被写体に対する「精神作用」と「憧憬」である。 人はどうしても安易・安直なものに流されるのが人情というもの。物を生み出すのは、常に精神的な困難と苦痛を伴うものであり、それを避けたい人は、写真ばかりでなく、そもそも物づくりには向いていない。楽しさは必要だが、甘い物ばかりでは身体を壊す。ここでいう物づくりとは、記念写真や記録写真は除外する。あくまで、自己表現としての写真である。 安易・安直はややもすると、「丁寧さや慎重さ」を欠く元凶になり得るということを厳に言い聞かせる必要がある。ぼくは、それを撮影の第一歩と捉えている。先ずは優れた観察眼を養うこと、それなくして、良い写真への第一歩は雲散霧消。貴重な物づくりの「精神作用」と「憧憬」が一瞬にして逃げ去ってしまう。自身にとっての「美の発見」の確立をしなければ盲目同然である。 「あ〜たは例によって、訳の分からんご託を並べ立てているが、梅小路は何処へ行ったのよ!」との含み声やらダミ声が、どこかムーミン漫画に登場する 「ミイ」に酷似した形相の我が倶楽部の女衆から聞こえてくる。彼女らはそういうに決まっているのだから、「ホンにわしぁ心(しん)が疲れよると」(亡父の口癖)。ぼくは、行儀の悪い二つ返事で、「はいはい、なんとか誤魔化しながら書くよ。った〜く、るっさいんだから!」と、返り討ちを恐れずここで言い放つ。面と向かっていえない悲しさ、哀れ、もどかしさ、はがゆさ。拙稿だけがぼくの頼りであり救いでもある。 因みに、上記した「ミイ」の性格は、Wikiによると以下の如し。 「小さくても頑固、せっかちで怒りっぽく、いたずら好きで失礼なところもある。かなり角のある性格で、聞き手や討論相手を説き伏せる。議論に勝つために感情と論理を駆使してかかる。常套手段として、討論をしている相手に個人攻撃をしたり、説明抜きの結論を口にしたり、敵の議論の内容を誇張して嘲笑ったり、言葉を使わないで相手が不利な立場あることを示してみせたりする」とある。まるで、瓜二つではないか。 つけ加えておくと、「ミイ」のイラストが描かれた腕時計をこれ見よがしにつけているご婦人も実際にいらっしゃる。 前号の最終段にて、「次回で、その矛盾を辛うじてすり抜けた作画を掲載できるかも」といじらしげに、かつ控え目に述べたが、数年前からイメージしてきた「憧れの画像」を辛うじて再現(今回の「02」写真)できたと思っている。 ハレーションの塩梅、蒸気機関車の美しいフォルムやメカ、その質感、重量感、現場の空気感などが、程良くモノクロで表現(ハイエストライトからディープシャドウまでを破綻なく再現)できたと感じている。決して満遍なくきれいで柔和なモノクロ写真ではないが、それは蒸気機関車の重量感と質感を重要視しているためだ。また、この機関車が細部にまで磨かれ、大切に保存されていることを窺い知ることができるのではと思う。 屋外はどしゃ降りで、光源が点光源(晴天)ではなく、雨天のため面光源であることもハレーション効果を際立たせた一因。「雨だったらおれは梅小路に行く。雨でなければダメなんだ」と喝破してきたぼくの面目躍如といったところか。 焦点距離を最短の24mmに固定し、膝を着いたままの中腰で、ファインダーを覗きながら前後左右にジリジリ動き、構図を決めながらの1枚。シャッターを切り終わった途端、ぼくはそこにしゃがみ込み、年相応の姿態(醜態)を晒してしまった。 ※ 来週はお盆休みのため休載となります。 https://www.amatias.com/bbs/30/751.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 京都市下京区。梅小路。 ★「01京都鉄道博物館」 C59型(製造1941-1947年、昭和16年-22年)。ボックス型動輪で直径175cm。国内最大の動輪径のひとつでもある。梅小路開館当初は動態保存だったが、現在は静態保存。油の受け皿が置かれており、念入りなメンテナンスがなされていることが分かる。 絞りf11.0、1/20秒、ISO 4000、露出補正-1.33。 ★「02京都鉄道博物館」 心身消耗のためへたり込み、機関車のプレートを写しておくのをすっかり忘れてしまった。もしお分かりの方がいらっしゃれば教えてください。 絞りf8.0、1/25秒、ISO 3200、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/08/01(金) |
第750回 : 京都鉄道博物館(2) |
鉄道に対しての憧れについては、取り立てて、いわゆる「撮り鉄」ばかりではなく、多くの男子が少なからず抱いていると思われる。ぼくもそのうちのひとりなのだが、特段に詳しいというわけではない。つまり、マニアとはほど遠い距離にいると自覚している。また現在の鉄道事情にも疎い。
子供時分、我が家(現さいたま市)に同居していた母方の叔父が無類の鉄道好きだったため、かつて万世橋(東京都千代田区)にあった「交通博物館」(開館1936年、昭和11年。閉館2006年、平成18年)によく連れて行ってもらった。そんな経緯もあって、当時としては仲間たちより多少は鉄道に通じていた。 また、父が模型好きということもあって、叔父との二人がかりで知識を押し売りされ、ぼくの鉄道好きもやむなしというのがホントのところである。だが、小・中学時代、ぼくより鉄道に詳しい同窓生の鉄道好きはたくさんいたように思う。 たとえば、C57型蒸気機関車をして「貴婦人」というのだと教えてくれた友人もいたくらいだ。現在この「貴婦人」C57の1号機は「SLやまぐち」号として活躍し、梅小路に動態保存されている。因みに、同線ではD51 200号機も運用されている。 ぼくが物知りの彼らと少し違ったところは、鉄道とともに写真が好きだったことだ。中学時代、倶楽部(吹奏楽部)のない放課後には、校庭のすぐ近くを走る京浜東北線や東北本線の線路際に出向き、カメラを向けるのを楽しみにしていた。もしかすると、元祖「撮り鉄」だったのかも知れない。まだ「撮り鉄」という忌まわしい呼称はなかったが、それはぼくにとって、まったく不本意であり、また迷惑な話でもある。何故なら、ぼくはその語感と実態が嫌いだし、写真は競い合って撮るものではないからだ。 最近は「撮り鉄」を意図的に妨害する「邪魔鉄」という言葉が聞かれるが、ひねくれ者のぼくは大いなる快哉を叫んでいる。「ガンバレ、邪魔鉄!」というわけだ。 ぼくが鉄道写真に熱中した頃は、今のように、何時何分に○○型の列車が目の前を通過するなどという細かな情報が手軽に得られる時代ではなかったので、線路際ではいつも出たとこ勝負の行き当たりばったりだった。予期せぬことへの期待に胸を膨らませていた。ただひたすらカメラを持って待ち構えるという状況である。いつ来るか分からぬ機会を逃すまいと、いつになく生真面目で血走った眼をした奇っ怪な少年が、カメラ片手に辛抱強く線路際に突っ立っていたに違いない。ライフル銃を構え、獲物を待ち構えるというほど鬼気迫るという状況ではないにしても、そんな気持でいたことは確かだった。 蒸気機関車はもとより、デッキと庇(ひさし)のついたお気に入りの電気機関車EF53型などの姿が遠くに見えれば、心は打ち震え、一瞬のうちに身体全体が熱く燃え上がるような気分で、タイミングを見計らいながら、「置きピン」(あらかじめ撮影ポイントにピントを合わせておくこと)をし、祈るような気持ちでシャッターを切ったものだ。それはあたかも餌を前に「待て!」といわれ、「よし!」の号令を待つ犬のような心境だったに違いない。瞬時を切り取る、という写真本来の撮り方を具現していたのだった。 ついでながら、連写などというあざとい作法ができぬカメラ(当時そのような操作は特殊なカメラである長尺フィルム専用のカメラ、アイモEyemoでしかできなかった)だったので、ぼくのお題目である「写真は一発で決める」という美しくも男らしい習性(覚悟)が身についたのだと、今さらながらの自画自賛。現在も、特殊な例を除いて、「連写などは下手くその用いる撮影手法」だと決めつけている。 さて、機関車庫として最古の鉄筋コンクリート造りである『梅小路蒸気機関車庫』(重要文化財)で、ぼくは何から撮り始めたらいいのか、戸惑いが先に立った。自由に動き回れることに加え、撮りたいものが満載だったからだ。それが却って迷いを誘発した。たくさんお菓子を与えられた子供がそうであるように。 年甲斐もなく “気のぼせ” している自分に気づきはしたが、待ち焦がれた情景が一挙に出現したのだから、誰もぼくを責められないだろう(誰も責めない)。 だが、やはりこういう時に必ずや決まったようにしゃしゃり出てくるのが我が倶楽部の、可愛げという言葉を歳とともに捨て去ってしまった女衆である。「プロのくせに!」と手抜かりなく、しかも軽々(けいけい)にそう責め立ててくるに決まっているのだ。まったく忌々しいたらありゃしない。 「プロだからこそ、迷うのだ」という哲学的深遠さを以てして、ぼくは彼女らの蛮勇に立ち向かうしかない。しかし、こんな反駁も「蛙の面に小便」とか「馬の耳に念仏」とかね。彼女らの、あの不死身の心魂はどこからやって来るのだろうか。 ぼくが数年前から描いていたイメージは、前回に掲載させていただいた「02」写真もどきなのだが、柔らかな外光ながらも、さらなるハレーション(強い光が当たった部分の周辺が白く霞みがかかったようにぼやけて写る現象)効果を期待していたのだが、思ったほどにはハレーション効果が得られなかった。 撮影後、モニターで写真を確認する作業をほとんどしないぼくだが(格好をつけている。自尊心の表れ)、ここではその掟を破り、周りに人がいないことを確認しながら、ハレーションの具合を見ようと、こっそりモニターを覗いた。アングルを少し変えると(露出補正も肝心)、逆光の特性として、それにつれて霞み具合や質感が変化し、「あちらを立てればこちらが立たず」と、矛盾が重なる。次回で、その矛盾を辛うじてすり抜けた作画を掲載できるかも。断言しないのは、やはり不条理な、どこかからの嘲罵を恐れているからなのだろう。 https://www.amatias.com/bbs/30/750.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 京都市下京区。梅小路。 ★「01京都鉄道博物館」 C55型(製造1935-1937年、昭和10年-12年)。最後のスポーク動輪機関車。スポークはどこかクラシカルで清楚なイメージを与え、ぼくは気に入っている。俗にいう「水かき」と呼ばれる補強がなされており、C55の特徴のひとつとなっている。 絞りf6.3、1/40秒、ISO 6400、露出補正-1.67。 ★「02京都鉄道博物館」 動輪の空転する様を初めて見たのが中学1年時。その時の驚きと感動は今でも忘れ得ぬ思い出となっている。どれ程興奮したことか。この写真は静態だが、あたかも空転しているように見せようと、カメラを意図的にブラしてみた。「うまくいった」と、ひとり悦に入っている。 絞りf13.0、1/20秒、ISO 6400、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |