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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2024/01/05(金)
第673回:新年から乱気流
 新年 あけましておめでとうございます。今年もご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

 新年早々、日本は大災害と事故に見舞われました。不運にもお亡くなりになられた方々には、この場をお借りして、謹んで哀悼の意を表します。
 我が倶楽部にも、能登半島の七尾に実家やご親戚のある人、富山に実家のある人、そして現に金沢在住の方がいらっしゃいます。いつも冗談ばかりをいっているぼくですが、しばらくは謹まざるを得ません。冗談だけが取り柄なのに。
 と、ここまではいつにない敬体の「です・ます調」ですが、本文は相も変わらず常体である「だ・である調」に戻します。

 昨年11月に撮影に出かけた御殿場市の二岡神社を最後に、ぼくは雑務に追われっぱなしで、未だカメラを持ち出していない。今、その離脱症状(禁断症状)が出始めている。仕事の写真は止むに止まれぬ事情で、著名なバイオリニストのポートレートを撮っただけで、私的な写真を撮りに出かけたいとの欲求は募るばかり。
 年末から正月の今日まで、若い頃に購入した井原西鶴の町人物三部作『日本永代蔵・世間胸算用・西鶴織留』(岩波書店。昭和35年発行)の再読に取り組んでいる。
 学生時代に購入し、当時のぼくにはかなりの難物だったが、今、紙の四隅が焼け、黄色に染まったそのページを繰ると、「思ったほど難読ではないぞ」との感覚に襲われている。ぼくも歳を取って、「オレもそう捨てたものではない」とひとり悦に入っている。世の不幸を傍目に、悦に入るわけにもいかないのだが、ぼくだって人の子、倶楽部のメンバーの心労を考えると、心がざわつく。

 震災を前に、「何かぼくにできることはないか? できることがあれば」と呪文らしきものを何度か唱え、嬶(かかあ)にお伺いを立ててみたのだが、「あんたみたいなもんが行ってもやなぁ、年寄りは迷惑なだけや。力仕事は無理やし、また腰を痛めてやなぁ、動けんようになるえ。年寄りなんやさかい、足手まといになるだけや。迷惑千万、年寄りの冷や水というもんや。家でじっとしとり。それが世のためや!」と、叩き込むように命じられた。ぼくはうなだれ、虚ろに「そやなぁ」と返すのが精一杯。

 彼女のごもっともなご託宣に、だがしかし、当地に赴けばぼくはきっとカメラ片手に、犬のようにいろいろ嗅ぎ回るに違いない。鼻だけは、長年培った写真的勘により、人並み以上によく利くのだ。
 テレビやYouTubeで、現地の悲惨な映像を見るたびに、次から次へとモノクロ写真のイメージが湧き、そこで盛んにシャッターを切っている自身の姿が亡霊のように浮かび上がってくる。

 そんなことを考えている刹那、ぼくは『ハゲワシと少女』(戦禍にあるスーダンの惨状を世界に知らしめ、ピューリッツァー賞を取ったケビン・カーターの作品。1990年)を思い出した。
 飢餓で死にゆく少女をハゲワシが後ろから虎視眈々と狙っている写真だ。「何故、少女を助けなかったのか」との非難が世界中から寄せられ、1994年にケビン・カーターは自死。死の真相は今もって謎だが、ごうごうたる非難の末、生への営みが打ち砕かれたというのが定説となっている。
 事の是非についての論評は本題の趣旨ではないのでしないが、大変難しい問題を内包している。「お前ならどうする?」と問われれば、ぼくは写真屋なので「撮る」と答える。

 夜間、トラックの荷台に乗り、シートを被り、姿を隠し、路上にさまよえる麻薬常習者やエイズ末期の患者を撮ったことがある。彼らも、まさに死にゆく人々だったのである。電柱の裸電球に照らされた彼らを、コダックのTri-XフィルムをISO3200に増感現像して、シートの隙間から撮った(1990~91年。カメラ : キヤノンNew F1とライカM4。この時はシャッター音の非常に小さいM4に50mmと90mmのズミクロンレンズを装着した)。悲惨そのものの光景だった。「むごい」という言葉が思わず口を衝いて出たことを今もよく憶えている。
 マハティール首相夫人の主宰するマレーシアの「麻薬撲滅運動」(アンチ・ダダ)のポスター写真撮影のため、3度にわたりぼくは警察のボディガードに守られながら、酷暑のなか撮影を敢行した。フィルムは、マレーシアのネガティブキャンペーンなどに流用される恐れから、国外持ち出し禁止とされたので、残念ながらその写真はぼくの手許にない。

 ハゲワシに狙われる少女と、重度麻薬患者&末期エイズ患者との違いはあるものの、写真屋としての義務感から、恰好を付けるなら、「如何にこの現状を写真に収め、訴えるか」に尽きる。一分(いちぶん)を捌く(独力で自身の振り方を処理する。義務を果たすという意)というわけだ。
 マレーシアの彼らに対して何某かの同情はあるものの、ぼく自身に課せられたものを考えれば、それは物の数ではなかったと告白しておく。
 ましてや、少女は醜い戦争の悲しい犠牲者であり、片や誘惑に打ち勝つことのできなかった人々の末路である。「何某かの同情」と記したが、それは敢えていうなれば、彼らの貧困である。
 その違いにより、ぼくはピューリッツァー賞を逃したわけだが、「賞ほどくだらぬものはない」がぼくの信条であり、ぼくに多大な影響を与えた亡父は生前、「賞やらなんやら、そげなもんはどげんでんよか」と常々いっていた。
 ぼくは、賞より写真屋としての矜恃と一分の捌きを重視したいと願っている。

 新年早々、京言葉やら九州言葉の乱用、どうぞご容赦あれ。方言というものは、標準語に翻訳不能だ。

https://www.amatias.com/bbs/30/673.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
東京都中央区。

今回の掲載写真は、新年のご挨拶代わりなので1枚だけ。
★「01干支とマネキン」
無数のLEDが敷き詰められた背景。コンピューター制御により目まぐるしく絵や模様が変化。そこに干支である「辰」が現れた瞬間。再度現れる間に、ズームレンズを50mmに固定し、構図を定めながら立ち位置を探り、マネキンと個々のLEDが明確に描かれるように、被写界深度を決めた。原寸画像であれば、画面の隅々まで、一つひとつのLEDが正確に描写されているのが分かってもらえるのだが、極端なリサイズ画像のため、やむなしというところ。
絞りf7.1、1/200秒、ISO 125、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2023/12/22(金)
第672回:御殿場市二岡神社(3)最終回
 前号で掲載させていただいた二岡神社の縦位置の参道写真について、友人を始め複数の読者諸兄から、横写真があるのであればそれも掲載して欲しいとのリクエストがあった。
 同じ物(場所)でも、実際に縦横の両方を撮れば、その違いは誰でも体感できるものだが、拙いぼくの写真に対して、改めてそのようなご要望をいただいたことはとてもありがたいと思っている。ぼく自身もどちらを掲載しようかと迷っていたので、なおさらの感がある。双方の雰囲気は異なれど、写真に関して、質的には大差がないと感じていたからでもあった。

 「口は災いの元」( “災い” とは冗談)となった文は以下の如し。
 「掲載写真は縦位置だが、横位置でも撮っておいた。横位置のものは、当然のことながら空間が広く取れ、安定感もあり、周辺の霊気も活写できるのだが、今回は縦位置での奥行き感を重視した写真を掲載することにした」との件(くだり)である。
 だが、同じ場所を両方で撮ったものを、まったく同じトーンに仕上げることは容易でなく、それどころか不可能なことでもある。微に入り細に穿って補整したものは、2度と同じように再現できない。ましてや雰囲気や構図が異なるので、同じトーンにというわけにもいかない。今回掲載させていただく横写真のほうは、シャッター速度も異なっている。縦位置と横位置の露出が異なることはご承知の通り。

 そして双方の写真のトーンなどが同結果にならないことは、アナログで喩えるなら、同じプリント(暗室で、焼き込みや覆い焼きをしたもの)を2枚仕上げることはできないのと同様である。デジタルは同じプリントを複数枚仕上げることは可能だが、補整となるとそうはいかない。ここがアナログとデジタルの暗室作業に於ける大きな相違点である。
 デジタル原画の明るさやコントラストを、比較的簡易な画像ソフトを使用し、数値だけを変えるという単純な作業であれば、ある程度可能だと思うが、原画が異なれば(ここでは縦横の2枚)そういくはずもない。

 ぼくは、異なる会社の画像ソフトに設けられている多くのプリセットを選び、それを細かく調整し、都度レイヤーを重ね、良いとこ取りをしながら、自分の意に添うように仕上げていくので、同じ手順を踏むことは不可能だ。
 別の話となるが、何度補整をしても思うに任せない時は、写真のクオリティが低いからであり、そしてまた撮影時に描いたイメージが貧困だったりと、そのような写真はどれほど時間をかけ、仕切り直しをしてもダメなものはダメなのである。逆立ちをしても、どうにもならない。そんなことを何千回も繰り返してきた。学習能力に欠け、まったく懲りない奴だ。どうしても「我が子可愛さ」に一縷の望みをかけてしまうのだから、未練がましいったらありゃしない。

 撮影時に何かが間違っているのでダメ写真になってしまうのだが、反省かたがた、刑事のように「現場百度」に挑むしか手立てがない。しかし、この手立てに保証が得られないところが、写真の悲しい宿命ともいえる。いくら試しても、絵にならぬものは、永遠にならぬと言い聞かせている。だが、やはり未練に取り憑かれ、「取り敢えず」といいながら撮ってしまう。ぼくはそれを「取り敢えず写真」と称しているが、「取り敢えず」などという浅ましさで、うまくいった試しなど一度もない。
 とはいうものの、苦難と反省の繰り返しは、やがて「撮って絵になるものとそうでないもの」を見極める鑑識眼を養う過程でもあるとぼくは前向きに考えている。同じ光りや感受は二度とないのだから、気になる被写体であれば「取り敢えず」撮っておくのは、写真を愛好する者の、悲しき性のようなものだ。したがって、そう悲観したものでもない。

 写真に限らず、あらゆる創作には終着駅というものがない。終着駅がないので、この道に囚われた者は、終生もがき、足掻き、苦しむのだ。人の生き方はそれぞれだが、ぼくは写真が好きなので「下手の横好き」(謙遜の意ではない)から逃れられずにいる。不憫な身と認めつつ、諦められずにいる。ましてや、ぼくの嫌う旦那芸(今までたくさん見てきた)でもないので、これでも真摯に向き合っているつもりでいる。
 一方で、「好きこそ物の上手なれ」という言葉もあるが、半分は正しいだろう。好きなことには誰しも熱中度が上がるので、その分上達を助けるのだが、写真を生業としたい人には不向きな言葉だ。なので、この諺は半分しか当てはまらない。ただ好きなだけでは飯は食えない。ぼくは、写真で飯を食おうなどと不埒で道理に外れた考えに囚われてしまったので、若気の至りも、願わくば「下手が却って上手」(下手な人は物事を丁寧に、念入りに行うので、却って作品の質が向上することがあるとの意)となればいいと思っている。

 シャッターを切る前に必ず、「おまえ、ホントにこれでいいの?」と自問自答してみるのだが、あにはからんや、結果は無残ということがしばしばある。仕事の写真は担当者と都度確認を取り合いながらという場合がほとんどであり、本稿で掲載させていただいている私的な写真は常に独立独行なので、こちらのほうが「いい恥さらし」となる。

 年の瀬も押し迫り、本稿が今年最後の原稿となるが、足腰がまだ動くうちに、鋭意撮影に臨み、来年こそはもう少しましな写真を見てもらいたいと願っている。「下手の横好き」を少しでもポジティブな方向へと心してシャッターを押そうと、殊勝にもそう考えている。

https://www.amatias.com/bbs/30/672.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
静岡県御殿場市二岡神社。

★「01二岡神社」参道
社殿へ向かう参道。杉の大木が鬱蒼と生い茂り、光が入って来ず。しかも雨降ということもあって、霊気が漂っていた。
絞りf9.0、1/40秒、ISO 8000、露出補正-2.33。
★「02二岡神社」社殿
前号では、向かって左からの撮影だったが、激しい雨の中、周りの大木を入れ、引き気味に撮った。
絞りf7.1、1/30秒、ISO 1600、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/12/15(金)
第671回:御殿場市二岡神社(2)
 そろそろ年賀状作成の時期になった。もうかれこれ40年来、自分の写真を相手の志向にかまうことなく、年賀状一面に印刷し、新年の挨拶として送りつけている。昔のぼくの写真は、まだ新年の趣に相応しいと思える類のものだったが(主に外国で撮ったスナップ写真)、ここ十数年は誰がどう見てもそうではないものばかりに変化している、とは写真音痴と思える友人の弁。
 まるで他人事(ひとごと)のような言い草だが、ぼくにもその自覚症状は多分にあり、心の片隅では、世間に流布している写真に対して「あっかんべぇ〜」をしたくて仕方ない。
 ぼくのそんな気分を敏感に嗅ぎ取ってくれる人は、「あいつ、またこんなことをしている」と、新年早々半畳を打つ。

 どのような種類の「あっかんべぇ〜」かというと、万人に好まれそうな写真に対しての、ぼくの旺盛な反骨精神から世間に物申したくて、やむにやまれず撮ってしまった写真という意味だ。つまりそれは、世評に合いそうもない写真といってもいい。万人に好まれるような写真は、所詮その程度のものというのが、ぼくの昔からの確たる持論だ。
 そしてまた、後期高齢者になったばかりのジジィが、万人受けのするような写真を撮って嬉々としていたら、一体どんな人生を送ってきたのかと危惧さえ抱く。「みっともないことをするなよ」ともうひとりのぼくが語気を強めていう。
 そんなぼくを、「斜(しゃ)に構えている」(多様な解釈があるが、ここでは「皮肉をこめたひねくれた態度」)と見る向きもあろうが、ぼくは写真好きのごく一部の人に、それなりの評価を下されれば、もうそれで十分だ。

 コマーシャル・カメラマンという立場上、万人受けのする写真を長年にわたって撮らざるを得なかったことから派生した自然な反動は、いうなれば一種の宿痾のようなものなのかも知れない。ぼくの今の写真は、その立場を忘れたプライベートなものなのだから、鑑賞者の所見を窺う必要などまったくないことは自明であり、言わずもがなといったところだ。

 昨日、小学校時代から仲の良かった同級生2人と喫茶店で珈琲をすすりながら、取り留めのない話をしていた。2人とも現役時代は大企業の偉いさんだったが、そんな雰囲気を微塵も感じさせないところはなかなかのものだと、ぼくは感じ入っている。ぼくのようなフリーランスのヤクザ稼業とは、生き方も考え方も彼らとはまるで異なるのだが、まったくの異次元世界で生きてきた人間同士が、何でも忌憚なく語り合えるのは、尊重の精神に沿ってのことだし、それなくしては、縁というものは続かないものと、つくづく感じさせられた。60数年間の腐れ縁というものだ。

 そんな彼らは、我が倶楽部の写真展に毎年来てくれるのだが、ぼくの写真より、他のメンバー、つまりぼくの教え子たちの作品を、お世辞でなく、やたら褒め讃えるのである。大変嬉しくもありがたいことなのだが、ぼくの手前、顎に手を当てながら、「君のはちょっと難しい」といつもお茶を濁すことに執心している。「難しい」との意味を決して語ろうとはしない。

 このような立ち回りをしないと、会社での出世は望めないのだろうかと、ぼくは彼らに憐憫の情を禁じ得ないのだが、それも彼らの背負って来た処世術という宿痾なのだろう。まぁ、「君たちに、ぼくの写真が分かってたまるか」というのが、本音なのだが。
 といいながらも、ぼくの作品を高額で購入してくれ、「君の死後、値が上がるかも知れないし。 “この世では先行投資” っていうんだよ。それを期待してのことだ」などと姑息にも宣うのだが、現状から察するに、きっと「お先に失礼」というのは、彼らのほうなのだ。この歳になっても、まだ損得勘定をしている。

 損得勘定皆無のぼくは、雨の降りしきる二岡神社の鳥居(前号掲載「01」写真)をくぐり、社殿に向かう細い参道の階段を登り始めた(今回の掲載写真「01」)。樹齢数百年の杉の大木が鬱蒼と生い茂り、その社叢(しゃそう。神社の森)は御殿場市の指定文化財となっている。
 そこは、まことに怪しい雰囲気に満ちており、気の弱いご婦人であれば、余りの薄暗さと人気のなさに怖気を震い、歩を進めることを躊躇してしまうかも知れない。ぼくは、前号で触れたように、幽霊とか妖怪、心霊による現象をまったく信じていないので、意に介さず撮影に集中した。

 ここの参道は光量が非常に少なく、 Fvモード(フレキシブルAE )撮影で、ISO感度が8,000にまで上昇した。いくらこのカメラが最新のもので、高感度特性に優れているといっても、優れたノイズリダクション機能を備えたRaw現像ソフトが必須だ。そのままでは、さすがにISO 8,000ではノイズが目立つ。

 このRaw画像の現像には、DxO社のPhotoLabを使用しているが、ノイズはきれいに取り払われ、しかも解像度も申し分ない。もちろん、それを見越しての撮影だった。
 掲載写真は縦位置だが、横位置でも撮っておいた。横位置のものは、当然のことながら空間が広く取れ、安定感もあり、周辺の霊気も活写できるのだが、今回は縦位置での奥行き感を重視した写真を掲載することにした。露出補正も現場の雰囲気と空気感を重んじ、常夜灯の赤色が表現できるぎりぎりの − 2.33まで落とした。

 こんな写真を年賀状に使ったら、すぐに破って捨てられるわ。ぼくにはそれがよく分かっている。我が倶楽部の婦女子たちに「饅頭を買ってあげるから、ここにひとりで行ってきなさい」といったら、多分誰かが饅頭につられて行くに違いない。ここだけの話だが、幽霊や化け物たちのほうが我先にと逃げ出すかも知れないね。

https://www.amatias.com/bbs/30/671.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
静岡県御殿場市二岡神社。

★「01二岡神社」参道
鳥居といい参道といい、先が見えないのが写真というもののミソ。
絞りf9.0、1/50秒、ISO 8000、露出補正-2.33。
★「02二岡神社」社殿
ザーザー降りの雨にぼくは嬉々としていた。この神社に社務所が見当たらないのは、もしかしたら映画やCM用のための貸し神社?
絞りf5.6、1/20秒、ISO 1600、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/12/08(金)
第670回:御殿場市二岡神社(1)
 今年6月、ぼくにしては珍しくも、撮影以外の仕事で遠方(神戸)に出かけた。せっかく関西まで来たのだからと、神戸で仕事を済ませてから、帰路滋賀県と岐阜県に、重いリュックを背負い、訪ねた。ちょっとした旅行気分だった。そこでの写真は、仕事ではなく、まったく私的なものだったが、終盤は疲労のあまり足を引きずりながら、地を這うような格好で写真を撮っていたに違いない。老いさらばえた人間の、締まりのない匍匐(ほふく)前進といったところか。
 道中での話は、6月から9月にかけて拙稿にて掲載させていただいたが、あれ以来ぼくは連日天気予報をいつになく気にかけるようになった。スマホ片手に、洗濯の機を伺う主婦のようなものだ。

 岐阜県の飛騨金山町を訪れた際に、心がけの良いぼくは八百万(やおよろず)の神々からひとつの啓示を受け、いつも以上に雨を待ち焦がれるようになった。飛騨の山間に佇む彼の地で驟雨に遭い、これ幸いと難儀な雨中の写真に取り組んでみようとの気になった。雨の美しい写真(現場の空気感をも含めて)を撮れるかどうか、ぼくは自身に取り留めのない興味を抱いた。それは大した啓示だった。

 動画、たとえば映画などの雨のシーンはそれなりの良さがあるが、あれは動画であるからして、画面の雨がさほど邪魔にならず(雨量を加減できこともあり)、観客は肉眼での雨と同じように感じ、そしてそれを違和感なく受け取ることができるのだ。
 だが、静止画ではそのようにいかないことは、言わずもがなである。あの雰囲気が静止画でどのような形で表現できるかを、ぜひ試してみたかった。もし、頭に描いた通りに雨を表現できたら、さぞや面白かろうとの思いが、ぼくの意欲に輪を掛けた。
  
 シャッタースピード(雨を点か、あるいは線で描くのか)、背景との取り合わせ(コントラストと光りの方向性)、雨粒の大きさ、などの要素を組み合わせると、ぼくの頭は混乱の極みに達する。数学でいうところの「順列組み合わせ」は膨大なものとなり、たとえどれかが合致し、それが希望通りであったとしても、次回に応用することが可能かどうか? 多分、そうはいかないだろう。背景とお天気次第という要素が大きいのではないかと思える。生涯を通して、同じ空や雲には、2度と出会えないのと同じことだ。

 天気予報というものは、一応は科学に基づいて発せられるものらしいのだが、その予報たるや、「当たるも八卦当たらぬも八卦」の如きで、からきし当てにならぬ。無責任の極みとぼくは捉えている。だが、占いと同じと考えれば、腹も立たぬ。
 現代の科学にあって「当たるも八卦当たらぬも八卦」とは全体どういう料簡なのであろうかと、ぼくはいつも腹立たしく思っている。とにかく当たらぬではないか! ぼくは先述の如く、天気予報をおみくじ程度のものと考えている。真面目に取り合ってはいけないのだ。

 自然を相手に生計を立てている人々、たとえば、漁師さん、農作業などに携わる人たちのほうが、よほど優れた予報官ではないだろうかと感じさせる。
 彼らは、天気の予兆をしっかり把握できなければ、生死に関わる。天気予報官は、高度な科学を駆使しつつ、予報を外しても誰からもお咎めを受けずに済む。「のんきな商売だ」というのは言い過ぎだろうか?
 外した時の、膨大な経済的損失に対して、もっと襟を正し、大真面目に取り組んでいただきたいものだと願うのはぼくばかりではあるまい。
 予報とはいえ、頼りにならぬものを何の気詰まりもなく発し続けていることに、ぼくは感心しきりといったところだ。予報が外れたがために、大きな損失(野外ロケ)を何度も蒙ったことのあるぼくは、恨み辛みなのだが、これ以上は醜いので言及せずにおく。

 「明日、静岡県は朝から終日の雨」との予報に、ぼくも洗濯日和を待ち望む主婦同様、心を弾ませた。主婦が、洗濯に心を弾ませるかどうかは知らないが、大切な日常行為であることに変わりはない。
 天気図と併せて、怪しげな天気予報を半信半疑で聞きつつも、「ダメもと」と自身を諭した。翌朝ぼくにしては鶏のように早起きをし(なんと忌々しくも、午前10時)、御殿場市の二岡神社(にのおかじんじゃ。静岡県北駿地方では歴史ある神社のひとつ)を目指した。行ったことはないのだが、映画やCMのロケ地として知られるところで、観光地でないところがいい。

 往路、肝心の雨模様は決して好ましいものではなく(控え目な小降り程度)、心は晴れなかった。心がけの良くないぼくのことだから、現地に着き、もし「ピーカン」にでもなっていたら、気象庁に火を放ち、ついでに鶏も焼いてやろうと、ぼくはひとり凄んでいた。アホみたいだ。
 首都高の渋滞に加え、東名のリニューアル工事規制でかなりの時間がかかってしまったが、第1カットを撮ったのは、15 : 36分(掲載写真「01」)だった。日没1時間前というところで、ちょうど良い。そして、天に願いが通じたのか、現地はかなりの雨模様となった。「早起きは三文の徳」との諺は信じないが、甲斐はあったのだろう。

 雨降りとはいえ、紅葉と緑の彩度はぎりぎりのところでバランスを保っていた。車を置いた間近に鳥居があり、人の気配はまったくなかった。ぼくは所謂「お化け」の存在を否定しているので(1度も会ったことがないので)、恐さにも不気味さにも不感症。だが、これをして「おどろおどろしい」と世間ではいうのだろう。
 雨を線で描くために適切と思われる(撮ってみなければ分からない)シャッタースピードで3通り撮った。
 掲載写真はリサイズ画像なので解像感に難があり、雨が判別しにくいが、そのために僅かに明瞭度を上げ、強調してみた。この写真はWeb向きでなく、プリントでなければ、ぼくの意図が伝わらない典型的な代物。今回は、これでここのニュアンスを嗅ぎ取ってもらえばありがたいと思っている。

https://www.amatias.com/bbs/30/670.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
静岡県御殿場市二岡神社。

★「01二岡神社」鳥居
見るからに何かを思わせそうな佇まい。この鳥居の奥には何があるのだろうか?
絞りf8.0、1/30秒、ISO 2000、露出補正-2.00。
★「02二岡神社」狛犬
鳥居をくぐったところにある狛犬。雨に濡れた質感を描写するために、ハイライト基準の露出補正を。ファインダー内に表示されるヒストグラムの恩恵に与る。
絞りf7.1、1/50秒、ISO 3200、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)

2023/12/01(金)
第669回:秩父市三峯神社(4)最終回
 「三峯神社ゆ〜んは、埼玉でえらい人気のある場所なんやてなぁ」と、京都生まれ京都育ちの嬶(かかあ)が、食事中の、やはり京都生まれの埼玉育ち(大半が)のぼくに何か企みでもあるかのようにわざわざ注進してきた。ぼくがどこへ行こうが、関心を示したことなど滅多にないだけに、あらぬ緊張が走り、一瞬背筋が寒くなった。
 だが、我が家は、このご時世にあって、夫婦互いが一切の干渉をしないという宝のような素晴らしい掟を堅持している。我が人生最大の果報であり、唯一の救いでもあるのだ。

 普段、ぼくの仕事、つまり写真には一切の関わりを持たぬように意図的に振る舞ってきたと思える彼女の、咄嗟の三峯神社云々について、被害妄想と自虐感による心の荒み切ったぼくは、条件反射的に縮み上がった。
 冷静に顧みると、彼女はぼくの三峯行きに興味があったわけではなく(あるわけない)、長年家族づきあいをしている友人や我が息子がこの1ヶ月内に三峯神社に詣でたからであったと考えるのが妥当な線であろう。きっとその推論が正しい。

 時に女性の、予期せぬ言動や対応というものは、腹に一物抱いている場合が多い。加え、彼女たちは何十年もの遠い昔についての、他人の、特に亭主の発した言葉には一字一句化石のように固まってしまった脳にしかと刻み込んでいるので、男衆はどうにも勝ち目がない。「言質を取る」というやつだ。だが時として、それを理知によるものと大きな勘違いをしている女性がたくさんいる。言葉によって相手を打ち負かすなんて、三百代言と変わりないし、第一、品位に劣る。なんと嘆かわしくも、憂うべきことか。

 根っからの九州男児であり、脳密度の極めて高かった父は、「男はアホやし、都合ん悪かことはすぐに忘れよる。男ちゅうもんな、大事なことが頭にいっぱい詰まっと〜けん、次から次と忘るっごとできと〜もんや」と、よく佐賀弁でいっていたものだ。ぼくは衷心より、親父の言い分を強く支持する。たとえ、ぼくの脳味噌が鬆(す)だらけであってもだ。

 女房殿と言い合いなどしようものなら、逐一「あの時あんたはこういった、ああいった、どうだまいったか、ふんっ!」と、意気高らかに勝ち鬨(どき)をあげる。「あんたには生涯時効などないんだからね」という顔をするから嫌になる。しかし、取りつく島を与えずという世の婦女子たちの、あの技術だけは、確かに見上げたものである。

 写真話の割り込む隙がないので(まるで他人事のような言い草)、困ったものだと思っているのだが、当初の予定では画像ソフトやカメラなどに組み込まれたAI (人工知能)機能について述べようと思っていた。
 ぼくの主に使用しているものにはAI機能が盛んに謳われているのだが、今ここでそれを論じるほど使いこなせていないし、画像ソフトに関しては満足できる結果も得ていないので、もう少し検証をしてからと考えている。

 だが、元々ぼくは、「どんなにコンピューター・システムが発展しようが、無個性な観光写真や記念写真は別として、自身を描き出すための写真、つまり作品と称するに値するものなど撮れるわけがない」を信条としている。おそらく、ぼくが生きているうちは、コンピューター・システムが如何に発展しようとも不可能に違いない。
 デジタルはまさに日進月歩であり、未来を予見することは素人のぼくにはできないが、それでもなお、「AIに写真が撮れてたまるか」との気持に変わりはない。と同時に、今使用しているEOS-R6 Mark IIの至れり尽くせりの、「アッと驚く」多くの機能にはまったく感心するばかりだが、それまで長年飽くことなく、また新製品に目移りすることもなく使用してきたプロ仕様のEOS-1Ds Mark III(2007年発売)の基本を抑えた質実な機能で、ぼくは十全だと考えている。写真を撮る道具として、何ら不便など見当たらない。このカメラでどのような注文にも応じてこられたのだから。
 両者の違いを一言でいえば、「十分な訓練を経なくても用の足せるR6 MarkIIと若干の緊張を強いられる1Ds Mark III 」ということになろうか。

 このことは、良し悪しの問題ではないのだが、科学の進歩による安易さ(訓練を経ずとも、それなりに成就できて “しまう” )に頼ると、思わぬ落とし穴にも気づかず、「写真の様々な道理」(この意味は非常に広範に及ぶ)を見過ごしてしまうことになりはしないだろうかと、本来心配性でないぼくは心配でならないのだ。これを世間では、 “老婆心” というらしいのだが、果たしてそうだろうか?

 深山に鎮座する三峯神社や地下の大谷資料館など、光量の不十分な環境下で、確かにぼくの最新のカメラは俄然威力を発揮してくれた。
 暗所撮影に於ける最大の難事は、シャッタースピードによるブレや高感度ISO使用時の、ノイズによる画像の変調だが、それに恐れを抱く必要はなかった。これが文明の利器というものなのだろうが、だが前述した1Ds Mark III で、同様に撮れと命じられれば、ぼくはその使命をしっかり果たすことはできる。難なく、多少の慎重さは必要だが、同じように撮ることは可能だ。ただ悔しいかな、歳を取ったお陰で、あの重さ(今のカメラの約2倍)を多少煩わしく感じるようになった。
 「粋がって、鉄アレイのようなカメラを振り回すんじゃないよ。怪我するよ」と、親切な御仁が老婆心ながら訴えるに違いないのだ。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
埼玉県秩父市三峯神社。

★「01三峯神社」拝殿
前号の予告通り、願いが天に通じて大粒のにわか雨が降ってきた。紅葉の配置と屋根の形状を塩梅して構図を決める。雨を考え、シャッタースピードを何通りか変えて撮る。
絞りf7.1、1/30秒、ISO 500、露出補正-1.33。
★「02三峯神社」狼
神社の要所には狛犬(正確には架空の動物)が一対設置されているが、三峯神社は犬ではなく狼。
絞りf6.3、1/50秒、ISO 1250、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/11/24(金)
第668回:秩父市三峯神社(3)
 三峯神社での写真をあと4枚ばかり補整したので、今回を含めてもう1話掲載させていただくつもりでいる。ただ神社についてはたくさんの情報が昔とはくらべものにならず、ネットや書籍などから多くを窺い知ることができるので、それはぼくの役でなくとも良いと考えている。今と昔(ネットが生活圏に蔓延っていなかった時代)とでは、情報量が桁違いだからだ。

 かつて仕事で2度ばかりここを訪れたことがあると述べたが、その時は同じ写真でも仕事なので好き勝手に撮ることは敵わなかった。神社の許可を得、大型カメラで、本撮影の前に必ずポラロイド写真を撮り、それをデザイナーやディレクターと一緒に検討を重ねながらの撮影だった。1枚撮るのにかなりの時間を要したものだ。
 フィルムは、露出加減や色温度に対する反応が非常にシビア(露出のラチチュードがとても狭い)なカラースライドフィルム(リバーサルフィルム)だったので、デジタルとは異なり、後の修正が効かないことが大きな相違点であり、撮影には慎重の上にも慎重を期す必要があった。いったんシャッターを切れば、取り返しの利かない、まさに「一発勝負」だったのである。が故に、神社特有の霊気を感じ、それに浸る余裕などなかったのである。

 それらの写真は、ムック本の表紙や本文、そしてポスター用の写真であり、それを見た人の心を惑わせ、「訪れてみたい」との気持にさせる必要があった。実際にそれがどの程度効力を発揮したかは分からないが、コマーシャル写真とはそのようなものだ。そこが仕事と「気ままな私的写真」とは大きく異なる。
 「気ままな写真」は、たとえ失敗をしでかしたとしても、お咎めを受けずに済み、ましてや家計が逼迫する恐れもなく、気が楽と思われがちだが、私的な写真とはいえ、それを生業としている身として、律儀なぼくはどこかでそれなりの制約を設けざるを得ない。また、撮影に関して、誰かから指示を受けるわけでもないので、責任のすべてを自身が負うという重さがある。

 ぼくは私的写真に対して、「もっと自由闊達であってもよい」とか「敢えてエキセントリックな表現を試みたい」との意向を持っており、それは悪魔のささやきに似ている。そして、それに順応したいとの心意気旺盛なのだが、もう少し時間が必要だと考えている。長い間の習性はなかなか抜けないものだ。今は、その闘いの、そしてそれに対する試行錯誤の時期なのだと思っている。

 本稿で、偉そうなことを書き連ねている手前、それが自縄自縛となり、喘いでばかりいる。そこがなかなかに辛い。
 読者である友人から、「お前は辛辣なことをちゃらっといって退(の)ける。言いたい放題だ。そんな君がまことに羨ましい。ホントに良い性格をしているね」などと、退職してからもサラリーマン気質から逃れられずにいる人間から冷やかされるが、あにはからんや、ぼくだって得意気になって書いているわけではない。ただ、自己顕示と主張を訴えずにはいられないとの悲しい性に縛られているだけなのである。

 今回の訪問は、コマーシャル写真的束縛から一切を逃れ、自身の感じるままにシャッターを切れるのだから、神社に於けるぼくの立ち居振る舞いも思いのままで、随分異なったものになって良いはずである。
 だが、神社に於ける非日常の霊気にどうしても浸ることができず、長息するばかりだった。「お前さんは、見学でなく写真を撮りに来たんだよな」と自らを諭しつつも、「1度カメラを持たずに、希望の地に行ったり、旅行をしてみたらどうか。それが “急がば回れ” ということなのだ」との囁きはとても説得力に満ちたものに感じられ、「ごもっとも」と返さざるを得ない。頭の巡りの悪い人間は暗示にかかりにくいらしいが、どうやらそれは正しいのだろう。
 “急がば回れ” のお達しはその通りだと思うのだが、あかんたれ(関西言葉。ダメ人間や意気地なしを罵っていう言葉)のぼくは、肝心の勇気がないので、暗示にかからず、屁理屈倒れとなる。
 曰く「カメラを持たない写真屋は、刀を持たぬ武士の如き」、なんちゃって。

 深山に建てられた神社の霊気とぼくが写真屋であることの折り合いをどこかで付け、コマーシャル写真ではなく、スマホ写真でもなく、いわば「インスタ映え」(ジジィがこんな類の写真を撮ってどうする。ひどくみっともない!)のしない写真に敢えて臨むことをよしとする。
 つまり、難点や欠点に臆さず、全体的に見れば問題なしと自身が納得できる写真を撮ることに注力すれば何かの足がかりを掴めそうな気がしたのだった。「臆して」ばかりいるぼくにとって、この機を逃すわけにはいかなかった。せっかくの「霊気」による「霊感」(インスピレーション)なのだから、と言い聞かせた。

 ただぼくを悩ませたものがある。それは三峯神社の御社殿に装飾された彫刻の派手とも思える色合いであり、それはぼくの好みに合うものではない。ぼくは本来モノクロ写真が好みなのだが、いったんはそれをイメージしつつも、やはりそれでは神社の特質すべきところを描けないと判断。多分、色の捌(さば)きに苦心するのではないだろうかと、被写体を睨みながら、行く末を案じた。

 色合いの特質を崩さずに、それらしく振る舞って見せるのは、ぼくにとって並大抵のことではないと覚悟を決めながらの撮影だった。まぁ、いずれにしても、我流であることは否めないのだが、だがしかし、創造が我流であって何が悪いと、ここでも開き直るぼくだった。時に他人の写真を「我流に過ぎる」と、あらぬいちゃもんを付けるくせにね。
 「我流」は、基礎・基本を身に付けてのことと、今自分を戒めている。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
埼玉県秩父市三峯神社。

★「01三峯神社」拝殿
拝殿を真横から。雲がもくもくと湧き出て、「雨よ降れ」との願掛けが叶うかと思われた。結果は次号の写真で。
絞りf6.3、1/30秒、ISO 640、露出補正-1.33。
★「02三峯神社」拝殿
超広角レンズで正面を撮ろうとアングルを探している時に、神主さんが足早にやって来るのが見えた。頃合いを見計り、現れた瞬間にシャッターを押した。
絞りf5.6、1/50秒、ISO 4000、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2023/11/17(金)
第667回:秩父市三峯神社(2)
 雨天が望めないのであれば、せめて色温度の高い明け方の曇天時に行けば(実は、太陽光の色温度が最も高いのは正午近くだが)神社に漂う霊感を味わう好条件であることは知っている。そして光量の少ないこの時間帯は、ぼくの知る神社撮影にとって最も望ましいのだが、寝坊助のぼくは得意のご都合主義により、異常な早起きは、我が家に特化した家訓に従えば許されるものではない。第一、そんな早起きをしては体内時計が狂い、撮影どころではなくなってしまう。

 というわけで、片道3時間の道のりを陽の高い時刻からのそのそと出かけた。写真屋にしては見上げた心構えと心胆だと、ぼくは少し得意気だった。「辺りを睥睨(へいげい)する」というのはこういうことなのだと言い聞かせながらの遅い出立だった。現地まで3時間もかかるのだから、到着時は日暮れ時に近い頃であろうという言い訳もした。そして、明け方も日暮れ時も、薄暗いことに変わりはないと自身を庇った。まさに「我田引水」の境地である。

 神社は夕暮れ時より陽の上がる前のほうが、前述したように適切だと長年の経験則から割り出しているが、仕事でない限り、鶏のような早起きは自尊心が許さない。誠にへんてこりんな自尊心である。
 しかし、鶏のような、この世にあるまじき可愛げのない面構えで(爬虫類のほうがまだ良い)自身が撮影に臨むことは、なおさら許されることではない。鶏と同じではますます気が滅入り、撮影どころではなくなってしまう。

 ひよこは可愛いのに、成長過程のどこで入れ知恵をされたのかは知る由もないが、鶏の面構えは成長とともに醜くなっていくようだ。鶏冠(とさか)の形状や質感、色ともども、ぼくは京都での幼児体験に基づき恐怖さえ覚えるのだ。その幼児体験とは、幼児の時に鶏に突かれ、痛い思いをし、泣き叫んだことだ。それ以来、鶏には恨み骨髄なのである。
 
 老人の特質とされていることのひとつは、周りの迷惑も省みず、用もないのに夜の明けやらぬうちに鶏の雄叫びとともにむっくり起き上がることだそうだ。それが健康に良いと称する説が世に憚っている。そのことに多大な反駁心を抱いている。ぼくはよんどころなく夜明けまであれこれ用事に追われ、これでもけっこう忙しいのである。まだ老人の域には達していないし、そうありたくもない。強がりだけは健在である。

 早朝のラジオ体操に勇んで出かける同輩の謎のような料簡を知りたいくらいだ。ここだけの話だが、ぼくは、心密かにその手合いを蔑んでいる。醜い鶏と何ら変わりはないじゃないか。鶏にくらべれば、一歩足を踏み出す度に首を前につきだす滑稽な鳩のほうがまだいくらかましというものだ。異常な早起き老人は、鳩にさえ追いつかない。

 また意味不明な悪態をついていると思われるだろうが、ともあれ、ぼくにとって早起きはそれほどの苦難の行である。
 余計なことはさて置き(長すぎるじゃないか)、三峯神社は関東有数のパワースポットとのことだ。ぼくには「パワースポット」という言葉がいまいち理解できないのだが、要するに「大地のエネルギーが溢れていて、そこから癒やしや活力が得られる場所」であり、「神社仏閣などの神々が宿るところを訪れることにより御利益が期待できる神聖な場所」なのだそうである。つまり「霊験(れいげん)あらたか」な場所との意味合いにとれる。

 へそ曲がりのぼくなど、神仏の御利益より、「悩み多き人生を歩みつつも、自身の心のありようと立ち居振る舞いが先だろう」といってみたくもなる。また霊感については、「ある程度は存在するのだろうが、それよりやはり心のありようが先立つのではないか」との考えを譲る気はない。
 したがって、世にいわれる「パワースポットなるものには、まったく関心もなければ、無信心のぼくには無関係のもの」と割り切っている。

 ただ、霊感を「ひらめき」や「示唆」と捉えるのであれば、創造に無関係とはいえない。特に、芸術や科学の面で、自身の力だけでは補えられぬものや成し得ない目に見えぬ「教え」が、多分に含まれていると考えている。平たくいえば、美に対する「感応」や「憧憬」が、作品をさらなる高みに誘導・鼓吹することは往々にしてあることだ。
 本物の美を宿す作品や優れた文学は、写真にも大きな影響を与え、ぼくの些細な人生も、それらに励まされ、また学ばせてもらっている。その「学び」が結実するように、ファインダーを覗きながら「このように写ってくれ」と願を掛け、お百度を踏み、五体投地までし、シャッターを押している。聞くも涙語るも涙の物語だが、どうやら邪念と卑しさがあるようで、なかなか思うに任せない。不信心者のぼくは、利生(りしょう。仏神が人々を救済し、悟りに導くこと)を受けられずにいる。

 三峯神社の写真の多くをネットなどで拝見するが、ぼくの目にはあまりにもあっけらかんとしており、神社特有の霊気や荘厳さのようなものが感じられずにいる。ぼくの感覚が偏屈であり過ぎるのか、あるいは自己主張が強すぎるのか分からないが、良し悪し、好き嫌いは別としても、ぼくの写真は、少なくとも万人受けのする写真ではないと自覚している。長年、コマーシャル写真を撮ってきたその反動のようなものかも知れないが、私的な写真は、「ぼくがぼくであるための写真」なのだから仕方がない。
 故郷の京都で、神社仏閣を不断の遊びの場としてきた抹香臭い子供の成れの果てである。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
埼玉県秩父市三峯神社。

★「01三峯神社」随神門
明治時代の神仏分離令により、仁王像が撤去され、随神門となった。
絞りf9.0、1/40秒、ISO 500、露出補正-2.67。
★「02三峯神社」随神門をくぐり、拝殿にむかう参道。
絞りf6.3、1/40秒、ISO 800、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2023/11/10(金)
第666回:秩父市三峯神社(1)
 先週の11月3日金曜日は、文化の日なのだそうでお休みをいただいた。休載の合間を縫って、ぼくは雨中の撮影(とくに神社仏閣)に期待を寄せ、出かけるつもりでいた。雨を待ち望んでいたのだが、夜中にたった一度、雨の心地良い音が開け放った窓からこれ見よがしに聞こえただけで、明け方には既ににっくき晴天となり、ぼくの楽しみは失せてしまった。
 その後、連日天気予報と睨めっこをしていたのだが、関東特有の味も素っ気もないあっけらかんとした空模様に、すっかり気が沈んだ。一点の雲りもなく、晴れ上がった無表情の空というのは、写真屋にとってひどく気が滅入る。

 雨中での神社仏閣のモノクロイメージがすっかり構築されていただけに、この2週間の “屈託のない” 空模様には落胆の日々を過ごさざるを得なかった。罪深く、のっぺりとした可愛げのない関東の空にはうんざりといったところだ。 “屈託のない” という形容詞的な言葉は、ぼくのように “屈託のある” 人間にとって、ホンに忌々しい限りだ。

 石川県は金沢在住の我が倶楽部のご婦人は、目まぐるしく変化する彼の地の天候を、ここを先途と、嫌がらせの気迫を持って事細かく知らせてくる。大きなお世話というものだ。雪ダルマのような彼女曰く「今日は朝から、雨、あられ、曇り、晴、ひょうと満艦飾のようであり、天気が左様に目まぐるしく変わるのよね。近々雪だわ。美味しい蟹もそろそろ出番だしぃ」。
 「やっかましいわ!」というぼくの怨嗟の声を嬉々として聞いてやろうとの魂胆が見え見えなのである。
 ぼくに何か恨みごとでもあるかのように、斯様に雪ダルマは底意地が悪い。「見てやがれ」と、心中穏やかでないぼくは、いつどのような形で仇を討ってやろうかと、開けっぴろげの、野放図な空の下、思案の日々を送らなければならなかった。機を見て、心胆寒からしめてやるわ。

 北陸の、冬の鉛空を何度も体験しているので、ぼくは衷心より冬の北陸を羨む。彼女に、「荒波の、鉛色の、あのフォトジェニックな風景を、上手く写真に収めなさいよ。寒いなどと四の五のいっている場合じゃないぞ。写真は身を粉(こ)にしてナンボだぞ」というのが、今のぼくにできる精一杯の悪態なのである。

 だが、心優しいぼくは愛弟子である彼女に、福井県越前市にある「大瀧神社」(正式名、紙祖神 岡太神社・大瀧神社。本殿と拝殿は国の重要文化財)に、ロケハンに行ってこいと命じるつもりでいる。
 ぼくはまだ行ったことがないのだが、金沢からであれば1時間余で行ける。ぼくも来春、雪の消え去った頃、美味なる越前蕎麦を流し込みながら行こうと思っている。この神社は、やはりモノクロ仕立てで、曇天もしくは雨降りが理想であり、ぼくの妄想によれば直射光だけは御免蒙りたい被写体である。時間をかければ、良い写真が撮れそうなひしとした予感ありといったところだ。

 目鼻のないのっぺらぼうな天気に業を煮やし、ぼくは半ば自棄クソで、秩父市にある三峯神社に行ってみることにした。最近、友人や息子が出かけ、その話を聞いていたこともあってか、ならばおいらも行ってみるべぇという気になったのである。撮影に飢えていたことも大きな要因だったように思う。
 実は、30数年前に、仕事(雑誌とポスター)で二度訪れたことがあるのだが、三峯神社の残像はほとんどが風化し、水洗の不十分な印画紙のように画像はすっかりかき消えていた。仕事写真なので、神社のあれこれに感じ入っている間がなかったということもあろうが、残像の消失は、さほど感銘を受けたということでもなかったからだろうと思う。

 我が家からは、関越自動車道を通り、約3時間で三峯神社に到着した。紅葉の季節でありながらも、ウィークデイだったため駐車場は空いており、人出も思いのほかまばらだった。小さなカメラバッグをたすき掛けにし、今や健脚とはいえない頼りない歩調で階段を登った。それだけで息が上がった。標高1,100mというのは、確かに空気が薄いような気がした。

 全国的にも珍しい三ツ鳥居(「01」写真)の修繕工事が終了したばかりで、先ずそれを収めることにした。あにはからんや、立ち位置とレンズの焦点距離の塩梅、アングルの決定に、早撮りのぼくは、ない頭をフル回転させずにはいられなかった。どうすれば、より立体的に、曇天下の三ツ鳥居を浮かび上がらせることができるかに注力。たかが鳥居ではないかと自身を一喝しつつ、俳句の季語の如く、色鮮やかな紅葉の配置にも心を割いた。木々や狛犬ならぬ狼の彫像の位置(重なり具合)も、難しい。あちらを立てればこちらが立たず、という具合である。

 三峯神社は、色取り取りの彫刻がなされていて、日光東照宮同様、本来ぼくの好みではなく、彩色の施されていない神楽殿に目が向いたのだが、この神社では決して好待遇を受けているとはいい難く、だがぼくはこちらのほうに目を奪われた。
 けれど、三峯神社でのモノクロ写真は諦めざるを得ず、次回からその彩色ぶりのカラー写真を少しばかり掲載させていただくことになりそうだが、ぼくは色具合のほどを思案すると、今から頭が痛い。

 先程、折しも北陸雪ダルマからの緊急連絡が入り、「愛用レンズのオートフォーカスが壊れてしまった。どうしよう」と泣きが入った。「マニュアルフォーカスで撮ったらええやろ。それ見たことか」とぼくは何とか溜飲を下げたのだった。彼女は悪態の報いを受け、ぼくは関東の空のように、今晴れ晴れとした心境である。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
埼玉県秩父市三峯神社。

★「01三峯神社」三ツ鳥居
絞りf9.0、1/50秒、ISO 2500、露出補正-1.67。
★「02三峯神社」神楽殿
絞りf5.6、1/60秒、ISO 400、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2023/10/27(金)
第665回:写真に手を加える(2)最終回
 この題目について自ら思うところを余すことなく、そして心置きなく記そうとすれば、おそらく最後まで目を通す読者などいないことは明らかであり、ぼくとてどの程度まで自身の言い分を理性的に抑制するか、その “ほど” を考えると、まことに頭の痛いところだ。言いたいことを加減し、年相応に我慢することほど、ぼくにとって苦いことはない。
 
 この題目は、「勝手気まま」とか「放埒」であることに何の呵責も覚えないぼくのような質の人間にとっては、忍従と頭脳の明晰さを求められるものだ。そして、生のままに振る舞おうとすれば、明晰さに欠けるぼくなど、「多岐亡羊の嘆」(たきぼうようのたん)となることは目に見えている。述べたいことが多すぎて、どこから手を付け、どのように収拾を図り、決着をつけるかを見失い、とどのつまり路頭に迷うことは明らかである。
 「写真に手を加える」というのは、だがしかし、写真の好事家にとって極めて重要な課題でもあるので、無理を承知で述べてみたい。

 何故、1枚の写真を何時間も、時には何日もかけて、お気に入りの写真に仕上げようとするのか? 「写真好きを自認する人たち」の何%くらいが、お仕着せの画像ソフト(無料のものやカメラ内蔵プリセットやそれに類するものなど)ではなく、暗室道具として優れた機能を有したものを使用しているのか、ぼくには皆目見当がつかないのだが、おそらく1割にも満たないのではないだろうかと推察する。欲目というか大目に見積もっても1割強といったところか? どなたか、統計的な数字をご存じであれば教えていただきたい。
 世界的に名を知られる画像ソフト、たとえばAdobe社の Photoshop (ぼくの主要ソフトのひとつ)なども、やはり使用者は限られているのだろう。

 何故暗室作業を必要とするかは過去、婉曲的に、もしくは直接的に、何度か触れた。大切なことなのでもう一度大雑把に記しておこう。

 被写体を発見し、それを写真に収めようとする時、撮影者には感動する何かが生じたからであろう。それが、撮影の動機となる。その感動が、撮ったままの写真と合致しているのであれば、つまりそこに齟齬がなければ、面倒もなく、煩うこともなく、仕合わせ一杯なのだが、記念・記録写真でない限り、なかなかそうはいかない。
 撮ったままの写真が、描いたイメージそのものであれば、暗室作業を必要とせず、そんな良いことはない。だがそれは奇跡に近い。少なくとも、ぼくは、65年の写真生活のうち、小学校時代を除いて、一度たりとも撮りっぱなしの写真で満足のいくものはなかった。懇意にしていた写真屋の大将に、いつも無理難題の注文を押しつけたものだ。この大将は、優れた暗室技術を誇っていた。もちろん当時はモノクロだったが、彼の焼く印画はどこか艶っぽかった。

 だが、ぼくばかりでなく、写真に一途な愛好家は、年齢に関わらず写真の奥深さを知るにつれ、描くイメージと洞察が豊かになり、撮ったままの写真は、心に描いた幻影や心象にくらべ訴求力が弱いことに気づき始める。物足りなさを感じるのである。
 繰り返すが、被写体に向き合った時、心に描いた情景・心象・印象・情感、延いては人生観や死生観などを表現しようとした時、素の写真は、映像としての再現力がどうしても弱いことに気づく。そして、撮った写真の質を暗室作業で上げることはできないという事実をも、同時に知ることになる。
 暗室作業にどれほど長けても、写真の質そのものを上げることはできないということだ。いくら料理の腕が良くても、食材の質を上げられるわけではない。写真の質は、シャッターを押した瞬間に決定される。この冷厳たる事実に、真面目で気の弱いぼくのような愛好家は打ちのめされてしまうのだ。

 暗室作業は、良い素材を、如何に美味しい料理に仕上げるかに似ている。写真は、素材と料理の腕前、その両輪あってこその創造物であり、自己表現でもある。
 このことは、前号で述べた「画像ソフトを駆使しても、元(原画)が駄目なものは、いくら補整をしても格好がつかない」と同義である。

 名人でも達人でもないぼくは、写真に託した夢を得る(描く)ために、フィルムであれ、デジタルであれ、暗室作業やむなしということになる。
 前号で、「ぼくは、補整はするが、加工は良しとしない」旨述べた。ぼくにとって「補整」とは、基本的に、明度(シャドウやハイライトの調整を含む)、コントラスト、色相・彩度、明瞭度の調整であり、画像に、本来そこにない何かを付け足したり、削除したりすることはしない。ぼくはそれを「加工」と呼ぶことにしている。他人が加工を施すことに対して拒否はしないが、それは分野が異なる(他のアート)のではないかと、写真旧人のぼくは捉えている

 個人の創作のあり方について、事細かに茶々を入れるようなことは慎むべきだが、結果オーライは、創作の世界にあるはずのないことだ。偶然に良い写真が撮れるなどということは決してないと常に断言している。
 そして、「加工」を施さなくてはならない時点で、既にそれはぼくにとって失敗作だと、自身への戒めを込め、そのように考えることにしている。ぼくは、歩みはのろくとも地道な信念を大切にしたい。「うさぎよりかめのほうが早い」とは、昔からの習わしである。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F1.8 Macro IS STM 。RF50mm F1.8 STM。
茨城県結城市。

★「01結城市」
店先の土間に置かれた自転車をガラス越しに。観葉植物の見え方と自転車の色に気を配って。
絞りf10.0、1/25秒、ISO 400、露出補正-1.00。
★「02結城市」
布地の大きな鯉のぼりが、窓ガラスに貼り付けてあった。
絞りf8.0、1/50秒、ISO 400、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2023/10/20(金)
第664回:写真に手を加える(1)
 雨の似合いそうな神社を静岡県内に見つけ、撮影は、機を見て敏なりと勇んでいたのだが、生憎その機に恵まれず、なかなか遂げることができないでいる。その神社を、雨の降りしきるなか、モノクロ写真のイメージを描き、忠実(まめ)やかながらに、ぼくの頭のなかですっかりでき上がっているのだが、ホンに人生と天気はままならない。

 描いたイメージを一丁前の写真に仕上げるには、相当な技術と感覚が必要なことは重々知るところだが、しっかり撮ることができれば(原画を)、一筋の光明を見出せるのではないかとの期待を寄せていた。よしんばそれが叶わなくても、良い勉強になることは疑う余地がない。
 今は、悪天候を望むばかりだ。「天高く馬肥ゆる秋」(ここでは、この言葉の由来である秋を恐れる意味ではなく、現在の秋の素晴らしさを指す意味で)など嬉しくない。近年、無念ながら「秋の長雨」も縁遠くなったように感じている。

 余談だが、上記の「ホンに」をぼくは抵抗感なく普段から使っているのだが、聞くところによるとそれは京言葉なのだそうだ。意味は、「本当に。まことに。なるほど」であり、ぼくの心情にすっぽりはまっている。
 大辞泉によると、この言葉は、鳥取弁でも、下北弁(青森県下北半島)でもあるらしいのだが、京言葉での解釈は「口ほどに本当でない表現」と、日本語としてかなり厄介な言い回しで表記されている。「辞書がこれでは困るだろう」と、思わず口を衝いて出る。
 九州生まれの父は普段から、「わしゃ、ホンにのさんとよ」が口癖だったが、これは京言葉と九州南部言葉と佐賀弁の混合物なのだろう。ぼくにはこのニュアンスは良く飲み込めるのだが、標準語に訳せといわれれば、なかなか敵うものではない。豊かなニュアンスを持つ方言を、標準語に訳すのは不可能に近いとぼくは感じている。嗚呼、本題からどんどん外れていく。

 前号と前々号に登場してもらった「大谷資料館」に於けるご婦人のひとりは、我が倶楽部創設以来の大古参メンバーで(つまり写真歴20年)、それ以前はカメラなど持ったこともなく、故に写真もほとんど撮ったことのない人だった。つまり、写真というものにまるきり関心がなかったのである。
 彼女は気が多く、かつて書道をはじめ、絵画、料理、生け花、英会話教室にも通う、どちらかというと節操に欠けるきらいがあった。しかし、書道以外はどれも長続きせず、写真も斯くやあらんとぼくは思っていた。彼女が20年間、熱心な振りをしながらも、写真を捨て切れずにいたのは、きっと指導者もどきに徳があったからに違いない。そして、月例会後に欠かさず催される飲み会のためだと思われる。「花より団子」を地で行くような人だ。

 倶楽部に参入するまでの彼女は、写真は撮ったままで、手を加えてはいけないと思い込んでいた。古今東西の名作といわれるものは、すべて撮ったままのものと信じていたのだそうだ。素のものが、畢竟写真であると、知らずのうちに洗脳されていたのである。そのように思う人も世の中に多いのではないかと思う。
 ぼくは彼女に、「カメラで記録され、手を加えられていないものだけが即ち写真であるとするのであれば、モノクロ写真をどう解釈する? 世のありとあらゆるものすべてに色がついているのに、それを白と黒で表現するモノクロ写真とは何かということになるよね。
 目で見たものと写真の原画だって著しく異なるでしょ。写真は、見た目通りには写らないものだ。そして、カメラやレンズが異なれば、それぞれに違ったものが撮影者に提供される。写真は、素のままであれ、手を加えたものであれ、あくまで虚構の世界なんだよ。『写真は、真を写さない』のがぼくの持論でもあるしね」と述べた。

 彼女は、ぼくの「ではモノクロ写真は」云々に、「あの説明で、すっかり腑に落ちた」と、20年前を懐かしむように今でも語っている。彼女は写真に手を加えるようになってから、「撮ったままの写真で納得できるものなど、今まで1枚もない」と喝破し、非常な成長を誇らしげにしている。今はぼくの正しい洗脳が功を奏したようだ。結構なこととぼくはほくそ笑んでいる。
 そのことにより、写真表現の幅が広がり、それが被写体の発見や観察眼にも大きく寄与し、彼女の写真は良い意味で個性を発揮するようになってきた。そしてこの数年、「画像ソフトを駆使しても、元(原画)が駄目なものは、いくら補整をしても格好がつかない」という段階にまで漕ぎ着けたようだ。ぼくは、ほくそ笑むのを通り越して、「しめしめ」というところだ。先ず、如何に質の良い写真を撮るかに目覚めたことは、大変な収穫である。

 悪役に甘んじている前号に述べた写真歴の長いTさんも(彼は高校時代から天体写真に凝っていた)、倶楽部に来るまでは、「写真はいじってはいけないものと思い込んでいました」と悪びれる様子などさらさらなく、語っていた。ぼくが、「いじっていいんだよ」と伝えた瞬間から、どこかからPhotoshopをちゃっかりかすめ取ってきて(当時バージョン7まで、Photoshopのディスクをコピーし、そこに記載されたシリアルナンバーをパソコンに打ち込めば使用できた)、これ幸いと自分の写真を嬉々としていじり始めた。いじり過ぎと乱暴な仕業(建築家のくせに)により、写真展前のデータ点検で、大変な苦労をしたことを、ぼくもこれ幸いと、ここで公にしておかなければ気が済まない。
 だが彼は、Photoshopを使用して以来、写真を補整することとは切っても切れない間柄になっている。昨今は、オリジナリティに富む作品を生み出している。

 今回記載したことは、あくまで「画像補整」(Photo retouching)についてであり、俗にいうところの「加工」(Photo processing)ではない。この違いは私見としてかなり以前に述べたことがある。
 ぼくは、補整はするが、加工は良しとしない。ファインダーを覗いてみると夾雑物(例えば、電線など削除したいものはあるが)が存在することがままあるが、それも写真の仲間として取り込んでしまおうと、ちょうど良いアングルを探し求めることに腐心する。心意気は見上げたものだが、そういっておきながら、これが難しいんだよねぇ。

※ 今回は同じ写真を、これだけ世界が異なることをお伝えしたいために、モノクロとカラーの双方を同時掲載した。

https://www.amatias.com/bbs/30/664.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF50mm F1.8 STM。
茨城県結城市。

★「01結城市」★「02結城市」
絞りf5.6、1/50秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)