【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

全372件中  新しい記事から  101〜 110件
先頭へ / 前へ / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 / 12 / 13 / 14 / 15 / ...21 / 次へ / 最終へ  

2015/11/06(金)
第272回:1枚の写真のインスピレーション
 「北極圏直下の孤島へ」を連載していた1ヶ月ほど前のこと。ソロフキの存在を知らされた『収容所群島』をもう一度精読しようとページをめくっていた時、ぼくはある写真(掲載写真01)に目が釘付けとなった。過去何度も通り過ぎた作者不明の、80数年前に撮られたその写真にすっかり魅了されたのだった。
 ネガティブな解釈をもってすれば、不完全だらけのその写真を、無頓着に通過してしまったのは明らかにぼくの落ち度なのだが、反対に我田引水・自画自賛をもってすれば、それは日々の成長の証と取ることもできる。取り敢えずぼくは後者を選択しておく。
 以前見過ごしていたものを、時間の経過とともに、ぼくは自然の摂理に従い年老いつつあるけれど、余生を惜しむようにさらに成長著しく、新たなるものを発見できたことの歓びと刺激はやはりとても大きい。落ち度と成長の両方を素直に認めることにしよう。

 何故今さらながらにその写真に心を奪われてしまったのか? それを見ながらぼくは、「写真ってこれでいいんだよね」と自分を諭すように何度もつぶやいた。その思いは、現代の病に冒されていることの自覚に他ならぬことだったのではないか。
 以前に述べた記憶があるが、ぼくは自己の問題として、昨今のデジタルの「写りすぎ」にどうにも我慢がならないでいる。写真科学の一面を取り上げれば、解像度というものは人間の写真的欲求を満たす一手段であるがゆえに、「より微細に、より明確に描写する」ことを、写真が発明された当時から今日まで人々は願ってきた。技術者は一途にそれを追及し、愛好家は喜びながら従ってきた。現在に至るも双方がその手を緩めることを知らない。
 このことは科学的進化の必然の成せる業として、それ自体をぼくは否定するものではなく、むしろそれどころか実際に甘受してきたといえるが、ユーザーは自身の節度を良識に従ってどこかに量定すべきではないだろうかと、ぼくは世の愛好家たちに投げかけてみたいのだ。

 技術は磨きをかけながら進化し続け、その恩恵を授かる人間の精神的資質は同時進行とはいかず、常に後手に回るのは仕方のないことだが、もてあそばれることには警戒怠りなくということだ。ぼくは不覚ながらも、もてあそばれてきたという自覚が生じたので、「デジタルは写りすぎなんだってば!」と、ぐちぐち文句をいっている。
 い草で編まれた馥郁(ふくいく。よい香りのただようさま。大辞林)たる畳を感じ取る感覚が最優先されるべきことで、編み目の勘定に精を出し、それをありがたがるのはお門違いだとぼくはいいたいのである。

 技術開発者の言を待てば、おそらくぼくの考えに異論のあることは重々に理解できる。そしてまた、愛好の同志たちからも、「では、そんなものを使わなければいいじゃないか」と乱暴かつ安易に揶揄されることもあるだろう。
 今はなき過去に完成された良きものと現代の技術を駆使した機器との、決して容易ならぬ併存を探し求めるのが、現代に生きる者の理想なのではあるまいか。ぼくはその信条に従いたいのである。「温故知新」とは微妙に意味合いが異なるのだが、現代のデジタル技術でなんとかそのような表現ができないものだろうかと、苦心惨憺してみようと思っている。
 
 掲載写真「01白海運河」は、白海運河での冬季作業を撮った貴重な写真である。スターリンが発動した社会主義国家建設のための5カ年計画の一環は、1931-33年のたった20ヶ月間で、227kmの花崗岩大地を結果としてほとんど手作業だけで掘り進んだのである。作業は苛酷で残虐を極め、膨大な人命が失われた。

 この写真に、どのようなカメラとレンズ、フィルムが使用されたかはまったく分からない。また、現像処理方法も分からない。この写真は書籍での印刷のもので、実際のプリント、もしくはネガフィルムをぼくが見たわけでもない。撮影機材や処理上の不備のすべてをこの印刷(印刷特有の網点もあるので)から読み解こうとする試みは極めて無謀ではあるが、しかし、自分の多くの写真が印刷になっているぼくの経験から推察すれば、この写真はかなり不完全な処理が施されているのだと思う。ネガも傷だらけである。

 長年アナログの暗室処理に携わってきたぼくにとって、この写真のトーンや解像の曖昧さは確かに“身に覚えのある”ものだった。この“身に覚え”にぼくは強く引き込まれ、ちょっと打ちのめされてしまったのである。忘れかけていた美しいものに覚醒させられたのだ。
 それは郷愁や懐古への憧れではなく、現在のデジタルが失ってしまったものであり、写真表現として必要にして十分なものが、あるいは写真としての幽玄の美が確かに存在していると思えたのだ。穿った言い方をするのであれば、それは「不完全なものの統一が成せる一種の整合美」のようなものだ。不備・不堪なものが堆積したその隙間から、忘れかけていた落とし物がひょっこり顔を出したに似ている。
 デジタルの写りすぎを打ち消しながらも、写真古来の美しさを失うことなく、その様がここに見事に具現されているではないかと、ぼくは恐悦した。
 デジタルでどのようなアルゴリズムを用いればこのような描写ができるのか、門外漢のぼくには皆目見当がつかないが、このイメージを心に刻んでおけばそれでいい。しばらくの間は、それを拠り所に暗室作業のあれこれを試してみようと思っている。

 掲載写真「02ポカラの子供たち」は、カラーポジフィルムで撮影したものだが、この写真は撮影時からモノクロをイメージしたものだった。しかし、何度モノクロ変換を試みても、どうしても上手くいかずとっくに諦めていたのだが、白海の写真のトーンにインスピレーションを得て、何とか意図したものに近づくことができた。「怪我の功名」ではなく、何というんですかね? 「瓢箪から駒」? 潰すところは潰し、飛ばすところは飛ばして「何が悪い!」って開き直った結果である。年老いて、これからも強く、逞しく開き直ってまいります!

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/272.html

★「01 白海運河」。
ソルジェニーツィン著『収容所群島』第3巻第3章 「群島は癌腫を転移さす」より。

★「02 ポカラの子供たち」。
撮影データ:カメラ:ライカM4、レンズ:ズミルックス35mm F1.4。フィルム:コダック・エクタクローム64。ISO 64。

(文:亀山哲郎)

2015/10/30(金)
第271回:荒川区三河島(3)
 はじめに「写真よもやま話」に相応しく、レンズの焦点距離についてもう一度お復習いをしておこう。大切なことは何度繰り返しても、過ぎるということはないと、ぼくはうちの倶楽部の人たちから学び取った。そして常々彼らの「馬の耳に念仏」を痛感させられている。言葉を変えれば、「糠に釘」とか「のれんに腕押し」とか「馬耳東風」ともいいますなぁ。ともあれ、ぼくはあの手合いを憂い、お嘆きなのだ。
 念のために「糠に釘」を辞書で引いてみると、「手ごたえなく効目のないことのたとえ。意見しても効果のないことなどにいう」(広辞苑)。「馬耳東風」とは、「(春風が吹くと人は喜ぶが馬は何の感動も示さない)人の意見や批評などを、心に留めずに聞き流すこと」(同)とある。なるほど、李白はうまいことをいったものだ。

 前回のレポートでお伝えしたように、三河島再訪時、ぼくは焦点距離16〜35mmの広角ズームをカメラに取り付け、すべての写真をそれ1本で賄った。撮影の多くを16mm固定で使用していたので、被写体を前に迷うことなく立ち位置が定まり、「写真はザックリ撮ればいいのさ」を念頭に2時間を心地よく過ごすことができた。撮影枚数は160枚。多くもなく、少なくもなくといったところか。
 ファインダーを覗いて画角にズレが生じた場合には、ズームをジコジコさせて調整するのではなく、自分の立ち位置を変えるのが(単レンズと同様の使い方)ぼくの流儀。ぼくは気弱な質なので、自分の流儀を他人に押しつけることはほとんどしないのだが、自分はボーッと突っ立ったままズームで押したり引いたりしながら、なんとかしようとの料簡だけは気に染まない。足を使えってば! そんなことをしている限り、大切な写真のフットワークは育たない。写真ばかりでなく、何事にもそれに相応しいフットワークというか順応した足さばきや身のこなしってもんがあるでしょう! 茶道の立ち居振る舞いという日本古来の素晴らしい美の様式があるではないか! と、わたくしは並み居る馬の耳に向けて叫ぶのであります。

 焦点距離が連続可変であるズームレンズの使い方は個人によってそれぞれに異なるのだろうが、ぼくは被写体を発見した時、「これは16mm(20mm 、24mm、 28mm、35mm)」と決め、あらかじめ焦点距離を固定する。ぼくにとって大切なことは画角も然ることながら、遠近感を優先するので、決してズーミング(ジコジコ)で調整する方法を採らない。その理由は、より素早くシャッターを切りたいからだ。ファインダーを覗いて瞬時にシャッターを切るのが理想だが、いつもそのようにいくわけではない。あれこれ考えているうちに、感動やイメージのすべてが薄まり、やがて逃げ去ってしまうという恐怖がぼくにはある。もたもたしていると、静物撮影に於いても「出遅れ」を感じ取ることが多い。そんな時の写真は大方出来がよろしくない。
 「鉄は熱いうちに打て」に倣えば、「写真は熱いうちに撮れ」ということだ。
 誤解を招かぬように補足するなら、それは「被写体をよく観察したのち」という条件付きである。その経過をたどっていない写真があまりにも多いのではないかとぼくは感じている。写真評をする時に、「被写体を見る前に、あなたはシャッターを切ってしまったね」とぼくはよくいう。自戒を込めて。

 広角レンズ(焦点距離が、標準とされる50mmより短いもの)は、焦点距離が短くなればなるほど、手前のものをより大きく、遠方のものはより小さく描写する性質を持っている。短くなればなるほど、遠近感(パース)が強くなるのがレンズ光学に従った理屈である。ここが肉眼とは決定的に異なる現象なので、レンズの持つ遠近感を身につけることが大切。
 では焦点距離が異なると写真にどのような違いを生じるかは、「第21回:風景を撮る(10)」の掲載写真をご参照いただければと思う。
 文中、「焦点距離の異なるレンズを使い分けるということは、つまり主人公の背景にどんな役割を演じさせるかということなのです。音楽で言えば主旋律を奏でる楽器があり、他の楽器はどのような和音や旋律を歌い、より主旋律を引き立たせるかということと同じなのです」と、ぼくにしては簡便に述べている。

 三河島を歩きながら気づいたことのひとつは、我が家の周辺ではすっかり姿を消してしまった銭湯が意外に多く存続していることだった。2時間、同じ所を行ったり来たりしながら、4軒もの銭湯を発見し、すべてが営業中だったことに驚いた。ぼくは拍手こそしなかったが、惜しみなくその健闘を称えた。
 このことはつまり、地域のコミュニティが健全に、かつ濃密に営まれていることの証なのではあるまいか。隣近所の人たちが心身ともに裸のつき合いをしているその象徴としての公衆浴場の存在は、現代社会から失われつつある人間関係のぬくもりの残照といっても大袈裟ではないだろう。都内にあって、ここは素敵な下町情緒を醸していた。お隣さんと、昔の長屋のように醤油や味噌の貸し借りをするのか聞いておけばよかったと思っている。

 子供の頃に通った銭湯での情景が、ディフューズフィルタをかけたように拡散し、まさに湯けむりのなかから湧き上がってきた。銭湯の情景は日本人の心に染みついた原風景のひとつだ。
 今回は果たせなかったが、次回機を見て、撮影後の銭湯侵入作戦など試みようと思っている。温泉も結構だが、銭湯の乙なぬくもりにはやはり敵わないであろう。そしてまたここは古くからのコリアンタウンでもあり、焼肉屋や中華店も多く、安くて美味そうなものにありつけるかも知れない。ビール片手に、それも一興であろう。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/271.html

★「01 銭湯」。
銭湯の裏手に回り、引きの取れぬ路地にかがみ込んで。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf8.0、1/125秒。露出補正-0.33。ISO100。

★「02 木造家屋」。このような様式の木造家屋が何軒かあった。なかはどのような造りになっているのだろうか? 前号掲載の05写真も同じような造りだ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf6.3、1/60秒。露出補正-0.33。ISO200。

★「03 捨てられた旅行カバン」。なぜか路地の真ん中に旅行カバンが。住民に聞くと、「ここは車も通れないし、ゴミとして捨ててあるんでしょう」と、一切気にしないという口振りだった。窓ガラスに反射した夕陽がスポットライトのようにカバンを照らし出す。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf7.1、1/200秒。露出補正-2.33。ISO200。

★「04 広場」。路地から顔を出すと小さな広場に出た。とっさにピンホールカメラを思い出し、それをイメージ。こんなに鮮明には写らないのだが、あくまでそのイメージで暗室作業を。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf7.1、1/60秒。露出補正-1.33。ISO200。

★「05 赤い中華料理店」。真っ赤なペンキで塗られた共産主義的な料理店。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/80秒。露出補正-0.33。ISO250。

★「06 女子中学生」。踏切で遊ぶ女子中学生。この年代の少女は何をしても愉しく、面白いのでしょうかね? 見習わなくてはいけませんね。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/60秒。露出補正-1。ISO200。

★「07 駅」。帰路、三河島駅のエスカレーターで。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf4.0、1/20秒。露出補正-1。ISO200。

(文:亀山哲郎)

2015/10/23(金)
第270回:荒川区三河島(2)
 三河島第1回目の訪問で見事返り討ちに遭ったぼくは、その原因追及に余念がなかった。生まれてこのかた、“競争”というものをまったく意に介さず生きてきたぼくではあるけれど、自分の写真に関してだけはえらく勝ち気な面がある。それは“負けず嫌い”なのではなく、つまり“利かん気”というものなのだ。
 双方とも自己の発展や啓発に、心がけ次第では建設的な役割を果たすことができるが、“利かん気”はより内向的な性格を帯びているとぼくは捉えている。外に向けて“返り討ち”の悔しさを発散することなく、至らず事の応報は自己のなかにどんどん沈んでいく。“負けず嫌い”ではないので、いわゆる嫉妬や羨望には縁遠いが、ぼくの“利かん気”は自己が如何に自己らしくあるのかを厳しく問うてくるから厄介だ。心がけが芳しくないだけに、難題である。

 ぼくが常に主張する良い写真の条件のひとつは、「あなたらしい写真」なのであって、そのことはつまり、「作者の顔や佇まいがうかがえる写真」ということでもある。ぼくはそのような作品を、たとえ技術上の不備が見られたとしても、貴ぶべきものとして高く評価している。そんな写真を撮る人は、概ね“利かん気”の持ち主である。しかし、なかには稀に「煮ても焼いても食えない」と思わせるような人がいるから摩訶不思議だ。ぼくの考えも揺らいでくる。
 文脈の流れに従っていうのであれば、あなたにしか撮れない写真が必ずあるのだから、その発見に勤しんで欲しいということである。「誰にでも撮れる写真」や「どこにでも見かけるような写真」を、「類似品」や「既製品」と見なし、飽き飽きしながら、遠ざける意識を持って欲しいと、拙稿の読者諸賢には切に訴えたい。そのような作品は鑑賞に値しないのだから。
 ただ、上記したことを志そうと意識するあまり、「唯我独尊」とか「独りよがり」なものになってしまっては元も子もなくなる、と自戒を込めながらいっておこう。

 このような蘊蓄(うんちく)を垂れてしまうと、写真を掲載する手前、どうにも決まりが悪いのだが、言ってしまった以上は体裁を整えようなどと、はしたなくも考えてはいけない。好きな写真で飯を食おうなんてことは、面の皮がよほど厚いのだから、写真屋はそれ相応の覚悟を持っているはずだ。

 9月30日、2度目の三河島で驚いたことは、初訪問時に比べ住民が賑わっていたことである。これは大きな変化だった。路地裏で、軒先で、玄関先で、あるいは往来のど真ん中で、世間話に専心没入、誰憚ることなく我が世の春を謳歌する誠なるおばちゃんたちの姿が群れとなってぼくを襲い、そして精神的な視界を奪い去ったのだった。勝ち気なおばちゃんたちは立ち話に生き甲斐を得、霊験あらたかと生き生きしている。
 いつの時代も、何処でも、おばちゃんたちというのは、一挙手一投足に神経が行き届き、また一方で力まかせでもあり、とにかく力が全身にみなぎっている。健気に生きることの基本的な資質を彼女たちは終生保ち続けていくのだろう。男にはない見事な業という他ない。
 ここは老若男女がほどよく入り混じった濃厚な地域社会が存続しており、下町三河島の面目躍如といったところである。よき昭和にタイムスリップしたような、活き活きとした不思議な風情があった。

 1度目の訪問(前回)は残暑厳しい9月2日だったので、犬も猫も人も完全にうだっており、すべてにやる気が失せていたのだろう。パワフルな、さすがのおばちゃんたちもすっかりなりを潜め冬眠中だったのである。
 そんな場所で、カメラを手にした白髪ジジィ1人だけが、バンダナを巻いてやけに力み返っていたのだ。従って、路地裏を徘徊しながら最も敏感に感じ取ったものは、実はほのかに漂うネズミと猫の小便臭だった。含蓄に富むこの懐かしい香りが、ぼくをしてノスタルジックな世界に迷い込ませたのではなかったか?
 今これを書きながら、ぼくの失敗はここに起因するのではなかろうかと気づき始めた。レンズの焦点距離も然るものながら、情緒的な面に引きずられたのがいけなかったのだとぼくは悟り始めた。小便臭が情趣豊かなものであるかはさておき、あのリアリズム漂うおばちゃんたちの所作に、ぼくはあの地で覚醒させられたような気がする。

 今回掲載する写真は、焦点距離が16-35mmの広角ズームを使用したものだが、Rawデータのメタデータを見るとすべて16mm固定で使用している。ファインダーを覗きながらズームレンズをジコジコ動かすのは禁じ手としているので、ぼくは自分のその流儀を踏襲している。それはズーム使用の掟のようなものだ。
 口を酸っぱくして、「ズームを使用しての、多少の微調整は許可するが、立ち位置も定まらぬうちから、ズームでジコジコするんじゃな〜い!」と、うちの倶楽部の人たちに申し伝えている。それに頼っているうちは、パースも画角も身につかず、レンズの使いこなしなどとても覚束ないからだ。
 しかし、うちの人たちは指導者もどきのぼくの言うことを聞かない。ホントに聞き分けのない、“聞かん気”の人たちである。それでいて「かめさんのいう『まずイメージすることから始める』が、どうしてもよく理解できない」と、嘆いてみせる。
 自由剥奪の憂き目に遭って、人は初めて自由のありがたさを知るというから、近々ズームレンズを刀狩りのごとく召し捕って、質屋に放り込んでやろうと思っている。ここが勝ち気の見せどころでもあるのだ。 

 16mmとはちょっとエキセントリックな焦点距離(超広角)とも思えるが、前回使用した35mmレンズの倍以上の画角は、視野がやたらだだっ広いので、いろいろなものが写り込んでくる。何をどう省略するかに神経を費やさねばならず、そのことはつまり被写体をよく観察することにつながる。立ち位置やカメラの高さなどにも慎重を期さねばならない。
 とはいえ、ここはリアリズム溢れるおばちゃんたちの作法にあやかって、ぼくは今回無意識のうちに「写真はザックリ撮ればいいのさ」とうそぶきながら、どこか古式なこの街を歩き始めた。
 気温も湿度も下がったせいなのか、ネズミと猫のあの香りも利かん気のぼくの鼻先から召し捕られたように思われた。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/270.html

★「01 常磐線高架下」。
他愛のない光景だが、ぼくは自転車のある風景が好き。どこかに人間の姿が見えるからだろう。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf6.3、1/125秒。露出補正-0.67。ISO400。

★「02 回覧を持って走るおばさん」。今回は前回と異なり人物の往来があったので、人物スナップが多くなったが、個人を特定しづらい写真のみ掲載。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/100秒。露出補正ノーマル。ISO200。

★「03 和服のおばさま」。祭りでもないのに、なぜか和服を着たおばさまに多く出会った。和服を脱げば、リアリズムの世界に帰るのだろう。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/160秒。露出補正-0.33。ISO200。

★「04 路地」。階段のある路地がいくつかあり、昔ながらの風情を醸している。角に建つこの木造家屋は築何年くらいだろうか?
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf6.3、1/60秒。露出補正-0.33。ISO200。

★「05 空き地」。住宅密集地に突如出現した空き地。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/100秒。露出補正-0.33。ISO100。

(文:亀山哲郎)

2015/10/16(金)
第269回:荒川区三河島(1)
 重い腰を上げ、やっとのことで三河島(東京都荒川区)に行った。ぼくが三河島のイメージをどのように描いていたかは拙稿「第240回:妄想のはざまで」ですでに述べたが、我が家から電車に乗って40分で行ける三河島は、1万km彼方にあるソロフキより心理的な障壁が高かった。

 第240回に、
 「撮影に赴く前に、まずイメージの構築をする。描いたイメージを、今度は現地で取り崩していく。この作業が上手くできれば、写る」と書いた。
 ぼくの経験では、イメージと現実の双方を現場で沈着に見つめ直し、その分離作業がほどよくできれば上手くいく場合が多いということだ。そのことはすなわち、情に引きずられることなく、現実を素直に受け入れることに通じる。
 イメージに即したものを現場で発見しようと躍起になる必要もない。

 遠方のソロフキはぼくの生まれ育った文化や環境とはまったく異質のものなので、たとえ描いたイメージと現実とに甚だしき齟齬が生じても逃げ道がいくらでも見つかる。異文化に於けるその隔たりは、容易に受容できる要素と下地が誰にでもあるものだ。然るに、イメージと異なっても存分に言い訳が立つので、腐る必要はない。あたふたすることなく済むので、外国はかえって気が楽だ。
 それに比べ三河島は自己の幼児体験や原風景と重なる部分が多く、つまり同質の文化圏でもあるので、そこでイメージと現実の狭間に揺られながら齟齬を来してしまうと精神のコントロールが危ういものになってしまうのではないかとの恐れがあった。遠くの山崩れ(ソロフキ)は対岸の火事として、非情ながらも他人事(ひとごと)で済むが、隣の山崩れは身に降りかかり、災いとなる。ぼくはその災いが恐かったのだ。

 残暑きびしい9月2日、バンダナを巻き(ぼくの撮影必需品。ファッションではなく、実用としての汗しのぎ。バンダナなどという小洒落たものでなく、粋な日本手ぬぐいがあればぼくにはそれが相応しいのだが)、常磐線三河島駅に降り立った。「取り敢えずの下見」と言い訳をして、気軽に持ち出せるカメラを選んだ。
 愛用のFuji X100Sはすでに現行製品ではないが、広角35mm(35mm換算)の固定焦点(単レンズ)であり、APS-Cサイズながらも軽量で、描写も秀でている。どことなく大仰で、鉄アレイのように重たい一眼レフを人前に晒すのは気が引けるというもので、その点このカメラは小型で取り回しが効き、レンジファインダーにつきスナップには打ってつけだ。
 まず現場の空気に心身と、広角35mmの画角ともども馴染ませることから始めよう。ストラップを右手首に巻き付けてぼくは久しぶりに揚々とした気分だった。暑さもなんのそのである。

 改札を出たところが尾竹橋道りであり、ガード下の風景を撮ろうと思いきやぼくは早速つまずいた。カメラを構えるまでもなく、ぼくはその情景を稲妻より速く諦めた。広角35mmでは焦点距離が長すぎるのだ。画角ばかりでなく、パース(遠近感)も広角とはいえ35mmでは穏やかすぎて物足りず、そして光の明暗比も大きすぎて、魅力的な光景には違いないが、何から何までぼくのイメージ構築の手助けとなるような条件が不足していた。イメージを描くには、さらなる広角ともう少し穏やかな光が欲しい。 
 名手なら何とかするのかも知れないが、焦点距離に合った被写体の渉猟がぼくの流儀だから、ここであれこれ粘っても埒が明かないことは目に見えている。ぼくは潔くガード下のシーンを放棄した。撮影は時空という光速を追うのだから、いつの場合でも「即断即決」が肝要。
 時刻は午後3時30分ちょうどで、刺すような斜光がまぶしかった。

 太陽を背にして尾竹橋道りの向こう側を覗き込むと、100mほど先の常磐線の白い高架壁に一条の斜光が照り返していた。「うん、よかよか」とぼくは気色ばみ、手首に巻いたストラップがブルッと震えた。
 30年以上も前に見た絵画が、ぼくの黄ばんだ記憶帳のなかから、パラパラとページを繰りながら突然飛び出して来た。誰の絵だったか記憶にないが、それは鋭い光の束が壁に写った家屋の陰を引き裂くように描かれており、印象深い絵だった。おぼろげながらも、その色彩の鮮やかさと強いコントラストだけがぼくのまぶたに残存している。ぼくのイメージはその絵画に侵されようとしていた。

 立ち位置を決め、ファインダーを覗いて一撃を試みようとするのだが、何かが違う。何かが間違っているからしっくりこないのである。ファインダーを覗いた途端に、すでにインベーダーとしての絵画は姿を消し、ぼくは正気を取り戻していたにも関わらず、ベタ写真(01写真)を撮ってしまった。その原因と言い訳を今さかんに探しているところだ。何かが足りないだらけの写真。それを敢えて掲載するのもおかしなことだが、「こんな写真を撮ってもしかたないですよ」という見本として。悔しまぎれのやけっぱちというんですかね。

 レンズの焦点距離が合わないのか? 構図に難点があるのか? イメージが貧困なのか? 被写体を面白いと錯覚しただけなのか? 
 すべてが上手くいったとしても、あの絵のように写真はいかない。再訪を期して、わずか1時間の撮影でぼくは早々に引き上げてしまった。

 狭い路地の多いこの一画では、35mmはとても窮屈だった。良い写真が撮れなかったのはそのためだったということにしちゃおう。ぼくのような不器用な人間は、ちょっとでも焦点距離の合わないレンズを使うとからっきしダメな写真屋になってしまうようだ。しかし、下見の甲斐あって、2度目の三河島は超広角レンズと重い一眼レフを手に臨んだ。次回はもう言い訳が立たない。逃げ道が見つからない。でも、「取り敢えず2回目の下見」という手もあるか。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/269.html

★「01 何かの間違え」。
写真ってのは思い通りに写らないものです。
カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf5.6、 1/250秒、 ISO200、
露出補正-0.67。

★「02 アパートの階段」。
古い木造アパートの階段は腐食が進み、3年以内に必ず崩れ落ちると思われる。
カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf5.6、 1/450秒、 ISO200、
露出補正-0.67。

★「03 路地裏」。
多くの路地でつながるこの一画は、ノスタルジーと密集した家屋で特有の味わいがあり、まるで異次元の世界が垣間見られる。
カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf8.0、 1/70秒、 ISO200、
露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2015/10/09(金)
第268回:北極圏直下の孤島へ(26)
 ソロフキ島にやって来て、ぼくは自分の過去56年間の歩みや、それを取り囲んできた世界がどのようなものだったのかを、静かに、そして丹念に顧みようとした。地の果てのようなここソロフキにあって、ぼくは分不相応にも、そのような心事高大な気分に冒されてしまった。まったくぼくらしくない。
 しかし、そんな気を保てたのは訪島1日目だけで、ここの空気を体に染み込ませた2日目からは、ぼくに不似合いな殊勝さをあっさりと放棄してしまった。理由はともかくも、そんなことをしている場合ではないと、不幸にも、賢くもぼくは悟ったのだった。
 そしてまた、気力・体力の温存を図ればすべてを失ってしまうことにも気がついた。「倒れるまで、骨身惜しまず、とにかく行けるところまで行く」というのが、ソロフキでの正しい原初的作法だと思えたからだ。
 “後先を考えずに今を為す”のが我が家の家訓でもあり(ウソです)、ぼくの流儀でもあり(ホントです)、執心でもあるので、ひとかどの理屈は立つ。
 ここでの重要課題は、自分の過去を振り返ることではなく、親父の言葉を引くのなら、「創造は、地に這いつくばって、砂を噛み、血を吐け」ということであり、それは「今を一心不乱に為せ」ということなのだろう。実際に親父は常にそのような後ろ姿をぼくに見せていたので、十分な説得力があった。しかし、このような時に限って、なぜか忌々しくも亡父が立ち現れるのだ。

 「過去を振り返れば悔悟と痛惜の数々」に突き当たり、因って取り戻せるものは取り戻したいともがくのもまた人情だ。けれどたとえ情理を尽くしたとて、失われた時間は永遠に手許には帰ってこないのだから、ソロフキでの流儀作法は、亡父の言葉をもってして究竟(くきょう。極めて都合のよいこと。極めて優れていること。極めて道理にかなっていること)のこととすればいい。

 起床午前6時、就寝午後11時を瀟洒な宿で励行したぼくは、自分でも信じ難いその礼儀!? 正しさによって、写真を撮ることの原初的な意義を初めて感じ取ることができた。「早起きは三文の徳」というが、「三文」どころではない。
 「原初的な意義」をぼく流に換言すれば、「誰にもおもねることなく自分の写真を撮ることの気位」という意味である。この気位は精神を広く解放してくれる。
 気位とは、偏狭な自己愛からではなく、自身に汎愛の情を示すことによる一種の矜恃のようなものだとぼくは解釈している。

 そんなわけで、ソロフキでの8日間は、まったく意を迎えることなく写真に打ち込めた。思うに任せてシャッターを切ることの歓びと解放感は格別のものだった。算用のない気持ちの良さは、創造への真摯な対峙の顕れであり、一度味わうと離れがたく、現実的な貧乏と引き換えに維持可能なことである。誰それの意を迎えることを退け、だからぼくは今貧乏ではあるけれど、「写真をやっていく」気力を保ち続けることができるのだ。
 このことについての実体験を得たことがソロフキでの一番の裨益(ひえき)だったと捉えている。「早寝早起きは百両の徳」をもたらしたのである。

 事はこんな辺境な地でなくとも、多かれ少なかれ旅というものは、個人の情思や存念によって、その期待に応え、それに添ったものを与えてくれるものだ。旅はあなたにさまざまを分け与え、あなたを一端の詩人に仕立て上げてくれる。旅情とはありがたいもので、ぼくもそのような情趣にたくさん与ってきた。ただし、あくまで「一人旅」という条件付きだ。
 「一人旅」は自分発見のためのものであり、「二人以上」は単なる娯楽・遊興である。

 再びソロフキの地を踏むことができるかどうか分からないし、同じような旅ができる体力的な自信もないのだが、再訪する機会が訪れるのであれば、まず親父の亡霊を追い払うことから始めようと思う。そして、応分の機材で今度はモノクロームに徹して「百両の徳」をいただきたいと願っている。
 「取らぬ狸の皮算用」で、ぼくは先月から何度目かの『収容所群島』全6巻の精読を始めたところである。

 ソロフキの締めくくりに、拙写真集『北極圏のアウシュヴィッツ』に寄稿してくださったロシア学の世界的権威であるマーシャル・ゴールドマン博士(Marshall I. Goldman。ハーバード大学特別研究教授。ウェルズリー大学名誉教授))の文の一部を抜粋しておきます。

 「・・・ソロフキ諸島で一体何が行われたについて、文献を読むだけでは理解しがたい面があるが、百聞は一見にしかずで、写真ははるかに強烈な印象を与えている。
 そして、ソロフキ島で起こったことについて誰かが記録に残すということは非常に重要な意味を持つ。ロシアには未だ、ソロフキをはじめとするソビエト全土に於ける強制収容所で行われていたことを決して認めようとしない人びとがいる。それ故に、記録を残しておくことはさらに重要な意味がある。
 この写真集は、そこでの出来事を無視したり否定したりすることができないことを示している。
 私たちにできることは、ただこのような残虐な行為が二度と繰り返されぬように願うことしかない。もし、このような過ちが再び犯されない未来が築かれるのであれば、亀山氏の本作品は、私たちの果たせないでいる責任の一端を果たしていると言えるだろう」。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/268.html

★「01 クレムリン中庭」。
クレムリンの中庭で到着した囚人たちの点呼が毎日行われた。右はプレオブラジェンスキー大聖堂。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/250秒、 ISO100、
露出補正ノーマル。

★「02 歴代司祭の墓地」。
クレムリン内にある歴代司祭の墓地。石版に刻まれたどくろのマークは、アダムとイヴの骨を表している。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

★「03 礼拝堂入り口」。
修復がされ始めたプレオブラジェンスキー大聖堂の礼拝堂入り口。礼拝時間を確認する信者。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/40秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

★「04 囚人慰霊碑」。
村に建てられた囚人慰霊碑。民間が設けた慰霊碑はロシア全土に存在するが、国家が建てたものは2004年当時ひとつもない。なんと驚くべきことか!
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/80秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

★「05 別れ」。
別れの日。宿の女将カーチャが別れの投げキスを何度も繰り返す。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf3.5、 1/500秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2015/10/02(金)
第267回:北極圏直下の孤島へ(25)
 ソビエト政権(1922-1991年)の主要国家事業のひとつは、西欧に立ち遅れていた工業化を推し進めるために、無賃の労働力(囚人)を使ってでも、社会主義の優位を西側世界に誇示することにあった。
 ソビエト政権の人民に対する罪のなすりつけ(冤罪)や仮借のない弾圧による囚人強制労働という名の労働力確保は、人道上許されるものではないが、しかし当時は、やむを得ないこととして、あるいは時代の要求する必要悪として多くの人々に受容され、正当化されていった。
 そのような人民のメンタリティの成り立ちは、いつの時代でも、いかなる国家に於いても、似たり寄ったりの典型的不具合として起こり得ることだ。いや、実際に世界のあちこちで起こっている。人類は過去の過ちから何かを学ぶと信じたいが、あにはからんや自己の不利益に対して悪を正当化する能力に長けているとは。目的のためには虚偽の正義を旗印に、手段を選ばずというわけだ。

 強制労働の組織的な嚆矢(こうし)としての、その象徴的な場所がソロフキであり、強制収容所に於ける国家ぐるみの残虐非道で苛酷苛烈な現実がここにあった。この歴史的事実は、歴史学者や社会学者の研究課題を通り越して、現代に生きる私たちがどのようにしてそのメンタリティに導かれていくのかという重い問いを突きつけている。

 ソロフキ修道院は、周囲約900m、厚さ4〜7mの城砦(クレムリン)によって外敵から守られている。7つの門と砲門を備えた8つの見張り塔を有し、その城壁は5mもある巨石によって緻密に構成され、頑丈な戦車が体当たりしても微動だにしないだろうと思わせるほどのものだ。
 もっとも、ぼくは現代の戦車がどれほどの威力かを知らないが、16〜17世紀にはスウェーデンによる数度の攻撃を退け、クリミヤ戦争(1853〜56年)ではイギリス艦隊を退却にまで追い込んだほどの堅牢さを誇っている。
 しかし、神に仕え、人の道を説く修道士や信者たちが、自らの宗教(信仰の自由)や命(家族の安寧や自由)を守るために武器を手にして闘うことが、いわゆる「リベラル」の根源的な思想であると、ぼくはソロフキ・クレムリンに立ち入って改めて感知したのだった。これは上記した“メンタリティ”とは対極にあるものだ。

 クレムリンのなかでまず目に入るのは、最大の修道院であるプレオブラジェンスキー大聖堂(1556〜64年建立)で、とにかく巨大である。時の権力者が権威を示威する手段として宗教施設を大がかりなものにするのは、洋の東西を問わず何処も同じである。
 ぼくは初めてその威容に接した時、「空を仰ぐほど巨大な聖堂の全景を捕らえることのできる焦点距離は何ミリのレンズなのだろうか? どのくらい接近して撮れるものか」と心配したほどだった。持参した20mmの超広角レンズが大活躍してくれて事なきを得たが、ほとんどのレンズの画角を把握しているはずのぼくも、一瞬不安に駆られるような“デカさ”だった。

 収容所関連の書物を読み進んでいくうちに、常に「超過密」という言葉が決まり文句のように謳われていることに気づく。ソビエト全土に広がった収容所の過密状態は、いってみれば直接に手を汚さぬ他律的な拷問であり、結果恐ろしい人格破壊をもたらしたことは想像に難くない。加えて疫病と極度の栄養失調が蔓延し、人々は治療もなされずに次々に落命していった。
 ソルジェニーツィン著『収容所群島』によると、この大聖堂には、1928年に「3760人以上」の囚人が詰め込まれたとある。その過密状態とはどのようなものなのかと、ぼくは大聖堂を見上げたり侵入したりして、想像の手助けとなるような手がかりを探ろうとしたが、考えれば考えるほど見当がつかなかった。つまり、マスとしての3760人がどれほどの面積と体積を占めるものかを理解できないでいたのだ。
 団塊の世代であるぼくの中学時代には1学年650人余りだった。それだけでも大変な数だったという記憶があるが、その約6倍なのだから、いくら大聖堂であってもとても収容不可能だったに違いないと、ぼくは懸命に自分を納得させた。不可能を可能にするほど、ここには死の恐怖が支配していたということだ。
 
 プレオブラジェンスキー大聖堂の礼拝堂は、少しずつ修復され、祈りの場としての体裁を整えつつあった。礼拝のさなか、足音を忍ばせながら立ち入ってみると、そこはまさに厳粛そのもので、信心に欠けるぼくにはとてもシャッターを切れるような雰囲気ではなかった。祭壇に立つ司祭はぼくを見るや警戒心を露わにし、ただちにお引き取り願いたいという仕草をした。その態度は高圧的ではなくむしろ慇懃だったが、そこには有無を言わせぬ迫力と説得力に満ち、ぼくはその威風堂々とした風儀に敬意を表し、素直にその場を退去した。刹那、“素直”の裏側に張り付いたぼくの反抗心がムクムクと入道雲のように湧き上がった。
 回廊でつながっているウスペンスキー大聖堂(1552〜57年建立)はまだ修復の手がまったく入らず、施錠されていたドアのわずかな隙間から荒れ果てた礼拝堂が窺えた(前号01写真)。ぼくの反抗心は、虚偽の正義を旗印に、礼拝中で修道士の警備!? が手薄になっている間にここへ忍び入ることだった。ぼくのカメラバッグにはカーチャから借用したドライバーが忍ばせてあった。
 ドライバーで錠前の蝶番を外し、ぼくは生涯で初めての泥棒気分を味わった。しかし、ぼくのコソ泥的正義感は、まさに世界初のお披露目写真であるので正当化されて然るべきだ。荒れ果てた礼拝堂を1枚だけ厳粛な気分で失敬した。

 今回でソロフキは最終とするつもりだったのだが、もう1回だけお付き合い願えればと思っている。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/267.html

★「01 プレオブラジェンスキー大聖堂」。
雨上がりの大聖堂をクレムリン正門のアーチより。囚人たちはまずこの大聖堂に収監された。この営みは延々16年間に及んだ。この石畳には何十万人の絶望が刻まれている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/125秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

★「02 雷雨の前のプレオブラジェンスキー大聖堂」。
残念ながらこの大聖堂の高さはどの資料にも記されていない。収容所時代には教会のねぎ坊主は破壊され、三角の屋根がつけられていた。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf5.6、 1/125秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

★「03 フレスコ画」。
プレオブラジェンスキー大聖堂に残るフレスコ画。収容所時代に削られた痕が痛々しい。まだうっすらと絵が残っている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/500秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

★「04 1916年撮影」。
ロシアの写真家セルゲイ・M・プロクジーン=ゴルスキー(1863-1944年)が1916に撮影したソロフキ・クレムリンのニコラス塔。3人の修道士が立っているが、如何に巨大な建造物であるかが分かる。
なおプロクジーン=ゴルスキーは、赤・緑・青(RGB)のフィルターを通して3枚のモノクロ写真を撮り、三色合成法によるカラー写真を開発した。素晴らしい写真の数々はWebでご覧ください。

(文:亀山哲郎)

2015/09/25(金)
第266回:北極圏直下の孤島へ(24)
 建築の実用的(機能的)な意義、芸術(意匠やデザイン)としての価値、土木技術(科学)の粋、周辺環境(自然)との調和、そして建築の辿るべき運命的な「廃墟」の意義(付加価値)などなどについて書物の助けを借りながら系統立てて、時には分解したりして考えることがしばしばある。

 建築は、それぞれの専門職の、極めて特殊な知識やセンス、伝統や技術の集積と統合によって成り立っているので、素人のぼくにはなかなか分かりづらい部分が多い。だから、舎屋の完成形だけを見て、「これは美しい」とか、「そうでない」とか、「ここには不似合いだろう」などと勝手なことをいって、片をつけたがる。こと素人は手っ取り早さを好むのだ。
 しかし、勝手なことをいったりしたりするのは、建築を鑑賞する側だけに与えられた特権ではない。作り手のほうだって、それぞれが程度の差こそあれクリエーターとしての気質を有しているのだから、建築上の美や作法について豪気一徹な人々が多いはずで、理想とする最終形に帰趨せずに頓挫することもあるだろう。譲り合いの精神は、物作り屋たちには無縁のものだからだ。

 建築の大きな特徴のひとつは、「団体競技」の側面を多く持ち合わせている点にある。「団体競技」でないと成り立たない面があるということだ。実に多くの人々の手によってひとつの建物が、然るべき場所に建つ。
 「団体競技」に関わる繁雑な手間暇を省いて、「個人競技」によりすべてを賄ってしまおうとするのが模型の世界である。素人の特権を持ち出して、遊びに転化してしまうのが「模型」で、誰に対しても気兼ねなく楽しむことのできる、個人的かつ高尚な遊びだとぼくは心得る。
 ぼくの友人の建築家など、模型作りに没頭することで、団体競技の煩わしさの憂さを晴らしている。ただ、残念なことに模型の悲しさは、「廃墟」の味わいがないことだ。模型からは実物の残響のような「廃墟」の叙情詩は生まれない。

 ここでいう「模型」とは、玩具としての模型であり、C. レヴィ=ストロース(仏の人類学者で構造主義を初めて唱えた。1908-2009年)が『野生の思考』のなかで、「宗教建築物が宇宙を象徴する限り、それは“縮減模型”である」と述べている、その「縮減模型」の意ではない。

 建築物は実用(時の権力の誇示も含める)としてその役目を終え、保存・維持管理された途端に本来の美しさを失い、歴史的意義にすり替わる。保存・維持は文化的な事業であることと認めるにやぶさかではないが、本来の美的価値が隅に追いやれられるのは、ものの必然として致し方のないことなのだろう。辛うじて「過去の住人の佇まいや当時の文化を偲ぶ」ことのできる、いわば骨董的な価値に模様替えされる。
 「廃墟」の美しさを奪われた建築物は、学問的な遺構・名所旧跡となった時に、すでに建築美の生命を畳んでいる。

 様々な芸術の礎石として、ぼくは建築が占める統合的な美を認めている。時には、すべての芸術は建築にこそその源を求めていいと考えている。建築は俗世にあって、美術・宗教・哲学・民族文化・人類の智慧と造化の結晶であり、そのすべてを内包しているといっても過言ではない。
 余談だが、オペラを「総合芸術」とする考えが流布されているが、ぼくはその考えに断固反対である。それは、あくまで音楽の一形態に過ぎない。

 近年、廃墟ブームというのがあるらしい。詳しくは知らないが、廃墟に魅せられ、そこを探訪したり、写真を撮ったりするらしい。なるほど、廃墟に惹かれる心情は理解できるような気がする。
 しかしぼくは、廃墟に魅せられてソロフキくんだりまで出かけたわけではまったくないのだが、ぼくの写真集を求めた読者から、「究極の廃墟を見つけましたね。やっと真っ当な廃墟写真家に出会えました。このような被写体を見つけたなんて羨ましい限りです」とのお手紙をいただいたこともある。いやはや、なんとも返信に困る内容であった。ぼくは廃墟写真家でも何でもないのだが。
 足尾鉱毒事件の足尾(栃木県日光市)にも何度か通ったことがあるが、それは廃墟に興味があったからではなく、企業と国家を相手取り鉱毒事件と闘った田中正造氏の人間としての魅力に惹かれたからだった。
 歴史的・人文学的な興味によって、ぼくはその痕跡としての廃墟に宿る美を手繰りながら史実を遡り、往事のリアリティを写し取りたいのであって、単なる廃墟にはフォトジェニックな面白さはあっても、存在そのものは、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 ソロフキは、歴史のイデオロギーによって破壊された廃墟である。つまり人為的な廃墟であって、元の姿があまりにも美的に過ぎたので、修復・復元できる可能性は極めて少ない。失われたイコン(聖像画)や宝物、貴重な蔵書などはもう元に戻らない。失われた命が戻らないのと同様に、ここは死滅してしまったものがあまりにも多すぎる。もし何某かの希望を見出すのであれば、篤い信仰によるところの神の啓示は復活を果たすだろう。

 ソロフキの宗教的な中枢は、ソロフキ・クレムリンと中心的な存在であるプレオブラジェンスキー大聖堂である。ロシアで多くの立派なクレムリンを見てきたが、最も質実剛健さを感じるものがソロフキ・クレムリンだった。次回はソロフキの最終回として、ここのクレムリンについて述べてみようと思う。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/266.html

★「01.囚人の詰め込まれた礼拝堂」
クレムリンにある聖堂。ここに囚人たちが詰め込まれた。囚人の板寝床は取り払われていたが凄まじい荒れようだ。修道士の目を盗んでドライバーで南京錠を外して侵入。かつては写真「02」のような佇まいだった。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.5、 1/13秒、 ISO200、
露出補正ノーマル。

★「02.かつての礼拝堂」
荒れ果てた写真「01」のかつての姿。帝政ロシア時代はこんな立派な礼拝堂だった。1800年代の後半に撮影されたもの。

★「03.巡礼者用ホテル」
クレムリン前の船着き場の前に建つ立派なホテル。ここも囚人用の監獄として利用された。船着き場にたむろする数匹の人懐っこい猫たちとぼくはよく遊んだ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/400秒、 ISO100、
露出補正ノーマル。

★「04.巡礼者用ホテル」
写真右の建物が、写真「03」と同じ立派な巡礼者用ホテル。ちょうど後ろの船の辺りから「03」を撮っている。1800年代の後半にクレムリンの城壁から撮影されたもの。
(文:亀山哲郎)

2015/09/18(金)
第265回:北極圏直下の孤島へ(23)
 木造独居房にくらべ隣接する煉瓦づくりの大きな建造物(1810年頃に建設。写真01)は、200年の歳月を経ても未だ頑丈そのものだった。再びぼくは住居不法侵入の誘惑に抗しきれず、おずおずと煉瓦棟に足を踏み入れた。静まり返った館は無言歌を奏でるように、何万人かの囚人たちの呻きをそこに集約させていた。
 屋根も崩れ落ちず、床も抜けず、壁はところどころ落ちてはいるものの、囚人の押し込まれていた部屋も(写真04)、監視の覗き窓がついた扉も(写真03)、鉄格子も当時のままだった。錠前だけが時の流れを顕すように真っ赤に錆びつきぼろぼろになっていた。静まり返ったこの空間でぼくは聴力を必要とせず、平衡感覚の次は聴覚をも失ってしまった。音響実験の無響室に入ったように、微かな耳鳴りだけが響いていた。

 ムクサルマ島の建造物に共通していることは、廃墟であるにも関わらず廃墟特有のかび臭さがまったくないということだった。同様のことはソロフキ全般についてもいえるが、ぼくはそのことについてムクサルマの空気を吸うまで気づかずにいた。また、ソロフキでは蜘蛛の糸さえ見えない。蜘蛛は地球の多様な地域に棲息することのできる最もたくましい生物の一種である。無人の廃墟に蜘蛛の巣が張っていないこの事実も、日本人の感覚からすればたいそう風変わりなものだ。蜘蛛の巣を張ったドラマ仕立てはここにはなかったのだ。
 かび臭くないのは、この地が乾燥しているからなのか、あるいは人が存在しないことによるものなのか、文系のぼくには解明できないのだが、ついに臭覚の出番もなくなり、進化論に従ってぼくの五感の一部は一時的に退化したに違いない。ぼくは、聴覚、嗅覚、平衡感覚を失い、ますますブラックホールならぬ真空地帯へ呑み込まれていった。この不思議な感覚はひょっとして精神に障碍を与え、錯乱させるかのように思えた。

 村はずれでムクサルマに行く道を教えてくれた青年の言質は(第262回)、あながち彼の妄信によるものだとは言い切れない。ここには確かに人を攪乱(こうらん)状態に陥れる何かがあった。知情意(知性と感情と意志)の調和が砕けた時に、人は迷信を生み出し、神懸かりに身を委ね、延いては狂信に至るのである。
 その伝、ムクサルマは宗教的な施設が跡形もなく破壊され、失われているにも関わらず、そこはかとなく宗教的・霊的なものが過去の余韻として重くのしかかり、漂っていた。

 館に侵入したぼくは、忙しく走り回った。埃の降り積もった廊下に腹ばいになってみると、各部屋の壁の色が反射光となり廊下に漏れ出し、その美しさにぼくは一瞬息を呑んだ。それはとても物悲しい美しさであったけれど、一方で美に昇華しきれぬものが、ぼくの迷いとともに共存してもいた。いかばかりかの、おどろおどろしさはそのためだったのかも知れない。知と情のバランスが未だ回復せずといったところだった。
 しかしその美しさはぼくに不似合いな厳粛な気分をもたらし、錯乱しかけていた気持を少しずつ落ち着かせた。廊下に拡散する美しい光の彩りはまさにロシア正教会の礼拝堂のような趣があった。

 その光と空気感を捕らえる程ぼくは写真術に長けてはいないが、腹ばいになったまま、取り敢えず気合いを込め、息を整え、失いつつあった五感を復活させ、邪念を振り払い(これが一番難儀)、「たった一度のシャッターチャンス」なのだと心に誓い、静かにシャッターを押した(写真02)。
 一眼レフの大仰で場違いなシャッターの金属音が廊下にこだまのように響き渡り、光の反射とともに呼応し合った。
 ムクサルマで、これが最も重たいシャッターであったように感じた。シャッター速度1/25秒は正気に立ち返ったその瞬間でもあった。

 時計はすでに午後5時を指していた。不意にぼくは今日ここに泊まろうかという誘惑に駆られた。あの悪魔に呪われたような道を再び戻ることに相当な嫌気がさしていたのだ。煉瓦棟なら雨風をしのげるし、寒さだって凍えるほどではない。季節柄、たくさんの枯れ草に恵まれているのだから、それを集めて潜り込んでしまえばいい。それは極めて魅力的な誘惑だった。ぼくは迷いに迷った。カーチャの心配顔が浮かんでは消えた。
 「電話はないか! ないよな、ここには」とひとりごちながら、ぼくは後ろ髪を引かれながらもエキゾティックな舎営を諦め、もう一度あの道を引き返すことにした。悪路走破の要領を得たぼくは、往路の困難さが嘘のように、降り出した雨の中を軽快に走った。ぼくは学習能力に長け、帰りはズボンを脱がずに済んだ。

 クレムリンの脇で道路工事をしていたお兄ちゃんが、ぼくを見るや、「やぁ、帰ってきたか」と、にこやかに声をかけてくれた。ぼくは、「ムクサルマへの道をなんとかしてくれよ」と頼んでみたが、彼は「何のために? 誰のために?」と顔を傾げ、物好きのために働くのはごめんだという素振りをして見せた。ぼくは、物好きなんだそうである。
 宿に帰り着くとカーチャが大きく手を広げてぼくを抱擁し、「夕食は何時にする?」と聞いてきた。「怪我はしなかった? まぁ、泥だらけじゃない。髪の毛にまで付いているわ。早くシャワーを浴びてらっしゃい。洗濯物はそこに出しておくのよ。私が洗ってあげるから」と、まるで子供であるかのようにぼくを扱った。ぼくは物好きオヤジだったり、子供だったりと、何かとせわしい一日だった。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/265.html

★「01 煉瓦棟」。
200年もの間、極寒とイライラするような白夜に耐え抜いた煉瓦棟。左端の建造物は家禽舎。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/200秒、 ISO100、
露出補正ノーマル。

★「02 囚人部屋が並ぶ」。
囚人部屋が並ぶ廊下。腹ばいになり、肘を立ててカメラを乗せ、「たった一度のシャッターチャンス」と気を整える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/25秒、 ISO200、
露出補正-0.67。

★「03 覗き窓」。
囚人部屋の監視用覗き窓。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/30秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

★「04 囚人部屋」。
囚人部屋に窓から直射光が射し込む。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/30秒、 ISO100、
露出補正-1。

(文:亀山哲郎)

2015/09/11(金)
第264回:北極圏直下の孤島へ(22)
 ムクサルマ島の寂莫たる草原に立ち、方角を確かめようとコンパスを凝視しているうちにぼくはひょんなことに気がついた。首からぶら下げたコンパスは、指針の中心が1点で支えられ、オイルのなかで浮遊するタイプのものだが、その針が平行を保っていないのである。針のN極がわずかに下を向き、地面と平行ではなく斜めに傾いている。
 地球の磁極が近くにあるので、つまり地表(北緯65度地点)から極点の角度がより鋭角になっているので、「科学的に考えればこういうことが起こり得るのか? 正統派文系を自認するぼくの考えは果たして間違っていないだろうか?」と自問しつつ、しばらくこの不思議な現象を興味深く眺めていた。この現象はこの地でしか味わえぬ科学的異国情緒でもある。
 もし、ぼくの文系的な考え方が正しいとするならば、北緯36度近辺の日本でも、厳密にいえば針は傾(かし)いでいるはずだ。針が地面と完全に平行を保つ緯度は、理論的には両極から等量に引っ張られる0度の赤道上ということになる。南半球に立てばこの現象は逆転すると考えるのがまこと真実というものだ。ぼくの考えは正しいのだろうか? きっと正しいに違いない!

 では、北極点に立てば針は地面に対して垂直の姿勢を取るのだろうか? あるいはぐるぐると回転を始めるのだろうか? であれば、なんと愉快なことか!
 北極点に立ったことがないので実際は分からないが、これはぼくの強烈な願望故、真実をミスリードしてもいいと思っている。いや、ミスリードではないかも知れない。
 「極点に立つとね、コンパスの針は垂直に逆立ち、ぐるぐると回転を始めるのさ。まるでダンスをしているようにね」と、ぼくはあたかも目撃者のようにしかつめらしく語ることにしている。
 真偽のほどはこの際まったく重要ではなく、そんなことには頓着せずに、「針のダンス」を面白がり、妄想にふけることのできる人はきっと写真に向いているのだと思う。

 しかし、世の中には二種類の困った人たちが存在する。ぼくの願望的妄想話をわざわざ科学的に解析してみせ、そして事の是非を真面目に糺し、ぼくを諭すことに快感を覚えようとする無粋で野暮な人たちがいる。勝ち誇ったような逞しい形相で、曰く「デタラメをいうな!」と。
 文系にくらべ理系は精神の遊びが少ないらしく、危なっかしくてしょうがない。理詰めほど無機的なものはないではないか。「余白」というものに生きることの風味・風合いを求めず、無駄なものとして切り捨てちゃうからかなわない。
 どちらかというと、このような人たちは写真とかクリエイティブな作業には不向きなのではあるまいかと、つとに思う今日この頃である。

 そしてもう一方は、ぼくの与太話をまともに信じて疑わない人たち。無粋より遙かに可愛げがあって、器としては優れているのだが、精神が無垢な分、ぼくの話が口から出まかせのインチキ(洒落)だと判明するや否やムキになって反駁してくる。手のひらを返すように豹変するから始末が悪い。加えて、ぼくの人格を貶めることにも大きな歓びを感じているらしい。純朴で生真面目なだけに、インチキと洒落の区別ができないでいるのだ。
 遊びが大きすぎる分、したがって揺り戻しも激しく、「かめさんの嘘つき!」なんて暴言を憚りなく申し立ててくる。それも決まって2,3ヶ月経ってからの物言いであるので、ぼくはすっかり忘れているが、彼らは決して忘れることはなく、その執念というか食いつき方は並ではない。それは、彼らの妄執の成せる業なのだ。
 しかしどちらかというと、このような質の人たちのほうが、たとえその豹変ぶりに時間差があったとしても、前者より写真にはずっと向いている。「余白」とは何かを自然に自覚し、学ぶ資質が備わっているように思われる。少なくとも、「無駄」の効用を認めようとの気概が見られるからだ。

 ぼくは最初に目に飛び込んできた大きな木造家屋(修道士用独居房。写真01)に忍び入ることにした。建設から100年以上も経過したこの美しい木造建築はゆがみ、傾き、骸骨のような姿を晒していた。天井は落ち、床はところどころ抜け落ち、壁は崩れかかっていた。崩れた漆喰の粉は長年の風雨に打たれ石膏のように固まっていた(写真04)。
 平和で豊かだった頃の面影を残してはいるものの、やはり悪魔に魅入られた時代の申し子のようだった。

 危険がいっぱいだったが、放ったらかしの世界遺産は、「ここへの侵入はすべて自己責任に於いて対処せよ」ということらしい(そんな立て札はどこにもなかったけれど)。
 「自己責任に於いて対処せよ」という自作の心地よい文言にぼくはすっかり酔いしれながら、子供時分に何度か体験した“恐いもの見たさのお化け屋敷”の再体験に取りかかった。
 修道士が居住していた頃には存在していなかった鉄格子(写真05)を眺めていると幽(かす)かながらも囚人たちの息づかいが聞こえてくるような気がした。人間の希望や欲望の果てしなさを勘案すれば、囚人たちは明日をも知れぬ絶望のなかにも生き延びることを一縷に、あらゆる営みを息絶え絶えになりながらも続けていたに違いなかった。その呻きと死に、歴史は未だ沈黙したままである。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/264.html

★「01 木造独居房」。
100年以上も前に建設された修道士用木造独居房。囚人がすし詰めにされた。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/200秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

★「02 正面入口」。
木造独居房の正面入口。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/200秒、 ISO100、
露出補正-0.67。

★「03 正面入口を中から」。
内部から撮影。足元は床が抜け、大きな穴がポッカリ空いていた。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/30秒、 ISO100、
露出補正-1。

★「04 崩れた漆喰」。
崩れ落ちた漆喰の粉が固まっている。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/80秒、 ISO100、
露出補正ノーマル。

★「05 鉄格子」。
収容所時代に設けられた鉄格子。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/400秒、 ISO100、
露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2015/09/04(金)
第263回:北極圏直下の孤島へ(21)
 異論の生じることを承知で敢えていうのであれば、現場の実際を客観的に写し取ろうとする時(「公的」な記録として)、横写真のほうが広義の意味で融通が利くような気がしてならない。この現象をうまく説明できないのだが、自分の感情や主張を写真のなかに織り込もうとする意識(「私的」な写真)が強くなるほど、“相対的に”縦写真の割合が多くなる。この場合は、狭義の意味で融通の利く割合が多くなるということだ。
 つまり縦写真は自身の表現の利用価値に恵まれる面があるということでもある。さらにいうと、縦写真は私的写真に適した面を多く含んでいるともいえる。もっと突っ込んでいうと、縦写真を撮る際にはいろいろと面倒なことを考えながらでないと臨みにくい。含みを持たせる余白を慎重に選ばざるを得ないからだ。

 人間の目は横の広がりには感覚的に鷹揚であり、遠近法も知らずのうちに横が優先されるが故に、横写真はある種の安定感をもたらす。縦写真より撮りやすいとぼくは感じている。
 縦写真はより強い平衡感覚が求められるので、とても“やっかい”だ。どこかで不安定を解消しなければならない。人間の視角はもともと横写真なのだから、それを人間工学に逆らって、人為的に細長く縦長に切り取るには、横写真より綿密な計算をしなければならず、したがって訓練されていないとほころびが生じやすい。

 写真が横であるか縦であるかは、極めて重要な問題だが、それは構図的な要素に、より多く支配されるのが常である。構図的な要素が写真の縦横(たてよこ)を決定することに異論を差しはさむ余地はないが、同じ被写体でも縦横の違いで写真の内容的意味合いが異なることが多々ある。
 しかし、そればかりではなく、一方で構図以外に縦横は撮影者の心理によって左右される場合も多いのだと、ぼくは統計的な偶然によって気づかされた。
 写真の縦横論に於いて、これは一見当たり前のことのように思えるが、しかしこの現象を論理的に論ずるには複雑雑多な事柄を整理する必要に迫られる。
 このことは、「北極圏直下の孤島へ」シリーズで扱うには不具合が生じ(もう生じている)、機を改めて述べたいと思うが、その気づきの発端となったのが何年ぶりかに見たソロフキの写真だった。

 今、当時を振り返ると、ソロフキは糊口をしのぐためのコマーシャル写真から離れて、プロの端くれとして自身の写真を見直す良い機会となった。
 ロシア人以外のプロの写真屋が撮ったソロフキの写真は存在しなかったのだから、ぼくはこの地をできるだけ事実に即し、私情を控えて撮影しようと心がけた。60年以上も前の出来事を客観的に伝える義務感のようなものがそうさせたのだろう。「公的」な使命を帯びているとも感じていた。しかし意識外のところで「リキミ」と「イロケ」が生じ、結果として縦写真が思いのほか多いことに気がついたというわけだ。

 拙「よもやま話」で、福島県の高放射能汚染地域、いわゆる立ち入り禁止区域を長期間にわたり連載させていただいた。ぼくの記憶によれば彼の地で撮った何千枚かの写真のうち、縦写真はたったの3枚(第182回と189回)しかない。この奇妙なる奇跡的な現象にぼく自身が驚いた。
 この現象を写真好きのA女史に話したら、「どうしてなの?」と訊かれ、ぼくは仕方なく、「カメラを縦に構えるのが面倒だから。無精なんだね」と答えた。身体的な理由ばかりでなく、縦写真は前述のごとく心理的にも“やっかい”が生じる。“やっかい”に必要以上に係わり合うと客観性(網膜に写ったそのままを素直にストンと撮ること)が随時失われるような気がして、それを極力避けたかったからなのだろう。

 成長!? したぼくは、福島ではソロフキのような「リキミ」も「イロケ」もなく、ただ淡々とシャッターを押していたその結果が、不祥事とも思えるような縦写真の絶滅危惧種的な減少であった。福島の、謂わば「公的」な色合いの強い現場では、ぼくの気持はどうしても横写真に傾くようだ。無精ゆえ、考えながら撮りたくないらしい。
 そんな思いを胸に抱いていたぼくは、昨日暑いさなか、極めて個人色の強い写真を撮りに出かけた。そこには、縦写真をさかんに採用する自分がいて、思わず苦笑してしまった。

 で、ソロフキの続きだった。こんなことばかり書いているから、なかなか進軍がままならないのだ。Web原稿というのはありがたいようでいながら、しかし“やっかい”だ。

 地回りのような極道ツンドラにからまれ、喘ぎながら、時にはパンツ一丁で自転車を担がなければならなかった。パンツ一丁の姿をお天道さまの元に晒すのは、誰もいないという確信のもとでなければ成就できぬ離れ業である。
 難行苦行の末、やがて行く手が一気にひらけ、光量が8倍にも増し(つまり3絞り分)、汐の香りが漂い、そこがムクサルマに渡る堤防(第261回、写真04)だと確信を得た時は、目的地に着いたばかりだというのに、すでにひと仕事終えたような満足感ならぬ征服感があった。

 石を敷き詰めた堤防を自転車で走る度胸はぼくになく、パンクを恐れてソロリソロリと自転車を引いた。自転車はペダルを漕いで走ることを目的として発明されたものだが、引いたり担いだりの連続で、ほとんど用をなさなかった。
 堤防を渡り、木立のなかを快活にぼくは自転車の効用を発揮させて300mほど走った。素晴らしい景観だ。すると、茫漠たる草原にいくつかの建物が突然目の前に現れた。この異様な興趣はぼくのなかで化学変化を起こし、言葉にならぬ不可思議な感覚となって表れた。普段縁遠い無常観のようなものかも知れない。頭のなかで宗教的なパイプオルガンが単音で響いていた。天敵である修道士の姿がないからこその、健康的な宗教空間である。

 当時の状況をぼくはこんな風に記している。
 「他に観光客がいたりすればこのような不思議な感覚に囚われることはなかっただろう。ぼくだけが呼吸をしているのが何故かひどく切なく、息苦しくもあり、自分の存在に違和感を覚えたのだった。どこかに真空地帯のようなものが存在し、そこに吸い込まれるようにぼくは軽い貧血状態に陥り、鼓膜がツーンとし平衡感覚を失った」。

 収容所が閉鎖された1939年当時のまま、時を止め、化石のように静止した情景が眼前に現れたそのさまは、やはり無常ではなく常住なのだろうか。無常と常住の時空の執り成しに、ぼくはまたもや始末に負えない“やっかい”を背負い込んでしまったのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/263.html

★「01 捕鯨」。
堤防に佇んでいたら、漁船がやってきた。「何を捕るのか?」と訊いたら、「鯨だよ」と。彼らには、「国際捕鯨協定、IWA」なんて関係がなさそうだ。商用ではなく、「島の住民のためだ」と誇らしげに言った。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/200秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

★「02 水汲み小屋」。
100年以上の歳月を経た水汲み小屋。なかには井戸があり、水は涸れていなかった。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、 ISO100、
露出補正ノーマル。

★「03 スロープ」。
いくつかある2階建ての家畜舎へのスロープ。舎屋は崩れた痕跡を残すのみ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/80秒、 ISO100、
露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)