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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2017/05/12(金)
第347回:とっておき(続)
 前号にて紹介した仏キャンソン社のデジタル用印画紙 “Baryta Prestige” (バライタ・プレステージ)はぼくがデジタルプリントに没頭してきた10数年間で最も好ましい結果を示してくれた。モニターに食らい付きながら暗室作業をしたその画面とプリントアウトされた印画紙の結果がここまで近似していることにぼくは瞠目せざるを得なかった。数値では表せない透明感や立体感など、卓越したものがある。ぼくはこの印画紙に大いなる信頼を寄せた。
 本来発色原理の異なる両者の一致を見たことは、ぼくのこれからのデジタルプリントに於ける大きな指針や励みとなるだろう。

 本来ならば、 “最も好ましい” 印画紙とは何をもってするのかを客観的に証明しなければならないのだが、この印画紙がプリンターから排出されたとたん、前号にて記したように「いつもなら精密な分光測光機を用い計測してみるのだが、今回はプリントされたカラーパッチを見てその気がなくなった。数値などどうでもいいという気にさせられたのである」と、物理特性を厳格な客観性と捉えるテスト魔のぼくでさえそう感じ取った。客観性より自身の主観を信じてよいと判断したからだった。そう言い切ってしまえるのは、かつて愛用した「とっておき」から多くのことを学んだからだろうと思っている。

 オーディオが全盛であった時代に、ぼくは編集者としてオーディオや音楽に11年間従事していた。音楽好きで、しかもメカ好きであったぼくがオーディオに熱中したことは言を俟(ま)たないが、物理特性(周波数特性や歪率特性など)に優れたスピーカーが必ずしも心地よい音楽を奏でる(これを “良い音” とするならば)とは限らないということを知った。しかし、良いスピーカーは優れた物理特性を有しているという厳然たる事実も一方で知ったものだ。
 このことは、音はまだまだ科学で解明できない部分が少なからずあるということを実証していた。

 コンサートホールで聴くクラシックやジャズがあたかも眼前で鳴り響いているかのようなオーディオ装置をぼくは最良のものとしていた。コンサートホールを自室に呼び込もうとする手品のような仕掛けがオーディオ装置というわけだが、これも虚構の世界に遊ぶ高尚な道楽といえよう。
 1枚のLPレコードには途方もないほどの情報が含まれており、装置を変えるたびに「こんな音が1本の溝(レコードの)に刻まれていたのか」との発見はぼくを有頂天にさせ、淫するに十分すぎるものだった。レコードはもちろんヨーロッパ製のものだ。
 そしてまた重要なことは、高価で優れた装置を組み合わせれば即ち “良い音” が得られるわけではないということも同時に知った。いくら優れた道具でも、使いこなさなければ宝の持ち腐れとなる。使いこなしてこその「とっておき」である。このことはオーディオばかりでなく、カメラやその周辺機器についてもまったく同じことがいえるのではないだろうか。
 使いこなそうとするその意欲と熱意が、より良質な感覚と技術、そして知識を育んでいくのだとぼくは信じている。ライカを持てば即ち良い写真が撮れるわけでないことは、誰もが先刻承知であろう。

 新着の“Baryta Prestige” はその伝でいえば、決して大仰ではなく、自室にコンサートホールが再現できたような感覚に陥る。モニター上の画像を生演奏に喩えれば、プリントアウトされたものは見事なほど演奏会場の臨場感を再現している。生特有の、あのリアリティと柔らかさ、そして豊かで重厚なハーモニーである。
 微粒面(光沢紙に属す)の風合いも雰囲気作りに一役買っており、光り過ぎず、くすみ過ぎずのバランスが程良く調和したものだ。印字部分とそうでない部分(白飛びなどでインクの乗らない箇所)とに違和感が生じないというのも特筆すべきことだ。讃辞余すところなくといきたいところだが、ぼくは評論家ではないのでここらあたりが潮時だろう。

 そうそう、お断りしておかなければならないことがひとつある。ぼくはキャンソンの広報担当でもなければ、回し者でも、神託を受けた者でもないということだ。それをここではっきり公言しておかなければならない。
 写真の現場に生きる者として、本当に優れたものは包み隠さずお伝えする義務があると思っている。その熱意が時として空転し、伝わりにくいことも承知しているが、拙稿は個人のブログめいたものではなく、公的機関の原稿なのでなおさらである。
 印画紙に興味をお持ちの方は騙されたと思って、“Baryta Prestige” をぜひ一度お試しあれ。

 前号がちょっと長すぎたので、今回は帳尻合わせのため短めに。読み手はこのくらいがちょうどいいとは思うのだが、書き手は中途半端でむずかしい。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/347.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:群馬県桐生市。

★「01桐生市」。
桐生市の県道66号線を約600m(本町1〜2丁目)、1時間半かけて歩いたにすぎないが、懐かしさを覚える佇まいが散見できる。黒塗りの蔵は初めて。前号からできるだけ時系列に掲載。
絞りf13.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02桐生市」。
直接の逆光のため、脇の壁にへばりついて撮る。焦点距離は16mmだが、14mmくらいの超広角が欲しいところ。
絞りf10.0、 1/50秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「03桐生市」。
道沿いにある駐車場。午後4時過ぎの強い斜光下、柑橘が実る。白雲が飛ばぬように露出を抑える。この時、ぼくは何故か宗教的な気持に襲われ、知らずのうちにシャッターを切っていた。しかし、神は乗り移らなかった。
絞りf11.0、 1/160秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2017/05/08(月)
第346回:とっておき
 長い間写真に従事していると、そのありようが自身の生きてきた姿形とどこかで相似形を成していることに気がつく。「面白いものだなぁ」とひとりごちることが年々多くなったように思う。
 写真が人生の一部なのではなく、写真がぼくの人生を丸写ししていることを知るに及んで、今さらながらに過ぎ去った時間が愛おしくも恨めしい。「極めて怠惰な生き様であったけれど、写真だけはそうではなかった」なんて詭弁めいたことは、口が裂けてもいえない。写真も人生も、歩調や歩幅は同じものと決まっている。違うはずがないのである。すべからく人生はかくあるべしなのではあるまいか。
 ひらたくいえば「一事が万事」であり、写真に対する熱意や真摯さだけは別物と捉えるのはあまりにも身勝手すぎるとぼくは思っている。そんな都合の良いことなどあるわけがないのだ。

 とはいえ、人は時として急に何かに取り憑かれ、熱に浮かされてしまうことがある。理性によるところの判断を誤り、見境がなくなり、敢然と血迷ってしまうのだ。趣味に興じているうちは誠に結構な御手前なのだが、それが昂じると「あわよくばこれを飯のネタにしてしまおう」などと不届きなことを考え始める。「惚れた腫れた」に打つ手がないのと同様に、他人の思惑などどこ吹く風で、底なし沼へまっしぐら。道楽変じて道落になっちまう。
 この麻薬的な誘惑にどう立ち向かい、断つかは理性などという理屈っぽいものによるのではなく、あくまで本人の素性や稟性によるものだとぼくは考えている。人間の欲望は理性などでは到底処理できぬ事柄なのだ。理性の力を信じている人はきっとそれに見合った欲しかないのではないかとさえ思ってしまう。物づくりの欲は凄まじいばかりである。ぼくはこの道に踏み入って、その感を強くしている。
 こんなことを書き連ねていると本題に入れなくなってしまうのだが、「とっておき」を語る手助けのマクラとしてお読みいただければと思う。

 青年期より多趣味だったぼくは写真屋への道を歩むと決心した時に、すべての道楽を放棄し、「とっておき」を潔く売り払ってしまった。大層な理由があったわけではないが、地金が怠惰であることと才覚に乏しいということをほどよく自覚していたので、物を創って生計を立てるにはそうでもしないととてもやってはいけないと考えたからだった。あれもこれも欲しがっているうちは、成就など覚束ないものだ。写真で飯を食うなどとは、大それたことであるに違いないので、自己規制でもしない限り示しがつかない。
 また、「今度こそぼくは真面目にやります」という姿勢を家族に、特に嫁に見せておかなければならなかった。涙ぐましい犠牲を払ってこその説得力なのだとぼくは勝手に思い込んでいる。
 ここで身のほど知らずを演じてしまうと、家族が路頭に迷うことになるのだが、ぼくはぼくで盛んに自己弁護を用立て、その守護神を祀ろうとしていた。

 失ってしまった「とっておき」には、独EMT社のレコードプレーヤー、英BBC放送局やJBLのモニタースピーカー、M. レヴィンソンやマランツ7といったプリアンプ、アルピナ・チューンを施したBMW、イヴァルソンをはじめとするデンマークのパイプ作家の作品などなどがあった。
 カメラ関連では独ライツ社(ライカ)やスウェーデンのハッセルブラドとそのレンズ群、フォコマート(ライツ社の引き伸ばし機)やベセラー(米の大型引き伸ばし機)など、今思うとどこにそんな金があったのだろうと思われるが、編集業の傍らこっそり副業に勤しんでいたのだった。テストドライバーまでやり、茨城県谷田部にあった日本自動車研究所の高速周回路テストコースによく通ったものだ。ハードな生活を楽しみながら、「とっておき」につぎ込んでいた。

 物欲には極めて乏しいぼくだが、良い物(本物)を手にする精神の高揚感と充足感はとても貴重なものをもたらしてくれた。だがそれよりもっと大切なものは、それを教えてくれた人々の生活感情や知性、それに伴うところのセンスのありようだった。
 パイプを別にして、上記したものは工業製品だが、それらの持つ精密な造りや機能、その扱い方、そしてデザインの美しさなどを懇切丁寧に教えてもらった。彼らの教えは、何ものにも替え難いぼくの生涯の財産となっている。だからこそ、惜しげもなく売却することができたのだろう。大切なのは物ではなく者であるからだ。

 フィルムからデジタルへとぼくは完全移行を済ませ、既に10数年の歳月が経とうとしているが、その間倦まず弛まず如何に思い通りのプリントを得るかに腐心してきた。写真の最終形はプリントにありと確たる信念のもと、アナログ時代から印画紙については殊のほか執心してきた。
 拙稿にて過去何度か言及した仏キャンソン社の製品を最も優れた印画紙としてぼくは愛用しているが、高額なのが玉に瑕(きず)。しかし、ほとんどの工業製品は性能と価格とが比例すべきものだから、これも道理に適っている。
 展示会などでは自分の作画にこれ以上のものはないとキャンソン製を「とっておき」の印画紙、もしくは「勝負パンツ」ならぬ「勝負印画紙」として好んで使用しているのだが、ここにさらなる強敵が現れ、ぼくは今頭を抱えている。
 キャンソンの輸入代理店であるマルマン社の方が、それとなく「今度発売される新製品です。ぜひテストしてみてください」と、差し出してくれたのである。さりげなく手渡す彼の顔は自信が溢れているように見えた。こんな高価な印画紙であるにも関わらず彼の穏やかな表情は何かを物語っているに違いない。ぼくはなんだか嫌な予感に襲われたのだった。

 恐る恐る印画紙のICCプロファイルを自作し、自作のカラーパッチとグレーパッチをプリントしてみた。いつもなら精密な分光測光機を用い計測してみるのだが、今回はプリントされたカラーパッチを見てその気がなくなった。数値などどうでもいいという気にさせられたのである。ぼくは慌てふためいていたのだ。すぐに実画を2種プリントしてただ唸るばかり。

 ぼくの悩みの種は、モニター(もちろん精密機器によりキャリブレーションされたもの)画面上に表現されている写真の艶っぽさや立体感、そしてその粒立ちのようなものが十全に表現されないということだった。モニターと印画紙では発色条件がまったく異なるのだから、同じ表現は物理的に不可能であることは重々承知である。モニターを睨んで暗室作業を施していくのだから、適わぬとはいえまったく同じ物を要求するのが人情というものだろう。
 従来から愛用してきたキャンソンの印画紙は現在手にすることのできるもののなかで、最高のレベルを示していたのだが、今回発売されるキャンソン社のBaryta Prestige(バライタ・プレステージ)は、モニター上の写真と寸分違わぬといってもいいほどの艶っぽい結果を示してくれた。A4サイズ25枚入り\11,000で斤量340g/mと重両級(価格も)だが、ぼくは心底「やばいなぁ」と快哉を叫ばざるを得なかった。
 「玉に瑕」ではなく、「瑕なき玉(完全で、欠点のないもののたとえ)」という他なし。マルマン社キャンソン担当氏の力みのない表情に、これがホントの「とっておき」かと今さらながら得心したのだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/346.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:群馬県桐生市。

★「01桐生市」。
急に思い立ちかつて訪れたことのある群馬県桐生市に赴いた。桐生天満宮のしめ縄。コントラストの強い被写体だったので、しめ縄の質感を飛ばさぬように露出補正をする。
絞りf10.0、1/15秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02桐生市」。
桐生天満宮から南へ本町1〜2丁目までが現存する古い街並みだそうだ。昭和時代に天満宮を写した写真が西日に晒されていた。太陽がガラスに反射している。
絞りf13.0、 1/400秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「03桐生市」。
横町の路地裏。モルタル造りの建物に、赤ペンキで塗られた柵が。ペンキと錆が入り混じり、微妙な色合いに。
絞りf13.0、 1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2017/04/28(金)
第345回:まるで絵画のよう!?
 年一度の恒例グループ展、「第11回フォト・トルトゥーガ写真展」も無事終了し、ぼくは精根尽き果て、今ぼんやり頭でこの原稿を書いている。ご来場くださった読者諸兄には、この場をお借りして衷心より厚くお礼を申し述べたい。
 なかには遠方より新幹線で馳せ参じてくれた方もおられ、感謝とともに恐縮の至りである。また、感想などをメールにて寄こしてくださった方々にもお礼の気持をお伝えしたい。

 14年間、本業とは別の道である「アマチュア諸氏に写真本来の楽しさと奥行きを伝えること」にこれ努めてきた。ぼく自身が長いアマチュア時代を経験しているので、その思いは強いものがある。また同時に、「上手い写真ではなく、良い写真を撮る」が、ぼくの彼らアマチュア諸氏に強く希求することでもあった。
 「上手い写真」と「良い写真」の違いを知得してもらうことに努め、それを倶楽部の主眼に置いた。「上手い写真」と「良い写真」とでは、指導の方向性も異なってくる。しかし厄介なことに、この倶楽部には将来プロとして身を立てたいという人と純粋なアマチュア志向の両者混在だから、ぼくの指導方針は一筋縄にはいかない。プロ志望の人には「見よう見まねで勝手にやれ」と無責任を装えるが、アマチュアにはそうはいかない。これでも少なからずの責任を負っているのである。それは拙稿をお読みいただいている読者諸氏に対しても、プロの分際である以上同様である。

 倶楽部創設当初の4年間は中学時代同窓生だった人たちとの親睦会のような趣だったが、本格的に良い写真を撮りたいという人たちが次々参入するに至って、ぼくも本腰を入れざるを得なかった。
 写真はぼくの生業であることに変わりないのだが、撮ることと教えることはやはりまったく別の道だ。沈着冷静かつ論理的な頭脳の持ち主なら上手くやって退(の)けるのかも知れないが、ぼくは頭ばかりが先立ち、伝えたいことが多すぎて、言葉が追いついていかない。ここに指導者としての資質が見て取れるというものだ。だからぼくは、指導者モドキなんである。ましてや元々不器用そのものなので、自分のいいたいことを分かりやすく相手に伝えるのが苦手で、したがって、そのもどかしさがイライラに変質し、ついでに癌を患うことにもなった。
 心ならずも創設してしまった写真倶楽部により、ぼくの人生は揺らぎ、歯車が狂い、次々と病魔に襲われることになったが、おかげさま、皮肉なことに今回の写真展は今までとくらべて最も質が高かったとぼくは自認している。

 作品に対する賛否両論は車の両輪のようなもので、あって然るべき現象なのだが、クオリティが高くなればなるほど際立ってくるという一面を持つ。このことは前号で言葉を変えて、「ぼくも市井の一員であるが、市井は芸術的な品位や尊高なものより、思索を交えないところの馴染みやすさを好むものだ」と記した。
 会場での、賛否両論の “否” の部分は直接ぼくの耳には届いてないが、そのような気配は自然と感知できるものだ。これが今までの展示会とは異なった点である。会場に詰め来場者に応対してくれた一味の話によると、我が倶楽部の写真は、「みなさん異口同音に “まるで絵画のようだ” とおっしゃる」とか、「個人個人が極めて個性的」であるとか、通年美術館で開催される写真展にくまなく目を通している写真好きの職員さんが、「写真ってこうやって撮るんだ」と感慨深げにいわれたとか。

 しかし、彼らの言葉が即ち賛否両論の “賛” であるとは必ずしも言い切れないのではないかとぼくは思っている。写真を「まるで絵画のよう」と評されるのは果たして良きことなのだろうかと “一旦は” 自問してみるべきであろう。
 ただ、ぼく自身は絵画がより絵画的で、写真がより写真的である必要性はまったく感じていない。そうでなければならないという理由が見つからないので、絵画的でも写真的でもどちらでもよいという立場だ。絵画であれ、写真であれ、二次元に置き換えられた世界が自身のリアリティや感受、思想を率直に反映し、語りかけ、そして美しく表現できればそれでよい。
 「まるで絵画のよう」とは作者自身が写真をどう受け止めているかにかかっている問題だ。意識的か、無意識的か、あるいは偶発的なものによるかで評価は自ずと変化していくものだ。

 ぼくは一味に対して「絵画のように表現しなさい」とは一度もいったことがない。これこそ一種の言論弾圧であり、表現の自由を汚すものだ。
 ぼくは常に暗示を込めて、「被写体に対峙した際、シャッターを押す前にしっかりイメージを描くこと。みなさんは記録のための写真を撮るためにこの倶楽部に来たのではないでしょう。絵葉書のような写真は誰も要らない」と、やんわり伝えている。
 撮影の前段階に於ける精神的な作業については、酒席にて何となく言及することにしている。生真面目な技術の習練より、イメージ構築の訓練とそのプロセスを大切にして欲しいのだ。
 また、暗室作業は、「イメージしたものをさらに明確に表現にするためのものであり、自身に正直に、丁寧な仕上げを心がけること。そのためには・・・」を執拗に説いている。
 暗室作業のスキルが追いつかず力技を駆使すると、時として「手垢にまみれたようなもの」になってしまいがちである。これはアナログでもデジタルでも同様だが、デジタルでは殊更にその傾向が強く出てしまうので、要注意である。

 初めてアンセル・アダムス(米国の風景写真家。1902-1984年)のオリジナルプリントを見た時に(印刷物はダメ)、「これが写真か! まるで絵画のようだ!」と、思わず口を突いて出たのが、もう40年以上も昔のこと。
 ぼく自身がそういったのだから、「まるで絵画のよう」という表現は、取り敢えず褒め言葉として受け取っておこう。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/345.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:茨城県古河市。

★「01古河市」。
陽が地平線に沈みかけた頃。赤い壁を見ると、なんとかの一つ覚えのようにぼくは本能的にシャッターを切る癖があるようだ。まるで牛のよう。
絞りf8.0、1/60秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02古河市」。
気になる被写体なのだが、どうしてもイメージがしっくりこない。立ち位置を右往左往して探してみる。この空気感だけでもと思い、取り敢えず撮る。
絞りf5.6、 1/80秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「03古河市」。
古河市内からの帰り道、不気味な建造物を見つけ、急ぎUターンして仰ぎ見る。廃屋となっているが、何のビルなのだろうか? 微妙な色合いの空をバックに、墓石のようにそびえ立っていた。
絞りf5.6、 1/25秒、ISO100、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2017/04/21(金)
第344回:神頼み
 ここ3回、遠慮がちに撮影とレンズの重要かつ基本的なメカニズムについて複写を例に取りお伝えしたので、今回はもう少しお気楽な話でお茶を濁そうと思っている。ぼくの “写真雑感” のようなものである。

 根がぐうたら(体を動かして物事をするのを面倒臭がること)なものだから、ぼくの撮影時間はほとんどが日の傾く時間帯だ。お天道さまが最も意気盛んな活動をしている正午前後は体がまだ活動期に至っておらず、不精に託けて撮影意欲がいまいち盛り上がらない。「ぼくはドラマチックな斜光が殊更好きだから」というそれらしい言い訳(半分は本当)を見つけ、自他に向けて発することにしている。
 それに加え、夏は暑いからいやだ、冬は寒いからいやだ、春秋は中途半端だからやはりいやだと、いやだいやだの連発である。あれやこれやと、何かとかまびすしい男である。カメラを持てば嬉々とすることが分かっていながら、なかなか始動がままならない。こんな時、ぼくは決まって自己嫌悪に襲われる。襲われながらも、改めようとはしない。いや、できないのだ。サラリーマンなら絶対に出世しないタイプである。
 セルモーター一発でエンジンが “ブルルン” と威勢よくというわけにはいかない自分に、ほとほと嫌気が差す。これでよく商売人が勤まるものだと自分で呆れている。「それが職人の職人たる所以なのだから、かめさんはそれでいいんじゃないの」と、ぼくの怠惰に生暖かい援助の手を差し伸べてくれる無責任で、優しい友人がいるにはいる。

 カラー撮影に際し、心機一転臨んでみようと思いつつ、それでもぼくの出不精は続くのだが、日が沈むまでの2時間を「斜光は写真の撮り時」と謳いながら自己嫌悪の払拭に努めてみた。額に手をかざし逆光の眩しい光を遮りながら、被写体を渉猟するのもあまり嬉しくない。
 この時、嬉しくないことのついでに、決まって舟木一夫の『高校3年生』が頭の中で鳴り響くのだ。誠に鬱陶しい。斜光と “♪赤い夕陽が校舎を染めて♪” という歌詞がどこかで重なった結果なのだろう。
 この歌はぼくの高校時代に大流行したもので、青春時代のありし日を多くの人たちに追憶させるのだろうが、高校時代に何一つ良い思い出のなかったぼくにはただ陰鬱でしかない。そして、舟木一夫ファンには申し訳ないが、ぼくはこの『高校3年生』の安普請に我慢がならないのである。
 好きな曲ならいざ知らず、好きでもない音楽が、いやむしろ嫌いな音楽が頭の中で自動的に鳴り響いてしまうとは、どのような心理作用によるものなのだろうかとぼくは考え込む。こんな曲はまだ他にもある。
 流行歌ばかりでなく、例えば、ベルリオーズの『幻想交響曲』などもそうだ。安普請とまではいわないが、それでもやはりバッハ、ベートーヴェン、ブラームスなどに比すれば、品格という点でとても太刀打ちできるものではない。名代とはいえそんな代物ではないのである。
 被写体を前に、この曲を構成する「断頭台への行進」や終楽章の「魔女の夜宴の夢」が鳴り響くと、ぼくはとたんに集中力を失い、気力を喪失しながら、思わず口ずさんでいるのだから腹立たしくもすこぶる胸糞が悪い。
 「ぼくはやがてバッハのような写真を撮る」と豪語している手前、これでは非常に具合が悪いのだ。

 音楽、換言すれば人間の聴覚というものは写真や文学にくらべ、情をより強く促す作用を有しているとぼくは思っている。扇情的かつ官能的であるが故により艶かしさを誘発する。理知を容易に乗り越えてしまうだけの瞬発力というものがある。これにはなかなか打ち勝ち難い。情緒的であるということは、どのような形であれ知より情に訴える力が強い。それが即ち芸術性の高さにつながらないところが面白くも小気味よい!?
 ぼくも市井の一員であるが、市井は芸術的な品位や尊高なものより、思索を交えないところの馴染みやすさを好むものだ。
 ぼくの浅薄な識見では、これは音楽に限らず写真や文学、延いては他の分野にも同じことがいえるのではないかと思う。

 世の中は多分、品位が高すぎて馴染みにくいものと、そうでないものとの共存があってこそ健全な営みが成り立つのだが、創作する側は、プロであれ、アマチュアであれ、望むべくは鑑賞者におもねることなくバッハ(に限らず風雪に耐えたもの)を目標にすべきではないだろうか。『高校3年生』が悪いとはいわないが、それで喜びを得るにはあまりにも寂しすぎるとぼくは思っている。そのような作品を見かけるたびに、他人事(ひとごと)とはいえ、ぼくは胸が痛むのだ。それでは知力も思索も貧困なるものに終わってしまう。

 ぼくの「バッハのような写真を撮る」との言質は、決して大言壮語ではなく、ささやかな願いごとなのである。おそらくバッハは作曲するたびに神が舞い降りたのだろう。ぼくも万に一度でいいから、撮影の取りさばきに降臨あれと、目下神頼みに走っている。そんな時に限って、あの曲どもが無慈悲に響き渡るのだ。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/344.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:茨城県古河市。

★「01古河市」。
まだ焦げ臭さの漂う火事現場。火事に遭った方には申し訳ないが、見た瞬間に「パラダイス」という言葉が咄嗟に浮かんでしまった。不思議な感覚だった。
絞りf8.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.67。

★「02古河市」。
開店休業のようなペンキ屋さん。しばらく使われた様子のないハシゴが所在なげに。
絞りf7.1、 1/30秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「03古河市」。
この雑居ビルがなんとなく気になったので、立ち位置を定めようとした刹那、あの小癪な『高校3年生』が鳴り出した。腹立ち紛れの1発。
絞りf11.0、 1/100秒、ISO100、露出補正-1.33。

(文:文:亀山哲郎)

2017/04/14(金)
第343回:複写の御利益
 二度にわたり、一通り複写に於ける基本的な留意事項をお伝えしたつもりである。まだまだ細部については書き漏らしていると自覚しているが、取り敢えずお伝えした範囲で複写の技法を身につければ、他にも大いに活用できるので、どうかその御利益に与っていただければと願っている。
 普段あまり縁がないと思われる複写についてコテコテと言に及んでしまったが、読者から以下のようなメールをいただいたので、これ幸いと、追い打ちをかけてしまおう。

 「私は風景写真を主に撮っていますが、立体物である風景も複写と同じような考え方をしてもいいのですか?」というものだった。

 「まったくかまいません。むしろその方がより良い結果が得られます。風景は大方の場合、お天道さまの粋な計らいのお陰で均一な光を与えられます。均一な光とは、平面体であれば中心部と四隅の明度差が生じないという意味です。人工光と異なり、被写体の大小に拘らず太陽光は常に一定しています。
 風景を一枚の絵と捉え、それを複写の要領で撮れば、中心部から周辺部まで解像感のあるシャープな画像が得られるということになります。また、色収差や周辺光量不足もかなり軽減できます。風景は立体物ですから光に照らされたものはすべてコントラストが生じ、晴天下ではシャドウとハイライトの明暗比が大きくなり、曇天下では小さくなることはすでにご承知のことと思います。
 コントラストは光量の強さによるものではなく、光源の大きさ(広さ)によって左右されますから、デジタルであれば強いコントラスト下(晴天の太陽は “点光源” )に於いてハイライトが飛ばぬような露出補正を心がければOKです。フィルムは反対にシャドウを潰さぬような露出補正をすればいいのです。
 どのくらい飛ばすか、あるいは潰すかは作者の撮影意図やイメージを優先されればよく、こうでなければならないというものではありません。描くイメージにどう対応するかとのメソードを確立しておけば、撮影時に於ける迷いも少なくなるでしょう。このメソードの確立に、 “自身のレンズの性質を知っておくこと” が一役も二役も買ってくれます。
 三脚を持参されれば、ISO感度や絞り値、シャッター速度などの制約から開放されますから、ブレの心配もなく、より良い結果が期待できるのではないでしょうか。複写の御利益に与っていただければ嬉しく思います」とお答えした。

 今ぼくはA3ノビやA2のプリントをしている。いずれの写真も常用の16〜35mmショートズームで撮影したものであり、レンズは無限大∞に焦点を合わせているわけではないので、遠い樹木や家屋などにはフォーカスが来ていない。至近の地面にもフォーカスが来ていないが、できるだけ汚い描写にならぬように絞り値には配慮しているつもりである。
 画像全体が、いわゆるパンフォーカス気味ではあるけれど、パンフォーカスを目的に撮ったものではなく、その描写にはほぼ満足しているのだが、A2ほどの大伸ばしになるとレンズやカメラの限界が自然と見えてくる。レンズの欠点も目立ってくる。プリント結果に不満はないのだが、人間の性として、欲には限度がなく始末が悪い。
 さらなる解像感が欲しいと感じるのはぼくばかりでなく、いってみればそれは写真愛好家の業というべきものだろう。けれどぼくも複写の御利益に寸分なく与っているのだと得心して、自分の貪婪(どんらん)さに歯止めをかけることにしている。性能を限界まで発揮できれば、後の不始末は機器に責任転嫁してしまえばよいとの料簡である。性能に対する深追いは、逃げ道を失い、したがって賢人には禁物である。

 大伸ばしをして確認を新たにしたことがある。御利益がてらそれをお伝えしておくと、粒状のかかったものとそうでないものを比較してみると、視覚的にかなりの差が生じるということである。
 粒状については以前お話ししたことがあるが、大伸ばしをすればするほど立体感に明瞭な差が生じる。粒状のかかったものは立体感があり、ないもの(デジタル本来の特性)はどこかのっぺりした感が否めない。
 長年フィルムに慣れ親しんだぼくは、粒状のないデジタル画像はどこかベタッとしたものを感じている。これが嫌で、カラーでもモノクロでもフィルム粒状をシミュレーションした画像ソフトを用い、適宜疑似粒子をかけている。欧米のソフトメーカーはすでにその現象を知っており、その点ではやはり先進国である。

 今回の大伸ばしのうちいくつかは本物のキャンバス地にデジタルコーティングを施した感じの良いもの(仏キャンソン社製)を使用しているが(色の再現性も素晴らしい)、キャンバスの細かい凸凹に粒子は埋もれがちとなり明確な姿を現さない。にも拘らず粒子をかけたものとそうでないものとの立体感の差は歴然たるものがあり、人間の曖昧な視覚も決して侮れないことと痛感している。

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 私事のご案内で恐縮ですが、今月18日(火)から23日(日)まで、埼玉県立近代美術館に於いて、我が一味のグループ展「第11回フォト・トルトゥーガ写真展」を開催いたします。
 通常展示の他、企画展として何人かが「写真はどこまで写実に迫れるか」とか「本物かどうか思わず触ってみたくなる」をテーマに挑みました。複写の要領を体得して(?)の撮影です。その成果や如何に? というところです。企画展の作品はご来場のみなさんに「お触り自由」といたしました。
 みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/343.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:茨城県古河市。

★「01古河市」。
仕事帰りに古河市を通った。運転席から枯れたシュロが目に入り、一旦はやり過ごしたのだが、どうも気になりUターンして撮ったのがこの1枚。
絞りf9.0、1/50秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02古河市」。
何故壁にこんな滲み模様が生じたのか、あれこれ考えてみたのだが分からない。UFOが現れたように見え、思わず撮ってしまった。
絞りf8.0、 1/50秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03古河市」。
なまこ板中毒になってしまったようだ。条件反射のように、見ればダボハゼの如く食らいつく。空がうっすらと赤く染まる頃。
絞りf11.0、 1/40秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2017/04/07(金)
第342回:写真の基本は「複写」にあり(2)
 現在、我が一味に複写を命題とした撮影を、今月のグループ展特別企画に向け鋭意挑戦してもらっているのだが、技術的な課題を含め、何を被写体とするかにお悩みのようである。そして、誰もが複写に取り組んだことがないので、「複写」についての概念に理解が及ばない人も少なからずいるようだ。
 辞書を引いてみると「1. 複写機を使って、もとの文書、書類などと同じものを写しとること。コピー。2. 同じものを二枚以上同時に書き写すこと。3. 一度写してあるものをさらに写すこと。また、絵画を複製すること」(大辞林)とある。

 今回ぼくの意図するところの複写は、辞書にある言葉通りのものでなくてもよく、それに準じた考え方で撮影すればよいということだ。原則として何を被写体に選んでもよいのだが、テーマとする「写真はどこまで写実に迫れるか」とか「思わず本物かどうか写真に触りたくなる」を考慮するとあまり奥行きのある立体物は適切ではない。いくら写実的に写せても、写真であることが一見して分かるようなものはこのテーマに則さない。
 質感があり、しかもあまり凹凸のないものが中心とならざるを得ず、つまり複写的な考えを持って撮影すればよいということだ。

 このような試みは普段複写に縁のない写真愛好家にとって、いろいろな意味で意地の悪いリトマス試験紙のようなものとなる。普段から質の悪い一味のいじめに遭っているぼくとしては、優位に立てる千載一遇の機会であり、絶好なるチャンス到来でもあるのだ。この機会を逃してしまうと、この先いつ指導者モドキとしての面目を示せるか分からないし、もしかするとずっと不遇を託ったままでいることになるかも知れない。今回は何が何でもこの企画を押し通さなければぼくは体面を保てないのだ。

 複写は「写真の基本的な知識と技術の結集」なのだから、ぼくの勝ち目もこの一点に集約され、大死一番!? の修業を積んだ写真職人としての敬重を、この場限りでもいいから一旦は勝ち得ておかねばならない。ぼくは職人気質の過ぎたる小心者であり、引っ込み思案でもある。わけの分からない人たちに、指導者モドキを貫くということは、けっこう大変なのだ。

 しかし、この企画の発案者が写真を始めてまだ間もない若い女性であったことがとても興味深く、ぼくはいろいろと考えを巡らせている。彼女に、「写真はまずしっかりと写すこと。ブレ・ボケに注意しましょう。そのためには・・・」とことあるごとに伝えてきた。
 今のところ比較的ぼくに従順な振りをしている彼女は、写真の持つ希有な写実性に着目したのかも知れない。であれば大したものである。複写がこれほど難儀なものだとは知る由もないだろうから、みんなを困らせてやろうとの策略も及ばぬところだろう。
 しかし、良い題材を与えてくれたと指導者モドキは畏れ入っている。

 レンズの評価はさまざまな分野を総合して判断しなければならないが、レンズ設計の黎明期以来、設計者や使用者が最も重んじ、そして望んできたことは、おそらくレンズの結像性能や被写体の持つコントラストを如何に忠実に写し取るかにあったのではないかと思う。
 レンズにはさまざまな収差というものがつきまとい、設計者は「あちらを立てればこちらが立たず」という矛盾とそのせめぎ合いに頭を悩ませてきたのだろう。ましてや商業製品ともなれば採算を度外視して作るわけにもいかず、どこでより高度な妥協点を探るかに腐心してきたのではないだろうか。

 複写に限らず立体物でもレンズに要求される性能は何も変わりはしないのだが、複写の場合はレンズというものの特質を把握していないと、特にそのアラが目立ってしまうことになる。レンズの開放値近辺ではどんなに高価なレンズを使おうとも複写には不適切。解像度は甘く、コントラストもつきにくく、また色収差も生じやすい。おまけに周辺光量が落ちてしまう。
 解像度に関していえば、中心部と四隅を同程度のものとするにはある程度絞り込まなければならない。一般的にいわれることは、開放値から2絞り絞ったあたりが最も解像度が良いといわれるが、それはあくまで中心部のことであって、画面全体をいうのではないことを知っていただきたい。
 では絞れば絞るほど良いかというと、今度は回折現象という厄介な現象が待ち受けており、急激に解像度を損ねていく。撮影者は「その頃合い」を知らないと、複写ではボロが出てしまうのだ。また、単レンズよりズームレンズのほうが複写には使いにくいことも明示しておかなくてはならない。できるだけ歪曲収差(ズームなら、広角側での “樽型歪み”、望遠側での“糸巻き型歪み”)の発生しない領域(焦点距離)を使用すべきである。
 では、どのくらいのf 値が最適なのか、その数値を述べよといわれると、ぼくはとたんに困窮を来してしまう。レンズによる差異が大きいので残念ながら明示することができずにいる。数値を示すと、自分の不勉強を差し置いて、それを鵜呑みにしたり、妄信したりする人が必ず出現し、「上手くいかなかったのはお前のせいだ。お前はそういったではないか!」という決まり文句を発するのだ。指導者モドキは心(しん)が疲れるのである。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/342.html

カメラ:EOS-1DsIII。

★「01朽ちた板塀」。
節が人の顔のように。無補整。手持ち撮影。
レンズ:EF50mm F1.8II。絞りf5.6、 1/125秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02古布」。
亡くなった母の品を整理していたら50年以上も昔の布が。リサイズ画像で分かりにくいが隅々まで見事に解像している。無補整。三脚使用。
レンズ:EF50mm F1.8II。絞りf9.0、露出はストロボの光量で調整

★「03マンホール」。
鉄、アスファルト、塗装、それぞれの質感を。無補整。手持ち撮影。
レンズ:EF85mm F1.2L USM。絞りf8.0。1/100秒。露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2017/03/31(金)
第341回:写真の基本は「複写」にあり(1)
 太公望にいわせると、「釣はへら鮒に始まり、へら鮒に終わる」のだそうだ。この言葉の解釈はいく通りかあるらしいのだが、ぼくは釣をしないので知識もなく、正確なところは分からない。
 釣好きの友人が、「へら鮒釣はとても奥が深く、この難しさや醍醐味を知るにはかなりの年季が必要なのだ」と得意気にいっていたことを思い出す。意地の悪い見方をすれば、行間に「ぼくくらいのベテランにならないとその奥深さは分からないものさ。へら鮒釣を知らずして釣り人にあらず」という、どこか不遜めいた厚かましさをぼくは感じ取っていた。
 「へぇ〜、そうなの。モビー・ディック(Moby-Dick。米国の作家H. メルヴィルの著した『白鯨』に登場する白いマッコウ鯨)じゃないの? 鮒と鯨じゃ大違いだね。どうみたって鯨釣のほうがエライと思うがなぁ。鮒じゃ間が抜けて、命を賭して獲物を狙うというドラマにはならないよねぇ」と、へら鮒釣に入れ込んでいる友人を茶化した。茶化しは、ぼくの意地悪による。

 人は往々にして何かに入れ込んでいると、それを唯一無二のものと捉え、他のものを振り向く余裕を失いがちである。あるいはそれが昂じると鼻高々になり、悪しざまに言い始める。ぼくはそのような気運が性に合わないのでどうしても茶化してみたくなるのだ。
 「私が熱中しているものを理解しないなんて、あなたは損な性分だ。なんと気の毒なことか。あなたは不幸な人」といわんばかりに、どこか憐憫に似た目つきで相手を見つめるのである。時には蔑むことすらある。放っておいてもらいたい。茶化しは、そのような大それた物言いに対するぼくのささやかな反抗手段なのだろう。

 話は横道に逸れるが、昭和37年(1962年)ぼくの中学生時代の流行歌(はやりうた)に『山男の歌』というのがあった。この歌詞を聴いて、ぼくは猛烈な嫌悪を催したものだ。「勝手なことを言って、自分を美化するなよ」と、多感な時代だったぼくは、他を顧みないこの過ぎたる自己陶酔的偏向歌詞に神経を逆なでされたような気がして、その時以来、山行人の身勝手な山礼賛には耳を貸さなくなった。ぼくも相当な片意地である。
 辛辣な批判は大いに結構だが、公平さを欠いた我田引水的依怙贔屓(えこひいき)とでもいうのかな、それは料簡が狭すぎて、第一とても見苦しい。その手合いにぼくは辟易とさせられてきた苦い体験が何度もある。過ぎたる身贔屓は、本質を見失い、本来の楽しみを奪うものだ。

 前号の文末に「一味に複写を命じている」と述べた。真剣に取り組んでいる人もいれば意に介さないという人もいるようだが、ぼくは「写真は複写に始まり、複写に終わる」という考えはあながち間違ってはいないと思う。いや、真を突いているとも思っている。
 写真の基本的な知識や技術が結集されないと複写は容易ならざるものとなるからだ。この考えは極めて公平なものである。
 私的写真で複写目的の機会は多くはないのだが、仕事では日本画、洋画を問わず名画と呼ばれるものをはじめ、また絵画ばかりでなく多くの複写をこなしてきた。複写は簡単なものと捉える向きも大勢いるようだが、いやいやとんでもなく難しいものだとぼくは痛感している。前述した「基本的な知識や技術が結集されないと」たちまちにして馬脚を露わしてしまうからだ。

 数年前、懇意にしている某広告代理店の編成部長からこんな話を聞いたことがある。大がかりなプロジェクトのためカメラマンを公募したところ10数人の若い人たちが来社し、彼らの作品を見せてもらったとのこと。編成部長はその作品を重要視することなく、彼らに複写の宿題を与えたのだそうだ。
 複写を2点。ひとつは社の規定物で、さまざまな色彩の上に直線と曲線が交差している精密な図形。もうひとつは自由にというものだった。音楽コンクールでいえば、課題曲と自由曲である。
 この道30年の編成部長は、「複写をさせれば技術とセンスがすぐに見て取れる。複写は技量を見極める良い方法なのです」といっていた。数多くの複写を体験してきた現場人間のぼくも彼の考えに頷いた。彼らの結果は惨憺たるものだったそうだ。

 ぼくは厳密な複写を一味に求めているのではなく、複写を試みることにより、レンズというものの正体を窺い知ることができればいいと思っている。レンズの良し悪しではなく、普段如何に「 “やばい” レンズの使い方」をしているかに気づいてくれれば、それは大きな収穫となる。複写であれ、立体物であれ、レンズを知ることは撮影の第1歩である。

 どのようなレンズにも厄介な収差というものが常につきまとう。以前に収差について述べたことがあるが、収差をWikipediaで調べてみると「望遠鏡や写真機等のレンズ類の光学系において、被写体から像への変換の際、幾何的に理想的には変換されずに発色する、色づきやボケやゆがみのこと」とある。

 この収差がいろいろな悪さをするわけだが、収差のなかには使い方次第で軽減できるものもあれば、できないものもあるので、まず収差の軽減できる f値を探ることが大事。これを知るには実際にテストをするしか方法がない。
 被写体(平面)にカメラを正対させ(厳密にはこれが非常に難しい。かなりの訓練を積まないとできないが、平面体に水平・垂直の線を何本か引いて、ファインダーを覗きながら合わせるくらいでよい。あるいは新聞紙などでも代用できる)、開放f値から絞りきったf値までを同じ露出で撮影してみれば、その違いは一目瞭然。もちろん三脚使用のこと。「アッと驚く為五郎」(古いなぁ)である。
 結果を知り、漫然と撮っていることの恐怖に震撼とすれば、それだけであなたは1歩どころか10歩前進である。レンズ描写(写真像)のすべてがここに凝縮されているのだから。

 ※掲載写真は我が倶楽部グループ展の特別企画のために、写実を目的として複写したもので、アーティスティックなものを意識していない。30cm正方形にトリミングを前提として、できるだけ実物大になるように撮影。
 掲載画像は縮小リサイズなので、リサイズ専用ソフトを使用してもわずかながらシャープネスがかかってしまう。
 
※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/341.html

カメラ:EOS-1DsIII。

★「01剥げたペンキ」。
ペラペラに剥げかかったペンキ。無補整。手持ち撮影。
レンズ:EF70-200mm F4L IS USM。絞りf9.0、1/320秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02朽ちた板塀」。
風雪に打たれた木は部分的に白い粉が噴き、美しい。太陽の角度が良くなるまで30分待機。無補整。手持ち撮影。
レンズ:EF50mm F1.8II。絞りf5.6、 1/125秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「03絞り染め」。
自宅でライティング撮影。撮影後の現像は部屋の色評価用蛍光灯7灯をつけ、実物とモニターをにらめっこしながら、色を追い込む。三脚使用。
レンズ:EF50mm F1.8II。絞りf9.0。ストロボの光量を調整。

(文:亀山哲郎)

2017/03/24(金)
第340回:写真データを精査してみると
 毎月100点前後、多い時には200点ほどの写真評をしている。義務といいつつも、そこには興味ある発見や良い作品に巡り会うことがあるので、あながち苦界に身を沈めてばかりというわけでもない。
 ぼくの写真評を一味はどのように捉えているのか未だに謎であるが、一応素直に聞くような振りはしている。しかし、一旦手綱を緩めるととたんに暴走を始めるので、ぼくは常に緊張を強いられる。隙を見せたりすると、ぼくの気弱による寛容さをいいことに、一味は自由をはき違え、好き放題の野放し状態に至り、ぼく自身が悩みと昏迷を深めることになる。そのような図式がもうかれこれ14年も続いている。これでは体に良かろうはずがない。

 我の発露あってこその創造だが、何事も “まず基本ありき” が原点である。しかしながら、趣味というのは概ねそのことには極めて鷹揚なものだ。基本を飛ばして我流に走りたがるのが世の常だが、そこに甘んじてしまうと、残念ながら生まれたものはそれなりのものでしかない。これが現実である。
 「急がば回れ」の諺に従い地味なトレーニングを積むのは苦渋を伴い、分かっていてもなかなかそうはいかないのが人情というものだろう。ぼくとて、目先の結果に飛びついてしまうことがある。どこまで隠忍自重するかがポイントとなりそうだ。
 その人情にストップをかけ、思い止まらせることがどこまでできるか、それがぼくに課せられた仕事と割り切っている。心がけとしては見上げたもの(?)だが、相手あってのことなので逡巡もやむなしといったところだ。

 一方、職人への道は、退屈で気の遠くなるような基本の繰り返ししかなく、長い時間を経て初めて我の発露を見出し、具現化に導くものだ。これが個性とかオリジナリティであり、それは基本の繰り返しによってのみ自然発生するものだとぼくは考えている。個性は意識して作れるものではないというのがぼくの、もっぱらの持論である。意識的な個性なんて、そんなものは高が知れている。

 写真評はデータではなく、プリントしたものを見せてもらっている。写真の終着点は古典ながらプリントにありというぼくの考えを押し通している。各自が撮影時のイメージに添って、あるいは美しく仕上げようと暗室作業をしたものを見せてもらっているが、ここにデジタルの大きな落とし穴がある。

 写真の良し悪しはプリントサイズに関わらず、また補整をせずとも判断できる。しかし、アナログにくらべるとデジタルは各自が画像ソフトなどを駆使し、熱心な人ほど思い描いたトーンや色調を極めようとする傾向にあり、それは大変好ましいことなのだが、小さなプリントサイズではその際に生じる画質の劣化を見極めにくい。せいぜいA4一杯くらいにプリントされていれば狼藉ぶりが露見するのだが、それを知ってか知らずか、2Lかそれ以下のプリントで逃げを打とうとする人がいる。これに純情なぼくは誤魔化されてしまうのだ。
 モニターに映し出されたデータを見てぼくは動転し、「ギャーッ、なんてこつばしちゃる! なしてくれよか!」と九州訛り丸出しで叫ぶ。なんっち忌々しいこつか。

 毎年恒例のグループ展(今年も4月)のために、ぼくは展示候補作品の全データを点検することにしている。これも一味が娑婆に出て恥をかかないようにとの親心である。プリントでは逃げ果せても、データではすべての欠陥が白日のもとに曝され、心胆を寒からしめるものにしばしば出会う。いや、ヒジョーにしばしばだ。お天道さまは見逃してくれない。
 ぼくは関所の優しいお代官さまのように、修正箇所の指示をあれこれと与える。労力消費もばかにはならず、この時期になるとぼくは決まって病魔に襲われるのだ。
 この検問を無事通しておかないと、とても恐ろしくて、ご来場のみなさまに「ご高覧賜りたい」とはいえない。

 データを点検・精査しながら感じたことは、広くみなさまにもいえそうなことなので改めてお伝えしておこうと思う。
 いわゆるレンズの片ボケとその対処方法についてである。どのようなレンズにも程度の差こそあれ、片ボケは存在するものだということをまず知っておいていただきたい。メーカーはその許容範囲を定め、範囲に収まるものが出荷されるので、明らかに片ボケというレンズはほとんど市場に出回っていないとの前提でお話しする。
 プリントサイズが大きくなればなるほど、この現象は目立ってくるので、展示会などに出品する際には注意を要する。

 以前、熱心な読者から質問をいただいた。要約すれば「広角レンズなのに何故こんなに絞り込むのか?」というものだった。これについては拙稿で触れたことがあるが、再度記しておこう。
 広角レンズの被写界深度だけを考慮すれば確かにぼくの採用する絞り値は不要と思われる。では何故「絞り込む」のか? 理由は2点。周辺部まで均一な解像度を求めるため。このことはつまりレンズの片ボケを防ぐためでもある。もう1点は汚らしい色収差を可能な限り除去したいからである。
 自分の使用するレンズはいくつまで絞り込めば、周辺部まで均一な解像度を得られるか(片ボケも含めて)、色収差を軽減することができるかを知っておけばよりシャープな画像を得られる。
 前号の末尾にこんなことを書いた。「上手にこなせるようになるか、しっぺ返しを食うか、ぼくは愉しみがひとつ増えたような気がしている」と。
 今回、一味のデータを精査して分かったことは、片ボケと盛大なる色収差に無頓着な人が少なからずいたことである。ぼくは愉しんでいる場合じゃない。

 複写(立体物ではなく平面体)は、被写界深度は必要ないので、絞り込むことはないというとんでもない勘違いをしている人がたくさんいる。複写こそレンズの性格を知っておかないと大失敗をしてしまう。レンズの荒が目立ってしまう。今、ぼくは再び愉しみを得ようと、一味に複写を命じている。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/340.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:群馬県館林市。

★「01館林市」。
「写真ってこのくらい何気なくていいんじゃないか? この空気感さえ掴めれば」と自問自答してみた。
絞りf10.0、1/200秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02館林市」。
一昔前はどこにでも見られた木造家屋。 “風情” って何だろうかと考えながら。左端に月がかすかに浮かぶ。
絞りf9.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03館林市」。
これもぼんやりしながら、かつてのポラロイド写真をぼーっとイメージして1枚だけいただく。
絞りf11.0、 1/160秒、ISO100、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2017/03/17(金)
第339回:超広角レンズ(3)
 昨年7月、栃木県の烏山市で、立ち栄えの過ぎた紫陽花を眺め、思うところあり実に30年ぶりにカラー写真に取り組んでみようと発心した。

 仕事は99%がカラーでの注文だが、そこでは色、形、質感が第一に問われ、実物により忠実であることが強く求められる。特に美術工芸品や商品撮影に於いては高い精度が要求され、それに適うべく技術を長い間よろけながらも蓄積できたと思っている。完璧な手法などこの世界にあろうはずもないが、「塵も積もれば山となる」で、毎日撮影しても確信を持てる山となるにはやはり10年の歳月を要するものだ。
 仕事がオフの時には借家の12畳間に設えたスタジオに閉じ籠もり、あれこれ実験ばかりを繰り返していた。費用も時間も多大な投資だったが、見返りは十分に得られたと思っている。投資は嘘をつかないものだ。
 写真を撮って報酬を得るにはそれなりの投資が必要であり、それがプロとしての最低条件だとぼくは考えている。

 制約だらけの窮屈な仕事から逃れて、自由にカラー写真を操ってみたいとの欲求が日々強まっていたのと時を同じくして、カラーへの挑戦は従来のモノクロ写真への新たな発見と展開があるに違いないと思い始めていたところだった。ぼくにとって私的写真はやはりモノクロが本意なのである。モノクロのためにカラー再考を促されたようなものだった。
 忠実な色再現をひとまず置き、自身のイメージカラーを追及することにより、今まで見えなかったものが見えてくるに違いないという予感がひしひしとあった。アマチュア本来の写真を愉しむことに重心を置きながら、自身の色を極めていけばいい。しばらくは色の世界に遊んでみようと思ったとたんに気が楽になったから不思議である。

 この8ヶ月間は手許にいくつかある美術全集(洋の東西を問わず)を繰ることに明け暮れている。おかげで日課にしている読書がゆるがせになってしまったのは致し方のないことだ。
 撮影に出かけては絵画から得たヒントを元にイメージを構築し、頭の中で色を洗い流したり、還元したりしながら、ぼくにとっての、「色のほど」を見つけることに専心している。この作業は画家になったような気分でとても愉しい。
 シャッターを押すまでは愉しいのだが、帰宅してからの暗室作業は苦界そのもので、邪鬼の徘徊する穢土(えど)の如し。あるいは反対に、どのような釉(うわぐすり)を塗り、何℃の窯で何時間焼くのかという陶芸の面白さを写真に置き換えている節もある。陶芸の化学変化を自身の心的化学変化に置換している。
 ともあれ、ぼくの「色のほど」は浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返している。そのうち徐々に淘汰されていくだろうと、高を括っている。

 そうだ、超広角レンズの話だった。
 使用上の注意点や特徴についてはいろいろな方々が述べているのでぼくがここで改めて書く必要もないのだが、あまり触れられていないことについてお伝えしておこうと思う。

 掲載した夕陽(斜光)での撮影は(館林市での撮影は冬の斜光。約2時間)、太陽を背にすると画角が広いため、どこかに自分の影が写り込んでしまうことになる。陽が傾くほど影は長くなり、防ぎようがないのだが、これを由とするか否かはその時の状況次第。肝要なことは、この現象をどのように考え、処置をするかをあらかじめ撮影の作法として決めておけば楽である。
 ぼくはできる限り自分の影を避けることを優先するが、このアングルしかないという時に、自身の影にはまったく頓着しないと決めている。まず、アングルありきということだ。影も電線などと同様に絵作りに参加させてしまえばいい。自分の影に神経質になることはないのではないかと思っている。
 背中に太陽が正対するのであれば、カメラを振り上げるまで被写体に寄るという方法もある。あるいは自分がしゃがみ込めばカメラは自ずと上方に向けざるを得ず、影武者は出現しない。地面を多く入れようとすれば影は写りやすく、空を大きく取れば避けることができるという道理は誰にでも理解できる。

 ぼくは今、光学に従った当たり前のことを述べているに過ぎないのだが、超広角を使用する際には、対処法を体に刻んでおけば迷いなく素早く撮ることができるということだ。ここが肝心。
 そしてもうひとつは逆光時である。光の方向と角度により盛大なハロー(ハレーション)やゴーストといった厄介な副作用を生じることがある。これは他の焦点レンズでも同様だが、超広角ともなると使い勝手がさらに悪くなる。敢えてそれを利用し、果敢な絵作りをするという向きもおられようが、一般的には極力避けるべきだろう。後始末(暗室作業)が大変だから。
 ゴーストと異なり、ハレーションは上手に使えば美しい表情を得られるが、これは複雑な条件が多く、場数を踏むしか方法がないとぼくは考えている。

 扱いの厄介な超広角レンズではあるが、この魅力に取り憑かれているひとも多い。うちの一味にも10-22mm(フルサイズ換算で16-35mm)の贅沢なズームを手にしている者が2人いるが、「このレンズ、使い始めるとやめられませんねぇ」とぼくに迫ってくる。今はまだ麻薬が効いているようで、しばらくはそのまま放置しておこうと思っているが、上手にこなせるようになるか、しっぺ返しを食うか、ぼくは愉しみがひとつ増えたような気がしている。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/339.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:群馬県館林市。

★「01館林市」。
今は使用されていないであろう駐車場に、地を這い舐めるような斜光が一筋。シャドウ部に青い塗料?が浮かび上がる。
絞り10.0、 1/40秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02館林市」。
雲が猫の肉球のように見え、寒風に吹かれながらも取り敢えずシャッターを切る。
絞りf9.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「03館林市」。
「正田醤油館林工場」。屋根が反射板となり貯蔵塔を照らし出す。ゴーストの出ないギリギリのアングルを選ぶ。
絞りf11.0、 1/500秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2017/03/10(金)
第338回:超広角レンズ(2)
 歳とともに写真というものをより深刻に受け止めるようになってきた。まことに深刻である。残り時間が少なくなってきたとの自覚がそうさせるのかは半信半疑だが、それより実際のところ、写真について分からないことや迷いがどんどん増えてしまい、ひとつでも疑問を紐解いて自身の写真に役立てたいという、ぼくにしてはあるまじき殊勝さが頭をもたげているのだと思う。
 寿命については何度か死の瀬戸際を体験しているので、自然流というか諦観めいたものがあり、やはり残り時間云々は当てはまりそうにない。
 いろいろなことを知れば知るほど、それにつれ知らぬことが増幅していき、知らぬことの恐さに怯えるのは、とどのつまり進歩や上達の力添えとなるのでぼくはその恐怖を甘受している。勉強すればするほど分からないことや疑問が増幅し、それを何とか解決し、手にしたいと願っている。
 「知らぬが仏」というが、そんな仏になど向学心をもってすれば誰もなりたくはないだろうし、それをいうのであれば、「無知ほど恐いものはない」に置き換えたほうがいい。「めくら(差別用語ではない)蛇に怖じず」ともいうしね。
 
 写真は知識や技術だけでは成り立ちがたく、感覚もそれにつれて同時進行しなければ意味がない。感覚を手助けするためには(印画紙上に具現するためには)技術が必要であり、技術の練磨により感覚も育っていくものだ。双方はいつもシーソーのような関係でせめぎ合っている。一方にだけ肩入れすると写真の姿が歪んでしまうようにも思う。
 また、アイデアも感覚の一種として大切なものだが、アイデアのためのアイデアに終始しがちで、多くのものは写真自体のクオリティという面で大いに疑問符が付く。アイデア倒れに終わってしまうものが大半であるようにも思う。技術と感覚のバランスが崩れているからだろう。
 そんなことばかりを考えていると深刻すぎて迷宮に入ってしまいそうだ。

 先週のある日、線路端を歩いていると小学校高学年と覚しき数人が走ってくる電車や列車にカメラを向け盛んに撮っていた。あの年代、ぼくにも同じような思い出がある。しばらく立ち止まってその様子を窺っていると、撮り鉄小僧たちは口々にどのアングルから撮れば「カッコよく写れるか?」なんてことを相談し合っていた。憧れこそが撮影の第一歩なのだから、ぼくはその光景を微笑ましく眺めていた。彼らの不満は一様に立ち入りを防ぐ金網にあった。思ったように写真が撮れないのは金網のせいだと彼らは結論づけた。なるほど確かにそうだろう。視野を金網で塞がれることほど歯がゆく鬱陶しいものはない。福島第一原発でぼくもその苛立ちを存分に味わっている。

 線路をまたぐ歩道橋の階段中頃あたりにぼくは良いポジションを見つけた。ここなら金網が妨げにはならず、線路の曲がり具合を見ても良いアングルが取れそうだった。ぼくはすぐに少年たちに声を掛けた。
 「お〜い、君たち、ここがいいぞ!」。走り寄ってきた少年たちは汽笛一声「おじさん、すごいね! ここなら金網が邪魔にならないね」と褒めてくれた。ぼくは年に一度くらいの割合で褒められることになっているので、これが今年最後の褒め言葉というわけだ。ぼくも、小僧たちも、すこぶる機嫌がいい。

 この時彼らは静止画ではなく動画を撮っていることを知った。昔、8mm動画で遊んだことはあるが、フィルム代や現像費用を考えると決してお手軽なものではなかった。なんだか隔世の感ありだなぁと思いつつ、彼らの撮ったものを見せてもらった。
 ひとりの少年がぼくを仰ぎ見ながら、「もっとスピード感が欲しいんだよなぁ」と言い訳のようにつぶやいた。ぼくは動画には素人だが、一応プロとしての居住まいを正さなければいかんのではないかと思い始めた。損な性分だが、褒められた恩を、年一度のことなのだから、ここで返しておきたかった。

 「スピード感を出すにはレンズを広角側に。迫力が欲しければ望遠で、というのが一応の原則だ。よく覚えておきなさい」とぼくはそれらしくいった。彼らは良いおじさんに巡り会ったのだ。
 少年は、「では、スピード感と迫力の両方が欲しい時には、その中間で撮ればいいの?」と質問してきた。なかなかに鋭い。そ〜ゆ〜難しい質問をぼくにしてはいけない。
 「この場合、両方を足すと2にはならないんだよ。相殺されてしまう。相殺って分からないよね。長所や特徴がお互いに影響して効果を失ってしまうということね。だから、広角と望遠の中間で撮るとフツーの写り方になってしまうということなんだ。世の中はなかなか思うようにはいかないもんなんだよ。マラソンの中継を見たことがあるでしょ。望遠画像を見ると選手間の差があまりないように思えても、広角で撮るとずいぶんその差が感じられて “あれっ” と思うことがあるでしょ。あれと同じなんだ。レンズの違いによる目の錯覚というやつね。頭も錯覚を起こすことがあるから、それを防ぐためには両方を知らないと誤魔化されちゃう」と良いおじさんは訓話めいたことを差し挟みながらいった。半世紀以上も昔に身を置きながら、ぼくは懐かしさに浸った。

 静止画であろうと動画であろうと、広角になればなるほど余計なものが写り込んでくる。「写真は常に引き算」と主張しているぼくにしてみれば、その矛盾をどう解消するか? 悩みは年老いてますます深刻化していく。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/338.html


カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM。
撮影場所:群馬県館林市。

★「01館林市」。
16mm広角レンズを仰ぐほど遠近感が強まり、特有の描写に。PLフィルター(偏光フィルター)を使用して空を暗く落とす。昔懐かしい看板に惹かれて。
絞りf8.0、 1/40秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02館林市」。
うまい具合に信号や電柱の陰が白壁に写り込んだ。隣の中華店は廃業か。
絞りf9.0、 1/80秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03館林市」。
「旧二業見番組合事務所」(にぎょうけんばんくみあいじむしょ)。料亭と芸妓置屋の二業を取り仕切る事務所。昭和13年(1938年)建造で、国登録有形文化財に登録。コントラストの強い斜光により、両脇がほどよく陰に。この写真は各部のシャドウ部をさらに落としている。
絞りf8.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-2.00。

(文:亀山哲郎)