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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2021/08/13(金)
第558回:青春の血潮
 「ワクチン打った?」というのが仲間の合い言葉のようになって久しい。かくいうぼくも、2度目のワクチンを接種し、時間的にはすでに免疫ができており、主治医にいわせると「本来ならもうマスクをする必要はないが、このご時世、要らぬ難癖をつけられる恐れがあるので、君子はマスクをしたほうが良い」のだそうだ。ぼくはいつの間にか君子に大化けしているらしい。

 ぼくの生きて来たたかだか70年余の間に、これほど酷い疫病が世界中に蔓延し、多くの人々に苦しみを与え、そして膨大な犠牲者を出すとは夢にも思わなかった。人類史を振り返れば、医学の進歩した現代であっても、いずれ、恐ろしい伝染病が人類に襲いかかってくるであろうとの予感はあったが、まさか自分の人生の晩年になってとは考えもしなかった。
 武漢コロナは、倹(つま)しい一介の写真屋の活動を極端に制限し、また晩年の貴重な時間を無残にも奪い取っているのだ。

 2度のワクチンを済ませて、その効果はどれほどのものか当人には分らないが、この熱暑が和らぎ始めたら、少しずつ疫病以前の、自分の写真を撮るための行動様式に戻ろうとの意を固くしている。様子を見ながら、撮影の行動範囲を徐々に広げていきたい。
 感染しにくいということは、他人に移しにくいということでもあるので、ぼくは副反応のリスクよりこちらを優先した。人様に迷惑をかけることなく、医療体制の逼迫をも緩和し、少しでも晴れた気持で写真を撮りたいとの思いが先に立った。もしかして、医者さんのいうが如く、ぼくは君子に化けているのかも。いや、「化けて」いるのではなく、「気取って」いるのかも知れない。

 この1年半、我慢の甲斐もありせっかくいろいろな花とも馴染みができたので、今後も彼らと上手くお付き合いをしていきたいが、中断を余儀なくされている街の佇まいや人物スナップ撮影の勘を取り戻さなくてはと思っている。
 何年も撮り続けてきたのだから、その勘は案外早く戻ると思いたいが、今、その楽しみと不安が混在しており、気持だけは厚かましくも「熱き青春の血潮」 !? なのだが、おいそれと身体がその血潮に反応してくれそうもなく、どうしても悲観が勝つ。気持に身体がついていかないことを実感することほど悲しいことはない。誰もが体験してきたことを、ぼくは今自分のこととして、信じ難い思いを抱きながら悲嘆に暮れている。
 また、多くの人々は、ある年齢に達すると、社会や家族に対する義務や責任から解放され、肩の荷を降ろすことができるらしいが、どっこいフリーランスの物づくり屋というのは、息絶えるまで自身へのそれから逃れることはできないのだと思う。良いものを作る義務と責任を自ら背負い、そのような生き様を演じざるを得ない種族だとぼくは考えている。それは宿命のようなもので、やはり、君子など気取っている場合じゃないのだ。

 先日、暑い最中に、いつものように貸し農園の周辺を徘徊していたら、盛りを過ぎた鬼灯(ほおずき)の実がいくつか地面に落ちていた。鬼灯というのはどこか情趣があり、子供の頃は、実のなかを取り除き(よく揉んで柔らかくし、皮を破らぬように芯を慎重に取り除く)、それを口に含んで音を鳴らして遊んだものだ。
 積み重なった枯れ枝の上に落ちていた何個かの鬼灯に子供時分のそんな懐かしい思いを乗せて撮ってみた(掲載写真01)。演出はしたくないので、落ちていた何個かの散らばっている鬼灯のバランスを吟味し、ありのままの姿を中腰になりながら真俯瞰で撮った。
 ぼくの使用している何種類かの画像ソフトにあるグロウ(Glow。光彩とでも訳すのかな)やグランジ(Grunge。写真用語としては適切な日本語が見当たらない)を何種類か組合わせれば、浮いたように描ける。面倒な選択範囲などを作らずに済み、最小限の作業でイメージ通り描ける。物臭なぼくはそれを頼りに、腰をふらつかせながらシャッターを切った。

 焦点距離50mmの標準レンズを付けていたので、かなり腰を折る姿勢となった。足を開くと陰が鬼灯にかかってしまい、足を閉じ不安定な恰好で速いシャッターを用い、1枚だけ気合いを入れて撮った。
 他人には「何枚か絞りやシャッター速度、露出や構図を変えて撮りなさい」というくせに、相変わらずの横着を決め込んでいる。先日の蓮撮影の失敗もどこ吹く風、ぼくはいつだってまるで他人事のようだ。なので、イマイチ説得力というものがない。

 ファインダー越しに鬼灯を覗きながら、「色合いといい、艶といい、何だかプラスティックのような質感で面白いなぁ。鬼灯ってこんな感じだったかなぁ」とぼくはひとりごちた。3個の鬼灯は、1本の幹から落ちたものであるにも関わらず、それぞれが三者三様の佇まいを示しており、氏も育ちも違うような顔をしていた。自己主張の強い3人の鬼灯たちだった。

 この三者よりもう少し年配と思われる鬼灯がひとつ離れて落ちていた(掲載写真02)。実を覆う表皮が3分の1ほど失われ、繊維が露出していた。被写体としてはこちらのご年配のほうが魅力的であり、惹かれるものがあった。
 仏教でいうところの輪廻転生を思い起こさせ、宗教的でさえあった。この枯れた鬼灯にも、熱き青春の血潮の時代があったのだ。
 ぼくはこれを拾い上げ、持って帰ることにした。自分の部屋で、先輩と覚しきこの鬼灯にじっくり対峙し、流転について学びながら、写真を撮らせてもらうことにした。

 「かめやまからみなさまへのご案内」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は8月31日までです。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://www.fototortuga.com

http://www.amatias.com/bbs/30/558.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
三者三様の鬼灯。同じ親から生まれて、人間と同じだね。
絞りf4.0、1/300秒、ISO400、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
このまま置いておけば、いつかは全部繊維になるのだろうか? ならないよね。
絞りf20.0、1秒、ISO400、露出補正-1.33。部屋の自然光。三脚使用。


(文:亀山哲郎)

2021/08/06(金)
第557回:開放絞り信奉者(3)
 絞りにまつわる失敗談(前号)を本テーマとは少し離れたところで述べてしまったので、本題に入れず立ち往生となった。「開放絞り使用」について、もしかしたら誤った考えをお持ちの愛好家がおられるかも知れず、大きなお世話を重々承知で書き連ねるつもりだった。
 あれもこれもがあまり出来の良くない頭のなかで錯綜してしまったものだから、途中から立ち戻る気力や知恵を失い、もう開き直るしか手立てが残されていなかった。
 「この際だから、失敗談を恥じることなく披瀝し、参考にしてもらえばそれでいいのではないか。絞り値の選択が作画に際して如何に大切な役割を担っているかを知ってもらえればよい」との思いから、突っ走ってしまった。
 本来、ぼくの目論見からすれば、このテーマは2度の連載で済むほどの素朴な内容である。開放絞りについて、ぼくにレンズ設計者が語るような専門的な知識があるわけでもなく、加えレンズ光学的な事柄にも疎い。写真屋と設計者は別世界に住んでいるものだ。

 絞り開放値の明るいレンズ( F値の数字が小さい)を手にした時の喜びは人情として十分理解しているつもりだし、ぼくにもそのような体験が過去に何度かあった。レンズは明るければ明るいほど値が張るので、それを手に入れれば、意地でも開放絞りで使ってみたくなる。何でもかんでも「開放絞り信奉者」となり、それ一辺倒となる気の毒な人をぼくは何人か実際に見てきた。それを使わなければ損をしたような気になるらしく、端で見ていると不憫でならない。これまた情理の成せる業である。また、開放絞りで撮影した時の特有の描写能力もぼくは承知している。だがそれは、総じてよろしくない。

 ぼくが本来ここで述べたいことはとても単純というか大味なことで、「絞り開放による撮影は、そのレンズ特有の描写をするけれど、それはレンズの最も美味しくない部分(潔くいえば、欠点が多い)を使用したものであって、それを承知の上で使うこと」に尽きる。
 レンズの絞り開放とは、さまざまな収差が最も盛大に発生する状態と捉えていい。収差とは、以前に拙稿でもお話ししたことがあるが、Wikipediaに上手くまとめてあるのでそれを借用すると、「収差とは、望遠鏡や写真機等のレンズ類による光学系において、被写体から像への変換の際、幾何的に理想的には変換されずに発生する、色づきやボケやゆがみのことである」(ママ)とある。
 複雑に絡み合う各収差を如何にして取り除くかにメーカーなどのレンズ設計者は苦労しておられるといっていい。収差(レンズ設計)というのは、「あちらを立てればこちらが立たず」という厄介な性質を有しており、コンピューターやAI(人工知能)を駆使しても、商品として成り立たせるのは大変な苦労だと聞く。

 収差を毒に喩えるのなら、レンズの開放絞りは毒がたくさん入っているきわどい状態といい換えても良いだろう。稀に、その毒が良い味を提供する場合もあるが(これは主観的、もしくは我がレンズ可愛や的な見方による)、ほとんどの場合、そうではないことを知っておいて欲しい。
 頑なに「毒を食らわば皿まで」を踏襲する豪気な人をたまに見受けるが、そのような意地っ張りでは、「毒薬変じて薬となる」世界には縁遠くなるばかりだ。

 大味にといったので、それに倣って、
 まず「毒その1」。周辺光量落ち。これはどのような高価なレンズでも発生する。しかし、この現象は時として、中心部に主被写体を置いた時に訴求力・求心力を増すという利点がある。これは視覚心理学に基づいたものらしい。現像ソフトなどで周辺光量落ちを修正することが可能だが、敢えてそうせずにこの効果を利用するもよし。この現象は、絞りを絞っていくにつれ減少していく。

 「毒その2」。レンズの本来有する解像度を得られにくい。また、周辺部に行くほど像が乱れたり、コントラストが減少する。全体に、甘く、柔らかいとの視覚的な印象を与えるが、デジタルでは画像をPCモニターで拡大することができるので、その弱点が目に付き、それを承知で使用するのは、特殊な場合だ。シャッタースピードを速めたり、ISO感度を低く抑えることができるが、画像解像度や抜けの良さなどについて、大きな期待は寄せられない。

 「毒その3」。そのレンズの有する本来の解像度に関して、それを得るには、定説では開放絞りから2絞り絞ったあたりだといわれている。押し並べて、最大公約数的には、その論は概ね正しいが、これは人間と同じく個体差があるので、鵜呑みにはできない。実写で試す他なし。また、単焦点レンズとズームレンズを、同じ土俵で論じるべきではないというのがぼくの見解である。

 「毒その4」。倍率色収差(波長の異なる各色がレンズを通して、合焦点に色ずれを起こす現象)がコントラストの強い画像周辺部で生じやすい。この現象は、絞ることにより減少していく。あるいは画像ソフトなどで取り除くことができるが、良質なソフトを使用することをお勧めする。なお、アポクロマートと命名された高価なレンズは、この色収差が補正されている。

 上記のようなさまざまな毒が最も色濃く現出するのが、開放絞り値である。実際にはカメラを三脚に据え、あなたの愛用するレンズの絞り値を変えながら、平面、立体の両方を実写するしかない。絞りを変えることにより写真の表情も変化していくので、あなたの撮影イメージに添って絞り値を選べばよい。誰かのように横着をせず、絞りを変えて何カットか撮っておけば保険もかけられるし、また愛用レンズの正体を知ることもできる。
 そうすれば、レンズ選びも写真趣味の一興となる。誰かのように、それで身上(しんしょう)を潰さぬように。

 「かめやまからみなさまへのご案内」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は8月31日までです。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://www.fototortuga.com

http://www.amatias.com/bbs/30/557.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
花弁の散ったひまわりが川辺にひっそり。
絞りf2.8、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
夕陽に一斉に背を向けて咲く一群。こちらは花弁がきれいに映える。
絞りf11.0、1/100秒、ISO800、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/07/30(金)
第556回:開放絞り信奉者(2)
 このテーマに関連したぼくの至近の失敗談を先ず恥じることなく、えらっそうに一席ぶつ。前号で、「どのような絞り値を選択するかというのは、撮影の基本中の基本である」と大上段に構えて述べたばかりなのに、早速その過ちを犯してしまった。えらっそうなことをいわなければよかったと、ほとほと後悔している。PCモニターを見ながら心密かに、「オレとしたことが、なんてざまだ! 穴があったら入りたいくらいだ。でも、誰も見てないし、いわなきゃバレないんだけど。正直であるべきか、とぼけるか、そこが問題」とハムレットのような心境でつぶやいた。「正直の頭に神宿る」ともいうしね。

 さいたま市を東西に貫く国道463号沿いに「浦和くらしの博物館民家園」という、どちらかといえばジジ・ババ向きの、まったりとくつろげる静かな空間がある。ぼくはここに好んで立ち寄り、年に何回かはここのベンチに座ってボーッとしたひとときを過ごす。いつも閑散としているので心地が良い。
 案内によると、「市内に伝わる伝統的な建造物を移築復原し、その保存をはかり、あわせて過去の生産、生活用具を中心とした民俗資料を収集・保存し、これらを展示公開している野外博物館です」とある。用事がてらの通りすがりに、たまたま中望遠レンズ(焦点距離135mm)を持っていたので、ここで栽培されている古代蓮を撮ってみようと寄ってみた。新たに発注したRFマウントの100mmマクロレンズがまだ手元に来ていないので、いささか心許ない。愛用していた旧マクロレンズは友人に譲ってしまったので、今のぼくは等倍マクロレンズを持っていないインチキ写真愛好家である。マクロレンズというものが如何に頼り甲斐のあるものかを、改めて知る縁(よすが)となった。

 それはさておき、ぼくの立ち寄った時間は夕刻だったので、すでに花は閉じていたが、この日は花が目的ではなく、シャワーの噴出口のような、あるいは蜂の巣のように見える花托(かたく。古名「はちす」。蜂の巣からきているとするのが通説。また、「花床」ともいう)を撮ってみたかった。20年ほど前、上野の不忍池でたくさんの花托を撮って以来の試みだった。

 背景とする蓮の葉と花托、そしてレンズと花托との距離を確認し、その関連性をとくと言い聞かせ、絞り値を塩梅した。3つの花托を矯(た)めつ眇(すが)めつ観察し、アングルを変えながら計6枚、それぞれを2枚ずつ撮った。
 絞りを変えて何通りか撮れば良いものを、前号の言い草を再び用いれば、「賢い方法にそっぽを向き、『一発で決める』なんて粋がっている。何かの沽券にでも関わると思っているのだろうから、ホントに賢くない」のである。この横着が失敗を招いたのだった。横着は身を滅ぼすことを知りつつ、やはりぼくは、賢くなかった。「油断大敵」とはよくいったものだと、今頃になって知らされた。

 撮影直後にカメラモニターで画像を確認することはあまりない。恰好をつけているわけではなく、せっかちのため面倒臭いのと(これが一番の理由)、純然たるフィルム育ちなので、そこには意味のない誇りと意地のようなものがあるのだろう。そして心の隅に、そんな所作はどこか “ぼくの沽券に関わる” との気持が潜んでいることも素直に認めなければならない。また、「職業写真屋たる者が、撮る度にモニターを覗き込む仕草はおまえのしみったれた美学に背くばかりでなく、酷くみっともないから即やめろ」との声がまるで調子っぱずれの輪唱のように騒ぎ立て、追い打ちをかけてくる。余計な雑音に振り回されながら、カメラモニターという文明の利器を敢えて否定したがる愚かな自分があっちこっちにいるのだから、嫌になる。ぼくはぼくで、あれこれ大変なのだ。もっと楽に生きたいものだ。

 帰宅し、撮影したRawデータをPCで確認してぼくは愕然とした。被写界深度が足りないのだ。こんなヘマはほとんどやらかしたことがない。昨今、新調した3本のレンズの正体を見極めようとご執心のため、最近あまり使用していなかった焦点距離135mmの被写界深度を見誤っていたのだろうか。絞りf 8.0 で花托と背景の葉の描写を計算したつもりが甘かったようだ。被写体とカメラの距離、被写体と背景の距離などの、それぞれの相関関係を掴みきれなかった結果だった。

 頭に描いた映像を再現するには f 8.0ではなくf 11.0を必要とし、安全を見越せばf 13といったところか。つまり1絞り分足りなかったということになる。滅多にない粗相をしてしまったもんだから少し狼狽えはしたが、立ち直りの早いぼくは、すぐに気を取り直し、翌日親の仇を取るような気持で、夕刻まだ暑気が漂うなかバンダナを巻いて再撮に出かけた。
 仕事の写真であればこのような横着はせず、しっかり保険をかけ、リスクを避けるのだが、気の緩みによる自信過多というか、腕に覚えがあり過ぎたあまりのしっぺ返しだった。良い勉強をさせてもらった。

 できるだけ手短に失敗談をと思ったのだが、本題を外れてここまで来てしまった。ここから仕切り直しができるほどぼくは器用ではないので、取り敢えずこの場をどう取り繕うかに腐心せざるを得ない。
 突然、何の前ぶれもなく本題に入るのはあまりにも不用心のような気がしている。それはいつものことなのに、何故か今回は殊勝な様を装っている。
 「唐突」という言葉に従い、事を進めようかとも思ったのだが、それをするにはすでに字数をオーバーしており、時すでに遅し。因みに「唐突」とは、大辞林によると「前ぶれもなくだしぬけに物事を行って不自然であるさま」をいうのだそうだ。「唐突の感は否めない」という言い回しがあるくらいだから、畢竟「今さら無様であるから、やめておけ」ということなのだろう。本テーマは、恐れながら次回に持ち越したほうが良さそうである。どうかご容赦あれ。
 蓮の花托を2点掲載させていただくけれど、これは再撮という殊勝な心がけの表れとでもしておこう。

 「かめやまからみなさまへのご案内」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は8月31日までです。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://www.fototortuga.com
 
http://www.amatias.com/bbs/30/556.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:EF135mm F2.0L USM。
埼玉県さいたま市「浦和くらしの博物館民家園」の古代蓮。

★「01さいたま市」
花托に残った種子がちょうど人の目のように見えた。髭も生やして、どことなくユーモラスだ。
絞りf13.0、1/80秒、ISO800、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
逆光に映えた葉を背景に、花托と浮き出た葉脈。葉の彩度を極力控え目に。
絞りf11.0、1/100秒、ISO800、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/07/16(金)
第555回:開放絞り信奉者(1)
 先週、「開放絞り信奉者」について、ちょっとした皮肉を交えて述べようと思ったのだが、何かが咎めたとみえて、ついつい書きそびれてしまった。ぼくもまだ一片の良心と残り火のような体裁をどこかに宿しているらしい。とはいえ、やはり誤った考えによる「開放絞り信奉」について、この場をお借りして、控え目に言及しておきたいと思う。

 ぼくも過去に於いて、知識不足のため同じ過ちを犯し、大口径レンズ(この定義は極めて曖昧で、数字的な規定はない。レンズの焦点距離にもよるし、単焦点かズームかでも異なってくるが、一般的には開放絞り値が小さい明るいレンズを指す。たとえば、F 1.2とかF 1.4などはその範疇に属するといっていい。中望遠レンズであればF 2.0もそうだろう)を振り回しながら得々として、「何とかのひとつ覚え」よろしく開放絞りでばかり撮っていた時期がある。遠い昔の、恐いもの知らずによる若気の至りだが、「知らぬが仏」とはよくいったものだ。今、当時のことを思い出すと思わず顔が火照る。

 絞り値の選択は、撮影意図によって、敢えて開放絞りを利用し、それは目的あってのことであり、「知らぬが仏」ではないので、咎める理由にはならない。
 おそらく、かつてのぼくと同じような開放絞り一辺倒(大口径レンズにかぎらず、通常のレンズの開放絞りも同様に)の方もおられるのではないかと案じている。大きなお世話といえばそれまでなのだが、 「ぼくの “良心” 」などといいながらも、利便性(シャッタースピードが有利となる)に頼ることへの警戒心から発するぼくの親切心は、おためごかしの嫌いがあるかも知れない。けれど、ぼくは殊の外、写真に関しては心配性でもあり、また自身の失敗を交えての告白なので、そこのところはどうかお目こぼしをいただきたい。

 どのような絞り値を選択するかというのは、撮影の基本中の基本である。撮影目的に応じて(描いたイメージに応じて)、使用f 値を選択することに撮影者は迫られ、頭を捻ることになる。このことは、撮影時に於ける非常に悩ましい問題である。ぼくなど、未だにこの段となると鈍化した頭をフル回転させながら、右往左往している。ああでもない、こうでもないと、それほど厄介で、難しい。絞り値の違いにより、写真のイメージががらりと変化するので、神経質にならざるを得ない。

 迷った時は、絞り値を変えて何カットか撮るのが一番確かで、賢い方法だ。これしかない。絞り値と被写体との距離、そしてレンズの焦点距離の相関関係による描写の違いについて、たちどころに答を出せる人はまずいないだろう。これは途方もないような困難さを伴う課題なのだ。
 絞り値を決める時、その難しさは重々承知なのだが、そのような時には必ずといっていいほど、質(たち)の良くない虚栄心とか見栄のようなものが心にうごめき、誰も見ていないにも関わらず、辺りをキョロキョロと見回しながら、ぼくは賢い方法にそっぽを向き、「一発で決める」なんて粋がっている。何かの沽券にでも関わると思っているのだろうから、ホントに賢くない。関西弁でいうのなら「ほんま、アホやねん」。佐賀・博多弁なら「ほんなこつ、バカばい」。

  f 値を変えれば自動的にシャッタースピードが変化すること(前回に記した絞り優先モードの場合)の初歩的原理は記さないが、絞り値決定の大きな要因は「被写界深度」をどのくらい取るかにかかっている。ファインダー内にある(あるいはカメラモニターで見る)遠近の異なる物体のどこからどこまでピントを合わすかは、作画上非常に重大な事柄だ。
 絞り込めば絞り込むほど、被写界深度が増し、逆であればピントを合わせたところ以外のボケが大きくなる。

 さて、ぼくが学生時代に犯した「絞り開放病」についてだが、その因となったのが、バイトをし、やっとのことで購入したN社の定評ある50mm標準レンズF 1.4 。
 憧れのレンズを手にし、開放絞りばかりを得意になって使っていた。1ヶ月ほど経ったある日、今までしたことのなかった新聞紙の複写を試みた。この知恵を授けてくれたのは子煩悩であった父で、「坊主、新聞紙を、絞りを変えて撮ったらいい」と、その作法を教えてくれた。この実験がどれほど恐ろしくも残酷な結果をもたらすか、18歳の小僧であるぼくには知る由もなかった。それは、生まれて初めての正式な “複写” であった。要領を父に教わり、ぼくは表で三脚を立てて、噴き出る汗を拭き拭きの作業。夏の暑い盛りの頃だった。

 モノクロフィルムを現像し、あるいはカラースライドフィルムをルーペで覗き込んであがりを確認する作業は、ぼくの写真生活に於いてすでに日常化していた。
 複写したモノクロフィルム(フジフィルムのネオパンSS。感度ASA100)で撮った新聞紙を、さらに倍率の高いルーペで熟視したぼくは、「えっ、なんで? どうして? このレンズ壊れているのか?」と声を発し、体中から血の気が引いていくのを覚えた。父は、奥の書斎からぼくのそんな姿を見つつ、「坊主も、ちかっとは利口になったじゃろか?」と、佐賀言葉でいったに違いない。(次号に続く)

 「かめやまからみなさまへのご案内」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は7.15〜8.30 の1ヶ月半です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://www.fototortuga.com
 
http://www.amatias.com/bbs/30/555.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
久しぶりにショーウィンドウに飾られた造花を撮った。50mm標準レンズはなんでも「ストン!」と撮れてしまう。今さらながらだが、はまると虜になるような気がする。
絞りf4.5、1/125秒、ISO125、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
アンネ・フランクを記念し命名された「アンネのバラ」。オランダのアンネ・フランクの隠れ家を訪ねたこともあるが、ぼくはアンネ・フランクに同情はするが、遺憾ながら興味は持てない。いろいろな思いを込めて、この花を撮る。
絞りf2.8、1/100秒、ISO160、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2021/07/09(金)
第554回:題名のない無駄話
 レンズの f 値について述べようとすると、物理光学の専門家ではないぼくでさえも、かなりの文章量を必要とする。撮影に必要不可欠な要素であるf 値の意味するところは、ぼくのような数字音痴でも、思い通りの写真を試みるための大切な知識と道具立てなのだが、ここで説明のための数字を羅列すれば、それは面白くも何ともなく、ほとんどの読者諸兄に敬遠されるだろう。ぼくも書くのは面倒だし、退屈だ。

 数字の示す世界、言い換えれば数字で説明できてしまうような物事というのは、数字で生活している人を除けば、第一に味気ないし、面白味のあるものではないというのが世間の通り相場である。
 ぼくがしばしば持ち出す自説、「写真はカメラやレンズが撮るのではなく、あなた自身が撮るのだ」は、いってみれば写真撮影についての氷山の一角であり、水面下には「では、我々は何をどのようして撮るのか?」との大命題が潜んでいる。それを何とか伝えようと、ない知恵を絞りながら拙稿を554回も重ねているのだが、それができれば、ぼくはもっとましな写真を撮っているのだと思う。

 今回は、数多く巷に棲息する「開放絞り信奉者」を揶揄しようと書き出したのだが、どこかで曲がってしまい、元に戻れそうもないので、このまま雑談めいた話にしちゃおうと考えている。煙に巻くつもりが、巻かれてしまった。なんともはや。

 ぼくは “科学信奉者” であることを、今までに何度か述べてきたが、写真にも科学的論拠を求めて然るべき場合が多々ある。科学の面白さというものはまた別物でもあるし、それを知ることにより表現の幅が広がったり、的が定まるということだってある。したがって、写真は感覚や情緒だけでは、やはり写ってくれないのだ。
 写真の道具は、科学と化学に基づき成り立っているので、それを疎かにしては成るものも成し得ない。「何故写真が写るのか」との原理原則くらいは、知っておいて損はない。それを知るのとそうでないのとでは、スマホ写真でさえ、差が生じるというものだ。

 しかしほとんどの場合、理論ばかりに固執しては、せっかくの写真を成し難いものにしてしまうことにぼくらはそれとなく気づいている。
 物づくりに於いては、優れた論理も欠かすことのできぬ大切な要素であることは重々認めるが、それより、先ずは豊かな感受や洗練された情趣に憧れを抱き、その確保に研鑽を積んだほうが、訴求力のある表現を産み出すには有効だとぼくは感得している。鋭敏で豊かな感性を先ず養う努力が、余計な固定観念に囚われずに済むということでもある。

 だが、何事もどちらか一方に偏るというのは、塩梅がよくないものだ。今、「お前は一体どちらなんだよ」との声が聞こえてきそうだが、偏りによる “いびつさ” はやがて “意固地” を生む。双方のバランスを大切に扱うことがより大事なことなのだろう。ファインダーを覗きながらそこに示される様々な情報を吟味し、そしてシャッターを押す。最近のカメラは、あれやこれやの情報がファインダー内やモニターに所狭しと示されるので、自分に必要な最低限の情報の理解に努めることが大切。

 それらの情報のうち、おそらく誰もが真っ先に注意するのは、f 値とシャッタースピードではあるまいか。自動露出(AE。Automatic Exposure)を利用するのであれば、絞り優先モード(Av)かシャッター優先モード(Tv)、事始めの人は無難なプログラムAE(P)といったところだろうか。プログラムAE以外は、露出という撮影上最も難しい事柄に直接関わってくるので単独で語るには無理がある。露出を決定するf 値・シャッタースピード・ISO感度の三つ巴の相関関係については、今ここで改めて述べないが、写真への理解は先ずここから始まるといってもいい。

 毎回の掲載写真には撮影データを記している。本連載初めの頃に掲載していた資料や説明のための写真を別にして、いわゆる私的写真について、データの開示を決めたのは複数の読者の方からのご要望があったからである。
 ぼくの撮影データなどたいして参考にもならないだろうと思うが、50年ほど昔に勉学の師と仰いだA. アダムスの教本には、撮影データが記されてあった。大変なテクニシャンであった彼の撮影データを見て、ぼくは非常に参考になったし、また学ぶところ大であった。アダムス先生にくらべれば、ぼくなど屁のようなものだが、ご要望があれば、これは公共機関のHPなのだから読者の声に従うのが筋であろう。

 ぼくの使用する撮影モードは、仕事では90%ほどがマニュアルモードだが(したがって “露出補正” という概念がない)、私的写真は圧倒的に絞り優先モード(オート露出なので “露出補正” を必要とする)が多い。しかし、新調したミラーレス一眼(今年4月)では、もっぱら新しく組み込まれたキヤノン独自の新機能であるFvモード(フレキシブルAE)をありがたく使用している。

 これはマニュアルモードとオートのいいとこ取りをしたハイブリッド撮影モードである。前述した “三つ巴 + 露出補正” をそれぞれ任意に決め、あとはカメラが程良い露出を指示してくれるというありがたい機能だ。ぼくはf 値・シャッタースピード・露出補正を自分の希望する値に設定し、ISO感度をオートとすることで、適正露出を得ている。こんなことが、ちゃっかりできてしまうカメラなのだ。長年の勘による不見転(みずてん)でこのカメラを新調したが、この機能については買うまで知らなかった。不見転で失敗した経験がないのは、ぼくの数少ない自慢である。これはかつての道楽三昧の賜である。
 Fvモードのような我が儘がすんなり通るところが、人間社会とは大きく異なる。「あちらを立てればこちらが立たず」という露出の大原則(従来の常識)を打ち破って、勝手三昧を許してくれるのだから、このうえなく重宝している。

 なんだか取り留めのない話になってしまい、揶揄されるのは「開放絞り信奉者」ではなく、ぼくのほうであるようだ。

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カメラ:EOS-R6。レンズ: RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
たまには花でないものを撮りたくなり、カメラのリストストラップを手首に巻き、まさにお散歩写真。
絞りf4.0、1/1250秒、ISO360、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
ガラス越しに見る女性は、何故かいっそうきれいに見えるものだ。
絞りf2.8、1/800秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2021/07/02(金)
第553回:現代のレンズ
 唐突ではあるけれど、 “小心者の野太さ” (つまり、あまり賢くないということ)を以て写真を生業にしてしまったのだが、もしそうでなければ、ぼくはきっとキヤノンの歴代のフラグシップモデルや同社の高価なレンズ群を購入していなかっただろうと思う。ましてや、ズームレンズなど眼中になかったであろうとも思う。
 今まで何度か述べたように、それらは商売道具としての必要性に迫られてのものだった。そしてまた、現在大きな喜びを与えてくれている同社の最新のミラーレス一眼カメラ、ならびにRFレンズのいくつかを手にすることもなかっただろうと思われる。ぼくは今、不思議な縁を凝視し、それにつままれたような心持ちでいる。

 商売人になる前は、ライカ道楽で身上(しんしょう)を潰しかけたし、アマチュアのままであればおそらく今もライカを愛でているに違いない。
 ライカを放棄した一番の理由は、経済的なものではなく、商売人になるための修業をするに際して、「今、お前はこんな道楽をしている場合じゃないだろう」との、殊勝にも切羽詰まった気持に圧倒されたからだった。少しだけ賢かったのかな?

 ぼくのような優柔不断でいい加減な人間でさえ、すべてを犠牲にする覚悟がなければ、この道で食っていけるわけがないことを正直に認めていた。代々物づくり屋の家系に生まれ育った人間としては、それが当然の心得だと、誰ともなく教えられてきた。それが、我が家の物言わぬ家訓である。ましてや、小さな子供を二人抱えてのことだからなおさらだった。この伝、「かめやまはまことに身勝手な男」という世評は至極当を得ている。このことも素直に認めているから、ぼくにはまだわずかな救いがある。
 だがぼくは、世評に気後れするまいと、「案ずるより産むが易し」を信じ、そのお題目をさかんに唱え、世間を睥睨(へいげい)しながら反駁していたことを、昨日のことのように思い浮かべている。やはり、いい気なもんだ。あまり賢くないか?
 
 しかし、身上を潰しかけたこの道楽のお陰で、ぼくにとっての理想のレンズとはどのようなものかを知ったように思うし、また物の価値(妥協のない上質な職人気質から生れる美しくも精緻な工業製品。いわゆる “世界の名品” )や本物とは何であるのかということも合わせて学んだように思う。
 この貴重な体験はこの上なく得難いものとして、今もぼくの心に脈々と息づいている。そしてまた、ここで学んだことは、身の丈を測る貴重な物差しともなっている。したがって、ぼくは「身の程知らず」という言葉の意味を、身を縮め、冷や汗をかきながらも、よく理解しているつもりだ。

 国産・外国産を問わず、いわゆる “オールド・レンズ” の話はさておき、ぼくがこの2ヶ月の間に新調したキヤノンのRFレンズ(今はまだRF 35mm F1.8、RF 50mm F1.8、RF 24-105mm F4Lの3本を使用。今月15日発売のRF 100mm F2.8Lマクロは予約中)を現代のレンズとして、その印象を少しだけ記してみたい。
 厳密なテストはまだしていないのだが(仕事で使用するつもりはないので)、日々使用していれば、おおよその傾向は掴めるというものだ。ただ、並み居る “写真YouTuber” のような慧眼や如才ない話術にはただただ敬服するばかりだが、残念ながらぼくはそのような取り柄を持ち合わせておらず、したがって、これはテストレポートなるものではなく、あくまで印象記と捉えてもらったほうがいい。

 「素晴らしきアマチュア回帰」のところでも述べたが、最新のミラーレス一眼のEOS R6を指し、「そこまでしてくれなくてもいいよ」との正直な感想は、RFレンズに対しても同じである。「レンズ性能は明らかに進化している」とも述べたが、EFレンズ設計時にあったさまざまな呪縛?から、RFレンズは随分と解き放たれたのではないだろうかと推察する。
 レンズ設計の専門家ではないので、詳細について自身の意見を確信を持っていうことはできないが、マウントのフランジバックが従来の44mmから20mmと短くなり(ミラーがないので)、設計の自由度が増したとのことである。このことにより、設計者に多くの利点と融通が与えられたことは容易に想像できる。その結果が、RFレンズである。

 このレンズを子供にたとえると、大人の質問にハキハキと答え、正しい受け答えのできる子供に似ている。まさにRFレンズは、ミラーレス一眼専用に設計されただけあって、一段と対応能力のある優秀な製品であるとの印象を残している。
 率(そつ)のない良い子には違いないがしかし、時にははにかんでみたり、間が抜けて相手をほっくりさせたり、曖昧な態度を示すということも、生きる術に於いて、大切な要素なんじゃない? とぼくはいいたくもなる。あまり大人ぶると可愛げがないよと。情緒的で気分屋の子供をなだめすかしながらの共同作業(撮影)をするのも人間的で、一興ありとぼくは思うのだが、いかがなものであろうか? 

 ぼくは今、斜に構えてものをいっているが、写真創生以来、レンズや写真に求める人間の本能的な欲求にRFレンズは正しく順応しようとしている。それは一方で、信頼感や安心感につながり、今のところその優秀性にはケチのつけようがない。これが2ヶ月間使用した大雑把な感想だが、大雑把とはいいながらも、それ以上は今のところ分からないと、ものの分かった風な顔をせず、見栄を張らずに率直に申し上げるのが、やはり賢明なのだと思っている。
 賢くなったり、そうでなかったり、ぼくはこれでも大変なのだ。

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カメラ:EOS-R6。レンズ: RF35mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ルドベキア。去年は車の窓より不精をして撮った(第508回)が、今年は真面目に向かい合う。ほぼイメージ通りに撮れたと、久々に頬が緩む。
絞りf4.0、1/360秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
色取り取り。早咲きのコスモスが見える。 
絞りf8.0、1/60秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2021/06/25(金)
第552回:冗長なる枕
 ぼくが最後にレンズを購入したのは2017年8月のことで、古希を迎える半年前のことだった。新調した重量級のレンズを撫でながら、「まだ心身ともに衰えは感じないが、これが最後になるだろう」との予感があった。そのレンズは、焦点距離11-24mmの超広角ズームで、重量が約1.2 kgもあり、しかも非常に高価なものだった。ぼくはベソをかきながらも、清水の舞台から一気に飛び降りた。
 研削非球面レンズとしては世界最大の外径87mmを有し、外観はまさに圧巻ともいえ、前玉が大きく出っ張った異様な姿でもある。
 鉄アレイのような重たいボディにこのレンズを装着して街を闊歩し、その重量にへこたれるようなら、「もう写真屋なんて辞めてしまえ」と自重気味に強がっていたものだ。「年寄りの冷や水」とはこのようなことを指すのかも知れないが、このレンズは気持を大いに鼓舞する役をも担ってくれている、と悔しまぎれにいっておこう。

 焦点距離11mm(APS-Cサイズなら6.875mmに相当する)の、いささかエキセントリックとも思える超広角の世界とは、全体どのようなものなのだろうかとの興味にぼくは打ち勝つことができなかった。また、それを使いこなしてみせようとの凛乎たる態度を示したかった。このレンズの購入は、平気で「親を質に入れてしまうような」ぼくの質からすれば、当然の成り行きでもあった。
 「興味に打ち勝つことができるのは、命をさらす恐怖心だけ」というのがぼくの持論であり、またそれが賢者の証なのだと宣って憚らない。 “命をさらす” 価値のあるものというのは、そうそう出会すものではないが、しかし長い人生の間には確実にあるし、それと渡り合ってこその生き様だと思っている。
 そんな瞬間や場が写真屋にも必ずある。そんな時は果敢に挑んでこそ、ぼくばかりでなく誰でもが、それぞれの生業に申し訳が立つというものだ。ましてや、写真屋などというやくざ稼業故、それが出来なくてどうするとの気概がぼくにはまだ辛うじて残っている。やれやれ、また脱線しかかったけれど、話を元に戻そう。

 このような超広角の世界は、未だかつて、ぼくの長い写真歴のなかでも、味わったことがなかった。実をいうと、遺憾ながら仕事に託けてこの高価なレンズを購入したわけではなかったと、この際正直に述べておく。
 購入当時は、まだ武漢コロナ以前で、ぼくは自身のテーマを撮影する以外にも、気の趣くままいろいろなところに出かけ、心に染みた建築物やその佇まいを撮ることに精を出していたが、さらなる広角域の必要性を感じていたし、渇望さえしていた。このレンズを手にして以来、ぼくはいっそう気を吐き、撮影に余念がなかった。
 それらの写真は部分的に拙稿に掲載させていただいたが、非現実的な超広角の世界が面白いと、読者諸兄から何通かのメールをいただいたものだ。

 職人というものは、仕事道具を新調する時には必ず “減価償却” という本来あってはならぬはずの極めて現実的な言葉に惑わされる。逃れることのできぬ現実を頭に描きつつも、「思い立った時が買い時」なのだと自らを得心させている。この点に於いては、まったくの数字音痴で夢遊病者のようなぼくでさえ、家族の手前ちゃんと計算をする。レンズやボディは3ヶ月以内に減価償却できるのなら、迷うことなく買えと、ぼくは誰彼なくいうことにしている。
 アマチュアの方なら、それによって得られる精神的な豊かさと写真に対する高揚感を尺度に据えればいい。以前にも述べたが、投資は裏切らない。投資を惜しむ人は、堂々巡りをするばかりで、進歩が覚束ないものだ。

 幸いなことに、この高価なレンズは一度の仕事(2日がかりのインテリア撮影)でしっかり元を取ることができた。クライアントもこの異様に広い世界をパソコン上で観察し、その価値を認め、喜んでくれた。
 まさに、前テーマで述べた「依頼主や関係者は機材を見て、写真屋の値踏みをしている」のだ。ぼくはこの異形とも思えるレンズを並みいる担当者の前で、これ見よがしに振り回していた。切ない顔をしながら、このような演技をしなくてはならないぼくは、まだまだ未熟者なのである。

 そして、加えるのなら、ぼくはこのレンズの描写能力にすっかり満足している。値段とは正直なものだと、今さらながらに感じ入っている。「これだけの性能を与えてくれるのなら、重さも、嵩(かさ)も、価格も、何のその」である。
 ぼくひとりが、どこかで妥協をすれば、すべてが妥協の産物となり、得るものも得られず、得をするものが何もないという現実だけが残る。良いレンズは生涯の良き伴侶となってくれるのだから、無理を押し購入して良かったと思っている。

 あれから4年が経った今、「このレンズがぼくの購入する最後のレンズになるだろう」との予感は見事に外れ、「アマチュア回帰」の願望を満たそうと、またぞろ新しいレンズの物色を始めてしまった。まったく見通しが甘いともいえるが、それだけやはり清水の舞台は高かったのだろう。今、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」だ。

 今回は、「アマチュア回帰」のために仕入れた新しいRFマウント(キヤノン)のレンズを3本使用し、そこで感じた現代のレンズなるものについて記そうと思ったのだけれど、例によって冗長なる枕となってしまった。紙媒体とWeb原稿の最も異なるところだ。
 しかし、スマホやインスタグラム全盛(ぼくは一時代の風景として肯定しているが)の今、それとは目的の異なる交換レンズの話を、興味を持って読む人たちってどのくらいいるのだろうか? 次回は、その少数派の、否極めて少数派の人に向けて勝手なことを記してみようと目論んでいる。

http://www.amatias.com/bbs/30/552.html
 
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 STM。RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
隣家に咲いていた百合。日が暮れてからペンライトで照らしながら片手で横着しながら数枚撮る。
絞りf5.6、1/125秒、ISO640、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
手入れの行き届いた鉢植えの百合を見つけた。ご主人と覚しき人が、百合に食らい付いているぼくを見つけ、嬉しそうに会話を交わす。雄しべにピントを合わせ、花弁をぼかす。焦点距離105mm。
絞りf4.5、1/160秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2021/06/18(金)
第551回:素晴らしきアマチュア回帰(3)
 このテーマについてじっくり書こうとすると、ぼくの文章は天ぷらのころもばかりが厚味を増し、時にはそれがブヨブヨにふやけ、どこに肝心の海老が潜んでいるのかが分からないような状態となる。きっと7〜8回の連載になりかねず、なかなか中身にありつけないような、腹立たしくもイライラする天ぷらとなる。中身がなければさらに腹立たしいものとなる。そんな天ぷら、誰も食べたくないわなぁ。このことは、実は、 “本人が一番よく承知している” ことなので、いわれる前にいっておかなければならない。でも、今回でこのテーマは最終回にしようと、今ぼくは自分に、懸命に暗示をかけている。

 読者の方から、「 “プロは親を質に入れてでも優れた機材を手にしなくてはならない” (第549回)と書かれていますが、やはりそういうものなんでしょうか?」とのメールをいただいた。将来はこの世界で飯を食っていきたいとの希望をお持ちだった。
 「プロになろうとするのであれば、 “身の丈に合った機材” というおかしな考えを取り払わなければなりません。でなければ、プロにはなれないと、かなりの確信をもって申し上げます」と即答した。
 「もし安物で賄おうとするのであれば、それ相応の仕事しか来ないでしょう。仕事を依頼する人や、現場の担当者はあなたがプロとしてどのような自覚と厳しさ、そして誠実さを持っているかを、あなたの機材で測ることが往々にしてあります。それは厳然たる事実です。つまり、機材で値踏みをされるということです」と、冷徹な真実の一面を正直に伝えた。
 「安物買いの銭失い」というが、それは「安物買いの仕事失い」ということになる。

 さて、ここからが「しかしながら」なのである。どのようなことなのかというと、たとえば最高級のレンズを用いて意気揚々と撮影をし、誇らしげに納品しても、「このレンズの描写やボケ味、シャープ感や発色など、素晴らしいですね」といわれることはまずないだろうと思う。少なくとも、ぼくの長年の経験では、レンズの味わいについての注文や指摘をされたことは一度たりともない。レンズ評などで必ず取り沙汰されるボケについてのことなど、ついぞ聞いたことがない。そのようなことより、意図したものが的確に表現されているかが問われる。

 撮影後、デジタルはすぐに結果が見られるので、ぼくのほうからカメラモニターやパソコン画面を指し示し、稀に「ボケ具合はこんなものでどう?」と訊ねることはあるが、担当者から注文されたことは一度もない。フィルム時代は、撮影前にポラロイドを切るので、同じようにお伺いを立てるが、ここでもボケについての云々は聞いたことがない。

 使用機材でカメラマンの値踏みをしておきながら、優れた機材によって得られた長所について言及されたことは今まで一度もなかった。なんだか割に合わない話と受け止められがちだが、カメラマンとクライアントはこのような相性でつながっているのだと思う。
 「良い物(機材)について彼らは何もいわないが、安物を使えば、相手は不安がる。しっかりあなた自身を値踏みしているのだということを知っておいて欲しい。不安感を抱かせては、仕事をもらえない」とぼくはつけ加えた。

 写真屋は、所詮は道楽者の成れの果てだとぼくはいつもいっている。やくざに似たりだが、道楽者と侮ることなかれ。道楽をした人間こそが、ものの良し悪しを知り、そしてその値打ちや奥深さを図る素養を身に付けているものだ。道楽をしたことのある人間と、そうでない人間との落差は非常に大きなものがあるとぼくは日頃から感じている。これは生き方の問題であり、善悪を指していうのではない。

 広告会社の人間、デザイナー、編集者という種族は、おそらく一般の堅気とは少なからず距離のあるところに位置しているとぼくは見ている。ぼく自身がかつてその世界にどっぷりと浸っていたので、間違いない。そして、彼らはどちらかというと、やくざ系といってもいい。そして、趣味について、やたら凝り性の人が多い。なにかと厄介な人種といってもいいだろう。
 したがって、道楽や道楽者に対する理解度も普通より進んでおり、安普請でも良しとするカメラマンを見る目は冷たく、やはりそれなりのものとしか見てくれない。ぼくは、彼らの見識を正しいことと認めるにやぶさかではない。

 友人の写真愛好家(アマチュア)が、ぼくと同じ旧型のマクロレンズを使用していて、何故か業を煮やし、「どうして、マクロなのに、このレンズは手ブレ防止機能がついてないのよ!」と、ヒジョーにお怒りであった。彼女は自分の癇癪をなだめようと、愛用のマクロレンズを手放す決心をし、手ブレ防止機能の付いた新品のマクロレンズを買ってしまったと報告してきた。
 “なんちゃってカメラマン” の多い昨今、「ガンバレ、オバチャン!」とぼくは快哉を叫んだ。その気概やアッパレ。これが上達の一番の早道だ

 かくいうぼくも、来月下旬発売予定のマクロレンズをすでに予約したが、このメーカーの常で、多分発売日に手に入れることはできず、しばらく待たされるのだろうと思う。
 これは商売道具としてではなく、ぼくの玩具(おもちゃ)だが、アマチュア回帰のぼくにはちょっと贅沢かな? オバチャンと張り合ったわけではないが、アマチュアであっても、「道具はケチっちゃダメ」という正しい話なのだ。写真にプロ・アマなんて本来はないんですね。ぼくは自らアマチュアを気取り、したがって、崖っぷちに立ちながら、クライアントを喜ばせようとの写真を撮らなくて済む。これで寿命が多少延びるかも。

http://www.amatias.com/bbs/30/551.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:EF100mm F2.8 Macro USM。RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
野に群生するうちわサボテン。サボテンの花びらは繊細で透明感があって美しい。しかし、目に見えぬほどの細かい棘にはくれぐれもご注意あれ。近づきたくないので、100mm望遠マクロを使用。
絞りf10、1/160秒、ISO640、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
同じくうちわサボテン。ここにある目に見える棘はまだしも、見えない棘が恐いのだ。とにかく「触らぬ神に祟りなし」。焦点距離105mmで、遠巻きに。
絞りf7.1、1/80秒、ISO400、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/06/11(金)
第550回:素晴らしきアマチュア回帰(2)
 仕事用のカメラ機材を「商売道具」とするなら、私的写真用に新調したそれらはさしずめ「遊具」といったところか。「遊具」とはいえ、「商売道具」にくらべてまったく遜色のないクオリティを提供してくれるばかりではなく、設計が最新なので、目下その余剰ともいえる御利益にも与っている。
 ぼくはどちらかというと控え目な質であるので、機能満載のカメラに向かって「そこまでしてくれなくてもいいよ」という。しかし、ここだけの話、「大きなお世話なんだが」といいながらも、これがけっこう便利で、こっそり使っている。けれど、秒間12コマ連写とか常用最高ISO感度102400とか、ぼくには縁なき衆生、ではなく縁なき機能であるが、重宝する人も多いのではなかろうか。

 余談だが、メーカーのHPではEOS R6を“NEW STANDARD” と銘打っているが、「こんな優れものが “スタンダード” であってたまるか」というのがぼくの偽らざる評価である。ここでぼくのいう「優れもの」の第一は、もちろん使い勝手ではなく、画質の素晴らしさにある。第二に、その軽さだ(重量約680g。仕事用はどれもその約2倍)。

 しかし、それより何より、今のぼくにとって、玩具を与えられた子供のように、邪気なくはしゃげることが殊更嬉しい。このことは、このカメラの素晴らしい機能のすべてを凌駕してなお余りある。
 仕事から解放されて、好きなことに没頭できる喜びは、何にもましてこれからの余生に貴重なものとなるであろうと思われる。まだそれが断定できるほど、ぼくは先を見通せる能力を持ち合わせていないが、自身の標語である「人生は取り敢えず」に従えば、今少しの間写真を撮る機会を与えられているような気がしている。ぼくは、もしかしたら写真が好きなのかも知れない。そして何十年ぶりかで「欲しいカメラ」を手にすることができ、有頂天になっているのだろう。

 今回手にしたカメラとレンズたちは、ぼくにとってかなり贅沢な遊具であるけれど、それを弄(もてあそ)びながら幻想の世界を彷徨い、そこに浸ることは、同時にとても贅沢な瞬間でもある。幻想のなかに、自分にとってのリアリティを発見しようと努めることは、程良い精神的な活性剤となるに違いない。心の持ちようひとつで、写真の面白さと醍醐味を存分に味わうことができそうだ。ちょっと気障な言い方だが、「虚構の世界に遊ぶ」ということだ。
 大仰な出で立ちで近隣を徘徊するのではなく、お手軽なのでどこへ行くにも気軽にご同伴願え、衰えがちの足腰や精神を補助してくれる。

 プロであれ、アマであれ、道具に対する正しい知識は、写真を撮ることの技に通じる。ものの本質や作用を感受するだけでは、当然のことながら写真は写ってくれない。感受を具現化するのが技であるのだが、ぼくのような長く写真に取り組んでいるだけの化石写真屋は、最新の機材に追いつく(知識を身に付け使いこなす)ことは大変である。使用説明書(詳細ガイド)だけでも、850ページになんなんとする。ほとんどが既知の事柄ではあるが、それでも面喰ってしまう。

 写真事始めの人であっても、このカメラを購入して、正しい趣味のあり方を踏襲しちゃおうという剛の者が必ずやいるはずだ。そのような烈士・烈女は長篇小説を読むが如く850ページを読破するのだろうか? 途方に暮れることはないのだろうかと、他人事ながら心配になってくる。だが趣味の世界に「身の程知らず」という言葉は存在しないというのがぼくの持論なので、心配無用だ。そのような人は、勤勉という糧をすでに心得ているので、なんとかちゃっかりと使いこなしてしまうものだ。何事も「案ずるより産むが易し」である。

 カメラを握り、右手で操作できるダイアルやボタンが19個もあるのだから、他人を心配している場合じゃない。自分の意志と老いぼれた指を連動させるには、どれ程の時間がかかるだろうか。のんびり訓練すればいいじゃないかと言い聞かせてみるのだが、このカメラ、実は仕事にも十分すぎるほどの対応能力を有しているので、安穏としてはいられない。だが、仕事には使用しないと割り切るのが、分別という名の知性。せっかくの愛玩用として買ったのだから。

 かれこれ2ヶ月ほどこのカメラに馴染もうとを毎日弄(いじ)っている。そして、自他共に認めるテスト魔のぼくだが、未だカメラテストもせずに未知のレンズ(RFレンズ)をあれこれと楽しみながら、悠然と構えている。これが商売道具であれば考えられぬことであり、出来る限りのテストに明け暮れ、正体を見極めた上で、実践に投入するのだが、そんな定番の作法を無視しているのは、意識的にこのカメラを遊びの道具として扱いたいとの欲望が勝っているからだろう。
 楽しむことが最優先という今までに味わったことのない感覚を得て、ぼくは得々とし、喜色満面なのだが、ぼくの写真を評する人が誰もいないということにふと気がついた。撮影をしたその結果についての声が聞こえてこないことはとても不思議な感覚でもある。これが、人生の綾(あや)というものか。嗚呼!

http://www.amatias.com/bbs/30/550.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF35mm F1.8 STM。EF100mm F2.8 Macro USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
薔薇を撮ることはないだろうと以前記したが、散歩中にどこかの生け垣から風に吹かれ、ゆらゆらしながら可愛い薔薇がひょいと首を出した。
絞りf4.0、1/400秒、ISO200、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
黒薔薇のような色をした芙蓉。花粉と花柱にフォーカスを合わす。虫の糞が写っている。
絞りf8.0、1/200秒、ISO800、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/06/04(金)
第549回:素晴らしきアマチュア回帰(1)
 カメラやレンズはぼくらの想像を超えて精密に作られている。謂わばそれらは “精密機器” の最たるものだが、それだけに壊れやすく、また取り扱いにも殊のほか神経を使う。おまけに高額ときているから、なおさらである。ここまでは、光学に関して素人のぼくでさえも容易に理解し、受け入れることができる。
 10歳の時に初めて自分のカメラを手にして以来、こんにちまで60年以上もそれらはぼくの愛玩物となっている。カメラがどうの、レンズがどうのと、思い悩みながらの、長〜い、ながい付き合いである。

 カメラやレンズの仕組みについて、玄人であるメーカーの技術者にさまざまな設計上の話を伺うにつれ、撮影する立場の者は「知らぬが仏」故の「恐いもの知らず」を武器とし、カメラやレンズについての蘊蓄(うんちく)を傾けていることに気づかされる。時には彼らに厚かましくもあれこれご注進申し上げることもある。自分の言葉を振り返りながら、「知りもしないで、よくいうわ」と、自嘲気味につぶやく。

 先ずは何事に於いても、作る側と使う側の立場は対極に位置するため住む世界が違うのであって、それぞれの役割を誠実に担ってこそ、お互いが引き立つというものだ。相互扶助という切っても切れない縁がそこにはある。そして、ぼくと彼らの関係は永遠に素人と玄人の間柄で、ある時それが逆転することはあっても、「餅は餅屋」(物ごとにはそれぞれの専門家がおり、それは素人の及ぶところではない、という意)であり、お互いにその域を出ることは決してない。
 半世紀以上もカメラやレンズを扱い、それを商売道具としてきたぼくだが、では実際にカメラやレンズを作れるかというとまったくそうではない。つまり、目的とする分野が異なっているので、それが当然の成り行きというものだ。「餅は餅屋」なのである。

 良いものと欲しいものが一致するわけではないという事実がぼくにはある。この現象が、読者のみなさんに当てはまるかどうか分からないが、この半年ばかり自分の「欲しいカメラ」を物色し始め、その事実に改めて気がついた。そしてまた、技術者いうところの「良いカメラ」が即ち写真愛好家の求めるものと直結するわけでもない。このことは両者がすでに了解済みであろう。

 今までぼくが使用してきた大仰なカメラは、あくまでぼくの仕事仕様と職業倫理に従ったものであり、本来なら私的写真の撮影には持ち出したくないものだ。ただでさえ年齢による衰えがひしと身にこたえる今日この頃、仕事仕様の重量級カメラやレンズを振り回したくないというのが本音であり、第一気が滅入ってしまう。あんなものを携えていては意気が揚がらないのだ。
 “仕事仕様” は “絶対に良いものでなくてはならない” のだが、私的写真の撮影はまずその行為を愉しめるカメラでなくてはならない。ここが一番の違いだ。
 このことは裏を返せば、第546回に記した、 “プロは「親を質に入れてでも」優れた機材を手にしなくてはならない” という自身のご託宣に従わなくてもよいということである。質に入れたくとも、もう親はいないのだけれど。
 
 「素晴らしきアマチュア回帰」のために、あれこれカメラを試した挙げ句、ぼくの選択したものは、キヤノンの最新モデルであるミラーレス一眼のEOS-R6だった。ここではぼくの「新しもの好き屋」は関与していないが、期せずして、結果としてそうなっただけである(2020年8月発売)。R5という選択肢もあったのだが(価格が約15万円高いが、趣味の世界に於いて価格は購入の条件にはまったく考慮に値せず、がぼくの信条でもあるので)、取り急ぎぼくはR5に用意されている多機能な動画撮影には気がないことと、今時まだ存在する化石のような「高画素数信奉者」ではないので(R6のフルサイズ2010万画素に対して、R5は同じくフルサイズ4500万画素)、迷いはなかった。

 R6に採用されているイメージセンサー(撮像素子)は、キヤノンのプロ用フラグシップモデルのEOS-1D X Mark IIIと同じもので、加え映像エンジンも同じである。デジタルになってからEOS-1D系のボディを5台使用してきたぼくとしては、R6のイメージセンサーは信頼に値するものだ。ローパスフィルターは若干異なるようだが、実写テストでの不満はまったくなく、ぼくの気分を高揚させてくれるものだった。

 以前、拙稿で述べたことがあるが、画質を左右する最も大きな要因は、第一にイメージセンサーサイズであり、映像エンジンとローパスフィルターがそれに次ぐ。画素数は5の次、6の次ともいえ、画質そのものには直接に関係するものではないとぼくは言い切る。ぼくが “化石のような「高画素数信奉者」” と皮肉を込めていう謂れでもある。画質って、画素数で測れるものじゃないんです。
 キヤノンの最高級モデルが、多画素センサーではなく、昨今では少ないとも思える2010万画素なのはどうしてなのかを考えてみればよいだろう。

 R6は新しいRFマウント採用なのだが、従来のEFマウントのレンズにはアダプターを介して使用することができるので、今までのレンズ資産を無駄にすることなく活用することができる。ぼくは新たにRFマウント用のレンズを4本新調(うち1本は来月下旬発売)したが、好き嫌いは別として、久々に購入した現代のレンズとはこうしたものなのかと、感慨新たでもある。レンズ性能としては明らかに進化している。
 今回の掲載写真に用いたレンズは、従来のEFと新RFの両刀遣いである。

http://www.amatias.com/bbs/30/549.html 

カメラ:EOS-R6。レンズ:EF100mm F2.8 Macro USM。RF35mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。         

★「01さいたま市」
暗い茂みをバックに、目の高さにアザミが咲いていた。バックを整理するため望遠マクロを使用。
絞りf10、1/80秒、ISO400、露出補正-1.33。

★「02さいたま市」
RF35mm は倍率0.5のハーフマクロを兼ねている。ぼくは紫陽花が嫌いなのではなく、咲いているその環境が好きになれないのだと最近分かった。「運鈍根」を旨とするぼくは、同じ被写体を何千、何万と撮らないと、良い写真が撮れないと自覚している。だから、飽きもせず、紫陽花。
絞りf4.0、1/60秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)