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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2014/12/26(金)
第230回:既製品(1)
 執拗な画家から粘り強い意見、というより下達(かたつ)のような趣を以ての具申があった。曰く「写真には“すり替え”がないようなことをいっているが、しかし、かめさんの掲載したカラー写真とそのモノクロ写真を見ていると、そこには明らかな“すり替え”が行われているように思うのだが」。
 「君は当初、“デフォルメ”という一般的な語彙を画家の専門用語として扱い、その考えに添ってぼくのモノクロ暗室作業を開示しろと迫ってきたのであって、“デフォルメ”とぼくのいう“すり替え”を混同しているのではないか? 両者の棲み分けをどのように定義するのか、それを明示していただきたいものだ。“おまえの文章には齟齬がある”という前に、もう一度精読してくれ。読解力の不足を棚に上げて、ぼくを責め立てるのはお門違いだよ」と、ぼくは大人げなく気色ばむポーズをして見せた。自分の文章力のなさを、相手の読解力の不足に“すり替え”たのだった。自身をよりよく弁護するのであれば、“すり替え”より“置き換える”のほうが相応しいのだが。

 しかし、画家のように悪意に満ちたものでなく(ぼくの知るところ、画家は写真屋よりずっとずっと理屈っぽく、胆汁質であったり粘液質であったりする)、善意ある率直な意見を伝えてくれた人のいることも、一唱三嘆ながら付言しておかなくてはならない。
 「カラー写真がこのようなモノクロ写真に変化してしまうことにとても興味を持ちました。カラー写真はあくまで素材なのですね。その素材を料理してモノクロ写真に仕上げる。これがアンセル・アダムスのいうビジュアリゼーションなのですか。掲示された写真では、カラーよりモノクロのほうに圧倒的な力を感じました。私もモノクロ写真に挑戦してみたくなりました」と、とても素直な、長年の読者と覚しき方。

 物書きは、限りある言葉を無限に組み合わせ、昇華させながら、自己表現にたどり着く。その伝で、文章というものは写真に比べ非常にアクティブ(動的)で具象的な表現手段だとぼくは考えている。具象故の“すり替え”が必然性を帯びる。写真はそれに比べ極めてスタティック(静的)で抽象的なものだが、「百聞は一見にしかず」という瞬間冷凍のようなパワフルな面を持ち、視聴者に強い印象を与える。
 ぼくはいつも「写真の主語・述語は、常に相手に委ねればいい」といってきた。確固とした主義主張があれば、作者は無用で鈴なりのような効能書きを垂れるものではない。瞬間冷凍の力を殺いでしまう。写真は、ものいわぬからこその力があるのではないか? 一瞬にかすめ取った(撮った)ものを、自身の佇まいとして見る側に晒しているのだから、どうやったって写真に効能書きという「後出しジャンケン」は通用しないし、また見苦しい。
 「後出しジャンケンの意味が・・・」って、うるさい画家がまた何かいってくるかなぁ。

 年の最後にぼくはこんなことをぐだぐだと書き連ねるつもりじゃなかった。口やかましい画家のせいで、題目に掲げた「既製品」を前にして、キーを打つ指がパタッと止まってしまった。そもそも何を書くつもりで「既製品」としたのかさえ忘れてしまった。歳のせいだわ。
 これから書き出すとなると年をまたいでしまいそう。またいでもいいのだが、担当者の言によると、正月は2回連続で休載とのことで、つまり、次回は1月16日(金)となり、そんなに間が空いてしまうと、ただでさえ支離滅裂なのだから、痴呆も加わって収拾不能となりそうだ。それも愉快なのでそのさわりだけでも始めちゃおう。

 先月、信州に団体で撮影に行ったことはすでにお伝えしたが(第227回)、その時にぼくはいくつかの写真にまつわる発見をした。
 1泊目、夕食をホテルで取った。このこと自体が我々にとって非常に希有なことであり、料理を待つ誰もが何時になく神妙な面持ちに見えたから不思議である。“神妙”を“かしこまって”と言い換えてもいい。それは、初めて正式なフランス料理を前にした緊張感に似ていた。その光景は、ちょっとフォトジェニックでもあった。ぼくはかしこまった面々の記念写真を面白がって撮った。
 山の中のホテルだったので、いつものように地元の居酒屋に“鼎(かなえ)の沸くが如く”なだれ込むわけにはいかなかったという事情もあった。
 いい歳をした大人8人が、2列になって膳を挟み、畳の間に鎮座し、表情をこわばらせて決戦の時を迎えようとしているかのようだった。幹事は「本日は懐石料理であります」と得意気に言い放った。その言葉の裏には、「あんたたち、懐石料理などにはほとんど縁がないだろう」と、仲閧蔑んだ意志が読み取れた。
 やがて静々と料理がもったいぶって運ばれ、仲居のおねえさんも「懐石に縁のない」我々に、やはりもったいぶって料理の説明を始めた。「あたしの説明を聞き終わるまでは、料理に手を付けるんじゃないよ」という気迫に溢れていたから敵わない。料理には主語と述語が必要なのか?とぼくはさかんに訝った。効能書きで味が変わるわけではないだろうに。食事を前に無意味な儀式に駆り出されるのは、あまりに奇抜な習わしではないか。
 説明を聞きながら、ぼくはもうひとつの恐れを感じ始めていた。全員が同じ料理を、同じ時刻に、同じ順序で、同じペースで食べることを強いられてしまうということだ。ぼくらはベルトコンベアの上に乗せられ、石炭車のへっついのように口を開けて、効能書きに染まった料理を自動的に放り込まれてしまうのだ。
 「人類皆平等、人類皆兄弟」と同じようなことを、ぼくの嫌いな福沢諭吉がどこかで書いていたような気がするが、人類は理性があるからこそ不平等が生まれたのであって、このような平等な食事作法は未開人そのものだ。料理も人間も「既製品」にばかり甘んじては、写真愛好集団の名がすたるというものだ。
 馬刺しに異常な執念を燃やし続けていたぼくは、そこでささやかな抵抗を示したのだった。

 来年にこの話が上手く繋がるかどうかは目下不明であります。

 読者諸兄のみなさま、来たる年の福寿無量を心より祈念いたします。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/230.html

★「01さつき」。Sigma DP2。f5.6。露出補正ノーマル。左上から右下に流れる美しい対角線を感じ、何も考えずに、ただ「いいなぁ」と無意識にシャッターを切った。

★「02らん」。Sigma DP2。F4.5。露出補正-0.7。会ったことのない祖父は、らんを丹精込めて育てていたそうだが、そんな祖父の姿をイメージして。花弁に僅かながらの白飛びを意図的に入れ、立体感を。

(文:亀山哲郎)

2014/12/19(金)
第229回:すり替え
 年の瀬も押し迫り、世の中はクリスマスだとか師走だとか、なにかと気ぜわしい雰囲気を漂わせながら歳変わりを演出しているが、ぼくの(我が家の)気配は昔からそのようなしきたりには一切関係なく、辺りを睥睨しながら何十年も「お構いなく」といいながら突き進んできた。盆暮れや彼岸に墓参りをする習慣もなく(ただ面倒臭いだけのバチ当たり)、何事も気が向いた時にするのが一番なのだと言い聞かせてきた。ただ、何年も気が向かないので、事が一向に改まらず、その不実や不義理に苦しめられている。
 日本古来の神道を尊びながらも、重んじるわけではなく、自分にとって都合のいい教典を場当たり的に創作し、自己の懶惰(らんだ)でやさぐれた生活をどこかで正当化してやろうと企てている。それ故に、無意識のうちに罪悪感が募り、だからいつも息苦しい。たまったものではない。純朴な写真屋というものは逃げ口上を知らないもんだから、息苦しくもあり、また見苦しくもあるのだ。

 その伝、物書きというのは卑怯でずる賢く、しかも饒舌だから始末が悪い。加えて往生際が悪いので、なおさら始末に負えない。
 そして、物書きは写真屋にとって難しい“すり替え”に長けている。誰人もみな持つ矛盾や相剋、背理や失当を上手い言葉遣いを駆使しながら、あの手この手で現世の真理をつなぎ、結び止めようとする。それはまるで言葉の機織(はたお)り職人のようだ。
 漱石など、冒頭から「吾輩は猫である」などとあからさまな“すり替え”をし、開き直っている。その開き直り方が、理に適い、明晰である分、頭をかしげながらも納得させられてしまう。そのような場所に引き込む名手であろうと思わせるから、癪が起こらない。当たり前のことを言葉巧みに如何にもそれらしく謳い上げているので、毀誉褒貶(きよほうへん。ほめたりけなしたり)相半ばというところだ。大きな声ではいわないが、ぼくは長年漱石と鴎外のファンなのだ。
 40歳に手が届く頃にぼくはやっと一人前の大人を気取り、吉田健一と石川淳にのめり込むようなった。未だ心酔中といったところか。
 太宰治も、あのしみったれたところが気に入っている。中学時代から親しんだ太宰だが、当時は一過性のものであり、歳を取るにつれ、あの文章のリズム感を写真に取り入れたいと願うようになった。雪の斜陽館(青森県五所川原市金木町にある太宰の生家)にも詣でたことがある。

 今まで何度も岩手県を訪れたが、宮沢賢治ゆかりの地には一度も足を運んだことがない。強いていえば『銀河鉄道の夜』のモデルとされた遠野市のめがね橋の脇を車で素通りしたくらいのものだ。
 小学校低学年の頃、父が『セロ弾きのゴーシュ』と『注文の多い料理店』を読んで聞かせてくれた。子供心ながらに感動もし、またその筋書きもはっきり覚えている。しかし、今日に至るまでこの二作は読んだことがない。他の作品に触れるたびに、ぼくは宮沢賢治という作家に距離を置いていった。『芸術概論綱要』にも違和感がある。
 当時の宮沢賢治のイデオロギーがどうであれ、ノンフィクション作家・吉田司のいう「彼の(宮沢賢治)うたう詩はいつも村の入口で終わっている」という言説に、ぼくも同じ臭いを嗅ぎ取っているような気がする。何かから目を背けるための“すり替え”が行われているように感じるのだ。

 30歳になったぼくは、柳田国男著『遠野物語』に語られている民間伝承に強い興味を抱き、岩手県の遠野通いを始めた。遠野の民宿で聞かせてもらった語り部のおばあちゃんたちの話は、書物の『遠野物語』とはかなり異なったものだった。もちろん、おばあちゃんたちの話の方がずっと人間臭紛々としていて面白く、またリアリティとエロティシズムに富んでいた。
 柳田国男が意図的に避けて通った(と思われる)ものが、年輪を感じさせる老女の口から豊かな方言に彩られて、ほとばしるように生き生きと発せられた。語り部のおばあちゃんばかりでなく、遠野の市井の人々(農作業中の男衆や女衆、田圃のあぜ道を下校する女子中学生など)は活気のある民間伝承を語ってくれた。そこにはあやふやな“すり替え”が見当たらず、あるのは露天掘りのような地のダイナミズムだけだった。
 柳田国男は民俗学者であり、しかも文才があったのだろう。民間伝承という地のものを扱う上で、その才気が役に立ったのかそうでなかったのか、あるいは学者としての特権的な理知が、庶民の生活意識にまで下りることをどこかで拒み、“すり替え”が上手くいってない。しかし、読み物としての『遠野物語』は名著である。

 ぼくの文学趣向は歳とともに変化を遂げたものもあるし、そうでないものもある。多分、“すり替え”作法の鮮やかなものや道理あるものは長続きしているということだろう。
 翻って、写真にはそのようなものがない。ぼくの写真的趣向は青年期より一貫している。作品のありようは変化しているが(そう思いたい)、趣味趣向は頑固一徹で変化がない。
 文学は子供にも理解しやすいものが世界にはたくさんあるし、また子供用に編纂したものも多い。そのようなものに子供たちは親しみ育っていく。つまり、年相応のものが用意されているということだ。
 しかし、写真は子供には馴染みにくいのではないだろうか。お子様向け写真って、あるにはある。可愛い動物写真や美しい風景写真など、視覚が直接脳に訴える類のもので、それらは喜怒哀楽の域を出ない。自身に照らしても、自己表現のための写真は、ある程度情緒・情感が収斂し思想が育っていないと、なかなか親しみにくい。
 高校1年時、父の机に置かれていた木村伊兵衛の写真集を見て「どこがいいのかぼくにはさっぱり分からない」と、父の顔を見上げながらいったことを昨日のことのように思い出す。思春期の子供に見合うような、何かの“すり替え”がないので、その良さが響いてこなかったのだ。
 それから3年の時を経てぼくは大学生になったが、妄信的な木村伊兵衛信者に“すり替わって”いた。あの軽妙洒脱な“すり替え”にぼくはやられたのだろうかと、未だその不明を託っている。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/229.html

前号にて「カラー写真も掲載しろ」といってきた画家が、再び「もう1点くらい見せろ」と執拗に迫ってきたので快く従うことに。

★安曇野有明神社。
「01カラー原画」。神道の神楽舞台。林に囲まれた舞台を中心に柔らかく神々しい光が射した。神道を尊びながら、ひっそりとシャッターを切る。カラー写真はシアンが多少浮き、全体に好ましい色調ではないが、モノクロ化でのフィルターワークを考慮してこのままに。

★「02モノクロ化」。射し込む神々しい光をさらに強調するために周辺を焼き込んだ。空だけ疑似赤外線フィルムを模したものとし、他は濃度の高いイエローフィルターをかけた。舞台の屋根瓦を選択し適度にコントラストを上げている。

(文:亀山哲郎)

2014/12/12(金)
第228回:恥の上塗り
 Facebook(以下、“顔本”)というものが世にはびこり始めた頃、それを利用する友人たちから、「友だちとして認証してくれ」というメールが相次いだ。知っている人たちばかりだったので、ぼくに断る理由はなく、軽い気持で「いいよ」とボタンをポチリと押した。
 ややもして、「顔写真」もしくはそれに類似するものを貼り付けろという指令がどこからか下った。もちろんぼくがそんなことをするわけがない。
 その間、認証した人々が日々のさまざまな出来事を写真や短い文章で書き連ね、その度にメールが届いたし、今も届く。ぼくはそれを眺めながら、認証をした人々に向けて、「ぼくは顔本には一切何も発信しないし、反応もしないので、悪く思うな」と通達した。
 しかし、未だに見ず知らずの人たちから「友だち認証」の依頼がくる。ぼくは会ったことも、話したこともない人たちとお友だちにならないといけない義理など感じていないので、申し訳ないが知らんぷりを決め込んでいる。第一、ぼくはそんな不気味な人的交流を図らずとも寂しくはないし、そのような“輪”など要らない。友だちは、良い友だちが少数いればそれで十分だ。

 栃木県の人里離れた山奥で、パソコンのインストラクターをしている友人が、「仕事上、顔本を知っておく必然性に迫られ、一応登録はするけれど一切関わりを持ちたくないので、かめさん、そのつもりで」とわざわざ連絡をしてきた。ぼくをよく知る彼は、ぼくに野次られる前に鮮やかな先手を打ってきたのだった。ぼくも彼の美意識や価値観をよく知っていたので、もし彼が顔本などに肩入れして、子供が新しい玩具を手にしたような歓びを示すのであれば、「五十路半ばの写真愛好家ともあろう者が、もっと上質な玩具を嗜めよ」と、茶々を入れ、ここを先途と冷やかしたに違いない。
 彼もぼく同様に、顔本の「いいね!」などという無言の強要、その傲慢さと質(たち)の悪さに辟易とする自分を知っていたのだろう。

 顔本は恐ろしい! 何故って、頻繁に舞い込むそれを眺めていると、その人の社会に対する生活感情や思想、知性、品位などが如何ほどのものか、レントゲン写真のように透けて見えてくるから、背筋が凍る。丸見えといってもいい。
 ぼくは衆目に恥を晒すことが商売のようなものだから(この拙「よもやま話」もそのうちのひとつ)、もうこれ以上、恥の上塗りはしたくないので、顔本には関わらないことが一番だと思っている。他人が何処にいて、何を食っているかなど、知りたくもないし、興味もない。小学生のような絵日記を何故わざわざ他人に見せたいのか、ぼくには理解がまったく及ばない。恥をかくのは仕事だけでいい。
 第224回に登場した「スマホでパチリ」の若いA君などは、必要最小限の賢い使い方をしており、やはり道具をどう使うかはセンスの問題なのだと感じる。

 毎回掲載している写真について、友人の画家から遠距離電話があった。要約すると、「ほとんどがモノクロ写真だけれど、オリジナルのカラー写真が見たい。カラー写真がどのようにデフォルメされ、あのようなモノクロ表現になるのか、職業柄ぼくはそこに興味があるし、ぜひ知りたい。かめさんは出し惜しみしないし、手の内を晒すことを厭わないだろうから、カラー写真も一緒に掲載しろ」と、ぼくの性格を見透かすように、彼も先手を取ってきた。画家としての性を前面に押し出し、油断なくいってきたのだった。ぼくは先手を許してばかりいる。

 ぼくは彼の言い分が分からないわけではないし、また原画のカラー写真を提示すること、それ自体はまったくやぶさかではない。
 ただプロというものは、自分の舞台裏を人様に晴れ晴れしくも、自ら進み出て見せるもんじゃない。何かが盗まれるとか、そんなちっぽけで無意味なものに心を奪われているのではなく、「私はこれこれこんな苦労を人知れずしています。その結果、ほらね、どうです」って、こんな不細工なことをひけらかすのが嫌なだけだということを知ってもらいたいのだ。プロは制作過程や苦労の程度で報酬を得るわけではなく、結果が唯一の世界だから。
 しかし一方で、「見せない」、「言わない」、「教えない」というけちん坊三原則?を貫きたい人もいる。このような人たちは、三原則を破ると自分の秘訣や秘技が盗まれるという大きな勘違いをしており、本気で貝のように口を閉ざし、危機感に煽られながら威厳を保とうとしている。だから、やたらもったいぶる。ぼくはそういう人々を「不毛地帯の住民」と憚りなくいうことにしている。
 自身の一挙手一投足を顔本で披瀝し得意気な人々と、「不毛地帯の住民」はどこか一脈通じる場所で、仲良く同居しているのではないだろうかと思えてくる。まさに「表裏一体」というべきもので、それは相反して見える二つのものの関係が根元のところでは深く結びついているという意味だから、あながちぼくの勝手な推論というわけではなさそうだ。
 このような書き方をしてしまった以上、ぼくはカラー原画を掲示しないわけにはいかなくなった。どのように理屈をこね回し、意に反して画家の策謀に乗ってしまうか、ぼくはぼくで苦労が絶えないのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/228.html

★「01カラー原画」。撮影データ:レンズ焦点距離16mm。絞りf11。シャッタースピード1/40秒。露出補正-1。ISO 640。撮影時間:11月29日午後4時20分。
 
 陽は山の稜線に深く沈み、おぼろげな残照が空に映える。恐竜を中間グレーにすると(ノーマル露出)空は部分的に白飛びをしてしまうので、露出補正は-1に。黒つぶれもしないはず。
 Rawデータを現像する時は、まずホワイトバランスを調整。その場の雰囲気に合った撮影者自身のイメージカラーでいい。この原画はホワイトバランスの調整と明瞭度をわずかに上げただけ。この状態でPhotoshopに渡す。
 Photoshopで、周辺部を焼き込み、全体のコントラストを調整。

★「02モノクロ化」。PhotoshopのプラグインにあるDxO社のFilm Packソフトで、すでに作成してある自分仕様のプリセットを3通り用いモノクロ化。3枚のモノクロ画像をレイヤーで重ね、意図した部分をそれぞれマスクで残し、画像統合した後全体のコントラストを調整。その画像に純黒(RGB値0)のレイヤーを新たに重ね、不透明度50%に。マスクをかけ太めのブラシで恐竜だけ残す。大雑把なブラシワークでいい。画像統合し、それをドイツOnOne社のPerfect Photoに渡し、細かな部分補整をして終了。
 最後に粒子をDxO社のFilm Packでかける。

 撮影時に配慮したことは、後方に見えるステゴザウルスと右上にある電線の位置。16mmという超広角レンズなので、その性質上画面の四方に物が引っ張られる。それを利用。主役をど真ん中に配し、広角レンズのパースで周辺のリズム感を演出。

(文:亀山哲郎)

2014/12/05(金)
第227回:逆光撮影
 今からちょうど10年前、ぼくは北極圏をはじめとし、その界隈を1ヶ月間にわたり気ままな旅をしたことがある。出版社から突然、「かめやまさんの行きたい場所に、お好きな期間だけ撮影に行っていただいきたいのです。何を撮れという注文も一切出しませんので。写真とともに旅行記を連載してください」と、信じ難いような甘口の依頼を受けた。すでに出版不況に突入していたその時期に、それは破格ともいえる申し出だった。一瞬、自分の耳を疑いながらも、揉み手をしながらの編集者の真剣な眼差しは、「行ってこい!」という強い意志を示していた。
 咄嗟に、「ははぁ、ぼくを日本から追放しようっていう魂胆ですね? どこかでくたばってしまえと」、と戸惑いを隠そうとぼくも甘口の悪態で応えた。あまりにも急な話だったので、気持を整理するためにもワンクッション置くような時間稼ぎが必要だったのだ。
 なにしろ、編集者というものはいつも手練手管の悪辣な手口を用いて迫り、相手をその気持ちにさせ、迂闊にも一言“Yes”と口を滑らせれば、「待ってました」とばかり無理難題を押しつけてくる。こちらは隷属の身に甘んじなければならないことを、ぼくは経験上よく知っていた。即座に色よい返事をせず、ぼくは年配のベテラン編集者をじらせた。どのみち、過酷な撮影旅行になることは目に見えていたので、ぼくにもそれ相応の覚悟が必要だったのだ。
 1年前に胃がんで胃の体積を3/4も奪われ、ついでに他の臓器も無慈悲に除去され、体調・体力ともに元に戻っていなかったこともぼくの決意を多少鈍らせた。術前75kgあった体重が、やっと60kg間近に回復したばかりの頃だった。
 編集者の注文に、ぼくは黙しながらも心うち、刹那「行くなら極北の地」と決めた。ツンドラとタイガの大地で医者などいようはずもなく、したがって体調などどうなってもいいが、そこで写真が撮れるだろうかという不安だけが頭をよぎった。

 短い沈黙の後、頭の薄くなった編集者は、「交通費、滞在費、その他諸々の経費はすべて当方で持ちます。ギャランティもこれこれで・・・。」と現実的な奥の手を出してきた。そして、「私は来年定年を迎えますので、その置き土産といいますか・・・」と、情に訴えながらも、暗に「だから、しっかり仕事をしてこい」という実務的な言葉も忘れずに付け加えた。

 3ヶ月後に旅行を控え、ぼくは従来通りフィルムを使用するか、まだ使用し始めて日の浅いデジタルで仕事に臨むか、その選択に頭を悩ませた。両刀遣いは集中力を殺がれるので、今後のことを考えてデジタルに決定した。
 肉体的には惨憺たる旅だったが(“這うようにして帰国した”とは決してオーバーな表現でない)、結果的にはデジタルの選択は良い結果をもたらしたと考えている。何故なら極北の天候は(9月)、1日に何度も目まぐるしく劇的な変化を遂げる。晴れのち曇り、のち雨、のち嵐、のち晴れ、が瞬時に恐ろしい速さで入れ替わる。1日のうちに数度も色鮮やかな虹が出現することにもなる。それに伴い、色温度や明度が激変するので、Rawで撮影しておけば帰国後如何様にも対応できる。まさに全天候型フィルムを手に入れたような気分だった。

 あれから10年後の今晩秋、ぼくは我が倶楽部の仲間たちと連れだって信州安曇野と営業終了直前の黒部第四ダムを、一応撮影旅行と称して訪れた。男女老若8人の大所帯となったが、何人が撮影に意欲を燃やし、真摯に立ち向かったのか怪しいものだ。少なくともぼくは物見遊山の気分が強かった。馬刺しと新蕎麦ばかりに気を奪われ、写真は二の次というテイタラク。
 カメラ片手に歩き回っていると、ふと10年前の極北の地が唐突に蘇ってきたから不思議。風景も、空気も、光も、自然の厳しさも、類似点はほとんどないのに、何故かぼくはしきりと馬刺しも蕎麦もない彼の地に思いを馳せた。
 ファインダーを覗くと何かがダブって、過去が透けて見えるような気がした。何枚か撮っているうちにその正体が徐々に判明してきた。逆光である。デジタルを始めたばかりだった極北の地で、ぼくは逆光撮影時に段階露光を繰り返していた。ハイライトからハイエストライトの描写能力をまだ完全に把握しきれていなかったので、不安を解消しようと否応なくそうせざるを得なかったのだ。

 修業時代、師匠に「逆光で写真が撮れるようになれば一人前だ。それで初めて銭が取れる」といわれた。当時はフィルムだったが、逆光の難しさはデジタルでも同様。一般的な写真教本ではなるべく逆光撮影は避ける旨記されているし、またそのような教えが浸透しているようにも思えるが、上手に光を受け止めれば非常に劇的で効果的な描写が可能だ。それが逆光の魅力でもある。
 また、カメラの取扱説明書などに逆光時に於けるストロボを使用した日中シンクロの、誠に不自然な作例が示されているが、日中シンクロは非常に高度なテクニックを要するものなので、カメラに付属したストロボを使用したシンクロ撮影をぼくは推奨しない。単なる記念写真目的であればそれでもいいとは思うが、美しい作画はまず無理、といっておきたい。

 逆光撮影のポイントは露出補正が鍵となる。まずノーマル露出で撮影し、それをモニターで見てみる。白飛び警告を設定しておけば、どれくらいの面積が白飛びをしているかが分かるので、露出補正を変えながら白飛び面積を調整することができる。太陽や電灯などの発光体は白飛びしても不自然ではないので、放っておく。白飛び面積の調整はあなたのセンス(イメージ)次第というわけだ。
 もう一つ留意すべき点は、強い光源が画面に入るとゴーストやフレアが生じてしまうことだ。これはある程度しかたのないことだが、ほんのわずかにカメラの角度を変えたり、画面に手が入らないように光を遮ることで避けることができる場合があるので、この手法を忘れずに試していただければと思う。
 曇り空の黒四ダムで、「いつの場合も雲は一種の発光体と考えてよく、できるだけ白飛びをさせないように露出補正を慎重に!」とぼくは指導者らしきことを真顔で、糠に釘の人々に伝えたが、どんな結果になっていることやら。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/227.html

時系列に掲載。

★「01」。黒四ダム展望台から。わずか数秒間、雲の間から陽が射した。強風にあおられた波模様が美しく輝いた。露出補正-0.33。
★「02」。黒四ダムの堤防から。これも逆光撮影と考え方は同じ。露出補正-2。
ノーマル露出で撮影しても恐らく湖面は白飛びしないだろうと思われるが、雰囲気が壊れてしまう。モノクロ化した際に雲の重量感も失われてしまう。また、画像全体のコントラスト調整を見越して、露出は最大限に抑えている。
★「03」。安曇野。この辺り一帯はわさび畑ばかり。清流が至る所に。露出補正-2。赤外線フィルムを模して。
★「04」。安曇野。山の稜線に沈み行く太陽。その位置に木立を入れるために走る、走る。真っ赤な柿が映える。露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2014/11/28(金)
第226回:今改めて、プリントについて(2)
 前回お伝えしたプリントの基本設定について、読者から「3年間自己流でやってきましたが、思うようなプリントができず、プリントってこんなものかと思い込んでいました」というご意見をいただいた。いろいろなことが解決できたようで、ぼくも書いた甲斐があった。全体、どれくらいの方々のお役に立てたのか知る由もないが、ひとりでも「大変参考になった」という方がいらっしゃったので、ぼくも労が報われて嬉しい。基本を知っておかないと応用が利かないのは何事にも通じることなので、まずはこの基本設定を身につけていただければと思う。

 ぼくがプリントをする際に最も気を遣う箇所は、前号で述べた第2項の「プリンターのプロファイル」だ。純正紙を使用するのであれば、ICCプロファイルがメーカーから用意されているので、それを選ぶのが最も無難といえるが、実はそれにこだわることはない。さまざまなプロファイルを試してみて、良いものが見つかれば、それがあなたとその印画紙にとって一番よいものと解釈していい。
 大雑把な言い方に聞こえるかも知れないが、プリンターには当然のことながら個体差がある。メーカーの作成したICCプロファイルはとても良くできたものではあるが、あくまで最大公約数的なものであることを理解しておく必要がある。絶対的なものではないということだ。したがって、融通を利かせ臨機応変にプロファイルを選んでいい。
 ただここで注意しなければならないことは、光沢紙を使用するのであれば(PK)とついたプロファイルを選択すること。(PK)とはPhoto Blackの略で、光沢紙用黒インクのことだ。光沢紙用黒インクと無光沢紙用黒インク(MK、マットブラック)の使い分けができるプリンターは、この点に注意。

 カラープリントばかりでなくモノクロプリントにも力を入れたいという方々には、以前に述べたと記憶するが、グレーインクの搭載されたプリンターを強くお勧めしておく。
 モノクロプリントといっても、実際に使用されるインクは、4色プリンターであればC(シアン)、M(マゼンタ)、Y(イエロー)の色の三原色とK(ブラック)の混合であり、どうしても色被りや色の捻れが生じやすい。それを極力抑えるには、グレーインクが効力を発揮してくれる。グレーインクはまた、モノクロプリントばかりでなく、カラープリントに於いても忠実な色再現に大変効用のあるものだ。プリンターの値は多少張るものの、プリントをどこまで追求していくかでその価値を見極めればいいだろう。

 第3項目の「マッチング方法」については、二通りを試して、その結果次第でいいと前号で述べたが、ぼくや信頼すべき友人の環境下では、カラー、モノクロに関わらず「知覚的」より「相対的な色域を維持」のほうが良い結果(モニターに忠実)をもたらしている。いずれも顔料インクなので、染料インク使用の方は是非二通りのプリント結果を見比べて、良い方を選択していただければと思う。

 第4項目の「用紙種類」は、純正紙であればプルダウンメニューに用紙が出て来るので問題はない。問題となるのは、純正紙以外のものを使用する場合である。この「用紙種類」はICCプロファイルでないにも関わらず、選択する用紙によって色味が異なってしまうことがある。特にマット紙(無光沢紙)使用時は、かなり大きく変わってしまうことがあるので注意が必要だ。プルダウンメニューからどの用紙を選択するかは、やはり試行錯誤を繰り返すしか方法がない。

 純正紙以外のものを使用する場合、ほとんどのものは外箱か説明書に用紙設定条件としてプリンターメーカーのプロファイルが指定されているので、まずそれを試してみることだ。モニターと見比べて遜色がなければそれでいいのだが、それも絶対的なものではないので、あれこれと試してみるのがより現実的な方法だ。

 ぼくは、仕事では色見本として提出する印画紙は純正のものを使うことにしているし、常用印画紙としてもそれを使っている。ただ、純正のICCプロファイルは使用せず、精密な分光測光機を使っての自作プロファイルをもっぱら愛用している。やはり、これが最も信頼できる。つまり、モニターとドンピシャリというわけだ。
 私的写真についても、まず純正の印画紙にプリントして全体の感じを把握し、それから印画紙をあれこれ検討しながら絵柄に合ったものを選択するのが常。海外の印画紙は、メーカーから自社用のICCプロファイルをダウンロードできるものがあるが、ものによってはまったく使いものにならずということがあるので(あくまでぼくの使用環境下で)、印画紙の評価は一度や二度のテストでは下せない。高品位な印画紙が、プロファイルによって「見る影もない」ということがままあるからだ。
 印画紙の評価というものは非常に多岐にわたり、公平な比較がしにくいが、それも多くの印画紙に接していればおおよその見当がつくようになる。投資をした分、しっかりと見返りは得られるものだ。ぼくは嫁の姿に怯えつつも、今やっとその恩恵を受けられるようになってきたのかなと感じている。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/226.html

★「01」。今の若い人の文化風俗となったウンコ座り。ぼくらの若い頃はこんな座り方はしなかったように記憶するけれど・・・。仙台。
★「02」。枯れ葉舞う東大構内。
★「03」。冬支度の歌舞伎町。

(文:亀山哲郎)

2014/11/21(金)
第225回:今改めて、プリントについて(1)
 昨今は写真の愉しみ方も多種多様。世相の移り変わりや科学の発展による目まぐるしい変化は、まるで高速鉄道の車窓風景のように捕らえどころのないもののようにも思える。一過性の価値とでもいうべき儚さに憧れるのも、それはそれでひとつの愉しみ方なのかも知れない。
 保守的なぼくはそれをまるで他人事(ひとごと)として眺めている。他人がそれに追随することを否定はしないが、こと自分に至ってはかなり意識的に片意地な批判を向けるようにしている。世の中には様々な文化の形態があり、ぼくは自分に必要なものだけを斜眼で慎重に吟味し、長年にわたって培ってきた“勘”を頼りに厳重に選別してきたつもりだ。“勘”といっても、それは大層なものではなく、いってみれば道楽三昧に祟られた挙げ句の後始末で生じた残りカスのようなものだ。無駄が無駄を呼び、無駄でないものへの嗅覚が発達したと自分では思っている。分不相応な贅沢(出費)は多くをもたらしてくれたと思いたい。

 先々週、福島に同行した若いA君も思想的に保守的な面をふんだんに持っているが、立派な一眼レフと交換レンズを駆使しながらも、ぼくの目を盗み、隙を見てはスマホのカメラでパチパチやっていた。ぼくはその大胆さに感心しながら心底羨んだ。「思想的に保守的」といったが、ぼくにしてみればそれは世の中のあれこれに対峙する考え方が至極まっとうで、しかも伝統的でもあるという意味であって、政治哲学での保守というそれではない。
 彼にとってスマホで撮る写真はあくまで記録用であり、一眼レフは自分の意志や感情を表現するためのものというドライな使い分けを確実にこなしていることをぼくは羨んでいるのである。ぼくはそれができぬ自分の浅ましさを嘆いているのだ。
 弁明をするのであれば、自分にとって最善のものは常にひとつであり、便利と知りつつもあれこれと触手を伸ばすことに大きな抵抗を感じている。

 そんなA君もぼく同様、「写真の最終形はプリント」を断固支持している。スマホやPCモニターで見る画像は確たる通過儀式であって、それで自分の表現が十全にできるとはまったく考えていない。1枚の写真には、その写真表現に見合った印画紙が要求されて然るべきだ。印画紙であればなんでもいいという考えには反対である。印画紙が異なれば、濃度域、色再現、紙の地色も変化し、そして意外に見落とされている印画紙の風合いといった要素も大切にしたい。自分の意志をより良く伝えるための印画紙選びは、撮影や暗室作業と同等の位置づけをしてもいいのではないかと考えている。それは写真の印象にも大きな影響を与える。たかが印画紙と侮ることなかれである。
 かつてA君と量販店の印画紙売り場を2時間近く物色し、お互いに顔を見合わせ、無言で首をかしげたことがたびたびあった。現在のように多くの印画紙がまだ市場に出回っておらず、「首かしげ」はどこで妥協点を見出すかという合図でもあった。当時、満足できる印画紙が手に入らなかったので、思い余ったぼくは水彩画用紙プリントという無謀な試みを始めたものだ。
 “スマホでパチリ”の彼も印画紙にはとても心を砕いていたし、その姿勢はお互い今も変わっていない。
 満足できる印画紙をいくつか見つけた現在でも、浮気心は収まる気配を見せることがない。

 お気に入りの印画紙が見つかれば、そこから新たな苦難が始まる。使いこなすためには、かなりの枚数をテストのために犠牲にしなければならず、金銭的な苦痛は精神的な苦痛をはるかに凌駕する。精神的な苦痛だけであれば、それは一種の期待感に満たされたものなので嬉々として臨むことができるが、金銭的なそれはどうしても嫁の姿が亡霊のように横切るからいけない。嫁の姿を掻き消すことから始めなければならないので、躁鬱を繰り返すことになってしまう。

 一種類の印画紙をプリントするための科学的な順列組み合わせは天文学的(ちょっとオーバーだが)なものとなり、それを探り当てる時間的な労力もばかにならない。科学的な約束事を守ることは基本中の基本だが、それが必ずしもベストな結果を生むという保証はないので、ますます厄介なものとなる。正解のない解決策は、試行錯誤に頼る他なしというところなのだが、取り敢えず今回は平均的正解値を記す。
 案外、ベテランと思われる方々がかなり勝手解釈の誤った設定でプリントされ、何年も首をかしげながらの疑心暗鬼、もしくは自信満々の虚勢を張りながら時をしのぐ姿を非常にしばしばお見受けするので、確認の意味を含めてお伝えしておこう。

 ソフトは色空間や色管理のできるAdobe社のPhotoshop、 Photoshop Elements、Photoshop Lightroomを使い、純正印画紙を使用条件とする。手順や表示はMacやWinでもほぼ同様。

 画像を使用ソフトで開き、「プリント」を指定。
 1、「カラー処理」のプルダウンメニューから「Photoshopによるカラー管理」を選択。

 2、「プリンタープロファイル」のプルダウンメニューからあなたの使用するプリンタメーカーの純正紙のプロファイルを選択する。例えば、エプソンの「写真用光沢紙」であれば「Photo Paper(G)」を選ぶ。(G)とはGlossの略で光沢を意味する。(SG)はSemi Glossで半光沢、エプソンの「写真用紙絹目調」がそれに当たる。
 これが印画紙のICCプロファイルと呼ばれるもので、インクの噴射量や色バランスを決める非常に重要な機能。

 3、「マッチング方法」は、「知覚的」と「相対的な色域を維持」のどちらかを写真では使用するが、これはどちらが正解というものではなく、双方を試し、そのプリント結果から判断するのが一番だ。この部分にカーソルを当てると、何がどう異なるかの説明が「説明」の欄に記される。

 4、「プリント設定」のボタンを押すと別ウィンドウが開き(Mac)、そこにある「用紙種類」が使用印画紙であることを確認。

 5、ここで重要なのは「カラー調整」が「オフ(色補正なし)」となっているかグレーアウトしているかを確認すること。ここで、色補正がされてしまうと二重の補正(カラーマネージメントがなされ)がかかり、色味が異なったものとなってしまうので、要注意。

 以上の5点をしっかり押さえておけば、取り敢えずは正しいプリントができるはずだ。次回はこれにまつわるもう少し込み入った事柄に触れてみよう。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/225.html

いずれもネパール。原画はフィルム。
 
★「01」。バック転の練習らしい。シャッターを切った後にぼくもやってみた。当時はたやすく出来たが、今は絶対に無理だ。

★「02」。子供の頃、父は進駐軍で通訳をしており、『ナショナル・ジオグラフィック』誌をたくさん持ち帰ってきた。エッジの効いた印象的な印刷プリントは未だにぼくの心のどこかに息づいている。それを思い起こしながら暗室作業をしてみた。

★「03」。ネパールの「嘆きの壁」。パンツ1枚で飛び出してきた少年は壁に向かって、なにかの不条理を訴え、嘆き始めた。母か姉か、少年への愛情が直に伝わってきた。大人の手形もあるので、ここで多くの人が祈り、懺悔をする、というのはぼくの作り話だ。

(文:亀山哲郎)

2014/11/14(金)
第224回:三度目の福島
 先週、若い写真屋を伴い三度目の福島を体感した。今回の短い旅の目的は撮影というより、もう一度この目で事の成り行きをしっかり見極めたいとの思いがあった。
 そしてもうひとつは、福島県の沿岸部を走る国道6号線(浜通り)のうち、かつて車の往来が厳しく制限されていた区間(富岡町〜浪江町の約14km)が9月15日より通行許可証なしに通過できることになり、周辺の様子がどう変化したかを知りたかったことだ。
 一般に通行が解除されたことにより、ぼくが過去二度にわたって撮影した、いわゆる「立ち入り禁止区域」への立ち入りがさらに厳しくなったであろうことは容易に推測できた。今までのように自治体の許可証さえあればかなり自由に撮影できるという状況ではなくなったはずだ。今後の撮影のためにも、雪の降りぬうちにそれを確認しておきたかった。

 若い写真屋(以後A君)の同行要望により、立ち入り許可申請書には2名の名を書き込んだ。今回、ぼくらは福島第一原発より直線距離で約25kmに位置するいわき市に宿を取った。A君の話によると、ウィークデイは原発や除染などの作業員でどこも溢れかえり、宿を確保するのも大変だったという。それでも小回りの利くA君はなんとか宿を探し当ててくれた。

 いわき市から浜通りを北上すると、「東日本大震災 津波浸水区間 ここまで」という看板が目に入った。道路脇には津波で破壊された家々が点在するものの、車窓からなので実際にはどの程度復興が進んでいるかの判断は難しい。
 岩手・宮城の震災地をくまなく回ってきたばかりのA君も、そしてぼくも、倒壊した建造物の異形を、どこか「見慣れたもの」として眺めていた。ぼくらの神経もどこかで倒壊・途絶、あるいは敏感さを失っていることに気づく。その光景を尋常ならざるものとして受け止める感覚が麻痺しているのだ。日常から非日常への転換が図れず、ぼくは浮き足立っていた。一昨年、宮城県名取市閖上地区で初めて目の当たりにした凄絶な津波の脅威と恐怖を、ぼくはどこかに置き忘れているような気がした。
 A君とぼくは車窓を見やりながら、もうかれこれ30分近くも『旧約聖書』の話に打ち興じていた。助手席に座ったぼくは、もうそろそろお喋りを止めて、非日常の世界に気合いを入れて突入しようとしたのだが、「見慣れた」風景はキリスト教徒でないぼくら2人を突き放すように、日常世界に引きずり込んだままだった。ぼくらが『聖書』を「最も世俗的な読み物」として解釈していたことも、非日常に戻れぬ要因のひとつだったのかも知れない。

 北上するに従い、放射線量は確実に数値を上げていった。検問所のあった富岡町の浜通りを通過する際に、ぼくらはマスクを装着し、車内空気循環に切り替え、外気を遮断した。道路には立て看板が置いてあり、「注意 ここから先、帰還困難区域(高線量区域を含む)につき自動二輪車、原動機付自転車、軽車両、歩行者は通行できません。富岡町」と書かれている。この区間をオートバイで通過しようとした豪の者が係員に制止されているのをたまたま目撃したが、彼も放射線を「見慣れたもの」と感じていたのだろうか。

 浜通りは大熊町に入り、ガイガーカウンターはしきりに不規則な警告音を発し続けている。音の間隔がどんどん狭くなり、一本の波形のように絶え間なく響いている。ディスプレイが赤色に変わり、人間には感知できない強い放射線核種がぼくらを攻撃していることを知る。線量計により、やっとぼくは非日常の世界に引き戻された。ずいぶんと皮肉な戻され方だ。
 以前はバリケードが築かれていなかった交差点も、今は右・左折できぬように、すべてが厳重に遮断されているか、警備員によって管理されている。許可証のない限り、直進しか許されない。現在は横道に逸れることのないように厳重な警備が敷かれているということだ。

 ホテルの人の話では、浜通りが通行証なく通れるようになり、仙台方面に向かうことがとても便利になったとか。この区間を迂回するのは大変な時間的ロスだ。ぼくがいわき市の住民であれば、この便利さを歓迎するだろうが、しかし、妊婦や子供を同乗させても浜通りを利用するかといえば、答えはノーだ。浜通りはあくまで復興作業員専用の道路と見なし、安易な利用は控えるべきだとぼくは考える。

 ガイガーカウンターの音と色に催促されるように、ぼくらは車を降り白装束の防護服に身を固めた。
 伸び放題の雑草は赤茶けて、容赦なく人気の途絶えた人家を取り囲んでいる。相変わらずの「見慣れた風景」ではあるものの、重く垂れ込めた雲も手伝ってか、荒れ果てた惨状が悲しみを誘う。背の高さほどもある枯れた雑草が風に揺すられカサカサと音を立てながら、こびりついた放射線の粒子を撒き散らし、チクチクするような痛みを伴って、防護服を射抜く。
 この家の主はやがてここに戻ることができるのだろうか、いやできまい、とぼくは事故から三年半を経た今、ここに立ち一人前に葛藤していた。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/224.html

 今回は写真をほとんど撮っていない。しょうがない写真屋だ。数少ない写真の中から。

★「01」。富岡駅。前回の訪問時と時期はまったく同じだが、今回は雑草の背が高く線路が見えない。

★「02」。富岡町。津波で車が家の中に。3年半経った現在も当時のまま。

★「03」。富岡町。津波被災者がアルバムを探し求める姿がたびたび放映されたが、貴重な婚礼の写真が放置されているということは、亡くなったのだろうか?

★「04」。富岡町。津波で破壊された堤防と地震で約40cmの段差ができた道路。

★「05」。大熊町。原発より1km圏内にある大きな古民家。一目散に避難したのだろう。窓の隙間から。

★「06」。大熊町。福島県立大野病院。震災翌日には避難完了。双葉病院のような悲惨さは感じられない(第179回、180 回に掲載)。内部には入れないので、窓にレンズを密着させ、ガラスの反射部分を自身の影で調整する。

(文:亀山哲郎)

2014/11/07(金)
第223回:1万時間の法則(4)
 1万時間の修業を経れば人は誰でも天才の域に届くのだろうかと考える時、我が身を振り返れば、ぼくはとたんに弱気になる。1万時間を身を処しながら苦行僧のように写真に打ち込んだという記憶はあまりなく、どちらかといえば身を持ち崩しながら、惰性に従ってきたような気がする。「修業してきた」というより「否応なく写真に従事してきた」といったほうが正しい。受動的な要素が多分にあったことは、遺憾ながら認めざるを得ない。「修業」と「従事」は、「能動」と「受動」ほどの違いがあり、これを混同してしまうのが、凡人と天才の分かれ目なのだろう。
 しかし、公に「私は苦行僧のように」なんてことは、口が裂けてもいえない。喩えそうであっても自らが発する言葉ではないし、ましてや小っ恥ずかしくていえたものではない。そんなぞんざいなことをいってしまえば、今までしてきたことの全否定につながってしまう。そのくらいの分別と美意識はぼくだって持ち合わせているつもりだ。

 ぼくが写真屋になった頃、親父はとっくに他界していたが、生前「創意・創造は、地に這いつくばり、砂を噛み、血へどを吐かないとなし得るものではない」とよくいっていた。確かに彼は身をもってぼくにそれを示してくれた。磊落(らいらく)である一方で、自己に対しては尋常とは思えぬほどの厳しさをもって仕事に取り組んでいた。そのバランスの際立ちは、彼に生きることの豊かさと、豊饒な想像力をもたらした。ぼくは彼のその言葉を頑なに信じてきたし、その教えに添うように努力してきたつもりだが、やはり脇が甘く、未だ天才の何歩か手前で立ち止まっている。

 技術とセンスの関係について前号で少しだけ触れたが、かつての偉人たちの言葉を引き合いに出せばより分かりやすい。ぼくは彼らの見解に“概ね”ではなく、“まったく”同意している。
 セザンヌ(ポール・セザンヌ。フランスの画家。1839-1906年)は母に宛てた手紙の中でこう述べている。
 「私は常に仕事をしなければなりません。しかしそれは、世の馬鹿者どもの賛嘆の的となる仕上げ(技術によるところの)のためではありません。俗世間はそれを賞賛しますが、実はそれは職人的な仕事に過ぎず、(それに肩入れしていては)あらゆる作品を非芸術的に、そして凡庸なものしてしまうだけなのです」。
 また、ボードレール(シャルル・ボードレール。フランスの詩人。1821-1867年)は、画家コローが「半可通の人々」に技術的な面で批判の矢面に立たされた時、彼らに「技術的完成度と美的価値は同一線上にあるものではなく、次元の異なるものだ」と釘を刺している。

 我々は、往々にして自分の仕上げた作品に裏切られたような思いを抱くことがある。その因を言葉で表すことは難しいが、我々が想像や洞察により築き上げた様々な可能性が、否応なくより現実的で世俗的な世界に引きずられ、収斂されていくことに耐えられぬ思いをするからだろう。技術的な完成度合いと、自らの信じる美的価値との乖離は、創作活動に従事するうえで不可避なものとして、常にまとわり付くものなのかも知れない。

 話は横道に逸れるが、身を削るようにして訓練に励んだ登山家がチョモランマ登頂を目指し、人智を尽くし、命を賭して頂に辿り着いた時、そこにスカートをまとい、ハイヒールを履いた女がテレビカメラの前でライトを浴びながら突っ立っていたなんてことが現実世界には多々起こり得る。
 実力と世評は別の場所に座しているということを知っていれば、彼女に微笑みを返すことができようが、登頂に至るプロセスに固執する向きは得体の知れぬ嘆きに襲われることになる。セザンヌの手紙やボードレールの言葉はそんな皮肉を込めたものだったのだろうと、ぼくは解釈している。

 「生まれながらの天才」をぼくもM君同様認めていないが、唯一の例外として常にJ. S.バッハ(1685-1750年)を思い描いてきた。隣席に座すM君の奥方に、「ぼくはモーツアルトを天才だとは思わないが、天才というならバッハだよね」と、得意気な素人が淑やかな玄人に同意を求めた。大和撫子風麗人は冷ややかな上目遣いでぼくに一瞥をくれただけだった。彼女は一瞥という無言の兵器でぼくや亭主をこともなく撃退した。彼女は学生時代からぼくの意見に賛同を示したことは一度もなく、いつも「かめさんって、いやぁ〜ねぇ」が口癖だったが、今は「“目で語る犬”ヨークシャー・テリア」(イギリスのドッグ年鑑にそう書いてある)のようになったらしい。

 ぼくは昔から、バッハが作曲する時には神が乗り移るのだといって憚らなかった。齡60を過ぎて自分の言質を確認しようと作曲年代を調べてみたのだが、音楽の芸術的評価はいざ知らず、ぼくの心酔する曲はほとんどが40歳を過ぎての作品であることが判明した。40代より50代、50代より60代の作品がやはり音楽に深みが増し、精神的奥義を極めているように思えてならない。今改めて、年季は伊達ではなく、必要なものだと心に染みている。

 M君の提示した「1万時間の法則」について、思いつくままに綴ってみた。「お前の文章は“起承転結”がなってない!」と彼はいいたいのだろう。この件についてはまだまだ書き足りないことが山ほどあるが、一瞥されぬうちに退散することにしよう。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/223.html

30代後半から40代前半の写真。

★「01」。アフガニスタンとウズベキスタンの国境の村。左:ハザール人。右:パシュトゥーン人。まったく言葉が分からないなか、焼き飯を食っていたら、彼らがぼくの前に座りスイカを勧めてくれた。日本語で「撮るぞ〜」といったら、わずかばかりの笑顔。ピースサインを出す軽薄な人たちではなかったことに(このおじさんたちがピースをしたら気味が悪い)、ぼくも喜びを噛みしめながら1枚だけいただいた。

★「02」。ネパールのカトマンズ。「あの子、絶対にここから顔を出す」と願懸け。思い通りに顔を出したその一瞬。ぼくの少年時代にはこんなハナタレがたくさんいた。ぼくにしては珍しく望遠レンズで撮る。ライカ90mmエルマリート。

★「03」。ネパールの古都バクタプル。どこか懐かしい風景。子供時代の残像を追いかけて。

(文:亀山哲郎)

2014/10/31(金)
第222回:1万時間の法則(3)
 芸大に写真科が存在しない理由のひとつとして、音楽科の教授は「写真は筋道立てて教えようがないからではないか」と説かれた。音楽に比べればという条件付きで、教授の言説の半分は当たっているような気がする。
 1万時間を訓練に費やし、テクニックを身につけ、それにつれて感受・感覚(一括りにいえば“センス”とか“芸術的霊感”)の錬磨が期待できるという考え方には、ぼくも“概ね”同意する。
 また反対に、感受・感覚が技術の向上を促すという面をぼくは認めているので、“概ね”なのだ。どちらが主導権を握るのかぼくには分からないが、音楽は肉体的訓練(技術の習得)が優先するように思われる。ピアノに喩えれば、楽譜の読み取り能力はもちろんのこと、鍵盤の正しいタッチや運指などの運動能力の習熟が不可欠となる。写真について考えてみると、音楽ほどの肉体的訓練は必要とせず、技術とセンスは“相身互い”だと思っている。

 「この歌をこのように歌いたい」(イメージ)と願っても、技術や技法を習熟していない者はイメージ通り歌えるわけではなく、そこには前もって技術の裏付けと準備が必要となる。
 写真も同様に、技法なくしてイメージを成就することはできず、またそれだけが先行しても訴求力は生まれない。ぼくは技術の先走った作品は、「足腰の弱い写真」となるような気がしてならない。
 技術とセンスは常に表裏一体のもので、両者を良いバランスに保つことはとても難しいが、美の共感への出発点はまず良いバランスにあるように思う。またそこには、技術や知力の及び得ぬ“霊感”や“狂気”への相矛盾するアンビバレントな感情が存在するので、事をいっそう厄介で複雑なものにし、我々を混乱させている。
 論理を飛躍させて、アリストテレスの憂鬱質論(メランコリア)とプラトンの狂気論とを結びつけ、芸術―憂鬱質―天才―狂気という連鎖の輪を形成してもいいように思う。アリストテレスによれば、芸術は憂鬱質の人間の特権的仕業と考えられているのだから、ロマン派的な天才論も狂気論もすべてそこに帰結されるといっていい。
 ぼくは音楽をまともに学んだことはないが、教授の「写真は教えようがない」とは恐らくそのような様々な含みを持っているのだろうと考えている。

 我々の生活感情を美への昇華に結びつけるには、精神構造の一部にどこか歪が生じていなければならず、それは人為ではなく自然発生的なものだ。あるいは必然性のようなものが無意識下にあるのかも知れない。時として、人はぼくを人格の欠落した人間として白い目を向けるが、それも物作り屋のあがなうことのできぬ側面なのだと自己弁護をしておこう。

 M君の追い打ちメール(前回の冒頭句)に面白いことが書かれてあった。それは彼がシングルプレーヤーを目指す過程で、プロのラウンドレッスンを受けた時のくだりである。自分がよしとしてきたフォームが知らず識らずのうちにブレ、それを指摘されたのだそうだ。自己診断によるところの「基本はしっかりできている」との思い込みがプロにより覆され、指弾されたその衝撃を、並み居る部下を前に、素人の生兵法は大怪我のもとだと正直に綴っている。ぼくが前号にて「そっくりそのまま写真に置き換えてもいい」と述べた部分である。

 彼の社内報から少しだけ引用すると、
 「自分が正しいと思い、かつ常に意識してもいたことを間違いと指摘され、またプロの言う通りにとったアドレスで打ってみると、しばらく忘れていた素晴らしいボールが蘇ったのです」と。彼はここで止めればいいものを。狂喜乱舞している場合じゃないのだ。
 「さて、この自分が正しいと思っていることと実際の姿の“ブレ”については、普段の自分の生き方や、仕事においても同じことが言えるのではないか。例えば・・・」と、社長らしさを示そうと、嫌がる部下をものともせずにこまごまと訓戒を垂れちゃうところが、浅はかといえば浅はかである。浅はかではあるが、至れり尽くせりは彼の誠意の表れであり、「教うるは学ぶの半ば」をよく理解していることの証だろう。
 しかし、「はて? うちの社長はなんでこんな話をわざわざ持ち出したんだろうか?」と考えさせれば、知育は万代の宝となったものを、惜しい!

 “禍転じて福となした”彼は、“我流は禍のもと”を幸運にも身をもって知得したのであるけれど、写真愛好家にも我流に溺れてにっちもさっちもいかない人々をたくさん目の当たりにしてきたし、今もしている。また、我流の域を出ずして、それを個性だと勘違いしている人も多い。スポーツなどの場合は、物理的、生理学的な見知から、自己の動作が理に適っているかどうかを判断する手立てがあるが、写真はその判断とする手段がなかなか見つけにくい。
 写真にも一通りのメソードらしきものがあるにはある。写真学校の教科書10数冊を読み流したことがあるが、それで満点を取っても実践ではほとんど役に立たないだろう。ゴルフの教本をいくら読んだとて、シングルプレーヤーになれるわけではないのと同義だ。写真学校を卒業したばかりの人たちを今まで随分とアシスタントとして雇ってきたが、当初はやはり役に立たない。ぼくも自身を振り返ってみれば彼らと同じだったことに気づく。
 近年、写真学校や普通大学の写真部のグループ展に呼ばれ、そこで気づくことは両者にはほとんど質的な差が見られないということだ。全体、何のための専門学校なのだろうかとぼくは訝っている。きっと、専門学校の余禄は別の部分にあるのだろう。写真学校に行ったことがないぼくは、そう推論するしかないのだが。
 デザイナー諸氏からも、デザイン学校を卒業したばかりの人たちを即戦力として期待することはまずないのだと聞く。

 訓練時間対成果を、ここで写真に照らし合わせて言及することは敢えてしないが、4000時間と1万時間とでは明白な差が出るであろうことに疑いはない。ぼくの覚束ない文脈の中でそれを読み解いてもらえば鳴謝至極である。
 ぼくがM君のように、至れり尽くせりをしないのは、誠意がないのではなく、徒弟制度で培った職人気質によるものなのかも知れない、といっておこう。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/222.html

 27年前の写真を整理していたら、夢中で海外を走り回っていた頃の印画紙が出てきた。それをスキャニング。もちろんフィルム時代のもの。まだ1万時間に達していない。テンサイ(天災)前夜。

★「01」。旧レニングラード(現サンクトペテルブルク)の路地裏で。
★「02」。エストニアの首都タリン。ホテルの食堂で。
★「03」。タジキスタンのオアシスにあるチャイハナ(野外お茶処)で。どこか古風で滑稽なおじさんたち。

(文:亀山哲郎)

2014/10/24(金)
第221回:1万時間の法則(2)
 錯乱地獄という牢獄からなんとか這い出たM君から“一義(ひとつの道理)なきにあらず”というメールが再び迷い込んだ。彼がシングルプレーヤーになるに至った道程での体験と発見を綴った社内報をぼくにも送ってくれたのだ。それは寓意とでもいうべきもので、そっくりそのまま写真に置き換えてもいい。ものの上達についての真理をもう一方で解釈したものだといえる。
 杯を酌み交わした際に、彼はそれを先に述べればよかったのだ。そこを割愛していきなり横着にも「シングルプレーヤーになった」と“起承転結”を無視して唐突に始めたのが彼のつまずきのもとであり、我々に酩酊をもたらしたのだった。結論を急ぐ焦りが彼の足をもつれさせ、自分で転んでしまったのだから、愉快なことこの上なし。翻って、このような気の緩みは、普段彼がいかに職場(もしくは奥方)で緊張を保持し、また強いられているかの裏打ちなのだろう。同窓のよしみはそれを解放したのである。

 ぼくは当初、彼の教えてくれた「1万時間の法則」を2話でまとめるつもりでいた。ところがM君の新手メールの追い打ちに遭い、とたんに雲行きが怪しくなってしまった。“起承転結”の苦手なぼくは思うに任せないかも知れない。

 彼の「天才は作られる!」を要約してみる。
 ドイツ生まれの著名な心理学者であるエリクソン(H.H.Erikson)の興味ある音楽アカデミーに於ける研究・調査報告である。
 そこで学ぶバイオリニストを3グループに分けた。第1グループは、将来世界的な演奏家になれる可能性を秘めたグループ。第2グループは、“優れた”という評価に留まるグループ。第3グループは、プロになれそうもなく公立学校の音楽教師を目指すグループだった。
 初めてバイオリンを手にしてからの練習時間の総量は、第1グループが1万時間に達し、第2グループは8,000時間、第3グループは4,000時間を少し上回る程度という調査結果を得た。
 また、プロとアマチュアのピアニストにつても同様の調査を行い、やはり同じ傾向が見られたという。
 エリクソンはこの調査結果をもとに、「生まれながらの天才はいない」との結論を導き出している。
 1万時間とは連日3時間休むことなく10年間修練を重ねた総時間であり、これを経てはじめてプロといえるレベルに達するというものだった。

 ぼくはこの学説を知らなかったが、十分に頷くことのできる現象、もしくは人物を、自身のささやかな人生のなかで何度か見たり、出会ったりしてきた。この説に疑いを抱く隙間はまったくないといい切れる。「才能とは、努力する能力」という自説が、図らずも数字で実証されたと思っている。
 数字は客観的評価という点で説得力がある。しかし一方で、人間には永遠に捉えることのできない才能という概念が否定できないものとして確かに存在する。例えばそれは「天賦の才」などとも呼ばれるもので、それを形成する複雑雑多な有機物を、数字だけを頼りに度外視するような認識上の無謀があってはならないとも思う。つまり、数字を全能の神とは認められない場合が多いということだ。感情や情思、延いては倫理や価値観に至る多くの矛盾が、危うくも力強い共存の上に成り立っている。そこには数字で均(なら)すことのできない要素が多分に含まれ、それだけでは十分な説明をなし得ず、軸を失ってしまうことになりかねない。
 数字は確かなものだが、稟性という数字では規定できぬものの予兆を封じ込めるにはどうしても役不足の感が否めない。ただ、「天賦の才」に注視し過ぎると「努力」への信頼を失ってしまう。
 それらすべてを含めての抽象的な存念を、より具象的な数字で立証しようとしたものがエリクソンの学説だと解釈できる。

 エリクソンの論説をぼくの砕けた写真的思考に一部当てはめてみよう。

 編集者時代、東京芸術大学の音楽教授を取材したことがある。取材を終え、雑談のなかでぼくは訊ねてみた。「芸大は、美術と音楽を教えていますが、なぜ写真科や文章科がないのですか?」と。
 教授は写真にも造詣が深く、また撮影に熱中する愛好家でもあった。彼は躊躇することなく、
 「写真や文章は筋道立てて教えることができないからでしょう。写真専門学校は写真を写すメカニズムやその方法論を教える場に過ぎず、如何にして撮影者のリアリティや真実を写し取るかについては教えることができない。写真や文学は、音楽より個人の成り立ちが大きく関わってくるからではないでしょうか。もちろん、音楽や美術にも似たような傾向はありますが、写真や文章は教育として成り立ちにくいと私は考えています。いくら正しい文法を身につけても文学作品を書けるわけではないのと同じです。
 音楽はある意味でスポーツに似たところがあり、一定の肉体的訓練が必要です。訓練のメソードに従うことが要求され、それを積み重ねた者だけが聴衆を酔わせ、お金を取れるわけですね(笑)。同次元でいうのであれば、写真は技術以上のものが必要で、それを他人が教えることは難しいということなのではないでしょうか」(当時の速記録をもとに)とお答えになった。
 1時間近い雑談のなかで、この部分はぼくの脳裏に深く印象づけられている。当時からぼくは、音楽・美術vs.写真・文学という図式を描いていたからだ。写真と文学はその成り立ちに於いて、類似性と共有部分がとても多いとぼくは感じていた。今も、相似的とさえ思えるような感覚を持っている。ただ、映像と言葉の対決は未解決のままだが、それについては機会があれば言及してみたいと思っている。
 余談だが、ぼくが音楽家を羨むのは、彼らは演奏時に生理的快感を得ているのではないかと思う時があることだ。写真屋にそのようなものはない。発散できない分、「陰にこもって物凄く」なのである。少なくともM君の素敵な奥方(音楽家)には、ぼくのこのようなストイック?な面をどうか理解していただきたいと願っている。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/221.html

★「01」。目の合った瞬間にいただく。キューバの詩人らしい。ぼくはスペイン語が分からないので、英訳をしてくれた。「人はどこで生まれようとそれは重要なことではない。人間は仕合わせを見つけることが一番。大切なことは良き人間であることだ」。フィルムの味わいを醸そうと、デジタル出力したカラープリントをさらにもう一度デジカメで複写し、モノクロ化。コダックTri-XフィルムをISO1000に増感現像した雰囲気を模して。

★「02」。事象の擬人化はぼくの本意ではない。そこには真実を見失う危うさがある。凶暴なリアリティの存在を正視することによってのみ自身が晒されるのだと思っている。

★「03」。むせ返るような菜の花の匂いにぼくの気分はどんどん沈鬱に。鬱陶しい写真やなぁ。

(文:亀山哲郎)