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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2020/10/16(金)
第517回:デジタルは自家製フィルム
 前号、実はぼくにしては珍しく、先に標題を掲げてから本文に取りかかろうとした。たまには多少の責任感を持って、いつもの「出たとこ勝負」や「書いてみなければ何が出てくるか本人ですら分からない」とのいい加減な態度を改め、標題について考慮しながらキーボードを打ってみようと決意した。

 その標題とは『往年の名フィルムとデジタル』(わざわざ二重括弧にする必要もないのだが)というものだった。カラーはあくまで「カラーポジフィルム(スライドフィルム、もしくはリバーサルフィルムともいう)」を指す。
 昔から一般に広く使用されているネガカラーフィルム(フィルムベースがオレンジ色のもの)は対象外である。その理由は、ネガカラーフィルムはプリント専用フィルムであり、プリント時にカラーの調整ができ、フィルム本来の特徴が直接認識しにくい面があるからだ。色調や濃度などが、プリントの加減次第で如何様にもコントロールできるので、プリントを見て「これは何々フィルム」と言い当てるのは不可能に近い。
 色調や再現域がダイレクトに視認できるカラーポジフィルムとはここが決定的に異なる。カラーポジフィルムは色調の調整ができず、いってみれば本来のフィルムが持つ特色が生(き)のママに現れる。フィルター操作を除けば、調整する余地がなく、全責任を撮影者が負うのがカラーポジフィルム。
 そしてまた、ネガカラーフィルムに比べ、カラーポジフィルムは、露出や色温度に極めて敏感で、いわゆる「オタク仕様のフィルム」、もしくは「好事家向け」といったところだ。扱いにくいが、熟練すれば素晴らしい味わいを発揮する。
 先週は、そのようなフィルムについて述べようとのぼくの固い決意を余所に、肝心の標題についてあれこれ考えるうちに疑念が湧き、気持が揺らいでしまった。

 「往年の名フィルム」について、述べたいことは多々あるのだが、よくよく考えてみると、それはいわゆる “老人の繰り言” に近いものになってしまうのではなかろうかとの恐れがあった。あるいは “老人の繰り言” とまではいかずとも、「誰もそんなフィルムを知らない」とか「使ったことがない」とかね。
 となると、とどのつまり多くの人々が興味を抱いていないことを知りつつも、ぼくは滔々と、古き良き時代を惜しみながらあれこれと主張を繰り返すのだろう。そして懐かしむ気が勝ち、やはり一種の “老人の繰り言” である「昔は良かった」との常套句を声を震わせながら連呼した挙げ句、揶揄されるのがオチなのではないか。そこで、遺憾ながら固い意志は脆くも崩れ去ってしまった。

 しかし、やはりどうしても思いを断ち切れないので、印象深かったフィルム(ぼくを育ててくれたといっても過言ではないフィルムの名称など)を “一老人の記憶” として、ここにメモ程度に記しておきたい。読者諸兄のなかにはフィルム派がおられるかも知れないから。

 最も長い間使用したのは米コダック社のモノクロフィルムであるTri-X(トライ・エックス。ISO感度400。ぼくは半分の200で使用)で、18歳から使い始めていた。当時決して安くなかったこのフィルムを使いたいがために、せっせとアルバイトに精を出していた。
 今まで使用していたモノクロフィルムに比べ、理由は分からなかったが、立体感というか空気感のようなものが今まで以上に表現できると感じ、デジタルを始めるまで半世紀以上もこのフィルムのお世話になった。
 使用条件の自由度も高く、現像時間による調子のコントロールにも優れていた(現行モデルについては知らない)。何十種類もの現像液(ほとんどが欧米の参考書による自家調合)で試してみたが、最終的には濃縮現像液のHC-110(コダック製)による階調の豊かさがお気に入りであったため、20年近くこの現像液を愛用していた。

 当時99%以上の人々が何の疑いもなく使用していたコダック社のD76現像液は、ハイライトがブロック(寸詰まり。階調飛び)する傾向にあり、ぼくはどうしても好きになれず、ほとんど使うことがなかった。後にアンセル・アダムスも同様の意見を述べているのを知り、ぼくは大いに気を強くしたものだ。
 ある大きな組織の会合で、データを示しながら「D76はTri-Xの良さを殺いでいる」と弱輩ながら公言して憚らなかった。他人の受け売りで、科学的な実証もせず、この世界にはバカげた都市伝説が未だに幅を効かせている。ぼくたちはそんなまやかしに乗せられてはいけない。

 カラーは、コダック社のコダクロームとエクタクロームを主に愛用したが、それとは別に、冷戦当時の東ドイツで使用したオルヴォ(Orwo。東独製。近代のカラーフィルムを開発した独アグファ社の前身)の印象は忘れがたい。おおよそ「忠実度」からはかけ離れているのだが(この点ではぼくの大好きなポラロイドも然り)、独特な風合いと重厚な色調にうっとりさせられた記憶がある。あの色調をデジタルで再現できればどんなに素晴らしいことだろうと思っている。半世紀前のOrwoは終生忘れがたく、未だ脳裏に焼き付いている。カラー写真の概念が良い意味で覆されたフィルムだった。英イルフォードや独アグファにも思い出深いフィルムがあったが、それに触れているとメモどころではなくなってしまうので、残念ながら割愛。

 デジタルはフィルムより色の忠実性は勝っていると思われるが、味わいという点に於いて、良し悪しを別としてもフィルムには適わない。デジタルの優れたところは「自分の色探し」ができることだろうとぼくは考えている。つまり、自分自身のフィルムを作れる可能性が大いにあるということだ。それを棄て置く手はない。今はそのような時代なのではあるまいか?

http://www.amatias.com/bbs/30/517.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
どしゃ降りのなか、カメラにハンカチを乗せて撮る。花弁に付いた水滴をきれいに写し取るためにアングルを慎重に選ぶ。僅かな加減で水滴は豆電球のように点いたり消えたりする。彼岸花は何処に焦点を合わすかがとても難しい。
絞りf14.0、1/80秒、ISO400、露出補正-1.33。
★「02さいたま市」
朽ち果てた白い彼岸花。化け物か妖精が踊っているようで、どこかおかしい。
絞りf8.0、1/20秒、ISO600、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2020/10/09(金)
第516回:時とともに進化するデジタル
 フィルム育ちのぼくだが、仕事にデジタルを持ち込んで早17年の月日が経とうとしている。初めて購入したデジタルカメラが初代EOS-1Ds (2002年発売)だったということは以前に触れたことがあるが、購入してしばらくの間はフィルムとデジタルの併用だった。
 クライアントやデザイナーがデジタルの処理や約束事を完全に把握できておらず、また印刷業界もデジタルに関しての知識がまだまだ不全といった時代だった。当時、関係者の間では、デジタルに対しての信頼性が未だ半信半疑という面があった。特に写真に関して保守的な人(これは年配者に限らず、若い人たちにも多かったところが面白い。いわゆる “フィルム信奉者” )ほどデジタルを嫌う傾向にあり、そしてまた勉強を怠っていたようにも思われる。もちろん、ぼくとてデジタルに長けていたわけではない。

 デジタルカメラを購入する2年ほど前に、高価なフィルムスキャナーとMac、プリンターなどの関連機器を購入した。フィルムスキャナーで今まで撮ったカラーポジフィルムをデータ化し、Photoshopで暗室作業を学びながら、来るべきデジタル時代に備えた。
 何事に於いても「出たとこ勝負」のスリルと気ままさを愛おしむタイプのぼくだが、この時ばかりは家族の命運を慮(おもんぱか)って、否応なく「備えあれば憂いなし」に倣わざるを得なかった。世の中にデジタルが浸透した時に、慌てずに済むように準備と手筈をしっかり整えておこうとの腹積もりだった。

 約2年間、デジタルの扱いを勉強した後、プロの使用に耐えると覚しきフルサイズのデジタルカメラ(EOS-1Ds)がやっと出現し、それを購入したのだった。
 しかしこの間、ぼくより年配のカメラマンのなかには、デジタルへのアレルギー反応を示し、廃業する人も身近に何人かいたものだ。この現象はカメラマンばかりでなく、デザイナーにも及んだ。
 アナログからデジタルへの端境期(はざかいき。広義には物事の入れ替えの時期。移行期)には、このような悲哀がもたらされるものだ。「新し物好き」のぼくは、約45年間慣れ親しんだフィルムからの鞍替えにほとんど抵抗感らしきものがなかった。それは仕合わせなことだったに違いない。ぼくは得な性分ともいえるし、巡り合わせもちょうどよかったのだろう。

 デジタルを使い始めた頃、仕事の関係者などから「デジタルは何だかノッペリするというかベッタリするというか、そのような傾向が窺えるので好ましくない。どうしてなのだろうか?」という不満の声を多く聞いた。ぼくはすでにデジタルに肩入れしていたので、それをデジタルのせいにはせず、取り扱いの不全や知識不足であろうと主張していた。
 そしてさらに大きな要因として、フィルムに存在する粒子がデジタルにはないからではないかと、ぼくはかなりの確信を持って主張していた。この点に於いては、デジタルに肩入れするぼくも、フィルム上に存在する粒子の果たす優位性を素直に認めていた。
 フィルムとデジタルでは、像を形成する原理が元々異なるのだから、見た目が異なるのは言うまでもないことなのだが、フィルムの粒子は立体感を表すのに大変大きな役割を果たしているとぼくは過去の拙稿で述べた覚えがある。

 古来より彫金の一技法として用いられてきた魚々子(ななこ。魚子、七子とも)打ちは、金属面に魚の卵、あるいは粟粒を蒔いたように魚々子鏨(たがね)で点を打ち込み、文様を浮き上がらせ立体的に見せる役割を果たしてきた。奈良時代にはすでに魚々子打ちの専門職人がおり、正倉院には当時用いられていた魚々子鏨が現存している。
 フィルムの粒子とは発想も技法も異なるが、細かく小さな点を二次元に配すことにより、そこに描かれた物体がより立体的に見えるという実際を大昔の人はすでに認識していたと考えられる。理論的には、粒子と魚々子は同じ役割を果たしている。
 
 この現象は、Photoshopなどでデジタル画像を拡大し、フィルムの粒子を、たとえばフランス製ソフトのDxO FilmPackなどでシミュレーションしてみれば一目瞭然である。特に質感の滑らかな部分、たとえば人間の顔などにデジタルにはない粒子をかけてみれば、明瞭な違いが見て取れるだろう。
 このソフトは、実際のフィルムの粒状性、そして過去から現在に至るさまざまなフィルムの色調が解析されており、デジタル画像にそれをシミュレーションして見せてくれる大変出来の良いソフトである。Photoshopのプラグインとしても使用できるので、お勧めである。
 フィルムに対する懐古趣味はぼくにはないが、長い歴史に裏打ちされたフィルムの完成度とその味わいに、デジタルは今しばらく追いつかないと考えている。

 「アーティスティックな作品は銀塩フィルムでなければ」というおかしな風潮が一時あったが、今はどうなのだろう? 意地の悪い言い方を敢えてすれば、それは「私はデジタルを上手に使いこなせません」との告白ではあるまいかとぼくは捉えている。
 デジタルはまだまだ過渡期にあるというのは間違いではないが、新しいものに順応しようとの努力と調和の取れた生き方を模索しなければ、永遠に過渡期の渦から脱することはできないだろうと思う。時には “過剰” な “ほど” があっても良いのではないだろうか?

http://www.amatias.com/bbs/30/516.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
カンナ。三日にあげず花を観察していると、カンナの開花期というのは非常に長いことを知った。雨の日に傘を差しながら撮る。
絞りf10.0、1/30秒、ISO400、露出補正-1.67。
★「02さいたま市」
場所は異なるが「01」より約2ヶ月経ったカンナ。朽ち果てていくこちらのカンナのほうが胸に迫るものがある。それを二次元の世界に投射してみた。
絞りf11.0、1/20秒、ISO500、露出補正-1.67。
 

(文:亀山哲郎)

2020/10/02(金)
第515回:Web閲覧への感謝とお礼
 前号で登場願った友人が早速ぼくに悪態をついてきた。彼は暇だが、ぼくはそうではない。ここが彼とぼくの現在に於ける決定的な違いである。暇を持て余し、誰彼となく些細なことについてちょっかいを出したくて仕方がないのだ。
 彼は若い頃から、いささか小言幸兵衛(こごとこうべえ。世話好きだが口やかましい麻布古川の家主。長屋を借りに来た者にさまざまな難癖をつけて断る落語での登場人物。転じて、口やかましい人をいう)じみたところがあり、年老いてますますその傾向が強くなっている。
 きっと家人は大変な迷惑を蒙っているであろうと推察する。ぼくも自戒の念を込めて、余生をより穏やかに過ごすべく、「人の振り見て我が振り直せ」との教えに素直に従おうと思っている。最近は、しかとそう言い聞かせている。

 彼は、「標題の『禁煙は諸悪の根源なり』(前号)について、煙草に縁もゆかりもないぼくではあるが、いつもパイプをくゆらせていた君の禁煙による苦悶に多少の興味があった。だが、予想通り禁煙には何も触れることなく、しかも『とうとう写真の話には辿り着かなかった』との先見性のあるオチだけはしっかり約束を果たしたね」と、どこか嬉しそうでもあったが、電話口に意地の悪そうな含み笑いが僅かに透けて見えた。

 ぼくとてここで彼の言い分に怯(ひる)むわけにはいかなかった。「たまにはいいじゃないの。何を書こうがちゃんと写真掲載だけはぼくの義務として律儀に事を運んでいるのだから、許されてもいいと思うよ。いくら商売人でも毎週2枚を選び出し、見ず知らずの人たちに偉っそうな蘊蓄(うんちく)を傾けながら、公開に及ばなければならないのはけっこう大変なことなんだよ。写真はただ撮ればいいというもんじゃないしね。いつも合格点を取れるわけではないが、恥じることのないと思えるものを誠意と矜恃を持って掲載している」とぼくは精一杯自己弁護めいた返事をした。
 ここには「どうかそこを理解してくれ」との懇願めいた気持が多分に含まれていた。というのは実は真っ赤な嘘で、「こんな容易いことを理解できない、もしくは理解しようとしない君はかなりの人でなしであり、極めて質の良くない人間だ」とぼくは訴えたかったのだ。
 質の良くないその彼が、一昨日までWeb公開していた我が倶楽部の写真展についていくつかの感想を述べてくれた。Web公開は初めての試みであり、また来年のこともあるので、ぼくは彼の言葉に一応虚心坦懐に耳を傾ける振りをすることにした。

 拙稿ですでに述べたことだが、写真の最終形はプリントとの考えは変わらない。だが、 “時代の趨勢” を鑑みれば、頑固でばかりはいられないものだ。  
 ぼくのような質の良いジジィは自身のことを “知る人ぞ知る” 存在であれば、それだけで願ったり叶ったりというところだが、少しでも多くの人に自分の写真を見て欲しい、あるいはまた知って欲しいと願う人たちには、プリントとWebの同時公開は利のあることに違いない。今回のWebのみの公開はどのくらいの効用をもたらしたのか、もう少し時間が経ってみないと判明しないだろう。何しろ一昨日終了したばかりなのだから。

 伝え聞くところによると、PCでWebをご覧いただいた方々はまだしも、スマホなどは、画面が小さい上に、やたらと広告が多く、見づらいとのことだった。ぼく自身もスマホで試してみたが、確かに不器量そのもので、これではせっかくアクセスして下さった方々に、肩身が狭すぎると感じた。因みにPCとスマホのアクセスの割合は、PCが69%、スマホが31%だった。
 質の良くない友人の弁によると、「次回は、金を払って広告をなくせ」であった。そのほうがずっとスマートであるし、見やすくもある。彼の意見は正しい。もし来年Webを同時公開するのであれば、友人の仰せに従うべきだと思っている。

 プリントかWebかの是是非非(ぜぜひひ。一定の立場にとらわれることなく、良いことは良いとして賛同し、悪いことは悪いと反対すること)は一旦さておき、それぞれの長所短所を見極め、使い分けることが現代的な処方箋であろうと思う。第一に、双方を同じ土俵に上げて論じるべきものではないことは承知の上である。異質のものを比較しても意味がない。
 プリントは色々な意味で労力や負担を強いられるが、丹念さがある分見映えがし、作者の意図を伝えやすいとの利点がある。ブログやホームページは、手軽でスピード感があり、自分の作品をそこで公開している人たちも大勢いる。彼らにとってそれは喜ばしくもあり、きっと甲斐のあるものなのだろうと思う。特に若い人たちにとって、少なくとも写真を他人に見せることについては、今は昔よりずっと良い時代なのだろう。写真の楽しみ方は百人百様であっていいとぼくは認めている。
 
 ただ、ぼくは写真だけで糊口の資を得てきた人間なので、そこで習得した技術や考え方を愛好の士に伝える義務感のようなものを持っている。拙稿もその一環であり、倶楽部の主宰も無理強いされたとはいえ、引き受けた以上はさまざまなノウハウを惜しみなく分け与えているつもりだ。
 と同時に、写真のありように対する信条も一方で説いている。ぼくの信条は揺るぎがなさ過ぎ、時に他人に窮屈な思いをさせているのかと思いきや、彼らは「聞き流す」という姑息な妙手を使ってくるので、ぼくはいつも騙されてばかりいる。ここだけの話、実は騙された振りをしているだけなのだ。

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 初めての試みであったWebでの写真展は、お陰様を持ちまして、無事終了致しました。なお、閲覧者の「リンク元URL」では、当サイトからの入場者が最も多く、この場をお借りし、みなさまとさいたま商工会議所のご好意に篤くお礼申し上げます。ありがとうございました。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/515.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
里芋。多くあった里芋の葉のうち、一葉だけ早枯れしたフォトジェニックなものを見つけた。水玉がコロコロして、この葉はいつ見ても懐かしさを覚える。
絞りf11.0、1/60秒、ISO400、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
今にも降り出しそうな重い雲が里芋畑にのしかかる。
絞りf11.0、1/50秒、ISO200、露出補正-1.33。
 

(文:亀山哲郎)

2020/09/25(金)
第514回:禁煙は諸悪の根源なり
 禁煙をして間もなく丸2年になる。初っ端から標題「禁煙は諸悪の根源なり」と、ぼくは意味不明の憂さ晴らしをしようとしているけれど、それと写真がどのような関係にあるのかイマイチ自分でもよく分からない。滑り出し好調かと思いきや、ここですでにつまずいてしまった。まるで共通点が見出せないのである。確かなことは、とにかく禁煙はぼくとって偉大なる癪の種なのだ。このストレスは写真に悪影響を与えているに違いない。

 先日、しばらく音信の途絶えていた友人から夜遅く電話があり、1時間ほど長話をしてしまった。 “男たるもの誠にみっともない” 、というのがジジィの昔気質であり、そしてまた普遍的感覚でもある。
 昔から「長電話は女の相場」と決まっている。このことは、女性差別でも蔑視でもない。男と女はもともと異なる生き物であり、同権ではあるが平等ではない。お互いの長所・短所、得手・不得手を認め合い、かつ補いながら潤滑に生を営めば良いのである。そして、男と女は決して比べてはいけないものなのだ。それらを混同している質の悪いフェミニスト気取りの個人や団体が大手を振って、やたらヒステリックに騒ぎ立てながら、世界狭しと徘徊している(その人物名や団体名を列挙したいくらいだが、写真とは何の関係もないのが残念)。しかしホント、気持ちの悪い嫌な世の中だなぁ。窮屈で、不寛容で、偏狭で、これでは窒息しそうだ。

 それはさておき、ぼくのかつての愛煙ぶりを知る友人は、「まだ禁煙は続いているの? もしそうなら、どんな御利益があった?」と興味深げに訊いてきた。
 因みに彼は生まれてこの方、如何なる種類の煙草も嗜んだことがないという変わり者であり、それは一方で不幸者でもある。
 何故不幸者なのかというと、煙草の風味を知らないので、煙や香りの好き嫌いはいえても、喫煙自体に対してその行為を良いとも悪いともいう資格がないからだ。だが、そんな資格などなくても彼は何不自由なく生きて行けるのだから、大きなお世話というものか。
 ぼくのいう煙草とは、自販機などで売られている紙巻き煙草ではなく、もちろん電子煙草などは論外で、あくまでパイプ煙草と葉巻を指す。これがホントの、本物の煙草である。これこそが男の嗜好品というものだ。
 禁煙についての種々雑多な思いを、今回は親の敵(かたき)を打つように、これ幸いと、無駄な禁煙について意欲的に語る良い機会と捉えた。本心を吐露すれば、ぼくにとって「禁煙ほど無意味なものはない」との主張をどこかで堂々と披瀝してみたかったのだ。だが一方で「それがどうした。そんなことより、写真の話が先」との思いもあり、今くじけそうになっている。

 禁煙について友人とあれこれ話をしているうちに、「せっかく良い標題が見つかったので、今度のよもやま話には、それについて書くことにしよう」とぼくは提案し、煙草に縁のない友人も「その標題はなかなかいいね」と賛同の意を示してくれた。双方とも、何たる無責任ぶりか。ただ、ぼくらの懸念は「その話をどのように写真に結びつけるかだ。それが難事」との結論に至った。そして、「文末には、『とうとう写真の話には至らなかった』とのオチでいいのさ」と、ぼくらは確かな未来を予見し合った。賢明にも、文頭からすでにオチを見事に見透していたことになる。
 けれど写真の話をそっちのけにし、禁煙の話に終始しては、やはりどこかに良心の呵責を禁じ得ず、そこがとても辛いところだ。
 このような経験を10年以上、性懲りもなく514回も繰り返してきた。今さらながらに、ぼくは “忍耐” と “危うい気丈” が服を着て歩いているようなものだと感じている。あるいは、マルクス・レーニン主義者でもないのに、長年砂上の楼閣のようなことばかり書いているとも思っている。
 
 原稿の始めの一行(つまり “さわり” )が出てくれば一気呵成に書き上げるのがぼくのスタイルなので、その一行を彼に語ってみせた。「うん、いいね」と彼も相槌を打つ。なかなか上出来の滑り出しであった。
 眠りについたぼくは悪夢にうなされた。ロケに出て、2人の女性モデルはぼくの指示が飲み込めず、トンチンカンなことを繰り返し、担当者とも意見が合わず、夢の中でぼくはのた打ち回っていた。写真の悪夢は、写真屋の宿痾(前号述べたことと同様に)のようなものであるのかも知れないが、夢見の悪さは覚醒してからも悪影響を及ぼす。

 この悪夢のお陰で、友人と意気投合した今回の標題とさわりがすっかりどこかに飛び去り、思い出そうにも、質の悪い便秘の如く(ぼくは幸か不幸かまだ便秘の苦しみは未体験だが)、どう気張っても、力んでも昨夜の名案が浮かんで来ない。その気配すら窺えない。
 ぼくは糞詰まり状態を解消すべく、そして一縷の望みを託し、彼に電話をしてみた。「先日話した標題とさわりをすっかり忘れてしまったのだけれど、君、覚えている? 何とか思い出しておくれよ」と、ぼくは思い余って、彼に手を合わせ懇願した。
 「あれ〜っ、何だっけなぁ? う〜ん、気張っても出て来ないなぁ。どんな蘊蓄(うんちく)を傾けたっけ?」と、今尾籠(びろう。わいせつであったり不潔であったりして、人前で口にするのははばかられること。大辞林)な駄洒落などいってる場合じゃないだろうに。
 耄碌著しい我々は、だがしかし、お互いにオチは忘れておらず、「とうとう写真の話には辿り着かなかったねぇ」などと、まるで他人事のようにいうに違いない。また、「禁煙は諸悪の根源なり」とは、物の弾みでいったものの、何も書いてないではないか! 何が「良心の呵責を禁じ得ず」なものか。 

 「かめやまからみなさまへのお知らせ」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢ウィルスのため中止となりました。私たちは会場での写真展示の代わりに、未だ経験のないWebでの公開を試みました。Webでの公開期間は9.1 ~ 9.30 の1ヶ月間です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://fototortuga.exblog.jp
 「カテゴリ」/ 「第14回フォト・トルトゥーガ写真展」
 よりご入室ください。

ーーーーーーーーーー

http://www.amatias.com/bbs/30/514.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
蓮。蓮を選択し、周辺を黒く落とすような暗室作業はしていない。お気に入りの自作プリセットをいくつか重ねると、まるでスタジオで撮影したかのような黒バックとなる。
絞りf13.0、1/50秒、ISO200、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
雨の中の額あじさい。雨に濡れた花弁のハイライトを飛ばさぬように、露出補正を慎重に決める。
絞りf11.0、1/60秒、ISO400、露出補正-1.00。
 

(文:亀山哲郎)

2020/09/18(金)
第513回:気の迷い
 慌ただしい日々が続き、それに加え酷暑と相まって、この1ヶ月ほど私的な写真を撮りに出かけることができずにいる。かといって、仕事に追われているわけでもなく、いってみれば “得体の知れない忙しさ” (これを一般的には “雑用” とか “野暮用” というらしい)に襲われ、自身の佇まいを見据える余裕を失っている。そのような状態は不安ばかりが増幅し、精神衛生上極めてよろしくない。きっと写真にも悪い影響を与えるに違いなく、何事にも悠長なぼくとて、早く現状を打破しなければと少々焦り気味。
 このストレスは肉体にも悪影響を及ぼすこと確実であり、「少しでも長く写真を撮りたいのであれば、とにかくボーッとするのが一番だ」と、ぼくの、にわか仕立ての神様がしたり顔でそう諭してくれる。不信心者のぼくには、誠にもってありがたい神様である。

 そんな状況下なので、新たな撮影をできずにいるが、幸いにして、まだ未現像の花の写真が多少なりともあり、掲載写真はしばらく間が持ちそうだ。ただし、開花の季節と拙稿のタイミングが合わぬという不都合は避けられないが、それもこれも本(もと)を正せば一番の原因は武漢ウィルスであり、医学に従事していないぼくにしてみれば、目に見えぬ敵に勝負を仕掛けても致し方のないことと諦めている。しかし、目に見える責任はぼくにあるのではなく、目下のところ(いや永遠に)ウィルスを隠蔽した彼の国の、無責任極まる機関の責任と断じておく。
 したがってぼくは、歪(いびつ)なマスメディアが何の抵抗もなく平然と発する「新型コロナウィルス」だとか「COVID-19」などというどこかまやかしめいた、しかも拵(こしら)えごとのような偽善的呼称を使わず、どの場に於いても、発祥の地名をつけた「武漢ウィルス」との正しい呼び名を、何の躊躇(ためら)いもなく用いることにしている。このことは、イデオロギーなどとは一切関係がない。

 また横道に逸れ、暴走・暴発しそうになるので話を元に戻そう。そうそう、拙稿は「写真よもやま話」でありました。
 雑用にかまけて写真が撮れないでいると、ぼくは他人の何十倍(多分)も不安に駆られる質であり、それをして自身を「小心的思い込み自損症候群」と称しながら、知らずのうちに前述の如く心身を損ねていく。いつも「おれは何という損な質か」と嘆いて見せるのだが、要するに、神様がおっしゃるが如くボーッとさせておけば機嫌が良いということでもある。
 けれど、このように都合良き解釈は、公私を問わず写真に従事している限り、永遠に振り払うことはできず、終生つきまとわれることは百も承知している。この軛(くびき。自由を束縛するもの)は、物作り屋の宿痾(しゅくあ。長い間治らない病気。持病)のようなものであり、逃れることはできそうもない。「何の因果で、写真屋になんぞ」と、くぐもった声で遠慮がちにいうのが関の山だ。ぼくは、そんな自分に当てのないはかなき抵抗をしている。

 ちょっと沈み加減の気分でいるところに、「花は季節に関係なく、いつ見ても美しく、いいものですね」との理解あるメールをいただき、ぼくの気は一気に和んだ。今しばらく、世情が落ち着くまでは花の写真を掲載してもいいとの許可を得たような気分になっている。
 あるいは、ぼくをよく知る友人のなかには、「かめやまが花ばかり撮っているのは、如何なる気の迷いなのか?」とか「かめさんが、花をねぇ」などと本気で気にかけている様子も窺える。しかし、ぼくの信ずるところを吐露すれば以下のようになる。
 「どのような分野の写真であれ、それに集中的に取り組めば、その姿(被写体)が今までとは異なったものに見えたり、そこで新たな発見があったり、さまざまな気づきを与えてくれるもの。それは感覚的なものかも知れないし、あるいは時に技術的なものであったりする。この貴重なる発見は、他の分野にいくらでも応用でき、かつて述べたことのある『運鈍根』が伴えば、上達には持って来いの手段」といっても間違いない。
 このことは、決して慰めではなく、また気の迷いでもない。「花こそ偉大な生命体。今しか撮れないもの」との思いを抱きながらぼくはシャッターを切ることにしている。

 ぼくが崇敬の念を抱く親鸞聖人の有名な言葉にこんなものがある。ちょっと説教じみてしまうが、お許しをいただきたい。
 「明日ありと 思う心の仇桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」。
 親鸞聖人は9歳の時に仏門(浄土真宗)に入られたが、その時に得度(出家すること)を頼んだ寺は、「今夜はもう遅いので明日にしよう」という。その言葉を受けて親鸞聖人が詠んだ句。
 「咲く桜を明日見ればいいという心が仇となり、見ることができないかも知れない。夜中に嵐が吹いて桜が散ってしまうかも知れない」との意味で、先延ばしの好きなぼくには心に刺さる痛いお言葉である。撮影に関して、気の迷いは仇となることのほうが多いとは、ぼくの経験則だ。

「かめやまからみなさまへのお知らせ」
 Webでの公開期間は9.1 ~ 9.30 の1ヶ月間です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://fototortuga.exblog.jp
 「カテゴリ」/ 「第14回フォト・トルトゥーガ写真展」
 よりご入室ください。

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http://www.amatias.com/bbs/30/513.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ジャーマンアイリスとモンシロ蝶。撮影時のイメージ通り、モノクロ写真を2色に調色。
絞りf11.0、1/50秒、ISO100、露出補正-0.67。
★「02さいたま市」
芙蓉。「これ、花というより、宇宙の何かを見ているよう」とつぶやきながら。
絞りf13.0、1/30秒、ISO400、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2020/09/11(金)
第512回:暗室作業は必要?
 ぼくの主宰する写真倶楽部の展示会を、今回は武漢ウィルスのため恒例となった埼玉県立近代美術館での開催ができず、思案の挙げ句Webでの公開を試みた。
 我々も初めてのことなので勝手が分からず、またご覧いただいた方々のなかにも、写真に辿り着くまでに迷路のような戸惑いを生じさせてしまったのではないかと気を揉んでいる。特に普段、インターネットに縁遠い人たちにはややこしい思いをさせてしまったかも知れないとの思いが強い。実際に「Web公開」の意味を取り違え、美術館に来館しようとされた方もいたくらいだ。これは決して笑いごとではない。いや、愛すべき大笑いだ。

 その一方で、遠方の友人や来館しづらいとの理由でDMの送付を控えていた人々などに、今回はメールなどで気楽にお知らせできたことは、お互いの安否確認(?)も兼ねて好都合でもあった。
 また、ぼくは普段から自己発信能力とその意欲に極めて劣っているので、かめやまの写真を少しは知ってもらうことができたようにも思える。遠方に居住する仲の良い従姉妹たちでさえ、ぼくの写真を知らないくらいだから、今回のWeb公開はそれなりの効用があったかも知れない。
 ぼくはWeb作成には大した知恵がないので直接携わっていないのだが、掲載写真に関しては責任者として一応目を通し、写真の選考をしたり、修正点を指示したりはしている。

 来年4月に同美術館での開催がすでに決まっており、「写真観賞はやはりオリジナル・プリントで」との気持が強い保守的なぼくではあるけれど、今回のWebでの反省点や改善すべきところが解決できれば、展示会と併行してWeb開催を試みても良いのではないかと思っている。
 遠方の方々にも気軽にお知らせすることができるというのは、何にも増してWebの長所だと感じた次第。

 他のメンバーはどのような反応をWeb閲覧者から得たのか、今のところぼくには分からないのだが、少なくともぼくにとっては展示会で直接顔を合わせるよりも、より直裁的で詳細な感想が寄せられ、また質問事項も多いと感じている。
 このことはとても興味深く、ブログにあるコメント欄にでも書いてもらえば、より多くの人々と共有できもするのだが、ぼくの周りには奥ゆかしくもシャイな人が多いせいか(断じてそのようなことはない!)、何故かメールでひっそりと伝えてくる。だからぼくもメールでひっそりお答えしたのだが、話せば10分で済むことがメールだと何千字にもなり、時間もかかり、それなりに大変なのだ。

 質問をもらって意外だと感じた事柄は、暗室作業はかなり写真に取り組んだ人でもハードルが高いと感じている “らしい” ということだ。暗室作業に対するぼくの考えは今まで拙稿でいろいろな角度から述べてきたので、その重要性については今ここで改めて繰り返さないが、写真を撮ることとそれを仕上げることの重要性を同等とは見なしていないとも受け取れる。
 しかしそれは、個人の写真的な作法であり、方法論でもあると思うので(つまりどこまで追求するかということも含めて)、必ずしも暗室作業をしなくてはならないというものではない。あくまで趣味の世界なのだから、撮影者が納得し、楽しむことができれば、それが一番いいことだとぼくは思っている。これに関して他人がとやかくいうのは筋違いであろう。満足度というものは、それこそ百人百様である。そこに良し悪しなどない。

 「まず初めに良い写真ありき」は疑う余地のないことなのだが、それだけでは(暗室作業なしでは)描いたイメージ通りとはなかなかいかないものだ。少なくともぼくはそう感じているので、頭のなかに描いたものを追い求めるには、やはりどうしても暗室作業が必須のものとなる。そのために暗室技術を学び、執拗に追い求めることになる。
 ハードルが高いと感じている人は、きっと暗室作業の必要性を感じつつも、技術を習得することの困難さに二の足を踏んでいるのではないかとも思われる。どこまで必要性を感じているかの問題であろう。

 ぼくが1枚の写真に費やす暗室作業の労力は、私的写真を1とすれば、仕事の写真はその1/4〜1/3くらいのものだ。このことは仕事の写真に手を抜いているわけでは決してなく、まずトーン(調子)をしっかり整える作業が最優先され、求められているものを正確に再現できれば撮影目的(暗室作業を含めて)の大半が満たされる。
 コマーシャル写真は大まかには、企画・デザイン・撮影の分業体制であるが、私的な写真はすべてを自身でマネージメントしなければならず、残念ながらぼくの得意とするところの責任転嫁ができない。屁理屈をいう相手も、愚痴をこぼす相手もいない。
 私的写真は描くイメージが自由奔放だから、ぼくのような人間は自己顕示の鬼と化してしまう。その分、稚拙な暗室技術を振り回さなければならず、やたら労力ばかり費やすということに相成る。写真を撮るって、ホントにしんどいね。

「かめやまからみなさまへのお知らせ」
 Webでの公開期間は9.1〜9.30 の1ヶ月間です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ぼくは日本人なので、蓮を見るとお釈迦さんとか仏教的なものを連想してしまう。それを追求していったら、インド哲学的?な蓮へと。
絞りf11.0、1/80秒、ISO400、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
かぼちゃ。子房の付いた雌花。花は食用にもなるのだとか。
絞りf11.0、1/50秒、ISO200、露出補正-1.00。


(文:亀山哲郎)

2020/09/04(金)
第511回:ぼくの天敵
 一昨夜7〜9時までの2時間、よんどころない事情で野外での撮影をしていたのだが、おびただしい湿気による気持ちの悪さに、ほとほと閉口してしまった。納豆のように糸を引く粘っこい湿気が身にまとわりつき、すべての精気を奪われそうだった。こんなに凄まじくも粘着性に富んだ、しかも精神を蝕むようなジメジメは今年一番だろう。
 現場に向かう車はエアコンを効かせていたので窓は結露し、雨降りでもないのに定期的にワイパーを作動させなければならなかった。すれ違うバスの窓も結露しており、乗客の姿が露で乱反射し、ボーッと霞んで見えるほどだった。

 このような時に最も留意しなければならないことは、「いざ撮影」と車に置いたカメラバッグからレンズやカメラを取り出したその瞬間に、それらが結露して使いものにならなくなってしまうことである。冷房で冷え切った機材を表に出した途端に結露させてしまう可能性があるので、密閉度の高いカメラバッグを、最も冷気の当たらぬ場所に置いておかなければならない。これが高湿度 + 温度差のある時に、機材を支障なく使うコツである。
 また、風呂場での撮影など、ぼくはドライヤーを常備していた。ホテルの浴場や温泉場での、湯けむりのなかでの撮影など、ドライヤーで “穏やかに” 機材を前もって温めておけば、レンズを曇らせることなく、すぐに撮影に取りかかれる。でないと、痛い目に遭う。
 シベリアや熱暑地域で得たぼくのフィールドワークの一端である。もっとも、シベリアなどの極寒地では−30℃が撮影の限度で(バッテリーが作動しなくなる)、ここでの結露とバッテリーを生かすには別の手立てがあるのだが、日本ではシベリアほど差し迫った問題が生じるとは思えないので割愛。
 どのような場合でも、写真愛好家たる者、温度や湿度の急激な変化は避けなければならないと肝に銘じておくべきだろう。
 と一応「写真よもやま話」らしくなったところで、話をちゃっかり湿気に戻してしまおう。

 ぼくはただでさえ極端に湿気が苦手な質なので、一昨日の夜は酸欠で喘ぐ金魚のように口をパクパクさせ、息も絶え絶えで、そしてすべてが投げ遣りとなり、なおかつこのような時はすぐに厭世主義に傾きたがるほうだから、湿度97%(しかも31℃。スマホのアプリによる)のバカバカしいような世界には到底住めない。こんな気候がもし1ヶ月近くも続けば、ぼくは生きる希望をなくし、高地か緯度の高い国目指して移転を決意するだろう。湿気はぼくの不倶戴天ともいうべきものである。まともに勝負を仕掛けたら、いつか息の根を止められてしまうような気がする。
 一昨夜の高温多湿より「まだ東南アジアのほうがずっとましである」といいたいのだが、ぼくが数度東南アジアで長期間ロケできたのは、仕事の重責を担ってということもあるのだが、残念ながら湿気より、やはり若さあってのことだったのだろうと思う。仕事でなければ、未だその気力はあるのだが、体がついて行くとの自信が欠如し始めていることは否めない。

 さらにつけ加えるのなら、世の中には生きる意欲を失うほどの湿度にまったく動じない爬虫類とか両生類の生まれ変わりのような空恐ろしい人間が確かに存在している。なかなかの人物であるといえるのだが、しかしかなりの変態であることに変わりはない。ぼくの身の回りにもそのような離れ業を演じるカエル人間とか河童のような変態志向的怪人が少なからずいる。
 おそらくそのような手合いとは人生観も著しく異なり、生涯何事に於いても、お互いに手を取り合って共感のあまり感涙に咽(むせ)んだり、あるいは思い遣りに基づく相互扶助を試みたりすることはないだろう。ことごとく生活感情や価値観が対立し、相対尽く(あいたいずく。お互いが納得のうえで事を行うこと)ことは決してないだろうと予測する。
 ことほど左様に、ぼくはカメラやレンズと同様に湿気には殊のほか相性が悪い。

 この湿気のなか、ぼくは10数年ほど前の撮影を思い出した。それは千葉県手賀沼の花火大会の写真を大手広告代理店の依頼で撮影した時のことだった。
 プレス用の席に陣取ったぼくは打ち上げられる花火を見上げながら、しばらく写真は撮らずに、まずタイミングを測ることから始めた。タイミングを覚え、約1時間あまりシャッターを切り続けた。デジタルでは初めての花火撮影でもあったので、程よい緊張感に包まれてはいたが、撮影中ずっと天から降り注ぎ、そして沼から沸き立つねっとりとした湿気が尋常でないことを感じていた。湖畔には葦が生い茂り、むせ返るような草いきれと濁った重苦しい空気が漂っていた。
 無事撮影を終え、機材を仕舞おうとカメラバッグに手を触れた瞬間、ぼくは「ウワッ!」と声をあげた。水でも浴びせたかのようにカメラバッグが湿気でぐっしょりと濡れていたのだった。雨も降っていないのに、湿気のもたらす異様な気象状況にぼくは唖然とし、一目散に車に飛び込み、エアコンをフル回転し帰路についたことをまざまざと思い起こした。
 ぼくはもう少し贅沢な、そして精神貴族のような写真屋になって、湿気に一泡吹かせてやりたいが、そうなると、生身のドロドロした写真は撮れなくなってしまいそうな気がする。今しばらくは、怖気を振るいながらも、仕方がないので重苦しい湿気と上手く折り合いをつけながらお付き合いしようと思っている。

「かめやまからみなさまへのお知らせ」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢ウィルスのため中止となりました。私たちは会場での写真展示の代わりに、未だ経験のないWebでの公開を思い立ちました。
 公開期間は9.1 〜9.30 の1ヶ月間です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ブルーの菖蒲(あやめ)。撮影していたら、栽培者から「お裾分けに」とのご好意で、今我が家の庭の住人となっている。
絞りf8.0、1/25秒、ISO200、露出補正-1.33。
★「02さいたま市」
雨のなか、しっとり濡れた紫陽花。微妙な色合いを再現すべく、ない知恵を働かす。
絞りf11.0、1/40秒、ISO400、露出補正-1.00。



(文:亀山哲郎)

2020/08/28(金)
第510回:保存はプリント?
 お盆休みを利用して、ここ3,4年の間に撮影し、仕上げた(補整した)ものを整理・整頓しようと、同じデータを保存したふたつの外付けハードディスク(本体ハードディスクと合わせれば三重のバックアップとなる)をかき回した。原画であるRawデータも共存しているので、膨大な量になる。
 外付けハードディスクはそれぞれの容量が3TBもあるので、お盆休みくらいではとても間に合わないのだが、取り敢えず、作業の取っ掛かりだけでも得られればと始めてみた。取っ掛かりがないと、物臭のぼくなど何も手が付けられない。いつまでも放置したままの状態が続くのは精神衛生上あまり良いものではない。「思い立ったが吉日」とか「善は急げ」との故事に倣うのが、この際賢明と言い聞かせ、時間のある時をみて、急ぐことなくぼちぼちと作業を開始することにした。

 この作業の一番の目的は、ボケの来ないうちに、合格点を与えることのできる作品を選び出し、幾重にも重なっているレイヤーやスマートオブジェクト(Photoshopの機能)などをひとまとめにして軽量化し、取り敢えずそれをブルーレイディスク(以下、BD)にまとめて保存しておくことにある。
 「合格点を与えることのできる作品」とは、他人がぼくの作品を見て、「あいつは写真を職業にしていたんだ」とか「写真にだけは真摯に対峙していたんだなぁ」とか「ホントに写真が好きだったんだ」と思わせるようなものを指す、といいたいのだが、それはある意味、体の良い俗気のようなもので、もちろんぼく自身が得心できるという大前提があってのことだ。他人から良い評価を得られても、自分が納得していないものは常に「ボツ写真」である。その類のものは、残念ながらいくつもある。
 作品は自分の眼鏡に適ったものでなければ意味がなく、ぼくはそれらを自身の生きた証として記録に留めておきたいと思うようになったのだから、不思議である。もしや心のなかに、生への名残をとどめておこうとの心情が芽生えたのかも知れない。それが果たして「我にしてあるまじきこと」なのかどうか、これを機にぼくは今一度じっくり考えてみようと思っている。

 意地の悪い友人などは、「それはつまり歳を取ったということだよ」としたり顔でいい、ものの分かった風を装うからいやになる。人間の心の変化はそれほど単純なものではなく、もっと深遠なものであろうと思う。いつか彼自身にも同じ思いが到来し、やがて跳ね返ってくるということに気が付かないのだから、あまり洞察に富んだ物言いだとは思えず、「見通しが甘すぎるよ」とぼくは返す。
 
 整理した写真データは、機を見てプリントしておこうとの腹積もりもある。写真本来のありようからすればプリントが正統であり、BDは異端と考えている。写真を見せることによって自分の歩いてきた足跡を、少なくとも家族に、あるいは親交のある人々に残しておきたいなどと、およそぼくらしからぬ考えに思わず噴き出してしまった。まだ何もしていないのに苦笑している自分に気づき、輪を掛けての一人笑いでもあった。

 BD上にデータで残すよりは、極上の印画紙にプリントしたほうが長期間保存できるのではないかと思うが、みなさんはどう思われるだろうか? 将来、機器や規格がどのような変化を遂げていくのか不明だし、また現在のデータ形式(tif、psd、jpgやその他など)が存続し得るのかという不安もある。
 BDに焼いたはいいけれど、四半世紀後には無用の長物として扱われ(BDが25年以上も耐久性を有し、データが保持できるとの保証もない)、再生不能との状況もなしとはいえないので、プリントというアナログのほうがずっと頼り甲斐があり、安心感も得られるのではないかと感じるのは、やっぱり歳のせいだろうか? 「先見の明」はどちらに軍配を上げるだろうか? ぼくはきっとプリントのほうだと思っている。

 自分の写真を我が家のどこかに飾るという趣味もないので(悲しいかな、ぼくの家族からそんな要望はかつて一度も寄せられたことはない)、ぼくの写真は何もしなければ永遠に埋もれる。印刷物は多くあるが、それはあくまで印刷物であり、オリジナルプリントとはその意味合いが遠く離れたものだ。
 過去に仕上げたデータをもう一度検討し、完成度を上げて再びプリントして保存しておきたいとの殊勝な思いは、旧知の間柄だった写真好きの友人(アマチュア)が先日亡くなったことに起因している。
 お線香をあげるため伺った彼の部屋に、今まで彼の撮ったお気に入りの写真プリントが整理整頓されているのを目の当たりにし、ルーズなぼくは感心し、改心さえしてしまった。ぼくは彼のそんな佇まいに刺激された。写真の評価などよりずっと大切なことは、自身の作品に対する心なのだと、遅ればせながら気がついた。そしてまた、それが彼のぼくに向けた遺言のようにも思われた。

 極めて保存性の高いアーカイバル容器(箱)をぼくはいくつか持っているので、宝の持ち腐れにならぬように(お盆の戯言にならぬように)、老後の楽しみとして少しずつお気に入りの写真を、お気に入りの印画紙にプリントしていこうと考えている。

「かめやまからみなさまへのお知らせ」
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 公開期間は9.1〜9.30 の1ヶ月間です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://fototortuga.exblog.jp
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http://www.amatias.com/bbs/30/510.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
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★「01さいたま市」
カールドン、和名チョウセンアザミ。高さ1.5〜2mにもなる大型の多年草で、いずれも目の高さより上に開花していた。大きいものは拳大のつぼみに花が乗っていた。
絞りf11.0、1/40秒、ISO400、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
上記より2週間後のカールドン。日没寸前にそのシルエットを描く。
絞りf9.0、1/40秒、ISO400、露出補正-1.67。


(文:亀山哲郎)

2020/08/21(金)
第509回:やっぱり“我田引水”
 例年、本連載は年に二度、盆暮れの休載をさせていただいているが、折りも折りとてこの猛暑と武漢ウィルスを理由に、我が家とその一族郎党は菩提寺のある鎌倉に詣でることを当然であるかの如くずるけ、ご先祖様には申し訳なくも不義理を貫き通している。
 いやはや、「罰当たり」なこととも思うが、ぼくの祖先に、生きる者を最優先することに反対を唱えるような嗜虐的で不粋な不心得者はいないと信じている。 いずれぼくもこの墓に葬られるのだが、家族には草葉の陰から、「こんな時に墓参りになど来なくてよろしい。墓参りは別段に孝行ではない」ということにしている。いや、いうのではなく、どこかにそれとなく書き記しておこうと思っている。
 第一、「墓に布団は着せられぬ」(親が死んで、孝行をしようと思っても手遅れという意)というではないか。この期に及んで、そんなことをせずともよいとぼくは思っている。

 そもそも墓参りとは、生きている者が自身を顧みて、そこはかとない安心感を得ようとする行為に他ならぬ、とぼくは極めて現実的かつご都合主義的な不信心者であるので、したがって、「気が向いた時の墓参り」で十分だ。つけ加えるなら、義務を感じさせるような祖先は “筋が悪すぎる” のだと思っている。

 世の中の多くの義人と信心に篤い人々は、日本人として本来備わっている祖霊信仰と仏教が融合した盂蘭盆(うらぼん。祖先の霊を供養する仏事)に忠義を尽くし、先祖の墓に参るものだ。そんな様子を窺い知るにつれ、ぼくはただでさえ浮き世に於ける不義理で身を小さくしているのに、お盆を迎えるとますます身を縮め、いじけてしまうのだ。この期間、身の置き所に困るというか、まったく所在がない。これは思いのほか辛いものがある。
 お盆の記憶として脳裏に焼き付いていることは、「殺生をするな」と「京都大文字の送り火」くらいのもので、「墓参り」はぼくの意識外のところに鎮座しているようだ。 “筋が悪い” は、ぼくのほうなのかも知れない。

 お盆明け早々、写真の話をしなければならぬのも浮き世の辛い義理(?)だが、こちらは忠義を尽くすべく、ぼくは今PCに向かってキーボードを4本指で叩いている。
 「写真の話」より、どうしても自己中心的な「よもやま話」のほうに力点が移動してしまうのは、ここまで回数を重ねればやむを得ないことで、それが自然の成り行きなのではないかとも思っている。ここらへんの自己弁護は、かまびすしくもたいしたものだ。
 自然なることといったが、このことはぼくの持論に従えば、おそらく写真ばかりでなく、どのような分野でも「勉強をすればするほど分からないことが泉のように湧き出てくる」ものなので、「事の終わり」が見えず、それどころか際限のない深い闇に包まれ、そこに身を沈め、目下呻吟の真っ最中なのだと思える。人様に「今ぼくは勉強中」というのは、厚かましくもみっともない言い草だと思うが、写真を撮るほどに「私は誰? ここは何処?」との思いが強くなっていく。斯様に写真は難しく、また自分の知り得たことを相手に伝えることも同様に難しい。

 毎日決まったように、目覚めとともにまず洗顔を済ませさっぱりしてから、マグカップ1杯分、もしくは2杯分の珈琲豆をガリガリと挽く。おかげでぼくの握力は衰えを知らない。撮影中は、重い一眼レフを片手でぶら下げているのだから、握力は大切な商売道具のひとつである。「写真は一にも、二にも、まずは体力」である。これもぼくの持論。
 珈琲を飲みながら「今日はどんな写真を撮るか」とか「こんな写真が撮れたら愉快だな」などと思案している振りをして、自分自身を巧みに誤魔化そうとしている。酷暑のなかで写真を撮らずに済むもっともらしい口実を盛んに捻り出そうとしている。ぼくは自身がそのような成りをしていることもよく知っている。こんな時は気ばかりが急き、何をしても捗らぬものだ。ぼくはマルチ人間ではないので、なおさらのこと。「下手の考え休みに似たり」とはよくいったものだと思う。

 命取りとも思えるような猛暑のなかでの散歩は控え、近隣の景色のなかにフォトジェニックな何かがあったかと、その記憶を盛んにたぐり寄せている。今は主に「何処にどんな花が咲いていたか」だ。それを思い出し、直ちに、自身が干からびぬように、出来る限りの短時間で撮ることを心がけている。
 本来、散歩の時くらいは写真を忘れ、ぼんやり歩くのも乙なもの(ささやかな憧れ)で、ぼくの生活に必要なものだということはよく分かっているのだが、普段の習性からなかなか逃れられない。振りかぶっていえば、それをして写真屋の「悲しい性」とでもいうのかな?
 ぼくの「鵜の目鷹の目」(うのめたかのめ。懸命にものを探し出そうとするさま。その目つき。)は決して品行が良いとは言い難く、お世辞にも褒められたものでない。また、「物色する」というのはどこか抵抗感のある日本語なので、ぼくは「被写体を渉猟する」と言い換えるが、それもプロ・アマを問わず写真愛好家の備えるべき良き特質であると、取り敢えず我田引水をしておこう。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
何という葉か不明だが、面白い折り重なり方をする植物だ。雨の中での撮影で水滴が美しい。
絞りf11.0、1/30秒、ISO400、露出補正-1.33。
★「02さいたま市」
これも植物名分からず。深紅の葉が美しかったので、ガラス窓が白飛びしないように露出補正を慎重に。
絞りf9.0、1/40秒、ISO400、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2020/08/07(金)
第508回:写真の品質はイメージ次第
 例年より遅めの梅雨が開けた。今年の梅雨は「雨ニモマケズ」とばかり精力的に近所で(遠出ができないので)花ばかり撮っていたのだが、梅雨明け宣言とともに、撮影には不向きな酷暑の到来となり、昨日など20数枚撮るのがやっとだった。ぼくは這々の体(ほうほうのてい。今にも這い出さんばかりの様子。散々な目にあってかろうじて逃げる様子。広辞苑)で現場を後にした。暑さにからっきし意気地のないぼくは、すぐに根が尽きてしまうのだ。
 流行り病が沈静化していれば、喫茶店にでも潜り込んで夕刻になるのを待つのだが、そうもいかず身の置き場のないぼくは、暑さと流行り病と蚊(ぼくはゴキブリ千匹より、一匹の蚊が憎く、嫌いな質)の三重苦を理由に、そそくさと退散を決め込んでしまった。

 若い頃とは異なり、この炎天下、1時間も粘れないような情けない写真屋を演じてしまったけれど、写真屋としての根性を意地になって通そうとすれば、きっとぼくは干からびて行き倒れとなるに違いない。そのようなあまり賢いとはいえないぼくの行状による不始末は、誰からも憐憫の情など一切示されず、それどころか「年寄りの冷や水」とか「身の程知らず」などと揶揄されたり、あるいは非難されるのがオチというものだ。家族や友人たちからも見放され、ますます孤高を持するのだから、それも悪くはないかと、この期に及んで負け惜しみをいってみたりもする。

 あまり大きな声ではいえないのだが、梅雨時ぼくは広い農園を車で徐行しながら、気に入った花を見つけると、車から降りずに、運転席の窓を下げ、そこから写真を撮るという横着なことを時々していた。
 撮影の都度、体を捻らなければならないのだが、車から何十回も降りたり乗ったりするのに比べれば、それだけでも体力の消耗を防ぐことができ、年相応の賢い省エネ作法として、僅かながら抵抗感を覚えつつも、厳しいお咎めを受ける性質のものではないと言い聞かせていた。罪悪感に苛まれては、撮影どころではなくなってしまうから。

 運転席からのレンズの位置は、車を降りれば中腰の態勢を取らなければならない高さなので、体力、特に足腰の衰えた者にとっては、誠に都合が良く、この撮影法は案外本寸法(ほんすんぽう。本来の正しい有り様や基準に適っていること)なのかも知れないと感じた。
 吹き降りの時などは、レンズへの雨粒の付着も最小限に抑えることができ、この作法は一概に横着とは断じられぬ面もある。そしてまた、これは年配者の特権(ご褒美)でもあるとぼくは自身に言い含めるようにしている。したがって、「あまり大きな声ではいえないのだが」と、遠慮がちに述べる必要もないのかも知れない。

 写真好きの若人からメールが舞い込んだ。要約すれば、「イメージを描くことの重要性をかめやまさんは常に訴えていらっしゃるが、写真を撮るうえで、何が最も大切なこととお考えか?」というものだった。
 漠然とはしているが、この問いかけはぼくにとって難しいようで、実は案外簡単に答えられる事柄でもあり、この紙面上(?)でお答えしようと思う。

 写真を撮るにあたって、ぼくが最重要視することは「イメージを描くこと」にある。「写真の品質はイメージにより決定する」とぼくは誰彼なしに、信念を持ってお伝えすることにしている。このことは極論でも何でもなく、題名通り、「写真の品質はイメージ次第」である。
 ぼくは非常に正しいことを述べているが、ぼくと異なった考えを持った人がいたとしてもそれは当然至極のことである。今、質問者はかめやまに問うているのだから、ぼくの信ずるところを包み隠さずお伝えすれば、それが真心というものであろうと思う。

 筋を追っていうと、どのようなイメージを描くかがセンスであり、描いたイメージをより忠実に、的確に再現するのが技術だ。つまり、イメージはセンスにより生まれ、そこで生まれたものをより明確にするのが撮影技術であり、暗室技術でもある。どれが欠けても良い作品は生まれない。
 イメージも、センスも、技術も欲深く吸収する必要があり、それが如何ばかりであっても貪欲であり過ぎるということはない。豊富なイメージを生み出すためには、センスを磨かなければならず、またそれに対応することのできる技術が必要というわけだ。ぼくは今、こんな偉そうなことを述べているが、自身の写真を公開しなければならず、冷や汗が噴き出ている。がしかし、「物づくり屋は恥を晒してなんぼなんだからさ」と、自身の懐柔に余念がない。

 さて、この筋道を分解していくとなると、複雑に入り組んだものをほぐし、そして整理する必要に迫られるが、幸いなことにぼくは哲学者ではなく、一介の写真屋なので、上記の如く明快な描き方がやはり本寸法というものだろうと思う。 
 もちろん、さらに突っ込んで論じ合いたいと願う方がいらっしゃれば、それもまた愉し、というところだ。このような世情にあって、考えることの縁(よすが)を与えてもらえればと願っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/508.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。
2枚とも車の運転席より窓を開けて不精をして撮る。

★「01さいたま市」
ルドベキア。山吹色の、どちらかというと華やかな花だが、萎れ加減が面白く、撮影時からモノクロの粗粒子仕上げをイメージ。リサイズ画像なので、粗粒子効果が見られず残念。
絞りf11.0、1/60秒、ISO400、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
ひまわり。7月下旬から方々でひまわりが咲き始めた。たまにはこんなひまわりもアリ?
絞りf9.0、1/100秒、ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)