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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2022/04/08(金)
第590回:良くない指導者
 長い間写真を愉しんでおられる読者諸兄にとっては、これから述べる事柄について今更感ありありのように思われるかも知れないのだが、ぼく自身も改めて今「はて?」と思うようなことに突き当たったので、それについて少しばかり述べてみたい。

 被写体を見つけ、それをしっかり写し取ろうとする時、まずどのようなことに気を砕くかということである。ここで述べることはあくまでカメラのメカニズムに関してのこと(操作や設定)であり、それが延いては写真の良し悪しを左右する要因ともなるので、看過できない問題だと思えたからである。
 何故このようなことに思い至ったかというと、最近友人2人の写真を拝見する機会があった。ひとりは写真を始めて約半年の、事始めの方(以下Aさん)の作品で、もうひとりは写真歴約20年のベテランともいうべき人(以下Bさん)のそれであった。

 写真を撮るときにぼくがまず注意すべき3項目を書き出すと、
 1 ピント。2 ブレ(手ブレと被写体ブレ)。3 露出、ということになる。これにつけ加えるならば、4 被写界深度(つまりf 値の選択)ということになる。
 被写界深度に注意を払わぬ人は思いのほか多い。そんなことなどにお構いなく、辺り構わず大なたを振るう猛者も多く見受けられる。被写界深度の決定にいつも汲々とし、頭痛や耳鳴りまで誘発するひ弱なぼくなど、そんな様を目の当たりにすると、やっかみ半分で、思わず「う〜ん、こやつ、できる! ご先祖様の顔が見てみたい! きっと弁慶か鍾馗大臣(しょうきだいじん。疫病神を追い払い、魔を除くという神)なのだろう!」と皮肉を交えて唸ってしまう。

 上記3項目についてみなさんはどのように注意を払われるであろう。ほとんどの人が、意識的、もしくは無意識的にこれらを操作(なにしろ今時はすべてオートだから)しているのだろうが、体調の思わしくない時や精神が不安定な時には注意力が散漫になりやすく、これらの基本を疎かにすることがままあるのではないか。特にベテランになるほどこの傾向が顕著になるのではなかろうか。 “分かったつもりで” 確認もせずにシャッターを押してしまうことがあると想見する。ぼくも、仕事の写真でなく、私的な写真を撮る時につい気が緩んで、ということがある。ただほとんどの場合、不思議なことに何故かシャッターを切った直後に気がつくので救いがあるといえばそうなのだが、「だったら初めから気づけよ!」と自らを咎めてみたりもする。集中力を欠くとはこういうことなのだろう。
 事始めの人は「知らぬが仏」を決め込めばよく、大事に至って自ら気がつくか、あるいは “良い指導者に恵まれれば” それ相応の教えを受け、以後注意を払うようになるだろう。
 ぼくが今回「はて?」と思ったことの発端は、このご両人の撮ったブロック塀と看板だった。今回は4番目の被写界深度について、度々ながら記す。大切なことは何度訴えても良いだろう。

 Aさんの撮った平面のブロック塀にはペンキが塗られており、それが長年の風雪で剥がれ、面白い模様となり、写真の題材としてはつい撮りたくなってしまうものだ。この平面のブロック塀を正面から撮っているのだが(撮影者は正面のつもりなのだが、実際はそうなっていない。これが複写の難しいところ)、この写真をよく見てみると、中央にはピントが来ているのだが、左端が甘く、いわゆる「片ボケ」の様相を呈している。写真をお見せできないのが残念だが、よくあることなので心当たりのある方もおられるに違いない。

 Bさんの写真はレトロ調の看板を下方から撮ったものなのだが、目を凝らして見てみると、看板の上部に行くほど描写が緩んでいく。つまり、被写界深度が浅すぎて、ピントの合った下方から上方にいくにつれ解像度が甘くなっていく。女性に甘いぼくだが、これは見逃してやらない。
 「良い写真なのに、被写界深度が稼げていないので、上方はピンボケ。絞りf 値はいくつを使ったの?」と訊ねてみた。その翌日だったか、「f 4.5 で撮ってました」と申し訳なさそうな返事をもらった。きっと口の悪いぼくに叱られるとでも思ったのだろう。「少なくともこの場合はあと2絞り、つまりf 9.0 くらいは絞らないとね」と、優しくご教示申し上げた。やはり甘い。

 被写界深度については、同じf 値でも、被写体の距離により異なってくる。被写体が近ければ近いほど深度は浅くなり、遠ければその逆となる。また、レンズの焦点距離によっても(望遠か広角か)、 “見かけ上の” 深度は異なって見える。そして、撮像素子(イメージセンサー)の大きさによっても変わってくる。
 さまざまな要因が重なり合っての被写界深度なので、実際には頭と体に叩き込むしか方策がない。不安な場合は、f 値を変えて何枚か撮ればよい。被写界深度は、数学的な方式により計算で導き出すことができるのだが(許容錯乱円)、被写体を前にその都度計算するわけにはいかない。

 文中、 “良い指導者に恵まれれば” と他人事(ひとごと)のように述べたが、実はぼくは写真事始めのAさんに、「プログラムオート(P)でいいから、とにかくたくさん撮ることを優先しましょう」と、非常に良くない指導をしてしまった。良い指導者は、始めから「プログラムオートでなく、絞り優先モード(AvまたはAとカメラに表示)を使いなさい。Avというのはね・・・」と伝えるもので、ぼくは今深く反省している。Avに設定し、「同じ被写体を、同じアングルで、絞りを変えて撮ってみる」ことがもっと早く試せたに違いなく、また露出に対する理解も早かっただろうと悔やんでいる。
 このことをBさんに伝えたら、「私は初めからかめやまさんに『Avで撮れ』といわれたけれど、でも理屈は教えてもらえず『自分で考えろ』」と、やはりぼくはいつだってヒジョーに良くない指導者であるようだ。
 これからでも遅くはない、良い指導者を目指そうではないか。なんてね。

※被写界深度の実際は、拙稿第42回に写真を掲載しているので、ご参照のほどを。

https://www.amatias.com/bbs/30/590.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県秩父市。下から仰ぎ見た平面の被写体二態。

★「01秩父市」
どのような理由か分からないが、波板の部分に付いていた家が剥がされたんですね。波板の余りの派手な青色にぼくは尻込みし、彩度をぐっと抑えてしまった。影の模様にも撮影意欲を促された。
絞りf8.0、1/500秒、ISO100、露出補正-1.00。因みに焦点距離は24mm(フルサイズ)。

★「02秩父市」
秩父神社の奉納板を仰ぎ見る。
絞りf7.1、1/40秒、ISO1250、露出補正-1.00。因みに焦点距離は80mm(フルサイズ)。

 
(文:亀山 哲郎)

2022/04/01(金)
第589回:元祖ライカについてちょっとだけ
 秩父市で見舞われた突発性花粉症のその後は、ぼくにとってやはり一過性のものだったようで、おかげさま、今のところ住み慣れたさいたま市で大過なく過ごしている。花粉症に悩まされている知人友人を見るにつけ、その艱難辛苦を自身のこととして感じ取れるようになったのだから、秩父に於けるあの凄烈な花粉の襲来は、ぼくを多少ながらも大人にしてくれたように思う。

 今思い返しても怖気を震うような悪辣で粘液質、かつ品性下劣な花粉どもの襲撃のなか、約4時間で撮った写真を見返すと80枚(ポートレートを除く)ばかりで、ぼくにしては極めて少ない。
 これを花粉のせいにしたいところだが、実のところそうではなく、5年前に訪れた秩父市とは何かが大きく変化していたからだろう。つまり、ぼくの好きな佇まいが以前のようでなくなってしまい、それを発見するのが難しくなっていたというのが本当のところだ。

 誘ってくれた友人のポートレートを何枚か真面目に撮った後、年季が入ったショーウィンドウにひっそり置かれたオールド・ライカ(バルナック・ライカ)を発見した。カメラ店でも骨董店でもないのに、何故このような古色蒼然としたものが、これ見よがしに置かれているのか、そのちぐはぐさがとても愉快だった。だが、カメラの元祖ともいえるライカは、何処にあっても様になる。
 連れとともに、足の向くまま、気の赴くままの面白いもの(被写体)探しだが、陳列物とその店との関連性が見出せずにいたぼくは、そのちぐはぐさに戸惑いを憶えた。思わぬ出会いに、「なんで君がここにいるの?」との言葉がつい喉まで出かかった。

 そのライカは、ぼくが20代の頃にお世話になった1930年以降に製造されたライカD III型(第170回:接写-2。このカメラの軍艦部を掲載)で、レンズもスクリューマウントのエルマー(ライカレンズの名称) f = 5cm(標準の50mmレンズ)、開放値f 3.5が付いていた。残念ながら完動品ではないようで、レンズは曇り、錆が浮いているところもあったが、何はともあれ、世界に冠たるライカ、腐っても鯛である。このカメラとレンズ、完動品であれば、きっと今使っても得も言われぬ良い描写を約束してくれる。デジタルに慣れた現代の目には、極めて新鮮なものに映るであろうこと間違いなし。
 陳列棚に置かれたこのライカの瀟洒(しょうしゃ)な出で立ち、そして品格に溢れ、しかも威風辺りを払う姿に、かつてライカで身上(しんしょう)を潰しかけた自分の姿を重ね合わせ、最大限の敬意を表しながら、ガラスの映り込みを計算に入れ、そっとシャッターを押した(掲載写真「01」)。

 20代から、都内にあったライカ特約店の大番頭と懇意になり、そこに入り浸り、気になるライカレンズを伝えると、「良い中古が入ったので、試写のため持って行っていいよ」といってくれ、彼の好意的な言葉にぼくはいつも甘えていた。小躍りしながらそのレンズを持ち帰り、試写を繰り返し(フィルムはもっぱらコダック社のPlus X とTri Xを半分の感度で使用)、ライカの引き伸ばし機であるフォコマートを使い、空が白むまで暗室に籠もっていたものだ。
 プリントした印画紙を大番頭に持参し、「ほれっ、このレンズはこんな写りだ。こんな特徴がある」と、いわばギブ・アンド・テイクの紳士協定を結んでいた。だが、これこそ曲者で、「欲しくなると居ても立っても居られぬ」とか「親を質に入れてでも」というぼくのやくざな性格を、海千山千の大番頭はとうに見抜いていた。15歳年長の彼は、ぼくより一枚も二枚も上手を行っていた。
 だが、ここでの大散財は、後々「レンズとは何か」を知る良いきっかけとなった。被写体や描くイメージに添って、レンズを選択する技を身に付けたと思っている。

 拙話で、ライカだけを取り上げる気持はぼくにはない。ライカはカメラの歴史そのものといってよく、それだけに神話や伝説、いわんや都市伝説めいたものが巷には溢れ返っている。今さらぼくが改めてライカについての蘊蓄を語る気もない。世に流布されていることのどれを信じ、また真に受けるかは個人の自由だが、ぼくはそのようなものの情報提供者になりたくはないし、また荷担もしたくないというのが主たる理由だ。
 本質的なことを知りたいのであれば、身銭を切って自身のものにするしかなく、人からの又聞きはよしたほうが良いというのが、ぼくが知り得たライカに関する事柄である。伝言ゲームのような危うい話は信ずるに足りない。

 身の回りにもライカ愛用者は何人かいるが、使いこなしていると思われる人はごく僅かしかいないのが実情。ぼくは現在も、おそらくこれからもライカを使うことはないだろうが、我が身を省みることなくいえば、写真の上手い下手の観点からではなく、知識や使いこなしの点で、ほとんどの人が「宝の持ち腐れ」だといっていい。中型カメラの雄であるハッセルブラドもまた然り。

 写真撮影ではなく(本来の目的を離れて)、所有することで満足感を得るというのもある種人間の業のようなものなので、この件について深入りはしない。また、側杖を食いたくないとの思いも無きにしも非ずというところか。
 ただ、写真好き、カメラ好き、物の良さや美しさを理解できる人には、「騙されたと思って、ライカを使ってごらんよ」と、ぼくは憚りなくいうことにしている。

https://www.amatias.com/bbs/30/589.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県秩父市。

★「01秩父市」
本文にて紹介したライカD III。
絞りf6.3、1/100秒、ISO320、露出補正-1.00。

★「02秩父市」
ビン詰めのスプライト広告。年代的にはいつ頃になるのだろう? 波板ガラスに映るものと窓枠の色合いから、かつてのポラロイドをイメージして。
絞りf5.6、1/250秒、ISO100、露出補正-0.67。



(文:亀山 哲郎)

2022/03/25(金)
第588回:亡父の口癖
 父が亡くなって42年の歳月が流れた。「明日3月23日は親父の命日でね」と親しい友人にメールしたら、「42年前といえばかめさんは32歳。中略。カメラマンになったことを知らないお父様は、かめさんの写真を、そして書いたものをどのように見てくださるのかしら? きっと嬉しそうに、感慨深げに息子を見やり・・・」と返信してきた。

 10歳の時にカメラを買ってもらい、写真好きの父(写真ばかりでなく、絵画や彫刻、書や陶器などの美を見定める眼は非常に肥えていたし、確かだった)に手ほどきを受けたが、おそらく父は、今のぼくの写真を見てそう悪くはいわないだろうとの確信がある。
 ひょっとして、贔屓目に見れば、父は眼を細めて嬉しそうな表情さえ浮かべてくれるかも知れない。何故なら、存命中の父の写真より、今のぼくのほうが「写真に於ける我の発達」という点で、ずっとましだからである。

 けれど、文章のほうとなると、これはもうとんでもなくいけない。ぼくの文章を読んで、きっと苦笑交じりに「やれやれ」というのが精一杯で、それ以上の言葉を発する気力はないだろうと思う。
 何故なら、ぼくの文章はあくまで素人の戯れであり、さらにはっきりいうならばインチキも甚だしきものであるからだ。それをして、正しい日本語で「まがいもの」という。もちろん謙遜などではなく、ぼくは本気でそう思っているし、至極当たり前のこととして捉えている。

 物心がつく頃から、ぼくは文章に苦悶する父の背中をずっと見続けてきたし、学生時代は翻訳の下訳をさせられ、「てつろう、こんな日本語はないぞ。ここはな、 “本来はなぁ” ・・・」と、間違いを飽くことなく何千回も指摘してくれ、そしてしごかれたものだ。ぼくはぐうの音も出なかったが、父は写真同様に、文章についても「何故この日本語が間違っているのか?」について懇切な説明を惜しまなかった。しかしぼくは、そんな父親の愛情から逃げ出したくて、いつもその機を窺っていた。挙げ句、家出を敢行したくらいだ。まさに「親の心子知らず」である。
 学生時代(大学時代)に書いた原稿は父の手によって、いつも真っ赤に染められた。赤で訂正された日本語をとくと眺めるぼくは、「なるほど美しいなぁ。上手いこと使うもんだ」と、素直に感じ入っていた。そして、素人と玄人の違いをまざまざと思い知らされたものだ。ぼくも「物づくり屋」の端くれだが、父の文章の域には遠く及ばない。素人と玄人は、修業の度合いや意識の持ちようが桁違いなのだから当然のことだ。

 本文冒頭に「本来は〜」という父の口癖を書き、そこから始めようと思ったところ、命日と友人からのメールに引っかかり、とんでもなく横道に逸れてしまった。いやはや、 “本来は” ですね、前回秩父での出来事について述べたのだから、 “本来なら” 掲載写真は秩父で撮ったものであるべきなのだが、そう上手くは問屋が卸してくれず、その言い訳をぐだぐだ記そうと思っていた。だが、今その気はすっかり失せてしまった。掲載できない理由を一言で記しておくと、それは現像が追いつかないということに尽きる。
 
 過日、秩父で撮ったある画像を4時間近くあれこれ意に添うようにと画像ソフト相手に格闘していたのだが、どうにもならず放り出してしまった。いつもながらのことなのだが、原因と結論はただひとつ、写真の質が悪いからだ。それはあの激しい花粉症のせいだと思いたいが、実はそうではない。
 クオリティの及ばない写真は、如何に暗室作業を駆使しても救いようがないということを百も承知しながら、ホントにもう、我ながらいやらしいったらありゃしない。そんなことは、とうの昔から分かっていることなのだが、どうしてもスケベ心が拭えず、「もしかしたらいけるかも」なんて、淡い期待を抱いてしまう浅ましくも愚かな自分がいる。「ダメなものは、いくらやってもダメなんだってばっ!」と、怒声を発しながら、そんなことを今日こんにちまで何百回(あるいはそれ以上)も繰り返しているのだから、ぼくはまったく懲りない阿呆男である。そんなに自虐的になってどうするよ。たかが写真ではないか!

 ダメ写真は、どのように画像ソフトを駆使しても良くならないとの考えについて、あっちこっちの意見を集約しても、賛意を示す人が多い。少なくともぼくのまわりのプロたちは、ほぼ同じ意見を述べている。
 今まで拙稿で何度か述べてきたことでもあるのだが、アナログより融通が利き、器用に立ち回れるデジタルは上手く使ってナンボのものだということだ。自分らしさを演出しようとエキセントリックな表現に走る人を時折見かける。目を覆いたくなるようなものにも出会すが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の匙加減をどうするかは、その人の感受性と知性に加え、見識の問題だとぼくはしている。
 暗室作業を施せば作品の印象は確かに変わる。変わることイコール質の向上と勘違いする人も多く見かけるが、作品の質が良くなければ何をしてもすぐに底が割れてしまう。だからとても恐い問題だとも思っている。自分の作品を歓び勇んで他人にお披露目するなんて、 “本来は〜” 正気の沙汰とは思えず、また、もっての外であろうとぼくは思っている。
 毎週、ネットで全世界に写真と文章を同時公開している味噌っ滓もいるようだが、一体どんな人相と風体をしているのか一度見てみたいものだ。

 父はぼくに自分の後を継がせたかったようだが、然に非ず。ぼくは、原稿を書くほうではなく、取るほう(編集者)に回った。そして、父が亡くなってから、その呪縛から逃れようと足掻き、知らずのうちにやくざな写真屋になっていた。42回目の命日をして、どこまでも「親の心子知らず」を通している。

http://www.amatias.com/bbs/30/588.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県川越市。

★「01川越市」
かつては壊れかかった長屋だったが、今若い人が新たな試みとして廃れた通りを活性化しようとしている。ここに見る西日のように陽が射してくれるといいのだが。
絞りf7.1、1/80秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02川越市」
「01」の斜め向かいにある廃屋に何故か電球が灯っていた。ここも何かに利用されるような気配だった。
絞りf5.6、1/160秒、ISO100、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2022/03/18(金)
第587回:秩父詣で
 先週、約5年ぶりに秩父市に出向いた。自宅から車で約2時間の距離だ。秩父市は、2017年5月に訪れたのが最後。「また秩父に行きたいなぁ」との思いはあったものの、武漢コロナに遮られ、思いを果たせずにいた。そんな折、数年前に縁あって友人となった若人に誘われ、春うららを満喫しようと出かけたのだが、ここでぼくはとんでもない目に遭ってしまった。

 今から30年ほど前、栃木県は鬼怒川にある会員制ホテルの撮影のため逗留したことがあった。鬼怒川到着後3日目くらいだったか、撮影中にぼくは速射砲のようにくしゃみを連発し、止まるところを知らなかった。そうこうしているうちに、鼻や目がくしゃくしゃとなり、今度は鼻水の垂れ流し状態となった。情けないが、しかし青っぱな(青洟。子供などが垂らす青い鼻汁)でなかったのが唯一の救いだ。聡いぼくは、すぐにこれが花粉症だと悟った。

 同行した2人の女性モデルに向かって、「おれの流れ出る鼻水を何とかしろ。ティッシュの箱とゴミ箱を持っておれの隣に待機せよ。鼻水が垂れてきたらそれを甲斐甲斐しく拭き取れ」と、暴言を吐いていたくらいだった。
 4 x 5インチの大型カメラを覗いていると、くしゃみとともに鼻水がダラダラと流れ、大小の水滴となって飛び散るのだからたまらない。そうなるともう撮影どころではなかった。特に料理撮影となると目も当てられぬような光景が繰り広げられ、現場は戦場のような惨たらしい様相を呈した。ぼくの口にタオルを押し込もうとする人でなしまで現れた。撮影台の周りには、撮影後厚切りのローストビーフをせしめようとの人が群れていたのだった。賤しくも、陋劣(ろうれつ)かつ欠食児童のような人々が、ぼくがくしゃみをする度に、嘆声と怒声の入り混じったような遠吠を発していた。

 悔しいかな、2人のモデルたちは花粉症に悶え苦しむぼくを横目に、事の重大さをまったく理解できず、「蛙の面に小便」(京都では “小便” 。通常は「蛙の面に水」。どんな仕打ちにも動じないこと)を貫き通し、ぼくに何が生じたのかさえ知ろうともしなかった。加え、同情の気配など微塵も感じられない。
 可愛い顔をしていながら、揃いも揃って、鉄のように頑丈かつ冷たい女たちであった。ぼくは彼女たちを「マーガレットとサッチャー」(マーガレット・サッチャー。1925-2013年。英国の首相で、「鉄の女」との異名を取った)と呼ぶことにした。
 「鉄の女たち」もぼくに遅れること1日後に同じ症状を呈し、苦悶に陥ったのだが、鼻水だらけの顔を撮るわけにもいかず、ぼくもメイクさんも苦労した記憶がある。ぼくの花粉症初体験による悶死は、「鉄の女たち」とともにあった。

 モスグリーンのぼくの車が花粉で真っ白になっていたくらいだから、「花粉症、然もありなん」といったところだ。生涯花粉症に取り憑かれ、ぼくも花粉アレルギーの人同様に、厄介な症状に悩まされることを覚悟したが、帰京してから先週の秩父までの約30年間花粉症とはまったくの無縁だった。
 花粉症で苦しむ坊主(息子)や友人たちを見ていると、一見ぼくも彼らに対して「鉄の女」然としているのだが、いやいや、それとは事情が違う。ぼくは彼らに心よりの同情を示しているところが異なるのである。鬼怒川で、花粉症のあの凄まじい症状を体験してこそ、アレルギーに苦しむ人の気持ちが理解できたので良かったとさえ思っている。

 秩父は、今までガイドブックや伝統芸能の紹介写真のため数度訪れたことがあるが、花粉舞う時期は経験がなかった。
 秩父名所でありながら何故か今まで行ったことのなかった秩父神社に詣でた。友人の案内で境内に立ち入った瞬間、神の怒りを買ったのか、くしゃみと鼻水の競演となった。秩父滞在約3時間後の出来事だった。「牛にひかれて善光寺参り」というが、秩父神社に、善光寺のような御利益は期待できないのだろうか?

 くしゃみと鼻水の連呼は、咄嗟に30年前の、あの鬼怒川の忌まわしさを想起させたことはいうまでもないのだが、あの時との違いは、ここには「鉄の女」はおらず、優しく気遣ってくれるありがたい友人が寄り添ってくれたことだった。だが、なぜ神の怒りを買ったのか未だに考えあぐねているのだが、もしかすると秩父三社のうち、ぼくはここだけに義理を欠いていたからかも知れない。あるいはこの2年間撮り続けてきた花の写真から一旦離れて(植物を振って)、ぼく本来の更なるものへの転換を図ったからだろうかと思案してもみた。

 5年ぶりの秩父市だったが、以前訪れた時にフォトジェニックと感じた建物や雰囲気が、失われつつあることに気がついた。重両級のレンズを2本携えて勇み立ったが、撮影のテンションがなかなか上がらない。
 1日撮影に行って「1枚撮れれば上出来、御の字だよ」と人様にいうぼくも、自分のこととなると「何が何でも、3枚はものにしろ。撮れなければ帰ってくるな」と、一人二役を演じながらもうひとりのぼくに発破をかけるのだが、この地で神と花粉には勝てないことを知った。
 翌日、坊主に「秩父で突発性花粉症になった」といったら、「山林に囲まれた秩父盆地は花粉が渦巻いているのだから、鬼門というものだ。そうなって当たり前さ」と、事も無げに親父の無知を嘲り、冷徹に言い放った。我が家にも「鉄の女」ならぬ「鉄の男」がいたのである。 

https://www.amatias.com/bbs/30/587.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県川越市。

★「01川越市」
ショーウィンドウに体格の豊かな碧眼女性。「もしかして、なんとなくぼく好み」とつぶやき、何故か照れながら思わず撮ってしまった。
絞りf5.6、1/100秒、ISO125、露出補正-1.00。

★「02川越市」
店先に置かれてあったディスプレー。鏡の映り込みだけを凝視しながらシャッターを押す。
絞りf10.0、1/100秒、ISO640、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2022/03/11(金)
第586回:映画のポスターを撮る
 小学・中学・大学時代の同窓生、そして社会人になってからこんにちまで親しく付き合ってきた老若男女の得体の知れぬ友人たちから異口同音に、「3回目のワクチン打った? 私ももうすぐ打つので、そうしたら会いましょうよ」とのお誘いをしばしば受けるようになった。
 このようなことはぼくばかりでなく、昨今は案外日本各地で合い言葉のように使われているのかも知れない。

 疫病のため、みなさん相当なストレスを抱え、はけ口を求め、悶え苦しんでいるようにも見える。かくいうぼくは、子供時分から友だちは多かったものの、元々自室に籠もり夢中で何かに取り組んだり、また独り遊びを好んでいたので、このコロナ禍でもストレスを感じることはほとんどなかった。そのような性分なのだ。
 好きな場所に撮影に行けないとのきらいはあったが、元来撮影は独りでするものとぼくは決め込んでいるので、それは孤独であることのストレスとは性質が異なる。
 また、ぼくは人が思っているほど社交的な人間ではなく、それどころか、非社交的だと認めている。自分のほうから食事に誘ったり、宴(うたげ)を持ち掛けることはほとんど無いに等しい。誘われれば応じるといった具合で、至って自由気ままな人付き合いである。

 お誘いの理由はもうひとつ考えられるのだが、もしかするとこちらのほうが当を得ているのかも知れない。それは、「あのジジィもそろそろ行くべきところへ行く時期が迫っている。今のうちに会い、そして早く送り出してやろう」というありがたい仰せである。どうやらこちらのほうが彼らの本音であるようにも思える。
 めでたく彼らの抱く本懐を遂げるには、もう少し写真を撮ってからと願うが、こればかりはいつ打ち切りを余儀なくされるのか、今のところ残念ながら目処が立たない。だが少なくとも、「憎まれっ子世に憚る」とはいわれたくないような気もするし、一方で「そういわれれば我として本望」との気持もある。嫌われるよりは好かれるほうがいくらかまし、という程度のことなのだろう。

 職業上、ぼくは他人に仕事を与える立場にはないので(いただく一方である)、他意を持って近づいてくる人はいないと考えている。したがって、人との出会いには極めて無警戒だが、そうとはいえ人見知りは強いほうだし、人柄や骨柄の見立ても人並みにはする。友人の言葉を借りれば、「見立てはかなり厳しくも、一見するとその柔和な物腰に人は騙される」のだそうだ。随分と人聞きの悪い言い草だが、「ぼくは写真屋なのだから宜(うべ)なるかな」と受け流し、時に甘受さえしている。

 電話やメールでのお誘いには、今世界を危機に晒しているロシアのウクライナ侵攻の問題についての質問もかなり含まれている。ウクライナにはかつて延べ2週間ほど滞在したことがあり、ロシアには約400日間。それを理由としてなのかどうか定かではないのだが、報道カメラマンでないぼくに向かって、古くからの友人さえも、「どこへでも飛んでいくかめさんは、ウクライナには行かないの?」といってくる。
 拙話はいわば「写真よもやま話」なので(脱線ばかりしているじゃないかとのお叱りの声が聞こえてくる)、今ウクライナの話題には触れず、珍しくも掲載写真について少しだけお話ししておこうと思う。

 掲載写真「01川越市」は、川越市にある「スカラ座」(コミュニティシネマ。市民映画館。明治38年創設)で現在上映されている『チェチェンへようこそ −ゲイの粛清−』(ドキュメンタリー映画)のポスターの一部を材料とし、自身の思想的なイメージを重ね合わせ、仕上げたものだ。
 現在のチェチェン共和国に於いて、国家主導で行われている凄まじい “ゲイ狩り” (いわゆるLGBTQといわれる性的マイノリティへの迫害・殺害など。Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダー、Qはクエスチョニング)に対し、命を賭して立ち向かう活動家グループを追ったドキュメンタリー映画。
 川越市に行く度にぼくは必ず「スカラ座」の前を通る。残念ながらここで映画を見たことはないのだが、その佇まいに惹かれて、外観やポスターを撮ることがある。これはその1枚。

 ソビエト時代、ぼくはまだ紛争の起こる直前のチェチェン・イングーシ共和国(現ロシア連邦北カフカース連邦管区チェチェン共和国)を訪れたことがある。コーカサス(ロシア語でカフカース)山脈の山懐に抱かれた大変風光明媚なところだった。コーカサスは人種・文化・宗教・言語が非常に複雑に絡み合った地域であり、島国育ちの日本人には到底理解しがたいものが多々ある。この地を案内してくれたガイドによると(当時この地域はガイドなしでは歩けなかった。きっと今でもそうだろう)、コーカサスには50種の言語があるとのことだった。如何にこの地域が複雑な様相を呈しているかが分かる。

 掲載した『チェチェンへようこそ −ゲイの粛清−』のポスター写真は、かつて逗留したことのあるチェチェンへの思い入れと、特定グループへの迫害と殺人に対するぼくなりの怒りだ。これ以上、写真屋は自身の写真について語るべきではないので、あくまで写真の背景となったものに留める。

https://www.amatias.com/bbs/30/586.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県川越市。

★「01川越市」
本文参照。ガラス越しの反射に注意を払う。
絞りf4.5、1/160秒、ISO250、露出補正-0.33。

★「02川越市」
これも「スカラ座」のポスター。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(原作 トーマス・マン)のビョルン・アンドレセン。彼を描いたドキュメンタリー映画『世界で一番美しい少年』のポスター。この映画で、彼はヴィスコンティや周囲の大人たちから性的搾取されていたことを告発。ガラスの映り込み(空と屋根)をどの様に取り込むかに右往左往。
絞りf7.1、1/125秒、ISO200、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2022/03/04(金)
第585回:「小江戸」って?
 先週の祝日(天皇誕生日)に、川越市に撮影に出向いた。ご承知のように、ぼくは前々回(第583回)に栃木市と川越市の比較をたった2行で片付けている。
 「(栃木市は)観光客に媚びていないところにぼくはさらなる好感を抱いた。川越市より栃木市のほうに気を惹かれる最大の理由はここにある」と川越市を腐しながらも、何の因果か、先週4年ぶりにいそいそと撮影に出かけてしまったのである。魔が差したとしか考えようがない。
 疫病に閉じ込められたせいで、ぼくは正常な判断能力を完全に失っていた。邪念を払うこともできず、すっかり病んでいたのである。人間、飢えると何を仕出かすか分からぬものだが、ただ救いは意地でも川越名物の蔵とさつま芋だけは撮らないと心に決めたことだった。

 当日は祝日で手持ち無沙汰だったことが災いし、ぼくは完全に平常心を失っていた。そして、このコロナ禍、観光地である川越も未だ人出が少ないのではと踏んでのことだった。我が家から車で40〜50分の距離にあり、地の利は良いのだが、しかしぼくにとって川越は「灯台下暗し」というほどのものではない。
 「小江戸」などと自ら呼ぶのは、媚びそのものであり、そしてあまりにも卑屈だ。そのような呼称を用いるのは矜恃のなさの表れであろうとぼくは思っている。同じ埼玉県人として情けないではないか。川越ばかりでなく、同様にして「小京都」などというのもまた然りである。真似事のような呼称は止めて、自身の生まれ育った地の文化や歴史に誇りを持って欲しいものだと思う。

 なお、「小江戸」の概念については、「古い街並みなどが残り、江戸のような趣を持つ小都市」(広辞苑)とある。「小江戸」と呼ばれる地域の例として、埼玉県川越市、栃木県栃木市、千葉県香取市(旧佐原市)などがあり、江戸との船運で発展し、また江戸天下祭の影響を受けた山車祭があることから、「小江戸」と呼ばれることがある。
 私見では、「小江戸」などというどこか阿(おもね)るような響きに浸るより、埼玉県人としては、凜として「川越市」に重きを置いて欲しいと思っている。

 ぼくの「人出は少なかろう」との目算は見事に外れ、どこもかしこも大賑わいで、人気店には長蛇の列。ましてやぼくの毛嫌いする「食べ歩き」をよしとする礼節貧しき雲霞の如き大軍に囲まれ、自分のペースで歩くことさえままならぬという状態。駐車場を出たところからぼくのストレスはマグマのように勢いよく噴出する。そして、そこに群がる人々に恐怖さえ覚えた。
 憤懣やる方なく、「こんな日に来なきゃよかった」を連発し、昔読んだ坂口安吾(1906〜1955年)の一節、「衣食足れば礼節を知り、窮すれば罪の子となる。食に窮すれば、子は親に隠れて食い、親は子の備蓄を盗む。これが人間の姿である」を思い出したくらいだ。川越で「食べ歩き」軍団を見て、この一節に思い至ったというのは過剰だろうか。

 「小江戸」といい「食べ歩き」を売りにしていることといい、 “豊かな歴史ある街” というのであれば、現在のありようは何もかもが相応しくない。もっと地に足の着いた品位ある “観光名所” であって欲しいと願うのはぼくだけだろうか。
 商売っ気が旺盛なこと(リアリズム)は人間が生活を営むうえで否定すべきことではないが、そのために失うものも多い。ぼくは敢えてその重大さについて、つまり情緒的で品位のある佇まいにもしっかりと目を向けて欲しいと痛感した。リアリズムがその地の文化や歴史的な趣といった大事な観光的要素を殺いでしまうこともあり得るのだから。
 また、よそ者であるぼくに苦言を呈す資格があるのかといいたい人もいるだろうが、よそ者であるが故にその有様に心を痛めるということだってある。川越は、同県人としてこその憂いなのだ。

 とはいえ、ぼくは過去、川越で撮った写真に気に入ったものもあり、難癖ばかり(本当は “難癖” ではなく、 “心ある憂い” とか “親心” のようなものだと思っている)付けていては罰当たりというものだ。
 「何かが作為的」と感じても、それを除けて撮る工夫をすれば、面白い写真の撮れる場所であることも確かだ。その点を鑑みれば、「灯台下暗し」変じて、魅力ある写真ネタは多く発見できる。そのことは、撮影の高揚感を与えてくれ、被写体に対していつもより鋭敏な反応を得られる。また、イメージも描きやすくなり、技術的にどのように対処すべきかを示唆してくれるものだ。
 憂いながらとの障壁こそあれ、好循環を導き出すのは自分自身しかいないので、ぶつくさいいながらも、4年ぶりに川越を歩いた。この4年で、ぼくの体力減退も著しいと自覚しているが、川越に於ける様々な反感をバネにし、大いに反骨精神を養おうと思っている。ぼくの写真は反骨精神を土台としているので、それを失った時が写真の辞め時。何をするにも気の持ちようひとつ。今からでも気合いを入れるのは遅くないよ、ご同輩!

https://www.amatias.com/bbs/30/585.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県川越市。

★「01川越市」
ショーウィンドウに時期尚早の鯉のぼりが飾ってあった。着物の柄に喩えて、大きくイメージ変換をする。
絞りf6.3、1/80秒、ISO250、露出補正ノーマル。

★「02川越市」
喫茶店の凝った入口。手を変え品を変え、ぼくにしては珍しく15枚も撮るが、これは一番最初のカット。「だからそんなに撮るなっていっただろう!」と帰宅後自分を叱る。この写真は、この日の第1カットで、すでにぼくの脳は怒りで沸騰していた。
絞りf8.0、1/500秒、ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2022/02/25(金)
第584回:撮影会(続)
 集団行動をあまり得意としていないので、というより特に撮影という行為は共同作業ではないのだから、常に独りであるべきとの考えがぼくにはこびり付いている。
 独りでないと集中力が保てないが故に感覚が鈍り、被写体を見逃してしまったり、技術的な誤りを犯したりとの恐れが生じる。そんなこともあって、写真倶楽部の一応の指導者であるにも関わらず、自ら進んで撮影会を催すことはない。もっぱら人任せだ。倶楽部の誰かに「行きましょうよ」と突かれ、「それもまたよし」という具合である。撮影行を不承不承ではなく、ぼくはいつも快諾する。
 事と次第によっては、指導者としての責務を健気に果たさなければならない。特に技術について伝えなければとの思いが強い。

 人間離れしていると思われるほどの確たる記憶力を有した婦女子相手に、指導者たるもの「ちゃんと教えたぞ」という一種のアリバイづくりもしておかないといけない。彼女たちに付け入る隙を与えては指導者失格である。ぼくは、いつも失格ばかりしている。指導者とは、何かと忙しいものであるらしい。あるいは反抗などしようものなら、かえって墓穴を掘ることになる。「そんなこと聞いてな〜い、教えてもらってな〜い」と連呼させないためにも、このような血と涙の滲む小細工が指導者には必要となるのである。

 撮影現場からすぐに消え去るらしいぼくではあるのだが、狭いエリアをそれぞれが然したる当てもなく行ったり来たりするので、後日プリントを見せてもらった時に、「上手いこと撮ったね。実はぼくも同じものを撮っているのだけれど、思うように撮れなかった。このようなアングルもあったんだね。なるほどね」と感心することがよくある。
 自分では見つけることのできなかった被写体やアングルを示されると、そこには必ず「学び」があるので、撮影会というものをまったくの他人事(ひとごと)と捉えていたぼくだが、写真倶楽部をきっかけとして知ることのできた良い点は率直に認めている。他人から学ぶということに関して、そこにはプロ・アマの違いはない。プロとはいえ、アマチュアから学ぶこともある。プロだって本(もと)を正せば皆アマチュアだったのだから。
 
 そのような時は、指導者と生徒の境界はなく(少なくともぼくには)、ここには同好の士ならではの、 “共感・共鳴” という貴重な感情と体験が存在する。そのような瞬間を実感する時、「撮影会の唯一の利点はここにあるのかな?」と合点がいったりする。そして、つけ加えるのであれば、「親睦を兼ねて」との名分が加わるのだろう。写真を通じて他人と交わるのは価値のあることだと思っている。
 まぁ、時には撮影そっちのけで、名物の食い気に走る人もいる。団子や饅頭を抱えながら「あ〜たも食べなさいよ」と、ご愛嬌を通り越して、小走りに迫ってくるのは、何故か年配のご婦人方と相場が決まっている。そして決まったように必ず背中を引っ張る。ぼくはファインダーを覗きながら、とてもそれどころではないのだ。婦女子たちは、ぼくの邪魔をしているとは露程も思わず、団子の恩を売ることに躍起になっているから凄味がある。男は、こ〜ゆ〜ことは絶対にしない。
 婦女子は老いも若きも、特に食物にはひどく目ざとく、しかも麻薬犬のように鼻が利く。そのくらい被写体の渉猟にも目ざとくなって欲しいといつも実感させられるのだが、しかしちゃっかり撮っているから油断がならない。男には到底真似のできぬ芸当である。
 
 人それぞれなので、同じ倶楽部にあって、ぼくのように独りを好む者もいれば、他人に引っ付いて安心感を得るという人もいるだろう。見知らぬ土地に行き、どんなところにも平気で潜り込める人もいれば、臆病風に吹かれて?不安がる人もいる。これは男女の区別があまりないように思うが、70過ぎても「痴漢が出たらどうしよう」が口癖となっているご婦人もおられるので、決定的なことはいえない。
 好奇心と不安を天秤に掛け、身の処し方を自ら決めるしか方策がなく、これは写真指導の範囲外にある。アマチュア諸氏に、「死ぬ覚悟でやれ」ともいえないしね。

 前号で、栃木市の由緒ある銭湯(ぼくは “湯屋” の呼称のほうが好きなのだが。違いは長くなるので割愛)の内部を案内してもらったと記したが、同行したご婦人から以下のようなメールをもらった。
 「湯殿まで入れた貴重な機会だったのに、一枚も撮れていなかったのは返す返すも残念です。私ドキドキして、ちょっと焦ってしまったかも。相変わらずのパニック症候群、もったいないことをしました」と。
 ぼくにパニック症候群の治療はできないが、ぼくが彼女の側にいれば(女湯なので侵入できず)、「湯気でレンズが曇ってしまったら処置無しだから、そのためにはどうするべきか?」の科学的な話をしながら、次第に落ち着かせることはできるかも知れないが、所詮女の人に科学的な話をしても徒労に終わること多々あり。また、「洗い場の床が石材であれば、そこに打ち水をして石の色を変化させたり、光の方向によってはテカリを加減したりするのも写真術のひとつ」と、コマーシャル写真撮影の知恵を授けたりすることはできる。

 そんな講釈をしているうちに、彼女のドキドキは治まり、自分のイメージが描けるかも知れない。今、返す返すも女湯に侵入しなかったことが悔やまれてならない。「ジジィ、女湯に乱入。現行犯逮捕!」などと下野新聞(しもつけしんぶん。栃木県の地方新聞)に書き立てられてもまったくかまわないが、ぼくは慣れ親しんだ栃木市から出入り止めを喰らうかも知れない。ぼくにとって、新聞などより、こちらのほうがずっと辛いことだ。

https://www.amatias.com/bbs/30/584.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
へぇ〜、こんなところに教会があったんだ。見逃していたものが、まだたくさんあるに違いない。でもこれはちょっと退屈な写真かな。
絞りf5.6、1/1250秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02栃木市」
タングステン電灯の影。
絞りf8.0、1/500秒、ISO100、露出補正ノーマル。



(文:亀山哲郎)

2022/02/18(金)
第583回:撮影会
 前々回、約2年ぶりに栃木市を訪れたとお話しした。過去、栃木市へ何度くらい通ったのか正確なところは分からないが(根性を入れて調べれば分かるだろうが、あまり意味がないのでしない)、初めて訪れたのは今から19年前の2003年11月のことだった。
 北海道で約10日間の長期ロケを終え、息つく暇もなく我が倶楽部の面々に、  
“撮影会” と称して、半ば強制的に連れて行かれたのが栃木市だった。メンバーのひとりが、事あるごとに「かめさんは栃木市を気に入るに違いない」と耳元でささやき、しきりにぼくを暗示にかけようと目論んでいた。一応指導者もどきだったぼくは、致し方なく、しおらしくも彼らの要望に応じた。嫌だったわけではないのだが、それはぼくの、以下に記す人間的な質(たち)に起因している。いわゆる “撮影会” と称する団体行動、もしくは集団行為に気後れしてのことだった。

 初めての栃木市は、小雨模様の、まさに “しとしと降る” とても良い雰囲気を醸していた。何事にも「相性」というものが存在するが、ぼくはどことなくこの街との相性の良さを直感した。「蔵の街」としてではなく、街の佇まいそのものとの「相性の良さ」が、写真的な発見を助長する役目を果たしてくれそうな気がした。昭和生まれの昭和育ちに、しっくりする何かがあったのだろう。
 また、「蔵の街」とはいうものの、観光客に媚びていないところにぼくはさらなる好感を抱いた。川越市より栃木市のほうに気を惹かれる最大の理由はここにある。

 アマチュア写真愛好家の間では、 “撮影会” という奇妙で摩訶不思議なものがまかり通っていることは知っていた。写真好きが集まって、ぞろぞろ練り歩き、指導者と覚しき人物がなにやら写真的な指導をするらしいのだが、それ自体がどうもぼくの性分には向いていないのだ。公の場所で特定の人たち相手に一端の講釈をぶつ行為は、まともな神経の持ち主であれば、なかなかできることではない。気恥ずかしいやら、照れ臭いやら、身の置き所に窮し、したがって、ぼくのように現地到着とともに行方知れずとなるのが、正しい人間のありようだと確信している。子供たち相手の野外教室であれば、そこそこの可愛げもあろうが、得体の知れない老若男女がカメラをぶら下げ、同じ方角を見据え、シャッターをバシャバシャ切るさまは、誰がどう見ても美しさとはほど遠く、鬼気迫るような光景ではないか。ぼくは能転気に、そんな渦中に身を投じたくはないのだ。

 「すぐに姿をくらまし、いなくなってしまうかめやま」と揶揄されるが、誰もそれを非難してはいけない。非難するくらいであれば、現地到着からぼくにへばり付いていればいいだけのこと。質問されれば、ぼくはいつだって必要と思われることを吟味しながら、まるで指導者にように丁寧に、極めて好意的にお伝えするにやぶさかではない。
  “撮影会” について、ついでに言及しておくと、世の中には “モデル撮影会” というまったく理解不能で、身の毛もよだつようなものが存在する。仕事上、モデルクラブとお付き合いのあったぼくだが、「まったくもって、何をか言わんや」という話をたくさん聞いている。 “モデル撮影会” に於ける人間的心理が及ぼす行為の実体について、ちょっかいを出しながら面白おかしく述べると、数回を超えても書き切れず、ましてや写真の話ではなくなってしまうので、今回ここに留めるだけとするが、ぼくの写真話などより、そちらのほうが面白いかも知れない。

  “撮影会” に於いて特質すべきことは、今まで一緒に撮影をしていて、一度たりとも質問らしい質問を受けたことがないとの事実に、この原稿を認(したた)めながら思い当たった。彼らの言い分は分かっている。「だって、あんたはあっという間に行方不明になってしまうから、それでは取りつく島がない」ということになるのだろう。いくら女性上位の我が倶楽部とはいえ、一歩でも譲ったり、気弱な姿勢を見せたりすると嵩に掛かって畳みかけられるので、ぼくは相身互いを装いながら、慎重を期し、これについては水掛け論に終始すると思わせるのが妙薬との結論に至っている。強靱な彼女たちに勝利しようなどと思ってはいけない。

 巴波川(うずまがわ)と蔵の街大通り(日光例幣使街道)に挟まれて、ミツワ通りと名づけられた、決して活気があるとは言い難いぼくの好きな商店街がある。2年ぶりに訪れたのだが、その間に昭和の面影を残している何軒かがすでに取り壊されていた。寂しくもあるがそれは時の流れなので致し方ない。この通りの一角に、「玉川の湯」(金魚湯)という100年以上の歴史を持つ銭湯があって、ぼくは毎回必ずここで何カットかいただく(中ではなく、暖簾をくぐった上がりがまちまで)。
 今回も下足箱を撮ろうとしていたら、常連と覚しきおじさん、おばさんに声をかけられた。「中を撮りなさいよ。今、番台のおばちゃんに掛け合ってあげるから」と、地方特有の暖かい立ち居振る舞いにぼくは甘えた。直ぐに許可が下り、「袖振り合うも多生の縁」に力を得たぼくは、躊躇することなく初めて中に立ち入り、脱衣所に飛び込んだ。残念ながら、ぼくは男湯のほうへ。同伴のふたりのご婦人たちは女湯に通され、彼女たちの力感溢れる嬌声が、風呂場特有の長い残響を伴いながら、湯気に掻き消されまいと、天井を伝い男湯にまで侵入してきた。どこまでも力強い女性軍。
 堪能した我々は、一呼吸置こうとコーヒーブレークを取った。彼女たちは、ぼくの握りこぶし2個分は優にあろうかという巨大なシフォンケーキをそれぞれに注文し、欠食児童のようにパクつきながら、「『譲る』という単語は、あたしたちの辞書にはな〜い!」とナポレオンのように威風堂々と言い放ち、薄情にもぼくには一切れもくれなかった。「袖振り合うも縁なき衆生」でありました。

https://www.amatias.com/bbs/30/583.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
ガラスに移ったビル。こういう写真はへそ曲がりの証。
絞りf5.6、1/100秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02栃木市」
ショーウィンドウに置かれた造花。ぼくの写真はどんどん鬱陶しくなる。
絞りf5.6、1/80秒、ISO125、露出補正-1.00。

(文:亀山 哲郎)

2022/02/14(月)
第582回:相剋の限り
 先週は久しぶりに都内へ出かけた。疫病のためできるだけ控えていたのだが、知人(以下Aさん)から個展のご案内をいただいたので、これ幸いと都心にあるギャラリーに向かった。作品はとても質が高く、仕上げにも凝った手順を踏んだものだったが、今回は作品から受けた印象には触れず、ぼく自身のありようについて考えさせられたので(これは誰にも当てはまること)、それについて少しだけ述べてみようと思う。

 作品づくりは常に恒久的な模索の繰り返しだが、ぼくは以下に述べるような体験を常々している。昔から友人たち(プロの写真仲間)に、「かめさんは、 “暗室フェチ(フェティシズム)” だからなぁ」 と異口同音にいわれるくらい熱心さと執着心を持っていた。デジタルになってもこの性向は変わらない。 “フェチ” といっても、 “性的倒錯” ではないので、念のため。ぼくは幸か不幸か、まだその奥義には至っていない。

 撮影時に抱いた被写体のイメージを再現するために、暗室作業をしながら「違う、違う。こうじゃない」を連発し、喘ぎながら悲嘆に暮れる。描いたイメージとの隔たり、もしくは不一致を如何に埋め合わせ、補うかに汲々としながら、ぼくの一生は終わるのかも知れないが、一度くらいは神の恵みがあって良さそうなものだ。「信ずる者は救われる」のだからと、ここに至って無信心のぼくはご都合主義よろしく神頼みをする。適うなら、願掛けや御百度参り、五体投地さえも厭わない。
  
 デジタルの暗室作業は、パソコン上で画像ソフトによって行われるが、ほとんどのソフトにプリセットが用意され、細かく調整できるものが多い。調整したいくつかのプリセットを重ね合わせ、欲しい部分だけ抽出することのできるものもある。これは大変有用なもので、ぼくもその恩恵にたっぷり与っている。だが、それをしているうちに、わけが分からなくなることもあり、そんな時は一呼吸置くに限る。再びモニターを見て「おまえ、阿呆か」というのは、日常茶飯。

 プリセットによって表示された画像は、「何でもできるPhotoshop」を使用し、技量さえあればそこに至ることは可能だろうが、それにはかなり繁雑で難しい作業を強いられる。プリセットはそれが一発でできてしまうのだから、時間と労力の削減に与ること多し、というところだ。これは以前にもお話しした通り。

 さて、ここからが本題なのだが、プリセットによってもたらされた画像を見て一瞬、「撮影時のイメージとは多少異なるが、これもいいなぁ。否、断然いいかも」と浮気心を起こすことがしばしばある。ほとんどの場合、かなりエキセントリック(奇矯なさま)な表現なのだが、思わず手は震え、心はひどく揺らぎ、ぐらぐらと目眩を覚える。時には、「おれの新しいトーンはこれでいいのではないか」と自己暗示に努めることさえある。
 一方で、「おれの本道は、 “オーソドックス” にあるのではないか? “迷った時は古典に帰れ” を旨としていたのではないか? それにより、取り敢えず今の自分の住み処に辿り着いたのではないか? 奇妙奇天烈を最も嫌い、蔑んできたのは、他ならぬこのぼくではないか」との葛藤に苦しむ。

 普段、指導者もどきを演じているので、生徒たちがあらぬ方向に舵を切り始めたり、独り合点なことをするのを諫めなければならぬ立場であり、その意識が自然とぼくにブレーキをかけさせることにもなっているのだろう。
 「抑制」という言葉に縁遠くありたいと願うぼくだが、巣立ちのように思い切って飛んでみればよいのに、それがなかなか思うに任せない。一度くらいは生徒たちに怨色を見せてやろうかという気になる。

 プリセットにより出現した、いささか極端な表現手法を用いる勇気がなく、理屈をこねながらそれに少しずつ手を加えていくと、今まで通りの表現に戻っているという体験は、どことなく虚しいものを感じる。これを「元の木阿弥」というらしい。勇気のないしみったれた自分に苛まれるとの悪循環を今まで一体何度繰り返してきただろうか。
 自虐的になりつつも、では「何のために試行錯誤をしているのだ」と、逃げ道を塞がれたぼくは仕方なく自身を治めることにしている。安住の地を “不幸にも” 得てしまえば、創作はそれで終止符を打つことになるので、もがきは創造の原点と捉えるのがより建設的であろう。うまいことを思いつくものだと、自画自賛などしている場合ではない。

 冒頭にて記したAさんは、ぼくにない勇気を十分に備えており、とても羨ましかった。特有の技法を駆使しているのだが、Aさんの「写真の眼」はその技法に適した被写体や光りを巧みに読み切っているので、そこに違和感が生じていない。大したものだと感じ入ることしきり。
 普段、女性から心ないいじめに遭っているぼくは、最近の拙稿で何度かその憂さを晴らしたつもりだが、女性であるAさんは、なるほど男のような女々しさや未練がましさがなく、自身の信ずるところを支柱とし果敢に作品づくりに挑んでいる。そんな姿を目の当たりにし、ぼくは爪の垢を少しだけ分けていただいたような気がしている。

https://www.amatias.com/bbs/30/582.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。
いずれの写真も「ガラス越し」。

★「01栃木市」
ガラス反射の写り込みを塩梅しながら。
絞りf6.3、1/125秒、ISO400、露出補正-1.33。

★「02栃木市」
汚れたガラス越しに女子高生。鬱陶しい写真やなぁ。
絞りf5.6、1/125秒、ISO100、露出補正-1.00。


(文:亀山哲郎)

2022/02/04(金)
第581回:おめおめ信ずることなかれ
 武漢コロナの呪縛から少しだけ解放され、約2年ぶりに、以前何度も通っていた栃木市に、写真好きのご婦人2人を引き連れて撮影に出かけた。当日は、薄曇りの、ほとんど無風状態の、絶好の写真日和だった。彼女たちにいわせると「私たちの普段の心がけが良いから」なんだそうである。出かける前から、彼女たちは自分たちの身勝手さと自儘を、ハンドルを握らざるを得ないぼくに、何の遠慮もなく披露してくれた。どうあっても「私たち」にぼくは含まれてないのだと、強固に主張なさる。
 「ああいえばこういう、こういえばああいう」との手合いだから、残念ながらぼくに勝ち目はなく、寛容で賢明なぼくは素直に「仰せの通り」と従順さを装った。文字通り「君子危うきに近寄らず」である。ことあるごとに、手練手管の限りを尽くす女史たちには、ぼくの如何なる純真さをもってしても、到底敵わぬことをぼくは知り尽くしている。
 撮影前には余分な労力と心労を取り除いておくのが、ぼくの撮影時に於ける揺るぎない心得である。そのような不埒な放言に対して、「譲る」のではなく「無視」を決め込むのがぼくの流儀であることに女史たちは気づいていないので、やはりぼくのほうが上手(うわて)である。

 ぼくとしても、たまには実践的なレクチュアを真面目にしなければいけないとの思いがあった。普段、「撮影はひとりに限る」がぼくの口癖であるだけに、この日はそれ相応の覚悟と観念の臍(ほぞ)を固める必要があった。
 女史のひとりは、写真歴約20年のベテランであり、ぼくに「スカタン、トンチキ!」といわれることを常としていた。もうひとりは、写真を始めたばかりで、まだぼくの心ある罵声を浴びた経験がない。コントラストを成すご両人への実地指導はどうなることかと、ぼくは少し心許なかった。

 ベテランの彼女は、事始めの人に「かめさんはね、現地に着くと、あっという間に姿をくらますから、用心深く見張ってないとダメよ。安曇野に行った時などみんなに『道祖神を撮るから探せ』と命じておいて、私たちがやっと見つけたと思ったら、道祖神には目もくれず、消えてしまうんだから」と、8年も前の仕業に目を三角にして、執念を燃やしながら恨み辛みをぶつけてくる。
 女房殿の「あん時あ〜たはこういったわよね」と、異常とも思える記憶力を悪用しながら、ねちっこく責め立ててくるあの非情さに酷似している。ぼくはすでに記憶茫々なのだが、「そんなことをいった覚えはない」とは反駁せず、条件反射のように「すいません」と発してしまう。無駄な抵抗はしないことにしている。抵抗をすれば、彼女は芋づる式に過去のあれこれを持ち出してくることがぼくには分かっているので、塚原卜伝(戦国時代の剣豪。1489〜1571年)の「戦わずして勝つ、これが無手勝流」に準ずることにしている。

 ぼくの頭の中には多種多様なものが詰まっているので、そのなかから女房殿の攻撃材料となる自分の言質を取り出すことなど不可能に近い。女房殿に限らず、ぼくの身辺をうろつく女性たちはみな申し合わせたようにこの手を使ってくる。「ほかに考えること、ないのかよぉ〜。大事なことはすぐ忘れるくせに!」とぼくは彼女たちには聞こえぬところで憂さを晴らすことにしている。
 20年のベテランでも事始めの人でも、大事なことはすぐに忘れるらしく、したがって、レクチュアは同じ内容でよいことになる。

 撮影に関して、大切な3大警戒要素は「ブレ・ボケ・露出」。これらは、写真創生期から現在に至るまで、愛好家たちを悩ませ続けた3大要素でもある。今敢えて過去形で「悩ませ続けた」と書いたが、ぼくの本心は「悩ませ続けている」と現在形で書くべきことと考えている。
 多くの人は、過去形を取りたいと思うかも知れないが、それはとんでもない思い違いであり、いくらテクノロジーが進化(Auto化)しても、これらの厄介な問題から、知恵や技術なくして逃れる術はない。ここのところ、どうか肝に銘じていただきたい。
 三脚を使用すればブレを防げる? 嘘です。オートフォーカスなので、ピントが合う? これも嘘です。カメラに内蔵されている露出計は正しい露出値を示してくれる? これも嘘です。今回は、ぼく自身も悩まされているブレとボケについて記す。露出については、あまりにも多くの事柄が複雑に絡み合うので、筆硯を新たにしたいと考えている。

 大型カメラ(4 x 5、8 x 10インチカメラ)用に作られた堅牢極まりない鉄アレイのような重両級の三脚を使い、撮影時にパソコンでピントを確認するのだが、接続されたパソコンモニターに拡大された被写体がわずかな間ブルブルと震えている。パソコンに接続したことのない人は、三脚を信用しシャッターを切ってしまう。三脚を使っているのだから(シャッタースピードにもよるが)安心と思いきや、そうは問屋が卸してくれない。上記のような堅牢そのものの三脚でさえそうなのだから、一般的(平均的)な三脚は言うに及ばず。
 また、ブレ防止機能がカメラやレンズに装備されているが、これは、ブレを防ぐための技術や知識を身に付けた人にこそ有用であって、そこに至らぬ人はこの機能を信用すると痛い目に遭うこと疑いなし。
 また、一般に流布されている「レンズの焦点距離分の1秒以上」は決して安全を謳ったものではない。倍の速度でも容易にブレること、非常にしばしば。なお、今回は「被写体ブレ」については述べていない。

 良い被写体を見つけ、歓び勇んでシャッターを切っても、ピントが合っていなければ折角の写真も水泡に帰する。オートフォーカス機能も時代とともに大きな進化を遂げ、精度が高くなっていることは認めるが、これも油断大敵。「鋏と奴(やっこ)は使いがら」(鋏は使い方次第でよく切れたり、切れなかったりするとの意)なのである。
 確実なピントを得たければ、三脚のところで述べたように、カメラとパソコンを繋ぎ、モニターで拡大し、マニュアルフォーカスを使用するのが最も安心感が得られるが、一般的でないのが悩みの種。オートフォーカスばかりに頼ってはいけない。「時にはマニュアルフォーカスの訓練をお勧め」と、化石写真屋はお伝えしたい。

 二人の同伴者に最も伝えたかったことは、ブレを防ぎ、確実なピントを得られるように努めることが、写真の第一歩ということだった。このことは、後々彼女たちの得意とする「あん時、あ〜たはこういった」を防ぐには好都合な事柄である。でも、女性たちは技術に於いて肝要なことはすぐに忘れるらしいんだよねぇ。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
ショーウィンドウのガラスにボーッと霞む彫刻。
絞りf6.3、1/60秒、ISO200、露出補正-0.33。

★「02栃木市」
歌麿のビニール幕の前に、懐かしいSINGERミシンが放り出してあった。
絞りf8.0、1/125秒、ISO320、露出補正-0.67。


(文:亀山哲郎)