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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2015/05/01(金)
第246回:北極圏直下の孤島へ(4)
 読者諸賢へ。「福島 −『失われた地の記憶』− 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いです。

 この連載でかつて(第154〜165回、176回〜197回、224回)原発事故後の福島県の「立ち入り禁止区域」を取り上げました。
 無人となったあの地の惨状を、一介の写真屋として「後世に記録として残し、伝えていく」ことの使命を強く感じております。そのための写真集制作のご支援をクラウドファンディングで募ることになりました。合わせて拡散していただければ嬉しく存じます。
 写真集制作が叶えば、関連団体への寄付はもちろんのこと、被災者支援団体などに書籍を寄贈させていただきます。

 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細を伝えていますので、ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 もう一つご案内です。私の主宰する写真クラブ“フォト・トルトゥーガ”の写真展を、5月5日(火)から10日(日)まで、埼玉県立近代美術館で催します。開館時間は10:00−17:30分、入場無料です。ぜひお越し下さい。お待ち申し上げます。
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 ソロフキに対するぼくのイメージはただ1点に集約される。ソルジェニーツィンが『収容所群島』第三巻第二章の冒頭で記したソロフキについてのくだりである。ちょっと引用してみる。

 「半年も白夜の続く白海でボリショイ・ソロヴェツキー島は水の中からいくつかの白堊の教会を持ち上げている。それらの教会のまわりには岩の城壁がめぐらされており、その城壁には地衣がついて錆びた赤色をしている。そして灰白色のソロフキのかもめたちが常に城砦(クレムリン)の上空を飛びかい、鳴き声をあげている。」(木村浩訳)。

 ぼくはこの一節だけを頼りに、長い間その光景を思い描いてきた。1976年にはじめてこの書物に接してから、すでに28年が経過していた。
 アルハンゲリスクを飛び立ったお化けのようにでっかいヘリは、28年間も恋煩いをしてきたぼくを、やっとのことでソロフキ上空まで運んだのだった。機上から見るソロフキは、タイガ(人の入れぬような針葉樹林帯)とツンドラ(1年中ほとんど凍結し、夏期だけ溶け出して湿地となるような土地)からなり、そこに無数の湖沼が点在し(前回の空撮をご参照に)ている。それはまるであばたのようでもあり、クレーターのようにも見えて、海を隔てたこんな小さな島にもカレリア地方特有の地形が広がっていた。
 長い間、想像をたくましくしてきた大虐殺の地を踏みしめて、感慨あらたに深呼吸をしながら、ぼくの生きてきた一節(ひとふし)を心に刻印し、記憶に留めておこうと一意専心、とはいかなかった。ただ、ピリピリと刺すような青白い粒子が極北の淡い光を切り裂きながら、不規則に飛び交っているように思えた。その粒子は静電気を帯びた雷雲のようにあたりを覆い、ぼくにまとわりついてきたような記憶を残した。

 胸に迫り来る思いに浸る間もなく、あらたな試練が待ち受けていた。鉄板を敷き詰めただけの突貫工事のような滑走路と、青いペンキを塗りたくった木造の掘っ立て小屋のような空港事務所は砂地のうえに建ち、ぼくを歓迎しているのか、厄介者のように見ているのか、見当さえつかなかった。
 試練とは、ここからどうやって宿にたどり着くかであった。地図もない。交通機関もない。タクシーもない。つまり旅の基本がここでは失われているのだ。徒歩という最も文明的な手段だけが残されていたが、24kgの荷を抱えていては、それもままならずといったところだ。
 荷物を砂の上に放り出したまま、思案していると、「北極圏をナメるんじゃないよ!」とばかり、挨拶代わりの風が吹き抜け、ぼくの白髪を一瞬額から引き離し、なで上げた。寒くはないが、冷やっこく、なかなかの切れ味だ。曇天。気温13℃。

 立ちん坊のままでは埒が明かぬとみたぼくは、荷物を砂地に放り出し、歩き出した巡礼者の群れを追った。美人のロシア娘を見つけ出し、うろたえる中年東洋人を演じながら、窮状を訴えた。ぼくの怪しい、語尾変化完全無視のロシア語を最後まで真剣な面持ちで聞き入っていた彼女の第一声はロシア語ではなく、味も素っ気もない英語だった。ぼくのロシア語を直訳すれば以下の如し。「私、日本から来た。道、わからない、プリユットホテル。あなた、わかるか?」。
 彼女は両手を大きく天に向けて広げ、「あなた、おひとりなの? ホントにおひとり? オ〜ッ、なんということでしょう!」と、ため息まじりに、珍獣でも見るが如き視線を向け、あきれ顔でぼくを無謀な勇者だと衷心より称えた。そして、明らかに、あってはならないことに出くわしてしまったという様子が容易に見て取れた。
 彼女の言葉には、「グループ・ツアーならまだしも」とか、「ロシア語が堪能ならいざ知らず」というニュアンスが言外に込められていた。ぼくはこのふたつの条件を満たしていなかった。なぜ彼女はそんな驚きの表情を見せるのか、もう収容所時代ではないのに、ここはそんなにヤバイ所なのだろうか。
 彼女は遠来の客を丁重にもてなし、なんとかしてやろうという気概を示し、手を差し伸べてくれたのだった。ぼくの手を引き(こういうことは日本では起こり得ない)、掘っ立て小屋に取って返し、そこに駐車していた博物館にでも展示されていそうなオンボロのボンネットバス(ぼくは木炭車かと思った)の運転手を探し出し、今度は韻を踏んだ見事なロシア語でなにかを訴えていた。
 ぼくはタイガとツンドラの地に置き去りにされなくて済むという確かな手応えを感じ始めていた。なんとかなる。ここはやはり「ニチェヴォー」の国なのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/246.html

★「01山羊の巡礼」。
ソロフキはロシア正教の聖地でもあり、巡礼の地でもある。城壁の赤は、この地特有の地衣(苔)で、『収容所群島』で述べられている通りだ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02チャペル」。
このような世界遺産のチャペルが村の至る所に。空港の隣で。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf7.1、 1/125秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03空港から村へ」。
遠くにクレムリンが見える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF35mm F1.4L USM。絞りf8.0、1/100秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/04/24(金)
第245回:北極圏直下の孤島へ(3)
 ソロフキ(ソロヴェツキー諸島)は1992年にユネスコの世界文化遺産(歴史、文化、自然の複合遺産という珍しい位置づけ)に登録された。ソビエト連邦崩壊とほぼ時を同じくしての遺産登録だが、ユネスコ本部のホームページには面白いことが記されている。
 ロシア政府の思惑がどうであったのかぼくには見当すらつかないが、1991年10月、ソロフキへはユネスコの審査委員会(ICOMOS)の誰一人訪問できなかったが、満場一致で世界遺産に指定されたということだ。それほど由緒ある島であることは、昔からヨーロッパに知れ渡っていたらしい。その見事な建造物をスターリンはとんでもないことに利用した。
 世界遺産登録に、絶滅収容所としての負の遺産(その痕跡は島の至る所に残されている)は触れられていない。あくまで人類の高度な芸術・文化様式と宗教的な価値が評価されたようで、そこがポーランドのアウシュヴィッツとは異なる。
 しかし、世界遺産に指定されたからといって、この島をすぐに訪問できるわけでないところがロシアのロシアたる所以だとぼくは思っている。

 ソロフキはモスクワの北方約1300kmのアルハンゲリスクから、さらに西北西に290km、北極圏まで160kmの白海に浮かんでいる。我々の感覚からすれば、そこは最果ての地、地球のてっぺんであり、とんでもないところに、とんでもないものが存在しているということになる。
 飛行機を乗り継いで、ぼくは24kgの荷物を担ぎ、喘ぎつつも、這々の体で中継地のアルハンゲリスクにたどり着いた。ここに至るまでのさまざまは、聞くも涙、語るも涙の連続で、まったく先が思いやられた。
 荷物24kgの正体は、実はデジタルの仕業だった。インフラの整ったロシアで、電源の確保はそう心配ないと思われたが、万が一のことを配慮しての機材追加である。何しろそこは地の果てであり、ほとんど情報のないところだった。起こり得るあらゆることへの対処だけはしっかりしておかなければならなかった。
 フィルムであれば5kg以上は節約できただろう。デジタルを使用しての初めての海外ロケだから、その配慮は涙ぐましいものがあった。ぼくとてプロの片割れ、「予期せぬあれこれに見舞われて撮れませんでした」なんて言い訳は一切通用しない。獲物はしっかり捕獲しなければ生きていけないのだから、およぶ限りの準備をした。それでだめなら、あとはのたれ死ぬか、笑ってごまかすか、そのどちらかに徹すべし、という覚悟がプロには必要なのだ。
 海外での不自由なロケは十分に馴れていたつもりだったが、こんなに難渋した撮影旅行はかつてないことだった。あれから11年後の今、もう時効となったので(と、勝手に解釈している)、当時の内輪話をひとつだけ披露しておこう。11年後の憂さ晴らしである。

 アルハンゲリスクからソロフキへは、小型のプロペラ機(機種名アントノフ)で訪島する手はずが整っていたのだが、空港でチェックインをする際に品の良い金髪碧眼の係官がつかつかとやって来て、「搭乗機が間際で変更となり、ヘリコプターであれば予定通りあなたをソロフキへお連れできるが、それがお気に召さなければ来週まで便はないので待ってもらわなければならない。どうする? このことはどうかご内密に」と、流暢な英語でたたみかけてきた。ぼくは「OK, no problem!」と即答した。どんな手段であっても行ければいいのである。旅での予期せぬ変更こそ面白いものとぼくは心得ているし、この国で起こる天変地異には、もうとっくに慣れっこになっていた。そんなことでいちいち目を丸くしていたら、この広大な国を旅することなどできない。
 何でも「No problem!」と軽くいなすことが肝要で、そうでなければあの鷹揚で楽天すぎるロシア人たちとは勝負ができない。決して彼らに、日本人的気質をもって正面から勝負など挑んではいけないのだ。勝てるわけがないというのは、滞在日数のべ400日間で得たぼくの経験則である。ロシア人というのは、老若男女、美人、不美人(あっ、ロシアには不美人はいないんだっけ)にかかわらず、彼らは二言目には「ニチェヴォー」(気にしない。どうにかなるさ)という伝家の宝刀を抜いてくる。

 軍の払い下げのようなプロペラの2つ付いたどでかいヘリに、ぼくは荷物とともに放り込まれ、アルハンゲリスクを飛び立った。日本ではまだ残暑の厳しい9月上旬、当地の気温は14℃。気のいい操縦士がぼくに「地平線に見えるのがソロフキだ」と遠くを指さし教えてくれた。やがて眼下に夢にまで見たソロフキが姿を現わし始めた。ぼくは操縦士に「なんて美しい海!」と、語りかけた。彼は「きれいだろう。冬なら海が氷結するので下りられるのだが。でも今、海に着水でもしてみるか」と、ウィンクをしてみせた。ぼくは「ニチェヴォー」と、ロシア人の常套句を真似た。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/245.html

★「01ソロフキ島空撮」。
湖とタイガとツンドラ。写真上は波立つ白海。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf8.0、 1/125秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02湖とタイガ」。
島は湖とタイガばかり。このような風景の連続。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20mm F2.8 USM。絞りf5.6、 1/160秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03虹」。
一日に何度も虹が出る。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf5.6、1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

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 担当の方から許可をいただきましたので、読者諸賢へ拡散・ご支援のお願いです。

 この連載でかつて(第154〜165回、176回〜197回、224回)原発事故後の福島県の「立ち入り禁止区域」を取り上げました。
 無人となったあの地の惨状を、一介の写真屋として「後世に記録として残し、伝えていく」ことの使命を強く感じております。そのための写真集制作のご支援をクラウドファンディングで募ることになりました。合わせて拡散していただければ嬉しく存じます。
 
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細を伝えていますので、ご覧いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

(文:亀山哲郎)

2015/04/17(金)
第244回:北極圏直下の孤島へ(2)
 旧ソビエト連邦への初訪問は1987年のことだった。ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革。立て直し)を唱え、西側の国々が彼の新基軸に沸き立っていたころである。そのおかげで、今まであまり耳慣れなかったロシア語が頻繁にTVやラジオから流れ始め、急速に身近なものになっていった。ゴルバチョフのロシア語は南ロシアなまりとのことだが、ロシア語のわからないぼくは、その言語の持つ明瞭で音楽的な、独特な響きに心地よい酔いを覚えたものだった。
 多くの日本人が、ぼくも含めて、社会制度の異なるこの国を禁断の隣国としてとらえていたが、東西冷戦のさなかにあって、その隔たりが少しずつ氷解し始めた時期でもあった。そのくらいゴルバチョフの登場は、世界に大きな期待と波紋を投げかけたのである。

 出版社のN氏に、「ペレストロイカやグラスノスチ(情報公開)といいつつも、まだまだ日本では情報が乏しく、資料もない。特に映像はその最たるもので、かめさん、未知の国を撮りたくない? 撮りたいでしょ。行ってきてよ」との甘言にそそのかされ、ぼくは鼻息荒く、二つ返事で了承した。
 以来、N氏はことあるごとに謀(はかりごと)を巡らせ、ぼくにロシア行きを命じた。
 この国で写真を撮ることの困難さと際どさは縷々として語られていたので、“出たとこ勝負”に嬉々とするぼくには、まさにおあつらえ向きの訪問先だった。

 実は、ぼくはロシアの大地にほのかなロマンを抱いていた。青年時代から読みふけったロシア文学やその登場人物にただならぬ興味と興奮を覚えていたのだ。ぼくにとって、そこは文学の宝庫のように思えた。
 そしてまた、無限の広がりを見せる大地やネギ坊主の教会群は、ヨーロッパ文化とは一線を画した異国情緒を与えている。ヨーロッパ、アラブ、アジアの三種混合文化は、バタ臭さと洗練の交じり合った一種独特の世界を織りなしている。民族色豊かな文化であろうことは、この地に足を踏み入れずとも十分に想像可能なことだった。

 ぼくが、ソロフキの存在を知ったのは、ロシアのノーベル賞作家A. I. ソルジェニーツィン(1918〜2008年)の文学的ドキュメント『収容所群島』(邦訳、1976年)によってだった。ソロフキに於ける恐るべき実体が生々しく描かれており、ぼくは大きな衝撃を受けた。それ以来、シベリアのコルィマ地方とともにソロフキという名称がぼくの脳裏に深く刻印されたのである。
 この書物により、スターリン時代の負の遺産が全世界に知れ渡り、そのかどによりソルジェニーツィンは国外追放となった。しかし、この書物はロシア文学の偉大な倫理感を世に知らしめる結果となったのである。

 ソロフキに人間が住み着いたのは、紀元前5000年にまでさかのぼる。それだけここは豊かな地だったのだろう。1430年代に2人の修道士(ロシア正教)がソロフキにやって来て、修道院を建立し、見事なクレムリン(城砦)を築き上げていった。
 この由緒ある島の長い歴史に、たった16年間(1923〜39年のスターリン時代)だけ人智を超越した悪魔が住み着き、クレムリンをはじめ諸島各地に点在する立派な宗教施設で、あらゆる手段の拷問と殺人法が考案され、大虐殺が行われ、文字通り絶滅収容所と化していったのである。
 ナチスの強制収容所よりもずっと早い時期に、囚人虐待、虐殺がシステム化され、やがてそれがソビエト全土にガン細胞のように繁衍していった。収容所の数、約1万。犠牲者は二千万にのぼる。そのいちばんはじめのガン細胞がソロフキであった。

 ソロフキ行きを何度申し出てもスゲなく断られ続けてきたぼくだったが、新生ロシアとなった2004年にとうとう8日間の滞在許可が下りた。
 当時ぼくはデジタルカメラを使い始めたばかりであり、使い慣れたフィルムでいくか、デジタルでいくか、散々頭を悩ませた。時代はデジタルに突入し、新しもの好きのぼくは、今後のことも考えて、果敢にデジタルで挑む決心をした。訪ロする前の何ヶ月間はテストに明け暮れた。何千枚のテストを繰り返したおかげで、デジタルのおおよその特質(主にシャドウとハイライトの再現能力)を把握でき、不安が徐々に消えていった。このテストが与えてくれた成果はとても大きなものだった。機種が新しくなった今も、ぼくは非常な恩恵を被っている。

 デジタル使用の次なる不安は、撮影したデータをどのように保管して、無事に持ち帰るかだった。当時のCFカード(コンパクト・フラッシュ)は最大2GBで、価格も高価だった。今から思えば隔世の感がある。ぼくはストレージにデータを確実に移し替える練習にも励んだ。
 ソロフキ(人口約千人)で世話になった宿屋(日本でいえば清潔なペンションのような佇まい)の女将にいわせると、「あなたがこの島を訪れた最初の外国人カメラマン」とのことだった。世界初なんて、そんなことの気負いはまったくなかったが、じわっとした責任感だけが重くのしかかってきた。ぼくともあろうものが。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/244.html

★「01ソロフキの第1カット目」。
宿を飛び出した時、思わず目を見はる。「何でこんなところで携帯が。嘘だろ!」。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02聖湖よりクレムリンを望む」。
前回掲載のクレムリンを反対側から。極北の光は淡く、どこかおぼろげ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03サモワール」。
民家の軒下にサモワール(ロシア式湯沸かし器)が置かれていた。バックは煙る白海。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/04/10(金)
第243回:北極圏直下の孤島へ(1)
 「おまえはこの連載を、無邪気にいつまで続ける気でいるのか?」と自問してみるに、「きっと写真屋をしているかぎりネタは尽きないので、どうしようか?」と、自答することもできず、決着を見ないままこんにちまでやり過ごしてきた。つまり、何も考えずに事の成り行を自然まかせにしている。計画を持たないことをよしとしているので、それはいかにもぼくらしい。
 計画性というものは一見大切なことのように思われるし、否定できない面があることは十分に承知しているが、その計画性のために窮屈な思いをするのは、退屈以外の何ものでもなく、時には、“出たとこ勝負”に賭けることも必要だと思っている。“出たとこ勝負”はかなりのエネルギーを要するので、それはぼくのパワーの栄養源となっているような気もする。

 人はぼくの“出たとこ勝負”を“単なる思いつき”と断じるが、誤解も甚だしい。予期せぬできごとのさまざまをあらかじめ承知し、そこにはいくばくかの処方箋が盛り込まれているのだから、“単なる思いつき”とは意味合いが異なるのだ。処方箋が役立つものかどうか、やってみなければ分からないので、知恵を巡らせたり、工夫を凝らしたりしなければならず、退屈する余地がない。それに、予期せぬできごとに見舞われることほど面白いことはない。

 “出たとこ勝負”のこの連載も来月でもう6年目を迎える。なんともはや、といったところだが、過日担当者に契約更新の書類を渡されて、ぼくは無計画・無警戒に判子を指示通りに押してしまった。もう1年、この“出たとこ勝負”を続けろという意味らしい。こうなったらもう連載の最長不倒を目指すしかない。NHKの連載だって最長不倒記録を打ち立てたのだから、読者諸兄にそっぽを向かれるまでやってみっか。

 今月は、かつて上梓した写真集やエッセイ集で取りあげた紀行を、今度は写真のあれこれを織り交ぜて記してみようと思う。これはむずかしい。
 旅で起こったことのさまざまを“写真抜きに”自由気ままに綴ることはたやすいが、「写真よもやま話」というお題目にしたがってのことだから、どこで足かせを外すかが思案のしどころだ。

 海外でのロケはどれも辛いものばかりだったが、そのなかでも「もうこんな旅は二度と御免だ」と、心身ともに消耗しきった北極圏直下の孤島へのお話しを、かつての文章からかいつまみ、手直ししながら何度かにわたって無計画にお伝えしよう。

 今から11年前の2004年9月初旬から10月初旬にかけて、ぼくはロシアの北方地域を放浪した。この地域を指してロシア人は「セーヴェル」(北)と呼ぶ。
 13世紀に始まったモンゴルの襲来(タタールのくびき)から、かろうじて避けることのできたこの地域は、ロシアの文化が最も色濃く残され、宝石のような光を放っている。
 ロシアの濃密な文化はとても興味のある対象には違いないが、ぼくのお目当ては20数年来入島の許可を申請し続けてきた白海に浮かぶソロヴェツキー諸島(ロシア人は“ソロフキ”と呼ぶ)だった。

 旧ソビエト時代、ぼくは何の因果か仕事で12回も、気の遠くなるような広大な地を、隅から隅まで重たい機材を背負って訪れた。この茫漠たる広さは、私たち日本人にはどうしても実感できない。「それを知るには列車の旅がお勧め」なんてことを、その筋の方々は軽々しくおっしゃるが、列車の旅を優先したぼくでさえ、ロシアのだだっ広さを語るには役不足なのである。写真でさえこの広さを表現するにはとても歯が立たず、やはり写らない。
 当のロシア人は、自分たちの国土面積が世界一だとは知っているが、ぼくらがいうところの「広い」とは思っていないようだ。多くのロシア人と接して、彼らの口からその類の言葉を聞いたことは一度もない。
 おそらく「広い」という概念は、生まれながらの居住環境によって決定されるべくもので、広い土地に住めばそれを普通のこととして感受するのだろう。海に棲息する生物は、訊ねてみたわけではないが、「海の水は塩辛い」などと感じていないのと同じである。彼らにとって「イカの塩辛は辛くない」のである。

 訪問先での関係機関に、「ソロフキに行きたいのだが、どうすれば許可がもらえるか?」と、何度も聞いてみた。答は判で押したように、「ロシア人だって行けないのに、外国人であるあなたが行けるはずがない」とニベもなかった。
 当時の旧ソビエトは外国人の立ち入りを厳しく禁じた、いわゆる閉鎖都市なるものが数多くあったのだが、ちょっとした鼻薬を効かせれば許可を与えてくれたものだ。ぼくはこの鼻薬でずいぶんと閉鎖都市をものにした。けれど、ソロフキだけは効かない。
 ロシア人の多くは、日本人が思っているよりもはるかにお人好しで、融通が利くのだが、ソロフキだけは「触らぬ神に祟りなし」を頑強に守り通しているようだった。押しても引いても彼らは動じなかった。
 当時、軍港都市として立ち入ることが厳禁だった極東のウラジオストークでさえ、ぼくは彼らを懐柔できたのにである。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/243.html

★「01ソロフキ・クレムリンの夜明け」
クレムリンとはロシア語で城砦という意味。ロシア各地にクレムリンがある。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/40秒、ISO100、露出補正-1。

★「02夕陽に映えるソロフキ・クレムリン」
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2015/04/03(金)
第242回:花見を眺める
 ぽかぽか陽気に誘われ、現代アートを観に上野の美術館に赴いた。花見時の上野は初めてだ。噂に聞くほど、ここでは桜花のもと盛大なる酒宴が繰り広げられているのだろうかと、多少の興味も手伝って、ぼくはその生態をカメラに収めてみようという気になった。

 本来、気の利いた生真面目な執筆者(そのような人を指して、“実直な人”とか“誠実な人”というらしい)であれば、桜の季節に向けて「桜の撮り方」、なんて講座を設けるものだが、世に数多ある綺麗な桜の写真に、ぼくはほとんど感応できない写真屋なので、したがってその手際をお伝えすることができない。それが、ぼくなりの実直さでもある。

 そんなわけで、桜にも、桜を愛でながら酒を嗜む風雅な人々(そんな風にはとても見えないが)にも、さしたる興味はないのだが、速写のトレーニングをしておくにはいいかもしれない。
 速写は街中スナップをするには欠かすことにできない技で、その技を十全に活かすためには、カメラの手早い操作はもちろんのこと、頭の上に8本ほどのアンテナを冠のように乗せておく必要がある。ただこの時に注意しなければならないことは、掏摸(すり)のような目つきになってはいけないということだ。被写体を渉猟するあまり、刑事のように鋭くなってはいけない。不思議なもので、そのような時、相手はそれを敏感に察知するものだということをお忘れなく。視覚の代用として、犬のように嗅覚を働かせてもいい。
 四方八方からの電波(情報)を正確に捕らえ、対処するためには、予期・予測・予知・予感など、“予”のつく漢字をぞんざいに扱ってはならない。それらを十把一絡げにして我々は“イマジネーション”とも呼ぶ。“予”とは「あらかじめ」という意味だから、どんな場面に遭遇してもすぐに対応できるように身支度を調えておかなければならない。「備えあれば憂いなし」といったところだ。
 そして、あらゆる“前触れ”や“前兆”といった、“前”の字もやはりゆるがせにできない。侮っては事を仕損じる。

 動体を捉えるには、「いいな!」と感じた時はすでに時遅しというもので、その光景は時空とともに光速で消え去り、感情だけがそこに取り残される。時空と知覚のギャップは撮影者にとって、とても残酷なものだ。だからこその醍醐味ともいえるが、そのためにぼくは、「“いいな!”と思うであろうその瞬間を予知する」ことに努めている。これらのことをそつなく察知し、認識し、消化しなければ、思い描いた絵がカメラに転写されることはない。だから、ぼくはことごとく失敗する。

 野暮天を重々承知で、今回は掲載写真について少しばかりの状況説明を。何かのご参考になれば幸いである。

 ぼくの予備知識によれば、上野公園の花見客の間には、中国語ばかりが飛び交っているはずだった。中国語を母国語とする人々で溢れかえっているとの情報もあった。
 立錐の余地もないほどに敷き詰められた敷物の間を縫うようにぼくは歩を進めた。花見客を興味深く、じっくりと観察しているうちに、ぼくは突発性難聴に見舞われたように音を失った。これはぼくの生理的特質で、ひとつの感覚に重きを置くと他の感覚が極端に麻痺してしまうのだ。その症状が顕著に表れるので、ぼくはどうしても「ながら族」にはなりきれない。他人の何十倍も雑音が苦手ゆえ、知らずのうちに肉体がそのように反応してしまうのだろう。
 聴覚に気を惹かれれば今度は視覚を失い、イヤフォンなどして歩けばたちまち車に轢かれる。ぼくの五感は連携を拒み、常に孤立しているので、花見客の言語が何であるかに思いが至らず、感知できなかった。
 
 公園を歩いていると、遠方約50m先に外国人の集団をみつけた。中国語集団ではなさそうだ。「いざ、花見に出陣」という様子でこちらに向かってくる。異国にあって、彼らが神経を尖らせていないのは、集団であり、またエキゾティックな佇まいに心を奪われて、好い気保養をしているからなのだろう。彼らの表情からは、生まれ育った地の、黙示的な民話や宗教的説話に裏打ちされたおだやかさがうかがえた。信仰心とは異質な何かがあった。
 彼らの姿を写真に収めるに際し、こちらも彼らの生まれ育ちを踏みにじることのない心性の持ち主であることを牧歌的に言いならわして、毒を消しておかなければならない。

 集団の黒人女性がきっと道化役を演じ、みんなの気持をさらに弾ませているに違いなかった。白人の間にあって、彼女は慕われているのである。その心地よさにぼくは便乗してシャッターを押せばいいのだと言い聞かせた。この写真を撮る1分前に、2人のドイツ人にとっ捕まって、何年ぶりかで拙いドイツ語で勝負し、すでに和気あいあいの、異人種との接触にぼくも好い気保養をしていたのである。

 黒人を撮る時にぼくはいつもユージン・スミスを思い浮かべる。大変なヒューマニストであった彼は、黒人の肌をどのような明度に表現するかに悩んだという。アンセル・アダムスによると、白人の肌は概ねゾーンVI、つまり露出計の基準となる18%中間グレー(拙「よもやま話」第19回:風景を撮る(7)参照)より1絞り露出オーバーの明度で表現するとあるが、ぼくはスミスよりリアリストなので黒人の肌は概ねゾーンIV(1絞りアンダー)を目安としている。スミスは何かに囚われすぎていたのではないだろうか。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて用いられた魅力的なガム・プリント(ゴム印画法。Gum Bichromate Process)を模してみようと暗室作業を始めたのだが、実際の技法を試したことがないので、昔見たおぼろげな記憶を頼りにMacと格闘。あくまでもぼくのイメージのなかで醸成したガム・プリントである。モノクロとカラーを試みたのだが、絵柄によっては、うん、そう悪くはない。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/242.html

カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm固定(35mm換算)、ISO320。

★「01ガム・プリント試作。モノクロ」。
★「02ガム・プリント試作。カラー」。

(文:亀山哲郎)

2015/03/27(金)
第241回:組写真に思う
 この1年の間に何人かの読者諸兄から「組写真」についての所感をたずねられた。それなりのことをしたためて、お返事を差し上げたつもりではあるけれど、その内容を要約すれば、「ぼくには理解が及ばず、すいません」というものだった。この一言を書くために、優に2000文字近くを要するのだから、ぼくはサービス精神がありすぎる。
 また先週、「販売目的を含めた写真展示をしたいのだが、売れ筋の写真というものがあるのなら教えて欲しい」という質問もあった。これにも2204文字(メールをWordにコピペすれば正確な文字数がすぐに分かる)を費やしてしまった。読み手があまりにも気の毒である。

 「組写真」について語ろうとすれば、ぼくはきっと後悔することになるだろうという予感に今ひしひしと襲われている。思いつきで始めてしまった罰を受けることになるだろうが、もう書き出してしまったので、後に引けず、ちょっと弱った。
 「行き当たりばったり」とか「人生は取りあえず」が、ぼくの座右の銘だと公言しているので、拙文を丹念に読んでいるらしい奇特な知人友人の手前、今さら指針を覆すわけにもいかず、さらに弱っている。どこかでぼくは立ち往生するだろうが、しかし、先回りをして立ち往生を極力避けようとする人は(「君子危うきに近寄らず」という閉塞感に満ちた退廃的なことわざがあるらしいが)、進歩に恵まれないので、やはりこちらも気の毒な人といえる。
 「立ち往生」とは「立ち止まって考えること」がぼくの勝手な解釈なのだが、どの辞書にもそうは記されていない。「立ったまま死ぬこと」なのだそうだ。「組写真」の講釈くらいで殺されてはかなわないので、「自業自得」とか「自縄自縛」の四文字熟語程度に留めていただきたい。

 たまたまこの2週間に、組写真にくわしい人たちと歓談する機会があったが、ぼくは素通りをしている。「理解が及ばない」ということは、未体験だからという以上に、ぼく自身にその気がないからだろうと思う。その気がないということはつまり、魅力を感じていないことと、必然性を感じていないからでもある。
 ぼくに写真のスタイルというものがもしあるのだとすれば、組写真は場違いのものであり、肌合いの異なるものでもあり、氷炭相容れない(性格が反対で、調和・一致しないことにいう。広辞苑)ものとして位置づけている。 
 ぼくにとって写真とは常に「単写真」を指す。「組写真」を、UFOもしくは地球外生物のようなものとして眺めている。
 「単写真」にしか興味を覚えないのは、1枚の写真に想いのさまざまを込め、鑑賞者に提示し、過日も述べたように「その主語・述語は鑑賞者に委ねる」のが、潔くもあり、誠の紳士だと信じて疑わないからだ。作者は語らずして鑑賞者にさまざまを連想させ、自由な洞察に導くのが本来の写真のありようであり、それが良い写真だとぼくは定義づけている。ちょっと気障ないい方をすれば、たった1枚(一葉)の印画紙のなかから、鑑賞者が沈黙する森羅万象や造化の妙を感じ取ってくれればいい。一打一葉がぼくの写真的な美学だから、それを実直に遂行している。
 作者自らが鑑賞者にあれこれを差し出し、多角的に説明し、「私はこうなんですよ」とすることをよしとしないので、一葉で語るスリリングな「単写真」から逃れることができずにいる。その一葉は、鑑賞者によってどのような見方をされても、まったくかまわない。百人百様のありようを認めるからこそ、一葉に価値を見いだす。一葉のほうが、多葉より概念の固定・縛りがない分、より深く、自由に、柔軟に鑑賞者に訴えるものがあるとぼくは考えている。

 「単写真」だけを念頭に置くぼくは、予期せぬ被写体と鉢合わせをした時の、心の中で突如噴出するインスピレーション(写真的霊感)が、どれほど自分にとって危うくも愛おしいものであるか、如何ばかりの感情の高揚を与えてくれるかをよく知り、大切にしたいと望んでいる。全神経を尖らせ、時空を瞬時に切り取った、1枚限りのものの無限性をぼくは愛でたい。

 しばらく前、さる著名な詩人Tさんがぼくの写真を左様に見初めてくれ、こういわれた。「あなたは組写真をしないのですか?」と。ぼくの返事を待つまでもなくTさんは、「あなたの写真はその必要がまったくありませんね。1枚の写真が雄弁なので、私のテキストを差し挟む隙がない」と、ひと息に放たれた。
 ぼくの写真が雄弁であるかどうかは分からないが、少なくともやはり組写真向きの写真(そのようなものがあればのことだが)でないことは確かなようだ。

 ぼくが組写真についての何がしかを持ち合わせているのであれば、前述した「素通り」をせずに済んだのだろうが、しょせんぼくには「理解が及ばない」のだから、あまり建設的な会話は望めそうもない。個人の写真に対するスタンスを互いに認めているのでなおさらのことだ。

 ぼくも詩人にならってひと息でいうのであれば、組写真について肯定も否定もしないということである。「肯定をしない」ことについての所見は述べておかなければならないだろう。これは特に若い人、あるいは写真事始めの人たちにとって、危険をはらんでいるように感じる。組写真に取り組むのであれば、1枚の写真に自分の想いをある程度表現できるようになってから始めていただきたい。1枚の写真のクオリティを確保できないうちは、止めたがいい。これがぼくの組写真に対する基本的な考え方である。
 多くの組写真を見ていると、往々にして1枚の写真のクオリティがないがしろにされている。安易な写真の羅列(組み合わせ)をそこに見るのは、表現作法として、あまりに痛々しい。写真は互いに補い合うものなのだろうかという疑念がぼくには常につきまとっている。その伝、「単写真」には過不足が明瞭で、逃げ場がない。

 これ以上「組写真」に言及すると、ぼくは立ち往生となる。もう黙ろう。少なくとも自己顕示欲の権化のようなぼくは、写真の見せ方に限り、寡黙を貫きたいと望んでいる。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/241.html

 偉そうなことをいってしまった手前、今掲載写真を選ぶのに立ち往生している。「理解が及ばない」ことについて、述べるもんじゃありません。身の程知らずってんでしょうかね。
 近所に買い物にふらっと出たついでに。
 カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm固定(35mm換算)、ISO200。

★「01」。北浦和駅のすぐ近くにまだ昭和の香りの漂う場所がありました。
★「02」。強い西日の逆光、黒猫が道をよぎる。リサイズ画像なので、やわらかくボケた映像を見ていただけないのが、ちょっと残念。
★「03」。ぼくの嫌いな鳩。図々しい。なぜ歩調に合わせていちいち首を突き出すのか。羽の模様が美しくない。声がくぐもって、しかも音痴。手の届くところまで行かないと飛び立たないそのさまは、人を食っている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。よって、仇討ちのような気分でシャッターを押す。

(文:亀山哲郎)

2015/03/20(金)
第240回:妄想のはざまで
 この1週間、写真についてのあれこれを話し合ったり、歓談する機会に恵まれた。写真は基本的には一人で考え、行動するものだとぼくは考えているが、長年写真に従事していると、ぼくの単独孤立主義をごり押しするわけにもいかず、相手のプロ・アマを問わず必然的に接点が多くなる。 
 思わぬところでの出会いというものは、好むと好まざるにかかわらずなのだが、ぼくのように極めて非社交的な人間、今でいえば“引きこもり”タイプの人間にとってさえ、同好の志との交歓は精神にほどよい潤滑作用をもたらしてくれると感じることがある。
 外界を遮断し、部屋にこもって、何かにコツコツと精を出し、勤しんでいることがとりわけ好きなぼくは、外気に触れることで新鮮な発見をしたり、刺激を得ることが多々ある。そんな刺激を確かに感じた時が、ぼくの“撮りどき”なのだが、その“撮りどき”は不定期かつ気紛れにやってくるので、機を逸することのほうが多い。

 逃した機会を埋め合わせようと、焦燥感を募らせながら気の向くままにふらっと撮影に赴いたりすることが常態化している。帰宅後、自室にこもり撮影時のイメージを再現しようと辛抱強くパソコンと対峙し、ついでに焦慮を暗室作業で紛らわせている。
 この時の執念と集中力は何十時間、何日間も途切れることはなく、我ながらアッパレなものだと感心もするが、ただ最近は多事にかまけて、“気の向くまま”がなかなか訪れない。「写真を撮らない写真屋」は、さまにならない。愛機を眠らせておくことほど、商売人にとって居心地の悪いことはない。良心のお咎めを受け、「おまえは一体何をやっているのだ」という目に見えぬ厳しい視線が、チクチクと突き刺さってきて、まことに精神衛生上よろしくない。

 こんなことに漫然と身をやつしていると朽ちてしまうような気がして、友人に「オレは三河島(東京都荒川区)界隈を撮る」と自己を鼓舞するために宣言してみた。それから、何もせずにかれこれもう1年が経過しようとしている。
 行ったことのない地のイメージばかりが先行し、頭の中ではすでに1000枚近くの「三河島界隈」の写真を撮っている。それは玉石混淆だが、3枚くらいの玉が混じっているらしいのだ。三河島行きを心してからの1年間、ぼくはその妄想に取り憑かれていたといっていい。虚構を通り越しての妄想だから、イメージと現実とのギャップがありすぎて、どうしても埋まらない。三河島妄想をひどく後悔している。

 妄想のさまざまを具体的にいえば、ぼくは三河島界隈には二等車の車両が1台連結された小豆色の省線電車(この呼称は1920〜49年まで。その後、国電となり現在のJRに至る)が未だに走っていると思い込んでいる。モーターの、低速時のうなるような音から、グリッサンドのように回転を上げていくその生々しい音韻は、無骨で野太く力強い。
 「お化け煙突」(千住火力発電所。荒川区南千住。1926〜63年。ぼくは見たことがない)が、いく筋もの黒い煙を天に向けてゆらゆらと吐き出し、ススをあたりにまき散らながら、高度成長期の曙を誇示するかのように突っ立っている。
 黄昏時ともなると、瓦やスレート、トタン葺きの木造の家々から、かっぽう着を着た主婦たちが、祭り太鼓のようにまな板をトントンと包丁で打ち付ける音を響かせている。
 電柱にはコールタールが塗られ、1本おきに取り付けられた裸電球がニクロム線をチカチカさせながら、不安定な電圧のもと、頼り気なくほのかな光をぼんやりと放っている。

 ぼくの妄想はぶた草のように野放図で厚かましく、どんどん繁殖していく。幼年時代の残り火を細切れにして、貼り絵のように映像を仕上げてみようと愉しんでいる。
 しかし、妄想に駆られたイメージは現実のものとはまったく合致しないことは明々白々で、それがぼくの三河島行きを断固阻止している。あまりにもかけ離れたものをどう溶融させ、ほどよく印画紙に定着させるかが見えてこないのだ。

 先日、何人かの写真愛好家とコーヒーを飲みながら歓談した折りに、ぼくはこんなことをいった。「撮影に赴く前に、まずイメージの構築をする。描いたイメージを、今度は現地で取り崩していく。この作業が上手くできれば、写る」と、自身に言い聞かせるようにいった。
 そして、「近々のうちにぼくは三河島界隈を撮る」と、逃げ道を塞ぐために自虐的な気持になりながらいった。そうでもいっておかないと、また無為な1年を送ってしまうような気がしたからだ。
 しかしぼくは、学生時代から関心を抱き、関連書物を読み漁った「下山事件」(1949年。足立区)や、中学3年時のゴールデンウィークに起こった「三河島事故」(1962年。荒川区)が、頭から拭いきれずにいる。痛ましい二つの事件と陽炎のような妄想のはざまに、ぼくは揺れている。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/240.html

 昨年、三河島界隈にまで近づいたのですが、どうしても足が伸ばせず、その周辺をうろついていました。後ろ姿のものばかりを掲載したのは、Webでは個人を特定できないものを選ばざるを得なかったからです。

 カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm固定(35mm換算)、ISO200。

★「01荒川区東十条」
★「02荒川区上中里」
★「03荒川区東十条」
★「04荒川区東十条」
★「05足立区千住」

(文:亀山哲郎)

2015/03/13(金)
第239回:写真の題名(補足)
 月一度の酒席。ぼくは酒を好むが、月に一度しか呑まない。したがって、世にいうところの「酒飲み」というわけではなく、しかし呑む以上は、「ほろ酔い気分」にまで到達しないと、なんだか損をしたような気になるので、止むに止まれずその程度にまでは呑むことにしている。そうでないと、酒にも申し訳が立たない。
 自身は、「大した酒量ではない。“酒をたしなむ”とは、これをいう」と恰好をつけて明言するのだが、あっさりと「よく呑むね」と、思念に欠けたことを平気でいう人もいる。誰もが自分を尺度とし、他人のそれを推し測ろうとする。気心が知れれば知れるほど、人は一般的尺度をないがしろにし、目の曇ったまま率直な意見を押し通し、他人を按配しようとする。いかにも自分は客観的なものの見方をしていると言いたげだから、ぼくはいやになる。
 いずれにせよ月に一度という機会が、ぼくを否応なくそうさせている。「呑むからには多少良い気分にならなくっちゃね」という弁明には、そこはかとない貧乏性が潜んでいるのだが、若い頃とは異なり「酒の酔い本性違わず」という品位は、どうにか守り通しているつもりだ。
 故事に「酒は三献に限る」というのがある。酒は適度に呑むのがよく、限度を超えると乱れるので、三献にしておけという戒めである。「三献」を広辞苑で引いてみると、「正式な饗応の膳で、酒肴を出した三つの杯で一杯ずつ飲ませて膳を下げることを一献といい、それを三回繰り返すこと」とある。酒は九杯までにしておけということである。ぼくはその故事を殊勝にも守っているが、「かめさんは呑んでなくても、乱れている」と口走る思慮分別のない人が身近にいたりして、だからますますいやになる。

 「酒飲み」というものは、概ね意地が汚く、卑しい。タダ酒となると、もういけない。ぼくは今まで、「三献」にはほど遠い輩をたくさん見てきた。酒はいくら呑んでもかまわないが、テーブルに乗せられた酒類のすべてを呑み込もうとするその魂胆が醜いのだ。ものを選択するという高貴で微細な感覚を喪失しているので、どんな上質な酒があろうと、「取り敢えずビール」という乱暴な科白を何の呵責もなく言い散らす。「まずはビール」というのであれば、ビールの顔も立とうというものだが、「取り敢えず」にされちゃってる。
 「ビールなどどうでもいいが、取り敢えずビールで喉を潤してから、無差別飲食に取りかかろう」という浅ましい意気を言外ににおわせている。ビールをまるで準備運動のように扱っている。だから、日本人はビールの味にどんどん鈍感になっていくので、この国には残念至極「取り敢えずビール」しかない。
 今、話がピョンピョンと乱雑に飛躍している。

 飛躍ついでにいうと、このような選択のセンスを失った人々は、きっと写真の題名に何の躊躇もなく『習作』などと名付けて揚々としているのだと思える。それは、誰でもが目にしたことのある罪深い題名だ。
 子供時分に絵画展に行き、その題名を見た時、ぼくは子供心ながらに「なんと無礼な」という思いにとらわれた。『習作』という題名を見るたびに、その時の憮然とした記憶が今も生々しく蘇ってくる。子供の純朴で清純な感覚が、それを甚だしき違和感としてとらえたのだから、その時の感情を未だに真実として受け止めている。
 作品とは常に未完のものだ。未完であることを認めているからこそ、より良い作品を手にしようと切磋琢磨するのだし、その先にささやかな希望の光を見出そうと心を躍らせるのではないか。絶望と希望が混じり合いながら、常に制作過程の一断面である“習作”なるものに突き当たる。そして、通過儀式のように“習作”を打ち捨てる。“習作”はドップラー効果のように過ぎ去っていくものなのだ。その過程が“習作”なのであって、結果を“習作”と呼ぶべきではない。
 したがって、『習作』などという言い訳がましい上手ごかしは、どうにもいただけない。どこか尊大で横柄である。『習作』と名付けるくらいなら、『取り敢えず作品』としたほうが、ずっと正直で、嫌味がなく、可愛げがある。“習作”とは、練習のための作品、あるいは下絵のことなのだから。

 わざわざ足を運び来場してくれる人たちに、稽古場を見せながら、「本番ではなく、準備運動中の下絵ですが、どうです?」とやるようなもので、それはとても失礼なことだ。たとえ未完・未熟であっても、一生懸命実直に練習をして、晴れの舞台をご覧いただくのが礼儀ってもんじゃありません? 未完なものとして来場者に正直に差し出すことは罪にならないし、だからこそ共有・共感することのできる空間が生じるのだとぼくは考えている。初めから『習作』だと鉈(なた)を振るわれては、来場者の居場所がなくなってしまうと感じるのはぼくだけだろうか?

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/239.html

 今回の掲載写真は、まさに『習作』そのものの写真です。今からちょうど42年前、25歳の時に大型カメラ4x5インチを買い、胸をワクワクさせながら「タングステンライトでライティングしたらどんなもんじゃろ?」と撮ったものです。

カメラ:ジナー(スイス)、レンズ:ローデンシュトック製(ドイツ) シロナー210mm F5.6。
絞りf32。フィルム:コダックエクタクローム64T ISO64(タングステン用フィルム)。

(文:亀山哲郎)

2015/03/06(金)
第238回:写真の題名
 実はぼくに「写真の題名」について語る資格はまったくない。にも関わらず、それに挑もうというのだから今回の原稿はきっとてこずるに違いない。いつもの、30〜40分で書き上げちゃおうという目論見は、今日ここに至って外れるだろう。
 しかし、「写真の題名」については常に考えを巡らせている。あれこれ思うところがある。題名そのものについてではなく、題名を付けることの意義についてだ。ぼく自身は、自分の写真に題名を付けることをよしとしないので、付けたことはない。
 その理由は単純で、いつもいうように「写真の主語、述語は鑑賞者に委ねる」を自身の信条とし、それをかたくなに守り通してきたからだ。自分の作品に対して、鑑賞者に前もって先入観を植え付けることに非常な苦痛を覚える。「余計なお世話だよね」という鑑賞者に対する遠慮がそうさせている。
 もちろん、状況説明や撮影場所がどうしても不可欠と思えるものには最低限のキャプションを、写真の下に申し訳なさそうに貼り付けることにしているが。
 
 世間では、写真に題名を付けることがどうやら一般的であるらしい。グループ展や個展などでは、ほとんどの作品に題名が付けられているが、ぼくは無意識のうちにそれには目もくれず、写真だけを凝視する。作者は題名を付けることに苦労されたのであろうが、「ぼくは題名には誘導されませんので、悪しからず」というポーズをとってみせる。題名というものが、一種のプロパガンダのように思え、ぼくはそれにささやかな抵抗感を覚えている。時には、それは作者の単なる自慰行為にすぎぬとさえ思うことがある。

 確かに、気の利いた題名にお目にかかることもある。しかしそれは、創作にたずさわる者の所作としては、気が利いていない。無粋なのだ。
 題名というものが、鑑賞者に、あるいは写真の何かを、もし仮に手助けをしているのであれば、慚愧に堪えないとぼくなら思うだろう。ぼくは自分に、「題名という杖がなければ、お前は歩けないのか? よちよち歩きでもいいから、杖の世話になどなりたくない」という片意地かつ依怙地な気概を見せたいと踏ん張ってしまう。こんな意味のない気概に取り囲まれているので、ぼくは必要以上に疲労してしまうのだ。
 しかしながら、上記のことはぼく自身の思うところであり、また信条でもあるので、読者諸兄に「ねぇ、そうでしょ?」とはいわない。いいたくてもいえないでいるのは、やはり慚愧に堪えないが、「題名で写真を見せるわけじゃないよね」くらいは、いってもいいと思っている。
 だって、人は撮影時に題名を考えるわけではない。題名はあくまで「後付け」であり、「後出しジャンケン」のようなものじゃありませんか。

 ぼくは今までコンテストとは無縁のところにいた。それはぼくのひとつの矜恃でもあるのだが、さまざまなコンテストなどを眺めていると、主催者の「題名にも気を配ること」というアナウンスが、あるいはまた、それに類似のコメントを散見する。ぼくとて、題名を付けるのであればその役目を十分に認識しているつもりではあるが、そんな仰せには「???」と大いなる疑問を感じている。題名も選考基準の何%かを受け持つのか? だとすれば、「そんなことはあるまじきことだろう!」と毒づきたくもなるのだ。

 しばらく前にこんなことがあった。
 ハイビスカスを撮った友人Mさんが、その作品をある大きな展示会に出品した。題名は「花」。ぼくはその写真の突出したクオリティと卓越した色使いを大いに評価していたのだが、「花」というあまりにも業のない実直すぎる題名に、腹がヒクヒクと波打ち、題名に無頓着なぼくでさえ、「花はねぇだろ、花は」と思わず雄叫びをあげてしまった。
 彼女は何も悪びれることなく、屈託のない大笑いを返し、「そうよね、そうよね」と、ますます快活に応じた。この大らかさに、写真仲間たちも言葉を失った。
 「写真さえ満足できれば、題名などに頓着しない」という彼女の気骨を見せられたような気がするが、彼女はどちらかというと体格は良いが、気立ては極めて控え目な人である。彼女の撮った真っ赤なハイビスカスは、高品位でけれん味のない堂々たる作品に仕上げられ、彼女の佇まいや生活感情を如実に表していた。
 この写真を見た友人N君は、問わず語りに「まるでフラメンコのようだ!」といった。もし題名がもっとひねったものであったら、彼の直感は「フラメンコ」という言葉を導いたであろうか? 甚だ疑問である。
 この作品が選に漏れたのは、あまりにも作為のない題名のためだったのかと
ぼくはちょっと穿ってみたりしている。題名が「フラメンコ」だったら、きっと選考者の意をとどめたのではないかとも思う。

 やはり、原稿書き、ちょっと手間取って52分でありました。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/238.html

 今回の掲載写真は「題名」のちょっとした試行です。夕暮れ時、ふらふらと散歩に出て、なんの意図もなく10分間撮影したものです。3枚の写真は組写真ではありませんが、例えばテーマに「幻影」とか「化身」などと抽象的な名が付けられていたら、こんないい加減な写真でも、鑑賞者の見方はそちらのほうに引っ張られるのでしょうか?
 この題名は、たまたま隣の机に積んである本の背表紙にあった文字です。

★3点とも久しぶりのシャッター速度優先で撮影。1/13秒に設定し、歩きながらシャッターを切る。ブレても、ピンが来なくてもかまわない気楽な写真。フォーカスは5mに固定。
Fuji X100s。焦点距離35mm固定(35mm換算)。ISO200。

(文:亀山哲郎)

2015/02/27(金)
第237回:写真は引き算
 今、ある企画のためにWeb原稿を書かなければならず、四苦八苦している。四苦八苦というより、きりきり舞いをして、自分の身体が浮き上がり着地点が見出せず困窮の態。まるで竜巻に巻き上げられたかのように(そんな経験はないが)天地左右に体が回転し、すっかり平衡感覚を失ってしまった。「風に舞う木の葉のようだなぁ」とこっそり嘆きながらも、一向に折り合いがつかない。
 テーマに思い入れがあり過ぎて、あれもこれも説明したがり、ひいては目的を見失い、牛の反芻胃のようにだらだらとして切れが悪い。ヨダレが切れないのだ。だから素人はダメだ、おれは牛みたいだなと、やはりモウ一度嘆いてみる。
 どこがダメなのか、自分で薄々感じ取っている分、なおさらに居心地が悪い。それは、疑心暗鬼という不純物を生み出し、その毒素のおかげで堂々巡りをしている。

 弱り果てたぼくは、昵懇の間柄であるその手のプロフェッショナルにお伺いを立てることにした。彼は広告業界で数々のプレゼンテーションをこなし、実績を積んできた人でもある。ぼくは彼のセンスと読みの力を高く評価しているので、素直に原稿を差し出した。
 開口一番、「エッセイや散文ならこれでいい。だがこのWebページの目的は、“読ませる”のではなく、“見せる”ことによって訪問者を呼び込み、共感を得ることにあるのだから、かめさんの写真を前面にドーンと出せばいい。第一、文章が長すぎて、活字媒体ならいざ知らず、Webに来た人たちは最後まで読まないよ。彼らはあくまで“見る”のだよ」と明解に語ってくれた。彼はブラックホールに呑み込まれつつあったぼくを、いとも簡単にすくい上げてくれたのだった。

 期するところ多々あったのだが、彼がぼくに語ってくれたことは、ぼくが写真評をする時にいつもオーム返しのようにいっている、その言辞そっくりだったから、面白くもおかしい。
 曰く「写真は引き算」、「主題は何か」、「余分なものは画面から排す」、「あれもこれも説明しようとするから主題がぼける」、「写真はとどのつまり一つのことしか表現できない」、「象徴的なものを注意深く嗅ぎ分け、それに注力すること」、「もっと簡潔に」などなど。
 これらの言葉を発する前に、ぼくは儀式のように一旦ため息をつき、嘆いてみせるのだ。そして、その写真に写った過剰な部分を手や紙で覆い、慎重に消し去って見せ、撮影者を納得させる。
 「これで、ずっとよくなったでしょ。よい被写体を見つけましたね。でも、トリミングをしなければならない写真は、その時点ですでに失敗作」と、剛柔取り混ぜながら、飴と遠慮がちな鞭を使い分けている。そこで、ぼくはもう一度フーッとため息を漏らしてみせる。
 ぼくの歎息交じりの繰り言を聞かされる彼らは、一矢報いようと、「かめさんのメールはさぁ、長すぎるから最初と最後の3行だけ読むことにしてるのよね。みんなもそうよねぇ〜」とぼくを睥睨し、得意気に一同の代弁を買って出るのだ。年不相応に、とうの昔に過ぎ去った反抗期を演じて見せ、たわいなくも、してやったりという顔をしている。

 彼らの写真を見ながら、同じ過ちを繰り返さぬようにするには、何をどう伝達して、どのような指導をすればいいのか? とぼくは常に考える。これは、自分にとっても永遠の命題に違いなく、実際のところ「言うは易く、行うは難し」だ。

 いつだったか、拙「よもやま話」で、“被写体をよく観察する”ことについて、絵の上手い下手ではなく、“写生の勧め”を説いたことがある。それに従えば、写真を撮ろうとカメラを構えた時に、どこか1点に視線が集中していることに気づくのではないか。漫然とファインダーを覗くのでなく、発見したもののどこに自分の視線が最も多く注がれているのかを認知することが必要。
 ぼくはかつてそれを意識して撮る訓練をしたものだ。主被写体をど真ん中に据えて、ファインダーの四隅にも神経を配りながら撮ってみる。おかしな色気を出さず、要らぬものは潔く四隅から外す。できあがった写真は面白くもなく、退屈なものだが、そんなことを何千回も意識的に繰り返しているうちに、主被写体を取り囲む脇役たちの姿が見えるようになってきたように思う。脇役との有機的な関連が見えてくれば、画面に配された物の取捨選択が自然と可能になるような気がするのだ。
 そして、大切なことは「自分のために撮る」ことだ。他人が自分の作品をどう見るのだろうかと、そんな余計な斟酌など一切してはいけない。しばしば展示会などで、「見せてやろう」という底意丸見えの写真にお目にかかることがある。そのような意図的で企みのある写真を前にすると、首をうなだれ、意気消沈し、ぼくも意図的に深い深いため息を漏らしてみせるのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/237.html

 掲載写真が、今回のテーマ「写真は引き算」を具体的に示したものではなく、5段階評価の自己採点では、3.8といったところか。

★「01」。28年前の写真。ロシアの田舎町の食堂で。厨房に入り込んだぼくは、従業員の食べていたウズベキスタン風焼き飯をカメラでかすめ取った。タングステン光下。
ライカM4。ズミルックス35mm F1.4。コダクローム64。ISO64。

★「02」。猫の昼寝。シャッター音がしたとたん、すまなそうに階段を駆け下りて行った。画面を手すりで二分。
EOS-1DsIII。EF28mm F2.8 USM。f8.0、1/40秒、ISO100。露出補正-1。

(文:亀山哲郎)