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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2023/01/20(金)
第627回:晴れて鉄道博物館(17)
 晩年になり、初めて「てっぱく」に足を向けたおかげで、ぼくの鉄道好きはすっかりぶり返してしまった。とはいえ、その嗜好は中学時代で止まったままだ。最近の電車や電気機関車に至っては、もうさっぱり知識がない。鉄道ファンにいわせれば、ぼくはきっと「エセ鉄道ファン」ということになるのだろうが、その文言を甘んじて受けざるを得ない。それほど現在の鉄道には音痴である。

 具体的にいえば、電気機関車はEF58形で終わっており、その先は関心の示しようがなくなってしまった。さっぱり心惹かれないのである。鉄道ファンに叱られるだろうが、ぼくの目には、どれも似たり寄ったりで(形体が)、面白味に欠け、したがって没個性であり、味わいを感じられずにいる。子供たちに人気の新幹線にも(乗るのは好きだが)さっぱり興味が湧かない。あと10日ほどで、後期高齢者の仲間入りなので、それは仕方がないのかな。「思い出話に花が咲く」といったところか。
 若い人の感覚や考え方に学ぼうとする気概は持ち続けたいと思ってはいるが、心身ともになかなか追いつかないというのが本当のところ。

 ぼくの鉄道趣味は、上記の如く、いってみれば旧態依然で、特定のものに対してしか物言えずであり、したがって大きなことはいえない。しかも、たった4時間の「てっぱく」滞在で、厚かましくも17回も回を重ねているのだから、良い度胸をしている。自身の知識不足を十分に認識しているので、「エセ鉄道ファン」のぼくは、実はこれでも縮こまって書いているのだ。

 けれど、ぼくが勝手に推察するところ、「てっぱく」での来場者を観察していると、老若男女を問わず興味や関心の的は、やはり蒸気機関車に帰結するのではないかと感じる。いささか身贔屓に過ぎるであろうか?
 蒸気機関車には様々な思いや感情がより多く込められているのではないかと感じている。その魅力は、誰をも虜にするものがあるからだと、ぼくは勝手に決め込んでいる節がある。自分の好むものは、誰しも同じであろうと思い込むところが、極めつけである。

 そうでないと思うところは、唯一自身の写真だけ。ぼくの写真は、良くも悪くも広く好まれるものでないことは重々承知しているし、それがぼくの、ぼくたる所以であるとさえ感じている。
 「万人受けのする、ただきれいなだけの写真」、「自己表現より、見てくれを感じさせる写真」、「奇をてらったもの」をぼくは軽視し、評価の対象外と見なす。幸か不幸か、ぼくの写真に蒸気機関車のような人気はなく、負け惜しみでなく、本心からそうあってはならないとさえ思っている。
 展示写真を褒められても、ぼくはその人がどの様な人かを会話のなかから先ず推し測り、返答をしたり、反応をしたりするという、ひどく捻(ひね)くれた、偏屈な人間でもある。素直じゃないのだ。友人知人によると、ぼくの生返事はすぐ分かるそうだから、考えようによっては、ぼくは案外素直なのかも知れない。

 どの分野に於いても、本当に優れたものは万人受けするものではなく、少数の人々が認めるものが本物なのだとの哲学を若い頃から抱いているので、より普遍的で、より上質なものに限りない憧れを抱いている。
 そんな写真が撮れれば本望だとは思うが、天はそれをなかなか許してくれないので、ぼくは神をおちょくりながらも、真面目な振りをしている。真摯ぶっていることは、誰かにしかと見透かされていることにもちゃんと気づいているので、いろいろ覚悟を決めて、脇目も振らず淡々と写真に臨んでいる、と思いたい。

 今のぼくの写真は「ぼくの、ぼくたる写真であること」の、試行錯誤真っ只中にあると自認している。けれど、撮っても撮っても、なかなか思い通りに写真は写ってくれないから、止められないでいるのだろう。どこまで、自分がそれに対して戦えるか、自分の課した関心と使命は、人生の吉凶は容易に定め難いことを勘案すれば、やはり残り火が消えるまで続くのだと、諦めている。ぼくは極楽とんぼなので、先行きの不安や焦燥に駆られることはない。

 「朋あり、遠方より来たる」。写真好きの友人が、ささやかな個展を晩春に催すので、作品を選んで欲しいとのこと。実際には遠方につき、会うことは適わず、データを送ってきた。20点ほど出展するために、3倍近い作品のデータがぼくの手許に届いた。ぼくを尊重している振りをしているらしいのだが、「まず、自分が20点選べ。話はそれからだ。作者の意図を知る必要があるから」と返した。作者自身が選ぶことが先決。そのうえで、作者が選択外としていた写真を拾い上げるのが、ぼくの役目だと考えた。差し替えるかどうかは本人の自由。

 ただ肝心なことなのだが、データで見せてもらっても、厳密には分からず(作者のモニターとぼくのそれとでは再現が異なるため)、やはり「小さなサイズで良いので(2Lサイズほどで)、プリントにして見せて欲しい」と伝えた。また、プリントであれば、それらを並べ、俯瞰することができるので、なおさら良い。
 ぼくも写真展を催す時は、必ず使い慣れた印画紙に(やはり2Lサイズで)プリントし、展示作品全体の流れや構成、色合いなどを考慮している。展示の机上プランを練って、会場で並べてみて、順序を入れ替えるということは、ままあること。
 月末辺りに、ドサッとプリントが舞い込むことを、ぼくは今から恐れている。

https://www.amatias.com/bbs/30/627.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105 F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
今回は2点とも少し趣を変え、人間入りの写真。「てっぱく」の真ん中に陣取る転車台上の「貴婦人C57」が、汽笛を鳴らし、多くの人たちが見守るなか回転。
絞りf7.1、1/30秒、ISO 4000、露出補正-1.33。

★「02てっぱく」
新幹線E5系電車。アングルを決め、「誰か歩いてきて。足だけ写真に取り入れたいから」と念じたら、今度ばかりはその願いが天に通じ、バランスの良い位置でシャッターを「ありがと。いただき」とつぶやきながら切った。
絞りf8.0、1/100秒、ISO 640、露出補正-0.33。

(文:亀山 哲郎)

2023/01/13(金)
第626回:晴れて鉄道博物館(16)
 今回も掲載写真は懲りずにまた蒸気機関車。読者のなかには「またか」と思われる方がおられるに違いない。ぼく自身もそう思っているのだから、それはほぼ間違いのないことだろう。「てっぱく」では、他にも興味のあるもの、思い出深いものは多々あるのだが、やはり蒸気機関車はぼくにとって、いわば麻薬的な吸引力があり、魅せられる部分がたくさんある。

 このことはあくまでぼくにとって、フォトジェニック(写真写り・見映えがするという意味)なものに満ちていると感じるからであり、知らずのうちにレンズを向けているということに相成る。同じ部分を、手を変え品を変え、「2度と同じ写真は撮れないのだから」を標語に、イメージを新たにし、「また撮っちゃった」とつぶやきながら、性懲りもなくシャッターを押してしまうのだ。心底、蒸気機関車が好きなのだろう。また、蒸気機関車が好きな方は、ぼくの写真を好意的に見てくれると思いたいし、少なくとも、手前勝手ながら、「黒の表現」に共感を示してくれるに違いない。いい性格してるでしょ。

 ぼくにとっては、小さな蒸気機関車であれ、大型のそれ(「てっぱく」ではC57形機関車が会場のど真ん中に鎮座し、決められた時間になると、本物の汽笛を轟かせ、転車台を一回転し、そこに群がる観客を喜ばせている。 “彼” は、別称「貴婦人」と呼ばれているので、 “彼女” が正しいのかな。ドーンと腰を据え、辺りを睥睨し、まるでぼくの女房のように睨みを利かせている。要するに、「てっぱく」のC57も「あたしが大将なんだかんね」とばかり幅を効かせている)であれ、心身共に引きずられてしまうのは、やむを得ないことだ。誰がどう見ても、「てっぱく」の主役は、この「貴婦人」なのである。
 余談だが、因みに英語では船のように蒸気機関車も、代名詞は「she」で受け、ドイツ語、ロシア語も、名詞の性は女性名詞である。だが、走る姿は誰が見ても、「男性的」であり、「雄々しく」もあると思うのだが。

 機関車の大小に拘らず、懐かしさ以前に、彼らは男女の区別とは関係なく、その出で立ちは、「走る黒い弾丸」であり、「勇壮そのもの」でもあり、また「黒衣の戦士」だ。動輪が主連棒とともに回転するその様は、セクシーでさえある。そして、大仰にいえば「走る姿は、ぼくらの人生をなぞっている。実に哲学的だ」と感じる。以前にも述べたが、最も擬人法に適う乗り物は、誰が何といっても、蒸気機関車にとどめを刺す。
 かつて誰もが難渋した北浦和駅の「開かずの踏切」を、もうもうとリズミカルに煙を立ち上げ、白い蒸気を口ひげのように噴きながら爆走してくる機関車を目の当たりにしているぼくは、「開かずの踏切」にどのような恨み辛みも抱かなかった。胸を躍らせ、目を皿のようにして、イライラしている人たちを横目に、躍動感溢れる蒸気機関車の音と熱気にひとり喜んでいたものだ。彼の走り去った後の、煙の、特有の香りも大好きだった。

 とはいえ、「てっぱく」で、何十年ぶりかで会った蒸気機関車に対する懐古の情に、身をほだされることはなかった。レンズ越しに被写体を見ると、ぼくは幸か不幸か、感情を持たない無機的な人間に変身するようにできている。
 そして、よしんば懐旧の情にかられたとしても、それをいとも容易く回避することができる。蒸気機関車の迫力満点の姿・佇まい、造形の美しさにまず圧倒されてしまうからだろう。その一言に尽きる。蒸気機関車は、あらゆる乗り物のなかで、最も芸術的といっていいとぼくは思っている。その象徴的な部分を如何に切り取り、実物より美しく描くかに腐心。写真は実物より、より美しく描かなければ意味がない。

 ああでもないこうでもないと、ぼくは「ひっつき虫」(文房具)のようにC57にへばり付き、矯(た)めつ眇(すが)めつ凝視し、慎重にシャッターを切る。
 帰宅後、パソコンで撮影した映像を見ながら、「もっと良いアングルを発見できたのではないか? レンズの焦点距離が間違ったのかな?」と振り返ること多々ありなのだが、現場では、フィルム育ちの誇り !? (一発勝負に賭けた誇り。特にカラースライドフィルムを愛用したぼくは、この習性からなかなか逃れ難いという損な性分)が邪魔をし、かつプロの沽券に打ち勝つことができず、撮影後にカメラモニターをいちいち確認するなんて無様なことは、私的写真では意地でもしたくない。
 「写真は賭だ。根拠に基づいた一か八。伸るか反るかは、お前次第」と、格好をつけながらすまし顔でいたいのだ。いわれる前にいっておくが、それはまったく、アホーな沽券である。

 しかしこの気概、良い方向に導いてくれることがあると、デジタルを愛用する方、そして自身を愛好家と自認する方々に、非常に遠慮がちにお伝えしておきたい。「学びは失敗から」を是とするぼくは、「写真愛好家というのであれば、今日一日はカメラモニターを見ない」を偶には試してみたらいかが。
 撮った後、すぐにモニターを見るのではなく、不安であれば、設定値(f 値、シャッタースピード、露出補正など)を変えて、撮っておく。つまり、モニターでの結果に頼るのではなく、手間暇を惜しまず、しっかり保険をかけなさいということだ。デジタル時代であっても、これは上達の秘訣であると考えている。騙されたと思って、一度はやってみんしゃい!
 
 今回は「黒の表現の多様さ」について述べる予定だったのだが、新年早々、また悪い癖が出て、書き損じてしまった。そのための掲載写真だったのに、悪癖というのは治し難いものだ。

https://www.amatias.com/bbs/30/626.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105 F4L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
C57形蒸気機関車「貴婦人」。ヘッドランプが白く飛んでしまうぎりぎりのところで露出補正をする。ど真ん中に置かずに、わずか左寄りにアングルを取った。
絞りf5.6、1/15秒、ISO 1250、露出補正-1.00。

★「02てっぱく」
C57の動輪を上方より、超広角レンズのパースを利用して。黒の質感と光沢の質感の対比を重視。
絞りf4.0、1/15秒、ISO 2500、露出補正-1.00。

(文:亀山 哲郎)

2023/01/06(金)
第625回:晴れて鉄道博物館(15)
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 写真を撮るきっかけについて過去に述べた記憶があるが、初めて自分のカメラを所有(10歳の時)してからもう65年も経ってしまい、気がついたらぼくは今月末で、いわゆる後期高齢者となるんだそうである。
 だが、人様に「ぼくの写真歴は65年」なんて、恥ずかしくてとてもいえたものではない。写真歴と写真の質とはまるで無関係だしね。

 気の多いぼくは、少年時代から写真屋の修業に入るまでの間、様々な趣味(道楽といったほうがいいかな)に興じてきた。趣味だけがぼくの生き甲斐だったといってもいい。
 写真屋になるための修業を始めたと同時に、それまで心血を注いできた道楽のすべてを潔く放棄してしまった。趣味のひとつだった写真だけが、何故か道を誤り生き残ってしまったのだが、それでよかったのだと心底思っている。写真の道に入ろうとしている時に、「そんなことにかまけている場合じゃないだろう」という気持が、他の趣味に対する未練を、絶ち切らせたのだった。ぼくにしては、まったくの上出来だったと感心しきり。
 「カメラマンになりたいのだが」との言葉をぼくに投げかけてくる人が多くいたが、都度ぼくは、「すべてを捨てる覚悟がなければ、やめたほうがいい」と答えている。これがぼくの真実であり、また年配者の親心というもの。偏屈といわれようが、今もその気持は変わらない。

 ただ、読書だけは意欲を持って(尻を叩いてでも)続けているが、読書は趣味の範疇に入れていない。読書は趣味ではなく、勉学であり、写真のイメージ構築に何某かの貢献を果たしてくれるものと信じている。そしてぼくのような思慮に欠けるものは、良書に触れていなければ、確実にアホーの道を歩むに違いないことを知っている。良書を読破するには苦痛が伴うものだが、アホーを恐れて、勤しむ他なしといったところ。それでもアホーさ加減はこの程度だ。

 写真屋として一人前になったら、今までの道楽を少しずつ復活させようと目論んでいたのだが、未だその気配さえない。一人前になったかどうかはさておき(一人前とは経済的になのか、作品がなのか、何を以て一人前なのかが、ぼくには分からない)、目下無趣味のぼくは、他のものにかまける余裕がないというのが正直なところ。写真屋稼業を続けている限り、かつて愉しんだ趣味が復活することはないだろう。

 写真に取り憑かれるとそれに正比例して、不明なことが蛇口の壊れた水道から勢いよく水が噴き出すが如く、弾けた水滴が降りかかって来る。返り血ならぬ返り水を浴びることになる。それに抗することができず我が身は濡れ鼠となり、あたふたしているうちに時間ばかりが無情に過ぎていく。
 衣服を乾かす間もなく、難題という水とその飛沫はぼく目がけて次から次へと襲いかかってくる。解決の糸口を掴もうにも、ずぶ濡れとなった衣服が重すぎて、どうにも動きが取れず、ただ右往左往するばかり。「写真は学問じゃないよなぁ」としつつも、ひとつ学べばふたつ分からないことが、性懲りもない律儀さを伴って現れる。これが “ものの道理” というものらしい。
 「弱り目に祟り目」を飽くことなく繰り返し、気がついたら、辛労のあまり、本来黒であるはずの髪が真っ白に化けていた。おまけに、後期高齢者だってさ。

 話はがらっと変わり、カメラが欲しいとの衝動に駆られたのは、ぼくの母が結核に倒れ、闘病地である千葉県の勝浦へ毎週見舞っていた時だった。ぼくは9歳(小学3年)で、当時、北浦和ー秋葉原ー千葉ー勝浦への道程は、3時間半ほどを要した(現在は2時間40分ほど)。
 外房線の車窓風景を眺めながら、それを写真に収めたいとの欲求に耐えられなくなっていたが、カメラが欲しいとはとても言い出せず、ちょっと気障な言い草だが、瞼をシャッター代わりに、何枚もの写真を撮った。ぼくはそれを1年近く続け、何千枚もの写真を写し取った。我ながら、大した執念だった。

 小学4年になった当初、まだ失語症から完全に立ち直っていなかったぼくに、「坊主、なんか欲しかもんばあったら、言うてみんしゃい」と、父が地言葉でいってくれた。ぼくは、「カメラの欲しかんやけど」と返した。父はすぐその場で、カメラに詳しい地元(浦和)の友人に連絡を取り、ぼくを自転車の荷台に乗せて酢酸(フィルムや印画紙現像の停止液)臭漂う写真店に連れて行き、その日のうちに、ぼくを喜ばせた。そして、父の早業を無言で賞賛した。「虚仮(こけ)の一念」(当時のぼくはこんな言葉は知らないが)の果報にあやかることができた。祈りが天に通じ、そして店主は、ブローニーフィルムを1本つけてくれた。
 再び荷台に乗せられたぼくは、夜道のガタガタ道に揺られ、カメラの箱を落とすまいと、必死の形相と喜びに満ちた顔貌を交互に繰り返していたに違いない。

 翌朝、不覚にもぼくは寝小便をしていた。犬の嬉ションではないが、退院したての母は何事もなかったように楚々とした振る舞いで、物干し棹(当時は竹)に、シーツと布団を干した。ぼくに寝小便の罪悪感はなく、新調したばかりのカメラを取りだし、縁側に父と母を腰掛けさせ、愛犬のスコッチテリアとともに、生涯初のシャッターを切った。その写真は、大切に保管してある。

 やがて夏となり、ぼくはEF53形電気機関車(ぼくの最も好きなデッキ付き機関車)が牽引する高崎線と信越線に乗り、軽井沢に向かった。1本12枚撮りのブローニーフィルムを3本懐に忍ばせて、「撮り鉄」事始めに興じた。
 横川駅で、EF53は切り離され、急勾配用に仕立てられたアプト式機関車ED42形に取って代わるのだが、名物の釜飯や妙義山の奇っ怪な山容には目もくれず、ホームを先頭まで駆け抜け、ED42や連結シーンを夢中になって撮った。当時はまだ「撮り鉄」などという語呂の悪い、少々品位に欠ける言葉など存在しない時代だった。「てっぱく」で、我を忘れて写真を撮っているぼくは、鉄道写真好きであって、「撮り鉄」なんかじゃないと、見栄を飾っている。やはり偏屈か?

https://www.amatias.com/bbs/30/625.html
           
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105 F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
クモハ40系電車。京都からこちらに来た当初、父は国電と呼ばずに、省線(鉄道省の電動車)電車といっていたが、ぼくには意味が分からなかった。写真の原画はもう少し色鮮やかだが、当時のイメージカラーを再現。
絞りf8.0、1/10秒、ISO 1250、露出補正-2.00。

★「02てっぱく」
ED40形アプト式電気機関車。本文中のED42はその後継車。横川ー軽井沢間でのみ使用された。国鉄が初めて導入した国産電気機関車で、1919-23年に製造。
絞りf6.3、1/15秒、ISO 2500、露出補正-1.00。

(文:亀山 哲郎)

2022/12/23(金)
第624回:晴れて鉄道博物館(14)
 前回、題名に著しく背いて、「鉄道博物館」や「鉄道」の「て」の字にも触れることなくやり過ごしてしまった。原稿を書きながらも、そうと知りつつ、自我の発露が強すぎ、ぼくはそれに負けてしまったのである。ぼくのお目付役である若い3人の担当諸氏の表情や反応を脳裏に描きながら、ここだけの話、「お小言をいただいてもやむなし」と少しばかり怯えていた。元編集者のぼくは、実のところ毎号怯えている。

 前号を振り返り、「我ながら何たることか」と思いながらも、「我ながら」なんて心にもないことをいって体裁を繕おうとしている。「いつものことじゃないか」と、反省の気配さえない。弁解めいたことならいくつも書けるのだが、「それをいっちゃお終いよ」と、自らを戒めつつ、今度は開き直りの算段をしなければならない。これでも、ぼくはけっこう大変なのだ。

 写真を撮っても、文章を書いても、どの道怯えることに変わりはない。怯えることを生業としてしまったのだから、自業自得であり、身から出た錆びともいえるのだが、もしかしたら、ぼくはこういう生き方が好きなのかも知れない。既定路線を歩むのでなく、一歩踏み違えれば谷底へ、というスリルを好んで味わう変わり種なのだろう。友人や家族からすれば、あまり趣味の良くない人間ともいえよう。「スリル」とは、さし迫る危機のなかに感じる楽しさ、との意味合いも含まれるので、「君子危うきに近寄らず」との格言は、どうやらぼくには当てはまりそうもない。
 何かの本に、「瞬時に勝敗を決する写真を仕事にするひとは、一般的にマゾ的な傾向があり、それを好む者さえいる」と書かれてあったと記憶する。なるほど、我が身を振り返れば、それは反論しがたいものだ。

 文章は、本業ではないのでともかくも、写真は職業故、どれだけ多くの場数を踏もうが、同じ条件下での撮影はふたつとなく、したがって、慣れるということに縁がない。そして、慣れは作品から緊張感を奪い取るので、大敵でもある。心すべしと、ぼくは自分に言い聞かせている。
 加え、写真を自己表現の媒体として制作しようとする時(誰もが一様にきれいと感じる絵葉書写真の類ではなく)、目の肥えたひとには誤魔化しが効かず、自分の姿が露見してしまうとの残酷性をあまねく持ち合わせているので、怯えながら撮るのが本来のあり方だと思っている。
 ましてや、趣味を糊口の資としてしまおうなどという不料簡な魂胆なのだから、怯えは当然の成り行きだと思う。写真を愉しむどころではないのが、本当のところである。それを天罰というのかどうか分からないが、ぼくにとって分不相応なことをしていると正直に告白しなければならない。
 
 鉄道は子供の時から大好きなのだが、いわゆる「鉄道マニア」の知識にはほど遠く、彼らの足元にも及ばない。この題目を思い合わせれば身の置き所がなく、ましてや文中のどこかに写真話を絡めなければと思うと、どうしても横道に逸れたくなる。「読者を置き去りにし、道草を食うのもたまには良し」などと、嘯(うそぶ)くのだから、あまり質が良くない。「たまに」じゃないだろうに!

 ついでながら申し延べておくと、拙稿の、ぼくの紹介文冒頭に、「カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!」と、ビックリマーク(感嘆符)付きで記されている!
 これをお書きになったのは、現在の担当諸氏の上司にあたる方で、ぼくはこの一節に12年間矢面に立たされ、そして従おうと努めてきたのだが、「ワンポイントアドバイス」ほど難しいものはなく、ぼくの力量では到底手に余る。軽い気持でお引き受けしたのの、もう624回も回を重ねるという暴挙となってしまった。

 「てっぱく」に行って以来、ぼくは勉強のために、蒸気機関車の動画を頻繁に見るようになった。ぼくにとって、やはり蒸気機関車は懐かしさと憧れと力の象徴であり、そして美しい造化でもある。  
 動画を見ていると、擬人化するのに最も相応しい乗り物は、あらゆるもののなかで、蒸気機関車が随一だ。特有の汽笛を鳴らしながら、もくもくと煙を立ち上げ、息継ぎのように真っ白な蒸気を吐きながら疾駆する、あの力感溢れる美しい姿はたまらない。まさに、あの童謡唱歌『汽車ポッポ』の如くであり、登り勾配を息急き切らせ、時に動輪を空転させながら走るその姿を見ると、思わず「がんばれ!」と叫びたくなる。これほど感情移入のできる乗り物は、蒸気機関車を措いて他にない。

 無声動画でも、あの素晴らしさは伝わるが、やはり、重厚でリズミックな「あの音」あっての蒸気機関車だ。映像か、音声か、を問われれば、蒸気機関車の動画の魅力は、迷うことなく音声にあると感じている。時に目をつむり、「あの音」に酔う。
 しかし、動画と異なり静止画から音は出ない。「写真は所詮、ひとつのことしか表現できない」を持論とするぼくは、あの魅力的な物体の、どの部分を抽出し、車体の部分的・全体的な空気感と質感を如何に描くかを、眉間に皺を寄せつつ凝視し、神経を尖らせる。

 「てっぱく」で、転車台に乗せられたC57形蒸気機関車が、1周しながら3度本物の(録音ではない)、豪壮で、哀愁漂う汽笛を館内に響かせてくれた。ぼくは、噎せ返るような思いに囚われた。ぼくの完全白化した頭髪は心地良い汽笛に共振し、遠い少年時代を思い起こさせた。

https://www.amatias.com/bbs/30/624.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF16mm F2.8 STM。RF24-105 F4L IS USM。 
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
1290形1292号蒸気機関車「善光号」。1881年英国製。埼玉県川口市の善光寺裏の荒川河川敷に陸揚げされたことに因んで付けられた愛称。上野ー熊谷間の建設工事に使用された。職業柄、ライティングをして撮ってみたいと思ったが、もちろんこれは自然光。柵から思いっ切り手を伸ばし、ライブビューで撮る。
絞りf8.0、1/15秒、ISO 4000、露出補正-1.33。

★「02てっぱく」
1号機関車の動輪。ぼくの好きなスポーク型動輪。下からライトアップされ、そのライトボックスのため、これ以上のローアングルは取れず。
絞りf8.0、1/30秒、ISO 640、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2022/12/16(金)
第623回:晴れて鉄道博物館(13)
 水際立ったことではなく、すでに分かりきったことなのだが、写真に限らずどの様な分野でも、“先ず基本ありき”から始まる。基本をないがしろにすれば、“労多くして功少なし”ということになる。基本を疎かにしたり、顧みることをしなければ、進歩はおろか、その人は堂々巡りに陥り、病膏肓(やまいこうこう)に入る。
 そしてやがて、病魔に冒され倒れる。倒れたことに気のつかぬ人も時折見かける。しかし、この厄介な病の初期症状に気のつかない人は、自己流による自己満足・独善という底なし沼にはまり込む。これが、通り相場というもの。
 結果、作品は品位を失い、普遍的な美に無頓着・無理解となり、そこには、遊泳術に長けたあざとさだけが残る。凡庸なほうが、まだ質が良く、救いがあり、好感さえ持てる。だが、他人と異なることを個性と勘違いした独善的な作品から脱出するためは相当な労力を要し、なかなか容易なことではない。
 これは、プロアマに限らず、物づくりをめざし、憧れる者の宿痾(しゅくあ)というべきものかも知れない。そして、厄介なことに、自分の体臭は、自分では気づかぬものだから、なおさらである。

 このような作品を写真展などで目にすると、ぼくは他人事(ひとごと)ながら、いたたまれぬ気持に襲われるが、もうこれ以上嫌われたくないので、「大きなお世話だよね」を自らに強く言い聞かせ、悶々としながらも、じっと口をつぐむことにしている。
 そのような人に限って、問題指摘をすると「表現の自由」めいたものを振りかざし、それを拠り所として憚らないからかなわない。物づくりは試行錯誤の繰り返しだが、試行錯誤が試行錯誤に終わり、そこに沈殿していることに気づいていない。これが前述した堂々巡りというもの。そして、「表現の自由」の論点が、まったくずれていることにも気づいてくれない。なので、ぼくは賢明にも、幼少時のだんまり(前号にて記述)を決め込み、そこに立ち返ることにしている。敢えて「弱り目に祟り目」に遭おうなんて思うほど勇敢でもないし、そのような粋は持ち合わせていないもんね。

 と、もっともらしいことを述べているが、これは自省と自戒の念を込めてのことであり、“先ず基本ありき”は、大仰にいえば、ぼくの座右の銘といってもいい。これなくしては、前に進めないと思っている。そして、迷った時には、長い間風雪に打たれ、耐え抜いてきた古典作品を“先ず顧みる”ことを是としている。「古典に帰る」を心に刻み、自己の様子を窺う。
 「古典に帰る」とは、古いものを何の批判もなく受け入れるのではなく、そこにある普遍的な美しさの発見に努め、自身の体質に合ったものを虚心坦懐に学ぶ、という意味なので、誤解なきよう。そして一方で、「作品は、常に時代とともにある」というのもぼくの持論である。
 このことは、何度いってもいい過ぎということはなく、他人事で済ませることでもない。何故かといえば、症状の悪化に見舞われた人、そうありつつある不幸な人たちをぼくは数多く見ているからだ。したがって、「人の振り見て我が振り直せ」という、少し冷ややかで厳しい格言は、誰にとっても良薬であり、ぼくの目には生きたものに映る。

 物づくりを試みる人は、自分なりの新しい秩序を求めて、試行錯誤を繰り返すのだが、それがある程度のものに確立するその過程には、様々な葛藤や混乱が生じる。「葛藤」とは、広辞苑によると「心の中に、それぞれ違った方向あるいは相反する方向の欲求や考えがあって、その選択に迷う状態」とある。
 そんな時、ぼくは同じことの(基本の)飽くことなき繰り返しが(退屈極まりないが)、やがて結論を導き、自分特有のトーンを生み出し、実を結ぶものだと信じている。ぼくのような凡庸な人間にはそれしか頼るところがないことを直視すれば、たとえ作品が未熟であっても、ある程度の納得がいく。

 個性というものを変哲と勘違いしている人の多くは、自身のアンニュイ(退屈、気怠いさま、憂鬱なさま)や一本調子を感知していないので、見せられるほうは、少しも腹の足しにならず、やはり評価に値しないと断を下してしまう。写真展などで、こんなぼくにでさえ作品評をしろと迫られると、ぼくは本当に弱ってしまう。

 「写真をしっかり撮る」ことの難しさの前振りとしては、あまりにも長く書き過ぎたと反省しきりだが、60数年かかっても思うようにならないので、ぼくは写真を続けているのだとは、あまりに弁解のし過ぎであろうか?メカ的な技術は誰にでも一通り身につくものと思いがちだが(一応他人にはそのように諭す)、それがあに図らんや、なかなか成るものではない。そんな時の、ぼくのうろたえようは、我ながら呆れる。一体お前は何年写真に取り組んできたのかと。だが、他人にそれを悟られまいと振る舞う技術はすでに心得ており、それは十人並(凡人という意)ではなく、立派に一人前なのである。

 よしんば一通りメカ的な技術を修得したとしても写真は成り立つものではなく、センスとのバランスを欠いては絵にならない。「技術に負けている」との評に甘んじざるを得ず、これはややもすると、前述したあざとさに抵触しかねない。
 昔、拙文で「技術とセンスのバランス」について述べた記憶があるが、センスの修得となると、こちらは途方もないもので、他人に伝えることは、ぼくはほぼ不可能だと思っている。自ら学ぶとしかいいようがないのだが、方法はいくつかあるように思う。それらを少しまとめて発表できればいいのだが。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105 F4L IS USM。RF16mm F2.8 STM。 
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
前にも紹介した1号機関車(1871年英国製。国鉄150形蒸気機関車)。1905年に英国より輸入され、新橋工場内に於ける入れ換え専用として働いた。質感を重視し、しっとり落ち着いた雰囲気をイメージ。
絞りf13、1/15秒、ISO 3200、露出補正-1.33。

★「02てっぱく」
C57の前面を超広角レンズで、思いっきりパースをつける。ハイライトの加減に留意し、露出補正を決める。
絞りf6.3、1/15秒、ISO 3200、露出補正-1.67。

(文:亀山 哲郎)

2022/12/09(金)
第622回:晴れて鉄道博物館(12)
 先週、何年ぶりかで神田神保町に出向いた。友人2人に会うためだったが、皆の住んでいる中間点が便利であろうと、そこにある喫茶室で落ち合うこととなった。
 その喫茶室は、社会人になってから何度か通ったミニシアターの草分け的な存在である岩波ホール(今年7月に閉館)に隣接し、都営新宿線神保町駅から地上に這い出るまで、ぼくは何故か運悪くエスカレーターに見放され、何百段の階段を登らざるを得ず、年老いたジジィはもう息も絶え絶え。まさに、這々の体であった。あれこれ嘯(うそぶ)いていた普段のウォーキング、あれは一体何だったのだ? どこへ行ってしまったのか? 小さなバッグに入れたカメラが、ことさらに重く感じられた。

 この界隈は、中学時代から非常に馴染みのあるところだ。今のように地下鉄が蜘蛛の巣のように張り巡らされていなかった頃、ぼくは国鉄(現JR)御茶ノ水駅で下車し、明大通りを下り小川町に出、そこに居並ぶ古書店を練り歩き(主に写真関係の雑誌や書籍を物色)、駿河台にあった管楽器専門店(ぼくは中・高と吹奏楽部に所属し、大学では管弦楽部だった)に通うことを常としていた。時には父の命(めい)を受け、明治大学の図書館に本を借りに行ったりもしていた。
 そして、一通りの用を済ますと、気の向いた時には、というよりかなり意欲的に神田須田町にあった交通博物館(1936〜2006年。昭和11〜平成18年)に立ち寄ったものだ。ぼくにしては、毎度かなり規則正しい手順を踏んでいた。

 この頃のぼくはまだ若く(当たり前)、休日でも午前中に床を蹴り、上記の目的をしっかりこなしつつ、息切れもせずに、首からカメラをぶら下げて闊歩していたのだから、熱意と向学心に満ちあふれた正しい青春時代だった。
 お茶の水詣での一方、カメラ関係はもっぱら銀座通い(後に新宿と地元の量販店となったが)が常で、ぼくはあっちこっちに出没しなければならず、これでもけっこう忙しかったのだ。

 写真と音楽にかまけ、当然のことながら、学業はそっちのけの体で、今思うと、教育熱心だった父はぼくの行状に頭を痛めたであろうことは想像に難くないが、それを口にしたり、咎めたりしたことは一度もなかった。手厳しさと寛容(平たくいえば、恐さと優しさ)のバランスが非常に整っていた父だったが、「母・娘」の特別な関係と異なり、「父・息子」の男同士の関係は、最大公約数的見地からして、敵(かたき)同士に似ており、良しにつけ悪しきにつけ、ある種の作法のように、不要な遠慮をするものなのかも知れない。いや、きっとそうなのだろう。それは、「親しき仲にも礼儀あり」の変形版といったようなものかも知れない。親子に限らず、男同士というものは、顔を合わせるとどこかに照れが存在しているものだとぼくは感じている。

 今となって、ぼくの、道楽への暴走をどうして押し止めてくれなかったのかと、父に逆恨みめいた感情を抱いてもいる。ぼくが、まともな社会通念を持ち得なかったのは、父のせいだと責任転嫁の権化となっている。けれど、もし社会通念に囚われていたら、ぼくの人生は堅実を以て、情趣に乏しく退屈至極、つれづれを慰めることは間違いのないことというのは言い過ぎだろうか。
 それを思うと、「お互いに上手くやったな」と、75歳を来月に控え、亡父との和解が少しは進んだような気がしている。

 その父が、どのような手を使ったかは未だに不明だが、交通博物館に置かれてあったC12形蒸気機関車の精巧な模型(Oゲージ。縮尺1/45)を、ぼくのクリスマスプレゼントのために、せしめてきた。
 いつの頃だったかはっきりした記憶はないのだが(おそらく小学校2年の頃)、当時の値打ちにしたらかなりのものだったろう。第一、博物館に陳列してあるものを幾ばくかで譲ってくれるものなのだろうかとの素朴な疑問が残るのだが、あの父だったらやりかねない。生き方や交渉事は非常に不器用であったが、日本語の使い方には恐ろしく長けていたので、相手をやんわりと懐柔したか、あるいは根気強く拝み倒したのかは定かでないが、重量感溢れるC12の模型をぼくの枕元に置くことに成功したのだった。彼は、まんまと「やってこました」(どこの方言?)のである。

 京都から埼玉に越して以来小学校3年生まで、ぼくは限られた人間にしか物言わぬおかしな子供になっていた。主な理由は、住む地の変わったことによる環境の激変で、いわゆるカルチャーショックだったのだが、そんなぼくに対して、父はよほど心を痛めていたのだろう。ぼくは、何人かの精神科医の診察を受けたりしていたのだが、一向に効果が見られなかった。ぼくは依然黙りこくったままだった。
 考えあぐねた父は博物館で、もしかしたら、息子のために、藁にもすがるような気持で、一世一代の、伸るか反るかの大博打を打ち、結果「やってこました」のだった。彼は、ぼくをも蒸気機関車で懐柔を目論んだのだが、その試みは1/4ほど功を奏したように思われる。ぼくはそれでは飽き足らず !? 小学校4年になってすぐに、カメラと野球のグローブをそれとなく要求し始めた。今度はぼくが父を懐柔する番だった。

 無事、念願のカメラとグローブを手に入れ、そして担任の先生も物言わぬ子供への理解を示してくれたこともあり、それを機に、ぼくはだんまり症を完全に克服し、今までの分を取り戻すべく、活発な少年へと変身を遂げた。写真という特効薬は、一種の精神安定剤と活性剤の両面を果たしてくれたのだった。ぼくの駄文が、冗舌でコテコテなのは、きっとその時の後遺症なのであろう。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。 
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
40系電車。1932〜1942年(昭和7〜17年)にかけて製造。父は「省線電車」と称していた。
この電車に初めて乗ったのは京浜東北線だった。モーター音は未だに、明確に耳に残っている。
当時の車内のイメージを模して補整。
絞り5.6、1/8秒、ISO 2000、露出補正-0.33。

★「02てっぱく」
C57の動輪。被写界深度を浅く、柔らかく表現。刻印部分にピントを合わせる。
絞りf3.5、1/15秒、ISO 3200、露出補正-0.33。
 
(文:亀山 哲郎)

2022/12/02(金)
第621回:晴れて鉄道博物館(11)
 人は何歳まで記憶を辿れるものなのだろうか? 個人差もあるだろうが、おおよそのところ3歳前後ではないかと思われる。ぼくの、この定義はもちろん学術的なものではなく、また人間科学的なものでもない。ただ自己の経験による推測である。
 何故、このようなことを言い始めたのかというと、初めての鉄道乗車(京都市内の路面電車を除く)の記憶があまりにも鮮烈に脳裏に焼き付いているからだ。
 その時、車窓から眺めた風景は、まさに童謡唱歌にある『汽車ぽっぽ』であり、その一節、♪スピード スピード 窓の外 畑も とぶ とぶ 家も とぶ♪ のように、網膜に映し出されたあらゆるものが、あたかも激しい目眩に襲われたかのように焦点の定まる暇もなく、次から次へと目まぐるしく宙を飛び交い、生涯経験したことのないような速度で瞬間移動をしていたのだから、それは驚愕以外の何ものでもなかった。ぼくは窓にへばり付き、景色を追うこともできず、唖然としていたのだろう。それが、ぼくの、人生初の、視覚がこびりついた記憶である。

 その乗車体験は、2~3歳時に、父に連れられ奈良に住まう友人宅(以下I氏)を訪ねた際に起きたことだった。時は1950〜51年頃(昭和25〜26年頃)で、そこで乗った近鉄京都線奈良行き(関西は国鉄より私鉄のほうが発展している)の恐るべき速さに、上述の如く、子供心ながらに仰天し、異次元の世界に引き込まれた。
 おそらく、ぼくの生涯にとって、忘我の境に入った最初の体験であり、息を呑むような思いでもあった。

 その超絶的な快感を得たいがために、ぼくは父に奈良行きを強くねだるようになった。I氏もぼくを殊のほか可愛がってくれ、いつも肩車をして東大寺や若草山に連れていってくれたものだ。I氏宅の生け垣には小さな穴がぽっかり開いており、ぼくはそこから入り込むのが好きだった。
 若草山のびっくり体験(編み上げの革靴では、若草山のつるつるした芝の上は歩きにくく、ぼくは何度も転がった。後に知恵がつき、裸足で登るようになった)も忘れがたい思い出だが、それを書き出すと話がとんでもない方向へ行ってしまうので、ここは隠忍自重。
 十銭紙幣(A号券と呼ばれるもので、1947年に発行され、1953年に無効)に描かれた鳩の絵が、気持ち悪いと泣き叫ぶぼくを、I氏は「鉄道を見に行こう」、「大仏様を見に行こう」と懸命になだめてくれたことも記憶に残っている。
 なかなか「写真」の二文字が出て来ない。「隠忍自重」などといっておきながら、何という体たらくだ。
 ぼくの頭は至って安普請だが、記憶力は40歳くらいまで尋常の出来ではなかったと自負している。今、その並外れた記憶力は、♪記憶も とぶ とぶ 念も とぶ♪ であり、嗚呼、まったく洒落にならない。

 上記したぼくの目眩は、そのような速い乗り物を体験したことがなかったからこそのものだが、これはぼくに限らず、また時代に関わらず、多くの人が子供の時の乗車初体験で味わうものではないかと思う。もし、そうでなかったら、よほど可愛げのない子供だと決めつけていいだろう。
 そして、返す返すも、『汽車ぽっぽ』は麻薬的な響きを伴い、リアリティに溢れた童謡唱歌であることを実感する。この感覚は衰えを知らず、ぼくは、新幹線に乗る度に、胸をワクワクさせながら堪能している。

 東京駅を発ち、新横浜を過ぎた辺りから、徐々にアクセルを踏み込みスピードをアップしていくあの感覚はたまらない。尻の辺りがモゾモゾする。なるべく早いうちに、とにもかくにも、ぼくは320km/hの東北新幹線に乗りたくてたまらないのだ。もちろん、好きな東北地方への撮影行である。おっ、やっと写真らしき話に入れるか。
 ただぼくは、目下撮り鉄ではないので、野外で走り来る鉄道を撮る気持はない。自分独自の表現をする自信もないし、また如何に上手に、恰好良く、しかも勇壮に撮っても、ポスターや宣伝写真の域を出られないような気がしている。それはぼくにとって意味のないことだ。ただそれだけの写真なら、ぼくが撮る必然性のようなものを感じないし、興味も湧いてこない。したがって、今撮り鉄にはなり切れないのだ。

 そしてまた、ひねくれ者の、古参の写真屋からすれば、痒いところに難なく手が届くような昨今のカメラは、なんだか “痛し痒し” の面が多いのだが、少なくとも技術的には「腕の見せどころ」が極めて限定されるので、どうにもやりきれないでいる。
 長年培ってきた技量が、いとも簡単に自動でできてしまうことを嘆いているのではない。それどころか、楽で確かなものは大いに利用すればいいとさえ思っている。だが、撮影に際しての、一種のレジスタンス(抵抗や困難さ)のようなものが、どうしても必要な場合があるとぼくは考えているので、その “痛し痒し” をどうにか解決しておかなければならない。
 文明の利器を上手に使いこなすのは、現代人の宿命ともいえるが、それ以上に重んじたいことは、自分の生き様に向き合い、それをどのように表現するかにあるのだと思う。

 暗い「てっぱく」で、車輌を凝視しながら鉄道の歴史を知り、それに携わってきた鉄道人に思いを馳せる時、とても感慨深いものがある。歴史や人物を身近に感じられるうちは、歓びを持って『汽車ぽっぽ』を口ずさみ、シャッターを切ることができそうだ。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
9850形蒸気機関車の機関室。現像補整で、意図的に簡素化し、象徴的な部分のみ敢えて白飛びさせている。
絞りf6.3、1/10秒、ISO 5000、露出補正-1.00。
★「02てっぱく」
ぼくの好きなC51(1919年、大正8年製)の機関室。塗装はして欲しくないなぁとつぶやきながら。
絞りf7.1、1/20秒、ISO 8000、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2022/11/25(金)
第620回:晴れて鉄道博物館(10)
 「てっぱく」シリーズも、止(や)ん事ない理由で、とうとう10回になんなんとしている。だがおあいにく様、「好きこそものの上手なれ」とはなかなかいかない。写真も鉄道も好きなのだが、そうは問屋が卸してくれない。世の中、それほど甘くはないようだ。それをいやしくもぼくはここで実証し、みなさんに晒していることも承知している。それは、自虐でも謙遜でもない。ぼくの正直な直感がそういわせている。
 被写体に対する理解は、撮影を手助けし、良い写真を撮ることの一条件であることは重々認めるが、好きであることと理解することはまったくの別物であるということを、今回改めて露呈してしまった。写真も鉄道も好きなのに、ぼくは逃げ場を失った。10回も続けてきて、ぼくは今、慚愧に堪えない。

 ともあれ、ぼくはおどおどしながらも心を躍らせ、初めての「てっぱく」に突入した。館内をざっと見渡し、並み居る強者ども(展示物)を丹念に検分してまわり、ふたつの予期せぬことに戸惑いを覚えた。
 そのひとつは、復元された年代物の客車内があまりにも綺麗すぎることだ。博物館の展示物が、いわゆる年代物である時、本来は、古び、色褪せ、汚れ、傷つき、そのためにそれが辿ってきた歴史を、来場者は五感を働かせ、想像したり、ロマンを感じたりするものだ。少なくともぼくはそうだ。

 博物館や美術館の展示物に、修復や復元はつきものであることは、ぼくとてよく理解しているつもりだが、ぼくの尺度からすれば、鉄道車両は自然のなかで厳しい風雪に打たれながら活動してきたが故に、なおさら「新品同様」の装いはどこか違和感を覚えずにはいられない。
 遠慮がちにいえば、「少しやり過ぎではないか」との思いを隠しきれない。博物館に「苦言を呈す」とまではいかないが、ロマンとリアリティの匙加減が、どこかちぐはぐしていると感じるのは、ぼくの思いが強すぎるからなのだろうか。

 そしてもうひとつぼくが首を傾げてしまうのは、蒸気機関車の見せ場である動輪、主連棒、連結棒など、本来はむき出しであった素材に塗装が施されているものがあることだ。元は塗装などされていなかったと思うのだが、どうなのだろう? たとえ「保護」の目的があったにしろ、塗装のために金属特有の質感が失われてしまうのは、一写真屋の嗜好からして、考えものだと感じる。

 すべての蒸気機関車ではないが、創生期のもの(1号機関車や弁慶号)のそれには塗装がされているので、塗料が “生きていた頃” の面影や生傷を覆い隠し、そのためにリアリティや躍動感を失い、どこか玩具化されてしまっているように思えてならない。
 あの無慈悲なる塗装は、年増女の厚化粧を思わせ、非常に好ましくない。それがために、主連棒や連結棒に打たれた刻印(創生期のものにも打たれているとすればだが)を塗りつぶしてしまうという大罪を犯している。もしかしたら、塗装は錆止めのために塗られていたのかも知れないが、であれば、ここは剥げたままでいいので、塗り直さずに、油で磨いて欲しいものだ。
 展示物は、可能な限りオリジナルな姿を保ち、保護していこうとの姿勢はもちろんあるのだろうが、いくら美形であっても、厚化粧の女性を撮ろうとの意欲を殺がれてしまう。
 模型ならいざ知らず、本物の機関車として撮影するのは気が引けてしまったのである。撮るには撮ったが、現像する気にすらならないでいる。失意とはこのような状態を指すのだろう。

 ぼくは今回を機に、「刻印マニア」という風変わりな性癖を持つ人々の存在を知り、彼らの気持ちや期待を察するに、塗装を呪う気持がよく理解できるようになった。鉄道ファンとは、やはり一方ならぬ多趣向人間の集団であるとぼくは改めて感じている。時刻表を諳んじることができる人もいると、巷でいわれるくらいだから。
 そしてまたぼくも、主連棒や連結棒、クロスヘッド(シリンダー内のピストンの動きを、主連棒に伝える部品)などに打たれた不揃いの刻印文字を見ながら、さまざまな想いにふけることができることを再確認したが故に、「刻印マニア」の気持が痛いほど理解できる。「刻印友の会」でも、立ち上げるか! 
 我が倶楽部の、ぼくに無断で京都の梅小路に抜け駆けをした薄化粧のM女史も「刻印マニア」の一員で、「東京駅の『動輪の広場』に置かれているC62の動輪廻りにもちゃんと刻印があった」と、ぼくを出し抜いた罪悪感からか、鼻を膨らませながら、贖罪気取りでそう伝えてくれた。

 中学時代に大宮の機関区に立ち入り(60年前は斯様におおらかだった)、機関士さんに刻印について訊ねたことがある。濃紺の作業衣を纏った彼は、笑みを浮かべながら、「まぁこれはね、悪戯書きのようなものなのだけれど、落書きではない。部品間違えをしないための大事な名札のようなものでもあるんだよ。君に名前があるのと同じようなものさ」と教えてくれた。油で磨かれた金属のあの美しい光沢感は、今も脳裏にしっかりと刻印されている。
 塗装で覆われたものを、「想像力で補え」といわれれば、返す言葉はないが、写真は正直者故、いくらAI化が進んでも、厚化粧を剥いで、素顔を写すほどの器量は持ち合わせていない。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
ナデ6141。大正3年(1914年)製の電車内部。通勤電車の元祖で、2017年に重要文化財に指定された。カラー原画はとても美しいのだが、外観とのバランスがチグハグで、敢えてセピア調のモノクロに仕上げた。
絞りf5.6、1/15秒、ISO 8000、露出補正-0.67。

★「02てっぱく」
マイテ39。昭和5年(1930年)製。戦前は東京〜下関間の特急「富士」の一等展望車として使用され、戦後は特急「つばめ」「へいわ」に使用。外気に開放された展望デッキを持ち、京都に帰京の際に、東京駅でその後ろ姿を見るのが楽しみだった。
絞りf8.0、1/8秒、ISO 4000、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2022/11/18(金)
第619回:晴れて鉄道博物館(9)
 「写真のことなど、何も触れずに、ただひたすら我が道を行く。嬉々として蒸気機関車のことばかり書いている! 君はホントにいい性格してるよなぁ」と前号について、ぼくの周囲の、粗探しの好きな、どちらかというとあまり性格の好ましくない取り巻き連中にそう茶化された。
 ぼくも、原稿を書きながら、自分の勝手放題に感心していたくらいなので、まったくの同感。感心などしている場合じゃないのだが、しかし、もうとっくに自覚しているので、敢えて指摘されても、馬耳東風で済ますことができる。ぼくには、「だから何なの?」と開き直る余裕さえあった。

 「写真を律儀に掲載しているのだから、それでいいじゃないか」と、襟を正しながら!? 喉元まで出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。そこには得体の知れない余裕のようなものが生じていた。呑み込んだ理由として、「律儀な掲載」といいつつも、それはぼくの勝手な仕業で、体の良い逃げ口上として、あるいは写真屋としての男振りをどこかでしっかりと上げておこうとの魂胆だったのかも知れない(もしかしたら、1週毎に2枚の写真掲載は、ぼくにとって荷の勝ちすぎたことで、それ故大事な男振りを “下げて” いるのかも知れないが)。「墓穴を掘る」って、こ〜ゆ〜ことなのだろうか?
 だがしかし、思ったことや感じたことを咄嗟に口にせず、一呼吸置いてのんびり対応するとの、至難の業を会得するには、ぼくはまだまだ発展途上にあるのだが、 “時と場合により” その真似ごとくらいはできていると思いたい。この連載のお陰で、年相応の成長を遂げつつあるぼく。「我田引水」って、こ〜ゆ〜ことなのだろうか?

 「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」と、どこか性格の陳(ひ)ねた、というよりひん曲がった、ある種、屁理屈だけが頼りの人々から自己を守ろうとするのは苦痛であり、時にひどく疎ましくもあるのだが、邪険にするのもどこか心が痛む。彼らだって、多少の可愛げがあるし、人間の本性は善であり、悪の行為や考えは、環境による意志の弱さによるものだそうだから、すぐにかばい立てをしたくなるぼくは、寛容といえるが、とても損な性分ともいえる。寛大というのも、時と場合によっては考えものだと感じている。

 性善説はさておき、今年9月9日にふらっと「てっぱく」に出向いたのだが、“こんなこと”になるとは当初予想もしていなかった。「3回くらいの連載で」と軽く考えていたのだが、その3倍も書き連ねており、これを称して、「焼けぼっくいに火が付く」と世間ではいうらしい。
 火を付けた罪深き者は、我が倶楽部の面々であり、彼らはぼくの知らぬ間に「てっぱく」やら、ぼくの故郷である京都は小雨の梅小路(ここに「京都鉄道博物館」がある。蒸気機関車の宝庫であるにも関わらず、ぼくがそこに行かなかったのは、それほど鉄道に疎遠となっていたからだった)にまで、こっそり足を伸ばしている。そして、「夜の先斗町で、ほれっ、ついでにこんなスナップも撮った。どうよ!」と、何食わぬ顔で、そのプリントをぼくの目の前に晒すのだ。京都弁も喋れないくせに。

 ぼくが無用の用に刺激され、それに倣い、「若かりし頃、今はなき『交通博物館』(東京都千代田区神田須田町にあり、2006年まで営業。翌年よりさいたま市の「てっぱく」に引き継がれた)に何十回も通ったのだから、地元にできた『てっぱく』に行ってみるか」と意を決した。そこで、極めて暗い(との噂)ながらもしっかり写真を撮って、取り敢えず指導者もどきとしての沽券をしっかり示し、若さを取り戻そうとの気概があった。
 
 武漢から漏れ出た長引く疫病のため、自由に出かけることがままならず、近くにある花ばかりを撮っていたここ2年余り。花の撮影は、奥深いものがあり、興味もあるのだが、ぼくには、どちらかというと元々縁遠い被写体であったため、不遜ながらもいささか食傷気味となっていたことは否めない。なんとか浮気の正当な理由を欲していた。
 そんな時の「焼けぼっくい」は、無意識のなかで、根が好きなだけにやはりくすぶり続けていたに違いない。見て見ぬ振りをしていた無理が祟り、ぼくの「鉄道大好き」は一気に噴出したようだ。特に、「陸蒸気」(おかじょうき。明治時代に呼ばれた「蒸気機関車」の俗称)には、首っ丈(くびったけ。すっかり惚れ込んで、夢中になること。今、こんな言い方するのかなぁ?)である。

 平日だったためか、「てっぱく」の駐車場は思いのほか空いており、館内の混雑を窺わせぬその雰囲気にぼくは胸を撫で下ろした。年老いて心の琴線が弛みかけ、百戦錬磨だけが取り柄のジジィが、胸の高鳴りを抑えきれずにいたくらいだから、その心情を察していただきたい。
 バッグからカメラを取りだし、レンズを装着し、鉄道の「指差し呼称」さながらに、カメラの設定をし(ボタンやダイアルが多すぎるんだってば!)、息を整えぼくは戦場に赴いた。

 撮影モードは、EOS-Rシリーズから装着された便利で有用この上ないFv(フレキシブル・バリュー。マニュアルとオートのいいとこ取りをしたハイブリッドな使い方のできる機能)AEモード。ぼくの使い方は、任意のf値、任意のシャッタースピード、任意の露出補正をあらかじめ設定し、ISO 感度だけをカメラ任せにし、適正露出を得るという方法。使用カメラの優れたISO高感度特性により、暗所の「てっぱく」で安心して使える。この点に関しては、ひと時代以前のものとは、隔世の感ありといったところだ。
 ボタンやダイアルをカスタマイズしておけば、サクサク使える。ただし、何をどうカスタマイズしたかを忘れなければの話だが。
 昨今のカメラは、使いこなすほどに、なるほど便利この上なく、痒いところに手が届くような仕掛けがなされており、加え高齢者のためのボケ防止機能までメーカーは用意してくれていることを知り、すべて手動で育ったぼくなど感慨無量である。「命長ければ蓬莱に会う」(ほうらい。不老不死の地)と思いきや、「命長ければ恥多し」ともいう。たかがカメラではないか、難しいことは言いっこなしだ。

https://www.amatias.com/bbs/30/619.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
第613回でも登場したストーブ列車。今回はローアングルで。20年以上も前のイメージは、頭のなかですっかり古び、渋くなっている。
絞りf10.0、1/4秒、ISO 8000、露出補正-0.67。

★「02てっぱく」
やっぱり美しい陸蒸気。この動輪が急勾配で空転し、息も絶え絶えに客車を引いていた。
絞りf5.6、1/10秒、ISO 1250、露出補正-2.00。

(文:亀山 哲郎)

2022/11/11(金)
第618回:晴れて鉄道博物館(8)
 蒸気機関車のプロポーションを成す印象的なパーツは、何といってもあの大きな動輪や主連棒・連結棒(シリンダーの動力を、往復運動から回転運動に変えるためのロッド)にある。電気機関車や電車、そして新幹線などのそれとはそもそも動力伝達方式や形状が大きく異なり、あの大きく格好の良い動輪は見る者に対して特有な感情を呼び起こす。鉄道ファンでなくとも、蒸気機関車の動輪や主連棒・連結棒に魅せられる人はきっと多いのではなかろうかと思う。

 そして、幼児言葉でいうところの「汽車ぽっぽ」や「シュシュポッポ」は、煙突から煙をもくもくと立ち上げ、シリンダーから蒸気を噴射し、象が腰を上げるような重々しいリズムで走り出す。「さぁ、行きまっせ〜!」(ここは関西言葉が最適)との、こんな堂々たる気概を直に示してくれるものは、蒸気機関車をおいて他に見当たらない。「汽車ぽっぽ」という言葉は、小柄の蒸気機関車か、原初の頃の、例えば前回の「弁慶号」などのまだ可愛さの残ったそれを想起させる。
 大人の!?蒸気機関車は、この世で最も大きな音とも思える汽笛、というより勇壮な雄叫びを上げ、沿線の住民に如何なる遠慮会釈もなく、「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」とばかり、地響きを立て、煤をまき散らしながらの、堂々のお通りである。
 あの姿を見ていると、「あんな生き方をしてみたいものだ」とか、それほど大胆でなくとも、小心者のぼくなどもう少し控え目に、「一度くらいはあのように振る舞ってみたいものだ。一度でいいからさぁ」との気にさせられる。

 そしてまた、山々にこだまするあの汽笛は、まるで名手の吹き鳴らす管楽器のように美しく響き渡る。全身全霊、あらん限りの力を振り絞りながら驀進するあの様は、まさに感動的ですらある。鉄道ファンが、あの雄姿に群がるのは、然もありなんというところだ。
 現代にあって、汽車の実際の活動は限定的だが、美しくも勇猛で、人間臭紛々としたあの佇まいを、いつまでも後世に残して欲しいと切に願うばかり。

 我が倶楽部にも動輪中毒のご婦人(ぼくは彼女を「ドーリンM子」と命名)がおられることはすでに述べたが、ぼくとて、中学時代に与野駅や大宮駅の操車場で、何十輌も連結された貨車や客車が動き出す瞬間に、蒸気機関車の動輪が恐ろしい速さで空転するのを初めて目の当たりにした時の驚きは、今も鮮やかに脳裏にこびり付いている。ぼくが動輪に一方ならぬ想いを抱き、あの時がいわば「ドーリンの哲」になった瞬間でもあった。今から60年も昔のことである。

 一緒にいた鉄道好きの学友とともに空転する動輪を見て、「ウォーッ!」と声を上げ、「今の見たかい! おれたち、すごいもの見ちゃったな!」と、顔を見合わせながらひどく興奮したものだ。予期せぬ御利益に動転した中学生のぼくらは、もちろん写真を撮るどころではなかったのだが、「逃がした魚は大きい」とは思わなかった。それどころではない驚愕だったのだ。
 動輪の空転時間は、おそらく2〜3秒くらいのものではなかったかと思う。人生のなかの、その2,3秒が、ぼくの年輪の成り立ちに何らかの影響を及ぼしているのだと感じる。それは、生涯決して忘れ得ぬ瞬間でもあったのだ。
 いやしくも写真屋となった今、空転する動輪をそれらしく撮ってみろといわれれば、かなりの用意周到さを必要とするだろうが、一度でそれを “らしく” 撮る自信はない。

 ぼくは知らなかったのだが、東京駅の八重洲に「動輪の広場」というものがあって、そこに蒸気機関車として最後に製造されたC62形の動輪(動輪径はC57形と同様175cm)が3つ展示されているそうだ。その写真を、今や「同じ穴の狢(むじな)」である「ドーリンM子」がこれ見よがしに送ってくれた。M子も哲も善人であるので、ここでのこの諺引用は誤用か。
 それはともかくも、C62形にまつわるぼくの思い入れは尽きぬものがあり、書き始めると取り留めのないことになってしまうので、今回は良識を示し、簡略に努めたい。第一、写真もないし。

 最大、最強の蒸気機関車C62形が初めて製造されたのは、昭和23年(1948年)なので、ぼくと同年である。この大型蒸気機関車は世界最速の時速129キロを記録した韋駄天(いだてん。バラモン教の神。転じて、足の速い人)でもあった。
 小学〜大学時代の、季節の休みには、母方の郷里である京都か、父の仕事場でもあった軽井沢のどちらかでぼくは過ごしていた。年に何度かは、C62形(東海道線)やアプト式電気機関車(横川ー軽井沢間の碓氷峠)のED40形のお世話になっていた。
 8時間で、東京駅ー大阪駅間を走った特急「つばめ」と「はと」は、東海道本線全線電化(昭和31年。1956年)まで、C62形が牽引機を務めた。その後を継いだのがEF58形電気機関車だった。

 残念ながら、さいたま市の「てっぱく」にぼくと同い年のC62形は置かれておらず、現存する5両のうち3両が京都鉄道博物館に保存(1両は動態保存)されているのは、何かの因果因縁かとぼくは勘ぐったりしている。京都は梅小路にも行かなくっちゃ。

https://www.amatias.com/bbs/30/618.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
C57形の動輪と主連棒。光沢の部分に色が塗られていない(ありがたい)ので、質感とともに刻印がしっかり見える。
絞りf7.1、1/15秒、ISO 10000、露出補正-1.00。

★「02てっぱく」
C57形。こちらも刻印がたくさん見える。古い汽車は保存のためか、塗装されてしまっているので、リアリティに欠け、写真的にはあまり面白くない。
絞りf7.1、1/13秒、ISO 3200、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)