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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2020/01/17(金)
第479回:筋入りプリント・続報
 第477回にて、プリンターの頑固な目詰まりについて触れた。今回はその続報である。ここで取り上げた我が倶楽部の、刮目に値する筋入りプリントを毎回何食わぬ顔で持参してくる「あからさまな確信犯」だとぼくに名指しされたご婦人のその後について述べてみたい。
 写真には直接関係のない話に思われるかも知れないが、良いものに投資することは上達に於ける通則のようなものだから。

 拙稿を読んで「これはあたしのことだ。やばい! 書かれてしまった。このままだと本名を明かされてしまう。あの人ならやりかねない。ましてや相当なひねくれ者だし、人権というものを頭ごなしに否定する質だから、のっぴきならぬ事態に陥らぬうちに何とかしなくっちゃ。このまま放置しているとデッタイ住所氏名を公表するに違いない。『君子危うきに近寄らず』なんて今はいってられないわ」と、いじらしくも感応した確信犯は相当な危機感を持ったようだった。

 ぼくの指導に、「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」、「暖簾に腕押し」、「糠に釘」といった不埒な輩が大勢を占める我が倶楽部にあって、彼女は入部してまだ半年足らずだが、ぼくの非人道的な性格だけはよく飲み込んでいるようだ。その点に於いて彼女は持ち前の聡明さを発揮しているかのように思える。
 なので、ぼくも「あからさまに」再びこの件について取り上げる気になった。彼女曰く「プリントの目詰まりについて、あ〜たが解決できたと声高に書いたその方法に従って、あたしも試みたのだがまったく解消できなかった。どうしてくれるのよ」と、実に恨めしい口調で、深夜に電話をしてきた。
 かなりプリンターと格闘した様子だったが、にも関わらずまったく埒が明かなかったので、ぼくを婉曲に嘘つき呼ばわりしたくて仕方ないご様子だった。逆恨みも甚だしい。鬼の首を取ったように、口をモグモグさせて(きっと餅を頬張っていたに違いない)攻撃を仕掛けてきた。ぼくにしてみれば、到底間尺に合わない。拙文から再び引用すれば、「まったくもって苦々しい限り」だ。

 そして、「私のプリンターはもう寿命なのよ。私は未練がましいあ〜たと違い、プリンターを新調することに経済的な躊躇などないのだけれど、一応予算を知らせるから、その範囲で最適な機種を選び、明日直ちにお店に連れて行きなさい」とナチスの女看守のような有無をいわせぬ強い命令調でおっしゃった。量販店に連行されそうな雲行き濃厚となったぼくは、御前(ごぜ。婦人に対する尊敬語)にかしこまるしかなかった。

 ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密警察)の女看守は、我が倶楽部の最古参であるM女史について、「明日、彼女も誘いなさい。今彼女は不幸があって落ち込んでいるんだから。あ〜たは “一応” 指導者なのだから、そのくらいの気は遣いなさいよ」と、執拗に追い打ちをかけてくる。「可愛さ余って憎さ百倍」なのかと、ぼくは達観したように応じた。女看守の目にも涙か、ぼくは御前の気配りにちょっと感心した。不可解なことは、何故その優しさをぼくに示せないのだろうか?
 余談だが、御前の顔の形状は、コンパスで同心円を描いたようにまん丸で、笑いのツボにはまると、ところ構わず壮絶ともいえる笑い声を涙と鼻水とともに発し、止まるところを知らず、周囲を圧倒する。正直で、誠実で、裏表のない、根っからの善人であると、ぼくも “一応” 褒めておこう。まん丸でぷよぷよ・ころころしているので、ぼくは彼女の名に引っかけて「ゴムまり」と呼んでいる。

 前日、ぼくはネットで彼女の命令に従い、予算に収まる機種をあれこれ吟味しながら、型番と価格をシワだらけの紙に写し取った。現在は複合機(プリンターとスキャナーが一緒になっている)がほとんどで、プリンター単体は限られていることを初めて知った。

 当日、M女史を同伴し量販店に赴いた。型番と価格を記したボロ紙を頼りに、お目当ての製品を物色しつつ、「ゴムまり」を一回り大きくしたような若い女店員さんに意見を求めた。「餅は餅屋」であるからして、彼女の助言を得るのは賢い方法だと思った。
 大きな「ゴムまり」は、専門家顔負けの豊富な知識を備えており、ぼくの選択肢に花を添えてくれた。「あなたは大したものだ」と、ぼくは彼女を素直に讃えた。
 小ぶりな「ゴムまり」が歓び勇んで選択したプリンターは、予算をはるかにオーバーしていたが、まったく意に介することなく、同心円状の顔に描かれたビー玉のような目でM女史に目配せをしながら「これに決めた!」と言い放った。磊落(らいらく。気が大きく、朗らかで小事にこだわらないさま)な「ゴムまり」は、上目遣いでぼくに一瞥をくれ、すまし顔だった。

 ぼくは内心、「あんたのいった予算の2倍もするじゃないか。昨夜苦心しながら選んだオレは何だったんだ。おいらの沽券はどうしてくれる」と、恨み言を吐いた。斯くして、良い買い物をした「ゴムまり」は、「これからお茶でもしましょうか」と、重い荷物を抱えたぼくを尻目に、隣にあるファミレスにM女史と手を取り合って突入していった。
 2人はデッカイあんみつとジャンボ・フルーツパッフェに食らい付きながら、倶楽部の面々を俎上に載せ、楽しそうに悪態をつくのだった。「他人の悪口をいうのは良くないこと、などというのは実に偽善的だね。あれほど面白く楽しいことはないね。良い悪口とそうでないものがあるんだよ」と、一端の、真実溢れる人生論を語ってみせた。
 ぼくは辛うじて、年長者らしい沽券を取り戻し、落ち込んでいたM女史の顔もパッ明るくなった。婦女子というものは現金なものだ。
 「この投資は必ず写真の上達に反映されるよ。投資は裏切らないからね。しかし、どんな高級なプリンターでも目詰まりは起こすんだよ。二度と筋入りプリントなど持って来るなよ」と、再び説教ジジィを演じて見せた。

http://www.amatias.com/bbs/30/479.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE11-24mm F4.0L USM。
埼玉県加須市、栃木県足利市。

★「01加須市」
ここを通る度に気になっていたのだが、いつ廃業したか分からない自転車屋。
絞りf11.0、1/200秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02足利市」
路地裏の雑草地に分け入ったら、これもいつ廃業したか分からない喫茶店兼美容室が忽然と現れ、焦点距離11mmという超広角を使い、思いっきり歪ませて遊んでみた。
絞りf9.0、1/30秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2020/01/10(金)
第478回:「真面目」と「生真面目」
 新年明けましておめでとうございます。みなさまの福寿無量を心よりお祈り申し上げます。遅ればせながら、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 喪中であったため知人・友人には新年のご挨拶は失礼させていただいたが、大晦日には何十年ぶりかで除夜の鐘を聞きたくなり、歩きながら年を跨いだ。
 近所の神社にお参りしようと思ったのだが、長蛇の列にぼくは怖じ気づき、列に並ぶことなく外から神社の本殿に向かってそっと手を合わせた。鳥居さえくぐらず、手水を使うこともせず、しかも賽銭を上げることもできなかったので、祈願成就のほどは疑わしいのだが、きっと神様はにわか信心を装うぼくを訝りながらも受け入れてくださったに違いないと思うことにしている。年初から、なし崩しの神頼みといったところか。

 手を合わせながら、「家族安寧」と「戦争が起こりませんように」を衷心より祈った。そして少年時代に多くのセミやトンボ、カエル、ザリガニなどなどを捕えた今も当時のままに残る雑木林の一角に立ち、彼らの命を無碍に奪い取った罪を許してもらおうと合掌した。少年の好奇心を満たし、楽しみを与えてくれた彼らの命を無残にも絶ってしまったことは大罪に値する。ぼくの初詣は殺生に対する贖罪だった。

 以前拙稿で、「1年間に1万枚は撮りましょう」と書いたことがある。年明け早々に読者の方からメールをいただき、「なんとか1万枚達成です」と喜びが綴られていた。
 ぼくは、「1年ポッキリでは意味がないので、今年も続けて下さいね」と返信した。「24時間煙草を吸わなかったからといって、それを禁煙したとはいわないでしょう。何ヶ月も、何年も継続して、初めて禁煙をしたということになるのと同様に、写真も同じこと。継続してこそ1万枚の効果が得られるというものです。禁煙に比べれば、写真愛好家たる者にとって1年1万枚など屁のようなものです。ましてやフィルムでなくデジタルなんですから」と続けた。

 数多く写真を撮ることは、それに比例して発見することが多くなるということに直接つながる。たくさん撮っているうちにイメージ力が備わったり、無駄撮りの分別がつくようになってくる。これが最も大きな効用ではなかろうか。闇雲に撮っても写真は写らないということを悟るに近道のような気もする。自分にとって、絵になるものとそうでないものの仕分けのようなものができるようになるには、やはり多くの場数を踏むことが一番手っ取り早いとぼくは考えている。「急がば回れ」だ。
 個人差もあるが、この行いは良い写真を撮ることや上達にかなりの影響を与える。たとえ上達速度が緩慢であったにしろ、着実な歩みが見られるというのがぼくの “基本的” な考えだ。得るものは必ずある。このことは、第475回に記した「運鈍根」に通じている。

 けれども、意識の持ちようにより、「ただ多く撮っているだけ」という悲哀を感じさせる人が残念ながらごく稀にいることもいっておかなければならない。何故そうなってしまうかとの謎解きはぼくのなかでかなり明確にできているのだが、それをいってしまうとあっちこっちに差し障りが生じ、生っぽくなってしまうので、改まって公言できず、ここでは胸間に秘めておくが、この拙連載をずっとお読みいただいている方々にはお察しがつくであろうと思う。

 一言でざっかけなくいってしまえば、性格的にどこか破綻を来している人のほうが “物づくりには” 向いているということである。ただし過ぎたる「与太」は好ましくない。「与太」とは何ぞや? それは難しく繁雑な語彙だが、ここでは「情の機微に疎い人」(過剰な自己本位)とか、「真面目」と「生真面目」の区別ができない人とか、そう遠回しに表現しておこう。融通のまったく利かない「 “変に” 生真面目」な人って、実は迷惑そのものだし。
 ぼくは、「真面目」は善であり「生真面目」は悪と捉えている。つまりこの言葉は反語であり、まったく意味が異なると解釈している。この相反する語彙に無頓着かつ「生真面目」な人は必ずといっていいほど「写真の無駄撃ちに興じ、本質的なことを見落とし、前進できずにいる傾向にある。堂々巡りに気がつかない」ものだ。撮っても撮っても写真の質が上向かない人は必ずいる。「好きこそ物の上手なれ」とはいかない。なんと非情でつれないことか。
 上述の見解は、今まで多くの人々(プロを目指す助手君たちやアマチュア諸氏たち)に接して導き出した共通点でもある。ここのところ、よ〜くお含みいただきたい。

 翻って我が身を顧みれば、ぼくの「真面目さ」は際どく危ういような気もする。拙稿や写真倶楽部や講演などで、「どうすれば良い写真を撮れるか?」に類することについて、分不相応に口角泡を飛ばしながら唱えるのだが、それを言葉で伝えるにはぼくはまだまだ力量不足である。決して謙遜ではなく、ぼくが教えて欲しいくらいだ。
 ただ、状況に応じてどのような点に注意し、如何なる技術を用いるかについてはかなりの自信と信念を持ってお伝えできる。それは場数を多く踏んだことに起因している。どのような条件下であれ、クライアントの望む映像を提供しなければ食っていけないとの事情がそうさせるのだ。失敗すればお飯(まんま)の食い上げとなるのだから、常に崖っぷちでの撮影となる。必死になれば誰でも大凡のところは自然と身につくものだ。
 撮影中には冗談ばかりを放ち、周囲をなごませようと努めるが、心は狂乱、頭は悩乱状態である。

 ところで、昨年は写真を撮ったという実感がほとんどないので、枚数を数えてみたら、嗚呼、なんと私的写真は3,200枚ばかりであった。とても人様に「1万枚は撮りましょう」なんていえた義理ではない。こんな正直なぼくはやっぱり「変に生真面目」なのだろうか? 「屁のようなものだ」なんてよくもまぁ。

http://www.amatias.com/bbs/30/478.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE11-24 F4.0L USM、EF35mm F1.4L USM。
栃木県佐野市。

★「01佐野市」
子供の頃は虚弱体質でよく熱を出し、うなされていた。熱に浮かされて見たような色彩をなんとか再現しようと苦心。同時に優れたヨーロッパやロシアの映画に見られる色彩と光景に憧れを抱いて。
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02佐野市」
どこか惹かれる八手の葉。コントラストの強い斜光下、影と光を意識して構図を練る。
絞りf8.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2019/12/27(金)
第477回:救われたパソコンとプリンター
 次々と難事に見舞われた。丸9年も酷使し続けてきたパソコン(以下PC)の動きがかなり遅くなってしまい、気のせいか挙動も僅かながら怪しくなってきたように思えた。しかし万事抜かりなく、普段からPCが何時お釈迦になっても慌てふためかないように二重のバックアップ体勢を整えているので、データ損失という最悪の事態には遭わずに済む。体中から血の引くような憂き目からは逃れられようが、しかし、最近作業をしていると、まどろっこしく感じるようになってきた。ぼくのPCは持ち主同様にきっと古希を過ぎているのだろう。

 定期的にMac専用の有料ソフト(Tech Tool Pro)を使いメンテナンスを行ってはいるものの、機械物は人間と同様に何の予兆もなく突然ダウンすることがあるので、油断がならない。
 今ぼくが恐れていることはデータの損失ではなく、新調する際に生じる経済的な損失である。日進月歩のデジタル界にあって、最新のMacは現在使用中のものに比べれば、飛躍的な進歩を遂げているに違いなく、新調する楽しみはあっても、先立つものを考えると頭が痛い。

 ぼくが現在使用中のMacは容量が1TBだが、使用領域が50%を超えぬように留意している。とはいえ、長年の使用により、PCには灰汁(あく)のようなものが溜まっているはずだ。それをここらで一気に除去しようと思い立った。
 まず、散らかったデスクトップの大掃除をし、使用していないアプリケーションの旧バージョンを「AppCleaner」(無料アプリ)というソフトを使い除去してみた。いわゆる「アンインストール」。
 特に重両級で大食らいのPhotoshopは、CS時代のものから各バージョンがPC内の上座に鎮座しているので、長年の労に感謝しながら丁重にお引き取りを願った。それに付随する他のアプリもすべて取り払い、さまざまなキャッシュ類もこの際潔くクリーンにした。これでだいぶ身軽になったのではなかろうか。

 その結果、PCは「水を得た魚のよう」、とまではいかないが、安定感を取り戻し、心なしか速度も回復したように思われる。何はともあれ、今のところは目出度し目出度しである。正月を前にして、「目出度さもちゅう位なり おらが春」(小林一茶が正月を迎えた時に詠んだ句)といったところか。
 
 PCに限らず、電化製品というものは、何故かひとつが壊れると面白いように(決して面白くない)連鎖反応を引き起こし、順次使用不可となる傾向がある。そこには、 “不文律” が存在しているように思えてならない。
 きっと電化製品には労働組合のようなものがあり、全員がそこに属しており、「お宅は随分酷使されてきたのだから、この辺で一度ストライキを起こし、お役御免としてもらったらどうか?」と周辺機器からまことしやかに唆(そそのか)されるに違いない。「一致団結」の旗印を掲げ、「インターナショナル」(古いなぁ)を歌いながら、彼らは彼らで、したたかに組合の不文律に触れぬよう申し合わせてるのだとぼくは睨んでいる。
 
 これで一段落したかと思いきや、しばらく使用していなかったプリンターがスト突入と相成った。やっぱり密かにPCと申し合わせができていたのだ。
 プリンターを使用する際にぼくは必ず「テストページをプリント」の手順を踏む。プリントヘッドの目詰まりを確認するためだ。インクの噴射口に目詰まりが生じると、色が思うように再現できなかったり、印字面に見苦しい筋が現れたりする。
 我が倶楽部にも、筋だらけになったプリントを何食わぬ顔をして持って来る不届き者が時々現れる。否、ヒジョーにしばしばだ。本人はそれを重々承知しているので、なおさら質が悪い。「あわよくば見つかるまい」との程度から「あからさまな確信犯」までいる。指摘するや否や、「やっぱりバレたか!」というような顔をして見せるものだから、まったく可愛げがない。
 不思議なもので、この可愛げのなさは、どこか滑稽さを漂わせているので、ヘッドロックをかまして痛めつけてやろうという気にさせない。「やむを得ない事情があったのだろう」と推察し、ぼくは恐ろしくも寛容な態度を見せ、貸しをつくるのだが、借りを返そうなどという殊勝な者は誰ひとりとしていない。指導者に度量があるので、いつまで経っても彼らは委細構わず狼藉を働き、平然としている。まったくもって苦々しい限りである。

 ぼくの愛用プリンターは14年前に購入したもので(A2までプリントできる)、故障しても修理不能の冷ややかな対応となっている。それが頑固な目詰まりを起こし、「プリントヘッドの清掃」くらいではとても解消できず、インクを大量に消費する「パワークリーニング」を行わなければならなかった。「パワークリーニング」を試みようとしたところ、「インクが足りません」とのアナウンスが発せられた。「まだ十分にあるじゃないか!」と大いなる不満をぶちまけた。ぼくは仕方なく量販店より1本4,000円以上もするインクカートリッジを3本も取り寄せた。

 いざパワークリーニングを試みようとしたところ、今度は「メンテナンスタンクが満杯です。取り替えてください」とのアナウンスが。「一時に言えよ!」と、ぼくはどんどんグレていく。ついでに、少し涙ぐんだ。ぼくの心は無残にも二つ折れとなったが、仕方がないので再び約5,000円を叩いて追加購入。きっと宅配のおにいちゃんも「一度に済ませよ!」と声に出していいたかったに違いない。しかし、ぼくの不満はやがて不安に取って代わって行った。
 これだけの大枚を叩いて、もし効果がなかったらどうしてくれようかと、半ば自棄糞(やけくそ)、自暴自棄、捨て鉢となり、やがて自嘲、ふて腐れに移り変わる自分の姿を明確に予見していた。

 案の定、パワークリーニングを二度繰り返しても、しぶとい目詰まりは一向に改善の兆しを見せず、せせら笑いを浮かべるばかり。
 思い余ってメーカーに問い合わせたところ、取説に書かれていることのオウム返し。電話口で粘るぼくに、別の担当者(多分技術部門の)が、「電源を抜いて、6時間ほど放置した後、パワークリーニングを試行してみてください」とのこと。
 ぼくは藁にもすがる思いで、いわれた通りにしてみたものの、やはり効果が得られなかった。そこで、6時間ではなく12時間以上電源を抜きっぱなしにした後、通常の「プリントヘッドの清掃」をし「テストページをプリント」を敢行。プリンターから出てくる普通紙を恐る恐る見ると、なんと綺麗になっているではありませんか! ぼくは再び涙がこぼれそうになった。

 PCとプリンター、共に没落の道を辿れば、とてつもない出費。一茶の句なぞ感心しながら詠んでいる場合じゃない。来年はなんだか良いことが起こりそうな予感がひしひし。

http://www.amatias.com/bbs/30/477.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF35mm F1.4L USM。
茨城県桜川市。今年の盛夏に汗を滴らせながら。

★「01桜川市」
誰しも好きな色というものがある。ぼくに自覚症状はないのだが、どうやら赤かも知れない。作画の中心にしたり、脇役に据えることがよくある。モノクロしか撮らなかった頃は、あまり頓着しなかったのだが。この写真は、なまこ板の赤をどれくらい画像に取り入れるかに気を配った。
絞りf8.0、1/250秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02桜川市」
すでに廃屋となった飲食店か? ドアにあった屋根はなく、窓も塞がれていた。
絞りf8.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2019/12/20(金)
第476回:古典を顧みる
 年の瀬も押し詰まりつつあるなか、さまざまな用事に追われ自分の写真を撮ることが思うに任せずという無念な状態が続いている。宝くじは買わなければ当たらないのと同様に、念写能力のないぼくは、写真を撮らなければ、何も生み出せない。
 自身本来の勤めを果たせずにいることはどこか後ろめたくもあり、嫁の手前とても居心地が悪い。焦りはないが気は縮むばかり。写真を撮ることは、ぼくにとって「勤行」(ごんぎょう)そのものであるからだ。それをさぼっている。この際、言い訳は無用だ。        

 「限りのある命、少しは焦ってみてはいかが?」と、冷ややかに自身に申し立ててみるのだが、しかし、ここのところぼくにはまったく不似合いである法律的な知識をかき込むことに時間を費やさなければならないのだから、意気消沈してしまうのは当たり前だ。
 「面白味」だとか「妙味」とはほど遠いことに気持を注がなければならないのは、まことにもって精神衛生に悪い。今ぼくは、精神を蝕まれるような面持ちに駆られている。

 写真を撮らぬ写真屋ほど「役立たず」なものはない。その気分たるや、針のむしろに座らされているようなものだ。四六時中写真のことしか頭にないものだから、情緒や趣きとは遠く離れたところに位置する法律は、ぼくにとって不向きの極みだ。            
 しかも、ぼく自身には直接関係のないところで派生している事柄なので、かえって余計に熱を入れるざるを得ない。「世のため人のため」などと振りかぶった気持はさらさらなく、それはとどのつまり、ぼくの信条とするところの、または普段の心得として諳(そら)んじている「情けは人のためならず。巡り巡りて己が身のため」に従っているにすぎない。それはなかんずく、ぼくのような人間が、殊更に善人を気取っていると解釈してもよい。

 本テーマの枕にもならぬ話はさておき、ある写真好きの若人から興味深いことをいわれた。曰く「かめやまさんの文章は古語を読むような感覚でとても面白い」と。彼女はまだ20代の大学院生なのだが、利発な彼女にそういわれると、確かにそうかも知れないと妙に頷いてしまった。
 ぼくは直裁かつ素直な人間であり(と、自分では思っている)、他人の言葉の裏に隠されたものを、はしたなくも無闇に探ろうとすることをよしとしない。世渡りの名人とか大看板にはなりたくないので、言葉を正面から受け取ることを常としている。つまり「いつも相手の言葉を真に受ける」ということである。したがって、はるか年下の彼女の言葉を深読みするような偏狭かつ歪(いびつ)なことはしなかった。
 
 けれど、相手が男子であれば、ぼくは手のひらを返すように、即座に待ってましたとばかり攻撃の手を加えるだろう。
 「それはただ君が勉強不足で、碌でもない本しか読まなかったということだ。そういう人間に限って、自分の知らない言葉を『死語』と称して体(てい)よく葬り去ろうとする。おまけに、自身の無知を棚に上げて、素知らぬ顔をして悪びれることがない。『今時、そんな言葉を使う人間が悪いのだ』といわんばかりにね」と、混ぜっ返すこと間違いなし。
 上記の如く、ぼくの “男女差別” は甚だしく直裁かつ明断であり、しかも確信に満ちたものだ。
 他人はぼくのそれをたしなめたり、訝ったりするのだが、それはしかし、人情として当然のことだとも思っている。男のあるべき正しい姿なのだ。「男女平等」などという脆弱で偽善的な言葉を、正しく理に当たることと勘違いしてはいないか。

 「古語を読むような」と、控え目で知的な表現をしたその別嬪さんにぼくは昨年の流行語大賞となった「そだね〜」を、快く返した。もしかしたらぼくはくにゃくにゃしながら、喜色満面だったのかも知れない。なんともお恥ずかしい。男と女とでは、こうも対応が異なるものか。
 そしてこうつけ加えた。
 「ということはさ、ぼくの写真もきっとその手合いということだよね。物作り屋というものは、いつも新しい表現を求めて試行錯誤に明け暮れているわけだけれど、その伝でいえばぼくの写真は保守的であると自覚している(異論を唱える人、数多だが)。 “迷った時は風雪に耐え抜いた古典を顧みる” ことを旨としているので、ぼくにとっては保守的であることの必然性のようなものが自然と生じてくるわけね。美の中心に自分なりの中庸を据え、それに付き従おうとするとどうしても保守的な傾向となってしまう。それは時に、蟻地獄の様相を呈し、もがけばもがくほど深みにはまってしまうものだ。保守的であることから脱し、自身のアイデンティティを求め、のた打つ自分の姿は醜いものだけれど、見て見ぬ振りをして欲しい」と、身振り手振りを交えながら、ぼくは聡明な彼女に取り入ろうと5時間近くも話し込んだ。

 長年の風雪に耐え抜いたものは、普遍的な美を色濃く内包している。そこに宿る伝統や文化、その精神性に基づいたものに、自身の新しい表現をアプローチし、違和感が生じないように塗り込めていく作業はやはり醍醐味のあるものだ。プロ・アマに関係なく、それに心血を注ぐぼくたち愛好家は、なんやかんやと屁理屈や戯言を並べつつも、仕合わせを噛み締めてもよいのではないだろうか。

 いつの日にか、「写真はあいつの天職だった」といわれたいものだ。嗚呼、照れるなぁ! と、一応混ぜっ返しておこう。

http://www.amatias.com/bbs/30/476.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF35mm F1.4L USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
避難警報が街中に鳴り響く少し前。どんより曇った空が、さらに重くのししかる。昭和の残り火を探し求めて。
絞りf8.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02栃木市」
閉店してどのくらい経つのだろうか? 夾雑物が多すぎたので、撮影時には始めから正方形のトリミングをイメージして。瓶の配置が思い通りではないので、アングル探しに一苦労。ぼくの好きな「久保田」と「緑川」だったので、取り敢えず親愛の情を込めて撮ってみた。何故か昔ながらのカミソリが1本。
絞りf9.0、1/25秒、ISO200、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/12/13(金)
第475回:「運鈍根」
 ここ3,4日、寒さが和らぎ過ごしやすい日が続いている。バカバカしいと思いつつも日課としているウォーキングを2年近く励行しているが、この日和で半袖のTシャツに長袖のシャツを1枚まとうだけで歩くにはちょうどいい。
 すれ違う人の衣装からすれば、ぼくの身ごしらえは軽装すぎるのか、奇異な眼差しを感じることもある。しかし、歩き始めて10分も経つと、全身に血が巡り始め暖かくなってくる。夏と異なり汗止め用のバンダナはさすがにもう必要ないが、それでも薄らと汗ばむ。

 この数年、体のあちこちに障害を来たし、痛い目に遭うことはあっても(痛風と結石は最悪)、それは年相応のものだと考えるようにしている。風邪やインフルエンザ、熱発はもう40年近く縁がなく、もしかしたらぼくには特別な抗体が備わっているのかも知れないと思うことがある。
 いずれにせよ、腹立たしいウォーキングは血の巡りを良くするとの感覚をぼくに与える。であれば免疫機能の向上を得られるはずだとの思いのみが、この愚かしい行為をなんとか支えている。

 普段あまり気に止めないことが、歩くことにより思わぬ効用や発見をもたらしてくれることがある。毎週厚かましくも拙連載にて写真を掲載させていただいているが(これは担当者より義務づけられたものではなく、自発的なもの)、「おれは相も変わらず同じような写真ばかり撮っているなぁ。自分でさえうんざりしているのだから、読者諸兄はさぞや飽き飽きしているに違いない。そう考えるととても辛い」と一応は人並みに嘆いてみせるのだ。この嘆きを如何にして正当化し、自身を納得させるかにぼくは歩きながら専心没入する。

 自分は凡人であるがゆえに、よりましな写真を撮るには “同じ事を繰り返し繰り返しコツコツと努める” のが最良の方策であることに疑いを持っていない。今はその最中であるとしている。
 親父の教えでもあった「運鈍根」(うんどんこん。好運と愚直と根気。事をなしとげるのに必要な3条件としてあげられる。広辞苑)を忠実に押し進めるには、上記のような「信念」を持たずしては成し得ない。同じことを繰り返しているうちに、きっと今まで見過ごしていた何かが、やがて見えてくるに違いないとぼくは信じている。
 
 「運鈍根」は非常に貴重な教えだが、「運」は、「鈍」と「根」によってもたらされるのではないかと思うことがある。「運」は単独で扱えるものではないので、その相関関係を一緒くたにしようとするからいけないのだ。したがって、「運鈍根」は、必ずしも三つ巴とか3種混合とばかりはいえないような気もする。
 ともあれ、あれやこれや、写真が思うに任せぬうちに時間ばかりがつれなくも過ぎていく。「不人情とも義理知らずとも」とぼくは毒突く。

 今まで自分は不信心者と憚りなくいってきた。過日歩きながら、期するところあって親鸞聖人の『歎異抄』(たんにしょう。鎌倉時代の後期に著された仏教書。親鸞の法語を弟子の唯円が記したとするのが通説。浄土真宗の聖典)に思いを巡らせていた。
 『歎異抄』の第三条にある有名な「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は悪人正機説を明快に説いたものだが、高校3年生のぼくにはあまりに難解な文節だった。このようなことは親父に訊くに限る。
 親父は原稿の筆を休め、1時間以上も現世のさまざまな例をあげながら、ぼくに丹念な解釈を試みてくれたが、そもそも親父の使う語彙が難し過ぎて消化不良だった。
 やがて大学に進み、『歎異抄』の注釈付きの訳文を原文と照らし合わせながら読み進んだが、実体験の少なさや釈迦の教えに不案内なため(つまり仏法に関する予備知識の欠如)、実感が伴わず、通り一遍のことしか分からなかったものだ。
 そして今、「生きることと死ぬこと」についての自覚作用のようなものが芽生え始め、『歎異抄』の意味するところが自分なりに多少は解釈できるようになってきた。この1ヶ月余り、ぼくは歩きながらこんなことばかりを考えていた。

 「写真には、作者の生き様が反映され、表出されていなければならない」との持論は、親鸞聖人や良寛さんによる影響がどこかに隠れているのかも知れないと考え始めている。
 ぼくが、「ただきれいなだけの写真」や「意図的と思われるような個性」、「上っ面を撫でただけの見てくれの良い写真」や「あたかも大衆受けを狙ったかのような写真」をまったく評価せず、それどころか忌み嫌うのは、そんなところに起因しているのだろうと思う。
 作品はすべからく「文学的、宗教的、哲学的」であるべし。それらの要因が含まれていなければならず、それを自身の作法で昇華させて然るべしと考えている。それはいずれ執念に取って代わる。

 こんな大仰なことをここで公言しまっていいのかと、今少し冷や汗と脂汗が滲み出ている。しかし、このようにして怠け者の自分を鼓舞し、追い詰めなければならないほどなのだから、ぼくはつくづく不幸者であるとさえ思える。大言壮語なんて、「よせばいいのに」と、また嘆いている。
 読者諸兄がぼくの写真に飽き飽きしているのは十分に予測できるが、当の本人でさえ食傷気味で、毎回げっぷが出るような思いに襲われている。
 『歎異抄』のなかから、自分に都合の良い教理を探し出すために、ぼくは今日も歩く。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF24-105mm F4L USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
台風19号で栃木市は大きな水害に見舞われた。その5日後に訪れたのだが、一天にわかにかき曇り、避難警報が町中に鳴り響いた。ぼくもそそくさと店終い。
絞りf9.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02栃木市」
得体の知れない壁が立ちはだかる。この写真はレンズの歪曲収差によるものではなく、実際に歪んでいるのだ。すべてのものが 妙に配分され、「こんなもの、写真に撮れるかぁ?」と訝りながら。
絞りf6.3、1/20秒、ISO200、露出補正-0.33。
(文:亀山哲郎)

2019/12/06(金)
第474回:未完なる終着駅に向かって
 第470回から「プリセットは “拾う神”。その功罪」を3回にわたって述べたところ、数名の読者諸兄から以下のような質問を受けた。それを要約すると、「どのようなプリセット(ソフト)を使用しているのか?」、「何がお勧めか?」というものだった。反応から推し測るに、かなり熱心な愛好者とお見受けする。 
 読者のみなさんの意向に添ってそれぞれ返信を差し上げたことはいうまでもないが、メールをいただいた方々以外に、遠慮深い方、引っ込み思案の方も恐らくおられることと推察している。関心のない方(ぼくの推定では84%くらい)もおられるだろうが、今回はそれについてお話ししてみようと思う。

 拙「写真よもやま話」は、連載を始めた当初と今はかなり様相を異にしており、読者層も変遷しているだろうと思われる。現在の読者層がどれほどの興味を持って読まれているかをぼくは知る由もないのだが(いただくメールが全体の意見を代表しているわけではない)、いわゆる一般の写真向きに愛読される内容のものでないことをぼくは重々承知している。
 にも関わらず、連載回数を重ねたおかげで、ぼくはそれを気にかけることがなくなった。無意識のうちに、写真が好きでたまらない人々に向けて、今は満座で恥をかくべく、熱を込めつつも淡々としている。けれど、写真事始めの人たちにも、あるいは長年写真に取り組んでいる人たちにも、共通している事柄について、信念を持って駄文を書き連ねていることに変わりはない。

 ぼくの使用するソフトの中核は、長きにわたりAdobe Photoshopであることは論を俟(ま)たない。まずはPhotoshopありき。これなくしては、他社の優れたソフト(特にプリセット)の効力も半減してしまうとさえ考えている。
 画像の補整や加工(ぼくなりに “補整” と “加工” の意味するところを、まったく次元の異なるものとして扱っている。ぼくは、 “加工” はしない)を行ううえで、このソフトは全世界的に最も愛用され、重宝されているものと推察する。
 このソフトを使用し始めたのはv.4.0(現在はv.21)からで、もう23年も使用しているが、すべての機能に通じているわけではない。それどころか、使用したことのない機能やツールのほうがずっと多い。きっと誰しもが自身にとって有用なものを探し出し、繰り返し使用しているのだと思う。そうこうしながら新たなる暗室技法を見つけ出す楽しみを得ているのではないか? 「こうすれば、ああなるのか」という発見は、プリセットをそのまま使用するだけでは得にくいことも多々ある。
 Photoshopに通じれば、それだけで「飯が食える」との通説はあながち間違えではないだろう。それほどこのソフトは多機能にわたる。Photoshopを駆使すれば、どのような暗室作業も可能となるであろうことに疑いを挟む余地はないように思われる。

 ぼくの使用している他社の優れたソフトをこれから紹介しよう。
 我が倶楽部の人たちにNik Collection(ぼくが購入した当時は高価なソフトで数万円した記憶がある。ドイツ製だが日本語版あり。2012年にGoogleに買収され、のち無料となった。現在はDxO社の傘下となり残念ながら有料。因みに14,900円)を勧めたところ、無料だったこともあり、こぞってインストールしたようだ。多大な恩恵に与り、嬉々としている人たちもいる。
 Photoshopのプラグインとしても、あるいは単独でも使用できるので重宝このうえない。200数十のプリセットが用意され、調整も可能であり、他のプリセットと合体させレイヤーのように扱えるのだが、使用者がある程度の指針を持っていないと振り回されることになる。それも快楽のうち。

 ON1(ドイツ製)もぼくにとって欠かすことのできないものとなっている。プリセットの数を勘定したことはないが、Nik以上だろう。時折、新しいプリセットが無料配布されるのでありがたい。頻繁にチュートリアル(PCのソフトやハードの使用教材)が提供され、メーカーの誠意と商魂が見て取れるが、非常に優れたソフトだ。
 これもPhotoshopのプラグインとして利用でき、Raw現像も可である。当初は、英語版とドイツ語版しかなかったが、最新のバージョンから日本語版が加わった。だが、その日本語が機械翻訳なのか、相当怪しげなもので(語彙が写真に特化した用語なのでそうなるのだろう)、かえって紛らわしく、ぼくは英語版を愛用している。
 このソフトの最たる特徴は、プリセットを構成するさまざまな要素をそれぞれに分解して調整でき、そして他の要素を加えたり、削除したりすることができることにある。価格は$99.99で、現在の円相場からすると約10,900円ほどなので、格安の感ありというところだ。

 もうひとつはDxO(フランス製)。さまざまな種類のソフトがあるが、ぼくはもう15年近く同社のRaw現像ソフトを使用している。その理由を一言でいえば「痒いところに手が届く」からだろう。相性がいいのだ。本連載で掲載させていただいている写真の大半は、フィルムを除きDxOでRaw現像したものだ。
 ぼくが特にお勧めしたいのは、同社のFilmPackである。古今東西の由緒ある銀塩フィルムのシミュレーションが可能。もちろん調整機能もあり、自身のお気に入りのプリセット作成もできる。もちろん、Photoshopのプラグインとしても使用可能だ。
 特にデジタルから写真を始めた方々には、かつての名だたる銀塩フィルムを味わうのも乙なものではなかろうか。現在の価格は7,900円とお手頃でもある。そして、このソフトの特筆すべきことのひとつは、フィルムの粒状性が自由自在に操れることにある。のっぺらぼうのデジタル画像に比べ、粒状をかけることによる立体感を味わって欲しいとぼくは願う。

 以上がぼくの愛用する3つのソフト。Photoshopを大将として、これら3つのソフト間を絶え間なく駆け回り、多くを学びながら、やっと未完ながらも終着駅に息も絶え絶えに、辿り着こうと日々奮励努力。ぼくはまだまだ元気である。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF35mm F1.4L USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
廃屋になってどのくらい経つのだろうか? トタン屋根の赤いペンキはまだ健在である。この赤をどのくらい画面に入れるか、檻の中の獣のように動き回ってアングルを探す。徐々に夢見心地となり、イメージが出来上がったところでシャッターを押す。夢の中のイメージはもっと極端なのだが、「臆病風に吹かれて」躊躇。取り敢えずこれでよしとすることに。
絞りf6.3、1/30秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02栃木市」
前号に掲載した窓の部分アップ。水兵・ポパイを連想。全体写真(前号)を撮った後に再び挑戦。
絞りf8.0、1/30秒、ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2019/11/29(金)
第473回:粘る者は救われる
 衆説では、体力の衰えとともに精神力もそれにつれて減衰していくのだそうだ。早生まれのぼくは今71歳だがまだその傾向は見られない。といっても、肉体的な衰えは、さすが意地っ張りのぼくでも認めざるを得ないと正直に告白しておく。
 元気な同輩たちからよくこんなことを耳にする。曰く「70になって、今までそれほど気にしなかった体力の衰えを自覚するようになった」。その嘆きを、より年配者に訴えると、「75になったらさらにガクッときますよ」と。そして追い打ちをかけるように、「否、80になったらもっともっと堪えるものです。あたしなんか・・・」と、齡90のご老体がどこか自慢気におっしゃる。
 つまり齡70はまだまだ老化の入口で、これからさらに通過困難な関所が待ち構えているというのだ。確かにそうかも知れないとぼくは素直に頷く。

 還暦(最近では、数え61歳より、満年齢で60歳を指すことが一般的)を迎えた頃、平均寿命(男81.09歳、女87.26歳。2017年の調査)を考えるとぼくの命はあと20年で尽きることになるが、還暦の元気を以てすれば、そんなことがあろうはずはないと思い込んでいた。
 ところが、古希(70歳)を過ぎた今、「やれやれ、この調子でいくと “あと10年の命” というのはあり得ないことではないのかも」に変わった。自然の摂理に従う準備が心うち出来上がってきたかのようだ。けれど一方で、それに抗(あらが)う気持もまだまだ健在ではある。
 何故なら、昔からぼくだけは生が絶えることはないと本気で思っていた。少なくとも、今まではそうだった。
 余談だが、ぼくは未だに「天動説」信者であり、地球は球体ではなく(球体であることを実体験しているのは宇宙飛行士だけ。つまり何億人にひとりという現実離れした確率でしかない。多数決を以てして、これを民主主義という)、あくまで地球は平面だと言い張って憚らない質なのだ。科学信奉者のぼくがいうのだから、これは間違いのないことだ!

 戯言はさておき、体力と精神力は比例するのだろうか? 個人差やそのひとの置かれた状況を勘案しなければ、この設問はあやふやなものに違いないだろうが、年配者の実感のこもった意見を信ずれば、誰しも肯定的な見方に傾く。
 写真屋に限らず、撮影という行為は相当な体力を必要とする。プロ・アマを問わず、 “心がけの良い人” のカメラバッグはかなりの重量に達するし、それを携えて動き回るのだから、「写真屋は体力だけだ」とぼくはいつも強弁する。身に染みているからこその科白でもある。

 「くたびれたから、今日はもう店終い」などということは、足腰が少々痛んでもいえない。写真屋は明日を案ずることより “今どうあるべきか” を大切にすべきだ。青年時代に亡父より、「ものを創り出すということは、砂を噛み、血を吐くことだ」といわれたことを都度思い返す。そんなわけで、もし三脚がなければ手ブレを起こす時間帯まで、とにかく動き回ることを義務づけている。
 「粘る者は救われる」との格言(そんな格言ないか)にそそのかされ、ひとのいいぼくは敢然と、身を案ずることなく限界まで被写体を渉猟(しょうりょう)する。ただし、立ち上がり(撮影開始)は、フツーの愛好家より遅いことはここでは内緒とする。今、街中を撮影するのであれば4時間前後が限度ではあるまいか。集中力の維持と凝縮は、ひとまずここでは “老いの知恵” によるものということにしておく。

 若い頃は朝から晩まで(特に海外では)、心がけの良いぼくは重いバッグを肩にかけ、2台の一眼レフを首からぶら下げ、歩き回ったものだ。撮影が一段落するとホテルのベッドにドッと倒れ込み、疲労困憊ゆえ、しばらく身動きできずにいた。まさに兵士のような重装備だったが、ウェイトトレーニングで鍛えたおかげで、何とか持ち堪えることができた。ぼくのウェイトトレーニングは胃癌の大手術により中断を余儀なくされたが、「昔取った杵柄」であろうか、その残滓はまだ体内に息づいている。

 今、若かりし頃の流儀を試みれば、ぼくの好きな「野垂れ死に」とか、憧れの「行き倒れ」を実現できるだろう。ぼくはいわゆる無頼派ではないが、写真のために「野垂れ死ぬ」のであれば本望であるとしている。
 実際に、去年と今年の京都行きでは、危うくそんな状態になりかけた。夢は実現できなかったが、「もう一歩も歩けない」という状況にまで追い込んでしまった。マゾっ気(?)にかまけて、ホントに年甲斐もないほどの阿呆だったが、その時のビールは格別のものがあった。グラスを持つ手が震えるほど、ビールが恋しかったなんて、何年ぶりのことだったろう。粘れるだけ粘ったとの自負は、やはりどこかにちゃんと御利益というか果報にありつけるものだ。もうひとつの内緒事だが、執念だけでは写真は写ってくれないという非情な現実を思い知ったことも事実として記しておかなければならない。

 撮影を切り上げるというのは大変な勇気を必要とするものだ。「あと15分粘れば、ひょっとして良い被写体に恵まれるかも知れない」と思ったり、あるいは「納得のいく写真が撮れるかも知れない」と考えると、切り上げのタイミングに苦悶してしまう。
 踏ん切りの悪さは、ぼくが労を惜しまず撮影を続行し、その間に納得のいく写真が何度か撮れたというささやかな経験則から生まれたものだった。それを思うとなかなか帰路につけぬものだ。
 病や障害を別にして、「今日はくたびれたので、もうこれ以上撮ってもしょうがない」と諦めるのは、体(てい)の良い言い訳に過ぎないとぼくは断じている。「あと1枚」にあなたの傑作が隠れているかも知れないのですよ!

http://www.amatias.com/bbs/30/473.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF35mm F1.4L USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
裏通りを歩いていたら古い木造家屋の窓から熱い視線を感じた。1匹の猫がぼくをまんじりと見やっていた。ぼくはじりじりとこの綺麗な猫に近づき、「では、真っ正面にあなたを置き、1枚だけいただきま〜す」と静かにシャッターを押した。
絞りf4.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02栃木市」
窓ガラスの内側に塗られたペンキ。廃屋になって久しいらしいが、長年日光に晒され、変色、変形、ひび割れし、一種のモダンアートのように。どのように画面を裁ち切るかに腐心。白ペンキを飛ばさぬよう露出補正にも気を遣う。
絞りf8.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2019/11/22(金)
第472回:プリセットは “拾う神”。その功罪(最終回)
 画竜点睛を欠き(がりょうてんせいをかく。全体としてはよくできているが、細部の仕上げに難があったり、肝心なところに神経が行き届いていないこと)、そこを事細かく我が倶楽部の人たちにくどくどと指摘してしまうと、後で必ず嫌がらせを受けたり、石をぶつけられたりする恐れがあるので、毎月の写真評では否応なくぼくは隠忍自重せざるを得ない。いわれのない不当な非難を受けるのだからたまったものではない。習い事の基本は言葉で教わるものではなく、自ら学ぶことにあるのだから、それに従って最小限のことしかいわないことにしている。
 しかし、ぼくは義務感に駆られ、そのような迫害を受けながらも、懲りずに16年間も指導者もどきとして精進してきた。その度にストレスは増幅の一途を辿り、挙げ句体調を崩し、結石、痛風、癌、それに加えて人格破綻などさまざまな厄災に見舞われ、出るはため息ばかりだ。
 中学時代の同窓生数人に「写真を教える義務がお前にはある」と脅迫され、身の危険を感じたぼくはしぶしぶ引き受けてしまったが、もうあとの祭り。災難はすでに16年も前に始まっていたのだ。

 話を元に戻すと、細部の積み重ねが全体を “再構成” し、その結果訴求力や力感を増したり、意図するところが明確になったりすることを知って欲しいと願っている。この作業を行うには、それなりの粘り強さや執念、根性や自己顕示の強さがないと成し難く、まさに「言うは易く行うは難し」である。
 また、その積み重ねが、感覚や技術の向上にどれほど役立つかについても、強く訴えたい。それを億劫がらずにこつこつと励行することが、即ち「才能」なのだとぼくは思っている。

 自身の修業時代について語るのは少々気が引けるが、徒弟制時代に受けた影響は、思い起こすだに、ぼくの考えの基本を成している。
 当時は暗室作業の一切出来ないポジフィルム(カラースライドフィルム)の使用が99%だったこともあり、師匠の微に入り細を穿(うが)ったライティング技術と光を読み取る能力は並外れたものがあった。
 ぼくはそれを盗み取ろうと、誰もいなくなったスタジオにひとり残り、師匠のライティングをそっくり真似て同じものを撮影してみるのだが、それは似て非なるものだった。あの時の絶望感は今以て忘れがたい。それを飽きずに何度も繰り返しているうちに、ある日突然、微細な光の違いが判別できるようになった。繰り返すことの大切さを、ぼくはその時身を以て覚えたものだ。   

 プリセットはさまざまな表現をクリックひとつで提供してくれ、微調整も可能なものが多く、とても重宝で便利なものだが、あくまで他人任せのもの(既製品)であることに鬼胎(きたい。心のなかのひそかな恐れ)を抱いて欲しい。
 さまざまな効果が得られるが、そのなかでも特に留意しなければならないことのひとつは、「明瞭度」(ソフトメーカーによりそれぞれに用語は異なるが、ここでは大雑把に意味や効果はほぼ同じとする)である。

 「明瞭度」の最も大きな特徴は、質感描写に多大な貢献を果たしてくれることだ。質感描写は写真表現に於いてとても重要な要素のひとつだが、これをどの程度利用するかの限度を見極めることは、かなり難しい課題だといえる。
 何故難しいかというと、「明瞭度」の類は、写真の見た目を大きく左右(特に “見映え” に影響を与える)するが、それに比例して画質の劣化を招く劇薬でもあるからだ。そのことを必ず念頭に置いておかなければならない。
 県展や市展に限らず多くの展示会に並べられた写真を見るにつけ、その「過剰」ぶりは目に余る。思わず両手で目を覆ってしまいたくなるようなものまで散見できる。これはデジタル写真の最たる弊害だ。この弊害をものともせずという大胆不敵な人たちが大勢いるのが現実。

 我が倶楽部でも、時折明瞭度のかけ過ぎを指摘することがある。すでに明瞭度が組み込まれているプリセットが存在するので、それを知らず(気がつかず)して、使用してしまうのだ。そして、「明瞭度」のかけ過ぎに感覚は麻痺していくので、要注意!
 組み込まれた明瞭度を後に修正する方法もあるが(例えばDxO社の画像ソフトであるPhotoLabやFilmPackに附属する「マイクロコントラスト」や「微細コントラスト」は大変優秀な調整機能)、とはいえ明瞭度を調整する機能のついていないプリセットは使わないのが良策である。

 ついでながら、「明瞭度」を変化させると、細部のコントラスト以外も変化するので、「色相」、「彩度」、「全体のコントラスト」なども微調整する必要がある。Photoshopのプラグインとして使用できる他社のプリセットなら、併用することで大きな成果を得られる。
 プリセットを使用する場合、画質の劣化を最小限に止めるためには、非可逆圧縮の jpeg ではなく、可逆圧縮の tif か psd 形式のものをお勧めする。

 「臆病風に吹かれる」と書いたが、これはあるプリセットを使用し、その極端なシミュレーション画像に、一瞬「おっ、いいぞ。これを使おう」と思うことがある。それでOKを出す人もいるだろうが、コマーシャル写真出身のぼくにとって、それはあまりに「過剰」であり、無意識のうちに怖じ気づいてしまうのだ。ぼくの指針とする写真のありよう「過ぎたるは猶及ばざるが如し」から離れたものになってしまう。
 何度もその無軌道なシミュレーションに「これでいいじゃないか」と言い聞かせるのだが、余計なところで薄っぺらな理性が顔を出し、「おれは誤魔化されないぞ」との文言が口を衝いて出る。そんな意地を張らなくてもいいのにさ。そして思わず手を加えてしまうとの事態に至る。なかなか脱皮できずにいるこのもどかしさ。
 しかし、それを上手く取り込み、突破する感覚を持たないといけないのだが・・・。そんなことをもプリセットは示唆してくれるありがたい存在なのだ。

 プリセットについてはまだまだお伝えしたい事柄もあるのだが、まずはぜひ一度お試しのほどを。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF35mm F1.4L USM。
埼玉県さいたま市。

★「01自宅」
台風19号襲来。作品というより写真日記のようなもの。我が家の玄関は写真のように面取りガラスが18枚はめられている。軒下が深いので、ガラスにまで水滴がつくことは滅多にないのだが、珍しい光景に思わずカメラを取り出した。
絞りf5.6、1/20秒、ISO400、露出補正-2.00。

★「02荒川」
台風一過の翌日、荒川堤の近くに住む友人からスマホ写真が送られて来た。それを見て、「おいらも一見」とばかり駆けつけた。堤防の真下まで水が溢れ、サッカー場や野球場をうわばみのように呑み込んでいた。PLフィルターを付けアメリカンナイトを気取る。太陽が雲に隠れる頃合いを見計らって。
絞りf8.0、1/1000秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2019/11/15(金)
第471回:プリセットは “拾う神”。その功罪(2)
 どのようなものにも、メリットとデメリットが共存するというぼくの考え方に従えば、便利で有用なプリセットも同様だ。それを日本語に置き換えれば、標題通りの “功罪” ということになる。
 そして、「プリセット、ありがたや」と踊ってばかりいられない状況にも遭遇する。必ずしも良いことばかりとは限らない。今回は、ぼくも含めて身近にいる愛好家(我が倶楽部の人々をダシにしながら)のはまりやすいドツボについて述べてみたい。

 暗室作業(補整。英語ではレタッチ Photo Retouch)を行う上で、ぼくの主戦力はAdobe社のPhotoshop。それを使い始めたのはバージョン4.0(1996年発売)からで、もうかれこれ23年も出資を惜しんでいないことになる。
 撮影とほぼ同程度に暗室作業に重点を置くぼくは、どれほどこのソフトのお世話になったか計り知れない。撮影した原画は、料理に喩えれば素材(食材)であり、暗室作業はそれを美味しくいただくための調理といえる。
 イメージをより明確に表現する手法としての暗室作業を行う際、今まで見逃していたことをPhotoshopは教えてくれもしたし、また多くの発見をもたらしてくれた。その発見はぼくの写真生活に於いて、かけがえのないものとなっている。

 Photoshopは、アンセル・アダムスの教本に頻繁に使われている “ビジュアリゼーション” (視覚化。被写体に対峙した時に、それをどのように印画紙上に再現するかを頭の中でイメージすること)という言葉が撮影時に如何に大切なことであるかを知らしめる手助けにもなってくれた。
 フィルム時代から暗室に籠もってきたぼくにとって、アナログでは到底不可能だったことを可能にしてくれたのもPhotoshopだった。フィルム時代は非常に困難だったカラー写真をも扱えるようになり、まさにPhotoshopなくしては不可能なことだった。それほどアナログのカラー写真は扱いが難しかったものだ。

 自身をPhotoshop信奉者とまではいわないが、いくら有用であっても「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」を良き教師とし、また戒めとしているぼくは、常に警戒心を怠らぬように心がけている。歓び勇んで、ついついやり過ぎてしまうのだ。前号にて述べたが、それを称してぼくは「ドツボにはまる」と。

 「過剰」への警戒心が、時として臆病風を吹かせる(次号で述べる)こともあって、ぼくは呻吟苦難の連続である。「写真って、こんなに厄介なものなの? ただ撮りゃいいってもんでもないし」との自問自答に日々明け暮れている。
 「過剰」であるかどうかの、その境界線を見極めるのはとても難しい問題で、それは撮影者の美的感覚にもよるが、それよりも大きく関わってくるのは、やはり写真に対するその人の “練度” ではなかろうかと、この頃つとに感じ始めている。臆病風に吹かれるのだから、これは永遠の課題かも知れない。
 つまり、自身を表現する上で、「過剰」な表現であるかどうか、あるいは「必須」のものであるかどうかをよく吟味する必要がある。自身の姿を見失い、それを他に置いて、写真の「見てくれ」に窮したものは、見れば分かるものだ。

 Photoshopが万能の主であるかどうかは分からない。だが、「Photoshopでできないことは何もない」とも思っている。しかし、世の中に「万能なものなど存在しない」との便法を講じれば、Photoshop信奉に無理が生じる。
 Photoshopを前にあれこれと考えあぐねている時、ぼくは他のソフトのプリセットを試みることにしている。「叶わぬ時の神頼み」をするのだ。これが殊の外、功を奏することがままある。「そうそう、これだよ」って。
 プリセットを使用し、シミュレーションそのままでOKとはいかないが、微調整が附属しているので、自由が利く。あるいは、プリセットをいくつも重ね、それをPhotoshopに渡し(プラグイン)、美味しい部分(イメージに合致している部分)をそれぞれちゃっかりいただいてしまうという手法を用いる。空、建物、人物、窓、道路(地面)、樹木、シャドウ、ハイライト、質感などなどの気に入った部分を違和感なく統合して、ひとつの映像に仕上げることもある。
 ここに及んでイメージを描けない時もしばしばあり、それは原画自体のクオリティが得られていない(イメージが貧相なのだ)と、きっぱり諦める。そしてまた、いくらプリセットを上手に駆使しても、写真自体のクオリティが上がるわけではないので、そこはいわずもがな肝に銘じておくべきことだ。写真のクオリティはシャッターを押した瞬間に決定する。

 あるプリセットでシミュレーションしたものが、撮影時には気のつかなかったことを発見させてくれる場合もあって、そんな時ぼくは「しめしめ」とひとりほくそ笑む。思わぬ御利益に与ることもあり、因ってぼくは「表現の幅が広がることもあるのだから、積極的にあれこれ試してみるがいい」と倶楽部の人たちに進言している。
 ぼくにいわれずとも、こっそり御利益に与っている人もおり、その熱意はとても好ましいのだが、時によって「過剰」と思えるものにも遭遇する。いわゆる「力技」を駆使したり、見境なくそれに頼ったり、被写体との齟齬が生じたり、乱用の兆しが見られる場合もある。プリセット中毒に陥ってしまうのだ。
 そんな時、ぼくは遠慮深いので多くをいわず、プリセット利用の意欲を失わない程度に最小限のことを指摘するに留めている。言葉を慎重に選び写真評をするのだが、言葉が通じないこともままあり、まったく嫌になっちゃう!
 次号に続く。

http://www.amatias.com/bbs/30/471.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF35mm F1.4L USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
ひどく汚れたウィンドウガラスに、色々な物が写り込み、さまざまな色が混じり合う不思議な光景に出くわした。ハマーの自転車って、どちらかというとファッション系なのに、何で荷物カゴが付けられているんだろう? 今回も紅葉写真と真逆なものですいません。こんな写真を撮っているから「私は嫌われる」。
絞りf8.0、1/50秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02栃木市」
この二つの建物は何故か面(つら)が平行ではない。互いにそっぽを向いている。店主が仲違いしたに違いない。右は蕎麦屋さんなのだが、ぼくが行く時間帯はいつも準備中。入口には「心を込めて準備中」という札がぶら下がっていた。一番高いところにある光取りはステンドガラスがはめられている。趣のある建物なので、次回は営業中にぜひ訪れてみたい。
絞りf8.0、1/250秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/11/08(金)
第470回:プリセットは “拾う神”。その功罪(1)
 新聞やテレビを自分の生活圏から極力排除しているぼくは、それでも人一倍、日本を含めた全世界で今何が起こり、どのような情勢になっているか常に関心を抱いている。それを物づくり屋の必須条件としており、いくら世事に疎くても、世界情勢に無関心では、職業的資格に欠けると考えている。
 出来る限り正確な情報を得ようと、以前はぼくが信頼に足り得るとしたジャーナリストや研究家(日本と海外の)の著した書籍に頼っていたが、今はそこにインターネットが加わった。

 何を以てして「信頼に足り得る」のか、との尺度や基準は人さまざまだろうが、一例をお話しすれば、かつてぼくは延べ400日以上社会主義の国々を一人で歩き、彼らのなかに飛び込んで行った。言葉もほとんど通じずの無手勝流だった。
 多くの人々と寝食をともにした体験は終生忘れがたいものになっている。社会主義ゆえ制約も多く、またある地域では民族独立や主権争いの内乱状態だったりして、身の危険を感じたことは一度や二度ではなかった。戒厳令の敷かれたなかに飛び出し(撮影ではなく、ワイン飲みたさに買いに行ってしまった)、軍隊にとっ捕まったこともある。おマヌケの阿呆だ。
 そんな体験によってぼくが知り得たことと、ジャーナリストや研究家が論じることに違和感が生じず、そしてまた、ぼくが見逃してきた事柄を新たに示し、発見させてくれれば、「信頼に足り得る」と評価して良いのではと思っている。そして、「自分の足で情報を稼ぐ人」でなければならない。それがぼくの「信頼」に対する尺度である。       

 諸国放浪で得た最も大きな財産は「人(個々人)はどこへ行っても同じ」(文化や宗教の違いによる作法や考え方は当然のことながら異なっている)だということだった。それを主眼に置いて、ぼくは彼らにレンズを向けた。
 国家のイデオロギーに関係なく、人間としての個人は、ぼくら自由主義圏に住む者と、幸不幸の差こそあれ、性善・性悪についての差異はない。いうなれば、そこで人間としての善悪を問うのではなく、それは国家にこそ問われるべきものとの考えに至っている。
 人間の幸不幸は国家によってもたらせる場面が多々あり、憎悪すべき対象はそこに暮らす人々ではなく国家である。頭では分かっていても、生身の人間にはなかなか難しくもある問題だ。そのようなことはぼくがいわずとも、多くの優れた文学作品(他の芸術作品にも)に描かれている。
 国家に翻弄され、悲劇に見舞われる人々は今も後を絶たない。

 前置きが長くなってしまったが(いつものこと)、延べ400日以上の放浪で撮影したものは、個展や写真集、単行本や雑誌などで発表させてもらった(その一部は、本連載でも掲載)。今それらを見ると、暗室作業(補整)に疑問符のつくものが多々ある。撮影時に描いたイメージに暗室作業が追いついていないのだ。「あの時感じたものとはちょっと違うんだよなぁ」が、今やぼくの常套句となってしまった。一度世に出てしまったものは取り返しがつかない。これが商売人の定めと潔く諦めるしかない。 
 暗室作業の不備は、つい最近撮ったものについてもまったく同様であり、そんな時、ぼくは人知れず頭(こうべ)を垂れ、泪(なみだ)するのである。

 しかし、悩みが深くなればなるほど救いの手が現れるものだ。「捨てる神あれば “拾う神” あり」だ。そして「信ずる者は救われる」という怪しげで我田引水的な文言(キリスト教信者に叱られるかな? かまわないけれど)は当てにならない。信心より、探究と努力だ。
 
 撮影時のイメージを追いかけようと、代表的な暗室道具のひとつであるPhotoshop(これがぼくの大道具。これなくしてぼくのデジタル写真生活は成り立たない)を散々こねくり回しながら、「違う、違うんだってば!」を連呼する。そんな時の「救いの手」、もしくは「拾う神」となってくれるのが、プリセットだ。
 プリセットとは大雑把にいえば、ある画像に対して「明度、コントラスト、色相、彩度、フィルター、明瞭度などなど」画像を形成する多岐にわたる要素があらかじめ組み込まれたもので、自身の画像をシミュレーションできる仕掛けである。
 画像ソフトによっては100種類以上のものが用意されており、微調整や組合わせも可能なので、ひとつのプリセットから気の遠くなるほどのものが作成可能となる。また、使用したプリセットを自身のお気に入りレシピとして保存しておくこともできる。

 Photoshopで手詰まりとなり、他の画像ソフトにあるプリセットを使用することにより、ドンピシャリとは行かないまでも、イメージに程よく合致することがままある。プリセットは、微調整のできるものがほとんどなので、かなりいい線まで漕ぎ着ける可能性を秘めている。
 プリセットで得た画像は、理論的にはPhotoshopでも作成可能と思えるが、そのためには大変なスキルと時間を要するだろう。その労力を大いに省いてくれるのだから、これ程ありがたいものはない。
 ただし、「信心過ぎて極楽を通り越す」(極楽へ行きたいための信心も、度を過ぎると邪道となり、人を地獄へ行かせるような害をもたらす。信心もほどほどにせよという戒め)の諺通り、喜んでばかりいられない状況を作り出すこともある。「♪ドツボにはまって、さぁ大変♪」(童謡『どんぐりころころ』にこんな歌詞なかったっけ?)。
 次回はぼくの気のついた事柄についてお伝えしようと思う。  

http://www.amatias.com/bbs/30/470.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF35mm F1.4L USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
過去何度もここを通り、廃屋となったこの商店をいろいろなアングルで撮ってみたが、どうしても気に染まぬものだった。今回やっとイメージに近いものが、ベストではないが撮れたような気がしている。綺麗な紅葉の写真でなくすいません。こんな写真は極少数の偏屈な人にしか好かれない。
絞りf8.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02栃木市」
泉町雲龍寺にある十九夜塔如意輪観音(1804年造立。石の丸彫り)。蓮華座の上に半跏趺坐(はんかふざ)し、右手を優しく頬に当てている。質感描写のために被写界深度を深くすると全体が賑やかすぎて、f値の設定に苦慮。被写体をどう裁ち切るかにも腐心。
絞りf4.0、1/25秒、ISO100、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)