![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2025/01/17(金) |
第723回 : 首都圏外郭放水路(2) |
拙連載を始めたばかりの「第2回 : どんなカメラがいいですか?」(2010年5月21日)で、「弘法筆を選ばず」について触れた。この諺は一般に流布されているので、その意味するところを改めて説明することはしないが、今拙稿を読み返すと、この諺についてぼくは「半分は真実で、もう半分はそうではない」と、無責任の極みのようなことを、ちゃらっと述べている。ぼくの連載は、当初よりこんな具合だったのだ。
当時、何故この諺に触れたのかというと、「カメラが写真を撮るわけではなく、またレンズが写真を撮るわけでもなく、写真を撮るのはあなた(人間)なのです」(ママ。当時は “です・ます調” )ということを述べたかったからだ。つまり、「写真自体のクオリティは、機材に依拠しない」ということを端的にいいたかったのである。 肝要なことは、道具の価格云々ではなく、あなたが所有する道具に対する理解と、それを使いこなす知恵や技術にあるということだ。 喩えていうのであれば、現在小型カメラの市場に於ける最も高価なものは、ライツ社のライカだが、これを首に掛けたからといって、当然ながら良い写真が撮れる訳ではなく、そんな保証を得られるわけでもないことは、誰でもが知るところであり、ライカで身上(しんしょう。財産や身代)を潰しかけたぼくがいうのだから、なおさら間違いのないところだ。 ただこの事実は、ぼくの人生に、言葉では言い尽くせぬほどの、大きなものをもたらしてくれた。ライカを通じて、カメラばかりでなくメカニズムやデザインの美しさに裏打ちされた製品価値を知ることができたが、だが無念至極、写真は上達しなかった。世情のあれこれに、いつだって例外はつきものだ。 どうしても忘れがたい思い出は、ライカの引き伸ばし機フォコマートを使用した時の、暗室のほの暗い電灯下で、現像液のなかから浮かび上がる印画紙の像を見た時の衝撃だった。ぼくの写真人生で最も印象に残る出来事だった。あれから半世紀近く経った今も、印画紙上に浮き上がるあの時の画像が、走馬灯のように蘇ってくる。粒子の一つひとつが、まるで砂を撒いたように表現されていた。 フォコマートにより、Tri - X (トライX、1954年誕生。コダック社製のモノクロフィルム。ISO400を、ぼくは200で使用)の粒状の美しさを初めて知ることができた。このフィルムは逸品であり、機会があれば述べてみたい。 高品質な機材(もしくは道具)を手にする最大のメリットは、「それを手にする高揚感」であり、それによる「意欲の向上」にある。そのような人々は、ぼくの見るところ、ほとんどの場合、腕の上達が期待できるものだ。「大枚をはたき良いものを手にする」ことは、あながち無駄なことではない( “見栄” や “評判に流される人たち” は論外である)ということもついでに述べておかなくてはならない。 一方で禅問答もどきを一言いっておくと、「安物買いの銭失い」は、言葉通り非常に厳しい現実を突きつけられる。幸か不幸か、おそらく世の半数近くの人々が、それを実感していないのではと思っている。「安いのだから仕方がない」との事実を知っていながら、その論理に打ち勝つことができずにいる。 つまり、概念的に「安かろう悪かろう」を知りつつも、「良いものを使ってみよう」との意欲より、懐具合を先に見てしまうのである。これは人情の最たるものであるけれど、ここを突き破ったことのない人は、永遠に知ることのできない世界があるということに理解が及ばない。これはこれで、もはや悲劇なのだが、金銭の価値基準は個人差が大きく、あってないようなものなので、解決や導きの手立てが見つからない。 現在ぼくは掲載写真のデータに記しているようにミラーレス一眼(プロの仕事に十分堪え得るEOS-R6 Markllだが、同社の最上機種ではない)を使用しているが、以前使用していたEOS-1Dsシリーズであれば、今回のような撮影には三脚使用を余儀なくされたことは疑う余地がない。今回も一応三脚を担いで階段の上り下りをしたが、現在使用中のカメラでは、まったくの用なしだった。すべて手持ちでOK。正味5時間の撮影で、730カット撮った。パノラマ写真以外は地下の暗所撮影だったが、不安を覚えることはまったくなかった。 特に、大いに助けられたことは、カメラの高感度特性が優れていることと(優れたRaw現像ソフトのノイズリダクション併用)、ブレ防止機能のお陰である。この2点を武器に、ぼくは羽を伸ばして撮影することができた。 「弘法も筆の誤り」という諺もあるが、ぼくは空海のような天才ではないので、この諺を引用するには気が引けるが、今回の暗所撮影では、文明の利器にすがり、筆を誤ることはなかった。 撮影の慎重さと緊張感は機材に左右されるものではないが、労力と時間の節約については大変な御利益に与ることができた。限られた時間内に撮影をきっちり終えるということも、職業カメラマンの重大義務のひとつだ。 今回掲載の写真は、「調圧水槽」、別名「地下神殿」だが、ここに達するために116段の急な階段を意気揚々と大股で降りたのだが、よ〜く考えてみると、次への撮影場所に移動するには、カメラバッグと三脚を担いでこの階段を上らなくてはいけない理屈に思い当たった。意気揚々なんていっている場合じゃないよ。「息も絶え絶え」が目に見えている。空身でさえ難儀しそうなので、機材を誰に持ってもらうかの算段を撮影中に抜かりなくしなければならず、ぼくは老体に鞭打つ他に、余計な心労を重ねなければならなかった。 https://www.amatias.com/bbs/30/723.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4L IS USM。 埼玉県春日部市。首都圏外郭放水路。 ★「01調圧水槽」 別称「地下神殿」。ここは今回で3度目の撮影だが、そのスケールと独特な雰囲気に圧倒される。なお、この画像は納品用の色調とは異なる。ぼくの心象に添ったものだ。 絞りf9.0、0.8秒、ISO 500、露出補正-0.33。 ★「02調圧水槽」 サイドから赤や青のライトを順次照らしてもらった。地下神殿の柱は59本あり、その幅は2m、奥行7m、高さ18m、重さ約500トン。神殿の奥行きは177m。この色調も心象写真だ。 絞りf10.0、0.8秒、ISO 640、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/01/10(金) |
第722回:首都圏外郭放水路(1) |
新年にあたり、みなさまの福寿無量をお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくご愛顧の程を。年老いてますます放埒になる原稿にも、どうかお目こぼしの程を、と年初より哀願調の揉み手をするぼく。
なお、今回議題にあげた撮影現場(首都圏外郭放水路)についての詳細を記すと文字数がかなり必要となってしまうので、ネットやSNSなどに多くが記されており、そちらをご参照くださるよう。 昨年最後の原稿にてお伝えした「聞くも涙語るも涙の物語」の一片を、クライアントの了承を得たので記してみようと思う。 写真を撮るのが商売なので、「聞くも涙語るも涙の物語」もあったものではないと思うのだが、そうはいえ心身ともに難儀であったことは否めない。だが、プロが苦労話をするのはまったくの論外で、ぼくの美学にも著しく反し、本来なら風上にも置けぬことなのだが、このエッセイの性格上、何かのお役に立てばとの思いから、強いてその危険を冒す。この口上により、ぼくは取り敢えず溜飲を下げる。 今回の事々物々は、たとえぼくの身体が若くても同様であっただろう。だが少なくとも撮影の技術的な面に於いて、若い頃のほうが経験値が不足しており、そしてまた悪知恵が働かないので、今よりさらに要らぬ苦労をしたに違いない。もしぼくが駆け出しのカメラマンであれば、今の、ジジィの悪知恵は圧倒的なものだ。いや、圧巻でさえある。「頭は生きているうちに使え」とは、亡父の常套句だった。今回ぼくは、あまり賢くない頭を捻りながらも、それを地で行った。 思わず “悪知恵” と書いてしまったが、これは「同じ結果を得るための最短距離」という意味であり、その方策でもある。決して高くない鼻を膨らませていうのであれば、40年間写真だけで6人の家族と多くのペットを飼い続けてこられたのは、撮影技術と知恵のお陰である。ぼくが今回、へま(時間内に撮影を終えることも最重要事項)をせずに済んだのは、まさに “悪知恵” のおかげだった。 首都圏外郭放水路各所の撮影要領はスタジオワークではなく、まったくのフィールドワークである。その撮影手続きとコツは、ひたすら技術の簡略化にある。 撮影上、不要なものは潔く切り捨て、余計な手間暇をかけず(楽をするという意味ではない)、良い結果を得ることにある。それを悪知恵というかは別としても、結果が良いかどうかは、実はぼくが決めることではなく、クライアントである。多くの場合、白髪ジジィというのは、聞くところによるとそれだけで説得力があるらしいのだが、ジジむさければ、それが弱点ともなり得るので、痛し痒しである。 どう見ても自分の風体は褒められたものではないとの自覚があるだけに、今回もビクビクといったところだった。首に一眼レフをぶら下げた担当の若い女性に、「カメラはね、こうやって構えるの。足の位置はね」と、ぼくは嫌われぬ程度に、俄好々爺を演じて見せた。 撮影日直前に、現地の建物屋上から北と南への、2方向のパノラマ撮影を追加したいとのメールをいただいた。ぼくの心中は掻き乱され、一天にわかにかき曇った。「撮影には心や機材の準備というものがあるのだから、もっと早めにいってよ」という訳である。だが、これがフリーランスという社会の最下層で蠢(うごめ)く者の悲哀というものだ。 今から20年ほど前、全国に展開する会員制高級リゾートホテルの撮影を一手に引き受けていた頃、「かめさん、パノラマ写真撮れる~?」と、担当女史が上目遣いで、ねっとりと訊ねてきた。 パノラマ写真は未体験だったが、「上目遣いのねっとり表情」が、愛嬌たっぷりだったので、その手にすぐ引っかかるぼくは、二つ返事でOKした。「ダメ元なので、やってみんべぇ」という具合である。当時のデジタル事情を以てすれば、上手くいかずとも、ぼくの返事はあながちプロの沽券に関わるというほどのものではなかった。 テストを繰り返し、本番では、撮影・暗室作業と大変な苦労をしつつも、何とか注文通りの映像を仕上げることができた。今とは異なり、AIなど一般的でない時代であり、画像ソフトをそれなりに駆使する必要があった。 今回のパノラマ写真は、当時のフラッシュバックにより、少々精神を乱し、平衡感覚を失いかけた。 撮影の前々日、近所に4車線道路を跨ぐ長い歩道橋があり、ぼくはそこでパノラマ撮影の実験を試みた。パノラマは通常横写真だが、撮影は基本的に縦写真で撮り、それをつなぎ合わせる。ファインダー内を12分割し、画像の3分の1程度が重なるように撮影。マニュアル・フォーカス(パンフォーカスに必要な絞り値を選ぶ)使用、ファインダー内の水準計を利用し、露出はマニュアル。これで良し、とぼくは僅かに息巻く。 最新のAdobe Photoshopであれば、三脚不要と踏んでいたので、すべて手持ち撮影である。何度か試写を繰り返し、結果はどこにも破綻なく、万々歳。 意を強くしたぼくは当日、龍Q館(施設の母屋)の屋上から、冷たい強風に吹かれながら、約1時間かかって480枚を撮り終えた。デジタルはその場で写真が確認できるという大きな利点があるが、パノラマ写真となると、その利点を生かすことができない。画像ソフトが破綻なく画像をつなぎ合わせてくれるかどうかは実際にしてみないと分からぬところがあるので、念には念を入れ、ぼくは強風に立ち向かったのである。久しぶりの無我夢中が、無性に嬉しかった。 パノラマ写真を撮り終え、カメラバッグに機材を仕舞おうと腰を下ろした瞬間、ぼくは不覚を取り、もんどり打って、後ろ向けにでんぐり返りを演じてしまった。やはり平衡感覚に不調を来していたのだった。クッソ〜、やっぱりもう歳なんかなぁ〜。 https://www.amatias.com/bbs/30/722.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF100mm F2.8L Macro IS USM 。 埼玉県春日部市。首都圏外郭放水路。 面白味のある写真ではないが、取り敢えず証拠として。乞う、次号。 ★「01パノラマ」 視野角、おおよそ160度ほど。遠くに富士山やスカイツリーが見える。 マニュアル露出。絞りf13.0、1/400秒、ISO 320。 ★「02パノラマ」 視野角、おおよそ160度ほど。右端は筑波山。 マニュアル露出。絞りf13.0、1/400秒、ISO 320。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/12/27(金) |
第721回:灰汁(アク)は取らずして |
とうとう今年も終わりを迎えつつあるなか、忙中閑ありでもないのだが、この原稿を認めつつある。年明け早々、ぼくはとうとう喜寿(77歳)を迎える。自分がこの歳になるまで生き長らえるとは、まったく予想外のことである。父よりちょうど20年も長生きしたことになり、この事実は至って実感に乏しい。そしてまた、このことは知らぬうちにぼくに大きな強迫観念を植え付けている。この歳までぼんやりと無為に過ごしてきたことを思うと、何だか父に申し訳のない気持で一杯である。
父は、やっとこれから自身の目標に向かおうとした矢先の死であっただけに、どれほど無念であっただろうと、家族ともども悔やんでも悔やみきれない思いを残して去って行った。罪作りな死である。もし、ぼくに父の無念を晴らす能力が備わっていれば、分野こそ違え、まだ救いもあるのだが、何事に於いても到底父には及ばないと端から諦めが先立っている。努力を欠いたことを素直に認めざるを得ず、ぼくには忸怩たるものがある。 “強いていうならば” 、写真だけはぼくのほうが父より上手かも知れないと想像するところが、如何にもぼくらしい。ここにしかぼくの勝機は見出せずというのが、嘘偽りのないところだ。あくまで、 “強いていうならば” である。 写真好きの父から、子供時代その手ほどきを受けてきただけに、良い写真を撮って父を喜ばせたいと願うのだが、父はぼくの写真を見て、「もう少し灰汁(アク)抜きをせななぁ」というに違いない。 ぼくが写真を見て欲しいと願う唯一の人間が父であることは未だ変わりないが、きっとぼくは、「灰汁のない写真のどこが面白いか。灰汁のない写真が巷では好感を持たれることは重々承知だが、逆に灰汁がないので、作品として肌触りは良いが、味も素っ気もない、表層をさらっただけのものが跋扈(ばっこ。のさばりはびこること。大辞林)している。ただぼくは現在、その灰汁を上手く使えないでいるだけであって、今深味のある灰汁を作品に加味し、反映すべく苦心惨憺しているところ。物づくりというものは常に発展途上にある。それは、親父が一番良く理解していることじゃない?」と反駁するだろう。このことは、先日述べた、「日本酒がジューシーだとかフルーティだとか、そんなことがあってたまるか!」と同義である。 灰汁を取ることにばかり気を取られては、文化の凋落を招くとさえ感じている。ぼくの意地を通せば、灰汁取りは諸悪の根源となりかねないので、ご用心あれというところか。灰汁も妙薬となり得ることがあるのだ。 あと何年写真活動ができるかどうかは神のみぞ知るところだが、ぼくは若い頃から、「人間の平均寿命がもし200歳くらいであれば、人類はさらにクオリティの高い芸術作品を生み出し、ぼくらはそれを観賞することができるであろう」と常々考えていた。それは今以て変わらない。 天才といわれたモーツァルトは(天才というのであれば、ぼくはモーツァルトでなくJ. S. バッハやベートーヴェンを位置づける)37歳で夭逝、チェーホフ44歳、佐伯祐三30歳、岸田劉生38歳などなど枚挙に暇がない。 人生200年であれば、ドストエフスキイは、『悪霊』以上のものを著したであろうし、トーマス・マンは、『魔の山』を凌駕する作品を撰したであろう。それらをぼくらは読めたに違いないのだ。誠に恨めしい現世の平均寿命である。 余談だが、ドストエフスキイの墓には、『カラマーゾフの兄弟』の序文が刻まれており、それは聖書の『ヨハネによる福音書』の一節である。 「よくよく私はあなたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死なない限り、それは一粒のままだ。だが、死んだのであれば、それは多くの実を結ぶ」と。 今から30数年前、厳冬下のサンクトペテルブルク(当時は、レニングラート)はネフスキー修道院に、ぼくはドストエフスキイを詣でた。 決して有意義とは思えないぼくの夢想話をこれ以上しても意味のないことだが、それはぼくがこの歳になったからこそ、今まで以上に強く感じることなのかも知れない。あるいは、自身の体力が衰えている自覚が成すものなのであろうかとも考えられる。 身体の衰えは、天に抗うことは不能だが、気持だけはまだ一丁前の面をしている。「老いてはますます壮(さか)んなるべし」というわけではないのだが、写真への興味と気力だけは未だ衰えずというところか。明日にはきっと良い写真が撮れると信じており、それが唯一の生きる糧であり、それにすがることが今一番の良策に思えてならない。 ところが、今週始めにぼくは極めて困難を伴う仕事を請け負ってしまった。その撮影場所は過去2度経験があったので、軽い気持で「あいよっ」といってしまったのである。肉体は悲鳴を上げ、撮影時には技術的な困難さも手伝ってか、翌日は全身の筋肉痛。帰路につく際、運転席に座ったぼくは、疲労と安堵が綯い交ぜとなり、しばらくエンジンをかけられぬくらいだった。 この撮影はまさに、「聞くも涙語るも涙の物語」であり、もしクライアントの許可が下りれば、年明けにでも、掲載写真とともにお話しできればと思っている。 年々、回を重ねる毎に、言いたい放題の意味不明文を辛抱強く属目してくださった読者諸兄、担当者諸氏に、この場をお借りして、厚くお礼を申し上げたい。みなさまにとって、佳き年でありますよう。 https://www.amatias.com/bbs/30/721.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 近くの公園で。「撮れるものなら撮ってみろ」と、馬がいななく。 絞りf8.0、1/160秒、ISO 400、露出補正-1.33。 ★「02さいたま市」 近くの公園で。これも子供用の乗り物。実物は可愛く、きれいな色をしたカバ。「こんなカバに乗りたくない」と子供が恐がるカバに仕立ててやろうと撮ったもの。地面に転がる玩具のバケツの配置を測りながら。 絞りf4.5、1/50秒、ISO 250、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/12/20(金) |
第720回:人物撮影の困難 |
年の瀬も押し詰まり、雑務に追われながら、生来の怠惰も重なりなかなか撮影に出かけることができずにいる。これは精神衛生に極めてよろしくない。自分では、写真を撮ることしか取り柄(かどうかは疑わしいが)がないのだから、日々の無為が何とも遣る瀬ない。こんなことをしているうちに、足腰がままならず、近い将来撮影にも支障を来すかも知れないと思うと、生きた心地がしない。元気であることは至上の宝であるからして、怠惰を貪っては罰が当たる。罰当たりは碌な死に方しかしないものだ。そう神様がいっている。
少し前に、「浦和 vs. 大宮」と題して撮影したものを未だ懲りずに掲載写真としていることに、言葉にならぬほどの後ろめたさを感じている。たかだか1時間だけ撮影した大宮を未だ厚かましくも掲載し続けている事実は、ぼくの体たらくを如実に示している。やはり、罰当たりである。 大宮の写真は今回で打ち止めにしようと考えているのだが、よくもまぁ16枚も掲載してしまったものだと、その面張牛皮に、穴があったら入りたい気分だ。人様にお見せするような写真が、1時間に16枚も撮れるはずがないではないか。我が倶楽部の面々はぼくを「天災」と揶揄するが、否定しきれないところが何とも嘆かわしい。「モアレ(仏語。点や線が規則正しく分布したものを重ね合わせた時に生ずる縞状の斑紋で、醜い波形模様を指す)のようなおっさん」などという者もいる。った〜く、放っとけよ! 現在撮影できずにいるので、まだ手つかずのもの(今年撮影し、Raw現像をせずにいるもの)を引きずり出し、それらを吟味しながら、目下現像ソフトと格闘し、気分を紛らわせている。 撮影時に、かなり明確なイメージを抱きつつも、いざそれを画像にするための手立てが見つからず、右往左往しているうちに「後回し」を決め込んでいた。見通しのつかぬものを、その場凌ぎのやっつけ仕事では、「急いては事を仕損じる」に違いないことくらいは、ぼくにだって分かる。合点の行くものにならないことが分かっていることを敢えてしようとすれば、職人の資質を問われることにもなる。それは職人の禁じ手である。 そうこうしているうちに、身近の写真同好の士が、人物撮影に難儀している内情の一端を窺い知った。仮にAさんとする。 Aさんの特技は、商店街などで出会った歳を重ねた店主などと気楽に話をし、「これを買うから1枚撮らせろ」との条件付き口上を容易く操ることができることだ。このような技は、生来人見知りのぼくにはとても使うことができない。Aさんの勇気と作法をぼくは羨む。Aさんの写真を見せてもらう度に、印画紙上に新顔が現れ、ぼくはそのような作法はかつて一度も用いたことはないのだが、これは人物撮影の方向性がAさんとは異なることにあるのだと思う。 もちろんこれは良し悪しの問題ではなく、写真に求めるものや表現の方向性、もしくは作法が異なるのであって、撮影者にしっくりくる方法を用いればそれで良い。 お近づきになった方の人物撮影には難しい点があることも確かで、それは相手が常にカメラを意識するということにある。一概にそれを弱点とする論拠はないのだが、ぼくが私的写真でそれをしないのは、相手の平素の表情や何気ない仕草、つまり自然さが失われたり、また、構えたりする恐れがあるとの点にある。知らぬ間に、かすめ撮るのがぼくの主たる方法。ごく稀に「おいの(おれが)写真ば撮っちやるけん」とか「写真、わしが撮ったろか」などと、照れ隠しに九州言葉や京言葉を武器にすることもある。何故か、標準語は小っ恥ずかしくて出てこない。 人物描写の難しさは、写真ばかりでなく、文学や映画、美術でも同様であり、作者は常に非常な困難とそれに伴う自身の思考への理解、そして観察眼と予知能力を伴うものだ。Aさんがこの困難さを克服する手掛かりとなったり、自身の方向性を見つけることの手助けとして、誠に僭越と思いながらも、ぼくが過去に撮った人物写真の例として、身近にあった92枚の写真をリサイズデータにしてお渡しした。 相手が写真を撮られていると意識する直前のものが大半である。Aさんとは作法がまったく異なるので、どの程度参考になるのかはAさん次第だが、少なくとも技術や構図などを参考としていただければと願っている。ここまでが、大雑把だが人物撮影の難しさの内的要因である。 本来なら、それらの写真を拙稿にて発表できればよいのだが、昨今の、あまりにもヒステリックで行き過ぎたばかばかしい事情(おぞましくも非文化的な、権利ばかりを主張する市民運動と称する人々や団体など)により、それができないことは、物づくり屋として大変無念であるし、また反面、ぼくのように発表を前提とする人間にとっては死活問題でもある。もう少し寛容で穏やかになる時を待つしかないのだろうか。前段落までが人物撮影の困難さの内的要因とすれば、これは外的要因である。 とまれ、人物写真は被写体となるものが人間である以上、撮影者と被撮影者(撮られる側)の、その環境を含めた事柄の読み取りが不可欠であり、たとえ瞬間的な出会いであっても、目に見えぬ糸のような繋がりを必要とする。如何なる場合も、相手に対する個性の尊重がなければ、人物像は描けないというのがぼくの考えである。極端な言い方だが、特に人物写真は、被写体となる人物を借用しつつ、自身を投影した仮の姿ではなかろうかと思えてくる。 https://www.amatias.com/bbs/30/720.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 日もとっぷり暮れ、大宮の歓楽地にも灯がともった。半開きになったガラスドアに広告看板が写り込む。 絞りf8.0、1/100秒、ISO 1600、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 人出が多くなり、あれやこれやの誘惑的な看板が、脈絡なくファインダーを埋めていく。 絞りf8.0、1/125秒、ISO 2000、露出補正-1.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/12/13(金) |
第719回 : 年相応であることの大切さ |
あれも書こう、これも書かなくてはと事前に考えていたことが、いざパソコンを前にすると「何だったっけな?」と考え込むことしばしば。もうそろそろ焼きが回り、それを自覚せざるを得ないのかと多少塞ぎ込んでいる。
原稿を書き連ねている途中、「次の行にはこの言葉を使って、このような比喩を用いよう」とニンマリするのはいいのだが、次行に差しかかると、さっぱり思い出せず、その時のもどかしさ、悔しさ、進退これ谷(きわ)まることにうんざり。 そんな嘆きを同輩に白状すると、誰もが「オレもそう」とか「わたしもそうよ」と判で押したようにいう。「だからたいしたことなどない、大丈夫。もうそんな歳なんだからね」とつけ加え、したり顔で慰めてくれるのだが、ぼくはそのしかつめらし様が何とも癪なのだ。よくもまぁ、分かった風なことを厚かましくもいうものだ。他人事を装い、自分を納得させているだけではないか。 前号で「インスタ映え」のする写真についてちょっとだけ触れたが、それについて、読者の方や知人から「それって、どういう意味?」と、漠然とした質問を投げかけられた。ぼくはそれについて「個人の自由」との立場を表明しているし、是非を問うてないつもりなのだが、もう少し掘り下げての見解を求めているように思えた。 ぼく自身はInstagramにまったく関心がなく、またそれを利用しようと考えたことは一度もないことは前に述べた通り。その理由を大雑把にいってしまえば、いつもいっていることなのだが、自分の写真に対する他人の評価にはほとんど無頓着なことと(他人からの賛同や高評価を得ようと写真を撮っているのではない)世の価値観やつながりといったものから一定の距離を置きたいとの考えからだ。 10年ほど前、ある目的のために、仕方なくFacebookをしたことがあるのだが、あまりのばかばかしさに、目的終了と同時に直ちに止めてしまったことがあった。 今から30数年前のことと記憶するが、ある雑誌の仕事で新潟県の酒蔵を巡る取材(撮影)をしたことがあった。同行した2人の若い女性とある酒蔵を訪問した。そこで提供された酒を一口含み、彼女たちは大変お気に入りのようで、間髪を置かず「ジューシー! フルーティ! おいしい! 最高!」という多言語を含む、感嘆詞連発で言い放った。お世辞ではなく、それが彼女たちの本心だった。 なるほど、若い女性はこういう味を「良しとする」のかと、ぼくは複雑な気持ちになった。彼女たちは2本の酒瓶を、酒蔵の責任者からちゃっかりせしめたのだった。もちろん、ぼくもその場で賞味させていただいたが、「ぼくにも1本」との言葉は撮影に熱中のあまり、発しなかった。ましてや、遠慮が服を着ているようなぼくにとって、それは厚かましく思えたことと、その酒がぼくの舌に合わなかったのである。これが本音かな。 2人の女性に、臍曲がりのぼくは内心「日本酒が、フルーティとかジューシィだと! そんなことがあってたまるか!」と、ぼくも感嘆詞を用いながら、鬨(とき)の声を上げた。というより泣き叫んでいたというほうが正しい。いや、思わず「嘆声を漏らす」といったほうがさらに正しい。 女性たちはおそらく、その若さゆえにまだ日本酒というものの場数を踏んでいないのだろうから、宜(むべ)なるかな、といったところだった。だが、万人に飲みやすいと感じられるものが好まれやすいことは世の趨勢であり、酒に限らず他のものに対しても同様である。人は、何となく心地の良いものに、その得体を知らずとも、あるいは深度を測れずとも、自然と惹かれるものだ。 こと写真に関しても、女子中学生や女子高生が胸に手を当て、夢見心地で「うぁ〜、きれい〜」と発するのは自然の成り行きである。それでいい。そのような写真に憧れるのは、年相応というものだ。やがて、人生経験を重ねていくうちに、好みや理解度、審美眼や美意識が育ち、洗練されながら、やがて熟していくものだ。何度も脱皮を繰り返しながら、変化を遂げていくのだから、ぼくが案ずることは何もないのだが、なかにはほとんど変化せずに堂々巡りを延々と繰り返していることに気がつかぬ人が実際にいる。 自分のことはさて置き、今まで数多くの写真愛好を自認する人たち(助手君たちをも含め)と接していると、作品から「年相応」が窺えず、男女を問わず、中年になってからも女子中・高生の感覚を引きずり、離れられぬ人たちを何人も見受けた。 そのような人たちに共通する点は、いわゆる「がんまち」(京言葉。我が強く、利己心が強いさま。間違えを改めようとしないさま)ということに尽きる。標準語で、一言で表すのであれば、頑迷固陋(がんめいころう)ということになるのかな。 物づくりをする人たちは、往々にしてそのような傾向が程度の差こそあれ、そこから逃れにくいことは重々理解しているが、それが誤った個性に結びついたり、自己表現の助けには無力であることに気づかずにいると、いつまで経っても「伸び代」が得られない。 本人は、自分の作法に得々としているのだろうが、「伸び代」のある人やぼくのような架空指導者もどきの人間から見ると、立茶番を通り越して、悲劇に見えてしまうのはちょい思い過ごしだろうか。そのような人たちを前にすると、ぼくは如何ともし難く、自身の無力を感じる他なしということを悟ると同時に、良薬なしを知るのである。 そんなことを回想しながら、自身のあり様を顧みる縁(よすが)とする今日この頃である。 https://www.amatias.com/bbs/30/719.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 どこにでも見かけるような被写体。店先に置かれたビア樽はどんな効果をもたらすのだろうかと考え、ぼくはその写真を撮りながら結論を求めていた。表示写真はかなりのリサイズ画像となり、シャープさが欠けてしまうのは致し方なし。 絞りf5.6、1/100秒、ISO 200、露出補正ノーマル。 ★「02さいたま市」 大栄橋の下。落書きのなかの赤ペイントが、なかなか堂に入っていると感心しながらの1枚。画面の四隅までしっかりとした解像度を得たかったので、f8.0まで絞り込んでいる。 絞りf8.0、1/100秒、ISO 3200、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/12/06(金) |
第718回 : ジジィの苦悶 |
京都人気質については書き足りないことがまだまだあるのだが、ぼくは臍曲がりの偏屈ジジィなのだそうだから、何を書き出すか危うい。因って、身の危険を回避するために、この議題にはこれ以上触れぬこととする。
本来であれば、本稿にて京都の写真を掲載するのが本寸法というものだが、ぼくは2019年以来、故郷を訪れていないので(本稿、第389回 ~ 第414回、第439 ~ 第449回に京都の写真を掲載)、現在新たな写真がない。 来年も6月に神戸に於ける展覧会の審査員として授賞式に参列しなければならず、その帰路、京都に寄るつもりでいる。ぼくを可愛がってくれた年老いた叔母を訪ねる予定なので、その際に生まれ故郷を “活写?” してこようと考えている。 当時の写真を見ると、「何でや。今ならこうは撮らない」というものがいくつか発見でき、そのことが果たして、進歩か退化の証であるかの見当もつかず、ぼくの気持は混沌としている。来年の京都での撮影に、不安と希望が入り混じった不思議な感覚でいる。 新たな写真を撮る活気に満ちてはいるものの、さらなる発見と表現の確証が得られないところが、ぼくの不安と楽しみを助長している。こんなスリリングなことはない。しかし、来年度に、ぼくが本連載を続けているとの保証はないので、どうなりますことやら。 拙稿が700回を迎えようとした時点で、「ベーブ・ルース(1885〜1948年)が打ち立てた大リーグ本塁打数である714本を目標に(連載714回)」と思っていたのだが、気づかぬうちに、ついうっかり通り過ぎてしまった。耄碌の成れの果てとはいえ、密かに714回を迎えるにあたって、一人寂しく祝杯をあげようと考えていただけに、内心忸怩(じくじ)たるものがある。 最近、つとに “うっかり” と “忘却” が多く、ここでも家族に本気でからかわれている。家族のなかにあって、ぼくに一番優しく接してくれる娘が、「てつろう君は、もうおじいちゃんなんやさかい、しゃ〜ないわな」と変な慰めをいってくれるのだが、嬶(かかあ)の京言葉を真似ていうもんだから、ビクッとする。それでは慰めにはならんのよ。 ここしばらく、写真の話をしてこなかったが、自身の迷いを告白しておくと、写真表現について、昨今は迷い一辺倒といったところだ。カラーにしろモノクロにしろ、暗室作業終了時に「本当にこれか?」という科白ばかり吐いている。できあがった写真が、撮影時のイメージを反映し切れていないのだ。この思いに、長い間思い悩まされてきたのだが、近頃はこの症状がより顕著になりつつある。 読者のみなさんはどうであろうか? そんな思いに捕らわれた経験はいかがであろうかと推察している。 つい昨夜も、今年5月にふらっと出かけた川越の写真を眺めていて、ぼくは頭を抱えながら暗室作業を試みようとしていた。特に、初めて訪れた旧山崎家別邸の便器(小便器用と大便器用)を、あるイメージを抱きながら撮った。 シャッターを切った際にぼくの描いたイメージは、いつかお話ししたと記憶するが、アンキサンドル・ソクーロフ監督(1951年生。ロシアの映画監督)の、日本を舞台とした『オリエンタル・エレジー』(1966年)から受けた残像に縛られていた。もう何年も、あの得もいわれる美しい映像に、身も心も縛られっぱなし。 この作品が、日本で好評を博したかどうかは知らないが(恐らくそうではないだろう)、ユーリー・ノルシュテインのアニメ『外套』やアンドレイ・タルコフスキーの作品群にも一脈相通ずるところがある。彼らの極めて内省的で深奥な映像美に、ぼくは憧憬の念を抱いてきた。 その他に、ビクトル・エリセ(スペイン)、テオ・アンゲロプロス(ギリシャ)、アッバス・キアロスタミ(イラン)などの映像にも憧れを抱いている。 ソクーロフやタルコフスキーの映像は、ハリウッド映画にはあまり見られぬ、暗く曖昧模糊としたトーンのなかに、情感溢れた格別な美が宿っており、ぼくは何十年も魅了され続けてきた。この映画を初めて見た時の衝撃は未だ忘れがたい。それ以来、「いつかはあのようなトーンの写真を撮ってみたい。だが、自分自身の表現をそこに加味しながら再現するにはどうすればいいんだろう」と、ぼくは金縛りに遭ったように自由を束縛されながらも、もがき続けるという大きな問題を抱えている。先ずは、精神の解放からとは思ってはいるものの、なかなか叶わずにいる。何と、もどかしいことか。 余談だが、このような映画のトーン(前述したタルコフスキーやノルシュテインなどの)の美しさに魅了される人は、時流である、いわゆる「インスタ映え」などと称する写真やその類のものには、見向きもしないであろう。どのような写真を好もうが、それは個人の自由だが、少なくともぼくは自身の培ってきた思索や感受を大切にしたいので、「インスタ映え」のする写真を撮ろうという気はさらさらないし、またその手の迎合写真人にはなりたくない。 写真は、他人に見せるためのものでなく、自分を知るためのものだ。ぼくのような高が知れた物づくり屋であっても、「天上天下唯我独尊」であっていいと思っている。 https://www.amatias.com/bbs/30/718.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 大栄橋に上がる階段の中程から、電線に止まったカラスを見つけた。沈み行く大きく真っ赤な太陽の周辺光だけを画面下に僅かに入れた。心情に負けて太陽を入れてしまうと、露骨で不粋な写真となってしまう。巷に溢れかえるカワセミの写真でなくすいません。しかし、ぼくはカワセミの撮影には何の興味も持ってはおらず、展覧会などで「またか」といつも飽き飽きしている。どこかずる賢く、横柄なカラスの目玉とその恰好に興味を引かれた。「オレを撮れ」と命じられているような錯覚に陥った。 絞りf7.1、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 これも大栄橋の下。この橋に特別な思い入れはないのだが、なんだかノスタルジックな空気(1961年。昭和36年建設)が感じられ、興味を引く。 絞りf8.0、1/100秒、ISO 800、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/11/29(金) |
第717回:京都人気質?(3) |
京都からこちらに越してきた当時、言語の著しい違いに、コミュニケーションを取るのがひどく億劫になったことを鮮明に憶えている。「三つ子の魂百まで」というが、そんな諺も小学生中頃にはすっかり消滅し、ぼくはどこへ出ても、他人との会話に怯むことはなくなった。
しかしながら、いわゆる標準語というものに慣れや親しみを覚え始めた少年期でも、自分の意志を的確に伝える言語は、やはり京都言葉と九州言葉であったことは否めない。 標準語というものは、ニュアンスに著しく欠け、素っ気ないものとの認識はこんにちまで変わらない。自身の気持ちや意志を伝える道具として、標準語は役不足であるとの苛立ちは、現在もぼくの心理に強い影響を与えている。 そのためか、自身を表現する他の手立てとして、音楽や写真にのめり込んだと考えるのが、もっともらしい言い訳である。そして、それを補う他の手段として、良質な文学への傾注は必然のことであったように思う。ただ、読書は、音楽や写真と異なり、趣味ではない。「趣味は読書」と、臆面もなく答える人がいるが、文学的良書は、とても趣味の分野になく、読破に苦渋を覚えるものだ。言葉の芸術を噛み砕き、そこに内在する思考を理解するのは、抽象芸術とは異なる面がある。 言葉への苛立ちは、少年期と青年期に顕著となり、結果それが吃音となったのであろうと思う。だが、ぼくの吃音は他人に悟られることはほとんどなかった。特に、「な」と「よ」が出にくく、ぼくは瞬時に言葉を入れ替えるという特異な技を使うことに長けるようになった。ただし、弱ったのは固有名詞だ。固有名詞は、言葉や発音の差し替えが出来ぬため、黙りこくるか、一呼吸置き、気を落ち着かせ、そろりそろりと息を吐き、声帯を震わす他なかった。苦い思い出ばかりが頭をよぎる。「なんで?」や「よろしく」がいえないのだから、その度にぼくは意気消沈し、グレるのだった。 言葉の入れ替え作業は、余計な労力を伴い、少しずつ精神を蝕む。そのお陰で、ぼくは天の邪鬼(あまのじゃく)となり、友人には「臍曲がり」といわれるようになってしまったのである。家族はぼくを指して、最近は「偏屈じいさん」と呼ぶ。小癪な家族に囲まれているので、打たれ強くなるのは必定である。 さて、前回1行だけ記した京都人的気質の典型例として世間でよくいわれる、いわゆる「ぶぶ漬け(お茶漬け)どうどすか?」であるが、京都の親類(複数の従兄弟たちやその子供たち)や友人たちに、確認のため訊ねてみた。ご丁寧にもである。 ぼく自身がその言葉に出会ったことがないので、それは実態に乏しい抽象的な出来事を指しているのではないかと感じたからである。果たしてそれが、抽象的な事柄かどうかの疑問は残るが、取り敢えず、ぼくは実態調査に乗り出したというわけである。 都合7人の、京都人の証言によると、「実際にその科白を聞いたことはないし、使ったこともない」とのことだった。それみたことかと、ぼくは今、鼻をひくひくさせている。因みに、生まれも育ちも京都の嬶(かかあ)にも訊ねてみたが、「そんな言葉、聞いたことも、使こうたことも、一度もあらへんえ」と、さらりといってのけた。 確かに京言葉は、特に女性の言葉は、他府県の人が聞くと、柔らかさや優しさを感じるらしい。ぼくは女性の京言葉に慣れているし、嬶は純粋な京女なので、朝から晩まで京言葉を浴びせられている。彼女は、人生の3分の2をこちらで過ごしているにも関わらず、決して標準語を喋ろうとはせず、どこでも京言葉で通しよる。それは、京都人の特質のようなものだ。学生時代に京都出身の2人の女性がいたが、彼女たちも標準語を喋ろうとはしなかった。ここが同じ関西でも、大阪人と異なる点である。 女性の京言葉については、古今亭志ん朝の十八番(おはこ)である『愛宕山』の枕で次のように語られている。「東京の人間から見ますと、大阪弁とは異なり、京都のご婦人の言葉はやけに当たりが柔らかく、『そうどすえ』なんていわれると、お足がいくらあっても足りない」のだそうである。ぼくは、嬶の京言葉にそのような感覚をまったく抱いたことなどなく、いつも怯えている。 「ぶぶ漬け(お茶漬け)どうどすか?」という世間にすっかり流布された京都人への当て付けや風評は、いってみれば、「狂言回し」のようなものだとぼくは思っている。 また、京都人は遠回しに皮肉をいったり、いいにくいことをやんわり他の言葉にすり替えるのだそうだが、それも誤った伝言ゲームのようなものだ。他府県の人たちにはそう聞こえるというだけの話であって、一種の風説のようなものに過ぎぬというのがぼくの結論である。これも、「狂言回し」の一種であるように感じている。 言葉の違いにより、こちらに越してきた当時、浦和市在住の同窓生から受けた嘲笑にぼくはまったく動じなかった。彼らのからかいに対して、「漬物といえば、タクアンしか知らぬ者の言葉」とぼくは心うち彼らに反駁していた。ぼくの近所は昔ながらの茅葺きの長屋や馬小屋、脱穀機が並んでいた地域だったせいか、彼らから「土人部落」などと揶揄されたものだ。だが、すり減った下駄か、良くてズック靴(木綿地で作られた靴)しか履いたことのない連中にいわれる筋合いなどなく、ぼくは革製の編上靴を履いていたのだった。けれど、ぼくはそんな言葉を彼らに投げつけたことは一度もなかった。たまたま、京都に生まれただけであって、偉くも何ともないことを知っていた。子供ながらに、それをしっかり悟っていたのだ。 話の落とし所をどのようにするか、今困却しているのだが、生まれ故郷(選択不可)に対する愛着や矜恃は誰しもが持つものだ。また、「住めば都」(選択可)に従い、「郷に入っては郷に従う」のが、一番の生き方であろうと信じている。そこに人情というものが派生するのはやむを得ないことなのだが、他所、他者を見下すような仕草が身についてしまっては、写真もそれしきのものである。京都人のぼくがいうのだから、間違いない ! ? https://www.amatias.com/bbs/30/717.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 店先に、等身大くらいのソフトクリーム。見た瞬間に「これは暖色系のモノクロ」と決めつけた。何がおかしいのかよく分からないが、ヒクヒク笑いながらの1枚。 絞りf5.6、1/100秒、ISO 1600、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 オムライスというと、数年前の思い出が蘇る。夕食にそれを渇望する写真仲間を袖にし、全員でイタリア料理店に駆け込んだ。あれ以来、オムライスを見ると、「即却下」という言葉が激しい稲妻のように頭を駆け回る。 絞りf5.0、1/100秒、ISO 2500、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/11/22(金) |
第716回 : 京都人気質?(2) |
本稿を書くにあたって、前号を読み返してみたら、あれあれ、毎度のこととはいえ、写真について何も述べていないことに気づいた。後の祭りであるが、かろうじて写真は掲載しているので、それでお茶を濁しながら、何とか自身を取り繕おうと、少しばかり気詰まりな思いをしている。齢76にして、しかしながら、ぼくにはまだ良心が残っているとみえる。
写真の話はさて置き(そんなことでいいのかなぁ)、取り急ぎ、題名に従うことにしよう。今、担当氏の顔がチラリと脳裏をかすめたのだが、気にせず前に進んでしまおう。 前号で記したように、ぼくは生まれて5年半を京都で過ごした後、こちら(当時、埼玉県北足立郡与野町大戸。現さいたま市中央区)に連行されてきた。誰しも生まれる地は選べないが、5歳半でもやはり住む地を選ぶ権利は与えられずにいた。幸いなことに親はぼくを見捨てずにいたのだった。連行された先は、父の故郷である佐賀市ではなく、さいたま市だった。以来、ぼくはずっと埼玉県人である。 戦争が終結し(ここでいう戦争とは、大東亜戦争のことであり、応仁の乱ではない)、父は軍隊で可愛がってくれた京都市出身の上官の誘いで、借りの住み処を京都に定めたということだった。上官の仕事を補佐するに足りる知識と技術を身に付けていたことが幸いしたのだろう。 父は、佐賀工業高校の出身であったため、数学や物理に長けており、また手先が極めて器用だったことも、身を助けたようだ。まさに、「芸は身を助く」である。大学は東大文学部インド哲学科卒業だったので、上官の助けにはならなかったろうが、ぼくに高僧の教えを分かりやすく噛み砕き、根気よく解説してくれたのだから、ぼくには運が向いていたともいえる。父は英国に数年滞在し、その間ケンブリッジ大学でインド哲学を講義し、本業以外で身銭を得ていたのだから、こちらは「知識は身を助く」だったようだ。 また話が、例によって横道に逸れつつあるので、閑話休題。 京都住まいを始めた父は、やがて生まれも育ちも京都である女性と結婚し、昭和23年(1948年)1月にぼくが生まれたというわけである。母は、ぼくが生まれて約1年後、年子出産の際、医師の不手際で命を絶った。戦後間もない頃の医師の水準で、今なら考えられぬことだそうだ。 本来なら、1歳違いの妹がいたことになる。そんな事情もあって、ぼくに母の記憶はない。以後、母の姉がぼくを育ててくれた。 5年半京都の空気を吸っただけだが、母を失ったぼくを、祖父母、叔父叔母は、不憫さもあってか、こよなく可愛がってくれた。さいたま市に越した後も、小・中・高・大学生の休みのたびに、ぼくは京都と軽井沢(夏の間、父はここを仕事場としていた)を、カメラ片手に行き来していたものだ。その間に、親戚ばかりでなく、何人かの京都人と親しくお付き合いをしてきた。大学時代の、京都出身の友人とは今も親交がある。 こちらに越してきた当初、ぼくはとてつもない環境の変化に、戸惑いを通り越し、精神に異常をきたしかけた。俗にいうところのカルチャーショックである。当時は今と異なり、関西言葉がまだまだ一般に流通しておらず、ぼくは近所の人たちの言葉がよく理解できず、相手もぼくの言葉を実に「けったい」なものとして白眼視していた。からかいの材料にはもってこいだった。 「こちらの “原住民” の言葉は、とても爺むさくて、かなわんわ」と、外来種であるぼくは始終嘆いていたそうだ。 「けったい」を辞書で繰ると、(関西方言。風変わりなさま。奇妙なさま。不思議なさま。広辞苑)とあるが、そのニュアンスを的確に表せるような標準語は見当たらない。同様にして、「かなん」(京都言葉で、いやだ。困る)や「どんつき」(道の突き当たり)や「しんどい」などなど、あげれば切りがない。 そのような言葉の連発に、ぼくはからかわれたり、おちょくられたり、挙げ句、いじめられたりもしたものだ。だが、ぼくはまったく屈することがなかった。その理由は後述するが、一言だけ先に述べておくと、それが京都人の京都人たる所以なのである。 父は地言葉の佐賀弁 + 博多弁でぼくに向かってくるのだから、これはもうたまらん。だが、父と母の異なる言葉の挟み撃ちに遭いながらも、生まれながらに耳にしていた京言葉と九州言葉の区別はしっかりできており、それを器用に使い分ける実に「けったい」な子供だった。それは今以て変わらない。 京言葉、九州言葉に標準語と、ぼくはこれでもトライリンガルなのだ。ただ、九州言葉はネイティブではないので(その土地の空気を吸って育ってはいないので)、佐賀弁と博多弁の区別はできず、使い分けはできない。 京都人気質についていうならば、全国的にそしりを受ける一番手のような気がしている。よく知られるところでは、「ぶぶ漬け(お茶漬け)どうどすか?」が筆頭格としてあげられる。正しい解釈とただの請負の両方が存在するが、ぼくの知るところ、感じるところを、自身の解釈に従いお話ししてみようと思っている。あれっ、今回も写真の話は出ず終いだった。どうかご容赦のほどを。 次号に続く。 https://www.amatias.com/bbs/30/716.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 大栄橋。階段のてっぺんにいる青年は撮り鉄で、列車の到来をスマホで調べている。中段の女子高生は、カメラを覗き、試運転か? 後ろでカラスが見守っている。下段の青年は、そんな撮り鉄たちを我関せずと、ポケットに手を入れて登っていく。3者の対比をどの様な構図(瞬間)で捉えるかに神経を集中して、シャッターを切る。 絞りf7.1、1/200秒、ISO 640、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 大栄橋の下に家が建ち並ぶ。家の屋根は橋の道路の傾斜に隠れて見えないが、天井はどうなっているのだろう? 電線を支える碍子(がいし)がたくさん点在し、風変わりな風情を醸していた。 絞りf8.0、1/80秒、ISO 1600、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/11/15(金) |
第715回 : 京都人気質?(1) |
いわゆる「県人会」というものがある。そのほとんどが民間の任意団体とのことだが、生憎ぼくはこの「県人会」というものには一切の関心がなく、立ち入ろうとも思わない。その一番の要因は、ぼく自身が同郷の士と「群れを成す」ことにまったく興味がなく、それどころか心の片隅で、そのようなものを毛嫌する性向があるからだ。
そしてまた、誤解を恐れずにいえば、その言葉に「烏合の衆」を感じ取ることがあるからだろう。純粋な親睦の会を逸れているという気配を耳にすることもある。親睦に利害関係や社会的身分を持ち込んでは身も蓋もない。これは「県人会」に限らず、ぼくの身近でいえば、残念ながら写真の団体・組織もまったく同様であると感じている。 毛色の異なるよそ者が入り込もうとすると、それを嫌ったり、除け者扱いをするその排他性がぼくの気質に合わないのだ。そのような集団や団体にはやはり怖気を震って近寄り難い。そこに属して、自分の何かが磨かれるとは到底思えないのである。 個より集団的な性質、もしくは組織的な権威を振りかざすようなちゃちで粗悪な集団には、近付きたくないものだ。そのようなものに身を守られたいとか歓心を買おうとはまったく思わないし、殊更にそれをお宝のように重んじる環にぼくは与したくない。 「同郷の士」という意味でいえば、確かに、その土地固有の歴史や環境により培われた共通の風土、風習、人柄ともいうべきものがある。方言などもその一環である。それらをぼくはとても尊重しているし、特別な敬意を払っている。そこで育まれた人間性というものが隠しきれないものとして存在することを大いに認めている。だからといって、もし徒党を組むことのいやらしさを感じ取れば、ぼくは直ちに撤退することに決めている。 集団というものは、様々な環境で生きてきた人々、考えや嗜好の異なる人たちの集まりであることにより、はじめて存在の意義があるとぼくは常々思っている。ぼくが、「来る者は拒まず、去る者は追わず」を徹底できるのはそのような考えからだ。他を知ることにより(自分と異なることを知る)、自分が成長する糧となるとの意識が強い。 人間が生きていく上で、誰しも仲間意識というものを持っている。一人では生きられないとの危機意識があるからだろう。それは本能に近いものだ。この複雑多様な社会にあって、一人で生きていくことは不可能であり、どうしても似たもの同士とか志を同じくする者、あるいは同じ利得を有する磁場に引かれるのは当然のことだ。ここで偉そうなことを吠えているぼくも、仕事仲間や友人たちに支えられている。彼らあっての自分である。 仕事仲間は、どれほど意気投合しなごやかであっても、やはりシビアさ(要求・条件が過酷であるさま。また、批評・言動などが容赦なく、手厳しいさま。大辞林)があってのことだ。同郷の士だからといってミスを認めてくれるものではない。これは生きるための非常な良薬である。もし、同郷であることで、 “なぁなぁ” で済むような関係であれば、「百害あって一利なし」。傷のなめ合いは、自身の質の低下や凋落を招くので、遠ざかったほうが良い。 さて、余分なことばかり辛辣に述べている自分がいることに気づいているのだが、ぼくは京都市出身である。京都人といっても、生後5年半のみの未熟者だ。それ以降、さいたま市に70年余寄生している。 埼玉県に京都人会があるのかどうか知らないが、多分存在しないだろうと思われる。長年過ごしてきたさいたま市だが、以前にも述べたことがあるが、ぼくにはどうも郷土愛というものが芽生えない。元々、そのような質なのかも知れない。だがこのことは、何故かぼくの心を突き、気詰まりさえ覚えることがある。酸いも甘いも体験させてくれたこの地に、申し訳ない気持でいる。我が拙稿を、14年以上も辛抱強く掲載させていただいているのも「さいたま商工会議所」のお陰である。恩返しか、面汚しかは分からないけれど、とんだ執筆者である。 ぼくは、つまり今の地に何となく住んでいる。結論をいえば、どこに住んでもいいと思っている。生を受ける地は選べないが、死に場所を選ぶ権利くらいはあっていい。ここが終(つい)の棲家となるかどうかは分からないが、心を許せる得難い友人が何人かいるので、人的居心地という点に関していえば、「ここでいいか」とも思っている。 多感な時期を、浦和市立(現さいたま市立)の小・中学校で過ごせたことにより、目眩めくような思春期と青春期を形作り、そして、いつまでも大切にしておきたい宝物をたくさん得た。 これらの基石となるものは、冷静に振り返ると、やはり京都を外しては考えにくい。自身に京都的(世間でいわれるが如くの)なるものが、内在しているかどうかはよく分からないが、こちらに越してきた頃の、大変なカルチャーショックは、曰く言い難し。言葉が通じないのだから、さいたま市はまるで外国であった。それは、通奏低音のように今もぼくの心のなかで、無意識のうちに響いている。 次号に続く。 https://www.amatias.com/bbs/30/715.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 店のなかから、半開きになったガラス窓越しに。うら寂しくはあるがどこか猥雑な世界が垣間見えた。店名の色が飛ばぬよう慎重に露出補正。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 3200、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 靴屋の店先を、二重のガラス越しに。どこか一世代昔の面影を見る。革靴、スニーカー、サンダル、スリッパの混在が面白い。店の奥に何故か三角コーンが置かれていた。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 10,000、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/11/08(金) |
第714回 : 浦和 vs.大宮(2) |
紅葉の季節なのだそうである。写真愛好家、特に風景写真を好む向きにとって、心ざわつく頃合いらしい。と、まるで他人事(ひとごと)のようだが、ぼくにとっては本当に他人事である。とはいえ、ぼくだって目の覚めるような鮮やかで美しい紅葉を前にし、盛んにシャッターを切った時期があった。
20代前半の頃、紅葉美しき尾瀬や京都、軽井沢などで夢中になってカメラを振り回したものだ。もちろん、フィルム時代のことである。カラースライドフィルム(カラーリバーサルフィルム、もしくはポジフィルムとも)をライカやニコンFに装填し、使用フィルムはエクタクロームやコダクローム(ともにコダック社製)だった。高価なフィルムだったため、ぼくはせっせとアルバイトに精を出したものだ。半世紀以上も前の、懐かしい思い出である。 デジタルとは異なり、フィルムは1枚撮るごとに、タクシーの料金メーターが上がる時のように「カチッ」という音が(昔のタクシーはそうだった)頭のなかで容赦なく響いたものだ。だが今思うと、これは精神衛生上とても害悪をもたらすものなのだが、当時はそれが当たり前の時代でもあったので、致し方のないこととの諦観めいたものがあった。「それが嫌なら写真などにかまけるな」というわけである。「写真を無造作に撮るな。一発で決めろ」との仰せに、意を決して撮ったものだ。 今ぼくらはデジタルの恩恵に浴し、何枚撮っても料金メーターの音に怯えることなく、シャッターを心ゆくまで切ることができる。何と良い時代になったことか。だが、このことは必ずしも良い写真を保証するものではないことは、言わずもがなである。とはいえ、枚数を稼ぐことができれば、確率も上がる。これはデジタルの最大の恩恵であろう。そのありがたさに神経が麻痺し、時に乱雑さや不用心という悪魔が顔を出す。安易さは技を滅ぼす元凶である。 美しい紅葉を実際この目で見ることは、ぼくだって人の子、心を揺さぶられたり、感動を呼び覚まされたりする。だが、20代半ばを過ぎて、それを写真に収めようという気にはどうしてもなれなかった。何故かといえば、乱暴な言い方だが、ぼくが撮る必然性を感じないからであり、写真として面白くも何ともないからだろう。つまり、ぼくにとって紅葉写真は、自己のアイデンティティを示すものとは遠い距離にある。 絵はがき然としたものをぼくが撮る必要など感じていないからだろう。「誰が撮っても、似たり寄ったり」だと思っている。ぼく自身の、 “たわいない日々の発見” に於ける真実を大切にしたいし、それを自己表現として写真に表すことのほうに、より恐れと魅力を感じる。極論すれば、ぼくにとっての風景写真は、A. アダムス(アンセル。米国。1902~1984年)が最初にして最後である。 “たわいのない日々の発見” とは、大上段に振りかぶっていえば、親鸞聖人の著『教行信証』(きょうぎょうしんしょう。浄土真宗の根本聖典)にある「聞きがたくして すでに聞くことを得たり」ということになるのだろうか。その意味を、亡父が30分ほどかけて解説してくれた。その記憶をたぐり寄せると、「日常生活に於いて、人は多くのものに出会い、見聞しているが、そのなかから心の拠りどころとなる真実を見出すことは、なかなか困難であり、それを阻んでいるのは自らの邪険であることを悟った」ということになる。 自身にとっての真実を写し取ることに、写真の醍醐味があるとぼくは思っている。 こんなことをさらに論じると、標題の「浦和 vs.大宮」が吹っ飛んでしまう。紅葉ついでにいうと、浦和でも大宮でも、残念ながら、ぼくがかつて他所で目にした見事な紅葉は見られない。せいぜい、黄色と化した銀杏が関の山だが、これは浦和や大宮に責任があるわけではなく、気候条件がそれにそぐわないからであり、ないものねだりをする自分が愚かなだけだ。 紅葉の欠如は、だが、季節を感じさせる風情に乏しいという言い方はできる。どうあってもぼくは浦和や大宮を貶めたいというわけではないのだが、情趣に乏しいというのは事実なのではないかと感じている。 この言い分が、京都人の性根に基づくものなのかどうかは判然としないが、だがどこか心の奥底に、京都人の “澱” (おり)のようなものが、ドロドロとへばり付いているとの自覚はある。機があれば、それについても論じてみたい。 先日、撮影のために大宮の繁華街を何十年ぶりかで徘徊し、かつて大宮在住の友人と足しげく通ったことのある大衆居酒屋が未だ健在であることに、胸を撫で下ろした。ここの名代(なだい。評判の高いこと)は、もつ煮込みで、何と170円。良き昭和を彷彿とさせるその店で、ぼくらは大宮競輪で外れ券を引き、ヤケ酒を飲む気の毒なおっさんたちとよく杯(さかずき)を交わしたものだ。ここの雰囲気や佇まいや、そこに集う捻り鉢巻きのおっさんたちが焼酎を煽りながらヤケを晴らす光景は、なかなかに文学的である。 作家の石川淳と吉田健一がことさら好きな友人は、ぼくとも文学的嗜好が合致し、取り留めのない文学論に興じていた。この大衆居酒屋はそんな風景がお似合いだった。今ぼくは、文学について(写真についても)誰かと論じ合おうとは思わないが、当時はやはり競輪のおっさんたちと同様に血気というものがあったのだろう。 彼は50代にして病に倒れてしまったが、その店は彼との良き交わりの場でもあり、懐かしさが込み上げてきた。ぼくと仲の良い友人たちは、何故か皆、急ぎたがるのである。同輩の死は、本当に堪える。 大宮駅東口ロータリーから南に入ると、 “南銀” と称する怪しげな佇まいが広がっている。幸か不幸か、浦和にはこのような気配を感じるところはない。 大宮のこの辺りは、今は知らないが、昔は通りを1本隔てたところに、旧中山道が通っており、夜になると如何にもそれらしい黒塗りの車が列を成していた。したがって “南銀” に行ったことはなかったのだが、先日はまだ日暮れ前だったので、好奇の目を持って、被写体を渉猟した。今回はその界隈での2カットである。親鸞聖人とはほど遠いわ。 https://www.amatias.com/bbs/30/714.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 目にマスクをした外国人従業員。7,8m手前で彼らを見つけ、カメラの撮影モードをFVにし、シャッタースピードと絞り、焦点距離を固定し、ISOはカメラにお任せ。歩を止めることなく、切り取った。何年ぶりかの街中人物スナップ。 絞りf7.1、1/200秒、ISO 8000、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 これも反射的にいただく。どんなシチュエーションだったか、ほとんど思い出せず。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 500、露出補正-1.33。 |
(文:亀山哲郎) |