【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

全447件中  新しい記事から  11〜 20件
先頭へ / 前へ / 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / ...12 / 次へ / 最終へ  

2019/03/08(金)
第437回:念願の銚子に行ってみた(5)
 我が倶楽部月例の飲み会(勉強会後に必ず執り行われ、大半の人がこちらに重きを置いている)で、銚子に出向いた二人の婦女子から「私たちは何も悪事を働いていないのに、 “よもやま話” 上で、あたかも意地の悪い人間のような描き方をされており、まったく間尺に合わない。承服しかねる。今度あのような書き方をしたら承知しないかんね!」ときついお叱りを受けた。
 酒精混じりだから、舌の回りも滑らかで、ぼくは彼女たちの勢いのある風圧を体中で受け止め、思わずよろけそうになった。「はい、すいません。二度とあなたがたのことは書きません」とぼくは平身低頭し、神妙な面持ちで謝った。
 根が正直なものだから、ぼくは感じたことをついついありのままに書いてしまう傾向がある。書いていいこととそうでないことの区別ができずにいるので、舌の根も乾かぬうちにまた同じ過ちを冒しそうで恐い。今、正直に書くことの難しさを痛感し、また、「もう少しフィクションを交えて、遠慮がちに書くべきであった」と反省さえしている。

 しかし彼女たちは感心なことに、傾斜地にひっそりと佇むイワシ漁で賑わった頃の外川の姿を探し出し、活写するために2万歩以上歩き回ったのだそうだ。被写体を渉猟しようと同じ場所を行きつ戻りつすることは、より良き写真を撮るための非常に大切なメソードであり、その努力と熱心さには改めて敬意を表しておかなければならない。写真の出来不出来については、まだその実際を知らされていないので何ともいえないが、心がけは立派という他なし。
 ぼくも健康のためと称し老体に鞭打ちながら小癪で気恥ずかしいウォーキングをこっそりしているが、1万歩以上歩くことはそれほど多くない。ましてや2万歩などこの2, 3年経験がない。そんなことをしたら潤滑油の乏しくなった股関節を始めとして、体のあちこちが4,5日痛み、足腰が立たなくなってしまうこと請け合いである。

 平地でさえ2万歩歩くのはかなり大儀なことだ。彼女たちがどの程度のカメラ機材を携えてのことだったかぼくには分からないのだが、外川のあの坂道を上ったり下ったりと、いずれにしても大変な健脚ぶりである。雄々しいのは健脚ぶりばかりでなく、彼女たちは舌の滑りも達者であり、ついでながら極めつきの健啖家でもある。女二人の道中が如何なるものであるか、恐らく男同士より遙かに快活・明朗であろうこと、その姿は想像に余りある。きっとやっかましいんでありましょうなぁ。
 そしてまた、彼女たちの言葉をそのままに引用すれば、「外川に於いて生涯経験したことのないような凄まじい強風に煽られ、何度も体が一瞬フワーッと浮き上がり、時には吹き飛ばされそうになった」とその恐怖を語るのだ。ぼくは彼女たちの体が宙に舞う空恐ろしい姿がどうしても想像できないでいる。彼女たちの体型から推し測るに、その空中浮揚はにわかに信じ難いものがある。
 
 ぼくの行った日は風もなく早春を思わせ、比較的穏やかで心地よかった。仲ノ町駅構内と外川町で約4時間余りをブラブラと過ごしたが、彼女たちと同じスマホアプリによると9,213歩、5.5kmであり、1万歩にはわずかながら届かなかった。しかし、「今日も元気に精一杯歩いた」というには十分な歩数と距離だった。
 いつもは撮影を2時間前後で切り上げてしまう怠け者なのだが、この日は坂の負荷も加わり、1日4時間余ののんびりした撮影は年相応の程よい限度だったのだろうと思っている。

 ぼくが外川の町にかねてより行きたいと思っていた理由は、以前にも述べた通りであるが、やはり漁師町のノスタルジックな佇まい(それが実在しているかどうかの確証は得られていなかったが)に強く憧れたからだ。ただし、ぼくが神田の古本屋で見た外川の写真は多分昭和に撮られたものに違いなく、したがってそれは現在の様相とは大きくかけ離れたものであろうことは容易に想像がつくのだが、ひょっとしてその想像が外れ、憧れに似たものとの出会いが可能かも知れないと淡い期待を抱きながらの訪問でもあった。
 「見つかるかも知れない」とか「出会えるかも知れない」との期待は、いつの場合も心を躍らせ、青春期のワクワク感に似たものがある。
 思い込みの激しいぼくは、外川に心を躍らされるような痕跡というか名残のようなものがどこかにあるに違いなく、もし見つけることができれば幸運だと考えていた。ぼくの外川は、いわば幻想上の憧れのようなものであった。

 写真は常に現場主義だが、ロマンティシズムとリアリズムがほどよくバランスしていなければならないと考えているので、見知らぬ土地にある種の思いを描きながら出かけて行くことは、ぼくにとって大いなる冒険であり、夢多き賭けでもある。行ってみなければ分からないし、何に出会(くわ)すか皆目見当もつかない。未知なるものへの憧れと興味はますます深度を増していく。
 人跡未踏の地や極地に足を踏み入れるばかりが冒険ではない。ぼくにとって北極圏の孤島も外川も、「発見することの愉しさと醍醐味」は何ら変わるものではなく、常に同等だとしている。フォトジェニックなものに目が奪われる機会が多ければ、そこは即ちとても素敵な所であり、離れがたい場所ともなるのだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/437.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川町。

★「01外川町」
傾斜地に昔ながらの住居を見つけた。住人がいれば話を聞けたのだが、残念ながら見当たらず。夕暮れ時の空の表情がよかったので、飛ばさぬように露出を慎重に決める。
絞りf10.0、1/20秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02外川町」
年季の入ったモルタル造りの長屋。最近見かけることのなくなったトイレの排気煙突も立派なノスタルジーだ。
絞りf11.0、1/125秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/03/01(金)
第436回:念願の銚子に行ってみた(4)
 20年ほど前、古本屋の店先で立ち読みしたハードカバーの書籍に掲載されていた銚子市外川町の3枚のモノクロ写真に惹かれるものがあり、それ以来この地を訪れてみたいと思っていた。
 実行するまでに20年の歳月を要してしまったのは、同じ関東でありながらも感覚的・距離的に行きにくいことと、ぼく自身が本来愚図の怠け者であるからだ。忙しさにかまけて、といいたいところだが、「忙しさ」を理由にする者ほど責任逃れの上手な、延いては保身的で生命力に乏しい人間なのだとの信念をぼくは持っているので、やはりそんな言い訳はしたくない。怠惰だと告白するほうがずっとましである。
 仕方なく重い腰を上げざるを得なかったのは、この銚子シリーズで執拗に述べたが如く、我が倶楽部の婦女子たちに先を越された悔しさからであった。
 本来は、成田山の参道で鰻など食しながら久しぶりに人物スナップを撮る予定だったものが、彼女たちへの対抗心がむくむくと頭をもたげ、途上刹那カーナビに「銚子」と打ち込んでしまったのが事の始まりだった。
 20年の思いを込めて、ぼくはスマホのカーナビアプリにローマ字で「chousi」と綴った。この文明の利器は、ぼくのその悔しさを、「おまえは良い写真を撮らなければいけない」という写真屋としての使命感に昇華させてくれたのだった。ここで強調しておきたいことは、あっぱれなのはもちろんぼく自身であり、どう転んでも彼女たちではないということだ。

 ついでながら建て前をいえば、「足腰の達者なうちに行きたい場所に行っておかなければならない。うかうかしておれんわ」というところだ。本音をいえば、「20年も昔にぼくが先に唾を付けた場所であるにも関わらず、いとも容易く先を越されてしまい、彼女たちから揶揄されながら “二番煎じの男” との烙印を押され(彼女たちなら焼きごてを振り回してでも一番乗りに固執するに違いない)、終生それに甘んじなければならないのは、やはり男の沽券に関わる重大な問題なのである。それをできるだけ早いうちにとっくりと見返しておかなければ、今後のぼくの身が危ういのだ。一応指導者の振りをしている身としては、彼女たちの傲然な振る舞いをやり過ごすわけにはいかない。自身の怠惰を棚に上げ、ここは逆恨みをしても許されるのではないか」ということになる。結局のところ、彼女たちは、行ってはいけない所に行ってしまったのである。

 話が前後するが、神田の古本屋で手にしたものはどのような類の書籍だったかほとんど記憶にない。ぼくが心奪われたのは書籍に掲載された写真のクオリティではなく、そこに写された外川町の佇まいそのものだった。写真だけは不鮮明ながらも、脳裏の片隅に薄ぼんやりと座っている。
 おそらくそれは昭和中期の頃に撮られたものと思われるが、その写真からは町全体が哀愁と憂いに包まれ、どこか厭わしく思いの通りにならないもどかしさを漂わす何かを感じさせるものだった。当時の外川は、町というよりはむしろ江戸時代に栄えた集落の趣といったほうが当たっているのかも知れない。残り火といっては言い過ぎだろうか? 
 その写真は昭和のノスタルジーか、もしくは寂れた漁師町特有の匂いのようなものだったのか、今となっては正確な判断材料(記憶となるような)がないのだが、海に向かう傾斜地に、風雪に打たれた板張りの平屋が重なり、へばり付くように居を共にしていたように思えた。全戸が漁業に従事する一種の共同体だったのだろう。それがぼくの外川に関するすべての情報であり、想像でもあった。

 帰宅後、外川の歴史を紐解いてみると、銚子に漁業の繁栄をもたらしたのは17世紀初頭にこの地にやって来た紀伊(現在の和歌山県と三重県の一部)の漁民であった。房総沖でのイワシが大漁であったことから、ここに定住する人が増え始めた。
 なかでも崎山次郎右衛門は万治元年(1658年)、外川に港を築き、漁法を伝え、イワシ漁による「外川千軒大繁盛」といわれるほど栄えたと、ものの本には記されている。また、次郎右衛門は海沿いの小高い丘の傾斜地に碁盤目状の町並を作り、多くの漁民や干イワシを販売する商人などを呼び寄せたとある。また、同時に関西から醤油の製法も伝えられた。(一部出展『銚子漁港のみなと文化』中島 悠子著)。

 ぼくの見たモノクロ写真は、当時の面影がまだ色濃く残されていたと記憶する。だが、移り変わりの激しい現在にあって、あの写真から何十年も経た今はどうであろうかと、不安ばかりが頭をよぎる。

 しかしながら、ぼくの頭は自分本位なイメージで満たされ、それに得々としているのだから、お目出度(めでた)い。一茶の「目出度さもちう位なりおらが春」(「ちう位」は、「いい加減」の意)に、何故か強い共感を覚える。
 よそ者の常で、「喩え不便であっても当時の風情をそのまま保存しておいて欲しい」と、保守的で前近代的な文化論を振り回し、勝手なことを宣うのである。どうしてもノスタルジー(懐古趣味)に負けてしまうのは、人の情というもので、そこに近代化や能率というものを否定したがるもうひとりのぼくが必ず登場する。まったくもって厄介なやつだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/436.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川町。

★「01外川町」
外川町唯一?かどうかは分からないが、雑貨屋さんと覚しき店先を。ガラスの写り込みをあれこれ計算しながら。
絞りf9.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02外川町」
傾斜地に碁盤目状に路地が張り巡らされている。ぼくの早業も犬には通じず目線が合う。やはり動物は人間以上に聡い。坂を下って行くと間もなく漁港に出る。
絞りf8.0、1/160秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/02/22(金)
第435回:念願の銚子に行ってみた(3)
 前回掲載文の最後の段落にて、遅まきながらもやっと銚子の街に辿り着いた。口さがない友人は「やっと銚子に来たんですねぇ。長く遠い道のりでしたねぇ。まるで南極航路みたい」なんて、ぼくをからかうためにわざわざ長距離電話をかけてきたくらいだ。 
 文章より写真が先行してしまい、具合良く時制の同時進行とはいかないけれど、これはぼくの計画性のなさもあるのだが、それより感覚的に過ぎる「一本刀土俵入り」じゃなくて、 “出たとこ勝負一点張り” を露呈しており、素人の杜撰さによる時制のズレともいえ、ここに至ってどうかお目こぼしをいただきたい。
 原稿を書く時間は1時間足らずで済むが、写真の補整はとても1時間でできるものではなく、時によって2日〜3日がかりということも日常茶飯なので、それによる時間的・感覚的なズレも生じてしまう。またぼくのようないい加減で大雑把な性癖は(善意ある言葉遣いをするなら、それを “鷹揚さ” とでもいうのだろうか)、字数制限の緩やかなWeb原稿にはどちらかといえば不向きなのかも知れない。

 今さかんに計画性のなさを言い訳がましく述べ、取り繕おうとしている自分がいることに気づいている。また、本題から外れたことばかり書いているからだということもよく自覚している。そのような指摘をされれば、返す言葉もない。
 分かっていながらも実を伴うことがなく、それに従おうとする気配さえ見せないのは、如何にぼくの頭が小児化しているか、あるいは我が強すぎるかのどちらかだろう。「両方とも同じ意味だ」と、先述した口さがない友人は得意気にいうに違いない。

 しかし一方で、細かいことにこだわらない “鷹揚さ” を常に堅持し、あるいは何でも自分に都合良く解釈しようと試みたがる質の人間は(つまり何事も我田引水をもって由とすべし)、押し並べて風邪やインフルエンザという疫病神に何十年も取り憑かれずに済むのではないだろうかと、医学を無視し、敢えて暴論を吐いてみる。
 そして、 “気まま” そのものによるぼくの日常生活はまったくの不規則であり、また不養生の極みでもある。それはぼくの、写真を撮るためのたゆまぬ努力の末でもあるのだが、この伝、ぼくは非常に悪しき家庭人であったと自戒している。
 もし、あなたの周りにぼくのような人間がいれば、その人は間違いなく些々にこだわらず、 “鷹揚さ” を旨として威風堂々、リスクを顧みず(ここが肝心要)、闊達なる人生を送られているはずである。
 「ものは言いようだね」と、前出の友人が宣うであろうことはすでにお見通しである。

 “鷹揚” であることは、ぼくの重宝な便宜上の養生論であり、いってみれば風邪や熱発の元となる細菌やウィルス除けのコツのようなものだと極めて真面目に受け止めている。つまり “鷹揚さ” は、シャーマニズムに似た魔除けの一種であり、如何に「生き易い」方向に自分を仕向けるかと同義であるということだ。そしてそれに付随するもうひとつの肝心事は、ストレスを避けるための秘薬なのだと信じている。ストレスこそ諸悪の根源である。それは最も強烈な病原体だ。
 意地の悪い友人に「おまえは人から何を言われても、 “意に介さない” ことに慣れているようで、まったく羨ましい限りだよ。屁の河童だもんなぁ」などと皮肉を込めていわれたことがあるが、そのことはしかし、8割がた当を得ている。ぼくにとってそれは写真屋としてのストレスを避けるための、そして生きるための方便なのだ。 

 「病は気から」との諺もあるように、このことは今唐突に思いついたことではなく、30代の頃からの持論でもあった。 “鷹揚さ” こそ最高の良薬という自説は、医者や医学関係者に一蹴されるであろうことは百も承知だが(案外そうでもないという気持もある)、きっと今の科学や医学では解明できない何かがそこに潜んでいるに違いないと、ぼくは昔から本気でそう見立てている。根拠を問われれば論を成さないことは知っているが、神経質で几帳面な人、あるいは遊び心を失った人ほど虚弱であることは否めないのではないか。

 ぼくにとって写真を撮ることはストレスの細胞を繁衍させる行為そのものであり、写真屋になった瞬間からいつ写真屋を辞めるべきか、そればかり考えていたといっても決して過言ではない。「こんなことを今後絶えず繰り返していたら、ぼくはいつか癌か重篤な病に襲われてしまう」と直感していた。予見通り、ぼくは2度の癌に見舞われている。付録のように痛風も結石も。大したものだ。
 余談だが、昨日南青山で仕事の写真を撮っていたのだが、愉しさややり甲斐を通り越して、苦悩と苦痛の連続であった。思い通りのものが撮れないあの苦しみである。
 若い頃には克服できた(鈍いが故に撮れたと錯覚していた)ものが、歳を取るに従い、徐々に堪え難くなってきている。イメージ通り写ってくれないことに対して鋭敏さや深刻さを増すのはとても良い兆候だとぼくは思っているが、あまり鋭敏になり過ぎると疫病神に取り憑かれてしまうので、老後は写真の難易度には関係なく、程々の “鷹揚さ” を確保しておかなくてはならないと思っている。

 外川の町から小さな丘を下り、海岸に出た。ぼくは6年ぶりの海を見ながら、戯れに波を撮ってみようと思い立った。そこには石原裕次郎も加山雄三もおらず、心地よい波の重低音が身体を揺さぶり、潮風が白髪を撫で、そして脳を弛緩させながら、「飄々とシャッターを切ればいいじゃ〜ん」と、ぼくは若い人を真似て鷹揚にいってみた。

http://www.amatias.com/bbs/30/435.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF24-105mm F4L IS USM、EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川漁港。

★「01外川漁港」
心地良い重低音に身を任せ、波の形だけを凝視しながら数枚撮ってみた。
絞りf10.0、1/500秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02外川漁港」
恐らく漁師さんたちの物置小屋だと思われる。色合いが面白かったので、「面白いじゃ〜ん」と、何も考えずにシャッタ-を切った。
絞りf13.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/02/15(金)
第434回:念願の銚子に行ってみた (2)
 東関東自動車道を下るうちに心変わりをしたぼくは、行き先を「成田山」から急遽変更し、意気揚々「銚子」とカーナビに打ち込んだ。ミドリムシ的単細胞だと自他共に認めるぼくとしては、我ながらあっぱれな決断であり、上出来な浮気心でもあったと自賛している。これで20年来の願いをやっと叶えることができる。ハンドルを握りながら、ぼくの意識は高揚し、胸が高鳴り始めた。
 同時に、「きっと良い写真が撮れる」とさかんに自己暗示をかけた。頭の中で、まだ見ぬ絵柄(光景)が次から次へと、回り灯籠のようにぐるぐると現れては消え、消えては現れた。ぼくはその光景を脳内のどこかにある印画紙上にすでに再現していた。空想と現実が渾然一体となり、その区別がまるでできないのだから、おめでたいというか、ぼくはホントに得な性分である。

 前号にて述べたが、我が倶楽部のご婦人二人に先を越され、地団駄踏んだぼくは、1週間遅れながらも彼女たちと肩を並べたかった。先生と生徒が、対等な場に立って、銚子の仲ノ町や外川町について語り合いたかったのだ。たまには美しい師弟関係を演じる振りをしてみたかった。それはそれでお互いにとても良いことだと思う。
 けれど、1週間の遅れは時間的にも物理的にも取り戻しようがなく、致命的であるかのように思えた。この周回遅れは終生彼女たちをあらゆる面で優位に立たせ、事あるごとにぼくを「二番煎じの男」と見下し、陰になり日向になりこの僅かな時間差を針小棒大に捉え、執拗に拘り続けるに違いないのだ。
 ぼくの余生はこれからずっと彼女たちの勝ち誇ったような冷ややかな視線に晒され、それに甘んじなければならない。どうにかしてこのような不条理な仕打ちを、手遅れにならぬうちに打破しておかなければならない。そのための唯一とも思える手段は、ぼくが彼女たちを唸らせるような写真を撮ればいいのである。「やっぱり、おっさんには敵わないわ」とか「おっさん素敵!」とか言わしめればいいのだ。

 だがしかし、すでにこの倶楽部に10年以上居座り、古参となった彼女たちは誰彼なしに「うちの倶楽部は、先生より生徒が偉いのよね」といって憚らないので、指導者モドキのぼくはなかなか打つ手が見つけられずにいる。成長著しい彼女たちの写真は、質的にもぼくとの距離を縮めつつあり、おいそれとはいかないほど手強くなっている。この際、ぼくは彼女たちに写真を教えることより、「しおらしさ」を手ほどきすべきかも知れないと思い始めている。

 今ぼくは、1911年に南極点一番乗りを争ったロアール・アムンセン(ノルウェーの探検家。1872-1928年)とロバート・スコット(イギリスの軍人、探検家。1868-1912年)に思いを馳せている。アムンセンに南極点到達の後塵を拝したスコットの気持ちが、銚子と南極の違いこそあれ、ぼくにはよ〜く分かるのだ(なんと大袈裟な!)。
 ぼくがこの探検を知ったのはノンフィクションの名作『世界最悪の旅』(A. チェリー=ガラード著)を読んだ高校2年の時だった(原書の下訳に四苦八苦させられたので忘れがたい)。アムンセンが到達した約1ヶ月後にスコットは南極点に立ったが、争いに敗れた彼は失意のうちに、帰路悪天候に阻まれ帰らぬ人となった。そして隊も全滅した。
 勝敗を分けた最も大きな理由は、アムンセンが用意周到で経験豊富な職業探検家であったことに対して、スコットは軍人だったことだろう。野球に喩えれば、大リーグと高校野球くらいの差があっただろうと、ぼくはそんな印象を受けている。ただ、スコットの果たした科学的な調査は高い評価がなされている。

 ぼくは未だ南極どころか本題の銚子にも到達していない。何たることと思いつつ、「二番煎じ」とか「後塵を拝す」ことのちょっとした無念さを、恨み辛みなしに語ってみたかった(十分に恨みがましく語っているじゃないか!)。
 他し事(あだしごと)はさておき、自宅から東関東自動車道の終点である潮来ICまで、約1時間半でやって来た。潮来とは今まで縁も所縁(ゆかり)もないが、真っ先に思い浮かぶのは橋幸夫の歌った「潮来笠」であり、それはぼくの中学時代に大流行した歌謡曲だった。
 橋幸夫は、前回に記した石原裕次郎、加山雄三と同様に、ぼくにとってはやはりどうにもいただけない部類の人であり、それに「潮来笠」の歌詞もさっぱり意味不明ときているから、親しみが持てないのだ。

 そんな潮来を素早く通り過ぎ銚子に向かったのだが、土地勘がないためなのか、あるいは高速道路でなく一般道であるせいなのか、なかなか辿り着かない。高速を降りた後の一般道の35kmはかなり遠く感じるが、前述した通り銚子は念願叶っての場所なので、ぼくは高鳴る胸を押さえながら、ちょっとした興奮状態だった。
 彼女たちの言によると「夜、居酒屋を求めて銚子の町を徘徊したのだが、日曜日ということもあってか、まったく見つからず、海鮮料理にもありつけず、仕方なくコンビニでビール、日本酒を買い込んでホテルで祝杯を上げた」とやたら不満げであった。
 車は銚子大橋を渡り、やっと銚子駅前に差しかかった。予想外にとても静かな街の様子である。深閑としたなか、彼女たちの仏頂面がふーっと目の前に浮かんだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/434.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市。

★「01外川駅」
銚子電鉄外川駅に停車するクハ2501の運転席。窓越しに見える赤い電車はデハ801で、2010年に運転終了。今は外川駅に置かれている。
絞りf11.0、1/25秒、ISO200、露出補正-1.67。

★「02外川町」
木造やモルタルの長屋が何棟か残されている。居住していたりいなかったり。
絞りf13.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/02/08(金)
第433回:念願の銚子に行ってみた(1)
 久しぶりに海を見た。何時以来のことだろうと記憶を丹念に辿っていくと、それは2013年の福島第一原発隣接地の高台から、猛烈な放射線を浴びながら見た太平洋だった(たとえば、第195回の掲載写真「19大熊町」)。ぼくはここを5度訪れている。
 あれ以来6年近く海に接することがなかったということは、ぼく自身がどちらかといえば海の写真を撮りたがらない質なのだろうと思う。もちろん、条件次第なのだが。

 若い頃から、海か山かと問われればぼくは断然山のほうが好きだったし、行った回数も圧倒的に山のほうが多い。山は、 “強いていえば” ぼく個人の冒険的要素、文学的要素を曲がりなりにも満たしてくれるような気がするが、海は石原裕次郎だとか加山雄三だとか、彼らが悪いというわけではないのだが、ぼくの感受による思考回路は否が応でもそっちのほうに向いてしまい、それがどうにもいただけない。癪で敵わないというかやりきれないのだ。
 ただ海は、石原裕次郎や加山雄三にはない詩的要素や興趣を添えるものが存分にある。それはとてもフォトジェニックであると同時に絵画的でもある。加え、漁港や漁師町には五感を強く刺激する特有の風情というものがあり、海に縁なく育った身としてはかなり惹かれるものがある。

 山のほうが好きだといいつつも、ぼくは山に行く人に大手を振って賛意を示しているわけではない。何故かというと、登山を好む人のなかには、他の分野の趣味人と異なり、唯我独尊的傾向がより強く見受けられるという一般的傾向があるように思えてならないからだ。
 ぼくは不幸にも、というか残念ながらそのような人たちに多く出会ってきた。曰く「頂上に立った時の、あの素晴らしさを知らない人ってホントに不幸よねぇ」と。あるいは下界にあって行儀の悪い人が、山に立ち入った瞬間に取って付けたようにマナーやらエチケットについて口やかましく蘊蓄を垂れるのである。そのような科白を屈託なく、ほがらかに謳い上げて得々としているその手の人たちって、ホントに苦手なんだなぁ。
 このことは、山が好きか海が好きかとの論旨から外れるのだが、とはいえ、当然のことながらこのことは山に責任はない。山が悪いわけではもちろんない。人間の質とか性向の問題である。あるいはインテリジェンスの問題か。
 そしてまた、「登山=自然を愛すこと」とトンデモ勘違いをしている人たちを多く見かけるにつれ、ぼくはどうしても登山愛好家とは相容れない一面があると気づいている。山行きを好む人たちのなかには、良識ある賢人ともいうべき人がいることは、もちろんよく承知している。ここは公平に述べておかなくてはならない。
 さて、こんなことを書いていると、お定まりのパターンではあるのだけれど、いつまで経っても本題たる銚子が出て来ない。「どうも調子が出ない。調子っぱずれだ」なんて寒い駄洒落はいわないほうがいい。はい、すいません。

 20年程前から銚子電鉄の「仲ノ町駅」や「外川駅」界隈を歩いてみたいと思っていた。もちろん写真に収めるためだ。中学生くらいまで撮り鉄であったぼくは、路線総延長6.4kmの銚子電鉄そのものにも興味があったのだが、なかなか願いは叶わなかった。何かがぼくの銚子行きを阻んでいた。その正体が見えてこなかった。
 今週の月曜日に早起きをして、といっても9時半頃だが、成田山の参道あたりに赴き久しぶりに人物スナップをしてみようかと、珈琲だけを喉に流し込んで10時過ぎに家を飛び出した。銚子ではなく成田山である。まず外環道に乗り成田に向けて突っ走る。

 成田山行き決行のちょうど1週間前に我が倶楽部の婦女子が二人、ぼくを差し置いて、一泊の撮影旅行と称し、あろうことかこれ見よがしに銚子に行ってしまったのである。ぼくは後手を引くという失態を演じた。
 先を越されたぼくはどうにも収まりがつかず悔しくて仕方がない。20年もぐずぐずしていた自分が悪いのだが、しかし選りに選って銚子はないだろう。ここらあたりに彼女たちの底意地の悪さと、作為的な叛心と、後出しじゃんけん的な狡猾さをぼくは鋭く嗅ぎ取るのだ。自分がかねてより行きたいと望んでいたところに、何の前触れもなく「じゃあ、行ってくっからねぇ」と彼女たちは無慈悲な捨て科白を残して行ってしまった。
 取り残されたぼくは無邪気にも、「近々成田山で旨い鰻、たらふく食ってくるもんね」と儚い抵抗を見せた。ぼくは「花より団子、写真より饅頭」を標榜して悪びれない彼女たちとは著しく異なり、「何はともあれ、鰻より写真」だから、そんな悪あがきもひどく虚しいものに感じた。
 東関東自動車道のサービスエリアに立ち寄り、ぼくは透かさず成田山を取り止め、急遽カーナビに「銚子」と打ち込んだ。この変わり身の早さを、二人の婦女子に見せてやりたかった。

http://www.amatias.com/bbs/30/433.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF24-105mm F4L IS USM、EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市。

★「01ヤマサ醤油工場」
銚子電鉄仲ノ町駅に隣接するヤマサ醤油工場。塀があるため間近では撮影できず、1mほどの高さのある土盛りに上る。工場のタンクはB.ビュッフェ(ベルナール。仏の画家。1928-1999年)のタッチを想起させ、嬉々としてシャッターを押す。
絞りf9.0、1/125秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02仲ノ町駅」
仲ノ町駅構内片隅にお役御免となったクハ3501が。そこにあった脚立によじ登りなかを覗き込む。このアングルしか取れなかったが、なんだか不思議な世界が見えた。
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.67。
(文:亀山哲郎)

2019/02/01(金)
第432回:実直なる写真!?(2)
 古希を迎え、より良き余生を送るための心得として「実直」であろうと心がけるのに70年と11ヶ月(正確には一昨日誕生日を迎えたので71年)という大そうな歳月を要し、加え「それは申し分のない余生」と前号にて安直かつ場当たり的に言い立ててしまった。勢いにまかせてぼくはあろうことか善人ぶってしまったのだ。その場凌ぎのいい加減なことをついついいってしまうと、後の執り成しが厄介なことを知っていながらである。いつもぼくはこれで苦労する。この歳になってもひとり気苦労が絶えないのだ。
 けれども、そもそも長い年月をかけて、そんな心境にさしかかった要因を紐解いてみると、心のどこかに「『実直』であること、即ちそれは人としてこのうえない善良さを示すもの」であることに、どこかお題目めいたものを感じ、一抹の不安と疑念を抱いていたからではないだろうか。ここでいう「人」とは、あくまで「写真人」(プロもアマも)という意味である、との申し開きをしておかなくてはならない。
 「実直」であることは、「人」としての倫理的・道徳的規範であり、ひょっとすると「写真人」としてのそれではないのかも知れない。何かが少しだけ違うような気もするのだが。
 
 作品は人格の反映であり、鏡のようなものでもあるとぼくは以前躊躇することなく拙稿にて記した記憶がある。また、誰彼となく、事あるごとにそう説いてきた。これは勢いにまかせて言い放ったことではなく、信念あってのことだ。
 このことは、写真人ばかりでなく、さまざまな分野に於ける優れた物づくり人(一般的には彼らを「芸術家」と呼ぶようだが、ぼくはこの語彙の不用意なる乱用と氾濫に注意深くありたいので、敢えて “物づくり人” と称することにしている)に多く接し、それを実感してきた。過去編集者として、そして現写真屋として、ぼくはその機会に恵まれていた。

 彼らが「実直」であるかどうかというより、優れた物づくり人ほど相手に対する誠意や思いやりを強く感じること非常にしばしばである。一流どころ程誰に対しても腰が低く丁寧だ。そして庶民感情に対する深い理解を示す。これは知性の顕れと思われるが、それをして「実直」と表現するのだろうか? 
 そしてまた、彼らは一般社会でいうところの常識や慣習には極めて無頓着で、自身の道に一途のあまり単独無頼を思わせる人が多かった。そのような人々を世間では変人とか異端者と呼ぶらしいのだが、人間臭紛々として極めて興味深く、愛敬さえ感じる。拍子が一歩外れると「煮ても焼いても食えない奴」となるのだろうが、辟易としながらも人間的には彼らの方が遙かに自由闊達で面白いとぼくは感じている。
 しかし、昨今は世代間や社会的事情の差もあるようで、現代を生き抜くには「実直」だけでは難しい面があるだろうことは、頑固なぼくでさえ認めている。

 実生活を営んでいくうえで「実直」であろうとすることはきっと善良であることの証に違いないと繰り返しいわざるを得ないのだが、生真面目な人、あまりに慎重過ぎる人、几帳面に過ぎる人、誰からも「良い人」と認定されている人、見るからに「堅物」とされている人、洒落や冗談の通じない人、融通の利かない石頭の人などなど、率直にいえば写真人に不向きなのではないかと、多くの写真愛好家を見ていて、そう痛感すること多々あり。
 彼らの写真は「実直」に過ぎて、良い意味での個性や力感、訴求力に乏しいように思えてならない。平易にいえば「面白くも何ともない」のである。

 ぼくの浅はかな思考によると、写真人にとっては「実直」も程々が善く、人格的には多少歪みや破綻が生じていたほうが、魅力ある写真が撮れる確率が遙かに高いと考えている。否、 “考えている” という主観的ないい方ではなく、客観的見地に立ち、かなり確信的に、「少しくらい箍(たが)の外れた人間のほうが面白味のある良い写真を撮るものだ」と言い切っても良い。
 言い換えれば「ちょい悪」くらいが、写真人にとっては居心地が良く、精神を解放しながら、程良い緊張感を保てるのではないかと、ぼくは今勢いにまかせていっているのだが、あながち見当外れでもあるまいと思っている。
 そういえばかつて拙稿でも、あるいは講演会でも、ぼくは口に年貢はかからないと、「品行方正なる聖人君子に物づくりは絶対不可能」と明言してきた。その考えは今もまったく変わらず、正しいと思っている。ぼくは聖人君子に対する物言いこそすれ、自省の念などからっきしないので「ちょい悪じじぃ」を通そうと決意している。窮屈の極みのような昨今にあって、多少なる不逞の輩がいたっていいじゃないか。
 やはりぼくにしおらしさは似合わないし、余生の目標はただひとつ。良い写真を1枚でも多く撮ることにあるのだから、残念ながら古希の誓いとして立てた「実直」さも、涙を呑んでお払い箱にしようと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/432.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF11-24mm F4L USM。

埼玉県さいたま市。
★「01岩槻区大字平林寺」
東北自動車道岩槻インターから下り線を3km程行くと、左手間近に大きな煙突が見えてくる。高速道路からは煙突しか見えないのだが、明らかに廃屋だと分かる。何十年も前から「あれは何だろう?」と思っていたのだが、やっとそれを確かめに行った。和紙にプリントしたかのように仕上げてみた。
絞りf11.0、1/160秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02浦和駅近く」
高架線の壁に、夕陽に照らされた家々の影が。赤外線フィルムの感色性を模し、冷黒調プリントで。
絞りf8.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/01/25(金)
第431回:実直なる写真!?(1)
 現在の還暦というものは一昔前と異なり、平均寿命の延びた現代にあって単に人生の一通過点に過ぎないとするのが一般的な感覚なのではないかとぼくは考えている。日常生活を普通に送る上で、精神的にも、肉体的にも、衰えによる支障がほとんど感じられないので、還暦を人生のひとつの節目と捉えるには実感が伴わない。少なくともぼくはそんな感覚を持っている。  
 満60歳を迎えた10年前、定年退職という制度に無縁のぼくは「会社員など、この歳で現役を追われるのは早すぎる。長年にわたって蓄積された知識や知恵、経験を生かせないのは企業にとって大きな損失ではあるまいか。第一まだまだ意気軒昂であろう」と、会社組織については素人ながらかなり贔屓目の実感を抱いていた。それが同輩のよしみというものだ。
 実際には定年の年齢が延び、同窓生などを見渡すと、周囲の迷惑を顧みず、しぶとく会社に居座っている者が多く見られた。中立的な場に立っていえば、「部下にとって、彼らは鬱陶しい存在やろうなぁ」とも思ったものだ。

 昨年ぼくも人並みに古希を迎えたのだが、私的な写真を撮る時に還暦時にはそれほど苦痛を覚えなかったカメラ機材の重量に時折悩まされている自分にハッとすることがある。
 今まで撮影時は、アドレナリンが噴出していたせいか、くたびれ加減があまり気にならず、終了したとたんにドッと疲れを感じたに過ぎなかった。ところが最近は歳のせいかアドレナリンが減少し、時と場合によって撮影時に休憩したくなることがある。しゃがみ込みたくなってしまうのだ。これはもちろん仕事の写真ではなく、私的な写真に限ってのことである。
 そんな時、近くに喫茶店でも見つけようものなら脱兎の如く飛び込み、歎息まじりに珈琲を2杯ばかり流し込む。この時の珈琲は美味いが、しかしどこか悲しい。約1000円の珈琲代で、あと1時間は精気と覇気を保つことができるのだから、喫茶店の存在はとても尊いものだ。カフェインがアドレナリンに取って代わる場所なのだ。

 そんなことをたびたび経験するようになると、知らず識らずのうちに撮影時の荷を少しでも軽くしようと浅知恵を働かせている自分を発見する。不謹慎ながら「不精」を覚えるのである。ぼくはプロとしてあるまじき「不精」と「怠惰」に出くわし、思わず赤面することになる。
 しかしどうやらこの「不精」は、生活の優れた知恵から派生したものではなく、すでに物理的理由で「不精」を余儀なくされている悲しい自分の姿であることに気がつくのである。気力は老いてますます盛んなのだが、体力がイマイチ追いつかないという悲劇をしばしば体験し始めたのだ。
 体力をかばうために、必要かも知れない交換レンズを何本か間引いてしまうという大罪を犯している狡(こす)い自分に気づき、今度は血の気が引き、青ざめるのである。これがぼくの古希の覚えだった。

 元々ぼくは人生の設計図なるものをあらかじめ敷くことにひどい鬱陶しさと窮屈さを感じてきた。このことは、ぼくのいい加減さを取り繕う言い草でもあり、また一方で職業柄でもあるといいたいのだろう。真面目な写真屋諸氏には申し訳ないが、どうやら職業になすりつけて正当化を図ろうとしている気配が濃厚である。
 そしてまた、大きなお世話と知りつつも、設計図通り歩もうと努力する人たちを半開きの目で見つめていると、半ば感心し、半ば気の毒にさえ思うことがある。それでは人生の謳歌に事欠くのではないだろうかと、ぼくは彼らを侘びしがる。またそのような気質はクリエイティブな作業には極めて不向きであるとも思う。
 何故かという理由は割愛するが(短い文章を心がける身としては賢明な判断)、ぼくも古希を過ぎた今、設計図ならぬ「心得」のひとつくらいは自身への約束事として、その励行に努めては如何かと、問うてみたいのである。

 その心得として真っ先に浮かんだ言葉が「愚直」だった。「これからはすべからく『愚直』でありましょう。ぼくは余生をしおらしくも『愚直』に生きよう」と決めかけた。「愚直」の意味を何冊かの辞書で調べてみたところ、「正直すぎて気の利かないこと。馬鹿正直」とあった。「愚直」の語感は概ね気に入っていたのだが、「気の利かないこと」とあるのがひどく気に入らない。これでは、ぼくの余生は前途多難である。
 ぼくは直ちに「愚直」をお払い箱にし、もう少しふっくらとした、控え目で融通の利く語彙を探すことにした。すぐに「実直」に思いが至った。「うん、これならよかろう」と、再び恐る恐る辞書を引いてみた。「誠実で正直なこと。地味で真面目なこと。律儀。誠実でかげひなたのないこと」とある。まことに申し分のない余生である。
 「実直」であろうと心がけるのに、ぼくは70年と11ヶ月の歳月を要したことになる。嗚呼、なんたることか! (次号に続く)

http://www.amatias.com/bbs/30/431.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF11-24mm F4L USM。

栃木県佐野市。
★「01佐野市」
150m四方の一角に廃屋となったかつての飲み屋街が点在している。ぼくは何故かこのような佇まいに惹かれる。
絞りf9.0、1/160秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「02佐野市」
同上の一角に沈みかかった西日が当たる。
絞りf11.0、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/01/18(金)
第430回:短い文章を心がける
 昨年末の拙稿第428回は、もしかするとこの連載が始まって以来最も文字数が多かったのではあるまいかと、時間の経った今、その冗長さに少しだけ冷や汗をかいている。この反応の鈍さと厚かましさは歳のせいなのか、あるいはぼくの稟質(ひんしつ。生まれつきの性質)なのかは分からないが、2861文字は400字詰め原稿用紙に換算すると8枚ということになる。これが長いか短いかは実のところ書いた本人には分かりづらいものだ。執筆の所要時間もいつもより長く、50分前後かかったように思うので、拙「よもやま話」としては “必要以上に” 長いのかも知れない。
 掲載されたものを改めて読み返してみると、書いた本人でさえ「あのさぁ、毎週書いているのだから、君、ひょっとして今回は少し長すぎやしないか? へりくだりつつ百歩譲っても『無用に長い』って、こういうことを指すんじゃない? 取り留めのないことの羅列は、普段よほどうっぷんが溜まっているということだ」と自問自答したものだ。正月早々、形ばかりの反省をちょっとだけして見せた。

 ぼくの反省(本当は反省などしていない)の弁を聞いて、あたかも何かを勝ち取ったような仕振りをする友人が何人かいることを、ぼくはすでにちゃ〜んと知っている。なかには「何文字以内で」とか「起承転結がなってない」とか、元編集者だったぼくを差し置き、あらぬいちゃもんをつけてくるお節介好きもいる。大きなお世話なんだってば!
 読者諸兄のなかにもそのような方がおられるかも知れない。いや、いらっしゃるのだ! 「思わず最後まで読んでしまうのですが、一気にとはいかず、途中一息入れないと大変なのです」(無断転載にて失礼)と、暗に「もう少し手短に。サラッと書け。のさんわ」( “のさん” の意は前号参照)といわれているのである。

 自分の文章が(写真も)コテコテであることはとっくにわきまえている。指摘されずともそのくらいはしかと承知している。
 そしてまた、若い人にとって(具体的な年齢を示すことはできないが)、ぼくの文章は決して読みやすいものではないだろうと推察している。70歳を過ぎた文章失格のジジィがクドクドと、しかも今時使わないような言葉を塗りたくるように書き殴るのだから、やはり彼らに読みやすいはずはない。まことに「のさん」のである。
 ただぼくは今時使わないような言葉を敢えて使用しているわけではない。言葉というものは、他の言葉に置き換えたりすることが可能な場合もあるが、ほとんどの場合そうではない。言葉の選択には、これでも大変な気配りをしているつもりである。

 今までたくさんの書物に接してきて、「読みやすい文章」、もしくは「分かりやすい文章」とはどのようなものを指すのだろうかと思案したことが何度もある。また、青年期より原稿を書く機会も多く、本を読むこと以上に考え込まなければならなかった。読むことより書くことのほうがずっと “大そう” なことなのだ。ここでいう “大そう” とはつまり、1000冊の読書より1冊の本を書くことのほうが、遙かに大仕事であり、意義のあることだという意味である。このことは同時に写真にも通じていて、生涯写真集を眺めたり、足しげく写真展に通うより、たった1枚の良い写真を撮ることのほうがずっと大ごとである。「創り出す」ことは常に能動であり、受動ではないから。

 やっと「よもやま話」に相応しく、写真の話が出て来たと思いきや、生憎なことにまだ文章の話は続く。文体自体が読みやすく、語彙も平易で、論理の筋が通っていればそれが最も良いであろうことは誰しも認めるところだ。それが理想というものだ。
 けれども、人はひとつのことに集中し出すと、特にぼくのような単機能かつ不器用な人間は、話の核に付着している大切なことがなおざりになりやすい。ここが素人の悲しさなのだ。
 拙稿に於いては、お伝えしたいことが山ほどあり、そのなかには重要であるけれど、非常に伝えにくいこともある。お伝えしたいことが技術的なことであればまだしも書きやすいのだが、抽象的なこととなるとなかなかそうもいかず、筋の通った文章になりにくい。そのような時に、表面的な「分かりやすさ」に気を奪われ、神経を注いでしまうと、かえって本来の「分かりやすさ」を犠牲にしてしまうことがままあるように思う。
 
 ぼくはサービス精神が極めて旺盛であると思っている。このことが災いして、天ぷらでいうところのコロモを盛りすぎて相手は混乱を極め、時には窒息しかかることがあるのかも知れない。それはとても愉快なことでもあるのだが、ぼくにとって、写真について何かを語る時、意味深長であることを決して好まない。若い人が好むような哲学的に語るべき時期はもうとっくに過ぎているのだ。
 ぼくにとって写真は言葉で語れるようなものではないし、また写真は下手の横好きの限りで表現しきれないこと多々ありき。埋め合わせのために、ついつい “思いがけずに” 、ぼくの文章は冗長になりにけりといったところだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/430.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF11-24mm F4L USM。

栃木県佐野市。写真は第427回の続き。

★「01佐野市」
廃屋となった変則的なプロポーションのスナック? バー? 右端遠くに見える犬の大きさがほどよくなるまで待つ。ぼくは普段、待たない写真屋なのに。
絞りf8.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02佐野市」
かつては何の店だったのだろう? 光の回り方が非常に面白かったので、思わずシャッターを切る。
絞りf10.0、1/125秒、ISO100、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2019/01/11(金)
第429回:野放図な正月
 毎年我が家はどうやら他とは異なり、年末年始は野放図によるところのゆっくり・のんびりスタイルを貫き、日本の古き良き伝統やしきたりに囚われず、かなり無頓着かつ気儘に過ごしている。雑煮や少々のおせち料理、正月の生け花である千両(庭から取ってくる)くらいは飾るが、熊手や門松、鏡餅などには終生縁遠く、それらしい佇まいがぼくの家には昔から見当たらない。
 大掃除をするわけでもなく、除夜の鐘を聞くでもなく、初詣に行くでもなく、普段と何も変わらず、家人は自室に籠もり思い思いに時を過ごしている。我が家の正月は深閑とし、流れる時間だけがいつもよりゆったりしているように感じられる。

 正月にしか味わえない特別な感覚や風情は貴重で美しいものだが、それを排斥しているわけではなく、あるいは日本的な何かにあらがおうとの魂胆があるわけでもなく、それがいつの間にか我が家の家風のようなものになってしまっているのである。手っ取り早くいえば、全員が厚かましくも「正月くらいはずぼらでありたい」などと思っているのかも知れない。正月から家族全員が勘違いをしているのだ。
 因みに、正月唯一の雑音は嫁必見の「箱根駅伝」くらいのもので、ぼくは元々テレビを見ないので、まったく関心がない。歌好きの嫁ではあるが、さすがにもう何年も「紅白歌合戦」には見向きもしなくなった。

 正月行事に無関心との気配は、おそらく家長であった父の代からのものであろう。父の郷里である佐賀県では、現在でも正月というものは一年の計の元締めとしてもっと大切に、粛として扱われているのではないだろうかと推察する。ぼくは佐賀の正月を体験したことはないのだが、父の話から想像する限り、その儀に相応しくあったのだろうと思う。
 そして父は、地方特有の堅苦しさを因習として片付けたがっていたことをぼくは子供心ながらに感じ取っていた。同時に、社会人としてのさまざまな規範を堅気に守りつつも、精一杯の自由を希求して止まない父の姿をぼくは見て育ったような気がしている。人はどうあっても、生まれ故郷の何かを棺桶にまで引きずって行くものだと、父は教えている。逃れがたい業に終生押し込められているとも思える。

 佐賀や終戦直後の数年間を過ごした京都にあって、父は忍びがたい息苦しさを覚え、学生時代を過ごした東京に自分のあるべき息吹のようなものを見つけたに違いない。話題が佐賀や京都に及ぶと、よく父は「ほんに、のさんのう」( “ほんに” は京都弁で「本当に」の意。 “のさん” は九州の方言で「耐えられない」とか「大変」の意)が口癖でもあった。
 そしてまた、「九州の夏は太陽が二つもあり、それで九州の人間はみんな頭がおかしくなってしまうのだ。カチンカチンの太陽にやられ、こりゃ、のさんわ。太陽に一番近い頭が助かる道理がない」と、いつも真顔でいっていたものだ。「京都は盆地特有の湿気に、脳にカビが生えやすく、やがて糜爛(びらん。ただれること)してしまうので、早く逃げ出さなければならなかった」と述懐していた。
 ぼくは、頭が二つの太陽にやられ、脳が糜爛して機能しなくなると怯えていた父の直系の子孫である。ぼくは父の自由闊達な野放図さに引きずられ、自分の位置を確認さえできずに、それに付き従わざるを得なかったのはある意味必然だったのかも知れない。

 今ぼくは、我が家がこのような野放図さに至ったのは、あたかも父のせいだといわんばかりだが(野放図さは、ぼくにとっては大助かりだが、実は父が他界してからすでに39年もの年月が経っている)、親類縁者が遠隔の地ばかりというのも大きな理由だろう。遠いので容易く会うことができず、正月の身繕いを正さずに済む。横着のままでいられるというのは、とてもありがたいことだ。今度は、親類縁者のせいにしようとしているが、しかし父の死後、我が家の長として、39年間に及ぶ野放図を甘受し放任してきたのは紛れもなくこのぼくである。そのくらいの自覚は持っている。

 交通の便が良くなり、より速くなったとはいえ、やはり感覚的に京都や佐賀は遠い。特に九州は、文化的にも地理的にもパスポートが必要なのではなかろうかと思うくらい同じ日本にあってどこか異質であり、しかも魅力に溢れている。このことは逆説のようであるのだが、足が遠のく要因であり、その理由付けともなっている。
 つまり、晴れ晴れと「明けましておめでとうございます」というまではいいのだが、その地が魅力的であればあるほど、ぼくは「写真を撮らなければならない」との強迫観念に襲われる。正月早々、まさに「のさん」のである。

 今年はもう一度京都に足を運ぼうかと思っているのだが、実は神社仏閣を撮ることの難しさにぼくはへこたれている。「見えているはずのものが見えてない」という発見をして、ぼくの足はすっかりすくんでしまった。何故ヒットする確率が低かったのかを見つけ出さない限り、また同じことを繰り返すことになるのだから、よほど勉強をして何かをつかみ取らなければならない。
 今年はそんなことに、気も新たに挑戦したいと思っている。野放図であることの利点がどこかにきっとあるはずだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/429.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF11-24mm F4L USM。

茨城県筑波山。今年の初撮りのため結城市に向かったのだが、圏央道を走っていると筑波山が見え、急遽行き先を変更し、初めての筑波神社へ願掛けに。到着したのがすでに午後4時近く。撮影は1時間足らずだった。

★「01筑波神社」
春日大社本殿(手前)と日枝神社本殿(奥)。
絞りf5.6、1/15秒、ISO200、露出補正-2.00。

★「02筑波神社」
超広角のパースを利用して。お祈りをした後、参拝客を。
絞りf5.6、1/40秒、ISO200、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/12/28(金)
第428回:カレンダーを振り返る
 今年も余すところあと数日となった。ちょっとした調べもののためにパソコン上にある今年1年のカレンダーを繰ってみた。そこに書かれてあることはメモ程度に簡略化されたもので、ぼくの死後、誰に読まれてもまったく差し支えなく、したがって面白味のあるものではない。いってみれば極めて事務的なものだ。

 しかし一般的に、パソコンの中には他人に見られることに差し障りがあったり、それに類するものが意図的に保存されていたり、あるいは削除し忘れているものがあったりするのが通り相場というものだ。違う?
 そのような怪しきものや不適切なものの露見を避けるために、老後はしかと、然るべく始末をしておかなければならない。それが晩歳の掟というものだ。 
 けれどぼくは未練がましくも、まだそれができずにいる。放棄の義務は、ただ “家人のためにだけ” から生じている。ぼくは写真屋だから、ぼくの撮った写真は “家人以外” の誰に見られても一向にかまわない。ついでながらもっと正直にいってしまうと “嫁” 以外なら誰が見てもいいのである。斯様に “嫁” の存在というのは凄味のあるものなのだ。

 特に写真を趣味としている男衆は、趣味が高じるに従って、必ずやそのようなものを密かに所有している可能性が大きい。デジタルであれ、アナログであれ、自分だけの秘密にしておきたい写真というものが存在し、あたかも神からの贈り物であるかのように大切に、後生大事といわんばかりにしまい込んでいるものだ。時に、どこにしまい込んだかが分からなくなってしまうから、男というものはいつまで経っても愚かしい。ご婦人方から見れば滑稽そのものなのだろうが、しかしぼくは、それが健康で正しい写真人の本来の姿であると確信している。とても好ましく、勇ましく、まったく男らしい。
 もし、そのような写真を1枚も撮ったことのない写真人は、きっと変化に乏しい写真生活と退屈で窮屈な人生を送ってきたのではあるまいかと、大きなお世話と知りつつも懸念する。写真人として備えるべき決断力と冒険心に欠けるので、そんな姿勢は決して好ましいこととはいい兼ねる。何故って、彼もしくは彼らは、ギリシャ神話の神々のなかで最も美しい神とされるエロスとは縁遠いところに居座りつつ、ややもすれば見放されているからだ。

 その伝、ご婦人方は存在そのものがエロスであるがために、男衆のような型にはまった縛りがなく、ずっと自由奔放であるが故に、時として堅苦しい技術的理論を放棄しやすく、無手勝流を果断に用い、悪びれるところがないけれど、男のような邪(よこしま)な心得や理(ことわり)を持っていない。彼女たちはある種の不安や恐れ、形骸化した固定観念から常に解放されているので、ばかばかしい都市伝説に惑わされることもほとんどない。そして、男にはない曖昧さを許容できる確固とした下地を備えているのである。

 この議題について、ぼくはさらに多くを事細かに書き綴る気力が今非常に充実しつつあるのだが、あまり建設的かつ写真的な内容になるとも思えず、また今年最後の原稿に際し、あまり相応しくないので取り止めておく。書きたくて仕方がないのだが、思い止まることの、今年最後の勇気を男らしくここに示しておきたい。

 話を元に戻すと、カレンダーに記されていることは仕事の予定を始めとして、何処で何を発見したか? そして、会った人、読んだ本、見た映画、日帰り旅行、日々の出来事などなどの覚え書きばかりが簡単に書き込まれている。例えば、「痛風に白髪が逆立った」とか。
 1年を振り返ったのは、来年に向けた撮影に寄与すべく何かがあわよくば見つかるかも知れないとの思いがあったからだ。少なくとも、日々の生活に於いて “良い写真を撮るために” 何が欠落し、不備なのかが分かるかも知れない。事はそう単純なものではないが、ぼくは何となくそのような気がした。「閃き」というものだ。

 カレンダーを繰っているうちに、2003年にまで遡ってしまった。ぼくにとって2003年はアナログからデジタルへ移行した画期的な年でもあった。それまでデジカメは友人たちが購入したコンパクトデジタルカメラ、所謂コンデジを借用し遊んでいたが、ぼく自身はデジカメを持っていなかった。仕事はもちろんフィルムのみであった。
 デジタルカメラこそ持っていなかったが、来たるべきデジタル時代に備えて準備を始めたのは2003年から遡ること5年の1998年のことだった。今からちょうど20年前のことで、Photoshopもバージョン4.0だった。高額なフィルムスキャナーを購入し、撮り溜めたカラーポジフィルム(スライドフィルム)をデジタル化し、画像補整の基本を学んだ。当時はまだ良い教本も少なく、まわりに訊ねる人もおらず、ほとんどが独学だった。

 2003年、「このカメラなら仕事に使える。フィルムに劣らないはずだ」と初めて購入したデジカメが、フルサイズの初代EOS-1Ds(2002年12月発売)だった。1台100万円は相当な出費だったが、仕事の道具だから仕方がない。サブカメラにEOS-1Dも購入した。「仕事の量と質は投資額に見合う」のだが、ぼくは貧血症状に陥ったように、蒼い顔をしていた。
 今だからこそぼくは声を大にしていうが、このカメラを使用し始めて2年ほど、巷では「デジタルはフィルムに敵わない」とまことしやかにうそぶく輩がかなりいたものだ。デジタルがダメなのではなく、カメラマンも印刷所もデザイナーもデジタル写真に対する知識が不全なために起こった現象だった。彼らは自身の知識とスキルの無さを棚に上げ、デジタルを悪者に仕立てていた。そんな時代でもあったのだ。

 当時のカレンダーを見ると、「還暦過ぎまでよくもまぁ、こんなにバタバタ、あくせくと仕事をこなしたものだ」との感慨が込み上げてくる。多い日は、今時地方の映画館にもないような1日三本立て興行(朝・昼・晩)のような際どいこともしていた。これは今思えば危険な曲芸に等しい。
 撮影後の処理の大変なデジタルを、寝る間もなくこなしていたわけで、「当時にくらべ、昨今は身の細るような緊張感に欠けているんじゃないか? この7,8年は仕事写真から身を引き、すっかりあの感覚を忘れているよね」とつぶやく。「来年はピリピリした緊張感のなかで私的写真を撮る!」とぼくは一応誓いを立ててみる。
 今年はつまらぬ禁煙をして、何一つ得るものなどないと公言して憚らないが、もし仮に有益なことがあるとすれば、「やろうと思えば、ワタクシはちゃんとできるのだ!」を実証したことにある。吹けば飛ぶような自信ではあるけれどね。

 来年の掲載は1月11日(金)からとなります。今年もご愛読をありがとうございました。来年もどうぞよろしく。みなさまの福寿無量をお祈りして。

http://www.amatias.com/bbs/30/428.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF11-24mm F4L USM。
栃木県佐野市。

★「01佐野市」
洋食屋さんの看板。実際はもっと鮮やかな色なのだが・・・。
絞りf8.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02佐野市」
人っ子一人居ないガススタンドに強烈な西日が当たる。なんだか不思議な風景だった。
絞りf13.0、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)