【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

全422件中  新しい記事から  11〜 20件
先頭へ / 前へ / 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / ...12 / 次へ / 最終へ  

2018/09/07(金)
第412回:京都(15)最終回
 台風21号に直撃された関西地方は甚大な被害を蒙ったと聞く。京都の親戚に陣中見舞いの電話をしたところ、下鴨神社(正式名、賀茂御祖神社。かもみおやじんじゃ。京都市左京区にある世界遺産)の多くの木々が折れたり倒れたり、二条城の壁が崩れたり、宇治神社の鳥居が倒壊したりと、世界遺産にもかなりの被害を与えたようだ。今年5月に行ったばかりなので、彼の地の記憶もぼくのなかではまだ生き生きとしており、今はふるさとが安寧であることと、静かな復興を祈るばかりである。

 このシリーズの第1回目で、体力の消耗を防ぐための方法論として、「今回ぼくはある省エネ作法(撮影法)を見出し、そのご利生を得た。そのことは今シリーズの何回目かにお話しできると思う」と記した。
 この省エネ作法は特段今回の京都行きからではなく、普段から心がけ実践していることなのだが、この撮影法により下鴨神社で思わぬ恩恵 !? に浴したので、思い切って告白することにした。

 下鴨神社は上賀茂神社(正式名、賀茂別雷神社。かもわけいかづちじんじゃ。京都市北区にある世界遺産)とともに京都の社寺では最も古い部類に属し、奈良時代以前から朝廷の篤いもてなしを受けてきた。807年(大同2年)には神社として最高位にある正一位(しょういちい)の神階を受けている。

 下鴨神社、京都御所、賀茂川(高野川との合流点より上流を賀茂川、下流を鴨川と称す)が少年時代のもっぱらの遊び場所だった。ぼくの記憶にはないのだが、父の話によると「君は相国寺(しょうこくじ。1382年創建。金閣寺、銀閣寺は相国寺の山外塔頭)境内で遊ばせるとすこぶる機嫌がよかったものだ」とのこと。
 ずいぶん抹香臭い幼児だったようだが、「三つ子の魂百まで」とはいかず、大人になってからは極めつけの不信心者となった。今年の盆も「こんなに暑いさなか、鎌倉まで墓参りになど行けるものか。ご先祖様も勘弁してくれるさ。彼岸入りでよろしい」と家人に半ば強要するくらいだ。
 とはいえ、そんなぼくでさえ最近は、「ご先祖あっての自分。世の中良くも悪くも70年間こうしてなんとか無事に過ごしてこられたのだから、その報告くらいはしておかないとバチが当たるかも知れない。お呼びがかかった時に、亡者たちから寄ってたかって折檻(せっかん)などされてはたまらんしなぁ」と少しばかり神妙な振りをして見せたりもする。

 少年期の夏の楽しみは昆虫採集だったが、埼玉では見られない日本最大のクマゼミにぼくはご執心だった。大きくて美しく、騒々しい鳴き声のクマゼミを捕獲するのは容易なことではなかったが、ぼくは下鴨神社で一日中捕獲網を振り回していた。また、前号にも登場した叔父の婚儀は下鴨神社で執り行われ、楼門(重文)で撮られた結婚記念写真にセピア化した5歳のぼくがちゃっかり写っている。
 ぼくの少年期、世の中はすべてが鷹揚で、従兄弟と一緒に下鴨神社の舞殿(重文)に上がって走り回っていたものだがお咎めを受けたことは一度もなかった。ことの良し悪しは別にしても、今そんなことは到底望めない。少年にとってあの頃は、生きやすく、あらゆるものに親しみやすい寛容な世の中だったのである。  

 何十年ぶりかで訪れた下鴨神社は前日が葵祭(正式名、賀茂祭。京都三大祭りのひとつ。平安時代から毎年5月15日に行われている例祭)であったせいか、観光客もまばらで、10m離れていてもシャッター音が確実に聞き取れるのではと思えるほど深閑としていた。季節柄、クマゼミの盛大な合唱に掻き消されることもない。ぼくは被写体を定め、矯(た)めつ眇(すが)めつあらゆる角度から観察していた。

 まず、被写体が “最も美しく見えるアングル” を肉眼で探し出し、主題とする被写体の “へそ” は何かを確認する。そしてパース(遠近感)を考慮しながら頭のなかで焦点距離と画角をシミュレーションしてみる。光の方向や光質も同時によ〜く観察する。この作業がぼくにとって最も大切な過程だ。そうすれば自ずと立ち位置が定まってくる。ズームレンズの焦点距離を固定しておいて、絞り値と露出補正を設定。
 そこで初めてファインダーを覗き、イメージとのズレがなければ、迷わずシャッターを切ればよい。ズレがあっても前後左右に1mほど移動すればほとんどは解消する。これがぼくの省エネ撮法。
 ファインダーを覗きながらあれこれ考えるのではなく、肉眼での実体験(観察によるイメージ構築)を最優先すれば、重たいカメラを持ち上げ、保持している時間がかなり節約でき、体力の消耗を防げるというわけだ。リズムという付加価値も生じる。

 この省エネ撮法に徹していた時、ぼくはずっと妙な視線を感じていた。気にすることなく一直線に伸びた参道、糺の森(ただすのもり)を往復していたら一眼レフを首にかけた視線の主から突然声をかけられた。
 「見知らぬ方に突然お声がけするのは失礼と存じますが」と、とても丁寧で礼儀正しい。今時の若人がこんな正しい言葉遣いをするなんて、とぼくは感心しながらハッとした。ハッとしたのは別の理由からで、それは彼女がとても別嬪さんであったからだ。ぼくは少しだけクニャッとした。
 彼女は、「先程からあなたが写真を撮っていらっしゃる姿を拝見していましたが、ファインダーを覗いた瞬間にシャッターを切ってらっしゃる。モニターで確認もせずにまた同じ動作を。とても不思議です。何故そんなことができるのですか?」と。
 ぼくはクニャッとせず、毅然と前述した撮影方法をさらに丁寧に、細かく説明した。彼女は目をキラキラさせてぼくの効能書きを聞いてくれた。「あなたはプロのカメラマンさんですか?」と訊ねるので、「いや、君と同じアマチュアだよ。君だって訓練すればできるよ」といい、ぼくはにわかに照れ臭くなって「観光の記念にオレがポートレートを1枚撮ってやる」と誤魔化した。

 重要なことはあくまで写真の話であってナンパされたことではない! 24歳の大学院生が70の白髪ジジィに他意があって声をかけるなんてことを信じるほど、ぼくはお人好しでもなく、世間知らずでもなく、そのくらいはしっかり自覚しているつもりだ。
 帰京し、ぼくはこの出会いを自慢気に倶楽部の面々に話し、この話は嘘ではないとわざわざご丁寧に、彼女のポートレートをメール添付して送ってやった。「下鴨神社では満足できる写真が撮れなかった」といったら、「あ〜た、いつものようにクニャクニャしてるからよ!」と喝破された。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/412.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市左京区下鴨神社

★「01下鴨神社」
舞殿。少年時代、ここに上がってよく遊んだ。今そんなことをしたら・・・。
絞りf13、1/160秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02下鴨神社」
楼門。65年前、ここで叔父の結婚記念写真が撮られた。
絞りf9.0、1/250秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「03下鴨神社」
糺の森参道。新緑の眩しいなか、敢えてモノクロで。
絞りf9.0、1/250秒、ISO100、露出補正-2.00。

(文:亀山哲郎)

2018/08/31(金)
第411回:京都(14)
 「 “写真” よもやま話」の議題に背いて、京都に於ける思い出話に終始していることに多少の後ろめたさを感じつつも、愛読の士とのメール交換で「掲載写真と撮影データが記されているのだから気にされることはありませんよ。ましてや京都は世界有数の観光地でもあり、観光客とはひと味もふた味も異なる写真を、遠隔の地より拝見できるのはとても楽しみです」(ママ)との力強くも大らかな意見を、ニューヨークよりいただいた。
 意志薄弱なぼくは、自身の手抜かりに理解と同情を示されると直ちに雷同する性癖が精密に備わっているものだから、すっかり意を強くしてしまい、今回を含めてあと2回ほどご容赦いただければと思っている。

 6日間で18箇所を走り回り、まだ5箇所しか取り上げておらず、すべてを書き記そうとすれば、駄文連発癖のあるぼくのこと、50回は優に越えてしまうに違いない。一応15回でこのシリーズを打ち切ろうとの胸算用なのだが、今のところあくまで予定に過ぎない。

 小学校の夏休みは毎年京都で過ごしていたが、ぼくをこよなく可愛がってくれた叔父は海水浴によく連れ出してくれた。京都で海水浴といえば琵琶湖、もしくは若狭湾である。距離的には琵琶湖のほうが圧倒的に近いこともあって、一夏に2度は連れて行ってくれた。
 市内から比叡山を越えるルートを「山中越え」と称し、それが最短でもあった。時には三条(三条通。143号線)からインクラインのある蹴上(けあげ。京都市東山区)を経由して大津に至るコースを辿ったこともある。

 叔父はオートバイのタンクにぼくを乗せて仕事先にまで連れて行き、よく「息子さんですか?」と勘違いされたと聞く。そのくらいぼくはいつもタンクに跨がっていた。印刷所を経営していた叔父の得意先のひとつでもあった八瀬大原にあるしば漬けの老舗「土井志ば漬け本舗」にも何度か連れて行かれた。
 昨今は大人気の八瀬大原だが、60年ほど前はどこもまだ舗装などされておらず(名刹三千院や寂光院で遊んだが、当時は拝観料がなかった)、デコボコの田舎道をオートバイは疾駆し、ぼくは飛び跳ねるタンクに跨がり、ハンドルにしがみついていた記憶がある。飛び跳ねるオートバイに乗るのが愉しくて仕方なかった。
 当時「土井志ば漬け本舗」には大きな空の樽がいくつも転がっており、ぼくはその中に入って遊んだものだ。店主はぼくが行くと、「よお、タンク坊主。今日も来たか」といって、いつも銘菓であるおいしい和菓子を食べさせてくれたものだ。京和菓子の味を占めたのは思い返せばこの頃だったのかも知れない。
 我が倶楽部の「花より団子」、「写真より断然食い気」の、あたかも欠食児童のような婦女子たちと異なり、ぼくはしかし「菓子よりオートバイ」だったのである。知的男子というものは、メカニズムの興味と冒険心により、正しくも順調なる成長を遂げていくものだ。

 ある夏、叔父は従業員数名を伴ってオートバイを駆り、琵琶湖に泳ぎに出かけた。もちろん叔父のバイクタンクにはぼくが乗っていた。数台のオートバイを連ねて、ちょっとしたツーリング気分だった。
 琵琶湖からの帰路、山科(やましな。現京都市山科区)にさしかかった頃に雲行きが急変し、真っ黒な空に雷鳴が轟き始めた。雷を鑑賞?する間もなく、バケツをひっくり返したような豪雨が激しく地面を叩き、水しぶきを上げ、目を開けられぬほどになった。それはちょうど、今週月曜日夕刻に関東地方で見られた天変地異を思わせるような凄まじさにそっくりだった。
 蹴上を通りかかった一行は、道路脇にあった小さなトンネルに脱兎の如く逃げ込み、雷と豪雨をやり過ごした。

 トンネル内に退避した物知りの叔父は、トンネルのレンガを指し、「てつろう、レンガをよ〜く見てみろ。面白いだろう。これを『ねじりまんぽ』というんだよ。レンガをただ積み上げるのではなく、渦を巻いたようになっているだろう。この上にはインクラインが通っており、斜めに交差しているので、こうすることによってトンネルの強度を増す必要があったのだ」と説明してくれた。
 なるほど、そのトンネルのレンガは銃身の内側に螺旋が刻んであるように渦を巻いていた。まさに『ねじり』なのだった。子供ながらに不思議な思いに囚われたものだ。『まんぽ』の語源は定かではないが、叔父によると滋賀や京都では規模の小さいトンネルや坑道をそう呼ぶらしい。

 祇園界隈をうろついた後、ぼくは蹴上までのだらだら坂を「今もあのトンネルはあるだろうか?」との思いに駆られ、老体に鞭打ちぜーぜーと息を切らせながら自転車のペダルを漕いだ。前号にて記した「マツモト模型」よりは、現存の可能性が高いと踏んでいた。
 思いの通り南禅寺に通じる「ねじりまんぽ」はすぐに見つかった。ポッカリと口を開けぼくを待ってくれていたような気がした。感傷的な気分に浸ることはなかったが、やはり感無量だった。
 「マツモト模型」ではかつての自分の姿を追い求めていたが、「ねじりまんぽ」は、天寿を全うすることなく病に倒れた叔父の優しく温かい人柄を思い起こさせた。写真を撮ろうとした時、通り雨がパラパラと降ってきた。出目金のようなレンズを濡らすまいと、ぼくは慌てて2枚だけ撮り(掲載写真)、当時の姿のように「まんぽ」にそそくさと身を隠した。誰かに呼ばれたのだろうか?

http://www.amatias.com/bbs/30/411.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市東山区蹴上

★「01ねじりまんぽ」
明治24年(1891年)製作のトンネルの上には有名なインクラインが通っている。扁額には「雄観奇想」(ゆうかんきそう。素晴らしい眺めと優れた考えという意)とある。人物の配置を考えながらシャッターを切る。
絞りf8.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02ねじりまんぽ」
このようにレンガが螺旋状に組まれてある。
絞りf8.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/08/24(金)
第410回:京都(13)
 今年4月に開催した我が倶楽部のグループ展に於いて、ぼくは『ガラス越しの世界』シリーズを9点選び出し展示した。自作の写真解説を好まないぼくだが、何故『ガラス越しの世界』に憑かれてしまったのかを一応解説をしておかなければと思い、以下のようなことを書いた。そのまま引用してみる。

 「『ガラス越しの世界』についての断想」と題して。
 「物心のついた頃より、ガラス越しに見る光景にひとかたならぬ興味と憧れを抱いてきた。現世とは隔絶した世界をそこに見たからだった。
 3歳の時、ぼくは行方不明となり町内は大騒ぎになったと、未だ元気な叔母は目を細め、67年前を懐かしむようにいう。京都・寺町今出川にあった模型店は自宅より500mほど離れたところに位置していたが、そこにぼくは1時間近く身じろぎもせずガラス越しに店内を眺めていたとは、向こう前にある雑貨屋の店主。警察官に保護されたぼくはその場を立ち去ることを拒絶し、泣き叫んだのだそうだ。今のぼくにその記憶はない。
 現世にあるぼくはファインダー越しに、ガラスの向こうにある幻想の世界に馳せ、この世との同期を窺う。現実と虚構の仕切り板であるガラスに映ったぼくのおぼろ気な姿は果たしてどちらに付き従っているのであろうかと訝(いぶか)るのだが、古希を迎えた今も判然としない。確かなことは、いつもそこには白髪頭のぼくらしい人物が佇んでいるということだけだ。」

 ぼくは寺町通にあるこの模型店を訪ねてみようと思い立った。3歳時の記憶はないが、鉄道模型の好きなぼくは少年時代京都を訪れる度に、この店のガラス越しの世界を愉しんだものだ。あれから半世紀近くが経ち、移り変わりの激しい現在にあって、果たしてこの模型店が存続しているかどうかは不明だった。
 義弟に借りた自転車を走らせながら、期待と不安が綯(な)い交ぜになり、模型店に近づくにつれぼくの情緒は大きく揺れ始めた。店がなければ、過去と今を結ぶ思い出の細い糸が途切れ、ぼくはぼんやりと、どこかやり切れぬ思いを抱くに違いない。かげろうのような自身の姿さえ、失うことはやはり寂しいことだ。そしてまた、あの頃の多感な自分を取り戻す縁(よすが)がなくなってしまうような気がした。

 寺町道を北上すると当時からあった“ゐの志し屋 改進亭総本店” (猪肉店)は未だ健在だった。「オーッ、あるじゃないか!」と思わず声を上げた。サドルに跨がったままの両足つま先立ちで、アングルを考えることなく1枚だけ撮った。
 子供時分、今では考えられないが、店前の道にはいつも大きな猪の屍が放り出されており、ぼくは従兄弟と一緒に獣の鼻を突いたり、牙に触ったり、跨がったりして遊んだものだった。針金のような毛と岩のように堅い体の感触だけが鮮明に残っている。

 思わぬ出会いに、懐かしさが込み上げ、ぼくの情緒はこの時著しく改善された。「ここから一町(古いなぁ。一町は約109m)あまりも行けば、あの模型店は必ずある」とぼくは当てずっぽうながら確かな予感を得た。 “ゐの志し屋 改進亭” の発見で俄然強気になってしまったぼくは、取らぬ狸の皮算用で、自らの勘を頼りに徐々に胸が熱くなっていくのを覚えた。気任せで鷹揚な心得ほど強いものはない。ぼくは気概の士となっていった。
 グーグルのストリートビューを使えば、自室で店の存在はいつでも確認できるが、今回ばかりはそんな夢のないことをしたくはなかったので、敢えて文明の利器を避けた。模型店の存否は自分の目で確かめてこそ値打ちのあるものだ。夢と現実を行ったり来たりしながら自身の存在を確認するのが旅の面白さでもあろう。
 第一、ストリートビューなどで店を覗き込もうとする料簡は非常にはしたない。ぼくには「地の利」による勘という強い武器があるのだ。ささやかなロマンをインターネット如きに奪われてたまるものか。しかし、ストリートビューは愉しい。
 
 一町ほど行くと右手に “マツモト模型” と赤字で書かれた看板が見えてきた。ぼくは再びつま先立ちで「 “マツモト模型” 不死身なり!」と叫んだ。不覚、涙腺が少しだけ緩んだ。店の前に20分ほど突っ立ち、ショーウィンドウを覗き込み、タイムマシーンに乗って67年前の自分を再演してみた。
 質量ともに品揃えの豊かな店の繁盛ぶりに、涙腺はしっかり締まり、大きな喜びがやってきた。ぼくの恋心は画像がフェードアウトするように、現実に向かって動き始めた。本来の鉄道好きがむくむくと頭をもたげ、並べられた品々に夢中になったのである。写真屋を放棄した瞬間でもあった。
 ちょうど40数年前に銀座天賞堂のショーウィンドウに置かれてあったビッグボーイ(Big Boy。米ユニオン・パシフィック鉄道で使用された世界最大・最強級の蒸気機関車。1941年制作)の模型を、目を皿のようにして見入ったあの憧れに似ていた。

 ぼくは意を決して “マツモト模型” 店内に侵入し、店のおばちゃんに「実は67年前ここで・・・」と、ぼくと店の結びつきを話し始めた。世代変わりをしている店のおばちゃんは、「まだ生まれてなかったので、当時のことはよく分からないが、それならお見せしたいものがある」といって、昭和30年(1955年)に撮られた “マツモト模型” の全景写真を奥の間から引っぱり出してきた。
 おばちゃん曰く「写真が撮られた当時は、ショーウィンドウのなかで模型列車を走らせていたんですよ。あなたはきっとそれを飽くことなく見ていたんだわね」と、ぼくはおばちゃんの温顔に接した。
 向こう前にあった雑貨店も「つい20年程前まではあったんですよ」とつけ加えた。「つい」20年かぁとぼくも時制感覚を失いながら、昭和30年に撮られたその写真を複写させてもらった(掲載写真)。ぼくはここで辛うじて過去と現在をつなぎ止めたような気がして、高いサドルに短足の組み合わせをものともせずに、意気揚々とペダルをこぎ、失踪の原点となったこの地を離れた。

http://www.amatias.com/bbs/30/410.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF24-105mm F4L IS USM。EF11-24mm F4L USM。
京都市上京区寺町今出川上ル

★「01マツモト模型」
昭和30年当時のマツモト模型の全景写真。おばちゃんに複写させてもらった。
絞りf7.1、1/20秒、ISO200、露出補正-1.00。

★「02マツモト模型」
ショーウィンドウをガラス越しに。ウィンドウのなかにもう1枚ガラスがあり、複雑な写り込みをしている。人物写真はやはりモノクロが好きだ。
絞りf6.3、1/80秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/08/10(金)
第409回:京都(12)
 前号で分別なく予告してしまった撮影に於ける「地の利」を得ることについて、ご質問をいただいた読者の方には率直なお返事をさしあげたが、そこには質問者の個人的な事情や立場を斟酌する余地が十分にあったので、焦点を絞ることができ、ぼくの思うところをお伝えしやすくもあった。ここでいう「地の利」を得るとは、撮影地の文化的背景や地理的条件を熟知しているという意味で使っている。
 けれども拙稿では、対象が不特定多数であるため、個人宛のものをそっくりそのまま流用というわけにはまったくいかず、いやそれどころか、そうしてしまうとあまりにも狭義になりすぎて、最大公約数的な真意が(もしそのようなものがあるとすればだが)伝えられず、歪んだものになりかねないということに気がついた。
 とはいえ顔の見えない多数への公言は、つまるところ「地の利」についてのありきたりな話に終始し、かえって雲を掴むような話になってしまうのではないかと、ぼくは今非常に困惑し、迂闊な予告を後悔さえしている。

 人は文化的存在、言い換えれば生まれ育った地の文化(言語的、地政的、歴史的な存在であるともいえる)が大切であり、それが如何様であろうとも、そこから逃れることはできないという自覚から出発している。生涯それに拘束され、束縛されているものだとぼくは考えている。
 いつまで経ってもふるさとへの個人的な感情は、如何なるものであれ否応なしに郷土的DNAを受け継ぎ、拭い去ることができない。心理や思考、及び情緒や感受に少なからず影響を与えていることを加味すればなおさらである。

 種々雑多な性格の異なる郷土愛が渾然一体となり、感情の吐露としてあらゆる場所に出現してくる。生まれ育った場所が同じであるが故に、共感や同族意識が心のなかに浮かび上がるのは自然なことだが、人によっては言語的・家族的存在でもある郷土愛が一種の郷土ナショナリズムのような形で熱を帯びることもある。
 ややもすると、そこに思考や感受の停止が生まれ、偏狭な郷土愛に転じることもあろう。これは郷土ばかりでなく、祖国に対しても同じようなことがいえるのではないだろうか。

 いわゆるグローバリズムを信奉する人たちの間には、郷土の文化的存在を進歩的ではないと認めたがらない傾向がある。ぼくにもそのような時期があった。「県人会」などと称するものに対して生理的に受け付けがたいものがあったことは確かだ。
 ぼくの体験をもってすれば、しかし誰もが、郷土愛の根幹にあるものが祖先や父母・兄弟・血縁者の言語的・家族的存在であることを否定できない。そこに無意識のうちに大きなジレンマを抱え込むことになる。

 とりとめのない話は、結論のないままこのあたりで打ち切らなければならないが、この京都シリーズで、よもやぼくが教育熱心であった祖父や叔父に触れるとは考えもしないことだった。
 「何故、あんなことまで書いてしまったのだろうか?」と振り返ってみると、郷土に対する文化的存在が歳を重ねるにつれ強く作用するようになったからではないかと感じている。とともにジレンマからも解き放たれたような気がしている。郷土愛についてのジレンマの解消は、率直な告白と懐旧の情によるところが大きい。ついでながら、知的向学心もどさくさに紛れてつけ加えておこう。

 若い頃は、京都に対する理解もないままに偏狭で身勝手なネガティブ・キャンペーン?を一端ながら張ったものだが、文化や歴史を、博覧強記(広く書物を読み、多くをよく記憶していること)を気取って勉強するにつれ、その心意気は徐々に薄れ、土地固有の文化的背景や必然性を理解するようになった。
 必然性との関わり合いのなかで、自分にとっての「地の利」をどのように捉え、それが如何なる影響を与えているかを顧みることが大切なのだと考えるようにもなった。
 
 「地の利」を得ることは、通り一遍の答えでしかないが、イメージを描く上ではバリエーションが組みやすい。撮影に有利をもたらすが、ただそれが即ち良い写真に結びつくわけではないので、事は複雑で厄介だ。厄介さとは、因果関係が判然とせず、何が何処で結びつくかが誰にも分からないという点にある。
 奈良や京都の住人が神社仏閣の良い写真を撮る機会により多く恵まれることは確かだが、だからといって良い写真の保証などどこにもない。山小屋の主人や登山家が必ずしも優れた山岳写真を撮れるわけでもないことは周知の事実でもある。反対に見知らぬ土地をふらっと訪れ、何の知識もないままに良い写真に恵まれることもある。

 ことほど左様に、「地の利」が与えられても、写真の良し悪しは撮影者のみに依拠すると結論づけざるを得ない。「地の利」や如何に、と大上段に振りかぶってはみたものの、なんだか身も蓋もないことになってしまい、ぼくは今身の置きどころがないのだが、孔子の有名な言葉によれば「知らざるを知らずと為せ、是知るなり」とある。 “知らないことは知らないとはっきりさせることが、本当の知である” のだそうだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/409.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈と四条大橋。

★「01祇園」。
正面から和服を着たお嬢さんがやって来た。後ろ姿をイメージし、ぼくの前を通り過ぎるのを待って、シャッターを切る。
絞りf11、1/200秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02東華菜館」。
大正15年(1926年)竣工。鴨川べりに立つ東華菜館は登録有形文化財となっている。小学生の時に祖父に連れられて1度だけ行ったことがある。日本最古のエレベーターに乗って嬉しがったことを覚えている。四条大橋よりフジペットで撮った記憶を頼りに、6 x 6 cm 版をイメージして撮ってみた。
絞りf10.0、1/400秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2018/08/03(金)
第408回:京都(11)
 当初、京都シリーズは10回ほどに止(とど)めておくつもりだったのだが、なかなか止(と)まらない。帰宅後、選択した写真の半分にもまだ手が付けられないという怠けぶりで、それらすべてを発表する意図はないものの、もう少々与太話をご勘弁いただきたい。

 撮影のため正味6日間で思いつくまま、計画性もないままに10数カ所を巡り、今振り返ってみると、撮影の成果は別として(ここが悲しい)、ぼくにとって近来にない良い思い出を作れたように感じている。しかし、辛さのほうが先に立ち、愉しいものでは決してなかった。辛い旅ほど、良い思い出として後に残るものだというぼくの主張はここでも実証された。

 写真を撮りながら「オレは何者なのか?」を無意識のうちにいつも問うていたような気がする。仏様と対峙し、睨まれ、お咎(とが)めを受ける機会が多かったのだからそれも致し方ないことなのだが、思い通りに撮れぬ苛立ち(自身のアイデンティティを示さなければ写真ではないというのがぼくの持論)とともに、シャッターを押すたびに不安な感情に襲われもした。ぼくに自虐趣味はないものの、それを “苦行” として処決しようとしていたのだから、なんとも浅ましい。

 今回の京都行きは、今から14年前の2004年に丸々1ヶ月間、広大なロシア極北の地を含めた歴史ある古い街々を訪ね歩き、精根尽き果てて帰国したあの時以来のような感覚を残した。
 あの時は、好きなものを自由に撮ってきなさいとの指令をスポンサーより受けてはいたが、それなりの成果を得なければとの必死さがあった。必死さは今回も変わらないが、14年の間にぼくも歳をとり、体力と集中力の衰えを懸念した。たかだか6日間の、それもスポンサーなしの自由な撮影を前にして、自身を見失うことが最大の敵だと自覚していた。ここは油断のならない海外と異なり、勝手知ったる日本であることの緩みを警戒していた。
 日々、陽が西に傾くに従い体力は限界に達し、あと10分も歩けば間違いなく行き倒れになると思うほど、くたびれ果ててしまった。集中力の散漫を免れ、気力も維持できたが、普段の不養生により体力の持続力は失われていた。

 残念ながら撮影の成果は予想に及ばなかったが、それは少しも悲観材料にはならず、かえって再訪の意を強くさせた。非現実的なたとえだが、もし仮に思いの通りに写真を撮れるようになれば、それは愉快なことかも知れないし、あるいは目標を失い途方に暮れるかのどちらかだろう。ぼくはきっと写真に興味を失うに違いない。撮れないから「下手の横好き」で、続けられるのだろうと思っている。

 同じようなものを同じように、相も変わらず懲りることなく撮り続けることにぼくは近頃大きな意義を感じている。それを一般では「堂々巡り」といい、あまり良い意味で使用されないが、案外そうでもなさそうである。
 同じところをぐるぐる回っているうちに、遠心力が働き、その輪から小さな粒子がいくつか飛び出し、それを繰り返しているうちに、写真が変容していくのではないかと思うことがしばしばある。遠心力を加速させれば効力が得られ、変容は少しずつ訪れるということもあろうし、また時にはある日突然ということもあろう。この説はきっと正しい。
 このようにして起こる自身の変化を面白がる日がやがてやってくるのだと、ぼくは信じている。信ずる者はやがて救われるというのが世間一般の通り相場ともなっているのだし、そのような理屈をこねていないと、ぼくなどやっていけない。「信心も欲から」ともいうしね。

 遠心力を高める方策のひとつは、とにかく撮ることしかないのだから、辛抱強く、飽くことなく「運鈍根」(うんどんこん)を貫き、それにしがみつくのが一番良い。体裁などにかまっていては、奥行きが図れず、常に蛇稽古(長続きしない稽古事のたとえ)に終わってしまう。
 写真という高価な趣味に大枚を叩いて、表面しか触れずに終わるのは、他人事ながらあまりにもったいないと思うのは、大きなお世話なのだろうか。

 ともあれ、ぼくのこのような考えや方策は、あまり一般的でないのかも知れない。趣味としての楽しみや上達の考え方はそれぞれが千差万別であることくらいはよく知っている。
 「信心過ぎて極楽を通り越す」ともいうけれど、自身の信条の最大公約数的な、もしくは共通分母のようなものを公にしているに過ぎないのだから、気休め程度に読んでいただければ、ぼくも気が楽である。

 先日、読者の方からご質問をいただいた。長いメールだったが、要約すると「撮影に、地の利というものはあるか?」と。地の利が写真にどのような影響を及ぼすかについては、ぼくには判然としないところもあるけれど、興味ある事柄でもあるので次号にてそれについて述べてみようと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/408.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈。

★「01祇園新橋通」。
お茶屋の並ぶ新橋通を1台の真っ赤なビートルが走ってきた。カメラをセットし、左上から右下への対角線構図を。ファインダーのなかで、走る車が意図した位置に来た瞬間にシャッターを切る。幸い人影が入らず。
絞りf9.0、1/600秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02祇園路地裏」。
一天にわかにかき曇り、驟雨が。コントラストの低い、しっとりとした空気の中で、「明瞭に写し出すこと」と言い聞かせて。
絞りf11、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/07/27(金)
第407回:京都(10)
 齡70にして、ぼくの故郷である京都撮影行の目的はすでに記述したので繰り返さないが、今改めて母方の祖父や叔父のおかげでぼくは子供では体験できないずいぶんとおませな場所に出入りしていたものだと、京都での過去のページを繰りながら懐かしく思い起こしている。

 道楽者のじいさまは祇園(ぎおん)や先斗町(ぽんとちょう)のお茶屋に、いつもフジペット(6 x 6 cmの中判カメラ)を首からぶら下げた小学生のぼくを連れて行ったし、叔父は行き付けの、新京極近くにある六角通御幸町のバーによく連れ出した。教育熱心なとても良い祖父・叔父であった。
 子供心ながら「ここはぼくのような子供の来るところではない」と呑み込んではいたが、芸妓さんやバーのママさんは子供を退屈させない凄技と洗練された女振りを存分に心得ており、気詰まりをまったく感じさせなかったものだ。今ぼくは原稿を書きながら、彼女たちのプロフェッショナルな仕事ぶりとその精神に非常な感謝をしている。
 「子供をこのようなところに連れてきて」との不粋で、あたかもものの分かった風なことを説教がましくいう人は誰一人としていなかった。そのような意味合いでは祖父・叔父はとても正しく、誰もが寛容で、住みやすい時代だったのである。
 そしてまた祇園の彼女たちは美妓でもあり、30歳前後であっただろうと思われるバーのママさんは、ぼくの記憶の中で一人歩きしているとはいえ、たっぷりとした母性を感じさせる魅力的な女(ひと)でもあった。やはり子供心ながらに一種の憧れに似た感情をぼくは人知れず抱いたものだった。
 小学生ともなれば、女性に対する憧れは大人のそれと何ら変わるところがないのではないかと、今の自分を顧みてそのような感慨に浸っている。

 ぼくは食欲旺盛な食い気一辺倒の中学生となり、叔父は「てつろうにはポタージュ(当時は珍しかった)と山賊焼(鳥のもも肉を焼いたもの)か、ステーキを食わせておけば良い」といい、祖父は「鱧(はも)か鰻を食わせておけば良い」と、ぼくをよく連れ回してくれた。とても気の利く良い人たちであり、優れた教育者でもあったのだ。
 叔父は、神戸牛、松阪牛、近江牛の違いをことごとくぼくに講釈し、祖父は大学生になったぼくに鰒(ふぐ)やすっぽんの味わいを教えた。ぼくは大変なマセガキとなっていった。京都での行状をおそらく知っていた父は、それについて何も語ることはなかった。そしてぼくも友人たちに京都自慢をすることは決してしなかった。マセガキではあったが、こましゃくれた驕慢(きょうまん)な子供ではなかったと、一応の弁明をしておく。

 ぼくがフジペットで彼女たちを撮ったかどうかはうろ覚えだが、室内では光量が足りず、ぼくに撮影技術の知恵もなく、もし撮っていたとしてもおそらく何も写っていなかったのではないかと思う。
 ただ記憶にあるのは、クラシック音楽好きのバーのママさんに連れられて新京極にあるレコード店にしばしば行ったことだった。ママさんは「何が欲しいの?」とぼくに訊ね、ぼくは都度果報に恵まれた。買ってもらったレコード(カラヤン指揮ベルリンフィルの『新世界』。1958年録音のLPレコード)を彼女に持たせ、「にっこりママさん」を撮ったことがある。ママさんは、思い起こすに女優の夏川結衣に似た人ではなかったかと思う。帰京し、あまりのブレブレ写真に愕然としたことがあった。その写真はいつの間にかなくなり、今手許にはない。

 昨今ならスマホでパチリとやればすべてが造作なくリアルに写し出され、生々しく記録に残せるのだろうが、当時ぼくにとって写真は原始の時代であった。リアルな記録を写し出すことができないが故に、今、想像や懐古の情が逞しく復活を遂げている。スマホでは望郷の念の昇華がままならないのではなかろうかと懸念さえしている。
 リアリズム(スマホ)vs.ロマンチシズム(フジペット)の図式をここに見るような思いだ。「昔は良かった」と言わしめるひとつの良い例であろう。

 ちょうど10年前にロケハン(撮影の下見)で京都を訪れたことがあった。ディレクター、デザイナー、助手君の3人を伴い、空き時間をみて撮影予定地ではない祇園界隈を歩いた。今や映画やドラマですっかりお馴染みとなった巽橋周辺を、ぼくは約50年ぶりに眺めた。
 そこは祖父に連れられてよく見た風景だったが、ちょうど半世紀の間に当時のしっとりした雰囲気や風情はかき消え、誰もがカメラや携帯電話のカメラを振り回し、記念撮影に興じている。時の流れといってしまえばそれまでだが、その賑わいたるや、まさにおどろおどろしいものだった。通りかかる舞妓さんを取り囲み記念撮影を目論む人々でごった返していた。

 あれからちょうど10年を経た今回の巽橋界隈は、以前と変わらぬ俗化ぶりだったが、変化は携帯電話のカメラがスマホに変わったくらいで、相変わらずの人出だった。
 ぼくも観光客の一員に乗じ、巽橋を撮ってみようと思った。超広角故、人影の入らない巽橋を撮るのはよほどタイミングを見計らう必要がある。運にも恵まれなければならない。ぼくは極めて気が短いので、待って撮るということは滅多にしない。2分と待てない性格なのだ。

 焦点距離を最短の11mm(APS-Cサイズであれば、6.875mmとなる)にセットし、誰も撮ったことのないような巽橋を頭に描いた。人影の入らない一瞬を捉えたが、イメージ通りとはいかなかった。しかし、我が身としては後に引けないので一応巽橋に行ったという証拠写真として掲載してみる。
 もう1枚は、巽橋にて群がる人々からやっと解放された4人の舞妓さんが、新橋通のお茶屋に向かう途上を、自転車のペダルを漕ぎながら後を追い、止まることなく3kgのカメラを片手で操作したもの。こんな横着な撮影をしてはいけないのだが、「オレはいいが、あ〜たたちはデッタイしてはいけない」という倶楽部の面々に対する常套句を、京の地でもつぶやいてみた。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/407.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈。

★「01祇園巽橋」。
極端なパース故どのような構図にするかだけを描いて。人影が消えた一瞬の隙に。
絞りf11、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02祇園新橋通」。
自転車で走る前に焦点距離24mm、露出補正-1、f8.0、フォーカスを5mに固定。ペダルを漕ぎながら片手撮りの横着を決め込む。補整でお茶屋のシャドウは潔く潰す。
絞りf8.0、1/400秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2018/07/20(金)
第406回:京都(9)
 話は多少前後してしまうが(ここが出たとこ勝負の一貫性のなさで、ぼくのダメなところだ)、前々回「京都(7)」に記した名刹に所狭しと掲げられている不粋で目障りな「撮影禁止」について、種々雑多な異論反論を重々承知で、私見を述べてみたい。

 お寺さんによっては、「撮影禁止」とともに「スケッチ禁止」というものも散見した。写真や絵画の製作をたしなむ人たちにしてみれば、然るべくして「何故?」との疑問が湧くに違いない。「誰に損害を与えるというのだ」との、通り一遍の反駁を心に秘め、やり切れぬ気持にさせられることしばしであろう。
 憤懣やるかたない思いを心の隅に閉じ込め、自らの道徳的規範( “法的規範” ではない)に従い、落胆を隠しきれず、「何故?」を解明することもままならずにすごすごと引き下がるのが通例であろう。
 撮影やスケッチの好きな人々が禁止令に対して無念無想のまま寂しくお寺さんの三門を出ることになる。お寺さんは本来礼拝の場であることを知りつつも、心残りながら後ろ髪を引かれるような思いで、その場を後にする人々が大勢を占めるのではないだろうか。
 
 感情的な面に荷担することが、稀には道理を詰むこともあるので敢えて記述してみる。
 拝観料を徴収しておきながら製作過程や作法の異なる写真と絵の双方に「禁止」という共通事項を持ち出すお寺さんの好ましからざる料簡に大きな疑問と異議を唱えることは罪ではない。

 帰京後、ぼくは「禁止」の理由を解明したく、直接東寺に電話をし、こう訊ねてみた。「お寺さんには確かに管理権というものがあることは知っていますが、それとは別に何故『撮影禁止』なのかがどこにも記されていません。拝観券にも記されていませんが、その理由をお教えいただきたくお電話をさしあげました」と。
 担当氏は「拝観料をお支払いいただいた時点で、『撮影禁止』はいってみれば暗黙の了解済みなのです」とおっしゃる。この説明は多くの矛盾や齟齬を含んでいるが、その点についてぼくは追究しなかった。きっと東寺の担当氏では埒の明かぬことと先読みをしたからだった。
 東寺五重塔(4度の焼失により1644年再建。国宝)は小さな鉄柵に囲まれており、その内側ではやはり「撮影禁止」だった。ぼくは五重塔の、300数十年の風雪に打たれた木材のアップを撮ろうとしたところ、すぐさま監視のご婦人に制止された。

 「何故ですか? ぼくがこの木材を写真に撮っても、国宝である五重塔には如何なる毀損も与えませんよ。著作権を侵害するわけでもなく、利益目的の撮影でもありません。どうしていけないんでしょうか? お教えください」と物腰柔らかく丁寧な口調で訊ねた。自分に落ち度はないと確信すればするほど、人は穏やかに問うものらしい。
 彼女の説明によると「撮影に夢中になり、ここから落ちる人がいるからです」とお答えになる。“ここ” とは、五重塔の基段のことであり、高さは1mにも満たない。なかには怪我をする人もいようが、落ちようと落ちまいとそれこそ自己責任である。東寺に落ち度はない。制止の理由は大きなお世話というものだが、おばちゃんと論争する気もなく、ここでもぼくは紳士的に引き下がった。

 現場の監視婦人と電話の担当氏の言質がまったく異なるということは、当事者である彼らでさえぼくの質問する「撮影禁止」の核心的問題について、どのような疑問も説得材料をも持ち合わせていないということが判明したに過ぎない。おそらく「規則だから」という根拠不明で紋切り型の説明に終始するのだろう。
 また他方では、「文化財保護のため」というまったく非科学的な大義名分が大手を振りながら御身大事と闊歩しつつ、臣民に対して「撮影禁止」の如何なる良心的な説得の側面さえ示していないのだということを率直に認めていただきたい。

 ぼくの感情論を大雑把にいえば以上のようになるのだが(まだまだ書き足りないが)、一方では別の見方が「撮影禁止」を支配している。曰く「撮影やスケッチを許可すれば、鑑賞者の滞留を招く」というものだ。それを伝家の宝刀を抜くようにしたり顔で宣うのであろうから敵わない。
 これは鑑賞者の関心の強さや興味の度合いを完全に無視した無感情論である。そこには「見せてやるのだから滞りなく歩を進めよ」との、血の通わぬベルトコンベア的扱いが露呈しているとみるのは穿ち過ぎだろうか? 鑑賞者をモノ扱いするような、結果としての暴挙であるように思われる。お釈迦様はきっと苦々しく思っていらっしゃるに違いない。

 建築物や仏像を前に、素通りする人もいれば、じっくり美の発見に努め、その歴史やいにしえに思いを馳せようとする人もいる。鑑賞者は百人百様であると認めることの基本が失われている。決して安価ではない拝観料を納めて、個人の尊重をよそに、十把一絡(じゅっぱひとからげ)げにされることにぼくらは甘んじなければならない。
 しかしぼくとて、第一にこの場が祈りの場であることは十分に承知している。だがしかし昨今では宗教的見地と商業主義が競い合い、どこかでどのような人も寛容に受け入れるという姿勢が遠のいているように思えて仕方がない。「撮影禁止」の理由の一端は案外そのようなところに因があるような気もする。
 ぼくにしてみれば、写真を撮る行為は己を知り、一種の精神修養のためといっても言い過ぎではないと思っている。神社仏閣に於いては、これでも精一杯自己を見つめ、お釈迦様に感謝しながらシャッターを押しているのである。

 西洋の考え方や仕組みに無批判に与することを由としないぼくだが、少なくともぼくの知る限り世界の代表的な美術館であるルーブル美術館やエルミタージュ美術館では当たり前のことのように「撮影可」だった。両美術館は年間1000万人を超える鑑賞者があると聞くが、人々の観賞のペースもまちまちであり、それを当然のことのように誰もが受け入れている。
 寺院と美術館を同列に論じることはできないが、もうそろそろ美観を損なう「撮影禁止」の看板や貼り紙を撤去し、岡本太郎記念館のように自由な撮影やスケッチの奨励を、お寺さんは考慮してもいい時期なのではないだろうか。

http://www.amatias.com/bbs/30/406.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01萬福寺通玄門」。
開山堂に向かう通玄門(重文。1665年)。空が夕陽に染まりつつあるなか、全身が石のように重くなり、青息吐息の体(てい)で、最後の砦ともう一踏ん張り。
絞りf11、1/125秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02萬福寺開山堂」。
萬福寺の塔頭(たっちゅう)である開山堂(重文。1675年)。開祖隠元禅師が埋葬(開山塔院)されている。特有の卍模様の高欄が見える。
絞りf11、1/125秒、ISO100、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)

2018/07/13(金)
第405回:京都(8)
 拙「写真よもやま話」は私的写真と同様、他者から「この題目で」との指示がないため(拙稿も、本当はあるのかも知れないが、ぼくにその自覚がなさ過ぎるため、結果としていつも出たとこ勝負になってしまう)当人ですら書き始めてみないと何が出てくるのか見当がつかない。弱ったものだ。
 話の展開が勧善懲悪のような予定調和でないだけに、難儀する部分もあるのだが、自由に書くのは気楽なようでいて、ぼくにとって実はこのほうがずっと難しい。しかもどこかに “写真” という語彙を無理やり紛れ込ませなければならないので、事はなおさら厄介だ。

 「お題目」をいただく原稿は初めから焦点を絞ることができるうえに、読者対象も限られているので、筆も滑らかに進む。主観的要素より客観的要素をより強く求められる場合が多く、調べものに費やす時間が多くなるきらいはあるが、やはり「お題目」をいただいたほうが書きやすい。
 しかし、ぼくのような自家中毒気味のタイプの人間は、それでは書いていて面白味を感じられず、手枷足枷の窮屈な思いに囚われることのほうが多い。不自由であるからこそ自由な「写真よもやま話」のような主観的要素の強いもののほうに気が向くのだろう。それが未だ懲りずに続けられる大きな要因ではないだろうかと思っている。

 他者がぼくにライター稼業を求めないのは(しかし何度か経験はある)下手くそなこともあるが、ぼくが客観的なことより、主観的なことに重きを置きたがるのを知っているからだろう。ぼく自身もライター稼業は性に合わないと思っている。つまり自己顕示欲が人一倍強いがためである。
 第一、ぼくが物書きなんて滅相もないことで、「写真屋なんだってば!」と声高に叫んだことが過去には何度かあった。けれど今は叫ばない。

 写真にも、文章書きにも、このような創造の類に、仕事として従事したことのない人ほど、「かめさん、写真屋より物書きになれ」と本気でご注進に及ぶ「勘違いおためごかし」の誠なる愚かぶりを示す者が世の中にはいるものだ。実際、ぼくの身の周りにもそのようなトンチンカンな輩が一人や二人でなくたくさんいる。
 そのような人たちに限って、物づくりの料簡にはとんと疎く、写真には恐ろしいほど音痴ときているから、ぼくはいつも「わざわざご丁寧に、どうもありがとう」と軽く受け流すことにしている。
 彼らは頑迷であり価値観もまったく異なるので話の共通項が見出せず、何をいっても無駄であることを、ぼくは遅まきながら70年の歳月をかけてやっと知ることとなった。おまけに彼らの不自由な脳ミソはいつだって「糠に釘」状態であるから、ぼくとて労が報われない。いろはがるたにある「骨折り損のくたびれもうけ」とは、まさにこれを指す。
 
 連載をお引き受けした当初は1年約50回で写真を始めたばかりの人たちに写真の基本的な知識と技術的な事柄に主眼を置き、またプロの現場で得た撮影のノウハウに触れながら書き連ねたつもりだ。
 一方で、多くのアマチュア諸氏が信じて疑わない怪しげな都市伝説(出所が明らかでなく、多くの人に広まっている噂話。すなわち、伝言ゲームの如し)の徘徊に警戒を呼びかけることもしたつもりだが、連載も1年を過ぎ「もう書くことがないなぁ」と思い始めてから、すでに7年が経過してしまった。なんたること。
 拙稿の担当諸氏から「このへんでお引き取りください」といわれないのをいいことに、8年間も穴を空けることなく、週一度の精勤さを示している。
 その間に読者層もきっと変遷したと思われるが、今は写真にそれほど関心を抱いていない方々からもメールをいただくようになり、継続することの意義や精神的な重責を自らかけることの大切さを教えられている。
 
 さて、題目の「京都」は何処へ行った? ぼくはまだ萬福寺から脱しきれずにいるが、なかには萬福寺が他寺の重文や国宝にくらべ創建年代(1661年)が比較的新しいことと様式が中国様式(明朝風)であることから、関心の薄い向きもあるだろう。
 ぼくがこのお寺さんを訪れて何故かホッと一息つけるような心持ちになるのは、日本的抹香臭さが薄く、大陸的な大らかさを感じ取れるからかも知れない。日本人であるためか、宗教的意味深長さや深刻さに迫られないので、こちらも何となく寺院の持つ大らかさに導かれてしまうのである。加えて、忌々しき「撮影禁止」のお触れがどこにも見当たらないことは、職業柄何ともいえぬような解放感を味わうことができる。
 また、創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は日本では類例がなく、萬福寺には歴史的・学問的にも興味深く、貴重なものがたくさんある。
 一例を記せば、我々が今日使用している字体の明朝体は、開祖隠元禅師が一切経(いっさいきょう。釈迦の教説に関わる教典の総称)を彫刻師に彫らせた版木4万8千枚が元になっている。ぼくが初めて萬福寺を訪れた当時は、字体というものは一般庶民にあまり縁深いものではなかったが、今や明朝体は誰もが知るところとなり、パソコンを扱う身は日々お世話になってもいる。萬福寺が発祥の地とはとても面白い。
 他にも、明朝からもたらされた煎茶、蓮根、孟宗竹、木魚、椅子と机による会食の習わしなどなども萬福寺由来である。

 心身の錬磨と自主独立を培う禅道場の利用は一般も受け入れており、特別指導訓練は5泊6日で行われている。ぼくももう一度精神を鍛え直さなければと思うのだが、永平寺での苛酷さを思い出すと、どうも腰が砕けてしまうのだ。うちの写真倶楽部にも禅道場での修業をお勧めしたい人がいるにはいるんだけれど・・・。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/405.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01法堂」。
法堂(はっとう。一重入母屋造。1662年)。背にした大雄宝殿の足の長い影が、法堂の前に敷かれた白砂をほどよく覆ってくれた。
絞りf11、1/160秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02卍崩しの高欄」。
法堂から大雄宝殿を望む。軒下に太陽をわずかに覗かせる逆光のアングルで。卍崩しの高欄の影が延びる。
絞りf11、1/320秒、ISO100、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)

2018/07/06(金)
第404回:京都(7)
 写真の好きな父はぼくの青年時代、当時高嶺の花だったスウェーデン製のハッセルブラッド(Hasselblad。6 x 6 cm判の一眼レフ中型カメラ)やドイツ製のライカをどこからか手に入れ愛用していた。その最大の理由は描写能力の良さや、ましてや贅沢趣味ではなく、デザインの美しさやメカの素晴らしさに憑(つ)かれ、惚れ込んだことにあったようだ。
 表に持ち出す時は、なるべく人目につかぬように、鹿革で自作した袋をカメラに被せ、撮る時だけ身を晒すようにしていた。それが彼の美学でもあったのだろう。これ見よがしに持ち歩くことをひどく嫌っていたようにも見えた。そしてまた、彼は照れ屋でもあった。照れ隠しに鹿革の袋は必需品でもあったのだ。

 「何故か?」とか「どうしてなのか?」を解説させれば人後に落ちない説得力を持っていた父は、ハッセルブラドやライカ、そしてそのレンズ群を手に取り「坊主(ぼくのこと)、ここを見てごらん」と、そのデザインについて、そして材質や加工について事細かく自説を展開した。あれから半世紀が経った今、ぼくはそれをとても興味深く聞いていたことを昨日のように思い浮かべている。
 ライカはどのような焦点距離のレンズをつけてもボディとレンズのバランスが崩れないと、その使い勝手の良さにも言及していた。当時、国産品を愛用していたぼくに、「いずれこれらは君のものになるんだなぁ」と高笑いをしていたものだ。
 写真屋になるための丁稚奉公(徒弟制度)を決心した時、父はこの世の人ではなかったが、ぼくはライカ道楽などしている場合じゃないと、ハッセルブラドを残して、父の貴重な遺品(ライカ)と自前のライカ製品すべてを潔く売却してしまった。父が亡くなって数年後のことだったが、父の高笑いも同時に消えていた。

 父の京都行きにはしばしば同行したことがあるが、仏教やその建築に精通していた彼が神社仏閣にレンズを向けているのを見たことがない。英・米の児童文学者や研究者、大学教授などが我が家にしばしばホームステイしていたが、遠来の客を京都に連れて行き、写真を撮らずに会話を愉しんでいた気配が濃厚であった。なかでも、桂離宮や修学院離宮は特に印象深かったが、写真はもっぱらぼくが請負っていた。

 父の解説に熱心に耳を傾けていたボストン大学教授であるE氏がぼくに、「桂離宮について、現代の若い日本人であるあなたはどう感じるか?」と問いかけてきたことがあった。
 ぼくは拙い英語をやり繰りしながら、「桂離宮は過剰だ。凝り過ぎだ。凝り過ぎていやらしい。『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』とはバウハウス(Bauhaus。1919〜33年。近代建築やデザイン分野の確立に大きな足跡を残した)の教え。その教えがすべてとは思わないが、本質的な部分を言い当てているような気もする。桂離宮はたいしたものだとの考えは変わらないが、ゆき過ぎや華美、たとえば先週行った日光陽明門(彼はそれを見て、“Too bright ! ” 派手すぎる、と評した)などは基本的に日本人の性に合うものではなく、ぼくは好きではない。何故ならそれは時によって不幸や不虞(ふぐ。思いがけない出来事。この場合は不調和や余韻を欠くこと)を招きかねないから。ぼくは修学院離宮のほうにずっと好感を抱く」と答えたことがある。
 誠に不全な受け答えだ。気のぼせではなく、明らかに知識と理解の欠如であるが、その嗜好は今も変わらない。
 ここでも父の高笑いが聞こえたが、彼はたとえ自分の息子であっても他人の浅学を笑うような人物ではなかったので、今となっては彼の意味するところは不明であるが、「桂離宮」という固有名詞を見聞きするたびに、ぼくは父の高笑いが気になって仕方がない。

 昨夜、萬福寺の三門を補整していてその最終段階に近づき、画像に荒びがないかを点検していた。多くの画像を重ねたり、調整を繰り返しているうちに画像は思わぬほころびを見せるものだ。補整画像は無論psd(Photoshop形式)かtif であり、jpegは御法度である。
 Photoshopで画像を200%に拡大し、荒びやほころびがあれば「ぼかしツール」でその箇所を丁寧になぞっていくのがぼくの常套手段なのだが(この作業で全体の視覚的解像感を損なうことはない)、拝観料を支払うところの足元に小さな立て看板が置かれてあることに気づいた。地面に立てられた高さ50cmほどのもので、ほとんどの人は見逃してしまうのではないかと思われる。
 そこには「僧侶の写真はご遠慮ください」とだけ書いてある。この文言を写真上で発見したぼくは、何故か喜びと安堵に近い感情が持ち上がってきたことを知った。
 「僧侶以外であれば何を撮ってもかまいませんよ」と、この看板は拝観料を支払った人々に大らかに訴えているように思えたからだった。どこの名刹へ行っても目障りで、無感情で、無愛想で、無慈悲な「撮影禁止」の4文字にうんざりしていたぼくにとって、この発見は思わぬ果報を得たような気分だった。「お鉢が回ってきた」とはこのようなことを指すのだろう。昨夜はぼくが高笑いをする番だった。

http://www.amatias.com/bbs/30/404.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01大雄宝殿十八羅漢像」。
大雄宝殿に鎮座する十八羅漢像。仏師・范 道生(はん どうせい)が1664年に製作したもの。
絞りf5.6、1/20秒、ISO400、露出補正-2.00。

★「02大雄宝殿羅怙羅尊者像」。
十八羅漢像のひとつである羅怙羅尊者像(らごらそんじゃぞう)。釈迦のご子息で、胸から仏様が覗いている。誰の心にも仏様が宿ることを表している。
絞りf5.6、1/30秒、ISO400、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2018/06/29(金)
第403回:京都(6)
 写真や文章が抹香臭くならないように心がけているつもりではいるけれど、この「京都」シリーズは、京都や宇治の神社仏閣を訊ね歩いたものであることを顧みればある程度は仕方ないこととご了承をいただきたい。
 とはいえ、ぼく自身は宗教に対して人並みの興味や探究心くらいは持っているが、信心家でもなく、また研究者でもなく、単なる一写真屋としての貧相な知識の開示に他ならないことも併せてご理解いただければと思う。

 大学を卒業し、他社より給金のほどよい出版社に入社し、ぼくが最初に購入した書物が出版されたばかりの「日本思想体系『道元』上・下巻」(1970年の初版本。岩波書店)だった。ケース入りのハードカバーで1冊1300円もし、当時の物価からすればかなり高値なものだった。同シリーズの『法然』、『親鸞』と続き、そこでぼくはついにギブアップしてしまったのだ。
 文章が古語であるうえに、いくら注釈が付けられているといっても難解そのものだった。興味だけで読み通せるものではなかった。第一、漢字が読めないし、意味も理解できない。古語辞典と漢和辞典、広辞苑をさかんに繰りながら、それでも意地になって通読した痛い経験がある。今その書籍は書棚の隅で埃を被り、カバーは黄色く日焼けして眠っている。

 それらの書物の文意が手にあまると、父に「とうちゃん、ここはどういう意味か?」と質問するのが常だった。父は仕事の手を休め、丁寧にさまざまなたとえを引き、噛み砕くように解説してくれた。それは大学教授が小学生に難しい方程式を教えるような仕草に似て、今思えば滑稽そのものだったように思う。ぼくはいつもものの分かった風な賢い教え子の振りをしたものだ。
 父は専門家ではなく、宗派には無頓着を決め込んでいたが、その分野には精通していた。英国滞在中にはケンブリッジ大学でインド哲学を小遣い稼ぎのためによく講義していたと、サー(Sir)の称号を持つ親しい英国人が教えてくれた。
 「人は清濁を併せ持つものだ。それでいい。その清濁こそが、人が人たるゆえんであり、清濁を認め、寛容であることが一番大切なこと。それを称して『清濁併せ呑む』というのだよ」と父に教えられたものだ。

 学生時代、道元(1200-1253年。禅僧。日本に於ける曹洞宗の開祖)ゆかりの地である福井県は永平寺に、その著書である『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の紙本墨書があることを突き止め、訪れたことがあった。今のようにネットで安直に調べがつかなかった時代のことだ。
 どのような拍子からか、ぼくは6日間だったと記憶するが、雪深い永平寺の宿坊に泊まり座禅を組む羽目になった。あろうことか、ここに漂う妖気に心負けし、血迷ってしまったのだ。座禅に対する興味もあったのだが、あまりの厳しさと寒さに、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、ぼくはほうほうの体(てい)で逃げ出した根性無しでもあった。

 今回、お寺さんを訪ねながらぼくはそんな昔を思い出していた。僅かながらの経験や知識がぼくの写真にどのような影響を与えるのかは皆目見当がつかないが、たとえ場当たり的であっても、被写体に対する知識や執心がまったくないよりは、あったほうがイメージの構築が成しやすいのではないかと思う。
 余談だが、東寺を訪れた時など、塔頭(たっちゅう。大寺院の敷地内にある小寺院や別坊。脇寺とも)のひとつ観智院にある宮本武蔵の筆になる「竹林の図」や「鷲の図」を見逃すというヘマを見事にやらかしてしまった。
 茶室「楓泉観」(ふうせんかん)に目を奪われ、第一の目的であった武蔵の絵をすっかり忘れてしまった。ここでもぼくは妖気に負け、魔が差してしまったのだ。
 つまりぼくの知識や向学心はそれほどのものでしかないということらしいが、父の教えに従えば「人は清濁併せ持つ」のだから、拝観料を惜しむくらいが人間的愛嬌としてちょうどいいのではないか。

 話はいきなり飛ぶが、写真を撮る人々を俯瞰してみると、やはり父の教えは生きているように思える。清濁を併せ持っている人のほうが面白い写真を撮る。「面白い」とは、「味のある」とか「色濃い」という意味だ。また、良い意味での個性(作為的でないという意)も際立つ場合が多いように感じてならない。
 いつだったか拙稿で「聖人君子は写真が撮れない」と喝破したことがあるが、今もその信条は変わらない。聖人君子などこの世に存在するとは思っていないが、そのようでありたいとかそれを人間の理想像として持ち上げ、自分の物差しとして「人物評価をしようとする人々」は面白い写真が撮れないと言い換えてもいい。濁を悪いものと定義し、「清濁併せ呑む」ことを知らないからだ。
 人間として大変な善人であり、極めて常識人ではあるが面白味に欠けるという人はたくさんいる。写真もそれに準じているように思えてならないのはぼくひとりだけだろうか?

 こんな持論を展開すればするほど、ぼくの掲載写真は墓穴を掘りそうな気もするのだが、これが生業だから、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」か?

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/403.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01萬福寺大雄宝殿」。
1668年建立(重文)。「大雄」とは釈迦如来の意。天井は円弧形の垂木を蛇腹梁や束で支える「蛇腹天井」(別称黄檗天井)で独特の建築様式。大雄宝殿は日本では唯一最大のチ-ク材(世界で最も優良とされる木材がチ-クとマホガニ-)を使った歴史的建造物。
絞りf10.0、1/40秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「02萬福寺大雄宝殿裏正面」。
ぼくはこの伽藍のプロポ-ションが気に入っており、画面内に太陽を入れた真逆光でシルエットのように。
絞りf11.0、1/200秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)