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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2025/08/08(金)
第751回 : 京都鉄道博物館(3)
 高校1年生の読者からメールをいただいた。拙連載を始めて早15年の歳月を経たが、ありがたいことにその間、多くの読者諸兄からメールを頂戴した。そのなかでも、高校1年生は最年少者である。ぼくの拙文が幅広い(特に年齢層に於いて)方々に享受されるとはまったく思っていないが、それにしても高校1年生からのメールは、ぼくとて戸惑いを隠しきれず、ちょっと驚いている。 
 それだけ市井の人々にとって写真がより身近なものとなり、また誰でもが労を厭わず写真を撮れる時代になったと受け止めていいだろう。
 それは同時に、写真や文章を公に発表する立場の人間にとって、身の引き締まるような思いでもある。ゆめゆめ油断なさるなということだ。改めて気を引き締めなければと感じた次第。

 彼の質問は、「鉄道好きなんですがはじめてカメラを買いました。コンデジなんですが、コンデジでも頑張れば亀山さんのような蒸気機関車の写真が撮れるでしょうか? また、ぼくのような初心者はどんなことを心がけたらいいでしょうか?」(要約。原文ママ)。
 ぼくは直ちに返信をし、こう書き記した。「写真を撮るにあたって、とても大切な要素を多く含む質問ですね。非常に重要な課題でもあります。これについてお答えするのはぼくのような人間にとって容易なことではなく、かつあまりにも多岐にわたる事象についてお伝えしなければなりません。それはあくまでぼくの考えから派生した流儀と考えに基づくささやかなものに過ぎないのですが、熟慮を要するご質問なので即答を避け、後日改めて必ずお返事を差し上げます。少しお時間をください」(ママ)。

 高校生の質問内容については、筆硯を新たにしたいと考えているが、ぼくの身近にも同種(コンデジではなくスマホ)の愛用者がおり、奇しくも、「スマホ撮影に関する自身の考え方」の大筋を先日述べたばかりだった。
 どのようなものにでも、短所と長所が表裏一体として混在するのが、ものの道理と真理である。そこで最も肝心と思えることは、カメラやレンズを操作する人間とそれに付随するところの被写体に対する「精神作用」と「憧憬」である。

 人はどうしても安易・安直なものに流されるのが人情というもの。物を生み出すのは、常に精神的な困難と苦痛を伴うものであり、それを避けたい人は、写真ばかりでなく、そもそも物づくりには向いていない。楽しさは必要だが、甘い物ばかりでは身体を壊す。ここでいう物づくりとは、記念写真や記録写真は除外する。あくまで、自己表現としての写真である。
 安易・安直はややもすると、「丁寧さや慎重さ」を欠く元凶になり得るということを厳に言い聞かせる必要がある。ぼくは、それを撮影の第一歩と捉えている。先ずは優れた観察眼を養うこと、それなくして、良い写真への第一歩は雲散霧消。貴重な物づくりの「精神作用」と「憧憬」が一瞬にして逃げ去ってしまう。自身にとっての「美の発見」の確立をしなければ盲目同然である。

 「あ〜たは例によって、訳の分からんご託を並べ立てているが、梅小路は何処へ行ったのよ!」との含み声やらダミ声が、どこかムーミン漫画に登場する 「ミイ」に酷似した形相の我が倶楽部の女衆から聞こえてくる。彼女らはそういうに決まっているのだから、「ホンにわしぁ心(しん)が疲れよると」(亡父の口癖)。ぼくは、行儀の悪い二つ返事で、「はいはい、なんとか誤魔化しながら書くよ。った〜く、るっさいんだから!」と、返り討ちを恐れずここで言い放つ。面と向かっていえない悲しさ、哀れ、もどかしさ、はがゆさ。拙稿だけがぼくの頼りであり救いでもある。

 因みに、上記した「ミイ」の性格は、Wikiによると以下の如し。
 「小さくても頑固、せっかちで怒りっぽく、いたずら好きで失礼なところもある。かなり角のある性格で、聞き手や討論相手を説き伏せる。議論に勝つために感情と論理を駆使してかかる。常套手段として、討論をしている相手に個人攻撃をしたり、説明抜きの結論を口にしたり、敵の議論の内容を誇張して嘲笑ったり、言葉を使わないで相手が不利な立場あることを示してみせたりする」とある。まるで、瓜二つではないか。
 つけ加えておくと、「ミイ」のイラストが描かれた腕時計をこれ見よがしにつけているご婦人も実際にいらっしゃる。

 前号の最終段にて、「次回で、その矛盾を辛うじてすり抜けた作画を掲載できるかも」といじらしげに、かつ控え目に述べたが、数年前からイメージしてきた「憧れの画像」を辛うじて再現(今回の「02」写真)できたと思っている。
 ハレーションの塩梅、蒸気機関車の美しいフォルムやメカ、その質感、重量感、現場の空気感などが、程良くモノクロで表現(ハイエストライトからディープシャドウまでを破綻なく再現)できたと感じている。決して満遍なくきれいで柔和なモノクロ写真ではないが、それは蒸気機関車の重量感と質感を重要視しているためだ。また、この機関車が細部にまで磨かれ、大切に保存されていることを窺い知ることができるのではと思う。

 屋外はどしゃ降りで、光源が点光源(晴天)ではなく、雨天のため面光源であることもハレーション効果を際立たせた一因。「雨だったらおれは梅小路に行く。雨でなければダメなんだ」と喝破してきたぼくの面目躍如といったところか。
 焦点距離を最短の24mmに固定し、膝を着いたままの中腰で、ファインダーを覗きながら前後左右にジリジリ動き、構図を決めながらの1枚。シャッターを切り終わった途端、ぼくはそこにしゃがみ込み、年相応の姿態(醜態)を晒してしまった。

※ 来週はお盆休みのため休載となります。

https://www.amatias.com/bbs/30/751.html  

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
京都市下京区。梅小路。

★「01京都鉄道博物館」
C59型(製造1941-1947年、昭和16年-22年)。ボックス型動輪で直径175cm。国内最大の動輪径のひとつでもある。梅小路開館当初は動態保存だったが、現在は静態保存。油の受け皿が置かれており、念入りなメンテナンスがなされていることが分かる。
絞りf11.0、1/20秒、ISO 4000、露出補正-1.33。

★「02京都鉄道博物館」
心身消耗のためへたり込み、機関車のプレートを写しておくのをすっかり忘れてしまった。もしお分かりの方がいらっしゃれば教えてください。
絞りf8.0、1/25秒、ISO 3200、露出補正-1.00。 


(文:亀山哲郎)

2025/08/01(金)
第750回 : 京都鉄道博物館(2)
 鉄道に対しての憧れについては、取り立てて、いわゆる「撮り鉄」ばかりではなく、多くの男子が少なからず抱いていると思われる。ぼくもそのうちのひとりなのだが、特段に詳しいというわけではない。つまり、マニアとはほど遠い距離にいると自覚している。また現在の鉄道事情にも疎い。
 子供時分、我が家(現さいたま市)に同居していた母方の叔父が無類の鉄道好きだったため、かつて万世橋(東京都千代田区)にあった「交通博物館」(開館1936年、昭和11年。閉館2006年、平成18年)によく連れて行ってもらった。そんな経緯もあって、当時としては仲間たちより多少は鉄道に通じていた。

 また、父が模型好きということもあって、叔父との二人がかりで知識を押し売りされ、ぼくの鉄道好きもやむなしというのがホントのところである。だが、小・中学時代、ぼくより鉄道に詳しい同窓生の鉄道好きはたくさんいたように思う。
 たとえば、C57型蒸気機関車をして「貴婦人」というのだと教えてくれた友人もいたくらいだ。現在この「貴婦人」C57の1号機は「SLやまぐち」号として活躍し、梅小路に動態保存されている。因みに、同線ではD51 200号機も運用されている。

 ぼくが物知りの彼らと少し違ったところは、鉄道とともに写真が好きだったことだ。中学時代、倶楽部(吹奏楽部)のない放課後には、校庭のすぐ近くを走る京浜東北線や東北本線の線路際に出向き、カメラを向けるのを楽しみにしていた。もしかすると、元祖「撮り鉄」だったのかも知れない。まだ「撮り鉄」という忌まわしい呼称はなかったが、それはぼくにとって、まったく不本意であり、また迷惑な話でもある。何故なら、ぼくはその語感と実態が嫌いだし、写真は競い合って撮るものではないからだ。
 最近は「撮り鉄」を意図的に妨害する「邪魔鉄」という言葉が聞かれるが、ひねくれ者のぼくは大いなる快哉を叫んでいる。「ガンバレ、邪魔鉄!」というわけだ。

 ぼくが鉄道写真に熱中した頃は、今のように、何時何分に○○型の列車が目の前を通過するなどという細かな情報が手軽に得られる時代ではなかったので、線路際ではいつも出たとこ勝負の行き当たりばったりだった。予期せぬことへの期待に胸を膨らませていた。ただひたすらカメラを持って待ち構えるという状況である。いつ来るか分からぬ機会を逃すまいと、いつになく生真面目で血走った眼をした奇っ怪な少年が、カメラ片手に辛抱強く線路際に突っ立っていたに違いない。ライフル銃を構え、獲物を待ち構えるというほど鬼気迫るという状況ではないにしても、そんな気持でいたことは確かだった。

 蒸気機関車はもとより、デッキと庇(ひさし)のついたお気に入りの電気機関車EF53型などの姿が遠くに見えれば、心は打ち震え、一瞬のうちに身体全体が熱く燃え上がるような気分で、タイミングを見計らいながら、「置きピン」(あらかじめ撮影ポイントにピントを合わせておくこと)をし、祈るような気持ちでシャッターを切ったものだ。それはあたかも餌を前に「待て!」といわれ、「よし!」の号令を待つ犬のような心境だったに違いない。瞬時を切り取る、という写真本来の撮り方を具現していたのだった。

 ついでながら、連写などというあざとい作法ができぬカメラ(当時そのような操作は特殊なカメラである長尺フィルム専用のカメラ、アイモEyemoでしかできなかった)だったので、ぼくのお題目である「写真は一発で決める」という美しくも男らしい習性(覚悟)が身についたのだと、今さらながらの自画自賛。現在も、特殊な例を除いて、「連写などは下手くその用いる撮影手法」だと決めつけている。

 さて、機関車庫として最古の鉄筋コンクリート造りである『梅小路蒸気機関車庫』(重要文化財)で、ぼくは何から撮り始めたらいいのか、戸惑いが先に立った。自由に動き回れることに加え、撮りたいものが満載だったからだ。それが却って迷いを誘発した。たくさんお菓子を与えられた子供がそうであるように。
 年甲斐もなく “気のぼせ” している自分に気づきはしたが、待ち焦がれた情景が一挙に出現したのだから、誰もぼくを責められないだろう(誰も責めない)。

 だが、やはりこういう時に必ずや決まったようにしゃしゃり出てくるのが我が倶楽部の、可愛げという言葉を歳とともに捨て去ってしまった女衆である。「プロのくせに!」と手抜かりなく、しかも軽々(けいけい)にそう責め立ててくるに決まっているのだ。まったく忌々しいたらありゃしない。
 「プロだからこそ、迷うのだ」という哲学的深遠さを以てして、ぼくは彼女らの蛮勇に立ち向かうしかない。しかし、こんな反駁も「蛙の面に小便」とか「馬の耳に念仏」とかね。彼女らの、あの不死身の心魂はどこからやって来るのだろうか。

 ぼくが数年前から描いていたイメージは、前回に掲載させていただいた「02」写真もどきなのだが、柔らかな外光ながらも、さらなるハレーション(強い光が当たった部分の周辺が白く霞みがかかったようにぼやけて写る現象)効果を期待していたのだが、思ったほどにはハレーション効果が得られなかった。

 撮影後、モニターで写真を確認する作業をほとんどしないぼくだが(格好をつけている。自尊心の表れ)、ここではその掟を破り、周りに人がいないことを確認しながら、ハレーションの具合を見ようと、こっそりモニターを覗いた。アングルを少し変えると(露出補正も肝心)、逆光の特性として、それにつれて霞み具合や質感が変化し、「あちらを立てればこちらが立たず」と、矛盾が重なる。次回で、その矛盾を辛うじてすり抜けた作画を掲載できるかも。断言しないのは、やはり不条理な、どこかからの嘲罵を恐れているからなのだろう。

https://www.amatias.com/bbs/30/750.html  

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
京都市下京区。梅小路。

★「01京都鉄道博物館」
C55型(製造1935-1937年、昭和10年-12年)。最後のスポーク動輪機関車。スポークはどこかクラシカルで清楚なイメージを与え、ぼくは気に入っている。俗にいう「水かき」と呼ばれる補強がなされており、C55の特徴のひとつとなっている。
絞りf6.3、1/40秒、ISO 6400、露出補正-1.67。

★「02京都鉄道博物館」
動輪の空転する様を初めて見たのが中学1年時。その時の驚きと感動は今でも忘れ得ぬ思い出となっている。どれ程興奮したことか。この写真は静態だが、あたかも空転しているように見せようと、カメラを意図的にブラしてみた。「うまくいった」と、ひとり悦に入っている。
絞りf13.0、1/20秒、ISO 6400、露出補正-1.00。 

(文:亀山哲郎)

2025/07/25(金)
第749回 : 京都鉄道博物館(1)
 「もし雨が降ったら、梅小路(京都鉄道博物館。京都市下京区)に行ってくるよ」と、ぼくは我が倶楽部の面々にそう言い放ち、重いリュックを背負いながら自宅を後にした。5月に義母の法要と墓参りを兼ねて家族とともに京都に行くことになっていたからだった。
 京都鉄道博物館は、野外に重要文化財(平成16年、2004年指定)である蒸気機関車の格納庫である扇形の『梅小路蒸気機関車庫』があり、雨中でのイメージがすでに脳裏に出来上がっていた。

 実際に描いた通りの光景にお目にかかれるかどうか、一抹の不安はあったものの、ぼくの思いは「至誠天に通ず」との信念で固まっていた。五体投地よろしく伏し拝(おが)めば雨でさえ手玉に取れると信じていた。ぼくの強みと取り柄はこういう能天気なところだ。二言目には「信ずる者は救われる」と、にわかキリスト教信者を演じて見せたりもする。写真愛好の士は、プロ・アマを問わず、このような信心とご都合主義の持ち主でなくてはならない。時として、いい加減さが功を奏すということがままあるものだ。

 島原から梅小路までの距離は約500m。大粒の雨がかなり強くなってきたので、ぼくは近くにあったコンビニに飛び込み、生まれて初めて傘というものを買った。コンビニのおねえさんに700円をもぎ取られたが、ぼくはこの雨に内心驚喜していた。日頃の行いが良いと天は味方をしてくれるものだとぼくはひとりニヤついていた。100円玉を1枚1枚ニヤつきながら差し出す白髪ジジィに、きっとおねえさんは気味が悪かったに違いない。
 普段は少々の雨では傘などささない主義なのだが、今回は傘をさすくらいの雨が降ってくれないと大変困るのだ。何故かといえば、「雨の梅小路」のイメージが、すでに織り込み済みだったからである。倶楽部の意地の悪いおばさま方にもこれでどうにか面子が立つ。ぼくは遠隔の地から、彼女らに向かって「どうよ!」と叫んでいた。

 雨中の撮影はさまざまな困難を伴う。
 まず第一に、レンズやレンズプロテクターフィルター(保護フィルター。これについての功罪は1話を要するので、今回は触れない)に水滴が付着すること。付着したままで撮影をすると、画像にその水滴が写り込んでしまい、悪影響を及ぼす。撮影後、画像ソフトなどを使用し、修正するのはかなりの困難を伴うので、被害を最小限に抑えるためのレンズフードは必須と考えている。レンズ先端をむき出しで使用するのは絶体にダメ。
 第二に、機材に神経を使う。たとえ防水防塵を謳ったカメラやレンズであっても、ぼくはあまり信用していないので、水の付着を極力防ぐ工夫をしなければならない。ぼく自身、山岳カメラマンではないので、このような精神的負荷はやはり辛い。ハンカチやタオルを被せて撮るくらいの工夫は必要であろう。
 第三に、降雨の強さにもよるが、傘をさしての撮影は誰だって鬱陶しく、身体の自由を奪われる。傘のおかげで、どうしても身動きが緩慢になってしまう。
 第四に、足元に神経を使う。撮影に夢中になり、水溜まりに足を突っ込んだり、滑って転んだりと、怪我でもしたら元も子もない。それで良い写真が撮れるとの保証があれば、痛さも何のそのだが、そうでないところが味噌である。洒落ではないが、それこそ糞味噌の結末を迎えることになりかねない。踏んだり蹴ったりという具合だ。

 そんな困難を押してでもぼくが雨を願った理由は、野外に置かれた蒸気機関車上部のテカリが立体感を醸すに違いなく、漆黒の蒸気機関車の存在感を際立たせ、アクセントを付け、全体を引き締めてくれると考えたからだった。また、雨のため湿度が上がるので、蒸気機関車の上部に具えられた「ボイラー安全弁」や「シリンダー」から噴き出る蒸気がより映えると思えた。加え、雨は現場の情感をそそる道具立てのひとつと捉えることもできる。

 そしてまた、晴天にくらべ曇天や雨降りは濃度域が狭いので(コントラストが低い)、カメラの再現域に無理がなく、露出補正(いつも苦心惨憺する)や撮影後の補整に煩わされる面が少ないとの利点がある。空の描写を重んじるぼくの作画には好都合な条件が揃っている。今回は(掲載写真)雲の間から微かに光が漏れ、カーテンを演出してくれた。
 転車台を含めた野外の操車場描写は、「雲ひとつないピーカン」では、どうあってもぼくのイメージからはかけ離れてしまうのだ。

 扇形車庫には、静態保存と動態保存の蒸気機関車が合わせて20両置かれているが、ここの素晴らしいところは、内部に自由に立ち入り、見て回ることが可能なことである。車庫の内部はおそらく十分な明度は確保できないであろうが、被写体がほとんど黒に近いので(カメラ内蔵の反射光方式の露出計で、黒を黒に描写するための露出値はマイナス補正)、かなり絞り込んでも桁外れのISO感度とはならないだろうと予想していた。
 蒸気機関車の魅力に溢れたメカニズムと力感溢れる動輪を自然光下、逆光で撮る(質感重視)と、ぼくは数年ほど前からそれをイメージしてきた。何とも気の長い話だと思われるだろうが、それほどぼくの想いは強かったということなのだろう。

 さいたま市大宮の鉄道博物館にも何度か足を運び撮影を楽しんだが(かつて掲載させていただいた)、ここはあくまで人工光であるのに対し、梅小路は自然光。しかも動態保存なので、また趣が異なる。雨天時の柔らかな外光を利用しながら、膝をつき、しゃがみ込み、ある時は地面にカメラを置き、ぶつぶつと独り言をいいながら、動輪相手に飛び回る気色の悪いジジィを演じてしまった。

https://www.amatias.com/bbs/30/749.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
京都市下京区。梅小路。

★「01京都鉄道博物館」
閉館間際。「梅小路蒸気機関車庫」の看板に灯がともる。転車台のC62型が車庫入りする寸前。左手前のC61と直角を成すように配置。連写などしては男が廃(すた)るので、一発で決める。本館2Fから下に降りる連絡通路上から。
絞りf6.3、1/60秒、ISO 250、露出補正-1.00。

★「02京都鉄道博物館」
カメラを地面に置いて、モニターをバリアングルにして睨む。もう息も絶え絶え。暑くもないのに、汗が1滴地に落ちる。
絞りf13.0、1/20秒、ISO 4000、露出補正-1.33。 

(文:亀山哲郎)

2025/07/18(金)
第748回 : 島原花街(3)
 島原は日本最古の花街(かがい)と初回に述べたが、実のところ、「花街」って何? というのが正直なところだ。さらにいうと、「何となく意味は分かる」のだが、まこと実感に乏しいということになる。
 ものの本によると、「花街」は他の呼び名に、「遊郭」、「遊里」、「郭」(くるわ)、「色里」、「色町」など、まだまだいくらもあるのだが、そこでの実体験がないので、その一端を知るには、文学や研究書、及び落語を紐解くしか知る手立てがない。ぼくの頼りは、そこから得られる情報に限られている。そんな耳学問のままこんにちに至っている。悲しいかな、先輩たちからの “聞きかじり” もない。

 良い写真を撮ることのひとつの条件として、「被写体への知識と理解」をいつもあげるが、それが島原では欠如していた。人様にしたり顔で良い写真への条件などをいえた義理ではないのだが、とはいえ今回ぼくにひとつの知恵がついた。少しだけ賢くなってしまったのだ。
 それは、「 “情任せ” は限度がある」ということだ。ロマン的、もしくは情緒的で、一方的な思いだけでは、良い写真を撮ることの条件を満たすことはできないという事実だ。今さらながらの発見である。
 被写体への理解が必要との意味は、喩えていうならば、藪のなかにいる獲物の正体を知らずして、感情に任せてやたら銃弾を放てばいいというものではないに似ている。

 売春防止法(公布1956年、昭和31年。施行1958年、昭和33年)により、それらが次々と、形式上は姿を消し(実際には “姿を変え” )、当時10歳だったぼくには当然のことながら知る由もないのだが、知らぬが故の好奇心をくすぐるものが、「遊郭」という響きのなかに折り畳まれているような気が確かにするのである。

 文学や落語の世界では、事実はどうあれ、あくまでフィクションの世界での語りであり、酸いも甘いもかみ分けた人でさえ、虚構の世界からは脱しにくい。 “事実はどうあれ” と書いたが、事実を文章や映像に移し替えた瞬間に、事実は明らかに何らかの変質を余儀なくされ、そして変貌を遂げるものだ。特にそれを成そうとする人間は、確固たる意志を以てのことなので、なおさらである。
 第一、虚構の世界に遊ぶという最大のお洒落から、わざわざ脱するというのは野暮の極みであろうし、それをするくらいなら、文学や落語、あるいは写真という芸術に接する必要もない。
 だがそのような人に限って、口角泡を飛ばしながら、文学論や写真論を語りたがる。しかも、滔々と、である。これはとても奇異なものに思える。

 島原の、往事の断片を探し出そうと、今から約200年前に、歌川広重によって描かれた島原の様子を思い起こしながら、路地をうろつき、ぼくは写真を撮ることより、「花街」とはどのようなものだったのだろうとの疑問に囚われていた。どこかにその片鱗を探し求める必要に迫られていた。自分の感覚をえぐり出そうとすることは、実際にシャッターを切る以上に困難を極める。

 揚屋と置屋の、言葉や用途の違いは認識していたが、ぼくのメモには事前に調べた書物やネットから写し取った文言などが書き殴ってあった。たとえば、「島原も例外なく、昭和初期までには娼妓本位の花街となっていた」とあるが、ぼくの知る「娼妓」の意味は、「女郎」、「遊女」、「傾城」(けいせい)ともいわれ、手っ取り早くいえば「売春婦」である。
 吉原(Wikiによれば、「江戸時代に江戸の郊外に作られた、公許の遊女屋が集まる遊廓」とある)同様、島原も高度な文化発祥の一翼を担う一方で、生きるために客に色を売る女たちが大勢いたと容易に想像ができるのだが、その場に置かれた女性たちの心情には理解が届かない。やはり、文学や落語に頼らざるを得ない。

 今回は、掲載写真について少しばかりの記述をさせていただく。作品の解説は最小限に止めたいのがぼくの考えなのだが、特に「01」は、島原でなくとも、あるいは京都でなくとも、日本のどこにでも見かけるような風景であることをお断りしておかなくてはならない。
 島原の路地を行ったり来たりしているうちに、どうにも心に引っかかり、素通りするのは申し訳ない気持ちになった。「私も、昔華やかなりし頃はね、由緒ある建物で、多くの人が出入りしていたんだよ。どこかに当時の名残を見つけ、撮っておくれよ」とせがんでいるように思えた。ぼくは元々波形のトタン板が好きで、そればかり撮っていた時期があったので、「じゃ〜ってんでな」(何故か江戸言葉で)1枚心を込めていただいた。

 「02」は、かつては隆盛を極めた主だったかも知れない。玄関口は画面に写っていないが(引きが取れず、16mmの超広角で、これが手一杯)、京都特有の、伝統的な奥行きのある建物。島原でのラストカット。大粒の雨が降り出し、ぼくの気持はすでに次なる訪問地である梅小路は京都鉄道博物館に向いていた。

https://www.amatias.com/bbs/30/748.html 

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM 、RF16mm F2.8 STM。
京都市下京区。島原。

★「01島原」
絞りf7.1、1/160秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02島原」
露出補正は、ファインダーのヒストグラムを睨みながら、白飛びを防ぐように設定。
絞りf5.6、1/400秒、ISO 100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2025/07/11(金)
第747回 : 島原花街(2)
 島原(日本初の幕府公認の遊女街。寛永18年、1641年に六条三筋町から移転。西郷隆盛や新撰組も頻繁に出入りしていた)には先月紹介した「角屋」(すみや。饗宴施設である揚屋。重要文化財)と「輪違屋」(わちがいや。置屋兼お茶屋。京都市登録有形文化財)のほかに、「島原大門」(しまばらおおもん。島原の東入口にあたる大門)がある。この大門は立派で島原を象徴する記念的建造物には違いないのだが、ぼくは良い発見(良いアングル)ができなかったので撮らずに門を潜ってしまった。したがって、残念ながら写真は撮らず終い。

 かつて、2019年3月〜6月にわたり、「第439回〜第449回、京都の遊郭跡を訪ねる」を連載させていただいたが、ぼくは何故かかつての遊郭というものに惹かれるらしいのだ。 “らしい” とは、未だ自分のなかで、その正体が知れず、浮かび上がってこないからだ。おそらく、特有の建築様式やそこに生活基盤を置いていた人たちに、一種いわれぬ、言葉にし難い何かを嗅ぎ取るからだと思う。そして、ちょっと気障にいうならば、消えゆくものの美に哀愁を感じるからだろう。
 かつて連載させていただいた、京都府八幡市の橋本遊郭や市内の五条楽園には、合わせてたった4時間半ほどの滞在だったが、カメラ片手に歩き回るエネルギーを掻き立てるものが確かにあった。ぼくにとってそこは、魅力的な佇まいを多く発見することができた場所だった。

 島原には、上記した3軒の著名な建造物以外にも、往事の面影を残す小づくりながらもその類の建物が残されているはずだとぼくの五感は訴えていた。島原を散策しながら、「かつてはその一翼を担っていた」と覚しき何軒かの家屋を発見したが、どうにも納得のいく画角と立ち位置が定められず(被写体のヘソとなるものを見極められず)、檻に入れられた野生動物が同じ所を行ったり来たりするあの様に似て、ぼくも彼らに負けじと、碁盤の目のように規則正しく通った道を、右往左往するばかり。狭い路地を行ったり来たりしながら、ぼくは自身の無力さとイメージの貧困を嘆いていた。心の片隅には、諦めと空腹が支配し始めていた。

 そうこうしているうちに、風情ある一件の瀟洒な建物に辿り着いた。1階の出格子(格子が外壁から表に突き出ており、足元を浮かせている形状のもの。京都の一般家屋にも多く見られる)と掃き出し窓(窓の底辺部分が床まである引き戸式の窓)の、如何にもかつての面影をたっぷり残した家屋が出現した。なかなか上質な、趣のある家屋だ。ぼくは建物を観察しながら、玄関に近づいた。
 玄関口の前に、珈琲と軽食のメニューが掲げてあった。カフェイン依存症のぼくは、この後に予想される丁々発止のやり取りをするであろう梅小路(京都鉄道博物館)での決闘を前に、先ずはカフェインの禁断症状を鎮め、ついでに腹ごしらえをしておかなくてはならなかった。「腹が減っては戦はできぬ」と言い聞かせ、迷うことなく玄関の引き戸を引いた。

 玄関に立ち入って、ぼくは目を奪われた。その玄関の上がり框(がまち)の向こうには、昭和初期と思われるステンドグラスや泰山タイル(京都の池田泰山によって考案された建築用装飾タイルは「泰山タイル」と称され、すべてが手作業で作られ、精巧を極めたもの。京都ばかりでなく、町家、喫茶店、遊郭などに広く使用されている)で彩られた美しいエントランスが出現した。これをして、いわゆる「大正ロマン」とでもいうのだろう。

 ぼくは、咄嗟にカメラを構え、「セピアと僅かにシアンの混ざった、古式豊かなモノクロ」のイメージを作り上げた。家人の許可を得る前に、ぼくはちゃっかりシャッターを押してしまったのだ(掲載写真「01」)。
 逃げ場のないぼくは、元揚屋を改築した一階の雰囲気あるカフェ&バーで、珈琲とサンドイッチを注文し、義理を果たした気分になっていた。いずれも上質なもので、ぼくは写真を撮らせてもらったお礼として、もう一杯美味しい珈琲を追加した。この雰囲気のなかで、ぼくは良いアングルの取れる心地良いシートに身を沈めながら、「サイレントシャッター機能」をONにし、椅子に座ったまま静かに1枚だけいただいた(掲載写真「02」)。

 後で知ったことだが、店内の写真は自分の席からだけのものが許可され、歩き回っての撮影はご遠慮いただきたいとのことだった。ぼくがそういわれたわけではなく、ぼくより5分ほど遅れてやって来た2人の若いアメリカ人青年たちに店主が丁寧にその旨を伝えていた。
 彼らがどの様な対応を見せるのか、ぼくに少しばかりの興味が湧いた。彼らは至って紳士的な対応をし、ぼくは何故か穏やかな気持を維持できた。

 聞くところによると、京都はご承知のようにオーバーツーリズムであり、招かれざる客も多いと現地の人から聞いている。「金を払っているのだから、何が悪い」と、まるでごろつきか、ならず者のような言動を以て突っかかってくる人々(ある特定の国の人間たち)がいて、大変な迷惑を被っていると嘆いていた。然もありなんとぼくは思う。

 「旅の恥はかき捨て」というが、ぼくはひどくこの諺が嫌いだし、憎んでいるくらいだ。旅にあってこそ、人は自身の一挙手一投足に気を払うべきであり、旅での成長を自ら放棄する愚かしさを演じていることを知るべきだと、ぼくはいつも自分を戒めている。迷惑行為の正当化にこの諺を使っては、せっかくの旅の価値が台無しであろう。旅は自己発見の宝庫であり、恥を投げ捨てる免罪符であってはならず、成長の偉大な栄養素であるとの確信を抱いている。
 といって憚らないぼくだが、一歩自分の部屋に戻ると、何故こんなにもだらしなく、自堕落なアカンタレになってしまうのだろうか。人生は、思うようにはいかぬものだ。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM 、RF16mm F2.8 STM。
京都市下京区。島原。

★「01島原」
カフェインの禁断症状と腹ごしらえのために飛び込んだカフェ&バー。
絞りf6.3、1/40秒、ISO 400、露出補正ノーマル。

★「02島原」
レトロ風に改築されたかつての揚屋。ぼくの座った席から、静かに1枚だけいただく。
絞りf6.3、1/40秒、ISO 1000、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2025/07/04(金)
第746回 : 島原花街(1)
 題目の「島原花街」(しまばらかがい。京都市下京区西新屋敷。日本最古の花街で重要文化財や市の指定有形文化財などが点在)から話題が逸れるが、京都での法要と墓参を終え、ぼくは気が緩みつつ、奈良に行くため四条烏丸(しじょうからすま)から地下鉄に乗り、近鉄京都駅に急いだ。5月の連休明けのことだった。

 カメラをむき出しのまま首にぶら下げ、地下鉄の下りエスカレーターに乗ったところ、ぼくの3,4段前に女子高生が立っていた。スカートからは、ヌーッと、健康的で少々生々しい足が突き出ていた。元々、女子高生というのはどこか生っぽく、ぼくは従来から「ちょっと苦手」と公言していたのだが、この時は「うん、もしかしたらいいかも」と、ジジィにあるまじき邪(よこしま)な捉え方をしていたかというと、お生憎様、そうではない。ただ純粋に「フォトジェニック」なだけと、一応体裁を取り繕っておく。

 彼女の生足と周りの光景との取り合わせを鑑みると、「ちょっとフォトジェニックだな」と感じたぼくは、現在では厳禁の行為である(らしい)女子高生の足目がけて、ファインダーを覗く時間を惜しむように、写真屋としての条件反射というより脊髄反射により、おもむろに、無意識のうちに3枚をあっという間に活写していた。
 ぼくは、鼻先に人参をぶら下げられた馬のようだったに違いないと思うと、途端に情けなくなった。白髪を振り乱し、女子高生の後ろ姿を撮っている(断じて “盗撮” ではない)ジジィはどうあっても可愛げがない。
 いや、写真屋としてのまっとうな行為を、歪んだ世相が、濁りきった眼で、何やらややこしくも嫌悪すべき市民運動家気取りで、そう見定めているに過ぎない。だが、もし通報されたら身を守る術はなく、ぼくは罪人扱いされるのだ。世の中は物の道理をはき違えた頑迷固陋(がんめいころう)の人々が発する腐臭に覆われ、そして市井の人々はその毒にまみれ、麻痺させられている。

 今エスカレーターでの出来事をここに白状できるのは、現行犯として逮捕される恐れがないからだ。だが、写真の上がりが思いのほか良かったので、公開できぬ恨みだけが残る。やはりぼくは、「こんな世に誰がした!」と、精一杯の恨み節をくだくだ述べるほかなし。
 「街中の人物スナップ」は、ぼくがかつて最も意欲的に取り組んできた写真なのだが、上記のような嫌な世情にあって、それをすっかり諦めてしまった。何ともやり切れぬ思いだ。一部の、何かをはき違えた、心ない撮り手(盗撮と称する忌むべき行為をする人々。これは今に限ったことではないのだが)とある種の神経症を発症した人々により、写真界は変わってしまった。

 話をエスカレーターに戻すと、撮影後、一瞬間を置いてぼくはこの行為が現在は犯罪となることを思い起こし、青ざめた。緩んだ気が瞬時にキュッと引き締まり、精神は苛酷な状況に追い込まれた。写真という朧げな幻影の世界から、髪の毛を引っ張られるように、ぼくは突然、息苦しくも不条理な現世に引き戻されたのだった。

 昨今、この行為は犯罪となるらしいことに気づき、ぼくは脇の下から冷や汗と脂汗がジワッと染み出るのを感じた。もし、事の次第が露見すれば、ぼくは何十年に一度あるかないかの、絶体絶命の危機に立たされる。
 心中、「嗚呼、こりゃやばい。誰かに見られただろうか。であれば通報され、挙げ句しょっぴかれるかも知れない」と、恐る恐る周りに目をやった。幸いなことに、ぼくとその女子高生の他には誰もおらず、安堵した。ぼくの行為を知るのは自身だけだった。その事実を感知するまで、ぼくの眼は恐らく宙を泳いでいたことだろう。とはいえ、「壁に耳あり障子に目あり」である。とにかくいち早くこの場から立ち去ることが先決と言い聞かせた。ぼくは脱兎の如くこの場から逃げ果せた。
 この歳になって、こんな粗相をやらかしては、ご先祖様に申し訳が立たぬ。

 15年ほど前になるだろか、ぼくは通勤時間のラッシュを少し回った頃に、駅の階段下からプラットホームに向かう人々を撮ったことがある。人々の姿が逆光によりシルエットに描かれ、しかもスローシャッターだったため、彼らの姿はブレ、程良い動きを写し取ることができた。これは我ながら合格点をやれる写真だった。当時は誰もそれを咎めたりはしなかったものだ。
 また、ある著名な写真家は、エスカレーターを登り切ったところで、女性の後ろ姿を撮っているが、今ならやはりアウトであろう。ともあれ、ぼくは “逮捕” という最大の危機を避けることができた。生まれ故郷で、とんでもない恥を晒すところだった。地元の新聞などにぼくの犯罪が書き立てられたら、友人は疎か、親戚中から縁切りをされ、三条大橋から鴨川に放り込まれるに違いない。

 で、非常に遅ればせながらの島原である。要らんことばかり書き殴ってしまい、大変申し訳ない。しかし、これがWeb原稿の良いところ。
 当日は、午後から雨の予報だったので、ぼくは以前から「雨の梅小路」(京都鉄道博物館)で動態保存された蒸気機関車を撮影したかった。そのイメージもしっかりできあがっていた。
 午前中に島原、午後から梅小路の予定を組んだ。ぼくにしては午前9時半出発なんて、それは異様に早い時間だった。

 それは狂気の沙汰に思えたが、「ぼくはもうアマチュアカメラマン。愉しもうではないか」と呟いた。何にも束縛されない撮影なので、午前中に島原を撮り、午後は閉館の5時まで梅小路で粘るつもりだった。久しぶりの8時間労働である。一番の心配事は撮影ではなく、丸一日写真を撮り続ける体力だった。京都滞在も4日目を迎え、ぼくには疲労が蓄積し始めていた。恨みがましくも「こんな重いレンズ(24−70mm)、買うんじゃなかった」と、今にも降り出しそうな天を仰いでいた。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
京都市下京区。島原。

★「01島原」
「角屋」(すみや)。重要文化財。江戸時代に繁栄した花街島原を代表する揚家(あげや。現在でいう料亭。太夫や芸妓などを抱えず、置屋から彼らを呼んで宴会を催す場)で、昭和60年(1985年)まで営業が続けられた。立派な建造物だ。予報通り大粒の雨が降ってきた。実寸での写真は、雨粒と粗粒子仕上げが良い感じなのだが、お見せできずに残念。
絞りf7.1、1/100秒、ISO 125、露出補正-1.00。

★「02島原」
「輪違屋」(わちがいや)。太夫や芸妓を抱えていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688-1704年)の創業。輪違屋は、建築的に質が高く、古い置屋の遺構として貴重であり、京都市指定有形文化財に指定されている。
絞りf5.6、1/50秒、ISO 100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2025/06/27(金)
第745回 : 龍安寺
 龍安寺(臨済宗妙心寺派。山号は大雲山。創建1450年。世界遺産)の石庭(方丈庭園。1500年頃、優れた禅僧により作庭)を訪れたのは今回で8度目となる。いずれも団体ではなく、個人での訪問である。
 初めての訪問は6歳の時で、父と父の友人(前回に述べたI氏)に連れられてだった。ぼくにその記憶はほとんどないが、石庭の縁側にちょこんと座り、ちょっとすまし顔のぼくが写真に記録されている。
 もし、写真がなければ、この記憶はほとんど無きに等しく、写真の担う重責に意図せぬところで気づかされた。写真は、70年以上昔の大切な証人としての存在を際立たせ、時空の記録という役割を十全に果たしている。
 だがおもむろに、石庭での自己の存在に思いを馳せようとしても、やはりぼくの脳裏からは、ほとんどが散り散りになり、絵の具で塗りつぶされた下絵のようにぼんやりと霞んだままだ。断片的な残像をつなぎ合わせるには、古ぼけた、セピアがかった写真が唯一の拠り所だ。

 第740回だったか、話が前後するが、ぼくは以下のように大言壮語した。
 「龍安寺石庭について、『たった1枚だけ撮るとの覚悟を持って撮影してみようと思っている』などと、はったりをかけた手前、心を鬼にして(どこにそんな必然性があるのか)、実際に3枚しか撮っていない。ぼくはここ石庭の縁側でも、『やればできるじゃないか』と独りごちた」と記した。
 しかし写真の成果(良否)は、「やってもやっぱりできないじゃないか」だった。3枚撮ったうちの2枚を今回掲載せざるを得ないのだが、何の因果か、まこと由々しき事態だ。

 6歳の小僧が71年後に同じ場所に立ち、目の前の光景を眺めながら、ファインダーを覗いては、納得いかぬと眉間にシワを寄せ、難渋し、石庭の隅々に目を凝らしている不思議な姿など、ぼく自身でさえ想像できぬことだった。
 そして、そこには石庭を眺める縁側に、8人のぼくが鎮座していた。7人は、過去の半透明化した奇妙なぼくである。その幻影はまさに七変化といったところだが、おそらく、今回が最後の訪問ではあるまいかと感じている。もし次回があれば、8人目のぼくが亡霊のように出現するはずである。

 写真屋になってからは2度訪れているが、友人である外国人の案内だったので、撮影どころではなく、禅宗についての翻訳に四苦八苦。禅や禅宗について、日本語でさえ覚束ないのに、外国語を駆使しての説明など、ぼくには困難の極みだった。何をか言わんやである。仏教や語学に精通していた亡父に、「と〜ちゃん、どげんしたらよかか?」と声を張り上げたいくらいだった。

 第740回であんなことをいった手前、ぼくは逃げ場を失った。いや、これくらい(3カット限定の撮影)の縛りがあったほうが、野放図で気随過ぎる性格のぼくにはちょうど良いのだろう。だがぼくは、根が生真面目かつ律儀 !? なので、石庭の縁側に座ってイメージを描こうとする間中、「3枚で決める」、「それ以上は撮るな」、「武士に二言なし」を、レコード盤(特に78回転のSPレコード盤)の溝を外れた針が、永遠に同じ音を奏でるあの現象のように、繰り返していた。
 パシャパシャ撮るのは、「負けたような気がする」、「はしたない」、「プロたる者がみっともない」、「一発で決めろ」とか、訳の分からないことを呟きながらも、ぼくの決意は妙に固かった。

 京都滞在2日目、嬶(かかあ)と娘は、元々文化というものに縁遠く、四条木屋町の、観光客に人気の喫茶店Sに連れだって行くという。息子が、「あそこはと〜ちゃんの嫌いな東郷青児の絵がたくさんあるからやめたほうが身のためだ」とわざわざ忠告してくれた。
 女衆とは対照的に、文化や芸術に殊の外関心を示す息子は、勇んで博物館に飛んで行った。家族をまったく統率できないぼくは、これ幸いと、午後の龍安寺に向かった。ぼくも「勇んで」といいたいところだが、ぼくなりの写真を撮れる自信も保証もなく、不安ばかりが頭をもたげていた。引退したとはいえ、写真を撮ることの恐さがすっかり身についており、そこから脱しきれないのは不幸そのものだ。

 石庭は、東西25m、南北10mの長方形で、ぼくは斜光(落日)を選びたかったが、この時期は残念ながらぼくの期待するほどに陽は傾いてくれない。天を恨みながらも、2時から閉館となる5時まで滞在すると決めていた。3時間のうちに何とか3枚撮れば義理が立つとの算段だ。何の “義理” だか?

 第739回にて、ぼくはさかんに自分への慰めを口にしている。曰く「自分の世界に丹精を凝らせばそれでよい」と。とはいうものの、定点観測という制約のなかで、どのようにフレームを割り当て、画面を立ち切り、光を選ぶか、不安とともに「捕らぬ狸の皮算用」ばかりが頭を駆け巡った。撮る前に、すでにぐったりしていた。しかし、「負け戦こそ面白い」とは、けだし名言である。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
京都市右京区。龍安寺。

★「01龍安寺」
若い頃から、菜種油を混ぜた土でつくられた油土塀の色合いと風合いが好きなのだが、今回は撮影当初からモノクロをイメージして画面構成をしているので、表現が大変難しかった。白砂の一粒一粒まで描写できているのだが、リサイズ画像なのでそこが残念。まったくの「三分割法」。
絞りf11.0、1/200秒、ISO 125、露出補正-0.33。

★「02龍安寺」
白砂上にある木の陰が石に被らぬようにシャッターの間合いを計る。できる限り、構図上の夾雑物を排すよう心がける。
絞りf13.0、1/125秒、ISO 100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2025/06/20(金)
第744回 : 唐招提寺(2)
 神社仏閣をテーマに扱う時、ぼくは意図的にその縁起(社寺の起源や由来、言い伝え)については、最小限に留めている。理由は、ぼくの知識を遙かに上回る膨大な量の情報が巷にはいくらでもあり、誰もがそれを苦もなく容易に得ることができるからだ。
 それはある面、現代社会の功罪との見方もできるが、とはいえ人類は何時の時代も “便利さ” の名の下に文明の利器に身を委ね、時代を成してきた。なかには、その便利さと、錯覚による心地の良さにすがりつき、取り憑かれてしまう人さえいる。スマホなどはその典型的な例だ。
 家を一歩出ると、それはそれはもう救い難いほどの、驚嘆すべき重度の依存症の人たちで溢れかえり、立錐の余地もないほどに群れている。あの不気味なスマホ乱立の光景は、悲しくも終息の気配の見えない、疫病の一種だとぼくには思える。

 安易に得られる情報とはいえ、量ばかりでなく、その確かさもぼくを遙かに上回る。ぼくは神社仏閣や建築技術の専門家ではないので、知識の多くは、所詮 “請負” に過ぎず、しかつめらしい顔つきで記述などすれば、後々寿命が縮む。
 縁起をここに開陳するより、ぼくが現場で見聞きし、感じたものや発見(つまり写真)に重心を置くことのほうが、まっとうかつ偽りのない所作であり、それをみなさんに提示すべきことだと考えている。それが、ここでの仕事であり、正しい方向性であろうとも思っている。

 写真に限らず、創造物というものは、作者の精神的なものや感覚的なもののすべてを表出するとぼくは考えているので、軽々しく扱えば必ずや天罰が下(くだ)る。徒疎(あだおろそ)かに扱えない。
 あっ、ぼくはもう商売人ではなく、一介のアマチュアに回帰したつもりでいるので、もっと砕けてもいいのだが、拙連載は依頼を受けての仕事なので、やはりそうもいかんか。

 5月、6月の二度にわたる仕事と私用を含めての撮影行は、延べ11日間だった。実際に撮影した日数はもっと減るのだが、ぼくは写真に自己開放の場所を求めていた。それを一番の眼目としていたのだが、体力の限界には抗うことができないという事実を、今さらながらに痛いほど知らされた。何という厚かましさ。
 体力の限界というものは、歳により異なるが、疲労より回復力の衰えがショックだった。日々、疲労が蓄積していき、それが心身に重くのしかかり、意欲を削いでいくのが手に取るように分かるので、「これが老いというものか」と、ぼくは悄然としながら、頭のなかで嫌々ながらも頷いていた。否定すべき要素がひとつも見つからないというのは悲劇である。

 今年1月に新調したレンズを「重い、重い」と嘆きながらも、放り出さずに使い続けたのには訳がある。もちろん、年甲斐もなく良い恰好をしたいがためではなく、アマチュアに返り咲いても(咲くかどうかは分からないが)、誠実な画像作りを使命と考えていたからであり、安易であればそれが必ず作品に反映されてしまうことを十分に承知していたからだった。

 この旅で、写真について改めて次のようなことを感じた。機材の重さは「運鈍根」(事を成し遂げるに必要な3条件で、運とは、巡り合わせや吉凶禍福のできごと。鈍とは、愚直と思われるほど辛抱強く続ける意志。根とは、根気や気力を指す)に通じるということであり、これは非常に大切な教えだった。
 試練はいつか報われ、やがて写真に表出するであろうと、極楽とんぼのぼくは信じている。お手軽なものは、お手軽なものしか得られないということだ。安易さは、すべてをご破算にしてしまう。

 唐招提寺の写真は、前回(金堂と講堂)の他にももちろん撮っているのだが、撮影の困難さにぼくはすっかりへこたれてしまった。拝観時間内にふたつの寺院(薬師寺と唐招提寺)の撮影を一日で賄おうなどというのは、土台横着の極み。
 四季折々、何日も通ってナンボのものだという分かりきった事実を突き付けられ、ぼくは為す術もなく、天を仰ぐばかり。
 時間的制約というものは、如何なる強靱な精神力を以てしても、如何ともしがたく、あとはもう神頼みしか手がない。依って、ぼくは多くの場所に設えられた賽銭箱を袖にするわけにはいかず、都度いくばくかの貨幣を、お米を「おひねり」としてお供えする代わりに、祈るような気持ちで投げ入れたのだった。

 ここでぼくは、自身に言い聞かせた。「良い写真が撮れますように」などと決していってはならないということだった。願いごとをするかのような厚かましさは、もっての外である。願いごとではなく、こんにちまで生きてこられたこと、良き人々に支えられてきたことへの感謝であるべきと考えるのが、謙虚で物堅い人間の姿ではないのかと思うのだ。

 しかし、賽銭箱にお金を投げ入れる時、一体いくらが妥当なのか? ぼくは何時も迷い、そして悩む。神様に失礼ではないかとか、少額過ぎてみっともないのではとか、やはりこの期に及んで、どこかやましい。そんな後ろめたさもあって、手のひらを合わせつつ、無聊(ぶりょう)を託つ。
 「高い拝観料に加え、一体10円玉を何個用意すれば、事足りるのか」と、ぼくは途端に俗界に沈み込んでいくのだ。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
奈良市五条町。唐招提寺。

★「01唐招提寺」
唐招提寺の創立者である鑑真和上(がんじん。唐代の僧。688−763年)の御廟に至る参道。その両脇は苔で埋め尽くされ、日の傾いた斜光に美しい苔が一面に映えていた。
絞りf13.0、1/80秒、ISO 100、露出補正-1.33。

★「02唐招提寺」
御廟のある敷地の土塀。構図と光を選ぶことに四苦八苦していたら、まばらではあるが通りかかった拝観者が、「こんなものの何が面白いのだろう」と首を傾げ、不思議そうな眼差しでぼくを見ていた。2枚とも焦点距離50mm。
絞りf5.6、1/400秒、ISO 100、露出補正-0.67。


(文:亀山哲郎)

2025/06/13(金)
第743回 : 唐招提寺(1)
 薬師寺で約4時間を過ごした後、次なる訪問地である唐招提寺(とうしょうだいじ。律宗総本山。創建756年、天平宝字3年)へ向かった。薬師寺から500m程の距離なので、「次なる撮影地へ向かう」といった気負いもほとんどなく、いたって気が楽だった。ましてや、仕事の撮影ではないので、なおさらの感があった。
 ぼくは現役を引退したばかりの身であり、既定路線を離れ、「流れに任せて、自由気ままに」との身上をありがたく受け止めることにした。写真を愉しむのはアマチュアの特権と思っているので、ぼくはその居心地をたっぷり味わうことも、今回の旅の、ひとつの目論見だった。環境が変われば、写真も少しずつ変化していくはずだと、期待と慰撫を込めての撮影行だった。

 唐招提寺は、高校1年時に学友2人を伴い、ぼくの親戚に10日間ほど寝泊まりしながら、京都と奈良の名刹を訪ね歩いたそのうちのひとつである。青春の良き想い出である。ぼくにもそんな時期があったのだ。
 だが、唐招提寺の感銘は、ぼくのなかでほとんど忘れ去られていた。金閣寺、清水寺、東大寺の大仏殿や法隆寺などにくらべ、高校1年生にとって、唐招提寺は、やはり地味な寺院であり、影が薄かったのだろうと今になって思う。
 国宝(17点)や重要文化財(200点余)の宝庫だが、若輩者のぼくには、その歴史的価値や美しさに対する理解が追いつかなかったというのが正直なところだ。

 今年4月に、ぼくがかつて在籍したことのあるオーケストラの一員であった後輩のY君と会い、「来月、私用で京都に行くのだが、折を見て、名所旧跡に足を運びたいと思っている。ジジィ写真でも撮ろうかとね」と伝えた。後日、Y君からLINEで、写真とともに以下のようなことをいってきた。
 「唐招提寺の圧倒的な存在感に驚きました。大仏も法隆寺も霞むくらいの存在感でしたが、あれはなんでしょうね?」(ママ)。ぼくはそれを見て、失礼ながら噴き出してしまった。彼が、神社仏閣に思いを寄せ、感動を呼び起こすとは到底思えなかったからだ。

 20数年ほど前だったか、ぼくの個展を見に銀座まで足を運んでくれたY君は、会場で、作者であるぼくを差し置き、悪びれる風もなく、「ぼくは巷に氾濫する写真というものにさっぱり理解が及ばない。ましてや、モノクロ写真のどこがいいんですかね? 色がないというのはねぇ、どうしてもその魅力が分からないんです」と、「小姑一人は鬼千匹に当たる」とでもいうような調子で、写真を厄介者扱いしたのである。

 人はそれぞれなので、ぼくはたとえ友人が写真に興味を示さずとも、あるいは理解が及ばずであっても、まったく頓着することはないし、それで骨柄を計るなどという恐るべき過ちを冒すことはない。
 当たり前のことなのだが、しかし、いやしくも彼はオーケストラの末席を汚し、一丁前に作曲家や演奏家についての蘊蓄(うんちく)を事細かく垂れるのだから、ぼくは笑ってしまうのだ。
 「井の中の蛙 大海を知らず」(自分の狭い知識や考えにとらわれて、他の広い世界のあることを知らないで得々としているさまをいう。大辞泉)は、世間知らずのぼくにとっても、自戒すべき諺である。笑っている場合じゃない。

 だが、この手の人は案外多い。言葉は悪いが、いわゆる「音楽バカ」と称する人々だ。「写真バカ」もたくさんいる。自身の趣味嗜好に合うものが唯一で、他の分野の美には琴線が触れぬという、驚嘆すべき、また悲劇的な感受性の持ち主がままいるものだ。
 彼がその域に達しているかどうかは定かでないが、人は誰でも取り柄というものがある。忠義を尽くすという点に於いて、彼は人後に落ちない。これは大したものだとぼくは感心する。この事実は、写真への理解より、数段上である。ぼくも斯くありたいと願う。

 議題とした「唐招提寺」は、どこへ行った? ぼくの唐招提寺は高校時代の、いってみれば生乾きの感覚に60年以上もうずくまったままであり、そこからなかなか脱しきれない。ただへたり込むばかりだ。
 理由のひとつは、ぼく自身が京都人であり、奈良と余計な比較をしてしまうからだろうとも感じている。これについては結論のない邪推で埋め尽くされているので、ここでその論拠を示すわけにもいかず、ぼくは地をならすように、同じところを足踏みしている。だから、話が進まないのだと、言い訳をしておく。

 ただ、奈良には特別な、そして非常な懐かしみを持った感情を抱いている。それは父の友人であり同業者でもあったI氏が奈良と京都に居を構えており、お互いに行き来していた。ぼくの幼少時の、京都や奈良での写真を多く撮ってくれたものだ。京都の自宅や奈良の若草山でという具合に。
 奈良のI氏宅の生け垣には、人がくぐり抜けるくらいの穴が設けてあり、ぼくはそこから出入りすることを好んだ。I氏に肩車をよくしてもらったものだが、その度に愛煙家だったI氏の頭から煙草の香りがツーンと鼻をついたことを今でもよく憶えている。

 成人してから、和辻哲郎著『古寺巡礼』(30歳の時の執筆)を2度ほど読んだが、ぼくには今いちピンとくるものが少ない。ただ、「唐招提寺金堂は東洋に現存する建築のうち最高のものである」との記述があったように記憶するが、先述したY君いうところの「圧倒的な存在感」は、間違いない。

 拝観料を支払う南大門の正面に「金堂」は荘厳な佇まいをもって拝観者を出迎えてくれる。しかし、栞(しおり)も、ガイドブックも、ネットでも、「これしか撮りようがないの? どれも同じ」とぼくは一応訝って見せるのだが、はてさて、ぼくならどう撮るのか。掲載写真が、写真屋としてのぼくの答えだと、取り急ぎここに告白しておく。

https://www.amatias.com/bbs/30/743.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
奈良市五条町。唐招提寺。

★「01唐招提寺」
金堂(国宝)。待たない(時間を)ぼくが、珍しく光、陰、空の塩梅を見定めてシャッターを切った。気の短いぼくが珍しいこともあるものだと、自分で感心している。
絞りf5.0、1/800秒、ISO 160、露出補正-0.67。

★「02唐招提寺」
講堂(国宝)。もう一歩後退りをしたいところだが、そうすると後ろにある金堂の陰が入ってしまう。16mmの超広角で、ギリギリの足場を探して。
絞りf5.6、1/400秒、ISO 100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2025/06/06(金)
第742回 : 薬師寺(2)
 この原稿が掲載される本日6月6日(金)、ぼくは遠隔の地で手慣れぬ仕事をしている最中である。撮影ではなく、ある展示会の授賞式に選考者として、壇上に立たされている。「柄にもなく」といったところだ。
 この仕事の発注主からは、ありがたいことに至れり尽くせりの厚遇を受けているが、ぼくは今年で5年目を迎え、こちらもそろそろ「潮時」なのかと思っている。ぼくが関係者のなかでは最年長者であるが故、「寄る年波のせいで」という大義名分を掲げても恨みを買うことはないだろう。

 当日の夕方には解放されるので、帰路、現在掲載させていただいている、あるいはこれから掲載させていただく予定である古寺(京都。奈良)に再度赴き、撮り逃したものを「補完」の意味を込めて、もう一度撮り直しするのも一考に値するのではないか。
 ただ非常に残念なことは、仏像の類はほとんどが、小癪な決め科白である「撮影禁止」であり、ぼくにも大いなる「言い分」が山々あるのだが、それについては2018年第398回京都(1)〜414回京都(17)のどこかで、不条理と理不尽の極みとしての「撮影禁止」による「やるせない気持」の鬱憤晴らしとして、管を巻いたとの記憶がある。

 ネット上には、「撮影禁止」のそれらしい理由が散見でき、それはそれでよいのだが、寺社側は、撮影以上にけしからぬマナー違反と覚しき振る舞いが横行している事実には目をつむり、厳粛な気持を抱いて参詣する真摯な写真愛好の士に対し、正当な理由なく、宗教的儀礼やしきたりを笠に着て、一方的に拒否をするその理由を、ぜひ開示して欲しい。

 ぼくは7年前、総元締めの京都仏教会へ電話をして、埒の明かぬこの問題に関し、後進のために !? 犠牲的精神を払い、事細かい説明を求めたことがある。だが、道義的、倫理的、科学的、宗教的に筋の通った納得のいく返答は一切なく、自身のなかで、とどのつまり「信仰とは何か?」を再考せざるを得なかった。
 未だに、解決の手立てを見つけられずにいるが、ぼくは仏像の写真は、単なる「自身の記録や記念、そして鑑賞用」ではなく、「己の姿の投影」であると同時に「祈りの対象」ともなる。だから、撮りたいと願うのだ。ぼくにとっての写真は、神社仏閣に限らず、インスタ映えなどとは、まったく無縁のところにある。

 我が家の仏壇の横には、ぼくが50年以上も前に撮ったセピアがかった仏像の小さな写真が飾られており(京都のどこで撮ったものか記憶にない)、ぼくは先祖に手を合わせるのと同時に、その仏像写真にも、この世に生を受け、こんにちまで生き長らえたことに感謝を表し、毎日手を合わせる。だが、ぼくに特定の信仰や信心はない。謂わば、それは本能のようなものだ。読者諸兄のなかには、仏壇に向かって同じような経験をされている方も多いのではと思う。

 話がどんどん薬師寺から遠のいて行くが、もうこの際なので、高校時代に父と京都に遊んだ時のことを少しだけ、問わず語りにお話しする。当時はまだ「撮影禁止」などの看板は、今ほど大層に掲げられてはいなかったと記憶するが、歓迎はされないとの空気はぼくとて察することができた。

 大学でインド哲学を専攻した父に、ぼくは三十三間堂(創建1165年。本尊は千手観音)を訪問した際に、信仰や信心について拙い質問をしたことがある。高校生のぼくにとって、父の言葉は極めて刺激的かつ明快だったので、60年を経た現在もぼくの脳裏に深く刻まれている。それを書き留めたものをぼくは長い間机の引き出しに入れておいた。それはすでに紛失して久しいが、記憶を紐解くと以下のようになる。

 「信心のありようは、千姿万態であってよい。個人が皆異なるように、信心もそうあるべきで、それを一定の形、考えに当てはめて、他を否定したり、排斥するのは最早信仰ではない。くだらんものに執着し、それに権威や金が汚物のように引っ付く。そして類は友を呼ぶが如く、共鳴し合い、都合に迎合しながら、人心を惑わす。残念だがな、てつろう、釈迦の教えを説く者も、聞き入れる者も、大半がその手合いじゃ。立派な高僧ももちろんおろうが、多くは僧侶と俗人の境がない」と、湛慶(鎌倉時代の仏師)作の千手観音像の説明を交えながら、淡々と話してくれた。実に器用な父だった。ぼくは、父の言葉を読み取ることに気を取られ、千手観音像を撮り逃してしまった。当時、三十三間堂の仏様が「撮影禁止」だったかどうかは定かでない。

 話を(やっと)世界文化遺産のひとつである薬師寺に戻す。「薬師寺への道は遠い」なんてね。
 この寺院を選んだ第一の理由は、薬師寺創建(680年)以来、唯一現在にその姿を保っている東塔(創建は730年。天平2年が通説)をもう一度この目で見たかったからだ。おそらく最後の機会になるであろうとの思いが強かった。
 今回が3度目であることは前回に述べたが、一見すると六重塔に見えるこの三重塔(高さ34.1メートル)のプロポーションと特有の造り(組物、三手先、垂木等々)に、ぼくは15歳の時以来すっかり魅せられてきた。62年ぶりの再会だった。

 東塔は当時のままで(平城京最古の建造物)、ぼくだけが歳を取りなんともちぐはぐな思いだが、形容しがたい圧倒的な美しさは今以て変わらない。創建時の神秘的で華麗な色彩を想像しながら、ぼくはまさに夢現(ゆめうつつ)だった。
 2009年(平成21年)から解体修理が行われたが(2021年、令和3年竣工)9割の木材が再利用できたとのことで、この事実を知れば知るほど万感胸に迫るものがある。そして、建築職人の技量にも頭の下がる思いだ。

 1300年間も風雪や予期せぬ自然災害、そして兵火にも耐え抜いてきた。東塔は、1300年の長きにわたって、背筋をすっと伸ばし、30数メートルの天空から何を見てきたのだろうか?

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-70mm F2.8L IS USM。
奈良市西ノ京町。薬師寺。

★「01薬師寺」
左から、東塔、西塔、金堂。3つを1枚に入れ込もうとすると、焦点距離16mmという超広角を使用せざるを得ず。もしこの極端なパースを嫌うのであれば、パノラマ写真という手があるが、東塔贔屓のぼくは敢えてこの遠近感で。
絞りf5.6、1/400秒、ISO 100、露出補正-0.67。

★「02薬師寺」
東の空が一天にわかにかき曇り、西塔の前から、東塔(正面)と回廊を。晴天と曇天に、4時間のうちに巡り会うことができたのは、日頃の・・・?
絞りf5.6、1/125秒、ISO 100、露出補正-0.33。
(文:亀山哲郎)