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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2018/09/28(金)
第415回:川崎区千鳥町(1)
 写真好きでなくとも魅了される風景のひとつに工場設備・施設(プラント)がある。関東なら、たとえば京浜工業地帯など、すでに観光名所となって久しい。あのような景趣は男の専売特許と考えていたのだが、ぼくの考えは甘く、どうもそうではないらしい。工場夜景クルーズと称するツアーが女性の間でもかなりの人気と聞く。昨今は様々な分野で男女の差異が見て取れないような時代でもあるようだ。
 写真も以前は男専用の趣味といってもよかったが、今はそうではない。我が倶楽部もとうとう男女比が逆転し、男たちはぼくを筆頭にどこか萎縮しているようにも思える。彼女たちは伸び伸びと写真を撮っているのに比べ、男どもは婦女子の勢いに押され、表現は殻にこもりがちとなり、どこか居心が堅苦しく、云為(うんい。いったりしたりすること)の柔軟さに欠けるようになってしまった。多勢に無勢で分が悪く、最近どうも男どもは勝ち目に見放されている。

 余談はさておき、工場の夜景写真を撮らないで済むのであれば、ぼくもきっとこの魅力的な風景を愉しむために一度や二度は観光船に乗ったに違いない。けれど未だそれを敢行し得ないのは、かめやまという写真屋の悲しい性であり、おそらくぼくが撮ってもよくある工場夜景の写真と似たり寄ったりのものにしかならないだろうと、幸か不幸か先回りをしてしまうからだ。
 イメージのバリエーションが描けず、そうこうしているうちに船は移動し、そこに留まってはくれない。立ち位置が定まらないうちに他力により移動を余儀なくされるのでは敵わない。
 工場の夜景写真を遜色なく、きれいに撮ることは技術的には造作のないことだが、自身のアイデンティティのようなものを打ち出すには、どうも及び腰になってしまう。押し並べて夜景写真とは、ぼくにとってあまり芳しくないものなのだ。
 工場に限らず夜景写真はそのような傾向にあるとぼくは考えているので、足が動かずにいる。肉眼で見て感動するものが即ち写真的動機に結びついたり、撮影の興味を呼び起こすかというと必ずしもそうではないとぼくは決めつけている。多分、オーロラなどもその類だろう。

 20代、まだアマチュア時代の大晦日、除夜の鐘が鳴る頃に京浜工業地帯に出向いたことがあった。8 x 10インチの大型カメラをジッツォ(Gitzo。フランス製の三脚)に設え、シャッターをバルブ(Bulb。シャッターボタン、もしくはレリーズを押している時間だけ露光され、放すとシャッターが閉じる。長時間露光時に使用する)にし、照明や光源のほとんどない工場や引き込み線を、ストロボを何十発も焚きながら走り回ったことがある。
 モノクロ(コダックTri-Xフィルム。ISO320を160で使用したことは記憶している。大型カメラ用Tri-Xフィルムは小型カメラ用のものとはISO感度が異なり、400ではない)だったが、適正露出は計算通りにはいかず(フィルムはデジタルと異なり、長時間露光は理論通りにはいかない。写真用語でそれを “相反則不軌” という)出来映えは思いの通りではなかった。

 職業カメラマンになってからは、京浜工業地帯にある大手製油工場を取材撮影のために訪れたことがあった。入口ゲートで静電気の帯電を防ぐため自家用車のマフラーに網のようなものを被せられ、チェーンのようなものを引きずりながら広い工場敷地内を制限速度5km / h以下でソロリソロリと走ったことがある。
 仕事故、ぼくの撮りたいものを撮れるわけではなく、担当者の指示に従って撮影しただけなので何を撮ったかほとんど記憶にない。もう30年も昔のことだ。

 「趣味は工場と落語」といって憚らぬ京都に住む35歳の姪っ子が、学会で東京に来た折りに「川崎の千鳥町に探検に行った」のだそうである。スマホで撮ったその写真を見せられて、ぼくは秋波を送られたような気になり、「よし、おじさんの撮っちゃるけん、そん場所ばわかるごと教えろ(その場所を詳しく教えろ)」と、何故か博多言葉を知らない彼女に向かってぼくは勢い込んでいった。彼女の写真によほど大きな啓発を受けたのだろう。
 それはありきたりの夜景写真ではなく昼間撮った写真であることにぼくは好感を抱き、たちまち触手を伸ばすことになったのだと思う。スマホを持っていないぼくは(今は持っている!)すぐにメモ帳を取りだし、居酒屋の名が入ったボールペンで「川崎区千鳥町」と書き殴った。

 そんな経緯があって、彼女との約束を着実に果たそうにも、今夏の異常なまでの暑さによりぼくは出そびれていた。強烈な暑さがほんの少し和らいだお盆の8月12日(日曜日)、ぼくはチャンス到来とばかり押っ取り刀で神奈川県川崎区の千鳥町に駆けつけた。盆と日曜日が重なり、道はどこも空いており、我が家から現地までちょうど1時間だった。現地に着いたぼくはいつものように早速 “捕らぬ狸の皮算用” を始めた。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/415.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
神奈川県川崎区千鳥町。2枚連続で撮った写真。

★「01千鳥町」
引き込み線が真っ赤に錆びていた。錆具合から測るに、錆びたのは最近に違いない。盆休みのためだろうか?
絞りf11、1/40秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02千鳥町」
「01」写真から線路敷地内へ。工場は稼働中。
絞りf10.0、1/50秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2018/09/21(金)
第414回:京都(17)京都、これでホントの最終回
 夏の京都はぼくにとって鬼門というに相応しいほどの気候だ。暑いうえに蒸す。歳を取るにつれ才覚を失い、子供の頃は何ともなかった盆地特有の蒸し暑さは、今や堪え難いものとなっている。
 今あのなかに放り込まれたら、軟弱なぼくはきっと行き場を失い、何某かの失調症を患うに違いない。京都人には申し訳ないが、それくらい京都の夏は地獄の様相を呈す。こればかりは「地獄の沙汰も金次第」という具合にはいかず、ただひたすら忍従するしかない。
 けれども世の中には蒸し暑さをものともしないカエル(京都人や観光客)のような人がいて、彼らはあのベタベタとまとわりつくような気色の悪い湿気にケロッとしている。まさに「蛙の面に小便」(京都いろはがるたのひとつ)とはよくいったもので、同じ日本人とは思えないほどだ。本当に恐ろしい人たちである。

 かつて滞在したことのある熱暑のパキスタンは連日45℃を超えた。そこで撮影をしたことがあるが、日陰に入ると嘘のように汗が引き、それほど苦にならなかった記憶がある。湿気がほとんどないので、日が沈みかけると気温はどんどん下がり、昼間と同じ服装ではいられなくなる。
 また4月のマレーシア(4月と5月が最も蒸し暑い。とはいえ通年似たり寄ったりだが)では、カメラバッグを肩にかけ、全身汗まみれとなり、ぼくは30分を待たずしてコーラを都度一気に飲み干していたが、ぼくを警護する麻薬Gメンたちは1滴の汗も垂らしていなかった。ぼくら日本人とは汗腺の仕様が異なる、とは彼らの弁。
 生理学的な意味合いに於ける適地順応という点で、京都人は我々から見るとアマガエルのような仕掛けになっているのだろう。ぼくはこの地で生まれ幼少時を過ごしたが、順応するまでには残念ながら時間が足りなかったようだ。したがって、ぼくのような、カエルでないよそ者は夏の京都には行くべきでない。
 京都の人は時折ぼくに向かって「あつ〜て、かないまへんなぁ〜」とおっしゃるが、それはお愛想というもので、真に受けてはいけない。彼らは何とも思っていないのである。内心、「これしきのことでへこたれるなんて、修業が足りんのだ」といっているのだ。穏やかな言葉に騙されてはいけない。相槌など打ってはいけないのだ。自然環境の厳しさが人間の強(したた)かさを育むというのがぼくの文化人類学的見地である。ロシア人を見よ。

 地獄を避けたいぼくは5月中旬を選んだ。1週間の滞在中、当初の2日間は夏の兆しが窺え、ぼくは怖気を震いながらちょっとした危機感に見舞われた。恐怖に怯えながら、ぼくはやはり青息吐息、それまでの疲労も重なり、大袈裟ではなく息も絶え絶えとなり撮影していた。
 3日目、妙心寺(みょうしんじ。創建1342年。臨済宗妙心寺派大本山)行きを決行した朝10時、Tシャツに半ズボンの出で立ちで自転車を走らせたのだが、あまりにも冷たい空気に鳥肌が立ったほどだった。低気温には滅法強いので、ぼくはカエル種族を真似てケロッとしていた。自転車のギアを小刻みに変えながら25分ほどで、ぼくは颯爽と妙心寺に辿り着いた。
 自転車をどこに止めていいものかが分からず、近くにいた社寺関係者と覚しき人に訊ねたら、「境内の邪魔にならぬところに置いてよろしい」と京都なまりの標準語でいってくれた。
 東京ドームの7〜8倍もある広大な境内への立ち入りは無料で、近隣の住民の往来路ともなっている。こんなに素晴らしい雰囲気の場所を普段往来できるなんて、なんと羨ましいことだろうか。カエルにも三文の徳あり(失礼!)というところか。

 妙心寺は高校時代に一度訪問しただけで、ほとんど記憶に残っていない。ただ、狩野探幽(かのうたんゆう。1602-1674年。京都生まれの狩野派の絵師)の描いた「雲龍図」(重文)だけが強く印象に残っている。
 法堂(応仁の乱で焼け落ち1656年再建。明暦2年)の天井に描かれた「雲龍図」は直径が12mもあり、通称「八方睨みの龍」とも呼ばれ、仏法を守護している。「八方睨みの龍」の由来は、龍を見る立ち位置や角度によって龍の表情や動きが変化するように見えるところから来ている。探幽が8年の歳月を費やして描きあげたとされ、目を見張るほど見事なものだ。残念ながらこれも撮影禁止である。

 今回妙心寺を目指した一番の目的はこの「雲龍図」を再び仰ぎ見たかったからである。「雲龍図」を観賞するには拝観料を支払い、30人ほどのグループでの一括観覧である。バスガイドのようなおねえさんがマイク片手に法堂を案内してくれる。法堂のどこに陣取ってもよく、片隅には日本最古の梵鐘(698年製作。国宝)が鎮座しているが、ぼくはそれには目もくれず、天井に描かれた「八方睨みの龍」を、ぼくも負けじと四方八方から睨んでいた。
 修学旅行の高校生が去り、シーンとした法堂で、ぼくはひとりになった。天井ばかり見上げていたので首が痛くなり、中央にあった長椅子に寝そべって見ていたら、ガイドのおねえさんが「ええかっこうしてはりますなぁ。それやったら楽でっしゃろ」と笑いながら風変わりな客をもてなしてくれた。
 たったひとりでの拝観となったが、さて、ぼくがこの「雲龍図」を見る機会が再びやってくるだろうか?

http://www.amatias.com/bbs/30/414.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市右京区花園妙心寺

★「01妙心寺」
三門。妙心寺では唯一の朱塗り。イメージした朱色をどのように表現すべきか、丸2日もかかってやっとこの程度。朱塗りはいつも閉口する。絵葉書調であればいとも簡単なのだが。
絞りf11、1/50秒、ISO100、露出補正-3.00。

★「02妙心寺」
広い境内には46の塔頭がある。境内を行く坊様をローアングルで。
絞りf10.0、1/100秒、ISO100、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2018/09/14(金)
第413回:京都(16)最終回の続き
 前回で京都シリーズを最終回にしようと意を強くしていたのだが、数人の奇特なる(すいません)読者諸兄から相次いでメールをいただいた。第14回にて「18箇所を走り回り、まだ5箇所しか取り上げておらず」とぼくは迂闊にも自ら墓穴を掘るようなことを書いてしまった。これがヒジョーにまずかった。
 いただいたメールの総意は「13箇所を残して逃げ出すな」とのニュアンスが十分に含まれているように思われた。とてもありがたいご注進は厳達にも似て、男冥利というか写真屋冥利に尽きることではないかと自分に言い聞かせている。少数派にしか受けないぼくの写真に対しての、このようなご厚意に、今感涙を禁じ得ない。
 男冥利といいつつも、一度公言したことを他者の意見により容易に翻すのは、「一介の男子たるもの、あってはならじ。『武士に二言はない』ともいうしなぁ。武士を貫き通すか、この際平民になってしまうか、嗚呼、悩ましきかな我が人生」なんて懊悩するふりをしてみたりと、ぼくはこれでもけっこう忙しい。

 折も折、端無くも親しい友人から電話があった。
 「もうこの際、過去・現在のかめさんの京都に於ける行状を正直に、男らしく包み隠さずに白状しちゃいなさい!」と、彼女はまるでぼくを素性の良くない怪しげな人間と見ているようだ。当たらずとも遠からず、である。
 「包み隠すようなことなど “ほとんどない” よ」と、ちょっとタジタジしながら返した。この言葉遣いがいけなかった。ぼくの粗相である。ただ、学生時代に何人かの女友だちが京都観光に来て愉しく一緒に遊んだことは事実だが、 “ほとんど” という語彙の選択がヒジョーにまずかったようだ。
 「 “ほとんど” ということは、 “何かあるにはあった” ということでしょ?」と彼女は恐らくいたずらっぽい目をしながらであろう、やんわりと突いてくる。どこか甘辛い。塩加減というものをよく心得ている。

 ぼくは常日頃、嫁にちょっとした言葉尻を捉えられ、機嫌次第で窮地に追いやられることがしばしばあるが、こればかりは慣れるということがない。何十年も昔のことを持ち出され、いじめられるのだ。このようなことに関して女の人は驚嘆すべき記憶力を終生保持している。
 執念が妄念に取って代わり、「思う一念岩をも通す」とばかり立ち向かってくるのだから、男は勝ち目に遠く見放される。加え、彼女たちには時効という概念が著しく欠けているので、男衆は努々(ゆめゆめ)油断などしてはいけない。

 帰京し、ぼくは彼女に、ある高名な写真家が撮った三門(どこの寺院かは失念)の門柱写真や平等院鳳翔館(平等院敷地内にある博物館)の廊下に掲げられた数点の写真について極めて否定的な意見を述べた。
 そして、先程の電話でぼくは「もし京都に行ったらぜひ妙心寺を訪れたらいい。丸1日を費やしても見学できないほどの広さだし、境内には46もの塔頭がある。それはそれは見事なものだ。境内は無料だしね」と伝えた。
 ここでもぼくは迂闊さを晒した。刹那、彼女は「なら、かめさんの撮った門柱の写真や妙心寺の写真を見せてくれなくっちゃね」。
 嫁以外に天敵を作りたくないぼくは、素直に、しかし少し悲しげに彼女に従順さを示した。気弱なぼくはあと2回ばかりの延長戦をすることにした。

 実をいうと、門柱や妙心寺の写真を未だ補整できないでいる。仕事の写真も含めて他の写真にかまけていて手が回らないというのが実情。しかし、こんな言い訳が通用するほど相手は甘くないし優しくもなさそうである。
 門柱はいくつか撮っているので、この原稿に取りかかる前に(原稿を書くより、写真を補整するほうがずっと時間がかかるので)取り急ぎ今回は南禅寺三門の門柱と法堂を選び出し、Photoshopと格闘することにした。

 南禅寺といえば歌舞伎『楼門五三桐』で有名な石川五右衛門と湯豆腐である。それとともに、境内の一角には今やテレビやドラマで一躍有名になってしまったレンガ造りの水路閣(明治21年。1888年。全長93m、高さ9mのアーチ型橋脚の水道橋)もある。撮るには撮ったが、どう工夫を凝らしても変わり映えのない写真にしかならないので、これは補整せず。趣はあるのだが、あまりにも俗化してしまったことに抵抗感が先立ち、ぼくが撮ることの必然性を感じ取れなかった。情(エネルギー)が殺がれてしまったのだから、仕方ない。
 今を去ることちょうど50年前(大学生だった)、京都にやって来た女友だちとの湯豆腐の思い出はさておき、当時と比べると周辺があまりにも綺麗に整備されてしまい、それに比例して風情が薄らいでいく様は、何度もいうようだがやはり寂しい。あまりの変貌にぼくはすっかり地理感を失ってしまった。あの湯豆腐屋はどこに行ってしまったのだろうか?

 武士は去り、今や平民の天下である。主権在民、ぼくもそれに素直に倣うことにした。

http://www.amatias.com/bbs/30/413.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市左京区南禅寺

★「01南禅寺」
威風堂々の南禅寺三門とその柱。広角で思いっきり下から仰ぎパースを強調。風雪に打たれた木目を、画像を荒らすことなく仕上げた。
絞りf11、1/50秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「02南禅寺」
法堂。焦点距離11mで。24mmで撮りたかったのだが、ぼくの後方には観光客が大勢いて引くことができなかった。三つの屋根の重なりは辛うじて整えることができた。
絞りf10.0、1/320秒、ISO100、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)

2018/09/07(金)
第412回:京都(15)最終回
 台風21号に直撃された関西地方は甚大な被害を蒙ったと聞く。京都の親戚に陣中見舞いの電話をしたところ、下鴨神社(正式名、賀茂御祖神社。かもみおやじんじゃ。京都市左京区にある世界遺産)の多くの木々が折れたり倒れたり、二条城の壁が崩れたり、宇治神社の鳥居が倒壊したりと、世界遺産にもかなりの被害を与えたようだ。今年5月に行ったばかりなので、彼の地の記憶もぼくのなかではまだ生き生きとしており、今はふるさとが安寧であることと、静かな復興を祈るばかりである。

 このシリーズの第1回目で、体力の消耗を防ぐための方法論として、「今回ぼくはある省エネ作法(撮影法)を見出し、そのご利生を得た。そのことは今シリーズの何回目かにお話しできると思う」と記した。
 この省エネ作法は特段今回の京都行きからではなく、普段から心がけ実践していることなのだが、この撮影法により下鴨神社で思わぬ恩恵 !? に浴したので、思い切って告白することにした。

 下鴨神社は上賀茂神社(正式名、賀茂別雷神社。かもわけいかづちじんじゃ。京都市北区にある世界遺産)とともに京都の社寺では最も古い部類に属し、奈良時代以前から朝廷の篤いもてなしを受けてきた。807年(大同2年)には神社として最高位にある正一位(しょういちい)の神階を受けている。

 下鴨神社、京都御所、賀茂川(高野川との合流点より上流を賀茂川、下流を鴨川と称す)が少年時代のもっぱらの遊び場所だった。ぼくの記憶にはないのだが、父の話によると「君は相国寺(しょうこくじ。1382年創建。金閣寺、銀閣寺は相国寺の山外塔頭)境内で遊ばせるとすこぶる機嫌がよかったものだ」とのこと。
 ずいぶん抹香臭い幼児だったようだが、「三つ子の魂百まで」とはいかず、大人になってからは極めつけの不信心者となった。今年の盆も「こんなに暑いさなか、鎌倉まで墓参りになど行けるものか。ご先祖様も勘弁してくれるさ。彼岸入りでよろしい」と家人に半ば強要するくらいだ。
 とはいえ、そんなぼくでさえ最近は、「ご先祖あっての自分。世の中良くも悪くも70年間こうしてなんとか無事に過ごしてこられたのだから、その報告くらいはしておかないとバチが当たるかも知れない。お呼びがかかった時に、亡者たちから寄ってたかって折檻(せっかん)などされてはたまらんしなぁ」と少しばかり神妙な振りをして見せたりもする。

 少年期の夏の楽しみは昆虫採集だったが、埼玉では見られない日本最大のクマゼミにぼくはご執心だった。大きくて美しく、騒々しい鳴き声のクマゼミを捕獲するのは容易なことではなかったが、ぼくは下鴨神社で一日中捕獲網を振り回していた。また、前号にも登場した叔父の婚儀は下鴨神社で執り行われ、楼門(重文)で撮られた結婚記念写真にセピア化した5歳のぼくがちゃっかり写っている。
 ぼくの少年期、世の中はすべてが鷹揚で、従兄弟と一緒に下鴨神社の舞殿(重文)に上がって走り回っていたものだがお咎めを受けたことは一度もなかった。ことの良し悪しは別にしても、今そんなことは到底望めない。少年にとってあの頃は、生きやすく、あらゆるものに親しみやすい寛容な世の中だったのである。  

 何十年ぶりかで訪れた下鴨神社は前日が葵祭(正式名、賀茂祭。京都三大祭りのひとつ。平安時代から毎年5月15日に行われている例祭)であったせいか、観光客もまばらで、10m離れていてもシャッター音が確実に聞き取れるのではと思えるほど深閑としていた。季節柄、クマゼミの盛大な合唱に掻き消されることもない。ぼくは被写体を定め、矯(た)めつ眇(すが)めつあらゆる角度から観察していた。

 まず、被写体が “最も美しく見えるアングル” を肉眼で探し出し、主題とする被写体の “へそ” は何かを確認する。そしてパース(遠近感)を考慮しながら頭のなかで焦点距離と画角をシミュレーションしてみる。光の方向や光質も同時によ〜く観察する。この作業がぼくにとって最も大切な過程だ。そうすれば自ずと立ち位置が定まってくる。ズームレンズの焦点距離を固定しておいて、絞り値と露出補正を設定。
 そこで初めてファインダーを覗き、イメージとのズレがなければ、迷わずシャッターを切ればよい。ズレがあっても前後左右に1mほど移動すればほとんどは解消する。これがぼくの省エネ撮法。
 ファインダーを覗きながらあれこれ考えるのではなく、肉眼での実体験(観察によるイメージ構築)を最優先すれば、重たいカメラを持ち上げ、保持している時間がかなり節約でき、体力の消耗を防げるというわけだ。リズムという付加価値も生じる。

 この省エネ撮法に徹していた時、ぼくはずっと妙な視線を感じていた。気にすることなく一直線に伸びた参道、糺の森(ただすのもり)を往復していたら一眼レフを首にかけた視線の主から突然声をかけられた。
 「見知らぬ方に突然お声がけするのは失礼と存じますが」と、とても丁寧で礼儀正しい。今時の若人がこんな正しい言葉遣いをするなんて、とぼくは感心しながらハッとした。ハッとしたのは別の理由からで、それは彼女がとても別嬪さんであったからだ。ぼくは少しだけクニャッとした。
 彼女は、「先程からあなたが写真を撮っていらっしゃる姿を拝見していましたが、ファインダーを覗いた瞬間にシャッターを切ってらっしゃる。モニターで確認もせずにまた同じ動作を。とても不思議です。何故そんなことができるのですか?」と。
 ぼくはクニャッとせず、毅然と前述した撮影方法をさらに丁寧に、細かく説明した。彼女は目をキラキラさせてぼくの効能書きを聞いてくれた。「あなたはプロのカメラマンさんですか?」と訊ねるので、「いや、君と同じアマチュアだよ。君だって訓練すればできるよ」といい、ぼくはにわかに照れ臭くなって「観光の記念にオレがポートレートを1枚撮ってやる」と誤魔化した。

 重要なことはあくまで写真の話であってナンパされたことではない! 24歳の大学院生が70の白髪ジジィに他意があって声をかけるなんてことを信じるほど、ぼくはお人好しでもなく、世間知らずでもなく、そのくらいはしっかり自覚しているつもりだ。
 帰京し、ぼくはこの出会いを自慢気に倶楽部の面々に話し、この話は嘘ではないとわざわざご丁寧に、彼女のポートレートをメール添付して送ってやった。「下鴨神社では満足できる写真が撮れなかった」といったら、「あ〜た、いつものようにクニャクニャしてるからよ!」と喝破された。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/412.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市左京区下鴨神社

★「01下鴨神社」
舞殿。少年時代、ここに上がってよく遊んだ。今そんなことをしたら・・・。
絞りf13、1/160秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02下鴨神社」
楼門。65年前、ここで叔父の結婚記念写真が撮られた。
絞りf9.0、1/250秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「03下鴨神社」
糺の森参道。新緑の眩しいなか、敢えてモノクロで。
絞りf9.0、1/250秒、ISO100、露出補正-2.00。

(文:亀山哲郎)

2018/08/31(金)
第411回:京都(14)
 「 “写真” よもやま話」の議題に背いて、京都に於ける思い出話に終始していることに多少の後ろめたさを感じつつも、愛読の士とのメール交換で「掲載写真と撮影データが記されているのだから気にされることはありませんよ。ましてや京都は世界有数の観光地でもあり、観光客とはひと味もふた味も異なる写真を、遠隔の地より拝見できるのはとても楽しみです」(ママ)との力強くも大らかな意見を、ニューヨークよりいただいた。
 意志薄弱なぼくは、自身の手抜かりに理解と同情を示されると直ちに雷同する性癖が精密に備わっているものだから、すっかり意を強くしてしまい、今回を含めてあと2回ほどご容赦いただければと思っている。

 6日間で18箇所を走り回り、まだ5箇所しか取り上げておらず、すべてを書き記そうとすれば、駄文連発癖のあるぼくのこと、50回は優に越えてしまうに違いない。一応15回でこのシリーズを打ち切ろうとの胸算用なのだが、今のところあくまで予定に過ぎない。

 小学校の夏休みは毎年京都で過ごしていたが、ぼくをこよなく可愛がってくれた叔父は海水浴によく連れ出してくれた。京都で海水浴といえば琵琶湖、もしくは若狭湾である。距離的には琵琶湖のほうが圧倒的に近いこともあって、一夏に2度は連れて行ってくれた。
 市内から比叡山を越えるルートを「山中越え」と称し、それが最短でもあった。時には三条(三条通。143号線)からインクラインのある蹴上(けあげ。京都市東山区)を経由して大津に至るコースを辿ったこともある。

 叔父はオートバイのタンクにぼくを乗せて仕事先にまで連れて行き、よく「息子さんですか?」と勘違いされたと聞く。そのくらいぼくはいつもタンクに跨がっていた。印刷所を経営していた叔父の得意先のひとつでもあった八瀬大原にあるしば漬けの老舗「土井志ば漬け本舗」にも何度か連れて行かれた。
 昨今は大人気の八瀬大原だが、60年ほど前はどこもまだ舗装などされておらず(名刹三千院や寂光院で遊んだが、当時は拝観料がなかった)、デコボコの田舎道をオートバイは疾駆し、ぼくは飛び跳ねるタンクに跨がり、ハンドルにしがみついていた記憶がある。飛び跳ねるオートバイに乗るのが愉しくて仕方なかった。
 当時「土井志ば漬け本舗」には大きな空の樽がいくつも転がっており、ぼくはその中に入って遊んだものだ。店主はぼくが行くと、「よお、タンク坊主。今日も来たか」といって、いつも銘菓であるおいしい和菓子を食べさせてくれたものだ。京和菓子の味を占めたのは思い返せばこの頃だったのかも知れない。
 我が倶楽部の「花より団子」、「写真より断然食い気」の、あたかも欠食児童のような婦女子たちと異なり、ぼくはしかし「菓子よりオートバイ」だったのである。知的男子というものは、メカニズムの興味と冒険心により、正しくも順調なる成長を遂げていくものだ。

 ある夏、叔父は従業員数名を伴ってオートバイを駆り、琵琶湖に泳ぎに出かけた。もちろん叔父のバイクタンクにはぼくが乗っていた。数台のオートバイを連ねて、ちょっとしたツーリング気分だった。
 琵琶湖からの帰路、山科(やましな。現京都市山科区)にさしかかった頃に雲行きが急変し、真っ黒な空に雷鳴が轟き始めた。雷を鑑賞?する間もなく、バケツをひっくり返したような豪雨が激しく地面を叩き、水しぶきを上げ、目を開けられぬほどになった。それはちょうど、今週月曜日夕刻に関東地方で見られた天変地異を思わせるような凄まじさにそっくりだった。
 蹴上を通りかかった一行は、道路脇にあった小さなトンネルに脱兎の如く逃げ込み、雷と豪雨をやり過ごした。

 トンネル内に退避した物知りの叔父は、トンネルのレンガを指し、「てつろう、レンガをよ〜く見てみろ。面白いだろう。これを『ねじりまんぽ』というんだよ。レンガをただ積み上げるのではなく、渦を巻いたようになっているだろう。この上にはインクラインが通っており、斜めに交差しているので、こうすることによってトンネルの強度を増す必要があったのだ」と説明してくれた。
 なるほど、そのトンネルのレンガは銃身の内側に螺旋が刻んであるように渦を巻いていた。まさに『ねじり』なのだった。子供ながらに不思議な思いに囚われたものだ。『まんぽ』の語源は定かではないが、叔父によると滋賀や京都では規模の小さいトンネルや坑道をそう呼ぶらしい。

 祇園界隈をうろついた後、ぼくは蹴上までのだらだら坂を「今もあのトンネルはあるだろうか?」との思いに駆られ、老体に鞭打ちぜーぜーと息を切らせながら自転車のペダルを漕いだ。前号にて記した「マツモト模型」よりは、現存の可能性が高いと踏んでいた。
 思いの通り南禅寺に通じる「ねじりまんぽ」はすぐに見つかった。ポッカリと口を開けぼくを待ってくれていたような気がした。感傷的な気分に浸ることはなかったが、やはり感無量だった。
 「マツモト模型」ではかつての自分の姿を追い求めていたが、「ねじりまんぽ」は、天寿を全うすることなく病に倒れた叔父の優しく温かい人柄を思い起こさせた。写真を撮ろうとした時、通り雨がパラパラと降ってきた。出目金のようなレンズを濡らすまいと、ぼくは慌てて2枚だけ撮り(掲載写真)、当時の姿のように「まんぽ」にそそくさと身を隠した。誰かに呼ばれたのだろうか?

http://www.amatias.com/bbs/30/411.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市東山区蹴上

★「01ねじりまんぽ」
明治24年(1891年)製作のトンネルの上には有名なインクラインが通っている。扁額には「雄観奇想」(ゆうかんきそう。素晴らしい眺めと優れた考えという意)とある。人物の配置を考えながらシャッターを切る。
絞りf8.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02ねじりまんぽ」
このようにレンガが螺旋状に組まれてある。
絞りf8.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/08/24(金)
第410回:京都(13)
 今年4月に開催した我が倶楽部のグループ展に於いて、ぼくは『ガラス越しの世界』シリーズを9点選び出し展示した。自作の写真解説を好まないぼくだが、何故『ガラス越しの世界』に憑かれてしまったのかを一応解説をしておかなければと思い、以下のようなことを書いた。そのまま引用してみる。

 「『ガラス越しの世界』についての断想」と題して。
 「物心のついた頃より、ガラス越しに見る光景にひとかたならぬ興味と憧れを抱いてきた。現世とは隔絶した世界をそこに見たからだった。
 3歳の時、ぼくは行方不明となり町内は大騒ぎになったと、未だ元気な叔母は目を細め、67年前を懐かしむようにいう。京都・寺町今出川にあった模型店は自宅より500mほど離れたところに位置していたが、そこにぼくは1時間近く身じろぎもせずガラス越しに店内を眺めていたとは、向こう前にある雑貨屋の店主。警察官に保護されたぼくはその場を立ち去ることを拒絶し、泣き叫んだのだそうだ。今のぼくにその記憶はない。
 現世にあるぼくはファインダー越しに、ガラスの向こうにある幻想の世界に馳せ、この世との同期を窺う。現実と虚構の仕切り板であるガラスに映ったぼくのおぼろ気な姿は果たしてどちらに付き従っているのであろうかと訝(いぶか)るのだが、古希を迎えた今も判然としない。確かなことは、いつもそこには白髪頭のぼくらしい人物が佇んでいるということだけだ。」

 ぼくは寺町通にあるこの模型店を訪ねてみようと思い立った。3歳時の記憶はないが、鉄道模型の好きなぼくは少年時代京都を訪れる度に、この店のガラス越しの世界を愉しんだものだ。あれから半世紀近くが経ち、移り変わりの激しい現在にあって、果たしてこの模型店が存続しているかどうかは不明だった。
 義弟に借りた自転車を走らせながら、期待と不安が綯(な)い交ぜになり、模型店に近づくにつれぼくの情緒は大きく揺れ始めた。店がなければ、過去と今を結ぶ思い出の細い糸が途切れ、ぼくはぼんやりと、どこかやり切れぬ思いを抱くに違いない。かげろうのような自身の姿さえ、失うことはやはり寂しいことだ。そしてまた、あの頃の多感な自分を取り戻す縁(よすが)がなくなってしまうような気がした。

 寺町道を北上すると当時からあった“ゐの志し屋 改進亭総本店” (猪肉店)は未だ健在だった。「オーッ、あるじゃないか!」と思わず声を上げた。サドルに跨がったままの両足つま先立ちで、アングルを考えることなく1枚だけ撮った。
 子供時分、今では考えられないが、店前の道にはいつも大きな猪の屍が放り出されており、ぼくは従兄弟と一緒に獣の鼻を突いたり、牙に触ったり、跨がったりして遊んだものだった。針金のような毛と岩のように堅い体の感触だけが鮮明に残っている。

 思わぬ出会いに、懐かしさが込み上げ、ぼくの情緒はこの時著しく改善された。「ここから一町(古いなぁ。一町は約109m)あまりも行けば、あの模型店は必ずある」とぼくは当てずっぽうながら確かな予感を得た。 “ゐの志し屋 改進亭” の発見で俄然強気になってしまったぼくは、取らぬ狸の皮算用で、自らの勘を頼りに徐々に胸が熱くなっていくのを覚えた。気任せで鷹揚な心得ほど強いものはない。ぼくは気概の士となっていった。
 グーグルのストリートビューを使えば、自室で店の存在はいつでも確認できるが、今回ばかりはそんな夢のないことをしたくはなかったので、敢えて文明の利器を避けた。模型店の存否は自分の目で確かめてこそ値打ちのあるものだ。夢と現実を行ったり来たりしながら自身の存在を確認するのが旅の面白さでもあろう。
 第一、ストリートビューなどで店を覗き込もうとする料簡は非常にはしたない。ぼくには「地の利」による勘という強い武器があるのだ。ささやかなロマンをインターネット如きに奪われてたまるものか。しかし、ストリートビューは愉しい。
 
 一町ほど行くと右手に “マツモト模型” と赤字で書かれた看板が見えてきた。ぼくは再びつま先立ちで「 “マツモト模型” 不死身なり!」と叫んだ。不覚、涙腺が少しだけ緩んだ。店の前に20分ほど突っ立ち、ショーウィンドウを覗き込み、タイムマシーンに乗って67年前の自分を再演してみた。
 質量ともに品揃えの豊かな店の繁盛ぶりに、涙腺はしっかり締まり、大きな喜びがやってきた。ぼくの恋心は画像がフェードアウトするように、現実に向かって動き始めた。本来の鉄道好きがむくむくと頭をもたげ、並べられた品々に夢中になったのである。写真屋を放棄した瞬間でもあった。
 ちょうど40数年前に銀座天賞堂のショーウィンドウに置かれてあったビッグボーイ(Big Boy。米ユニオン・パシフィック鉄道で使用された世界最大・最強級の蒸気機関車。1941年制作)の模型を、目を皿のようにして見入ったあの憧れに似ていた。

 ぼくは意を決して “マツモト模型” 店内に侵入し、店のおばちゃんに「実は67年前ここで・・・」と、ぼくと店の結びつきを話し始めた。世代変わりをしている店のおばちゃんは、「まだ生まれてなかったので、当時のことはよく分からないが、それならお見せしたいものがある」といって、昭和30年(1955年)に撮られた “マツモト模型” の全景写真を奥の間から引っぱり出してきた。
 おばちゃん曰く「写真が撮られた当時は、ショーウィンドウのなかで模型列車を走らせていたんですよ。あなたはきっとそれを飽くことなく見ていたんだわね」と、ぼくはおばちゃんの温顔に接した。
 向こう前にあった雑貨店も「つい20年程前まではあったんですよ」とつけ加えた。「つい」20年かぁとぼくも時制感覚を失いながら、昭和30年に撮られたその写真を複写させてもらった(掲載写真)。ぼくはここで辛うじて過去と現在をつなぎ止めたような気がして、高いサドルに短足の組み合わせをものともせずに、意気揚々とペダルをこぎ、失踪の原点となったこの地を離れた。

http://www.amatias.com/bbs/30/410.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF24-105mm F4L IS USM。EF11-24mm F4L USM。
京都市上京区寺町今出川上ル

★「01マツモト模型」
昭和30年当時のマツモト模型の全景写真。おばちゃんに複写させてもらった。
絞りf7.1、1/20秒、ISO200、露出補正-1.00。

★「02マツモト模型」
ショーウィンドウをガラス越しに。ウィンドウのなかにもう1枚ガラスがあり、複雑な写り込みをしている。人物写真はやはりモノクロが好きだ。
絞りf6.3、1/80秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/08/10(金)
第409回:京都(12)
 前号で分別なく予告してしまった撮影に於ける「地の利」を得ることについて、ご質問をいただいた読者の方には率直なお返事をさしあげたが、そこには質問者の個人的な事情や立場を斟酌する余地が十分にあったので、焦点を絞ることができ、ぼくの思うところをお伝えしやすくもあった。ここでいう「地の利」を得るとは、撮影地の文化的背景や地理的条件を熟知しているという意味で使っている。
 けれども拙稿では、対象が不特定多数であるため、個人宛のものをそっくりそのまま流用というわけにはまったくいかず、いやそれどころか、そうしてしまうとあまりにも狭義になりすぎて、最大公約数的な真意が(もしそのようなものがあるとすればだが)伝えられず、歪んだものになりかねないということに気がついた。
 とはいえ顔の見えない多数への公言は、つまるところ「地の利」についてのありきたりな話に終始し、かえって雲を掴むような話になってしまうのではないかと、ぼくは今非常に困惑し、迂闊な予告を後悔さえしている。

 人は文化的存在、言い換えれば生まれ育った地の文化(言語的、地政的、歴史的な存在であるともいえる)が大切であり、それが如何様であろうとも、そこから逃れることはできないという自覚から出発している。生涯それに拘束され、束縛されているものだとぼくは考えている。
 いつまで経ってもふるさとへの個人的な感情は、如何なるものであれ否応なしに郷土的DNAを受け継ぎ、拭い去ることができない。心理や思考、及び情緒や感受に少なからず影響を与えていることを加味すればなおさらである。

 種々雑多な性格の異なる郷土愛が渾然一体となり、感情の吐露としてあらゆる場所に出現してくる。生まれ育った場所が同じであるが故に、共感や同族意識が心のなかに浮かび上がるのは自然なことだが、人によっては言語的・家族的存在でもある郷土愛が一種の郷土ナショナリズムのような形で熱を帯びることもある。
 ややもすると、そこに思考や感受の停止が生まれ、偏狭な郷土愛に転じることもあろう。これは郷土ばかりでなく、祖国に対しても同じようなことがいえるのではないだろうか。

 いわゆるグローバリズムを信奉する人たちの間には、郷土の文化的存在を進歩的ではないと認めたがらない傾向がある。ぼくにもそのような時期があった。「県人会」などと称するものに対して生理的に受け付けがたいものがあったことは確かだ。
 ぼくの体験をもってすれば、しかし誰もが、郷土愛の根幹にあるものが祖先や父母・兄弟・血縁者の言語的・家族的存在であることを否定できない。そこに無意識のうちに大きなジレンマを抱え込むことになる。

 とりとめのない話は、結論のないままこのあたりで打ち切らなければならないが、この京都シリーズで、よもやぼくが教育熱心であった祖父や叔父に触れるとは考えもしないことだった。
 「何故、あんなことまで書いてしまったのだろうか?」と振り返ってみると、郷土に対する文化的存在が歳を重ねるにつれ強く作用するようになったからではないかと感じている。とともにジレンマからも解き放たれたような気がしている。郷土愛についてのジレンマの解消は、率直な告白と懐旧の情によるところが大きい。ついでながら、知的向学心もどさくさに紛れてつけ加えておこう。

 若い頃は、京都に対する理解もないままに偏狭で身勝手なネガティブ・キャンペーン?を一端ながら張ったものだが、文化や歴史を、博覧強記(広く書物を読み、多くをよく記憶していること)を気取って勉強するにつれ、その心意気は徐々に薄れ、土地固有の文化的背景や必然性を理解するようになった。
 必然性との関わり合いのなかで、自分にとっての「地の利」をどのように捉え、それが如何なる影響を与えているかを顧みることが大切なのだと考えるようにもなった。
 
 「地の利」を得ることは、通り一遍の答えでしかないが、イメージを描く上ではバリエーションが組みやすい。撮影に有利をもたらすが、ただそれが即ち良い写真に結びつくわけではないので、事は複雑で厄介だ。厄介さとは、因果関係が判然とせず、何が何処で結びつくかが誰にも分からないという点にある。
 奈良や京都の住人が神社仏閣の良い写真を撮る機会により多く恵まれることは確かだが、だからといって良い写真の保証などどこにもない。山小屋の主人や登山家が必ずしも優れた山岳写真を撮れるわけでもないことは周知の事実でもある。反対に見知らぬ土地をふらっと訪れ、何の知識もないままに良い写真に恵まれることもある。

 ことほど左様に、「地の利」が与えられても、写真の良し悪しは撮影者のみに依拠すると結論づけざるを得ない。「地の利」や如何に、と大上段に振りかぶってはみたものの、なんだか身も蓋もないことになってしまい、ぼくは今身の置きどころがないのだが、孔子の有名な言葉によれば「知らざるを知らずと為せ、是知るなり」とある。 “知らないことは知らないとはっきりさせることが、本当の知である” のだそうだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/409.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈と四条大橋。

★「01祇園」。
正面から和服を着たお嬢さんがやって来た。後ろ姿をイメージし、ぼくの前を通り過ぎるのを待って、シャッターを切る。
絞りf11、1/200秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02東華菜館」。
大正15年(1926年)竣工。鴨川べりに立つ東華菜館は登録有形文化財となっている。小学生の時に祖父に連れられて1度だけ行ったことがある。日本最古のエレベーターに乗って嬉しがったことを覚えている。四条大橋よりフジペットで撮った記憶を頼りに、6 x 6 cm 版をイメージして撮ってみた。
絞りf10.0、1/400秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2018/08/03(金)
第408回:京都(11)
 当初、京都シリーズは10回ほどに止(とど)めておくつもりだったのだが、なかなか止(と)まらない。帰宅後、選択した写真の半分にもまだ手が付けられないという怠けぶりで、それらすべてを発表する意図はないものの、もう少々与太話をご勘弁いただきたい。

 撮影のため正味6日間で思いつくまま、計画性もないままに10数カ所を巡り、今振り返ってみると、撮影の成果は別として(ここが悲しい)、ぼくにとって近来にない良い思い出を作れたように感じている。しかし、辛さのほうが先に立ち、愉しいものでは決してなかった。辛い旅ほど、良い思い出として後に残るものだというぼくの主張はここでも実証された。

 写真を撮りながら「オレは何者なのか?」を無意識のうちにいつも問うていたような気がする。仏様と対峙し、睨まれ、お咎(とが)めを受ける機会が多かったのだからそれも致し方ないことなのだが、思い通りに撮れぬ苛立ち(自身のアイデンティティを示さなければ写真ではないというのがぼくの持論)とともに、シャッターを押すたびに不安な感情に襲われもした。ぼくに自虐趣味はないものの、それを “苦行” として処決しようとしていたのだから、なんとも浅ましい。

 今回の京都行きは、今から14年前の2004年に丸々1ヶ月間、広大なロシア極北の地を含めた歴史ある古い街々を訪ね歩き、精根尽き果てて帰国したあの時以来のような感覚を残した。
 あの時は、好きなものを自由に撮ってきなさいとの指令をスポンサーより受けてはいたが、それなりの成果を得なければとの必死さがあった。必死さは今回も変わらないが、14年の間にぼくも歳をとり、体力と集中力の衰えを懸念した。たかだか6日間の、それもスポンサーなしの自由な撮影を前にして、自身を見失うことが最大の敵だと自覚していた。ここは油断のならない海外と異なり、勝手知ったる日本であることの緩みを警戒していた。
 日々、陽が西に傾くに従い体力は限界に達し、あと10分も歩けば間違いなく行き倒れになると思うほど、くたびれ果ててしまった。集中力の散漫を免れ、気力も維持できたが、普段の不養生により体力の持続力は失われていた。

 残念ながら撮影の成果は予想に及ばなかったが、それは少しも悲観材料にはならず、かえって再訪の意を強くさせた。非現実的なたとえだが、もし仮に思いの通りに写真を撮れるようになれば、それは愉快なことかも知れないし、あるいは目標を失い途方に暮れるかのどちらかだろう。ぼくはきっと写真に興味を失うに違いない。撮れないから「下手の横好き」で、続けられるのだろうと思っている。

 同じようなものを同じように、相も変わらず懲りることなく撮り続けることにぼくは近頃大きな意義を感じている。それを一般では「堂々巡り」といい、あまり良い意味で使用されないが、案外そうでもなさそうである。
 同じところをぐるぐる回っているうちに、遠心力が働き、その輪から小さな粒子がいくつか飛び出し、それを繰り返しているうちに、写真が変容していくのではないかと思うことがしばしばある。遠心力を加速させれば効力が得られ、変容は少しずつ訪れるということもあろうし、また時にはある日突然ということもあろう。この説はきっと正しい。
 このようにして起こる自身の変化を面白がる日がやがてやってくるのだと、ぼくは信じている。信ずる者はやがて救われるというのが世間一般の通り相場ともなっているのだし、そのような理屈をこねていないと、ぼくなどやっていけない。「信心も欲から」ともいうしね。

 遠心力を高める方策のひとつは、とにかく撮ることしかないのだから、辛抱強く、飽くことなく「運鈍根」(うんどんこん)を貫き、それにしがみつくのが一番良い。体裁などにかまっていては、奥行きが図れず、常に蛇稽古(長続きしない稽古事のたとえ)に終わってしまう。
 写真という高価な趣味に大枚を叩いて、表面しか触れずに終わるのは、他人事ながらあまりにもったいないと思うのは、大きなお世話なのだろうか。

 ともあれ、ぼくのこのような考えや方策は、あまり一般的でないのかも知れない。趣味としての楽しみや上達の考え方はそれぞれが千差万別であることくらいはよく知っている。
 「信心過ぎて極楽を通り越す」ともいうけれど、自身の信条の最大公約数的な、もしくは共通分母のようなものを公にしているに過ぎないのだから、気休め程度に読んでいただければ、ぼくも気が楽である。

 先日、読者の方からご質問をいただいた。長いメールだったが、要約すると「撮影に、地の利というものはあるか?」と。地の利が写真にどのような影響を及ぼすかについては、ぼくには判然としないところもあるけれど、興味ある事柄でもあるので次号にてそれについて述べてみようと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/408.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈。

★「01祇園新橋通」。
お茶屋の並ぶ新橋通を1台の真っ赤なビートルが走ってきた。カメラをセットし、左上から右下への対角線構図を。ファインダーのなかで、走る車が意図した位置に来た瞬間にシャッターを切る。幸い人影が入らず。
絞りf9.0、1/600秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02祇園路地裏」。
一天にわかにかき曇り、驟雨が。コントラストの低い、しっとりとした空気の中で、「明瞭に写し出すこと」と言い聞かせて。
絞りf11、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2018/07/27(金)
第407回:京都(10)
 齡70にして、ぼくの故郷である京都撮影行の目的はすでに記述したので繰り返さないが、今改めて母方の祖父や叔父のおかげでぼくは子供では体験できないずいぶんとおませな場所に出入りしていたものだと、京都での過去のページを繰りながら懐かしく思い起こしている。

 道楽者のじいさまは祇園(ぎおん)や先斗町(ぽんとちょう)のお茶屋に、いつもフジペット(6 x 6 cmの中判カメラ)を首からぶら下げた小学生のぼくを連れて行ったし、叔父は行き付けの、新京極近くにある六角通御幸町のバーによく連れ出した。教育熱心なとても良い祖父・叔父であった。
 子供心ながら「ここはぼくのような子供の来るところではない」と呑み込んではいたが、芸妓さんやバーのママさんは子供を退屈させない凄技と洗練された女振りを存分に心得ており、気詰まりをまったく感じさせなかったものだ。今ぼくは原稿を書きながら、彼女たちのプロフェッショナルな仕事ぶりとその精神に非常な感謝をしている。
 「子供をこのようなところに連れてきて」との不粋で、あたかもものの分かった風なことを説教がましくいう人は誰一人としていなかった。そのような意味合いでは祖父・叔父はとても正しく、誰もが寛容で、住みやすい時代だったのである。
 そしてまた祇園の彼女たちは美妓でもあり、30歳前後であっただろうと思われるバーのママさんは、ぼくの記憶の中で一人歩きしているとはいえ、たっぷりとした母性を感じさせる魅力的な女(ひと)でもあった。やはり子供心ながらに一種の憧れに似た感情をぼくは人知れず抱いたものだった。
 小学生ともなれば、女性に対する憧れは大人のそれと何ら変わるところがないのではないかと、今の自分を顧みてそのような感慨に浸っている。

 ぼくは食欲旺盛な食い気一辺倒の中学生となり、叔父は「てつろうにはポタージュ(当時は珍しかった)と山賊焼(鳥のもも肉を焼いたもの)か、ステーキを食わせておけば良い」といい、祖父は「鱧(はも)か鰻を食わせておけば良い」と、ぼくをよく連れ回してくれた。とても気の利く良い人たちであり、優れた教育者でもあったのだ。
 叔父は、神戸牛、松阪牛、近江牛の違いをことごとくぼくに講釈し、祖父は大学生になったぼくに鰒(ふぐ)やすっぽんの味わいを教えた。ぼくは大変なマセガキとなっていった。京都での行状をおそらく知っていた父は、それについて何も語ることはなかった。そしてぼくも友人たちに京都自慢をすることは決してしなかった。マセガキではあったが、こましゃくれた驕慢(きょうまん)な子供ではなかったと、一応の弁明をしておく。

 ぼくがフジペットで彼女たちを撮ったかどうかはうろ覚えだが、室内では光量が足りず、ぼくに撮影技術の知恵もなく、もし撮っていたとしてもおそらく何も写っていなかったのではないかと思う。
 ただ記憶にあるのは、クラシック音楽好きのバーのママさんに連れられて新京極にあるレコード店にしばしば行ったことだった。ママさんは「何が欲しいの?」とぼくに訊ね、ぼくは都度果報に恵まれた。買ってもらったレコード(カラヤン指揮ベルリンフィルの『新世界』。1958年録音のLPレコード)を彼女に持たせ、「にっこりママさん」を撮ったことがある。ママさんは、思い起こすに女優の夏川結衣に似た人ではなかったかと思う。帰京し、あまりのブレブレ写真に愕然としたことがあった。その写真はいつの間にかなくなり、今手許にはない。

 昨今ならスマホでパチリとやればすべてが造作なくリアルに写し出され、生々しく記録に残せるのだろうが、当時ぼくにとって写真は原始の時代であった。リアルな記録を写し出すことができないが故に、今、想像や懐古の情が逞しく復活を遂げている。スマホでは望郷の念の昇華がままならないのではなかろうかと懸念さえしている。
 リアリズム(スマホ)vs.ロマンチシズム(フジペット)の図式をここに見るような思いだ。「昔は良かった」と言わしめるひとつの良い例であろう。

 ちょうど10年前にロケハン(撮影の下見)で京都を訪れたことがあった。ディレクター、デザイナー、助手君の3人を伴い、空き時間をみて撮影予定地ではない祇園界隈を歩いた。今や映画やドラマですっかりお馴染みとなった巽橋周辺を、ぼくは約50年ぶりに眺めた。
 そこは祖父に連れられてよく見た風景だったが、ちょうど半世紀の間に当時のしっとりした雰囲気や風情はかき消え、誰もがカメラや携帯電話のカメラを振り回し、記念撮影に興じている。時の流れといってしまえばそれまでだが、その賑わいたるや、まさにおどろおどろしいものだった。通りかかる舞妓さんを取り囲み記念撮影を目論む人々でごった返していた。

 あれからちょうど10年を経た今回の巽橋界隈は、以前と変わらぬ俗化ぶりだったが、変化は携帯電話のカメラがスマホに変わったくらいで、相変わらずの人出だった。
 ぼくも観光客の一員に乗じ、巽橋を撮ってみようと思った。超広角故、人影の入らない巽橋を撮るのはよほどタイミングを見計らう必要がある。運にも恵まれなければならない。ぼくは極めて気が短いので、待って撮るということは滅多にしない。2分と待てない性格なのだ。

 焦点距離を最短の11mm(APS-Cサイズであれば、6.875mmとなる)にセットし、誰も撮ったことのないような巽橋を頭に描いた。人影の入らない一瞬を捉えたが、イメージ通りとはいかなかった。しかし、我が身としては後に引けないので一応巽橋に行ったという証拠写真として掲載してみる。
 もう1枚は、巽橋にて群がる人々からやっと解放された4人の舞妓さんが、新橋通のお茶屋に向かう途上を、自転車のペダルを漕ぎながら後を追い、止まることなく3kgのカメラを片手で操作したもの。こんな横着な撮影をしてはいけないのだが、「オレはいいが、あ〜たたちはデッタイしてはいけない」という倶楽部の面々に対する常套句を、京の地でもつぶやいてみた。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/407.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都市中京区祇園界隈。

★「01祇園巽橋」。
極端なパース故どのような構図にするかだけを描いて。人影が消えた一瞬の隙に。
絞りf11、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02祇園新橋通」。
自転車で走る前に焦点距離24mm、露出補正-1、f8.0、フォーカスを5mに固定。ペダルを漕ぎながら片手撮りの横着を決め込む。補整でお茶屋のシャドウは潔く潰す。
絞りf8.0、1/400秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2018/07/20(金)
第406回:京都(9)
 話は多少前後してしまうが(ここが出たとこ勝負の一貫性のなさで、ぼくのダメなところだ)、前々回「京都(7)」に記した名刹に所狭しと掲げられている不粋で目障りな「撮影禁止」について、種々雑多な異論反論を重々承知で、私見を述べてみたい。

 お寺さんによっては、「撮影禁止」とともに「スケッチ禁止」というものも散見した。写真や絵画の製作をたしなむ人たちにしてみれば、然るべくして「何故?」との疑問が湧くに違いない。「誰に損害を与えるというのだ」との、通り一遍の反駁を心に秘め、やり切れぬ気持にさせられることしばしであろう。
 憤懣やるかたない思いを心の隅に閉じ込め、自らの道徳的規範( “法的規範” ではない)に従い、落胆を隠しきれず、「何故?」を解明することもままならずにすごすごと引き下がるのが通例であろう。
 撮影やスケッチの好きな人々が禁止令に対して無念無想のまま寂しくお寺さんの三門を出ることになる。お寺さんは本来礼拝の場であることを知りつつも、心残りながら後ろ髪を引かれるような思いで、その場を後にする人々が大勢を占めるのではないだろうか。
 
 感情的な面に荷担することが、稀には道理を詰むこともあるので敢えて記述してみる。
 拝観料を徴収しておきながら製作過程や作法の異なる写真と絵の双方に「禁止」という共通事項を持ち出すお寺さんの好ましからざる料簡に大きな疑問と異議を唱えることは罪ではない。

 帰京後、ぼくは「禁止」の理由を解明したく、直接東寺に電話をし、こう訊ねてみた。「お寺さんには確かに管理権というものがあることは知っていますが、それとは別に何故『撮影禁止』なのかがどこにも記されていません。拝観券にも記されていませんが、その理由をお教えいただきたくお電話をさしあげました」と。
 担当氏は「拝観料をお支払いいただいた時点で、『撮影禁止』はいってみれば暗黙の了解済みなのです」とおっしゃる。この説明は多くの矛盾や齟齬を含んでいるが、その点についてぼくは追究しなかった。きっと東寺の担当氏では埒の明かぬことと先読みをしたからだった。
 東寺五重塔(4度の焼失により1644年再建。国宝)は小さな鉄柵に囲まれており、その内側ではやはり「撮影禁止」だった。ぼくは五重塔の、300数十年の風雪に打たれた木材のアップを撮ろうとしたところ、すぐさま監視のご婦人に制止された。

 「何故ですか? ぼくがこの木材を写真に撮っても、国宝である五重塔には如何なる毀損も与えませんよ。著作権を侵害するわけでもなく、利益目的の撮影でもありません。どうしていけないんでしょうか? お教えください」と物腰柔らかく丁寧な口調で訊ねた。自分に落ち度はないと確信すればするほど、人は穏やかに問うものらしい。
 彼女の説明によると「撮影に夢中になり、ここから落ちる人がいるからです」とお答えになる。“ここ” とは、五重塔の基段のことであり、高さは1mにも満たない。なかには怪我をする人もいようが、落ちようと落ちまいとそれこそ自己責任である。東寺に落ち度はない。制止の理由は大きなお世話というものだが、おばちゃんと論争する気もなく、ここでもぼくは紳士的に引き下がった。

 現場の監視婦人と電話の担当氏の言質がまったく異なるということは、当事者である彼らでさえぼくの質問する「撮影禁止」の核心的問題について、どのような疑問も説得材料をも持ち合わせていないということが判明したに過ぎない。おそらく「規則だから」という根拠不明で紋切り型の説明に終始するのだろう。
 また他方では、「文化財保護のため」というまったく非科学的な大義名分が大手を振りながら御身大事と闊歩しつつ、臣民に対して「撮影禁止」の如何なる良心的な説得の側面さえ示していないのだということを率直に認めていただきたい。

 ぼくの感情論を大雑把にいえば以上のようになるのだが(まだまだ書き足りないが)、一方では別の見方が「撮影禁止」を支配している。曰く「撮影やスケッチを許可すれば、鑑賞者の滞留を招く」というものだ。それを伝家の宝刀を抜くようにしたり顔で宣うのであろうから敵わない。
 これは鑑賞者の関心の強さや興味の度合いを完全に無視した無感情論である。そこには「見せてやるのだから滞りなく歩を進めよ」との、血の通わぬベルトコンベア的扱いが露呈しているとみるのは穿ち過ぎだろうか? 鑑賞者をモノ扱いするような、結果としての暴挙であるように思われる。お釈迦様はきっと苦々しく思っていらっしゃるに違いない。

 建築物や仏像を前に、素通りする人もいれば、じっくり美の発見に努め、その歴史やいにしえに思いを馳せようとする人もいる。鑑賞者は百人百様であると認めることの基本が失われている。決して安価ではない拝観料を納めて、個人の尊重をよそに、十把一絡(じゅっぱひとからげ)げにされることにぼくらは甘んじなければならない。
 しかしぼくとて、第一にこの場が祈りの場であることは十分に承知している。だがしかし昨今では宗教的見地と商業主義が競い合い、どこかでどのような人も寛容に受け入れるという姿勢が遠のいているように思えて仕方がない。「撮影禁止」の理由の一端は案外そのようなところに因があるような気もする。
 ぼくにしてみれば、写真を撮る行為は己を知り、一種の精神修養のためといっても言い過ぎではないと思っている。神社仏閣に於いては、これでも精一杯自己を見つめ、お釈迦様に感謝しながらシャッターを押しているのである。

 西洋の考え方や仕組みに無批判に与することを由としないぼくだが、少なくともぼくの知る限り世界の代表的な美術館であるルーブル美術館やエルミタージュ美術館では当たり前のことのように「撮影可」だった。両美術館は年間1000万人を超える鑑賞者があると聞くが、人々の観賞のペースもまちまちであり、それを当然のことのように誰もが受け入れている。
 寺院と美術館を同列に論じることはできないが、もうそろそろ美観を損なう「撮影禁止」の看板や貼り紙を撤去し、岡本太郎記念館のように自由な撮影やスケッチの奨励を、お寺さんは考慮してもいい時期なのではないだろうか。

http://www.amatias.com/bbs/30/406.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。
京都府宇治市萬福寺。

★「01萬福寺通玄門」。
開山堂に向かう通玄門(重文。1665年)。空が夕陽に染まりつつあるなか、全身が石のように重くなり、青息吐息の体(てい)で、最後の砦ともう一踏ん張り。
絞りf11、1/125秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02萬福寺開山堂」。
萬福寺の塔頭(たっちゅう)である開山堂(重文。1675年)。開祖隠元禅師が埋葬(開山塔院)されている。特有の卍模様の高欄が見える。
絞りf11、1/125秒、ISO100、露出補正-2.00。
(文:亀山哲郎)