![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2024/11/01(金) |
第713回:浦和 vs.大宮(1) |
本稿掲載のための写真が尽きてしまったので、これはいかんと、さいたま市大宮(2001年、政令指定都市となる以前は大宮市)へ用事がてらカメラをぶら下げて出かけた。大宮駅は、我が家の最寄り駅である北浦和駅から京浜東北線の3駅目で、直線距離にして僅か4 kmほどである。
しかし、大宮はぼくにとって常に通過地であり、改めてこの地の繁華街を歩いたのは何年ぶりのことだろうか。近くにありながら、ぼくは大宮という地に共感を覚えたことは、残念ながら子供時分から一度もない。どちらかというと、気に染まぬ地であり、苦手意識のほうが強い。 では何故、わざわざ大宮で撮影を試みようという気になったのかというと、浦和より猥雑さと商業的多面性を有していたからだった。そのほうが、写真を撮る身としては感覚を煽られるものがある。つまり、フォトジェニックなものに出会える可能性があると感じたからだった。浦和については後述するが、写真ネタとしては、大宮のほうにずっと興味をそそられたからだろう。 県庁所在地の浦和と比べれば、大宮はいくら新幹線や多くの在来線、そして私鉄までもが乗り入れ、東京以北最大のターミナル駅とはいえ、ぼくにしてみればやはり「僻地」の感を拭えない。大宮とはぼくにとってそんな所だ。どうみても浦和より「ダサイ」のだ。「ダさいたま」とは、まさに大宮に象徴されるような気がしている。 元々、さいたま出身でないよそ者のぼくがいうのだから、よく話題に出る「浦和vs.大宮」の論争については、ある程度の客観性があると思っている。 大宮の人間は浦和に対して、対抗心や敵対意識を持っているように感じるが、浦和の人間は、大宮に対して、大宮の人間ほどそのような気持や感情を抱いていないように思える。つまり、浦和の人間は大宮にそれほどのライバル心を持っていないとぼくは見ている。それについては、浦和や大宮の友人知人と接しても感じるところだ。 このことはどうやら、大阪と京都の人間が、首都である東京に対してどのように感じているかに似通っている。大阪の人間は、東京に対して大きなライバル心を持っているが、京都の人間はこれっぽっちも感じていないということだ。ついでにいうと、京都人間は、内心未だに日本の中心は東京ではなく京都であり、戦後といえば、大東亜戦争ではなく、応仁の乱だとする滑稽な心情を疑いもなく抱いている。冗談とも本気とも取れるようないい方を真顔でする。母方の祖父(京都生まれの京育ち)は、いつもぼくに本気でそう語っていたものだ。どうやらぼくは、祖父の邪気のない言葉にまんまと言い包(くる)まれたようだ。 それはさて置き、京都人間は質(たち)が悪いとよく評されたり、おちょくられたりもしているが、それについては1話を要するので、機を見て筆硯を新たにしたい。 浦和人間の心の拠り所は、ぼくの見るところ、おそらく県庁所在地であることだろう。だが、県庁所在地とはいえ、ぼくは沖縄を除くすべての都道府県を、私用、もしくは仕事で訪問している。そこでつくづく感じることは、浦和ほど貧相な県庁所在地を知らないということだ。公平を期すという意味で、思うところを率直に述べたが、しかし浦和も大宮も、どう転んでも「ちょぼちょぼ」(二者ともに変わり映えせず、大したことのないさま、という意)ではないかというのが正直な感想である。 我が家からは、距離的にも浦和のほうがずっと近く、したがって身近にも感じ、出向く機会は大宮より多い。大宮のような「際どさ」がない点、上品だともいえるが、写真屋にとって浦和は面白味に欠ける。あくびが出ること多々あり、しかし大宮は油断ならないところがあるので、面白いのだ。 ぼくの好奇心をくすぐる神社仏閣に関しては、大宮には「大宮氷川神社」があり、その周辺環境も好感の持てる佇まいである。以前ほど参道の趣がなくなってしまったのは残念だが、それは何処も同様だろう。また、初詣の参拝者数では、全国10位以内に数えられるとのことだ。氷川神社には大宮公園が隣接しており、この界隈だけは「際どさ」が見受けられず、神のお陰か、品位を保っている。 その伝でいえば、浦和の神社仏閣は規模も風格も見劣りがする。強いインスピレーションを喚起させてはくれず、レンズを向けようという気になかなかさせてくれない。ファインダーを覗いても、気落ちするのが関の山。 しかし、趣というものをどう捉えるかは個々人さまざまであり、誰もが自分の出身地には何某かの思い入れを持つことは至極当然のことである。その地の成り立ちは、自然や歴史、周辺の影響などによるところが大きく、そこで生まれ育った人には、よそ者のぼくより、より良いイメージを描き、良い写真をものにすることができるかも知れない。 浦和はよく全国有数の文教都市だといわれるが、ぼくはそれを肌で感じたことはない。残念ながら、ネットでの謳い文句などを読んでみると、ぼくは半信半疑である。ただ、ぼくの小・中学校時を振り返ってみると、浦和市立の小・中学に通った(当時の与野市からの越境入学)ことは、ぼくに大きな利をもたらし、未だに当時の同窓生たちと密な交遊関係を保っていられるのは、とてもありがたいことだ。 故事成語を引用すれば、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」(好機は地理的有利さに及ばず、地理的な有利さは人心のまとまりには敵わない)というところか。 おかしなまとめ方をしてしまったが、この話、次号に続く。 https://www.amatias.com/bbs/30/713.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市大宮。 ★「01さいたま市」 レトロ感溢れるビール会社のポスター。その当時のものかどうか判別不能だが、如何にも、という感じが面白かった。 絞りf8.0、1/100秒、ISO 2500、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 大栄橋を潜る夕暮れ時の薄暗い通路。そこに描かれた表現しづらい絵と通行人。絵だけでは撮影意欲が湧かず、絵になりやすい人を絡めたいと思ったところへ、運良くそれらしきご老人が横切ってくれた。ぼくの普段の心得が良いからだろう。優れたRaw現像ソフト(DxO社のもの)のお陰で、高感度ノイズも見られず、鮮鋭度も損なわれていない。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 10,000、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/10/25(金) |
第712回:高校時代の思い出の地再訪 |
義務教育を何とか人並みにやり過ごし、やがてぼくは高校、大学へと進学した。小・中・高・大のうち、最も無為に過ごしたのは高校時代だった。「無為」を言い換えれば、「つまらなかった」とか「環境にまったく馴染めなかった」ということになる。ついで、勉学の意欲も萎えていた。
都内の高校に通ったことにより、凄まじくも非人道的な通勤通学のラッシュを味わうこととなった。あのうんざりするような惨状をあらかじめ知っていれば、都内の高校に入学することはなかったであろうと思う。登校時の「うんざり感」をそのまま教室に持ち込んでしまったようだった。しかし、この高校を選んだのは自分自身だったので、恨み節などいうべきでない。お門違いというものだ。 放埒に輪をかけ気随気儘といっても過言ではない中学時代(特に3年生時)ではあったが、この3年間は、ぼくに内在する様々な気質が一番色濃く、そして顕著に表れ、目まぐるしく変化した時期であったように思う。勤勉、羞恥、怠惰、反抗期がかなり明確に色分けされた3年間でもあった。クラス替えに伴って、一年ごとに心持ちや性格が不安定に変化する、いわゆる思春期真っ只中でもあったのだろう。白髪ジジィにもそんな時代があったのだ。 だが、「三つ子の魂百まで」というが、その諺はまったくその通りだと思っている。ほぼ間違いのないところだ。ただ、大人になるにつれ、多少の知識と知恵がつき、純一な正しさを失っていくのだが、性格や性質はほとんどの人が、大人となっても何も変わりゃしない。もし変わるとすれば、悪質な大人になる他なしとぼくはみる。例外はあるだろうが、概ね良い人間は子供の時から良い子なのである。 年寄りになれば、誰もが姿かたちは当然の如く変化するが、本質的な性格まで変わるわけではない。同窓会などで、性格まで変貌し、かつての面影をほとんど感じさせない人をごくたまに見かける。紆余曲折があったのだろうが、ぼくはそのような人に対して、警戒心を露わにする。そんな時、ぼく自身がひねくれてしまったのだろうかと、そっと、謙虚に鑑みるのだが、どうしても自分を庇いたくなる。「おれは1,000人以上の顔と目を、穴の開くほど射るように熟視しながら、ポートレートを撮ってきたのだから、間違いなし」と自己を誘導する。その誘導は、時に自信過多となり、また自己欺瞞ともなる。 振り返れば、ぼくの未成年期では、中学時代が最も写真に囚われていた時期だった。目の前に展開される光景や風景に憧れや夢を抱き、それを自分なりにアレンジしたのだが、どうやってもそれを写真上に再現できないもどかしさを覚えていた。頭に描いたものが、さっぱり印画紙上に表せない。それ以降、こんにちまでその儚き思いはじくじくと継続している。だから写真はやめられない。 中学の卒業アルバムに載せられた人物評( 『みどり』という卒業時に配られた記念誌。今ぼくの手許には見つからず、拙稿のため同窓生にぼくについて書かれた部分をスマホ写真で送ってもらった)には、「クラスの横綱級の暴れん坊」とか「職員室の経験もたくさんある(悪さをして、始終叱られ職員室に立たされていたという意)」や、いささか気恥ずかしいが、「ものを忘れることもスゴイ。だけど、クラス一の人気者」とも書かれてある。ぼくはそれがいたって健全な男子中学3年生の姿であるとの確信を抱いているし、こんにちに至っても、その思いに変わりはなし。 当時から、「今しかそのように振る舞えない」と感じていたし、「ものの分別をわきまえているかのような言辞を弄し、人物を評価しようとする、つまらぬ大人たちの世界」をしっかり予見していたガキだったのかも知れない。だがぼくは世にいう「不良」ではなかった。ぼくは「不良」を嫌悪していた。少し間の抜けた、しかも粗暴で我が強く、自分だけの世界を他人に譲ろうとは、頑なにしなかっただけのことだ。有り体にいえば、我が儘なお坊ちゃんというところか。 さて、陰鬱な高校時代だったが、唯一の救いは理解し合える実直な友、Y君と出会えたことだった。ぼくは吹奏楽部で、彼も同じだった。楽器も同じくクラリネット。いつも優秀な成績を収める倶楽部だったが、ぼくらはいつも横道に逸れるやさぐれクラリネット吹きであった。しかしぼくらは、音楽はもちろんのこと、文学や美術にも非常な関心を寄せていた。教師の目を盗んでは、屋上で煙草を吹かしながら、音楽、文学、美術の話に花を咲かせていた。 倶楽部の練習をさぼっては、上野の美術館や博物館での、お気に入りの催し物目がけて足しげく通っていたものだ。博覧の後、近くにある寛永寺や谷中霊園を、一端の物知り顔で、幸田露伴の『五重塔』(1644年創建。1957年、昭和32年、心中による放火で焼失。現在は基石だけが残されている)跡を歩き回ったものだ。 霊園で特に印象深い光景だったものは、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ。第15代将軍。1837~1913年)公墓で、崩れた石壁に囲まれたここは、戦後のまま手つかずの状態で、荒廃していた。大きな石灯籠は倒れ(1960年晩秋当時)、まるで時代劇のワンシーンを思わせるような佇まいだった。あの、得も言われぬ叙情的な光景は、セピアがかり、今以て、ぼくの脳裏に深く刻まれている。 いってみれば、まるで、黒澤 明監督の『用心棒』に描かれる、からっ風にほこり舞うようなシーンがよく似合うような光景である。この墓場を見た二人のやさぐれクラリネット吹きは、ただ無言で崩れた石塀に腰をかけ、30分近く得体の知れぬ感慨にふけり、あまつさえ感動すらしていた。あれから60年以上を経た今、その面影はなく、すっかり整理されており、ならず者の感動を呼び起こすことはなくなってしまった。 ただ、倒れた石灯籠の宝珠(頂上にのる玉ネギ状の部分)とその下部である傘が、寛永寺の片隅に無造作に積まれていた。60年ぶりの逢瀬となったが、40歳を過ぎたばかりのころ早逝してしまったY君がそれを見たら、どのような感慨を抱くのだろうか。そんな思いを抱きながらの、晩夏の訪問だった。 https://www.amatias.com/bbs/30/712.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 東京都台東区。 ★「01谷中霊園」 文中、最後に触れた石灯籠の傘部分。葵のご紋。 絞りf11.0、1/100秒、ISO 500、露出補正-0.67。 ★「02谷中霊園」 すっかり整備された徳川慶喜公墓所。昔のイメージとはまるきり異なるので、撮影しようかどうか、迷いながら。Y君の霊も、ともに弔う。 絞りf8.0、1/80秒、ISO 100、露出補正-1.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/10/18(金) |
第711回:撮影の恐怖(2) |
自分を差し置いて、他人のしくじりをあたかも対岸の火事のように書いてしまったが、ぼくは決して彼らをせせら笑っているわけではない。それどころか、身につまされ、切実さも相まって、今も息が詰まるような思いだ。ぼくも、駆け出しの頃、彼らと同じように、すんでの所まで行ったのだから、とても他人事(ひとごと)で済ますようなことではない。それほど、金銭をいただいての撮影は、決して大袈裟ではなく命がかかっているということなのである。
幸いにして、ぼくは家族を路頭に迷わすわけにはいかないとの、男の沽券に付きまとわれつつ、なけなしの根性を振り絞って、危うくもどうにか踏み止まっただけのことである。だが、親子3代にわたる、憧れの、義理人情だけには厚い無頼漢にはなり損ねてしまった。そこがちょっと悔しい。そしてまた、恐怖に打ち勝ちながら成し得た職業カメラマン、などという武勇に似た話ではまったくないのである。 職業カメラマンを志すには異例に遅い事始めだったことは前回に述べたが、師匠はある程度のヤケクソに似た覚悟を持って、周回遅れ甚だしきぼくをアシスタント(門弟)として迎え入れたに違いない。 予定した2年の修行期間を終え、ぼくはフリーランスとして出立する旨を伝えると、「当時、その歳から独り立ちするのはとても無理だと思い、おれのところでカメラマンとして働いてもらうつもりでいたのだが、おまえがそういうなら仕方ないな」と送り出してくれた。 「一人前になるまではご無沙汰いたしますが、何とか恰好がついたら、挨拶に参ります」といい、ぼくはスタジオを飛び出た。無謀なぼくをアシスタントとして雇い入れ、やがては食うに困らぬよう子飼いのカメラマンとして、自分のところに囲ってやろうとの目算だったようだ。ぼくは、そんな親心を無にしたような気がし、また恩義に報いることができなかったので、それを思うとひどくへこんだ。 へこんでばかりいられないぼくに恐怖心が襲ってきたのは、スタジオを去った直後からだった。どのような不安や恐怖心かを簡略に示すと、以下のようになる。 クライアントの依頼に対して、彼らの希望する映像を提供できるかどうかは、当然の不安として先ず立ちはだかる事柄だが、その前段階として、貸しスタジオでの撮影で、スタジオ専属のアシスタントたち(いわゆる “スタジオさん” たち)に、ライティングを始めとする撮影次第についての的確な指示を出すことができるだろうか? 明確な指示を彼らに発しなければ、撮影は失敗する。彼らは撮影結果についての責任を一切負っていない。撮影現場では、立ち会い人が何人いようが、主導権は常にカメラマンにあり、たとえ、駆け出しのカメラマンであっても、スタジオさんを始めとする関係者たちから主導者としての信頼を勝ち得なければならない。特にスタジオさんは非常に多くのカメラマンと接しているので、その力量や人力を見極める能力に長けているものだ。 どぎまぎした態度を晒せないので、それをどう覆い隠すかに腐心しなければならず、もしかしたら役者的な才能 !? が必要かも。ぼくは、「地のまま」を貫いていたので、そのほうが良策と思えた。それは、ぼくが会社人間として組織のなかで14年間働いて得た知恵だったのだと思う。人前での背伸びはバレるものだ。また、バレないような人と仕事をしても得るものはないというのが、ぼくの持論でもある。それは今も変わらない。 野外や屋内でのロケ現場でデザイナーや編集者などとの意思疎通を図りながら、適切な技術を駆使し、自身の描く映像を明示し、それがクライアントに受け入れられるかどうか? クライアントの光学的・物理的に無理無体な注文(これはよくあること)に対して、それは理論的に敵わぬことであることを、科学的論拠に基づき、説得できるかどうか? 当時はフィルム撮影なので、特にこの点は重要事項であった。「何故、あなたの注文通りに撮影できないか」を、科学的に説明し、納得させ、そしてそれに代わる明確な良案を示さなければならない。 現在のデジタル世界では、この光学的難点はかなり緩和されているといって良いだろう。デジタルの利点は最大限利用すべきだが、しかし、デジタルであっても、「後から何とかなる」との考えは禁物である。フィルム撮影での基本的な考え方と緊張感は、デジタルでも必要不可欠なものだ。デジタル時代にあって、フィルム育ちの人間にも「三文の徳」があるように思う。 現場での立ち会い人に不安を抱かすような言動をどの様にして避け、それを払拭することができるか? 金銭を支払う人たちは撮影者の一挙手一投足(徒弟制度に於いて、これは特に厳しく教育され、仕込まれる。これは特筆すべきことだ)に注視しているので、ここでつまずくと、今後の仕事がもらえないことになりかねない。 現在のぼくは、スタジオを使用した大掛かりな撮影をすることがなくなったが(興味を持てなくなったので)、比較的身軽で、単身行うことのできる撮影だけを引き受けるようになった。 だが、現在も報酬の多少に関わらず、撮影の前日になると、恐怖心までは行かずとも、ひどく憂鬱な気分に襲われる。計算機を取り出して、この40年間にどのくらいの場数を踏んだかを算出してみたところ6,000~7,000回となった。その度にぼくは怯え続けてきたことになる。こればかりは、「慣れる」ということがない。報酬をいただくというのは、そういうことなのだろう。こんなはずではなかったのに、嗚呼、出るはため息ばかりなり。 https://www.amatias.com/bbs/30/711.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 雨のなか、夕暮れ間近の見沼田んぼを歩いてみた。詩的味わいとまでは行かないが、一条の光が射し、当初からモノクロをイメージ。 絞りf10.0、1/40秒、ISO 1000、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 「01」から10分後、堤の下から雲が湧き上がるように現れた。 絞りf9.0、1/40秒、ISO 1250、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/10/11(金) |
第710回:撮影の恐怖(1) |
ぼくの修業時代は2年間だったが、カメラマンを志すには異例に遅い始動だった。長年出版社で編集者を勤めた後のことであり、この世界では誰が見ても遅すぎる事始めだった。
編集者として多くのプロ・カメラマンと仕事をしてきたので、20数年間アマチュアとして熱心に写真に取り組んできたとはいえ、プロとアマの違いは十分過ぎる程理解していた。まるで異なる世界であることをとっくに承知していた。 知人友人を始めとするまわりの人々の「無謀」との指摘に、ぼくは、「人生、半分まで来たのだから、残りの半分は、なり振り構わず好きなことに挑戦してみよう。ダメ元なんだから」と、当時美術工芸品の撮影でよく知られた方の門を叩いた。それは、「無謀」イコール「我が儘」の仕業であった。 ここまでの経緯を記そうとすると、何話も書き殴れるのだが、途方もないことになってしまうので、意を決して割愛。 一番の相談相手だった父は、無謀な試みの数年前に他界しており、自身の決意に背中を押してくれる人はいなかった。既に意を決していたのだから、相談も何もあったものではないのだが、父なら反対しないとの思いがあった。そもそも、ここでいう相談とは、実は相談などという代物ではなく、自己の意志を再確認するための行為に他ならない。敢えていうならば、自分の我が儘を隅に隠し置き、「味方」や「理解者」を得たいという甘ったれた気分に過ぎないのだ。 ぼくには、小学生低学年の坊主とまだ幼い娘がいたので、薄給の修行期間は当初より2年と決めていた。「2年以上の日延べ猶予は相成らぬ」というわけである。その期間で、写真の発注主の如何なる注文にもしっかり応えられるようなプロの技術や感覚、心構えや作法などが身に付けられなければ、長年連れ添った写真を捨て、家族のためにどのような仕事も厭わぬとの覚悟を持っていた。いくら札付きの横着者であり遊惰の徒でもあるぼくでさえも、子供の寝顔を見ると、正気に返らざるを得なかった。ぼくも何とか一人前の、人の親を演じて見せたのだった。 どうにか2年の修行期間を終え、フリーランスの身分として、世に飛び出た。「人生は取り敢えず」との父の金言だけが頼りだった。 ぼくを心配してくれた先輩たちが、何かと手を差し伸べてくれたことは終生忘れ得ぬ恩義となった。ただ、ぼくがかつて在籍し、お世話になった出版社への挨拶は欠かさなかったが、仕事の依頼はしていない。一丁前に、気が引けたからだろう。それが一通りの仁義であろうとも考えた。 そうこうしながら、ぼくは、危うい足取りながらも、巣穴からおずおずと這い出たのだった。その時の不安と恐怖心は今以て忘れることができない。一人で狩りをし、食っていかなければならぬ未知の分野に身を投げ出したからだった。 自身のことはさて置き(最後に述べるが)、実際に見聞きした「撮影の恐怖」に尻込みし、行方知らずとなった人たちについてお話しする。 「もうそろそろA君(経験豊富なアシスタント)に、簡単な撮影をさせてみるか」と師匠がぼくに訊ねてきた。ぼくは答える身分にないので返答に窮したが、師匠も自身の意志決定を再確認するためなのだろうと解釈した。 翌日、撮影を任されたA君はいつまで経っても待ち合わせ場所に現れず、時間ばかりが過ぎていく。今のように携帯電話がまだ一般的ではなかった頃で、彼の下宿先に電話をしても埒が明かず、以降彼は数日行方が分からなかった。撮影の恐怖に戦き、敵前逃亡を図ったのだ。その気持は痛いほど察知できる。だが、何のためにあの苦しくも辛い徒弟制度をくぐり抜けてきたのだろうかと、ぼくに同情心は湧かなかった。その後の彼がどうしているのか、誰も知らない。 多忙だった師匠は、自身のスタジオにもう一人カメラマンを必要としていた。そこで、大手広告代理店の写真部に勤務する一人のカメラマンを誘い入れ、彼は我々の仲間に加わった。鳴り物入りでやってきた彼だが、見るからに線が細く、神経質な人柄に見えた。社カメ(会社の写真部などのカメラマン)ではなく、やがてフリーランスになりたいがために、師匠のもとでもう一度勉強したいとのことだった。 師匠の訓練と定法を受け、その後クライアントの見守るなか、撮影が始まったのだが、ライティングを終え、いざシャッターを切る時に、レリーズを持つ手がぶるぶると震え、にっちもさっちも行かない状況となってしまった。社カメとして、ある程度の経験と場数を踏んできたはずなのに、彼は恐怖に囚われ、震えが止まらなくなったのだ。緊張の余り、自律神経のバランスを欠いてしまったのだろう。一種の神経発作なので、急遽アシスタントのぼくがすまし顔で、代わりにシャッターを切った。ぼくはこんな時、何故か面の皮が厚くなるようだ。何食わぬ顔をして見せる自分が癪の種だ。これをして、厚貌深情(こうぼうしんじょう。容貌を厚く飾って、心の動きを深く隠しているという意)というらしい。だが、この場をクライアントの前で取り繕うにはそうする他にどんな手があるというのだ。 気の毒な彼はこれが一因となり師匠のもとを去り、その後の消息は分からない。 1話でまとめるつもりでいたのだが、下手な文章のせいで、自身のことは次号に持ち越しとなってしまった。厚貌深情なんていっている場合じゃないわ。ったぁ〜く。 https://www.amatias.com/bbs/30/710.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF16mm F2.8 STM。 石川県金沢市。 ★「01金沢市」 金沢市には、どういうわけか、平行・垂直を欠いた家が多く見受けられた。建物が古いからなのか、震災のせいなのか、はたまた、そのような立て付けが好まれるからなのだろうか? 絞りf8.0、1/60秒、ISO 125、露出補正-0.67。 ★「02金沢市」 浅野川にかかる中の橋。異様な空模様が面白く、何となく撮ってしまった。 絞りf9.0、1/250秒、ISO 100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/10/04(金) |
第709回:良寛さんの教え |
かつて出版社で14年間編集者として従事したことのあるぼくは、執筆者の原稿を校正したり、手直しをすることも仕事の重要な一部だった。滞りなくそれを遂行したと思い込んでいるが、自分の原稿となるとさっぱりその経験が活かせず、どうにもきまりが悪い。自分の原稿を客観視する能力が奪われてしまうからだろう。思い込みというものは、目を曇らせ、判断力を剥(へず)る。
「この名詞は、この動詞で受けて良いのだろうか」とか「普段、何気なく使用しているこの言葉は誤用ではないのか」、はたまた「この漢字で正しいのか」などなど辞書を片手に右往左往といったところだ。時には、ネットのお世話になることもある。それでいて、この有り様だ。この鬱屈した気分を晴らすには、ただひたすら安易な自画自賛に走ることと覚えたり。 「自分のつくったものに対しては、誰だってそんなものさ。仕方ないよ」と慰めてはみるものの、個人のブログの類であればそれで済まされるが、拙稿は公的機関からの依頼を受けてのものなので、そうはいっておれない。 内容はともかくも(開き直る余地が残されている)、日本語の基本的な過ちはその限りでない。なまじっか、編集者であったがための因果ともいうべきものか。その災いが、拙稿の難を成しているように思えてならない。宜(うべ)なるかな、である。 子供時分に、亡父にいわれたことをよく思い出す。「坊主、字は下手でも良いから、丁寧に書け。字は自分の気持ちを相手に伝えるものなのだから、大切に扱え。丁寧を繰り返しているうちに、ちゃんとした字が書けるようになるものさ」といっていた。「ちゃんとした字」とは如何なるものなのかをぼくは分からなかったし、今も感覚的にしか分からない。そして、「良い字」と「悪筆」は、紙一重なのではなかろうかと思う。そして、「字」も「写真」も「文章」も、人なり、である。これは、間違いのないところだ。 父の仰せに従い、「文章」も丁寧に。下品な言葉遣いはなるべく控えようと心がけているのだが、地がこれなので、覆いようがない。 「毛筆遣い」(こんな言葉があるかどうか分からないが、多分ないだろう)に長けていると思い込んでいる人の字を、ぼくは良い字と感じたことは一度もない。芳名帳などに記されたそれを見て、いつもつくづくそう感じる。ひとり悦に入り、得意気にほくそ笑んでいるように見受けられる。「字」がそう語っているように思えて仕方ない。それに反して、拙く、たどたどしくも、毛筆や筆ペンで丁寧に書かれた字に、好感を抱くことのほうが遙かに多い。 身内についていうのはおかしなことだが、子供の目にも、父の字は、達筆の域を越え、見事なものだった。その思いは大人になってからも変わらない。だが、父にいわせると、「親父の(祖父は、ぼくが生まれた時には既に亡くなっていた)の字はまったく見事なものだった。わしゃ、とても敵わん」とよくいっていた。残念ながら、祖父の書は戦争ですべて焼失し、ぼくは目にしたことがない。その埋め合わせとして、差し当たりぼくは、「良寛さん」の書を至上のものとしている。あれほど美しく、見事な書を、生涯見ることはないだろう。 因みに、40数年前、良寛さんの生地である新潟県の出雲崎町の民宿に3泊し、良寛和尚を詣でたことがある。 拙稿を書くにあたり、「文章も字も同じこと」と言い聞かせ、いつも父の言葉を反芻しながら、心するようにしている。とはいえ、ぼくはこの道の専門家ではないので(と、すぐに逃げを打つ)、思うこと、感じていることの半分も書くことができず、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感甚だしく、やはりこれも癌発症の一因かも知れない。 写真屋が、世情の鬱憤を晴らすために、文章などに色気を出してはいけないのでは、と最近考えるようになった。写真集やエッセイ集に駄文を連ねてきたけれど、この良き発見は、「よもやま話」のお陰かも知れない。しかし、寸足らずの文章を自ら肯定するのも考えものだ。 ものの本(書名は忘却)によれば、良寛さんの書は、「精神の内部にわき起こる意気や心情を吐露するもの」であり、今までの書法では自身の実相を表現できないと悟ったとの覚えがある。良寛さんはまた、「上手に見せようとするのではなく、ひとつの “点” や “線” の僅かなずれが文字の生命を奪い取る」ことを鋭敏に感知し、研鑽を積み、独自の書法を編み出したと記されていた。 この教えは非常に含蓄に富んだものだ。良寛さんいうところの “点” や “線” を、そっくりそのまま写真に転用してもいい。撮影や補整の、ほんの僅かな差を他人に知られる(感じさせる)必要などまったくなく、自分が感じ取れればそれで良いのである。要は、細やかな神経に支えられ、それを他者のためでなく、自身のために実践できる能力を得ることが肝要であろう。 余談だが、ぼくのよく知るデザイナー諸氏は、図版や写真、文字の位置や大きさをミリ単位で動かしながら、何時間もパソコンと格闘していた。ぼくはそれを横目にしながら、「それ、ちゃう(違う)やろ」とか「そのトリミング(コマーシャル写真は、トリミングを前提に撮影する)、あかんやろ」と茶々を入れることに勤しんでいた。まったく、いい迷惑だ。だからぼくは煙たがられる。ぼくの来社を知ると、モニターの向きを変え、見られぬようにした気弱なデザイナーもいたくらいだ。 それはさておき、回り道をしながらも、今回ぼくがお伝えしたかったことは 「きれいな字」と「良い字」は異なる次元にあるということ。同次元に捉える人が大半であろうとぼくは察しているが、これはぼくが以前から述べてきた「きれいな写真と良い写真はまったくの別物」との考えと同じである。この違いは、以前に何度か述べたことがあるので繰り返さないが、誰が見ても「いいね!」を嫌ったところから、良寛さんの書は始まり、誠の美を得たのだった。 俗人たるぼくが、鬱勃たる熱に付き従うよう仕向けるには、身を滅ぼしながら、病膏肓(やまいこうこう)に入るしかないのかな。 https://www.amatias.com/bbs/30/709.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 石川県金沢市。 ★「01金沢市」 曇天下、何気ない光景を何気なく撮ってみたかった。曇天の空は白飛びしやすいので、ヒストグラムを眺めながら、露出補正を決めた。 絞りf11、1/200秒、ISO 125、露出補正-1.00。 ★「02金沢市」 カラオケ・バー。真ん中にあるギターにドアの取っ手が見える。これはモノクロに調色を施したが、原画は鮮やかな色彩。 絞りf11、1/100秒、ISO 500、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/09/27(金) |
第708回:はみ出し者 |
「700回も続けていると、もう書くことに苦労するんだよねぇ。何事にもネタには限りというものがあるんやから。毎週、頭を抱えてしまうんだ」と、先日電話をくれた友人に愚痴をこぼしたところ、「君はなんだかんだいいながら、毎週あの手この手を駆使して捻り出してくるから、平気だよ。毎回そんなことをいいながら、読者をしっかり煙に巻いているじゃないか。今回だってちゃんと何かが出てくるよ。クックック」と、無責任に言い放たれた。人の気も知らず、まったくいい気なものだ。役に立たぬ友人は持つべきでない。
「『写真よもやま話』の “写真” という言葉を取り除いてくれれば、あまり苦労はせんのよ。しかし、他に専門分野を持たないぼくから “写真” を取り上げたら、取り柄のない執拗・頑固一点張りのジジィと化してしまうしなぁ。実は写真にも、大した取り柄なんぞないし」と、本音を吐きつつ、何としてでも愚痴ってみたいぼく。そんな自分が悲しくて、身悶えするくらいだ。今、ぬたくっている最中である。 「最近、身近に起こったことについて触れたら、まだまだ出てくるもんだって。平気平気」と友人は、何事にもおめでたいぼくに、おめでたい手助けをするんだか、困窮に追い打ちをかけるんだか分からぬようなことを次々と並べ立ててくる。この手合いが世に憚ると碌なことはないというのが、通り相場だ。 弱っているぼくを尻目に、「他人の不幸は密の味」を愉しんでいる。このような人間は、悪因悪果であり、必ずや怨霊の祟りを受けることになる。ぼくはそれを切に願う。 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」(親鸞聖人の『歎異抄』。因みに、この書はぼくの座右の銘)では、この場合困るのである。 「果報は寝て待て」というが、ぼくはこの言葉を安易に信じ、原稿前夜には「なるようになるものさ」と高を括りながら、何も考えることなく安眠し、翌日パソコンを前に、のたうつのがすっかり常態化してしまった。 今回は悔しいかな、友人の仰せに従って、最近身近に体験したことを記そうと思う。 この2週間に、4件ばかり知人の主宰するグループ写真展を訪れた。いずれもアマチュアの写真展だが、良い写真に巡り会えて、猛暑のなかを出かけた甲斐があった。いずれのグループも指導者の色がかなり反映されたものだったと回想しているが、どのグループにも必ず一人くらいは “はみ出し者” (ぼくが勝手にそう決めつけているだけなのだが)がいるという事実がとても愉快だった。 ぼく自身も指導者モドキとして、強いられながら同じようなことをもう20年以上させられている(受動態であることに注視していただきたい)のだが、我が倶楽部は紛うことなく全員が “はみ出し者” である。勝手三昧の彼ら故に、ぼくは写真の何かを伝える隙がなく、ひたすらに羊飼いのような役目を担うばかり。 余談はさておき、4件のグループ展を拝見し、ここでいえることは、 “はみ出し者” が、判で押したように、クオリティの面で他を凌駕しているという事実だった。写真も、良い意味で個性的だった。 別のいい方をすれば、フォトジェニックな眼を持ち、かつ被写体に対してどの様なイメージを抱き、それを自身のものとして印画紙上に再現しようとの熱意を持っているかが窺えた。作品からその熱が確実に伝わってきた。 そして、被写体との距離感、つまり自身の立ち位置(足の位置)を的確に定めることができている。それが、作品のクオリティに一役も二役も買っていた。 もちろん、 “はみ出し者” たちが指導者の意向に添っていないということではなく、「今のままで自分は良いのだろうか? より上の段階に達するために、自分はどうあるべきか?」を真摯に考えているということが、作品から垣間見えた。 “はみ出し者” には “はみ出し者” たる所以があるのだろう。 今までぼくは、その “はみ出し者” たちの誰一人として会話をしたことがなかったのだが(いつも指導者に話しかけられるのでその余地がない)、今回その一人(以下Aさん)と話をする機会を得た。 “はみ出し者” だけあって、Aさんの作品はオリジナリティに溢れ、掛け値なしに素晴らしいものだった。上記した “はみ出し者” のポジティブな面を、Aさんは印画紙上に具現していた。撮影も仕上げ(補整)も、欠点らしきものが見られない。「この方は根っから写真が好きで、向上心に溢れている」ことが、しっかり見て取れた。謙虚で素直であることも、Aさんの語り口や内容から、直に伝わってきて、ぼくは然もありなんと感じた。ここにその作品群をお見せできないのが残念だ。 誤解を招くといけないので申し上げておかなければならないのだが、 “はみ出し者” である人のすべてがそうであるということではない。グループの指導者として、困ることのほうが多いのは事実。わからんちんの人たちとぼくは20年以上も、仁義なき戦いを強いられてきた。ストレスのはけ口がなく、2度も癌の宣告をされたのは必然ともいえる。 きっと、我が倶楽部のひねくれの面々は、「 “はみ出し者” ばかりだというのであれば、あたしたちは “はみ出し者” とはならないね」と、憎まれ口を叩くことくらい、ぼくはすでにお見通しなのだが、生真面目なぼくは、屁理屈に正論で挑もうとするから、疫病を患ってしまうのだ。それに今気がついたというお粗末。屁理屈には屁理屈で返す技を見出さなければならないと思うのだが、それに邁進すると、写真も歪んだものになってしまうような気がして、躊躇せざるを得ない。生きるって、写真って、ほんに難しいもんだ。 https://www.amatias.com/bbs/30/708.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 石川県金沢市。 ★「01金沢市」 怪しげな飲み屋街に、怪しい光彩を放つ店が忽然と現れた。昭和の香り紛々たる佇まいに、「撮っても、きっと後悔する」と分かりきっていながら、思わずシャッターを押してしまった。結果もそれなりのものだ。人様に写真について語る資格などないわ。 絞りf8.0、1/30秒、ISO 800、露出補正-1.33。 ★「02金沢市」 今居る場所を記録するためだけに撮った写真。そろそろ金沢写真もネタ切れか。 絞りf7.1、1/60秒、ISO 640、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/09/20(金) |
第707回:お喋りの功罪 |
前回、ぼくの地元である埼玉県にて催される大掛かりな展覧会(埼玉県ばかりでなく日本全国、どこの都道府県でも催されているようだ)について思うところを、ぼくとしては極めて控え目に述べたつもりだったが、複数の読者諸兄からかなり具体的で内容の濃いメールをいただいた。ありがたいことに、いずれも賛同の意を示していただき、異口同音に「我が意を得たり」とか「快哉を叫んだ」という類のものだった。
メールをいただいた方のなかには、入選を果たしたり、賞をいただいたという方や、以前は関係者の一人だったという方もおられた。お陰様で、ぼくの指摘もあながち的外れではないことを確認できた。今後、この展覧会にぼくの意見が考慮されたり、反映されるなどとは微塵も思っていないが、一応のご報告として、ここにお知らせしておきたい。 本音をいうと、ぼくは読者諸兄の反応にかなり気を良くし、今回この催し物について追い打ちとなるような事柄について更に歩を進めようかとも一瞬考えたのだが、部外者のいうことなど考慮されるはずもなく、虚しさが増すだけなので、勇気を持って止めることとした。 前回、控え目な具申をした理由として、「写真だけで40年間飯を食わせてもらった者の責務であろうと考えている」と述べた。だが、きっと「糠に釘」であることは明々白々なので、徒事(いたずらごと)にこれ以上かまける必要はないというのがぼくの心境。 話を変えて、ぼくは「写真屋はお喋りであってはならない」と冗談交じりに述べることがある。写真屋仲間(プロ仲間)を見渡すと、押し並べてみなさんあれやこれやと本当によく喋る。一杯の珈琲で何時間も話に興ずることがしばしばある。写真の話はほとんどすることがないが、十人十色とはいえ、どこか似たような血を持ち合わせていることを互いに感じているからであろうと思う。どこかに同質の血を嗅ぎ取るのだ。概ね、写真屋はそのような嗅覚に優れている人が多い。 写真論を闘わせることは滅多にないが、しかし機材の話題(主にカメラやレンズ)は時たま話題に出る。明日の食い扶持(ぶち)をより合理的かつクオリティを得ようとの気持が強いからだと思われる。そんな時、ぼくはもっぱら聞き役に回ることが多い。「へぇ〜、そんなものなのかねぇ」と他人事(ひとごと)のような面持ちでその仰せを承るのだが、ぼくは今や機材に頓着することがほとんどなくなってしまった。ついでながら申し上げておくと、写真屋仲間といっても、もう同輩はほとんどおらず、非常に残念ながら、ぼくはすでに最年長者となってしまった。その伝でいえば、同窓会は何故か安心感がある。 以前のぼくがかなり狂信的なテスト魔であることを彼らはよく知っているので、「A社のBレンズはどう思う?」と問われるのだが、生憎ながら、昨今のぼくは、いずれにも必要以上の興味を示すことがなくなってしまった。自身にとって最低限の機能やクオリティを確保できれば、もうそれで十分だという質素で理知的な人間に変貌してしまったからだ。「写真のクオリティは、機器に依拠しない」との持論を踏襲できるようになった。それはきっと、道楽の賜物であろうと思っている。 第一、新たに登場した機材を逐一テストする労力の価値を見出せないというのが本心である。YouTuberでもあるまいしね。 万が一、ぼくがYouTuber であったにしろ、カメラやレンズの性能・特質を丹念に調べ、責任ある態度を示そうとするのであれば、テスト期間に少なくとも3ヶ月を要するだろう。したがって、今の情報過多の世界には追いついていけず、メーカーが次から次へと製品化したもののテスト結果について、公に発表する度胸や見識を、ぼくは到底持ち合わせていないというのが本音である。 その労力を撮影に割り当てるほうが、ぼくにとってはずっと賢明であると考えている。若い頃に、テストばかり繰り返し(そのために身上を潰しかけた)、このことに気がつかなかったぼくは、若気の至りというか抜け作でもあった。唯一の利点は、ひとつの物の性質や性能を熟知し、それを自分のものにしようとすれば、徹底したテストが必要不可欠であるということだ。それなくして、他人に「物の価値」について語ることは憚るべきとの信念に至っている。 「写真屋はお喋りであってはならない」といっておきながら、よくもまぁ700回以上も性懲りなくお喋りをしているじゃないかと揶揄する向きもあろうが、これはお喋りではなく、独白とか泥を吐くと同義である。なかには「 “毒を吐く” ではないのか?」と詰め寄る友人もいるにはいるのだが、ここは相手をせずにおく。いわせておけばよろしい。 「ぼくの写真は、写真だけでは自分の主義主張がままならず、それがなかなか適わないので、言葉で補わざるを得ない。それだけ写真が寸足らずなんだな」と、自身を卑下する振りをしながら、逃げを打つ。そんな時、ぼくは古典落語の演目である『蒟蒻問答』の落ちよろしく、心うちで、必ず「あかんべえ」をしつつ、舌を精一杯出す。どちらかといえば、気分爽快といったところか。これをして、世間では悪態をつくというらしい。 https://www.amatias.com/bbs/30/707.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF16mm F2.8 STM。 石川県金沢市。 ★「01金沢市」 ボロボロになったよろい戸と植物の葉がスポットライトを当てられたように、侘しく佇んでいた。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 320、露出補正-0.33。 ★「02金沢市」 時代劇のワンシーンを思わせるような光景。破れた提灯の色褪せた赤も面白く、そこだけをカラーにしようとも思ったのだが、ちょっとあざといというか洒落臭いような気がしたので、いっそのことモノクロに。 絞りf5.6、1/100秒、ISO 100、露出補正-2.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/09/13(金) |
第706回:やっと撮れた1枚 |
「作品は鏡」との題目を前回掲げたが、この題目に痛感した思い出は20年ほど前、我が倶楽部がグループ展を催した時に遡る。ぼくが日頃お世話になっていた広告代理店のベテランディレクターが写真展に来場してくれた。彼はこの会社の社長でもある一方、様々な広告や雑誌、書籍の企画に秀でた能力を有する人でもあった。ぼくが、仕事の写真でなく、プライベートではどのような写真を撮るのか是非観たいとのことだったので、行きがかり上、グループ展の案内状を差し上げた。
当時、ぼくは彼の依頼により、大手電機メーカーの総合カタログや駅貼り用のポスター、ムック本など広範囲にわたっての仕事を任せられていたこともあって、ぼくの私的な写真にも興味を引かれたとのことだった。 コマーシャル写真の撮影現場でも的確な指示やイメージを与えてくれ、ぼくは大いに助けられたものだ。また、彼はデザイン感覚にも秀で、優秀なデザイナーを何人も抱えていた。 当時、我が倶楽部には10名ほどの人たちが在籍していたが、会場にやって来た彼は、一人ひとりの作品をつぶさに賞翫(しょうがん)しながら、会ったこともない作者の「人となり」を、時には「職種」まで見事に言い当てたのである。決して、冗談交じりではなかった。 ぼくは、彼が温厚で丁寧な口調で語る人物評を聞き、横でクスクス笑っていたが、メンバーは目を丸くしつつ、呆気に取られたような顔をしていた。その様子は20年を経た今でも、ぼくの脳裏に深く焼き付いている。作者の「人となり」をズバッと言い当てられたことを不思議がるメンバーは、霊能者に出会ったかのような思いだったと後に語っていた。戦きながらも今までに味わったことのない感覚に誘(いざな)われたようでもあった。ぼくはそれを当然のこととして受け止めていたが、メンバーは最後まで狐につままれたような気分だったのだろう。 写真は、いうなれば二次元の抽象的な美の世界だが、作者の「人となり」を的確に表出するので、まったく油断がならない。写真は、人品を取り繕うことはできないのであるからして、徒(あだ)や疎かにしてはならじというところだ。ぼくのような者でさえ、多くの写真人を見てきて、作品と「人となり」は相反するところがなく、一致するものだとの確信を得ているのだから。 彼の会社には多くのカメラマンが出入りしていたが、彼は写真を自身の好みからではなく、あくまでクオリティを基準に評価を推し測ることのできる優れた眼識を備えていた。写真やイラストを連日朝な夕なに吟味するのが彼の仕事の一部でもあり、作品に対する慧眼の士となるのは当然の結論に帰結する。それが作者の「人となり」を知り得る糧となったことは自明の理であろう。 余談だが、かつて拙稿で、県内最大の公的写真展を見ての雑感らしきものを述べたことがある。ぼくはこの展覧会のまったくの部外者であり、門外漢であり、したがって、おかしなしがらみもないので、忌憚のない文言を並べた。見返してみたら、それは2011/06/03日の第54回に「ですます調」で述べているが、当時よりぼくの考えはまったく変わっていない。 展覧会の関係者たちに、身内の宴会などではなく、上記したディレクターのような審美眼を持った人(特に異なる分野のエキスパートなど)を選考者にしないと、いつまで経っても内輪のお祭り騒ぎに過ぎず、文化や芸術の向上に寄与できるものではない。大きなお世話と知りつつそう具申するのも、写真だけで40年間飯を食わせてもらった者の責務であろうと考えている。 さて、ぼくは6月に行った金沢の写真を未練がましくも掲載中だが(実はこの猛暑で、撮影に出る意欲が殺がれている)、2泊3日の金沢滞在で撮影枚数は300枚にも満たない。ぼくにしてはえらく少ないほうだ。たくさん撮れば良いというものではもちろんないが、少ない在庫のなかから掲載写真を選び出すのに四苦八苦というところ。 今回掲載の「01金沢」は、この旅のベストショットに数えても良いのでは、と思えるものだ。大方の人たちに、「この写真のどこが?」と問われることは十分に想定済みだが、ぼくは人目につかぬようにひとり「ぐふふ」とほくそ笑んでいる。 このような表現(被写体選びも含めて)が、今後時折できるようになれば、ぼくの見通しも多少は明るく、希望が持てるだろう。自分の写真について、他人に蘊蓄(うんちく)を傾けるのは、不粋で玄妙に著しく反することなので、これ以上は控える。本当は、少しばかり言いたくて仕方ないのだが、それでは自分が廃(すた)ることになるので、心を鬼にして、止めておく。 「02金沢市」。たわいもない写真なのだが、半世紀ほど前、初めて飲んだ黒ビール(ドライスタウト)が、アイルランド産のギネス(Guinness)だった。直輸入ものだったが、ぼくはコクのあるこのビールに感動し、長年の大ファンだった。何時の頃からか味が変化したように思え、「あの馥郁(ふくいく)たる味わい」が失われたのが残念でならない。それはまるで、硬調フィルムを軟調に仕上げるための超希釈現像液のようだ。「こんなギネスは要らんわ」という悲しい現実を突きつけられている。ぼくの常套句、「日本酒がフルーティ? ジューシィ? 冗談じゃないよ! 日本酒をナメたらあかんよ!」。 そんな思いもあって、この看板に目を奪われ、思わずシャッターを切ってしまった。色合いだけでも、コクのあるギネスを取り返そうとの思いで。 https://www.amatias.com/bbs/30/706.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 石川県金沢市。 ★「01金沢市」 昨年冬に訪れ、同じものを撮ったと優越感に浸る妙齢の「狼女史」(第694回〜701回に登場)によると、どうやらここは廃屋のようだ。この不気味なカーテンの色と形状は、昨年冬とまったく同じとのこと。 絞りf8.0、1/100秒、ISO 250、露出補正-0.67。 ★「02金沢市」 この写真に存在する赤は、まったく軽薄の誹りを免れないような色調だった。この写真を撮るからには、年相応の赤にしなければ、とても発表できるものではない。「色相彩度」、「トーンカーブ」、「選択範囲」、「テクスチュア」を駆使し、念入りに仕上げた。 絞りf10.0、1/200秒、ISO 2000、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/09/06(金) |
第705回:作品は鏡 |
前号にて、補整はできるだけ画質劣化を極小に抑えるtifで行い、jpegは忌避するようにと述べた。改めてその実際をパソコン上で再確認してみたが、高圧縮したjpeg画像とtif画像の差は歴然としており、その恐さに、今更ながら背筋が凍った。
ただし、低圧縮(Photoshopなら、「画質10」以上の低圧縮データ)でのインクジェットプリンターによるプリント時に、少なくともA3ノビ〜A2程度までのプリントサイズであれば、tif画像のそれと見分けがつかないというのが、ぼくの結論である。それ以上の大伸ばしが行われる機会は通常非常に少ないと思われるので、jpegの最良画質(最低圧縮率)で良いように思う。 仕事では、印刷が前提なので、EPS形式(Adobe社が開発した形式で、拡張子は「.eps」。Encapsulated Postscriptの略で、高品質な印刷が可能だが、ファイルサイズはtifの2倍近くとなる)を指定されることが多い。印刷目的でない場合は、この限りでない。 前号の補足となるが、プリセットを調整し、自身独自のプリセットを作成することはもちろん可能だが、ぼくの経験からすれば、それはあまり有効な手段とはならない。「プリセットの保存」は、確かに魅惑的な文言であり、「しめしめ」と思わせる機能でもあるのだが、他の画像に当てはめて、ドンピシャリという経験をしたことは未だかつて一度もない。ドンピシャリどころか、まるでダメということばかり。世の中、上手くいかないものだと痛感する。 同条件撮影で多くの画像を扱う場合には(いわゆる「バッチ処理」など)、確かに重宝この上ない機能なのだが(仕事の写真、特にポートレート撮影には多用するが)、私的な写真で、自作のプリセットを使い、湧き上がるような喜びに接したことはかつて一度もない。残念ながら、それを使い、打ち震えるようなありがたさに遭遇した試しが1度もないのである。プリセットは確かに瞬発力に富むものだが、それに頼ると地道で丁寧な作業を妨げる要素を含んでいる。横着は、何事に於いても良い結果をもたらさない。 自作、他作のプリセットに関わらず、その御利益に与れずにいる時、「プリセットは罪なもの、ぼくは食べるものも喉を通らず、糸のように痩せ細り、嗚呼、自分は不幸な男、哀れな人間、とにっこり笑ったのがこの世の別れ」と、精一杯の嘆き節を、目に涙を浮かべながら放歌高吟。 しかし、このような身悶えこそ良薬であることに気づく時、幸が舞い降りてくるものだ。我田引水の達人であるぼくはそれを固く信じている。プリセットの功罪はこのあたりで止めにしよう。補足というには長すぎるし。 描いたイメージを印画紙上に再現することなど果たして可能なのであろうか、と最近つとに考える。60数年も、何かを求めて写真を撮ってきたにも関わらず、この問いかけの複雑さに、自分自身が病んでしまいそうだ。と同時に辟易としてしまう。 写真ばかりでなく、あらゆる創作分野を見渡し、同じようなことがいえるのではないかと直感する。様々なことを犠牲にしつつも、無理無体なことに挑むというのは人間特有の阿呆さ加減なのだろう。空想と現実の狭間を漂いながら、思い悩むのは、一種の自己陶酔であり、それがないと人間というものは生きていけない悲しい生物なのだろう。 昨今、ぼくは自分の作品にほとほと飽きているので、もうそろそろ博打に出てもいいのではないかと思うことがある。残りの時間を考えれば、その囁きに従っても良いのではないかと思うのだが、年寄りのくせに、ぼくはその年寄りであることに慣れないでいる。慣れないことの原因が解決できないので、弱り果てている。これはとても不幸なことだ。 強いていうなら、自我が強すぎるので、年を取ったことが自覚できない、もしくは自覚したくないかのどちらかなのだろう。従って、たとえば人様から、自分がこの歳になっても、「あなたの写真は誰かに似ているね」などといわれたりすると、ぼくは途端に面目を失う。喩えそれがぼくの尊敬する写真家のそれであっても、やはり滅入る。 「写真の様相は、年相応であれ。そうでなくてはいけない」とぼくはいつも我が倶楽部の人たちに伝えているのだが、ではどうすれば年相応の写真が撮れるのか。あるいは、年相応の写真とはどのようなものかの具象がなかなか示せずにいる。ぼくは無理矢理答を捻り出さないといけない立場なので、抽象的な話に終始し、相手を煙に巻くことに専心しなければならない。 「何十年か生きてきて、そこでの体験などによって形作られた自分の姿や佇まい、思想や哲学を知ること。つまり己を知ること。作品は己の姿を映す鏡でなくてはならない。自分の姿を、写真という媒体を通じて表現することが、創造の面白さであり、醍醐味でもある」てなことを講釈師のような口調で、ぼくは知ったか振りをし、まるで身近に見てきたかのような嘘を平気で吐(つ)くのである。 しかし、自分が何者であるかを語る(表現する)には、基礎を飽くほど繰り返し、その痛みに耐えることのできる強い精神を育まないと成せる業ではないというのがぼくの結論めいた真理でもある。 やっぱり、年寄りに慣れちゃだめということなんでしょうかね。気張って、意気がって、まだまだ、もっともっと、恥を晒さないとね。 https://www.amatias.com/bbs/30/705.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 石川県金沢市。 ★「01金沢市」 親子2代にわたって引き継がれてきた地元の写真屋さん。年中無休だそうで、きっと年寄りに慣れていないからこそ続けてこられたのだろう。「エライ!」。カレーライスを頬張りながら、ガラス越しに1枚いただく。 絞りf9.0、1/60秒、ISO 100、露出補正-0.67。 ★「02金沢市」 昭和の香り紛々たる哀愁ある建物に、書籍、文具、カラオケなどが同居している模様。陽の傾きかけた頃、シンパシーに煽られて。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 200、露出補正ノーマル。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/08/30(金) |
第704回:補整は絵筆 |
なんとか及第点をやれるかなという1カットを見つけると、その補整に(「加工」ではない。ぼくの、「補整」と「加工」についての考え方は、第333回に述べている)随分と時間のかかることがある。及第点であるはずのものが、実は独りよがりであることに気づくのもこの時だ。そんな時、曰く言い難いほどの虚無感に襲われる。
何時間も、あるいは何十時間も、パソコンの前にかじりつき、白髪風体の老体に鞭打ちながら、1枚の取るに足りぬ写真目がけて神経をすり減らし、多くの時間と体力を浪費したことに気づき、ここで悄然とするのである。燃費の悪い自分に愛想を尽かしながらも、拙い作品であることを見抜けなかったことにやたら腹を立てたりもする。思い込みというものは、時に残酷なものだ。他人の作品であれば、すぐに良否を判断するものを、自分のものとなると、ぼくはからっきし、てんで能力がなく、嘆かわしいったらありゃしない。 撮影したRawデータを、現像ソフトで丹念に検討する。撮影時に描いたイメージを思い浮かべながら選び出したものを、Raw現像で出来る限りの補整をし、16bitのtif(正式にはTIFF。拡張子は「.tif」。可逆圧縮で、ファイルサイズは大きくなるが、高画質)画像に変換する。ここでのぼくの心得は、次のソフトであるPhotoshopに渡す前に、Raw現像時に可能な限りの補整をしておくことだ。これは、画質の劣化を防ぐひとつの手立てである。 その後、Photoshopにtif画像を渡すのだが、そのような手順を踏む読者の方々には、Raw現像時や画像ソフトでは、Jpeg画像は扱わないことをお薦めする。Jpeg画像は圧縮されたものなので(非可逆圧縮。画質を落としてファイルサイズを小さくする)、保存を繰り返したりすると画質がどんどん劣化してしまうからだ。 Jpegとtif画像を拡大し、その実際を、2016年2月12日、「第285回:JPEGとTIFF」と題して掲載しており、興味のある方はご参照のほどを。 Photoshopに渡した画像をどのように補整するかを見学させて欲しいとの要望が過去に何度かあった。我が倶楽部に在籍していた女子学生からも嘱望されたことがあるが、ぼくは丁重にお断りした記憶がある。 決して出し惜しみをしているのではなく、自分の部屋の書棚に並んだ書籍を人様に見られるのが恥ずかしいというのが唯一の理由である。残念ながら、ポルノや怪しげなものの類はないのだが。 ぼくは、自分の書籍を背景に、得々と語る人々の映像を見ると、その勇気に恐れを成す。時には、読みもしない全集などを何の衒(てら)いもなく、あたかもアクセサリーのように陳列している人さえいる。ぼくには到底できぬ離れ業である。自身の蔵書や愛読書をわざわざ人目に晒すものではないというのが、ぼくの(高が)知れた美学である。「自分はこの程度」との恥を晒すのは、写真だけで十分だ。 書籍についてのこととなると、とどまるところを知らず、話がどんどん逸れていくので、ここは気を取り直し、当初述べるつもりでいたことに立ち戻ろう。 PhotoshopでRaw現像時に手の届かなかった細部の補整を施すのだが、その作業にあってPhotoshopに対応した各社のプラグイン(plug-in。アプリケーション・プログラムの機能を拡張するために追加する差し替え可能なモジュール。広辞苑)として用意されているプリセットを重用・多用する。その最大の理由は、時間と労力の節約だ。Photoshopで時間と技術を駆使すれば不可能なことではないのだが、イメージ到達へのショートカットとしてこれほどありがたいものはない。 プリセットを使用することにより(もちろん、細部にわたる微調整が可能であることは必須条件。プリセットをそのまま当てはめて、思い通りになることは滅多にない)、手早くイメージを追いかけることが可能となる。プリセットを変えるごとに画像も変化し、その最中思わぬ効果に巡り会い、「これって、けっこういけるじゃん」ということが非常にしばしばある。 街中で、予期せぬ時に仲の良い人とばったり出会い、「お茶でもしようよ」という、あの喜びの心境に似ている。そんな時、撮影時に描いていたイメージが、さらに磨かれたり、豊かになったり、膨れあがったりしたような感覚に襲われる。この発見は、次の撮影に必ず繋がり、大いなる貢献を果たしてくれることがある。「そうか、こういう表現も美しいよね。好ましいよね」という具合である。 また、プリセットをいろいろかき回している時に、かなり大胆不敵かつエキセントリックに変容することがあり、ぼくはそんな時、一瞬ドキッとしながらも、今まで自分の世界に存在しなかったものに出会え、感嘆し、狼の遠吠えと犬の嬉ションを同時にする。理知に欠けるぼくは、すぐにプリセットの罠に掛かってしまうのだ。 そんな時、「いくらなんでも、これはちょっとやり過ぎじゃね?」と感じ取り、戦きながら微調整をしているうちに、ぼくを圧倒したどすの利いた声は影を潜め、知らずのうちに凡庸なものになり果てている。これを「元の木阿弥」というのだそうだ。何のための嬉ションだったのかと興ざめしている寂しそうなぼくが、ぽつねんとパソコンの前に佇んでいる。そんな思いをもう何百回繰り返してきたことか。一度くらいは、勇気を振り絞って、突っ走ってもいいのではないかと、目下思案中。 巷では、「君の写真は、君の説く “中庸の美” をとっくに通り越している」とか、そして口の悪い友人などはぼくの写真を、「まるで毒婦のようだ」と酷いことをいう。それに類似した文言で、ぼくを扱(こ)き下ろすことが多々あるのだから、やはりぼくは、理知というものにはどうやら縁がなさそうである。 https://www.amatias.com/bbs/30/704.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。 石川県金沢市。 ★「01金沢市」 スペイン料理店の入口。空き瓶と壁とドア、シャドウとハイライトのバランス、全体の色合いを考え、どうすればグラフィックに描けるかに思い悩む。 絞りf7.1、1/125秒、ISO 125、露出補正-0.33。 ★「02金沢市」 飲み屋街の外に置かれていた用済みの瓶たち。かなりの間、放置されているのだろう。どこかアンティークな表情が面白く、思わずシャッターを切った。 絞りf8.0、1/200秒、ISO 1250、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |