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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2023/10/13(金)
第663回:大谷資料館(2)最終回
 「大谷資料館」の滞在時間は1時間15分ほどだった。ぼくにとって撮影時間は極めて短時間だったが、写真的な発見という意味で、「大谷資料館」はそれで十分だったと感じている。
 撮影枚数も約150枚と多めだったが、暗所に於ける外光の入射は写真の再現濃度を超えており(写真の再現出来る明暗比は1 : 200。人間の目は1 : 20,000と大きな開きがある)、できるだけハイライトを飛ばさぬような露出補正を心がけ、そのための調整が極めて難しく、何枚か露出を変えて撮る必要があった。ただし、後述するヒストグラム(ファインダーやモニタでヒストグラムの見えるカメラ)は、この厄介な現象を最小限にする有力な武器である。

 ハイライトの露出を優先すれば、シャドウが潰れるが、ここがデジタルの強みで、後の暗室作業で、潰れたと見えるシャドウが再現できる可能性が高い。フィルムはこの逆。ここがデジタルとフィルムの大きな違いだ。
 シャドウを完全に潰さず、ハイライトも飛ばさずという欲張った露出加減のために、段階露光を用いるのが最良の方法。それがカット数の増えた一因でもあった。加え、暗所のために、ファインダーの隅々が見えにくく、アングルを少しずつずらしながら何枚か撮っておく必要に迫られたことも一因だった。

 第一の目的は見学ではなく(興味はあるが)撮影なのだが、同時に、同伴したふたりの手強いご婦人方が撮影に難儀した時のお助けマン、つまり下僕を兼ねての撮影行だった。足元の不案内な暗所で、転びはしないかとぼくはふたりのご婦人方に気を配っていたが、彼女たちは、そんなぼくの心中などまったく意に介さず、「大きなお世話。あ〜たこそ気をつけなさいよ」といわんばかりだった。彼女たちは、我が庭を闊歩するように、大胆不敵に振る舞っていた。「親の心子知らず」である。ぼくの心配など、どこ吹く風といった様子だった。

 入館前に、写真を始めて2年目、新しいカメラ(EOS - R 7)を購入してからまだ間もないこわ〜いご婦人に、カメラの設定などを指示しただけで、彼女は館内では何不自由なく、 “怖い物知らず” を地で行くように、下僕に出る隙を一片も与えず、平然と撮影に挑んでおられた。「ここで借りを作ってしまっては、今後の上下関係に差し障りが出るので、意地でもあたしはあんたなんかにおせ〜てもらわないかんね」との意気込みが、全身から湯気のようにゆらゆらと、時にはめらめらと立ちのぼっていたのである。ぼくはこれ幸いと、自分の撮影に集中できそうなものだが、優男(やさおとこ)のぼくはあれこれと気を揉み、撮影に本腰を入れるとまでは、なかなかいかなかった。気配りのかめやまは、やはり前号に述べたが如く「ホンに心(しん)が疲れる」のだった。

 もう一方(ひとかた)のご婦人は、写真歴20年なのだが、長きにわたり写真に熱心に取り組んでいる振りをするのが実に巧妙で、人の良いぼくなどいつもこの手のだまし討ちに遭っている。なんとか一丁前の写真を撮れるようになってきたかなぁと思いきや、2ヶ月に一度は必ずぼくに「スカタン、ドジ、マヌケ、デベソ」と罵倒されるのだが、やはりこの方も、素知らぬ風を装い、超太っ腹のご婦人だ。彼女の常軌を逸する武勇伝は枚挙に暇(いとま)がないほど膨大なもので、いつかバラしてやろうと思っている。
 前号で登場願った建築家のTさんは、我が倶楽部で一番口が悪いのだが、その彼でさえ、「実際、彼女の腹回りは太いですよねぇ」と陰で囁きながらも、正面切っていう勇気はないらしい。やはり怖いのだ。ぼくと彼は、この伝、同病相憐れむといったところだ。

 ぼくの直感に違わず、ここでの撮影は苦渋・苦悶の連続だった。「自分らしい写真」を撮ることは大変むずかしく思えた。博物館の展示品を撮るに似ている。したがって、新たな発見も、イメージを描くことも、かなり難儀した。
 他の入館者は例外なく、スマホを掲げ、何のためらいもなく、どのような被写体にも雑念なく撮っている様子がありありと見て取れたが、なまじ自在に操れるカメラ持参をしたばかりに、かえって苦労するということもあるようだ。スマホ専門の人たちはどの様に撮るのだろうかと、ぼくは首を傾げっぱなしだった。翌日、首筋の感覚がおかしかったのはこのせいだったのだろう。

 スマホも一眼レフも、比較すると遜色ない出来映えだと公言しているプロのカメラマンもいるが、人の考え方や観点は様々なので、そう思える人は幸運に恵まれている。
 ぼくはとてもじゃないが、そのような考えは持てない。スマホの画質が、一眼レフ(ミラーレス一眼も含む)に太刀打ちできるのであれば、後期高齢者のぼくはとっくにスマホに切り替え、嬉々としているに違いない。だが、スマホの画質には我慢がならないのだ。
 そしてまた、写真に対峙する精神性(姿勢をも含めて)を最重要視するとの考えからも、ぼくは作品づくりにスマホを重視することはない。「写真は撮影機材に依拠しない」と、過去何度か述べたことがあるが、それは精神性あってのことと解釈してもらえばいいと考えている。また、被写界深度が調整できないことはぼくにとって致命的なことでもある。
 アンセル・アダムスの言葉を引用すれば、「ネガは楽譜であり、プリントは演奏である」は言い得て妙だが、音楽はこの双方あってこそ聴衆は感動するのである。

 太っ腹のご婦人は、EOS - R 7を手にしてから1年余りだが、このカメラの、至れり尽くせりの機能のほとんどを勇敢にも破棄(実は使いこなせていない)していると思えるほど、しばしばスカタンぶりを発揮しているのだが、ファインダーに表示することのできるヒストグラム(ぼくのR6 IIにも勿論付属している)を見ながら露出補正をしたと、上目遣いで言い張っておられる。多分、いつものように、その振りをしているのだろう。だが、「大谷資料館」の良い写真を見せてくれたので、多少はカメラの扱いにも慣れてきたように思うが、油断は禁物だ。

 ここでの撮影で気になるのは、暗所のためのISOだ。ぼくにとっては、あまりの高感度になってしまうのだが、最近のカメラと良い画像ソフトを使用すれば、目障りなノイズ(偽色)を大変上手に料理してくれる。特に最新のノイズリダクション(ノイズ軽減)の出来映えは、優れた能力を示してくれるので、高感度使用も抵抗感が薄れてきた。同時に、シャッタスピードも融通が利き、そのことはついでに、大敵であるブレを防ぐという御利益にも与れる。

 暗所撮影に於ける技術的な話は、まだまだ先があるのだが、ここで留めておこう。出し惜しみをするわけではないが、文字数が多くなり過ぎてしまう。そんなことをしたら、読者諸兄はげっぷをしても足らず、ガス溜まりの太っ腹になってしまうだろう。

https://www.amatias.com/bbs/30/663.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
栃木県宇都宮市。

★「01大谷資料館」
3箇所ほど外光の射す場所があるのだが、それは採掘作業者が自分の位置を知るために開けたものだとのこと。光線が内部湿度のため揺らぎ、湯気のように見えた。
絞りf9.0、1/6秒、ISO 640、露出補正-1.33。
★「02大谷資料館」
よくある、ありきたりの表現だ。手ブレの実験。1/2秒でも気合いを入れればブレないことの証明。
絞りf5.0、1/2秒、ISO 400、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/10/06(金)
第662回:大谷資料館(1)
 「暑さ寒さも彼岸まで」とは古人(いにしえびと)からの言い習わしだが、確かにうまいことをいったものだと感心している。振り返れば、ぼくの人生の大半はまったくその通りだった。
 だがここ10年近く、特に今年の、気の狂いそうな尋常でない暑さは、このありがたい慣用句に相反していた。「そうはいくか」とお天道様は嬉しそうに、しかし意地悪く異常気象をもたらし、ぼくらに大きな試練を与えようとした。 “試練” という言葉が適切かどうかは分からないが、この異常な暑さは、生あるものすべてを苦しめたに違いない。武漢コロナが少しばかり平穏をもたらした矢先のことだったので(異論はあるだろうが)、世間の耳目はもっぱらこの異常気象に引っ張られた。

 だが、彼岸から約10日遅れで、日本人古来の四季に対する繊細で鋭敏な感覚によるこの慣用句が、どうにか約束を反故にせず、取り付けてくれた。特に暑さに弱いぼくには嬉しい限りだ。この4,5日はエアコンなしに過ごせる心地良さを味わっている。
 過ごしやすくなったことにより、謳い文句である「撮影に出かけたいけれど、この猛暑では心身共に障害を来してしまいそうなので、今しばらく野外での撮影は控える」との大義名分を失ってしまった。ぼくは、身の置きどころのないところに追いやられるような感覚を持ち始めた。
 愚図で一文不知、しかもなまくらなぼくには、どうにも都合の悪い季節到来である。皮肉を込めていうのだが、ありがたいことに、良心のお咎めを受ける日々が来年の夏まで続きそうである。これを “ありがた迷惑” と、日本語ではいうらしい。反面、 “おためごかし” ともいうらしい。

 5月の頃だったか、我が倶楽部の勉強会で、「久しぶりに撮影会でも催そうか」との話が出、ぼくは、「以前から『大谷資料館』(栃木県宇都宮市)に行ってみたいと思っているんだが。調べてみたら現在館内温度は8℃とのことだ。みんなで行ってみるか」と具申した。具申というより、 “そそのかし” といったほうがいいかも知れない。
 言葉だけはいつも一丁前の面々は、「それもいいね」といったきり、時間だけが無情に過ぎていった。いつものことだ。他の倶楽部は知らないが、誰かが重い尻を「やっこらさ」と持ち上げてやらないと、決して自ら動こうとしないのが、この倶楽部の実情である。ぼくは、ホンに心(しん)が疲れる。

 だがしかし、倶楽部のひとりがちゃっかり抜け駆けをして、9月の勉強会に鼻を膨らませながら、「大谷資料館」で撮った写真をすまし顔で持って来たのである。あまり質(たち)の良くない彼によると、猛暑の8月に車を飛ばして行ってきたとのことだった。「館内は12℃だったけれど、動いているので寒さは感じなかった。ただ、暗いのでオートフォーカスが使いにくく、ぼくはマニュアルに切り替えたくらいだ」と、ちゃらっといってのけた。
 ぼくは彼の写真を見て、「やっぱり彼もこれ以上は撮れなかったのだ」と実感した。というのも、「大谷資料館」の情報をあれこれネットで調べていくうちに、この場で「自身のアイデンティティを示すような写真」は、非常に撮りにくいに違いないとの思いを描いていたからだった。

 「独自の写真を撮る」という好ましい写真のありようの、その入口にさしかかっている彼にして「大谷資料館」は、やはり非常に自身を表現しにくい被写体であったと見える。「大谷資料館」に関するいろいろな写真を見る限り、ぼくが撮っても大同小異がいいところだろうと感じていた。ましてや彼は建築のエキスパートであるだけに、なおさらの感があった。
 そんな感想を抱きながらの、手強い「大谷資料館」行きだった。

 「撮影会」というお題目は今回掲げずに、日程の合う人だけで決行してしまおうということになった。9月26日(火)、暑さの和らぎ始めた日に、ふたりのご婦人(ひとりは写真歴20年、もうひとりは2年の事始めの人)を伴っての大谷行となった。「撮影は独りでするもの」との持論は今回度外視して、暗闇のなかでどの様にして撮るかを試行してもらうのも良い勉強になると、ぼくは考えを切り替えた。

 この日は夏休みも終わっており、ウィークデイということもあって、入館者も少ないであろうし、ぼくの天敵で大の苦手である子供のわめき声も聞こえてこないだろうと推察した。あの気のぼせを催す子供たちたちの甲高い集団わめき声は、ぼくの神経を逆撫でし、とてもこの世のものとは思えない。かといって野獣のように咆哮するあの連中を張り飛ばすわけにもいかず、あれは拷問にひたすら耐え抜くに等しい。打ち首にしてやりたい衝動に駆られるくらいだ。
 柔和なぼくが、この世で石を投げつけたくなるほど嫌なものは、前述の子供のわめき声と猿くらいのものだ。

 館内は抜け駆けをした建築家T氏が体験した12℃と変わらず、大変心地良かった。外気との温度差も猛暑時とは異なり、退館も億劫ではなさそうに思えた。
 地下採掘場跡そのものは興味深いものだったが、はて写真となると誰が撮っても似たり寄ったりのものであろうとのぼくの直感は当たっていた。イメージする能力に劣るとの思いはあるものの、それを棚に上げても、ここで独自の映像を撮るには、T氏同様にかなり困難であることは否めない。

 同行したご婦人のひとりが、歌を詠むが如く淀みなく「Tさんはオートフォーカスが効かないなんていっていたけれど、そんなことはデンデンないわよねぇ。あたしたちのカメラ(EOS - R7)はさぁ。もしかしたら彼のカメラは、元々オートファーカスなど付いていない前時代的なものなのかもねぇ」と、抜け駆けへの腹いせもあってか、そう喝破し、互いに頷きあっていた。実(げ)に恐ろしきご婦人方であった。

https://www.amatias.com/bbs/30/662.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
栃木県宇都宮市。

★「01大谷資料館」
館内に外光が差し込み、光線が束となり、注ぎ込んでいた。技術的な話は次号に。
絞りf9.0、1/6秒、ISO 640、露出補正-1.33。
★「02大谷資料館」
採石時に刻まれた跡。自身の描いたイメージに添って補整。
絞りf7.1、1/13秒、ISO 2500、露出補正-1.00

(文:亀山哲郎)

2023/09/29(金)
第661回:飛騨金山町(7)最終回
 3泊4日の短い旅の話は今回を含めて14話で打ち切ろうと思っている。まだ書き足りないことがたくさんあり、未練たっぷりなのだが、写真ネタ(鉄砲の弾)には限りがあるので、やむを得ずといったところだ。
 文章については、旅を回想しながら、頭の中に渦巻いていることを記述する余力(題材)はまだあるのだが、写真は過ぎた時間を取り戻すことはできず、再訪し撮影するしか手がない。つまり、写真は現場主義の最たるもので、そちらを本職にしてしまった辛さを味わっているが、ぼくは書くことより、写真を撮っているほうが自分の質(たち)に合っている。しかし、悔しいながらも、 “どっちつかず” ってこういう時に用いる言葉なのかなぁとも思っている。

 そして、書くことはどう足掻いても、基礎・基本がなっていないので、すぐに行き詰まってしまうことも明白だ。本職でない分、気楽といえば気楽なのだが、かといってちゃらんぽらんというわけにもいかず、いずれにせよ、拙稿は自身のブログやSNSの類ではないので、責任を担うことの辛さに変わりはない。これでも精一杯真面目に書いているつもりなのだが。

 ぼくの徘徊した飛騨街道の宿場町である金山町の「筋骨」とその周辺は、飛騨川と馬瀬川(まぜがわ)が合流した辺りで、駅から歩いて10分ほどのところだった。周りを飛騨山地に囲まれており、そのためか、ぼくの訪れた日は、晴、雨、曇りが目まぐるしく変化していた。故に、頭の切り替えも忙しく、疲労の蓄積は道理というものだ。
 関東平野の平和で穏やかなところ(どこかずんべらぼうな気候)に居を構えているぼくにとって、このような気候変化は写真人にとってはかえって嬉しく、またありがたくも感じた。同じ被写体が、様々な表情を垣間見せてくれるからだ。

 今から19年前の2004年9月に訪れた北極圏直下のソロフキ(ロシア連邦。ソロヴェツキー諸島の別称。世界文化遺産『ソロヴェツキー諸島の文化的・歴史的遺産群』。そこに1921〜1939年まで開設された世界初の強制収容所を写し取った拙写真集『北極圏のアウシュヴィッツ』、2005年ブッキング刊に詳述)を思い起こした。
 ここは極地のためか、一日のうちに、晴、雨、曇り、雹、雷が、まるで交響曲が楽章ごとに激しく調子を変えるように、雪以外の天候が間断なく襲ってくるとてもエキゾチックなツンドラ地帯だった。冬にはすべてが凍りつき、空一面にオーロラが舞うそうだが、残念ながらぼくが滞在を許可されたのは9月の8日間だけだったので見ることはできなかった。
 余談だが、当時、外国人の訪問は、世界文化遺産にも関わらず、禁じられており、ビザ取得は困難を極めた。ましてや、カメラマンなど推して知るべしである。現在、ビザの取得は旅行会社に依頼すればできるとのことだ。
 ここでの出来事は、本稿2015年の第243〜268回、「北極圏直下の孤島へ」と題して26話にわたって扱っている。

 金山町の気候変化はソロフキ以来の味わいだった。すっかり白髪頭に変化してしまったぼくではあるが、19年ぶりの 「一天にわかにかき曇る」とのロマンティックな気候現象に、何故かこそばゆくも懐かしさがこみ上げてきた。撮影中に、懐古の情に駆られることなどほとんどないぼくにして、これはあるまじきことだった。

 飛騨金山町の気候変化は、ソロフキのように気をドギマギさせるような霊気を帯びた厳しさこそないが、さいたま市の気候に慣れ親しんだぼくにとって、飛騨の山間(やまあい)にへばり付いたここの、色合いに富んだいきなりのどしゃ降りなどは、「フォトジェニック」という観点からすると撮影者にはありがたいことだった。
 そのことにより、同じところを3往復もするというのっぴきならぬ羽目に陥ってしまったのではあるけれど。これも、普段のぼくにはあるまじきことだった。なまくらなぼくには、精々2往復がいいところだ。

 一時、遊郭撮影に執心だったぼくだが(本稿にも、「京都の遊郭跡を訪ねる」と題して、2019年第439〜449回の11回にわたって扱っている)、ここ金山町にもかつては遊郭と覚しき建造物が散見された。
 今も遊郭に興味はあるが、どちらかといえば今回の旅は一点集中型を志したく、敢えて目を逸らすことにした。ただでさえ、何事に於いてもぼくは気が多く散漫な傾向があり、加え八方美人を気取る嫌な癖があることも知っている。そして一方で、岡目八目(おかめはちもく。当事者でない人が見ると、かえって物事や情勢の良し悪しが客観的に判断できるということ)ということもあるとの理屈を自身にかましておかなければと思った。かなりずる賢い奴なのだ。

 24kgの荷を背負って、ソロフキを初め、北ロシアに点在する古都を1ヶ月にわたり撮影したが、今回の3泊4日の国内旅行は、たかが数kgの荷にぼくはあごを出し、へこたれてしまった。19年間の隔たりは、人間の体力をこうも劣化させてしまうのか。ソロフキから19年経った今、写真の腕前も劣化したのだろうかと、ぼくはそんな恐怖に怯えている。

https://www.amatias.com/bbs/30/661.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
「ひょっとして、これは遊郭?」と思っていたら、いきなり横殴りの、大粒な雨が。
絞りf11.0、1/20秒、ISO 100、露出補正-0.67。
★「02飛騨金山町」
今回の旅のラストカット。空はすっかり晴れ上がり、一泊の予定を切り上げて駅までの商店街を歩く。カラーアスファルトとともに記念として自画像(陰)を入れる。この独善的な表現は、ぼくにしてはかなりの勇気を必要とした。
絞りf8.0、1/500秒、ISO 250、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2023/09/22(金)
第660回:飛騨金山町(6)
 今回から、旅の話はお仕舞いにして、たまには写真についてのあれこれを書くつもりでいたのだが、粘り腰に長けたぼくはまだ諦めることができず、執拗に今回も掲載させていただこうと思っている。本当は、あと2枚暗室作業が間に合わずに残っているので、次回こそを、このシリーズの最終回とすることにした。

 友人は、ぼくの文章には、多分にけんか腰の気配が窺われるという。しかし、それはとんだ誤解というもので、争いごとの嫌いなぼくがそんな挙に出るはずがない。
 いつも「百歩譲って、三歩だけ主張する」のが、ぼくの生活態度の基本である。三歩の主張がいたずらに繁衍して、毒素や腐臭を漂わせることはあるだろが、それはぼくのいいたいことを正面からではなく、斜めからしか見ようとしないからだ。したがって、ぼくの責任ではない。ただ、 “婉曲に言い表す” なんて、国家間の外交文書のような書き方はしたくないし、第一そんな芸当は持ち合わせていない。これでも、ネットという事情を顧み、かなり遠慮がちに述べているつもりだ。そこが読者対象がある程度限定できる活字文章とは異なる。

 前回の、新幹線隣席のご婦人の喰らう弁当についての記述は、友人にいわせると「かなりのもの」だったらしく、「昔から君は、辛辣なことをオブラートに包み、さらっといってのける」のだそうだ。ただそのオブラートが時に破れ、それとない苦(にが)みを知らずのうちに放っていることはあるだろう。
 ぼくに、皮肉っぽくものをいう気持はまったくないのだが、もしそうであれば、それはぼくのひねくれた性分に起因しているのだろうと思う。そしてまた、ぼくは琴線に触れた出来事やその感覚に激しく反応し、それを訴えたい気持が人様より強く増幅してしまう傾向があるからだ。

 友人の言を借りれば、「君の『ただきれいなだけの写真』」という表現も、極めてシニカル(冷笑的であるさま)かつ複雑なもの」なのだそうで、また「忌み嫌うというニュアンスがそこにはふんだんに盛り込まれている。 “きれいな” をどう定義するかにもよるだろうが、君は常々『 “きれい” と “美しい” の意味はまったく異なるものだ』といっているしね」と、彼は取調室の刑事よろしく、言及の手を緩めなかった。ぼくは素直に、「汲み取ってもらえれば、それで仕合わせ」とだけ返しておいた。

 文章をどう解釈するかは写真とよく似ており、自身の作品について自ら述べる必要性などまったくないし、それは相手方にとって大きなお世話というものだ。それを自ら進んですることは、むしろ野暮天の極みだ。ぼくは自身の写真について、巷よく見かける「題名」など、そんな不粋かつダサイものを付けたくはない。小っ恥ずかしく思うだけだ。
 「問われれば丁寧に、真摯に思うところをお答えする」姿勢があればいいわけで、礼を逸することにはならない。ただ、文章は写真より具体性があり、写真はより抽象的であるところが異なるのだが、何でも直裁に記せばいいというものでもない。

 飛騨金山町について、旅行通の坊主(息子)が1年ほど前に、「飛騨金山町というところは、昭和の佇まいが色濃く残っているらしい」と説明してくれた。彼はまだそこを訪れてはいないのだが、彼いうところの「昭和」という言葉が、昭和人間のぼくに幻影を与え、淡い望みと期待を持たせてくれた。ただ、歴史の好きな坊主は常に旅行者として様々な地の歴史探訪をすればいいのだが、ぼくは写真屋だ。漁師はボウズ(魚が1匹も釣れないこと)で帰ることはできない。飛騨の山中にあって、こんな駄洒落をいっている場合ではなかった。

 ネットなどで情報をかき集めたが、それを見る限り飛騨金山町の売りである「筋骨」にはさほどの関心を持てないのではと直感した。大漁は期待できないのではないかと思えた。「筋骨」の特異な形式、そして珍しい佇まいではあるが、それを写真に収めるにはただならぬ困難さがあるように思えた。焦点がなかなか絞れないのではないかという恐怖にも駆られていた。残念ながら、ぼくの直感は当たっていた。

 実際この地に立って、「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」という気配が感じられなかった。タクシー会社は日曜なので休みだというし。妙に観光地ずれしていないことに好感を持ったが、「筋骨」が観光の目玉になるかどうかは意見の分かれるところだろう。
 珍しさはあっても、人目を惹くような “きれいな” 景観でないことはいいとしても、さりとてどこに焦点を当てれば自身のアイデンティティを示す写真を撮ることができるのだろうかと困惑した。ぼくはそんな不安に襲われっぱなしだった。

 「フォトジェニックに」という言葉が頭のなかでぐるぐると回転していた。もちろん、この「フォトジェニックに」という意味は、他人に見せるためのものではなく、また人目を惹くためのものでもなく、自身の姿を写真上に正直に表すことができるかという一片の意味を含んでいる。
 なまくらなぼくが、同じところを行ったり来たり3往復もするのは異例のことで、それは非常事態といっても良いが、見知らぬ土地はいつもそうだったことを思い出し、唯一の慰めとした。
 来た以上、タダで帰れないのは商売人の辛いところだが、ぼくはM(マゾっ気)の傾向があるらしく、べそを作りながらも、静かな雄志を抱き、右往左往していた。

 今回掲載した写真は、ダリアと百合で、金山町である必然はない。どこにでも咲いているものだが、困惑しながら歩くぼくに、その美しい姿を一服の安らぎとして与えてくれた。この地に於けるぼくの苦悩の烙印として、取り急ぎシャッターを押してみた。

https://www.amatias.com/bbs/30/660.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF50mm F1.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
雲の間から、一条の光りが、スポットライトのようにダリアに射した瞬間。
絞りf8.0、1/160秒、ISO 160、露出補正-0.67。

★「02飛騨金山町」
どの百合を撮ろうかと迷ったが、背景を考えながら、三分割法の構図を取りやすいものを選んだ。
絞りf2.0、1/100秒、ISO 200、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/09/15(金)
第659回:飛騨金山町(5)
 今回の短い旅のなかで、ぼくは常に「自分が自分であることの証」としての写真のありようについて考え続けていた。
 長年(正確には27年間)ぼくの脳裏に深く刻まれているA. ソクーロフ監督のドキュメント映画『オリエンタル・エレジー』の美しい映像に、憧れの気持を抱いてきたことはすでに記述したが、真似事をしても意味がないことも同時に述べたので、これ以上繰り返さないが、ささやかではあるがやっと今回の旅で何かのきっかけを掴んだようにも感じている。
 この旅で撮影したもののなかで、 “手応え” とまではいかないが、良いヒントを得、前進する気力を得たような気がしている。齢75にしてのことだから、この事実は上出来であり、写真の楽しみが増したようにも感じている。憧れを抱き、維持できるというのは、まことにありがたいことだ。

 自身の写真を、ぼくは決して“きれいな” 写真だとは思っていないし、むしろそれを嫌い、どちらかといえば “ばっちいなぁ” とさえ感じている。もちろんそれでいい。自身の必然に基づいた正直な写真であることを第一義に考えているからだ。上手く撮れたかは別としても、との注釈付きであることは癪だが。
 しかし、ぼくにだって人並みにきれいな写真に憧れた時期(20代くらいまで)はあったのだ。それはきっと誰もが通る道なのではないかと思う。一見するときれいだが、その先が見えない写真のありように非常な抵抗感が芽生えたのは30歳の少し前だったように記憶している。きれいなだけの写真は深度に欠け、そのようなものにはすぐに飽きが来るし、それはつまり自分自身に飽きてしまうということと同義である。

 読者諸兄からいだだくメールには、「かめやまさんの写真は難しい」とか「難解だ」とかそれに類する表現が寄せられることがしばしばある。これらのご意見にぼく自身は説明できずにいるのだが、ただ、きれいな写真に囚われ、「見せよう、見せよう」との意識があるうちは(それは写真を見れば分かるものだ)、写真は凡庸の域を出られず、そしてまた、それは一過性のものに過ぎない。それで写真が写るはずもない、というのがぼくの考えである。
 自身の人生経験に照らし合わせ、うわべだけのきれいな写真は、30歳まででいいんじゃないかと思っている。

 「酸いも甘いも噛み分ける」好々爺風や修業を積んだ御坊のような心境には、まだ残念ながら至っていない。いや、そんな境地には絶対に至りたくない。至らずに苦悶するのが物づくり屋の本志だとの信念を持っている
 亡父は「砂を噛み、血反吐を吐け」とよくいっていたが、まさに父はそれを実践していた。その反動か、磊落(らいらく)でもあった。ぼくはそんな父の重石を背負った辛そうな背中をよく見ていた。職種は違えど、「やっぱり『蛙の子は蛙』だ」とよく冷やかされるが、父と異なるところは、ぼくは努力家でないことと、それ以上に知性が絶対的に不足していることだ。

 写真活動に限りのある年齢に差しかかって、ある程度の独善を自分に許してもいい年頃かも知れないと近頃思っている。
 ただ、今のぼくには独善に走る勇気がなく、アカンタレ(関西言葉で、駄目な人、意気地のない人間を罵っていう言葉)なのだ。この臆病風は、ぼくの常套句である「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に起因しているようにも思える。ぼくには、もっと大胆不敵さが必要なのだと感じているが、まだ、独善であることの匙加減が分からないでいる。それが、美に通じれば独善もまた然りというところだが、そこがなかなかに難しくも荷厄介だ。

 飛騨金山町の「筋骨」と飛騨街道を、土砂降りの雨に遭いながらも2往復し、努力家でないぼくは座敷童子の出る味わいのある宿に戻り、女将に宿泊せずに帰宅する旨を告げた。里心がついたわけでなく、疲労に負けてしまったからだった。お茶の一杯もいただいていないが、休憩料を払うと女将に申し出たら、「いえいえ、いいですよ。また来て下さいね」と、心温まるお言葉をいただいた。

 よろよろしながら、飛騨金山駅に辿り着いたぼくは、午前中に車に乗せてくれた食堂の割烹着おばさんのところに顔を出し、そのお礼を述べ、別れを告げた。食堂では、地元の団体さんが宴会中で、その盛況ぶりを目の当たりにし、何だか嬉しさが込み上げてきたから不思議である。そして、どうやらこの町の衆は、酒宴にはやる気を見せるらしいということが分かった。
 駅で30分ほど特急列車を待ち、名古屋から新幹線に乗り込んだ。ぼくは2人掛けの通路側だったが、同時に乗り込んだ窓際側のご婦人の形(なり)を見て、少しばかり驚いた。ふわふわした極端に大きな帽子と羽を広げた孔雀のようなフリルの付いた満艦飾の装いは、まるで『マイ・フェア・レディ』(1964年ミュージカル映画)のオードリー・ヘップバーンを思わせるようであった。

 映画より恰幅の良いヘップバーンは、席に着くなり間髪を容れず駅で買ったと覚しき弁当をやおら広げ、それにガツガツと音を立て、人目も憚らずむしゃぶりついたのである。その弁当は、カツの上に何やら得体の知れぬ、決して心地良い色合いとは思えぬ、どちらかというとババ(関西言葉。意味はご自身でお調べください)に近いペースト状のものが付属しており、それがビニール袋から放(ひ)り出され、カツの上に塗りたくられたのだった。なんて凄まじくも恐ろしい代物だ。ぼくは鳥肌が立った。

 着飾ったヘップバーンがババ付きカツに食らいつくその様は、到底この世のものと思えず、ぼくは身震いが止まらなかった。それは感動を飛び越えた戦慄に近いものだった。旅の最終楽章に、ぼくはとんでもない光景に出会ってしまったのである。その鬼気迫る光景を撮り損ねたぼくは、やはりまだまだ修業が足りない。 “ばっちい” 写真を自認するぼくは未熟者だ。くそっ!

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
筋骨巡りの路地に置かれてあった懐かしい風呂桶。昭和時代のもの。
絞りf5.6、1/60秒、ISO 100、露出補正-1.67。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道散策中、突然の集中豪雨に慌ててビニールのレインコートでカメラを覆う。ガラス戸に描かれたひまわりが何とも可愛い
絞りf6.3、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。


(文:亀山哲郎)

2023/09/08(金)
第658回:飛騨金山町(4)
 食堂の親切な割烹着のおばちゃんと、特製かつ丼との取り持ちにより、見込み通りに事を運ぶことができたぼくは、おばちゃんの自家用車に乗せてもらい、宿まで徒歩約10分の道のりを歩かずに済んだ。旅に於けるこのような好意は終生忘れ難いものだ。
 当日は日曜日でタクシー会社も休業だと、たったひとりの駅員さんにすまし顔でチャラっといわれたぼくは、恨み辛みの感情を抱き、旅情豊かな駅の待合室で怨嗟の声をあげた。
 駅に掲げてあったタクシー会社の電話番号に僅かな期待を寄せダイアルしてみたが、呼び鈴だけが無情に鳴り続け、さっぱり音沙汰なしだった。やる気のない町である。

 金山町唯一のタクシー会社の、しかも存在するたった1台のタクシーに乗りそびれたぼくは、前号にて記したが、駅前の大きなアーチに設えられた「WELCOME」という大袈裟な文言に果てしないほどの憤懣を抱いた。
 「なにがWELCOMEなものか! やたら意味の分からぬ外国語を使えば来訪者の気持を幾分かはぐらかせると思ったら、それは大間違いだぞ。こんな見え透いた、見せかけだけのものを如何にもそれらしく掲げるな!」と、ぼくの気持は、旅の疲労と神経過敏により、当然のことながらすっかり荒み、捨て鉢になっていた。
 「旅の恥は掻き捨て」を厳に慎むことを鉄則とし、それを如何なる時にも守り通してきたぼくは、なおのこと反動が大きかったのだ。「WELCOME」に気持を逆撫でされたような気持だった。この拙文を金山町の誰かに、是非読んでもらいたい。

 宿に着き、恐る恐る玄関を開けたぼくはすっかり気を取り直し、「こんにちは〜」と声を張り上げて来訪を告げた。細い土間の左手に居間があり、大きなテレビが野球放送をがなり立てていた。テレビの前には年老いた爺ちゃんがぼくに尻を向け鎮座し、食い入るように野球を観戦中だった。ぼくの声などまるで届いていなかった。やはり、ここもやる気が感じられない。客など、何処吹く風である。だが、ぼくは悪い気はしなかった。

 齢80をとうに越えていると覚しき爺ちゃんは耳が遠いとみえ、大きな声は出したくなかったが、訪問を告げるにはそうするほかなかった。客人に気のついた爺ちゃんは、笑顔を見せ、家人を呼んだ。人の良さそうなおばちゃん(多分娘さんと思われる)が、間口は狭いが、やたら奥行きのある建屋の奥から押っ取り刀で、体を弾ませながら駆けつけてきた。この町の女性はどうやらやる気があるようだ。

 部屋に案内され、女将はエアコンのスイッチを入れることだけが自分の仕事と心得、無駄口を叩くこともなく、すぐに部屋を出て行った。お定まりの宿帳もお茶菓子も電気ポットもなく、60歳をちょっと過ぎたと覚しき女将は「自由にくつろげ」といわんばかりに豪放磊落(ごうほうらいらく)だった。ぼくが声がけをしない限り女将は金輪際やって来ないのだと察した。
 部屋に鍵はなく、廊下と部屋は模様入りのガラス障子1枚で仕切られており(前号「01」掲載写真のように)、今時まったく珍しくも、プライバシーのない造りであった。ぼくは男なのでそれでいい。
 昭和40年(1965年)、何事にも寛容であった時代に建てられた独特の空気感あるこの旅館の部屋がとても気に入ったので、スマホで2方向から記録しておいた。友人に「今時珍しいだろ。良い味わいだろ」と自慢気に見せたいとの思いがあった。ぼくがスマホを取り出して撮ることなど滅多にないことだ。残念ながら、それは記録写真なので、拙稿では掲載しない。

 さて、前号の掲載写真「01」についてだが、部屋を出ようと廊下に出たところ、向かいの部屋のガラス障子が半開きとなっており、誰もいないはずなのに、人がひとり座っている。ガラス越しのシルエットを見る限り、ぼくは「はて???」となった。客はぼくひとりと聞いていた。シルエットは間違いなく女将ではない。では、誰なのか? だが、障子の隙間から覗くことはしなかった。

 40数年ほど昔に、ぼくは岩手県の遠野に撮影と『遠野物語』を初めとする民話を詳しく知りたいために、足しげく通っていた時期があった。まだ、随所に「曲り家」が存在していた頃だった。当地では、古(いにしえ)から座敷童子やら河童やらキツネが頻繁に出没するらしいが、現地のとんでもなく廃れた神社などで、「何でこんなところに人がいるの !? 夢か幻か?」との経験が3度もあった。それも、よりによって3人とも美人揃いだった(もう時効だ)ため、未だに信じ難い思いでいる。「事実は小説より奇なり」を、地で行くような体験だった。したがって、ぼくの『遠野物語』は今以て3人の美女に集約されている。

 あれから半世紀近く経って、飛騨の人里離れたこの地で、「もしかしたら遠野の再来か?」と思わせる事象だったが、ぼくはもう美人に気を奪われるより(そうかなぁ?)、「このガラス越しの光景は、ソクーロフの『オリエンタル・エレジー』のようではないか!」と、芸術的な美に惹かれた。こんなことは、人生に於ける初体験だった。
 ぼくは直ちに部屋に取って返し、レンズを付け替え(16mmの超広角に)、サイレントシャッターに設定し、足音を立てずにファインダーを恐る恐る覗いた。そして、静かにシャッターを下ろした。

 撮影後、障子の隙間から部屋を伺おうと一瞬思ったが、自身の不粋を嫌悪する気持が好奇心を上回った。もし、同じことがもう一度あったなら、ぼくはやはり好奇心を捨て去るだろう。不粋なことをすれば、写真も不粋さを免れないものになるからだ。だが、エロスは美の本質だし、弱ったものだ。
 「七十にして矩を踰えず」(しちじゅうにしてのりをこえず。どんなに錬成した人物でも、自身の行動や考えをコントロールできるのは70歳になってからだとの意味)というらしいが、「そがんことなか!」。
 自分の撮った写真を見て、「おれの人生はまだこの程度のものか」と、やはり悲嘆に暮れる今日この頃であります。

http://www.amatias.com/bbs/30/658.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
第654回で掲載した「02」写真のほぼ同じ位置から、モニターを確認しながら、突然の雨中の「筋骨」を。シャッタースピードを5段階に分けて撮る。
絞りf6.1、1/5秒、ISO 640、露出補正-1.00。

★「02飛騨金山町」
第656回で紹介した銭湯。湯船の底に貼られた明治時代の陶器質本業タイル。天窓からの光りが、作画に上手くバランスしてくれた。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-0.67
(文:亀山哲郎)

2023/09/01(金)
第657回:飛騨金山町(3)
 物にはどうやら順序というものがあるらしい。いくら世事に疎いぼくでも薄々それは感じている。順序通り物事に対処しないとぼくに辛く当たる者はあくまでも、事象を柔軟に捉えることのできない四角四面の、世間の常識という窮屈の極みのような宗教を信じて疑わぬ、融通や柔軟さとはまったく縁遠い人たちを指す。ぼく自身はそんな友人たちに与しているわけでないが、しかしどう贔屓目に見ても、ぼくが世事に長けているとは到底思えない。
 順序通り、しかも要領良く、との作法に著しい欠陥があることは素直に認める。筋道を追って考えることが苦手なので、ぼくはもしかしたら頭が悪いのだろう。そうしておけば、「無事是名馬」(ぶじこれめいば)なりだ。

 だが世間様が勝手に決めたそのような堅苦しくも、面白味のない決まりごとについて、ぼくが実直に従わなければならないという法はない。それどころか、そうしてしまえば自分がダメになってしまうと堅く信じているので、身を守る本能に従い、そんな些末なことはどこ吹く風である。自由気ままだからこそ、例えば13年間もの長きにわたって拙連載(駄文の極み)が続けられるのだ。この一例を取っても、ぼくは正しい。
 ぼくはぼくの法に従い、つまりそれを世間では “勝手気まま” とか “放埒” というらしいのだが、生き易さという観点から物事を図るべしというのが、もっぱらの、ぼくの生き易さの法である。

 ということで、旅の時系列を無視して書き連ねてきたけれど、今ここで改めて時間軸を戻し、近江八幡から飛騨金山町に到る行程を少し述べてみたい。旅情溢れるとまではいかないが、個人のささやかな心情を知ってもらえば、掲載写真も違った方向から見てもらえるかも知れない。
 加えていうなら、旅情を味わうのであれば、車は鉄道に追いつかぬと知りつつ、撮影は体力だけが勝負なので、どうしてもハンドルを握ることに頼ってしまう。また、現地での便利さと体力的な負担を考慮すれば、やはり車に軍配が上がる。このことは、今回の旅でことさら身に染みた。

 近江八幡から飛騨金山までは、岐阜から特急ひだ号を利用すれば、2時間半ほどで行ける。JR東海道本線の米原を過ぎるとやがて左手に大きな伊吹山(いぶきやま。標高1,377m。滋賀県の最高峰で、琵琶湖国定公園に指定)が間近に現れ、ぼくは感無量の面持ちだった。そして、それを窓越しに何枚も情に駆られながら、記念写真にと撮った。
 というのは、もう65年以上前、小学時夏休みに京都で過ごしていたぼくは、第650回「滋賀県大津」で登場願った叔父が、高校の同級生と伊吹山登山に出かけ、帰ってきた時の、日焼けしたその肌色の凄まじさに仰天してしまった。伊吹山は常に叔父の日焼けに連動している。

 海で日焼けすることは知っていたが、山でもこれほど黒くなるものなのだと、初めて知った出来事でもあった。ランニングシャツ1枚と半パンで登ったのだろう。銭湯に一緒に行った時は、叔父の墨で乱雑に塗りたくったような肌色文様があまりに汚らしくて、ぼくは恥ずかしく、決まりの悪い思いをしたことを今でもはっきり憶えている。伊吹山と聞くと、おかしな文様だらけの、どこぞやの原住民の姿を思い浮かべてしまう。そのくらい叔父の日焼けは、子供を萎縮させるほど不気味で恰好の悪いものだったのだ。
 因みに、伊吹山は日本百名山なのだそうだ。確かに、車窓から見るそれは威風辺りを払うものがあるが、叔父貴はそこに登ったがために、みっともない姿を銭湯にて振りまいていたのだった。

 岐阜から高山線JR特急ひだ号は飛騨川沿いに走る。飛騨川沿いには、国道41号が併走するのだが、その道を、これも思い出話になってしまうのだが、半世紀ほど前、女房の母を助手席に乗せて、下呂温泉まで行ったことがあった。その後最晩年の彼女を京都から埼玉に引き取った経緯もあり、彼女には特別の思いがあった。その母も4年前病院の不手際で亡くなり、車窓の隣を走る国道41号線を見ながら、我が家で過ごした母との楽しくも懐かしい思い出にふけっていた。

 飛騨金山町にたったひとり降り立ったぼくは、タクシーで宿に行く算段をしていた。たったひとりの駅員さん(7 : 40分 ~ 15 : 00分まで営業)が、「この町にタクシーは1台だけあるのですが、今日は日曜日なので、あいにく営業はしていませんよ」と、素っ気なくおっしゃる。たったひとりの旅人を気遣う気配などまったくなし。駅前には大きなアーチが設えてあり “WELCOME” と正しいスペルで、しかも大文字でデカデカと記してあるのがあまりにもチグハグな感じで、ぼくはその英語がひどく癇に障った。

 「腹ごしらえの時間だが、はてどうしたものか?」と思案していると、食堂らしきものが一軒。取り敢えず、そこに飛び込むしか手がなさそうだった。ぼくは、駅前広場に面したそこに割烹着仕立ての、救いの神がいると信じた。吸い込まれるように、「何か食わせて」という仕草をしたら、案の定、割烹着の神が躍り出て、「何になさいましょう?」と、にこやかにメニューを見せてくれた。ぼくは「特製」と銘打った「かつ丼」を迷うことなく注文し、割烹着の女将に、「Aという宿はどう行けばいいの? 歩いてどのくらい? タクシーは客がいるのに休業なんだってね。ぼくを歓迎してくれるのは、どうやらこの食堂の貴方だけのようだね」。ぼくの目論見が功を奏し、割烹着おばさんは「あたしが車で宿まで送ってあげるよ。心配しなさんな」と、ぼくの心中を見事見透かして、特製かつ丼の見返りにと、ぼくは半世紀後に、この地で助手席に乗ることになった。

https://www.amatias.com/bbs/30/657.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24−105mm L IS USM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
宿の廊下を歩いていたら、こんな光景に出会った。「ソクーロフに取り憑かれたかも」と思い、嬉々としてシャッターを押す。前号同様、「超広角の歪曲収差なんて気にするな。捨て置け」とソクーロフの心強い声が廊下にこだました。この写真の詳細は次号で。
絞りf5.0、1/15秒、ISO 640、露出補正-0.337。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道。「これは僅かに暖色系のモノクロで」との声が、どこからか聞こえてきた。カラーより断然ここの空気に合っている。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2023/08/25(金)
第656回:飛騨金山町(2)
 今ぼくは、前号末尾に「27年間もぼくの脳裏に焼き付いている映画監督の映像、まさにそれだったのである」と不用意に記してしまったことにちょっと後悔している。その気持に何ら変わりはないのだが、それを書き記そうとすれば、相当な文字数を覚悟しなければならない。今回、思うところのすべてを書き切れないもどかしさはあるが、要点だけに絞ることはできそうだ。

 それより、本来は、旅の行程について順序立てて記すべきであった。つまり、近江八幡から飛騨金山町の宿に辿り着くあらましを先に述べるべきであった。何でも無計画にことを済ませてしまおうといういい加減なぼくの性癖が災いしてしまったというわけだ。
 「順を追って」という人生の掟を生殺しにしてきた報いなのだろう。だがぼくは、「出たとこ勝負」とか「ぶっつけ本番」の危うさに生の実感を得、それが好きなのかも知れない。多分にMの傾向があるのかも知れない。だが、そのうちきっと自爆するだろう。極楽とんぼの行く末はしれている。

 友人から「『脳裏に焼き付いている映画監督の映像』と述べているが、それって誰の何という映画か? 含みを持たせたような言い方などしないでさっさといいなさい」とドスの利いた脅迫を受けた。まったく癪に障る。そんなことはぼく自身がとっくに承知していることだ。

 今まで、ぼくの憧れた写真家や映画監督の映像から、多くのものを得たことは間違いないのだが、ただ単にそれをそっくり真似ても無意味であることを知っている。真似るだけで自身の写真のクオリティが上がるわけでもない。真似だけでは、どう足掻いても真似で終わってしまう。自身のオリジナリティがなければ創造も無意味だ。
 憧れを抱いた映像作家たちは自身の描くイメージを表現するために独自のもの(トーンやアイデア)を編み出したのであって、ぼくの描くイメージが彼らと同じであるはずはなく、そっくり真似ても意味がない。前述したように、それはただの真似事であり、二番煎じでもあり、独自のものを開拓・開発しなければ、創造とはいえない。

 例えばA. アダムスの風景写真に多くの人が憧れ(ぼくもそのうちのひとり)、彼の編み出した「ゾーンシステム」の理論を修得した人々(多くは欧米の人たち。ぼくは彼らを写真家とは呼ばない)の作品を観ると、「ゾーンシステムのためのゾーンシステム写真」に終始していて、そこに優れたものをぼくは見出すことはなかった。

 アダムスの教本による撮影や暗室技術の理論は大変参考になり、ぼくとて真剣に取り組んだが、当然のことながら、それだけで写真として恰好がつくものではない。
 写真のクオリティは、技術や理論は必要だが、それ以前に被写体の発見とどの様なイメージを描くか(撮影者の人生観や美意識、加え知性によるところのもの)がさらに重要で、そのうえでクオリティが決定する。それがぼくの確たる考えだ。描くイメージが貧困であれば、どれほど「ゾーンシステム」を修得し、重用しようが、良い写真は成り立たない。

 27年前、NHKで放映されたアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・ソクーロフ(ロシア。1951年生まれ)監督による短編ドキュメント映画(43分)『オリエンタル・エレジー』を観て、ぼくは腰が抜けた。ドキュメントの分野に入っているが、一片の、内省的な映像詩といったほうがしっくりくる。

 霧に包まれた幽玄かつ哲学的な映像は日本が舞台で、ぼくはこの映像の底知れぬ詩的な表現に参ってしまった。何という美しさか! その映像は、生涯忘れ得ぬ衝撃だった。
 ぼくは写真屋なので、動画ではなく、これを静止画(つまり写真)で表現しようとしたら、果たして写真として成り立つだろうかとの疑念が常に頭の中で渦巻いていた。技法的、そして心理的な面でそれを解決するには、動画と静止画の視覚に於ける人間工学的な面での相違について理解する必要があるだろう。そんな結論に至ったが、ではどのようにすれば良いのか、未だに分からない。試行錯誤を繰り返し、のた打ち回るしかないだろう。

 まだぼくの写真は憧れの域を出られずにいるが、20年ほど前に買い求めた『オリエンタル・エレジー』のDVDを久しぶりに観て、レンズの解像度や諸収差について、あれこれいきり立って語ることの虚しさを覚えた。「そんなことはどうでもいいよ。映像美にとってはひどく些末な問題だ」と、昨今の “写りすぎる” デジタルカメラやレンズに反目したい気持を支えてくれた。この映画は、ぼくのそんな懸念と疑問をなぎ払ってくれたように感じている。

 霧に咽(むせ)ぶような『オリエンタル・エレジー』についての映画観は述べずにおくが、飛騨金山町の「筋骨巡り」で出会った家々の佇まいを仰ぎ見た時に、ぼくは巷でいわれる『ハウルの動く城』などではなく、「これぞソクーロフ」と思わず呟いたほどだった。映画の家屋とは古さも建築様式も異なるが、どこか共振するものがあった。
 憧れの映像をどの様にぼく流に調理すればいいのか、飛騨の地にあってやはり途方に暮れるぼくだった。

https://www.amatias.com/bbs/30/656.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
飛騨街道のくぼみにあった昭和の銭湯。1988年(昭和63年)まで営業。現在は立ち入り自由。「銭湯の中を見られた方は表の扉を閉めて行ってください」と但し書きの看板がぶら下がっていた。昔懐かしい脱衣所と脱衣入れ。
絞りf5.6、1/20秒、ISO 800、露出補正-0.67。
★「02飛騨金山町」
銭湯の番台。鬱陶しい写真、だからぼくは好かれない。牛乳瓶には「下呂牛乳」(音読してはいけない)と赤い文字で書かれてあった。もう1cmほど瓶を右に寄せたかったが、一切手を触れてはいけないと思い、そのままの状態で。超広角の歪曲収差は、ソクーロフに倣って補正せず。
絞りf5.6、1/20秒、ISO 200、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2023/08/18(金)
第655回:飛騨金山町(1)
 見知らぬ土地の情報を得るに、今は便利な時代となった。ベッドに寝転びながらスマホ片手にネットを探れば多くのことが、情報の当否は別としても、得ることができる。こんな横着をして情報を手に入れることにぼくは多少の後ろめたさを感じている。長年のアナログによる情報収集に身をやつしてきたぼくにとって、安易さはどこかに必ず落とし穴が潜んでいるものだとの感を拭えない。

 だがやはり、 “お手軽” という誘惑には何としても勝ち難く、無意識にキーボードを叩いている物臭な自分がいる。けれど、何事にも表裏があるものだ。ぼくはこのことに素早く気づく優れた性質を有しているのだが、いつも意志薄弱が邪魔をして、楽して実(じつ)を取ろうとするから、質(たち)がよろしくない。よしんばそれが怪しげな実であっても、自分にとってどの様なものであるかの正しい判断ができると過信しているところが、輪を掛けて、おめでたくも素晴らしい。

 昨今の、あまりの情報の多さに、人は惑わされる。取捨選択の苦手な人の多くは、疑うことを知らぬとの仏心を得ているので、それ如きのことで右往左往などしない。彼らは、ネット情報やテレビでの見聞きを鵜呑みにできるという特異な技を持っている。
 似て非なるものを瞬時に嗅ぎ分ける能力など必要ないといわんばかりにあっけらかんとしており、疑心暗鬼に凝り固まったぼくなどにとっては、何とも羨ましい限りだ。

 それはそれでよいのだが、一方、情報過多は自分の立ち位置を見失わせるとの危険性につきまとわれることになる。善と悪、正と誤は常に隣り合わせという具合になっているから余計に始末が悪い。それらは、いつも似たもの同士というわけだ。幸いないことに、ぼくはそのことに少しは気を寄せている。
 しかし、この道理に神経を尖らせないほうが、かえって生きやすいのかも知れないと、ぼくはこの歳になってそう思う時がしばしばある。

 父は、「ケチは好ましくはないが、欲張りはいかん」といっていた。母方の祖父は、「ケチはいいが、シブチンは絶対にいかん」が口癖だった。ならぼくは、「ケチもダメ、欲張りもダメ」でいいじゃないかとしている。
 祖父は、決して知的な人間ではなかったが、道理に沿った好ましい人間であろうと努めたことをぼくは認めているし、評価もしている。

 ネットなどない時代は、俗悪ではあるが、今よりは多少ましであったテレビや新聞(現在は、双方とも “オールドメディア” と揶揄されているが)に、世の人々は “お手軽” を頼っていた。
 現在のように、ネットによる正確な情報(情報の信憑性は受け手次第であり、知識力と判断力による)を容易に得ることができず、それなりの労力と幾ばくかの金銭を必要としたものだ。それがために、自分にとって必要な情報を選別し、身の振り方を熟考する必要があった。撮影に限っていえば、国内での撮影はもちろんのこと、海外でのそれは必須条件だったし、今でもそれに変わりはない。

 ネット情報が、如何なる心理的効果をもたらすかは千差万別だが、今度の旅で、かつて体験したことのある場所は、近江八幡だけだった。神戸の三ノ宮は撮影目的ではなかったので、下調べは何もしなかったが、今回取り上げた飛騨金町に行こうとのきっかけは、暇さえあれば旅にばかり出ている坊主(息子)の言葉だった。彼はまだその地を体験していなかったのだが、多くの旅情報を親父に内緒で抱え込んでいた。

 曰く「飛騨金山町は、細い路地が張り巡らされており、そこには昭和の佇まいが多く見られるらしい。ぼくもそのうちに行こうと思っている」。
 いつも坊主に先を越されるぼくは、ここだけの話、内心忸怩(じくじ)たるものがあった。今回こそ、やつを出し抜いてやろうとの野心に燃えた。
 ぼくはネット情報とYouTubeをかき回した。負けず嫌いのぼくは用意周到に、空き容量の少なくなった脳味噌に精一杯の知識を詰め込んで出かけた。それでも「手落ち」や「意外性」は避けることができないのだが、そこが旅の面白さでもある。現場での実体験こそ、「世界広しといえども、私だけのもの」なので、そこで自身が何を感じ、それをどう写真に反映させるかに、ぼくは非常な楽しみと関心を寄せた。

 飛騨街道の宿場である飛騨金山町には、前号で述べた「筋骨」の他にも見所があるらしいのだが、ぼくはいわゆる「筋骨巡り」に重点を置くことにした。あれもこれもでは、集中力を欠いてしまいかねないからだ。今回は「ひとつだけ」と心に決めた。
 ネット情報によると、そこは『ハウルの動く城』だとか「ジブリ」との形容が数多く記されていたり、また述べられてもいるが、残念なことにぼくは双方に大した興味を持っていない。
 何故かといえば、それらはぼくの指標とする写真表現とは遙かに遠い距離にあり、日本のアニメを評価しつつも、映像に関しては、ロシアのアニメ作家であるユーリー・ノルシュテイン(1941年生まれ。代表作『霧につつまれたハリネズミ』や30年以上も制作をし続け、未だ完成を見ない『外套』など)に、より高品質なものを感じているからだ。同じ土俵で比べるべきでないことを承知の上で述べれば、ノルシュテインはずっと「大人な」表現なのである。

 そして、「筋骨」の路地に降り立ち、そこで見上げた家々は、ぼくにとって、巷でいわれている、先述したところの『ハウルの動く城』などではなく、27年間もぼくの脳裏に焼き付いている映画監督の映像、まさにそれだったのである。

https://www.amatias.com/bbs/30/655.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
強い日射しが、一天にわかにかき曇り、いきなりの驟雨(しゅうう)。画面左下が細い路地。水路を跨いで家が建つ。
絞りf11、1/6秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道から、「筋骨」の路地を下る。紫陽花が窮屈そうに咲いていた。左側が水路。
絞りf9.0、1/50秒、ISO 100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2023/08/04(金)
第654回:近江八幡から飛騨金山町へ
 ステーキや牛肉には子供のころからこんにちまで目のないぼくだが、今回の旅で、神戸では神戸牛、大津では近江牛の、嵐のような激しくも際どい誘惑に打ち勝ち、倹(つま)しくも雄々しい写真屋のあるべき姿を示すことができたと悦に入っていた。単純な男だ。だが、関東ではなかなか味わえぬほど美味い牛たちである。ぼくは彼らの迫り来る肉の誘惑に見事勝利した。勇猛果敢に、牛たちを闘牛士のように打ち負かしたのだった。

 これはこれで一種の、とかく野菜嫌いの人間にとって、極めて高貴で勇気溢れる振る舞いではなかったかとぼくは自身への讃辞を惜しまなかった。「やればできる」との貴重な教えを得たのだった。食欲などという浅ましき欲に打ち勝ち、倹しくあることは人として誠に尊ぶべきことだ。このことは、貴賤の分かれ目とも思える。
 「おまえがそれをいうか!」との的外れな声が関西方面から聞こえてくるのは重々承知しているが、それは食欲旺盛だった若かりしころの話だ。誰でもそのような時期があっただろうに。だから、そんなことはもう忘れてもらいたい。

 ぼくがいいたいのは、この歳になって、食や酒について、あれやこれやの、意味のないことに蘊蓄(うんちく)を傾ける所作は、誠にはしたないということなのだ。だが、それに気のつかぬ、行儀の悪い人々がたくさんいる。
 「このことは、食に限らず写真でも同様である」と、ぼくは「写真よもやま話」に相応しく?あろうと、 これに託けて声を大にしていいたい。年相応の写真こそ尊いと思っているし、そのような写真をぼくは高く評価している。「年相応の写真を撮りましょう」というのが、ぼくの常套句でもある。
 第一、還暦を過ぎれば肩の力も抜け、食や酒に関する蘊蓄に踊らされることもなかろうにと、ぼくは自省を込めて思うのだ。

 また時に、年配の方々がもっともらしく、「若い人の写真を見て、その感性から学ぶべきことが多々ある」とわけ知り顔でうそぶく。そのような光景に時折出会(くわ)すのはぼくばかりではないだろう。よくある話である。
 だが、自分のことはさて置き、「あなただってその時代があったのでしょう? その時に学ばなかったの? 若い人の作品から学ぶべきことがないなどとは決して思わないが、今、あなたは若い人にない多くの人生経験を持ち、そこで得た人生観は唯一無二のあなただけのものなのだから、それを宝物とし、作品に反映させることを第一義とすべきではないのか」と、ぼくは相手の顔を覗き込みながら伺いを立てる。若い人には若さに相応しい作品を。年配者はその人生に嘘を吐かぬ作品をとの思いが、ぼくには強固なまでにある。

 あれれ、これ以上説教がましくなってはいかんので(もう十分になっている)、話を元に戻そう。
 倹しくあることは素晴らしきこととの自身の考えを今回の旅で実践できたことに、いうにいわれぬ高揚感と満足感を覚えた。「おれもまだまだ捨てたものじゃない。この地で、小銭をばらまくという大失態を演じてしまったが、しかし、老いぼれちゃいないのだ」との意を強くした。
 このような肉欲 !? に打ち勝つことは並大抵の人間ではできぬことだと、ぼくは現地にて、これ以上にないほど自慢気に鼻を膨らませた。何とも仕合わせな男である。

 八幡堀や新町通りの撮影に悩みながらも5時間を費やし、「近江八幡の撮影は本日をもって終了。雪の季節なら、また別の趣があっていいだろうな」と思いつつ、歩いてホテルに引き上げることにした。
 疲れ切っていたが、「ホテルまでの道中、もしや良い被写体に巡り会うかも知れない。ならば、歩くほかなし。バスを利用すれば、往路での小銭ばらまき事件を知っている人に、もしかすると出会ってしまうかも知れない。あるいは同じ運転手さんという可能性も大だ。心に突き刺さるような視線を投じられるのは敵わない。世の中、何があるか分かったものではないからな。見くびってはいかん」とぶつぶついい、ふらつく足を引きずりながらも、ホテルまで約2kmの道のりを歩いた。

 やっとの思いでホテルのベッドに倒れ込み、夕食までの時間をうつらうつらし、体力の回復に努めた。やがて空腹を覚え、手軽で美味しい店を教えてもらおうと、フロントに出向いた。ところがここでぼくは卑怯な闇討ちに遭ってしまったのだ。
 フロントマンは得意気に、「お客さん、せっかく近江に来やはったんやし、それやったらやはり近江牛でっせ。それしかおまへん。ええ店を何軒か紹介しまっさ」と、この旅で得たぼくの掛け替えのないささやかな矜恃を、彼は妄(みだ)りに打ち砕こうとしたのだった。肉欲に打ち勝ってきたぼくを差し置いて、何たる戯言(たわごと)。ぼくは、寝小便を咎められた小僧のように、べたべたの関西言葉に対抗の手を失い、打ちひしがれるしかなかった。ぼくはフロントマンの意向にやむなく従い、いそいそと近江牛を喰らいに、店の敷居をまたいでしまった。

 今回は、飛騨金山(かなやま)(岐阜県。2004年に益田郡の他4町村が合併し下呂市となった。正しくは、下呂市金山町。駅名は、飛騨金山)に辿り着く予定だったが、いつもの如く余計なことばかり書き連ね、辿りそびれてしまった。掲載写真だけが、そこに辿り着き、それでお茶を濁すことに。な〜にやってんだか!

 来週は、お盆休みのため休載です。

https://www.amatias.com/bbs/30/654.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
金山町は「筋骨」(きんこつ)と呼ばれる名物がある。「筋骨」とは、飛騨地方の呼び名で、細い路地が迷路のように絡み合っている公道を指し、その様が人間の筋や骨のようであることから、名付けられた。町なかの飛騨街道から、人がやっとすれ違うことのできる階段を降りるところから始まる。この写真はその一例。
絞りf9.0、1/80秒、ISO 400、露出補正-1.00。
★「02飛騨金山町」
「01」写真に見える小さな橋から、見上げた風景。下に水路が通っている。この写真のイメージの成り立ちは次回にて詳しく記すことに。
絞りf5.6、1/800秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)