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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2014/04/04(金)
第193回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(18)
 滞在4日目、我々は大熊町を撮影することになった。福島第一原発は大熊町と双葉町にまたがって立地している。事故を起こした1,2,3,4号機は大熊町にあり、5,6号機が双葉町である。本来大熊町にあるべき大熊町役場は未だ放射線量が高く、ここで仕事に従事することはできない。現在は、会津若松市に仮の出張所を設けているので、立ち入り許可はここへ申請しなければならなかった。
 規定の申請書類に趣意書(立ち入り目的やぼくの経歴など)を添えて送付した。と同時に、電話での揉み手作戦を併用した。人数が多い上に、線量も高いので、無機的な書類より有機的な会話の方が、より許可を得やすいだろうと考えてのことだった。Face To Faceとまではいかないが、お互いに肉声を交わせば心情的にも理解が深まる可能性が高い。こちらの考えや目的などをしっかり伝え、また親近感を持ってもらうことができるとぼくは考えた。保証の限りではないが。
 当初、役場の担当者はやはり渋りがちだった。公益事業者(除染作業員や原発関連事業者など)や住民の一時帰宅(墓参りなど)は許可しているが、一般個人の立ち入り許可は前例がないのだという。
 「前例がない」というのは、いわばお役所や裁判所の伝家の宝刀であり、切り札でもあり、そこを突破するのがぼくに課せられた役目だった。交渉事は大の苦手のぼくが、それをしなければならないのだから沈鬱な気分にもなろうというものだ。もしぼくに宝刀らしきものがあるのなら、それは誠心誠意訴え続けることしかない。ただし、この誠心誠意は、執拗かつ明確で、悠々閑々とし、おっとりしていなければならない。この矛盾に満ちた作法はぼくの手に余る。胆汁質のぼくには、気が滅入ってしまう。
 そんな堪え難さを忍びつつも、担当者と言葉を交わしているうちに相手の対応が次第に軟化していくのを感じ取った。朗報近しというところだ。「前例がない」ことを「私が打ち破ってみよう」という担当者の気概をぼくは電話口で受け取った。先方から何度も電話をいただくようになり、職員2人を案内役として同行してくれることにまで話が進んだ。懇切な対応をしてくださった担当者に衷心よりお礼を申し述べておきたい。

 同行の職員諸氏と落ち合うために我々は大熊町にある原発より10km圏内の坂下ダム施設管理事務所に出向くことになった。ここに大熊町役場の現地連絡事務所がある。大熊町は町中でバリケードが施設され通過できないので、迂回しなければならない。南相馬から6号線を一旦楢葉町まで南下し、そこから県道35号線を再び北上して坂下ダムに至る。車で1時間20分の道程である。
 35号線の車窓風景も、阿武隈山系の初秋の色づきとともにのどかの一言で、とても美しい。だが点在する家々はひっそりと静まり返り、カーテンが下ろされ、人の気配はまったくない。風景の美しさに比し、ここも異様な不気味さと痛みを感じる。
 北上するに従って、線量計の音量がガーガーピーピーとうるさく騒ぎ立てた。助手席のぼくは、運転するSさんに「かなり上がってきましたよ」というと、Sさんもかなり気になるらしく「今どのくらい?」を連発し始めた。空間線量が8μSv/hを超えたところで(原子力規制委員会のモニタリング情報では、今年3月の埼玉県庁は0.053μSv/h。現在ぼくのロシア製と国産の線量計は双方とも0.08μSv/hを指している)、ぼくは下車し、後続の2台の車に「みなさん、マスクをしましょう」と促した。彼らも線量が上がってきたことを承知しており、ぼくがいうまでもなく素早い反応を示した。「糠に釘」の人々よ、普段もこのくらい迅速なる反応を示してもらいたいものだ。ぼくのいうことをこのように素直な気持ちで受け入れれば、もっと早く写真上手になれるのだぞ、とぼくは一人ごちた。

 坂下ダムに到着し、事務所を訪ねた。ダム近辺は除染がなされ比較的低線量である。といっても年間2mSvを超え、若い人が勤務するには不適だ。
 ぼくらは事務所に通され、ここに勤務するおじさんたち数人に温かいもてなしを受け、大熊町の現状について丁寧な説明を受けた。部屋の中央には町の精密で大きな俯瞰模型が置かれ、空間線量により色分けされた待ち針が指してあった。
 余談だがちょうど1ヶ月ほど前に放映された『無人の町のじじい部隊』と題するNHKスペシャルに登場していたおじさんたちである。俯瞰模型も映し出されていた。

 ダムで防護服に着替え、同行職員の先導する車にぼくらは続いた。まず大川原地区の除染現場を案内してくれた。楢葉町の除染現場でのきわどい撮影を経験したぼくは(第178回)、今回同行職員の官印をいただいたようなものなので、誰にも後ろ指を指されることもなく、ましてや逃げ回ることもなく、晴れ晴れと写真に専念できた。表土5cmをユンボ(重機)で削り取る作業だそうである。除染作業自体はあまりフォトジェニックなものではなく、ぼくはもっぱらユンボを器用に扱う作業員に見惚れていた。ユンボの扱いには多少腕に覚えがあったので、なおさらいけない。ぼくだったら、土ごとひっくり返してしまうだろう。良い写真は撮れなかったが、記録としてのものを掲載しておこう。

 地元の人間でしか分からないような道を先導車は進んで行った。やがて案内されたのは、大熊町立大野小学校だった。学校はさらに胸が痛む。ぼくは子供たちの騒ぎ立てるあの騒々しい音を極度に嫌い、そして避けてきた。頭が割れそうなくらい苦痛を覚えるのだ。けれど、無音の小学校というのはこの世のものとは思えない。なにか宗教的な厳粛さがあるが、それにも生理的な反発を覚える。それは静寂とは異質のものだ。校舎の間をぬって歩くぼくは、現実から浮遊し、地に足がつかぬままシャッターを切っていたような気がする。情動的というか、やはり胆汁質による情緒不安定が、肝心の幻覚を曖昧なものにしていた。座敷わらしでも出てくれればいいのに。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/193.html

★「01大熊町」。初秋の坂下ダム。ここから福島第一原発へ冷却用水が流れている。このダムがテロに遭ったらどうなってしまうのだろうと我々は話し合った。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf13、1/400秒。露出補正-2。ISO100。2013年11月11日。

★「02大熊町」。大川原地区の除染現場。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/320秒。露出補正-0.67。ISO200。2013年11月11日。

★「03大熊町」。大熊町立大野小学校。このレンズ、f8.0では周辺部の解像度がどうしても甘くなる。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/320秒。露出補正-0.67。ISO320。2013年11月11日。

★「04大熊町」。大熊町立大野小学校校庭。空間線量は約6μSv/hだったが、土壌は1kgあたり驚くべきベクレル値を示すだろう。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞り13、1/160秒。露出補正-0.67。ISO200。2013年11月11日。

★「05大熊町」。大熊町立大野小学校。立派な校舎だが、もはや廃墟と化している。物音ひとつしない音楽室に小太鼓が並べられていた。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞り13、1/100秒。露出補正-0.67。ISO320。2013年11月11日。
(文:亀山哲郎)

2014/03/28(金)
第192回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(17)
 福島で撮った約1800枚のRawデータのうち350枚を4ヶ月かけて完成させた。何度も何度も自問自答しながら現場で得たイメージを再現させようと、飽くことなく手直しをして、やっと一息ついたところだった。その過程を辿ると、我ながらその執念深さに呆れる(実は感心している)。
 一段落したところでぼくは突然予期せぬ悪魔にささやかれた。その不遇を託ち、自分の性格とそのありようを慨嘆し、そして怨んだ。病的執着心、これがぼくの薄幸?の一因ではないかと思える。悪魔とは、前回お話ししたプラチナプリントのことだ。
 4ヶ月間、苦心惨憺して作り上げたものを破棄し、もう一度虚心坦懐に原点に立ち返り、新たな気持ちで探り直したらいいのではないかと言い聞かせた。自分の体臭に少しばかりうんざりし始めていたので、ちょうどいい。長い間、知らず識らずのうちに身に染みてしまったものを僅かでも洗い流し、もう一度考え直す、そんな機会を与えてくれたのだから、そう悲嘆に暮れる必要もなかろうと、ぼくはいくばくかの慰藉を得た。悪魔変じて女神とすればいいのだが、しかしあろうことか、それは懐古調的大年増の女神だった。

 前回、大年増のプラチナプリントを持ち出したのは、現在テーマとしている「立ち入り禁止区域」の内容とは無関係なこととして、読者諸兄は唐突に思われたかも知れない。ぼくにしたって、それは天から不意に、ひょっこり降りかかってきたのだから致し方ない。行き詰まっているぼくに対する天の捧げ物として素直に受け取ることにした。「物づくりはいつだって『道半ば』」と前回述べたが、「行き詰まり」も付け加えなければならない。双方の化学変化を錬金術のように捉え、それを信じて邁進したほうがずっと建設的である。それが天からの声だった。やはり、年増の女はエラい!

 実はそんなヒントを与えてくれたのが“建築屋”のTさんだった。Tさんは年増女ではなく、50歳をちょっと過ぎた中年男である。中年男というのは、ぼくの物差しに照らし合わせば、人生のなかで最も汚れ、世知辛く打算的で、要領が良く、悪賢い。「意図せぬこと」や「正義に照らし合わせて」ノーとはいえず、「信念に従うこと」にイエスともいえない。組織というものの中枢に行けば行くほどその傾向が強くなる。ぼくは中年時、フリーランスという立場上、組織とは無縁でいられたが、とはいえやはり“知らず識らずのうちに身に染みてしまった汚れ”があったように思う。自分の写真にそのような傾向を見る。Tさんが与えてくれたヒントとは、そのような中年気質を指しているのではない。ここは誤解を受けぬように、しかと述べておかないと思わぬ仕打ちを受けそうだ。彼はわが倶楽部の会計係で、大変取り立てが厳しい。そのためには、脅迫、恫喝をいとわず、とても責任感が強い。あまりありがたくない責任感である。

 ぼくは、建築こそあらゆる芸術の原点であり、またその集大成だとも思っている。芸術の諸要素が建築にはぎっしりと結晶化されている。あらゆる芸術は建築から派生しているといっても過言ではないと思っている。
 建築屋のTさんはその道に長年従事してきた。デザイン、デッサン、模型工作に長け、建築・土木学に精通し、また美術にも造詣の深い彼は、その対極にあるゼネコンとも仲良しのふりをしなければならず、時には嫌悪感を抱きつつ、その狭間にあって、茨の道を歩んできたに違いない。苦労人である。食うためには自分の美学を放棄しなければならないという大きな悲劇と相克を抱え、その辻褄合わせに腐心してきたのだろう。物づくり屋はいずこも同じだ。

 双葉町で、建築・土木を専門とする彼が、その方面にはずぶの素人といっていいぼく相手に、地震による家の倒壊や地盤沈下のメカニズムを容易に理解できる程度に解説してくれた。ぼくはその“程々の”匙加減に感心したのである。専門家が素人に物事を分かりやすく伝えるというのは並大抵のことではない。相手は自分ほど知識も技術も持っていないのだから、その知識をことさらに披瀝し、口角泡を飛ばし講釈に及んでも意味がなく、相手に理解を得るにはどこで自制するかが大きなポイントでもあり、それこそが理知力というものだ。生半可な知識しか持ってない人間に限って、余計な効能書きばかりを並べたがるものだ。アッリャ〜! オレ、自爆してるわ。

 そんなTさんの過不足のない抑制の効いた解説と気振りを、ぼくは不幸にも4ヶ月後に思い起こし、そして考え直し、大きなヒントとしたのである。それがプラチナプリントへの思い立ちだった。双葉町では、彼の話に感心こそすれ自身に反映させることはなかった。ぼくも専門家の端くれとして自分の写真に抑制を効かせ、「もう一度古典の作法を顧みたらいかが? そこに宿る普遍的な美に立ち返ることができれば、一歩前進でき、何かが見えてくるかも知れない」と淡い期待を持った。「善は急げ」と「行き詰まった時は『古典に返る』」というのはぼくの場当たりの信条でもある。
 取るに足りない技芸や小細工を施すことなく、また行き過ぎや不足がなく、常に調和が取れていることを中庸の美というが、調和のあり方が即ち磨かれた個性と品位につながっていくのだとぼくは思っている。

 双葉町でTさんはぼくを見つけると、タイベック防護服の袖をつかみ「オレの話が終わるまでは手放さないぞ。ちゃんと話を聞け」と徐々に武力行使を強化していった。“程々の匙加減”は何処へやら。まだ悪しき中年男の性から抜け出せないでいるようだった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/192.html
  <双葉町は前回からの通し番号>

★「11双葉町市街」。長い歴史を生き抜いてきた屋敷がいとも簡単に倒壊。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf8.0、1/25秒。露出補正-1.33。ISO500。2013年11月10日。

★「12双葉町市街」。このような倒れ方をしたブロック塀が至る所に。地震の時はブロック塀に近づいてはいけないということだ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/50秒。露出補正-1.67。ISO800。2013年11月10日。

★「13双葉町市街」。前回6月にも撮ったが、ぼくにとって難儀な被写体だった。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/60秒。露出補正-1.67。ISO400。2013年11月10日。

★「14双葉町市街」。光善寺の門。それほど古くはないのだが。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/50秒。露出補正-1.67。ISO800。2013年11月10日。

★「15双葉町市街」。商店街。帰還困難区域につきまだ何年もこのままの状態が続くのだろう。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/100秒。露出補正-1.33。ISO800。2013年11月10日。
(文:亀山哲郎)

2014/03/24(月)
第191回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(16)
 ぼくがまだ20代半ばのことだから、もう40年も昔のことになる。どこで見たのか、誰の作品だったか記憶にないのだが、その時に目にしたプラチナプリントの美しさだけは未だに頭の隅にこびりついている。ヨーロッパの写真家のものだったように記憶するが、その後30歳を少し越えた頃に再びプラチナプリントを目にする機会があった。E.ウェストン(Edward Weston。1886〜1958年)のものだった。
 ウェストン贔屓だったぼくは、プラチナプリントの美しさに再び惚れて「オレも一丁試みるか」という強い誘惑に駆られた。したいことが見つかると、とたんに理性を失い猪突猛進してしまうぼくだが、当時はその詳細な化学的処方も分からず、また非常に高価なものになってしまうことを知っていたので、手をつけられずにいた。
 プラチナプリントは、グラデーションの美しさ、黒の締まり、解像度、そこから醸し出される優美な佇まい、保存性の高さなどなど、印画法として突出した存在感を示す写真技法だった。おそらく今もそうなのだろう。

 初対面から40年の月日が流れ、デジタル全盛となった今、またぞろプラチナプリントへの恋慕がぼくの安普請の頭を震度6強の地震のようにグラグラと揺すってきた。もちろんデジタルを駆使しての、いわば自己流疑似プラチナプリントを試みようと、またもや理性喪失。実際にプラチナプリントの技法を会得したわけではないので、あくまでも当時見たその残像を追いかけてのものである。イメージとしてのプラチナプリントを追求してみようという気になってしまった。もういけない。
 ぼくは3日間、1日18時間もパソコンの前に座り続け、見果てぬ夢を追いかけ回した。久しぶりの、寝食を忘れ一心不乱というやつだ。当然ながら、まだ「道半ば」としての結果ではあるけれど、完成度31%くらいにまでたどり着いた双葉町の写真を掲載させていただくことにした。これは大変な勇気を必要とする。Web上のものなので(100人100様のモニターであるからして)、何にも増して恐怖この上なしだが、その真価はやはりプリント上でしか認められないことを百も承知してのWeb掲載だ。模倣完成の折には、既に印画紙は世界最高品質とぼくが認める仏キャンソン社製のものを使用することに決めている。
 物づくりというのはいつだって「道半ば」が真理だから、そのような勇気さえ忘れなければ永遠に若さを保てるというものだ。臆病風に吹かれれば人はどうしても無難さを選ぶようになり、延いては進歩が止まるので、心身ともに老け込んでしまう。「悟り=ものが分かったと著しく錯覚し、堕落の一途を辿ること」だとぼくは固く信じている。

 プラチナプリントの美しさは凝り性な写真愛好家の間で、間断なく言い伝えられてきたが、ぼくはその美しさのすべてをプラチナプリントだからとするのは間違いであると断言しておきたい。そこに大きなことが見過ごされていると思うからだ。プラチナプリントは非常な低感度であることと、紫外線によって画像形成をするために、太陽光下での密着焼き(コンタクトプリント)が原則である。したがって、8x10インチなどの大型フィルムを使用前提としている。
 ここで、密着焼きと引き伸ばし機を用いた画像形成と質の違いを述べると、ぼくは鼻を膨らませて滔々とやってしまいそうなので、それについては機を改めて述べようと思うが、プラチナプリントでなくても、密着焼きの美しさは(通常の銀塩プリントでも)引き伸ばし機を用いて印画したものとは雲泥の差がある。それほど密着焼きは艶っぽく美しい。それを考慮しないでプラチナプリントは「無条件に美しい」ものであるかのようないい方をされているので、その評価の仕方に「それは贔屓のひき倒しであり、一方的で科学的公平さに欠けている」とぼくは主張したいのだ。

 双葉町で防護服を着込んだ7人は集合場所と時間を決め、それぞれが足の向くままに散って行った。ぼくは彼らに2時間限定の撮影と申し伝えた。無人の小さな町であることに加え全員が白装束なので、ここでかくれんぼはできそうもない。「あの人に遇うと撮影を邪魔される」ことを恐れ、身を隠そうにもすぐに発見されてしまうから、ちょっと始末に負えない。イノシシやイノブタの襲来から身を守る以外は、原則「私有地には立ち入らない」のは撮影のマナーであり、そのことも不都合に輪をかけた。

 7人のなかにTさんという建築家がいた。当人は“建築家”と呼ばれることを極度に嫌っているので、本人の申請通り“建築屋”としておこう。幸か不幸か、彼に遇うと崩壊した家々や地盤沈下についての原因とそのメカニズムを、専門家然として詳しく丁寧に語ってくれた。なるほど、面白い。このような解説は素人のぼくにとって、とても関心を惹く事柄だった。ぼくの思うところの彼の人柄と写真について、今書きたくてうずうずしているが、今回はプラチナプリントについて少し書き過ぎたので(だって「写真よもやま話」なんだから)、それは次回に回そう。

 被写体を渉猟していると、脇道からTさんが何の前ぶれもなくひょっこり現れ、鉢合わせてしまった。おかしなもので、惚れ合った男女のように、なぜか照れ臭く、我々は少しはにかんだ。その証拠に、お互い言葉が出ずに固まったように思えた。はにかむ間柄でもなかろうに、人間とは面白いものだ。 
 お互いに迷惑そうな顔をしながらも、彼は冷静を装い、淡々と「かめさん、この家を見てくださいよ」という。「何か変?」とぼく。お互いに照れが消えたところで、彼はちょっと得意気に、「いやね、1階がペシャンコに潰れた2階建はたくさんありますが、この家は2階が潰れているんですよ」といい、ぼくの顔を不審な様子で覗き見た。内心「あんた、写真屋のくせにこの珍しい潰れ方に気づかないのか」と、痛罵しているに違いなかった。ぼくは一瞬、前回に引き続き頭が混濁した。
 「はぁ〜、確かに2階が潰れているわ。珍しいね。いわれなければ気がつかなかったよ」と返すと、「2階の柱が屋根を突き破ってどこかに出ているはずです」と、それは専門家の面目躍如たる確信に満ちた仰せであった。脇の通路に2人でごそごそと入って見上げると、彼がいい加減な建築屋ではないことが証明された。2本の柱が天に突き出ていた。ぼくはTさんを「なかなか頼り甲斐のあるやつ」と認め、自分の不甲斐なさを顧みてやはり少々照れ臭かった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/191.html
  <双葉町は前回からの通し番号>

★「06双葉町市街」。文中で述べた2階が完全に潰れた家屋。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16~35mm F2.8L II USM。絞りf5.6、1/100秒。露出補正-1.33。ISO400。2013年11月10日。

★「07双葉町市街」。前回も別アングルで撮ったが、屋根や散乱物の状態はほとんど変化がない。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/60秒。露出補正-1.33。ISO400。2013年11月10日。

★「08双葉町市街」。木造家屋のほとんどが全壊か半壊。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/80秒。露出補正-1.33。ISO400。2013年11月10日。

★「09双葉町市街」。双葉町消防団第二分団。地震の起きた約2分後に時を止めたままの時計。シャッターが歪み消防車が出せなくなったのだろうか。無理矢理こじ開けた痕跡が残る。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/50秒。露出補正-1。ISO250。2013年11月10日。

★「10双葉町市街」。石造りの家と塀が同時に崩壊。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/80秒。露出補正-1.67。ISO400。2013年11月10日。

(文:亀山哲郎)

2014/03/14(金)
第190回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(15)
 話は前回より時相をさかのぼり福島3日目に戻る。
 前々回登場願ったSさん、Jさんを伴い、ぼくら3人は浪江町と双葉町を訪れることにした。南相馬から南下し、津波ですべてが押し流された南相馬市小高区(おだかく)で、車を6号線脇に止め一旦下車。海岸から約2kmの地点にある6号線を津波は越えていった。辺りには津波に押し流され、つぶれた乗用車がタイヤを天に向けてひっくり返り、トラックやコンテナなども流れ着いていた。前回来た時と何も変わらない。津波はこれらの重量物をまるで波打ち際に漂う浮き輪のように、いとも軽々とここまで運んできたのだ(第188回掲載写真)。

 Sさんは、我が倶楽部のまことにかしましい連中にあって比較的もの静かな人で、昨年高校の教師を定年退職されぼくらの仲閧ニなった。当人は否定するが、その筋から聞こえ伝わるに、現職時代は相当な熱血教師で、生徒に恐れられたそうである。しかし、修学旅行や運動会で撮った生徒たちの写真を見ていると、Sさんは生徒たちとの距離がとても近かったことが窺える。写真とは不思議なものだ。20年近く前に卒業した生徒たちから未だにしばしば誘いを受け、それを口実に飲み歩いているらしい。生徒にとってはまさに生涯の恩師であり、Sさんにしてみれば教師冥利に尽きるということだろう。

 そのSさんが流れ着いたと思われる大きなコンテナを前に、ちょっと顔をしかめていた。「太陽が真正面にきてしまい、弱ったな」と訴えているようだった。写真のセオリーに従い、真逆光に躊躇している様子だ。肥後もっこすの彼に、ぼくは「かまわない、かまわない、恐れることなく撮ってよかとですよ」と、九州弁を交えて、ぼくも恐れず少しばかり命令的激励調に伝えた。
 ぼくは、デジタルはフィルムに比べ、逆光撮影は極めて有利だとの見解を持っている。もちろん“素のままの写真”(世間一般では、それを“撮って出し”と称するらしいが、あまり品の良い言葉とは思えないのでぼくは使わない)は、フィルムもデジタルも変わりはない。
 逆光条件での撮影は、露出計が太陽に反応し、結果として主被写体が露出不足でシルエットになったり、質感が失われて見えたりする。だがデジタルでは撮影時に注意深く露出補正をし、シャドウ部の情報さえ残しておけば(黒潰れさえさせなければ)画像ソフトを使い見事に再現できる(第182回掲載の「01浪江町請戸」はその典型例。撮影データとともにご参照のほどを)。
 以前にも述べたように、デジタルの露光決定は「ハイライト基準」がぼくの持論。つまり、最も明るい部分をどのくらいの明度に描くかということだ。デジタルで白飛びをさせてしまうと、情報がまったく失われているということだから、暗室作業を駆使してもどうにもならない。フィルムでは逆に「シャドウ基準」で撮影し、ゾーンシステムの理論に従い濃度域を現像により調整する。
 デジタル撮影での注意点としては、暗部を持ち上げるとノイズが目立つ傾向にあるので、最も画質の良い(ノイズの少ない)低感度ISOを使用することが条件。素性の良いカメラを使用条件に加えてもいい。Rawデータで撮影し、現像時にシャドウ部を調整してから、それを16bitでPhotoshopに受け渡す。Photoshopで細かい補整をしていくという手順を踏めば、「逆光など恐るに足りず」だ。
 まず逆光を恐れることなく果敢に撮ることをSさんに身につけてもらいたいと考えたので、露出補正や暗室作業についてのノウハウはまだ伝えていない。Sさんには熱意があり向上心も高いので、ぼくはそのお手伝いを少しだけすればいいと思っている。彼の上達にぼくは一抹の不安も抱いてないが、今まで使用していたパソコン、モニター、プリンタを未練なくお払い箱にし、一気に数段性能の良いものに入れ替えてしまった。ぼくは今、彼の豪快な潔さが奥方との家庭騒動に発展しないようにと祈っている。

 昨年6月に訪れた時は、6号線から双葉町中心部へ通じる大通りはアコーディオン式バリケードで閉じられていたが、今回は開放されていた。理由は明らかではないが、住民の一時立ち入りが月一度午前9時〜午後4時に限って許可されたためかも知れない。
 双葉町市街に通じる交差点入口には「この先帰還困難区域につき通行止め」という小さな立て看板が、片隅に申し訳なさそうに立てられていたが、それとは対照的に、大通りに架かった「原子力明るい未来のエネルギー」(第154回掲載写真参照)は、切歯扼腕の象徴として、あたかも嘆き可惜しむ標語の、猛々しい大看板のように見えた(可惜し=あたらし。その立派さに相当する状態にあればよいのにと思う気持ちを表す。広辞苑)。今となっては、なんとシニカルな表現だろう。この看板の裏側には、声を失った住民の声なき声が集約され、へばりついている。

 ぼくらはそこで防護服に着替え、線量計を首にぶら下げ撮影を始めた。白衣の防護服は放射線のすべてを防ぐわけではなく、内部被曝に重大な悪影響をもたらすプルトニウムなどのα(アルファ)線を遮断し、放射性微粒子の付着を防ぐためのもので、使い捨てである。ゴム手袋やマスクも必携だ。

 町の情景は第158 回前後でそのあらましを述べたので割愛するが、前回撮影した場所を再度撮影してみた。それを比較すれば半年を経過しての何かしらの変化が見て取れると判断したからだ。ぼくはそこに関心を抱いた。
 崩壊した家の様子や路上の瓦礫の散乱状態を写真で比較してみると、台風などに見舞われたにも関わらず、ほとんど変化がなかった。これはこれでさまざまなことを想起させるが、ぼくの頭は混濁しつつも、この町がもし将来復興し、震災前のコミュニティを取り戻すのであれば、それは原発の廃炉作業が無事完了し、徹底した除染がなされ、高濃度放射性廃棄物処理の難問が解決(今のシステムや科学では無理)された後であろうと考える。一人の人間の命を考えれば、途方もなく遠い未来のことであるように思えた。

 撮影をしていると電話が鳴った。後発隊の4人が「富岡町での撮影を終えたのでこれからそちらに向かう」とのことだ。地域内での飲食は厳禁と伝えておいたので、「今、午後12時半だけれど、当然昼食は取ってないよね」というと、「ええ、取っていません。でも、女性たちが執拗に空腹を訴え、うるさくって敵いませんよ」と、気遣いに長けた元エンジニアのIさんがつぶやくようにいった。
 食には異常な執念を燃やす3人の女性が揃う。夕食のことを考えている余地などないのだが、戦慄の女たちの襲来に、ぼくの安普請の脳みそはメルトダウンを始め、ますます混濁していくのだった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/190.html

★「01双葉町市街」。震度6強の地震で、2階屋の1階が完全に押し潰されている。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf13、1/60秒。露出補正-1.67。ISO400。2013年11月10日。

★「02双葉町市街」。双葉町を南北に貫く大通り。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/60秒。露出補正-1。ISO200。2013年11月10日。

★「03双葉町市街」。理髪店の内部を窓枠より撮影。鏡が粉々に砕け落ちていた。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/20秒。露出補正-1.67。ISO400。2013年11月10日。

★「04双葉町市街」。前回は素通りしてしまった被写体だったが、今回は何かに惹かれた。光線の具合がイメージに合致したのだろう。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/40秒。露出補正-1.33。ISO400。2013年11月10日。

★「05双葉町市街」。双葉駅構内。枯れススキと真っ赤に錆びついたレールが深い哀惜を誘う。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/50秒。露出補正-0.67。ISO320。2013年11月10日。
(文:亀山哲郎)

2014/03/07(金)
第189回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(14)
 東日本大震災からやがて3年の月日が経とうとしている。「風化」が叫ばれる昨今だが、この時期になるとメディアは思い出したかのようにさまざまな特集を盛んに組み一定の役目を果たしているかのような錯覚を我々にもたらしている。しかしぼくは、被災者や震災に付随する本質的な問題がどこかですり替えられ、置き去りにされているように思えてならない。
 被災者ばかりでなく、徒手空拳である私たちさえも、諸悪の根源を成す政治権力や既得権益にしがみつく、いわゆる官民あげての「原子力ムラ」に安穏と居を構える暗愚で陋劣な人間たちに翻弄され続けている現状を見ていると、ぼく自身どうにもやり切れぬ思いばかりが募る。おそらく読者諸賢にもぼくと同じような思いを抱いている方が大勢おられると思う。誰かの顔色を窺いながらのジャーナリズムの言説はとうに信頼を失い、お決まりの陳腐さに国民はもううんざりしているはずだ。今に限ったことではないが、健全な権力の番人はとっくに姿を消している。
 拙「よもやま話」は、ぼくの政治的なイデオロギーを前面に押し出したり、語る場所ではないと自覚しているので、被災者や原発事故について感じるところを極めて控え目な言い草に束ねているに過ぎない。言わんとするところは拙い写真から少しだけ汲み取っていただければありがたいと願っている。

 また、震災直後の狂騒状態から一歩身を引き、時を置き宮城や福島の被災地を訪れたのは、正確な情報や公平なデータが得られぬなかでの右往左往は、一面的な物の見方しかできず、核になる部分を見落としてしまう恐れが多いと判断したからだった。自分自身への不信感を増長させてしまい、そこでの物言いは控えるべきだろう。そしてまた、それはぼくの役割ではない。出かける以上は自分の拠り所とする意識を持っていたい。
 社会や自身が世の空気に流されながら動き、まっとうな論理がなおざりにされることを防ぐための、一種の自己防衛だったともいえる。それなりの知見を得るには時間が必要であり、知見とはさまざまに異なる立場からの意見や知識の集約であり、それに基づく実践の積み重ねによってのみ得られるものだとぼくは信じている。そして初めて“他者の存在”に気づく。
 被災者の心情を推し量ることなどとてもできないが、それでも我が身に寄せて、少しでも人の心を知ることができればと願った結果だった。身をつねることと足を運ぶことの重要さを今回も改めて知得した次第。

 ぼくは写真屋だから撮影を主眼にしたのだろうかと問うてみると、あながちそうともいえない。確かに写真屋にとっての被災地、とりわけ福島は重要で大きなテーマには違いないが、喩え写真屋でなくとも、行ける行けないは別として、現地に赴きその空気を体感しようと試みたことは明白な事実として残るに違いない。
 たまたまぼくは写真屋であり、たまたま表現の自由で保護されている人間でもあり、放射線という目に見えぬ恐怖により自己の生活を一瞬にして奪われた被災地の光景を写真と文章で、この場をお借りしてお伝えしているに過ぎないというのが正直な気持ちである。そこに大義を感じているわけではない。

 今回は時系列の写真掲載ではなく、町民が着の身着のまま慌てふためいて逃げ出したことを如実に示す写真3点を含めて、ご覧いただこうと思う。

 「01浪江町_新聞」は、この旅の最終日に三たび浪江町を訪れ発見したものだ。同行者はIさんとMさん。聞くところによると発見者はMさんで、彼女はぼくの中学2年時の同級生でもあり、我が倶楽部の最古参の一人だ。「写真」の“写”の字も知らぬ存ぜぬと憚りなく吹聴する主婦が、一種の気の迷いから写真を始めて10年。彼女の写真習得には数えきれぬほどの仰天・驚愕エピソードがあり、ぼくは常に絶望の縁に立たされてきた。「石の上にも三年」というが、彼女はとても素晴らしい写真を撮るようになり、おかげでぼくは、「石の上にも十年」の忍従を止むことなく強いられつつある。←“現在進行形”であることに留意。

 浪江駅前広場で朴念仁(ぼくねんじん)のようにボーッと突っ立っていると、遠くの方でIさんとMさんが盛んに手招きをしている。見るからに善良そうな2人だが、善良であるが故の必死の形相がぼくに尋常ならざる警戒感を与えた。好奇心や関心ではなく警戒心を呼び起こすところが、彼らの穏やかで、信頼たり得る人柄を示している。「全体、何事か!」と、ぼくはしばらく足が前に進まなかったが、必死の手招きに引きずられるようにノロノロと歩を進めた。
 現場に近づくにつれ、Mさんは決して軽くはないと思われる体をピョンピョンと跳ね上げながら、「早く、早く!」とぼくを急かす。ジャンプまでしなくてもいいじゃないか。元エンジニアで常に冷静さを装うIさんは眉間にしわを寄せ、ガラス窓に顔を近づけ、明晰な頭脳を働かせつつ「動かぬ証拠、ここに見つけたり」と得意気でもあった。他人の言葉に、いつもにこやかな笑顔で応えるIさんだが、この時ばかりは「動かぬ証拠」がエンジニア気質を刺激し、えらく触発させたようだった。彼はニコリともせず、腕を組み物思いにふけっている様子だった。

 彼らの発見した新聞店には、配達されないまま放置された新聞がところ狭しと山積みになっていた。山積みの新聞のなかから、「私を見てください」とばかり1枚だけはみ出ていた。多くを語ろうと自力で這い出してきたかのようだった。「足を運ぶことを忘れたジャーナリストより、あんたの方がずっと使命感に誠実で、優れている」とぼくはごちた。この健気で根性のある新聞の日付けを見ると震災の起きた3月11日の翌日、つまり12日の朝刊であることが分かった。このことは、12日の早朝には配達する余裕もなく、町内の全員が避難した、もしくは慌ただしく避難しようとしていたことを物語っている。浪江町には、未曾有の大震災が起こったにも関わらず、翌日の新聞すら読む人がいなかったということになる。まさにここは阿鼻叫喚の巷と化していたのだった。
 Mさんがいなければ新聞の発見はできなかっただろう。ぼくの忍従は10年目にして、やっと報われたのだった。

 「02浪江町_新聞」は、そのアップ。
 「03双葉町_新聞」は、双葉駅構内にある売店。震災から2年8ヶ月経った時点でも、3月11日付けの新聞が置かれたままになっていた。この事実は、ここが他の被災地とは著しく性質の異なることを示している。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/189.html
   <浪江町市街地は前回からの通し番号>

★「01浪江町_新聞」。浪江町新聞販売店。レンズフードを外しガラス窓にカメラを密着させて。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf8.0、1/60秒。露出補正-0.33。ISO320。2013年11月12日。

★「02浪江町_新聞」。上記新聞の部分アップ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/50秒。露出補正-0.33。ISO320。2013年11月12日。

★「03双葉町_新聞」。双葉駅売店の新聞。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf6.3、1/30秒。露出補正-0.67。ISO400。2013年11月10日。

★「14浪江町市街」。浪江駅前広場。バス停に放置されたままの自転車。この写真を撮った直後、2人の手招きに合う。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/80秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月12日。

★「15浪江町市街」。ペット店の駐車場に打ち捨てられた自転車と倒壊した家々。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/160秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月12日。
(文:亀山哲郎)

2014/02/28(金)
第188回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(13)
 長い間写真に従事し、月日が経つにつれて、そしてまたある時を期して自分の写真のありようが無意識のうちに変化していくのを認め始めている。それはおそらくぼくばかりでなく、また写真という分野に限らず、習い事に熱心に取り組んでおられる読者のみなさんであれば、似たり寄ったりの体験をされているのではないかと推察する。プロ・アマに関わらず、ここにはその違いが割り込む隙間は一切ない。プロだろうが、アマチュアであろうが、習い事の経緯と手順に差異はない。諦めや妥協は個人の資質に関する問題であり、本来ならこの領域にプロ・アマの違いによる作法や自覚を持ち込むべきではない。
 ぼくの福島での写真を始めとする私的写真は、いつだってアマチュアカメラマンと同軸上にあるものだ。

 ぼくの、特にこの10年は大きな変化があったように感じている。できれば、贔屓目に見て、良い変化というよりは、切羽詰まっての慌ただしい進化だと思いたい。それは結果としての善悪や正否、成功や失敗についてではなく、一枚の写真を撮ることも、それを印画紙上に表現するにも、さまざまなプロセスが体験によるところの心理的要因と技術的要因に促され、大波小波に洗われるように揺らぎながら、大きく変わりつつあるように感じているからだ。長い間に仕入れた些細な知識や養分が少しずつ形になって表れ始めたと思い込みたい。
 それは大抵の場合、無自覚のうちに起こる。知らず識らずのことだから、どこか心地がいい。心地がいいから、知らず識らずのうちに、イメージ作りに夢中になり、無造作にシャッターを押すことが愉しくなる。ぼくは夢遊病者のような妄想に憑かれ、徘徊老人のような状態で写真を撮っていることに気づく。そこには生理的な快感がある。

 したがって、読者諸兄のご質問になかなか思うところをお伝えできないでいる。特に今連載中の「立ち入り禁止区域」のシリーズでは、「このようなモノクロ写真をどのようにして仕上げるのか? その手順をご教示願いたい」という類のメールが増え、熱意に溢れた方は遠方より電車を乗り継いで浦和まで来られる。ぼくは出し惜しみをする質ではないし、まして小出しにするタイプでもなく、できることは素直に披陳しようと努めるのだが、行き着くところ問題は感覚と妄想の領域となるので、なかなか容易には説明しがたい。
 撮影時のイメージに合致させようとの暗室作業であるから、喩えその技術を詳細にお伝えしたところで、ほとんどの場合、他人様の写真には合致せず、どこかちぐはぐなものになってしまう。ぼくは、自分の体験上それをよく理解しているつもりだ。
 青年時代に、ある写真家の麻薬的なトーンに惹かれ、暗室に閉じ籠もり懸命に真似たことがある。2枚目をプリントしている時に、ぼくはハタと我に返った。写真が違うのだから、それは無駄で意味のないことだと悟ったのだ。悟りが早かった分ぼくには救いがあった。
 そのようなこと(大言すれば、“自分との対峙”)を何度も繰り返しながらの今なのであって、それは時とともに自分の流れ着いた場所でもあり、それぞれに人生体験は異なり、習い事を個人の体験の必然と捉えるのであれば、それに逆行しては意味のないということになる。禅問答のようになってしまうが、習い事を人生の無駄な遊びと潔く認めるほうが、見えてくるものが多い。生き甲斐を見出そうとしたり、意義を問うからつまずいてしまうのだ。

 話はいきなり南相馬に戻る。この日、欠食児童のような我々3人(Sさん、Jさん、ぼく)は、夕食時間を待ちきれなかった。ホテルの一室で「本日の出来事」を報告し合うも、気もそぞろで「5時になったらすぐにどこかの居酒屋に突入すべし」という暗黙の了解があった。こういう了解事は会話を必要とせず、「目は口ほどにものを言う」の格言通りで、我々は開店時間を思うほどに目は血走り、唾液の分泌が増していった。
 6月に来た時には、まだ街は閑散としていたので、それらしき店がないのではないかと思っていたが、我々の来る1ヶ月前に当地を訪れた友人から「けっこう店が出ていましたよ」という朗報を得ていた。

 ホテルの支配人に、「この界隈で美味しい魚介類が食べられて、美味しい酒が呑めるところ。お値段もリーズナブルで、店の雰囲気もいいこと。東北らしい心温まるようなサービスを受けられるところ」と、矢継ぎ早に条件を取り揃えた店を訊ねた。「できれば美人もいて・・・」と、ちょっと見当違いの要望をSさんが付け加えた。いや、東北には美人が多いのだからあながち見当違いとはいえない。ぼくだって旅の幸運を祈り、吉祥の鶴にお目通り願いたい。
 支配人はカウンターから一歩後退り、及び腰になりながらも、「Kという居酒屋なら、なんとかお客様のご要望に・・・・」と、ディミヌエンドしながら消え入りそうな声で答えてくれた。遠慮がちな支配人が積極的にこの店を勧めているのか、提示した条件が不揃いで消極的なのか、ぼくらはもうそんなことに頓着する余裕はなく、ホテルの玄関を飛び出し、すぐ近くのKに「鶴より団子」とイノブタのごとく突進した。門構えの新しいその店の前でSさんと顔を見合わせながら、やはり暗黙の了解で「なんか、ちょっと高そうやなぁ」と目で相づちを打った。しかし、もう勢い余って後戻りなどできない。それほど我々の意志は強靱ではない。ここに至って躊躇しては写真屋の沽券に関わるので、勢いよくのれんを払い退け、引き戸を引いた。

 現地で何人かの人たちに住民の帰還率について話を聞いたところ、感覚的には現在おおよそ半分くらいではないかということだった。その現状についてよそ者のぼくでさえ非常に複雑な思いに囚われたが、目の前に差し出された生ビールと確信的に旨そうな刺身類には抗しがたく、その難しい問題は取り敢えず後で熟慮しようと自身を籠絡することにした。刺身を運んできた美人に「この刺身は近海で獲れたもの?」と訊ねると、「いえ、今はすべて北海道からのものです」という。またもや難問をふっかけられたような気がしたが、我々はすべてを後回しにして、取り急ぎ祝杯をあげることにした。餓鬼に免じて、一瞬の「風化」にはお目こぼし願いたい。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/188.html
  <浪江町の写真は前号からの通しナンバー>

★「11浪江町市街」。1階が完全に潰れている。この道の先に浪江名物である焼きそばの「繩のれん」があるとSさんが教えてくれた。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf13、1/125秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「12浪江町市街」。瓦屋根の家は説明を要するまでもなく・・・。比較的新築と思われる家もかなり傾いでいる。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/100秒。露出補正-0.33。ISO200。2013年11月9日。

★「13浪江町市街」。鉄道ジジイのぼくはどうしても線路に惹かれる。電柱は折れ曲がり、線路は赤黒く化学変化し、雑草が生い茂る。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/25秒。露出補正-0.33。ISO200。2013年11月9日。

★「01南相馬市小高区」。小高区は福島第一原発より北約12kmに位置し、「避難指示解除準備区域」である。小高区の津波による死者は147人にのぼる。震災後2年8ヶ月を過ぎても、復興の手が入らず、すべてが放置されたままだ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/100秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。

★「02南相馬市小高区」。「01」とほぼ同地点。6号線沿いにあるパチンコ店。ここも津波襲来時から時が止まったままだ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/125秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/02/21(金)
第187回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(12)
 文章というものはいくら書いても切りがなく、ぼくに冗長さが許されるのであれば(すでに自分勝手に許しているが)、いつまでも延々と書き続けてしまう。そこがぼくの大きな欠点でもあり、悪い癖だとの自覚はある。
 それに比べ写真は点数に限りがあるので、連載引き延ばし作戦は功を奏しない。事は思い通りに運ばない。したがって、1テーマの連載の打ち止めはいつだって写真ネタが先に尽きてしまうことにある。
 「まだ書きたいことは山ほどもあるのだが、しかし、残念ながらもう写真がない」と編集子に訴えるのが、ぼくの討ち死にパターンだ。写真屋のくせに、サービス精神?が余りあって、書き過ぎが災いを招いてしまうのだ。本連載は紀行文とは趣意が異なると思っているが、かつて1ヶ月の旅行を3年にわたり写真併記の紀行文として連載したことがある。活字媒体だったが、ぼくも編集子もよく堪えたものだと今になってそう思う。

 今回、5日間で1800枚余を撮ったのだから、説明的な写真も含めれば、余裕はあるように思えるが、エラそうな能書きを並べ立てている以上、本職である写真はやはり及第点を与えられるものに限られ、そこがなかなかに恥ずかしくもあり、また忌々しいのである。忸怩たる思いだ。

 元気よく走り回ってくれたレンタカーを15時までに返却しなければならず、後発のSさんと連絡を取り合いながら、ぼくは浪江町の市街地をロケハンしてからホテルに戻ることにした。同行していたJさんの顔に不満が浮かぶ。何が不満なのか、ぼくはとっくにお見通しだ。「まだ昼飯食べてないんだけれど、早く食わせろ」との思いであることは分かりきっていた。そうたやすく食わせるものか。何にもまして撮影を優先するのがぼくの慣手段だが、常にうちの女性陣は一食抜かすだけで、「腹が減っては戦ができぬ。なんとかしろ」とぼくを不当に罪人扱いする。「戦なんかまだしてないだろ! してから言え」とぼくは手厳しいのだが、彼女たちはそんなぼくの親心など、どこ吹く風である。親を踏み付けても食にありつきたいのだ。
 そして、何年も前のことにも「あの時は昼食を食べさせてくれなかった」と、恨み骨髄で、ことあるたびに言い及んでくる。彼女たちは決して「あの時のあの一食」を忘れることができないでいる。たかだか一食に、恐るべき執念・俗念・怨念の混合物を抱えている。女の女たる所以がそこにはどす黒く渦巻き、脂っこくへばり付いているのだ。そういう女(ひと)に限って何十年も「ダイエットしなくちゃね」なんていっている。不可能なことをよそよそしくいっては、その場を取り繕うのだ。
 男はそのような妄執に囚われることなく、何が起ころうと一途に撮影という高尚な身ごなしを由とし、己の行住座臥を質すべく心得がある。ただし、彼女たちに比べると、生命力には著しく劣る。だから、男衆は女衆の平均寿命を未来永劫に越えられない。

 浪江町市街地への入口にも検問が設けられており、許可証を提示して、ぼくとJさんは沈黙の街へ入った。地震で崩壊した家々、歪んだ家々、どこにも人影がなくひっそりと静まり返っている。このような状況はもう何度も体験してきたが、慣れることはなく、一種異様な世界に気が圧伏されてしまう。
 人々が消え去った原因は重々分かっているのに、にも関わらずそのたびに「どうしてだろう?」、「みんなどこに消えてしまったのだろう?」、「なぜ避難しなければならなかったのだろう?」という疑問が止めどなく湧き上がってくるのだ。それはきっと、放射線が目に見えぬ、まったく得体の知れぬものだから、人間の心には整理できない恐怖として否応なく把握せざるを得ず、そして従わざるを得ず、その背離に理解の及ばぬ不気味さが漂っているからだと思う。何度体験しても慣れることがないのは、とどのつまりそういうことなのだろうと、持説を以て納得する他なし。

 取るものも取り敢えず避難を余儀なくされた人々と当時の状況を生々しく示すものは至る所に見られる。あらゆるものが放置されたままだが、ぼくはできる限り丹念に“記録写真”としても写し取ったつもりではあるけれど、帰京して写真を見るとまだまだ撮り足りなかったという思いだけが残る。ぼくは写真を撮る時、脳天気の成せる業で、考えながら撮ることはほとんどなく、無感情・無造作にシャッターを押してしまうのが常だが、「立ち入り禁止区域」ではなかなかそうはいかなかった。
 “放置されたまま”というのは、どこか物悲しくも多弁であり、そこには十分な抗言があり、指弾を受けるに値する事柄をじかに見て取れるからだろうと思う。人の消え去った街は、沈黙だけではないのである。
 この地で、視覚の消失点がどうしても遠方になってしまうのは、難題の山積により戸惑いが隠せないからだろうとも思っている。荷が勝ちすぎるテーマに挑んで、動きが取れずにいる自分がひどくもどかしくもあった。

 町内は除染作業が行われたことで放射線量は思ったより低かったが(といっても、さいたま市の約10〜15倍)、野放図なJさんを管理しなければならず滞在は45分間に留め、ぼくらはSさんと落ち合うために南相馬のホテルに戻った。富岡町で撮影を終えたSさんも飲まず食わずだったが(当然のことながら、この区間には飲食店も自販機もない)、初めて震災の地を目の当たりにした彼は、もともと丸い目をさらに丸くし、空腹などにかまっておれるかという男としての気骨を存分に示しながらも、衝撃を隠しきれない様子だった。
 3人で報告をし合っている最中、ぼくに突然の訃報が届いた。もともと血縁関係の極めて薄いぼくだが、幼少の頃よりぼくを可愛がってくれた京都の叔父が亡くなり、ぼくは廊下に出て一人涙した。数少ない親類縁者だったが、ぼくは福島に留まり、撮影を続けることにした。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/187.html
  <番号は前回からの通しナンバー>

★「06浪江町市街」。震度6強の地震で完全倒壊した家。逆光と瓦のテカリを重視して露出補正をする。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/80秒。露出補正-1.33。ISO100。2013年11月9日。

★「07浪江町市街」。家人はいずこへ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/125秒。露出補正-2。ISO200。2013年11月9日。

★「08浪江町市街」。崩壊した家ばかり撮っていたような気がする。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/40秒。露出補正-0.33。ISO200。2013年11月9日。

★「09浪江町市街」。ガソリンスタンド。大混乱の最中、町民はこのスタンドに給油のため並んだに違いない。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/50秒。露出補正-1。ISO200。2013年11月9日。

★「10浪江町市街」。浪江町駅前広場。市内循環のバスだろうか? ナンバーが外されたまま放置されていた。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/2000秒。露出補正-3。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/02/14(金)
第186回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(11)
第186回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(11)

 津波により破壊された防波堤に立ち、海風に吹かれていると、浜辺に打ち付ける太平洋の高波が重低音を伴って響いてきた。ズシンズシンというその音波を全身で受け止める心地よさは格別だ。しばらくは身を委ねていたいが、前号で触れたように、津波到来時の「天地を揺るがすような」想像上の音に、そんな思いはたちまち遮断されてしまう。どうしても想像が及ばないその津波音に苛立ちだけが募っていった。

 子供時分の2年間、ぼくは毎週父に連れられて千葉県の勝浦に病身の継母を見舞うため通っていた。外洋に面したその浜辺で、ぼくは波の音に包まれながら多くの時間を一人で過ごした。波と戯れながら貝拾いに夢中になったり、農夫が馬を連れ、波打ち際で馬の体を洗ったりしているその光景が今も鮮明に瞼に焼き付いている。当時ぼくは泳ぎを知らなかったので、水に対する恐怖心があったが、大きな波が打ち寄せるその動きと音を飽きることなく、時間の経つのも忘れて愉しんでいたような気がする。
 「坊主! もう帰るぞ」という父の声がいつも背後から聞こえた。

 写真好きだった親父は、ぼくにとってひたすら厳正で、畏怖の念を抱かす人物だった。勝浦の浜辺で親父を撮った時に、厳しくも子煩悩だった親父は、「ただ撮りゃいいというもんじゃない。わしの背景の波が白波を立てて崩れ落ちる瞬間にシャッターを切るのだ」と教えてくれた。
 白波の立つその瞬間がつかめずに、ぼくはなかなかシャッターを押すことができずにいた。父は無言で、ぼくがシャッターを切るまで同じポーズで寒風吹きすさぶ浜辺に立ち続けてくれた。非常に癇の強い人だったので、いつ「早ようせい!」と怒声が飛んでくるか分からず、ぼくは焦るばかりで、子供心にも生きた心地がしなかった。そのくらい父はぼくにとって恐い存在だったが、青年期に至り、「父は決してそのような人ではなかった」ことを悟った。
 子供のぼくにとってそれは端倪(たんげい)すべからざることに違いないが、父の細やかで豊かな愛情に、今さらながら「ぼくにはとてもできない芸当だ」と感じ入っている。57歳で道半ばにして急逝したが、ぼくは今も粛然とその白波の教えを金科玉条のように律儀に守り通している。
 そこが、どこぞやの写真倶楽部の「糠に釘」、あるいは「のれんに腕押し」、はたまた「馬耳東風」の人たちとは決定的に異なり、ぼくは今日まで素直で良い生徒であり続けている。
 
 あれから60年近くの歳月が経ち、ぼくは請戸の浜辺を眺めながら、勝浦での想い出を重ねていた。“勝浦”という響きはぼくにとって、なぜか寂しく、物悲しいのだが、あの時の親父の写真指南だけが唯一、今もぼくの気持ちを慰謝し、温めているように思える。

 今回の福島での撮影は、動くものが対象ではないので、いつもとは勝手が異なり、ぼくは少々不安な気持ちに襲われていた。“腕”といってもたかがしれたものだが、それが鈍(なま)ってしまうのではないかという予覚があった。と同時に、「オレは静止物だってちゃんと撮れるのだ」ということを「糠に釘」の人々にキッチリと誇示しておくいい機会だった。「うちのおっさんもなかなかやるもんだ。少しは言うことを聞くか」と、このへんで猛省を促しておかなければならない。指導者とは辛いものだ。

 防波堤に立ち、ぼくは父の教えに従い波の弾ける瞬間を“腕が鈍る”ことのないよう1枚だけ気合いを入れ、神経を集中し、タイミングを計りながら撮ってみた。それが「第184回」で掲載した「14:浪江町請戸」だが、フルサイズの焦点距離16mmという超広角レンズのため白波は遠方に小さく見えるだけだ。普段、カメラモニター完全無視のぼくだが、人目がなかったので、この時ばかりはモニターで拡大して確認を取った。「よしっ、鈍ってない!」。
 
 撮影直後にモニターを見て確認する、という動作はもちろんかまわない。デジタル最大の利点のひとつを現代人は大いに活用すればいい。プロでもほとんどがその動作を繰り返しているのを目にする。ぼくは「職人がそんなことをするのは誠に不細工の極みだ。カッコ悪いよなぁ。ましてや人前で臆面もなく!」と思うから、断固しない。人目を忍んでもしない。したい時もあるが、じっとやせ我慢をする。職人気質といえば聞こえはいいが、無意味な片意地がそうさせるのだ。
 だって、フィルムの時はみんなそういう危機感とある種の重圧感を常に背負って撮影に臨んでいた。デジタルになって最大のデメリットは、危機感の欠如だ。気がユルめば写真だってユルくなる。第一、写真は絶対に撮り直しなど効かない瞬間芸だから、撮る以上は失敗などしてはならない。そういう真摯な意識を以てしても、やはり失敗ばかりするから、どうしても写真屋は口だけがどんどん達者になっていく。誰とはいわないが、「口八丁手八丁」か? いや、「口弁慶」ともいうべきか?
 昨今は、写真を撮るという意識が時代とともにすっかり変わってしまったようだ。

 話をもとに戻して、ぼくはもともと広角レンズ派だが、福島では空(雲)をより効果的に描きたいとの思いから、ほとんどの写真が16〜20mmのかなり極端な画角に収まっている。使用レンズも99%が、掲載写真のデータを見ていただけばお分かりのように16〜35mmのズームレンズ1本のみ。
 雲の表情をどう表現するかでまずレンズの焦点距離を決め(雲の流れる様子は焦点距離により際立って異なる)、主被写体に対しては自分が動くという手順を踏襲している。画面内に於けるキャスティングの妙が上手くいったかどうかはぼくの語るところではないが、脇役あっての主人公である。

 父の想い出に浸りながら、雲の表情をどう付けるかという写真的な難問を解決すべく腐心していたぼくは子守どころではなかった。子守をすべくJさんの姿は、堤防の上から眺めやっても見当たらなかった。瓦礫とともにどこかに埋もれ、気を失っているのだろうと思うと、心置きなく写真に没頭できるので、ぼくの心に僅かな光明が差してきたように思われた。
 そんな時、後発の一人Sさんから「今、富岡町の撮影を済ませ、これからそちらに向かう」と電話がかかってきた。待ち人来るである。「ぼくらも一旦撮影を打ち切り、6号線で落ち合いましょう」と、子守を彼に押しつける魂胆だったので、ぼくの声は心なしか弾んでいた。

請戸地区の写真は後日素晴らしい光のもとで撮影できたので、時系列で掲載する予定。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/186.html

★「01浪江町市街」。人っ子一人いない浪江町市街。区域再編により市街地は「避難指示解除準備区域」となった。写真では分かりにくいが、ほとんどの家屋が歪んだり、崩壊したりしている。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/100秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。

★「02浪江町市街」。撮影した3日後に訪れたら、この家屋は取り壊しのモデルケースとして、撤収作業が行われていた。瓦の家屋の多くがこのように崩れ落ちている。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/125秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。

★「03浪江町市街」。街の至る所に地震当時そのままの光景が広がっている。真逆光のため、白飛びを防ぐため露出補正は-3。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/640秒。露出補正-3。ISO100。2013年11月9日。

★「04浪江町市街」。浪江町ばかりでなく、双葉町、大熊町でも大谷石の建造物はほとんどが崩壊している。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/160秒。露出補正-1.67。ISO100。2013年11月9日。

★「05浪江町市街」。この家も実際にはかなり歪んでおり、写真ではさらにその歪みが強調されている。建物の歪みを正しく記録するにはこのような焦点距離(16mm)は適切ではない。ツタを強調し、無人の街であることを優先。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/250秒。露出補正-1.67。ISO100。2013年11月9日。

(文:亀山哲郎)

2014/02/07(金)
第185回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(10)
 浪江町請戸地区に打ち上げられた多くの漁船を見ていると様々な思いが飛び交い、ぼくの頭は許容量がささやかで控え目だから、たちまち飽和状態となり、いつものことながら思考停止となった。

 船員は乗っていたのだろうか? 無事だったのだろうか? どのような状態でここまで運ばれたのか? 引き波にも影響されただろうから、実際にはかなり遠方まで運ばれたのではないか? 津波の高さは? 船主や船員はこれからの生活をどうするのか? 船の保険は? 海上では地震はどのように感じるのだろうか? ここに到来した津波はどんな音を立てていたのだろうか? 色や匂いは? などなど。

 ひとつの物事に絞って思考を巡らしても、すぐそこから枝葉のように疑問が広がっていく。一応は想像や憶測を張り巡らせてみるのだが、畢竟するに真実追究の手立てが得られないので、ぼくは潔くそれを放棄する。そうすると一旦脳みそに隙間ができ、そこへまた次なる疑問が侵入してくる。
 難問が「やっと私の番ね」と、行列に並び待ちくたびれたかのようにひっきりなしにやって来るので、ぼくは暇を持て余すこともできない。ぼくに人気があるわけじゃないことくらいは分かるが、「お客様相談室」の電話は鳴りっぱなしで、けれど、ぼくには相談に乗る義務などないのだ。自作自演を棚に上げて、「油断も隙もなくやって来る相手」にぼくは責任を擦りつけた。そんなこんなで、真空状態のような唖然・呆然とした心地を味わうことすらままならなかった。
 いつものことながら、答えのない自問自答を何度か繰り返していると、ぼくの脳組織はパソコンのハードディスクのように著しく断片化して、鬆(す)だらけとなる。加えて、透過能力に長けた放射線の一種であるベータ線のストロンチウムやガンマ線のセシウム137などに、中身の少ない脳は容赦なく射抜かれていたので、スポンジ状となった脳は血の巡りを極度に悪化させ、たちまちぼくを貧血性錯乱状態に陥らせた。

 だがどうしても、情状を酌量し不問に付したくない疑義がある。それは「音」だ。最も関心を惹く「津波の音」に、ぼくの想像はどうしても追いつかない。咆哮をあげ、うねり狂う水の音は、想像では補いきれないほどのものであったに違いなく、勝手な推量を得意とするぼくの試みを完全に覆い尽くし、葬り去ってしまった。

 多くの津波映像を見て、いつも不満に思うことがある。確かに「音」は記録されてはいるが、音源が遠すぎて抑揚が効かず、いまいちリアリティに欠けるのだ。そこに記録された津波の音声は、広角レンズのように「遠くのものはより小さく、近くのものはより大きく」という具合には表現されていない。あまりにも平坦すぎる。音楽で言えば“クレッシェンド”のない楽譜のようにのっぺりとしている。

 記録された映像では、津波の襲来とともに人々の声調がどんどん高くなり、感情の発露が顕著になっていく。とても生々しく、彼らの声音だけが事実をありのままに伝え、真に迫ってくる。人々の音声録画は、迫り来る津波に素直で正直な感情を刻印付けしている。
 だが、当然のことながら、津波の音声は上記のごとく人々の叫びに比例していない。不明瞭でボリュームがなさ過ぎる。ウーファー(低音部分を受け持つスピーカーユニット)のないスピーカーのようだ。したがって、感覚的に消化不良のおかしな齟齬が生じてしまう。ぼくの聴覚はその矛盾した比例に順応することができず、非常なストレスを感じてしまうのだ。津波の音声は、ぼくを含めた視聴者を現実世界に引き込む絶大な効果をもたらすはずだったが、それがここでは欠如している。
 映像をより効果的に観せるには、音声の強弱は欠かせぬ要素だが、マイクを何本も立てて、音を拾う映画とはそこが決定的に異なるところだ。作りものの映画のほうが、実際の映像より「起こりつつあるその時」を分かりやすく伝えることもある。虚構の世界が現実より多くを語り、人々に強い印象を与える、その一例かも知れない。

 この現象は、動画に限らず静止画のスライドショーなどにも顕著に現れる。スライドショーの鑑賞は、音楽のあるやなしやで、視聴者にずいぶんと異なった印象を与える。音楽は、写真や文学より人間の本能的な部分をより刺激し、喜怒哀楽を高ぶらせ、情緒的に揺さぶる作用を持つ。気分の高揚した視聴者は、モニターやスクリーンに映し出された静止画に個人の感情と解釈を容易に持ち込み、同化したり、異化(ロシア・フォルマリズムの芸術説の一。題材を非現実化・異常化してその知覚過程に注意を向けさせる作用を芸術の特質とした。広辞苑)したりすることができるようになる。感情移入がしやすくなるために、二つ以上のものが混ざり合って新たな見方ができたり、非日常性を際立たせてさらなる認識を得られるようになる。このように音楽(音)は一種の麻薬的な効果をもたらす。

 ぼくは音楽と音を、風景(視覚)と同次元で捉える癖があるので、本来、水に浮かんでいるべき船が、雑草の間をぬうように陸地に累々とその姿を横たえている異様な光景を見て、その因となった津波の音が気になって仕方がなかったのだ。
 その音をぼくは永遠に知ることができないだろうが、今後ここを訪れる人々がさまざまな思いを巡らせることができるように、一区画を歴史の語り部として保存して欲しいと切に願う。日本を襲った未曾有の災害の生ける証人として、震災遺構として、次世代に語り継ぐ義務があると、この異様な風景は語っているように思えた。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/185.html
  <番号は前回からの通しナンバー>

★「16浪江町請戸」。浪江町沿岸部は地震と津波による壊滅的な被害を受けた。津波による死亡者数は173人とされているが、まだ行方不明者がいるという。遺族が手向けた香華だろうか? ひん曲がったアスファルトは地震か、津波か。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/100秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「17浪江町請戸」。辺り一帯の木造家屋はほとんどが土台を残して流失。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/40秒。露出補正-0.33。ISO160。2013年11月9日。

★「18浪江町請戸」。漁港で最も大きく、頑丈だったと思われる建造物だが、正確な名称は分からず。アスファルトがもぎ取られて、地面が露出している。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/80秒。露出補正-0.67。ISO160。2013年11月9日。

★「19浪江町請戸」。第183回の「08浪江町請戸」の小舟を反対方向から。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/200秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「20浪江町請戸」。海岸より約200mの辺りで唯一流失を免れた民家。「19」の写真に写っている左の家。庭先より撮影。重たいピアノが横倒しになり、積もったほこりの上には動物の足跡が。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/50秒。露出補正-1。ISO400。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/01/31(金)
第184回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(9)
 昨年6月に来た時同様に、今回も真暗闇の無人地帯である飯舘村を迷子のようにさまよってしまった。1時間はロスしたに違いないが、日本で最も美しいといわれるこの村の景観を、ぼくはまだ見ずにいる。飯舘村を縁なきものと決めつけるにはとても心残りだし、無念至極だ。ヘッドライトに映し出された狭い視野からの想像は、針の穴から全体を推し測ろうとする無謀さに似ている。次回、もし許可が下りればぜひ昼間に訪れたい。
 ここを迷走しながら様々なことが脳裏に去来した。その思いを文筆業でない素人が綴るには、あまりに複雑過ぎて困難だ。気張っても仕方がないので、福島県のいわゆる「立ち入り禁止区域」に足を踏み入れての自身のスタンスとなるキーワード、言い換えればぼくの深層に漂うものや皮膚感覚の正体を一語で片をつけてしまおうと、運転しながらさかんに探し求めていた。
 親しい友人は、「それは無意識のうちにかめさんの写真に定着されるんじゃないの」というけれど、写真は時として言葉よりはるかに雄弁であるに違いないが、しかしそれはあくまで抽象的なものだ。写真屋のぼくが、自身の作品について言辞を弄しながら具象的な文に置き換えること、そんな野暮天はいやだし、第一しらけてしまう。そんなことは通常なら認め難いが、福島をテーマとする限り、他人には不要であっても、自分にはやはり「撮影の立ち位置」として確認しておかなくてはと思えてくる。ぼくの撮った福島は、報道写真でも、ルポ写真でも、記録写真でも、ファインアートでもないので、どうしても、ひとつの定まった概念を意識下に置いておきたい。そのためのキーワードが必要なのだと。なにしろ、すぐに軸のぶれる男だから。

 少なくともそれは、原発再稼働や脱原発の問題ではなく、また放射線云々の問題でもなく、事故の直接的な原因とその究明や責任問題ともかけ離れたところにあることは確かだ。それらは重い問題であるには違いないのだが、たかだか1週間とはいえ、現地の空気と肌を直に擦り合わせたぼくにとっては、些末なことに思えてしかたがない。それらの問題は取り敢えず隅に置いて、他に斟酌商量して止まないことがあるように思える。
 今のところ差し当たり、キーワードは唐突と思われるかも知れないが(実のところ“唐突”ではないのだが)、「生け贄」とか「供犠(くぎ)」、「人身御供(ひとみごくう)」である。日本語だと生々しく響くので、あまりカタカナ用語を使いたくはないが、外来語の「サクリファイス (Sacrifice)」などに置き換えた方がどことなくしっくりする。この言葉が通奏低音のようにぼくの主題を即興的に補足していたのは事実だ。

 東北地方の文化やその佇まいに心情的愛着をこよなく寄せ、感じ取ってきたぼくだが、原発事故がなければ福島県の浜通り地域を訪れることはなかっただろう。郷土愛の極めて希薄なぼくは、この地域に初めてやってきて、会ったこともない人々や風景に共感と私愛ともいうべき感情を抱いた。
 「ここならぼくも郷土愛に目覚め、郷土とともに生き、そして死ぬのだ。ここに骨を埋めてもいい」と、60半ば男の、勝手な侵入者の言い分としてはちょっと穿ち過ぎのような気もするが、かつてカフカーズ地方のグルジアで同じ思いに浸ったことを思い出す。
 浜通りで生まれ育ち、地方特有の色濃いコミュニティの狭間に揺られ、絶ちがたい愛憎の念を持ちつつも、懸命に生を営なんできた人々は、歪み、腐敗した資本主義のまさにサクリファイスであって、それがこの地の土を蹴り、雑草を踏み、空気を吸ったぼくの偽らざる実感でもあった。

 ぼくは今、どうやって2日目に入ろうかと悩みつつ、立ち往生している。話の取っ掛かりがつかめない。困った!

 7時間の睡眠を取ったぼくは、洗顔中に体の潤滑油が回り始め、とたんに空腹を覚えた。しかし、朝食のバイキングなるしきたりが大の苦手で、腹を減らしたJさんをホテルの外に引っ張り出し、向かいにあるコンビニに餌を求めて進撃。おにぎり、サンドイッチにペットボトルを買い込み、駐車場に止めた車内でのどかに朝食を済ますことにした。「明るい農村の風景」というわけだ。
 昨夜、引きつっていたJさんの顔は、車内朝食に嬉々としているように見えた。おにぎりを包んだセロファンを素早く引きちぎり、乾いた海苔をバリバリと音を立てて食み、時々米粒を飛ばしながら脇目も振らず食に没頭。彼女に限らず、飢えた女性は容易に行儀作法をうっちゃるものだということを、ぼくは撮影の度に、いつでも、どこでも目撃している。そんな時、彼女たちの目つきは餌を奪われまいと異常に鋭い。どんなにお淑やかな女でもだ。
 Jさんは父親がアメリカ人、母親が日本人のハーフだが、顔立ちは80%がとこ白人種であるから、なおさら餌に向かう様は猛禽類のように鋭い目つきとなる。

 衣食住足りた我々は、浪江町の「避難指示解除準備区域」に再編された請戸地区を訪れた。東日本大震災の痕跡を未体験の彼女に、まずは復興の手が入っていない地震と津波の被害地を見せておこうと思った。ここは放射線量が低く、他人を連れて行く身としては比較的安心していられる。福島に来る前に、「Jさん、君だけは若く、しかもトンチキだから、ぼくが徹底的に放射線の管理をする。それでいいね。言うことを聞くんだぞ」と厳しく、鋭い目つきで申し伝えておいた。
 請戸地区への入口はバリケードが築かれ、検問を通らなければならない。許可証を見せ、通りを行くとやがて崩壊した家々が道の両脇に見えてきた。下車した彼女は再び昨夜のように顔を引きつらせ、黙りこくってしまった。ここで、バッタなぞ飛び出してきたらぼくはお手上げだ。とても管理どころじゃない。ともあれ、子守をしながらの撮影という未体験ゾーンにぼくも突入したのである。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/184.html
  <番号は前回からの通しナンバー>

★「11浪江町請戸」。検問を通過し3分も走ると道の両脇に地震と津波に襲われた家並みが立ち並ぶ。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf10、1/100秒。露出補正-0.33。ISO100。2013年11月9日。

★「12浪江町請戸」。打ち上げられたままの漁船。今年から帰還準備のため、解体・撤収作業が始まるという。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/125秒。露出補正ノーマル。ISO200。2013年11月9日。

★「13浪江町請戸」。道路標識と電柱が逆の方向に倒れている。押し波と引き波の作用によるものだろうか。太陽を入れての真逆光撮影。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/800秒。露出補正-1.67。ISO100。
2013年11月9日。

★「14浪江町請戸」。海岸間近。頑丈な堤防が至るところで破壊されている。魚市場を守るためには一体どれほどの高さの堤防が必要なのだろうか。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/500秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「15浪江町請戸」。「14浪江町請戸」の立ち位置から階段を下りたところに流れ着いた車。どこから来たのか、なかに人がいたのかどうか、何も分からない。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/200秒。露出補正ノーマル。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)