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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2013/05/31(金)
第152回:質感描写(2)
 肉眼で認識できる物質にはどのようなものでも質感が伴います。表面が滑らかであればあるほど光沢感が増し、輝いて見えます。また、反対に凹凸があるほどに艶が薄れ、反射機能も失われます。物質の質感はそれこそ千差万別です。その質感をどのように表現するかで写真の印象も大きく変わってきます。前回、写真の質感描写は撮影時の光の選び方と撮影後の暗室作業に負うと述べましたので、今回はそれを実証してみましょう。

 作例は愛用の水彩用画用紙を利用しました。画用紙の面質には大別すると、極細目、細目、粗目とありますが、今回は分かりやすいように最も凹凸のある粗目を被写体に選びました。
 光の方向でどのように質感が変化するかを示します。撮影はスタジオ用ストロボを用い、直射光で被写体との角度を3通りに変化させてみました。光源の大きさは直径17cmの円形で、画用紙との距離は約2.5mです。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/152.html

★「01」はできるだけ光源をレンズの光軸に近づけたものです。画用紙のほぼ正面からストロボを当てています。所謂“順光”です。粗目画用紙の質感がほとんど失われ、目を凝らして見ると“まったくの平滑ではないのかも知れない”という程度にしか識別できません。
★「02」。角度45度からの直射光によるものです。「01」に比べかなり面質が表れてきました。凸の部分に光が当たり、凹の部分に影が生じたからです。つまり面質にコントラストがついたという意味でもあります。
★「03」。画用紙と光源の角度を約20度にしてみました。かなりの斜光です。これでこの画用紙の表面がどのようなものかが明確に表現できました。実際に手で撫でてみるとこのザラザラとした感触がありありと分かります。

 ここで明確になったことは、面に対して光(光源)の角度が鋭角になればなるほど凹凸が目立ってくるということです。面に限らずすべての立体物には影が生じますから、立体感や質感が顕著になるのです。
 反対に光を正面から当てると影が生じにくく、一般論としていえば平坦で面白味に欠ける描写になります。
 かつて「風景を撮る」のところで、朝夕の光は斜光であるが故にドラマチックな表現に寄与する孝行者であるというようなことを述べた記憶があります。快晴時のお天道様は点光源ですから、影が濃く、斜光になるにつれ長く伸び陰影が際立ちます。もちろん、光質によっても質感描写は異なってきます。太陽に雲がかかったりして光源の面積が広がると(曇天時)、柔らかな光となりコントラストも弱くなります。太陽に限らず、光源の面積が広くなればなるほど光質は柔らかくなり、質感の描写も薄れるということも大切な要素として記憶に留めてくださればと思います。風景に留まらず、静物を撮る際にも、光がどの方向から差し、光源の広さを常に意識してください。「光を読む」ということです。

 余談ですが、カメラに内蔵されたストロボは被写体に対してほぼ真正面からの点光源に近いものですから、ポートレートなどはストロボを近づけるほど額や眉間の脂が反射し光ったりしてしまいます。とても醜い写真です。お手軽で確実に撮る手段ではありますが、決してきれいな写真は撮れません。かといって斜光であれば鼻やあごの影の面積が広がり、また肌荒れも目立ってきます。それを解消するためにストロボ光を天井や壁にバウンスさせて、柔らかい光を作り出すのです。

 Rawデータ撮影以外のJPEGやTIFF形式画像を、Photoshopを使用して質感を強調する一例を紹介しておきます。

★Photoshopの機能にAdobe Bridgeがあります。Adobe Bridgeを立ち上げ、メニューバー/Camera Raw 環境設定/を開きます。開かれたウィンドウの最下段に「JPEGおよびTIFFの処理」という画面がありますから「04」のように設定してください。このように設定してからJPEGやTIFF形式の画像をダブルクリックして開くと「05」の画面が画像の右に表示されます。下から3段目の「明瞭度」の三角印を右にスライド、または数字を打ち込むと、文字通り明瞭度が増します。左に移動すれば逆の効果が得られます。

★「03」画像の「明瞭度」を+100にしたものが、添付画像「06明瞭度+100」です。「03」との違いがお分かりだと思います。このアルゴリズムがどのようになっているのかぼくには分かりませんが、感覚的には細部のコントラストとシャープネスが上がったように見えます。ただ、注意すべき事はこの機能を過度に使用すると画質が悪くなります。ですからオリジナルの画像に明瞭度を上げたものをレイヤーで重ね合わせ、不要な部分(例えば空など)はマスクを作りブラシで削る取る作業が必要となります。つまり、明瞭度を加える必要のない部分はそのままにしておくことが肝心です。

 実例写真。晴天の夕刻(かなりの斜光)に撮った写真を上記「明瞭度」を使用して作成したものを2点掲載します。2013年5月17日。Fujifilm X100Sのテスト撮影を兼ねて。

★「実例07」。古い工場のコンクリート塀。長い間風雪に洗われてきたのだと思います。赤外線フィルムをイメージして。
★「実例08」。よく見かける青いビニールシートに囲われた家。かなりの斜光であることが影からお分かりでしょう。この写真の主人公はビニールシートですから、この部分だけレイヤーを重ね、明瞭度を残しています。

 今回は前置きなく本題に突入したつもりが、またまた長くなってしまいました。これでもずいぶんと省略して書いたつもりなのですが。あ〜あっ!
(文:亀山哲郎)

2013/05/24(金)
第151回:質感描写(1)
 久方ぶりの友人とコーヒーを飲みながら世間話に興じていたところ、こんな指摘をされました。「かめさんの『よもやま話』は枕が枕で終わらずに長枕。前置きが長く、最後の方に写真の話を思い出したかのようにひょっこり関連づけて書いている。こうなったら写真にこだわらず、ひと思いに全部前置きってことにしっちゃたらどうなの?」と、なかなか鋭く、痛いところを突いてきました。実は痛くも痒くもないのですが、書いている本人でさえ書き始めてみないとなにが出て来るのか分からないという無計画な性分ですから、ある意味で仕方がありません。「書いているうちに、『あっ、そうだ。今回はこの写真話を持ち出そう』ということがボワーッと浮かんでくる。要はどこでどのような写真話を長枕にこじつけるかということに苦心しているんだ。テーマが決められているわけではなく、自分で決めるというのは、ましてや週1回だから君が思っているほど容易なことじゃないんだよ。ぼくの写真話は、例えばよくある『〜の撮り方』という性質のものではないから尚更ね。まぁ、与太話みたいなものだから」。

 また、彼はこうも提案してくれました。「いっそのこと、自分の写真を1点掲載して、それについて撮影時の意図やかめさんの持論を展開するってのはどう?」と、彼はどこまでも心優しくささやいてくれました。友愛の精神というのですかね。慈愛の心に満ちている。いや、おためごかしか?
 せっかくのお心遣いですが、作者が自分の作品の成り立ちや、思考、思索のあれやこれやについて微に入り細に穿って語るのは、言う方も聞く方もドッチラケで、ただただ小っ恥ずかしい振る舞いでしかないとぼくは思っています。
 撮影意図の講釈など聞かされる方にとっては、積極的に望むのでない限り、まったく“余計なお世話”です。しかし、それを望む方々が思いのほか多いということも承知していますが、ぼくが聞かされる立場であれば、先入観により想像が阻まれるのでやはり迷惑。自分が迷惑だと思うことは他人にしたくはありませんしね。ただ、最小限の情報は伝える必要があると思っています。

 ぼくがシャッターを切る時は、なにも考えていないというのが偽らざるところで、「いいなぁ」という単純な動機と感情に突き動かされているだけです。ですから説明など本来できるわけがないのです。その動機と感情は一言で締め括れるほど単純なものでもなく、きっと無意識下のなかで複雑な要素が絡み合い、錯綜しているのでしょう。そのようなことに哲学的な言葉を弄して解説を試みたり、あるいは詩的な文言を添えたりするのは、この歳になればとても照れ臭くてできるものではありません。ケツの穴がムズ痒く、ぼくは悲鳴をあげてしまうでしょう。それが年相応というものですが、ぼくは若い頃からその考えを今日まで持ち続けています。写真は作者の言葉により陳腐化してしまうことが往々にしてあるからです。

 今回は「質感描写」についてぼくの思うところをお話しいたします。この言葉の意味するところはもはや必要ではないと思いますが、平たくいえば「滑らかなものは滑らかに。ゴツゴツしたものはゴツゴツと描写する」ということです。ぼくは長い間コマーシャル分野の仕事をしてきましたので、所謂「物撮り」(静止した被写体の撮影)の場数をたくさん踏んできました。自然光を利用したり、人工光を駆使したりして、クライアントの欲する質感を“過不足なく”表現しなければなりません。ライティングの加減次第で質感は目まぐるしく変化し、それを肉眼とは濃度域再現のまったく異なるフィルムやデジタル受光素子に正確に移し替える作業は、試行錯誤や場数を踏んでこそという面があります。また光学的な知識も欠かせませんから、一朝一夕にとはなかなかいきません。

 しかし、私的な写真(ぼくはもっぱら自然光の下で撮影)では口やかましいクライアントの目がありませんから、“過不足なく”などまったく斟酌する必要がありません。この縛りから解放されると表現の自由度がどんどん増していきます。だれ憚ることなく質感を自由に操りながら誇張でき(その反対も)、そのおかげでイメージを膨らませたり、デフォルメすることもできます。撮影は光の質と方向を考慮すればよく、暗室作業ではPhotoshopやサードパーティのソフトを使いこなすことでイメージ通りの質感を描くことが可能となります。

 添付写真の撮影意図を最小限にお話ししておきましょう。
 ぼくは畑を見るとそこに取り残された作物(この写真では朽ちつつあるキャベツ)がいつも気になるのです。この時もそんな思いで畑のなかを歩いていました。そこで虫食いで穴だらけになったキャベツがひとつだけ収穫されずに放置されているのを発見し、強い感動を覚えたのです。それは死と生の循環であったり、お百姓さんの優しさだったり。葉脈が血管のようにも見えました。自分の意識下でなにかが解決したのか、あるいは和解ができたのかは分かりませんが、ぼくは思わず「君、いいねぇ。ぼくが撮ってやるよ」とつぶやきながら、もうすでにシャッターを切っていたのです。お話ししたように「なにも考えていない」のです。
 この写真は撮影より暗室作業に負うところが多いのですが(その手順については次号で)、大体に於いてこの手の写真は少数派の人たちにしか受け入れてもらえないということは重々承知です。被写体が穴だらけで腐りかけているうえに、質感を見た目よりずっと誇張しています。だれも「わ〜っ、きれい!」なんてことは絶対いってくれません。でも、「美しい!」といってくれた人たちがいたことは確かです。このことは救いとして、やはり書き留めておかなくっちゃ。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/151.html

撮影データ:Fuji FinePix X-100。焦点距離35mm(35mm換算)。F11、1/90秒。露出補正-0.33。ISO 200。
(文:亀山哲郎)

2013/05/17(金)
第150回:初心忘るべからず
 いつの間にか拙稿も150回を数えました。振り返ってみると(ホントは振り返っていない)、これでも我にして随分と控え目に書いてきたつもりでいます。今までは文を綴る場合、常に活字(紙媒体)でしたから、初めてのWeb原稿は読者対象が見えにくいため戸惑いがありました。未だに迷いから覚めないでいるのですが・・・。
 元々、謙虚さとは距離のあるぼくが、Webの文面では謙虚さを装ってみたり、頑固一徹であるにも関わらず、さも物わかりの良さそうなことを述べたり、サラッと通り過ぎればいいことを執拗に繰り返したり、自身の思考が本来独善的であるのに民主的であることを標榜しようとしたりして、ぼくはぼくなりに苦労もしているんです。しかしながら、ぼくはぼくでしかあり得ず、この連載がいつまで続くか分かりませんが、担当者の言をお借りすれば「当エッセイは名物コーナーとなりつつある」とのことですので、ワンポイントアドバイス(ホントはね、物事を伝えようとすれば、“ワンポイント”でアドバイスできることはごく僅かなことに限られてしまいますが)ばかりでなく、写真にまつわる個人的な体験を綴ることで、なにかしら読者諸兄のお役に立てればいいのではなかろうかと考えています。

 少なくとも今回まで懲りずに読んでこられたみなさんの99%は「写真を趣味とし、楽しみたい」と考えておられるのだと思います。将来プロを目指したい方がいたとしても、写真を志す上でプロとアマには多くの共通項があり、いや、極論すればほとんど大差ないといってもいいと思います。もしあるとすれば、修業の度合いくらいのものです。ぼくが拙稿でできる限り技術的なことに触れないのは、「趣味としての写真」を最優先しているからでもあります。もしプロを目指している方に向けてであれば、技術的なことをもっと詳細にお伝えする必要がありますが、そのような方は専門書をむさぼりながらプロの元に弟子入りする方が、方法論としては手っ取り早いので、ここではそのような話はできるだけ避けるようにしています。

 世阿弥の言葉に「初心忘るべからず」というのがあります。今さらぼくがみなさんにこんなことをお題目として唱えるのはとても憚られることなのですが、近年富みにアマチュアの方々の写真を見る機会に恵まれ、そこで言葉を求められると、つい「初心忘るべからず」に類似した言葉を探し求め、それが口を突いて出てしまいます。物事を始めようとした時の謙虚な気持ちや真摯な決意を、ぼくは自分を棚に上げて、いわざるを得ない立場に置かれます。
 写真もひとつの表現形態ですから、「他人とは異なる表現の追求」に固執したり研究したりすることは当然の成り行きであり、またそこに作者自身の価値を認めることにぼくはやぶさかではありません。P. ピカソのように、作風が彼の生きた時代とともに目まぐるしい変貌を遂げた作家も他にいませんが、ピカソのような偉人でなくとも表現者であればこそ、それはやはり必然に導かれたものと考えるのが妥当でしょう。これはプロ・アマに限ったことではありません。

 写真についてもしぼくに語る資格があるとするならば、作風の変化は基礎・基本に立脚する事柄の飽くことなき繰り返しによってのみ成し得るのだとの理念を持っています。
 写真を趣味としている方々の一部が、特にいわゆる中級、上級と進むにつれて陥りやすい罠は、自身の作風を「他人とは異なるなにか」を強く意識して、意図的に仕向けてしまうことです。そのような作品に出会うことが多々あります。それを「私の個性」だと勘違いしてしまうのです。寸法の合わぬ服を得々として着ているのはどこか滑稽さを誘うので、ぼくは「こんなエキセントリックで、意表を突こうとする作品は品位を失うだけなので、もうお止めなさい。後戻りできなくなってしまうから、もう一度基本に立ち返り素直に被写体に対峙しなさい」と言明しています。それが基本を積み上げた成果であるかどうかは、写真を生業にしている者であればすぐに分かるものです。

 まったくの私事なのですが、つい最近、写真好きの見知らぬ女子高生(3年生)がぼくに会いたいとメールしてきました。老若男女に関わらずぼくは時間のやりくりがつく限りお会いすることにしていますが、まさか女子高生とは。青天の霹靂。この場をお借りしてぼくは明言しておきますが、女子高生というのは昔からどうも生理的に気持ちが悪く好きではないのです。電車で女子高生がワッと群がって乗ってくると車輌を移ってしまうくらいです。そのくらい苦手なのです。彼女の趣味は写真展巡りというので、恐る恐る会うことにしました。
 彼女の口調と言葉をできるだけ忠実に再現すると、「写真展に行ってもただ綺麗なだけの写真を飾り立てているのがほとんどなので、私はそういうのって好きじゃないし、いい写真だと感じたことがないんです。奥行きがないから。奇抜なものも嫌い。”見せよう” としている写真もどこか嘘っぽくて嫌い。だって自分に嘘ついているから。普通に撮って、それで凄いって感じさせる写真がホントに凄いと思うんです。そこに作者の真実が正直に語られていると思うから私は感動しちゃうんです。そういう写真展は滅多に見られないから」ですって!
ぼくは泡を吹きそうになりました。
 アワワッ、前述「写真を生業にしている者であれば」という生意気な科白を「17歳の娘さんにでさえ」に訂正!!!
(文:亀山哲郎)

2013/05/10(金)
第149回:構図(4)
 中学時代、美術担当に“金語楼”というニックネームを持つ先生がいました。ご年輩の方々には“柳家金語楼”という噺家の顔がすぐに脳裏に浮かび上がることと思います。禿頭でなかなか愛嬌のある顔立ちでした。顔中に饅頭がひしゃげたようなシワを作り、唇をへの字型に曲げたその泣き顔は、悲しさよりひょうきんさを感じさせたものです。柳家金語楼は喜劇人でもありましたから、泣き顔でもどこか可愛げがあり、笑いを誘ったものです。彼は、初代林家三平(2代目は修業が足りないからダメ)とともに、本来の噺家とは異質の笑いを振りまいた昭和の人気者でもありました。
 美術の先生は、柳家金語楼にちょび髭を付け加えた顔立ちで、愛嬌という点ではご本家に負けず劣らずでしたから、ぼくらは親愛の情を込めて“金語楼”と呼んでいたのです。金語楼先生は殊の外、男子生徒に人気がありました。思春期の男子にとって金語楼は、授業を飽きさせず、興味を惹く心得をしっかり持っていたのです。曰く「今朝、部屋から隣家の窓を見ていたら、あれれれっ、なんとそこに7色パンティが干してあるんだよ」とかね。思春期の男どもの妄想を一気に煽り立て、一瞬にしてぼくらを虜にしてしまう神技を持っていたのです。その話はあっという間に全校に轟き、ぼくらの学年だけでも13クラスありましたから、彼はその話を就任以来何百回も繰り返してきたに違いありません。20年以上も「今朝・・・」と力説していたわけですから、彼の隣家には連日朝っぱらから7色のパンティがヒラヒラとたなびいていたということになります。まことに、たゆたうような、そして鬼気迫るような光景だったことでしょう。
 今とは異なり、“その手の情報”がほとんどない時代でしたから、情報に飢えていたぼくらは色めき立ち、血相を変えて「先生の家へ遊びに行ってもいいですか!」と間髪を入れずに叫ぶ向学心に燃えた少年もいたくらいです。あっ、それはぼくなんですが・・・。

 で、この先生が向学心に燃える生徒たちに「構図」を教えるために、ボール紙を配り、それに正方形だったか長方形だったか忘れましたが、四角い穴を開け、2本の糸を張り、二分割法を教えたのです。ぼくは当時すでにカメラ(レンジファインダー式カメラ)に馴染んでいましたから、内心「ぼくはいつもファインダー越に同じ事を体験している」とほくそ笑んでいました。ちょっとした優越感に浸ったものです。とはいえ、ファインダーに糸は張られていませんから、二分割だとか三分割だとか、構図について、そういったアカデミックな思考はありませんでした。なにしろ7色の世界に夢中でしたから。
 また、「絵は時間をかけながら描くものなので、ボール紙に開けた方形(矩形)を覗きながら構図を考えるのは理に適ったことかも知れないが、写真は絵に比べ途方もないくらいの短時間で勝負が決まるのだから、ぼくには無縁のものだ」と、金語楼の教えには大して関心を抱きませんでした。それを“屁理屈”とみる向きもありましょうが、やはり7色講義の方がずっと魅力的だったのです。そんなわけで、ぼくは構図について真面目に学ぶ唯一の機会を逸したのでした。
 写真にもアカデミックな構図の考え方は当然あるのでしょうが、理論より感覚的に迷いなく構図を決められる訓練を優先させるべき、というのがぼくの信条です。数をこなしているうちになんとか格好がついてくるものだと何事にも鷹揚なぼくは考えているのですが(無意識のうちに理論が身についていくのだと思いたいのですが)、それでも上手くいかないと感じた人はしっかり理論を学び、それを意識しながら撮影に臨めばいいのではないでしょうか。何事も「習うより慣れよ」です。

 黄金比についての何かを書かなければという強迫観念が、こんな冗長な前書きを必要としてしまいました。第146回「構図」(1)でお話ししたように黄金比についてぼくはよく理解できないのですが、少なくとも縦横の黄金比くらいはなんとか分かりますので、理論はともかくも、作例を示してお茶を濁してしまおうと思います。

 通常、我々の使用する小型カメラの縦横比は2:3(オリジナルフォーマットが24x36mm。初出1914年。一般的なAPS-Cサイズは15.7x23.5mm前後)が最も多く、最近は3:4(13x17.3mm)のフォーマットも多く見られます。
 それに比べ黄金比は約1:1.62で、慣れ親しんだ2:3よりわずかに横長となります。横を36mmとすると縦は約22.2mmです。黄金比がなぜ美しいとされるかについては、数学的、幾何学的な解析とともに、自然界に存在する美に黄金比の規則性が合致しているものが多いからなのだそうです。また、人間の視野が1:1.62に近似しているという説もあります。
 作例2点は、2:3の原画を黄金比の1:1.62に。3:4の原画を同じく1:1.62にトリミングしたものを掲載しました。本人にとっては、オリジナルの画角でイメージし撮影していますから、黄金比にトリミングしたものはどこか非常に居心地悪く感じますが、第三者である読者諸兄はいかがでしょうか?

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/149.html

★「01原画」。SIGMA DP1s。焦点距離28mm(35mm換算)。日向ぼっこをする猫にカメラを向けようとした瞬間、稲妻の如く逃げ去る。モニターを見ていてはとても間に合わず、あごの下あたりでシャッターを切ってしまいました。ぼくの非常に忌み嫌うノーファインダーという卑怯な手を使ってしまいました。脱兎の如く駆け出す猫は死の恐怖に駆られ命がけの逃亡。ちなみにこのカメラ、10秒に1枚しか撮れませんので、ぼくも命がけ。
★「02黄金比」。シアンの線が黄金比の比率。横長となります。
★「03黄金比にトリミング」。「02黄金比」をトリミングしたもの。
★「04原画2」。Ricoh GR Digital 2。焦点距離28mm(35mm換算)。踏切でこの少女とすれ違い、「帰路はこの小径を通ってくれ。お願い」と願を懸けたら、その通りに。天に味方されての1枚。
★「05黄金比2」。原画を黄金比にトリミング。こんなに細い縦長であれば、もう少しカメラを上に振り、手前の地面を入れたくありません。ぼくの主観では、ランドセルをど真ん中に置いていいと思います。

 ぼくの写真は「トリミングをしない」ことを前提として撮っているので、黄金比ってのは相性が良くないのかな?
(文:亀山哲郎)

2013/04/26(金)
第148回:構図(3)
 今回は堅苦しい話は抜きにして、「構図」にまつわるぼくの痛々しい体験談を間に挟みたいと思います。

 もう今から20年以上も前、ぼくの中学校時代の同級生がバリ島に行き、生まれて初めて写真を撮ったと自慢気に、そして少し鼻を膨らませながらいってきました。40歳を過ぎてからの写真初体験というのも、ちょっと凄味のあることだと感心したと同時に、「この人は全体、今までどういう人生を送ってきたのであろうか?」という興味にもかき立てられたものです。興味というより疑惑の念に駆られたといった方がいいかも知れません。ぼくのように写真が商売でなくとも、まっとうな生活を営んでいれば、たとえ写真に興味がなくても、いくら女性といえども、誰だって1度や2度くらいはシャッターを押したことがあるというのが現代に於ける正しい人生の歩み方というものです。40過ぎまで写真を撮るという非文化的なものに触れたことがないというのですから、その事実はあたかもアマゾンの先住民であるヤノマミ族やマシコ・ピロ族のように現代文明を拒絶し、真の人間的な生き方を求める姿とどこか二重写しに見えたものです。
 今のように携帯電話カメラで誰でもが「取り敢えず写真」を撮るという時代ではありませんでしたが、とはいえ当時すでに使い捨てカメラ、またはレンズ付きフィルムは市場に出回っていましたから、そのような希有な人と出会うとは考えもしませんでした。まさに未知との遭遇のようなものです。

 彼女はぼくに、撮ってきた写真をぜひ見せたいといい出したのです。ぼくもバリ島にはロケで2度行ったことがあるので、彼女の親切心と共感がそういわせたのだと善意に解釈しましたが、一方で非常に良からぬ予感に襲われました。他人の結婚式や新婚旅行の写真だとか、子供の運動会だとか、家族旅行の写真を見せられて、手放しで喜ぶ風変わりな人がこの世に存在するとは到底思えません。ぼくは、「そんなものは写真の上手下手に関わらず、親の死に目に遇えなくても見たくない。いやだ、いやだ、迷惑千万! 断固拒否!」という質ですから、そういうものを無理強いさせられてしまうと、もうただひたすら閉口し、辟易とし、退屈極まりない時間を苦虫を噛みつぶしながら愛想笑いとともに過ごさなければなりません。それはまるで拷問のように感じられ、そのストレスたるや尋常なものではありません。そのような体験を何度もしているのでぼくは強い意志を持って拒否しようと思ったのですが、その人がかなりの美人であったために、心ならずも「いいよ」と軽くいってしまったのです。まったく不用心なる粗相でありました。美人と見るやとたんに迎合精神を発揮してしまう自分が非常に情けない。ぼくは取り返しのつかない過ちを冒してしまったのです。

 彼女の撮った数十枚の写真を見せられて、普段平常心を失わぬぼくは、たちどころに激しい目眩を起こし、意識朦朧としてしまいました。美人の手前、何度も気持ちを奮い立たせようと努めるのですが、為す術もなくどうにもならない。エスプレッソの一気飲みもまったく効果なし。カフェインにも見放されたぼくは完全に平衡感覚を失い、前後不覚に陥り、思考が停止し、失語症となり、視点は定まらず宙を漂い始めたのです。かつて見たこともないような壮絶な写真の雨あられ。意識しても真似ようのない驚天動地の写真の乱舞にぼくはほとんど悶絶状態。この時ほど「世の中にはなるほど凄い人がいるものだ」と実感したことはありません。

 後々、この大災難を静に顧みるに、その因たるや「構図」にあることが発覚したのです。その時は精神錯乱状態にありましたから、「構図」にまで思いが至りませんでした。「構図」侮るなかれです。

 その不幸な出来事から10年が経過し、彼女はお孫さんの誕生を機にコンパクトデジカメを購入しました。ぼくは全身に震えがきましたが、あの悪夢が再び蘇らぬように「写真、少しだけ教えてあげようか」と喉まで出かかり、しかしぼくは恐怖の再来を恐れつつも、その言葉を賢明にも呑み込んだのでした。「この人に限り、何を教えてもぼくは無力に等しい」と悟ったからです。
 ところが時期を同じくして、仲閧フ同窓生たちから「写真を教えろ」との脅迫を受け、賢明でないぼくは思わず引き受けてしまったのです。それを聞きつけた彼女は、罪悪感のひとかけらもなく「私にも教えなさい」と迫ってきたのでした。同窓生に屈服したことが、ぼくが写真倶楽部を主宰するきっかけとなったのです。

 基本的なことを気の向くままいい加減に教えていたのですが、1年経ったある日、彼女はデジタル一眼レフを意気揚々とぶらさげて撮影会に乗り込み、「私は本気なんだぞ」という強固な意志を示したのです。ぼくは再び身震いをしましたが、ぼくも55歳になり少しは寛容な人間になりつつありましたから、彼らを「写真とは縁なき衆生」と定め、写真を愉しんでくれればそれでいいんじゃないかと思うようになりました。
 「本気」になった彼女はぼくの言いつけに甲斐甲斐しくも素直に耳を傾け、間もなく写真専門雑誌のコンテストで優秀賞やそれに準じる賞を次々と取るようになりました。その頃には「先生がエライのではなく、生徒がエライのよね」と常々うそぶいていましたが、彼女は期するところがあったようで、きっぱり雑誌投稿から足を洗ったようです。ぼくの喜びは、彼女が賞を取ることよりも、写真にはもっと大切なものがあることに気がついたことでした。

 そして現在。彼女は自分の世界を描けるようになりつつあるのですが、やはり「三つ子の魂百まで」で、時折「構図」に難点が見られます。フォトジェニックな目をずいぶんと養うことができるようになったのだから、この半年は「構図」の勉強(訓練)を課題として、集中的に取り組むよう言い渡したところです。「雑誌は通ってもぼくの関所は通らない」なんて、ぼくもお返しに僅かに身を震わせながら、そううそぶいています。
(文:亀山哲郎)

2013/04/19(金)
第147回:構図(2)
 前回、構図の作例として写真を5点ばかり掲載しましたが、ちょっと“気がかりなこと”に思い当たりました。というのは、3月にグループ展を催した際に、拙稿第123回、124回を読まれた方が来場され、「『よもやま話』に掲載された閖上(ゆりあげ。宮城県)の写真を拝見しましたが、実際のプリントとはずいぶん印象が異なりますね。やはり写真はオリジナルプリントを見ないと分からないものですね」といわれました。彼の言葉には二つの問題があります。以前にお話ししたことの復習となりますが、もう一度おさらいをしておきましょう。

 「失礼ですがモニターのキャリブレーションはされていますか?」とぼくは訊ねました。彼は「いいえ」と。これが一つ。
 二つ目は、「たとえモニターがキャリブレーションされていても、モニターは光の三原色であるRGBで表現され、プリントは色の三原色CMY+Kで表現されますから、厳密にいえばモニターとプリントが完全な一致を見ることはありません。加えて、環境光にも左右されます。しかし、しっかりキャリブレーションされたモニターを使用し、正しいカラマネージメントの手順を守れば、プリントと画像は酷似したものとなり、ほとんど違和感を生じないものとなります」と説明しました。
 彼のモニターはキャリブレーションされていなかったために、オリジナルプリントを見た時に違和感が生じてしまったようです。

 “気がかりなこと”とは十分に予見できることだったのですが、不覚ながら普段のぼくの意識からはほど遠く、気がついてみると脇の下がじんわりと汗ばむのを感じました。かなりの写真愛好家でも、キャリブレーションできるモニターとキャリブレーターを備えていないという現実は、確率的には非常に高いことをぼくは知っていますから、自分の写真をインターネット上に公開することはとても恐ろしいことに感じます。つまり、ぼくのモニターで見る画像とはかなり異なったものが読者諸兄のモニターでは再現されているのだと思います。
 そして、もししっかりキャリブレーションされたモニターを使用しても、Windowsでは各種ブラウザやアプリケーションによってまちまちに表現されてしまう可能性が高いらしいということです。ぼくはWindowsを使用していませんので、“らしい”というのはMacintoshとWindowsの双方を使っている重箱の隅を突くような性格を有した複数の人たちからの報告によるものです。いや、これは重箱の隅を突くような些細な問題ではなく、看過しがたい大問題です。Windowsで正確な画像を見るためにはカラーマネージメントのできる、例えばAdobe Photoshopのようなソフトを使うしか手がないのでしょうか? であれば正確な画像再現はずっと確率が低くなり、その恐ろしさはさらに加速されて、ぼくは生きた心地がしないのです。
 まぁ、前回は画像再現に重きを置いたものでなく、あくまで「構図」の考え方を示したものですから、という慰めをもって由としておかなければなりません。ちなみにMacintoshではぼくの知る限り純正のソフトでなくてもPhotoshopと同様の再現が得られます。

 写真を始めて2年になるという読者の方から、「どうしても被写体を真ん中に置いてしまう癖がついてしまい何か変化に乏しく面白味のない写真ばかりと感じていたところ、三分割法の具体例を示していただいたことは目から鱗のようでした。参照写真は、説明のために撮られたものではなく、それが実写であることに説得力というか、興味深く拝見できました。もし可能でありましたらもう何例か示していただければありがたいのですが・・・」(原文ママ)と、わざわざ遠方の広島から(メールですので関係ないか)丁寧なメールをいただきましたので、意を強くしてバリエーションも含めて8点ばかり掲載させていただきます。余計な能書きより、背景さえ整えることができれば、主被写体の位置に神経質にこだわることもないんじゃないかとの意味合いを込めています。前号でお話しした「正否のない感覚的な問題なのだから、あなたがいいと思えば構図なんてそれでいいんだよ。物が美しく見えさえすればそれでいい」というアバウトな性格を作例写真から読み取っていただければと思います。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/147.html

 写真はすべて35mmフルサイズですので、焦点距離の35mm換算は省きます。写真に黒枠を付けているのはフィルム時代の名残で、トリミングはしていないという意思表示のためデジタルでもぼくはそうしています。

★「写真:01」。焦点距離35mm。典型的な「日の丸写真」? 二分割の交点に被写体の最重要な部分を置いています。前回、掲載した「三分割法:01」の構図を適用したら絵になりません。三分割法は、いうまでもなく万能というわけではないという例です。だから写真は難しい。
★「写真:02」。焦点距離90mm。被写体を正面に配し、重要な部分を下1/3に。いわば二分割法と三分割法の折衷案といったところ。スターリンの恐怖時代を生き抜いてきたおばあちゃん。どんな重荷と悲しみを背負ってきたのでしょう。
★「写真:03」。焦点距離20mm。超広角レンズで大接近。カメラを構えるぼくの影が右下に写っています。夕陽に照らされた部分と影になった建物を中央で二分割し、下1/3に人物を配しています。これも考え方は「写真:02」と同じで、バリエーションといえるでしょう。
★「写真:04」。焦点距離28mm。女性を三分割した線よりかなり極端に端に寄せています。空、両脇の建物、壁のハイライトと鉤の手形のシャドウといったグラフィカルな要素を取り入れて、なおかつ視点が女性に注がれるように。「対角線構図」の一種です。
★「写真:05」。焦点距離50mm。脇の路地から突然飛び出した得体の知れぬ重装備の東洋人と鉢合わせし、唖然として立ち尽くす少女。これもかなり極端な構図です。十分な空間を取り、三分割した中央に少女を配しています。
★「写真:06」。焦点距離135mm。画面を整理するために望遠レンズを取り付け、雑多な周囲を遮蔽するために開け放たれた車のドアを利用。三分割したほぼ中央に二人を配しました。変な構図ですね。
★「写真:07」。焦点距離35mm。木戸から出てきたおじさんに気づかれないうちにいただいた1枚。全身を入れる必要はないと思い、左腕を思い切ってファインダーから外しています。これも三分割の線上ではなく、ほぼ中央に配しています。
★「写真:08」。焦点距離35mm。村のボス犬。これも三分割の外側に。手はちょん切れているし、やっぱり変な構図? ぼくの癖なのかな? 根性がひねているか、いつも後ろめたい胸裏を託けているからなのかな?
(文:亀山哲郎)

2013/04/12(金)
第146回:構図(1)
 写真好きの方々が拙稿を読まれて、「少しは役に立つこともある」とたまには感じてもらいたいと思うことがあります。ということはつまり、ぼくの書くことは直ちに実践には役立たないと自ら認めているようなもので、撮影についてのノウハウや考え方を、どのようなかたちにせよ他人に伝えるには隔靴掻痒(かっかそうよう。靴の外部から足のかゆいところをかくように、はがゆく、もどかしいことをいう。広辞苑)の感ありといったところなのです。痒いところに手が届かないので、いつも読者諸兄から「痛処に針錐を下す」(弱点や痛いところを鋭く指摘して戒めることの喩え)といった審判を受けているように感じることもあります。“針のむしろ”状態、というのはちょっと大袈裟ですが、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。ここで言葉遊びなどしている場合ではないので、本題に移ります。

 「構図」だなんて大上段に振りかぶって曖昧模糊とした議題を選んでしまったがために、何から書き始めればいいか困窮しています。かなりの後悔。
 「正否のない感覚的な問題なのだから、あなたがいいと思えば構図なんてそれでいいんだよ。物が美しく見えさえすればそれでいい」というのがぼくの正直な気持ちであり、ぼく自身、写真を撮るときに構図を逐一深く考えたり、計算しながらシャッターを切るなんてことはありません。主被写体と脇役を決められたフレームのなかでどう配置し、位置づけるかはまったく瞬間的な感覚に頼る以外にはありませんから、定まったことなど言えないというところなのです。それをいってしまうと話の進めようがないので、ちょっと真面目に考えてみたいと思います。考えたこともないことを書こうというのですから、無責任に加え、あまりにも無防備ではありませんか。

 「構図」とは、大雑把にいえば決められた縦横比のフレームのなかにどのように、そしてどのくらいの大きさに被写体を配置し、収め、組み合わせ、視覚上の効果を演出するかということであり、そこに決められた法則なり規則があるわけではありません。良い構図とは、被写体が最も効果的に、求心力を伴って、印象的に、そして美しく見える配置構造だとぼくは考えています。
 美術的・学問的な見地からいえば、構図には多くの考え方がありますが、例えば主だったものに二分割法、三分割法、黄金比分割法などの“考え方”(“法則”というほど厳密に捉える必要はありません)が、古くからあります。そのくらいのことはぼくだって知っています。特に黄金比は、ぼくの頭では到底理解できない複雑怪奇な数式から導き出されたもので、ものの本にはギリシャの彫刻、建築、ピラミッド、L. ダ・ヴィンチの作品をはじめとして、多くの芸術家がそれを採用(意識)して創作したと述べられていますが、ぼくにはどうも眉唾物のように思えてなりません。“眉唾物”が言い過ぎであれば“後付け“的なものであるように感じます。彼らの普遍的な美の最大公約数がたまたま黄金比に合致していたと解釈するのが健康的な解釈であろうとぼくは思っています。
 少なくとも写真に於いては、瞬間的な判断(フレーミング)を要求される場合が多いので、小数点以下が天文学的な桁に達する黄金比(1:1.618・・・)を意識できるはずもなく、ですから「写真の構図は瞬間的な感覚」により決定されるものだとぼくはいっています。故に構図を意識して撮ったことがありません。

 しかし、構図は「感覚的なもの」だけでは済まされないこともよく認識しています。月1度の例会で10人近い人たちの写真評をする際に、重要な事柄のひとつとして常に構図に触れないわけにはいかないからです。写真を見せてもらい、ぼくは常套句のように「あなたは何を撮りたかったの?」と訊ねます。撮影者の意図が伝わってこない要因はいろいろなものがあるでしょうが、構図やアングル(これも構図を成すもののひとつ)の詰めの甘さを主だって指摘することが多々あります。
 奥ゆかしい人は静々と「日の丸写真なんですが〜」という前置きを忘れずにつけ加えることがあります。「日の丸写真」、または「日の丸構図」とは写真界の俗語です。日の丸のように被写体をど真ん中に置いた正々堂々たる写真で、単調さを免れぬ嫌いはありますが、撮影者が卑下すべきものではありません。「日の丸写真」を稚拙で良からぬものと決めつける由々しき風潮を時折見かけますが、トンデモナイことです。「日の丸写真」を二分割法構図として解釈するのであれば、それは最も安定した構図であり、人間の視覚は中心に向かう性質がありますから、求心力を削がれません。思わず目と目が合い、見つめ合ってしまうのは大きな長所です。短所としては立体感や動感、バランスの妙味に欠け、どこか変化の乏しいものに感じられることが多いのです。

 そこで、「日の丸写真」の単調さを避けるための方法(“法則”ではない)として馴染み深いものが三分割法です。フレームを縦横等間隔に三分割し、その交点、もしくは線上に被写体の重要な部分を配置する方法です。作例として写真を5点添付しましたのでご参照のほどを。写真は勿論すべてノートリーミングです。「日の丸写真」が悪いわけではありませんが、添付したこれらの写真がもし「日の丸写真」であれば、面白味のない凡庸なものになってしまったと感じる方が大半なのではないでしょうか。想像してみてください。
 作例は「第134回」でお伝えしたように、人物であるので国内のものでなく海外のものにいたしました。牛に肖像権があるかどうかは知りませんが・・・。
 
 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/146.html

★「三分割法01」。焦点距離50mm(35mm換算)。この写真のみ三分割のすべての線を引きました。画面が9等分されています。背景が立体物でない場合、三分割法は特に効果があります。
★「三分割法02」。焦点距離35mm(35mm換算)の広角レンズです。かなりの接近戦ですが、おじいちゃんが物思いにふける隙を捉えて目線をはずしています。
★「三分割法03」。焦点距離28mm(35mm換算)。女の子が身構えないうちに、振り向きざまひっそりシャッターを押しました。
★「三分割法04」。焦点距離90mm(35mm換算)。ドストエフスキーを読みふける女子大生。緊張感が削がれないように、分割線よりわずか外側に配しました。
★「三分割法05」。焦点距離50mm(35mm換算)。車のブレーキを踏み、運転席から牛君に気づかれないようにしながら、やはり目線をはずす。
(文:亀山哲郎)

2013/04/05(金)
第145回:補正と加工(2)
 本来ならMacのオペレーターにお任せするような「加工」をクライアントから無理強いされて、Photoshopでの暗室作業がさして苦にならぬぼくもさすがに怯んでしまいました。合成の技術的なことはさておいても、光学的な齟齬が生じないように如何にもそれらしく見せることに、一写真屋としてどこか後ろめたさを感じたのです。すっかり気が滅入ってしまいました。なんだか大根役者がうさん臭いドラマを大仰に演じているような錯覚に陥ってしまいました。テレビなど滅多に見ないぼくが、テレビドラマなどで現実にはありそうもない場面や非常に意図的で白々しい台詞のやり取りを見て「そんなアホな! ああ、小っ恥ずかしい」とせせら笑っている、それと似たり寄ったりのことをしている自分に気がついたのです。このようなことは、「虚構の世界に遊ぶ」なんてとてもそんな高尚でお洒落なことではありません。そこにはロマンやウィットのひとかけらもなく、あるのは商業主義にまみれた偽物のリアリティと薄っぺらな見せかけの世界だけ。

 今回のように大体的に嘘八百(職業上、“嘘も方便”と取り繕っておきます)を並べ立てたのは長い写真屋生活で初めてのことですが、多かれ少なかれ、デジタルになって以来、クライアントもデザイナーも、写真についてはプロアマを問わず、ややもするとどこか安易な気持ちに支配されがちなのではないかとの懸念を抱いています。
 前回、「加工」は「撮影者の良心や見識に依拠するしかない問題」だと述べましたが、コンテストなどの応募要項に時たま「加工を施したものは受け付けない」との旨が明示されているのを見かけます。ぼくはアマチュア時代からコンテストなるものは自分にとっての意義を見出せないので応募したことは一度もありませんが、このような但し書きが述べられるようになったのは、デジタル時代になってからのことではないでしょうか。安易な気持ちが“掟破り”を生んだのでしょう。ぼくは撮影者が「程度問題」を心得、その良心や見識を信じているので「鷹揚に構えている」と書きました。「加工」についてはどこからどこまでを正否として捉え、論じられるかの線引きなどありませんから、とどのつまりは撮影者のインテリジェンスにかかっているといえましょう。

 さて、「加工」と「補正」は意味がまったく異なるものだと捉えています。ぼく自身の考え方を正確に述べるのであれば、「補正」ではなく「補整」としたいところです。感覚的には「補って正しくする」のではなく、撮影時のイメージを「補って整える」のがぼくの暗室作業の目的でもあり、ですから「補整」と記す方がより自分の気持ちに素直であるように思えます。普段仲間同士のメールのやりとりでは「補整」を使っています。ちなみに英語版Photoshopは“Adjustment”とされており、日本語版ではそれを“補正”と訳していますから「補正」が一般的なのかもしれません。

 私的写真に「加工」はしませんが、「補整」はなくてはならぬ作品制作の手順です。「補整」なくして自分の写真は成り立たないと断言してもいいくらいです。しかし、このことはぼくばかりでなく写真愛好家やここまで拙文を読み進んでこられた読者諸賢も同じであろうと思いますので、その必要性についての詳しい理由には触れません。
 オリジナルの画像はあくまで素材(食材)であり、「補整」は料理方法に喩えればいいでしょう。以前にもしばしばA. アダムス(フィルム時代の人)の言葉を引き合いに出しましたが、「ネガは楽譜であり、プリントは演奏」なのです。これ以上「補整」の意味する的確な表現はないと思っています。
 いくら優れた食材であっても料理人が料理作法に疎くては美味しい料理は適うものではないでしょうし、また反対に食材が悪ければどんなに料理人の腕が良くても、その味を喜んでもらえるものではありません。
 大切なことは撮影者が撮影をする際に、すでに料理のレシピが頭に描けているかどうかです。

 過日、うちのメンバーの1人がフォト・トルトゥーガ展に出展するための写真データを送ってきました。メールに添え書きがしてあり、「バリバリの亀山調プリントになってしまっても文句はいわない」(原文ママ)と半ば開き直っているようにも思えました。彼は自分の為すべき事を放棄し、他人に丸投げするような狼藉者では決してないのですが、あまりの多忙のためプリントする時間さえないとわがままをいってきたのです。栃木県の人里離れた山奥から毎月の例会に浦和まで、自転車、バス、電車を乗り継いで通ってくるほどの生真面目さと熱意・向上心をぼくはよく知っていますから、余程のことに違いないと思いました。写真を愛しながら、迷い子となった小熊を育て上げ、それしか楽しみのない人でもあります。「ゆくゆくは是非白熊を飼ってみたい」という変わり者でもあります。
 彼の「バリバリの亀山調」、「文句はいわない」の言葉に意を強くしたぼくは、「よ〜し、見てろよ」とまずデータの「補整」から始めることにしたのですが、四半世紀も写真にのめり込んできた人ですから、おおよその所はでき上がっていました。しかし、何カ所かが不全に思えそれを手直ししてから、彼いうところのバリバリの亀山調にしてみようと悪戯気分を存分に発揮し、マウス片手に試みたのですが、どうやってもぼくの調子にはなりませんでした。原因を探ってみると直ちに2つのことに気がついたのです。ひとつはぼくがイメージして撮影したものでないこと。もうひとつはすでに料理済みであったことです。彼のレシピに根本的な変更を加えることができず、調味料を付け加えた程度ですからぼくの味付けにはなるはずがありません。

 ジーンズは普段ジーンズを着こなしている人が似合うのであり、そんな分かりきったことを改めて感じ取った山奥からの便りでした。
(文:亀山哲郎)

2013/03/29(金)
第144回:補正と加工(1)
 今、ぼくはちょうど2週間前に撮影した広告写真の「補正」と「加工」をしています。某メーカーの最新モデルの“スマホ”写真です。“スマホ”だなんて、カタカナ(特に外来語)の短縮形に身の毛がよだつほどの嫌悪感を抱いているぼくがそういわざるを得ない現実を非常に悲しく思っています。市民権を得たカタカナ短縮形を「俗人」は使わなければいけないような仕組みに世の中はなっているようですが、ぼくのなかではやっと「パソコン」がせいぜいのところで、本稿では「デジカメ」と短縮形を使用していますが、まだ少なからず抵抗感が残っています。
 「俗人」とはどのような意味かを調べてみると「世間一般の人」の他に、「風流を解しない人」、「名利にこだわり学問や芸術に関心のない人(以上広辞苑)」。「高尚な趣味のない人」、「名誉や利益のことしか頭にないつまらない人(以上大辞林)」なのだそうです。「俗人」を「世俗的な」、もしくは「通俗的な」に置き換えても「世間一般の人」以外にあまり良い意味はなさそうです。

 カタカナの短縮形を、時代に乗り遅れまいと意識して使う人々、もしくは得々として使う人々などに、決して良い写真など撮れるわけがないとぼくは常々言い切っています。なんてうるさいおっさんなのでしょう! それを「独断と偏見」と見る向きも世の中には大勢いることをぼくはよく知っています。なぜそう思うのかというと、実に単純明快で「語感がひたすら汚らしい」からです。なぜ「汚らしい」かというと、ぼくの感受性がそう訴えるからです。ぼくの感覚には到底相容れ難いものがあります。そこに分析可能な理論はありません。旨いものは美味く、不味いものは不味いのであって、誰しもが五感を総動員してそう結論づけるわけですから、理由はあっても論理立てて説明できる事柄ではありません。
 また、限られた世界でしか使用されない俗語を(一般的に“業界用語”というらしい)、その世界に属していない人たちに対して得意気に使う人々。その人柄はともかくも、ぼくはその美意識を疑ってしまいます。例えば、「モツレク」ってなんだか分かりますか? モーツアルトのレクイエムなのだそうです。「チャイコ」はチャイコフスキー、「ショスタコ(ショスタコーヴィッチ)」だって!
「ベトシチ(ベートーヴェン第7交響曲)」だとか、音楽という美に従事している“はず”の人たちが門外漢のぼくに向かって平然とそう言い放つのです。優れた演奏家は決してそんな言い方はしません。「フォトショ(Adobe Photoshop)」とか「イラレ(Adobe Illustrator)」と豪語する、こういう人々にも写真は無理です。絶対に無理、不向き、無縁。この論理の飛躍にも説明がつけられませんが、下手な理由をこじつければ、「一事を以て万端を知る」というところでしょうか。
 そのような言葉の飛び交う空間には、どうしても馴染むことができず、またいたたまれないのでぼくは極力近づかないようにしています。ぼくのようにボーッとしているのが好きな人間にさえも、どことなく怪しげで危ういものを感じ取ってしまうからです。ロシアの文豪L.トルストイは「言葉を大切にしない人は所詮その程度だ」ということを確か『人生論』のなかで述べていたように記憶しています。
 短縮形ではありませんが最近の「リスペクト」とか「マスト」だとか、ありゃ一体なんなのでしょうか? ぼくはへそ曲がりですから、このような人々は多分、物事を断定的に述べることを避け、「解釈はあなたにお任せします(ですから私は自分の言葉に責任を持ちませんよ)」との意味合いを強く感じてしまうのです。「とか」の連発もしかり。「・・・じゃないですかぁ〜」って、なんでいちいち相手に同意を求めながら話さなければいけないの? そんなに自分の意見を開陳することが恐いのでしょうか。初対面で「私って、コーヒー嫌いじゃないですかぁ〜」っていわれてもねぇ。

 あれ〜っ、どこで“スマホ”が転んで、こんな話の展開になってしまったのか。ボーッとしながらも、へそを曲げながらも、やっぱり“スマホ”はひどく居心地が悪いので“スマートフォン”といい直します。

 今、ぼくの取りかかっている最新モデルのスマートフォンの広告写真は、撮影した画像をそれぞれに切り抜き、Photoshopで4重にも5重にもレイヤーを重ね合わせて1枚の写真に仕上げなければならず、その複雑さと繁雑さに、思わず「こんなもの、写真じゃないよ。なんで写真屋のオレがしなくちゃいけないのさ」と担当者に毒づいています。いわゆる「加工」は写真屋の仕事ではなく、本来は印刷所などのMacオペレーターに任すべきことなのですが、写真の(レンズの)遠近感や光の方向、光質などを計算に入れなければできないような絵柄のため、ぼくがせざるを得ないような事態に遭遇させられています。なんの因果か、一種の厄難に遭っています。
 コマーシャル写真の世界にはよくあることですが、ぼくは私的な写真に「加工」を施すことはありません。「加工」の定義を、画像に在るものを削ったり、逆に付け足したりすることだとすればです。それをしなければならないのは、すでに撮影の段階で失敗しているとぼくは潔く認めています。ですから「加工」はしません。

 「加工」の是非が様々なところで論じられていますが、何事も程度問題だと思っています。これは撮影者の良心や見識に依拠するしかない問題で、猜疑心の養成に役立ててはいけません。電線を1本削ることで、小枝を1本落とすことで写真が見違えるほどに良くなると撮影者が感じればしてもいいとぼくは思います。「写真は真を写さない」のですから、特段目くじらを立てるほどのことではありません。デジタルの長所を見極めて使いこなせばいいのではないかとぼくは鷹揚に構えています。うるさいおっさんではないのです。
 「これさえなければ、いい写真なのに。残念!」と本人が感じれば、それは上達の一歩です。「失敗は成功の基」です。残念無念と地団駄踏んで悔しがることはとてもよいことで、次なる発見や技術におおいに役立つとぼくは信じています。ただ、ぼくはボーッとし過ぎていたせいか、学習能力に欠け、同じ過ちを性懲りもなく繰り返してしまうのです。これじゃ〜、ダメだ。
(文:亀山哲郎)

2013/03/22(金)
第143回:花より団子
 今年は寒かったので桜の開花が遅れるだろうと思い込んでいたのですが、あに図らんや虚を突くように咲き始めました。油断も隙もあったものじゃない。
 日本人にとって桜というのはどことなく古式ゆかしいものの象徴であり、また宗教的な雰囲気を感じ取るのはぼくだけでしょうか? 入学式や卒業式という人生の節目にも律儀につき合ってくれ、桜のある風景は日本人にとって華やかな原風景のひとつなのかも知れません。身の縮むような寒風から解き放たれ、啓蟄とともに春の到来を告げる年一度のめでたい祭典のようです。そのめでたさはまるで正月のようでもあり、誰もが桜によってのびやかで神聖な気分を体感しているようでもあります。

 仕事の写真に没頭していた頃は桜など見向きもしなかったものですが、しかしこの10年間、私的な写真に傾注し始めてから、ぼくは桜の季節になるとなぜか心穏やかならざるものがあります。常日頃、桜は眼で見て愉しみ、愛でるものであって、写真に撮ろうなどと不届きな心得ではいけないと他人に言いつつも、満開の桜を見て思わずレンズを向けてしまう自分がひどく忌々しくもあります。桜の持つ魔力に抗しきれず、無駄と知りつつ無意識のうちにレンズを向けようとしている自分に嫌気がさしてしまいます。桜には何の罪もないのですが、うんざりするような自分の醜態に、その全責任を桜に負わせようとしています。花びらのひとつひとつを見てみると、桜とは色艶のあるものではなく、あまりにも無邪気でおおらかなので、そこにエロティシズムを感じないのですが、なぜか幹と一体となった集合体は、光や周辺の佇まいによってとても妖艶な姿に変化を遂げる不思議な樹木です。しかし、どこかイメージとすれ違うのか、なかなか思ったように撮れない。ぼくにとって、桜とはそんな罪深い宿痾(しゅくあ)のようなものなのです。

 「写真よもやま話」と銘打っている以上、季節柄「桜の撮り方」なんぞに触れなければいけないのでしょうが、それがぼくにはまったく分からないのです。ぼく自身、桜の写真を今までに一体何枚ほど撮っただろうかと顧みるに、おそらくたったの数百枚に過ぎないだろうと思います。思わずレンズを向けてしまうと言いつつも、こんなに少ないのは忌々しい自分の姿に自制が働いている証なのでしょう。ナルシストというか未練がましいというか。
 そしてまた、残念ながら良い桜写真が撮れたためしがありません。やはり桜は春風に吹かれながら、眼で愛でるものなのでしょう。「花より団子」という諺もありますしね。ちょっと違うかな。
 世の中にはそれこそ天文学的な数の桜写真がありますが、「素晴らしい!」と膝を打ったものは今日まで2,3枚しかありません。恐ろしい確率の低さです。なぜなのでしょう? その原因を探ることができれば「桜の撮り方」について取りかかれるのですが、現時点では残念という他ありません。

 過日、うちの倶楽部の人が「もうすぐ桜が咲き始めるので撮りたいのだけれど、桜を撮ってもうちのおっさんは(ぼくのこと)“いい写真だ”とはいってくれないだろうからなぁ」と嘆いていたそうです。これはちょっと穿(うが)ち過ぎです。確かに、ぼくは誰が撮っても代わり映えしない写真が氾濫するなかで、そういった類のものを如何にきれいに撮っても「良い写真だとは認めがたい」といつもいってきましたから、彼はそう早合点したに違いありません。第130回「趣味としての写真(2)」で、「上高地などのお定まりの写真をどんなにきれいに撮って来てもぼくはそれを良い写真とは認めない」と言い張りました。その考えは今も変わることがありませんが、絵葉書や観光写真の類から脱し、もう一歩写真的精神年齢を高めて、そこに撮影者独自の世界観や視点が加わればそれでいいのです。誰もが美しいと感じるものに対して、人はアイデンティティを得にくいものです。決して頭ごなしに桜や紅葉の写真を否定しているわけではありません。

 桜は日本人のDNAにあまりにも深く刻み込まれているせいか、無意識のなかでの意識覚醒が極めて難しいのかも知れないと考えたり、あるいはイメージを多く抱きすぎるために、知らず識らずのうちに混乱を来しているのかも知れないとする見方もできますが、いずれにしても明確な答えが得にくい被写体であることに変わりありません。
 逆に、誰もが極めて明確なイメージを携えているが故に、百人百様ですから、個人のイメージに合致した写真になかなかお目にかかれないということなのかも知れません。う〜ん、どうもよく分かりませんね。

 ぼくが5年前に撮った桜写真を掲載しておきます。この時以来、桜は1枚も撮っていないのです。なぜかといいますと、この写真を撮ってしまったがために、自分でいうのもおかしなことですが、桜と出会う度にこれ以上の写真は今撮れないという確証めいたものがあります。「やっと自分のイメージする妖艶な桜を捉えることができた」と思ったものです。次なる桜の発見はいつになるやら。「花より団子」ならぬ花見酒でもやりながら考えることにしましょう。

 埼玉県川島町の入間川堤を車で走っていたら、眼下に桜に囲まれた神社を発見。運転席の窓を開け横着にも外に出ることなく、運転席からたった1枚だけ撮ったものです。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/143.html

 撮影データ:EOS1DsMarkIII、レンズEF35mm F1.4L USM、絞りf 7.1、1/60秒、ISO 100、露出補正-1絞り。Rawで撮影。2008年3月29日午後5時5分。
(文:亀山哲郎)