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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2011/05/27(金)
第53回:画像補整の弊害に思うこと
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」と前回述べましたが、画像を最も劣化させる機能がシャープネスです。その極端な例を上げておきますのでご参照のほど。
「シャープネスあり」は分かりやすいように強めにかけてあります。

※参照画像1・2:「シャープネスなし」「シャープネスあり」
 → http://www.amatias.com/bbs/30/53.html

 シャープネスはその最たる例ですが、シャープネスに限らず、極端な補整をすればするほど画像を著しく劣化させることに変わりはありません。特に無地に近い空など、明度や色調を変えればトーンジャンプという厄介な現象に見舞われ、なだらかなグラデーションが縞模様になったりして、始末の悪いことになります。このトーンジャンプによる縞模様を誤魔化すために「ノイズ」を加える方法が本などでよく語られていますが、一時しのぎの感は拭えず、やはり撮影時にそれなりの方策を練ったり、工夫するのが本道だと思います。前述した段階露光をしたり、偏光フィルタを使った方が、画質を劣化させずに思うようなトーンが得られやすいことがままあるからです。
 今回、トーンジャンプに触れるつもりはないのですが、ついでながら、それを防ぐ方法としては、Photoshop などの画像ソフトで色の彩度を変化させるのも一つの方法です。彩度を上げるか下げるかすると、ヒストグラムの櫛型(歯抜け)が埋まることがあります。しかし、これとて希望する彩度を敢えて変えなければならないわけですから、やはり本道ではなく誤魔化しに過ぎないとぼくは思っています。

 そして、トーンジャンプの確認の方法が間違っている場合が往々に見られますので、ついでながら述べておきましょう(ぼくは非常に忘れっぽい質なので、思いついた時に述べておかないと、永遠に忘れてしまうのです)。
 画像ソフトでトーンジャンプや細部を確認する際には、画像の表示倍率を“必ず整数倍に”して確認してください。つまり、25%、50%、100%、200%という具合にです。画像倍率の表示は以下をご覧ください。これはAdobe Photoshop の例で、画像を開いた時に画面左下に表示されます。他のソフトでも画像倍率は必ずどこかに明示されます。

※参照画像3:「画像拡大倍率」
 → http://www.amatias.com/bbs/30/53.html#3

 JPEGで撮影する際にシャープネスをはずしておく、ということを述べましたが、その後判明したことはカメラによっては「シャープネス0 」のデフォルト状態ですでにシャープネスがかかっているという事実に、唖然とさせられました。あまりにもユーザーを見下した機能設定がされていると憤慨したくらいです。画質などより、見映え優先の方がユーザーにとってありがたいだろうとメーカーがもし考えているとするならば、それは看過できない由々しき問題だと思います。
 また、「それを懸念するのであれば初めからRawでお撮りなさい。JPEGなんてそんなものですよ」とでも言いたいのでしょうか?

 ぼくは幸か不幸か、このようなカメラを使用していないので気がつかなかったのですが、シャープネスや色の彩度、コントラストなどの過剰な設定機能にどうか惑わされないようにと願うばかりです。

 私事で恐縮ですが、そして手前味噌のようでちょっと憚られるのですが、先月私の主宰する写真クラブのグループ展を催したところ、来場者からの意見でもっとも多かったものの一つは、もちろん写真の質自体が問われるのは言うまでもないことですが、プリント技術やその色調に感心したというものでした。
 確かに、他の写真展に比べて色彩鮮やかな写真表現はほとんどなく、華やかさとは一線を画し、地味とさえ言えるくらい色調を抑え、また絵柄に合わせた印画紙を慎重に選択し、吟味した結果であろうと思っています。
 目を覆わんばかりのデジタルの弊害をあちらこちらで見ていますので、そのような通弊や惨劇?を極力避け、受難に遭わないように指導した結果としてそのような印象を持たれたのだと思います。

 自分の写真を丁寧に扱う心得がなければ、人様に観ていただく資格などないとも思っています。ぼくは写真の上手下手を問うことはまったくありませんが、写真に対峙する姿勢にはプロ・アマに関わりなく、写真を愛好すると称するのであればやはり厳しさを求めて然るべきだと感じています。それがやがて美に対する深遠さや奥行きを育んでいくのではないかと暗に感じています。

 デジタルはアナログに比べ色調やトーンの調整がパソコンの前に座ったままで容易に行えますから、どうしても「やりすぎ」てしまうものです。それを押し止めるものはその人の良識や見識、美意識に頼らざるを得ないのですが、その感覚を養うには古今東西の名品(写真に限らず、文学、美術、彫刻、建築、音楽、陶芸、書、映画などなど風雪に打たれ普遍的な美を宿している作品群)に数多く触れ、親しむことが一番手っ取り早い方法だとぼくは考えています。
 写真は理屈じゃ撮れませんから・・・(と、いつも自分に言い聞かせています)。
(文:亀山 哲郎)

2011/05/20(金)
第52回:シャープネスの功罪
 前回、「画像補正はそれ自体が画質を劣化させる」と述べました。読者諸兄のなかにどれくらい画像ソフトを使って補正をされている方がおられるか分かりませんが、ついでですのであまり専門的なところには立ち入らない程度にお話ししておきましょう。

 先日、ぼくの友人が仕事で富山に行き、その合間に海の写真を撮ったのだそうです。その画像をメール添付してきました。メール添付してくるくらいですから、彼女にはちょっとした自信があったのかも知れませんし、あるいは普段からぼくに、やいのやいのと言われているので「これならど〜だ!」という気概を示そうとしたのかも知れません。
 彼女が実際に「ど〜だ!」と言ったかどうかは分かりませんが、確かにモニター上に映し出された写真は「ど〜だ!」と雄叫びを上げているように思えました。写真とは非常に饒舌であり、正直でもあり、真を写すわけではありませんが、撮影者の真実は隠蔽しないという性質を一方で持っています。「洗いざらい晒け出す」とまでは言いませんが、誤魔化しようのないところをしっかり語ってくれるものです。

 ここにその写真をお見せできないのは残念ですが、ぼくの眼目は写真自体の内容をここでお話しすることではなく、カメラには魔物が潜んでいるということをお伝えしたいのです。
 彼女の写真はなるほど「ど〜だ!」と言うくらい出来映えの素晴らしいものでした。日本海は太平洋に比べてどこか陰鬱さが漂い、文学的でもあるとぼくは解釈しているのですが、その光と情景を見事に捉えていました。彼女の会心の一打とも言えましょう。しかし、添付されてきたカラー写真を見て、ぼくは思わず「あ〜っ、もったいない!」と嘆声を漏らしました。

 その嘆きとは、とんでもないシャープネスがかかってしまっていることなのです。シャープネスとは、画像に存在する様々な境界や輪郭が強調され、シャープに見えるような仕組みを言います。全体が見かけ上クッキリシャッキリとし、なんとなく綺麗な感じとなりますが、これはあくまで視覚上でのことであり、物理的な解像度が増すわけではありません。シャープネスをかけ過ぎると、コントラストの強い境界部分などに白い隈取りが出現し、とても醜いものとなります。シャープネスとは画像劣化の最右翼として(つまり極悪人の一人)、記憶に留めておいてください。なお、シャープネスはピンぼけを救済するものでは、もちろんのことありません。

 昨今の写真展などはデジタル写真が多くなりましたが、シャープネスを適切に使いこなしている作品にはなかなかお目にかかれません。「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、あまりにも美からかけ離れ、逸脱しているものが非常に多く見受けられ、なんとも遺憾に思います。デジタルの功罪のうち、シャープネスはその最たるものでしょう。

 輪郭のコントラストを上げてシャープに見せる方法は実はフィルム現像でも化学的に行われてきました。フィルムでは、希釈現像液を使いエッジ効果を利用してシャープに見せることが行われてきましたが、デジタルほど悪影響を与えるものではありませんでした。

 彼女に画面上の白い隈取りについて訊ねてみると、いわゆる画像ソフトなどを使ってシャープネスをかけてはいないとのことでした。であれば原因はただ一つ、カメラ内のシャープネス機能が悪さを(ぼくは“悪さ”とはっきり言っちゃいますが)しているのです。カメラのJPEG 設定時に、写真データはすでにシャープネスという魔物に取り憑かれて、醜態を晒しているのです。これこそ「百害あって一利なし」です。

 おそらく多くの方が、JPEG で撮られていると思いますが、カメラの機能を(設定)もう一度お確かめになって、シャープネスをはずして(0にする)ください。カメラ内でかかってしまったシャープネスは、一度かけてしまうと元に戻すことはできません。ましてや画像圧縮されたJPEG は情報がふんだんに失われているということも知っておいてください。最近のデジカメであれば、コンデジで2L 版、一眼レフでA4 サイズくらいまでの引き伸ばし倍率では、シャープネスは必要ありません。それ以上に大きく伸ばしたいと思う向きは、カメラではなく、画像ソフトでシャープネスをかけるようにしましょう。

 画像ソフトなどを使ってのシャープネスは、どのくらいの大きさの印画紙にプリントするかでおおよそのところが決まってきます。主観的な要素も多少は含まれますが、白の隈取りが出る一歩手前で抑えるのがコツで、そうであれば画質の劣化はそれほど目に見えるものではありません。
 もう一つ守っていただきたいことは、画像ソフトなどを使ってシャープネスをかける場合、その作業は最後にするということです。補正し終わった画像の最後に施すお化粧がシャープネスなのですが、厚化粧にはくれぐれもご注意のほどを。
(文:亀山 哲郎)

2011/05/13(金)
第51回:撮影モードとは?(3)
 カメラのダイアル、あるいは液晶表示にはAv やTのほかに、「M」というモードもあります。これはマニュアルの頭文字で、絞りもシャッタースピードも“あなたのお好きなように”、という意味です。

 昔のカメラは当然ながらすべてがマニュアル操作でした。今のカメラのように露出計がカメラに内蔵されていませんでしたから、単体の露出計を使って、絞りやシャッタースピードを決めていたのです。今のカメラは内蔵露出計に加え、露出補正機能――カメラの示す適正露出を基準とし、その値を意図的に操作し、敢えて露出オーバーにしたりアンダーにしたりできる機能。そしてまた極端な言い方をしてしまえば、カメラの指し示す露出値を信用しないという懐疑派のための機能――がついていますから、「M」モードは使用したことがないという方も多々おられると思います。かく言うぼくも私的な撮影ではもう何年も「M」モードを使ったことがありません。少し大胆に言ってしまえば、露出補正機能がついていますので、ほとんどの場合「M」モードを使う必要に迫られないからです。普段、夜空の写真などには無縁ですし、普通の写真しか撮りませんから。ただし、仕事ではスタジオ用の大型ストロボなどを使いますから、その時はなくてはならない機能です。「M」モードがなければ、プロの使用には役に立たないことが多々あります。

 通常、カメラに付属している露出補正幅は、プロ仕様を除けばプラス2段からマイナス2段がほとんどのようです。絞りにすれば4絞り分の幅があり、1絞の1/3 段階ずつ調整できるようになっています。この4絞り分の補正幅では間に合わない時に「M」モードが役に立つのです。
 ちなみにプラス2というのは、適正値(つまりノーマル露出値)の4倍の光量を受光素子が受けることを意味し、したがって露出オーバーとなり、より明るく表現できるということです。マイナス2はその逆で光量が1/4しか得られないということです。

 例えばカメラの指示する適正値がf 5.6 、1/250 秒だったとします。日暮れに黒い物をそれらしく描写するには、カメラの指示するその露出値では明る過ぎると感じることがあります。この場合、適正露出とは何を基準にしているのかは、「第19回:風景を撮る (7) 」の「18% 中間グレー」をご参照ください。

 そこで、現場の暗さや黒を表現したいと思ったら、カメラの露出補正をマイナス(露出アンダー)にする必要があります。でないと、真っ昼間に撮ったような明度に表現されてしまうからです。そこで露出補正を使い、例えばマイナス2を選び(つまり、絞り優先時ではf 11 、1/250秒となり、シャッター優先時ではf 5.6 、1/1000秒となります)撮ってみます。それでも自分のイメージはもっと暗く、黒く表現したいという時にカメラの露出補正幅では間に合いませんので、そこで「M」モードの出番となるのです。

 別の例では、天空に煌々と輝く満月などを撮ろうとすれば、夜空と月の明るさのコントラスト(明暗の差)が極端にあり過ぎて、マイナス2くらいの補整ではとても追いつきません。空は暗く夜空に表現できても月は真っ白に飛んでしまうという時は「M」モードを使い、マイナス2以上のところでの“段階露光が必要”になってきます。ファインダーの中の夜空と月の面積の割合で、露出補整の幅は大きく異なりますので、露出を何段階にも変えて撮ってみなければ、なかなかドンピシャリとはプロでもいきません。デジタルですと、モニターで確認できますのでフィルム時代のような不安と不経済さからも解放されます。カメラに付属している「ヒストグラム」機能の使い方を知ればさらに正確な確証が得られます。
 以前にもお話ししましたが、デジタルは白く飛んでしまった箇所は情報が0ですので、後でどんな画像ソフトを使用しても、いかんともし難いということになってしまいます。露出の決定はフィルムよりはるかに慎重を要します。

 「M」モードの話から知らぬ間に「露出補正」の話しに移り、さらに「段階露光が必要」となってしまいました。美しい写真を得るための条件は多々ありますが、場面に合った適正な露出というものはとても大きな要素なのです。この場面・情景を美しく、あるいは自分のイメージに合わせて撮りたいという時には是非露出を何段階か変えて撮っておくことをお勧めします。

 中級以上の方の中には、後で画像ソフトを使って露出補正をすればいいとお考えの方を多くお見受けしますが、画像補正はそれ自体が画質を劣化させるのだと肝に銘じてください。できる限り自分のイメージ通りの露出を的確に得ることが、美しい写真を得るコツでもあるのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/05/06(金)
第50回:撮影モードとは?(2)
 前回、「絞り優先」と「シャッター優先」について大まかではありますがお話ししましたので、今回は最も多く使用されていると思われる「プログラム自動露出」(P で表示される)モードについてです。

 一眼レフに限らず最近はコンパクトデジカメにも前記した「絞り優先」と「シャッター優先」機能がついているようですから、「プログラム自動露出」はもはや簡易カメラの専売特許というわけではなさそうです。昨今のカメラというものは厄介なことに?とにかくシャッターを押せば、取り敢えずは何かがちゃんと写ってしまいます。写真やカメラの原理を知らなくても写っちゃうから、かえって厄介なのです。始末が悪い?!

 「カメラを初めて買いました。“シャッター優先”とか“絞り優先”とか取扱説明書に書いてありますが、何のことだかわかりません。どれを選べばいいのですか?」という質問にかなりの頻度で出くわします。
 ぼくは、「取り敢えず、“プログラムモード”( 以下Pモード)というのがあるから、ダイアルをPに合わせて、しばらくはそれで撮ればよろしい」と迂闊にも答えてしまうのです。初めてカメラを持った人に「絞り優先」とか「シャッター優先」とはなんぞやを説明しても混乱をきたすだけであろうという先走った老婆心から、ついそう言ってしまうのです。ぼくの文言もP モードになってしまうのです。
 Pモードで撮っているうちに、それではやがて物足りなくなり、あるいはカメラの機能にも理解が及び始めれば「絞り優先」や「シャッター優先」を使うだろうという淡い期待を寄せてしまうのです。これがいけない! 大間違いのもと! 世の中、そう甘いもんじゃありませんね。一年後に会っても「私はPモードでしか撮ったことがありません! いけないんですか!」って、冷静かつ剛毅かつ断固調かつ糾弾調に言われて、ぼくはタジタジとさせられるのです。

 いや、Pモードが悪いって言ってるんじゃありませんよ。確かに便利でよく写るんだしぃ〜〜〜。

 ではP モードとは何なのかをお話しいたしましょう。簡単に言えば、シャッター速度も絞りもカメラが“ほどほど”のところを選んで、あなたの意志に関係なく勝手に決めてしまう機能を言います。もちろん自動露出ですから、露出もカメラが適正と判断したところを選んで決めてくれます。謂わば全自動と言うところです。何事もほどほどのところで決着をつけてくれるのです。意地の悪い言い方をすれば「“まぁまぁ”おじさん」的なところですか。そういうおじさんってよくいるでしょう。もめ事の間を割って、なんでも“まぁまぁ”で済まそうとする、理解不能なおじさんが・・・。
 まぁ、便利と言えばそれまでですが、少しカメラの原理が分かり、こんな写真を撮ってみたいという気持ちになってくれば、こんなに迷惑で、しかも恐く、お節介な機能はありません。「お節介おじさん」ね。物の本などには「素早く撮りたいときにとても重宝する機能」とは書かれていますが、嘘ではありませんがそんなことをしなくたって「絞り優先」や「シャッター優先」を使いこなせば、もっと自由で楽しい世界がその先にはあるということなのです。

 ぼくは特別にPモードに恨み辛みを持っているわけではありませんが、もう何十年も、おそらく40年以上もPモードのお世話になっていないのでまったく縁遠い機能なのです。こんなに便利でつまらなく、しかも退屈な機能はないと思っているのでしょう。自分のイメージを決定づけるものが得られそうもない機能だと感じているからなのだと思います。

 いや、これはWeb原稿であって紙媒体ではなのだから、ぼくは読者諸兄の顔が見えにくく、今かなり戸惑いながら書いています。つまり読者対象がいまいち掴みかきれないでいるのです。コンデジ使用者なのか一眼レフ使用者なのか、どちらを向いてお話しすればいいのか、その見当さえつきかねているのですが、さしあたって、今ぼくの書いていることは、「はい、チーズ」とか「全員笑顔でVサイン」という写真を、つまり単なる記録や記念としてではなく、なにかしらの自己表現を志そうとしている方々、趣味として写真の上達を望んでいる方々を対象に書いているのかも知れないと感じています。
 でも、考えてみればチーズ派やVサイン派には、この手の話は写真に限らず他の分野に於いても、ぼくがP モードに縁遠いのと同様にやはり縁遠く、担当者がわざわざ「写真よもやま話」として設ける必然性もないわけですから、このまま迷わずに一気呵成に進めていこうと、たった今決意を新たにしたところです。現在完了形というところです。

 これをお読みになっているP モード派の方々は一歩前進して、今日からまずダイアルをAv もしくはA に合わせて、「絞り優先」機能を使ってみてください。絞り開放(数字の最も小さいf値 )とf 11くらいでいいかな? 同じ物を撮って比べてみてください。たった2枚撮ればいいのですからたやすいことでしょう? それは勇気の要ることでもなければ、カメラが壊れるということでも、あるいは写真が写らないということでもありませんから、騙されたと思って(だれも騙してなんかいません。人聞きの悪い!)、試行してみてください。2枚を見比べて「う〜ん、なるほど写真って面白いものだなぁ」という声が聞こえてくれば、ぼくの労も報われるのですが・・・。
(文:亀山 哲郎)

2011/05/02(月)
第49回:撮影モードとは?(1)
 今回は初歩的なカメラの使いこなしについて少しだけ触れておきましょう。

 カメラにはさまざまな設定項目があります。撮影の前にあらかじめ設定しておくべき事柄についてですが、そのなかでも初めてカメラを持った方々が往々にして戸惑う事柄を取り上げてみたいと思います。

 カメラを購入してその取扱説明書に「露出モード」として、「絞り優先」、「シャッター優先」、「プログラム」、「マニュアル」などという項目がありますが、この意味がよく理解できないという声を聞くことがありますので、これについてメカ的なことには触れず簡単な説明をいたしましょう。

 「シャッター優先」とは、詳しくは「シャッター速度優先自動露出」と言う意味で(TvもしくはSで表示される)、任意のシャッタースピードをあなた自身が決めることです。決められたシャッタースピードに対してカメラが適正露出を保つように絞り値を自動的に決めてくれる機能をいいます。シャッタースピードと絞り値は常に連動しているもので、あなたの決めたシャッタースピードにどのくらいの光の量を受光素子に取り入れるかをカメラが自動的に判断し、適正な露出を与えようとするものです。シャッタースピードと絞り値のシーソーのような関係については混乱を招く恐れがありますので、ここでは触れません。

 「シャッター優先」はどのような時に便利なのでしょうか。例えば動きの速いものを止めて写したい場合などです。動きの速いものと言っても、どの程度かは被写体にもよりますが、主なものを挙げればスポーツ写真に代表されるものや動物などです。まさにその瞬間を止めて表現したい時に便利な機能です。どのくらいのシャッタースピードが最適であるかは、あなたの経験に頼る他ありませんが、繰り返し撮影できるものであればデジタルの強みを生かし、撮影直後にモニターで拡大して確認してみるのも良い方法ですね。
 あるいは手ぶれを防止するためのシャッター速度が要求される場合などです。特に望遠レンズを使用する際には重宝なことがしばしばあります。
 また、その逆に遅いシャッター速度を使いたい場合。例えば水の流れや滝、噴水などを白い流体として捉えたい場合などにも便利なものです。渓流などの水の流れを表現する時などによく用いられる、あの手法です。昔から誰もが一度は試みた表現手法です。

 それに対してもう一方「シャッター優先」より多く用いられる(厳密な調査をしたわけではありませんが)露出モードが「絞り値優先自動露出」(AvとかAで表示される)です。これは「シャッター優先」とは逆に、絞り値をあなた自身が決め、その絞り値に対して適正露出になるようにカメラが自動的にシャッタースピードを決めてくれる機能を言います。
 レンズの絞り値によって被写界深度(第42回に参照画像として示してあります)が異なってくるので、表現方法に大きな自由度を得られます。主被写体以外をどのくらいぼかすとか、ファインダーで見たものすべてをシャープに撮りたい(“パンフォーカス”と言います)と言った場合に任意の絞り値を選択すればいいのです。シャッター速度はカメラが自動的に決定してくれますが、時によってあまり絞り過ぎる(絞り数値を大きくする)とシャッター時間が長くなり、手ぶれを起こす危険性があることを知っておいてください。

 代表的なものを挙げるとポートレート撮影では一般的に(あくまで“一般的に”です)背景をぼかし(絞り数値を小さくしていく)余分なものを省略したい場合などに有効です。絞り値を小さくすると光がカメラに入ってくる量が多くなりますから、カメラは自動的に短いシャッター速度を選んでくれます。つまり手ぶれ防止に有利に働くというわけです。
 逆に風景写真などは画面の隅から隅までシャープな画像を得たい場合が多く、その際には絞り値を大きくしていくと、パンフォーカスの写真が得られます。また、風景写真はできるだけ高い解像度を得たい(小枝や葉っぱをできるだけ微細に捉えたい)と思うのが人情というもので、であればそのレンズの絞り値による解像度の違いを心得ておくと、さらにシャープな写真が得られます。

 レンズの解像度は中心部から周辺部に向かって悪くなりますから(広角レンズであればあるほどその傾向が強くなる)、できるだけ均一な解像度(この場合、画質と捉えてもいいでしょう)を得られる絞り値を知っておくと、大きく伸ばした時に気持ちの良いプリントが得られます。
 前述した「パンフォーカス」は絞れば絞るほどピントの合う範囲が広がりますが、では、絞り込むほどに解像度が良くなるかと言うとそうではありませんので、ここを誤解しないでください。絞るほどに「光の回折現象」というものが付随してきますので、かえって解像度を下げてしまうのです。この“頃合い”というか“さじ加減”は、実際に使用するレンズによって多少異なりますから、身をもって習得する以外に方法はありません。
 ただ例外なく言えることは絞り開放(そのレンズの最も小さい数字の絞り)では、どのレンズも解像度やコントラスト、周辺光量落ち、発色など良い結果は示さないということです。

 今日は「シャッター優先」と「絞り優先」までしか述べることができませんでしたが、この2つのモードを自在に使いこなせば、撮影表現は格段に広がっていくのです。次回に続きをお話しいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2011/04/22(金)
第48回:大伸ばしプリントの薦め
 今やカメラは一家に一台から一人に一台という時代になりつつあり、デジタルのおかげで誰でもが手軽に写真を愉しめるようになりました。特に写真の好きな人は二台も三台も所有しているようです。
 カメラのコレクターでないぼくでさえ、仕事用とプライベート用を合わせると「一人の人間が一枚の写真を撮るのになぜこんなにたくさんのカメラとレンズを所有しているのか?」と感じることもあります。家人なども言葉にすることはありませんが、「なぜ、そんなにカメラやレンズが必要なのか?」と疑いの眼差しで、というより白い目で見ているようです。

 二昔以上前のことになりますが、アシスタントをしていた頃に、師匠から「なぁ、一本のレンズをマスターするのにどのくらい時間がかかる?」という質問を投げかけられたことがあります。「そうですね、ぼくはそのレンズの大まかな正体を掴むまで毎日使ってもやはり1年くらいはかかると思います」と答えたところ、師匠も「やっぱりそのくらいはかかるよね」と同意を示してくれました。まぁ、個人差もあると思いますが、一本のレンズ(ズームではなく単焦点レンズ)の性格を知るにはそのくらいはかかるものだと思います。ズームだとさらに手のかかるものとなります。
                         
 撮影というものは二度と同じケースに出会うことがなく、使い慣れたと思っていたレンズが、ある状況下でひょっこり今までに見せることのなかった表情(表現)を示すことは多々あることです。喜びも悲しみも「刮目して相待つべし」というところでしょうか。
 具体的かつ大まかに言えば、このレンズはこのくらいの距離のものを写すには、このくらいの絞り値で撮れば、このくらいのボケ具合で、コントラストはこうこうで、発色にはどんな癖があって、周辺光量はこのくらい落ち、画面周辺と中央部の解像度はこのくらい異なってくるというようなことです。また、さまざまな収差も加わってきます。近、中距離では非常にシャープなレンズが、無限遠では腑抜けレンズだったりすることも往々にしてあります。厳密に言えば、このような諸々の条件の順列組み合わせは途方もないもので、一本のレンズでさえその性格を完全に把握することはとても不可能に近いことです。

 とは言え、やはりある程度レンズの癖を知っておけば、撮影上の表現に関わってくることなので、思わぬ失敗を避けることができるのです。使いこなすにつれ、表現域が広がっていくのも事実です。

 メーカーなどが公表しているレンズ性能を数値やグラフで表すMTF曲線などは、あくまで物理特性に頼ったものですから、実践してみないと本当のところはなかなか分らないものです。砂糖が何グラム、塩は何グラム、醤油は・・・、みりんは・・・、というだけで味が分かるものでないのと同じ事です。
 「MTF曲線がこうこうだからこのレンズはこうこうだ」と言う話をよく耳にしますが、それは“当たらずとも遠からず”という程度のことで、その数値を鵜呑みにすべきではありません。

 今ぼくは何人かの方々のデジタル写真のデータを27 インチの大型モニターでつぶさに検討し、A3ノビからA2サイズの大きさにプリントする作業に追われています。他人の撮った写真ですから、当然ぼくはその撮影現場に立ち会ったわけではなく、また撮影者それぞれのイメージがありますから、Photoshopで最小限の補整をして全体のトーンを整える程度で、その絵柄に合うと思われる印画紙を選びながらプリントしています。本来は撮影者がプリントするのが理想ですが、 A4サイズまでしかプリントできないプリンタ所有者のためにです。

 A3ノビやA2サイズくらいの大伸ばしになってくると、 A4サイズでは分かりにくかったことが判明してくるので、仲間の写真と知り得たレンズとは言え、ぼくには極めて興味深いものがあるのです。レンズやカメラの正体(性格)がある程度姿を表してくるからです。また、各自の撮影上の欠陥や癖なども目についてきます。        
 そして、大きくプリントする事は、暗室作業の重要性とスキルのアップに非常に役立ちます。それは撮影に際しての技術的な、また感覚的な習熟に直結してくる事柄でもあるのです。
 A4サイズまでしかプリントできないという方々が大半かと思いますが、大伸ばしできる人が身近にいたら、ぜひ一度お気に入りの写真を大きく伸ばしてみてください。思わぬ発見があると思います。この「思わぬ発見」が作画上とても大切で貴重なものだとぼくは思っています。

 そして、例えばPhotoshopなどの画像ソフトで画像を納得するまで補整(いわゆる“暗室作業”)できたと感じても、すぐにはプリントしないことです。時間を置いてから、もう一度モニター上で観察してください。必ずや手直ししなければならないところを発見するものです。いつかも申し上げたように、人間の視覚とはまったく頼りにならぬもので、同じものを長時間眺めていると感覚が鈍り麻卑してくるのです。色彩や明度、コントラストなどの調整機能が鈍化してくるので、時間を置いてからもう一度見て、それでOKをしてからプリント作業に入ることをお薦めします。

 ぼくの主宰する写真集団「フォト・トルトゥーガ」の写真展を4月26日(火)〜 5月1日(日)まで、埼玉県立近代美術館一般展示室2で開催いたします。
ご興味のある方、どうぞご来場ください。この場をお借りしてお知らせ申し上げます。

http://www.momas.jp/014ippan/17.htm
(文:亀山 哲郎)

2011/04/15(金)
第47回:花と写真的雑感
 桜が満開の季節となりました。桜ばかりでなく、毎年決まった時期になるとまるで申し合わせたように一斉に咲き誇る花々に、つくづく生命の不思議と神秘を感じさせられます。特に今年は震災のせいもあってか、あるいはぼくが歳を重ねてきたからなのか、そのどちらなのかはよくわかりませんが、生命の痛々しさや儚さ、尊さが肌を突き刺すようにも感じられ、今までになく思わず神妙な気持ちにさせられます。ですので、今年はどうも「花の撮り頃」なのかな、なんて思い始めています。自分の何かが変化し始めていると感じた時は、すなわち写真にも何かの変化が生じるような気もし、またその予兆だと思い込むようにしています。気分が高揚し、撮らざるを得ない状況に自分自身を追い込んでいくようです。かと言って良い写真が撮れるという保証などないのですが、ぼくの経験に照らし合わせばヒットする確率が上がることは確かです。それは多分集中力が増し、イメージが膨らむからなのでしょう。
 そして年々、花や動物が愛おしく感じるのです。つまり、それは歳を取ってきたということなのかな?

 ぼくは普段、花の写真にあまり興味を持っていませんが、でも一応撮るには撮るのです。いわゆる、花を美しくあでやかに撮るという意味で興味がないということであり、そのような嗜好ではないために、定石のように使用されるマクロレンズを使ってというようなことはほとんどありません。なにを持ってして“美しい”とするかは美の基準がそれぞれの育ってきた環境や興味や人生観によって大きく左右されますから一概には言えぬものです。
 美しいものをただ美しく正確に“記録”(“撮る”ではない)することも写真の特質であり、また果たすべき大きな役割です。極端な言い方をすれば図鑑的な写真とでも言えましょうか。しっかり記録するという作業です。

 写真を始めたばかりの頃は、ほとんどの人がこの記録作業に熱心に取り組むはずです。かく言うぼくもそうでした。“はずです”といういい方は勝手な決めつけのようにも思え、あまり好きではありませんが、“はずだ”よりはずっと上品?だとも思っています。ぼくのようなへそ曲がりは、この言葉を本などで読むと「余計なお世話だよ」とついつい言い返してしまうのです。
 いや、やはり言い直しましょう。「取り組むものです」、もしくは「取り組む傾向にあります」に訂正。ぼくのこのような偏狂で無意味な自己顕示を苦手とする向きもおられるようですが。

 話を戻します。すいません。正確に写し取ることが落ち着き始めると次の段階として、もっときれいに撮りたいという欲求が出てきます。ここからが趣味としての写真の始まりなのではないだろうかとぼくは思っています。大雑把な言い方ですが、正確に写し取るということはとても重要な要素を含んでいますし、それは決してやさしいことではないがために、人は面白味を感じなくなってしまうのです。つまり、飽きが来てしまいます。この段階で写真から遠のいて行く人もいれば、次なる段階に引っ張られて行く人もいます。ここが大きな分岐点のようです。
 遠のいて行く人を敢えて引き留めようとするわけではありませんが、今飽きの感じている方や上達が止まってしまったと感じている方にぼくのお薦めする方法をちょっとお話ししてみましょう。

 あなたの好きな花を一輪、お気に入りの一輪挿しがあればそれに生けて。絵の得手不得手、好き嫌いに関係なくまずそれを写生してみてください。鉛筆でもボールペンでも水彩でも、なんでもいいのです。写生によって、写真を撮るときには気のつかなかったことがいくつも発見できる“はずです”。
 時間をかけてじっくり花や花瓶を観察してみましょう、騙されたと思って。知らず知らずのうちに、光の方向や色の濃淡、花びらの模様、雄しべと雌しべ。花瓶のハイライトやシャドウやテカリなどなど、ファインダーを覗いた時には気づかずにいたことがたくさん発見できるものです。最も強く印象に残ったものを下地にして、自分はこう撮りたいというイメージを構築していくのも一つの良い方法だとぼくは思っています。観察による発見とは外的なものばかりでなく、精神的かつ内的なものもそれに伴って同時進行しますから、なにかしらの変化を誘発し、そして昇華していくものだと思っています。これは、ぼくが壁に突き当たったと感じたときに用いる一つの方法でもあります。

 この作業を“飽きずに”繰り返していくとファインダーを覗いた瞬間に今までとは異なった風景や情景が見えてくるものです。そこで面白味が増してきたと感じたら、それが上達の始まりでもあろうと思うのです。

(文:亀山 哲郎)

2011/04/08(金)
第46回:街中でスナップを撮る(7)
 前回でお話ししたことは、言い換えれば被写体となる人の肖像権に対して、いかに自他共に不快な思いをせずにやり過ごすかということでもありました。ほとんどの人物スナップは、相手の許可を取らずに撮影する場合がほとんどだからです。許可を得て撮る場合は少し事情が異なり、ぼくはそれを“人物スナップ”とは見なさず、ポートレートとして考え方を切り替えるようにしています。

 相手がカメラを意識しているわけですから、自然な姿や表情を撮るのはかえってこちらの方が難しいとぼくは感じています。いろいろな話をしながら相手をリラックスさせ、人物像をイメージし、自分との関わりをどう捉えるかということも明確に把握しておかなくてはなりません。なぜ自分がその人を撮影したいのか、なにに惹かれているのかということなどもしっかり頭のなかに定着させておかないと、ただやたらに枚数を重ねるということになりかねません。撮る方も撮られる方も、ただくたびれるだけです。

 これは私見ですが、許可を得て撮る場合でも、なにか演出させたものなどはどうしても写真自体の質が上がらないと感じています。相手は優れた技術やノウハウを備えたプロのモデルではなく市井の人なのですから、どこかにぎこちなさが表れ、お互いにどんどん固まっていくか、もしくはその逆にどんどん緊張感を欠いていきます。よい写真が得られにくい一つの原因は、観察力と緊張感のバランスを欠いているからなのだと思います。       
 写真は正直ですからそれらすべてが写ってしまいます。いわゆる“やらせ”なるものの不自然さは、やはり見る側に感じ取られてしまいます。写真に面白味がないばかりでなく凡庸なものになりがちですから、ぼくはポートレートであっても相手に注文を出すことはできる限り控え目に、非演出を心がけるようにしています。
 もちろん、仕事では相手もプロですからこの限りではありませんが。

 人の表情とは、例えば1分間に10枚の写真を撮って精察してみれば、同じ表情は2枚とないことに気づくでしょう。100枚撮っても同じものはありません。そのくらい人の表情は豊かですし、また無限といってもいいほどの変化をします。体のなかで最も動きの速い部分は“目”です。特に子供の目は大人の何倍も素早く動きますから、これを捉えるのはなかなか容易なことではありません。手応えを得るまで撮り続けるという粘りと根性が要求されます。その伝、今はデジタル全盛ですから、フィルムに比べてぼくのような金欠人間にはまことにありがたいことだとつくづく思っています。

 かつて、銀座の歩行者天国で外人モデルを何人か使いコマーシャル写真の撮影をしたことがあります。もちろん区役所には許可を得てのことです。撮影を続けて行くうちに周囲の人々の声が耳に入ってきました。「あれだけたくさん撮れば1枚くらいはいいのが撮れるよな」というものです。この類の言葉はこの時の撮影に限らず何度か耳にしたことがあります。でも、そうでしょうか? 確かにアマチュアには考えられぬくらいの枚数を撮りますが、本当はぼくもできることなら極力枚数を抑えたいところです。
 たくさん撮れば、確かにいい写真が撮れる確率は上がるかも知れませんけれど、そのような保証などなく、ぼくのような下手くそカメラマン(謙遜ではありません)は、何枚撮ってもその域を出ないものです。

 ぼくは写真愛好家に常々お話ししていることは“写真は決してまぐれでは撮れない”ということです。
 写真を見せていただいて「いい写真ですね」というと、「いや〜、まぐれなんですよ。たまたまこの時は・・・」という返事をいただきます。謙遜されて言われることもありましょうが、本当にまぐれだと信じている方も時折おられます。その前後のコンタクトプリントを見せてもらうと、ちゃんとその前兆と思えるものが写っているものです。                    
 ぼくは、「まぐれではありません。あなたの人生に於いての経験だとか、思想だとか、感覚だとか、そういったものの蓄積がここにひょっこり顔を出してきたのです。それは間違いのないことなのですよ」ときっぱりと申し上げるのです。もちろんお世辞でもなんでもありません。本心からぼくはそう思っているのです。

 実は写真における技術などというものは、よい写真を撮るという行為(条件)の中では比較的小さな位置づけでしかないとぼくは思っています。絵画や音楽はかなりの技術の習得や裏付けがないとなかなか成し難いという部分がありますが、写真や文学は必ずしもそうではないとぼくは考えています。東京芸大に写真学科や文章学科がない理由はこんなところにもあるような気がします。
 もちろん、基本的な技術はある程度必要ですし、またさまざまな条件下での応用にも心強い味方になってくれるとは思いますが、絵画や音楽ほど写真はそれに依存するものではないというのがぼくの考えなのです。

 「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」という諺がありますが、写真は絶対にこの諺には倣ってくれませんからーー“絶対”という言葉を用いることはぼくにとってかなりの勇気を要することーー、忌まわしくも由々しきこと也なのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/04/01(金)
第45回:街中でスナップを撮る(6)
 スナップ写真の名手、フランス人のアンリ・カルチエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson 1908-2004)はスナップ写真についての定義をこのように述べています。
 「私にとって写真とは、ある出来事がもつ意義と、その出来事に的確な表現を与える種々の形態の正確な構成の双方を同時に、しかも一瞬のうちに認識することだ」(世界写真全集。集英社)。

 また、「ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになるからだ。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない」とも述べています(M. キメルマン『語る芸術家たち』より。淡交社)。

 ぼくは第40回で「マナーを守ることは自明の理です。笑顔と感謝・敬意を示すこと。これ以外にありません」と述べました。ぼくの心がけていることが、粗野なものを防ぐ手立となるのかどうかは分かりませんが、肖像権に比較的敏感と思われる西洋社会で数多くの撮影をしてきて、もめ事を起こしたり睨まれたりしたことはありませんので、ある程度当を得ているのだろうとも思っています。また、撮影者が外国人であるということも手伝ってか、概して彼らは寛容であるという印象をぼくは持っています。
 もちろん例外もあります。これも第40回で述べたことですが、当地の宗教上の約束事とか習慣を知っておかないと、思わぬお目玉を食らうことになりかねません。
 
 国内外を問わず、では具体的にどうするのか? ぼくのマナー、というか定式を記してみたいと思います。                     
 撮影後、相手が気づいた場合は、時として撮られた方は「撮ったな!」という表情を見せることがあります。あるいはそのような視線を投げかけてきます。目と目が合った時はまず笑顔で軽く会釈をすることです。「いただきました。ありがとうございます」という意思表示をしなければなりません。この作法を持ってして、70%以上の確率で暗黙の了解が得られます。つまり難を逃れられます。
 それでも相手が不快感を解消できずにいると感じた時は、すかさずこちらから話しかけて、気勢を制することが大切。このタイミングが肝心で、必ず先手を打つことです。悶着?をつけられぬうちに、先回りをしなければなりません。   
 例えばこちらから相手に近寄り、「いい写真が撮れました。ありがとうございます。写真が出来たらお送りしたいのですが、よろしければ住所をお教えください」と。これがけっこう特効薬なんですね。これでクレームをつけてくる人はまずいません。
 ぼくが通常心がけていることは、ここまでです。これ以上に対策を練らねばならないような場面には遭遇したことがないからです。

 ちょっと話は横道に逸れますが、若い頃浅草で入れ墨をしたその筋のおにいちゃんがいて、ぼくはどうしても彼を撮りたかったのです。その頃はまだ“瞬時に撮る”という技術を習得していませんでしたので、散々迷った挙げ句、おにいちゃんに「その入れ墨、かっこいいね〜、綺麗だね〜、撮らしてくんない」と恐る恐る訊いたことがあります。おにいちゃんはぼくの言葉に気を良くし、表であるにも関わらずふんどし一丁になり、全身を見せて「さぁ、あんちゃん、撮んな!」と威勢よく応えてくれたものです。後日、その写真を届けようと何々組と称するお屋敷に出向いたことがありました。もちろん何事もなかったのですが、いかにもそれらしい座敷に鎮座させられたぼくは内心「大した写真が撮れたわけでもないのに場違いなところに来てしまった」と、ちょっと後悔したことがありました。
 相手を褒めることを撮影前にしてしまったので、ぼくの思ったようなありのままの姿を撮ることができませんでした。もし“瞬時に撮る”ことができても、この筋の方の撮影にはそれ相応の覚悟が必要かも知れません。

 閑話休題。
 そして外国で被撮影者に睨まれることの回避策として功を奏することがもう一つあります。それは必ず現地語で「ありがとう」と「あなたの住所」を暗記することです。タイならタイ語で、ポーランドならポーランド語でたどたどしく話す(たとえ流ちょうに話せたとしても、たどたどしく)ことがキモです。住所を書いてくれる人は撮影者に好意に近いものを抱いていると解釈してもいいと思います。彼らの書く文字が(ローマ字であっても)現地人、つまりネイティブにしか判らないようなミミズの這い回ったような象形文字だったりする場合が往々にしてありますから、ぼくは日本に帰ってからそれをコピーし封筒に貼り付けるのです。自分で書き直そうなんて思ってもさっぱり、ということがあるので、コピー貼り付け作戦が最も確実な方法なのです。ぼくは帰国後、これを励行しています。

 英語は英語圏以外では、空港やホテルを除いてほとんど通じない(例外的な国もないわけではありませんが)と思っていた方がいいと思います。英語の分からない相手に一生懸命英語で話しかけている日本人をよく見かけますが、分からないのだから日本語で話せばいいのにって思うことさえあります。それって滑稽以外のなにものでもないと感じるのはぼくだけでしょうか?
(文:亀山 哲郎)

2011/03/25(金)
第44回:街中でスナップを撮る(5)
 「よいスナップ写真を撮るにはどのようなことに気をつければいいのですか?」とか、あるいは「心がければいいのか?」と訊ねられることがあります。正直に申し上げると、実はぼくにもよく分からないのです。解答が見つからないのです。もし、それに関する秘訣めいたものがあるとするのなら、ぼくが教えて欲しいくらいです。でもそれでは身も蓋もありませんし、また立場上そうもいかず、取り敢えず何年もの間ぼくの信心してきたことをお話ししているのです。

 今日でこのテーマは5回目となりますが、お話ししてきたことは秘訣ではなく、ぼくが自分自身にも言い聞かせ、確信しながら実行してきた事柄に他なりません。ただ写真というものはまったく正直ですから、写真を見せていただければ、占い師のように「あなたの心理状態はこうだったのでは?」ということは大方当たるようです。占いの「当たるも八卦当たらぬも八卦」より、写真の方がずっと饒舌で、しかも正直で、当たる確率は桁違いに高いと言えます。

 ぼくの主宰する写真集団も時折撮影会なるものを催しますが、ぼくはこの撮影会というものがそもそも苦手なのです。何が苦手なのかと言うと「写真は集団で撮るものではない」からです。見知らぬ土地に行くこと自体は非日常の世界ですから撮影意欲が増すこともありましょう。また行ったことのあるところでも、地元でなければやはり非日常であるわけですから、見慣れた場所よりは気分も一新されて観察能力も増すように思われます。

 一昔以上になりますか、彩の国芸術劇場のこけら落としに個展と講演を行ったことがあります。講演のテーマは確か「旅と写真」というものだったと記憶しています。その時に述べた考えは未だ変わっておらず、いや、ますます確固たるものになっています。                        
 旅は非日常。2人で行けば発見するものは、一人旅に比べ1/2 。4人で行けば1/4 。10人で行けば1/10 になるのだとぼくは心の底からそう信じています。一人旅は国内であれ外国であれ、そこで起こることについて自分自身ですべてを対処しなければならず、その緊張感は日常と非日常では大きな隔たりがあるものです。一人旅は感覚が研ぎ澄まされピリピリしたものです。本来の旅の醍醐味はそこにあります。じっくり事象を観察したり、普段気のつかぬ些細なものを発見したり、そしてそこの空気や臭いや音や、歴史や文化や習慣などなどを鋭敏に感じ取り、思いを馳せ、想像し、イメージを作り上げていくには、ぼくは一人旅でなくてはやはり成すことができないと考えるのです。観察し、発見したことに対し、それが自分とどのような関わりを持ってくるのかということを、足を地に着け、肌で感じ取ることがなければ、写真は写りません。

 冒頭に記した質問の答えの大切な条件(心がけ)として、ぼくはこの流儀をお薦めしているのです。言葉にしてしまうと上記のようにちょっと小難しい言い方になってしまいますが、要は「写真は一人で撮りに行きなさい」と。
 ですから、ぼくの写真集団の撮影会は現地に着いたら集合場所と時間を決めすぐに解散し、それぞれが気の赴くままというところです。実技指導も、訊ねられれば丁寧にいたしますが、基本的にはしないことにしています。そこで撮った写真を後日持ち寄り、技術指導を交えた写真評をすることで皆が刺激されたり、無念に思ったり、思いを残したり、奮起したりするようで、今のところこの方法論が成功していると感じ取っています。よくある“モデル撮影会”なるものにはその意義が見い出せないので、したことがありません。素敵なモデルはあなたのまわりに山ほどいるではありませんか。そのモデルを見つけるのが、“街中の人物スナップ”の重要なファクターでもあるのです。

 過日、ある写真グループに呼ばれ展示作品を見ていると、ぼくと同じくらいの年配の方に話しかけられました。「私はスナップ写真が好きで長年撮っているのですが、思ったように撮れたためしがない」とおっしゃるのです。「いや、ぼくだってそうですよ」と正直にお答えしました。話を伺っているうちに、というよりも写真を見せていただいているうちに感じたことは前述したことに著しく違反?しているということでした。皆でワーッと出かけ、ワーッと街に繰り出し、ワーッと撮っていますと写真が語っているのです。時にはズームでできるだけ引き寄せどこか浮き腰で、時には許可を得てそのモデル(市井の方)を皆で囲み(この時点ですべての緊張感が失われ)、やはりワーッと撮っているんですね。見ず知らずの方でしたし、グループの指針や個人の流儀もあるでしょうから、ぼくは彼の写真や撮影方法について多くを語りませんでしたが、スナップ写真(というよりも英語でいうところのCandid photo)と称するには非常な違和感を覚えたものでした(スナップ写真とCandid photoは厳密に言うと定義が多少異なるのですが、ここでは同列に述べています)。

 また30代と思われる方が「写真とは何か?」という哲学的議題をさかんに問われており、ぼくにも投げかけてきたので、「考えることはとても大切なことですが、この難しい問題は評論家にでも任せておきましょう。まずは撮影者であるあなたが問うべきことは“写真とは何か”ではなく“己とは何者なのか”ではないですか?」と論旨のすり替えを謀り、難を逃れたのでした。
 本心は“論旨のすり替え”とは思っておらず、旅の本来の目的とは「自分発見」にあり、写真も同様なのではないでしょうか。
(文:亀山 哲郎)