![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2018/12/07(金) |
第425回:神社仏閣の朱色について |
大宮公園近くに住む友人宅で用事を済ませ、その足で大宮公園と隣接する氷川神社(武蔵国一宮または三宮、勅祭社)に立ち寄ってみた。大宮公園は東京ドームの約18倍の広さを誇り、元々の名称は氷川公園であったが、何時を期して大宮公園に名称変更されたのかは分からない。現在は1000本以上の桜が植えられており、日本さくら名所100選にもなっている。花見時は地元ばかりでなく近隣の地からも多くの観光客がやって来て大変な賑わいを見せているとのことだが、ぼくはあの喧騒なる雰囲気が苦手なので行ったことはない。
最近、神社仏閣を撮る機会が何故か多くなった。宗派に関係なく、僅かばかりの賽銭を奉り、過去の悪行に対する懺悔滅罪をしてもらおうと神妙な心がけをもって祈願している。改悛の情あってか、因果関係は定かでないが、「事実は小説より奇なり」というような信じ難くも奇っ怪なる現象やら、愉快なことが身の周りで頻繁に生じている。信心のないぼくだが、今しばらくにわか仕込みのお百度を踏もうと思っている。 この日も由緒ある氷川神社を訪ねてみた。今回は懺悔と撮影が主な目的ではなく、かねてより鳥居や楼門などに塗られる魔除けでお馴染みの、あの朱色についての考察をしてみたかったのだ。 「朱色って一体どんな色なのか?」を自分なりに解釈し、今一度確認もし、カラー表現に於ける朱色の許容範囲(もちろん、ぼく自身の)を定めておこうとの心積もりだった。具体的にいえば、朱色の彩度・色相・明度を絵柄に合わせてどの様に扱うかの見当を実物を見ながら少しでも身につけたかった。 朱色自体は変えようがないのだが、絵作り上、得心のいくぼくなりの朱色を見つけたいと思ったからであった。このことは今年5月に訪れた京都で散々考えあぐね、あれこれ試行もし、大きな試練の矢面に立たされた体験が基になっている。あの朱色には、実に閉口してしまった。 朱塗りの鳥居が連続し(千本鳥居)、トンネル状となっている有名な「伏見稲荷」(創建 和銅年間。708-715年)で、ぼくは朱による消化不良と中毒に冒され、解毒剤も免疫血清もないままに精神錯乱に陥り、意識朦朧としたままついに一度もシャッターを切れなかったほどだ。いつの日にか、あの千本鳥居を撮ってみたいと願っている。 また、平安神宮や八坂神社の前をぼくは目を伏せて自転車で走り抜けた。到底太刀打ちできるような朱色ではなかったのである。来年、ぼくは弔い合戦に挑んでみようと密かに腕に磨きをかけておこうと思っている。 そのような体験から、いつも朱色が気になって仕方がなかったのだが、どうやら本当は朱色自体をぼくはあまり好きではないようだ。このことが朱色について考え込まなければならない最も大きな原因だった。性に合わないものを如何にして馴染ませ、取り込むかという問題を先ずは解決しておかなければならない。 元を正せば朱色が「あまり好きではない」のではなく「嫌いなのだ」が、嫌いであるが故に人目を気にしながらその被写体をこっそり避けたり、あるいは撮らないで済ませてしまおうと目論むのは、商売人としての沽券に関わるし、面目が立たないではないか。そんな自分の姿をきっと誰かがじ〜っと見ているに違いない。いや、ぼくの経験によると、見られたくない姿ほど、人は虚を衝くように目ざとく見つけ出す。当人は他人の凝視になかなか気がつかないでいるものだ。したがって、喩えは飛躍するが、万引きや窃盗は逃れる術なしと心得るべし。 朱色の親戚のような赤はぼくの最も好きな色なのだが、朱と赤は似て非なるものだ。しかしぼくの好き嫌いなど、神社仏閣は聞き入れてくれないそうもないので、ぼくが妥協せざるを得ず、朱色がぼくに与えるフラストレーションは溜まる一方だ。 どのようにして朱色と精神的融和を図るかにぼくは苦心惨憺する。時に、ここだけの話だが、過度に気に染まぬ朱色だったりするとぼくは猛烈に憤慨し、「どうせなら蛍光色にしてしまえよ!」と毒突いてみたりもする。こんな恐れを知らぬ罰当たりな姿は誰にも見られたくない。 色の三属性である色相・彩度・明度が揃いも揃って最も気に染まぬ朱色を作っているという不運に見舞われることもあるが、暗室作業でこの三属性をどう調整していくか、悶々とする時がしばしばある。そのくらいぼくにとって神社仏閣の朱色は面倒なことこの上ない。 今ぼくはもう一つ大変面倒なことに直面している。実をいうと今回の原稿は、朱塗りの神社仏閣について述べるつもりはまったくなかった。それについては、書くほうも読むほうも、さして面白味がないということに気がついていたからだ。写真的に重要な事柄をお伝えするわけでもないし、また朱色に対する感覚があまりにも個人的趣向であり過ぎると思われるからだ。 本来は大宮公園にある無料の動物園とそこにいたハイエナ(正確にはブチハイエナ)について大きな発見をしたのでそれを書くつもりでいたのだが、何かに呪われたように横道に逸れてしまった。神の導きはやはり相当強力なるものがある。これをして神通力とでもいうのだろうか。 残り少ない行数で、動物園とハイエナに関する偉大な発見をここに述べようとすると、良い文章の条件を、金科玉条の如く「起承転結」に求める口うるさい旧友を喜ばせてしまう。 今氷川神社(朱色)の写真もなければ、ハイエナの写真もないのだから、掲載写真にも事欠いて、ぼくは思わぬ所で立ち往生している。来週にでも氷川神社で柏手を打ち、身を清めてから、ハイエナを撮りに行ってみようか。今回は動物園のオウムと公園内のクラシカルな飛行塔でお茶を濁すことに。 http://www.amatias.com/bbs/30/425.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L IS USM。 埼玉県さいたま市大宮公園 ★「01大宮公園」 昭和24年、新潟県長岡市博覧会で使用された飛行塔。 絞りf8.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.00。 ★「02大宮公園」 公園内にある無料動物園のオウム。一瞬魚のように見えたり、トカゲのようだったり、動物というのは見ていて飽きることがない。 絞りf6.3、1/40秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/11/30(金) |
第424回:富岡製糸場(続) |
高さ31mの「めがね橋」に敷かれていたかつてのアプト式の線路(今は取り除かれ歩道となっている)跡を歩けるというのはわくわくするような思いだ。ぼくは軽度の高所恐怖症という不似合いな感覚を持っているのだが、ここはそんなことに関わっていられぬほど惹かれるものがある。
因みに高所恐怖症の原因は、人間が本来持つところの想像力の賜であり、また知力の証!?でもあるとぼくはしている。高いところに登っても恐怖感がないという人はおそらく「落ちるかも知れない」とか「落ちることもある」とか「落ちたらどうなるのか」との想像力や洞察力が欠如しているのだろう。恐怖心を感じないとはそのようなことを指すのではないか。先行きに憂いのない人は一方で仕合わせなのかも知れない。 また、そのような人たちは、「自分だけは絶対落ちることがない」とか「いざとなれば自分は空を飛べる」との錯覚を抱いているのではないだろうか。つまり、あまり賢くないのである。それをしてロマンとはいわない。 余談はさておき、ぼくは目指す「めがね橋」の歩道まで一気に駆け上り、というのは大嘘で、途中三度ほど立ち止まり息を整えながら、やっとのことで這い上がった。寝不足が祟ってか、この日はやけに体が重く、すぐに息が上がった。 それに加え、全員が恐い婦女子であったために、ぼくは必要以上に気を遣わなければならず、余計な気苦労が疲労に追い打ちをかけた。運転手も兼ねており、ぼくは心身ともにすでに疲弊していたのだった。 彼女たちは70になったジジィを労る様子など微塵もなく、後ろを振り返ることすらなく我先にと階段を登っていった。手を引いてやろうなどという殊勝な素振りなど露ほども見せない。敬老の精神などどこ吹く風で、やがては自分たちもそうなるのだという想像力に著しく欠けていた。想像力の欠如は何事に於いても嘆かわしく、また痛々しくもある。 やがて彼女たちが耄碌し、意地悪ばあさんとなるころには、すでにぼくは三途の川を渡っているだろうから、彼女たちが天罰を受けるその罪深い姿を見ることができず、少し残念だ。 いや、三途の川は生前の業によって、善人は橋を渡ることを許され、罪深い人間は橋を許可されず、流れの速い深みを渡らなければならないのだそうだ。したがって、ぼくは対岸の「賽の河原(さいのかわら)」にあって、彼女たちの苦しみもがく姿を垣間見ることがあるかも知れないが、長い間趣味を同じくした朋友の、そんな姿は見たくないものだ。 「めがね橋」やトンネルで遊んだぼくらは「鉄道文化むら」(正式名称は「碓氷峠鉄道文化むら」といい、信越本線横川ー軽井沢間の廃止とともに役目を終えた横川運転区跡地に1999年開園)にやって来たのだが、閉園時間の16時30分を過ぎたばかりで入園できなかった。 ここにはデッキ付きの電気機関車として最もプロポーションの美しい(とぼくは考えている)EF53形が唯一保存されていて、その姿をぜひ愛でたかった。学生時代にはHOゲージ(縮尺1/87)の模型も持っていたくらいぼくはEF53形を気に入っていた。 中学生の時に上野駅から大宮駅まで、ぼくはこのEF53の運転席に乗せてもらったことがある。上野駅のプラットホームに停車し出発を待っているEF53形の姿を写真に収めようと機関車の回りをうろうろしていたら運転手に声をかけられ、幸運に浴したのだった。今なら信じられないことかも知れない。昭和の良き時代でもあり、撮り鉄にとっても良き時代だったのである。 さて、「立ち入り禁止」ばかりの富岡製糸場に話は戻る。時制があべこべになり申し訳ないが現像の都合上お許しを。 入場するとその真正面に東置繭所(ひがしおきまゆじょ。1872年建築。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。国宝)という大きな建造物があり、1階にシルクギャラリーがある。絹製品が展示・販売されている。 ぼくはガラスケースに展示された絹製スカーフと覚しき製品の写真を、ファインダー越にアングルを探しながら撮ろうとしていたのだが、隣にいた観光客の女性にガラスケースの隅に置かれた撮影禁止マークを指差され、目配せされた。彼女は無言で「これは撮影禁止よ。あなたとは言葉が通じないと思って」という仕草をした。 ぼくは撮影禁止のマークに気がつかず、女性にバツの悪い顔を見せた。女性はぼくの反省顔を見てか、柔らかな笑顔を返してくれた。白髪の老人を思い遣るような優しい表情であり、仕草でもあった。敬老の精神に富んでいたのである。彼女は東洋系の外国人で、しかもモンゴロイドだった。ぼくは彼女が台湾の人だと直感した。このような時のぼくの直感は90%以上の確率で当たることになっている。ぼくはもちろん、人種差別を忌み嫌う。 ファインダーから目を離し、近くいたガイドと覚しき年配の日本女性にお伺いを立てた。 「こちらのホームページによると、撮影は営利目的でない限り許可なく撮ってもよいとありますが、このショーケースには撮影禁止のマークが置かれてありますね。ぼくは営利目的ではないので、撮ってもいいでしょう?」と、満面の笑みをたたえて迫ってみた。5月の京都では成功の見込みはまったくなかったが、ここは訴えれば許可されるという直感があったのだ。 思いの通り、くだんの女性はちょっと戸惑いながらも「ええ、かまいませんよ」といってくれた。彼女もやはり老人を敬い、敬老の精神に溢れていたのだった。 ぼくは中国語を話せないが、名誉を挽回しておこうと台湾の女性(と勝手に決めつけている)に簡潔な英語で「撮影OKだよ」と伝えた。彼女は “ Many thanks ! ” と3倍返しの笑みを見せてくれ、ショーケースを撮り始めたのだった。ぼくは堅牢な橋を渡れそうである。 http://www.amatias.com/bbs/30/424.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 群馬県富岡市「富岡製糸場」と富岡市街。 ★「01富岡製糸場」 「撮影禁止」だった絹製品。撮影許可をもらった。 絞りf9.0、1/25秒、ISO100、露出補正ノーマル。 ★「02富岡市街」 貸店舗となっているかつての喫茶店。築何年だろうか? 絞りf11.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/11/26(月) |
第423回:富岡製糸場 |
季節の移り変わりに心躍らされることはあっても、撮影に際してはもう何十年もの間、正確にいえば30代半ば以降ぼくはそれに強く感応しなくなった。上手く利用しようという気がなくなったというほうが正しいのかも知れない。
写真愛好の士であり写真屋でもあるのに、四季折々の美しい “見頃” をいともたやすく見送り、しかも平然としている。そこに如何なる未練も残さない。世の中に溢れかえるその手の写真に、ぼくは飽き飽きしているからだろう。 “見頃” に心惹かれるものがあっても、しかしそれはぼくの撮る写真ではないと冷徹に決めてかかっている。ひょっとすると「そんな写真を撮ってお前は何が面白いのか」という一見反骨風の心胆が心の奥底にへばり付いているようにも思える。時にこれが自我の暴走ともなる、ということも生憎ながら同時にわきまえている。 「花が咲きました」とか「木々が色づき始めました」などの声とはどうも無縁のところに居るらしく、しかも頓着せずに暮らしていけるのでぼくの撮影に関する生活スタイルは至ってお気楽で、無骨でもある。敢えて “旬” を自分から求めたり、意識したりするようなことはしないので、ぼくの写真は季語のない俳句(そんなものはないのだけれど)のようにつれないものなのかも知れない。季語が、情念やら怨念に取って代わっている。仕事の写真と異なり、私的な写真は他人に見せるために撮っているのではないので、これを由としている。 季節の変わり目につきものの、所謂 “耳目の欲” に捕らわれないといえば聞こえはいいが、ぼくの写真は季節(旬)を拠り所としてはいないのだろう。 桜も、新緑も、紅葉も、雪景色も、それ自体を目的としていないので、その分手枷足枷がなく、撮影時の精神の解放については、ぼくはぼくなりの方法で、ご都合主義よろしく臨んでいる。季語があればあったでいいし、なければそれでよしという、やはりお気楽なのである。これはきっと、長年の間に培った息抜きと気張りのバランスなのだと思っている。どこかで帳尻をしっかり合わせておかないと長続きはしないものだ。 先週、我が倶楽部の婦女子たちと群馬県の富岡製糸場(1872年開業。1987年操業停止。2014年世界遺産登録。国宝)に赴いた。以前からここに行きたいという声はあったものの、思い描くイメージを写真に収めるには難しいとの予感があり、ぼくは足が動かずにいた。 自分の予感をいつも固く信じており、また大切にもしており、富岡製糸場ではおそらく最適な立ち位置を得られず、ぼくにとって好ましい写真を撮れる可能性は低いと踏んでいた。どうしても通り一遍の写真にしかならないと予想したのだった。職業柄、今まで特別な許可を得ての撮影をたくさんしてきたので、思い通りにならない富岡製糸場は明るい見通しが持てなかった。 ぼくの写真的な興味は実は富岡製糸場ではなく、ここから車で約30分の位置にある碓氷峠の通称「めがね橋(碓氷第三橋梁。レンガ造りの4連アーチ橋。1893年に竣工され1963年まで使用された。高さ31m、全長91m。2007年世界遺産登録暫定リスト入り。重文)」や横川駅隣にある「鉄道文化むら」だった。「鉄道文化むら」には、元撮り鉄だった頃からの憧れでもあった電気機関車ED42とEF53が展示されている。加え、どこかで美味しい蕎麦にありつければ儲けものと考えていた。 「めがね橋」付近は、紅葉を愛でるにはわずかに時期を逃したが、上記の如くぼくはほとんど頓着することがなかった。 富岡製糸場に入場したぼくらは1時間半後に落ち合う場所を決め、直ちに解散。指導者もどきであるぼくは要請がなければ、実地指導はしないことにしている。 この日はウィークデイであったためか思ったほど見学者は多くなかったのだが、案の定、どこもかしこも、どこを向いても「立ち入り禁止」ばかりで撮影はままならずであった。 操糸場(国宝)に設置された大半の自動操糸機には透明ビニールが被せられ(埃よけのためだろうか?)、ラップに包まれたようにテラテラと光りながら風情を殺いでいた。まことに不粋なビニールであった。撮影の気勢はますます下がり、ぼくは早々に撮影を諦めてしまった。 他の人たちがどのような写真を撮ったのか今のところ定かではないのだが、1時間半後誰もが勢いよく入場門から外に飛び出し、昼食目がけて奔走していたのは明らかだった。全員婦女子であったため、食の時間ともなると形容しがたいほどの殺気が立ちのぼり、彼女たちは淑やかさを振り捨てて、ついでに写真も打ち捨て、やたらと気色ばむのだった。 富岡製糸場周辺の街中写真のほうにぼくは気を奪われた。ぶらぶら歩きながらシャッターを切りつつ、立ち寄った店で「近くに美味しい蕎麦屋があれば教えてください」と尋ねてみた。この時、すでに全員が蕎麦モードに突入していた。昼食後、ぼくらは富岡から逃げるように「めがね橋」に向かった。 製糸場と異なり、ここはぼくにとって思い入れのたっぷりあるところだ。子供時分から廃線となるまで(当時15歳)、ぼくはアプト式列車に乗り、この「めがね橋」を十数回往復していた。 信越線横川駅から軽井沢駅までの勾配が急になるため、普通の列車では滑って上ることができず、レールの中央に歯軌条を配し、動力車(ED42)の歯車とかみ合わせながら走行する歯車式鉄道(アプト式)だった。車両交換のため横川駅と軽井沢駅に通常より長く停車した。1893年に開業され、1963年廃止。 小学1年の頃、横川駅から霧に包まれた妙義山(日本三奇勝のひとつ)を初めて見た時の、あの水墨画のような美しさと奇観は終生忘れがたいものとなった。未だに鮮烈な印象を残している。 今はレールが取り除かれ歩道となっている「めがね橋」やトンネルを、遠い昔を懐古しながら55年ぶりに通ってみることにした。樹木の素晴らしい香気が辺り一面に漂っていた。 http://www.amatias.com/bbs/30/423.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 群馬県富岡市「富岡製糸場」と碓氷峠「めがね橋」。 ★「01富岡製糸場」 予想通りとはいえ1枚くらいは掲載の義務が。東置繭所(ひがしおきまゆじょ。木骨煉瓦造りという工法。国宝)の2階。乾燥させた繭が貯蔵されていた。タングステン光なので原画はもっと赤い。「行ってきました。取り敢えず撮ってきました」という写真。情念も怨念もない。 絞りf5.6、1/8秒、ISO800、露出補正-1.67。 ★「02めがね橋」 この上が歩道となっている。高いところはあまり強くないぼくだが、息を切らせて31m上る。トンネル数26、レンガの橋梁18が歩道となっている。とても良い風情だ。アーチの間に半月が浮く。1週間早ければ紅葉がきれいだったろう。 絞りf8.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/11/16(金) |
第422回:夢見の恐怖 |
ぼくは毎晩必ず夢を見る。昔の映画館のように、二本立て、三本立てなんてこともよくある。どんな夢だったのか、ほとんどを都合良く忘れてしまうので、毎夜繰り広げられる夢見に対しては、苦痛でもなく楽しみでもないのだが、そういいつつも月に2〜3回ほどは辛い夢を見る。悪夢のほとんどは写真に関するものだ。父とも夢の中で取っ組み合いの喧嘩をするが、それは年に1度ほど。
これらは夢だからといって、都合良く直ちに忘却の彼方という具合にはいかない場合もあるので難儀する。後味が悪ければ、引きずってしまうのが人情というもの。時間の経過だけを待たなければならない。悪事を働いたわけでもないのに、じっと忍従を強いられるのはまったく間尺に合わない。 ごく稀にだが、夢の中でのことが逃れようのない現実味を帯びることもあり、正気に戻ってからもしばらくは区別のつかぬことがある。夢と現実が入り混じり、その混濁により生ずる非現実に対する歪んだ思い込みこそ恐怖なのだ。 そして3年に一度ほど、ぼくは殺人犯として警察に追われることがあるのだが、捕まったことは一度もない。悪運が強いのだ。すんでの所で逃げ果せ、この時ばかりは覚醒した瞬間に、戸惑いも混乱もなく「夢でよかったぁ〜」と素直に胸を撫で下ろす。上記の如く、夢と現実を取り違えることはないが、いくら夢とはいえ善と悪の取り違えは恐ろしい。 計算によると、ぼくは今まで20回ほど殺人を犯している。かなり凶悪・凶暴な奴なのだ。だが幸いなことに、人を殺めるシーンが夢に現れたことは一度もない。これは大きな救いだ。 ぼくの映画館にモノクロはなく、いつだって、昔風にいえば「総天然色(カラー)」仕上げである。子供の頃に見た深緑色をした不気味な天狗の死に顔は、未だ脳裏にくっきりと焼き付いている。また、熱にうなされた時は決まって何千本という色とりどりの針が渦を巻きながら宙を舞っていたものだが、大人になってからはその美しい光景にお目にかかることがなくなってしまった。夢に関しては子供の時のほうがずっと空想豊かであったような気がする。 子供は生きるための切羽詰まった事情が希薄なので、リアリズムよりロマンティシズムに肩入れをするのだろう。 切羽詰まった事情満載の疑似老人であるぼくはベッドに潜り込み、「今夜はどんな夢を見るのだろうか?」と思いながら意識を失っていく。寝入り・寝起きに優れたぼくは、眠りに落ちるその瞬間を自覚できることもあるし、知らぬ間に朝を迎えることもある。 意識が遠のきつつあることを自覚できるその時、「オレ、今、寝るぞ、寝るぞ。この世とあの世の境を今さまよっているぞ。生と死の間を今漂っているんだ」とさかんに言い聞かせ、面白がっている。これを現世では束の間の「夢現(ゆめうつつ)」とでもいうのだろう。ぼくはこの瞬間がとても好きだ。 何故って、「夢現」だけが、義務・責任・使命といった重荷や厄介なしがらみから一斉に解き放たれる唯一の瞬間でもあるからだ。そしてまた、現実と非現実の境目、いわばその空洞にはかつて体験したこともないような摩訶不思議な世界が広がっている。そこは幻影で満たされており、その幻影は多くの、そして多様なイメージを与えてくれる。ぼくにとって撮影時のイメージ構築に欠かすことのできない貴重な役割を果たしてくれている。 この3年近く、ベッド脇に置いたiPadで落語を愉しみながら寝入ることが慣わしとなっているが、噺を最後まで聴くことなく寝入ってしまうことしばしば。噺の落ちを聴く前にぼくは気を失っているので、それでは噺家に申し訳なく、したがって同じ演目を2度、3度続けて聴くことも珍しくない。また時には、笑いながら意識を失っていくという器用で込み入った芸を演ずることもある。 ぼくにとって落語はただ好きだからという以上に、イメージの宝庫であり、家や人々の佇まいを描く時に大いなる手助けをしてくれている。そして名人たちが夢と現実を巧みにシンクロさせ、紡ぎ、如何にして生き生きとした虚構の世界を作り上げていくかという点に於いても、大変優れたお手本となっている。 「苦労したことや思い通りにいかぬことほど夢に出てくるものだ」と、先日旧知の友人と話し合っていた。おそらくこの傾向は誰にも当てはまることではないだろうか。統計を取ったわけではないが、ぼくが夢で悩まされることの多くは写真に関することだ。 交換レンズがなかったり、フィルムが尽きたり、カメラが故障したり、露出がまったく外れていたり、撮影に必要な機材を忘れていたり、ロケ現場にたどり着くことがどうしてもできず山奥をさまよったりと、一見他愛のないこととはいえ悩みは尽きない。クライアントとのやり取りで、お互いの理解が足りず、見当違いの写真を撮ってしまい、頭を抱えていたりすることもよくある。こんなことに月に2度は必ず遭遇する。痩せ細る思いだ。たまったものではない。 かつてカメラバッグそのものを自宅に置いたまま撮影に出かけ、ロケ地で気がつき、坊主に持って来てもらったことは以前に書いたような気がするが、それがぼくの冒した忘れ物という現実の大ドジであった。それ以来、物忘れ恐怖症に陥ったことはいうまでもない。 しかし、上記の如く夢がいつ現実に変わるか、ぼくは撮影(私的写真ではなく、仕事の写真)のある日はビクビクしながら怯えている。何度場数を踏んでも慣れるということはない。特に物忘れの多くなるお年頃でもあるので、恐怖はいよいよ現実味を増しているのである。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/422.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 茨城県古河市。 ★「01古河市」 模型店のショーウィンドウ。かなり精巧に作られたハーレーのオートバイ。 絞りf7.1、1/25秒、ISO100、露出補正-1.33。 ★「02古河市」 夕焼け時、ガラス越しに佐渡おけさの立て看板が。 絞りf8.0、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/11/09(金) |
第421回:新しいレンズは1年毎日使わないと分からない |
近頃、久しく連絡の途絶えていた人たちから何の前触れもなく、かなり集中的に電話やメールを続けざまにもらった。なかには長文の手紙もあり、気が抜けない。こんなことが実際にあるのだと少しばかり気味が悪くなった。
珍しいことが立て続けに起こる現象は、神様が何かを示し合わせたかのようにする悪戯であり、忙(せわ)しい時に限って仕事が集中するあの意地悪な法則に似ている。天変地異の前兆か、どこか神懸かりというには大袈裟だが、これは不思議を通り越した超自然的な現象のようにも思える。 何やら陰謀めいた予期せぬ電話に、しばらく様子が窺えず戸惑った面持ちでぼくは口を開く。「何か虫の知らせでもあったの? ぼくは変わりないよ。ところでどうしたの?」と切り出す。老若男女に関わらず、懐かしさも手伝ってか、ぼくらは労りの精神に満ち、情のこもったやり取りが始まる。 断片化し、希釈された記憶を頼りに、過ぎし日々を回想しながら、話の糸口を探り出そうと苦心するのだからお互い世話が焼ける。いや、世話を焼かなければならないのは不意打ちを食らい、まごつくばかりのぼくのほうだ。加え、現世の符牒である固有名詞がなかなか出て来ないものだから、もどかしさもひとしおである。 同世代ならこんなもどかしさも笑って済ませられるが、まだ頭のふやけていない溌剌たる年代の人たちにとって、ぼくの空威張りのような老健さはきっと見るに忍びなく、むしろ彼らにチクチクとした痛みを与えているのではないかと思うことがしばしばある。 そして、特に相手がご婦人であったりすると、必要以上に心身の壮健さを誇示したがり、そして頼り甲斐のあるジジィを演じるか、はたまた老い先の短いことを理由に人道的憐憫と寛容なる対応を執拗に求めたりする。ぼくはある時は若かったり、またある時は老人だったりと、いろいろと気忙しく大変なのだ。いつまでも気苦労が絶えないでいる。 編集者時代に親しくしていた人から久しぶりに電話があった。かれこれ8年間のご無沙汰を互いに侘びた。彼は今年還暦を迎え、突発的に写真に目覚めてしまったのだそうだ。よせばいいのにである。おまけに拙稿の愛読者だと得意気に嘯く(うそぶく。偉そうに大きなことをいう)。 趣味の取っ掛かりが「突発的」というのは、特に写真に於いてはあまり褒められたものではない。写真事始めの動機としては弱すぎて、好ましいものとは言い難いのだ。写真は隠微なる妄執(もうしゅう。迷いによる執着)の念に取り憑かれることを最上とする。 その彼が、「前号は蕎麦の話ばかりで、写真の話がなかったですねぇ」と、再び嘯く。同様の指摘はうちの倶楽部の恐い婦女子からもあった。やはり気の抜けないことに変わりはないのだが、しかしぼくはそれに関して頓着などまったくせず、いつもながら悪びれることもない。 寝食をともにしたことのある彼は、「かめさんは昔から関心のあることと好きなこと以外には目もくれなかった。こちらが言及しても、いつも上の空で生返事ばかりしていた。よくそれで世を渡っていけるものだと感心していたくらいだ」と電話口で追い打ちをかけてくる。 言外に「あんたは勝手極まる与太者」を匂わせていた。実際に五十路の坂を越えても、「始末の悪い、非社会的なならず者」といわれたことがある。ぼくはそれに対して開き直るのではなく、もともと恥ずかしいこととも劣ったこととも考えていないので、説教がましい正調なる相手は、変調なぼくになおさら辛く当たるのだろう。 しかし、写真話をそっちのけにし、「蕎麦こそわが命」のようになってしまったことについては、「この時期は写真より蕎麦が好きだ」と正直に白状しているのだから、どうかお目こぼしを願いたい。 「写真の話を書かなくても、毎週写真を掲載しているのだから、それで十分使命を果たしている」という良き理解者がいることもついでながら書いておかないと偏頗(へんぱ。かたよっていて不公平なこと)であろう。 ここから真面目な写真の話。 昨年の8月にぼくは久しぶりにレンズを新調した。この1年余り、ここに掲載した写真のほとんどは焦点距離11-24mm(APS-Cサイズであれば、約6.87-15mmに相当)という非常にエキセントリックな広角ズームでのものだ。このレンズは、当初仕事用にではなく、私的写真専用と考えていたのだが、性能の良さに加え意外なほどの素直さと利便性を兼ね備え、仕事でのインテリア撮影に大変重宝している。重いことだけが玉に瑕だが。 クライアントも体験した事のないような広角の世界に驚嘆し、今のところ大変評判がいい。 これを使い込んで1年3ヶ月になるが、そろそろぼくもこのレンズ一本槍から離れて、もう少し融通の利くレンズの携行(つまり従来通りの焦点距離にという意味)をしようと思っている。 「レンズの性格を知り、使いこなすには毎日使用しても1年はかかる」というのがぼくの昔からの信念で、今やっとこの優秀なレンズの正体が分かってきた。フィールドワークを積み重ねないと決して知り得ないこと多々ありで、少しずつ全貌が見えてきたといってもいい。 11-24mmという制約された世界からやっと解放され、気楽な撮影を新蕎麦とともに味わいたいと思っている。 http://www.amatias.com/bbs/30/421.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 茨城県古河市。 ★「01古河市」 たばこ屋のショーケースに並んでいた俗称ピー缶。錆が浮いて中身が入っているのかどうか不明。若い頃ぼくはこのピー缶をカバンに入れて持ち歩いていた。 只今、禁煙続行中。 絞りf5.0、1/25秒、ISO200、露出補正-2.00。 ★「02古河市」 珍しい色の枯れた紫陽花。紫陽花は好きな花ではないが、何故か見つけると気になって撮ってしまう。 絞りf7.1、1/50秒、ISO200、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/11/02(金) |
第420回:蕎麦っ食い |
夏の新蕎麦を「夏新(なつしん)」、秋のそれを「秋新(あきしん)」と呼ぶそうだが(なんだか安易だなぁ)、この季節になるとぼくは不純にも蕎麦を基準に撮影地を選ぶ嫌いがある。蕎麦が食いたいのか、写真を撮りたいのかを天秤にかけてみると、どうやら蕎麦に軍配が上がりそうだ。それほど蕎麦はぼくにとって魅力的なもので、この季節の撮影場所は蕎麦に依拠しているといってもいい。
とはいえ、蕎麦の産地や蕎麦屋さんの名聞にこだわることはほとんどなく(というより意味がないので頓着せず)、当たれば儲けもの、外れても悔しくはないという塩梅だから、至って気が楽である。正直にいえばだが、卑下するでもなく、謙遜でもなく、ぼくはどちらかというと蕎麦音痴なのだ。どう下手(したて)に出ても、蕎麦通じゃない。 「蕎麦の風味やのどごしを楽しむ」なんて、その手合いの人々いうところの小洒落た曖昧な科白とは縁がなく、「うまい!」とか「けっこう!」の男らしい断定に満ちた一言が無意識のうちに出れば万々歳。それだけで生き甲斐を感じるという無邪気さだ。うまいことの説明や解釈などまったくの不要である。つまり蕎麦の蘊蓄(うんちく)など誰にも傾ける必要などない。 一応の下調べをネットでしてはみるが、そこでの評判を鵜呑みにしたり、頼りにすることはまずない。味覚の点数ほど当てにならぬものはないし、ましてや、まなじりを決して蕎麦っ食いに挑むというのも、あまり恰好の良いものではない。蕎麦っ食いとしては質が悪すぎるとぼくは思っている。蕎麦の持つ文化性と庶民性を勘案すれば、その嗜みはどこかに「粋」がないといけない。蕎麦とはそのようなものではないか。 蕎麦に限らず食べ物について、うまいまずいを大べら(人目を気にせずにするさま)にいうことほど無作法で卑しいことはない。もし食後の感想を聞かれたら、「非常に遠慮がちな品定め」に徹するとぼくは決めている。 このことは定例の写真評にも通じている。ぼくは乏しい語彙のなかから慎重に言葉と語句を選び出し、ぼく以上に日本語にむずかる人々に対して、できるだけ本意を汲み取れるような的確な表現をしようと試みる。これが恐ろしいほどのストレスを生むことに誰も気づいていない。ここにぼくの悲劇がある。 言葉が思い当たらない時には窮余の一策として仕方なしに「うんこ」という気高くも端的なる幼児言葉を用いる。しかし、食べ物を評するに「うんこ」とはルール違反だから、決していわない。 今某出版社の編集長より問い合わせがあり、そのための調べものをしていたら偶然にも第374回に「新蕎麦を目指して」と題し、似たようなことを書いているのを見つけた。ホントに偶々であった。2017年12月1日掲載となっているのでまだ1年も経っていない。にも関わらずぼくの記憶は遙か彼方にまで飛んでしまい、その痕跡さえも見当たらないことにかなりのショックを受けている。 来年もこの時期になったらこの原稿のことなどすっかり忘れ、蕎麦徘徊老人をしながら同じ事を書くのだろうか? 「二度あることは三度ある」というから恐ろしい。 閑話休題。食の行儀作法は、人品やらを読み取られるものであるからして、故に蕎麦の味にも影響を及ぼすことがある。「蕎麦はズルズルと音を立てても良い」ということになっているが、ぼくは(あるいは我々は)日頃の習性からその作法に取り敢えず怖じ気づく。 しかし、何故音を立てても良いかについては非常に理解が早い。音立てが蕎麦っ食いの道理に適っているからだ。出汁に蕎麦を絡めながら、一緒にズルズルと音を立て、口のなかに吸い込んでいくのが最もうまい食い方だ。だがそれを知っていても、初めは勇気が要る。 ひとりならいざ知らず、誰かと一緒ともなると、ズルズル音の加減を計りながら、同時に相手の顔も窺いながら、蕎麦っ食いの儀式をそろりそろりと始めなければならない。食った気がしないのだ。したがって、蕎麦っ食いはひとりか旧知の間柄に限る。こんなに食い方のむずかしいものは他にない。 「最小限の音立てによる最大限の旨味引き出し法」、これこそが蕎麦っ食いの極意であり、修得するまでにはそれ相応の年季を必要とする。いくら音立てが許可されているとしても、これみよがしに壮絶なズルズル音を発する輩が少なからずいるものだが、それは他人の蕎麦をまずくしてしまうのでしてはいけない。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。 古今亭志ん朝は、「江戸前の蕎麦はちょっとだけ食べるものだ」と父親である名人志ん生からいわれたそうである。「蕎麦を腹一杯食べると、 “ばか” “どじ” “まぬけ” と親父から叱られた」と高座で語っている。 音立てについては語っていないが、蕎麦を食う場面では、なるほどと思うくらいうまそうな音を立てている。これも噺家の大事な話芸の一部なのだろう。 信州は蕎麦処だが昼飯にはちょいと遠い。栃木、茨城も蕎麦処であり、昼飯を取りに出かけるにはいい距離だ。古河市(茨城県)まで我が家から車で1時間とカーナビは示す。良い蕎麦があるらしい。 http://www.amatias.com/bbs/30/420.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF24-105mm F4L IS USM。EF11-24mm F4L USM。 茨城県古河市。 ★「01古河市」 埃で汚れきった廃屋のガラス越に野良猫が。 絞りf4.0、1/40秒、ISO100、露出補正-0.67。 ★「02古河市」 古いアパートの階段。 絞りf7.1、1/40秒、ISO100、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/10/26(金) |
第419回:秋の夜長は映画三昧 |
ここ10日間ばかりぼくは仕事の手を休めては、秋の夜長を映画鑑賞に費やしている。27インチのモニターの前に座り、ひっそりと慎ましやかに、古い映画ばかり見入っている。
ぼくにとって映画というのは、半年以上も見ずに済ますこともあるが、見始めるとなかなか止まらないものだから、興味ありそうなものを次から次へと手当たり次第ということになってしまう。打ち切りどころがなかなか掴めず、「いい加減にしろ」という声が聞こえてくるまでだらしなく観賞は続く。 といっても今回の映画三昧は、レンタル店通いではなく、坊主(息子)の部屋を久しぶりに覗いてみたら、ぼくの好きな映画の多くがいつの間にかDVDからブルーレイ・ディスクに取って代わっているのを発見してしまったことにある。彼はぼくの知らぬ間にちゃっかりとブルーレイ・ディスクに買い換えていた。思いのほか孝行息子だ。1ヶ月近くは十分に愉しめる分量である。 映画や音楽鑑賞は読書と異なり、苦痛と労力を伴わないので、秋の夜長には持って来いだ。 ぼくが映画に見入る最も大きな理由は、ストーリーや俳優にあるのではなく、もっぱら映像美や構図の勉学のためといっても過言ではない。そうなると、漫然と見ているわけにはいかないので、観賞とはいえ気が抜けない。夜長を愉しむどころではないという場合も往々にしてある。 画面を見ながら、時にはその美しさに「見事なもんだなぁ」と讃嘆の声をもらし、キーボードを操作しながらスクリーンショットなどを撮る。この時、Macは疑似シャッター音を発してくれるので、なんだか得をしたような気持にさせられるから面白い。撮ったスクリーンショットは後ほどPhotoshopで開き、イメージの財産としてしっかりぼくの脳裏に焼き込まれていく。この作業のためにぼくの映画鑑賞はある。別にブルーレイ・ディスクである必要はないのだけれど。 部屋の照明をすべて落とし、ディスプレイの色温度は普段の5000Kから6500K(ケルビン。色温度の単位。分光測光機でディスプレイのプロファイルを6500Kに作成)に切り替えて観賞しているが、それほど神経質になる必要もないと思う。ぼくのディスプレイが5000Kに調整してあるのは、画像データの最終目的が印刷原稿であるためだ。 余談だが、パソコンのモニターは9300Kが主流と聞くが、大半のものは6500〜5000Kに変更できるらしい。9300Kではいくら何でも青白過ぎるのではないだろうか。 第416回で、ロシアの映画監督A. タルコフスキーの作品は映像美の極致と述べたが、この10日間はタルコフスキーの他にV. エリセ(スペイン)、T. アンゲロプロス(ギリシャ)、F. フェリーニ(イタリア)、A. キアロスタミ(イラン)、I. ベルイマン(スウェーデン)、A. ソクーロフ(ロシア)などなど、すべてがブルーレイ・ディスクではないが、DVDをも含めて、お気に入りの監督を中心に夜な夜なまるで映画フェチのように観ていた。 けれどぼくは映画フェチでもなく、またファンというほどにも知らず、せいぜいがところ人並みという程度だ。最近は映画の題名や俳優の固有名詞が出て来ず、代名詞ばかりが口を突いて出てくるので、談話にならない。 先日も友人宅でシャンパンをいただきながら、「かめさん、好きな映画は?」と訊かれ、固有名詞が出て来ない恐れから、答えられないでいたくらいだ。山のように映画談話をしたいのだが、そこには「あれ」「それ」「これ」の代名詞だけが山のようにうずたかく積まれるに違いない。 「映画に対する理解というものは」と敢えて大上段に振りかぶっていうのだが、きっと視聴者の知性のありようと感受性のありよう、そしてその両センスを最も端的に顕すものなのではないだろうかと、最近思い始めている。映画はその最右翼といえるものではないか。また厄介なことに、映画は文学的、絵画的、詩的なセンスを最も顕著な形で視聴者に求めもし、また視聴者自身のそれを自ら示すものだとの信念をぼくは持ちつつある。このようなことから、映画を徒(あだ)や疎かにすべきではないと考えている。 上記の映画にハリウッドのものがないが、ハリウッドだって過去には良いものがかなりあった。ただここでぼくがハリウッドのものを取り上げていないのは、映画を娯楽としてではなく、映像美を対象の第一としているからだ。 レンタル店に通い始めるとハリウッドの新作や準新作をよく借りる。なるほど出来の良いものは面白いが、見終わった後に何も残らないからハリウッドのものは腹立たしい。金はかかっているがどこか安普請なのだ。そしてまた、暴力とセックスには食傷気味であり、いささかうんざりさせられる。 このことは、映画制作者の映画に対する精神的価値基準があまりにも商業に特化してしまった結果なのかとも考える。このような現象は映画に限ったことではないが、動く金額が大きいから殊更に目につきやすいのだろう。 ともあれ、どのような分野であれ、良心は常に弱くも尽きることはないのだから、ぼくらは上質なものに触れることのありがたさをもっと身に染みて大切に扱いたいものだ。10日間に及ぶ映画三昧はこんなことを今更ながらに教えてくれた。 http://www.amatias.com/bbs/30/419.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。 栃木県足利市。 ★「01足利市」 梅干し。どこかの店先から甘酸っぱ〜い香りがツーンと鼻を突いた。こっそりひとつつまんでみた。涙が出るほど酸っぱくて塩っぱかった。 絞りf11、1/40秒、ISO200、露出補正-1.00。 ★「02足利市」 今夏最後と覚しきひまわり。古く痛んだポジフィルムをシミュレート。 絞りf5.0、1/1600秒、ISO100、露出補正-1.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/10/19(金) |
第418回:禁煙の呪い |
前回禁煙について述べたところ、非常に素早い反応を複数の読者諸兄からいただいた。内容は激励と哀憐と自慢に満ちたもので、判で押したように「私の場合は・・・」と切々たる思いに満ちた悲しい物語から始まっている。誰かにいいたくて仕方がないという風だ。
それはまるで手術の傷跡をお互いに見せ合う病気自慢のようでもあり、まさに “同病相憐れむ” といったところであろうか。誰もが喫煙による差別やいわれなき屈辱を余儀なくされた過去を持ち、謂わば『虐げられた人々』(ドストエフスキィの長編小説)のように思えてくる。 うっぷんのはけ口としての標的が見つかり、それがたまたまぼくであったのか、あるいは心強い!? 同志を得た歓びなのかは分からないが、「とにかく禁煙の先輩としてかめやまに一言申し述べておきたい」という心意気と共感めいたものがダイレクトに伝わってきて、ぼくはこのような正直で生々しい告白に対し、ありがたくて涙している。一人ひとりここに取り上げたいくらいである。また、なかには漢方ならぬ生姜入りの紅茶をニコチンの解毒剤?としてわざわざ遠方より送ってくれた人もいる。やはり涙である。 この連載を始めていつの間にか8年が経つ。写真話でない1話がこれほどの共感と同情を集めたことはかつてなかった。このことは写真屋のぼくにとって大変な愉快事だ。良い写真を撮ることより、たかだか煙草をやめるというケチでしみったれた話に読者諸兄が興味を示されたという現実に、ぼくはとても奇異な思いをしている。 写真人口より禁煙による禁断症状経験者のほうがはるかに多いということなのだろうか? 実生活に於ける切実さの違いなのだろうか? あるいは写真を撮る苦しみより、禁煙の苦しみのほうが辛くて困難であるということなのだろうか、とぼくは今首を傾げながら訝(いぶか)っている。 ぼくもここで正直に、しかも声高に申し上げておかなければならないことがある。それはメールをいただいた6人の(なんという数でありましょう!)うち誰一人、禁煙をしてこのような利点があったという指摘をされていないことだ。「こんなに良いことがありました。やめてホントによかった」という建設的で、明るく希望ある告白がひとつもないのである。 おそらく読者のなかに煙草をやめた方はたくさんいらっしゃるだろうが、その原因がぼくのような(世の中の喫煙意識に対する甚だしき私的な思想的反感や憎悪)人間は、比較的禁煙の御利益には与りにくいのではないかと思われる。斜に構えて世を見たり、そしてまた変に醒めているからだ。つまりひねくれ者ということだ。 煙草をやめる、もしくはやめなければならない原因や動機の違いにより結果や見方が異なるのは当然のことだが、健康を慮(おもんぱか)っての禁煙は大部分が自己愛から発するもので、効果を欲目に見たり、暗示をかけたがるのではないかとぼくは考えている。 “禁煙研究員” である姪っ子の話によると、 “禁煙のすゝめ” は、「禁煙をポジティブに考え、決してネガティブなことはいわない」といっていた。つまり、「喫煙の害には言及せず、禁煙をするといいことがある」という計らいをするのだと。残念ながらその方法論は今のところぼくには当てはまらず、姪っ子の思惑外れに終わっている。もう少し詳しい学問的見解を近いうちに聞いておこうと思う。 ぼく自身、今日で禁煙18日目だが、上記の如く今のところ良いことなど何ひとつないと公言しておく。口が寂しく、のべつ幕なしに何かを食べ続けているので、いつも腹具合が悪い。予期せぬ便意に襲われたりもする。油断がならないし、我慢もならないので、生理的欲求に敵意さえ抱くようになってしまった。 「食べ物が美味しくなる」などとまことしやかに語る御仁がいるが、それは真っ赤な詭弁(おかしな日本語ですいません。このくらい荒れている)であり、真っ青な嘘である。美味いから食うのではなく、口寂しいから否応なく食い物をむさぼり、放り込んでいるに過ぎない。精神的にも肉体的にもそうせざるを得ない危機的状況に常時追い込まれているということだ。こんなはしたないことが一体いつまで続くのだろうか? 日課としているウォーキングでは、歩道橋の上り下りを7〜10回ほど毎度繰り返すのだが、禁煙によって息の上がり方が異なり、楽になったということなどなく、まったくいつもと変わらない。心拍も呼吸も、何の変化も生じないではないか。 昨日、ふらっと何の目的もなく足利市にある織姫神社に初めて行ってみた。229段の階段に挑んだが、禁煙の効用などまったくなし。とたんにあごを出し、禁煙の偽善的効果に悄然としてしまった。 ここは縁結びの神が祀られているそうだ。山頂にある神社の境内で若いカップルや願掛けにやってきたと覚しき女性を眺めながら、「なんでオレはこんなところにひとり佇んでいるのであろうか?」と自問しながら、やけっぱちのニヤケ顔でiPhoneをかざし、恥ずかし気もなく自撮りをイタズラに愉しむジジィとなっていた。ぼくはやはり相当精神を蝕まれ、そして呪われているのだ。 煙草を吸わないので所在がなく、これを “手持ち無沙汰” というらしいが、罪もないのに何故かきまりが悪く落ち着きがない。指名手配犯や挙動不審者に似てその気分が何となくわかるような気がした。煙草の1本でも咥えれば何とかごまかしが利くものなのに、ぼくはすっかり気が触れてしまい、229段の石段を昇り参拝すると願いが叶うという織姫神社の7つのご神徳(縁結び)を暇に飽かせて一つひとつ読み上げていた。すっかり焼きが回っている。 禁煙して良いことがなければ、再び芳香豊かなパイプと縁結びをしてやるのだと豪語しながら229段を駆け下りた。膝頭が小刻みにプルプル・カクカクと笑っていた。 http://www.amatias.com/bbs/30/418.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF11-24mm F4L USM。 茨城県結城市。 ★「01結城市」 大きなかぼちゃ。若い頃衝撃を受けたE・ウェストン(エドワード。1886-1958年)の作品「ピーマン」が咄嗟に浮かびシャッターを切る。結城市の店先で。 絞りf9.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.00。 ★「02結城市」 ちょっと小粋なカフェを見つける。実際よりかなり低い彩度で描く。 絞りf8.0、1/60秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/10/12(金) |
第417回:川崎区千鳥町(3)最終回 |
前回と今回は極めて不安定な情緒のなかで原稿を書いている。このことは、題目の千鳥町とは縁も所縁(ゆかり)もない事柄であり、また私事でもあるので恐縮しつつ白状に及ぶのだが、いつもに比べ筆の遅れが甚だしい。辞書を繰る時以外、キーボードを4本の指でほとんど滞ることなく打ち続けてしまうぼくだが、今、ある事情によりいつものリズムが崩され、支(つっか)えてばかりいる。
何の因果か、あらぬ事か、ぼくは気のぼせして分別をなくし、10月1日を期して禁煙などという愚昧にも等しいことを、誰に相談することなく自発的に始めてしまったのである。善悪の区別を失った挙げ句の決意であっただけに、我ながらまことに浅ましくも情けない。近来にない痛恨の極みといってよい。 いい歳をして、禁煙などという愚かしいことに足を踏み入れてしまい、意地という名の下、後戻りできないような状況に自らを追いやり、いま世を睥睨しながら自虐的快感に打ち震えている。この迷走ぶりに、ぼくもずいぶんと落ちぶれたものだと思っている。 もとを正せば、この愚行は座敷童子と化したぼくの姪っ子に行き当たるのだが、しかし、国立某医療センターの “禁煙研究員” でもある彼女は非常に賢明であるが故に、ぼくに没義道(もぎどう)なる “禁煙のすゝめ” を説いたことなどかつて一度もなかった。自分の信念と価値観をぼくに押しつけることをしなかった彼女を、ぼくは高く評価している。 彼女は彼女なりに、写真屋というやくざに対して敬意を表し、理解を示してくれていたのであろう。また、身分保障のない社会的弱者への労りもあったのだろう。あるいは、煙草しか楽しみのない人間からそれを奪ってはいけないという道徳的哀れみがあったのかも知れない。人情の厚さや機微を示してくれたのだ。落語が趣味という “禁煙研究員” は、しっかり果報を得ていたのである。 そもそも、5月に会うまで彼女の正式職業名が “禁煙研究員” だとは知らなかった。今時、 “禁煙” が学術的、あるいは商業的に成り立つとは、やはり隔世の感ありというところだ。ぼくは自身の生きて来た慣わしに従い「自由な喫煙」を50年以上も満喫し、嫌煙を声高に発する不条理なる人々をおちょくって(ちゃかす、からかうの関西言葉)やろうとの “気概” を持ち続けてきた。これが煙草をやめなかった一番大きな理由だった。 昨今のヒステリックにさえ思える喫煙者への過剰な封じ込め的嫌がらせに辟易としていた矢先、この愛すべき “禁煙研究員” は、「さいたま市のxx病院にとても良い禁煙外来の先生がいらっしゃるので、そこへ行ったらええわ。紹介してあげる」と、ぼくに引導を渡すように、今度はあまり賢くないことを平然といってのけた。 「禁煙するのにだなぁ、何が悲しくて医者さまの世話になどならなければいけないのか。しかも金まで払って。大きなお世話だよ。やめる時は一人で密かにやめるさ」と、ぼくはいつものように声に出していえなかった。 啖呵を切れなかったのは “禁煙研究員” がいじらしく思えたのと、愛煙家に対する風当たりの強さと肩身の狭さからもうそろそろ解放されたいとの思いが心の片隅にあったからだ。禁煙をするなら不言実行に限る。また、知人友人との喫茶や会食に於いて喫煙の可・不可を都度斟酌するのが億劫になってきたこともある。 “喫煙の気概” も人知れず店じまいをし、潮合いを見計らって55年に及ぶ喫煙歴に有終の美を飾っておきたかった。 南部鉄で出来た大きな灰皿をきれいに洗い、パイプを磨き上げガラス棚に戻した。20数個も転がっていた100円ライターをかき集めたら、それを嫁が仏壇の下にしまい込んだ。 ニコチン依存による禁断症状はまったくの想定内で思ったほど辛くはなかったが、こと原稿書きの時だけは非常な苛立ちを覚えた。10日以上経った今日も筆は遅々として進まない。 Photoshopに立ち向かう時、2〜3時間は煙草なしで過ごすことはいつものことだが、原稿書きとなると事情は一変し、パイプと紙巻き煙草を交互に吸いまくり、ぼくは煙突ジジィに早変わりする。画像補整と原稿書きは、精神と脳内神経の何かが著しく異なるのだろう。 “禁煙研究員” グループはこの差異を科学的に実証できるのだろうか? 定例の勉強会は6日に行われた。ちょうど禁断症状のピークにあり、ぼくは写真評時に用いる言葉や語句が荒れたものにならぬように気を砕いた。先日まで、我が倶楽部での愛煙者はぼくひとりだったのだが、ぼくのプリントを取り出すと、誰彼となく「印画紙が煙草臭い」という。そのような指摘は初めてのことだったが、ぼくが煙草をやめたことを知り、彼らはぼくに遠慮することなくそういったのかも知れない。しかし、彼らがそんな細やかな神経を持ち合わせているとは思えないのだが。 勉強会後の飲み会で、ぼくはひときわテンションが高かったそうである。酒席に煙草なしは相当辛いものがあり、在庫切れとなったニコチンを補おうと「とにかくよく喋った」のだとか。ビール、ハイボール、赤ワイン、白ワインと、呑み方に洒落っ気がない。自堕落な呑みようだ。 千鳥町の写真を見た “禁煙研究員” は、ぼくを初めてプロの写真屋と認めたそうである。「とにかくどこか一風変わった、変なおじちゃん」という評価だけが彼女を支配していたようだが、そこに「もしかしてプロの写真屋」が加わり、千鳥町はいろいろなものを一気にもたらしてくれた。今年のお盆はやはり冥加に尽きたのである。 http://www.amatias.com/bbs/30/417.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF135mm F2L USM、EF50mm F1.8II。 神奈川県川崎区千鳥町。 ★「01千鳥町」 夕闇が迫るなか、対岸の工場を135mmの望遠で。 絞りf8.0、1/125秒、ISO100、露出補正-1.00。 ★「02千鳥町」 太く低い煙突から勢いよく蒸気が立ちのぼる。 絞りf9.0、1/160秒、ISO100、露出補正-0.67。 ★「03千鳥町」 この日のラストカット。18時59分とある。 絞りf3.5、1/25秒、ISO400、露出補正-2.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2018/10/05(金) |
第416回:川崎区千鳥町(2) |
うだるような今夏、誰もが人知れず弱った体を労りつつ、夏ノ暑サニモマケヌようにオロオロアルキ、ぼくも痛風の気をいいことにエアコンの効いた部屋に閉じ籠もりを決め込んでいた。
とはいえ、ぼくにも良心の一片と、そして働くことの美徳が、申し訳程度に心の奥底に鈍い光を放ちながら沈殿し、へばり付いている。まだ尊き労働を免除されるような歳ではないし、自らもそうありたくはない。 7、8月と異常なまでの酷暑のなか、気と体の塩梅を執り成しながら、撮影の機会を静かに、用心深く窺っていた。天から降り注ぎ、地から湧き上がる熱波に、トーストのように焼かれるのだから、戦地に向かうにはこのくらいの慎重さと大仰さと覚悟があっていい。 午後4時ちょうどに千鳥町に辿り着いたぼくは、はやる気持ちを抑えながら、姪っ子がスマホで撮った場所をハンドル片手に探していた。姪っ子の痕跡を検分するような視線であったのかも知れない。写真の一部始終を記憶していたわけではないが、それらしい工場の佇まいはすぐに見つかった。 亡き人の縁(ゆかり)の地に赴き、その面影を偲ぶとき、人は特別な感情に動かされることがままあるが、ぼくはここ千鳥町で奇妙な感慨に囚われた。 被写体を定めシャッターを切りながら、姪っ子はこの場にあって何に惹かれ、どのようなことを考えていたのだろうか。ぼくは彼女の霊的おこぼれに与ろうと懸命に推察しようと試みるのだが、その度に彼女の屈託のない笑顔がぼくの網膜の内側でズームアップされ、集中力が保てないのである。 彼女の得た霊感を共有しようとの虫のいい目論見は大きく外れ、彼女はあたかも悪戯を働く座敷童子(ざしきわらし。岩手県に伝わる超自然的な存在。その精霊的存在)のように、ぼくのいじけた洞察力を奪っていった。ここに至ってぼくは発想の転換を迫られた。人頼みはしちゃいかんということらしい。 工場のフォトジェニックな配管やプロポーションは美しくも妙あるものだが、それとは別にぼくはもうひとつの目的を持っていた。 風景のなかに、普段見る鉄道とは趣の異なる引き込み線を、条件さえ整えば映画の1シーンのように描いてみたかったのだ。 “捕らぬ狸の皮算用” によると、使用レンズの焦点距離は135mmと決めていたが、もう少し平易に100mmくらいでもいい。レール幅の遠近感や曲線をどのように描くかで焦点距離を変えればよく、久しぶりに望遠レンズを用意した(掲載写真「01千鳥町」)。愛用のキヤノン製135mmレンズの描写能力は極めて秀逸であり、絞り値や被写体の距離により様々な表情を見せてくれるので応用範囲が広く、使い手がある。 イメージする引き込み線の映像は、ぼくが映像美の極致とするタルコフスキー(アンドレイ。ロシアの映画監督。1932-86年)のもので、千鳥町には欲しい雨がなかったけれど、真似の真似事くらい描ければいい。タルコフスキー “もどき” まで撮れれば今回は御の字である。下手な写真は先が見えないからこそ面白いものだと思う。ただ上手なだけの写真が何故つまらないかというと、先が見えてしまうからである。 もう1枚は千鳥町の工場を象徴するような何かをどのようなアングルで描くかだった。ぼくは横着ながらこのカットを運転席からちゃっかりいただいた。焦点距離を24mmに固定しておき、周囲に車も人気もなかったので、そろりそろりと脇見運転をし、良い位置で運転席のウィンドウを下げ、そのままパチリとシャッターを切った(掲載写真「03千鳥町」)。 変哲もない写真だが、暗室作業は丸4日間もかかってしまった。1枚の写真に4日がかりは、デジタルを始めて以来のことだった。この写真を見映えのするパリッとした写真に仕上げるのであれば1時間もかからない。姪っ子を喜ばせてやろうと実際にそうしてみたが、それはぼくの姿ではないような気がしてあっさり捨ててしまった。 4日を費やしたこの写真はやはり何の変哲もない写真だが、ぼくはほとんどイメージ通りに仕上げることができたと満足している。痛風再発の恐れなどどこ吹く風とここまでやって来て(翌日僅かに痛んだけれど)よかったと悔いはない。 撮影時、他人を意識して「見せてやろう」などという下根は記憶の限り一度もないが、今回は姪っ子を喜ばせたいとの思いがあったのか、そのお陰で化身である座敷童子が登場してきた。遠野以来のご対面となったが、幸運をもたらすともいわれているので何かしらの御利益があったかも知れない。 “捕らぬ狸の皮算用” によって、千鳥町に存在しているはずのない座敷童子、タルコフスキー、姪っ子に会うことができたのは、不思議な冥加であり、霊符なのだろう。お盆だもんね。 http://www.amatias.com/bbs/30/416.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF135mm F2L USM、EF11-24mm F4L USM。 神奈川県川崎区千鳥町。 ★「01千鳥町」 タルコフスキー・モドキを演じてみた。これで雨が降っていればそれらしくなったかも。この135mmレンズの持つ柔らかで繊細な面を際立たせる設定で。 絞りf6.3、1/100秒、ISO200、露出補正-1.67。 ★「02千鳥町」 「01」写真から立ち位置を少し引き、焦点距離16mmで。たまにはちょっとお遊びを。 絞りf11.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.67。 ★「03千鳥町」 4日がかりの補整でありました。運転席のウィンドウを降ろして横着を決め込む。 絞りf10.0、1/200秒、ISO100、露出補正-1.33。 |
(文:亀山哲郎) |