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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2012/09/10(月)
第116回:この場をお借りして
 写真に限らず、何か物を作り(いわゆる“創造”とか“創作”)それを他人に提示したりお目にかけたりして、自分の感情や意志、人生観や思想を表すことの困難さを最近つとに感じています。ぼくのような人間が、こんなことを生業にしようなどという魂胆がそもそも初めから不埒かつ不料簡なことであることは重々承知なのですが、人間には多かれ少なかれ、どうもそのような自己表現の欲望が根深く潜んでいるように思えます。その欲求が強くなればなるほど(いわゆる“エゴの肥大化”)、プロ志向が強まり、「これで何とか飯が食えぬものか」という不心得者が出現してしまうようです。

 一昔前であれば、そのような創作物を公に紙媒体などで発表できるのはごく限られた一部の人間の特権でしたが(それだけに、それ相応の責任と誠実さを担っている“はず” なんですが)、時が進み今ではネット上で誰でもが自分の主義主張や創作物を全世界に瞬時に発信できるようになりました。事の是非はともかくも、便利で簡便な世の中になったものだと、ぼくのような古いタイプ(実は古くない!)の人間は瞠目さえしています。目まぐるしい世の中の移り変わりに、目を剥いている。

 デジタルの出現により、誰でもが写真を大らかでお気楽に愉しめるようになったことは「とても好ましいことだ」とひとまずは公言しておきながら、実はここだけの話なんですが、一方では非常に苦々しく感じていることを白状しなければなりません。この苦々しさには、ちょっとしたやっかみ根性が潜んでおり、心の奥深くに宿り住み、始末の悪いことに凝着さえしているのです。
 しかし、それを他人には絶対に悟られたくないので、木隠れの術?!を適宜使い分けているという苦しい胸の内を“この場をお借りして”披瀝しておかなければなりません。こんなぼくの本心は、決してインターネットなどという軽佻浮薄なる空恐ろしい手段で世に流せるものではありません(流しているじゃないか!)。
 さらに本心を深くえぐり出せば、「携帯電話で写真を撮って、それをネットで流す」などという行為はまったく許し難く、それを偏屈だとか偏狭だとか時代遅れだとか、何と言われようが、ぼくは忌み嫌っています。
 ここでぼくを忌み嫌わず、まぁ最後までお読みください。

 写真はかつて、写真の写るメカニズムや科学的な道理を理解していなければ手の出せない分野でした。そのような時代背景に育ったぼくが今のお手軽さにやはり一種の危機感を抱くことは自然のことだと思います。その心情がやや歪んで“やっかみ根性”となっているようです。

 創造物が一般的であったり、あるいは一般受けのするものに近づけば近づくほど、それを否定するわけではもちろんありませんが、アベレージとして作品の質的低下を招きます。延いては文化の凋落に結びつきます。そのような意味での危機感なのです。昨今の文化的危機状況は写真に限らず、身の周りを見渡せば枚挙にいとまがありません。
 ぼく如きがその憂いに対抗できるわけではありませんが、生活者が求めている優しさに基づく親和性を的確に読み取り、身近な日々の発見のなかに未来を見据え、洞察する確かな目を養うことが、世俗的なものに陥る危険から身を守るひとつの方策であるようにも思えます。

 物を作り上げていくには、事象をじっくり観察し、イメージし、考え抜き、自己に湧き上がる一瞬の閃きを取り押さえ、根を詰めてシャッターを切る。それが作品づくりの基本的な精神的メカニズムです。そのような精神的作用が携帯カメラではもたらされないとは言いませんが、メカに精通していない向きには得にくいものです。イメージの定着が得難い。だから忌々しいのです。写真をもっぱら記録として楽しむのであればこの限りではありません。

 と、ここまでが写真を生業としてきた人間が、写真を愛好するアマチュアの方々にお伝えすべき事柄の核であろうと思っています。プロのような技術をアマチュアの方々に強要しているわけでは決してありませんが、写真の成り立っていく過程に於ける機械的メカニズムと精神的メカニズムを、ある程度は理解しておかないと、すぐに行き詰まってしまいます。いつまで経っても上達せず、同じ場所に止まらざるを得ない状況に追い込まれ、堂々巡りとなります。そう言うぼくだって、「ま〜た同じような写真ばかり撮ってしまった。何とかならんもんかいな」と呟くことしきりです。やっぱり、ここだけの話ですが。

 世の中には流行歌もあればジャズやクラシックもあります。どの分野の音楽に親しもうとそれはまったく個人の自由です。演奏場所もカラオケからコンサートホールまで種々様々。それぞれの場所で楽しめばよいのですし、場所の上下はありませんが、どこで演奏できるかは自由な選択がままならないのが世の常です。ジャズやクラシックは楽譜を読めないと如何ともし難いですね。写真もそれとまったく同じなのです。

 さて、話はまったく変わりますが、“この場をお借りして”、厚かましくもぼくの主宰する写真グループ展のお知らせをさせていただきます。メンバーは13人で、年齢は20〜65歳まで。写真を始めて1年余という初心者もいればぼくのように半世紀以上という狸までおります。男女の構成比率も半々です。ご興味のある方は是非お越しください。

 場所はキヤノンギャラリー銀座、仙台、福岡です。銀座は9/13(木)〜9/19(水)で、日曜、祝日は休館です。
 詳しくは
http://cweb.canon.jp/gallery/archive/fototortuga2012/index.html
をご覧ください。よろしくお願いいたします。
(文:亀山哲郎)

2012/09/03(月)
第115回:ポートレート(4)
 今から20数年くらい前に友人のカメラマンからの依頼を受けて、某テレビ局の仕事を2年間ほどしていたことがあります。それは、いわゆる番組宣伝の撮影で、人気のある時代劇やドラマなどの各シーンをビデオ撮りと併行して写真を撮っていくものでした。チラシやポスター、雑誌の他に、新聞の番組表などに掲載されている写真を目的とした仕事です。
 当時はもちろんのことフィルム撮影で、放送局からカラーポジ・フィルムが支給されました。半分以上がスタジオ内での撮影だったように記憶していますが、特に時代劇などは昼のシーンでもスタジオ照明は暗くて泣きたいほどの思いに囚われたものです。「ビデオってこんな明るさでもちゃんと写るんだ」と感心した覚えがあります。
 第110回(7/20)で、「写真の歴史は明るさとの戦いでもあった」と述べましたが、暗いスタジオ内での撮影は、この言葉が直接肌にチクチクと突き刺さるような痛みを体感させてくれたものです。スタジオ内は大小様々な機材や多くの人々がいるために狭く、自然とカメラアングルにも制約が生じ、三脚使用も禁じられていました。つまり撮影には最悪・最低の条件。
 支給されるタングステン用ポジフィルムはISO感度160のもので、「余程のことでない限り増感はしないように」との冷酷残忍・人の気知らずの意地悪な指示が発せられていました。時代劇の夜のシーンなどでも「余程のこと」とは見なされず、「では一体、 ”余程のこと“ ってどんな状態なんだよ」と仲閧フカメラマン共々、ヤケなる悪態をついていたものです。

 そんな苦労を重ねているうちに(“苦難に打ちひしがれている時に”と言った方が正しい)、使用カメラメーカーから85mm F1.2 という大変明るい大口径レンズが発表され、ぼくは玉音を聞くかのような面持ちで、大枚をはたき飛びついたのです。神の声が脳味噌のなかを処狭しと響き渡ったと言ってもいいくらい。お百度を踏んだ甲斐があったと(そんな信心深いわけではありませんが)、そのくらいありがたいことのように思えました。このレンズを手に入れることにより「余程のことでない限り」などという忌々しい恫喝に頓着することも、弁明を用意する必要もなく、演じる役者のアップを安心して撮れると勇んだものです。

 レンズを購入した足ですぐさまスタジオ入り。テスト撮影も何もなしの(ぼくにとっては極めて異例のことで、こんな横着はおそらく生涯最初にして最後であろうと思われます)剛毅なぶっつけ本番でした。それも仕方がないと思うくらい困窮していたのでしょう。スローシャッターを使わざるを得ない状況下でのブレを極度に恐れていました。
 大口径レンズを開放絞り値である f1.2 で撮影すれば、周辺部の解像度は多少甘くなり、全体のコントラストも低下し、また周辺光量も落ちるだろうけれど、中心部の解像度はまぁまぁいけるだろうという予想を立てての本番でした。ここまでは程度の差こそあれどのようなレンズにも一様に見られる現象です。
 このレンズの未体験ゾーンによる不安は、開放値に於ける様々な収差がどの程度にどのような形で現れ、そしてかつて体験したこともないような非常に浅い被写界深度によるものでした。被写界深度に関しては殊のほか要注意との心得もしっかり持っていました。我ながら、なかなかに見上げた心構えではありました。

 新調したレンズを羨む仲閧尻目にいざ本番。何事にも控え目な?ぼくのことですから、多少の不安もあり得意満面とはいかず、それでも現像のあがりに募る興味を隠しきれませんでした。
 ポジフィルムをルーペで点検しながら、やはり不安は見事的中。F1.2 という超極浅の被写界深度を扱いきれていないのです。意図したところにピントが来ていないことほど悔しく痛痒を感じることはありません。かなりのアップで撮ったものはなおさらのことで、ぼくはなり振りかまわず「うわ〜っ! ピンぼけやんか!」と嘆きとも悲痛ともつかぬ声をあげたのでした。暗所での撮影ですからファインダーを覗きながらのピント合わせが非常に困難でした。どの写真も合わせた場所のピントが甘く、5枚に1枚くらいしかピントが来ていない。確率20%というところ。用心怠りなくピントをわずかにずらしながらたくさん撮りましたから、納品には恥をかかずに済み、仕事を失うことからは辛うじて逃れることができましたが、内心は忸怩たるものがありました。まだオートフォーカスのなかった頃のお話です。

 f1.2という極端に浅い被写界深度を扱う際の良い教訓を得ましたが、その5年後にはかなり精度の高いオートフォーカス仕様の同レンズが発売されました。開放値f1.2とし暗所でオートフォーカスのテストを試みたところ、手動に比べ思った所にピントの合う確率ははるかに良い結果となりました。なるほど、これを称して文明の利器というのでしょうが、では果たして実際の撮影で上述したような条件下でない限り、f1.2などという絞りを使う必然性に見舞われるかというと、ぼくは「ない」と断言しちゃいます。ぼくがそれを使用したのは長い写真屋生活のうちたった1年間で、それもかなり意地の悪い条件下のことであり、通常の撮影では様々なこと(悪影響)を配慮してf2以下で使うことはあり得ません。このレンズの利用価値のうちのひとつは、レンズの口径が並外れて大きいため、被写体となる人物に腕には関係なく「良いレンズで撮ってくれている。きっと写真も良いだろう」と錯覚させてしまうところにあります。被写体が男であれば脅し?が効くし、女性であれば・・・、やっぱり女性はそう甘くはないか。
(文:亀山哲郎)

2012/08/24(金)
第114回:ポートレート(3)
 お盆で1回連載が空きました。その間に女性たちからの自画像(ポートレート)に対する非難から逃れる術を考えようと思い立ったのですが、本音を語ればますます非難を浴びること請け合いで、まして、「お盆」とは言い伝えによると、「地獄の釜の開く時期で、危ういものにむやみに近づいてはならない」とする解釈もあるようですから、この暑い時期に「釜ゆでの刑」に処せられてはたまらず、書きたい気持ちをぐっと自重し、もう少し真面目にテーマに取り組もうと決意しました。

 ポートレート撮影の技術的なことについては、古来より様々なところで、あるいは書物などで定石とされるような事柄がいろいろと述べられていますから、実はそれらをぼくが敢えてここで復唱する必要などないのではなかろうか、というのが正直なところです。熱意のある方は、図書館でそれに類する書籍や写真集を借りたり、あるいは書店で買い求めるのが上達への投資でもありましょう。

 一口にポートレートといっても各種各様の形態があり一様に述べられるべきテーマでもなく、したがってそれはあくまでも原則的かつ限定的な事柄の範囲に留まってしまいます。例えば、定石のように言われることのひとつに、望遠系のレンズ(焦点距離85mmや135mmなど。35mm換算)を使用し、絞りをなるべく開け背景を柔らかくぼかし(簡略化し整理する)ながら被写体を浮かび上がらせる技法などは一種の古式礼法のようなもので、その典型かも知れません。
 ポートレートの作法としてそれが間違いだとは言いませんし、むしろごもっともなことなのですが、ぼくはそのような撮り方はもうかれこれ20年以上も試みたことがありません。多分、どこか陳腐で面白味がないという抵抗感に襲われているのからでしょう。いや、おそらくありきたりの肖像写真に退屈さと窮屈さを覚えているのです。人物描写をひとつの世の習いというかお定まりの枠に閉じ込めるのが嫌いなのです。
 その人の生活感、佇まい、環境などをかなりのパンフォーカスで微に入り細にうがって描写しつつ、フレームを切り取っていく撮り方がぼくの性に合っているのです。理想的には、それでいながら画面が煩雑にならず、夾雑物が注意深く取り除かれ、全体が幾何学的に整理されていること。百花繚乱のようにはならずに主被写体に自然と視線が注がれ、吸着されるように人物を配置し、主役と脇役を描き分け、すべてを立体的に浮かび上がらせる。乙に澄ましたポートレートよりこちらの方がずっとダイナミックで変化に富んでいます。何より人物が生き生きと描けるような気がしています。
 と、一丁前のことを言っていますが、これがなかなかむずかしいんだなぁ〜。

 上記の作法に従えば、ぼくにとっては標準レンズ(焦点距離50mm)でもまだ事足りず、35mm前後の広角レンズが自分にとってはサマになるように感じています。ただ広角ですから、画角や顔の配置により歪みが生じますので、それを計算に入れて絵作りをする必要があります。
 みなさんもお仕着せのポートレートに適したとされる望遠系のレンズではなく、時には常套手段を用いずに道ならぬ反骨精神?を持って広角系のレンズを使用し、ポートレートの異なった世界をのぞき見ることも有益なことではないかと思います。

 かつて魚眼レンズやそれに近い超広角レンズで撮った鼻デカ犬の写真が流行り、持てはやされた時期がありました。犬は自分の顔がどんなに歪んでも文句を言わないし、噛みついたりもせず、それなりの可愛さも表現でき、それでいいのですが、女性の顔があれほど歪んでしまうとやはり彼女たちは怒り心頭に発し、こちらの身が危うくなります。男でもお遊びならそれでよいとしても、ただそれだけの写真にしか過ぎません。鼻デカ犬の写真がすぐに飽きられてしまったように、奇をてらったあざとさは写真に於ける美の世界とは無縁です。何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。

 順序があちこちに飛びますが(いつだってそうだ)、話を望遠系のレンズに戻しましょう。ポートレートを撮る際に望遠レンズの特質を最大限に活かそうとするのであれば、高倍率のズームレンズは開放F値が大きく(数字が大きい。例えばF 5.6など)背景のボケの程度が小さくなり、ボケ方も決してきれいではありません。ホワーッとした柔らかなボケの中に人物をシャープに浮かび上がらせたいと願うのであれば、どうしても開放値の明るい(例えば数字の小さいF 1.4やF 2)大口径の単焦点レンズがより好ましい結果を得られます。このようなレンズは概して、使用F値によりそれぞれに異なった表情と性格を見せてくれますから、とても面白いのです。
 明るいレンズは開放値に近くなればなるほど、被写界深度も非常に浅くなりますからピント合わせも慎重を要します。顔のどこにピントを合わすかで、その結果が極めてシビアに示され、写真の印象もかなり異なったものとなります。顔を斜めから撮る場合、何本目のまつげにピントを合わすかというのは決して大仰な言い方ではありません。
 次回はF1.2 という非常に明るい大口径望遠レンズを使っての失敗談を、恥を忍んでご披露したいと思います。ちょっとだけね。
(文:亀山哲郎)

2012/08/10(金)
第113回:ポートレート(2)
 前回、「ポートレートに限らず被写体が最も美しく見える「ピンポイント」なるものの存在をぼくは信じています。ここも良い、しかしこちらも良いということはまずあり得ないことだとぼくは思っています」と述べましたが、この考えは、ぼくが今まで仕事で1万カット以上の「物」を撮影してきた経験に基づいています。撮影時にカメラの高さ、左右をミリ単位で移動していくわけですから、初めのうちは最適と思えるカメラアングルの決定に迷うこともしばしばありましたが、数をこなしていくうちにいつの頃からか、「ここだ」というポイントがすぐに発見できるようになりました。
 この作業によって導き出されたぼくの結論に異論を唱える人がいるかも知れません。多分いらっしゃるでしょう。その異論の拠り所はおそらく「人はそれぞれに異なる感覚を持っているのだから、あなたはそうであっても私は違う」というものです。つまり「それはあなたの(かめやまの)主観によるところのものでしょ」というわけです。

 カメラアングルというものはすべてが純粋に科学で解明できるものではなく、したがって数式や法則で表すことが困難で、個人の感覚に頼らざるを得ない部分ももちろんありますが、一方では「黄金比」や「遠近法」、あるいは「数学的な美」を用いて審美的・美学的な側面を取り上げようとする概念もありますから、人はあながち主観的な部分だけに頼っているわけではないと思われます。ぼくは残念ながらまだまだ感覚的に“洗練”という域には達していませんが、写真に限らずその道の多くの達人たちに接して、彼らの正否を読み解くその精確な物差しにいつも感嘆させられてきました。個人の主観をはるかに凌駕した感覚、すなわち“洗練“や”“審美眼“というものは、常に一定の法則を従えているものだということを知ったのです。それがひいては錬成による感覚の繊細さや鋭さに結びついているのであって、原始的な主観に頼ったものではないのだというのが、今日現在のぼくの主張でもあります。
 洋の東西を問わず絵画、写真、彫刻、建築などなど名作と謳われるものは一定の法則や普遍性に基づいており、それを無視したところで作品のありようが云々されるべきものではやはりないのだとぼくは思っています。

 写真には様々な分野がありますが、ぼくのようなアバウトな人間にはどの分野も大同小異に思えて仕方がありません。それぞれの分野に従ったノウハウが然るべくしてありますから、それを指して分野が便宜上決められていると、ぼくは非常に大らかな考え方をしています。基本はどの分野でも同じようなものですから、そう思ってしまうのでしょう。

 とはいえ、ポートレートというものは写真の持つ非常に魅力的な分野です。写真だけが持つ特有な性格であるのかも知れません。人間の認識できない何十分の1秒、何百分の1秒、あるいは何千分の1秒という瞬間にその人の人生のある一瞬を、輪切りのように断ち切るその写真術はスリルと醍醐味に満ち溢れています。表情や仕草は時とともに同時に流れ去り二度と後戻り(再現)できませんから、それを留めておくことは撮影者にとっても被撮影者にとっても自分たちの生きた証のひとつとして永遠に残るものです。
 無機質の静物撮影はその関係が前者に比べ希薄で、自分の人生の一瞬を記録しますが、相手の変化はかなりの時間を経過しないとなかなか見定めることができません。ただ、相手はどのように撮られようとも決して不平不満を言わないので、その点がとても気楽です。

 ところが人間はやっかいです。特に女性は何歳になってもずっと、ずっとやっかいです。こちらが「よく撮れた」と思っても、十中八九は同意してくれない。それでいて男以上に撮られた写真には尋常ならざる興味と執着を示すので、なおさら始末が悪い。写真に一瞥をくれ、必ず「ふん」と鼻から空気を抜きながら、愛想笑いもせずに写真を突っ返してくるのです。言外に「あ〜た、下手くそね」とか「もっとしっかり撮りなさいよ」という気持ちが随所に盛り込まれ、見え隠れしているのです。それが手に取るように分かってしまうのです。彼女たちは意識的にそのように振る舞うようです。照れ隠しであれば多少は可愛げがあるのですが、本気ですから恐いのです。「実物より写真の方がずっときれいなのに」などという素振りは一切見せてはなりません。命取りになりかねない。そのような体験、みなさんはありませんか?
 ぼくは必ずそのような理不尽な仕打ちに遭いますが、最近はぼくも知恵がつきデジタルの恩恵に浴しています。つまり印画紙にプリントしたものをその場でお見せするのではなく、CDなどにデータを焼いて「はい」と言って渡してしまうのです。この方法は、取り敢えずは恐怖に晒されずに済みますから、一時的ではありますが難を逃れる良い方法です。
 女性だけが殊更に自己愛が強いのかというとそうでもないので、この現象はどのようなことに起因するのであろうかと未だに解明できずにいます。解明できないのは、ただ自分が下手であることを認めたくないからだけなのかも知れません。

 今回も「ワンポイントレッスン」になっていませんね。では、2行で書きます。
 ポートレートはあなたが納得できるまで、できるだけ数多くのシャッターを切ることです。デジタルならなおさらです。いつだったか「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」という諺は写真には当てはまらないと書きました。その考えは今もまったく変わっていませんが、しかし今のところこれしか彼女たちの魔の手から逃れられる方策が思いつかずにいます。お盆で1回連載が空きますが、その間に何か良い方策を練ろうと思います。
(文:亀山哲郎)

2012/08/03(金)
第112回:ポートレート(1)
 もう45年ほど昔のことになります。画材店のショーウィンドウに10年以上も置かれ“日焼けした”ミロのビーナスの胸像を店主にすり寄って安く譲ってもらったことがあります。本物の大理石とは異なりこちらは石膏ですが、とはいえ決して軽いものではなく、宅急便もない当時、夏の暑い盛りに汗だくになって持ち帰りました。二十歳(はたち)そこそこの頃です。胸像を欲しいと思ったのは、これといった目的があったわけではないのですが、机の上に置いてなんとなく美術的な空間を作りたかったからなのでしょう。画学生のようにデッサンをしてみようなどという殊勝な気持ちもなく、置いて眺めているだけでした。ただ、本当に石膏が日焼けするものなのかどうかはよく知りません。これを書きながらの咄嗟の思いつきで、事実はどうであったのか記憶にないのですが、昔の想い出ですから、石膏にもセピアがかかっていたと思いたいらしく、思わず口から出まかせを言って(書いて)しまいました。

 ある日、窓から射し込む光によってビーナスの表情が異なって見えることに気がついたのです。気がついたというよりも、光というものは様々な状態によりそれぞれに異なった感覚と印象を与えるものだということを知ったのでした。レースのカーテンで窓を覆ってみると、ビーナスの顔に出現している陰の濃さが変化するのです。つまりコントラストが変化する。陰ばかりでなく石膏の質感もついでに変化する。「これはえらいこっちゃ、一大事だ! なんたる偉大な発見! もしかしたらぼくは、ダ・ヴィンチ以来の偉材かも知れぬ」と二十歳の青年は鬼の首を取ったように小躍りしたものです。誰にも教えられず、自分で発見したことがとてもエライことに思えました。
 興に乗ったぼくは、胸像をベランダに持ち出し、太陽の直射光を大きな白の模造紙で遮ってビーナスの表情を覗うと陰がほとんど消え失せ、鼻筋の通った立体感も際立たず、石膏の小さなブツブツまでもがまったく目立たなくなっていました。ぼくはこの発見に、喜色満面で得意の鼻をうごめかし「このことは当分内緒にしておこう。誰にも教えない。ぼくだけの秘密なのだ」と心密かに誓ったものです。躍ったり、エラくなったり、誓ったり、ぼくはぼくでけっこう忙しかったのです。

 以降2,3年、その大発見にすっかり酔いしれていたのですが(ウソです)、ある日、光の状態による物の見え方の変化を写真に撮ってみようと思い立ち、お隣の病院の屋上に胸像を運び、真南に向け、カメラを三脚に据えて定点観測のように日の出から日の入りまで、ノート片手に1時間毎に撮ってみました(ホントです)。晴天、曇り日などのべ5日間ほどを費やしたと思います。初秋の頃とはいえ、まだ日差しは強く、ぼくは石膏より日焼けをしたに違いありません。光の状態の変化による物の見え方の差異は、実際の視覚より写真の方が顕著に示されるという大きな発見もありました。科学的に考えれば当たり前のことなのですが、まだ写真のメカニズムにそれほど精通していない若者にとって、その発見はやはり大きな驚きでした。

 この実験をする時に、カメラのファインダーを覗きながらビーナスの顔に対して、どのくらいの高さにカメラレンズを据えれば最も美しく見えるか(撮れるか)ということも併せて学んだように思います。いわゆる“カメラアングル”なるものをです。この時使用したレンズは焦点距離105mmのニコン製望遠レンズでしたが、望遠であれ広角であれ、人物の顔がそれらしく写せるレンズの高さは、“取り敢えず”一様に同じであるとぼくは結論めいたものを導き出したのです。
 胸像を人間のバストアップ写真になぞらえて、知らずのうちにその実験を兼ねていたのです。ポートレートの極意?!を得たと感じたものです。これも狂喜乱舞(どうしてこうも大袈裟に言いたがるのか)でありました。しかし、以来40年間もこの原則はポートレートを撮る際に、ぼくを支配した大きなものとなりましたから、やはり大袈裟とは言い切れぬものがあります。
 ポートレートに限らず被写体が最も美しく見える「ピンポイント」なるものの存在をぼくは信じています。ここも良い、しかしこちらも良いということはまずあり得ないことだとぼくは思っています。

 この実験では、ビーナスの目より約2〜3cm下のところにレンズの中心部が位置するのが最もビーナスを美しく、生き生きと描写できるという発見でした。
 ビーナス胸像を撮る場合、目を中心とすれば、それよりわずかに下方から仰ぎ見るアングルです。レンズの焦点距離により、また被写体となる人の顔かたちや年齢・職業、性別の違い、光質や背景などなど様々な要因ももちろん関わってきますが、この原則を心得ていれば臨機応変に対応でき、ピンポイントが見つけやすい。またバリエーションを組むことも容易となり、それほど大きな間違いを犯さずに済みます。人間の顔は現在70億通りあるのだそうですが、この原則は70億通りを束ねても通用・流用できるものだとぼくは思っています。

 多くの名作といわれるポートレートを見ると、そのカメラの位置(レンズの高さ)の巧みさに一定の法則のようなものが窺え、そこに大きな秘訣が隠されているようにも思えます。また、相手との物理的・心理的な距離感をどのように保ち、掌握するのかのヒントも得られるように思えます。

 ぼくの石膏ビーナスは多くのものを学ばせてくれましたが、病院の屋上で秋の長雨の中(台風も来ました)放置しておいたので、長年の垢はすっかり洗い流され石膏本来の白さを取り戻しましたが、同時に端麗な顔立ちも溶けてしまい、のっぺらぼうの妖怪に変化してしまいました。石膏は水で溶けるというのもついでながらの小さな発見でした。
(文:亀山哲郎)

2012/07/27(金)
第111回:男子の通過儀式
 ぼくは“新しいもの好き”のくせに、一方では年相応に(64歳)保守的な面があると自覚しています。保守的とは政治的な意味での保守ではありません。
 そして年相応以上に片意地で頑固でもあります。若い人との私的なお付き合いも年のわりには多い方なのでしょうが、自分の生活に必要と思われること、つまり現在という時を得て人並みに社会生活を営んでいくうえでの必要最小限の事柄しか彼らの“真似”をすることはありません。カッコをつけて言えば彼らの好むものや世情には“決して迎合などしない”と決めています。古いタイプの人間と言われてしまえばそれまでですが、いつの時代でも時流に逆らえば人はそう言いたがるものです。年相応に生きるのが最も楽に生きられると言うことに遅まきながら気がつきました。

 ぼくの所属する写真倶楽部には20代の若者が4人もいて、うち一人は弱冠20歳の学生さんですが、彼らがうるさい白髪のおっさんの言うことを素直に聞くふりをしているのは、ぼくが写真について彼らより少しは理解と知識を持っているからという理由だけであろうと思っています。これでぼくの撮る写真さえ良ければ説得力が増し万全の構えとなるのですが、なかなかそう都合良くもいかず、内心では「あのおっさん、おかしな写真ばかり撮ってくる」と言いたいに違いありません。

 人に何かを伝え教えていくのは並大抵のことではないと重々承知のことだったのですが、後進の指導と称して写真倶楽部を催したり、出版社の原稿依頼に気軽に応じたり(なぜか写真についてではなく)、講演依頼をされたり(これもなぜか写真についてではなく)、またあるいはこの「よもやま話」をお引き受けしたのは、自分が長年写真に携わりプロとしてこの世界で飯を食ってきたというたった1つの矜恃に寄りかかっているからなのだと思います。無念ながらも、それしか頼りにするものがない。それにすがりつくので、どうしても剛愎稜々(ごうふくりょうりょう)たるを得ません。実に情けない話です。

 若い人たちと接していると自然に「自分がこの年代の時はどうであったのだろうか」と振り返ることがしばしばあります。世間では若い人たちについて様々なことが言われますが(いつの時代でも同様)、ぼくなりに乱雑な分析を試みると、ほとんどぼくの青年期と大差がないように思われます。もしどこかに差があるとすれば、それは彼ら自身ではなく、周囲の大人たちであることに思いが至ります。ぼくらの青年期には範を垂れるべき大人たちが今よりは確実に多くいたという感触を得ています。
 心より尊敬できる(昨今は ”リスペクト“ というチャッチィ言葉に置き換えられ、誰もが抵抗もなく無批判に ”リスペクト”を連発し、”尊敬“という本来の意味が変質し、価値が低くなってしまいました。何が ”リスペクト”なもんか! ほらッ、片意地で偏屈なおっさんだと思うでしょ?)良き先輩に恵まれ、今は全員が故人となってしまいましたが、彼らから学び教えられたことは未だにぼくの精神的な大きな核であり、支柱ともなっています。それに引きかえ、ぼくなんぞ若い人と接する時、抽象論ばかりを振り回してその場を取り繕うとしている。こういう大人が一番始末に負えない。“リスペクト”されないのです。でも、年配者の常套句「あのねぇ君、人生ってのはね」というおごり高ぶった科白だけは使わないように心がけていますから、まだ救いがあるのです(と断定的に)。

 前述したうちの20代の若い衆に1人男子がいるのですが、つい2.3ヶ月前に「ぼくはライカを買おうと思っているのです」と、酒席ではありますがぼくに薄ら笑いを向けながら言い放ったのです。ぼくはまったく躊躇することなく「そうか、絶対買え」と返答しました。
 かつて編集時代にぼくは男子なら誰でもが一種の夢を託す車やオーディオ、カメラや文房具などに半端でない凝り方をしたものです。車のチューン・アップのためにわざわざドイツのバイエルンに赴いたり、パイプを作るために世界的な名工を訪ねてデンマークにも足を運びました。このようなものに取り憑かれたのは物欲などとは無縁の「物の美しさ」、「性能の素晴らしさ」にぞっこん惚れ込み、打ちのめされてしまったからです。同時に良寛さんの書や唐津焼にも心酔した気の多い青年時代でした。
 20代の若造(ぼくのこと)が銀座にあるライカ特約店に足しげく通い、大の大人たちに割り込み、入り浸っていたのはライカというカメラの美しさと人間工学を巧みに利し機能的な美にまで押し上げた完成度の高さであったからでした。もちろん、レンズの描写性能はいうまでもありません。もう今から40年も昔のことです。そのようなものを身近に体験し、苦労して超一流のものを自分の手にすることはある種の精神生活を保障してくれるものだと、当時の大人たちはぼくに教えてくれたのでした。これを以(もっ)てして、男子の通過儀式だとぼくは考えています。

 そんなわけで「ライカを買う」との宣言にぼくは二つ返事をしたのです。車に凝ることによる精神生活にはぼくは極めて懐疑的ですが(その設計やデザインはまた別の事柄。高価な車を乗り回すより、その分良い本をたくさん読んだ方がはるかに素晴らしいということ)、ライカを手にすることの歓びは写真の上達に間違いなく寄与するからです。とのぼくの主張が正しいかどうかを、彼を実験材料とし推し測ってみたいと企んでいます。100万円以上という非常に高価な物品を彼にそそのかし、自己の考えに合致するかどうかを楽しみとするぼくは果たして範を垂れない大人なのでしょうか?
(文:亀山哲郎)

2012/07/20(金)
第110回:ある日の舞台撮影
 ISO感度について3回に分けてお話ししました。もちろん、これで十分というわけではありませんが、ぼくが最もお伝えしたいことは、できるだけその撮影条件に合った可能な限りの低い感度を使いましょうということです。感度を低くすればどうしても手ブレの恐れや被写界深度の幅に制限が生じますが、その兼ね合いを見計らいながら撮影していくうちに自然と写真的な理論への理解が深まり、また腕も上がっていくものだと確信しています。
 高感度に甘んじているうちは、なかなか進歩が覚束ないばかりか美しい写真も得られません。

 今日は、過日写真の好きな友人に依頼された舞台撮影のお話しをいたしましょう。ワインポイントレッスンというわけではありませんので、気楽に読み流していただければと思います。

 今回の撮影は、言ってみれば仕事と愉しさが相半ば、公私混同?といったところです。普段、舞台撮影の仕事はそれほど多くはないのですが、自然光を利用しての撮影では、舞台撮影はかなり難しいものの部類に属します。いくらいい加減な友人の依頼でも、ぼくは一応プロの写真屋ですからいい加減な撮影ができないところが辛いのです。この友人にだけは「普段、偉らそうなことばかり言ってるくせに、なんだいこれは」とは言わせたくないのです。
 今まで何千という場数を踏んできても、舞台撮影は頭を抱え込む場面に多く出くわします。もしかしたら、彼はぼくを試しているのかも知れないと思うとさらに気が抜けない。どうしても本気で撮らざるを得ないのですが、舞台で神妙に歌う彼の姿を見ていると腰に力が入らず、ぼくは本当に弱りました。

 クラシック音楽のように照明が一定のものはまだしも、光質や色温度が常に変化する今回のような舞台は、フィルムなら「てんやわんや」であり、デジタルなら後処理の難しさに悩まされます。あんなこんなの悩みをたくさん抱え込みながらの撮影でした。

 フィルム(ポジフィルム)で撮っていた頃のことを思い出すと、デジタル撮影はなんとお手軽で気楽なことか。フィルム撮影の煩雑さから解放され、ぼくはその恩恵に涙が出そうでした(ちょっと大袈裟)。
 フィルム時代はカメラを3台ほど首にかけ、リハーサルから本番まで駆け回らなければなりませんでした。タングステン用、デイライト用、そして増感用のフィルムをそれぞれのカメラに装填し、何種類かのフィルターを用意して、その都度使い分けるという面倒なことを強いられたものです。でないとお金をもらえない。飯食うために撮影するのですから仕方がありませんけれど。
 撮影媒体はすべて雑誌やポスターといった印刷物でしたから、色温度や露出に敏感に反応してしまうポジフィルムを使わざるを得ませんでした。舞台撮影は、商品カタログや美術工芸品などのように厳密な色温度やフィルター調整が求められるわけではありませんが、それでも厄介なことに変わりはありません。そんなことを思い出しながらのデジタル撮影でした。カメラ1台ですべてが賄えるデジタルのありがたさに号泣(大袈裟なんだってば)。

 舞台撮影の難敵はまだあります。とにかく暗い。写真の歴史は明るさとの戦いであったと言っても過言ではありません。これはフィルムでもデジタルでも同様ですが、しかし、1枚ごとにISO感度を変えることのできるデジタルの機能はやはり素晴らしいものです。その時の常用感度はISO400〜800でしたが、それは手ブレを防止することのできるシャッタースピードを基準にしています。それ以下のISO感度を使用し手ブレを起こさない自信があったとしても、ぎりぎりのスローシャッターとなりますから、逆に被写体ブレを起こしてしまいます。動きの激しいロックコンサートなどなら、それもかえって面白味が出るのですが、ミュージカルのようなものにはあまり相応しいものではありませんね。

 しかし、後処理を考えると喜んでばかりはいられません。光源に合わせたホワイトバランスをしっかり取ればそれでいいというものではなく、その場の雰囲気を醸せるような色調整をする必要があります。照明係の人たちは舞台の状況に応じて照明効果を考慮しているのですから、タングステン光はタングステンらしく(しかし、真っ赤になってはだめ)、色セロファンを被せたスポットライトもそれらしく表現しなければ、それぞれを演じる人たちの役柄や情景を写し撮ることも適いません。微調整を繰り返し、色調をかなりのところまで追い込んでRaw現像をし、それを翌日必ず確認するようにしています。長時間、モニターを睨み続けた視覚は極めて怪しく危険そのものですから、しばらく時間をおいての再確認が必須となります。

 今回の撮影は媒体が印刷物ではなく、DVDに収めたデータそのものが出演者や関係者に配布されるようです。ほとんどがキャリブレーションなどされていない滅茶苦茶なモニターで鑑賞されてしまうのでしょうから、友人に「これがプロの仕事だ、どうよ!」と見得(みえ)を切ったものの、さぁ〜て・・・。
(文:亀山哲郎)

2012/07/13(金)
第109回:ISO感度について(3)
 デジタルカメラの諸機能は日進月歩の感ありですが、メーカーが力を注ぎ、そしてユーザーが最も望むことのひとつはやはり解像度を含めた画質であろうと思います。
 扱いやすさ、多機能、そしてデザインなど、どれもカメラ(商品)を選択する上での大切な要素となり得るものですが、自分がどれを最優先するのか、どの部分に大きな魅力を感じているか、そしてどのような写真を撮るのか、それらを総合的に勘案しながらカメラを選ぶことになります。そこに懐具合が重なってきますから、複雑な様相と悲哀が相まみれ、それはそれは大変なことです。

 画質に対して気を払わない人にいくら画質の良いカメラを勧めても意味がありません。人それぞれにカメラや写真に求める事柄が異なるので、選択肢があり余り、かえって選ぶことの困難さを招いています。世の中にこれほど多種多様かつ多機能なカメラが果たして必要なのであろうかと(いや、必要ない!)、ぼくのような単純かつ単機能人間は思わず考え込んでしまいます。迷いばかりが増幅し、選択の自由という趣味に於ける大きな愉しみが奪われているような気がしてなりません。

 ぼくは職業写真屋ですから仕方がないのですが、最優先事項はどうしても画質と堅牢さとなり、ほとんど迷いの生じる隙がありません。ひたすら画質と堅牢さ一辺倒。それさえ適えばあとはどうでもいいと思うくらいです。選択の愉しみはありませんが実にお気楽なものです。
 私的写真用カメラは、もう少し色気を出して、選択肢を広げることができます。画質とデザイン双方を天秤にかけながらというところでしょうか。撮る写真の性質上、相手に威圧感を与えないことも大切な要素に含まれています。

 さて、こんな話をしているとテーマが一向に進みませんので、ISO感度の違いによるノイズの変化(増減)作例を示します。
 作例に使用したカメラは35mmフルサイズのキヤノンEOS-1DsIIIで発売が2007年ですから、5年前の製品です。つい最近モデルチェンジをしましたが、ぼくは仕事用カメラとしてその性能には十分に満足しており新しいものに買い換える予定はありません。5年前のものとはいえメーカーの旗艦機ですから基本がしっかり作られており、ノイズに関しても最近のカメラと比較してまったく遜色がありません。最高感度は1600までですが、本来スタジオ用のカメラですから必要にして十分なのです。
 また、ノイズは受光サイズの大きさにより異なります。もちろんフルサイズのものが最も有利で、小さいものほどノイズが出やすい性質を持っています。

 前回、「新しいカメラについては、おおよそのところせいぜい条件付きでISO800まで」と記しました。“条件”とは、Rawデータで撮影した場合、良い「ノイズリダクション」機能を備えた現像ソフトを使用することにあります。最近のソフトはアルゴリズム(計算方法)が良くなり、かなり安心して使えますが、ノイズを取り除く加減に比例して、どうしても解像感や尖鋭度の損失が起こります。作例ではノイズリダクションはオフにしてありますが、「07. ISO1600ノイズリダクション」はオンにして、どのくらいノイズが減るかご参照のほどを。
 そしてもうひとつ付け加えておかなければならないことは、ISO800までという基準は引き伸ばし倍率によっても異なってきます。これはあくまで視覚上の問題ですが、大きく引き伸ばせばノイズも当然目につきやすくなります。ここでは、ぼくが一般的と考えるA4サイズに80%くらいの印字面積を基準として考えています。

 Jpegでの撮影はカメラ内にノイズリダクションの設定があります。どの程度ノイズを軽減するかの段階設定がありますから、実写テストをして確かめるしか方法がありません。ぼくはJpeg撮影結果に関してはとても冷ややかな態度です。たった3行で済ませちゃった。その恐さと不便さを知っていますから、撮影時にJpegは使わないのです。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/109.html

★「01」。我が家の2階への吹き抜けです。3灯のタングステン定常光ですが、漆喰壁でホワイトバランスを取ってあります。ノイズの状態が分かりやすいように拡大率300%にした部分が赤線四角です。Rawで撮影。

★「02」。ISO100。このカメラの最低感度。ノイズは見られません。
★「03」。ISO200。同様にノイズらしきものは見られません。
★「04」。ISO400。ノイズはまだ現れていませんが、若干画質が粗くなっています。
★「05」。ISO800。本来は白一色の漆喰壁に、赤や緑のノイズが出ています。
★「06」。ISO1600。このカメラの最高感度。ノイズがかなり出ています。
★「07. ISO1600ノイズリダクション」は、「06」のRawデータをDxO社のノイズリダクション機能(使用カメラに応じたノイズ軽減を自動的に演算してくれる)を使用して現像したものです。確実にノイズが軽減されていることが分かりますが、絨毯を見ると尖鋭度や彩度がやや失われています。

 ノイズは今回扱った色ノイズの他にも様々なものがあります。感度を上げて使うほどにデメリットも増していくことを知っていただければと思います。
(文:亀山哲郎)

2012/07/06(金)
第108回:ISO感度について(2)
 ISO感度についてのお話を続ける前に、読者の方からご質問があり、誤解を招くといけませんので、まずそれについてもう一度要点を述べておきます。

 その方のご質問は「フィルムカメラやそれに付随するレンズなどを処分して新しいデジタル一眼レフカメラを買い足すつもりでいたのだが、最新の『よもやま話』(第107回)を読んでフィルムの方が良いと書いてあったので、フィルムカメラの処分を躊躇してしまった」という訴えかけでした。

 ぼくが前回お話ししたことはモノクロフィルムで高感度撮影し(例えばISO1600や3200などで)増感現像をすると粒状性が極端に粗くなり、それを表現手法のひとつとして意図的に使用することができることです。また感度を上げれば上げるほど、その感度に応じた現像をすることにより粒状性は比例的に粗くなり、またコントラストも高くなっていきます。フィルムはそのような性質を有し、敢えてそれを利用するのです。フィルムをご自身で現像したことのある方なら既にご存じでしょう。
 しかしデジタルでは、現在のところ残念ながら高感度使用はノイズが多くなり、端的な画質劣化につながります。フィルムのような表現手法は取れません。ただ汚らしいだけでぼくはとても高感度を使う勇気がなく、それが文末の「70億人すべてがそう感じるかどうかは分かりませんけれど」につながっていきます。
 ただ、一概に粗粒子現像といってもきれいな粒状効果を得るには相当な試行錯誤が要求されます。被写体の輝度域、フィルムおよび使用ISO感度、現像液の種類や現像時間などなど、それに適した処方データを作らなければ良い効果が得られるものではありません。データを集積するには、根っからの写真好きでなければとても根が続きません。ただ粒子を粗くすればいいという単純なものではありませんから。何よりも絵柄とのマッチングが大切。

 上記した点に関しての利用価値としてはフィルムに分があると申し上げているのであって、イコール「だからフィルムの方が良い」と言っているのではありません。ぼくは「写真はフィルムでもデジタルでもどちらでもいい」と、この「よもやま話」で何度か述べてきました。肝心なことはその伝にあるのではなく、問うべきことは写真のクオリティです。フィルムかデジかの差で写真のクオリティが左右されることなど決してないと断言します。

 ぼくは現在デジタル一辺倒ですが、ぼくの倶楽部でフィルムを愛用している人たちに「フィルムを止めてデジにしなさい」と言ったことは一度もありません。写真本来の趣旨に於ける、取るに足りないことを(非科学的なことをも含めて)論旨を違えて針小棒大に論じたがる人々が後を絶たず、未だにたくさんいるという現実に、ただただ瞠目するばかりです。
 名演奏と謳われるものは、古色蒼然としたSPレコードであれ、LPであれ、CDであれ、再生装置をも含め、どのようなものからでも感動が伝わってきます。媒体により曲や演奏の評価が左右されるものでないのとまったく同じことです。

 デジタルの高感度特性の進歩は著しいものがあるように感じます。ただぼくは画質を優先するのであれば、そのカメラの最低感度を使うことを強くお勧めします。その感度がカメラの性能を最も十全に引き出すことに、体験上何の疑いも持っていません。

 感度拡張機能については、どうぞご用心! 例えばあなたのカメラの最低感度がISO100だとしましょう。拡張機能として、最低感度の半分であるISO50が設定できるカメラが多々ありますが、フィルムと同じような考え方(感度の低いフィルムは粒状が細かくなりグラデーションがより滑らかになる)をしてしまうと思わぬ災難が降りかかってきます。ぼくの経験によれば、ほとんどのカメラでダイナミックレンジが狭くなります。ものによっては、すぐに白飛びを起こしてしまいます。コントラストが変化したり、色再現にも影響を与えます。
 しかし、一般的には感度拡張機能というと大半の人は最高感度についてどうしても語りたいようです。ISO3200だとか6400だとか、あろうことか12800だとか。人はなんとか楽をして良いものを手に入れたいとの本能に勝ちがたいものです。ぼくなど、そのような高感度にはただ怖気をふるうばかりです。そんなもの、恐ろしくてとても使う気になれませんし、試したこともありませんから語る資格がないのですが、緊急時の避難場所として考えた方が賢明というものです。“賢明”というより写真人としての“見識”としておきます。そのような ”超高感度” 使用は写真が、がさつなものになるだけですから。

 新しいカメラについては、おおよそのところせいぜい条件付きでISO800までとぼくは考えており(条件は次号で)、それ以上必要であれば(手持ち撮影)感度を上げずに三脚を使用するか、手ブレを起こさぬ訓練を積んで腕を上げようとするのが建設的向上心というもの。さもなくば画質劣化を覚悟し戦々恐々としながら撮るか、潔く諦めるか、ふてくされるか、やけを起こすか、まぁそんなところかなと思っています。どこまでを許容範囲とするかは個人の考え方や技量、そして撮るものの対象によって異なってくるでしょうが、楽をして良い写真は撮れないということは心すべきことであろうと思います。

 今回もとっくに用意しておいたISO感度によるノイズ変化の作例を添付するに至りませんでした。気ままに過ぎてなかなか予定通りいきません。どうしてぼくはこんなにおしゃべりなのか?
(文:亀山哲郎)

2012/06/29(金)
第107回:ISO感度について(1)
 根が怠け者で、加え自己弁護と言いますか、すぐに言い訳や言い逃れにすがりつくぼくのような人間が、こうして週一度定期的に生真面目に原稿を書き、まるで几帳面な人間を装っている、あるいはすでにそう演じつつあるということはまさに奇跡的なことだと自画自賛せざるを得ません。しかし、誰もそれを称えてくれない。“予定・計画”という窮屈な語彙に束縛されることなく気の趣くままに生きることを理想としているぼくは、自他共に認める“先送り人間”なのです。要するにだらしがない。それを自堕落とも言います。

 世界人口が70億を突破したそうです。70億という数字がどれほどのものかさっぱり見当がつきませんが、それはつまり70億の個性があるということになります。70億の人間がいて、ぼくは一体何番目に怠惰な人間なのであろうかなんてことをよく考えます。
 そして70億に、同じ顔の人が一人もいないという事実もまさに驚嘆すべき事です。ましてや人類(いわゆる“ホモ・サピエンス”)がこの地球に現れてからの、のべ人数となると専門家でないぼくでも、都合何兆人にのぼるのではないかと想像します。何兆種類の顔と頭脳が存在したわけです。
 人間の顔を形作る部分の大きさも、その位置関係もそれぞれにそれほど大差があるわけではありません。「あの人の目は大きい」とか「口が大きい」と言っても、幅、高さに於いて2cmも変わらない。両目の間隔が10cmも離れているなんてこともあり得ないことで、それぞれの部位の大きさや配置がたったのミリ単位異なるだけで、「あっ、誰々さんだ」と何兆もの組み合わせを一瞬に識別し認識できる人間の能力にもやはり驚嘆すべきものがあります。
 一方で、いつかも述べたことがありますが、「視覚ほどあてにならないものもない」のです。ごまかされやすい。人間の光に対する識別能力など無に等しいとぼくは思っています。物を素早く見たり、観察することが商売のカメラマンでさえ、光を読み取る能力は(コントラストや輝度域)あっても、視認能力は通常の人たちとさして変わりがなかろうと思います。もしかしたら集中力の違いだけかも知れない。それは訓練で養えるものですが、だとしてもそれが即ち良い写真につながるというわけではありません。

 どんなに優れたコンピューターが開発されたとしても人間を凌駕する写真など決して撮れないだろうと思います。将来のことは分かりませんが、そう思いたいですね。チェスや将棋といったものは数学や物理の解析機能が大きく作用する面があるのでコンピューターが勝利を収めることも可能になっていますが、無機物で作られたコンピューターが感情や思想から形成される写真というものを作れるわけがないとぼくは思っています。有機物からなる人間の脳に、無機物のコンピューターが敵うことはないでしょう。映画『2001年宇宙の旅』の人工知能HAL (ハル)の様なものが出現してしまったら、人類の精神的終焉であろうとも思います。でも、いつか人類は分別なくそのようなものを作ってしまうのでしょう。核という誤った発明をし、それを持て余し困窮している現状と酷似したものになってしまうのでしょう。もはや「マグネシウム閃光粉」を懐かしんでいる場合ではなくなりますね。

 で、このような戯言を書き続けているといつまで経っても写真の話が出てきません。結論としては、心理学や生態学で個人を70億の民として十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)に扱っていただきたくないということを主張したかったのですが、そこに至る話を端折って、写真の話をどこかにねじ込まなければならないところが、「よもやま話」の苦しくも辛いところなのです。

 今のカメラは(いきなり来ました)撮影者の英知を無視したところで成り立つ一種の不完全なコンピューターです。不完全な部分を撮影者の知恵で補わなければならない部分がまだまだ残されているのが救いでもあります。知恵の見せどころがあるからです。例えばISO感度の選択もそのひとつ。

 フィルムは1本使い切るまで同じ感度で撮らなければなりませんが、デジタルカメラ最大の見どころは1枚ごとに必要に応じてISO感度を任意に変えられることにあります。初めてデジカメを使ったときのこのコーフンは未だによく覚えています。なんてありがたい機能だろうと感心ばかりしていました。感心はしましたが、直感的に「フィルムと同じように感度を上げれば、その性質はデジでも二律背反であるに違いない」ということでした。便利さと引き替えに画質が悪くなるということです。

 フィルムは感度を上げて現像するとコントラストが高くなり、粒子も粗くなりますが、それを逆手に取り一種の表現手法として用いることが可能でした。グラーデーションも滑らかではなくなりますが、粗粒子表現としてうまく使えばそれはそれで味のあるものでした。ぼくもしばしばモノクロフィルムをそのように使ったものです。

 デジの感度テストを繰り返しましたが案の定、感度を上げれば上げるほど画像のざらつき、つまりノイズが目立ってきます。デジはフィルムと異なり、味のあるものではありません。このノイズを偽色とも言いますが、撮像素子(CCD)が光を受け取り電気信号に変換する過程で生じるものです。本来ないはずの赤や緑などの粒々や縞が発生するのです。とても醜く、汚くて気味の悪いものです。在るものが省略されて消失するのは許せても、無に汚いものが付着するのは到底許し難い。70億人すべてがそう感じるかどうかは分かりませんけれど。
(文:亀山哲郎)