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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2012/08/03(金)
第112回:ポートレート(1)
 もう45年ほど昔のことになります。画材店のショーウィンドウに10年以上も置かれ“日焼けした”ミロのビーナスの胸像を店主にすり寄って安く譲ってもらったことがあります。本物の大理石とは異なりこちらは石膏ですが、とはいえ決して軽いものではなく、宅急便もない当時、夏の暑い盛りに汗だくになって持ち帰りました。二十歳(はたち)そこそこの頃です。胸像を欲しいと思ったのは、これといった目的があったわけではないのですが、机の上に置いてなんとなく美術的な空間を作りたかったからなのでしょう。画学生のようにデッサンをしてみようなどという殊勝な気持ちもなく、置いて眺めているだけでした。ただ、本当に石膏が日焼けするものなのかどうかはよく知りません。これを書きながらの咄嗟の思いつきで、事実はどうであったのか記憶にないのですが、昔の想い出ですから、石膏にもセピアがかかっていたと思いたいらしく、思わず口から出まかせを言って(書いて)しまいました。

 ある日、窓から射し込む光によってビーナスの表情が異なって見えることに気がついたのです。気がついたというよりも、光というものは様々な状態によりそれぞれに異なった感覚と印象を与えるものだということを知ったのでした。レースのカーテンで窓を覆ってみると、ビーナスの顔に出現している陰の濃さが変化するのです。つまりコントラストが変化する。陰ばかりでなく石膏の質感もついでに変化する。「これはえらいこっちゃ、一大事だ! なんたる偉大な発見! もしかしたらぼくは、ダ・ヴィンチ以来の偉材かも知れぬ」と二十歳の青年は鬼の首を取ったように小躍りしたものです。誰にも教えられず、自分で発見したことがとてもエライことに思えました。
 興に乗ったぼくは、胸像をベランダに持ち出し、太陽の直射光を大きな白の模造紙で遮ってビーナスの表情を覗うと陰がほとんど消え失せ、鼻筋の通った立体感も際立たず、石膏の小さなブツブツまでもがまったく目立たなくなっていました。ぼくはこの発見に、喜色満面で得意の鼻をうごめかし「このことは当分内緒にしておこう。誰にも教えない。ぼくだけの秘密なのだ」と心密かに誓ったものです。躍ったり、エラくなったり、誓ったり、ぼくはぼくでけっこう忙しかったのです。

 以降2,3年、その大発見にすっかり酔いしれていたのですが(ウソです)、ある日、光の状態による物の見え方の変化を写真に撮ってみようと思い立ち、お隣の病院の屋上に胸像を運び、真南に向け、カメラを三脚に据えて定点観測のように日の出から日の入りまで、ノート片手に1時間毎に撮ってみました(ホントです)。晴天、曇り日などのべ5日間ほどを費やしたと思います。初秋の頃とはいえ、まだ日差しは強く、ぼくは石膏より日焼けをしたに違いありません。光の状態の変化による物の見え方の差異は、実際の視覚より写真の方が顕著に示されるという大きな発見もありました。科学的に考えれば当たり前のことなのですが、まだ写真のメカニズムにそれほど精通していない若者にとって、その発見はやはり大きな驚きでした。

 この実験をする時に、カメラのファインダーを覗きながらビーナスの顔に対して、どのくらいの高さにカメラレンズを据えれば最も美しく見えるか(撮れるか)ということも併せて学んだように思います。いわゆる“カメラアングル”なるものをです。この時使用したレンズは焦点距離105mmのニコン製望遠レンズでしたが、望遠であれ広角であれ、人物の顔がそれらしく写せるレンズの高さは、“取り敢えず”一様に同じであるとぼくは結論めいたものを導き出したのです。
 胸像を人間のバストアップ写真になぞらえて、知らずのうちにその実験を兼ねていたのです。ポートレートの極意?!を得たと感じたものです。これも狂喜乱舞(どうしてこうも大袈裟に言いたがるのか)でありました。しかし、以来40年間もこの原則はポートレートを撮る際に、ぼくを支配した大きなものとなりましたから、やはり大袈裟とは言い切れぬものがあります。
 ポートレートに限らず被写体が最も美しく見える「ピンポイント」なるものの存在をぼくは信じています。ここも良い、しかしこちらも良いということはまずあり得ないことだとぼくは思っています。

 この実験では、ビーナスの目より約2〜3cm下のところにレンズの中心部が位置するのが最もビーナスを美しく、生き生きと描写できるという発見でした。
 ビーナス胸像を撮る場合、目を中心とすれば、それよりわずかに下方から仰ぎ見るアングルです。レンズの焦点距離により、また被写体となる人の顔かたちや年齢・職業、性別の違い、光質や背景などなど様々な要因ももちろん関わってきますが、この原則を心得ていれば臨機応変に対応でき、ピンポイントが見つけやすい。またバリエーションを組むことも容易となり、それほど大きな間違いを犯さずに済みます。人間の顔は現在70億通りあるのだそうですが、この原則は70億通りを束ねても通用・流用できるものだとぼくは思っています。

 多くの名作といわれるポートレートを見ると、そのカメラの位置(レンズの高さ)の巧みさに一定の法則のようなものが窺え、そこに大きな秘訣が隠されているようにも思えます。また、相手との物理的・心理的な距離感をどのように保ち、掌握するのかのヒントも得られるように思えます。

 ぼくの石膏ビーナスは多くのものを学ばせてくれましたが、病院の屋上で秋の長雨の中(台風も来ました)放置しておいたので、長年の垢はすっかり洗い流され石膏本来の白さを取り戻しましたが、同時に端麗な顔立ちも溶けてしまい、のっぺらぼうの妖怪に変化してしまいました。石膏は水で溶けるというのもついでながらの小さな発見でした。
(文:亀山哲郎)

2012/07/27(金)
第111回:男子の通過儀式
 ぼくは“新しいもの好き”のくせに、一方では年相応に(64歳)保守的な面があると自覚しています。保守的とは政治的な意味での保守ではありません。
 そして年相応以上に片意地で頑固でもあります。若い人との私的なお付き合いも年のわりには多い方なのでしょうが、自分の生活に必要と思われること、つまり現在という時を得て人並みに社会生活を営んでいくうえでの必要最小限の事柄しか彼らの“真似”をすることはありません。カッコをつけて言えば彼らの好むものや世情には“決して迎合などしない”と決めています。古いタイプの人間と言われてしまえばそれまでですが、いつの時代でも時流に逆らえば人はそう言いたがるものです。年相応に生きるのが最も楽に生きられると言うことに遅まきながら気がつきました。

 ぼくの所属する写真倶楽部には20代の若者が4人もいて、うち一人は弱冠20歳の学生さんですが、彼らがうるさい白髪のおっさんの言うことを素直に聞くふりをしているのは、ぼくが写真について彼らより少しは理解と知識を持っているからという理由だけであろうと思っています。これでぼくの撮る写真さえ良ければ説得力が増し万全の構えとなるのですが、なかなかそう都合良くもいかず、内心では「あのおっさん、おかしな写真ばかり撮ってくる」と言いたいに違いありません。

 人に何かを伝え教えていくのは並大抵のことではないと重々承知のことだったのですが、後進の指導と称して写真倶楽部を催したり、出版社の原稿依頼に気軽に応じたり(なぜか写真についてではなく)、講演依頼をされたり(これもなぜか写真についてではなく)、またあるいはこの「よもやま話」をお引き受けしたのは、自分が長年写真に携わりプロとしてこの世界で飯を食ってきたというたった1つの矜恃に寄りかかっているからなのだと思います。無念ながらも、それしか頼りにするものがない。それにすがりつくので、どうしても剛愎稜々(ごうふくりょうりょう)たるを得ません。実に情けない話です。

 若い人たちと接していると自然に「自分がこの年代の時はどうであったのだろうか」と振り返ることがしばしばあります。世間では若い人たちについて様々なことが言われますが(いつの時代でも同様)、ぼくなりに乱雑な分析を試みると、ほとんどぼくの青年期と大差がないように思われます。もしどこかに差があるとすれば、それは彼ら自身ではなく、周囲の大人たちであることに思いが至ります。ぼくらの青年期には範を垂れるべき大人たちが今よりは確実に多くいたという感触を得ています。
 心より尊敬できる(昨今は ”リスペクト“ というチャッチィ言葉に置き換えられ、誰もが抵抗もなく無批判に ”リスペクト”を連発し、”尊敬“という本来の意味が変質し、価値が低くなってしまいました。何が ”リスペクト”なもんか! ほらッ、片意地で偏屈なおっさんだと思うでしょ?)良き先輩に恵まれ、今は全員が故人となってしまいましたが、彼らから学び教えられたことは未だにぼくの精神的な大きな核であり、支柱ともなっています。それに引きかえ、ぼくなんぞ若い人と接する時、抽象論ばかりを振り回してその場を取り繕うとしている。こういう大人が一番始末に負えない。“リスペクト”されないのです。でも、年配者の常套句「あのねぇ君、人生ってのはね」というおごり高ぶった科白だけは使わないように心がけていますから、まだ救いがあるのです(と断定的に)。

 前述したうちの20代の若い衆に1人男子がいるのですが、つい2.3ヶ月前に「ぼくはライカを買おうと思っているのです」と、酒席ではありますがぼくに薄ら笑いを向けながら言い放ったのです。ぼくはまったく躊躇することなく「そうか、絶対買え」と返答しました。
 かつて編集時代にぼくは男子なら誰でもが一種の夢を託す車やオーディオ、カメラや文房具などに半端でない凝り方をしたものです。車のチューン・アップのためにわざわざドイツのバイエルンに赴いたり、パイプを作るために世界的な名工を訪ねてデンマークにも足を運びました。このようなものに取り憑かれたのは物欲などとは無縁の「物の美しさ」、「性能の素晴らしさ」にぞっこん惚れ込み、打ちのめされてしまったからです。同時に良寛さんの書や唐津焼にも心酔した気の多い青年時代でした。
 20代の若造(ぼくのこと)が銀座にあるライカ特約店に足しげく通い、大の大人たちに割り込み、入り浸っていたのはライカというカメラの美しさと人間工学を巧みに利し機能的な美にまで押し上げた完成度の高さであったからでした。もちろん、レンズの描写性能はいうまでもありません。もう今から40年も昔のことです。そのようなものを身近に体験し、苦労して超一流のものを自分の手にすることはある種の精神生活を保障してくれるものだと、当時の大人たちはぼくに教えてくれたのでした。これを以(もっ)てして、男子の通過儀式だとぼくは考えています。

 そんなわけで「ライカを買う」との宣言にぼくは二つ返事をしたのです。車に凝ることによる精神生活にはぼくは極めて懐疑的ですが(その設計やデザインはまた別の事柄。高価な車を乗り回すより、その分良い本をたくさん読んだ方がはるかに素晴らしいということ)、ライカを手にすることの歓びは写真の上達に間違いなく寄与するからです。とのぼくの主張が正しいかどうかを、彼を実験材料とし推し測ってみたいと企んでいます。100万円以上という非常に高価な物品を彼にそそのかし、自己の考えに合致するかどうかを楽しみとするぼくは果たして範を垂れない大人なのでしょうか?
(文:亀山哲郎)

2012/07/20(金)
第110回:ある日の舞台撮影
 ISO感度について3回に分けてお話ししました。もちろん、これで十分というわけではありませんが、ぼくが最もお伝えしたいことは、できるだけその撮影条件に合った可能な限りの低い感度を使いましょうということです。感度を低くすればどうしても手ブレの恐れや被写界深度の幅に制限が生じますが、その兼ね合いを見計らいながら撮影していくうちに自然と写真的な理論への理解が深まり、また腕も上がっていくものだと確信しています。
 高感度に甘んじているうちは、なかなか進歩が覚束ないばかりか美しい写真も得られません。

 今日は、過日写真の好きな友人に依頼された舞台撮影のお話しをいたしましょう。ワインポイントレッスンというわけではありませんので、気楽に読み流していただければと思います。

 今回の撮影は、言ってみれば仕事と愉しさが相半ば、公私混同?といったところです。普段、舞台撮影の仕事はそれほど多くはないのですが、自然光を利用しての撮影では、舞台撮影はかなり難しいものの部類に属します。いくらいい加減な友人の依頼でも、ぼくは一応プロの写真屋ですからいい加減な撮影ができないところが辛いのです。この友人にだけは「普段、偉らそうなことばかり言ってるくせに、なんだいこれは」とは言わせたくないのです。
 今まで何千という場数を踏んできても、舞台撮影は頭を抱え込む場面に多く出くわします。もしかしたら、彼はぼくを試しているのかも知れないと思うとさらに気が抜けない。どうしても本気で撮らざるを得ないのですが、舞台で神妙に歌う彼の姿を見ていると腰に力が入らず、ぼくは本当に弱りました。

 クラシック音楽のように照明が一定のものはまだしも、光質や色温度が常に変化する今回のような舞台は、フィルムなら「てんやわんや」であり、デジタルなら後処理の難しさに悩まされます。あんなこんなの悩みをたくさん抱え込みながらの撮影でした。

 フィルム(ポジフィルム)で撮っていた頃のことを思い出すと、デジタル撮影はなんとお手軽で気楽なことか。フィルム撮影の煩雑さから解放され、ぼくはその恩恵に涙が出そうでした(ちょっと大袈裟)。
 フィルム時代はカメラを3台ほど首にかけ、リハーサルから本番まで駆け回らなければなりませんでした。タングステン用、デイライト用、そして増感用のフィルムをそれぞれのカメラに装填し、何種類かのフィルターを用意して、その都度使い分けるという面倒なことを強いられたものです。でないとお金をもらえない。飯食うために撮影するのですから仕方がありませんけれど。
 撮影媒体はすべて雑誌やポスターといった印刷物でしたから、色温度や露出に敏感に反応してしまうポジフィルムを使わざるを得ませんでした。舞台撮影は、商品カタログや美術工芸品などのように厳密な色温度やフィルター調整が求められるわけではありませんが、それでも厄介なことに変わりはありません。そんなことを思い出しながらのデジタル撮影でした。カメラ1台ですべてが賄えるデジタルのありがたさに号泣(大袈裟なんだってば)。

 舞台撮影の難敵はまだあります。とにかく暗い。写真の歴史は明るさとの戦いであったと言っても過言ではありません。これはフィルムでもデジタルでも同様ですが、しかし、1枚ごとにISO感度を変えることのできるデジタルの機能はやはり素晴らしいものです。その時の常用感度はISO400〜800でしたが、それは手ブレを防止することのできるシャッタースピードを基準にしています。それ以下のISO感度を使用し手ブレを起こさない自信があったとしても、ぎりぎりのスローシャッターとなりますから、逆に被写体ブレを起こしてしまいます。動きの激しいロックコンサートなどなら、それもかえって面白味が出るのですが、ミュージカルのようなものにはあまり相応しいものではありませんね。

 しかし、後処理を考えると喜んでばかりはいられません。光源に合わせたホワイトバランスをしっかり取ればそれでいいというものではなく、その場の雰囲気を醸せるような色調整をする必要があります。照明係の人たちは舞台の状況に応じて照明効果を考慮しているのですから、タングステン光はタングステンらしく(しかし、真っ赤になってはだめ)、色セロファンを被せたスポットライトもそれらしく表現しなければ、それぞれを演じる人たちの役柄や情景を写し撮ることも適いません。微調整を繰り返し、色調をかなりのところまで追い込んでRaw現像をし、それを翌日必ず確認するようにしています。長時間、モニターを睨み続けた視覚は極めて怪しく危険そのものですから、しばらく時間をおいての再確認が必須となります。

 今回の撮影は媒体が印刷物ではなく、DVDに収めたデータそのものが出演者や関係者に配布されるようです。ほとんどがキャリブレーションなどされていない滅茶苦茶なモニターで鑑賞されてしまうのでしょうから、友人に「これがプロの仕事だ、どうよ!」と見得(みえ)を切ったものの、さぁ〜て・・・。
(文:亀山哲郎)

2012/07/13(金)
第109回:ISO感度について(3)
 デジタルカメラの諸機能は日進月歩の感ありですが、メーカーが力を注ぎ、そしてユーザーが最も望むことのひとつはやはり解像度を含めた画質であろうと思います。
 扱いやすさ、多機能、そしてデザインなど、どれもカメラ(商品)を選択する上での大切な要素となり得るものですが、自分がどれを最優先するのか、どの部分に大きな魅力を感じているか、そしてどのような写真を撮るのか、それらを総合的に勘案しながらカメラを選ぶことになります。そこに懐具合が重なってきますから、複雑な様相と悲哀が相まみれ、それはそれは大変なことです。

 画質に対して気を払わない人にいくら画質の良いカメラを勧めても意味がありません。人それぞれにカメラや写真に求める事柄が異なるので、選択肢があり余り、かえって選ぶことの困難さを招いています。世の中にこれほど多種多様かつ多機能なカメラが果たして必要なのであろうかと(いや、必要ない!)、ぼくのような単純かつ単機能人間は思わず考え込んでしまいます。迷いばかりが増幅し、選択の自由という趣味に於ける大きな愉しみが奪われているような気がしてなりません。

 ぼくは職業写真屋ですから仕方がないのですが、最優先事項はどうしても画質と堅牢さとなり、ほとんど迷いの生じる隙がありません。ひたすら画質と堅牢さ一辺倒。それさえ適えばあとはどうでもいいと思うくらいです。選択の愉しみはありませんが実にお気楽なものです。
 私的写真用カメラは、もう少し色気を出して、選択肢を広げることができます。画質とデザイン双方を天秤にかけながらというところでしょうか。撮る写真の性質上、相手に威圧感を与えないことも大切な要素に含まれています。

 さて、こんな話をしているとテーマが一向に進みませんので、ISO感度の違いによるノイズの変化(増減)作例を示します。
 作例に使用したカメラは35mmフルサイズのキヤノンEOS-1DsIIIで発売が2007年ですから、5年前の製品です。つい最近モデルチェンジをしましたが、ぼくは仕事用カメラとしてその性能には十分に満足しており新しいものに買い換える予定はありません。5年前のものとはいえメーカーの旗艦機ですから基本がしっかり作られており、ノイズに関しても最近のカメラと比較してまったく遜色がありません。最高感度は1600までですが、本来スタジオ用のカメラですから必要にして十分なのです。
 また、ノイズは受光サイズの大きさにより異なります。もちろんフルサイズのものが最も有利で、小さいものほどノイズが出やすい性質を持っています。

 前回、「新しいカメラについては、おおよそのところせいぜい条件付きでISO800まで」と記しました。“条件”とは、Rawデータで撮影した場合、良い「ノイズリダクション」機能を備えた現像ソフトを使用することにあります。最近のソフトはアルゴリズム(計算方法)が良くなり、かなり安心して使えますが、ノイズを取り除く加減に比例して、どうしても解像感や尖鋭度の損失が起こります。作例ではノイズリダクションはオフにしてありますが、「07. ISO1600ノイズリダクション」はオンにして、どのくらいノイズが減るかご参照のほどを。
 そしてもうひとつ付け加えておかなければならないことは、ISO800までという基準は引き伸ばし倍率によっても異なってきます。これはあくまで視覚上の問題ですが、大きく引き伸ばせばノイズも当然目につきやすくなります。ここでは、ぼくが一般的と考えるA4サイズに80%くらいの印字面積を基準として考えています。

 Jpegでの撮影はカメラ内にノイズリダクションの設定があります。どの程度ノイズを軽減するかの段階設定がありますから、実写テストをして確かめるしか方法がありません。ぼくはJpeg撮影結果に関してはとても冷ややかな態度です。たった3行で済ませちゃった。その恐さと不便さを知っていますから、撮影時にJpegは使わないのです。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/109.html

★「01」。我が家の2階への吹き抜けです。3灯のタングステン定常光ですが、漆喰壁でホワイトバランスを取ってあります。ノイズの状態が分かりやすいように拡大率300%にした部分が赤線四角です。Rawで撮影。

★「02」。ISO100。このカメラの最低感度。ノイズは見られません。
★「03」。ISO200。同様にノイズらしきものは見られません。
★「04」。ISO400。ノイズはまだ現れていませんが、若干画質が粗くなっています。
★「05」。ISO800。本来は白一色の漆喰壁に、赤や緑のノイズが出ています。
★「06」。ISO1600。このカメラの最高感度。ノイズがかなり出ています。
★「07. ISO1600ノイズリダクション」は、「06」のRawデータをDxO社のノイズリダクション機能(使用カメラに応じたノイズ軽減を自動的に演算してくれる)を使用して現像したものです。確実にノイズが軽減されていることが分かりますが、絨毯を見ると尖鋭度や彩度がやや失われています。

 ノイズは今回扱った色ノイズの他にも様々なものがあります。感度を上げて使うほどにデメリットも増していくことを知っていただければと思います。
(文:亀山哲郎)

2012/07/06(金)
第108回:ISO感度について(2)
 ISO感度についてのお話を続ける前に、読者の方からご質問があり、誤解を招くといけませんので、まずそれについてもう一度要点を述べておきます。

 その方のご質問は「フィルムカメラやそれに付随するレンズなどを処分して新しいデジタル一眼レフカメラを買い足すつもりでいたのだが、最新の『よもやま話』(第107回)を読んでフィルムの方が良いと書いてあったので、フィルムカメラの処分を躊躇してしまった」という訴えかけでした。

 ぼくが前回お話ししたことはモノクロフィルムで高感度撮影し(例えばISO1600や3200などで)増感現像をすると粒状性が極端に粗くなり、それを表現手法のひとつとして意図的に使用することができることです。また感度を上げれば上げるほど、その感度に応じた現像をすることにより粒状性は比例的に粗くなり、またコントラストも高くなっていきます。フィルムはそのような性質を有し、敢えてそれを利用するのです。フィルムをご自身で現像したことのある方なら既にご存じでしょう。
 しかしデジタルでは、現在のところ残念ながら高感度使用はノイズが多くなり、端的な画質劣化につながります。フィルムのような表現手法は取れません。ただ汚らしいだけでぼくはとても高感度を使う勇気がなく、それが文末の「70億人すべてがそう感じるかどうかは分かりませんけれど」につながっていきます。
 ただ、一概に粗粒子現像といってもきれいな粒状効果を得るには相当な試行錯誤が要求されます。被写体の輝度域、フィルムおよび使用ISO感度、現像液の種類や現像時間などなど、それに適した処方データを作らなければ良い効果が得られるものではありません。データを集積するには、根っからの写真好きでなければとても根が続きません。ただ粒子を粗くすればいいという単純なものではありませんから。何よりも絵柄とのマッチングが大切。

 上記した点に関しての利用価値としてはフィルムに分があると申し上げているのであって、イコール「だからフィルムの方が良い」と言っているのではありません。ぼくは「写真はフィルムでもデジタルでもどちらでもいい」と、この「よもやま話」で何度か述べてきました。肝心なことはその伝にあるのではなく、問うべきことは写真のクオリティです。フィルムかデジかの差で写真のクオリティが左右されることなど決してないと断言します。

 ぼくは現在デジタル一辺倒ですが、ぼくの倶楽部でフィルムを愛用している人たちに「フィルムを止めてデジにしなさい」と言ったことは一度もありません。写真本来の趣旨に於ける、取るに足りないことを(非科学的なことをも含めて)論旨を違えて針小棒大に論じたがる人々が後を絶たず、未だにたくさんいるという現実に、ただただ瞠目するばかりです。
 名演奏と謳われるものは、古色蒼然としたSPレコードであれ、LPであれ、CDであれ、再生装置をも含め、どのようなものからでも感動が伝わってきます。媒体により曲や演奏の評価が左右されるものでないのとまったく同じことです。

 デジタルの高感度特性の進歩は著しいものがあるように感じます。ただぼくは画質を優先するのであれば、そのカメラの最低感度を使うことを強くお勧めします。その感度がカメラの性能を最も十全に引き出すことに、体験上何の疑いも持っていません。

 感度拡張機能については、どうぞご用心! 例えばあなたのカメラの最低感度がISO100だとしましょう。拡張機能として、最低感度の半分であるISO50が設定できるカメラが多々ありますが、フィルムと同じような考え方(感度の低いフィルムは粒状が細かくなりグラデーションがより滑らかになる)をしてしまうと思わぬ災難が降りかかってきます。ぼくの経験によれば、ほとんどのカメラでダイナミックレンジが狭くなります。ものによっては、すぐに白飛びを起こしてしまいます。コントラストが変化したり、色再現にも影響を与えます。
 しかし、一般的には感度拡張機能というと大半の人は最高感度についてどうしても語りたいようです。ISO3200だとか6400だとか、あろうことか12800だとか。人はなんとか楽をして良いものを手に入れたいとの本能に勝ちがたいものです。ぼくなど、そのような高感度にはただ怖気をふるうばかりです。そんなもの、恐ろしくてとても使う気になれませんし、試したこともありませんから語る資格がないのですが、緊急時の避難場所として考えた方が賢明というものです。“賢明”というより写真人としての“見識”としておきます。そのような ”超高感度” 使用は写真が、がさつなものになるだけですから。

 新しいカメラについては、おおよそのところせいぜい条件付きでISO800までとぼくは考えており(条件は次号で)、それ以上必要であれば(手持ち撮影)感度を上げずに三脚を使用するか、手ブレを起こさぬ訓練を積んで腕を上げようとするのが建設的向上心というもの。さもなくば画質劣化を覚悟し戦々恐々としながら撮るか、潔く諦めるか、ふてくされるか、やけを起こすか、まぁそんなところかなと思っています。どこまでを許容範囲とするかは個人の考え方や技量、そして撮るものの対象によって異なってくるでしょうが、楽をして良い写真は撮れないということは心すべきことであろうと思います。

 今回もとっくに用意しておいたISO感度によるノイズ変化の作例を添付するに至りませんでした。気ままに過ぎてなかなか予定通りいきません。どうしてぼくはこんなにおしゃべりなのか?
(文:亀山哲郎)

2012/06/29(金)
第107回:ISO感度について(1)
 根が怠け者で、加え自己弁護と言いますか、すぐに言い訳や言い逃れにすがりつくぼくのような人間が、こうして週一度定期的に生真面目に原稿を書き、まるで几帳面な人間を装っている、あるいはすでにそう演じつつあるということはまさに奇跡的なことだと自画自賛せざるを得ません。しかし、誰もそれを称えてくれない。“予定・計画”という窮屈な語彙に束縛されることなく気の趣くままに生きることを理想としているぼくは、自他共に認める“先送り人間”なのです。要するにだらしがない。それを自堕落とも言います。

 世界人口が70億を突破したそうです。70億という数字がどれほどのものかさっぱり見当がつきませんが、それはつまり70億の個性があるということになります。70億の人間がいて、ぼくは一体何番目に怠惰な人間なのであろうかなんてことをよく考えます。
 そして70億に、同じ顔の人が一人もいないという事実もまさに驚嘆すべき事です。ましてや人類(いわゆる“ホモ・サピエンス”)がこの地球に現れてからの、のべ人数となると専門家でないぼくでも、都合何兆人にのぼるのではないかと想像します。何兆種類の顔と頭脳が存在したわけです。
 人間の顔を形作る部分の大きさも、その位置関係もそれぞれにそれほど大差があるわけではありません。「あの人の目は大きい」とか「口が大きい」と言っても、幅、高さに於いて2cmも変わらない。両目の間隔が10cmも離れているなんてこともあり得ないことで、それぞれの部位の大きさや配置がたったのミリ単位異なるだけで、「あっ、誰々さんだ」と何兆もの組み合わせを一瞬に識別し認識できる人間の能力にもやはり驚嘆すべきものがあります。
 一方で、いつかも述べたことがありますが、「視覚ほどあてにならないものもない」のです。ごまかされやすい。人間の光に対する識別能力など無に等しいとぼくは思っています。物を素早く見たり、観察することが商売のカメラマンでさえ、光を読み取る能力は(コントラストや輝度域)あっても、視認能力は通常の人たちとさして変わりがなかろうと思います。もしかしたら集中力の違いだけかも知れない。それは訓練で養えるものですが、だとしてもそれが即ち良い写真につながるというわけではありません。

 どんなに優れたコンピューターが開発されたとしても人間を凌駕する写真など決して撮れないだろうと思います。将来のことは分かりませんが、そう思いたいですね。チェスや将棋といったものは数学や物理の解析機能が大きく作用する面があるのでコンピューターが勝利を収めることも可能になっていますが、無機物で作られたコンピューターが感情や思想から形成される写真というものを作れるわけがないとぼくは思っています。有機物からなる人間の脳に、無機物のコンピューターが敵うことはないでしょう。映画『2001年宇宙の旅』の人工知能HAL (ハル)の様なものが出現してしまったら、人類の精神的終焉であろうとも思います。でも、いつか人類は分別なくそのようなものを作ってしまうのでしょう。核という誤った発明をし、それを持て余し困窮している現状と酷似したものになってしまうのでしょう。もはや「マグネシウム閃光粉」を懐かしんでいる場合ではなくなりますね。

 で、このような戯言を書き続けているといつまで経っても写真の話が出てきません。結論としては、心理学や生態学で個人を70億の民として十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)に扱っていただきたくないということを主張したかったのですが、そこに至る話を端折って、写真の話をどこかにねじ込まなければならないところが、「よもやま話」の苦しくも辛いところなのです。

 今のカメラは(いきなり来ました)撮影者の英知を無視したところで成り立つ一種の不完全なコンピューターです。不完全な部分を撮影者の知恵で補わなければならない部分がまだまだ残されているのが救いでもあります。知恵の見せどころがあるからです。例えばISO感度の選択もそのひとつ。

 フィルムは1本使い切るまで同じ感度で撮らなければなりませんが、デジタルカメラ最大の見どころは1枚ごとに必要に応じてISO感度を任意に変えられることにあります。初めてデジカメを使ったときのこのコーフンは未だによく覚えています。なんてありがたい機能だろうと感心ばかりしていました。感心はしましたが、直感的に「フィルムと同じように感度を上げれば、その性質はデジでも二律背反であるに違いない」ということでした。便利さと引き替えに画質が悪くなるということです。

 フィルムは感度を上げて現像するとコントラストが高くなり、粒子も粗くなりますが、それを逆手に取り一種の表現手法として用いることが可能でした。グラーデーションも滑らかではなくなりますが、粗粒子表現としてうまく使えばそれはそれで味のあるものでした。ぼくもしばしばモノクロフィルムをそのように使ったものです。

 デジの感度テストを繰り返しましたが案の定、感度を上げれば上げるほど画像のざらつき、つまりノイズが目立ってきます。デジはフィルムと異なり、味のあるものではありません。このノイズを偽色とも言いますが、撮像素子(CCD)が光を受け取り電気信号に変換する過程で生じるものです。本来ないはずの赤や緑などの粒々や縞が発生するのです。とても醜く、汚くて気味の悪いものです。在るものが省略されて消失するのは許せても、無に汚いものが付着するのは到底許し難い。70億人すべてがそう感じるかどうかは分かりませんけれど。
(文:亀山哲郎)

2012/06/22(金)
第106回:ちょっと追補
 ストロボについてはちょっと(どころか大いに)物足りないのですが、取り敢えず2回で終了いたします。前回触れたバウンス撮影などについて書きたいのは山々なのですが、ぼくのバウンスについてのデータは光量や光質を精密にコントロールできるスタジオ用大型ストロボのものであり、また一口にバウンスと言っても様々な条件によりあまりにも多岐に亘ってしまうため、かえって混乱を招いてしまう恐れがあります。

 カメラに内蔵されているストロボ以外に、発光面を回転させたり、上下に振ることのできるクリップオンタイプのストロボはバウンス撮影ができとても有用なものですから、持っていて無駄になるということはありません。いざという時の保険と考えればいいでしょう。
 ストロボに同梱されている取扱説明書にはバウンス撮影について書かれてありますが、ひとつ留意していただきたいことはストロボ光を反射させる面が白であることです。もちろん世の中には純粋な白は存在しませんが、できるだけ白に近い面に反射させることが最も光の効率が良く、結果として色調もすっきりしたものになります。反射面の色がつまりは疑似発光体となりますから、反射面に色がついていると、道理としてその色が被写体に被ってきます。あまり極端な色被りでなければ、Rawで撮影し、現像時に色温度や色相を調整しながらそれを取り除くのが一番手っ取り早い方法です。デジタルという文明の利器をぜひ使いこなしてください。

 よほど古い建物でない限り、最近は事務所など禁煙ルームが大半ですから、パーチクルボードの白天井がタバコなどの汚れで黄ばんでいることはほとんどないようです。そのような条件では安心してバウンスすることができますが、和室や古い日本家屋となるとバウンスしても良い結果は得られません。天井に大きな発泡スチロールや白の背景紙を貼ったりするのですが、商売人でもない限りそんなことはあまり現実的なことではありませんね。
 また、体育館やホールなどあまりに天井が高い場合には、かなりGNの大きな(50〜60くらいの)ストロボでもほとんど効果は望めません。そのような場合には一度試写をしてみて、カメラのモニターでストロボの有り無しを比べてみれば、ストロボが効いているのかそうでないかがその場で判明します。これもデジタルにしかできぬ技です。

 「私はデジタルでなくフィルム使用なのだけれど、どうすればいい?」とお考えの方もきっとおられるに違いありません。フィルムについての保証は、入射光方式の単体露出計を使うしかありません。定常光とストロボ光の両方を計れる機能の付いたものをです。ストロボの自動調光が効く範囲であればいいのですが(調光OKのサインが出ます)、そうでない場合は、ストロボをフル発光させ、定常光に対してストロボ光が1絞り半マイナスが限度と考えてください。ストロボ光の割合がそれ以下ですとストロボの効用はほとんど認められません。安全を見計らって1絞りマイナス(定常光の半分)までとした方がいいでしょう。
 ストロボのフル発光量は決まっているわけですから、救済の方法としてはシャッター速度を遅くし定常光の割合を増やしてやるしかありません。
 モノクロフィルムやポジカラーフィルムであれば、ISO感度を上げて(増感)撮影し(増感の詳しい定義は省きます)、現像を依頼する際に「このフィルムをISOxxxで撮りました」と伝えればそのように現像してもらえます。ただ現在はプロラボに持ち込まないとできないのかな? いずれにしても感度と画質は二律背反の関係にあり、増感現像の程度にもよりますが、粒状性が悪くなったり、カラーバランスが崩れたりしてしまいます。
 
 ストロボの効果が得られなければ、フィルムでもデジタルでも動くものについてはISO感度を上げるしか方法がありません。画質を犠牲にして記録を優先するかどうかという悩ましい選択を迫られますが、どこかで妥協点を図らなければ撮影が進みませんから、デジタルであれば自分のカメラの性能をしっかり把握しておくことが必要です。“備えあれば憂いなし”というところでしょうか。

 昨今のデジタルカメラはかなりの高感度撮影ができるようになりました。フィルム時代に常用していたカラーポジフィルム(ぼくはネガカラーというものをほとんど使ったことがないのです)は大半がISO25〜64のものでしたから、今思うと隔世の感ありというところです。いろいろなことが便利で簡便になっていくのは世の習いなのでしょうけれど、ぼくは負け惜しみではなく「なぜ写真は写るのか」、「どうすれば写せるのか」のメカニズムを知る必要があった時代を経てきてよかったのだと思っています。不便なことを味わっているから、便利なことをありがたく思えるのでしょうね。そして、今の若い人たちが歳を取ってさらに世の中が便利になり、やはりぼくと同じような感慨を抱くのでしょう。多分、いつの時代も「昔は不便だった」のです。
 ぼくが屋内で初めて親父にシャッターを押させてもらったのは、小学2年生の時で、なんと「マグネシウム閃光粉」でした。金属の板に撒いたマグネシウム粉がバフッと音を立てて閃光を放ち、その煙が天井をモウモウと這っていたものです。やっぱり昔は何をするにも不便だったけれど、風流というか味わいというものがありましたね。
(文:亀山哲郎)

2012/06/15(金)
第105回:ストロボについて(2)
 普段仕事で使用するデジタル一眼レフには内蔵ストロボが付属していませんので、内蔵ストロボの付いた私的写真用のカメラを使って作例を作ってみました。本当に初めて使ってみました。

 ストロボの光量(光の強さ)は通常“ガイドナンバー(GN)”という数値で表されます。GNとはISO感度100の時に、ストロボから1mの被写体が適正露出になるf値を指します。絞りがf 10であればGNは10と表示されます。
 今回使用したコンパクトカメラの取扱説明書にはGNが記されていませんが、「フラッシュの調光範囲(光の届く範囲)」という項目をめくると、ISO感度、絞り値、調光範囲の一覧表が記されています。例えばISO 400、絞り値f 2 で0.5〜4.5mとなっています。GNを求める計算式は割愛しますが、この内蔵ストロボのGNは約4.5だということが分かります。0.5mという表示は、それより距離の短い被写体には自動調光が効かないか、ケラレが生じてメーカーは推奨しない、もしくは保証しないという意味です。
 各社の一眼レフ内蔵ストロボを調べてみるとGNは12前後というところでしょうか。いずれにしても人工光としてはささやかなものですが、記録を重用したり、夜景を背景にした人物撮影(スローシンクロ)を多く撮る人には有用なものであるに違いありません。内蔵型ストロボは直射式ですので、背景の状況により醜い陰が生じる場合が多々あり、それを避けたい人はGNの大きい外付けタイプかクリップオンタイプ(発光面を回転させたり、上下に振れるものに限り)を使用して光をバウンス(白い天井や壁に反射させること)させ、柔らかい間接光として用いればよいのです。そのためにはGN40以上は欲しいところです。

 読者諸兄の90%近くはカメラ内蔵のストロボをお使いだと思いますので、それを念頭に置いて簡単な一例を示します。

 作例モデルは陶器で、逆光の窓辺に置いてみました。ぼくが30数年前に作ったものです。亡父は陶芸が好きで、家には重油窯やろくろがあり、見よう見まねで作ったものです。できるだけ人肌の明度に近いものを選びました。本来ならば人間の顔を使いたいのですが、Webということもありこの不細工な陶器でご勘弁ください。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/105.html

★「01.N」は、カメラの指示通り露出ノーマル、f 4 で撮っています。Raw現像はデフォルトで、ホワイトバランスも撮影時設定のままです。カメラの露出計が外部の明るさに反応して陶器は露出不足となりディテールはほとんど失われています。シルエットに近く、トーンカーブを使用し最大限に明るくしても、外が明るくなるばかりで陶器の質感や模様は救いようがありません。

★「02.N+1」は、露出補正を+1にしてみました。これでも明らかに露出不足で、陶器の模様がうっすらと表現されるに留まっています。

★「03.N+2」は、さらに露出をオーバーにしました。補正+2です。模様が現れてきましたが、もしこれが顔だとしたらやはり露出不足です。外は6月にも関わらずもはや雪景色のようになっています。

★「04.N+3」。このカメラの露出補正は+2までしかありませんので(ほとんどのカメラが上下2段です)、マニュアルを使い約+3にしてみました。陶器の明度だけ見れば、その平均値はほぼ露出適正値の18%グレー濃度になっていますが、陶器の輪郭のハイエストライトは白飛びぎりぎりで、所々にわずかな色収差が発生しています。窓の左側は完全に白く飛んでしまいました。過剰な光量がカメラ内で乱反射して、全体のコントラストが低くなっています。この現象はどのような優秀なカメラやレンズでも起こります。

★「05.ストロボ」。カメラ内蔵のストロボを使ってみました。露出ノーマル、ストロボの光量を−2/3にしてみました。陶器も外の明度もほぼ適正な露出となっています。備前焼に釉薬をかけて、絵をナイフで引っ掻いて描いたものだとこの写真で初めて分かりますが、ストロボ光がほぼ正面から当たっているので、陶器の真ん中にいやなハイライトが入ってしまいました。後ろの磨りガラスにもストロボの光が写り込みテカっています。磨りガラスではなく普通のガラスであればストロボの角度によりさらにはっきり写り込むでしょう。そして、実物はこのような色ではありません。撮影時設定では色温度や色相が合っていないのです。

 ストロボ光はほとんどの場合、色温度計で測定してみると太陽光の標準とされる5500°K(ケルビン)より高いのです。このカメラの色温度を測ってみたら約6250°Kで、したがって青味が強くなっています。今はデジタル全盛ですからRawで撮影し、現像時にホワイトバランスを上手に取ればいいのですが、とは言ってもタングステン光下などでストロボを使うと2種のかなり色温度の異なる混合光となり、これは難儀です。これを解消するには色温度変換用のゼラチンフィルター(アンバー系)を発光面に貼るしか手がありません。

★「06.完成」は、「05.ストロボ」のRawデータを現像時にホワイトバランスと色相を調整し、肉眼で見たものに近くなるように調整したものです。

 内蔵ストロボの効果についての一面をお分かりいただければと思います。初めて使ったくせに、案外役に立つかも・・・。
(文:亀山哲郎)

2012/06/08(金)
第104回:ストロボについて(1)
 ある合唱団のメンバーでもあり、そのお手伝いをしている友人の建築家が先週こんな事を訊ねてきました。「教室や体育館での練習風景を撮らなければならないのだが、窓から差し込む光が逆光となり、“そのまま”撮ると顔が暗くなってしまうのだけれど、そういう場合はどうすればいいのか?」と。“そのまま”とはきっとカメラの示す露出通りに、という意味なのでしょう。

 彼の趣味は写真とボランティアで、北浦和公園を“うちの庭”と称して憚らぬちょっと変わった人なのですが、彼の写真は職業柄か建築物が多く、「オレならこの建物はこう作る」という意気込みのようなものが写真からひしひしと伝わってきて、ぼくなどいつも感心させられてしまうのです。ぼくの物差しに従えば、彼の写真の質は、技術的な欠陥はあれどとても良い。月に一度、彼の写真を見せてもらうのですが、ぼくは適宜無断で彼からその良さをこっそり盗んでおります。彼の物作り屋としてのエゴが写真の隅々まで十分にはびこっており、時にははびこり過ぎて、それ故に特有な視点によるところの独自の雰囲気とか空気感を漂わせているのです。コマーシャルの建築写真とはひと味もふた味も異なり、しばしおどろおどろしく、かつエキセントリックなものもあるのですが、彼はぼくの間尺に合うように心中立てをし、寸止めの写真を抜かりなく持ってくるのです。往々にして感覚の鋭敏な人を野放しにしておくと暴走の嫌いがありますから、月一度の定期点検がどうしても欠かせません。

 そんな彼が合唱団の練習風景を撮るのだそうで、彼の質問にぼくは「記録写真として撮るのか、あるいは芸術的付加価値をつけて撮るのかによって撮影方法は異なる」と、正直な所見を述べました。
 簡略化して言うと、記録写真としてしっかり撮ろうとする場合はストロボを使えば無難だし、その場の空気感を捉えたいのであればストロボを使わず部屋の光量に合わせた露出をマニュアル露光に固定し(部屋から見える窓の外は真っ白に飛んでしまう恐れがありますが)、撮るのが一番。画面に明るい窓などが入っても、露出が固定されているので変化はなく、顔が真っ黒に(シルエット)なったりせずに済みます。ただ、室内光というのは概して光量が低く、手ブレに留意しなければなりません。ISO感度をやたらに上げてしまうと、画質の劣化を否応なく招きますから、手ブレを防ぐシャッタースピードとISO感度の兼ね合いを程よいところで取る必要があります。そのためにはカメラの性能や機能を熟知していなければならず、このカメラはタングステン光下ではISO感度をどのくらいまで上げると、ノイズや偽色が発生して汚らしく見えてしまうかといったようなことをです。ノイズや偽色などばかりでなく、ISO感度をやたらに上げると発色やコントラスト(ダイナミックレンジ。再現域)も変化していきます。どのくらいなら許容できるかは、撮影者本人の問題です。楽をしようとすれば失うものも大きいというわけです。写真の世界もすべからく斯くの如しであります。

 デジタルになってからぼくはスタジオ撮影や物撮り以外に、ストロボを使うことはほとんどなくなってしまいました。フィルム時代はストロボ使用時には定常光(自然光)とストロボ光の色温度やバランスを合わすことに苦労しましたが(シンクロ撮影)、デジタルにはホワイトバランスを調整できる機能がありますので、面倒で複雑なフィルターワークを必要とせず、フィルムよりはずっと簡便になりました。

 さて、上記した「記録写真」と「芸術的付加」の双方、もしくは中間を求めるという欲の深い人も世の中にはいます。「日中シンクロ」とか「スローシンクロ」の使用ですが、最小限のことがらについては、次回にお話しいたしましょう。

 まずストロボ撮影のメリット、デメリットを簡単に整理しておくと、ストロボの閃光時間は機種により一概に言えませんが、カメラに付属しているものやカメラのホットシューに接続して使用する外付けタイプ(ここではスタジオ用の大型ストロボについては述べません)などは何千分の1秒という短い時間ですから、手ブレの心配がありません。速い動きのあるものでもしっかり止めて写すことができます。これは大変なメリットです。そしてどんなに暗い場所でも、被写体がストロボ光の届く範囲であれば写すことができます。これも大変ありがたい機能ですが、メリットはそれだけです。ぼくはストロボについてはかなり冷ややかな態度を取る写真屋だと自覚しています。

 ストロボを使うことによるデメリットは撮影場所の空気が一気に飛散してしまうことです。これは主観に委ねる部分もあるでしょうが、ぼくはその場の空気感や音、臭いなどといった佇まいを極力重視したいタイプの撮影者ですから、私的な作品作りにストロボを使うことは今のところ100%ありません。空気感や雰囲気が失われると感じているからです。
 カメラ付属のストロボはレンズの光軸とストロボ発光の位置が近く、発光面積も非常に小さいので光質が硬く、壁をバックにした撮影では汚い陰が生じます。また、光がほぼ正面から当たるために立体感や質感も損なわれ、ベッタリとした表現のなかに、赤目という妖怪まで出現してしまいます。カメラ専用のストロボは被写体に照射される光量を自動的に算出して発光しますから、被写体より前にあるものはより明るく、後ろにあるものは暗く写ります。これではどうしてもきれいな写真にはなり得ませんが、被写体より前に物体がなければ後ろのバックは距離があればあるほど暗くなりますから、それを敢えて利用する方法もあります。

 ストロボについて語ろうとすると1冊の本が書けるくらいですが、そうも言っておれず次回はより有用なストロボの使い方をお話ししましょう。カメラ付属のストロボって使ったことがないので、来週までに勉強いたします、はい。
(文:亀山哲郎)

2012/06/01(金)
第103回:出不精
 今、埼玉県立近代美術館で年一度の県展が催されています。県展に関してぼくはまったくの部外者なのですが、ここ3,4年足を運ぶようになりました。ぼくの写真倶楽部がここでグループ展をするようになってから、県展に関係する方々といろいろな縁ができ、写真や県展について意見交換をするようになったというのがその大きな理由でしょうか。元来、出不精であるぼくが(とにかく都内へ出るのが苦痛)、歳とともにますますその傾向が顕著になりつつあり、しかし美術館は家から歩いて10分足らずのところにありますので、それほど億劫がらずに済むのです。

 昨年の県展を見た感想を、「第54回“県展に行ってきました”」で述べました。それによると、“「第52回:シャープネスの功罪」、「第53回:画像補整の弊害に思うこと」でお話しした事柄に関してだけ申し上げれば、改めて目を覆わんばかりの負の現象が随所に見られたことはとても残念な気がしてなりません。彼らはきっとこの「よもやま話」の読者ではないのでしょうね。”なんてことを書いていますが、「よもやま話」も読者が増えた?せいか、あるいはより良いデジタル処理のノウハウがようやく正しい方向へと定着してきたのか、昨年述べたような弊害が今年はより少なくなり、プリントの質が向上したように思います。プリントに関して、比較的安心して見られるものが多くなったということはとても喜ばしいことです。

 前号でお話しした「光沢紙」での展示が多く、会場のライトが作品のあちこちに反射して自由な角度からの鑑賞が妨げられています。目の高さにある作品も自分の姿とバックが写り込み、展示目的の「光沢紙」の選択には細かい配慮が必要ですね。「超光沢紙」の使用など絶対に禁物です。

 県展の人物スナップ写真に関してのみ感想を述べさせてもらえば、「演出・脚色」の類が多く見られたのはスナップ派のぼくとしては残念です。かつて隆盛を誇った「リアリズム写真」は「絶対非演出の絶対スナップ」と金科玉条のように唱えていました。「演出・脚色」=「好ましからざるもの」という極端な図式をぼくは支持していませんが、しかし展示作品に見られる演出された写真は、写真としてのまとまりはあるものの、どこか緊迫感や緊張感に欠け、精気が乏しいように感じられます。被撮影者の視線や姿・佇まいが撮られることを意識しているので、どことなくそのような演出的臭いが漂ってくるのです。「目は口ほどにものを言い」の喩え通りであります。展示されている写真を見て、その写真が演出されたものであるかどうか100%の確証を得ることはできませんが、それらしい臭いはなんとなく嗅ぎ取れるものです。カメラ目線があろうとなかろうと、一瞬のうちに切り取るのがスナップ写真の粋(すい)だとぼくは思っていますから、多少の構図的な破れやブレが生じても良い写真はやはり良いのです。あまり写真を整えることに意識を集中させず、もっと伸び伸びと自然な様を心がければさらに生き生きとした描写ができるのにと、そんなことを強く感じておりました。

 唐突に話を横道に逸らせますが、上記した如く、ぼくがなぜこれほどまでに出不精になってしまったかというと、雑音と雑光(造語ですいません)と雑踏に耐え難い思いをさせられるからなのです。そういったものに極端に弱いのです。喫茶店や居酒屋などで雑音が多いと難聴ではないにも関わらず相手の話がほとんど聞き取れなくなってしまうのです。そういう場所は公私ともに会話を目的に行くところですから、ぼくは聾唖のようになってしまいます。何度も相手に聞き返すわけにもいかず、したがってとんちんかんな生返事をしてお茶を濁すこと多々あり、この生返事というものはひどく精神に負担をかけます。
 聴きたくもない時に聴く音楽もただの雑音に過ぎません。大いなる雑音です。それが喩えバッハであってでもです。音楽を聴きながら何かをするという芸当がぼくにはどうしてもできません。脳を2つに分けて何かをできる人をぼくは羨ましいと思うことがあります。「ながら族」にはどうしてもなり得ません。
 雑光は気が散っていけない。余分な光はただ眩しく目がチカチカし、ひどく集中力が散漫となり、やはりぐったりくたびれてしまいます。どうしても集中力を保つことができません。
 雑踏は、自分のペースで歩けないことと他人と体が接触することが避けられないので、虚弱体質のぼくは精神の破綻を招きそうになるのです。すでになっていますが。
 そんなこんなで、とにかく都会の雑踏が体質に合わず、その縮図のような電車は特に苦手です。ぼくは自然派ではありませんが、人っ子一人いない北極海の孤島で過ごしたこの上なく快適な時間が未だに忘れられないでいます。

 そんなぼくが仲のよい若いカメラマンを誘って、新国立美術館で催されている「大エルミタージュ美術館展」に、乗りたくない電車を何度か乗り継いで行ってきました。300万点の収蔵品の中から83点が日本にやって来たに過ぎませんが、出不精を押して出かけたのは、写真を撮るための何か良いヒントが得られるに違いないとの思いからです。ソビエト時代に本場のエルミタージュで何日かを過ごしたことがありますが、器は異なるとは言えやはり本物の絵画を間近で鑑賞することは良い刺激になります。ですがここは本場と異なり、やはり人混みですので、鑑賞と言うにはほど遠いものがあります。
 二人とも写真屋ですから、シャドウやハイライトの描き方、光の性質や方向、色調や彩度の扱い方、構図や遠近感などにどうしても目を奪われ、鑑賞後ビールを飲みながら、「あのパース(遠近感)、おかしいよな。思わず笑いそうになったけれど、あそこで二人して大笑いすることもできんしなぁ。あの光源であのシャドウの出方は変じゃないか」とか、名画を前にしても写真屋の性ってなんだか悲しいですが、出不精を押しただけの価値はあったようです。
(文:亀山哲郎)