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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2011/07/29(金)
第62回:やっぱり、ここだけの話
 フィルムやデジタルの特徴やメリット、デメリットについては以前に触れたことがありますが、もちろん感じたことをすべて網羅したわけではありません。

 最近、遅ればせながら気のついたことは若者にフィルム指向がかなり見られるということです。ぼくは写真学校の先生ではありませんので、どのくらいの割合で写真好きの若者がフィルムにトライしているのか、その数字をあげることはできませんが、ぼくの生徒たちの間でもそのような傾向が見られます。10代〜30代前半の生徒たちに両刀遣いが見られるのです。フィルム時代をかいくぐってきた40代〜60代のおじさん、おばさんたちは(フィルムの暗室作業を身を持って体験してきたという人はいませんが)一様にデジタル派という奇妙な現象が起こっています。我がクラブだけでしょうか?

 ぼくのあやふやな想像でしかないのですが、若い人たちがフィルムに憧れに似た気持ちを抱くのは、自分たちが写真というものを意識し始めた時がまさに「これからはデジタル」、あるいは「デジタル真っ盛り」という時代背景があったからではないかと推察しています。CDで育った人たちがアナログレコードの良さやその趣、あるいはそのメカニズムに興味を抱くに似ているような気がします。新しいもの=良いもの、という方程式は成り立ちませんから、それは一概に懐古趣味として簡単に片のつく問題ではないようにも思えます。
 アナログのレコードはもう製造されていませんが、フィルムやフィルムカメラはまだ手に入りますから、フィルムに挑戦しようという若者は「一丁、やってみるか。なんだか面白そうだ」という気概があるのかも知れません。

 ぼく自身は、写真はフィルムでもデジタルでもどちらでもよいという考えを持っていますので、若人がフィルムを(あるいは両方を)使うその理由さえ訊ねたことがありませんでした。斯様にぼくはそのくらいこのことに関しては無頓着なのです。ただ、デジカメをぶら下げながらも、未練がましくフィルム撮影の雰囲気やその時代をひどく懐かしんでいる自分がいることに気付くことしばしです。デジカメで撮りながらもその最大の利点の一つであるカメラモニターで撮影結果を確認しないのも、フィルム的撮影心理を再現しようとしているのだろうと思いますが、善意に解釈すれば、上手く撮れなかったら撮り直せばいいという安直な気持ちを戒めているのです。な〜んて格好つけていますが、それは嘘かも知れません。ホントはただ面倒なだけなのです。

 そして未だによく巷で囁かれる「フィルムはよかった。デジタルはやはりフィルムにはかないませんねぇ」という暴論には、「どんな根拠で?」と平静を装いつつ、穏やかに問い返します。真顔でぼくに語りかけてくるので、ぼくも真顔で対応すべきですが、かつて一度たりとも納得のいく説明を聞いたことがありませんから、内心「またか!」と、どうしても気は荒れ気味となります。
 そのような人たちの98.5%以上は、デジタルという科学を持て余し、十全に使いこなせていないからだとぼくは決めつけているようです。そのような人はきっとフィルムも十全に使いこなせていなかったはずです。
 人は誰でも昔を懐かしみ、現在を嘆くその諺として「世は元偲び」とか言いますが、フィルムを懐かしむその心情もむべなるかな、というのとは根本的になにか異なるものを感じ取っています。現代の最新技術を受け止め、それを使いこなし、良いものを作り上げていくというのが現代に生きる人間のまっとうなあり方だと思います。ノスタルジーというものは多くのインスピレーションを生み出すことは確かですが、しかしそれだけで写真が撮れるというわけではありませんしね。
 フィルム時代、暗室テクニックに長じていた人たちはデジタルに移行しても、やはり見事にデジタルを使いこなしている様を見るにつけ、その思いは確固たるものになりつつあります。

 でもねぇ〜、ぼくはやっぱり粒子のないデジタル・モノクロ写真はどうにも気持ちが悪くて仕方がないのです。さらに言うと「我慢がならない」のです。もちろん他人の写真はいざ知らずです。ぼくの生徒たちの持参してくるモノクロ写真の無粒状性について言及したことは一度もありませんから、「我慢がならない」のはあくまでも「自分のモノクロ写真」についてです。

 デジタルデータ(カラー)をいくつかの専用ソフトを使い分けモノクロ化しながら、かつて愛用した何種類かのフィルムの感色性や粒状性に思いを馳せ、懸命にそれを再現しようとしている気の毒な自分の姿に気がついてしまうのです。感色性や粒状性に留まらず、「デジタルは写り過ぎる。なんで小型カメラの分際でゴキブリの足まで写ってしまうのか! ライカで撮ってライカのフォコマート(ライカ製引き伸ばし機の名称)でプリントしたって、こんなに鮮明に写し出すことはなかったぞ。う〜ん、フィルムの曖昧性がたまらん」って、未練タラタラなのです。

 昨夏、猛暑のあおりを受けたぼくは思い余って、デジタルの鮮明さに腹を立て、ヤケクソになり、フルサイズ2200万画素の一眼レフのボディキャップに穴を開け、ピンホールカメラに仕立ててしまったくらいです。ボワーッとした良い感じの写真が撮れましたが、今年は「ベス単レンズ」(1912年コダック製のヴェスト・ポケットカメラにつけられたレンズで、特有の味わいがある)の描写をなんとか再現するための工夫を凝らしてみようと思っています。

 デジタルを謳歌しつつ「世は元偲び」なんて書きましたが、ぼくもまったくもっていい気なものです。誰にも知られたくないので、今回もやっぱり、ここだけの話です。
(文:亀山 哲郎)

2011/07/22(金)
第61回:やはり、ここだけの話
 大学を卒業し社会人への門出として、今は亡き親父が懇意にしていた仕立屋に頼んで、生まれて初めてのオーダーメイドのスーツをプレゼントしてくれました。できあがった服に袖を通したときの気持ちの良さは、40年を経た今でもはっきり記憶の片隅に定着されています。
 当時の学生は今のようにラフな恰好ではなく、ほとんどがブレザーを着て、半数近くがネクタイを締めていたものです。まぁ、わりとちゃんとした恰好をしておりましたし、「ネクタイ着用」を義務づけているような教授もおりました。
 当時、ぼくの着ていたものは街の洋服屋やデパートで売られている既製品でした。既製品が悪いということではもちろんありませんが、オーダーメイドというものは既製品に比べこんなに着心地の良いものだとは思いませんでしたから、その感動が未だに忘れられないのです。生地も色も自分の好きなものを選び、フィット感ばかりでなく満足感を伴うものでした。社会人の門出に相応しいプレゼントだったようです。

 前回、RawとJpegの違いをお話ししましたが、それはオーダーメイドと既製品のような差だとお考えください。RawがオーダーメイドでJpegが既製品というわけです。Rawは現像時に厳密なホワイトバランス(どのような光源下でも、白いものを白く表現するための機能)を取ることができます。また、色調、明度、コントラストなどなどを現像時にできる限り追い込んで調整し、然るべき画像補整ソフトに圧縮されたJpegではなく、圧縮されていない16bitのtif形式、もしくはpsd(フォトショップ)形式で受け渡すという方法が最も画質を劣化させずに済む手段なのです。Raw現像ソフトにはどのような画像形式に変換するのかという指定が必ずありますから、そこで圧縮画像でないtifなどを指定しておけばいいのです。
 16bitは少し重い(容量が多い)ので、Photoshopなどの画像ソフトでたくさんのレイヤーを重ねての作業は時間がかかるかも知れませんし、非力なパソコンでは今時の高画素の画像を扱うとフリーズしてしまう恐れもあります。そのような時は8bitのtif画像で作業を行えばいいでしょう。保存もtifかpsdを指定してください。せっかく苦労した補整画像を、容量が少ないからJpegで、なんてことをすると、その段階で画質劣化を伴いますから、ここはケチってはいけません。
 「Rawを扱えずして、なんの暗室作業か」なんてことをぼくはよく口にしますが(本心です)、イメージを追求していくにはやはりどうしても避けることのできない道程だと思っています。

 そういうぼくがなぜ前回で述べた小川町でJpegで撮っていたかと言うと二つの理由があったのです。
 一つはぼくの所有するカメラのJpeg生成のアルゴリズム(Algorithm。算出方法)が極めて優れていることにありました。
 もう一つは、目的がカラー写真ではなくモノクロ写真であったことです。画質に関して厳密に言えば、モノクロと言えどもやはりRawで撮影した方が劣化を防ぐには賢明な方法であることに変わりはありませんし、今までぼくはずっとそのやり方を踏襲してきました。

 ぼくの新しいカメラのJpeg出力結果を見て、何に感心したのかと言うと、画面周辺でコントラストの強い境界線に必ず現出するあの汚らしい色収差がほとんど見られないことだったのです。このカメラはレンズ交換のできないカメラですので、その固定レンズに合致した受光素子の最適化が可能であったのだろうと思います。レンズ交換のできぬデメリットと引き替えに、画質の良さを提供してくれているのです。
 色収差というものは高画素・高解像度のカメラほど際立ちます。みなさんも画面周辺に位置する小枝や建築物と空の境界線に生じるシアンやグリーン系の隈取り、その反対側にはマゼンタやレッド系の、現実にはない色がまとわりついていることにお気づきでしょう。

 この色収差は様々なRaw現像ソフトである程度は取り除くことができますが、完全にとはなかなかいきません。あるいはシアン系やマゼンタ系の色をただ無彩色化するだけのものもあり、それはあくまで視覚上のごまかしであり、色収差によるいやらしい色が減少されたからと言って、解像度の劣化を免れるものでもありません。

 カメラ自慢などする気は毛頭もありませんが、この難題をこのカメラのJpegアルゴリズムは見事に解消してくれたのでした。このカメラで撮ったRawデータを現像してもこうはいかないのです。Jpegで撮った際にのみこの現象から逃れられることを知り、ぼくは狂喜してしまいました。それに加え、RawとJpegの解像度がまったく同一であることを何百枚のテストを繰り返して知り得、まさに慶福の至り。
 「このカメラはRawでなくては役に立たない」というものをいくつか経験してきましたし、仲間であるプロの友人たちもRawとJpegの解像度の違いについてぼくと同じようなことを常に述べていました。

 しかし不思議なことに、ネット上のいわゆる“クチコミ”なるものに、「このカメラのJpeg生成は、ほぼ完全に色収差が取り除かれているすぐれもの」という評価がまったく見られないのはどうしたことなのでしょう? 話題となったカメラですから非常に多くのクチコミが寄せられているのにです。

 まぁ、そんな理由で、“このカメラに限り”、嬉々としてぼくはにわかJpeg愛好者に変身を遂げてしまったわけです。ここだけの話なんですが。
(文:亀山 哲郎)

2011/07/15(金)
第60回:ここだけの話、JPEGで撮ってみました
 炎暑のなか、はやる気持ちを抑えきれずお昼頃から県内中央部に位置する和紙で有名な小川町に私的写真を撮りに行ってきました。ぼくの住むさいたま市中央区から車で関越自動車道を使い1時間ちょっと。遠出と言ってもしれたものですが、普段、名所旧跡や明媚な風景写真に興味のないぼくは、自宅からふらふらと歩きながら浦和の街を撮ることが多いのです。また自宅近辺から別所沼に至る遊歩道はぼくの撮影テリトリーと言ってもよく、短い道程ですが、何十回歩いても常に新たなる発見に出会え、その界隈を嬉々として撮影しています。撮影場所がマンネリ化するなどということはないものです。
 そのようなタイプの写真屋ですから撮影場所はどこでもいいのですが、ちょっと遠出をしたのは、見知らぬ町に対する憧憬とかロマン的ななにかを感じ、また、たまには気分を変えてみようと思ったからです。新調したカメラもまだ十分に使いこなせているわけではなく、その訓練とカメラやレンズの癖を見つけようとの目的も含めてのことでした。

 小川町は仕事で過去2回ばかり通過したことのある程度で、どのような町なのかは見当がつかなかったのですが、“八高線”という名になにか惹かれるものがあったのでしょう。初めて歩いた小川町はいわゆる“シャッター街”というほどさびれてはおらず、かと言って当然のことながら浦和近辺ほど人口密度が多いわけではないので、小川町の閑散とした雰囲気はよそ者であるぼくに新鮮さとともに心地の良さを提供してくれました。
 このような町で最も人々の往来のあるところは駅ですから、まずそこに陣取り、首から小さなカメラをぶらさげ風体の定まらぬ怪しげないでたちで乗降する人々に溶け込みながら狙いを定め、改札を出入りする人々や駅前ロータリーに散っていく姿を何枚かいただきました。

 実は今回の撮影は今までとガラリと趣旨を変え、デジカメを使い始めて、今まで撮ったことのないJpegで撮ってみました。これまではRawでしか撮ったことがありませんし、仕事ではすべてに厳密さを要求されますから、公私とも撮影と言えば即ちRawと決めてかかっていました。もちろんその考えは今も変わりませんし、ぼくの生徒たちには「Jpegで撮ったものなど受け付けない」と申し伝えてきました。そう言ってきた手前、生徒たちがこの文を読まないことを心より願っています。万が一、誰かが読んで、「かめやまさんがJpegで撮っているのだから、ぼくも、私も」と言ってきたら、その返し文句はすでに準備をし、抜かりなく布石を打ってあるのです。
 「え〜いッ。者ども、10年早いわ! 控えおろう!」。ぼくはこのエラッそうな科白を生徒たちに一度使ってみたかったのです。

 ぼくはよく「なぜRawで撮影しないのですか?」とJpeg専門家に問うことがあります。判で押したように返ってくる言葉は以下の如し。「Rawだと容量が大きいから、一枚のメモリーカードで撮れる枚数が減ってしまうでしょ」とか「後処理が面倒だから」と言う聞き捨てならぬことを仰る方が大変多いということです。前者が“ケチ”で後者が“怠け者”とぼくは言っていますが、「ケチ & 怠惰」の二重奏では上達のしようもありませんから、この部分にもぜひ熱意を注いでくださればと思います。

 今ぼくのカメラで8 GBのカードを入れて調べたら、Rawで413枚、Jpeg(最も圧縮率の少ない高画質で)で1603枚撮れると表示されました。Rawに比べJpegでは約4倍近く撮れるという計算になります。
 小川町では3時間で約250枚撮りましたから、どちらで撮っても8GBのカード1枚で十分だと言うことです。また、カメラのモニターで撮影後の画像を確認することもしませんから、バッテリーも保つのです。ちなみにぼくは「ケチ & 怠惰」なので、私的な撮影は1日に3時間以上はしないことにしています。

 もしあなたが“料理が好きだ”と自認されるのなら、やはり素材や調味料を仕入れることから始めるのではないでしょうか? 使う包丁や様々な用具まで、やはり気に入った物を使うでしょ? たまには外食でお仕着せのカツ丼もいいでしょうけれど、いつもいつも既製品ばかりでは(これが撮影時に於けるJpegで、カメラがこちらの意志など頓着せず勝手に料理したもの)、料理が好きだとは言えませんよね。
 写真もこれと同じで、家族旅行や記念写真だけで、とにかく記録できれば事足れりとする携帯電話的使用であればJpeg専門でいいでしょうけれど、“写真が好きです”というのであれば、既製品では物足りなくなってしまうのが道理というもの。ありきたりの物はすぐに飽きてしまうものです。

 Rawで撮ることの利点は様々にありますが、まずRawデータを扱うことにより、色温度や色のかぶり、いわゆるホワイトバランスや露出、コントラスト、彩度、色相などなど、デジタル写真の基本的な知識と操作が自然に身についていくのです。デジタルのメカニズムを理解したり、美しい写真を得るための大きなコツの一つでもあるのです。また、Rawデータを処理することは、写真を撮る際に「こういう風に撮りたい」とか「こんなイメージで」との願いに一歩でも二歩でも近づく手順であるとも言えます。調味料の微妙なさじ加減を覚えることができるのです。

 ではなぜ、ぼくはJpegで撮ったのか?について述べようと思ったのですが、字数がなくなってしまいましたので、その理由については次回にお話しいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2011/07/08(金)
第59回:単焦点レンズの気楽さ
 いよいよ本格的な夏の到来と思わせるような暑さが続いていますが、この4, 5年、うだるような暑さの中で一人黙々と写真を撮っている自分がいることに気がつきました。夏の嫌いなぼくがなぜこの季節になると撮影意欲が増すのかを、暇にあかせて一昼夜考えてみたのですが、どうやらひとつだけおぼろ気に浮かび上がってきました。夏の撮影で何がいやかと言うと、汗でべたつく手でレンズ交換をするのが我慢ならないようなのです。手に伝わる感触も気持ちの良いものではありませんし、レンズの胴鏡だって変な汚れ方をするような気がして、それがどうにも耐え難いのです。

 そのような気色の悪さを避ける方法をやっと数年前に発見し、「夏元気」になったと気がついたのです。一眼レフ使用時には、昔から単レンズを(ズームレンズを仕事以外で使うことはまずありません)何本かカメラバッグに入れて持ち歩き、レンズ交換を頻繁にしながら撮っていました。
 「レンズ交換をするのが面倒くさいからついズームレンズを使ってしまう」と言う方が時折おられますが、それはレンズ交換が億劫なのではなく、交換の手順に慣れていないことと焦点距離の画角やパース(遠近感)を身につけていないだけのことだとぼくは思います。慣れていないというのはレンズ交換の経験的回数の問題ではなく、身体能力(運動能力)の差なのでしょう。レンズ交換の身体能力は、意識と訓練で身につくものです。茶道に於ける所作や身のこなしにどこか通ずるものがあると思います。つまり手順にまったく無駄がなく、動きが滑らかなのです。ちなみにぼくは茶道とは今のところ縁がありませんが。

 そしてもうひとつ思い当たったことは、この数年間に自分の撮る写真の指向が多少変化したことにあります。自分では心密かに「これは年相応の成長である。絶対そうに違いない」と思い込むようにしています。自分の写真傾向に合った焦点距離のレンズしか使わなくなったことです。「レンズに合わない被写体は撮らない!」と決めてつけているのです。潔くなったのは成長の証だと。具体的に言えば、望遠レンズを使わなくなりました。望遠レンズと言ってもフルサイズで85mm〜135mm(ASP-Cサイズであれば50mm〜85mmあたり)がせいぜいのところなのですが。
 ぼくはもともと街中スナップ派ですから、望遠レンズとは本来縁が薄く、仕事上仕方なく保有しているのが実情です。

 仕事の写真に追われ自分の写真を撮る余裕を失っていたのですが、2004年の私的な海外ロケを契機に、自分の写真に比重を置き、それに邁進しようと決意を新たにしたのでした。しかし、コマーシャル写真の分野で得た技術的なノウハウの質量はとても言葉では言い尽くせないくらい多大なるものがありました。街中スナップを撮るのにどれほどの恩恵を与えられたか知る由もありません。
 帰国後、本気で街中スナップに取りかかり、気がつけば、歳を重ねるごとにレンズ焦点距離も余命とともにどんどん短くなっていくようです。ぼくの標準レンズは28mm(35mm換算)という極めて広角のレンズなのです。被写体にぐいぐい寄らないと使えません。前号でお話しした新調カメラは35mm (35mm換算)ですから、ぼくにとっては望遠レンズなのです。
 ここ数年は、一眼レフでも単レンズ一本しか使いませんし、また一方ではレンズ交換のできない固定焦点レンズのカメラを常用していますので、猛暑の手のひら発汗に於けるレンズ交換の気持ち悪さから一気に解放されたのでした。そんなこんなで夏の撮影が苦にならなくなったのも要因のひとつだと思われます。
 まぁ、歳のありがたさなのか、念力のせいなのか分かりませんが、手のひらが汗でべたつくことはもう何年もありませんが。

 10数年前に「ぼくは生涯、東南アジアと夏の伊豆では撮影をいたしません!」とクライアントに向かって啖呵を切っていたのですから、それほど気持ちが悪く、いやだったのです。東南アジアはいつかスコールをテーマに撮りたいという気持ちを持ち続けていますので、今の健在ぶりからすればその意欲はありますが、やはり伊豆はあの湿気と風致がどうしても体質に合わぬようで、いくら機材を新調し気分が高揚しても、またレンズ交換をしなくて済むとしても行く気にはなれそうもありません。伊豆の人たちを忌避しているのではありませんので、その伝誤解なさらないでください。

 話が横道に逸れっぱなしですが、ぼくの生徒の何人かが「単焦点レンズを使うことの気楽さ、気持ち良さ」を口にするようになりました。本心なのか、悔しさ紛れなのかは分かりませんが、試みとしてはとても良いことですし、また写真やレンズのメカニズムを知るには手っ取り早い方法です。単焦点レンズの大きな利点はフレーミングをする際に、ズームに比べ迷いがずっと少なくて済むことです。撮影の主体性も得られます。ズームが受け身的要素の強いものであるとすれば、単レンズは能動的なのです。
 ズーム全盛の時代にあってぼくのような単焦点レンズ派は少数派なのかも知れませんし、単焦点でも一本しか使わないと言うのはほとんど偏執狂に近いのだそうです。ですが、ぼくがそうだからと言って生徒たちにそれを押しつけているわけではありません。肝心なことは、ズームの便利さをうまく利用するか、その便利さに負けて横着になるか、そのどちらかでしょう。

 いずれのレンズにしても、その機能を十全に理解し使いこなせば、「機能的になればなるほど、精神性や文化の質を低下させる」というぼくの勝手な不文律から逃れられるのではないか、というのが“理論としては”尤もなものだと思います。こと写真に関しては、科学を無視したところにどんな正当性も見いだせないのです。汗でべたつくからレンズ交換をするのは気持ちが悪いというのも、科学に基づくものなのです、って本当かなぁ?
(文:亀山 哲郎)

2011/07/01(金)
第58回:新調の難儀
 ここしばらくアクセサリーなどの話が続きましたので、今回はちょっと息抜きになるかどうかは分かりませんが、久しぶりにカメラを新調しましたのでそのこととそれに付随するお話しをしたいと思います。
 ですので、今回は特に諸兄のお役には立てませんこと、どうぞ悪しからず。

 カメラに限らず、人間には避けがたい物欲というものがあります。ぼくのように現在は物欲に乏しいと自認する人間でさえ、やはり新しいものを購入し、手にするという行為はわくわく、どきどきするものです。それが、実用一点張りの、つまり生活になくてはならぬものであればそれほどの高揚感をもたらすことはないのですが、こと写真に関するものなると、たとえ仕事用であれ、プライベート用であれ、寝ても覚めても嬉しさに堪えきれず布団の中に入ってまでも愛玩するような始末です。

 ただひとつの不安と憂いは、どうすれば新調の秘め事を奥方に悟られずに済むか、あるいは何事もなかったかのようにやり過ごすかということで、歓びとともにその戦慄を同時進行させなければならないことです。その厄介にさいなまれてしまうのです。自身の自然体をどう保持するかという難問に突き当たるのです。
 「仕事用」と称せば、奥方は何も言わず理解を示しているような振りをして、ぼくに借りを負わせようと目論むようですが、しかし正面切って文句は言われずに済むので、ぼくはこれ幸いと調子づいていくというのが今までのパターンなのであります。せいぜい「あ〜たは、なんでも事後報告なんだから!」と、眉間に皺を寄せての科白が関の山。でも、今回モ、仕事用ではなくプライベート用に購入したものですから、まだ白状できずに悶々とした日々を送り、また「仕事用」と度重なる嘘を並び立てるのも良心の呵責を覚え、かと言って購入を諦めることができるほどにぼくは理性が働かない。欲しいとなったら、矢も楯もたまらず、経済観念ゼロをまっしぐらという性分なのです。わずかに残された理性は、“万引きをしない”という点だけです。

 というわけで、自室からは未だに居間に持ち出せず、玄関口などではハトロン紙の袋に入れて、さも仕事で出かけるような振りをして試写に出かけているありさまなのです。
 普段、現金というものをあまり持たしてはもらえず、したがってクレジットカードですから、請求明細が来るまでにぼくはいろいろと策を練ったり、覚悟を決めておかなければならず、生きた心地のしない一ヶ月を過ごさなければならんのです。男は辛いですね。
 で、こんな話はどうでもいいのであって、何の話だっけな?
 あっ、カメラを新調したということでしたね。

 取扱説明書を読みながらカメラ片手にあれこれと使い勝手などを吟味し、実験をし、ベッドに寝そべりながらパチパチとシャッターを明け方まで切っている。ぼくのベッドは仕事場に設えてあるので恐い奥方はいないのです。
 一日でも早く使いこなしたいとの熱心さも、悲しいかな歳とともに、何度も同じ事を繰り返さないとなかなか覚えられず、翌日にはすっかり忘れていますから、再び説明書の同じページをたぐろうとするのですが、それがどこに書いてあったのかがなかなか見つけられずイライラも高じます。書いてあるページをやっと探り当て、横に置いたカメラで試そうとすると、説明書がパタッと閉じられており、踏んだり蹴ったりの仕打ち。その度に眼鏡をかけたり、はずしたり。

 辞書を閉じた瞬間に、「あれっ、なんだったっけな?」という刹那的健忘の経験、みなさんだっておありでしょう? 他人事だと笑っている場合じゃありませんよ。

 このカメラは「見ず転」(この場合は、“芸者などが・・・”ではなく、“買うべき物を見ず、触れずに”という意味です)で購入したものです。ぼくはカメラ機材の購入に関しては90% 以上が「見ず転」です。何十年もこの稼業に携わってきたおかげで“はずれ”を引いた経験がありません。勘が異常に働くのです。百発百中とは言いませんが、百発九十六(96%)くらいは当たります。
 
 新調したカメラの正体を探ろうと半月に1800枚ほど試写して、最新のカメラ性能の進化にびっくりしています。
 このカメラは、一眼レフと同じAPS-Cサイズの受光素子を持つコンパクトカメラで、レンズ交換もできない非沈胴式の固定焦点レンズという確かにマニアックなカメラとも言えますが、その描写性能は非常に優れており、今まで使用してきた原始的カメラと併用すればプライベートな写真ではほとんどのものが、ぼくの使用範囲を賄えるだろうと思っています。
 昨日、初めて仕事用のサブ機として持ち出し、本番撮影が終わり、抑えとしてこのカメラを使いましたが、様々なレスポンスでは到底プロ用カメラには及ぶべくもないのですが、描写能力に関してはクライアントを裏切るようなものではなく、これからは重たいサブ機に替わり、このコンパクトカメラをカメラバッグに忍ばせようと決心しました。高感度に関してはプロ用カメラを凌ぎ、ノイズも偽色も、色収差も勝っており、ぼくは満面の笑顔で現場を立ち去りました。「見ず転」の確率も97%と上昇し万々歳なのですが、さぁて、どうやって奥方に・・・。
(文:亀山 哲郎)

2011/06/24(金)
第57回:UVフィルターについて
 代表的なフィルターにUV (Ultra Violet 。紫外線) フィルターというものがあります。
 ぼくはもうかれこれ30年近くこのフィルターを使ったことがありませんが、もしアマチュアの友人などから「UVフィルターはつけておいた方がいい?」と質問されれば、「つけた方がいい」と答えます。

 昨夏、家のリフォームのため引っ越しをした際に、使用していない様々な口径のガラスフィルターがなんと78枚も箱に仕舞われているのを発見しました。これにゼラチンフィルターを加えると150枚近くにもなりました。物持ちがよいのか、貧乏性なのかよく分からないのですが、それはぼくの50年以上に亘る写真歴の断片でもあり、また共に歩んできた遺物とも呼べるものでした。

 ガラスフィルターは、モノクロ時代にさんざんお世話になった、黄色、赤、緑、オレンジなど、懐かしさに引きずられながらも、こういう機会でもない限り溜まる一方ですから、潔くすべてを廃棄物として処理してしまいました。手元に残しておいたものは、C.ツァイス製のソフトフィルターとTiffen 製の各種ディフュージョンフィルターで、その性能(品位)の良さに今後ともお世話になろうと思っています。

 とは言え、ぼくは決してフィルターマニアなどではなく、如何にして自分のイメージを追い求めるかというある種の執着心のようなものが、そのような結果を招いたものであろうと思います。知らず知らずのうちに溜まってしまったと言うのが本当のところです。
 科学の進歩(特にデジタル時代となり)と共に、かつて必須としたフィルターは、もはや多くのものが不要になりつつあるとぼくは感じていますが、各種のフィルター類からはやはり多くのことを学ばせてもらったと思っています。それが延いては、デジタルの暗室作業にも大いに役立っているようです。

 さて、UV フィルターについてでしたね。昔は好事家ならほとんどの人がこれを装着していたものです。もちろん今でも多くの方が使用しています。UV とは不可視光線である紫外線のことで、この紫外線をカットするためのフィルターなのですが、ではなぜ紫外線をカットする必要があるのでしょうか?

 昔からフィルムには感光材として銀が使われており、銀は紫外線付近の波長に感光する性質を持っているため、人の目には感じることができない光を感じ取ってしまうのです。つまり肉眼で見たものとフィルムに映し出される映像が異なってしまうという不都合が生じます。紫外線の波長域を取り除いてやる必要がありました。でないと、コントラストの甘い、どことなく白っぽい画像が出来上がってしまうのです。特に望遠レンズを使用する際など、空気中のちりやほこりにより紫外線が拡散されますので、メリハリのないどこか眠たげな写真となってしまう可能性が大きいのです。それを避けるために、特に風景写真愛好家にはUVフィルターはなくてはならないフィルターのひとつだったのです。

 と、ここまでは過去のお話です。科学の進歩により、と述べましたが、レンズのコーティング技術も格段に進歩し、今では昔ほどフィルムに対してUVフィルターは効力がないと言っても差し支えないと思います。
 結論を急げば、デジタルを使用している方々にはUVフィルターは効果のあるものではありません。デジタルはフィルムと異なり銀を感光させて画像を形成するものではないからです。

 では、なぜ冒頭に「つけた方がいい」とぼくが答えるのでしょう。それは、紫外線防止のためでなく、レンズ保護のためです。このフィルターは色再現やカラーバランスには影響を与えませんので、ほこりや砂、雨や指紋などによる汚れ、衝撃によるレンズへの傷を防いでくれるからです。UVフィルターをレンズ保護用フィルターとしてお薦めしているということなのです。謂わば安心料とか保険とかという意味でですね。
 なぜ「アマチュアの友人」なのかと? ぼくは職業人ですから、カメラ機材はあくまで消耗品なのです。もちろん、人並みかそれ以上に商売の道具として大切に扱っていますし、理に適った使い方もしていますが、使用頻度を考慮すればやはりレンズは消耗品の域を出ません。時によっては荒っぽい使い方を余儀なくされることもあるのです。
 
 ぼくが上記にもまして保護フィルターを装着しない理由は、まったくの個人的なもので、それは「気持ちが悪い」からです。フィルターを付けるということはガラス面が2面増えることを意味します。面が多くなればなるほど、光の拡散が行われる(理論的には)わけで、それが「気持ちが悪い」のです。光の拡散や乱反射は“百害あって一利なし”で、だから使わないのです。科学的に厳密なテストをして、フィルターを通したものと通さないものの差が、数値として出るものなのかそうでないのかは知りません。あくまでも、ぼくの場合は精神衛生上のものなのです。
 もともとレンズは、フィルターを装着した状態を想定して設計されているわけではありません。すべてのガラスには屈折率というものがあり、潔癖症?のぼくは設計時にない屈折率を夾雑物として考えるので、「気持ちが悪い」となってしまうのでしょう。潔癖症とは、ほど遠いところにいるくせに。
(文:亀山 哲郎)

2011/06/17(金)
第56回:NDフィルターについて
 第55回でレンズフードの効用についてお話ししましたが、光の乱反射によってものが見づらくなるという現象は、写真に限らずみなさんが日頃から体験されていることですね。逆光でものを見る時に知らず知らずのうちに、手を目の上にかざして自然と光を遮っているでしょう。レンズフードの役割はあれと同じ事なのです。
 光が目に飛び込み、眼球の中で乱反射をして網膜に映し出されるので、ものが見えにくくなってしまうのです。光を遮った瞬間に相手の顔がはっきりと認識できるようになる、このような経験は誰しもがお持ちだと思います。
 レンズ(写真)もこれとまったく同じ現象が起こるので、できる限りレンズフードを着用しましょうというお話しでした。

 アクセサリーの代表格にもうひとつ、フィルターがあります。一口にフィルターと言っても多種多様なものがあり、第24回では偏光フィルターについて述べましたが、現在はデジタル時代ですから、フィルム時代と比べるとその役割や必要性がかなり少なくなったと言えそうです。

 フィルムは太陽光(色温度5,500ケルビン)やタングステン光源(3,200ケルビン)を基準に作られていることは以前にもお話ししましたが、それ以外の光源に対処する(正しい色調再現)ためにはどうしてもフィルターのお世話にならざるを得ませんでした。フィルムは融通の利かないものでしたが、デジタルはフィルムに比べてはるかに融通の利く受光体と言えます。面倒な手間が一気に省けたと言っても過言ではありません。これは科学の勝利と言えるのかも知れませんが、少なくとも明暗比の再現は別として、色温度などの違いによる発色の差は、より人間の目の能力に近づいてきたとも言えるでしょう。

 とは言え、ではデジタルであればフィルターの効用に与る必要はもうないのかと言えば必ずしもそうではありません。Photoshopなどの画像処理技術にいくら長けていたとしても、やはりフィルターのお世話になった方がずっと楽で、見た目も自然という類のフィルターも存在します。

 それは例えばソフトフィルターに代表されるものや、さらに実際に必要性に迫られるものとしては減光フィルター(一般に「NDフィルター」と呼ばれるもので、ND とは Neutral Density の略 )です。

 NDフィルターとは光の量を減少させるフィルターのことで、各種の濃度のものが発売されています。どのような時にこのフィルターが有用になるかと言うと、長時間露光が欲しい場合や、ポートレートなどを撮る際にできるだけレンズの絞りを開けバックをぼかしたい時などです。絞りを開けるということは光の量が多くなるわけですから、適正露出を得るためにはより速いシャッタースピードが必要となり、時によりカメラ機能の限界を超えてしまうことがあるのです。NDフィルターを用いずとも光量の加減がマッチし上限のシャッタースピードに収まればいいのですが、そうでない場合はありがたいフィルターです。

 長時間露光の代表的な被写体には、例えば渓流や滝の流れを白い糸のように表現したい場合に使います。どこにでも見かけるあの手の写真です。ぼくはそれを撮ったことがありませんので、ここにそのサンプルをお見せできないのは遺憾にも思います。

 なぜ撮ったことがないのかは、まったくの私見ではありますが、撮れば撮るほど、見れば見るほどそれは新鮮味のない表現で、ぼくにはただ陳腐でありふれたものにしか見えないからです。風景写真展などでは必ずと言ってもいいくらい見かけるこの手の写真に、もうすっかり食傷気味なのです。
 この表現技術を発見し、初めて応用した人には大きな拍手を惜しみませんし、肉眼では見えないものを写真表現のひとつとして活用することには大きな意義を重々認めますが、風景写真の大家でヨセミテ国立公園を中心に活動したA. アダムスでさえそれを意図して撮影していないと思います。もしそれに近いようなものがあれば、それはアダムスの使用するカメラ(大型カメラで必然的に長い露光時間が必要)に依存するものでしょう。彼の写真に白い糸を盛大に引くような写真表現が見られないその理由は、おそらくぼくと似たような意見であろうと思っています。
 アダムスは自身の撮った写真について、その技法を余すところなく披露していますが、敢えてその表現目的のためにNDフィルターを使ったという記述にぼくは記憶がないのです。

 NDフィルターの効用は、特にレンズシャッター式のカメラに必須と言えます。レンズシャッターの仕組みについては割愛しますが、一眼レフなどに使用されている一般的なフォーカルプレーンシャッターに比べ、その機構上高速シャッターがどうしても不安定となるのです。つまり正しい露出が得られにくいという場合があるのです。光量が豊富な場合には速いシャッター速度が必要となりますから、安定したシャッター動作ができる範囲にシャッター速度を長くする必要があるのです。レンズシャッター式カメラには、減光のためにNDフィルターはなくてはならないものなのです。

 余計なことを書いちゃったので、一般的なUV(紫外線)フィルターについて触れることができなくなりました。次回でいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2011/06/10(金)
第55回:レンズフードの効用
 前回、「県展の審査には異業種の選考者を加えるべき」との意見を述べましたが、ぼくの友人がこんなことを言っていました。言葉足らずの部分もありましたので補足しておきます。

 その友人は「異業種と言っても中には写真の善し悪しが分からないという人もいるんじゃない?」との意見でした。確かにそうですね。ぼくは異業種であるそれぞれの分野のエキスパートならばどんな人でもよいという意味で述べたのではありません。
 編集時代からカメラマンに至る40年間を通じて、幸いにも美に携わる人々とたくさん知り合いになりました。もちろんすべての人たちが写真に対して造詣が深かったり、あるいはいつも興味深く見ているというわけではありません。
 ですが、一芸に秀でた人というものは、自分の分野に限らず他の分野の美にも大いなる興味を持っている方々がたくさんいますし、写真に対する審美眼にもただならぬものがあります。写真に特化せずとも、各分野それぞれに共通した部分がたくさんあるからだと思います。

 写真は、写真を愛好し、実際に撮影している者しか理解が及ばないのだという偏狭で狭隘な考え方を警戒しましょう、と言うところでしょうか。翻って、写真愛好家は写真ばかりでなく、他の分野の素晴らしいものに触れ、目や感覚、思想を学ぶことが大切だとぼくは常日頃から思っています。ぼくの場合は、特に文学と絵画から大きな啓発を受けたように感じています。
 写真には琴線がピッと触れるけれど、他の分野にはなかなかそうはいかないということであれば、写真の上達も思うに任せないだろうと思っています。

 補足はこのくらいにして、今回はカメラのアクセサリーについてお話しいたします。アクセサリーと言っても非常に多くのものがあり、本当を言うとぼくは最小限のものしか使わない質ですので、アクセサリーについて語る資格はないのかも知れませんが、いつも気になっていることだけ申し上げたいと思います。

 それはレンズフードについてです。
 ほとんどのコンパクトデジカメ(以下、コンデジ)にはレンズフードが付いていませんし、また付けられるようにはできていませんので、ここではコンデジ以外の一眼レフカメラやレンジファインダーカメラ、もしくはそれに準じたカメラについてのお話しです。

 よく、レンズフードを装着せずに裸のまま撮影しているシーンを見かけることがあります。ぼくはそのようなシーンを見る度に「なんて恐ろしいことを!」と思わず身をすくめてしまうのです。それは“勇気”だとか“大胆”とかいう性質のものではむろんなく、ただの“知らぬが仏”なのでしょう。

 フードの効用は手短に言うと、直射光がレンズに当たることにより、ハレーション(光源を中心に全体が白っぽくなる現象)を起こしたり、ゴースト(光の輪が点々と出現するあれです)が出現したり、コントラストが低下したりすることをできる限り防ごうとするものです。強く鋭い光はレンズを通してカメラ内部で乱反射をしながら受光素子やフィルムに届き、上記の好ましからざる結果を招いてしまうのです。この乱反射を防ぐためにカメラやレンズの内部は無光沢の黒い素材や塗料が使われ、またレンズにはコーティングが施されているのですが、どんな素材を用いても光の反射がゼロということは物理的にも不可能なことなのです。フードは乱反射を起こしやすい光、もしくは光源を可能な限り避けるための道具なのです。

 フードをしていても強い光が直接レンズに当たってしまうような光源の角度(真逆光)などでは効き目がありませんが、望遠になればなるほどフードの効果は大きくなります。最近はズームレンズ全盛ですから、ズームレンズのフードは一番短い焦点距離側に合わせてあり、フード本来の役目を十全に果たしているとは言い難く、しかし、ないよりはある方がずっと精神的な安心感が得られることも確かです。

 そして、フードの効用のもう一つは光学的なことではなく、レンズを保護したり(レンズ面をぶつけ傷をつけたり、指紋をつけたり、雨が当たったりすることなどの汚れ)、レンズをぶつけたりした時にフードがショックアブソーバーとして働き、難を逃れるということも多々あります。断衝材としては金属製よりプラスティック製の方が効果がありますが、見た目や質感が安っぽいので、敢えて効果の劣る他社の金属製フードを使うという人もいますが、いずれにせよレンズ本体が衝撃を受けた場合にはフードを付けていても効果がありません。衝撃によりカメラマウント部が破損してしまうこともありますが、万が一のためにフードはできるだけ装着するようにしてください。

 テレビなどの記者会見で報道カメラマンの多くがフードを付けていませんが、あれは別の理由によるものですから、くれぐれもフード装着を普段から心がけてくださるように。
(文:亀山 哲郎)

2011/06/03(金)
第54回:県展に行ってきました
 今日、自宅から歩いて10分足らずのところにある埼玉県立近代美術館で催されている県展を覗きに行ってきました。ぼくの知人友人も出展しているので、彼らの作品がどのような評価を受けているかにはあまり興味がないのですが(すでにその作品やレベルを知っているので)、全体のレベルや傾向を知りたかったのと、さらに楽しみなことは、良い作品に巡り会いたいというのが本音でしょうか。

 ぼくは県展や市展についてはまったくの門外漢であり、また過去に関わりを持ったこともありませんので、したがってこの世界の政治的な力学にも縁がなく、かなり公平な観点から作品を見てきました。何が公平なのかと言うと、色眼鏡をかけずに作品を見ることができるという意味です。

 この「よもやま話」の「第52回:シャープネスの功罪」、「第53回:画像補整の弊害に思うこと」でお話しした事柄に関してだけ申し上げれば、改めて目を覆わんばかりの負の現象が随所に見られたことはとても残念な気がしてなりません。彼らはきっとこの「よもやま話」の読者ではないのでしょうね。
 シャープネスの必要以上の、言ってみれば異常なほどのかけ具合。その過剰さにより画質は荒れ、それに起因する全体のトーンの崩れ、部分的なコントラストの不自然さ、グラデーションの欠損などなど。これでもか、と言うほどの強度なシャープネスに一体どのような意図が込められているのか、不思議でなりません。また彩度の上げ過ぎによる質感の喪失をもたらしているものも多々、幾多。

 もちろん、本当に優れた作品も散見され(モチロン「賞」とは無縁でした)、それらからぼく自身もインスピレーションを受け、良い勉強にもなりました。

 動きの素早い被写体の瞬間を捉えたものや美しいものをさらに美しく表現することは写真に課せられた重要な特質であり、技術もそれなりに必要ですけれど、それらを十把一絡げにするつもりはありませんが、しかしぼくは一般的な傾向に反して、そればかりが良い写真だとは認めていません。良いシャッターチャンス、程よい色合いというものは写真にとって必要欠くべからずの事柄であり表現手段のひとつではありますが、写真にはもっともっと大切なものがあるように思っています。

 「奇をてらったもの」「どこか仰々しいもの」「華美で覆い尽くされたもの」「新鮮味のないもの」「“見せてやろう”と写真が語っているもの」「独善的なもの」などなども良い写真にはまったく縁遠いものとして認めがたいものです。しかし、このようなものがなぜか「一般受け」してしまうんですね。一見、美人で個性的だと錯覚してしまうのでしょう。

 アマチュアであればこそ、流行歌(それは世にあって然るべきもので、悪いものという意味ではないこと、誤解なさらぬように)に身を寄せる必然性がぼくには理解できずにいるのです。

 止むに止まれぬ必然性に導かれ、その被写体を通じて撮影者の姿や形、つまり思想や人生観や価値観が窺え、観る者に多様な想像や洞察を与え、写真に奥行きや幽遠なるものを感じさせるものを良い写真の条件としてぼくは最優先するのです。このようなものは夜目であれ遠目であれ、白日の元に晒しても、姿・形を変えぬものです。

 表現形態としての写真に的を絞って言えば、良い写真は在るものを見せるために撮るのではなく、在るものを通して作者自身がその姿を晒し、視聴者に問いかけ、作品が様々な想像を与えるものだとも思っています。
 少なくともぼくはまだ発展途上人であり、未熟さを拭いきれませんが、そのような信念を持って撮影に臨んでいます。
 
 県展を通じてぼくが感じたことはとても一回の文字数では書ききれませんし、またそのような立場にもありませんが、この催しの本来の目的が写真愛好者のレベルアップにあるのか、単なるお祭り事であるのか、優れた作品を来場者に観ていただき想像を誘発させるためのものなのか、それらのことが混沌とし首尾一貫せず、なかなか見えにくかったと感じました。

 作品とは常に時代と共にあるものですから、多種多様なものがあって当然よいのですが、主催者が県や市としての文化発揚を担う場と自負するのであれば、浩然の気を持って異業種の選考者を加えるべきだと、門外漢のぼくはつとに思います。
 例えば、著述家、画家、彫刻家、建築家、陶芸家、アートディレクター、デザイナー、編集者などなど、その分野のエキスパートをです。美や写真について日々命を削っている誠実なプロフェッショナルの人々をです。多元化することにより、物事は一点に収斂されるということも多々あることですから。

 とまぁ、これはぼくの単なるトゥイートでもあるのですが・・・。
(文:亀山 哲郎)

2011/05/27(金)
第53回:画像補整の弊害に思うこと
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」と前回述べましたが、画像を最も劣化させる機能がシャープネスです。その極端な例を上げておきますのでご参照のほど。
「シャープネスあり」は分かりやすいように強めにかけてあります。

※参照画像1・2:「シャープネスなし」「シャープネスあり」
 → http://www.amatias.com/bbs/30/53.html

 シャープネスはその最たる例ですが、シャープネスに限らず、極端な補整をすればするほど画像を著しく劣化させることに変わりはありません。特に無地に近い空など、明度や色調を変えればトーンジャンプという厄介な現象に見舞われ、なだらかなグラデーションが縞模様になったりして、始末の悪いことになります。このトーンジャンプによる縞模様を誤魔化すために「ノイズ」を加える方法が本などでよく語られていますが、一時しのぎの感は拭えず、やはり撮影時にそれなりの方策を練ったり、工夫するのが本道だと思います。前述した段階露光をしたり、偏光フィルタを使った方が、画質を劣化させずに思うようなトーンが得られやすいことがままあるからです。
 今回、トーンジャンプに触れるつもりはないのですが、ついでながら、それを防ぐ方法としては、Photoshop などの画像ソフトで色の彩度を変化させるのも一つの方法です。彩度を上げるか下げるかすると、ヒストグラムの櫛型(歯抜け)が埋まることがあります。しかし、これとて希望する彩度を敢えて変えなければならないわけですから、やはり本道ではなく誤魔化しに過ぎないとぼくは思っています。

 そして、トーンジャンプの確認の方法が間違っている場合が往々に見られますので、ついでながら述べておきましょう(ぼくは非常に忘れっぽい質なので、思いついた時に述べておかないと、永遠に忘れてしまうのです)。
 画像ソフトでトーンジャンプや細部を確認する際には、画像の表示倍率を“必ず整数倍に”して確認してください。つまり、25%、50%、100%、200%という具合にです。画像倍率の表示は以下をご覧ください。これはAdobe Photoshop の例で、画像を開いた時に画面左下に表示されます。他のソフトでも画像倍率は必ずどこかに明示されます。

※参照画像3:「画像拡大倍率」
 → http://www.amatias.com/bbs/30/53.html#3

 JPEGで撮影する際にシャープネスをはずしておく、ということを述べましたが、その後判明したことはカメラによっては「シャープネス0 」のデフォルト状態ですでにシャープネスがかかっているという事実に、唖然とさせられました。あまりにもユーザーを見下した機能設定がされていると憤慨したくらいです。画質などより、見映え優先の方がユーザーにとってありがたいだろうとメーカーがもし考えているとするならば、それは看過できない由々しき問題だと思います。
 また、「それを懸念するのであれば初めからRawでお撮りなさい。JPEGなんてそんなものですよ」とでも言いたいのでしょうか?

 ぼくは幸か不幸か、このようなカメラを使用していないので気がつかなかったのですが、シャープネスや色の彩度、コントラストなどの過剰な設定機能にどうか惑わされないようにと願うばかりです。

 私事で恐縮ですが、そして手前味噌のようでちょっと憚られるのですが、先月私の主宰する写真クラブのグループ展を催したところ、来場者からの意見でもっとも多かったものの一つは、もちろん写真の質自体が問われるのは言うまでもないことですが、プリント技術やその色調に感心したというものでした。
 確かに、他の写真展に比べて色彩鮮やかな写真表現はほとんどなく、華やかさとは一線を画し、地味とさえ言えるくらい色調を抑え、また絵柄に合わせた印画紙を慎重に選択し、吟味した結果であろうと思っています。
 目を覆わんばかりのデジタルの弊害をあちらこちらで見ていますので、そのような通弊や惨劇?を極力避け、受難に遭わないように指導した結果としてそのような印象を持たれたのだと思います。

 自分の写真を丁寧に扱う心得がなければ、人様に観ていただく資格などないとも思っています。ぼくは写真の上手下手を問うことはまったくありませんが、写真に対峙する姿勢にはプロ・アマに関わりなく、写真を愛好すると称するのであればやはり厳しさを求めて然るべきだと感じています。それがやがて美に対する深遠さや奥行きを育んでいくのではないかと暗に感じています。

 デジタルはアナログに比べ色調やトーンの調整がパソコンの前に座ったままで容易に行えますから、どうしても「やりすぎ」てしまうものです。それを押し止めるものはその人の良識や見識、美意識に頼らざるを得ないのですが、その感覚を養うには古今東西の名品(写真に限らず、文学、美術、彫刻、建築、音楽、陶芸、書、映画などなど風雪に打たれ普遍的な美を宿している作品群)に数多く触れ、親しむことが一番手っ取り早い方法だとぼくは考えています。
 写真は理屈じゃ撮れませんから・・・(と、いつも自分に言い聞かせています)。
(文:亀山 哲郎)