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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2015/12/11(金)
第277回:カラーとモノクロと
 「拙稿を書くに際して」を、ちょっと昔風にいうのならば「原稿用紙を前にして」と気取るのだろうが、さてぼくは毎回のこと、「今回は何を書こうか」と頭を悩ませる。書きたいことがたくさんあり過ぎて、どれを選択するかに時間を取られなかなか書き出せないでいる。あるいは、「次回はこれを書こう」と心したことを気前よく忘れてしまうから難儀する。歳とともに直近のことが思い出せない。今気取っている場合じゃないのだけれど。
 日常茶飯というものを観察しながら、そこに生じる玄妙なしくみを一つひとつ紐解こうとすれば、それはぼくの小さな脳を立ちどころもなく飽和させてしまう。第一、手に余る。ましてや拙稿は、それを写真に連結させなければならず、ますます手に余る。

 写真を始めたばかりの人から「カラーよりモノクロの方が奥行きがあり、想像をかき立てられますね」というメールをもらい、今ひょいと「カラーとモノクローム」について、思うところを反芻してみたのだが、評論家でも哲学者でもないぼくにはテーマが大きすぎて取っ掛かりがつかめない。これこそ手に余る。
 モノクロしか撮らない人、カラーしか撮らないという風変わりな人たちに(案外“風変わり”な人のほうが多いのかも知れない)、それぞれ言い分はあるのだろうが、それは時として優劣を論じるという間違った方向に舵を切ることになりかねない。そのような場を実際に何度か目の当たりにして、ぼくは「それは宗教論争のようなものだ」と思うことにしている。
 優劣を論ずるべきでない事柄に、優劣を持ち込もうとするから不毛の論議となる。ほとんどの人たちが、それは無意味なことだと知っているにも関わらず、人々は果敢にそれに挑み、意地を張ろうとする。この摩訶不思議。
 短兵急ないい方をすれば、それは「人それぞれ」という配慮を著しく欠いた結果である。この論争は裨益(ひえき)するところが何もない。

 ただ、「この写真はカラーのほうがいい」とか「モノクロのほうがいい」というものは確実に存在する。それはあくまで作者の意図にのみ依拠するものであって、他人の言い分ではない。したがって、そこにも優劣は存在しない。

 模範解答など存在しないところに、何が何でも模範解答を求めたがる人たちもいる。これがそもそもの過ちなのだ。異なる土俵であれば諦めもつくであろうが、それが似て非なる土俵だから、混乱してしまうのだろう。「もしかしたら優劣の決着をつけられるかも知れない」と思い込むのだ。
 模範解答というものほど真実を遠ざけ、歪めるものはないとぼくは信じているので、それを問われると、「写真は知的行為のなれの果て。それぞれを時に応じて巧みに使い分けること」が模範解答なのだと、わけの分からぬことを説き、人をたぶらかす。模範解答=正しいこと、と信じ込んでいる人たちがあまりにも多いので、ぼくはそういわざるを得ないのだ。
 若い人ほど模範解答を知りたがり、歳を取れば取るほど、真実とされることに疑いの眼差しを向けるようになる。これが正常ではないか?

 県展や市展に限らず、昨今の展示会を覗くと圧倒的にカラー写真が多い。今やモノクロはごく少数派のものになってしまったのだろうかとの錯覚を抱くくらいだ。この傾向はデジタル写真が市民権を得始めたここ十数年のことのような気もする。そして年々カラー写真の占める割合が確実に増えている。
 穿った見方を承知でいうのであれば、カラーのほうが視覚的な情報量が多く、直裁的で、現代の世相には受けがいい。端的にいえば、分かりやすい面を多く有しているともいえる。視覚に近い分、被写体の持つリアリティをより強く感じることができるという思いもあるのだろう。肉視(造語ですいません。肉眼とか肉情という言葉もあるくらいですから、いいでしょう)という生々しい表現には、カラーのほうが合致しているという感覚を多くの人が抱くのだろうとも思う。

 自身のモノクロ愛用について述べれば、モノクロは既知の色彩を鑑賞者に与えない分、ぼくに限らず作者のリアリティが色濃く、素直に表出する。無彩色ゆえ、色彩の持つ既成概念にとらわれずに済む。このことはつまり、鑑賞者をカラー写真のように現実世界に導くのでなく、モノクロは想像の世界に誘導するものだとぼくは考えている。より幻影に近いもの、あるいは個々人の原風景の復元は、モノクロ写真の持つ強いリアリティなのではなかろうかと思う。
 またぼくは、カラーで人肌を緑色や青色に表現する勇気がないからだということもできる。だからぼくはそんな煩わしさを避けるために、モノクロをもっぱら愛用する。
 モノクロはごまかしが効かないとの意見もあるが、カラーで肌色を美しく表現することはリアルすぎてぼくには極めてむずかしく、はじめからモノクロという非現実的な表現でごまかしているということもできる。
 「モノクロは無彩色の濃淡を使い分けて、虚構の世界を演出する」といえば聞こえはいいが、肉視という現実が恐ろしく、そこから遠ざかったところで、自身の要求に唯々諾々としながら無彩色の羽を伸ばして遊びたいだけなのだ。
 虚構こそがぼくの現実世界であり、またリアリティでもあり、遊びとはいえ本人は大真面目なのだ。ぼくのモノクロは生真面目さの成せる業でもある。灰色の濃淡を操ることは、実生活に必要のない余計な緊張感を引き寄せ、そこに写真の醍醐味を堪能させてくれる。

 取り急ぎ、今回は「テーマが大きすぎて、取っ掛かりをつかめないまま」ごまかしてしまおう。起承転結を文章の金科玉条にしている風変わりな人もいるが、謀(はかりごと)なく、ものごとを正直に述べようとすればするほど、そうはいかないのが世の常だ。模範解答のないところに首を突っ込みたがるのがぼくのリアリティでもある。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/277.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF16-35mm F2.8L II USM

★「01 都電荒川線」。
東京都北区王子。都電荒川線。王子から乗って、終点の三ノ輪あたりを徘徊。
絞りf9.0、 1/800秒、ISO200、露出補正-1。

★「02 王子さくら新道」。
王子駅に隣接する戦後間もないころに建設された居酒屋の居並ぶ長屋。過去、何度か撮影したが2012年に火災に遭い、一部が延焼を免れた。久しぶりの訪問。 
絞りf5.6、 1/20秒、ISO800、露出補正-1。

★「03 三ノ輪駅」。
終点と気づかずにいたら、地元の乗客に「この先には、線路ないよ」といわれ慌てて下車。何となく良い風情に1枚だけいただく。
絞りf8.0、1/60秒、ISO200、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/12/04(金)
第276回:京浜東北線(3)
 「写真を撮りたい」との思いに駆られてからちょうど60年もの年月が経過した。その動機についての記憶は、長い歳月を経てもぼやけることなく線画のようにくっきりとしている。明確な記憶の輪郭は、60年間もぼくに執拗に取り憑き、幸か不幸か、未だそれから逃れられずに悶々とした日々を送らせている。 
 写真を撮ることの歓びと、写真映像に対する憧れとの、その両輪に若干のずれが内在しているが、ぼくは後者への傾倒が強く、したがって鑑賞者側に立つことのほうが好きなのかも知れない。
 映像への憧れが撮影という行為を導くのだから(あるいはその逆であったり)、どちらが優位であるかの取り沙汰は無意味だが、世の中にはただ写真を撮ることに歓びを感じ、結果は二の次という大胆な人がいることも確かだ。ここに羨望の念を禁じ得ない。
 
 遠い記憶を呼び覚ますことは常に曖昧模糊とした残像に頼ることが多いが、半世紀以上昔の、セピアがかった、古ぼけたはずの「写真事始め」だけはなぜかとても鮮やかに、しかもモノクロームで蘇ってくるから面白い。それは記憶というより、自身のささやかな年輪のひとつとしてすでに体幹に深く刻まれてしまったのかも知れない。拭うことのできない生涯の記憶のひとつとして、「写真への動機」が、質の良くない主(ぬし)のようにぼくのなかに居座っている。
 ひょっとすると、「軒下を貸して母屋を取られる」との諺通り、ぼくは一時の気の迷いで写真を面白がってしまい、半世紀以上も写真という飼い犬に手を噛まれ続けているような気もする。

 小学3年時にぼくは病身の母を見舞うため、父に連れられて北浦和から千葉県の勝浦に週一度通っていた。千葉駅から外房線に乗っての下り線は、母に会えるという明るさがあり、帰路の上り線は日もとっぷり暮れ、母と別れた暗さがあった。明暗の入り混じった複雑な胸裏を覆うものが、「車窓風景」と勝浦の浜辺で拾い集めた貝殻だった。ハンカチに包んだ貝殻を握りしめて、ぼくは車窓に流れる風景を写真に撮ってみたらどれほど愉しいだろうかと、夢を見た。
 写真好きだった父にこわごわと「ぼくは写真機が欲しい」とつぶやいてみたのだった。大きな声じゃない。“つぶやいた”のだ。
 父はぼくの意に反してとても鷹揚に、「そうか坊主、写真機が欲しいのか。よし、こう(買う)たる、こうたる」と、ぼくの髪をくしゃくしゃ撫でながら、約束してくれた。つぶやき作戦が功を奏し、「何はともあれ言ってみるものだ」という知恵をぼくはこの時にありがたく授かった。何にでも極めて消極的で意気地無しだったぼくは、それ以降この格言!? を伝家の宝刀のように振り回し、少しずつ社会に馴染んでいった。

 この時に買ってもらった写真機がブローニー判のフジペットだった。この写真機を手にぼくは果敢に車窓風景に挑んだ。当時は、結果より撮影行為そのものが面白く、ぼくも一人前の大胆さを身につけていった。そしてまた、1本12枚撮りのブローニーフィルムは素早い消費を繰り返し、その度にぼくは覚えたてのつぶやき作戦を行使した。父は可能な限りのフィルムを与えてくれた。同時に、ぼくは写真のせいで徐々に油断のならない少年に育っていった。

 当時、京浜東北線にはまだ南浦和駅は存在せず、浦和駅の次は蕨駅だったので、少し長目の距離を運転手は上機嫌で飛ばしたのだろう。他の区間より車速が速かったのだろうか、あの田圃と雑木林の移り変わりはいつもブレて写っていた。父は流れ行く風景に合わせて写真機を動かせと、実に正しい指導をぼくに施した。窓に近いものは速く動き、遠いものは遅いと、父は子供にはむずかしい理論を展開してみせたが、ことの次第はさておき写真機を動かしながらシャッターを切るという魔法のような手法を教えてくれた。
 後年、父のむずかしい理論を意のままに操ろうとぼくは修練を積んだ。この技法を手玉に取れば車窓風景はより活気に満ちた描写が可能であり、撮影の許容範囲もさらに広がること疑いなしだ。車窓風景ばかりでなく、動くものに対してもこの技法は役立ってくれるに違いない。また、意図的にぶらすという小賢しい技術も駆使できる。カメラの動きとシャッター速度の相関関係を絡繰(からく)れば、写真に於ける生殺与奪の権を握ることができるはずだとぼくは信じた。

 7年前の秋、ぼくは友人たちと東北1週間の撮影旅行に出た。運転は若いカメラマンのK君に任せ、ぼくは後部座席から助手席に陣取るM女史に「流し撮りの練習をしなさい」と命じた。M女史は写真を始めてまだ4年。「流し撮り」という写真用語を知ってか知らずか、「はい!」と素直に応じた。車窓に流れる風景とは逆方向にカメラをサッと動かしながら得意満面でシャッターを切っていた。
 東北自動車道を高速で走る車が一瞬グラッと方向感覚を失ったかのように揺れた。彼女のあまりの違法的・武者修行的撮影作法に、運転をしていたK君は度肝を抜かれ、動揺し、その衝撃が直にハンドルに伝わったと思われる。
 K君とぼくは輪唱するように、「あっ、あっ、あのぉ、な、流し撮りってのはさぁ・・・そうじゃないんだってば」と、それ以上声も出せず、腹の底から笑いが込み上げてきた。ぼくは腹をよじりながら、「あほ、まぬけ、なすかぼちゃ! うんこったれ!」と、この時も思わず幼児言葉が口を突いて出たものだ。

 ぼくらは平常心を取り戻すまでに多少の時間を要したが、再びM女史が「時速100キロの場合、シャッタースピードは1/100秒よね。60キロの時は1/60
秒以上で切ればいいのね」と、ぼくの父よりむずかしい理論を持ち出してきた。
 1分ほどの、やはりむずかしい沈黙が車内を支配しつつあった。一応プロであり、賢人でもあるぼくとK君は重苦しい計算に悩まされたが、彼女の新説を打破する明確な根拠に恵まれず、さかんに頭を傾げるのみだった。
 彼女はかつて大手銀行本店の花形として長年勤め上げ、それに比べぼくら写真屋組は計算というものにはまったくの与太郎であったので、もっともらしく思える新説には極力慎重にならざるを得なかった。こんなところで馬脚を露わしてはプロの沽券に係わるとでも思ったのだろう。
 ぼくとK君は何度か目を合わせながら「なんか違うよな。なんか変だよな」と、乏しい根拠を元に、臆病風に吹かれながらも、再び幼児言葉を発し、お茶を濁してしまったのだ。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/276.html

カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm(35mm換算)。

★「01 港南台駅」。
絞りf5.6、 1/10秒、ISO800、露出補正-0.33。

★「02 本郷台駅」。
絞りf4.0、 1/250秒、ISO400、露出補正ノーマル。

★「03 帰路」。
帰路は各駅停車の京浜東北線を諦め、大船より湘南新宿ラインで。
前に座ったおじさんは懸命にシャッターを切るぼくを見て「何がそんなに面白いのか?」という顔で訝る。おじさんは自分の少年時代を忘れている。
絞りf5.6、1/500秒、ISO640、露出補正-0.33。

★「04 帰路」。
ガラスの写り込みを意識。
絞りf5.6、1/450秒、ISO640、露出補正-0.33。

★「05 帰路」。
多摩川。手前の鉄柱は速い移動のため、タイミングを計る。
新幹線ではできないかも。
絞りf5.6、1/320秒、ISO640、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/11/27(金)
第275回:京浜東北線(2)
 東西冷戦の終焉期(1990年前後)、ぼくは足しげく旧ソ連邦や東欧を訪れていた。今思うと、歴史的な動乱期と大転換期を現地の人とともに体感し得たことは、おぼろ気ではあるがその後の写真のありようや思想になにがしかの影響を与えたような気がする。明確でないところがぼくの、駄目の駄目たる所以だ。 
 そしてまた、瞬時に思考が追いつかず、時間が経った頃に事の次第を悟り、慌てふためくのである。事象とそれを飲み込むまでに時間差があり過ぎて、思うように嚥下できず、だからぼくはいつも知ったかぶりばかりしている。週刊誌や月刊誌の求めに応じて、ぼくは東欧見聞録なるものについていい加減なことばかりいっていた。もうとっくの時効じゃけん、よかでしょう。

 旧レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)から寝台列車でエストニア共和国の首都タリンへ向かう車中、同室となったイギリスのご婦人から、「中国で今大変なことが起こっている」と聞かされた。駆け出しの新聞記者であった彼女は、知り得る情報を細かくぼくに伝えてくれた。それが天安門事件だった。1989年6月のことである。
 彼女はイギリス諜報機関MI6の回し者に違いなく(と、勝手に決めつけている)、ぼくは彼女に「ところでMiss 007、あなたの上司はイアン・フレミングというんじゃない? 白状しなさいよ」といったら、「そうね、私はBBCのエージェントということにしておこうかしら」と屈託のない大笑いをしてみせた。やはり怪しい。
 西洋の女たちは、大和撫子とは打って変わって、ところ憚らず大口笑いをし、手で口元を覆うなどという所作を心得ていない。大股、外股で闊歩することもまったく厭わない。西洋と日本では、色香とか艶姿(あですがた)というものの基本的概念が根本から異なるのだ。西洋女はいってみればすべてが異形であり(その異形もまたよし)、敢えていうなら「女っ振り」がいいということだろうか。ぼくは車窓に流れ行く針葉樹林帯を眺めながら、こんなところで日本女性のしとやかさを懐かしんでいた。
 そして翌年、ぼくは再びバルト三国のひとつ、ラトビア共和国の首都リガにエストニアを経由して赴いた。ホテルのベッドに横たわりテレビのドキュメントを眺めていたぼくは、その映像の美しさに思わず身を起こし、「こんなに美しいビデオ映像は見たことがない」とひとりごちた。それは隣国リトアニアの独立運動を記録したドキュメント番組だったが、室内からガラス越しに撮影されたシーンの美しさは圧巻だった。言葉はまったく理解できなかったが、その映像美たるや、ぼくを虜にするに十分だった。

 テレビにビデオ映像が用いられてからこんにちに至るまで、ぼくは美しいビデオ映像を見たことがない。ビデオ動画はフィルム動画の美しさには到底敵わないとの観念がぼくにはすっかり定着していたし、その考えは当時も今も変わっていない。
 そのドキュメントは帰国後日本でも放映され、ぼくは再び感嘆した。それはぼくの見ることのできた唯一無二の美しいビデオ映像だったが、それでも「ビデオは美しくない」という観念を払拭するには至っていない。

 つい1ヶ月ほど前、何気なく見ていたハンガリーのB級映画の数秒間にぼくはまいった。不覚、題名を忘れた。
 夜、男と女がコーヒーを飲んでいる喫茶店のシーンが、外からガラス越しに写されていた。タングステン電球に照らされた、なんとも形容しがたいほどの、滑らかで柔らかいグラデーションにぼくはまいってしまったのである。ハリウッド映画では滅多に見られぬ美しさだ。
 ガラスの微妙な乱反射が光の具合と相まって(おそらく偶然だろう)、得もいわれぬ色調を醸していたのだ。微妙な乱反射は、物の輪郭や色を微かに滲ませ、解像度を甘くし、コントラストを和らげ、適度に立体感を失わせ、それはカメラに取り付けるフィルターからは得られぬ何かだった。
 ぼくは咄嗟に、古い建築に使用されていた昔のガラスを思い浮かべた。厚さに均一性がなく、向こうの風景がゆらゆらと揺れ、波打つあのアンティークなガラスである。

 早速友人の建築家に「あのガラスは何というのだ。手に入れるにはどうすべきか。わたくしは、あのガラスを使って裸婦像を撮るのだ」とメールした。
 自分の専門分野には過剰で居丈高な態度を示す彼がいうに、「あんたにはわからんじゃろが、あれは手延べガラスといいましてですな・・・あんたにはわからんじゃろが、すでに国内では生産されておりません。海外から取り寄せるしかありません。あのゆらゆらガラスをPhotoshopでそれらしく模したものを添付するので、あんたにはできんかも知れんが、それを見てよく研究しなさい」と、高飛車な鼻息にぼくは吹き飛ばされそうになった。この人、いみじくも、わたくしの教え子なんですよ! ちょっとましな写真を撮るようになったと思ったら、すぐこのありさまだ。

 気に入った女性ポートレートを取り出し、ぼくは直ちに手延べガラスをPhotoshopでシミュレートしてみた。手延べガラスの雰囲気は見事に醸せるのだが、顔がクニャクニャ・ユラユラして、彼女の顔はまるで正月の福笑いのようになり、「ここで笑い転げてはいかんだろ。失礼だろ。男は忍従」と、ひくつく腹を必死に押さえた。手延べガラス作戦は、肖像画に関する限り見事に敗退せりだった。

 どのような条件が揃えば、あの映画のような描写が可能なのだろうか? その因果関係を探るにはとにかく場数を踏むしかない。まず電車の窓からガラス越しにいろいろ試行してみようと思い立ち、京浜東北線での移動にカメラを持ち出したというわけである。
 前振りの長い立川談志が生前こんなことをいっていた。「前振りの長い噺家は下手くそなんだ」と。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/275.html

カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm(35mm換算)。

★「01 車窓風景」。
京浜急行との交差地点。
絞りf5.6、 1/640秒、ISO400、露出補正-0.33。

★「02 車窓風景」。
学生時代にこの近辺を訪れたことがある。当時は雑木林しかなかったが、今新しい街ができ、ぼくはそれだけ老いたということか。
絞りf5.6、 1/800秒、ISO400、露出補正-0.33。

★「03 新杉田駅」。
席に座ったまま後ろ向きになり、ホームの情景を。意図的にブラして。
絞りf5.6、1/105秒、ISO800、露出補正-0.33。

★「04 車窓風景」。
さまざまなソフトのプリセットから、都合11枚の画像を作り、貼り合わせた。複雑なことをし過ぎて、頭が混乱し、そのさなか仕上げたもの。
絞りf5.6、1/800秒、ISO400、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2015/11/20(金)
第274回:京浜東北線(1)
 先月久しぶりに電車の遠乗り?をした。所要時間約1時間40分。埼玉県北浦和駅から神奈川県本郷台駅まで、京浜東北線に揺られての、のんびりとした移動だった。撮影が目的ではなく、友人の病気見舞いだったが、ぼくはある写真的試み(次号にて解説)のためにカメラを持ち出すことにした。
 写真屋になって以来何十年も、移動はもっぱら車に頼っていたが、“改札の呪縛”から解き放たれた今、ぼくは一丁前の顔をし、勇んで電車を利用することにしている。“改札の呪縛”といってもいいほどに、ぼくは乗車に対する気後れと怯えによる拒否反応を示していた。

 ずっと以前のこと、改札を通過する際に何かの手違いによりドアが問答無用とばかり権威主義的にバタンと閉じ、ぼくは太股に予期せぬ衝撃を受け、金縛りに遭い、そして立ち往生となってしてしまったことがある。後方からの声なき声、「どないしたんや、はよせんかい!」という、なぜか関西訛りの怒声的音波を敏感に汲み取ったのである。後頭部に受けた音波を未だ拭いきれないでいる。 
 いつの頃からか出現した自動改札による無機質かつ無慈悲な通過儀式のさまざまを知らなかったがために引き起こされたことどもは、一種の物言わぬ恫喝のようなものだった。その強迫観念はぼくに複雑で重篤な精神疾患をもたらしたのだ。  
 中年に差しかかった頃に、現代風ともてはやされる社会的仕組みに自ら身を置き、それに順応することのばかばかしさと浅薄さを知っていたはずだったが、還暦を過ぎてまでこのような不躾な仕打ちに順応しなくてはならないとは、まったく思いのほかだった。
 切符自動販売機と自動改札というコンピューターによる威嚇装置がじくじくと疼きながらトラウマとなり、「君子危うきに近寄らず」とばかり、電車利用を極力避け続けてきたのである。改札を無事通過することに何度か失敗したため、小心者のぼくは利用の度にオドオドし、狼狽もし、異常な緊張を強いられた。

 そして今、世間並みの“改札通過技能”を修得したことはまことに悦ばしい。このことはぼくにとって大仕事であり、決して他愛のないことなどではない。
 妻はぼくにSuicaなるものを持たせ、一人前の正しい社会的人間に育ててやろうとの心意気を示したが、カードの利用金額が枯渇して以来、ぼくは妻の麗しき配慮を徒(あだ)にしている。そして皮肉なことに、そのカードは定期入れに入れたままで使用可能であることを知った矢先のことでもあった。ぼくはだから今、乗車の度に切符を購入し、改札に差し込み(出てこなかったらどうしようと怯えながらも)、律儀に“通過儀式”をこなしている。
 人は一度トラウマを抱えると、その傷はなかなか癒しがたく、何かの拍子で条件反射のように生々しい記憶がひょっこりと顔を出す。通過技能を修得したといっても、その痛みに終生つきまとわれるのだ。

 そして電車行脚の苦難はまだまだ続く。それはこの4,5年、プラットフォームや車内にわがもの顔で猛烈に増殖したスマホ虫である。この虫は害虫とまではいえず、ぼくに強迫観念を与えない分人畜無害ではあるが、ただひたすら虚しさばかりを覚える。この虫たちは感情も、意識も、思考もまさに完全停止状態にあり、それに気づいていないので“やはり”空恐ろしい。公共の場にあって、自分を取り囲む状況に無感覚でいられることは、触覚を失うに等しく、さらに恐ろしい。まさに無痛・無感の逞しき人々である。
 このありさまを眺めていて、ぼくは老婆心を必要とはしないが、虫たちの脳細胞の壊死を直視しなければならず、それは“やはり”憂鬱である。この絶望的な風景は、悼むべき現代風社会的仕組みの断片なのだろう。
 ぼくは自尊心が強いのか、スマホなるものに一顧だにしたことがない。

 北浦和駅を出発した時間は正午だったので、比較的空席があった。ドアのすぐ右手に誰も坐っていない優先席があり、自分の姿を鏡に照らしながらそこに坐ってよいものだろうかとさんざん悩み抜いたのだ。団塊の世代は今、「優先席」という名称に悩ましいお年頃なのだ。
 ぼくが何故優先席にこだわったのかの理由はふたつ。ひとつは、車窓風景だけでなく車内も撮りたかったので、優先席の向い側には席がなく(こういう仕様があるとは知らなかったなぁ)、人物との距離が取れ、なおかつ観察地点として好都合だったこと。つまり、そこはほどよい撮影空間に恵まれていることだった。
 そしてもうひとつは、優先席に坐ればどのような心理状態に陥るのかという興味だった。この着座はちょっと勇気が要る。団塊世代の読者諸賢には、その複雑なる心境について改めて述べる必要もないだろう。自尊心によるやせ我慢を取るか、ご都合主義の成りすましのどちらを選ぶかということである。普段、優先席に坐ることのないぼくは、今回長旅と撮影を全面に押し出し、後者を選んだ。“優先席に相応しい”乗客がいれば、もちろん席を立つ。

 新橋を過ぎたあたりで、インド人のビジネスマン2人が隣の空席に腰を下ろした。ターバンを巻いた年の頃40代と思しき壮健な人たちだった。ビジネスに余念がないらしく、もの静かに語り合っていたが、浜松町から“優先席に相応しい”老女が乗ってきて、ぼくらの前に立つや否や、くだんのインド人の1人が即座に老女に席を譲った。
 ぼくのほうがおそらくインド人たちよりずっと年配であろうから、ぼくが敗北感を味わう必要もないのだが、ぼくにだって若く壮健な時代があったのだ。いきなり白髪ジジィになったわけではなく、未だ若き時代の気分を引きずっている。つまりぼくは、インド人たちより若いと一瞬錯覚し、そうでありたいとの願望を抱いたに違いない。
 滑稽なことと一笑に付したいと思うのだが、そうはなかなかいかないところが団塊の複雑な、お年頃の悩ましさなのだ。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/274.html

カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm(35mm換算)。

時系列に掲載。
★「01 京浜東北線車内」。
優先席に座ったままの位置から。前に立った女性を観察しながら、カメラ設定をあらかじめ整える。車内は思いのほか暗いのでISOを上げておく。
絞りf5.6、 1/80秒、ISO800、露出補正-0.33。

★「02 京浜東北線車内」。
個人(集団ではなく単体での)を特定するような国内写真は今まで掲載を控えたが(そうしなければならない理由はないが)、今回は正面顔でないこともあり、掲載することに。
優先席から身を乗り出し、アングルを下方からにするため両膝に肘をつき、女性の様子を窺いながら静かにシャッターを押す。
絞りf5.6、 1/450秒、ISO800、露出補正-0.33。

★「03 磯子駅」。
席に座ったまま後ろ向きになり、ホームの情景を。ソフトフィルターを掛けたイメージで。
絞りf5.6、1/220秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「04 新杉田駅」。
窓ガラスの汚れと乱反射を暗室作業で強調し、この場の空気感を。
絞りf5.6、1/125秒、ISO800、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2015/11/13(金)
第273回:写真評
 他人の作ったものについてあれこれいうのはとてもたやすい。自分の言辞に責任を伴わぬ場合はますますたやすい。感じたままを、言いたい放題に、ぼくは良心に苛まれつつも、悪態さえつく。よせばいいのにである。
 率直にもの申す姿勢はしかし、相手に対する誠意であると同時に、自身の佇まいや自分の作品のクオリティの一切を、一旦棚に上げるというさもしさに等しく、畢竟そこに猛烈なジレンマが生じる。だから写真評という行為は常にぼくを大変悩ましい状況に追い込むのだ。そして、そこに共存する評論的ボキャブラリーの不足が輪をかけ、ぼくはますます苛立ち、窮地に陥り、所在を失っていく。
 本心をいえば、今このジレンマの正体についての詳細を述べたい気持に駆られている。それを強行すれば、自分の写真評についての論点とその拠り所となるものをいくらか整理・分析できるような気がするのだが、議題に取り上げた「写真評」から大きく外れ、しかも駄文長文となってしまうので、取り敢えず棚上げにしておく。

 写真評というものに対してのジレンマの解消には、ある種の離れ業が必要だ。 
 それは自身の好みを排し、歴史的に良い写真として評価の定まっている様々な形態の写真に自分の物差しを宛てがい、相手のレベルを斟酌しながら、思うところを信念に従って真摯に伝えること。この趣意が理想とは思わないが、評論家でもないぼくが取るべき当面の指針だとすれば、なるほど、離れ業というか、相当な芸当でありましょう?

 1ヶ月の間にぼくは100枚以上のプリントの写真評を課せられている。審査委員などしていないにも関わらず、一時に2000枚以上などということもあり、足腰が立たなくなってしまうこともある。また時には、見ず知らずの方々が、ぼく如きに「写真を見てもらえますか?」といってやってくる。わざわざ札幌や博多の遠方からも、一介の写真屋にすぎぬぼくのもとに足を運んでくれる奇特な方々もいる。「ぼくはそんな玉でないのに」と正直に思う。
 しかし、人様のつくったものに批評・論評を加える資格が果たしてぼくにあるのだろうかとは考えない。それはぼくが決めることではなく、相手が決めることだから。そしてまた、いくらぼくが、居住まいが悪く不遜であろうとも、ぼくに写真を評する慧眼が備わっているとも思っていない。
 写真を見せる人は、「自分の写真について何かの示唆を、このおっさんは与えてくれるかも知れない」との淡い期待と希望を抱いているのだろうと思うことにしている。ぼくの写真に少なからず好意を抱いているからこその、ぼくの悪罵に対しての容赦を認めているのだろう。

 言葉を受け取る側(写真評を受ける側)にもさまざまなタイプがあるので、ことは厄介だ。それを使いこなす的確な技量をぼくは持ち合わせていないだけに、だから余計に気を遣ってしまうのである。作品の否定的な面はできるかぎりソフトに述べ、良い面は大いに褒めることにしているが、その匙加減がとても難しい。
 欠点を指摘する時、「ではどうすればいいのか?」に必ず言及することを旨としているが、相手によっては(特に古兵とか剣客に対しては)「ダメ」の一言で済ます場合もある。
 欠点を指摘することより、長所を伸ばすことがぼくの役目と心得ているが、そうは言いつつもいつも欠点に目をつむってばかりいるわけにもいかず、その相剋にぼくはのたうつのだ。
 月一度の定例会の日に限って、様々なストレスにより、礼儀正しく結石の発作が計ったようにやって来て、ぼくはのたうち、強力な鎮痛剤をポケットに忍ばせている。結石の痛みと不快感は尋常なものではなく、しかしだからといってぼくは退座したことなど一度もない。この健気さを誰も理解しようとはしない。「しぶといおっさんだ」とくらいにしか思わぬ薄情者にぼくは囲まれている。

 褒められることにより精神が高揚し、今まで以上に意欲的に写真に臨もうとする人。これが一般的だが、もう一方では、ぼくの毒突きを、落ち込むどころか心地よく感じる変わった人たちがいる。このようなマゾっ気に富む人が身近に何人かいるのだから、気味が悪い。ぼくの悪罵を聞かないとすっきりしないとか、写真評をしてもらったという気がしないという変態さんがいる。
 
 先日、若い友人が個展を催し、個展の閉期間際になって電話をしてきた。「来て下さい」と、何か思い余ったというか切羽詰まったような口調だった。「グサッと心臓に突き刺さるようなことを誰もいってくれないので、ここはかめやまさんの出番だ」というのである。こんな出番はあまり嬉しくない。
 誤解を招かぬようにいっておかなければならないが、ぼくはこれでも作者に失礼にならぬように数少ない持ち言葉を丹念に選択し、相手を傷つけまいとの配慮くらいはしているつもりである。感じたことを適切な言葉で表現できない自身に苛立ち、そしてもどかしく、そんな時に仕方なく、どうしても手っ取り早い幼児言葉が意に反して口を突いて出てしまうのである。たとえば「ウンコ」とか。

 結石の発作に見舞われながらも、何故写真評を止めないのかを謙虚に振り返ってみると、「ぼくの信念に従った写真のありよう」を伝えることによって、写真の持つ深度を、頑迷・偏狭に陥ることなく深めて欲しいという個人的願望であることに気づく。第270回で、「類似品」や「既製品」を遠ざけて欲しいという嵩高な言いようをしたが、それは自身への強い戒めでもある。
 写真評が、写真の上達にどれ程の作用と影響を及ぼすのか、その因果関係を知る手立てをぼくは今のところ持たないが、助手君を含めた何十人の人たちを見てきて、そこにもし最大公約数的他律性のようなものがあるのだとすれば、それは「素直に受け取る」ことに尽きるような気がしている。「ウンコ」の効用はあなた次第なのだ。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/273.html

 倶楽部の友人が家族旅行と称してロンドンに行ってきた。定例会でその写真を見せてもらい、ぼくは47年前(20歳)の郷愁に浸った。その時の写真を5点ばかり掲載させていただく。
 カメラは中古で買ったNikon F。レンズはNikkorの35mmと50mm。フィルムは英イルフォード社のもの。アナログ印画紙をスキャニングしデータ化。デジタルの暗室補整は加えていない。

★「ロンドン01〜05」はすべてロンドン市内。20年以上ロンドンに居を構え、勤めている友人によると、「この20年の間にかつての古き良きロンドンはどんどんなくなってしまった。イギリス紳士も淑女もどこかでひっそりなりを潜めている。寂しい限り」といっていた。

(文:亀山哲郎)

2015/11/06(金)
第272回:1枚の写真のインスピレーション
 「北極圏直下の孤島へ」を連載していた1ヶ月ほど前のこと。ソロフキの存在を知らされた『収容所群島』をもう一度精読しようとページをめくっていた時、ぼくはある写真(掲載写真01)に目が釘付けとなった。過去何度も通り過ぎた作者不明の、80数年前に撮られたその写真にすっかり魅了されたのだった。
 ネガティブな解釈をもってすれば、不完全だらけのその写真を、無頓着に通過してしまったのは明らかにぼくの落ち度なのだが、反対に我田引水・自画自賛をもってすれば、それは日々の成長の証と取ることもできる。取り敢えずぼくは後者を選択しておく。
 以前見過ごしていたものを、時間の経過とともに、ぼくは自然の摂理に従い年老いつつあるけれど、余生を惜しむようにさらに成長著しく、新たなるものを発見できたことの歓びと刺激はやはりとても大きい。落ち度と成長の両方を素直に認めることにしよう。

 何故今さらながらにその写真に心を奪われてしまったのか? それを見ながらぼくは、「写真ってこれでいいんだよね」と自分を諭すように何度もつぶやいた。その思いは、現代の病に冒されていることの自覚に他ならぬことだったのではないか。
 以前に述べた記憶があるが、ぼくは自己の問題として、昨今のデジタルの「写りすぎ」にどうにも我慢がならないでいる。写真科学の一面を取り上げれば、解像度というものは人間の写真的欲求を満たす一手段であるがゆえに、「より微細に、より明確に描写する」ことを、写真が発明された当時から今日まで人々は願ってきた。技術者は一途にそれを追及し、愛好家は喜びながら従ってきた。現在に至るも双方がその手を緩めることを知らない。
 このことは科学的進化の必然の成せる業として、それ自体をぼくは否定するものではなく、むしろそれどころか実際に甘受してきたといえるが、ユーザーは自身の節度を良識に従ってどこかに量定すべきではないだろうかと、ぼくは世の愛好家たちに投げかけてみたいのだ。

 技術は磨きをかけながら進化し続け、その恩恵を授かる人間の精神的資質は同時進行とはいかず、常に後手に回るのは仕方のないことだが、もてあそばれることには警戒怠りなくということだ。ぼくは不覚ながらも、もてあそばれてきたという自覚が生じたので、「デジタルは写りすぎなんだってば!」と、ぐちぐち文句をいっている。
 い草で編まれた馥郁(ふくいく。よい香りのただようさま。大辞林)たる畳を感じ取る感覚が最優先されるべきことで、編み目の勘定に精を出し、それをありがたがるのはお門違いだとぼくはいいたいのである。

 技術開発者の言を待てば、おそらくぼくの考えに異論のあることは重々に理解できる。そしてまた、愛好の同志たちからも、「では、そんなものを使わなければいいじゃないか」と乱暴かつ安易に揶揄されることもあるだろう。
 今はなき過去に完成された良きものと現代の技術を駆使した機器との、決して容易ならぬ併存を探し求めるのが、現代に生きる者の理想なのではあるまいか。ぼくはその信条に従いたいのである。「温故知新」とは微妙に意味合いが異なるのだが、現代のデジタル技術でなんとかそのような表現ができないものだろうかと、苦心惨憺してみようと思っている。
 
 掲載写真「01白海運河」は、白海運河での冬季作業を撮った貴重な写真である。スターリンが発動した社会主義国家建設のための5カ年計画の一環は、1931-33年のたった20ヶ月間で、227kmの花崗岩大地を結果としてほとんど手作業だけで掘り進んだのである。作業は苛酷で残虐を極め、膨大な人命が失われた。

 この写真に、どのようなカメラとレンズ、フィルムが使用されたかはまったく分からない。また、現像処理方法も分からない。この写真は書籍での印刷のもので、実際のプリント、もしくはネガフィルムをぼくが見たわけでもない。撮影機材や処理上の不備のすべてをこの印刷(印刷特有の網点もあるので)から読み解こうとする試みは極めて無謀ではあるが、しかし、自分の多くの写真が印刷になっているぼくの経験から推察すれば、この写真はかなり不完全な処理が施されているのだと思う。ネガも傷だらけである。

 長年アナログの暗室処理に携わってきたぼくにとって、この写真のトーンや解像の曖昧さは確かに“身に覚えのある”ものだった。この“身に覚え”にぼくは強く引き込まれ、ちょっと打ちのめされてしまったのである。忘れかけていた美しいものに覚醒させられたのだ。
 それは郷愁や懐古への憧れではなく、現在のデジタルが失ってしまったものであり、写真表現として必要にして十分なものが、あるいは写真としての幽玄の美が確かに存在していると思えたのだ。穿った言い方をするのであれば、それは「不完全なものの統一が成せる一種の整合美」のようなものだ。不備・不堪なものが堆積したその隙間から、忘れかけていた落とし物がひょっこり顔を出したに似ている。
 デジタルの写りすぎを打ち消しながらも、写真古来の美しさを失うことなく、その様がここに見事に具現されているではないかと、ぼくは恐悦した。
 デジタルでどのようなアルゴリズムを用いればこのような描写ができるのか、門外漢のぼくには皆目見当がつかないが、このイメージを心に刻んでおけばそれでいい。しばらくの間は、それを拠り所に暗室作業のあれこれを試してみようと思っている。

 掲載写真「02ポカラの子供たち」は、カラーポジフィルムで撮影したものだが、この写真は撮影時からモノクロをイメージしたものだった。しかし、何度モノクロ変換を試みても、どうしても上手くいかずとっくに諦めていたのだが、白海の写真のトーンにインスピレーションを得て、何とか意図したものに近づくことができた。「怪我の功名」ではなく、何というんですかね? 「瓢箪から駒」? 潰すところは潰し、飛ばすところは飛ばして「何が悪い!」って開き直った結果である。年老いて、これからも強く、逞しく開き直ってまいります!

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/272.html

★「01 白海運河」。
ソルジェニーツィン著『収容所群島』第3巻第3章 「群島は癌腫を転移さす」より。

★「02 ポカラの子供たち」。
撮影データ:カメラ:ライカM4、レンズ:ズミルックス35mm F1.4。フィルム:コダック・エクタクローム64。ISO 64。

(文:亀山哲郎)

2015/10/30(金)
第271回:荒川区三河島(3)
 はじめに「写真よもやま話」に相応しく、レンズの焦点距離についてもう一度お復習いをしておこう。大切なことは何度繰り返しても、過ぎるということはないと、ぼくはうちの倶楽部の人たちから学び取った。そして常々彼らの「馬の耳に念仏」を痛感させられている。言葉を変えれば、「糠に釘」とか「のれんに腕押し」とか「馬耳東風」ともいいますなぁ。ともあれ、ぼくはあの手合いを憂い、お嘆きなのだ。
 念のために「糠に釘」を辞書で引いてみると、「手ごたえなく効目のないことのたとえ。意見しても効果のないことなどにいう」(広辞苑)。「馬耳東風」とは、「(春風が吹くと人は喜ぶが馬は何の感動も示さない)人の意見や批評などを、心に留めずに聞き流すこと」(同)とある。なるほど、李白はうまいことをいったものだ。

 前回のレポートでお伝えしたように、三河島再訪時、ぼくは焦点距離16〜35mmの広角ズームをカメラに取り付け、すべての写真をそれ1本で賄った。撮影の多くを16mm固定で使用していたので、被写体を前に迷うことなく立ち位置が定まり、「写真はザックリ撮ればいいのさ」を念頭に2時間を心地よく過ごすことができた。撮影枚数は160枚。多くもなく、少なくもなくといったところか。
 ファインダーを覗いて画角にズレが生じた場合には、ズームをジコジコさせて調整するのではなく、自分の立ち位置を変えるのが(単レンズと同様の使い方)ぼくの流儀。ぼくは気弱な質なので、自分の流儀を他人に押しつけることはほとんどしないのだが、自分はボーッと突っ立ったままズームで押したり引いたりしながら、なんとかしようとの料簡だけは気に染まない。足を使えってば! そんなことをしている限り、大切な写真のフットワークは育たない。写真ばかりでなく、何事にもそれに相応しいフットワークというか順応した足さばきや身のこなしってもんがあるでしょう! 茶道の立ち居振る舞いという日本古来の素晴らしい美の様式があるではないか! と、わたくしは並み居る馬の耳に向けて叫ぶのであります。

 焦点距離が連続可変であるズームレンズの使い方は個人によってそれぞれに異なるのだろうが、ぼくは被写体を発見した時、「これは16mm(20mm 、24mm、 28mm、35mm)」と決め、あらかじめ焦点距離を固定する。ぼくにとって大切なことは画角も然ることながら、遠近感を優先するので、決してズーミング(ジコジコ)で調整する方法を採らない。その理由は、より素早くシャッターを切りたいからだ。ファインダーを覗いて瞬時にシャッターを切るのが理想だが、いつもそのようにいくわけではない。あれこれ考えているうちに、感動やイメージのすべてが薄まり、やがて逃げ去ってしまうという恐怖がぼくにはある。もたもたしていると、静物撮影に於いても「出遅れ」を感じ取ることが多い。そんな時の写真は大方出来がよろしくない。
 「鉄は熱いうちに打て」に倣えば、「写真は熱いうちに撮れ」ということだ。
 誤解を招かぬように補足するなら、それは「被写体をよく観察したのち」という条件付きである。その経過をたどっていない写真があまりにも多いのではないかとぼくは感じている。写真評をする時に、「被写体を見る前に、あなたはシャッターを切ってしまったね」とぼくはよくいう。自戒を込めて。

 広角レンズ(焦点距離が、標準とされる50mmより短いもの)は、焦点距離が短くなればなるほど、手前のものをより大きく、遠方のものはより小さく描写する性質を持っている。短くなればなるほど、遠近感(パース)が強くなるのがレンズ光学に従った理屈である。ここが肉眼とは決定的に異なる現象なので、レンズの持つ遠近感を身につけることが大切。
 では焦点距離が異なると写真にどのような違いを生じるかは、「第21回:風景を撮る(10)」の掲載写真をご参照いただければと思う。
 文中、「焦点距離の異なるレンズを使い分けるということは、つまり主人公の背景にどんな役割を演じさせるかということなのです。音楽で言えば主旋律を奏でる楽器があり、他の楽器はどのような和音や旋律を歌い、より主旋律を引き立たせるかということと同じなのです」と、ぼくにしては簡便に述べている。

 三河島を歩きながら気づいたことのひとつは、我が家の周辺ではすっかり姿を消してしまった銭湯が意外に多く存続していることだった。2時間、同じ所を行ったり来たりしながら、4軒もの銭湯を発見し、すべてが営業中だったことに驚いた。ぼくは拍手こそしなかったが、惜しみなくその健闘を称えた。
 このことはつまり、地域のコミュニティが健全に、かつ濃密に営まれていることの証なのではあるまいか。隣近所の人たちが心身ともに裸のつき合いをしているその象徴としての公衆浴場の存在は、現代社会から失われつつある人間関係のぬくもりの残照といっても大袈裟ではないだろう。都内にあって、ここは素敵な下町情緒を醸していた。お隣さんと、昔の長屋のように醤油や味噌の貸し借りをするのか聞いておけばよかったと思っている。

 子供の頃に通った銭湯での情景が、ディフューズフィルタをかけたように拡散し、まさに湯けむりのなかから湧き上がってきた。銭湯の情景は日本人の心に染みついた原風景のひとつだ。
 今回は果たせなかったが、次回機を見て、撮影後の銭湯侵入作戦など試みようと思っている。温泉も結構だが、銭湯の乙なぬくもりにはやはり敵わないであろう。そしてまたここは古くからのコリアンタウンでもあり、焼肉屋や中華店も多く、安くて美味そうなものにありつけるかも知れない。ビール片手に、それも一興であろう。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/271.html

★「01 銭湯」。
銭湯の裏手に回り、引きの取れぬ路地にかがみ込んで。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf8.0、1/125秒。露出補正-0.33。ISO100。

★「02 木造家屋」。このような様式の木造家屋が何軒かあった。なかはどのような造りになっているのだろうか? 前号掲載の05写真も同じような造りだ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf6.3、1/60秒。露出補正-0.33。ISO200。

★「03 捨てられた旅行カバン」。なぜか路地の真ん中に旅行カバンが。住民に聞くと、「ここは車も通れないし、ゴミとして捨ててあるんでしょう」と、一切気にしないという口振りだった。窓ガラスに反射した夕陽がスポットライトのようにカバンを照らし出す。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf7.1、1/200秒。露出補正-2.33。ISO200。

★「04 広場」。路地から顔を出すと小さな広場に出た。とっさにピンホールカメラを思い出し、それをイメージ。こんなに鮮明には写らないのだが、あくまでそのイメージで暗室作業を。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf7.1、1/60秒。露出補正-1.33。ISO200。

★「05 赤い中華料理店」。真っ赤なペンキで塗られた共産主義的な料理店。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/80秒。露出補正-0.33。ISO250。

★「06 女子中学生」。踏切で遊ぶ女子中学生。この年代の少女は何をしても愉しく、面白いのでしょうかね? 見習わなくてはいけませんね。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/60秒。露出補正-1。ISO200。

★「07 駅」。帰路、三河島駅のエスカレーターで。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf4.0、1/20秒。露出補正-1。ISO200。

(文:亀山哲郎)

2015/10/23(金)
第270回:荒川区三河島(2)
 三河島第1回目の訪問で見事返り討ちに遭ったぼくは、その原因追及に余念がなかった。生まれてこのかた、“競争”というものをまったく意に介さず生きてきたぼくではあるけれど、自分の写真に関してだけはえらく勝ち気な面がある。それは“負けず嫌い”なのではなく、つまり“利かん気”というものなのだ。
 双方とも自己の発展や啓発に、心がけ次第では建設的な役割を果たすことができるが、“利かん気”はより内向的な性格を帯びているとぼくは捉えている。外に向けて“返り討ち”の悔しさを発散することなく、至らず事の応報は自己のなかにどんどん沈んでいく。“負けず嫌い”ではないので、いわゆる嫉妬や羨望には縁遠いが、ぼくの“利かん気”は自己が如何に自己らしくあるのかを厳しく問うてくるから厄介だ。心がけが芳しくないだけに、難題である。

 ぼくが常に主張する良い写真の条件のひとつは、「あなたらしい写真」なのであって、そのことはつまり、「作者の顔や佇まいがうかがえる写真」ということでもある。ぼくはそのような作品を、たとえ技術上の不備が見られたとしても、貴ぶべきものとして高く評価している。そんな写真を撮る人は、概ね“利かん気”の持ち主である。しかし、なかには稀に「煮ても焼いても食えない」と思わせるような人がいるから摩訶不思議だ。ぼくの考えも揺らいでくる。
 文脈の流れに従っていうのであれば、あなたにしか撮れない写真が必ずあるのだから、その発見に勤しんで欲しいということである。「誰にでも撮れる写真」や「どこにでも見かけるような写真」を、「類似品」や「既製品」と見なし、飽き飽きしながら、遠ざける意識を持って欲しいと、拙稿の読者諸賢には切に訴えたい。そのような作品は鑑賞に値しないのだから。
 ただ、上記したことを志そうと意識するあまり、「唯我独尊」とか「独りよがり」なものになってしまっては元も子もなくなる、と自戒を込めながらいっておこう。

 このような蘊蓄(うんちく)を垂れてしまうと、写真を掲載する手前、どうにも決まりが悪いのだが、言ってしまった以上は体裁を整えようなどと、はしたなくも考えてはいけない。好きな写真で飯を食おうなんてことは、面の皮がよほど厚いのだから、写真屋はそれ相応の覚悟を持っているはずだ。

 9月30日、2度目の三河島で驚いたことは、初訪問時に比べ住民が賑わっていたことである。これは大きな変化だった。路地裏で、軒先で、玄関先で、あるいは往来のど真ん中で、世間話に専心没入、誰憚ることなく我が世の春を謳歌する誠なるおばちゃんたちの姿が群れとなってぼくを襲い、そして精神的な視界を奪い去ったのだった。勝ち気なおばちゃんたちは立ち話に生き甲斐を得、霊験あらたかと生き生きしている。
 いつの時代も、何処でも、おばちゃんたちというのは、一挙手一投足に神経が行き届き、また一方で力まかせでもあり、とにかく力が全身にみなぎっている。健気に生きることの基本的な資質を彼女たちは終生保ち続けていくのだろう。男にはない見事な業という他ない。
 ここは老若男女がほどよく入り混じった濃厚な地域社会が存続しており、下町三河島の面目躍如といったところである。よき昭和にタイムスリップしたような、活き活きとした不思議な風情があった。

 1度目の訪問(前回)は残暑厳しい9月2日だったので、犬も猫も人も完全にうだっており、すべてにやる気が失せていたのだろう。パワフルな、さすがのおばちゃんたちもすっかりなりを潜め冬眠中だったのである。
 そんな場所で、カメラを手にした白髪ジジィ1人だけが、バンダナを巻いてやけに力み返っていたのだ。従って、路地裏を徘徊しながら最も敏感に感じ取ったものは、実はほのかに漂うネズミと猫の小便臭だった。含蓄に富むこの懐かしい香りが、ぼくをしてノスタルジックな世界に迷い込ませたのではなかったか?
 今これを書きながら、ぼくの失敗はここに起因するのではなかろうかと気づき始めた。レンズの焦点距離も然るものながら、情緒的な面に引きずられたのがいけなかったのだとぼくは悟り始めた。小便臭が情趣豊かなものであるかはさておき、あのリアリズム漂うおばちゃんたちの所作に、ぼくはあの地で覚醒させられたような気がする。

 今回掲載する写真は、焦点距離が16-35mmの広角ズームを使用したものだが、Rawデータのメタデータを見るとすべて16mm固定で使用している。ファインダーを覗きながらズームレンズをジコジコ動かすのは禁じ手としているので、ぼくは自分のその流儀を踏襲している。それはズーム使用の掟のようなものだ。
 口を酸っぱくして、「ズームを使用しての、多少の微調整は許可するが、立ち位置も定まらぬうちから、ズームでジコジコするんじゃな〜い!」と、うちの倶楽部の人たちに申し伝えている。それに頼っているうちは、パースも画角も身につかず、レンズの使いこなしなどとても覚束ないからだ。
 しかし、うちの人たちは指導者もどきのぼくの言うことを聞かない。ホントに聞き分けのない、“聞かん気”の人たちである。それでいて「かめさんのいう『まずイメージすることから始める』が、どうしてもよく理解できない」と、嘆いてみせる。
 自由剥奪の憂き目に遭って、人は初めて自由のありがたさを知るというから、近々ズームレンズを刀狩りのごとく召し捕って、質屋に放り込んでやろうと思っている。ここが勝ち気の見せどころでもあるのだ。 

 16mmとはちょっとエキセントリックな焦点距離(超広角)とも思えるが、前回使用した35mmレンズの倍以上の画角は、視野がやたらだだっ広いので、いろいろなものが写り込んでくる。何をどう省略するかに神経を費やさねばならず、そのことはつまり被写体をよく観察することにつながる。立ち位置やカメラの高さなどにも慎重を期さねばならない。
 とはいえ、ここはリアリズム溢れるおばちゃんたちの作法にあやかって、ぼくは今回無意識のうちに「写真はザックリ撮ればいいのさ」とうそぶきながら、どこか古式なこの街を歩き始めた。
 気温も湿度も下がったせいなのか、ネズミと猫のあの香りも利かん気のぼくの鼻先から召し捕られたように思われた。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/270.html

★「01 常磐線高架下」。
他愛のない光景だが、ぼくは自転車のある風景が好き。どこかに人間の姿が見えるからだろう。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf6.3、1/125秒。露出補正-0.67。ISO400。

★「02 回覧を持って走るおばさん」。今回は前回と異なり人物の往来があったので、人物スナップが多くなったが、個人を特定しづらい写真のみ掲載。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/100秒。露出補正ノーマル。ISO200。

★「03 和服のおばさま」。祭りでもないのに、なぜか和服を着たおばさまに多く出会った。和服を脱げば、リアリズムの世界に帰るのだろう。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/160秒。露出補正-0.33。ISO200。

★「04 路地」。階段のある路地がいくつかあり、昔ながらの風情を醸している。角に建つこの木造家屋は築何年くらいだろうか?
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf6.3、1/60秒。露出補正-0.33。ISO200。

★「05 空き地」。住宅密集地に突如出現した空き地。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/100秒。露出補正-0.33。ISO100。

(文:亀山哲郎)

2015/10/16(金)
第269回:荒川区三河島(1)
 重い腰を上げ、やっとのことで三河島(東京都荒川区)に行った。ぼくが三河島のイメージをどのように描いていたかは拙稿「第240回:妄想のはざまで」ですでに述べたが、我が家から電車に乗って40分で行ける三河島は、1万km彼方にあるソロフキより心理的な障壁が高かった。

 第240回に、
 「撮影に赴く前に、まずイメージの構築をする。描いたイメージを、今度は現地で取り崩していく。この作業が上手くできれば、写る」と書いた。
 ぼくの経験では、イメージと現実の双方を現場で沈着に見つめ直し、その分離作業がほどよくできれば上手くいく場合が多いということだ。そのことはすなわち、情に引きずられることなく、現実を素直に受け入れることに通じる。
 イメージに即したものを現場で発見しようと躍起になる必要もない。

 遠方のソロフキはぼくの生まれ育った文化や環境とはまったく異質のものなので、たとえ描いたイメージと現実とに甚だしき齟齬が生じても逃げ道がいくらでも見つかる。異文化に於けるその隔たりは、容易に受容できる要素と下地が誰にでもあるものだ。然るに、イメージと異なっても存分に言い訳が立つので、腐る必要はない。あたふたすることなく済むので、外国はかえって気が楽だ。
 それに比べ三河島は自己の幼児体験や原風景と重なる部分が多く、つまり同質の文化圏でもあるので、そこでイメージと現実の狭間に揺られながら齟齬を来してしまうと精神のコントロールが危ういものになってしまうのではないかとの恐れがあった。遠くの山崩れ(ソロフキ)は対岸の火事として、非情ながらも他人事(ひとごと)で済むが、隣の山崩れは身に降りかかり、災いとなる。ぼくはその災いが恐かったのだ。

 残暑きびしい9月2日、バンダナを巻き(ぼくの撮影必需品。ファッションではなく、実用としての汗しのぎ。バンダナなどという小洒落たものでなく、粋な日本手ぬぐいがあればぼくにはそれが相応しいのだが)、常磐線三河島駅に降り立った。「取り敢えずの下見」と言い訳をして、気軽に持ち出せるカメラを選んだ。
 愛用のFuji X100Sはすでに現行製品ではないが、広角35mm(35mm換算)の固定焦点(単レンズ)であり、APS-Cサイズながらも軽量で、描写も秀でている。どことなく大仰で、鉄アレイのように重たい一眼レフを人前に晒すのは気が引けるというもので、その点このカメラは小型で取り回しが効き、レンジファインダーにつきスナップには打ってつけだ。
 まず現場の空気に心身と、広角35mmの画角ともども馴染ませることから始めよう。ストラップを右手首に巻き付けてぼくは久しぶりに揚々とした気分だった。暑さもなんのそのである。

 改札を出たところが尾竹橋道りであり、ガード下の風景を撮ろうと思いきやぼくは早速つまずいた。カメラを構えるまでもなく、ぼくはその情景を稲妻より速く諦めた。広角35mmでは焦点距離が長すぎるのだ。画角ばかりでなく、パース(遠近感)も広角とはいえ35mmでは穏やかすぎて物足りず、そして光の明暗比も大きすぎて、魅力的な光景には違いないが、何から何までぼくのイメージ構築の手助けとなるような条件が不足していた。イメージを描くには、さらなる広角ともう少し穏やかな光が欲しい。 
 名手なら何とかするのかも知れないが、焦点距離に合った被写体の渉猟がぼくの流儀だから、ここであれこれ粘っても埒が明かないことは目に見えている。ぼくは潔くガード下のシーンを放棄した。撮影は時空という光速を追うのだから、いつの場合でも「即断即決」が肝要。
 時刻は午後3時30分ちょうどで、刺すような斜光がまぶしかった。

 太陽を背にして尾竹橋道りの向こう側を覗き込むと、100mほど先の常磐線の白い高架壁に一条の斜光が照り返していた。「うん、よかよか」とぼくは気色ばみ、手首に巻いたストラップがブルッと震えた。
 30年以上も前に見た絵画が、ぼくの黄ばんだ記憶帳のなかから、パラパラとページを繰りながら突然飛び出して来た。誰の絵だったか記憶にないが、それは鋭い光の束が壁に写った家屋の陰を引き裂くように描かれており、印象深い絵だった。おぼろげながらも、その色彩の鮮やかさと強いコントラストだけがぼくのまぶたに残存している。ぼくのイメージはその絵画に侵されようとしていた。

 立ち位置を決め、ファインダーを覗いて一撃を試みようとするのだが、何かが違う。何かが間違っているからしっくりこないのである。ファインダーを覗いた途端に、すでにインベーダーとしての絵画は姿を消し、ぼくは正気を取り戻していたにも関わらず、ベタ写真(01写真)を撮ってしまった。その原因と言い訳を今さかんに探しているところだ。何かが足りないだらけの写真。それを敢えて掲載するのもおかしなことだが、「こんな写真を撮ってもしかたないですよ」という見本として。悔しまぎれのやけっぱちというんですかね。

 レンズの焦点距離が合わないのか? 構図に難点があるのか? イメージが貧困なのか? 被写体を面白いと錯覚しただけなのか? 
 すべてが上手くいったとしても、あの絵のように写真はいかない。再訪を期して、わずか1時間の撮影でぼくは早々に引き上げてしまった。

 狭い路地の多いこの一画では、35mmはとても窮屈だった。良い写真が撮れなかったのはそのためだったということにしちゃおう。ぼくのような不器用な人間は、ちょっとでも焦点距離の合わないレンズを使うとからっきしダメな写真屋になってしまうようだ。しかし、下見の甲斐あって、2度目の三河島は超広角レンズと重い一眼レフを手に臨んだ。次回はもう言い訳が立たない。逃げ道が見つからない。でも、「取り敢えず2回目の下見」という手もあるか。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/269.html

★「01 何かの間違え」。
写真ってのは思い通りに写らないものです。
カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf5.6、 1/250秒、 ISO200、
露出補正-0.67。

★「02 アパートの階段」。
古い木造アパートの階段は腐食が進み、3年以内に必ず崩れ落ちると思われる。
カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf5.6、 1/450秒、 ISO200、
露出補正-0.67。

★「03 路地裏」。
多くの路地でつながるこの一画は、ノスタルジーと密集した家屋で特有の味わいがあり、まるで異次元の世界が垣間見られる。
カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf8.0、 1/70秒、 ISO200、
露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2015/10/09(金)
第268回:北極圏直下の孤島へ(26)
 ソロフキ島にやって来て、ぼくは自分の過去56年間の歩みや、それを取り囲んできた世界がどのようなものだったのかを、静かに、そして丹念に顧みようとした。地の果てのようなここソロフキにあって、ぼくは分不相応にも、そのような心事高大な気分に冒されてしまった。まったくぼくらしくない。
 しかし、そんな気を保てたのは訪島1日目だけで、ここの空気を体に染み込ませた2日目からは、ぼくに不似合いな殊勝さをあっさりと放棄してしまった。理由はともかくも、そんなことをしている場合ではないと、不幸にも、賢くもぼくは悟ったのだった。
 そしてまた、気力・体力の温存を図ればすべてを失ってしまうことにも気がついた。「倒れるまで、骨身惜しまず、とにかく行けるところまで行く」というのが、ソロフキでの正しい原初的作法だと思えたからだ。
 “後先を考えずに今を為す”のが我が家の家訓でもあり(ウソです)、ぼくの流儀でもあり(ホントです)、執心でもあるので、ひとかどの理屈は立つ。
 ここでの重要課題は、自分の過去を振り返ることではなく、親父の言葉を引くのなら、「創造は、地に這いつくばって、砂を噛み、血を吐け」ということであり、それは「今を一心不乱に為せ」ということなのだろう。実際に親父は常にそのような後ろ姿をぼくに見せていたので、十分な説得力があった。しかし、このような時に限って、なぜか忌々しくも亡父が立ち現れるのだ。

 「過去を振り返れば悔悟と痛惜の数々」に突き当たり、因って取り戻せるものは取り戻したいともがくのもまた人情だ。けれどたとえ情理を尽くしたとて、失われた時間は永遠に手許には帰ってこないのだから、ソロフキでの流儀作法は、亡父の言葉をもってして究竟(くきょう。極めて都合のよいこと。極めて優れていること。極めて道理にかなっていること)のこととすればいい。

 起床午前6時、就寝午後11時を瀟洒な宿で励行したぼくは、自分でも信じ難いその礼儀!? 正しさによって、写真を撮ることの原初的な意義を初めて感じ取ることができた。「早起きは三文の徳」というが、「三文」どころではない。
 「原初的な意義」をぼく流に換言すれば、「誰にもおもねることなく自分の写真を撮ることの気位」という意味である。この気位は精神を広く解放してくれる。
 気位とは、偏狭な自己愛からではなく、自身に汎愛の情を示すことによる一種の矜恃のようなものだとぼくは解釈している。

 そんなわけで、ソロフキでの8日間は、まったく意を迎えることなく写真に打ち込めた。思うに任せてシャッターを切ることの歓びと解放感は格別のものだった。算用のない気持ちの良さは、創造への真摯な対峙の顕れであり、一度味わうと離れがたく、現実的な貧乏と引き換えに維持可能なことである。誰それの意を迎えることを退け、だからぼくは今貧乏ではあるけれど、「写真をやっていく」気力を保ち続けることができるのだ。
 このことについての実体験を得たことがソロフキでの一番の裨益(ひえき)だったと捉えている。「早寝早起きは百両の徳」をもたらしたのである。

 事はこんな辺境な地でなくとも、多かれ少なかれ旅というものは、個人の情思や存念によって、その期待に応え、それに添ったものを与えてくれるものだ。旅はあなたにさまざまを分け与え、あなたを一端の詩人に仕立て上げてくれる。旅情とはありがたいもので、ぼくもそのような情趣にたくさん与ってきた。ただし、あくまで「一人旅」という条件付きだ。
 「一人旅」は自分発見のためのものであり、「二人以上」は単なる娯楽・遊興である。

 再びソロフキの地を踏むことができるかどうか分からないし、同じような旅ができる体力的な自信もないのだが、再訪する機会が訪れるのであれば、まず親父の亡霊を追い払うことから始めようと思う。そして、応分の機材で今度はモノクロームに徹して「百両の徳」をいただきたいと願っている。
 「取らぬ狸の皮算用」で、ぼくは先月から何度目かの『収容所群島』全6巻の精読を始めたところである。

 ソロフキの締めくくりに、拙写真集『北極圏のアウシュヴィッツ』に寄稿してくださったロシア学の世界的権威であるマーシャル・ゴールドマン博士(Marshall I. Goldman。ハーバード大学特別研究教授。ウェルズリー大学名誉教授))の文の一部を抜粋しておきます。

 「・・・ソロフキ諸島で一体何が行われたについて、文献を読むだけでは理解しがたい面があるが、百聞は一見にしかずで、写真ははるかに強烈な印象を与えている。
 そして、ソロフキ島で起こったことについて誰かが記録に残すということは非常に重要な意味を持つ。ロシアには未だ、ソロフキをはじめとするソビエト全土に於ける強制収容所で行われていたことを決して認めようとしない人びとがいる。それ故に、記録を残しておくことはさらに重要な意味がある。
 この写真集は、そこでの出来事を無視したり否定したりすることができないことを示している。
 私たちにできることは、ただこのような残虐な行為が二度と繰り返されぬように願うことしかない。もし、このような過ちが再び犯されない未来が築かれるのであれば、亀山氏の本作品は、私たちの果たせないでいる責任の一端を果たしていると言えるだろう」。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/268.html

★「01 クレムリン中庭」。
クレムリンの中庭で到着した囚人たちの点呼が毎日行われた。右はプレオブラジェンスキー大聖堂。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/250秒、 ISO100、
露出補正ノーマル。

★「02 歴代司祭の墓地」。
クレムリン内にある歴代司祭の墓地。石版に刻まれたどくろのマークは、アダムとイヴの骨を表している。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、 ISO100、
露出補正-0.33。

★「03 礼拝堂入り口」。
修復がされ始めたプレオブラジェンスキー大聖堂の礼拝堂入り口。礼拝時間を確認する信者。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/40秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

★「04 囚人慰霊碑」。
村に建てられた囚人慰霊碑。民間が設けた慰霊碑はロシア全土に存在するが、国家が建てたものは2004年当時ひとつもない。なんと驚くべきことか!
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/80秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

★「05 別れ」。
別れの日。宿の女将カーチャが別れの投げキスを何度も繰り返す。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf3.5、 1/500秒、 ISO100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)