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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2010/06/11(金)
第5回:いわゆる都市伝説、その1
 このホームページの冒頭に、
 「カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!」と銘打ってあります。担当者のそのような指針にしたがって、できる限り諸兄のお役に立ちたいとは思っています。ワンポイントといっても、それが純粋に技術的な方法論で片がつくということもありましょうし、一方では抽象的なことにも言及しなければ不十分と思うこともあります。抽象的なこととはつまり、心構えや心理的な作用についてのことです。

 技術だけでは写真は撮れませんし、また感覚だけでも撮れないものです。技術と感覚のバランスがあってこそ、そして両者のせめぎ合いがあってこそ上達が望めるのだとぼくは思っています。そこで初めてあなたの意図するものが印画紙に定着されるというわけです。
 “感性”という言葉が連発され始めて久しいのですが、ぼくはこの言葉が嫌いなのです。猫も杓子も“感性、感性、また感性”です。なんでも“感性”に混ぜて言いくるめちゃえば、言葉で説明できぬ事象の従属さえ説明できちゃうという次元に辟易とするからです。“感性”ってそんなチープなものではありませんしね。
 ですからぼくは“感性”という言葉のかわりに,「感受性」とか「センス」とか「感覚」という言葉をあてはめて使うことにしています。こういうことは(言葉の選択など)生き方のセンスにも通じますし、強いてはそれが写真上にくっきりと表れてしまいますから(と、自分に言い聞かせている)、仇や疎かにするわけにはいきません。油断ならないのです。

 さて、一ヶ月前に、世界で最も高価な印画紙を発売するフランスC社の新開発印画紙が日本の総輸入代理店M社を通じて送られてきました。テストレポートを提出してほしいとのことです。昨年C社のデジタル用マット印画紙(光沢感のない印画紙)数種をテストし、その秀逸さに惚れ込んだぼくは、今回の印画紙が光沢紙であることにも大いに興味を持ち、胸を躍らせて今テスト中なのです。胸が躍るほど際立って素晴らしい印画紙なのです。
 この印画紙をテストしながら、ふとあることに思いを馳せました。それは、「未だにデジタルは銀塩印画紙にくらべると黒の締まりが得られない」。曰く、「アーティスティックな作品はやはりフィルムにかぎる」というものです。

 ぼくはいつもこの手の話や質問に、ただただ苦笑を繰り返すばかり。確かに数年前まではその考えは一般的に言えば、「そうかも知れない」という面はあったものの、その言い草が未だに保守派層?を中心にしっかり根を生やしているのです。  
 では、一体どんな科学的論拠にもとづいて? 科学的論拠がなく、しかも偏った知識にもとづいた評価を、ぼくは“都市伝説”ということにしています。“都市伝説”というものは恐ろしい勢いで繁茂するものです。繁茂しながら良心的な人びとの価値感を浸食していきます。非科学的で頑迷なる我田引水にぼくは苦笑せざるを得ないのです。

 第3回、5月28日号で、ぼくは無神論者だと述べました。しかし、神の存在はどこかで信じています。特定の宗派ではなく、例えば宇宙とか科学とか、領域としての神の法則が、惹いては世の混濁した森羅万象に及ぶということもしばしばです。

 音楽とオーディオの編集者をしていた頃の話です。
 良いスピーカーは周波数特性が良いのですが、良い周波数特性を示すスピーカーが必ずしも良い音を出すとは限らないという事実があります。また、良い響きのする音楽ホール(よくウィーンのゾフィエンザールが語られますが)と同じ残響特性に設計しても、それだけでは心地よいホールの音は望めないのだと、日本の名だたるホールの設計をされたN氏から伺ったことがあります。
 音楽は音でイメージを描き、写真は光で描くものです。音や光の正体について、まだまだ科学で解明できないことはたくさんあるようですが、やはり科学で証明できることについては綿密で丁寧な実証を得ながら、時間をかけて評価を下すべきではないのか、というのが極めて非科学的な頭脳しか持ち得ないぼくのスタンスなのです。
 
 次回は前述した保守派層の都市伝説について述べることにいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2010/06/04(金)
第4回:ごもっともです
 前回、「ファインダーを覗いて、この位置でいいと思ったところからさらにもう一歩前へ」ということをお話ししました。まだ写真を始めて間もない人にはこの作法を強くお勧めします。

 写真を記録として捉えるか、あるいは自分の感情や意志、思考や思索を発表し、それを表現として捉えるか、そのどちらを目指すのかということで、撮影の考え方はかなり異なったものとなりますが、共通することは「基礎をしっかり身につける」ということです。言い換えれば「確実に写す」ということですね。具体的にいえば、ピント、露出、ブレをクリアできれば、写真はしっかり写ります。しかしこれが容易じゃないんですが。個々については、おいおい述べていきたいと思います。                                 
 “自己表現”、“個性”という言葉が魑魅魍魎(ちみもうりょう)のように、世を憚ることなく徘徊していますが、それは基礎あってのことで、基礎のないところに自己表現など成り立たないとぼくは思っています。何が何でも“基礎”・“基本”あってのことで、物事はすべからくここから始まるのでしょう。

 かつて写真というものは、“なぜ写真が写るのか”とか、あるいは“写真のメカニズムを習得した人たち”だけがなし得る特権ともいうべきものでした。今はそれが誰にでも写せるものになったことは衆目の一致するところです。つまり市民権を得て、誰でもが写真を楽しめる時代になったということです。これは手放しで喜ぶべき事だとも思いますが、物事には常にメリット、デメリットがつきまといます。功罪があるということです。ぼくはこの功罪はだいたい半々だと感じていますが、今その罪の部分には触れずに(だって、冗長な論文みたいになってしまいますから)、功の部分を素直に喜び、その恩恵に浴しているのだと考えるようにしています。

 さて、今回で4回目を迎えましたが、ちょっと堅苦しい話題に終始しているかなとの反省も含め、一昨昨日(月)にあった二番目に新しい話をしたいと思います。一番新しい話は昨日のことで、遠く九州は博多から「写真見てくださ〜い。将来はカメラマンになりたいので〜す。稽古つけてくださ〜い ( 噺家じゃないんだってば ) 」と名も知らぬ人が、浦和まで押しかけてきたという奇妙な出来事もありましたが、その見ず知らずの人があまりにも並外れて可愛い女性だったので、しばらくは秘密にしておきます。

 二番目の話というのは、明治神宮に私的な写真を撮りに参りました。初めてなんですが幽玄でいいですね。その時のお話です。
 門番のおじさんに「中で三脚立ててもいいですか?」とまずは紳士的にお伺いを立てたのです。おじさんはちょっと威厳を保とうとあごをわずかにしゃくり上げ、「境内では三脚は禁止です!」と、“ここは私の神聖な仕事場であるからして、そのような無法者は直ちに駆逐するぞ”という雄姿を示したいようでした。きっと家族の顔を頭に浮かべながら、「父さんはこうやって悪者を退治しているんだ。どうだ!」とちょっと誇らしげにも見えました。
 ぼくは写真屋なのだから、ここで「はい、ごもっとも、すいません。あなたにも生活がありますもんね」という理解を示してはいけない。しかし、彼の逆鱗に触れては写真屋失格だし、元も子もなくなることは目に見えている。そこで理解を示した振りをしなくてはならないから、どんどん下手に出るわけです。
“ごもっとも”というへりくだった単語を端々に挟みながら、妥協点を探っていく。そしてとうとう「ならば3分だけ、3分だけですよ!」という言葉を引き出したのです。彼は周囲を窺いながら、もう目は先程の威厳を示してはおらず、宙を浮き始めている。これでぼくの勝利は確実となりました。
 なぜって、三脚に据えるカメラは8x10インチ( フィルムサイズが20.32cm x 25.4cm という今時化け物のようなサイズ)の1927年製木製カメラだからです。どんなに急いだって1カット撮るのに30分くらいはかかりますし、その威風堂々たる艶姿(ぼくじゃなくてカメラがですよ)はおじさんの威厳も雄姿もはるかに凌ぐ代物で、ぼくはおじさんの意気消沈した姿を横目で見ながら、時間の経つのをものともせず、脇目も振らず撮影に没頭したのでした。
 これが8x10のカメラでなく、普通のデジカメだったら、おじさんは勢いをまし、居丈高に職務をまっとうしたであろうこと疑いなしでした。
 カメラの威勢を借りて、おじさんの生活の断片を奪い取ったぼくは、撮影後おじさんの寛大さに感謝と敬意を表しながら、意味もなく「ごもっともです」を身を縮めて繰り返していたのでした。
(文:亀山 哲郎)

2010/05/28(金)
第3回 もう一歩前へ
 カメラマン志望の人ばかりでなくアマチュアの方からも、「写真を見てくださ〜い、お願いしま〜す」と懇願されることがままあります。
他人の写真を見て、その人に才能があるのか否かということはぼくには残念ながらわかりません。写真を見せていただいて、その写真がいい写真かそうでないかはわかるつもりですが、才能まで見通す眼力は持ち得ていないのです。
 ぼくはそういう場合、できる限り自分の好みというものを排除して、単に品質(絶対クオリティ)がどうであるのかということだけに凝視しようと心がけています。乱暴かつ平易に言えば、主観性と客観性ということになりましょうか。しかし、人格を持った人間に客観性というものはどの程度用立てできるものなのでしょう? こうなるともうこの欄では論じきれなくなるので割愛しますが、品質というものを語る場合(しつこいな!)、どのくらい普遍的な美を宿しているのかということをひとつの目安として、ぼくは決着をつけるようにしています。

 他人の才能はわかりませんが、才能を測る物差しはいくつか持っています。
       
 では、“才能ってなに?”ということになると、人さまざまで多様な解釈があるようですが、ぼくはそれを「努力する能力」と置き換えて解釈するようにしています。
今見せていただいている写真以上にその人が良い写真を撮れるかと問われれば、必ず撮れると答えます。今の写真が頂点、なんてことは決してあり得ないと信ずるから明日の意味があるわけで、才能というものが「努力する能力」ではなくて“生まれ持ったもの”であると解釈するのであれば、自ずと答えは異なったものになるでしょう。
 極論すれば、オギャーッと生まれた時にすでにその人には写真が撮れるかどうか決まっているわけですから、こんな夢のない考え方は、恐ろしく投げやりで、空虚で、味のない所見だとも思います。そんなことより ”努力“ に味方したいのは人情ってもんじゃありません?
 ぼくは凡人ですから、「努力する能力」こそ上達の決め手だと信じています。生まれた時に決められているのなら、それは神の仕業以外のなにものでもなく、ぼくは無神論者ですから(親鸞聖人や良寛さんは大好きですが)、やはり才能とは努力と信じたいですね。

 なんだか話があっちこっちに飛んで、なかなか写真の話にならなくてすいません。Web原稿というのは初体験なのですが、通常の紙媒体のように文字数制限がきつくなく、緩やかなので、気まで緩やかになっているようです。

 写真を見せていただいて、まずほとんどの人に言える共通分母というか最大公約数的なことがあります。かなりのベテランと称する人たちも同様です。写真のなかの主被写体との距離が遠すぎるということなのです。もちろん、なんでもかんでも近寄ればいいというものではありませんが、ほとんどの方々は肉眼の持つ望遠効果に惑わされてしまうのです。

 人間の目はズームレンズのような性格を持っています。一点のものに注視すればそれが頭のなかで大きく描かれ(つまり望遠)、漠然と眺めていれば180度以上の範囲が認知できる(つまり超広角)という心理的・生理的な性質を持っています。これにごまかされるのです。
 レンズというものは冷酷かつ残酷なもので、望遠であれ広角であれ、物理光学的な範囲(画角)しか示してくれません。レンズは、受けた光をフィルム上であったりデジタルの受光素子上に渡すだけで、肉眼でいくら一点を注視しても、そんな人間の有機的な思惑や心情をそのまま聞こし召し、ちゃっかり計算をして表現してくれる、なんてことはないんです。
 あなたがいくら被写体を注視したところで、その被写体が画角(ファインダー。またはモニター上で)のなかでどのくらいの大きさなのかはすでに決まっているのです。この、だれにでもわかるような当たり前のことに、人びとはだまされ、錯覚を起こしてしまうのです。結果、構図上主被写体が小さすぎるということになります。

 「ファインダーを覗いて、あなたの立ち位置がここでよいと決まったら、そこからさらにもう一歩前に踏み出て撮る。そのくらいでちょうどいいのですよ」というのはもう常套句のようになっています。被写体に近づけば近づくほど、余分なものが画面から省かれていきます。主被写体が力を増してくる。写真は足し算でなく、引き算だというぼくの信念をお伝えしておきたく思います。

 −−次回に続く−−
(文:亀山 哲郎)

2010/05/21(金)
第2回 どんなカメラがいいですか?
 よくこういう質問を受けることがあります。「カメラを買いたいのですが、どんなカメラがいいでしょうか?」と。
「あのね・・・」とやや間をおいてから(もったいを付けているわけではないんです)、「なんでもいいんです。あなたが気に入ったもの、それが一番なんですよ。カメラが写真を撮るわけじゃないんですから・・・」と人を煙に巻いたような答えをしてしまいます。考えてみるとこれじゃ〜身も蓋もない。もう一度申し上げておきますが、ぼくは決してもったいぶってるわけじゃない。威厳を保とうとしているわけでもないんです。

 時によって質問者はオドオドしながら、あるいは気恥ずかしそうに、あるいはまた、やっとの思いでぼくににじり寄りながら問うてくるわけだから、こういう受け答えは相手を辱めたり、気落ちさせたり、自棄にさせたりする場合が往々にしてある。ちょっと罪深い。反省をしたりもする。けれど、毎回それを繰り返してしまうのだから、やはりちょっと救いがたい。救いがたいが、真っ正直な答えだけにぼくには遣り場がない。場を取り繕うには、とにかく何かヒントとなるものを質問者の顔色を窺いながらひねり出さなければならない。これはけっこうなエネルギーなんです。
 質問者の執拗なる追求に耐え忍びながら、最後にはどこどこのメーカーのxxxというカメラがあなたには合っているのではないか、というお答えをします。いや、執拗でなくともちゃんと結論らしきもの、つまりいくつかの候補をあげて買って悔いのないものを提示する努力は惜しまないつもりですが、これは大変な難しさを伴います。ぼくはカメラのテスターではないし、また頻繁なる新機種・新機能の発表に一つひとつ立ち会っているわけではありませんから、わからないことも多いのです。多少の型落ちであっても信念を持ってお答えできるようなものをお薦めするようにしています。

 前述したように「カメラが写真を撮るわけではなく、またレンズが写真を撮るわけでもなく、写真を撮るのはあなた(人間)なのです」というぼくの信条を疑うことなくどうか信じていただきたいのです。
 “弘法筆を選ばず”という諺があります。これも半分は真実だと思います。ですから、片方では“弘法筆を選ぶ”ということもあるということです。だんだん話がややこしくなってきましたが、これは写真に限らずあらゆることにあてはまるのではないでしょうか。この話題は機を見てお話していきたいと思いますが、しかしまずは“弘法筆を選ばず”を選んでください。

 人間というものは物欲という厄介な後ろ楯に支えられているのも真実です。高級品を持ちたいという心情です。ぼくはフォト・トルトゥーガというプロ・アマ混成の写真集団を主宰していますが、いつも誤解を恐れず述べ伝えていることは、「写真が上手になりたければ投資しなさい」と。投資する人はちゃんと見返りを得られるし、その上達は方程式のように確かです。

 なにも高級なものを分不相応に購入しなさいということではありません。かみさんの目を盗んで、というのも男として一興なるものですが、そんな際どさを潜らずとも良い投資はできます。
 例えば今まで使用していた印画紙のグレードをアップしてみる。それだけで写真は確実に上達するのです。それにより、気分の高揚とかモチベーションが上がるとかね、脳内物質の分泌が増えることにより、想像や洞察が鋭くなるんです。つまり一枚の印画紙がやる気を鼓舞させてくれる。一枚の印画紙で歓びを感じない人は、写真に限らず趣味という非生産的なものを嗜むには不向きな質といえるだろうし、縁遠いともいえます。リアリストなのかロマンチストなのかという分岐点がここにありますから、カメラを選択するにもご自分がどちらに属するのかを承知していれば、ある程度、選択の幅は狭くなるのではないかと思います。
 ですから初対面の方にいきなり問われても、潔い解答になかなかたどり着かないというわけです。
 時には、「自分がどちらに属するのかよくわからないから聞いているんじゃなか!」と激しく迫る方もおられますが、こういう激しい人はロマンチストだと思って間違いありません。かく言うぼくも、至って短気ですから。
(文:亀山 哲郎)

2010/05/18(火)
第1回 「はじめまして!」
みなさま、はじめまして。カメラマンの亀山哲郎(かめやまてつろう)です。
これから毎週、写真にまつわるおかしな話や、その傍ら写真を撮るための技術的な話を少しだけ真面目にしていきたいと考えています。
ぼくの思考は、ほとんどが独断と偏見と屁理屈に満ちているのですが、人はだれでも自己矛盾を抱え、懊悩しながら生をまっとうしようと必死に生きているのかも知れません。ぼくはいつもそういう振りをしながら生きてきたように思います。

まず、自己紹介をさせていただきます。
ぼくはいわゆる団塊の世代で、1948年京都市で生まれました。今62歳の白髪ジジイです。4歳の時に、埼玉県北足立郡与野町大戸、のち浦和市外大戸(こんな屈辱的な言い方を強いられていたのです)、のち与野市大戸、つまり今のさいたま市中央区大戸に越してきました。4度引っ越しをしたわけではなく、一カ所にとどまっていたのですが、お上が勝手に名称を次々と変えたために、引っ越しマニアのようになってしまったというわけです。
義務教育は与野市立大戸小学校から浦和市立仲町小学校へ転校し、そして浦和市立常盤中学へ進みました。今ではもうほとんどの恩師が他界され、お元気と思われた恩師も5年に1度の同窓会のたびに一人ひとり姿を消していかれます。青春時代に愛憎まみれた敵役教師の損失は、寂しさを通り越して、やはり堪えます。
話はずっと飛んで、都内の大手出版社で編集者として従事していたのですが、37歳の時に何を思いついたのか突然プロカメラマンのアシスタントになってしまいました。37歳のアシスタントというのは日本で一番歳を食ったアシスタントだとさかんに揶揄されたものです。な〜に、“案ずるより産むが易し”です。                       
周囲の大反対、かみさんの「郷里に帰ります!」の脅しに耐えながら、生まれて初めて必死に写真の勉強をしました。ぼくの生涯に ”必死“ は、後にも先にもこれっきりです。2年間の修業時代は毎日”犬畜生にも劣る扱い“を受け(当時のカメラマンの徒弟制度はこんなものでした。この制度における侮辱の体験は素晴らしいものです)、晴れてフリーランスの写真屋となりました。
専門はコマーシャル写真です。コマーシャル写真って何なの?という疑問に簡潔にお答えします。雑誌や広告(ポスターやカタログなどなど)のための写真を編集者やクライアントやアートディレクターの要望に従って、我を捨てて(でもないんですが、一応)撮影し、映像を提供する写真分野とでも言っておきましょう。

大体において、好きなことで、写真で、飯を食っていこうなどということは不埒千万のこと、狼藉も甚だしきことと心得つつも、一か八か(“あとは野となれ山となれ)”という不料簡的性質の写真は自分の質に合っていたのでしょう。以来二十数年間、写真が病みつきとなり、家族・友人を悩ませつつも、飽きることがありません。写真屋になったおかげで未知の世界をたくさん覗くことができたようにも思え、また貴重な体験を得ることができたようです。
世界35カ国にも行けたし(本当は悲惨そのものの撮影旅行ばかりで、こんな話をおいおい綴っていくつもりです)、写真集も(『北極圏のアウシュヴィッツーー知られざる世界遺産』ブッキング2007年)エッセイ集(『やってくれるね、ロシア人!』NHK出版2009年)も上梓して(本当は恥かき以外の何ものでもありませんが)、取り敢えずの区切りをつけ、やっと自分の写真に向かう態勢を築きつつある昨今です。
歳をとるのは、いろいろなことが生きやすく、また愉しくもあり、ぼくの写真人生は今始まったばかりだと認めています。

今後この連載がいつまで続くか本人にはわかりません。内容が少し気ままに過ぎることもありましょうが、みなさんと共に愉しめたら嬉しいことだと思っています。どうぞよろしくお願いします。
(文:亀山 哲郎)