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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2010/10/04(月)
第20回:風景を撮る(8)
 ズームレンズ全盛の時代となりました。誰も彼もズームレンズ。かく言うぼくももちろん何本かのズームレンズを所有しています。実に重宝なものだと認めるにやぶさかではありませんが、一方でどうしても愛情が持てないというのも事実です。可愛げがないんだもん。本題からはずれてしまいそうなので、その理由を詳しく述べることはいたしませんが(いつだって本題からはずれているじゃないか)、ズームはお手軽時代の寵児ともいうべきものですね。そして、これだけズームがもてはやされる理由は、その性能が飛躍的に向上したことと、カメラが市民権を得て、写真を撮るという行為が一般化したからでしょう。またその便利さにもあるでしょう。一家に一台どころか、携帯電話を含めれば、一昔前とは比較にならぬほどの超様変わりです。

 ぼくは未だにズームレンズというものに対して、偏見ではなくトラウマを抱えています。時期的に言うと二時代前くらいのズームの性能は、どうみても褒められたものではなかったからです。ひどい目に遭ったとの印象が未だに拭い去れないのです。自分の技術の未熟さを棚に上げて、レンズのせいにしていますが、いや、それにしても、ズームはひどかった。解像度は悪いし、コントラストはヘナヘナだし、収差は出まくりだし、やはり腕だけの問題じゃないね。ズームに対し、恨み骨髄に徹し、「もってけ、どろぼ〜」とばかり、二週間使ったきりで友人に「これ便利だからあげるよ」って、タダでくれちゃいました。その友人は未だにぼくを恨んでいます。それを“逆恨み”とか“盗人猛々しい”とか言いますね、日本語では。ぼくは「便利」だとは言いましたが、「良いレンズ」だとは言っていませんし、まして売ったわけでもないので、恨まれる筋合いのものではありません。

 20歳代から分不相応に、ライカやC. ツァイスのレンズ(ハッセルブラド)道楽に明け暮れていました。親元で暮らしていましたし、父の「知るなら一流のものを知れ。持つなら一流のものを持て」という主義にも助けられ、給料のすべてを注ぎ込めたおかげなのでしょう。自分なりに「良いレンズ」の味を占めていましたから、なおさらズームのヤクザぶりに我慢がならなかったのです。

 第2回で、「写真はカメラやレンズが撮るのではなく、人間が撮る」のだから、どのようなものを使ってもいいのだとぼくは述べました。ぼくの言わんとする趣旨に、上記と矛盾があるとご指摘の諸兄もおられるかも知れませんが、ぼくがそのような結論に達したのは、ライカやツァイスに散々道楽をした結果なのかも知れませんし、また人間的に成長?! したからかも知れませんし、あるいは写真というものの本質に近づけた?! からなのかも知れません。その何れなのかはぼくにはわかりませんが、秀でたものを手にすることにより、多くのことを学べた事は確かなことですし、亡父には言葉にできぬくらいの感謝をしています。

 さて、現在のズームレンズの出来映えに、ぼくは決して大げさな言い方ではなく瞠目さえしています。「ズームレンズは決して単焦点レンズ(以下“単レンズ)にかなわない」とおっしゃる単レンズ信奉者が未だに多く見られます。ベテランほどそのような意見を持たれているようです。どの部分を比較してのことなのかがほとんどの場合示されていませんので、ぼくも図りようがないのですが、推測するにそれは多分解像度や収差にあると思われます。確かに、収差(レンズによって像ができるときに発生する色づきや、像にボケやゆがみを生じることである。このボケやゆがみは、物体の点が点像にならないことを指す。これらの収差が複合された像ができる。※出展、ウィキペディア)はレンズの設計上、特にズームでは難しい問題があるでしょうし、さまざまな種類の収差を解決しようとすると、“あちらを立てれば、こちらが立たず”のいたちの追いかけっこに似た部分があるのだと、メーカーの技術者から伺ったことがあります。

 ぼくはかなりのテスト変質者であり、自分でも身の置き場に困るくらい神経質にテストをしなければ気の済まない質でした(過去形)。でないと恐くて新調したレンズを使えないという損な性分なのです。

 あるメーカーの名レンズといわれる単レンズと最新のズームを比較して(もちろん三脚使用の同条件で、近接、中距離、無限大の距離でそれぞれ。天候も晴れ、曇り、スタジオ用ストロボなどなど、できる限りの公平性を保ちながら、かなり膨大な枚数を撮ることになります)、我が目を疑いました。総合点でズームが圧勝してしまったのです! 狼狽いたしました。「そんなわけねぇだろ〜!」という具合です。

 レンズには個体差というものがありますから、メーカーから同じ単レンズを2個お借りして、再度試したところやはり結果は同じでした。
 その瞬間から、ぼくのズームに対する不信感は完全に払拭された、と言うほど、やはり単純な問題ではありませんが、必ずしも単レンズがいつも優れた結果を導き出すわけではないということです。ぼくの不信感はむしろ、単レンズ絶対勝利を疑わぬ人たちに向けられたのです。

 で、ぼくは何を述べたいのかと言いますと、ぼくの主宰する写真集団での撮影旅行で、広々とした風景を前に35mm一眼レフ使用の生徒の一人に訊ねられたのです。「こういう場合、絞り(f値)はどのくらいが適切なのですか?」と。普段、撮影会で技術指導はあまりしない(威張っているわけではありません)ことにしています。もちろん理由あってのことです。よく撮影会などで講師が「ここはこの絞り値で」というほとんど無意味(撮影者のイメージを斟酌していないと思われるので)と思われる言葉を耳にすることがありますが、この時ぼくは初めて、「f 8〜11」という実践的な指摘をしました。

 このような広々とした風景を前にして、そして狭い展望台なので撮影位置を選びづらいという条件も重なり、質問者がどのようなイメージを描いているのかが窺えたからです。そして、使用しているレンズはズームでした。風景写真を撮る人のほとんどは、葉の一枚一枚が出来る限りしっかり解像して欲しいと願うものではないでしょうか。そのような観点からf値を指定したのです。

 レンズというものは単レンズ、ズームに関わらず中心部からはずれるに従って解像度が悪くなります。それは収差に起因するものなのですが、収差の軽減を絞り値で変えることができる、その類の収差もあるのです。それを考慮しての「f 8〜11」なのです。

 特に風景写真では、自分の使用するレンズの一番美味しい絞り値を知っておくことが重要で、行き当たりばったりの絞り値では、写真のあがりもシャキっとしたものにはならないということなのです。
(文:亀山 哲郎)

2010/09/24(金)
第19回:風景を撮る(7)
第19回:風景を撮る(7)

 きれいな写真を撮る条件の一つとして、被写体に合った、もしくは表現意図に合った露出を適用しなければなかなか思い通りにはいかないということを以前述べました。
 さて、ここで言う“きれいな”とはどういうことなのかを定義するのはとても難しいことだと思います。十人十色と言いますけれど、それで片付けてしまうにはあまりにも短絡的ですし、またそれを認めてしまうと作品が独りよがりなものになる可能性があります。写真ばかりでなく、どの分野でも普遍性あってこその“美”なのだとぼくは捉えています。

 写真を始めて間もない人と何十年も写真に取り組んできた人(プロアマを問わず)の“きれい”だとか“美しい”という意味の捉え方は自ずと異なって然るべきですが、光を確実に受光素子に移さなければならない点では、初心者もベテランも同じであるはずです。
 何度も繰り返しますが、「基本技術あっての自己表現」です。現今のカメラはシャッターを押せば取り敢えずなにかが写りますから、それで事足れりなのですが、それでは応用が効きません。いざという時にあたふたしてせっかくのチャンスを逃してしまうということにもなりかねません。

 絵ハガキのような写真をきれいだとする人もいるでしょうし(前者)、絵ハガキのような状況説明写真を撮って、なんの面白味があるの?と指摘する人(後者)もいます。人も様々、写真のありようも様々です。本来はそこに線引きなどないはずなのですが、一般的には絵ハガキ的写真に近いものがより受け入れられ易く、より多くの支持が得られるのは事実でもあり、また今の写真界の暗澹たる現状でもあります。
 だとしても、やはり初めは記録としての写真から始めるのが順序でしょう。趣味として写真に取り組むのであれば、どうしてもぼくは後者に肩入れせざるを得ませんが、Webというのは紙媒体と異なり、なかなか読者諸兄の顔が見えにくいもので、したがってあまり断定的なことも言えず(?)どこに焦点を合わせてお話すればいいのかが未だに把握できていません。で、ぐずぐずと書き連ねてしまうのです。
 趣味を通じて自己の意志や感情を表現するという行為が創作と言えるのだろうと思いますし、“創作”なんて堅苦しく大仰な言葉を使わずとも、それが写真の妙味でもあり醍醐味でもあるのです。

 さて、ここからが本題です。風景写真に限らず、まず露出の仕組みを知って下さい。
 今はどんなカメラにでも「内蔵露出計」が搭載されており、それを頼りにみなさんは写真を撮っておられるんですね。シャッタースピードや絞り値など、カメラが自動的に露出値を算定し、「これで撮りなさい」と教えてくれる。「これで撮ってもそうヤバイことにはなりませんぞ」とカメラは仰るのですが、そんな台詞をどうか鵜呑みにしないでください。ヤバイことが往々に起こってしまいます。露出計ってかなりヤバイやつなのです。
 最近は単体露出計を持ち歩き写真を撮っている人をほとんど見かけなくなりました。ぼくも私的な写真にはカメラ内蔵の露出計の値を基本にしながら調整していますが、やはり仕事となると単体露出計のお世話になることが多いようです。

 露出計の測光方式には二通りあり、カメラ内蔵のものは「反射光式露出計」と呼ばれるもので、光源下の被写体自体の明るさを計測します。それに対して、単体露出計は「入射光式露出計」として使われ、被写体ではなく、光源自体の明るさを計るものです。「入射光」と「反射光」とでは、測光の方式がかなり異なります。「反射光式」の利点は速射性に優れているということです。また、ここでは触れませんが、風景写真家の第一人者であるA. アダムスの開発した「ゾーンシステム」は「反射光方式」の露出計によって計算されます。

 今回はカメラ内蔵の「反射光式露出計」の仕組みをお伝えしましょう。カメラには測光方式と呼ばれるものがあり、例えば取扱説明書などに「中央部重点測光」とか「平均測光」とか「スポット測光」とかいろいろ書かれていますが、原理は同じで、どの部分を重点的に測光するのかという違いだけです。
 “原理”と書きましたが、カメラに示される露出値とは、光源下の被写体の濃度が無彩色の「18%中間グレー」になるような値(シャッタースピードや絞り値)を示します。

 ※こちらをご参照下さい → http://www.amatias.com/bbs/30/30-19.html

18%とは光の吸収率です。ですから例えば無地の純黒や純白をカメラの値通りに撮っても、純黒や純白には表現されず、「18%中間グレー」になってしまうということなのです。黒い物は黒く、白い物は白く写ってくれないと困ります。そこで、露出補正というものを活用するのです。
 ただ、この世には純黒や純白の物質は存在しませんので、黒板や白板を撮っても、厳密な「18%中間グレー」にはならず、「18%中間グレー」近辺と考えるのが現実的です。

 まったく無地のものを撮るという機会はほとんどありません。どんな被写体でも立体物であれば、そこには様々な明度が存在します。その平均値を露出計が算出し、表示してくれるのです。

 スポット測光などで、例えば黒人、黄色人、白人などを同じ光源下で測定し、カメラの指示通り撮ると、人種の肌色に関係なく「18%中間グレー」の顔をした新人種が理論的には出現してしまいます。また、雪なども白ではなく、グレーの雪になってしまいます。
 黒人なら露出補正をマイナス補正(露出アンダー)、黄色人はそのまま(ノーマル)、白人はプラス補正(露出オーバー)するようにしています。この考えはスポット測光での考え方ですが、ファインダーやモニターで見る実際の被写体にはさまざまな輝度のものがありますから、そこが悩みの種。
 「入射光方式」の単体露出計では、肌の反射濃度を測るのではなく、光源の明るさを測るわけですから、基本的のこのような不都合が生じにくいのです。それぞれ、一長一短です。

「18%中間グレー」とはどのくらいの明るさなのかを知っていただくために、貼り付けましたが、ここがWebのいい加減なところで、AさんとBさんのモニタでは、精密な分光測光器でキャリブレーションをしていない限り、同じグレー濃度には見えないという難点がありますが、おおよそのところがわかっていただければと思います。

 なお、今回のお話はカラー、モノクロに関係なく、同じ原理とお考えください。
(文:亀山 哲郎)

2010/09/17(金)
第18回:風景を撮る(6)
 多くのフリーカメラマンを抱える編集プロダクションの編集者に、「カメラマンさんって、みなさんとても汗っかきですね。そういうものなのですか?」と、聞かれたことがあります。きっとカメラマンを不可思議な人種だと思っていたのでしょう。なかには唐草模様の鉢巻きを得意げに巻いている、変な嗜好のカメラマンもいるそうです。実はぼくなんですが・・・。
 ぼくは、「ぼくらの作業を見ていて、あなたは気がつかないの?」と聞き返しました。カメラマンが汗っかき人種なのではなく、撮影という作業はかなりの肉体労働ですし、加えてプロの機材はカメラやレンズ(故障などを考えて必ず2台以上は持参)、その他にライティング機材やそれに付随する様々な道具が必要なのです。そのどれもがとても重量のあるもので、なかには一人で持ち運びできないようなものもあります。プロ用機材というのは、メーカーは機能やデザインより、まず故障しない頑丈な製品を作ろうとしますから、どうしても重量が増してしまうのです。「重量のある物=頑丈=安心感」という定言的三段論法が成り立つのです。三脚などはそのいい例ですね。ですから、真冬でも、それらを移動したり、セッティングするだけで、もう汗が滲み始めます。ここまでは純粋な肉体労働による汗です。

 次に、冷や汗と脂汗が加わります。撮影現場でイメージが湧いてこなかったり、適切な画角やアングルを発見できなかったりすることを恐れての汗。カメラやライティングを撮影目的に合致した設定にしているかどうか、そこに誤りがないか、その入念な確認作業による緊張の汗。現場に於いて最も重責を担うのはカメラマンですから、その精神的重圧はかなりなものです。クライアントの厳しい目を背に感じつつ、時間的制約のあるなか、一つ一つの作業を的確に、確実に行わなければ、明日から家族が路頭に迷うという思いに囚われることもしばしば。汗、汗、汗の日々、というわけです。カメラマンに太目の人が極めて少ないのは、このような理由によるものだとぼくは勝手に決めつけています。この新説はおそらく正しいものだと思います。
        
 撮影とは往々にして予期せぬトラブルに見舞われますから、そういう時こそ沈着冷静に対処しなければなりません。そこで問われることは、自分の使用している機材の機能や性能をどのくらい正しく理解し、しっかり把握しているか(使いこなし)ということと、基本的な技術をどこまで確実に身につけているか、どんな状況下でも適切に対応できる技術を習得しているか、ということです。これはプロもアマも程度の差こそあれ、パニックを避けるための考え方としては同じです。

 ぼくは他人にくらべ冷や汗と脂汗の量が際立って多いようで、それはもう何十年、何千回の場数を踏んでいても、撮影時にはやはり上気しているため(俗に言う“あがって”いる)汗の量が減ることがないのでしょう。けれど、慣れることがないので、いつまでも写真に熱中していられるのだと、最近気がつきました。そして、慣れほど恐いものはないということにも気がついたんです。
 撮影時の熱っぽさと冷静さがほどよくバランスしていないと写真はままならないということを、ついでながらお伝えしたいと思います。
 
 で、ぼくは前回の続きとして「バンダナ」の効用をお話しようと思っていたのですが、話が曲がってしまいもう元には戻れなくなってしまいました。冷静じゃないんですねぇ。

 マレーシアに行った当時はまだフィルム時代でしたから、フィルムの保管には異常なほど気を遣いました。日本から持参した数百本のフィルムを、ホテルの冷蔵庫に保管しておくのは至当なことですが、その日の撮影に合わせた本数を暑いなかに持ち出すのですから、やはり結露には気を配りました。結露の防ぎ方はすでにお話しましたので繰り返しませんが、不自由だったことは、その日の撮影のために持ち出した50本くらいのフィルムをすべてカメラバッグに入れて、取材現場をあちらこちらと回らなければならなかったことです。現場移動はほとんど車ですから、必要であるフィルム本数だけカメラバッグに入れ現場に行き、残りは車中に置いておくことができなかったことです。このことはマレーシアに限らず日本の夏でも事情は同じです。フィルムは高温や湿気にとても弱く、そのような状況下に置かれると、初期性能が失われ、発色や感度などが保証できなくなってしまう恐れがあるのです。

 今はデジタル全盛ですが、駐車中の車内は異常なほどの高温になりますから、カメラやレンズを置きっぱなしにするのは御法度です。盗難の恐れは別問題として、カメラやレンズは精密機器だということをどうか忘れないでください。    
 世の中には、子供さえ車中に置きっぱなしという人が時折いるのですから、カメラを置きっぱなしにする人は、た〜くさん、た〜くさんいると考えても不思議ではありません。
 また、陽の当たるところに置きっぱなしということも避けてください。特に黒いカメラは熱の吸収率が高いので、カメラ内の温度は相当に上がってしまうと容易に想像できます。ついでながら申し上げておきますと、机などにカメラを置く際に、カメラストラップを机から垂らしておかないこと。ストラップを丸めてカメラと一緒に机の上に置いてください。垂らしておくと何かの拍子で、不注意にも引っかけてしまう可能性があります。そのために、カメラを床に落とし壊してしまったベテランのアマチュアをぼくは二人知っています。壊れたカメラは修理でなんとかなりますが、精神的なショックから、しばらくは撮影意欲を失ってしまったとのことでした。

 前回と今回は「風景を撮る」の議題から外れてしまいましたので、次回から真面目に(いつも真面目なつもりなのですが)このテーマに戻りたいと思います。どうぞ、悪しからず。
(文:亀山 哲郎)

2010/09/10(金)
第17回:風景を撮る(5)
第17回:風景を撮る(5)

 ここ何回か、露出についてのちょっと理論的(理屈っぽい?)話が続いていますので、息抜きとして海外ロケに行った時の話を挟み、その後再び議題の「風景を撮る」に戻りましょう。

 今から17,8年前のことです。マレーシア政府の招聘により、当時、国家元首だったマハティール首相夫人の主催する「麻薬撲滅キャンペーン」に参加することになりました。マレーシアは「黄金の三角地帯」(タイ、ビルマ、ラオスの山岳地にまたがる三角地帯のこと)で、世界最大の麻薬密造地帯と言われていました。“ビルマ”は正式には“ミャンマー”ですが、“ミャンマー”を使わず“ビルマ”と呼ぶのは、この軍事政権をぼくは国家として認め難いという、非常に個人的な理由からです。

 黄金の三角地帯が近くにあるために、そこから麻薬が容易に、しかも非常に安価にマレーシアに流入して来るという、国家として憂うべき問題を抱えていたのです。麻薬所持についての法律は非常に厳しく、ヘロインは15g所持、マリファナは150g所持(現在は200g)で、自国民(マレーシアは、マレー人、インド人、中国人の多民族国家)でも外国人でも即死刑。ただし、中毒患者は病人であるから、この法は適用されないのだとか。
 ぼくが滞在した時にイギリス人女性が麻薬所持で死刑の判決を受け、エリザベス女王がさかんに助命嘆願をしていましたが、当時の元首であるマハティール首相が「自国の法律を犯した者は、マレーシアの法に厳格に従ってもらう。助命嘆願を聞き入れることはできない」と現地の新聞に書かれてありました。死刑の是非はともかく、元宗主国のイギリス女王に対して毅然とした態度を表明したマハティールさん。なかなかやるなぁ、どこかの国と大違いだと感嘆したものです。

 毎年、政府は大々的に麻薬撲滅キャンペーンに力を入れてきたのですが、なかなか効果が表れなかったようです。イマイチ説得力に欠けるとの理由の一つが、街中に貼られている「Anti Dadah」(反麻薬)のポスターが、写真ではなくイラストだったからだと担当者は考えたそうです。毎年イラストなので、素朴な担当者は、今年は写真でいこうと思いついたらしいのです。そこで、誰かに写真を撮らせようということなったらしい。写真の持つリアリティや真実味を大いに評価して、それを利用して麻薬の恐ろしさを国民に啓蒙しようと考えたようです。
 回り回ってか? 報道カメラマンではないぼくにその話が持ち込まれました。ジャンキー(薬物依存症)をどうやって撮るのさ?

 ぼくは、「写真は真を写さない」が持論ですが(もちろん、加工などしないことは言うまでもありません)、まぁ一般的に言えばイラストより写真の方が現実感があると考えたり、もしくはそのような見方をする人の方が多いかも知れません。写真の方が“いかにも本当らしく”、“いかにもそれらしく”見えますから、素朴な担当者がそう考えたとしても罪はありません。

 日本を出発する前にマレーシア側から言われていたことは、「撮影したフィルムは国外持ち出し禁止」ということだけでした。海外に持ち出されて「マレーシアはこんなひどい国だと宣伝される恐れがないとは言えない」というのがその理由でした。ぼくは現地で担当者と会った際に、「麻薬問題はマレーシアだけの問題ではなく全世界的な問題なのだから、ぼくの撮ったフィルムはそのために多少の役に立つと思う」という意志を示したのですが、聞き入れてもらえませんでした。
 ということは、どんなに気に入った写真が撮れたとしてもそれを自分の手元に置いておけないことと、日本の友人知人に見てもらうにはマレーシアに来てもらうしかないということです。そのようなデメリットはありましたが、麻薬というものは人類史のなかでも様々な役割を担ってきたものであり、また病理学的中毒以外に、「麻薬的」という言葉もあるのだから、“なぜ悪いと分かっていて人はそれを止められないのか”、“なぜ人類はそのような宿痾を背負うのだろうか”、という未来永劫かつ摩訶不思議な大問題をも、撮影をしながら一気に“解決”しちゃおう(“探求”ではなく、“解決”というところが大胆過ぎる)と興味本位で引き受けてしまいました。かく言うぼくは、もう何十年もタバコを止められずにいます。今風に言えば「止める止める詐欺」ですかね。
 
 マレーシアの気候はちょうど今の日本のような状況で、暑いのなんのって。暑くてムシムシ。写真どころじゃない。レンズの汚れを取ろうと息を吹きかけると、しばらくはその曇りが消えないというエキゾチックの極みで、その発見はカンドーものでありました。また、冷房の効いた車内から外に飛び出すとカメラが結露(第11、12回参照)しちゃうのだから、シベリアと大差ないのです。

 麻薬捜査官にガードされながら、怪しき場所に立ち入っての撮影。ムシ暑いなかを歩き回るわけですから、全身汗ぐっしょり。白いTシャツ一枚のぼくは、乳首もヘソもくっきりと判るくらいシャツが肌にへばりついている。ところがぼくをガードしてくれている捜査官たちはまった汗をかいていないのです。あまりにも悔しいじゃありませんか。汗腺の数とか仕組みが違うらしいですよ、我々とは。

 日本は暑い暑いと言ったって(今夏は特別ですが)、やがて秋が来て、冬が来て、春が巡ってくるから救いがあるのでしょうが、しかし、マレーシアの人びとは生まれてから死ぬまで、この暑さのなかで過ごさなければいけない宿命に晒されているわけですから、やはり神は、人類を平等には扱ってはいないのです。
 なぜかクアラ・ルンプールのデパートでは毛皮のジャンパーなどが売られており(なにかのステータスらしいのですが、まるで冗談としか思えません)、ステータスなどではなく、ただのヤケクソと解釈した方が自然です。冷房の効かせ方もヤケクソですからね。

 閑話休題。汗が目に入ったり、ファインダーが曇ったりするので撮影もままならないことになってしまいます。知恵のないぼくは考えました。所謂バンダナ、これが最高!カメラマンにバンダナを巻く人が多いのはファッションではなく、必然から生まれたものなのです。

 ロケ話と写真話をかろうじて結びつけることができホッとしています。ロケ話だけですとスイスイ書けるのですが、どこかに写真的情報を入れないと諸兄に叱られそうで・・・。
 「バンダナがいいって言うけれど、じゃー、女性はどーすんのよー。“風景を撮る”のとどー関係があるのよー」と言われないうちに今日はここで打ち止めにしてしまおうと思います。

(文:亀山 哲郎)

2010/09/03(金)
第16回:風景を撮る(4)
 雲ひとつない空は別にして、空は二度と同じ表情を示してくれません。当たり前のことですが・・・。つまり、何十年生きていても、青空にぽっかり浮かぶ雲に、同じものはひとつとして出会えないということです。時空は取り戻せませんが、記録したり、記憶をリアルに呼び戻すことはできますね。それが写真の面白さでもあり、役割のひとつでもあります。

 風景写真は大まかに言えば、(“大まかに言えば”ですよ)、広い場所で撮ることが多いのではないでしょうか。ですから画面上、地平線を中心にして、空の占める割合は平均的には1/2〜1/3前後の場合が多いと考えていいかも知れません。そんなわけで、空の表現はあなどれないということになります。

 ぼくはいつも空を一種の発光体として捉えています。特に、曇天時や雨降りの空は、太陽の光を遮りながら(太陽は“点光源”だと前回お話しました)雲を照射し、その雲を通過する際に光を拡散して地上に届けていますから、まさに大きく、広い発光体なのです。面光源(発光体が点ではなく、広い面という意味です)下の物体はハイライトからシャドウまでの輝度域が晴天時にくらべずっと狭くなり、フィルムやデジタル受光素子の表現領域に収まりやすく、したがってその表情は柔らかくもあり、美しくもあり、といった長所を生み出します。この状態の空はいわゆる“面光源”ですので、地上でのコントラストは低くなり、撮影しやすくなります。が、ここにもやっかいな問題が生じるのです。

 ファインダーやモニターで広い面積を占める空は面光源の発光体ですから、地上の物体に露出を合わせると空が白く飛んでしまうのです。“飛んでしまう”とは、情報がないのでいくら画像ソフトなどでその部分を暗くしようとしても変化してくれません。ここがデジタルの辛いところとも言え、また難しいところでもあるのです。フィルムは暗室作業やプリント方法の原理が異なりますから、デジタルにくらべて、まだ救済の余地があるのですが、ですから本当はデジタルの方が露出に関してはずっと神経質にならざるを得ません。
 ほとんどの方がデジタルだと推察しますので、デジタルを中心にお話を進めていきます。

 ここまでのお話は、前回にお話したことと重複する部分が多々あり、また少々執拗であることも重々承知しています。この執拗さをぼくの質と捉えるか、熱心と捉えるか、文章の構成が下手くそだと捉えるかは、諸兄におまかせするにしても、経験上、露出というものについて言い過ぎるということはないと常々考えています。そのくらい露出には気を配っていただきたいという思いと、空の扱い方によって写真全体の印象が大きく変わってしまうことを常に体験し、また失敗による後悔も度々しているからです。

 無地に近い灰色一色の空が画面の半分くらいを占めてしまう場合、露出の測光方式にもよりますが(スポット測光を除く)、地上のものに露出を合わせると、間違いなく空は“白飛び”を起こします。帰宅して、パソコン上で補正しようにもどうにもなりません。これは、平易に言えば非常に「やばい」状態です。

 露出というものが何を基準に、そしてどんな約束事により定められているのか、その原理を知らない限りは、前回にも申し上げましたように、“段階露光”(露出を変えて何枚か撮っておく)をするのが最上の方法でもあり、勉強にもなるのです。“段階露光”は一種の保険と考えてもいいと思います。毎日、何百枚と写真を撮るプロだって、たった一枚で適正な露出で写真を撮れることはそうそうあることではないのです。特に、ぼくのような“へたっぴー”な写真屋は殊更です。

 よく“適正露出”という言葉が使われますが、これは物理的な原理に基づいての露出(明部を飛ばさず、暗部をつぶさず)という意味で使用される言葉ではありません。それは、作者のイメージに沿った露出という意味に解釈して下さい。ハイライトを真っ白に飛ばしてしまいたいとかシャドウ部を真っ黒につぶしてしまいたいという場合だって往々にしてあり得ることなのですから、そのような作者のイメージに適った露出設定(露出値)を“適正露出”という言葉で言い表します。ですから、“適正露出”とは、同じ物を撮るという条件下でも、個人によって異なる場合があるということです。ある人は、明るめに表現したいとか、またある人は暗めにということは、撮影会などでいつも経験していることです。“適正露出”とはあなたの作画イメージを、受光素子により正確に記録するための用語と考えてください。
 とは言え、やはり物理的な露出原理を知っていなければ、露出操作はままなりませんから、まず露出の基本をしっかりと身につけ、応用できるようになることが、きれいな写真を撮る第一の秘訣だと考えていいでしょう。

(文:亀山 哲郎)

2010/08/27(金)
第15回:風景を撮る(3)
 雲ひとつない晴天下はコントラストが強く撮影には困難が伴うと前回書きました。なぜ晴天はコントラストが強いのかという理由を簡単に述べておきましょう。

 光は、光を発する光源が小さければ小さいほどコントラストが強くなるという性質を持っています。晴天というのは太陽を遮る雲がないために、太陽自体は物理的には非常に大きいものですが、朝夕を除けば地上から見る太陽の大きさは点光源と考えてもいいくらい小さなものです。点光源とはつまりとても小さな光源を意味します。
 舞台で歌手や登場人物を照らすスポットライトも点光源の一種ですから、光の当たった部分はかなりの輝度(明るさ)がありますが、同時に影もかなり濃いものとなります。舞台写真をきれいに撮るのが難しい理由のひとつはここにあります。

 太陽を遮る雲の面積が広かったり、厚さがあればあるほど光質は柔らかい(コントラストが和らぐ)ものとなって、フィルムやデジタル受光素子の再現可能域に近くなります。雲によって光が拡散され光源が広くなるのでコントラストが低くなるのです。ぼくの体験を総体的に語れば、薄曇りの状態がカラーもモノクロも都合がいいと言えるでしょう。
 晴天下と言っても、まるで雲がないという状況はそうそうあるものではありません。ぼくはその統計など取ったことはありませんが、どこかに雲はあるものです。薄い雲もあれば濃い雲もありましょう。撮影会などで、「あの雲が間もなく太陽を遮ると思うから、雲の濃淡を計りながら、それまで待ちなさい!」なんて命令口調で言いますが、ぼくは非常に堪え性のない男ですから待てないのです。しかし他人には、指導者という立場上、「待つくらいの意欲がないと良い風景写真は望めないよ」なんてね、言っちゃうんです。どんな顔して言っているんだか?
 ぼくが“待たない”というのは立派な(と本人だけが思っている)理由があるのですが、テーマとは離れてしまいますので、割愛。

 晴天下における自動車の下などは(影になっている部分)肉眼でもなかなか地面の質感がわかりにくいものですが(ですから、運転者は犬や猫の存在に気をつけてください)、曇天や雨の日のそれは晴天下にくらべてはるかにわかり易いはずですね。影の濃度が薄いからです。
 この現象は他にも、例えば窓から差し込む直射日光に照らされた物のコントラストが、レースのカーテンや障子を通過することにより(光源が広くなる)明暗比が狭まり、柔らかく感じるのと同じ事なのです。

 風景写真には不似合いのストロボ使用ですが、話のついでに述べておきましょう。通常ストロボの発光面積は小さいですから、室内撮影時などストロボ光を直射したりすると被写体の後ろにかなりキツイ影が出てしまいます。これはとても見苦しいものです。それを避けるために、ストロボの首を上下左右に振れるものなどでは“バウンス”(間接照明法)という手段を用います。ストロボ光を天井などに当てるわけです。それは天井に当たったストロボ光=光源の広さとなるわけですから、小さなストロボの発光面が広い天井に照射され、天井自体が発光面となり、柔らかい光となります。そのために影が出なかったり、出ても見苦しさを避けられる程度のものとなります。取り扱い説明書などで“天井バウンス”と呼ばれるものです。白い天井などではとても効果のある方法です。天井が白とは限りませんが、色の付いたものにバウンスさせると色かぶりというやっかいな問題が生じます。デジタルはフィルムよりはるかに色補正が容易ですから、デジタルありがたや、本当にありがたや、というところです。フィルムでは絶望的に不可であります。

 プロの撮影現場などでスタンドに傘が取り付けられている場面がTVコマーシャルなどで散見できますが、あれはスタジオが雨漏りするわけではなく、ストロボを傘に反射させて、広い面積の光源を確保するための物なのです。

 では、晴天下の午後は不都合なことばかりなのかというと、いいこともあります。逆光(太陽が正面)でない限り、色の彩度が上がりより鮮やかな発色が得られます。また、被写体全体が明るいためシャッタースピードや絞り( f 値)の選択の幅が広がります。当然、低いISO感度が使えますから、画質にも有利です。
 雲のない真っ青な空は確かに表情に乏しいのですが、それでも濃淡はありますから(太陽の真向かいに位置する方角の空が最も暗い。真南に太陽があれば真北の空が最も暗い)、その濃淡のグラデーションを利用したり、フィルターをかけたりして、非常に印象的な作画を試みることもできます。その代表的なフィルターが「偏光フィルター」( PLフィルター、 polarizing filter もしくはpolarizer)と呼ばれるものです。風景写真のお好きな方はぜひ偏光フィルターを常備されるといいでしょう。でないと、“もぐり”と見なされても仕方がありません。「偏光フィルター」については機を改めて述べます。

 天候は人間が操作することはできませんから、晴天下撮影の注意点はまず露出補正にあるということです。これは、一枚限りで終わりにするのではなく、何枚か露出を変えて(1/2〜1絞り刻みでいいでしょう)撮っておくということです。露出を変えることで明度は当然変化しますが、色やコントラストの変化、輝度の表現域も自然と学ぶことができます。デジタルはフィルムのように費用がかさみませんから、その効用を大いに生かしてください。

 「風景を撮る」という命題はしばらく続きますが、少しずつ(出し惜しみではありません!)進めていきましょう。
(文:亀山 哲郎)

2010/08/24(火)
第14回:風景を撮る(2)
 お盆休みをいただきましたのでちょっと間が空きました。今回は風景の「空の表現」についてお伝えしたいと思います。

3.風景写真に限らず野外での写真はほとんどと言っていいくらい空が入ります。ぼくは「空の表現」にことさら意識を集中、というか気にかけるタイプのカメラマンなのです。風景写真は、画面の1/2〜1/4くらいの面積を空が占めるので疎かにはできないという考えに基づいているからです。また、空は背景の一部ともなり得ますので、主被写体と同じくらいの重きをおいています。空の表現の違いで写真の印象が非常に大きく変わってしまうことは、みなさんもすでに体験されていることでしょう。
 晴天、例えば雲一つない天気。それは世間では「良い天気」とされますが、写真を撮る者にはとってあまり喜ばしいものではなく、歓迎すべき状況とは言い難いのです。いわゆる「ピーカン」と呼ばれるものです。これは撮影者にとって一種の責め苦と言ってもいい気候条件です。理由は、コントラストが強すぎることと、雲がないために空がのっぺらぼう(つまり表情に乏しい)になってしまうからです。
          
 では、なぜコントラストが強すぎると困った事態が発生するのか、以前に申し上げたかどうか記憶が定かではないのですが(この猛暑のためにぼくの脳味噌はふやけて記憶喪失を患っています)、人間の目が見分けることの出来る明暗比は約1 : 20,000と言われています。それにくらべてフィルムやデジタル受光素子の明暗表現域はせいぜい1 : 200くらいです。絞り値に換算するとだいたい7絞り〜8絞りくらいのものなのです。

 肉眼では陽の当たったまぶしい部分も影の部分も認識することができますが、カメラの表現域はこれほど広くはないので、陽の当たった部分(ハイライト)が真っ白に飛んでしまったり、暗部(シャドウ)が真っ黒につぶれてしまったりして、とても始末の悪いことになります。そのような写真は一般的に決して美しいとは言えず、どちらかと言えば“ばっちい”です。

 自然界の光の濃度域を印画紙の濃度域にぴったりと合わせるメソード(風景写真家A.アダムスの提唱した”ゾーンシステム“)や、また、デジタルではPhotoshopを活用したり、HDR( ハイ・ダイナミック・レンジ) と呼ばれる機能やソフトを利用する方法もありますが、今回のテーマとは外れますのでここでは触れません。

 このような「ピーカン」はプロと言えどもお手上げなのです。空はカメラの指し示す露出値でブルーに表現できますが、空以外の部分をハイライトからシャドウまで質感を損なうことなくくまなく写真に収めるにはまことに不都合な条件なのです。絵柄や表現意図により一概には言えませんが、そのような条件下、無難な方法としてはシャドウ部を犠牲にしてハイライト基準の露出補正をするのが一般的です。コンパクトデジカメにも“スポット測光”(被写体の部分的な露出を計る仕組み)のできるものが最近は出回っていますから、それが役立ってくれます。

 その際に、表現したいハイライト部をスポットで計り、カメラの指示してくれた露出値より約1絞り〜2絞り露出補正をプラス側に(露出オーバーに)設定するようにします。
 例えば、スポット測光でハイライトの測定値が絞りf 8, シャッタースピード1/250 秒とカメラが指示すれば、シャッタースピードはそのままに、絞りをf 5.6 ( “ファインダー内で“+1” と表示されます) 〜f 4(同じく”+2” )くらいに露出補正機能を使って変えてやればいいのです。
 あるいはf値を変えたくないという場合もあると思います。その場合はシャッタースピードを変えてやればいいのです。f 8, 1/250 秒を基準とするなら、絞りはf 8のままで, シャッタースピードを1/125秒〜1/60秒に変えてやります。その補正(調整)をいわゆる“露出補正”と言い、露出補正を使いこなすことが、きれいな写真を撮るための大きなファクターだと言えます。
 少し、話がややこしい(これは関西弁ですかね? “込み入って複雑”という意味です)くお感じになったかも知れませんね。文章が不手際で申し訳ありません。実際にやってみれば簡単なことなのですが・・・。

 なぜ、ハイライト部を大切にするか(ハイライト部重点測光)という理由は、デジタルでは真っ白に飛んでしまった部分は情報が ”0” (つまり情報がまったくない)なので、画像補正ソフトを使って飛んでしまった部分をいくら暗くしようとしても、コントロール不可能だからです。
 ハイライトにくらべシャドウのつぶれは(完全につぶれたものは致し方ありませんが)、ハイライトより粘り強く情報を保持してくれますから、情報があれば画像ソフトを使ってシャドウ部を持ち上げることが可能です。ただ、そのようなシャドウ部にはノイズ(実際には存在しない色、これを偽色といいますが)のザラつき感は否めませんが、真っ黒につぶれた状態よりはよいでしょう。特に高感度で撮影したものはノイズが顕著に現れます。
 ぼくのようにほとんどがモノクローム表現という場合にはあまり気になりませんが、カラー写真を主体とした方はISO感度は許す限り低い感度での使用をお薦めします。感度を低くするほどノイズが低減されるからです。

 「空の表現」についてはまだまだ多くを述べなければなりませんので、次回に続けることにいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2010/08/06(金)
第13回:風景を撮る(1)
 ぼくがアマチュア諸氏から見せていただいている写真は、いわゆる ”風景写真“ に属するものが圧倒的に多いと言っていいでしょう。そして90%以上がカラー写真です。風景写真といっても様々な形態がありますが、旅行などで心惹かれた風景を撮ったものがやはり多いようです。

 風景写真について述べようとすると、ぼくは要領が悪く、また、まとめ方も下手なので、おそらく20回連載くらいの量になってしまいそうです。それでは、読み手も混乱を来すでしょうし、書く方も重複の多さを避けられません。肝要なことは重複していいとも思いますが・・・。

 写真の分野は各あれど、基本はすべて同じと考えていますので、まずデジタルカメラの基本的な風景撮影について留意すべき技術的な面から、簡潔に書き連ねてみたいと思います。感覚的な面より、あくまで技術的な面を優先してのお話です。


1.カメラの水平をきちっと取るように心がけましょう。水平の歪んだ(傾いた)写真はどこか不安感を与えてしまいます。昨今は、水平・垂直の測れるような機能がカメラに組み込まれているものがあるので、それを利用するのもいいでしょう。三脚使用時なら、カメラのホットシューに取り付けることのできる水準器が売られています。それほど高価なものではありませんので、シビアな撮影をするときには重宝します。

 大工さんじゃないんだから、0.1度の狂いもなく、なんてことを言っているわけではなく、できるだけカメラを水平に保つような意識と訓練をしましょうというくらいに考えてください。

 水平の傾きというのは、視角上けっこうシビアに読み取ることができます。人間の目は水平、垂直にはとても敏感なのです。Photoshop ( Adobe社の画像補正ソフト)を操作される方なら、0.5 度の水平の傾きがどれほど大きいものなのかが実感できるはずです。
 特別な意図のないかぎり、水平をきちっと取るのは、基本中の基本だとぼくは言い続けてきました。風景写真ばかりでなく、他分野の写真でも同じ事です。

 ぼくの助手君たちや写真を学びたいとやってくるアマチュアの人たちに注意すべきこととして述べてきたことは、「意図的に画面を曲げて撮るのは、まず“ちゃんと水平を取れるようになって、まともな写真を撮れるようになってから”のことで、それができないうちに曲げて撮るのはただ“あざとい”だけだから、そのようなことは決してすべきではない。その“あざとさ”は、見る人が見ればすぐにバレちゃう。そんなことで自分の写真をごまかしちゃだめ」ということです。

2.物の重なり具合を凝視すること。どういうことかと言うと、例えば塀や家、電柱、樹木など、視界には様々な線があります。縦の線がどのように重なり合っているかをよく観察してください。誤解を恐れずに言えば、横の線より、まず縦の線を重視(横の線を無視してもよいという意味ではありません)。
 写真は二次元の世界ですから、物の重なり具合によって、画面(物)が立体的に見えたり平面的に見えたりするものです。もちろん光線も関わってきますが、光線の話はあとで。

 家と樹木の重なり具合、道路標識との重なり、家同士なら前の家と後ろの家がどのくらい重なっているかなどなど。そのような物は動かすことができませんから、それぞれの重なり具合の良いところを自分が動いて探し出すのです。縦の線(重なり具合)ならば、あなたが左右に動けば変化し、横の線なら目線の上下や立ち位置を前後に動けばいいわけです。後ろに下がる際には、車や障害物にはくれぐれも注意のこと。

 動きながら被写体を細かく観察することが大切です。どこが重なって、どこが重なっていないかをよく確認してください。撮影ポイントを慎重に吟味するという作業です。
 その際、“この位置もいいけれど、こちらも捨てがたい”ということが常に起こりますから、労を惜しまず何枚か撮っておくことが必要です。デジタルの大きな利点です。

 「撮影ポイントというものは、ピンポイントしかない」とはぼくの持論ですが、そう言うぼくも迷うことしばしですから、まだまだ未熟者。

 ぼくは空以外の物をすべてシルエット化し、頭の中で整理し、イメージしながらバランスを整えていくという作業をすることがあります。これはちょっと訓練すればできるようになりますから、ぜひお薦めします。

 写真評として、「家と樹木が重なってしまったね。もう少し右にあなたが動けば家と樹木が重ならずに、どちらも立体的に浮かび上がって、さらにインパクトのある写真になったね」なんて会話をよくします。

 今日はここまでですが、風景写真を撮るためのポイントとも言うべきものはまだまだあります。空をどう表現するか? 露出は? どんな光が効果的? どの絞り値(レンズのf値)を使うか? レンズは? どのくらいの画素数が必要? 補正はどうする? プリントは? などなどさらに多々。一度ではとても述べ切れませんので、何回か続けていきたいと思います。

 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、下記アドレス宛にご質問ください。また、『亀山写真塾』で月2度、初心者から上級者まで、わかりやすく、実践的な講座を設けていますので、詳細をお知りになりたい方も下記アドレスまでお問い合わせください。
kameyamaphoto2@mac.com

(文:亀山 哲郎)

2010/07/30(金)
第12回:結露
 極寒の環境(前回をご参照)がおおよそどのようなものかおわかりいただけたと思います。かなり凄味があって、日本国内では経験できませんが、カメラやレンズの結露について、程度の差こそあれ、考え方としては日本もシベリアも同じです。

 結露を防止するには急激な温度変化を避けることが肝要です。寒中での撮影は、当然カメラも外気温と同じくらい冷えています。撮影中、何時間かに一度は暖を取りたくなります。その時にあわてて喫茶店やレストランにカメラをむき出しのまま、駆け込まないことです。さいたま市や都内くらいではそう大げさに考えることもなさそうですが、とはいえ部屋の湿度などにもよりますから用心に越したことはありません。
 東北や北海道など、あるいは標高の高いところなどは、外気温と内気温にかなりの差がありますから、暖房の効いた場所に入る前に取り敢えずカメラをカメラバッグやカバンに仕舞い込んでしまえば、ほとんどの場合、難を逃れることができます。もちろんバッグのチャックはしっかりと閉めてください。対処方法としてはこの方法が最も一般的で確実と言えそうです。

 バッグの中の空気が暖まるまでに多少の時間がかかるので、その間に自然にカメラ温度も上昇し、部屋の温度と大差がなくなります。つまり、ゆっくりとした温度変化が結露を防ぐ最大の秘訣と言えます。

 ぼくが何度か経験した極寒の地(例えば冬のロシアやシベリア)で愛用した結露防止袋?は、キルティング地で作った袋です。キルティングを買ってきて、ちょうどよい大きさに自作したものです。これは結露防止ばかりでなく防寒や断衝にも役立ちます。暖を取る前に、外でキルティング袋にカメラを入れ、部屋に持ち込めば(すぐに開けちゃだめですぞ)−20℃以上に冷え切ったカメラでも絶対に大丈夫。
 よく、ビニール袋に入れる人を見かけます。それでもOKですが、シベリアなどの極端な環境下ではビニール自体が外気に晒したとたんに砕けてしまいますから、役に立ちません。日本の雪山などでも、ビニールは硬化してごわごわしたり、湿気を吸い取ってくれませんから、それほど使い勝手が良いとは言えないのです。
 その伝、キルティングならどこに行っても天下無敵です。シベリアで活用できるものは、世界のどこへ行っても手堅く通用する手段ですから、どうかぼくの言うことを信じてください。

 余談ですが、ビニールが固形化する温度が何度なのかぼくは知りませんが、フィルム(主にポリエステルやアセチルセルロース)はぼくの実験では−30℃でも大丈夫でした。−48℃に20分間晒したフィルムカメラ(手動巻き上げ式)のフィルムを巻き上げようとしたところ、 “バリバリ”という音とともに、無惨にもフィルムが砕けたことがありました。このような状況下では、カメラやフィルムを心配するよりも自分の身を案じろ言うことなのでしょう。
 それよりも興味深いことは、フィルムの感度が約半絞り分下がるということなのです。ISO感度 100 がISO 64〜80くらいに下がってしまうのです。原因はわかりませんが、おそらく低温のあまり化学変化が鈍ってしまうのじゃないか、というのがぼくの考えで、ぼくはそのいい加減な新説を吹聴していますけれど、どうかぼくの言うことは信じないでください。

 デジタルではISO感度がどうなるかについては、まだ実験する機会に恵まれません。美しい冬のシベリアを撮ってみたいという気持ちはありますが、なんでもかんでも電池頼み、電池まかせというおまかせ的デジタルカメラは(プロ用一眼レフから携帯カメラまで)文明・文化凋落の極めつけシロモノで、きっと極寒時の使用も制約が多くなるだろうというのは机上の理論としては当を得ていると思います。
 ぼくは現在、デジタルカメラしか使いませんけれど、この安直さには最も警戒を要するところです。心がけ次第だと。デジタルカメラがダメなのではなく、人間をダメにする要素を多分に含んでいると考えています。

 余談ついでですが、冬のシベリアで小便がブリッジ状に凍るというのは真っ赤な嘘で、その放水状態は日本でのそれとまったく変わりません。−45℃で、木に止まっている鳥を驚かせ飛ばすと、即凍死してきりもみ状に落下するというのは本当です。信じようと信じまいと。
(文:亀山 哲郎)

2010/07/23(金)
第11回:結露
 前回に続いてメンテナンスのお話です。メンテナンスというより、取り扱いと言った方がいいかも知れません。今回は、“結露”というカメラやレンズにとってやっかいな現象をどう防ぐかというお話をしましょう。

 “結露”の生じる科学的な説明をすることはできませんが、一般的に言えば温度差のある物体に空気中の水蒸気が触れ、凝縮し水滴になったりする現象です。冬期の窓ガラスやアルミサッシなどに水滴が付着したりするアレです。結露は冬期ばかりでなく夏期にも生じます。冷房のよく効いた部屋から夏の炎天下にさらされた車などに乗り込んだときに、眼鏡が一瞬曇ることがありますが、あれも結露の一種です。

 7,8年前の11月末にある著名な写真家Z氏から電話をもらいました。Z氏を間接的には存じ上げていたのですが面識はありませんでした。某出版社を通じてぼくの電話番号を教えてもらったとのことです。12月にモンゴルに撮影に行くのだが、あの極寒の中でカメラ機材をどう取り扱ったらよいかという質問でした。
 一番の心配事はフィルムをもふくめた機材の“結露”をどう防げばよいのか? また、−30℃前後でカメラは機能するものなのかどうか? というのがその内容でした。厳冬のロシアや極寒のシベリアでのぼくの撮影経験をZ氏はご存じだったとみえ、ぼくを同志と見立てたようです。

 ロシア連邦サハ共和国(ヤクーチア)は地球の寒極と言われ、オイミャコンという田舎の村では−71.2℃という北半球における世界最低気温を記録しています。そのサハ共和国の首都がヤクーツクで、ここも−64℃を記録しています。世界で最も寒い首都といえます。
 ぼくがここを訪れた理由は撮影が目的ではなく、−50℃というものがどのようなものなのかを体感してみたいと思ったからです。まぁ、物好きだといわれればそれまでですが、そのような好奇心と体験は写真上達の手助けとなるに違いないと考えたからです。命の保証があれば、誰だって一度はこの世のものとは思えないエキゾティックな世界を経験したいのではないのでしょうか。そのような興味や関心のない方は、写真ともまた縁遠い方だと思います。
 
 −40℃とか−50℃というものがどのようなものなのかを少しだけお話しして、結露やその他の低温による障害について述べてみましょう。ヤクーツクの冬と夏(恐いのは冬ばかりでなく夏も恐い)におけるぼくのドタバタは、拙書『やってくれるね、ロシア人!』(NHK出版2009年)に詳しく述べましたので、そちらをご参照ください。

 極東のハバロフスク(−26℃)から約2000km北上したヤクーツクに降り立ったのは年の瀬も押し詰まった12月末。機内アナウンスによると現地温度は−42℃だと、きれいなロシア語でとびっきりきれいな乗務員がおっしゃる。ぼくはどんなに胸をときめかせたことか。きれいな乗務員にではなく、−42℃という驚愕すべき環境に身を任すという初体験にであります。ここ、お間違えのないように。                        
 ちなみにヤクーツクは地下500mまで凍りついた永久凍土の上にひっそりとたたずんでいます。首都とはいえ、人口は約21万人。

 はやる気持ちを押しとどめながら飛行機のタラップを降りつつ、とんでもない異次元空間に放り出されたぼくは、まず目がおかしくなった。眼球の表面が凍り出したのだ。すんなりとまばたきができない。ネットリまばたき。おまけに上と下のまつげが瞬間的に凍りつき、接着剤のようになってしまうのだ。つけまつげをした女性などはどうなってしまうのだろう?

 機内で体が温まっていたので多少の間は持ち堪えられるが、外気にさらされた顔面は、寒気の吹き矢で刺されたようにチクチク・ピリピリと猛烈に痛む。ヤクーツクの住民は、見知らぬ外国人に顔面剣山攻めという未知の戦法を取るらしい。機から降り、空港建物までの道すがらタバコを吸おうとするのだが、全天候型のジッポ(オイルライター)や百円ライターもまったく役立たず。ガスが気化しないから発火してくれない。ヤクーツクでは古式床しいマッチしか役にたたないということなのだ。
 当時(旧ソビエト時代)のヤクーツクは、いわゆる ”閉鎖都市“ と呼ばれ外国人の立ち入りが禁じられていた。では、どのような複雑怪奇なる戦法を駆使して禁止区域に立ち入ることができたのかは、拙書をご参考いただきたい。もったいぶっているわけではなく、それを書き始めると収拾がつかなくなる畏れがあります。ロシア人というのは、とても融通の利く国民とだけ申し上げておきましょう。

 ヤクーツクにはレナ川(全長4400km、河口の三角州の幅400km)という、これまたとんでもなくデッカイ川が流れております。このあたりの川幅は17kmで(浦和駅から上野駅あたりまで)、しかも毎年岸が氷で削られ川幅が変わるのだと。一時的な氷河が到来するからだというのが住民の説明。冬にはこのデッカイ川が全面凍結し、日本の倍はあるデッカイトラックが隊列をなして氷の川の上を走り回っている。市外地を走る場合は単独走行は道交法違反なのだそうだ。故障でもしたら、即凍死というのがその理由なのだが、なるほど合点がいく。
 車はスノータイヤだとかチェーンだとか、そんな軟弱なものは装着せず、丸坊主の夏タイヤでOKだ。なぜって、−40℃まで下がると氷というものは滑らないのだそうで、したがってここの住民はアイススケートもスキーもできない。なんと皮肉なこと。氷は滑るものというぼくらの概念はこの地で完全に覆される。

 細菌やウィルスも生きていけないから感染症もない。そんなこんなで、冬期、彼の地で写真を撮るのは不可能とは言いませんが、カメラより自分の身を案じなければならないのです。

 電池? まったく役に立ちません。ヘイコイド(ピントリング)は? 凍りついて回りません。グローブのような手袋でシャッターを押せますか? 押せません。押せるような手袋だとたちまち感覚がなくなり、そのうち指ごと腐って落ちてしまいます。フィルムはバリバリに割けてしまいます。
 こんな調子で、まぁ、面白いと言えば面白いですが、撮影はやはりちょっと考えもの。暖かいところから極寒のなかに飛び出して、かろうじて5分だけ撮影はできますから、次回はそのお話をいたしましょう。

 今回、“結露”まで行き着かずに、ヤクーツクに囚われてしまいました。今、猛烈な熱波が日本列島を覆い、誰もがとろけそうな日々を送るなか、異次元の冷気の話も多少の暑気払いとなったでしょうか?
(文:亀山 哲郎)