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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2010/07/30(金)
第12回:結露
 極寒の環境(前回をご参照)がおおよそどのようなものかおわかりいただけたと思います。かなり凄味があって、日本国内では経験できませんが、カメラやレンズの結露について、程度の差こそあれ、考え方としては日本もシベリアも同じです。

 結露を防止するには急激な温度変化を避けることが肝要です。寒中での撮影は、当然カメラも外気温と同じくらい冷えています。撮影中、何時間かに一度は暖を取りたくなります。その時にあわてて喫茶店やレストランにカメラをむき出しのまま、駆け込まないことです。さいたま市や都内くらいではそう大げさに考えることもなさそうですが、とはいえ部屋の湿度などにもよりますから用心に越したことはありません。
 東北や北海道など、あるいは標高の高いところなどは、外気温と内気温にかなりの差がありますから、暖房の効いた場所に入る前に取り敢えずカメラをカメラバッグやカバンに仕舞い込んでしまえば、ほとんどの場合、難を逃れることができます。もちろんバッグのチャックはしっかりと閉めてください。対処方法としてはこの方法が最も一般的で確実と言えそうです。

 バッグの中の空気が暖まるまでに多少の時間がかかるので、その間に自然にカメラ温度も上昇し、部屋の温度と大差がなくなります。つまり、ゆっくりとした温度変化が結露を防ぐ最大の秘訣と言えます。

 ぼくが何度か経験した極寒の地(例えば冬のロシアやシベリア)で愛用した結露防止袋?は、キルティング地で作った袋です。キルティングを買ってきて、ちょうどよい大きさに自作したものです。これは結露防止ばかりでなく防寒や断衝にも役立ちます。暖を取る前に、外でキルティング袋にカメラを入れ、部屋に持ち込めば(すぐに開けちゃだめですぞ)−20℃以上に冷え切ったカメラでも絶対に大丈夫。
 よく、ビニール袋に入れる人を見かけます。それでもOKですが、シベリアなどの極端な環境下ではビニール自体が外気に晒したとたんに砕けてしまいますから、役に立ちません。日本の雪山などでも、ビニールは硬化してごわごわしたり、湿気を吸い取ってくれませんから、それほど使い勝手が良いとは言えないのです。
 その伝、キルティングならどこに行っても天下無敵です。シベリアで活用できるものは、世界のどこへ行っても手堅く通用する手段ですから、どうかぼくの言うことを信じてください。

 余談ですが、ビニールが固形化する温度が何度なのかぼくは知りませんが、フィルム(主にポリエステルやアセチルセルロース)はぼくの実験では−30℃でも大丈夫でした。−48℃に20分間晒したフィルムカメラ(手動巻き上げ式)のフィルムを巻き上げようとしたところ、 “バリバリ”という音とともに、無惨にもフィルムが砕けたことがありました。このような状況下では、カメラやフィルムを心配するよりも自分の身を案じろ言うことなのでしょう。
 それよりも興味深いことは、フィルムの感度が約半絞り分下がるということなのです。ISO感度 100 がISO 64〜80くらいに下がってしまうのです。原因はわかりませんが、おそらく低温のあまり化学変化が鈍ってしまうのじゃないか、というのがぼくの考えで、ぼくはそのいい加減な新説を吹聴していますけれど、どうかぼくの言うことは信じないでください。

 デジタルではISO感度がどうなるかについては、まだ実験する機会に恵まれません。美しい冬のシベリアを撮ってみたいという気持ちはありますが、なんでもかんでも電池頼み、電池まかせというおまかせ的デジタルカメラは(プロ用一眼レフから携帯カメラまで)文明・文化凋落の極めつけシロモノで、きっと極寒時の使用も制約が多くなるだろうというのは机上の理論としては当を得ていると思います。
 ぼくは現在、デジタルカメラしか使いませんけれど、この安直さには最も警戒を要するところです。心がけ次第だと。デジタルカメラがダメなのではなく、人間をダメにする要素を多分に含んでいると考えています。

 余談ついでですが、冬のシベリアで小便がブリッジ状に凍るというのは真っ赤な嘘で、その放水状態は日本でのそれとまったく変わりません。−45℃で、木に止まっている鳥を驚かせ飛ばすと、即凍死してきりもみ状に落下するというのは本当です。信じようと信じまいと。
(文:亀山 哲郎)

2010/07/23(金)
第11回:結露
 前回に続いてメンテナンスのお話です。メンテナンスというより、取り扱いと言った方がいいかも知れません。今回は、“結露”というカメラやレンズにとってやっかいな現象をどう防ぐかというお話をしましょう。

 “結露”の生じる科学的な説明をすることはできませんが、一般的に言えば温度差のある物体に空気中の水蒸気が触れ、凝縮し水滴になったりする現象です。冬期の窓ガラスやアルミサッシなどに水滴が付着したりするアレです。結露は冬期ばかりでなく夏期にも生じます。冷房のよく効いた部屋から夏の炎天下にさらされた車などに乗り込んだときに、眼鏡が一瞬曇ることがありますが、あれも結露の一種です。

 7,8年前の11月末にある著名な写真家Z氏から電話をもらいました。Z氏を間接的には存じ上げていたのですが面識はありませんでした。某出版社を通じてぼくの電話番号を教えてもらったとのことです。12月にモンゴルに撮影に行くのだが、あの極寒の中でカメラ機材をどう取り扱ったらよいかという質問でした。
 一番の心配事はフィルムをもふくめた機材の“結露”をどう防げばよいのか? また、−30℃前後でカメラは機能するものなのかどうか? というのがその内容でした。厳冬のロシアや極寒のシベリアでのぼくの撮影経験をZ氏はご存じだったとみえ、ぼくを同志と見立てたようです。

 ロシア連邦サハ共和国(ヤクーチア)は地球の寒極と言われ、オイミャコンという田舎の村では−71.2℃という北半球における世界最低気温を記録しています。そのサハ共和国の首都がヤクーツクで、ここも−64℃を記録しています。世界で最も寒い首都といえます。
 ぼくがここを訪れた理由は撮影が目的ではなく、−50℃というものがどのようなものなのかを体感してみたいと思ったからです。まぁ、物好きだといわれればそれまでですが、そのような好奇心と体験は写真上達の手助けとなるに違いないと考えたからです。命の保証があれば、誰だって一度はこの世のものとは思えないエキゾティックな世界を経験したいのではないのでしょうか。そのような興味や関心のない方は、写真ともまた縁遠い方だと思います。
 
 −40℃とか−50℃というものがどのようなものなのかを少しだけお話しして、結露やその他の低温による障害について述べてみましょう。ヤクーツクの冬と夏(恐いのは冬ばかりでなく夏も恐い)におけるぼくのドタバタは、拙書『やってくれるね、ロシア人!』(NHK出版2009年)に詳しく述べましたので、そちらをご参照ください。

 極東のハバロフスク(−26℃)から約2000km北上したヤクーツクに降り立ったのは年の瀬も押し詰まった12月末。機内アナウンスによると現地温度は−42℃だと、きれいなロシア語でとびっきりきれいな乗務員がおっしゃる。ぼくはどんなに胸をときめかせたことか。きれいな乗務員にではなく、−42℃という驚愕すべき環境に身を任すという初体験にであります。ここ、お間違えのないように。                        
 ちなみにヤクーツクは地下500mまで凍りついた永久凍土の上にひっそりとたたずんでいます。首都とはいえ、人口は約21万人。

 はやる気持ちを押しとどめながら飛行機のタラップを降りつつ、とんでもない異次元空間に放り出されたぼくは、まず目がおかしくなった。眼球の表面が凍り出したのだ。すんなりとまばたきができない。ネットリまばたき。おまけに上と下のまつげが瞬間的に凍りつき、接着剤のようになってしまうのだ。つけまつげをした女性などはどうなってしまうのだろう?

 機内で体が温まっていたので多少の間は持ち堪えられるが、外気にさらされた顔面は、寒気の吹き矢で刺されたようにチクチク・ピリピリと猛烈に痛む。ヤクーツクの住民は、見知らぬ外国人に顔面剣山攻めという未知の戦法を取るらしい。機から降り、空港建物までの道すがらタバコを吸おうとするのだが、全天候型のジッポ(オイルライター)や百円ライターもまったく役立たず。ガスが気化しないから発火してくれない。ヤクーツクでは古式床しいマッチしか役にたたないということなのだ。
 当時(旧ソビエト時代)のヤクーツクは、いわゆる ”閉鎖都市“ と呼ばれ外国人の立ち入りが禁じられていた。では、どのような複雑怪奇なる戦法を駆使して禁止区域に立ち入ることができたのかは、拙書をご参考いただきたい。もったいぶっているわけではなく、それを書き始めると収拾がつかなくなる畏れがあります。ロシア人というのは、とても融通の利く国民とだけ申し上げておきましょう。

 ヤクーツクにはレナ川(全長4400km、河口の三角州の幅400km)という、これまたとんでもなくデッカイ川が流れております。このあたりの川幅は17kmで(浦和駅から上野駅あたりまで)、しかも毎年岸が氷で削られ川幅が変わるのだと。一時的な氷河が到来するからだというのが住民の説明。冬にはこのデッカイ川が全面凍結し、日本の倍はあるデッカイトラックが隊列をなして氷の川の上を走り回っている。市外地を走る場合は単独走行は道交法違反なのだそうだ。故障でもしたら、即凍死というのがその理由なのだが、なるほど合点がいく。
 車はスノータイヤだとかチェーンだとか、そんな軟弱なものは装着せず、丸坊主の夏タイヤでOKだ。なぜって、−40℃まで下がると氷というものは滑らないのだそうで、したがってここの住民はアイススケートもスキーもできない。なんと皮肉なこと。氷は滑るものというぼくらの概念はこの地で完全に覆される。

 細菌やウィルスも生きていけないから感染症もない。そんなこんなで、冬期、彼の地で写真を撮るのは不可能とは言いませんが、カメラより自分の身を案じなければならないのです。

 電池? まったく役に立ちません。ヘイコイド(ピントリング)は? 凍りついて回りません。グローブのような手袋でシャッターを押せますか? 押せません。押せるような手袋だとたちまち感覚がなくなり、そのうち指ごと腐って落ちてしまいます。フィルムはバリバリに割けてしまいます。
 こんな調子で、まぁ、面白いと言えば面白いですが、撮影はやはりちょっと考えもの。暖かいところから極寒のなかに飛び出して、かろうじて5分だけ撮影はできますから、次回はそのお話をいたしましょう。

 今回、“結露”まで行き着かずに、ヤクーツクに囚われてしまいました。今、猛烈な熱波が日本列島を覆い、誰もがとろけそうな日々を送るなか、異次元の冷気の話も多少の暑気払いとなったでしょうか?
(文:亀山 哲郎)

2010/07/16(金)
第10回:目下、カビの繁殖期
 早いものでもう10回目を迎えてしまいました。この連載を始めてから、1週間の経過が異例に早く感じています。
 ぼくは計画を立てるということが極めて苦手な質で、したがって順序というものにも神経を配らぬ質なのです。本来は、写真についてのあれこれを諸兄にお伝えするのであれば、ちゃんと筋書きを立てて、麓から頂上を目指し足固めをしながらお連れするのが最も安全で効率が良いだろうと思われるのですが、そういうことがどうしてもできない。行き当たりばったりというか、成り行きまかせというか、気の向くままというか、出たとこ勝負というか。つまり根っからの“杜撰なタイプ”といえます。

 今日は“ちょっと息抜き”と称して、季節外れではありますが、カメラやレンズにとって大敵である「結露」について、旅の話を交えながらお話ししたいと思います。あっ、大敵で思い出しましたが、目下、「結露」より「カビ」についての方が時期的(梅雨から夏場にかけて)に深刻な問題ですのでそちらからいきましょう。

 ぼくは40年間レンズを比較的風通しのよい棚に置きっぱなしにしていますが、カビを生じさせたことはまったくないのです。職業人としては、とりたてて自慢すべきことでもありませんが、なぜカビを生じさせなかったのかを振り返ってみると、「毎日カメラを触っていた」からに他なりません。留守にすることもありますから、必ずしも毎日とは言えないまでも、数日に一度は、所有するすべてのレンズをカメラに取り付けて、空シャッターを切っていました。それもなるべく屋外で紫外線に晒しながらです。結果として、カビの元となる菌糸細胞(胞子)のとりつく島がなかったということだと思います。
 あるいは住居環境によるところも無視できない問題かも知れません。近くに川や沼などがあったり、窪地(低地)であれば湿度が高く、カビの発生率も高くなってしまいます。幸い我が家はそのような環境ではなかったということもあったのでしょう。

 ですから、経験上カビ対策の最も効力ある手段は、毎日触れることと言えそうです。これが一番のような気がします。また、それは別の効用をもたらします。毎日カメラに触れることで、カメラの感触やレンズのバランス、画角やシャッター・ラグ(シャッターボタンを押してから実際に写真が撮れるまでの時間的誤差)なども身体感覚として身につけることになります。操作ボタンなどの位置も自然と体が覚えますから、暗闇のなかででも容易にカメラやレンズの操作ができるようになるのです。カメラの使いこなしにも貢献しますから、これは一石二鳥です。

 一番してはならないことは、“どこかにしまいっぱなし”ということ。このような“杜撰なタイプ”はすぐにカビに見舞われます。

 どうしてもカビの心配な方は、カメラ量販店などに防湿庫が売られていますから、それを購入されればいいでしょう。ただ、ぼくは使ったことがないので、その効果や信頼性についてはお話しできません。
 また、シリカゲルのような防湿剤とともに箱にしまっておくという方がおられますが、これはお薦めできません。シリカゲルというのは一種の化学剤ですから、それが不気味なのです。化学剤は多かれ少なかれガスを発生するハズと考えるのが賢者の思考です。そのガスが、レンズや内部の円滑剤として使われている油脂類に有毒であるか無毒であるかは、化学者でないぼくにはわかりませんが、“君子危うきに近寄らず”が禍いを避ける賢明な方法だと思えます。

 さて、カビてしまったレンズはどうすればいいのでしょう? はい、捨てるしかありません! カビはそれほどにまでレンズにダメージを与えます。カビたレンズ(程度にもよりますが)の描写は、まずコントラストが甘く、時として霞みのかかったようなソフト?な描写をします。それが好きだという向きは、捨てずに重宝されればいいのですが、やはりまともな写真は撮れないと考えた方がよさそうです。
 レンズをカビさせたことがないと豪語するぼくがなぜ知っているのかって? 友人たち(複数)がカビつきレンズで撮っていたからです。霧など出ていないのに誰かさんの顔が半分真っ白になって写っており、それはまるで心霊写真のようでもありました。7,8年前にぼくの主催する写真集団フォト・トルトゥーガにもそのような剛毅な人がおりました。

 カビもごく初期ならレンズクリーナーなどで拭き取れば難を逃れられますが、コーティング層にまで深く浸食してしまったものは、手の施しようがありません。また、触れることができないレンズ内部であれば(ごく初期)メーカーできれいにクリーニングしてくれます。長期間使っていれば、カビとは別にレンズに曇りも出ますから、それはメーカーでしか補修できません。メーカーによる定期的なメンテナンスは必要なことなのです。

 「結露」にまで話が及びませんでした。来週は「結露」もふくめて、-50℃の極寒のシベリアでカメラはどうなる? というお話をいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2010/07/09(金)
第9回:やっかいで目障りな電線?
 このような質問をしばしば受けることがあります。「デジタル写真では、どの程度、画像を加工してもよいのでしょうか?」と。あるいは「許される範囲は?」というものです。

 ここで言う“加工”とは、「あるべきものを削ってしまったり、ないところに何かを付け加える」という意味です。つまり嘘をつくということです。まぁ、嘘も方便ということもありますが・・・。                  
 例えば電線を削ったり、絵を効果的に見せるために不必要と思われるものを取り払ったりすることです。
 逆に「ここにこんなものが欲しいので、付け加えたい」ということだってあると思います。デジタル愛用者は、おそらく“付け加える”より“削除する”ことの方が多いのではないでしょうか。作業としてはこちらの方が簡単だということもありましょう。                        
 “付け加える”作業は光質や照度、光の方向性や影の濃度を、そして遠近法の基礎知識などを理解していなければ、おかしな絵になってしまいます。まさに取って付けたようなもので、不自然さを免れません。つまり統一と整合性が取れていなければ見苦しいだけのものとなってしまいます。これは相当写真に長じていなければ手を出せるものではありません。              
 技術的にも、付け加えるものを切り抜かなければなりませんし、切り抜きができればPhotoshop(デジタル画像を補整したり、加工したりする代表的なソフト)は卒業というくらいこの作業は繁雑でむずかしいものです。話が横道に逸れつつありますので、元に戻しましょう。

 加工という作業が許されるものなのかどうかは、これこそ個々人により大きく意見の分かれるところではないかと思いますが、ぼくは「あなたの良心、もしくは良識に従ってどうぞ」という他ありません。
 ぼく自身について言えば、このような作業を嫌っています。それをしなければならないような写真は初めから失敗写真として片をつけています。写真は“真を写すものではない”のがぼくの持論ですが、これはまた次元の異なる話です。
 
 電線が邪魔だと嘆くことは始終ありますが、その電線を仲間にして積極的に絵作りを進めてしまえばいいのだと考えています。Photoshopで削ることを前提にするより、こちらの方がずっと建設的な考え方です。電線も絵の一部だと考えると気が楽に?なります。邪魔だと思ったものを邪険に扱わず、絵作りに参加させてしまうという方法論をぼくは採ります。Photoshopを上手に操るより、この撮影方法・考えの方がずっと大切なのです。初めに撮影ありきです。

 物体というものは必ずどこかに美しいところがあるものだと信じています。その物体を美しく表現できないのは、最適なアングルを自分が発見できなかったり、あるいは不適な光だと読み取れなかったりした結果ですから、被写体がつまらないのではなく、自分がつまらないのです。ここで責任の転嫁を図っていては、いつまでたっても上達しません。以前にも申し上げましたが「写真を撮るのは人間」なのですから、決して被写体が悪いわけではないのです。

 美しい写真を撮るために名所旧跡を訪ねたり、風光明媚な場所を求める必要はまったくありません。そのような場所を求めて撮影旅行をすることに反対だなどと言っているのではありません。撮影旅行は、珍しいものを見たり、遠方にでかけることによる気分の高揚をもたらします。そのような精神作用は創造には切っても切れない重要な役割を担っていることは重々認めます。気分の高揚はだれにでも必要なことですが、それよりもあなたの身近に、あるいは見慣れたものの中にアドレナリンやドーパミンを誘発するような美しいものがいくらでも発見できるのだと言いたいのです。ぼくは日々の発見の中にこそ本物の美が宿ると考えています(ちょっと気障? いや大真面目です)。この発見こそ、写真の醍醐味であり妙味ではないでしょうか。                       
 もともと美しいものをきれいに撮ろうと血道を上げるより、日常の佇まいを美しく撮ることの方が、豊かな精神生活を送れるような気がするのはぼくだけでしょうか?
 余談となりますが、ぼくの敬愛する写真家はゴミを撮っても、思わず息を飲むくらい美しい写真を撮られます。これこそ本物だと衷心より思っています。

 身の回りの中から素晴らしい発見ができるようになれば、前述した電線など屁の河童。撮影の際に、そんなものに頓着などしなくなりますし、強い味方だとさえ思えるようになればしめたもの。そう言って憚らぬぼくではありますが、“言うは易く行うは難し”です。電線に限らず写したくないものがどうしてもファインダーの中に入ってしまう場合、“君子危うきに近寄らず”という消極的方法を取らずに、「仲間になりましょうよ」とにじり寄った方が愉しいと思いません?
(文:亀山 哲郎)

2010/07/02(金)
第8回:ブレを防ぐための基本動作
 スポーツでも、あるいはもっと飛躍して轆轤(ろくろ)を挽く動作でも、大切なことはしっかりしたフォームです。このフォームに安定性と確実性がないと、ボールをジャストミートしたり、きれいな陶器を形作ることはできません。毛筆しかり、絵画しかり、音楽しかりです。
 写真も同様に、カメラの構え方や足の運びなどが人間工学に沿って、理にかなっていれば極力ブレを防ぐことができます。”ブレない“ のではなく、”ブレを最小限に防ぐことができる”という意味ですので、お間違えのないように。

 カメラの構え方から始めましょう。イメージとしては射撃と同じと考えてください。武器を例にとるのは気が進みませんが、わかりやすいので敢えてそうします。右利きの人の場合、左手で銃を下から支え、右手で引き金を引きますね。この動作(格好)をイメージしてください。銃を構える場合、ほとんどの人は射撃の予備知識がなくとも、無理なくこの動作(格好)をしますが、なぜかカメラを構えるとこうはならないから不思議です。もう、みなさん好き勝手にバラバラ。

 まず、左手の手のひらにカメラを乗せます。この時左手の脇を締めて体につけます。脇が甘くなるのは何事においても不都合が生じますので、努めて締めるように意識してください。ここで注意することは、脇を締めようとする意識が強すぎるあまり、手と肩に必要以上に力が入ってしまうことです。「肩の力を抜いて」、とはいろいろな場面で言われることですが、カメラも同様です。力を入れれば入れるほどブレが生じやすくなることも憶えておいてください。
 昨今はオートフォーカス全盛ですが、手動でピント合わせをする場合は、左手にカメラを乗せた状態で、親指と中指でフォーカス・リングを回すわけです。これがもっともスムーズで自然な動作(かたち)なのです。

 右手はシャッターを押すだけですから、軽くカメラに添えるだけ。全神経を右手人差し指に集中させてシャッターボタンに乗せ、軽く押すだけでいいのです。シャッターを押す時に変な気合いを入れないこと! 気持ちには気合いを入れなければなりませんが、指に気合いを入れるとブレを誘発するだけで、良い結果を生みません。シャッターはかる〜く押し込むような感覚で!

 このようなシーンをよく見かけます。それは、シャッターボタンを押した直後に指を跳ね上げちゃう人。こういう人って必ず「やったー」という顔をして人を睨んでいる。内心、「ちゃんと撮れたわよ。安心なさい」とでも仰っているのだと思いますが、撮れてないんだってば! 指を跳ね上げる動作は一切不要です。不要どころか、してはならない動作です。これは不要な力が入っている証拠です。シャッターは、“静かに軽く押し込む”という感覚を身につけてください。
 
 さて、次は足です。これも銃を撃つことを想定してください。右利きであれば、必ず左足が右足より前に出ているはずです。足を揃えて、いわゆる棒立ちで撃つ人はまずいないでしょう。足を揃えて(被写体に平行)いれば、前後の揺れに弱く、縦に揃えれば(被写体に垂直)横の揺れに弱くなります。足の揃えを45度の角度にすれば縦横、双方の揺れに強くなるのが道理です。
 ローアングルでは、左膝を立てて、右膝を地面に着けるのが最も安定するスタイルです。左膝に左手を乗せて安定させるんです。当然、ズボンは右膝からほころび始めます。ですから、カメラマンが破れにくいジーンズを愛用するのは訳があるのです。ぼくのジーパンは、どこも破れていないのに、右膝ばかりがほころんでしまい穴が開いている。これはファッションでしているのではありませんからね。
 
 かつて、ぼくの助手君が、どういう構え方が格好いいか鏡を見ながら研究したのだそうです。構えを点検するためではなく、格好良いスタイルを探るためにです。なにをもってして格好良いスタイルなのかぼくはよくわかりませんが、こういうことをするのはまったく愚かです。頭、悪すぎ。               
 なぜなら、理にかなったフォームが固定されれば、すなわちそれこそがキレイなスタイルなのです。何千回、いや何万回の繰り返しだけが(素振りと同じです)無駄な動作を省き、取り除き、美しいスタイルを生み出すのだということに助手君は気づかなかったから、愚かだとぼくは言うのです。       
 無駄のない美しさ、これは茶道に通じることですね。
 流れるような美しい動作は、トイレで用を足すその所作と同じです。せっぱ詰まった目的にまっしぐらに突き進み、素早く、しかもどこにも一点の無駄も迷いもなく、あのトイレにおける洗練された排泄動作と撮影動作はまったく同じなのだと、ぼくは常に言っています。
(文:亀山 哲郎)

2010/06/25(金)
第7回:シャープな写真を撮る
 前回と前々回に“都市伝説”について述べましたが、ぼくが一番にお伝えしたかったことは、巷に氾濫する情報を、そしてまことしやかに囁かれる噂を決して ”鵜呑み” にしてはいけないということです。そして、科学的根拠に乏しいものには懐疑的な目を向けてほしいということです。

 また、“都市伝説” とともに ”口承伝説” というものもあります。カメラ、レンズ、現像液、他にも写真関連のものがいくつも列挙できそうです。       
 例えば、「あのレンズはこうこうだと言われていますが、やっぱり名レンズなんですよね?」と、この類の話は一般によく囁かれます。その謂われを語る発言者が自身で実験をし、長年使用し実感したものならいざ知らず、ほとんどの場合がどこからかの請売りなのです。それを ”鵜呑み” にするかしないか、あなたがそれを信じるか信じないかは、そう発言した人をあなたが信用しているかどうかということでもありましょう。そこで語られる製品が、時には非常に高価な場合もありますからなおさらです。他人があれこれ言う筋合ではありませんが、そのような伝言ゲームの言質(げんち)に惑わされる方々があまりに多いという現実に憂いを感じています。

 さて、「シャープな写真を撮る」という大命題について、そうは言ったものの、では何から語ればいいのか迷っています。あまりに多岐にわたる問題でもあり、プロカメラマンにとっても非常な難題だからです。このテーマだけで1年がかりということになってしまいますが、そうも言っておれないので、わかりやすい部分とごく基本的な部分にだけ的を絞ってお話するようにいたします。

 第4回で、「ピント、露出、ブレをクリアできれば、写真はしっかり写ります」と述べました。今回はブレを中心にお話いたしましょう。ブレと言ってもいくつか種類があるのですが、今回はカメラブレ。
 カメラブレとは、シャッターを押している間にカメラの位置が動くため、被写体を鮮明に写し取れない現象を言います。結果、描写がどこか甘く感じられ、大きく伸ばすほど目につきやすくなります。これは気持ちのいいものではありません。写真を手持ちで撮影するかぎり、この現象は避けられませんが、シャッター速度を速くすればするほど、ブレが目立たなくなります。これがブレを防ぐ最も効果的で、かつ実用的な方法です。

 では具体的にどのくらいのシャッター速度を選べばいいのでしょう。一般的には、「レンズの焦点距離分の1秒」と言われています。例えば焦点距離35mmの広角レンズなら、1/35秒、200mmの望遠レンズであれば1/200秒という具合です。このシャッター速度より遅いとブレやすいですよということなのです。これは一応の目安であって、保証ではありませんから、”鵜呑み“ になさいませんように。
 また、この目安はカメラのフォーマット(フィルムや受光素子の大きさ)により定義が変わってきますから、ぼくはその安全圏を、体調なども考慮して、焦点距離の2倍と言うことにしています。50mmのレンズであれば1/100秒より速いシャッター速度を選択しなさいということです。

 ズームレンズであれば、その時々に使用する焦点距離を常に頭に入れておく必要があります。
 また、近年は手ブレ防止機能がついた便利なカメラが多くなりました。なるほどいろいろと試してみるとかなり有用であることがわかりますが、これとて油断大敵。ブレないための基本動作をないがしろにしては無意味であることも申し上げておかなくてはなりません。基本動作については次号でお話したいと思います。
            
 ブレ防止のもう一つの方法は三脚を使用することですが、では三脚を使えばブレないという保証を得られるかといえばそうではありません。ここがちょっとやっかいですね。「三脚を使用すれば、ブレを極力防ぐことができる」が正しい言い方です。しかし市場には、三脚の役目を果たさないものがたくさん出回っていますから、吟味が必要です。大ざっぱにいえば、それは三脚の重量に正比例するということです。重い三脚はいやだ、絶対にいやだという人は、その分、ブレのリスクを覚悟なさいということになります。世の中、うまい具合にはなかなかいきませんね。
(文:亀山 哲郎)

2010/06/18(金)
第6回:いわゆる都市伝説、その2
 ぼくがワンポイントアドバイスをこれから始めていくにあたって、その前にどうしても申し上げておきたいことは、巷に流布されている、あまり写真を撮るうえで役に立たないと思われる事象についてです。これを名付けてぼくは“都市伝説”と呼んでいます。このことは前号でお話しました。
 役に立たないというだけならばまだしも、そこに自由な発想による創作を阻む要素が含まれているのであれば、常に写真の現場にいる写真職業人にとって、それを看過してしまうことは、どこかに良心の痛みを感じるものです。

 多くの写真愛好家の方々とお話をして、最も多い質問のひとつが「フィルムとデジタルとではどちらがいいのでしょうか?」というものです。ぼくは内心、「あらあら、まだそこに頓着されているのか」と嘆いてしまうのです。その問題が一般的なことなのか、あるいは質問者自身にとってのことなのかで、少し考え方が変わってくることは事実です。

 撮影者にとって、フィルム(銀塩)がいいのか、デジタルがいいのかということは、他人であるぼくが指し示すことでないことは承知していますが、しかしそこに都市伝説によるところのものが介在してくるとなると話は別ですし、ぼくも穏やかではいられません。

 歴史的に新参者であるデジタルについて、否定的な意見を述べる方はフィルム信奉者であることが多いというのも事実。デジタルを常用している人はあまりフィルムの欠点について言及することはないように思われます。
 フィルムが19世紀初頭のJ. N. ニエプス、L. J. M. ダゲール、W. H. F. タルボットなどによって発明されてから180年近く経ちます。180年の発展の経過がありました。それにくらべ、デジタルカメラが市民権を得たのはつい最近のことです。
 フィルムや銀塩印画紙がほぼ完成の域に近づき、今後は衰退こそあれ(銀の含有量が減ったり、メーカーが力を入れなくなったり、撤退したりという理由で)、発展していくということはまずあり得ないでしょう。反対にデジタルは発展過程であり、日進月歩のテクノロジーにより、今後ますます改良され、急速な進化を遂げていくと思います。まずこの事実を念頭においてください。

 ですから、フィルム時代からの愛好家はフィルムを愛好しながらも、デジタルを使いこなしていくというのが、今後を見据えればそれが最も建設的な考え方だとぼくは思います。突然のフィルム製造打ち切りに遭っても、途方に暮れずに済むというものです。

 何にでも過渡期というものがあります。古くは(ぼくのリアルタイムでの古さですが)、真空管からトランジスター、レコードからCDへの変遷がありました。過渡期には、どちらの方式が良いかという議論が沸騰します。これは世の常ですし、議論も好事家にとっては楽しみの一部であると思います。それが新しい技術開発に貢献を果たすという面も多々ありますから、ユーザーの呻きも有益なのです。

 大切なことは、第2回でお話ししたように、「カメラが写真を撮るわけではなく、またレンズが写真を撮るわけでもなく、写真を撮るのはあなた(人間)なのです」ということで、大げさに言えば“美の創造は機器に依存しない”ということを言いたかったのです。“弘法筆を選ばず“ということについてもお話いたしましたが、結局はこのことについての考え方をお伝えしたかったからです。

 さて、能書きばかりですいません。退屈されている諸兄に一つの結論をお伝えしておきたいと思います。

 現在のデジタル印画紙は銀塩印画紙にくらべ、まったく遜色ないものが、いやそれ以上のものが市場に出現し始めたという事実をお知らせしておきます。「デジタル印画紙は銀塩印画紙の黒の濃度に及ばない」とお嘆きの方々、どうぞご安心あれとぼくは申し上げます。無論、このような再現性を得るためには、然るべき印画紙と然るべきプリンタ、そして科学的な約束事をしっかり守ってこそ、という条件付きです。あらゆる点で銀塩印画紙を凌ぐ素晴らしい再現性を約束できるでしょう!
 もちろん、それは視角上だけの結論ではなく、精密な分光測光器を使用しての結果であることも付け加えておかなければなりませんね。
(文:亀山 哲郎)

2010/06/11(金)
第5回:いわゆる都市伝説、その1
 このホームページの冒頭に、
 「カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!」と銘打ってあります。担当者のそのような指針にしたがって、できる限り諸兄のお役に立ちたいとは思っています。ワンポイントといっても、それが純粋に技術的な方法論で片がつくということもありましょうし、一方では抽象的なことにも言及しなければ不十分と思うこともあります。抽象的なこととはつまり、心構えや心理的な作用についてのことです。

 技術だけでは写真は撮れませんし、また感覚だけでも撮れないものです。技術と感覚のバランスがあってこそ、そして両者のせめぎ合いがあってこそ上達が望めるのだとぼくは思っています。そこで初めてあなたの意図するものが印画紙に定着されるというわけです。
 “感性”という言葉が連発され始めて久しいのですが、ぼくはこの言葉が嫌いなのです。猫も杓子も“感性、感性、また感性”です。なんでも“感性”に混ぜて言いくるめちゃえば、言葉で説明できぬ事象の従属さえ説明できちゃうという次元に辟易とするからです。“感性”ってそんなチープなものではありませんしね。
 ですからぼくは“感性”という言葉のかわりに,「感受性」とか「センス」とか「感覚」という言葉をあてはめて使うことにしています。こういうことは(言葉の選択など)生き方のセンスにも通じますし、強いてはそれが写真上にくっきりと表れてしまいますから(と、自分に言い聞かせている)、仇や疎かにするわけにはいきません。油断ならないのです。

 さて、一ヶ月前に、世界で最も高価な印画紙を発売するフランスC社の新開発印画紙が日本の総輸入代理店M社を通じて送られてきました。テストレポートを提出してほしいとのことです。昨年C社のデジタル用マット印画紙(光沢感のない印画紙)数種をテストし、その秀逸さに惚れ込んだぼくは、今回の印画紙が光沢紙であることにも大いに興味を持ち、胸を躍らせて今テスト中なのです。胸が躍るほど際立って素晴らしい印画紙なのです。
 この印画紙をテストしながら、ふとあることに思いを馳せました。それは、「未だにデジタルは銀塩印画紙にくらべると黒の締まりが得られない」。曰く、「アーティスティックな作品はやはりフィルムにかぎる」というものです。

 ぼくはいつもこの手の話や質問に、ただただ苦笑を繰り返すばかり。確かに数年前まではその考えは一般的に言えば、「そうかも知れない」という面はあったものの、その言い草が未だに保守派層?を中心にしっかり根を生やしているのです。  
 では、一体どんな科学的論拠にもとづいて? 科学的論拠がなく、しかも偏った知識にもとづいた評価を、ぼくは“都市伝説”ということにしています。“都市伝説”というものは恐ろしい勢いで繁茂するものです。繁茂しながら良心的な人びとの価値感を浸食していきます。非科学的で頑迷なる我田引水にぼくは苦笑せざるを得ないのです。

 第3回、5月28日号で、ぼくは無神論者だと述べました。しかし、神の存在はどこかで信じています。特定の宗派ではなく、例えば宇宙とか科学とか、領域としての神の法則が、惹いては世の混濁した森羅万象に及ぶということもしばしばです。

 音楽とオーディオの編集者をしていた頃の話です。
 良いスピーカーは周波数特性が良いのですが、良い周波数特性を示すスピーカーが必ずしも良い音を出すとは限らないという事実があります。また、良い響きのする音楽ホール(よくウィーンのゾフィエンザールが語られますが)と同じ残響特性に設計しても、それだけでは心地よいホールの音は望めないのだと、日本の名だたるホールの設計をされたN氏から伺ったことがあります。
 音楽は音でイメージを描き、写真は光で描くものです。音や光の正体について、まだまだ科学で解明できないことはたくさんあるようですが、やはり科学で証明できることについては綿密で丁寧な実証を得ながら、時間をかけて評価を下すべきではないのか、というのが極めて非科学的な頭脳しか持ち得ないぼくのスタンスなのです。
 
 次回は前述した保守派層の都市伝説について述べることにいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2010/06/04(金)
第4回:ごもっともです
 前回、「ファインダーを覗いて、この位置でいいと思ったところからさらにもう一歩前へ」ということをお話ししました。まだ写真を始めて間もない人にはこの作法を強くお勧めします。

 写真を記録として捉えるか、あるいは自分の感情や意志、思考や思索を発表し、それを表現として捉えるか、そのどちらを目指すのかということで、撮影の考え方はかなり異なったものとなりますが、共通することは「基礎をしっかり身につける」ということです。言い換えれば「確実に写す」ということですね。具体的にいえば、ピント、露出、ブレをクリアできれば、写真はしっかり写ります。しかしこれが容易じゃないんですが。個々については、おいおい述べていきたいと思います。                                 
 “自己表現”、“個性”という言葉が魑魅魍魎(ちみもうりょう)のように、世を憚ることなく徘徊していますが、それは基礎あってのことで、基礎のないところに自己表現など成り立たないとぼくは思っています。何が何でも“基礎”・“基本”あってのことで、物事はすべからくここから始まるのでしょう。

 かつて写真というものは、“なぜ写真が写るのか”とか、あるいは“写真のメカニズムを習得した人たち”だけがなし得る特権ともいうべきものでした。今はそれが誰にでも写せるものになったことは衆目の一致するところです。つまり市民権を得て、誰でもが写真を楽しめる時代になったということです。これは手放しで喜ぶべき事だとも思いますが、物事には常にメリット、デメリットがつきまといます。功罪があるということです。ぼくはこの功罪はだいたい半々だと感じていますが、今その罪の部分には触れずに(だって、冗長な論文みたいになってしまいますから)、功の部分を素直に喜び、その恩恵に浴しているのだと考えるようにしています。

 さて、今回で4回目を迎えましたが、ちょっと堅苦しい話題に終始しているかなとの反省も含め、一昨昨日(月)にあった二番目に新しい話をしたいと思います。一番新しい話は昨日のことで、遠く九州は博多から「写真見てくださ〜い。将来はカメラマンになりたいので〜す。稽古つけてくださ〜い ( 噺家じゃないんだってば ) 」と名も知らぬ人が、浦和まで押しかけてきたという奇妙な出来事もありましたが、その見ず知らずの人があまりにも並外れて可愛い女性だったので、しばらくは秘密にしておきます。

 二番目の話というのは、明治神宮に私的な写真を撮りに参りました。初めてなんですが幽玄でいいですね。その時のお話です。
 門番のおじさんに「中で三脚立ててもいいですか?」とまずは紳士的にお伺いを立てたのです。おじさんはちょっと威厳を保とうとあごをわずかにしゃくり上げ、「境内では三脚は禁止です!」と、“ここは私の神聖な仕事場であるからして、そのような無法者は直ちに駆逐するぞ”という雄姿を示したいようでした。きっと家族の顔を頭に浮かべながら、「父さんはこうやって悪者を退治しているんだ。どうだ!」とちょっと誇らしげにも見えました。
 ぼくは写真屋なのだから、ここで「はい、ごもっとも、すいません。あなたにも生活がありますもんね」という理解を示してはいけない。しかし、彼の逆鱗に触れては写真屋失格だし、元も子もなくなることは目に見えている。そこで理解を示した振りをしなくてはならないから、どんどん下手に出るわけです。
“ごもっとも”というへりくだった単語を端々に挟みながら、妥協点を探っていく。そしてとうとう「ならば3分だけ、3分だけですよ!」という言葉を引き出したのです。彼は周囲を窺いながら、もう目は先程の威厳を示してはおらず、宙を浮き始めている。これでぼくの勝利は確実となりました。
 なぜって、三脚に据えるカメラは8x10インチ( フィルムサイズが20.32cm x 25.4cm という今時化け物のようなサイズ)の1927年製木製カメラだからです。どんなに急いだって1カット撮るのに30分くらいはかかりますし、その威風堂々たる艶姿(ぼくじゃなくてカメラがですよ)はおじさんの威厳も雄姿もはるかに凌ぐ代物で、ぼくはおじさんの意気消沈した姿を横目で見ながら、時間の経つのをものともせず、脇目も振らず撮影に没頭したのでした。
 これが8x10のカメラでなく、普通のデジカメだったら、おじさんは勢いをまし、居丈高に職務をまっとうしたであろうこと疑いなしでした。
 カメラの威勢を借りて、おじさんの生活の断片を奪い取ったぼくは、撮影後おじさんの寛大さに感謝と敬意を表しながら、意味もなく「ごもっともです」を身を縮めて繰り返していたのでした。
(文:亀山 哲郎)

2010/05/28(金)
第3回 もう一歩前へ
 カメラマン志望の人ばかりでなくアマチュアの方からも、「写真を見てくださ〜い、お願いしま〜す」と懇願されることがままあります。
他人の写真を見て、その人に才能があるのか否かということはぼくには残念ながらわかりません。写真を見せていただいて、その写真がいい写真かそうでないかはわかるつもりですが、才能まで見通す眼力は持ち得ていないのです。
 ぼくはそういう場合、できる限り自分の好みというものを排除して、単に品質(絶対クオリティ)がどうであるのかということだけに凝視しようと心がけています。乱暴かつ平易に言えば、主観性と客観性ということになりましょうか。しかし、人格を持った人間に客観性というものはどの程度用立てできるものなのでしょう? こうなるともうこの欄では論じきれなくなるので割愛しますが、品質というものを語る場合(しつこいな!)、どのくらい普遍的な美を宿しているのかということをひとつの目安として、ぼくは決着をつけるようにしています。

 他人の才能はわかりませんが、才能を測る物差しはいくつか持っています。
       
 では、“才能ってなに?”ということになると、人さまざまで多様な解釈があるようですが、ぼくはそれを「努力する能力」と置き換えて解釈するようにしています。
今見せていただいている写真以上にその人が良い写真を撮れるかと問われれば、必ず撮れると答えます。今の写真が頂点、なんてことは決してあり得ないと信ずるから明日の意味があるわけで、才能というものが「努力する能力」ではなくて“生まれ持ったもの”であると解釈するのであれば、自ずと答えは異なったものになるでしょう。
 極論すれば、オギャーッと生まれた時にすでにその人には写真が撮れるかどうか決まっているわけですから、こんな夢のない考え方は、恐ろしく投げやりで、空虚で、味のない所見だとも思います。そんなことより ”努力“ に味方したいのは人情ってもんじゃありません?
 ぼくは凡人ですから、「努力する能力」こそ上達の決め手だと信じています。生まれた時に決められているのなら、それは神の仕業以外のなにものでもなく、ぼくは無神論者ですから(親鸞聖人や良寛さんは大好きですが)、やはり才能とは努力と信じたいですね。

 なんだか話があっちこっちに飛んで、なかなか写真の話にならなくてすいません。Web原稿というのは初体験なのですが、通常の紙媒体のように文字数制限がきつくなく、緩やかなので、気まで緩やかになっているようです。

 写真を見せていただいて、まずほとんどの人に言える共通分母というか最大公約数的なことがあります。かなりのベテランと称する人たちも同様です。写真のなかの主被写体との距離が遠すぎるということなのです。もちろん、なんでもかんでも近寄ればいいというものではありませんが、ほとんどの方々は肉眼の持つ望遠効果に惑わされてしまうのです。

 人間の目はズームレンズのような性格を持っています。一点のものに注視すればそれが頭のなかで大きく描かれ(つまり望遠)、漠然と眺めていれば180度以上の範囲が認知できる(つまり超広角)という心理的・生理的な性質を持っています。これにごまかされるのです。
 レンズというものは冷酷かつ残酷なもので、望遠であれ広角であれ、物理光学的な範囲(画角)しか示してくれません。レンズは、受けた光をフィルム上であったりデジタルの受光素子上に渡すだけで、肉眼でいくら一点を注視しても、そんな人間の有機的な思惑や心情をそのまま聞こし召し、ちゃっかり計算をして表現してくれる、なんてことはないんです。
 あなたがいくら被写体を注視したところで、その被写体が画角(ファインダー。またはモニター上で)のなかでどのくらいの大きさなのかはすでに決まっているのです。この、だれにでもわかるような当たり前のことに、人びとはだまされ、錯覚を起こしてしまうのです。結果、構図上主被写体が小さすぎるということになります。

 「ファインダーを覗いて、あなたの立ち位置がここでよいと決まったら、そこからさらにもう一歩前に踏み出て撮る。そのくらいでちょうどいいのですよ」というのはもう常套句のようになっています。被写体に近づけば近づくほど、余分なものが画面から省かれていきます。主被写体が力を増してくる。写真は足し算でなく、引き算だというぼくの信念をお伝えしておきたく思います。

 −−次回に続く−−
(文:亀山 哲郎)