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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2011/10/14(金)
第72回:単焦点レンズとズームレンズ (1)
 以前に単焦点レンズ(以下単レンズ)とズームレンズ(以下ズーム)についてちょっとだけ触れたことがありますが、この複雑多岐にわたるテーマについてすべてを語ろうとすると、多分10回の連載ではとても書き切れないだろうと思います。要領の悪いぼくのことですから20回くらいにはなってしまうだろうという恐怖が頭をもたげます。今回掲げたテーマにしても「単焦点レンズ vs. ズームレンズ」とすると意味合いがかなり異なってきますので、焦点が絞りにくくなってしまいます。
 “vs.” などとスポーツのような対決ではあるまいし、それではいささか大仰なので「単焦点レンズとズームレンズ」とし、今日はそれぞれの利点について順を追って ”簡潔に“ 述べてみたいと思います。

 今日このテーマを取り上げたのは、期せずしてぼくの写真クラブの人からのメールによるものでした。このようなことが書かれてあったのです。
 「ズームに馴れきってしまった身には、単レンズの使用は当初不便さと戸惑いを覚えましたが、構図を整えたりする時に自分の立ち位置なども含めて、技術的なことにも考えを巡らさなければならないということに気づきました。おかげで写真の面白さがいっそう増したように感じています」とのことでした。まだ親しんでいない単レンズで撮った写真を何枚か添付してきて、写真評をして欲しいというものでした。

 昨今はズーム全盛ですし、その性能も一時代前のなまくらさに比べると目を見張るものがあります。単レンズと比較しても決してひけを取らないというものがちらほらと出始めました。ごく一部の製品に限ってですが、ぼくは単レンズ絶対優位という神話が崩れつつあることを身をもって体験してしまったのです。
 ぼくの写真クラブの人たちも初めの頃は誰もがズーム一点張りという状況でしたが、2,3年前から彼らに「騙されたと思って、何mmでもいいから一度単レンズを使ってごらん。無償レンタルするから」と事あるごとにささやき始めたのです。殊勝にもそれに呼応して何人かの人たちが単レンズを使い始めました。あるいは伸び悩んでいる特定の人に対して、少し強い口調で「ズーム禁止令」、「モノクロ禁止令」、「標準レンズ以外禁止令」を発したりと、ぼくは処方箋男になりつつありました。禁止令男でもありました。あれをしてはダメ、これをしてはダメと、これでもけっこう大変なのです。
 ここだけの話ですが、ぼくはズームばかり使っている人が単レンズを使うとどうなるか? つまり、単レンズを使うことにより写真表現が変化したり、あるいは上達が望めるという自身の信念めいたものを基盤に、その興味と実証のために嬉々として人体実験に取りかかったのでした。生徒たちをモルモットにしてみようと。ある意味で確信犯なのですが、これは愉快な犯罪?であって、ナチスのJ.メンゲレとは質が異なりますので、どうぞ誤解なきよう。

 モルモットたちの、もとい、素直な生徒たちの結果はどうであったでしょう。最も多い意見は、「気が楽になりました」というものでした。「気が楽にってどういう意味で?」と問うと、「ズームだとあれこれ迷ってしまうけれど、単レンズだと自分が動けばいいだけということに気がついたのです。あまり迷わずに撮影に集中できるという意味の気楽です」という答えが判で押したように返ってきたのです。ズームを“横着レンズ”と半ば揶揄していたぼくの気持ちを少しは理解してくれたようです。単レンズは“お気楽レンズ”とも言えましょう。
 次なる報告は「画角やパース(遠近感)が少しずつ身についてきました。50mm(標準)レンズだとだいたいこの範囲が写って、こんな遠近感になるということも分かってきました。被写体との距離が取りやすくなりますね。35mm(広角)を使うと主被写体の大きさが同じでも、背景の感じがずいぶん違うということにも改めて気づかされました」と。ぼくは我が意を得たりと内心博多弁で(ぼくは九州男児と京女のハーフという雑種)「そ〜やろ。わしのゆうっちおりやろ。ズームでは、なしてもここの分かりにくかとですけん。(でしょう。ぼくの言うとおりでしょ。ズームではどうしてもここが分かりにくいんだよね)」と人体実験の成功を心密かに喜んだものです。

 彼らの撮ってくる写真を月に一度見せてもらうのですが、単レンズ使用の副産物として主被写体の画面に占める面積比が多くなってきたことに気づかされます。ぼくが執拗に「もっと被写体に寄って!」と言い続けてきたことが、徐々に達成でき始めたのかなとも感じています。ズームを使うことにより構図にばかり配られていた神経が、単レンズを使用することにより被写体をよりよく観察し、それに多くの時間と神経を費やすことに取って代わったからだとぼくはほくそ笑んでいるのです。

 ここまでが単レンズを使いこなすための基礎なのです。単レンズのおおよその画角やパースが身についたら(完全であるにこしたことはありませんが、ある程度でかまいません)、実はここから先が単レンズ使用の本領発揮となるのです。それはあなたの使用する単レンズが被写体を選ぶようになるということなのです。ぼくはこれが単レンズ使用の最大の利点として捉えています。言い換えれば、あなたの意志に従ってレンズが被写体を指し示すようになります。具体的には次回にご説明しますが、ぼくは今、誰をモルモットにしようかと虎視眈々とその機をうかがっています。ここだけん話なんやけど(再び博多弁で)・・・。
(文:亀山 哲郎)

2011/10/07(金)
第71回:オートフォーカス
 前回、“全自動の功罪”というテーマで露出を決定する絞りとシャッタースピードの関係、それに伴うISOについて述べましたが、今回は”功罪“とまでは言い切れないオートフォーカス(以下AF)について思うところをお話ししたいと思います。

 AFの機能や方式、歴史などについては触れませんが、ご興味のある方はWebなどを参照してください。Webの苦手なぼくは(今Web用原稿を書いてるくせに)、ネットでいろいろなことを調べるという行為が未だに馴染めずにいます。それは、「ひとつの物事を知るには、最低でも20冊くらいの書物を読まなければその概要は把握しがたく、お手軽に手に入れられる知識は所詮その程度のものでしかない」という考えを持っているからです。まぁ、古風と言えばそれまでですが、「全自動」同様にお手軽さは失うものや気がつかずに通り過ぎてしまうものがあまりにも多く、物作り屋のぼくはそれが恐いのでしょう。Webは常に受動ですから思考不全に陥りやすいとも言えます。
 ですから自分の実体験に基づくことに加え科学的な裏付けと検証のないものは信じないという片意地を張っています。

 記憶では、AFカメラが市場に現れたのは今から30数年前のことで、ぼくがまだ編集者だった頃です。それは「ジャスピンコニカ」という名称で、編集部でもちょっとした話題になりました。ぼくは実際に使ったことはなく、それがどの程度の精度を保っていたのかはよく知りませんが、当時は「そんなものがなぜ必要なのか?」という疑問の方が強かったため手にする機会がなかったのだと思います。ぼくが当時主に使用していたカメラは35 mm判ではライカM3、M4と一眼レフはライカSLIIとニコンFを併用していましたから、もちろんマニュアルフォーカスですし、AFの必要性など考えたこともなかったのです。プロになってからはキヤノンのNewF1を常用していましたから、やはりAFには縁がありませんでした。

 ぼくがマニュアルフォーカスの限界を感じたのは、某テレビ局でドラマの撮影を2年ほどしていた時でした。スタジオ撮りはタングステン光源(白熱灯)で、局から支給されるフィルムはコダックのタングステン用リバーサルフィルムEPT。感度はISO 160でした。スタジオの光量はビデオ撮りには対応できても、静止画にとってこの感度はとても辛いものがありました(三脚は使用禁止)。暗いスタジオのライティングではシャッター速度が遅くなるため、手ぶれや被写体ブレが生じてしまうのです。特に夜のシーンなどでは悲鳴どころか仲間のカメラマン同士で肩を叩き合って泣いたものです。しかし、この経験が後々非常に役立ったことは言うまでもありません。
 役者の動きを止めるためにはとにかく明るいレンズが必要と思い、ぼくはキヤノンのFD85mm F 1.2 というとてつもない大口径レンズを奮発しました。さすがに絞り開放のf 1.2 で使う勇気はなく(レンズ開放ではどんなレンズでも解像度やコントラストが甘く、周辺光量もかなり落ちるため)、f 1.4 〜 2くらいの間で使用するのですが、それでもこの絞り値による被写界深度の浅さに、暗所ではなかなかピンが来ず、役者のアップなどは本当にまいりました。

 2台のNewF1は海外ロケでも大活躍してくれ本当に丈夫なカメラでしたが、プロの過酷な使用にあちこち凸凹となり塗装も剥げちょろけ。いよいよガタが来はじめて、ボディとともにレンズの総入れ替えを決意しました。そこで新調したのが初代EOS-1で1989年のことです。ぼくは初めてAF機を手にしたのでした。
 後にEOSマウント用のEF85mm F 1.2 を購入したのですが、開放で使用するとその被写界深度はまるでカミソリの刃ように薄く、マニュアルフォーカスでは思ったところにピントを合わすのは困難でした。まつ毛にピントを合わせても眼球には届かないというくらい被写界深度が浅いのです。ところがAFを使うとしっかりピントをつかんでくれることに気がつき、その時初めてAFのありがたさをまざまざと感じたものです。

 近年、AFの精度も格段によくなりましたが、しかしAFで合焦したものがいわゆる「ジャスピン」だと勘違いしている人がほとんどではないでしょうか?「ジャスピン」の確率はカメラやレンズにより一概に何%ということはできませんが、いつでも「ジャスピン」ということはまずあり得ません。レンズ毎にAFの微調整ができるプロ仕様のカメラもありますが、ぼくはその微調整機能すら信じていませんし、使用したこともありません。現在の仕事用カメラはEOS-1DsIIIで、AF精度はきわめて優秀ですが、厳密なテストをしてみると極々微細なピントのズレが認められることがあります。絞り開放で使うことはありませんので、そのわずかなズレは被写界深度が補ってくれますが、プロ仕様のカメラですらピンズレが生じますから、コンシューマー用のカメラは言を俟つまでもありません。
 私的写真ではAFは煩わしいだけなので使うことは滅多にありませんが、道具というものは使用目的に合わせて使うことにより、初めて利用価値があるのですね。そうだ! 今は「手ぶれ防止機能」なんてのもあるんでしたね?
(文:亀山 哲郎)

2011/09/30(金)
第70回:全自動の功罪
 写真と言えばデジタルが一般的になりましたが、ぼくも長年多くの仕事を請け負ってきて、昨今はさすがに「フィルムでお願いします」という依頼はすっかりなくなりました。写真と言えばデジタルが当たり前という世の趨勢に、フィルムは一握りの好事家だけのものになりつつあるような気がします。“好事家とは”という分析はしたことがありませんが、ぼくの身の周りでは写真好きの若人とご年配の方々に限られます。
 今までこの「よもやま話」で何度か申し上げたように、ぼくは「写真はフィルムでもデジタルでも、どちらでもいい。その選択には頓着しない」という立場に変わりはありませんが、デジタル周辺機器の目覚ましい科学的進歩に、そろそろフィルムでなければならないという必然性を失いつつあることに気づきます。ぼくは特に暗室作業を重視するタイプですから、アナログではなかなかできなかった精緻かつ精密な暗室作業はデジタルの独壇場と言えるかも知れません。

 双方の長所短所を今日ここで述べるつもりはありませんが、アナログ時代に制作した自分の作品を眺めていると、少なくとも科学的な見地からはデジタル優位は揺るぎのないものと受け止めざるを得ません。デジタルのモノクロ化にしても、ヨーロッパ製の良くできたいくつかのソフトを併用すれば、その多様な表現力と変幻自在さに於いて、もうフィルムの出番は失われてしまったと言っても過言ではありません。もちろんカラー写真に於いてもしかりです。
 ただ印画紙の保存性に関しては、欧米のごく一握りのデジタル印画紙を除いて、まだまだアナログの印画紙には敵いそうにありません(あくまでも適切な処理が施されたもの)。残念ながら国産のデジタル印画紙の保存性も大いに改良の余地が残されているように思います。

 よく「デジから始めた人に写真を教えるのは大変でしょう」と言われることがあります。ぼくはその意味するところにどうも理解が及ばないのですが、確かにデジから始めた人=最近写真を始めた人と捉えればある程度その文言は理屈が通ります。最近のカメラは全自動ですから、写真の原理や理論を知らない人でも、シャッターを押せば取り敢えずはなんとか写ってしまう。しかし、それは最近のカメラがそうなのであって、デジタルだからではないでしょう。
 露出もフォーカスもISO 感度までもが、カメラが勝手にお決めになってしまうので、原理など知らなくてもそれで済ますことができてしまいます。基本を学ぶ隙をカメラが与えてくれない。したがって、写真を撮る上で最も大切な事柄のひとつであるシャッタースピードと絞り(f 値)の関係、それにISO がからんでくるとすっかりお手上げ状態となってしまうらしいのです。

 友人の大手出版社の写真部長がこんな興味深い話をしてくれました。入社試験で、例えば「カメラの露出がISO 100でf 5.6 、シャッタースピード1/250秒を示しました。もう少し被写界深度が欲しいのでf 11 にしたら、同露出を得るためのシャッタースピードはいくつになるでしょう? また、同露出で焦点距離200mmの望遠を使用したいのだがその場合安全なシャッタースピードを得るためにはISO感度をいくつ以上に設定すればいいでしょう?」という問題の正解者は、例年決まって5〜7%なのだそうです。写真部を受ける人たちですから、ほとんどが写真専門学校の生徒だそうです。
 ぼくはこの話を聞いてびっくりというより腰が抜けそうになりました。学校は何を教え、また何を学ぶのかは別問題としても、写真の基本中の基本がまったく理解できていないという現実に唖然としてしまったのです。きっと、初めて手にしたカメラがデジ、フィルムを問わず、全自動なのでしょう。

 念のために正解を記しておきます。絞り優先時の場合、f 5.6 をf 11 にすると絞りの面積比から受光素子の受ける光量は1/4 となり、シャッタースピードは4倍の光量を与えねばならず1/60秒となります(厳密には1/62.5 秒)。絞りを変えれば自動的にシャッタースピードがそれに応じて変化します。
 200mm の望遠レンズで1/60秒では手ぶれの危険性を免れません(あくまで手持ちの場合)。最低でも1/200秒以上のシャッタースピードが要求されます。
ISO 400なら1/250秒となり、正解は「ISO 400以上」です。
 この理屈が理解できずに写真学校を辞めてしまう生徒もいるとか。

 ぼくの教える写真クラブにも、露出補正-1/3(-0.3) を1絞りと勘違いしていた人がいました。8年間も在籍し、何度もこの講義をしているにも関わらずです。この事実は最近露見したことなのですが、怒りを通り越してぼくは言葉を失ってしまいました。茫然自失。どの様な矯正施設に送ればいいか、本気で考え込んでしまいました。露出制御は常時マニュアルにして(強力接着剤で固定して)、単体露出計を貸し与え、一から出直しを図ることしかぼくには考えが及びませんでした。
 それでも、全自動カメラは写ってしまいますから、なんてありがたく、おめでたいことなのでしょう。

 写真は技術で撮るものではありませんが、しかしある程度、理論的なことを理解し使うことができなければ表現の応用は利かず、すぐに限界が見えてしまいます。全自動の便利さを否定するわけではありませんが、良い写真を撮ろうとするのならメカニズムについての多少の理解はやはり欠かせぬことなのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/09/26(月)
第69回:フィクションとノンフィクション(4)
 今回で「フィクションとノンフィクション」は4回目となってしまいました。当初このテーマは2回で切り上げようと思っていたのですが、要領の悪さも手伝ってか言い残したことがたくさんあるように思え、こんなことになってしまいました。いい加減にして次のテーマに移ろうとパソコンを立ち上げたのですが、まだ未練たらたららしいのです。途中からなんとか切り替えたいと思っていますが、どうなることやら。

 読んで字の如く「写真は真を写す」ということを否定するためにお話ししているわけではなく、写真の持つある一面をお話ししたいとの思いで続けてしまったようです。虚構の世界に遊ぶという高尚な(?)趣味をお持ちの読者諸兄に、写真世界の魅力に惹かれ、どんどんその深みにはまっていただきたいとの一念がそうさせたのでしょう。そして、自己弁護のために。

 ぼくは時々こんな質問をされることがあります。「どうしてかめやまさんは虫食いのキャベツや腐りかけた野菜、しおれた花を撮るの?」って。
 「美味しそうな野菜や花ざかりより、そういうものに惹かれるから、ついつい夢中になって撮ってしまうんです。だってそれがぼくにとって美しいと感じるからね」と、それしか答えようがないのです。
 歳とともに被写体に対する感情が変化していくことは確かなことですが、ぼくは若い頃から比較的被写体の吟味についてはそれほど変化がないと思っています。

 何ごとにも表と裏があり、それらが各々に独立して物が成立することはありませんから、それがつまり表裏一体ということなのでしょう。事物や事象というものは陰と陽とか、美と醜、善と悪といった相対する物をすべて同時に含有しているのだと思います。そのどちらかに惹かれるのは、各人各様でしょうが、ぼくの場合は幼児体験に基づくものと、そして大げさに言えば自己の価値観であったり、イデオロギーに負うところが大きいような気がします。
 裏や陰、醜に惹かれるのは現実を直視することに直結していると感じ、また世の中のリアリティを肯定しそれを受け入れることで、真実が見えてくるような気もします。リアリティの直視を避けたところには憎悪と誤解、無知が生じやすいような気がしてならないのです。
 人は誰でも陽・表・美だけに目を向けたがるのは人情として自然なことだと思います。癒しを求めるのもこの混沌とした不安な世にあって、また未曾有の大災害にあっては特に自然の成り行きのようにも思えますが、ぼくは癒しより現実の直視とそれを素直に受け入れることにこそ救いがあるように思うのです。
美醜や表裏の優劣はありませんが、事物や事象にどう対峙しイメージするか、その段階で、つまり人格や知性の表出としての普遍的な美の存在がそこで決定されるのだと考えています。

 9.11(米国同時多発テロ)の写真を撮った写真家はたくさんいますが、ぼくはアメリカの報道カメラマンであるJ. ナクトウェイ(James Nachtwey)のものが傑出したものであるように思います。写真分野に関係なく今ぼくが最も高く評価している写真家でもあります。世界中の戦場や飢餓地帯、難民キャンプなどを撮影していますが、目を背けたくなるような写真に彼の全人格が投影され、また反映されています。人間性への犯罪、憎悪というものを真正面から受け入れ、その画像は報道写真の枠を飛び越え、写真として非常に美しいものです。表現手段というものは、人は自己を投影できるものを選択するものです。彼の作品に奥行きを与えているものは生半可な人間愛などではなく、正義感でもなく、想像や発見の大きさ、多さなのでしょう。そこで初めて醜の中の美、善に宿る悪が見えてくるのだと思います。
 これはフィクションでしょうか? それともノンフィクションなのでしょうか? ぼくがそれを論じるのは、それこそ野暮というもの。
 ご興味があればナクトウェイのHPをご覧ください。
 http://www.jamesnachtwey.com/

 写真には直接関係がありませんが、ナクトウェイ同様の視点で捉えた9.11に関する優れた書物を読んだばかりです。L. ライト ( Lawrence Wright) 著『倒壊する巨塔』( 原題 ” The Looming Tower ” 白水社刊)で、そこに写真論は書かれていませんが、写真を撮る者にとってプロ・アマに関係なく、含蓄にあふれた読み応えのある書物でした。

 あなたの部屋をどのようなカメラでもかまいませんから広角レンズ(お持ちであれば)で撮ってみてください。その画像はあなたの普段見慣れた部屋と比べてどうでしょうか? ほとんどの場合、ほんのちょっと、あるいはかなりきれいに写っているのではありませんか? かく言うぼくの部屋など印画紙と意味のない書類や書物で埋め尽くされ、さながら新聞社や雑誌社の編集者の机のように様々なものが咲き乱れ、とてもきれいだなんて言えるものではありませんが、今16mmの超広角レンズで撮ってみると、なんだか様になっているのです。
 また、昨夜台風の新宿は荒木町の飲み屋で大手術をしたばかりの人の手術跡を撮りました。現実よりはるかに生々しく写っていました。
 片や現実よりきれいに、片や現実以上に現実的に。う〜ん、写真ってなんだか分からなくなってきました!!!
(文:亀山 哲郎)

2011/09/16(金)
第68回:フィクションとノンフィクション(3)
 話が紆余曲折し、しかも錯綜していますので読者諸兄には申し訳ないと思いつつも、ぼく自身が物事を筋道立てて論じたり、思考したりすることには極めて不向きなタイプですので(左脳に著しい欠損があるもよう)、それについてはどうかお目こぼしを願いたいと思います。

 野に咲くひまわりでも、生け花でも、それをキャンバスや印画紙に再現する際に、写実性という意味では、作者自身にとってはどこかに真実があったとしても、それを鑑賞する側は果たして作者が表現しようとしている真実を感じ取れるものでしょうか? そうとは必ずしも言い切れないように思います。たとえそれが図鑑的と称されるような絵や写真であったとしても、そこには前号で述べたように人間やそこに介在するもの(紙やインクやモニター、多種多様な光源などなど)という幾通りものフィルターを通して初めて我々はデフォルメされたひまわりを認識することになります。

 そしてまた、ひまわりの実物を同条件でAさんとBさんが眺めても、同じように感じているかどうか(感情や思想的にではなく、視覚上)という保証などどこにもありません。科学的にも実証できない事柄でしょう。余談ですが(余談が多いんだってば)ぼくは乱視が強く裸眼では横の線ははっきり見えるのですが、縦の線がぼやけてしまいます。それを眼鏡というガラスを通すことにより光学的な補正がなされ、初めて物の輪郭などがはっきり識別できるわけですが、あまりしっかり補正しようとすると(少年時代の視力1.2〜1.5くらいに)乱視の補正というものは、今度は逆に物が歪んだり傾いたりして見えてしまうのです。洗顔の際に洗面台が傾いて見え、慌てて眼鏡店に駆け込んだことがあります。
 職業柄、水平・垂直を正確に見極めなければならない時があり、それは撮影上大きな障害となってしまいます。できる限りそのような現象を避けるために、ある程度のところで妥協して眼鏡の度数を調整してもらっていますが、おまけに近視と老眼が仲良く同居していますので、幼児用語で言うならば“ガチャ目”なのです。近年は眼精疲労による“かすみ目”も加わり時折ソフトフォーカスとなり、ついでに両眼の視力が異なっていますので、ここまでくると“ガチャ目”を通り越して、真に悪辣でグロテスクな眼球と言えます。

 ぼくのようなガチャ目や、世の中には色の判別に不自由な方もおられますので、本当に物の見え方は百人百様なのだと思います。
 眼球(水晶体やガラス体)の形状や大きさも同一ではなく、脳につながる視神経の性能(?)も異なりましょう。人の網膜には大型カメラのように被写体の天地左右が逆になって写されており、人間の目(脳)というものはその逆像が一分の狂いもなく正像に見えるようにちゃんと取り計らってくれています。まさか物が逆さまに見える人はいないでしょうが。

 レンズの焦点距離により(広角レンズ〜望遠レンズに至るまで)遠近感や視野角が異なり、色もフィルムや受光素子の違いにより異なって表現されますから(感色性)、人間も個人個人により差異のある眼球を持ち、それぞれに異なった受け取り方をする(ここでは精神的作用ではなくあくまで視覚的な見地で)に違いないと医学の素人であるぼくなどは考えてしまいます。しかし、人の目の性能は、写真レンズという非常に冷徹かつ冷厳な振りをしたとんでもなく出来損ないの代物からすれば、比較にならぬほど高品質・高性能の優れものです。
 はるかに高品質な人間の目が認識すると同じように写真が再現できないのは当たり前のことと思われがちですが、にも関わらず不思議なことに、本当に不思議なことに写真は目で認識した物を実際より美しく、ドラマチックに表現してしまうことがままあるということなのです。
 写真とは、実物よりも綺麗に、そして美しく。時には幻想的に。時には抽象的に。そしてまた、現実世界よりもリアリティを持って。あなたの生きた歴史の刹那を輪切りのように抽出し、表出させることでもあるのです。
 ここに怪しく妖艶な写真の魅力があります。写真の好きな人々は、この虚構の美に魅了され、虜となってしまうのでしょう。フィクションの世界に漂うことに酔いしれるのだと思います。

 商業写真(雑誌やカタログやパンフ、ポスターなど)はこのような性質を持つ写真作用を最大限に活かし、消費者を獲得し、消費者は冊子であれWebであれ、居ながらにして欲しい商品を選ぶ目安とするのです。
 また、美術展などの図録は、美術史家の研究用資料を対象としたものでない限り、撮影者の主観に委ねられ(ある程度ですが)実物より美しく表現されていないと価値がありません。売り物にならないというわけです。第67回の冒頭で触れたように、ゴッホの描いた実物を見てちょっとがっかりしたと言う友人に対して「写真に従事している者であればその文言が不思議なことでも、不可解なことでもなく」と書いたのは上記のような理由によるものなのです。彼の審美眼はやはり確かなものだったのです。常に実物の絵より写真の方が見応えがあるという意味ではありませんので、その伝曲解なさらぬように。

 写真作用の活用は私的な写真でも同様です。商業写真と大きく異なるところは主観的要素の大きいことで、表現の制約がなく作者の自由度があることです。ただこの自由度という言い方が曲者で、何をどう表現しても良いということではありません。そこには普遍的な美が宿っていなくてはならず、そのようなルールに厳粛に従ったものでなければならないでしょう。そうでないものはただ唯我独尊に他ならず、奇をてらったものや、あざといものや、一時的な思いつきや、すぐに飽きのきてしまうものや、それらすべては品性を欠いたものだよと、虚構の世界とはいつだって品位を求められるものなのだよと、ぼくはいつも自分に言い聞かせているのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/09/09(金)
第67回:フィクションとノンフィクション(2)
 ゴッホ好きのぼくの友人が、「アムステルダムで見た実物より日本で見ていた写真(印刷物)の方がずっといい! 憧れの絵の実物を見てちょっとがっかりしてしまった。写真って罪作りだなぁ」と言ったことについて、写真に従事している者であればその文言が不思議なことでも、不可解なことでもなく、 むしろ“むべなるかな”なのですが、みなさんはどのようにお考えでしょう?

 写真と絵を同じ土俵で論じ、比較すること自体が見当はずれも甚だしきことなのですが、ぼくの友人にも「写真は絵に敵わない」(主に写真を撮る人)とか「絵は写真に敵わない」(主に絵を描く人)とか言う人が時折います。ぼくにとっては議論の対象にはなり得ないので「何故?」と返したことはありませんが、このような意見は翻ってみれば他の分野の作品に宿る美を認め、ある意味での羨望でもあり、自分の従事している分野のものが一番だと(そういう人ってかなりいます)言って憚らない人たちよりはずっと健全で建設的な姿であろうと思います。斯く言うぼくも、他分野の作品にはかなりの妬心を抱くことがあります。「詩を書ける人っていいなぁ〜」とか「ヴァイオリンを弾ける人って羨ましいなぁ〜」とかね。詩や音楽は写真とはかなり異なった表現形態ですから、その違いを述べることはあっても、直接その長短の比較をしようとする人はまずいないのですが、絵は共通点のようなものがいくらかはあるので、容易に比較を試みようとする人もいます。英語では一般的に絵も写真も ”Picture” ですしね。

 しかし、写真も絵もフィクションの世界に変わりはなく、言ってみれば創作とは虚構の世界に遊ぶことです。一般的概念では、写真の方が絵より写実性に勝っていると感じ、よりノンフィクションに近いと思われがちですが、ぼくはまったくそうは思っていないのです。絵も写真も同じ。
 写真の最たるフィクションはモノクローム(白黒写真)の世界で、これは論を待たずですね。現実世界の有彩色を無彩色に変換して表現するわけですから、色彩の甚だしきデフォルメであると言うことができます。ぼくも私的写真はほとんどがモノクローム表現です。

 カラーフィルムが普及し一般化したのは日本では1970年前後からですから、ぼくの親の世代などは写真と言えばモノクロームが当たり前の時代でした。でも、それが虚構の世界だとの意識はあまりなかったのではないかと思います。きわめて写実性に富んだ、現実を写し撮るための表現形態であると信じて疑わなかった人も多々いたのではないかとぼくは思っています。つまり写真こそノンフィクションの世界であると思い込んでいた節があります。カラー写真というものが一般化されて初めて人々はモノクロームというものが無彩色にデフォルメされたフィクションだと気がついたのではないでしょうか。

 中国では古来からモノトーンですべてを表現する水墨画があり、日本でも禅宗の興隆とともに鎌倉時代から墨絵が盛んになりましたから、他民族に比べモノトーンの表現に馴染みが深かったということがあるかも知れません。ぼくは色彩学や民俗学を研究しているわけではありませんが、日本人はモノクロームの世界を他民族に比べ受け入れやすく、それほどの違和感を持たなかったのだろうと邪推しています。
 写真先進国のヨーロッパでは科学の発達も手伝ってか、カラー写真への憧れは強く、1800年代には開発が始まり、20世紀初頭にはすでにロシアのS. M. プロクジーン=ゴルスキーやフランスのリュミエール兄弟によりカラー写真が撮られています。著作権フリーとなっていますので、ロシアのHPからプロクジーン=ゴルスキーのカラー写真を2点借用します。

 ※参考写真 → http://www.amatias.com/bbs/30/67.html


 さて、ゴッホの名作「ひまわり」ですが、ゴッホは何点かのひまわりを描いています。ひまわりを細かく観察しながらキャンバスに油彩で描いているわけですが、すでにこの時点で色も形もかなりデフォルメされています。実物通りできる限り色も形もデフォルメせず、忠実に描こうなんてゴッホは考えていないはずです。彼が頭に描いたひまわりのイメージに忠実に描こうとしているのでしょう。もうすでに完全な虚構の世界です。
 「ひまわり」に限らずどんな絵画も虚構の世界ですね。三次元のものを二次元に置き換えた時点で虚構世界のものとなります。現実をありのままに描こうとしたG. クールベを初めとする写実主義の画家たちも、実際には写実であり得るはずがなく(美術史的分類で述べているのではありません)、虚構の世界に遊んでいる。遊んでいるというのが言い過ぎなら身を委ねているのだと思います。

 実物(ひまわり)→画家という人間のフィルター→絵→複写(カメラマンというフィルター)→印刷(紙やインクによる表現の差異)→印刷物を見るそれぞれに異なる光源→私たちの目、というデフォルメだらけの変遷をたどって私たちは1800年代の南仏に咲いたひまわりを初めて目の当たりにできるのです。それが絵であれ写真であれ、多くの主観的な手順(フィルター)を経ることになんら変わりはなく、では一体何が真実なのかという前人未踏の難しい問題に突き当たってしまうのです。
 書いている本人にもよく分かりませんので、次回はもう少し分かりやすい事柄を例題に取り上げてみましょう。
(文:亀山 哲郎)

2011/09/02(金)
第66回:フィクションとノンフィクション(1)
 先週、久しぶりに油絵の複写を70点ほどしました。ある画家さんの画集のための撮影です。
 ぼくの修業時代の師匠が美術工芸品の撮影では知られた人で、ぼくは彼のアシスタントとして立体物や複写のライティングをみっちり仕込まれたものです。美術工芸品の撮影技術は、そのフォルムや色、質感などに関して特別に事細かく指摘される分野ですので、その後の商品撮影(いわゆる物撮りーーブツドリ)や料理撮影にも大いに役立ちました。また、日本を始め世界の著名な絵や美術作品をたくさん撮影する機会に恵まれたことは何ものにも代え難い財産となっています。

 「写真は複写に始まり複写に終わる」とこの世界で言われるようですが、それは多分「釣りはヘラブナに始まりヘラブナに終わる」をもじったものではなかろうかと思います。
 複写とは平面体(二次元)を写し撮る行為で、文字通り複写なのですが、この作業は非常にむずかしいものです。プロでもかなりの熟練を要します。一見すると二次元のものを写真という二次元に置き換えるだけのものと安易に考えがちですが、ところがドッコイそう易々とできるものではありません。
 水平、垂直をしっかり保つということがどれほど困難なことなのかは、みなさんが例えば方眼紙や新聞紙を撮影してみれば一目瞭然だと思います。つまり、被写体の面と受光面が完全に平行でなければなりませんし、それに加えてレンズの光軸が被写体の中心に正確に位置しなければならないからです。小さな鏡を被写体のど真ん中に貼り付け、その鏡にレンズが映ればアオリ装置のない(蛇腹のない)小型・中型カメラでは理論上はOKとなりますが、実際には絵に鏡を貼り付けるわけにはいきませんから、あくまでもそれは練習の方法に過ぎません。小型カメラでもシフトレンズと称して多少のアオリができるものもありますが、大型カメラのアオリに比べればその範囲は限られたものです。

 カメラがしっかりと設定できれば次はライティングです。「よもやま話」ではライティングの講釈まではいたしませんが、肝心なことは人工光を使い被写体面に太陽光源下で得られるような均一な光を与えることです。そしてまた、レンズには周辺光量が落ちるという避けがたい性質がありますから、どのくらい絞り込めば(レンズのf値を大きくしていく)周辺光量が落ちないのかということを頭に入れておかなければなりません。レンズによりこのf値は異なりますから、自分の使用レンズの性質を把握しておく必要があります。
 複写は原理的には被写界深度を必要としませんが、それでもある程度絞り込まなければならない理由は、周辺光量落ちの解消と解像度、コントラストの問題に依拠しています。

※参考写真 → http://www.amatias.com/bbs/30/66.html

 絵などの撮影時には絵の横にカラーパッチを貼り一緒に写し撮ることも正確な色再現を計る際に必要なこととなります。デジタルであれば同時に正確なホワイトバランスを得るための重要なツールともなります。
 複写とはいえ、油絵などは多少の凹凸がありますから、その凸凹を表現するためにどのような光質(柔らかさや硬さ)を選ぶかという課題も生じます。また、敢えて均一な光を与えずに絵の特徴を際立たせるためのライティングを用いることもあります。
 それら、これらを十全にこなして、初めて一枚の完全な複写が出来上がります。ですからけっこう大変なんですね。

 アシスタント時代、慣れぬうちは被写体と光軸のセンターを出すだけで何十分もかかってしまいます。当時は大型カメラ使用がほとんどでしたから、被写体の天地左右がすりガラス上に逆さまに写るのでなおさらです。もたもたしていると、師匠から「早くせい!」と怒声が飛んできます。「早くせい!」だけならまだしも、放送禁止用語もなんのその、セクハラだろうがパワーハラスメントだろうが一切おかまいなし。公開処刑的人格否定など日常茶飯事、どれほど残忍で理不尽な言葉がスタジオ中に響き渡るか。蹴りを入れられたり、パンチが飛んできたり、いろいろなものが飛び交うのです。これが良いかそうでないかは別次元の話ですが、このような世界をくぐり抜けると、写真を撮ってお金をいただくということは、はたまたプロフェッショナルとはどういうことなのかがはっきり自覚できるものです。ぼくの2年間の修業時代は終生忘れ得ぬ良い時期だったと痛感しています。

 で、表題に掲げた「フィクションとノンフィクション」について、前置きがずいぶん長くなってしまいました。
 ぼくの親しい友人に無類のゴッホ好きがいて、本物を見たいとわざわざアムステルダムに赴き、ゴッホ漬けのようになって帰ってきたのですが、開口一番「かめやまさん、実物より日本で見ていた写真(印刷物)の方がずっといい!」と彼は言ったのでした。ぼくは彼との長い付き合いで、彼がいかに素晴らしい審美眼の持ち主であるかを十分知っていましたが、一瞬「エッ!」と思いました。しかし、写真ばかりでなく他の分野に於ける「フィクションとノンフィクション」について思いを巡らせれば、すぐに彼の言うことに合点がいったのでした。この続き来週。すいません。
(文:亀山 哲郎)

2011/08/26(金)
第65回:初級者って誰?
 夏から秋口にかけては雲の表情がとても豊かです。積乱雲というのでしょうか、または入道雲。やはり“入道雲”という言葉の方がずっと味わい深いですね。擬音でいうなら“モクモク”としてカリフラワーのようでもあり、まるで生き物のように活動的で見ていて飽きることがありません。特に順光に照らし出された入道雲は、深い藍色の宇宙を背景に真綿の如く所在なさそうにフワフワと浮かびながら、しかし自己の存在を顕示しようと絶え間なく表情を変え天に向かってキノコのように成長していきます。一編の詩でも詠んでみようかなどと不遜な気持ちにも駆られます。

 以前、ぼくの助手君を勤めてくれた若者が、ロケ地へ向かう車を運転しながら、目の前に現れた入道雲を見てたいそう感激しているのです。その入道雲は、今ぼくの住むさいたま市で見られるそれと比べればかなりの小者なのですが、それでも彼は助手席のぼくに向かって、「かめやまさん、あの雲、いいですねぇ。積乱雲って言うんですか、いいなぁ〜」とひとしきり感動の面持ち一杯のようでした。
 「ありゃな、日本では ”入道雲“ っちも言うんばい」とぼくはこのスペインで生まれ育った純血日本人の若者に博多弁で伝えました。熱心に日本語を学ぼうとする彼は、常にカメラとともに日本語の辞書と四文字熟語辞典なるものを人知れずバッグに隠し持っておりました。特に四文字熟語には並外れた興味と異常とも思える執念を持って挑んでおりました。その習熟ぶりは日本育ちの若者より達者であると思わせる瞬間があるのは確かなのですが、覚えたものをすぐに使いたがる癖から逃れられず、とんでもない誤用をしでかしては皆を笑わせ、緊迫するロケ現場を和ませてくれるのに一役買っておりました。
 タワシのような髪の坊主頭をさすりながら、「またはキノコ雲とも言うんですよね?」とちょっと得意げでもありました。
 「それはね、あながち間違いではないけれど、“あながち”っていう日本語分かる? キノコ雲という言い方は、原爆雲や火山雲などを指し、日本人にとってはどうしても原爆を連想させるから悪玉扱いされるね。やはりこの場合は善玉である入道雲の方が適切で、日本語としても美しい使い方なんだよ」なんて言ったことを覚えています。
 「入道雲の ”入道“ ってどういう意味なんですか?」。「君のような坊主頭のこと。坊主頭がたくさん重なっているように見えるから ”入道雲”って言うの。頭を丸めて仏門に入るということでもあるんだよ」。「う〜ん、日本語って面白いですねぇ。スペインはですね、海岸地方を除いて、ぼくの育ったトレドなどには入道雲なんて出ないんですよ。ぼくはこのような雲を見たことがないもんだから、ちょっと感激してるんです。ところで ”頭を丸める“ってどういう意味ですか?」と勤勉なタワシ頭。
 スペインには入道雲というものがないのだそうです。

 余談をしているうちに、ぼくは何を書こうとしているのかが分からなくなってしまいました。「入道雲の撮り方」? いや違う。何だったけな。

 どのような分野にも「初級・中級・上級」というのがあるのだそうです。もちろん写真の世界もそのように区分けされることがあるようですね。だとすれば、ぼくがこの「よもやま話」でぐだぐだと述べていることの対象は、そのうちのどれなのであろうかと自問自答してみるのです。「初級・中級・上級」の区分けを思えば思うほど、考えれば考えるほど迷宮に這入り込んでいくように思えます。
 タワシ頭が日本語の初級者かというと、ぼくは必ずしもそうとは思いません。彼の日本語はその用法や語法に於いて間違いだらけではありますが、少なくともその間違いだらけの日本語を持ってして自分の意志や意見をしっかり相手に伝える術を心得ています。反対に語彙多くして、それらの語法をまんべんなく駆使しつつも、全体何を言いたいのかがさっぱり伝わってこない人もいます。
 詰まるところ、相手に自分の意志を伝えるのは語法の巧みさなどではなく、思想そのものの確かさなのでしょう。

 しかし、概ね世間では前者(タワシ頭)を初級者と言い、後者を上級者と定めることが多いように思います。これは写真界にもある程度当てはまることだと感じます。加えて経験年数というあまり意義のないことも加算されるようです。多くのアマチュアの方々と接していつも感じることは、いわゆる“上級者”と自認している人ほど、写真の文法を誤認、誤用したりしていて、それを信じて疑わずこだわり続けていることです。言葉は誤用があっても思想を伝えることはできますが、写真は迂闊さがあってはやはりマズイのです。写真には科学に依存する部分があるからです。最も始末に負えないのが常に自分を上級者と、どこかで錯覚してしまった人たちなのです。錯覚とは技術と思想のはき違えです。ですからそのような人ほど上達が覚束かずに、伸び悩んだりするのでしょう。「一体どこの誰にそのようなことを吹き込まれたのですか?」と、言葉にすることもありますし、飲み込んでしまうこともあります。

 写真に於ける「初級・中級・上級」の区分けとは、ぼくは技術的な面で言えば、「技術の使い方が正しい順」として考え、知識や経験年数ではないという認識を持っています。写真に対する知識が少なくても良い写真を撮る人はたくさんいます。この事柄について、前回の「イメージすることの大切さ」をからめて述べようとすれば、さらに多くの字数が必要となりそうです。

 脈絡もなく、乱雑極まりないぼくの連載ですが、ぼくをも含め誰もが「初級・中級・上級」の複合体ではなかろうかとも思っています。
(文:亀山 哲郎)

2011/08/12(金)
第64回:イメージすることの大切さ
 震災からはや5ヶ月が経ったのですね。新盆を迎え未だに消息不明の方々がたくさんおられるという事実に、身近な日本人としてやり場のない悲痛を覚えます。
 ぼくは報道カメラマンでもなくルポ的なカメラマンでもないので、まだ現場に足を向けていませんが、未曾有の災害に即物的に反応しなくてもいいカメラマンでよかったと思っています。ぼくは報道系カメラマンのように義務で現地に赴く必要性を有しているわけではなく、いずれ出向くつもりですが、ある程度復旧が始まってからでも、そこで起こった悲惨な事実を自分のこととして写し撮るには遅いということはないと考えています。事実を直視しながら撮るという行為としては、その方が当を得ているとも思っています。写真には撮影する者の様々なフィルターがかかりますから、どのような心のフィルターを用意するのかという非常に重い課題と責務があるように思います。

 写真は、真を写すものではないと以前に述べた記憶があります。真を写さずとも他の分野から比べればやはり写真は極めて写実性の高いもので、またそのリアリティに於いても写実性から逃れられるものではありません。写真は対象物が美であれ醜であれ、撮影如何でその両極を如実に示す表現形態を有しています。「百聞は一見に如かず」と言われる所以が写真にも厳存しています。これはプロ・アマに関係のないことです。100万語を費やしても、1枚の写真の方が迫真的で多くを語る場合が多々ありますから、撮る側は常に何が真実なのかを自身に問い続けていなければなりませんね。

 みなさんが例えばカメラを持ってどこかへ旅行する時にはどうされるのでしょう? 見知らぬ地の情景や風景を心に描いたり(イメージする)、歴史や文化を調べたりして、その地に思いを馳せるのだと思います。まぁ、カメラを持ちながらも食い気一辺倒という人もいると思いますが、それも旅の大きな楽しみですし、食も文化の重要な担い手ですからそれもいいでしょう。土地が変われば食も言葉も人情も家の佇まいも異なりますから、五感を大いに働かせてシャッターを切る。それを撮影旅行と称するのだと思います。

 見知らぬ地に出向く時、ぼくは前日にその街の佇まいを頭の中にたくさん描きます。地図を見ながら「ここの角には板塀に囲まれた家があって、その隣は家内工業の電球の下、5人のおかみさんたちが働き、夕方になると西日が差し込んで、おかみさんたちの手の皺が強いコントラストで照らし出される」なんてことを勝手に想像(空想に近い)して、なかなか寝付かれないのです。
 さまざまなイメージを抱えて現地に到着するのですが、もちろんイメージ通りなんてことは一度もありませんでした。あれば気持ちが悪いですが、不思議なことに「この風景、どこかで見たような・・・」とか「当たらずとも遠からず」という経験は誰しもがあると思います。

 頭のなかで描いていたものと現実のギャップに襲われますが、ぼくの場合はそのギャップこそが現場での原動力をさらに掻き立ててくれるのです。一種のショック療法ということでしょうか。ショック療法を得るために前日のイメージ作りが必要なのです。
 そして、前もってイメージしていたものを現地で捨て去る作業が大切で、そこから精神的な活動が始まります。イメージにしがみついていては、盲目になってしまいますから、この手順を踏まないとぼくはなかなか始動できないのです。どうせ捨て去るイメージなのだから前もってそのような厄介な作業をしなくてもいいじゃないかと自分でも思うことがありますが、たとえ現地がイメージに沿ったものでないにせよ、イメージ作りをしておかないと現地に於ける発見に大きな差が生じるのです。写真を撮る行為とは発見そのものだからです。

 ぼくはかつて助手君たちに「まず完璧なイメージ作りに没頭し、そして次に現場でそれを木っ端微塵に壊す作業に専念すること。その繰り返しを多く体験し、鍛錬することにより、現場で新たなイメージと発見がより多く湧き出るようになるものだ」と言ってきました。イメージが脆弱だったり、発見が希薄では“不毛”同然ですから、そもそも撮影という行為が成り立たたないのです。そんなことを他人に言いながら、自分に言い聞かせてきました。
 それは仕事の写真でも私的な写真でも同じことですから、イメージは小説を書くように微に入り細にうがって描き上げた方が、「どうせ空想なのだから」と潔く捨てられるような気がします。
 自分の描いたイメージと違い過ぎて、どぎまぎして思うようになかなか撮れなかったというのであれば、それはイメージの描き方が粗雑であったからに違いありません。
 ですから、撮影前夜は思いっきり自分の世界に溺れない程度にふけってください。寝不足にならぬ程度にね。

 次回はお盆のため休載だそうですので、一週空きますがどうぞご了承ください。

(文:亀山 哲郎)

2011/08/05(金)
第63回:雨は名脇役
 台風の影響でしょうか、今日(4日)は豪雨に見舞われたり、晴れ上がった空に入道雲がもくもくと立ちのぼったり、目まぐるしい天候の変化というものは写真を撮る人間にとって歓迎すべきことであるように思います。ですから今日はぼくにとってなかなかの写真日和でした。

 昼下がりの豪雨に外に飛び出し(と言っても車で)、信号待ちをする間ワイパーを止め、フロントガラスにカメラを押しつけて、横断歩道を渡る人たち(傘をさしているので絵作りがしやすいのです)や光景を撮るのが面白く、ぼくは時々このような道路交通法上あまり好ましいとは言えない撮影をしてしまいます。ここだけの話ですが。
 コンデジ使用時、カメラモニターを見ながら撮影するあのスタイルがひどく嫌いですから、普段は光学ファインダーを覗きながら撮るのですが、運転席からフロントガラス越しの撮影時だけは、この醜いスタイルが便利この上なく、人目を忍びながらありがたく使い分けることにしています。

 フロントガラスは雨で濡れ、ワイパーを止めていれば周囲の光景は雨がひどいほど短時間に様々な表情を見せてくれます。雨のお陰でフロントガラスが一種のフィルターのような役割を果たし、この不規則な効果は二度とありません。電柱がグニャグニャと曲がったり、光が思わぬ拡散をするために、普段見慣れたものの様相ががらりと変わったりして飽きることがないのです。
 フロントガラスとカメラの距離を変えたり、f 値を変えることによりフィルター効果の変化は無限と言ってもよく、肉眼で見ているものとはまったくの別世界が受光素子に記録され、帰宅してそれをパソコンで見る楽しみは胸のわくわくするものです。もちろんフォーカスはマニュアルでなければなりません。オートフォーカスではカメラがまごついているうちに信号が青に変わってしまいますし、フロントガラスに合焦してはなんだか分からない写真になってしまいます。マニュアルフォーカスは、いわゆる「置きピン」で5m くらいに合わせておき、f 5.6〜8くらいにしておけばOKです。

 今日のような激しい降りだと、上り坂などではアスファルトに打ち付けられた雨しぶきが白く泡だっているようにも見え、視点が低くなればなるほど白さが増して、そこはまるで異次元空間のようでもあり、素晴らしい光景に出会うことができます。さすがに運転中は危険ですから、車を脇に寄せ、意を決し脱兎のごとく飛び出し、カメラ位置を適度に低くして稲妻?のような早業でシャッターを切り・・・。10秒もかかりませんが、今日はそれでもずぶ濡れになってしまいました。体はいくら濡れても命に支障はありませんが、カメラは命にかかわりますから、あらかじめ前述したような「置きピン」にセットしておき、カメラにハンカチを被せレンズだけ出し(もちろんフード付き)、ハンカチの上からシャッターボタンを押すのです。これでカメラの命は保証できます。

 今日のような土砂降りは特別ですが、ぼくは雨の写真が好きなのです。何よりもありがたことはコントラストが低いので、黒つぶれしたり、白飛びが起きにくいことにより、後処理つまり暗室作業がしやすいと言うことがあります。トーンが整えやすいのです。露出補正も晴天時に比べればそれほど神経質になる必要がないことなど、撮影に於ける技術的な面ではかなりお気楽というわけです。レンズに雨粒がつかぬようにすればいいだけです。気を遣うところはこの1点だけ。
 そしてまた、雨に光る路面も情趣を添えてくれます。人々は傘をさしているのでフォトジェニックでもあり、こちらも傘をさしながら片手で撮るのがぼくのスタイルです。傘のおかげであまり目立たずに済むという利点もあります。

 まだ若かりし頃、尾瀬ヶ原に何度も通い、よく雨中で撮影をしたものです。夏の尾瀬は1日に1度は雨にたたられますから、如何にカメラを濡らさずに撮影するかに工夫を凝らしました。レインコートに穴を開けたり、ビニールでカメラをくるみ、どのようにしてフィルムの詰め替えをするかとか、何もかもが手作りの時代でしたからいろいろ防水のための工作をしたものです。今は便利なものがあると聞いていますが、実際に使ったことはありません。
 雨で霞む遠景をバックに濡れた木道や花々についた雨粒など、雨が主役になることはあまりありませんが、なかなかの名脇役なのです。

 実は今日撮った雨中の写真などを添付し、読者諸兄に参考としてお見せしたいのは山々なのですが、仕事の性質上それらは印刷物を目的としたものであり、また未発表作品として発表しなければならないことなどもあり、著作権も含めてなかなか思うに任せずということでご承諾願えればありがたく思います。
(文:亀山 哲郎)