プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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| 2019/09/06(金) |
| 第461回:スマホ写真(1) |
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去年8月、長年愛用したガラケーの具合が悪くなり浦和にある販売店に出向いた。店員によるとぼくは30年間も携帯電話を使用しているのだそうだ。その間、何台ものガラケーを使い、今回も大方の人たちが使用しているスマホではなく、再び新しいガラケーを調達するつもりでいた。
店員の話では、ガラケーの先行きを勘案すれば、この際スマホに切り替えてはどうかとのことだった。ポイントも盛大に溜まり、特典もあるのでそれを利用すればiPhoneをほぼ無料で購入できるとの甘言でぼくを釣ってきた。 普段、MacとiPadを愛用しているので、スマホを買うのであればiPhoneと決めていたが、「高いなぁ」というのが実感だった。今直ちにiPhoneを手にしなければとの必然性は感じていなかったが、ポイントと特典のおかげで、ぼくの気持は揺れ動いた。 いずれスマホを使用しなければならない羽目に陥ると思っていた矢先のことだったので、上目遣いで揉み手をする店員の思う壺にはまることにした。ぼくは勇躍「飛んで火に入る夏の虫」となった。虫となってから、今月でちょうど丸1年を迎える。 30年来の携帯使用者であることに思いも至らなかったが(へぇ、そんなに経つのかと感無量ではあったが)、まだ携帯電話がそれほど一般化していない時期からぼくは利用していた。それを購入するのに大枚を叩いた記憶がある。携帯電話の購入は「新しい物好き」が高じてのことではなく、フリーランスという立場上、仕事に差し障りが出ては死活問題となる。 当時は通話料も高く、電話をかける時は携帯電話を使わず、わざわざ公衆電話を探し、10円玉を何枚か用意して、というへんてこりんなことをしていた。そのような使い方をしていたのはぼくばかりでなく、いわば平民?の常識でもあった。携帯電話はもっぱら受信専用に使われていたといってもいいくらいだった。電池の持ちも悪く、車のシガーライターから電源を取っていた。ぼくはそんな時代からの愛用者だった。 何故そんな早い時期から携帯電話を使用したかというと、前述の如くフリーランスのカメラマンにとって「連絡が取れない」というのは、仕事相手に迷惑をかけるということもあったが、それより深刻なことは仕事を逃すことにつながるかも知れないと思ったからだ。「いつでも連絡が取れる」ということは、フリーランスの人間にとって営業上の大きな利点と考えた。特にぼくのように営業をしないカメラマンにとってはなおさらのことだった。大枚などすぐに元が取れると踏んでいた。 自宅にはほとんどいなかったので、クライアントからよく「かめさんはなかなか連絡が取れず困ったものだ」といわれた。そんな事情もあって、出先から日に3度は自宅に「どこからか連絡なかった?」との電話を入れたものだ。この精神的な負担から解放されるには、携帯電話は持ってこいのツールだった。 今この時代に携帯電話(ガラケーであれ、スマホであれ)を持っていない人を指してぼくは衷心より、「真の文化的生活者」とか「精神生活を重んじる人」として高く評価している。このことはもちろん皮肉でも何でもない。 スマホ如きに生活の多くを占領され、振り回され、無批判に服従している現代人はつくづくみっともないと思っている。ヘソの曲がったぼくは、「そのような時代なのだから」を大義名分にしたくはない。大切なものを見境なく失っていることに気がつかないでいる多くの人々がいるだけだ。だからぼくは人前でスマホを必要以上に操作したりすることは厳に謹むことにしている。会話中にスマホを取り出したりすることに抵抗を覚えない人は極めて鈍感であり、頭脳の麻痺した阿呆であるとさえ思っている。 心情的スマホ論をまだまだ続けたいのだが、それでは本題に入れないので泣く泣く難しい「スマホ写真」について述べてみたい。やっと写真の話だ。 購入後1週間、スマホをポケットに入れているだけで、一種の写真的安心感を得られるに違いないとぼくは考えていた。いつどのような光景に出会ってもそれを逃すことなく捉えることができるとの勘違い的安心感だった。カメラ(一眼レフであれ、コンパクトカメラであれ)を持ち歩くことを考えれば、ここでも精神的・肉体的負担から解放されるとぼくは浅はかにも思い込んだ。 しかし、ぼくの思い込みは無念至極、1週間で吹き飛んでしまった。スマホで撮った画像をPhotoshopに移し、PCのモニターで見た途端にぼくの期待と希望は雲散霧消、儚くも崩れ、無残にも打ち砕かれた。物理的に考えれば(イメージセンサーの大きさを考慮すれば)画質のお粗末さは言わずもがなのだが、期待が大きかっただけに落胆もそれに比例した。おまけに画質劣化の代表選手であるシャープネス(劇薬)までかかっている。「余計なことをするな!」と思わずつぶやいてしまったほどだ。 拙稿で何度か触れたことがあるが、「写真の良し悪しは撮影機材に依拠するものではない」という考えは今も変わらないが、少なくともスマホカメラでイメージを追いかけることはぼくにとって不向きであるとの結論に至った。あまりにも画質が粗雑すぎるのだ。著しくデリカシーに欠ける。 何を以てして画質の良否を論じるかは個人や目的により異なることは百も承知だが、プロの看板を背負って作品づくりをするにしては、融通が利かなすぎて、どうしても役不足の感が否めない。思慮分別のないロボットのようなものだから、ぼくにとってスマホはカメラの代用品にはならないことを悟った。 次回は、スマホの優位性と役不足について思いつくままに、余計な枕なしに語ってみようと思っている。 http://www.amatias.com/bbs/30/461.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズEF35mm F1.4L USM。 栃木県栃木市。 ★「01栃木市」 変色しかかったポスターに夕陽がバランス良く当たる。単レンズの使い心地はやはり小気味いい。 絞りf8.0、1/100秒、ISO100、露出補正ノーマル。 ★「02栃木市」 薄暗いショーウィンドウに何故かひとつだけ腕時計が置かれていた。 絞りf4.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/08/30(金) |
| 第460回:吃音は写真向き? |
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近頃、ぼくは会話することにひどく自信を失いつつある。先週も数人の友人たち(何故か全員が写真に意欲的な妙齢のご婦人方だった)と馴染みの居酒屋で酒を酌み交わしながら、様々な話題について熱っぽく語り合った。
他人より2.5倍ほど自己顕示欲に勝っている(自他共に許すところだが)ぼくは、身振り手振りよろしく、写真を含めていろいろな議題や質問について自分の考えを伝えようと口角泡を飛ばしたのだが、帰宅しそれを反芻(はんすう)してみると、ほとんどの事柄について中途半端の尻切れトンボに終始していたことを悟り愕然としてしまった。 伝えたいことのほとんどが結論に辿り着かず、結果として途中で放棄しているような話し方であることに気づいた。放棄というより寄り道が多すぎて話の本筋を見失い、迷い子のようになったというべきか。放棄に至った理由は意図したものではなく、話の手順を誤ったからだった。 因って、ぼくの熱弁は全体何だったのだろうかと悲嘆に暮れてしまったのである。徒労に帰してしまったかも知れないと思うと、虚しい限りだ。この頃、そのようなことが頻発するようになった。 何故そうなってしまったのかを自分なりに紐解き、分析してみると、容易に原因を突き止めることができるのだから、情けなさとともに自己嫌悪に陥ってしまう。分かっているのなら、修正すればいいではないかといってはみるものの、それが思うに任せないところに、今のぼくの危うさがある。 原因の第一は、ぼくは非常にせっかちであるということだ。そうであるがために思考と言葉の歯車が噛み合わないという不都合に見舞われてしまう。頭ばかりが先行し言葉がついていかない。このようなことはぼくに限らず誰にでも起こり得ることなのだろうが、ぼくはそのズレが甚だしいのだ。ズレによって生じるもどかしさは、筋道を立てて手順良く話を進めるということに障害をもたらし、またそれを大きく妨害する。 いろいろな議題について、ぼくのなかではすでに結論を導いているのに、いきなりそれを語っても相手に理解されないのではないかとの不安にいつもつきまとわれる。ぼくはこれでも結構な心配性だから、遠回しにいろいろ配慮を示し、懸念を抱きすぎるのだろう。つまり相手の心情やら理解力をいたずらに斟酌してしまうので、本来のせっかちさに要らぬブレーキがかかってしまい、自分の位置(話の中核)を見失ってしまうのだろうと思う。 第二に、ある事柄を説明するために他のことを引き合いに出しすぎて、元に戻れなくなってしまうということ。根が親切だから主旨から枝葉が伸びすぎて、話があらぬ方向に進み、目標を見失ってしまうのだ。瞬間的健忘症に罹り、来た道がわからなくなってしまうというかなり絶望的な様相を呈す。そんな時、ぼくはここでも迷い子のような心細さを味わう。 「え〜っと、ぼく、何のために今この話をしているんだっけ?」と相手に問うこと非常にしばしば。先日はそれを連発していた。おまけに、そのようなときに限って、肝心の固有名詞が出て来ないため、すべてを代名詞で賄おうとするから、話が余計にこんがらがってくる。曰く「あれが。これが。それが。分かるよね」。何故か、みなさん分かったような顔をするから嫌になる。 余談だが、ぼくは軽度ではあるが、子供の頃から吃音(きつおん。どもりの意)だった。今以てそうだ。もしかしたら頭と言葉のズレによるストレスから吃音が生じているのかも知れないと思っている。多くの人がぼくの吃音に気がつかないでいるのは、「どもる」と感じた時に、咄嗟にどもらない語彙にすり替えてしまうからだ。ぼくはすり替えの名手でもある。人前でどもることが恥ずかしいという心理状態が「瞬時すり替え」という奇手を放つに至ったのだろう。 この裏技を使えないのは固有名詞であり、当然すり替えができないので、そんな時は黙りこくるか、深呼吸をして一拍おくしかない。しかし電話はそんな悠長な心理状態と時間を許してはくれず、したがって妙な沈黙が流れてしまう。相手は、言葉が出ないでもがいているぼくのことなど知るよしもなく、ぼくは申し訳なさとともに気まずさを感じ、だからこの歳になっても電話はどうにも苦手である。 子供の頃は当然のことながら語彙の持ち合わせが貧弱なので、沈黙を余儀なくされた。今誰とでも気楽におしゃべりできるのはその時の反動なのかな? 因みに、我が家系は親子三代(父、ぼく、息子。ついでながら嫁も子供の頃はかなりの吃音だったらしいが、歳とともに逞しさを増し、今はその片鱗さえない)にわたり、程度の差こそあれ皆吃音である。吃音って、遺伝するものなのだろうか。 知り合いの心理学者によると、「しゃべれる方が不思議なことで、特に顔の見えない電話はなおさらのこと。吃音者が電話を苦手とするのは当たり前。他の分野よりクリエーターや職人などは吃音者の比率が高いんです。だからかめやまさんは写真に向いているんだよ」とのことだった。何の気休めにもならないけれど。 そのような目で周りを見渡すと、確かにそんな気がする。否定できない何かがあるように思えてならない。ぼくは父方の祖父には会ったことがないのだが(ぼくの出生前に亡くなっていたので)、父の話によると彫刻家だった。高村光雲らとともに東京美術学校(現東京芸術大学)の創設に尽力し、そこの第一期生となった。手の腱を切断してしまい彫刻を断念したと聞く。その後、明治天皇の勅任官として美術品の発掘や鑑定のため全国を放浪していたらしい。良い身分であったとのこと。 今、祖父も吃音者であったのかどうかを父に聞き損ねたことを、返す返すも無念に思っている。今回は、余談が本題となってしまったけれど、ぼくはやはりすり替えが好きらしい。 http://www.amatias.com/bbs/30/460.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:EF50mm F1.8II。EF11-24mm F4L USM。 茨城県つくば市、埼玉県加須市。 ★「01つくば市」 前回掲載した神郡に行く途上、車窓からどうってことのない風景なのだが妙に心に響いた。 絞りf13.0、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。 ★「02加須市」 ガラス越しにバーの店内を。逆光となる太陽が様々なフレアやゴーストを演出してくれた。椅子と同系色のフレアが、「写真にするとどうなる?」と思いながら興味津々でシャッターを押してみた。 絞りf10.0、1/20秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/08/23(金) |
| 第459回:暑くて写真が撮れない! |
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お盆休みの間に、溜まりに溜まった用件を少しずつ片付けつつも、その間に何か有益なことをしたかといえば、何もしていない。もちろん、あまりの熱暑ゆえ写真を撮りに出かけることもしなかった。 “しなかった” のではなく、 “できなかった” 。写真愛好家の大方がそうであったに違いないと想像している。
ぼくはジジィらしく殊勝にも異常な暑さによる体調の異変を警戒しつつ、思い通り撮影に行けないことを、歯ぎしりしながら天を恨んでいた。老体の身で、こんな熱暑のなか表に飛び出し、動き回ることは無謀の極みだし、ましてや重いカメラを振り回し、我を忘れて、滴る汗を拭いながら被写体と対峙することになる。恐らくぼくはいつものように「オレだけは大丈夫」を呪文のように唱え、歳を顧みず無茶をしてしまうに違いない。もう「大丈夫じゃない」のだ。 そのような「賢い懸念」により、撮影は中断を余儀なくされた。蛮勇をふるえば、過信による熱中症に冒され、病院に担ぎ込まれるか、はたまた絶命するかも知れないと思えるほどの酷暑だった。身の程知らずを演ずれば、誰も同情を寄せてくれないほどの、そのくらい今夏は「危ない夏」だ。 それこそ「年寄りの冷や水」高じて「年寄りの達者 春の雪」(年寄りの生命力は儚いことのたとえ。春の雪が消えやすいように、老人がいくら元気だといっても、いつどうなるかわからないとの意)となりかねない。エアコンの効いた部屋に閉じ籠もり、ボーッとしつつも知的作業に勤しむことが、賢く健全な老人の所作というものではあるまいか。 とはいえ、ぼくは夜の10時頃になるとバンダナを巻き、通気に優れた半ズボンに履き替え、そっと家を抜け出し、汗だくになりながら1時間ばかり気の赴くままに近隣を徘徊する。嫁からは「行き倒れにならぬように、住所・電話番号を記したものを首からぶら下げておけ」と命じられている。また、心ない友人はぼくを「歩中」(アル中)だと、冷ややかにわざわざLINEを通していってくる。「つまらん洒落をいうな!」とぼくもLINEで返すのだ。ウォーキングなどという無様でみっともない苦行をただひたすら写真のためだけに励行している。この健気さを褒めてくれる人間はひとりもいない。あまり賢くないからだろうか? 去年のお盆休みはどうしていたのだろうとMacの「カレンダー」を繰ってみたら、神奈川県川崎区の千鳥町に工場の写真を撮りに行っている(第415~417回:川崎区千鳥町)。 拙稿には、「猛烈な暑さがほんの少し和らいだお盆の8月12日(日曜日)、ぼくはチャンス到来とばかり押っ取り刀で神奈川県川崎区の千鳥町に駆けつけた」とある。当日は、陽がとっぷり暮れるまで撮っていたので、暑さの和らぎはきっと束の間の発奮材料を与えてくれたのだろう。 今年のお盆は昨年とは異なり、暑さが少しでも和らぐような隙をまったく見せなかったという点で、より強靱であり、油断がならず、その分質が悪いというべきか。発奮どころか、気が滅入るばかりである。 そんななか、大手某社から電話があり、「急な話なんやけど、イタリアへ10日間ほど撮影に行ってもらえへんやろか? 聞くところによると今イタリアは熱波襲来で40℃超えという日もあるらしいんやけど。なんとかお願いできひんもんやろうか? かめやまさんの体力ならど〜もあれへんやろ」と無責任かつ脳天気なことを関西弁丸出しでちゃらっといってきた。彼とは仕事上のつき合いも長く、かれこれ20年以上にもなり、ぼくが関西出身ということもあってか、ぼくに対してだけ常に方言を露骨に晒すのだった。 関西弁に限らず、ぼくは大の「方言擁護派」であることを彼はよく知っている。人は自分の育った場所の言葉に誇りを持ち、大切にし、何ら恥じることなく大べらに使うべきとの信念を持っている。そのことは、翻って標準語の味気なさ、ニュアンスや気配の乏しさなどを、痛切な思いを持って感じ取っているからではないだろうかと思う。 彼の依頼にぼくは意地悪く九州言葉で返そうかとも思ったのだが、関西人にそのニュアンスが伝わることはないと思い、関西言葉で「わしを殺さんといてぇな。そらできひんわ。飛行機かて絶対にエコノミークラスはいややで。ビジネスクラスでないとあかんわ」と返した。 本音をいえば、暑さより、エコノミーのほうがずっと身に堪える。6時間以上のエコノミーフライトは、観光旅行ならいざ知らず、海外ロケの厳しさを何度も味わい熟知している身として、あらゆるものを消耗させる最悪の運搬手段だと思っている。もう若くないぼくは、したがって、「年寄りは頑張らない」ことが最も肝要なのだと言い聞かせている。もし、この仕事を引き受けていたら、今頃は拙稿も存在せず、ローマのコロッセオで熱暑と過労という猛獣に食い殺されていたに違いない。 友人たちが使い回していた焦点距離35mm単レンズが、何年ぶりかで手元に戻ってきたので、その小気味良さを堪能したいとぼくは胸を弾ませているのだが、この暑さでそれを試すことができず、欲求不満に陥っている。憤懣やるかたないのだが、自然現象には逆らえないので、「写真を撮らなければただのクソジジィ」にもうしばらく甘んじなければならないのかと、暗澹たる思いだ。9月の声を聞くまでは、隠忍自重の日々ですかね。 http://www.amatias.com/bbs/30/459.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 茨城県つくば市。 ★「01つくば市」 「つくば」という名称に特別な思いはないのだが、春雨につられて筑波山に行ってみた。その途中、神郡(かんごおり)というちょっとだけ風情を感じさせる佇まいに出会った。 絞りf13.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.33。 ★「02つくば市」 ここも神郡。昔ながらの佇まいが残されていた。カラーかモノクロか、どちらをイメージするか迷った結果、モノクロイメージに。 絞りf10.0、1/20秒、ISO100、露出補正-1.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/08/09(金) |
| 第458回:久しぶりに写真もどきの話(2) |
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写真に限らず、物づくりの第一歩は「まず自分の使用する道具の賢い使い方を身につけ、その性質を知る」ことにある。手足の如く道具を操ることの感覚と知恵を身につければ、そのこと自体が創作上大いに役立ってくれることは改めていうまでもない。また、バリエーションの展開にも利がある。
それはある程度の修練を必要とするが、そこは神頼みよろしく「好きこそものの上手なれ」とか「急がば回れ」を素直に信じ、地味な作業(例えば前号に述べたようなレンズテストなど)を根気よく励行するに限る。「神頼み」といっても、お百度を踏んだり、日々呪文を唱えただけでは残念ながら成就できない。「信ずる者は救われる」という具合には絶対いかない。 そしてまた修練を積めば、やがてさまざまな余禄を生み、また与ることができるようになること請け合いだ。同時に他の道具に対する応用力も身につけることができるのだから一挙両得以上のものがあり、十分に引き合う。 しかしながら、ぼくの知り得る限り、写真愛好家、もしくは好事家と自認する人たちの間でさえも、この地味な作業を試行し、身につけた方々は一割程度に過ぎない(いや、きっとそれ以下だろう)のではないかとの確信を抱いている。この現象は、ぼくが分不相応にも20代の頃から出入りしていたライカ特約店にたむろする人々でさえそうだったのだから、他はいうに及ばずだ。 修練によるこの分かりきった論理と道理をその時の都合に合わせよく忘れて(あるいは無視して)しまうので、みなさんにはその轍を踏まぬよう殊更強くお伝えしておきたいのだ。ぼくは「xxのひとつ覚え」のように、そればかりに固執してしまう性癖があり、それも悪くはないのだが、時折血が固まってしまい血行不良となり、道を誤ることがある。ぼくは自分のそれを「偏愛的一極集中型」と名づけているが、ものは言いようである。 ひとつのレンズを知り、使いこなすためには、以前にも述べたことがあるけれど、毎日使っても一年はかかるというのがぼくの見立てだ。時に「虚仮の一心」(こけのいっしん。愚かな人でも一心に物事をすれば立派に成し遂げられるという意)にすがることは、このうえなく尊いことだと思っている。 繰り返しになるが(そのくらい重要なことなので)、道具の使いこなしと理解は、物づくりの上で避けて通ることのできぬとても大切な事柄であり、課題でもある。この関門を無事くぐるのとそうでないのとでは、後々大きな差となって表れる。ちょっと大袈裟にいうのなら「雲泥の差」となって表れる。 道具の性質を知らずして、「ただ闇雲に」とか「やたら滅法に」突き進むと無駄な労力ばかりを消費して、見当違いの方向に歩を進め、遅々として前に進むことができない。道具への理解も覚束ないので、描くイメージの発展やら展開を妨げてしまうことも多々あるのではなかろうかと思う。 我が家の家訓である(嘘です)「無駄は必要だが、一度で良い」とはぼくの念誦(ねんじゅ。仏に祈り、経文を唱えること)のようなものなのだが、そう言い聞かせながらも、無駄という螺旋階段からなかなか這い出ることができない。同じところをぐるぐると回っている。そんな体験を、憚りながらぼくは山ほどしてきた。そして今もしている。 それを重々承知していながらも、気に入った道具(今回の場合はレンズ)を手にすると、それ一辺倒となる。この2年間の連載写真のほとんどは11~24mmレンズで撮影されたものだが、この異様な画角とパースのレンズを手にしてちょうど今月で2年経つ。しかし、なかなか正体が見えてこないので、この難物を手なづけようと未だ苦心惨憺している。散々テストをしているものの、実戦ではテストと同じとはいかず、図らずもテストと本番の境目を見失うこともしばしばだ。 あまりにも多くの要因が複雑に絡み合っているので、その因果関係とか相関関係が把握できずにいる。ぼくにとって、こんな「悪女の深情け」的レンズは初めてのことだが、その分魅力に溢れている。 レンズに合わせて被写体を選ぶという本末転倒をしでかして知らん顔をしている自分がいるのだが、「もしかしたら、それもありなのかも知れない」と、魔が差すこともある。つまりぼくは善悪の区別もつかなくなり、自棄になって、「あばたもえくぼ」的な心境に追いやられつつあるということのようだ。 前号にて記した京都で合流した友人は、ぼくの宿題をアッパレにもこなし、f値による描写の違いにびっくりしたのだそうである。f値を変えれば被写界深度も異なってくるが、それより解像度の変化に意表を突かれたと目を丸くしていた。利発な友人は、「f値の違いが同じレンズを別のものに変えてしまう。目から鱗が落ちた。知らないってホントに恐い!」と、広い妙心寺境内を走り回っていた。 レンズによる描写の違いはf値の選択に起因することと知ってもらえば今回のぼくの役目は半分済んだことになる。後の半分は、画面内で水平線や垂直線がおかしな重なりをしていないかにだけに注力し、それをレクチュアすることに終始した。要するに、線の重なり具合により、立体感や臨場感が異なってくることを知らせたかった。加え、画面を整理することにもつながる。 フィルムと異なりデジタルは撮影したものがすぐにモニターで確認できるので、その場で解説することができ、理解が早い。おかげでぼくは200回近く友人のモニターを覗き込み欠陥を指摘した。さすがにくたびれたけれど、熱心さに打たれて何とかその日1日を持ち堪えることができた。ビールの美味かったこと! 我が倶楽部での撮影会で、ぼくは彼らのモニターを覗き込んだ記憶は未だかつてないような気がする。 http://www.amatias.com/bbs/30/458.html 来週はお盆休みのため休載となります。 カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 京都市右京区妙心寺。中京区。 ★「01妙心寺三門」 創建慶長4年(1599年。重文)。境内唯一の朱塗り建造物。今にも降り出しそうな厚い雲に覆われ、非常に柔らかい光に包まれる。絶好の写真日和だ。 絞りf10.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.67。 ★「02京都市中京区」 妙心寺を出てブラブラ歩いていたら、空が徐々に晴れ上がった。こんな長屋がたくさんある。友人はその度に歓声を上げる。ぼくもつられて撮る。 絞りf11.0、1/60秒、ISO100、露出補正-0.67。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/08/02(金) |
| 第457回:久しぶりに写真もどきの話(1) |
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この半年近く、ぼくは得体の知れないストレスのようなものを抱え消化不良を起こし難渋ばかりしている。しなければならないことがあれこれ降って湧き、何から手を付けて良いか分からず、無手勝流の行き当たりばったりだ。しかし不義理だけは極力避けようと、一時的に気を紛らわしたりしながら、摘まみ食いのようなことばかりしでかすものだから、結果どれもが中途半端に終わってしまう。食い散らかしのだらしなさを露呈している。
結果的に不義理をし、迷惑を省みず、身を縮め許しを請うことになる。八方美人を粧おっては碌なことにならないことは目に見えているのに、ぼくはどうしても賢くなれない。 こんなことの繰り返しはえらく精神を痛み付けるもので、衛生的に極めて好ましくない。今のところ、外観上痩せ衰えてはいないが、やがて憔悴しながら生命の炎が細っていくその一過程であるのかも知れないと一抹の不安を残している。 何故そのドツボに嵌まってしまうかの原因は先刻承知のはずなのだが、これが上手くいかない。 “上手くいかない” のではなく “思い通りにいかない” といったほうが正しいのかも。 物事には優先順位というものがあるのだから、それに従い、手際良く粛々と努めればいいことくらいはぼくにだって分かる。賢い人は淀みなくそれができるらしいのだが、ぼくは「分かっていながらできない」ので、ストレスが溜まることになる。そこに生来の「愚図」が輪を掛けているのだから、なおさら始末が悪い。 雑務の輻輳(ふくそう。方々からいろいろな物が一か所に集まり、混み合うこと)は、身も心も冒していく。しかも、一銭にもならぬことばかりだから、これは一種の消耗戦のようなもので、救いも励みもなく、まったく敵わない。 だがぼくは賢くない分、山あり谷ありで人生の退屈さを十分に凌いできた。それは習慣となり、流儀にも発展し、これはこれで大した御利益だと負け惜しみを知りつつも公言している。 スリリングな展開が高じて危機一髪なんてこともある。やはりこちらのほうがリスクが大きい分、やり過ごした時の爽快感や充実感、そして面白味は、賢く立ち回った時(事なかれ主義とでもいうのかな)の比ではない。「火事場の莫迦力」と「苦しい時の神頼み」の合体で立ち向かうのだから、まさに恐いもの知らずで、大概のことはこれで事足りるという寸法だ。 「メリットとデメリット」、「プラスとマイナス」、「功罪相半ば」などの道理至極は常に表裏一体であることは誰でもが知っていることだと思いがちだが、この世にはどっこいそれを知らずして、ぼくを悪者扱いする無調法な者のなんと多いことか! あれやこれやのストレスを晴らそうと、ぼくはここのところ拙文で、「紫陽花」、「美術館通いをする人々」、「医者たち」を俎上に載せ、痛罵を連発し、悪態をついてきた。挙げ句、恰好ばかりの「自己の強欲についての自己批判」をして見せたりと、慌ただしそうに屁理屈を並び立てた。 掲載写真も新たな補整が間に合わず、今頃になって今年3月に訪れた京都(遊郭以外)にやっと取りかかっている始末。今回は3月に訪問した妙心寺(妙心寺については第414回を参照)を2枚掲載する。というのも実は妙心寺では、友人をマン・ツー・マンで教えるために自分の写真を撮る余裕がなく、数枚しか撮っていなかった。ぼくは熱意ある、しかも厳しく良い指導者を4時間も妙心寺で演じたわけである。 友人は新たに購入したC社の10-22mmズームレンズ(APS-Cサイズ専用で、35mmなら16-35mmに相当。我が倶楽部でも2人が使用しており、ぼくはAPS-Cサイズのカメラを持っていないが、彼らの写真を見る限り優れたレンズである)を如何に上手く使いこなすか、そのためのレクチュアをしてくれとのことだった。 京都で合流する前にぼくは宿題を出しておいた。焦点距離10mm、16mm、22mmの3つを選び、絞り開放f値〜絞り切ったf値で、できれば1/3絞りずつ三脚とレリーズを使用してRawで撮ること。被写体との距離は取り敢えず数メートル、テクスチュアのある平面な壁を選ぶこと(サンプルが多ければ多いほどレンズの正体が正確に分かる)。ズームレンズゆえ、完璧を期すのであれば、テスト枚数はかなりのものになる。焦点距離・f値・被写体との距離などの組み合わせは膨大なものになるが、その数は熱意に比例する。 撮影した画像のセンターと四隅をPhotoshopなどの画像ソフトを使用し、拡大率100~200%の範囲で確認する。センターと四隅の解像度ができるだけ均一なf値を探り出し、それを常用f値の基準(あくまで基準)と考えると、被写体の条件や撮影意図により、柔軟に使いこなせるようになる。 前述したようにサンプルの数が多いほど的確に使いこなせるようになるだろう。ただし、結果を程よく記憶しておかなければならない。ぼくの経験則に照らし合わせると、これは記憶力云々より、撮影意欲の強固さと場数こそがものをいうのだとの確信がある。漫然と撮っていてはいつまで経ってもレンズを上手に使いこなせるものではない。 写真はレンズの使い方だけではなく、その他諸々、手取り足取りの妙心寺レクチュアは厳粛に執り行われた。この続きは次号で。 http://www.amatias.com/bbs/30/457.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 京都市右京区妙心寺。 ★「01妙心寺仏殿」 東京ドーム約7〜8倍の広さを誇る妙心寺。境内には48の塔頭がある。そのうちのひとつ仏殿。奥が「雲龍図」のある法堂。焦点距離11mmの最短を使用して超広角の異次元パースを楽しむ。 絞りf13.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.67。 ★「02妙心寺仏殿」 仏殿を正面より。 絞りf10.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.33。焦点距離24mmの最長を使用。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/07/26(金) |
| 第456回: カメラの重さが・・・ |
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昨今、ぼくの身の周りでは老若男女に関わらず、体調に異変を来し通院や入院を余儀なくされたり、あるいは不幸にも病に打ち勝てず不帰の客となってしまった人たちが後を絶たない。
人の死はいつも悲しく痛ましいが、それを癒し克服する方法がなかなか見つからないので、残された人々はその時に負った傷により生じた瘡蓋(かさぶた)が剥がれぬようびくびくしながらも、故人の思い出に浸りながら日常をまっとうしようと努める。ぼくもそうしてきたし、みなさんもきっと同じだろうと思う。 実際のところ、人を失う悲しみや痛みは個人の差こそあれ、時とともに和らぎ、癒されていくものだが、寂しさだけは永遠に拭うことはできない。 しかし妙なもので、瘡蓋の多い人、少ない人、範囲の広い人、狭い人などなど、人類はいつも不平等そのものであり、その因果関係はぼく如きに計り知ることはできず、確かなことはそれぞれに異相を呈するものだということだ。 妙なものとはいうものの、それは当然のことながら故人との親和や愛情などに負うところが多いということくらいはぼくにでも分かる。寂しさがあまりに高じると「生は暗く、死もまた暗い」(G.マーラーの交響曲『大地の歌』にある歌詞)ということになりかねない。これまた永遠の涙である。 これ以上のことは宗教的な分野に首を突っ込まなければならないので、不信心者のぼくには不適であるので触れない。 体調の異変について、斯くいうぼくも医者通い( “美術館通い” ではない)がひとまず落着したばかりだ。医者の二股掛け(いわゆるセカンド・オピニオン)をし、双方から異口同音に確信を持って「異常なし!」と宣言されたてしまった。そんなことがあろうはずはない。 この判定は明らかに医者に落ち度があるように思えてならない。ぼくの身体のなかで生じている何某かの損傷を彼らは見逃しているに違いないのだ。異常があるからこそ、今まで体験したことのないような飲酒時に於ける胸の圧迫感による苦しさや、時によっては歩行困難を来すことが起こり得るのではないか。もちろん呑み過ぎるわけではなく、定量の三分の一くらいでこの症状に悩まされる。酔いの症状とは明らかに異なる。第一、ぼくはもう何年も酔うまで呑むことはしない。 面倒な検査を厭わず、異常を発見してもらい、然るべき手当がなされ、ぼくは今まで通り安心して酒を楽しみたい。そのために医者の梯子をし、心臓冠動脈CTも含めてさまざま込み入った診察とテストを受けたのだった。 酒は別称「天の美禄(天からの素晴らしい授かりものという意)」というくらいだから、ぼくの執念も宜(むべ)なるかなである。 ぼくの心臓が受ける難儀は飲酒時に限ってであって、それ以外は如何なる場合にも起こらない。原因を突き止められない複数の医者たちは「お酒を止めればいいですね」なんて、患者を虐待するような無慈悲で無責任なことをいとも平然と宣う。「いざという時のために、ニトロ錠剤を5錠出しておきましょう」と、医者は自らの職務を完全に放棄しているといっても良い。「落着した」と述べたがそれは誤りで、「一件落着」などまったくしていないのである。 この3,4年私的な写真を撮りに行く時、体力が衰えるに従ってぼくの撮影機材は何故か重量がかさむようになった。重量が体力を押し潰すのは普段の不摂生が祟ってのことなのか、撮影が終盤に近づく頃は息も絶え絶えとなり、足を引きずり、「おれはここで野垂れ死にをするのか」とつぶやくことさえある。決してオーバーな表現ではなく、ぼくは人知れず、ところ構わずへたり込んでしまうことしばしば。 これではいかんと自ら対策を練った結果が、みっともない「ウォーキング」と軟弱な「禁煙」だってんだから、最悪である。まことに無様・愚策の極みである。相当焼きが回って(焼きが回る。年を取るなどして体力や能力などが衰えること)しまったということだ。ぼくが最も蔑んでいる手段を執らざるを得ないことになってしまったのである。我ながら本当に情けなくも悲しい。 無慈悲な医者たちに向かってぼくは、「毎日1時間前後のウォーキングと禁煙を始めて約10ヶ月経ちましたが、良いことなど微塵もありません。何ひとつありゃしない!」と恨み骨髄に徹しながらそううそぶく。今のところ彼らへの仇討ちはこれしか手段がない。 しかしここだけの話、この3ヶ月、酒量は以前の半分以下に抑えているが、胸の圧迫感がなくなったのである。このことは口が裂けても原因を探れなかった無能な医者たちにはいわない。あくまで偉いのは医者ではなく、ぼく自身であるからだ。 1週間ほど前にちょっと魔が差し、「重い一眼レフを止めてコンパクトで良いカメラを購入してみようか。最低でもAPS-Cサイズでなければ困るが、単焦点レンズ付きの軽く良いカメラが巷には散見できそうだし」と、ネットで調べてみた。魅力のあるカメラがいくつか見つかったが、ぼくはハッと我に返りネットを閉じた。 サブカメラとして使用するのであれば話は別だが、商売人がAPS-Cサイズを主機種とし、フルサイズのカメラを遠ざけるようでは自らの生命を放棄するような気がした。そしてまた、それは写真の止め時であろうとも考えた。 体力が衰えつつあるのは自然の理だが、精神的にはまだまだ意気軒昂そのものだ。まだまだ伸び代があると信じている。重いカメラやレンズを振り回せなくなったらぼくは写真屋から身を引き、気軽なカメラを携えて、昔歩いた道、つまりアマチュアの世界に戻ろうかと思案したりもしている。 http://www.amatias.com/bbs/30/456.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 京都市上京区。 ★「01京都市上京区」 上七軒でニシンうどんを食べ、腹ごしらえをして、東の方向にふらふら。京都特有の路地長屋があちらこちらに点在していた。子供の頃に遊んだ思い出が沸々と湧いてきた。 絞りf11.0、1/60秒、ISO100、露出補正-2.33。 ★「02京都市上京区」 その一角を行き来して見つけた趣のある家。まさに京都的だ。 絞りf11.0、1/60秒、ISO100、露出補正-3.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/07/19(金) |
| 第455回:2年前の恩返し |
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おおよそ2ヶ月ぶりに私的写真を撮る時間と心の余裕らしきものが持てた。写真が撮れることの嬉しさとともに、一方では毎日雨ばかりで気温も上がらず、今年はさすがに能天気なぼくも、農作業に従事する人々の生活や、野菜などの物価上昇について柄にもなく気になっていた。
ぼくが世間並みにこんなことを気取りながら不用意に口外してしまうと、「へぇ〜、あ〜たがそんなことを考えるの? 嘘でしょ〜」という輩がボウフラのように何人も湧いて出てくることをよく知っている。 確かに、キュウリ1本、キャベツ1個の相場さえ知らないような人間が、身の程知らずのことを我とは無しにいってしまうと、屁理屈ばかりいうボウフラの恰好の餌食ともなりかねず、そして返す言葉も見つからず、取り返しのつかないことになる。だからぼくはこのような、どちらかといえば主婦的な話題は、良き理解者にしか話さないことにしている。身を守るには然るべき作法というものがある。 ちょうど2年前、茨城県の真壁町(桜川市)に撮影に行った時のこと。由緒ある旧家(国選定重要伝統的建造物)の住人であるおばあちゃんと娘さんをその軒下でかすめ撮ったことがあった。至近距離で一眼レフの大袈裟なシャッター音を響かせたのだから、彼女たちが気づかぬはずはない。ぼくは自らの作法に従い、笑顔をこしらえ、丁寧に挨拶を交わした後、彼女たちとしばらく世間話に興じた。人見知りの激しかった若い頃の自分には考えられぬ所作だ。 その時に撮ったスナップ写真は結果的にぼくのイメージに添って程良く撮れており、いずれプリントをさしあげなければと思っていたのだが、よくよく考えてみたら住所も名前も分からないという不運に見舞われた。何が不運なものか! それをいうなら「テイタラク」とか「迂闊」というんじゃないのか! しかしプリント渡しの方策を失った今となっては、再度彼の地へ赴き、それらしき旧家を探し当て、彼女たちに直接手渡すしかない。 何処であっただろうかとの記憶も、時とともに徐々に薄まりつつあり(特に最近はその気配が濃厚)、残影を呼び戻せるうちに足を運ばないとぼくの記憶は永遠に失われてしまう(ちょっとオーバーかな)のではとの危機感に襲われていた。 「行けば分かるさ。何とかなる。何しろオレの記憶力と勘は並外れているのだから」などと高を括ってはいけないことを、ぼくはこの2,3年薄々感じ取るようになっていた。残念ながら、年に相応しく、用心深く振る舞おうとする賢い大人になりつつあった。それは写真屋にあるまじき愚かしきこと。なんという浅ましさだ。これこそ「テイタラク」とか「落ちぶれる」とか「落魄の身」といっていいのではないか。 記憶を蘇らそうと、ぼくはグーグルのストリートビューという小癪なる文明の利器を使用し、パソコンのモニター上で同じ所を何度も巡り、そして行ったり来たりしながら、やっとその御利益に与った。確信はなかったが「おばあちゃんの家はどうやらここらしい」との当りをつけた。 2年前、夕陽を浴びつつあるあの時のおばあちゃんの横顔がふわ〜っと蘇り、ねんごろにもてなしてくれた彼らに急に会いたくなってきた。同時に、ぼくは自分が果報者だとも思った。 モニター上を駆け回っている間、外は激しい雨音がしていた。ぼくは咄嗟に、善は急げとばかり、「よし、明日おばあちゃんに会いに行くぞ。ついでに雨の真壁を撮ろう」と決意し、カー用品店にエンジンオイルを交換しに行こうと思った。急いでカー用品店の閉店時間を調べた。時刻は午後7時を少し回っていたが、閉店時間は8時だった。ワイパーを激しく振りながらぼくは近くのカー用品店に駆け込んだ。 真壁町まで距離にして我が家から片道100km弱なのだから、ガソリンと異なり、オイル交換はその日でなくてはならない理由など何もないにも関わらず、何故かぼくは気が急いていた。おばあちゃんに会うに当たって不備があってはならないと考えてのことかも知れなかった。 交換作業を待つ間中、ぼくは「何故、明日おばあちゃんに会いに行くのに、オイル交換をしなくてはならない気持になっているのだろうか?」をしきりと考えていた。考えあぐね、答えを見つけられずにいたところ、友人からメールが入っていた。 「突然なんだけれど、明日上野の東京文化会館で催されるコンサートに行くつもりだったのだが、都合が悪くなってしまった。チケットもったいないので、ついては、かめさん行かないか?」とあった。 ぼくはこのメールにひどく混乱を来し、「帰宅したらメールするから、ちょっと待っていて欲しい」と取り急ぎ返信した。「取り敢えず自分がチケットを確保しておかないと、他の人に持って行かれてしまう恐れがある。今まさに観賞の権利はオレにあるのだ」との、せこくて邪な考えが頭をかすめた。その場ですぐに返事ができるのに、ぼくは近来になく戸惑い、狼狽えてしまったのである。心の中で、無意味で壮絶な何かが争っていたように思う。強欲と嫉妬は人をダメにするね。 「おばあちゃん + プリント渡し + 雨の中の真壁撮影 + オイル交換」 vs. 「友人の好意 + 久しぶりのフル・オーケストラによる演奏会」という血みどろの対決にぼくは悩まされた。この骨肉を争うような難題をどうさばくかにぼくは汲々としていた。真壁行きを1日ずらせば、難なく両方手にすることができるという簡単なことにぼくは理解が届かずに狼狽えていたのだった。両方一緒に体験したかったのだ。不可能を可能にする技を探していたともいえる。取り敢えずどちらかを我慢しなければならないことに我慢がならなかったのだ。 オイル交換の翌日、ぼくは久しぶりのフル・オーケストラを聴きに雨の上野に赴き、心地よい思いをし、そしてその翌日、雨の真壁ではなかったけれど、おばあちゃんと心温まる再開を果たすことができた。やっぱり、ぼくは果報者のようだ。 http://www.amatias.com/bbs/30/455.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 京都市下京区、上京区。 ★「01京都市下京区」 雷鳴が轟き始め、「傘に落ちたら嫌だなぁ」などとのんきなことをいいながら、余所の軒下を借りやり過ごす。春の嵐だった。 絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。 ★「02京都市上京区」 京都五大花街のひとつ、上七軒(かみひちけん)は祇園や先斗町のような華やかさこそないが、京都最古のお茶屋街である。晴れ間がのぞき始め、撮影意欲が一気に下がってしまった。 絞りf13.0、1/160秒、ISO100、露出補正-2.00。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/07/12(金) |
| 第454回:美術館通い |
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最近は特に、美術館、音楽会、博物館など、いわゆる文化的、もしくは芸術的香りのする催しに疎遠になりつつあるのだが、ぼくはそれでいいと思っているし、自然なことでもあるとしている。
年老いたことにより感受が鈍化したとか、興味が醒めたということではない。かつて美術館などで体験したものや見聞きしたものよりさらに新鮮で良質なるものに接したいと望むのだから、当然ながら選択肢が狭まり、機会も少なくなるというのはもっともな道理ではないか。ただ正直にいえば、「ものぐさ」(出不精とも)に託けることもしばしばあるけれど。 そして、人生は図らずも最終的には、ほどよくプラスマイナス・ゼロとなるよう神様は上手いこと仕組んでいると思っているので、ぼくは若く多感な頃に一生分とはいわないが、多くのものを与えられ、その分得をしたのだと言い包(くる)めている。青年期から壮年期晩年に至るまで、寸暇を惜しんで足しげく通ったものだ。だから今、余生を思い、焦って美術館通いをしようとも思わない。 ただ神様は万人に対し、プラマイ・ゼロとはいえ、時には粗相をしたり、味噌を付けたりするので、平等に様々なものを分け与えようとはしないものだから、人によっていろいろな差が生じてくる。そこに多少の一利一害があるが、それは神様による差別などではなく、当人の資質であろうと思う。不信心の極みのようなぼくがいうのだから、この説は怪しいものだが。 老いによる「ものぐさ」と決め込むのはぼくに限ったことなのかどうか分からないのだが、その最たる理由をもし他に探すのであれば、ますます出不精の傾向が強くなったことだ。 もともとの出不精がさらにそうなってしまった原因はいくつもあるのだが、そのひとつを挙げれば、雑踏というものが老いに従ってますます苦手となっていったことだ。特に雑音を浴びせられればぼくはたちまち精神を病み、1分ほどで頓死する。それほど、雑音には弱い。生まれつき免疫がなく、どうやっても耐性が育たないのだ。好きな音楽も聴こうとの意志を持たなければ、ただの雑音に過ぎず、うるさくて敵わない。 特に近年、人気のある美術展は「静かに観賞」の環境どころではなく、ぼくには苦痛そのものだ。自然と足も遠のいてしまう。 こんなことを書いているとまたもや肝心の議題に移れないので、このあたりでもう止め、同輩への憎まれ口を叩いておこう。 ぼくは団塊世代のピークにあり、未だ小・中学校時代の友人知人との交流がある。男女に関係なく頻繁に会う人もいれば、ごくたまに会う人もいる。なにしろ人数が多いので普段交流がなくとも、街中でバッタリということもある。油断ならないのだ。 男たちは定年退職し、暇を持て余し、他にすべきことがたくさんあるだろうに、選りに選って「これから美術館に行く」とか「美術館に行ってきた」などとこれ見よがしに、恥じらいもなくそうほざく。ぼくが “ほざく” などとあまり上品でない言葉を使ってしまったのは、よほど彼らの行状や料簡が気に染まぬからなのだろう。 前回、「言葉の限りを尽くして痛罵された紫陽花」(読者よりのメール)同様に、ぼくは一度だけ美術館通いをする彼らに悪態をついておきたいのだ。大きなお世話であることも重々承知である。 美術館であろうが博物館であろうが、どこへ行こうが個人の自由であるけれど、彼らは、そのようなところに出入りすること自体に意義を見出し、失笑を買うような優越感を誇っているように思え、あるいはまた、高尚なものに触れているのだと誇示しているようにも思え、善人でないぼくは意地の悪い目つきで「美術館って、よく行くの? なんで〜?」と皮肉を込めて相手をじっと覗き込む。時には錯覚だらけの彼らに感想を求めたりもする。 彼らは、どうしても善人になり切れないぼくのシニカル(冷笑的)な態度にまったく動ずることなく、型通り「若い頃は忙しくて、行きたくても行けなかったからねぇ」と返してくる。本気でそう信じているから救い難い。いつも判で押したようにそんな返事の繰り返しだ。 ぼくは心うち「ほら来た。嘘をつけ。10のうち9.9が嘘で、残りの0.1だけが真実だ」とつぶやく。「若い頃にはその気も関心もなかったのだが、余生を考えて『形だけでも美術に親しんだことがあるとの実績をつくり、自分を慰めておきたいのだ』」と正直にいえば、可愛げがあっていい。 そしてまた、美術館という空間に我が身を置いて、自分は目下文化的生活に勤しみ、もしくは精神生活を送っているのだという一種の不健全で誤った安堵感に浸っているに違いないのである。それを他人が腐す資格などあろうはずもないのだが、同輩たちよ、それではあまりにも安普請に過ぎやしないかと、悪人のぼくはいつも彼らに聞こえないようにこっそりつぶやいている。その衝動をどうにも抑えきれないのだから、ぼくも始末が悪い。「オレも良い死に方はしないな」とほざいてみようか。 歳を取ってから、やっつけ仕事のように足しげく美術館に通い出すのはみっともないから止めろといいたい。行くならこそっと、黙して行け。それがせめてもの美学ではないか。 http://www.amatias.com/bbs/30/454.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。 京都市上京区。 ★「01京都市下京区」 小雨のなか、傘を差しながら四条大宮近辺をふらついてみた。いつも行く珈琲屋のおねえちゃんに「四条大宮のあたりにも京都が残ってますよ」と。その言葉が、ぼくの頭にも残っていた。 絞りf10.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.00。 ★「02京都市下京区」 ぼくの知る懐かしい京都の街並みだった。 絞りf11.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.33。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/07/05(金) |
| 第453回:紫陽花とカビ |
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ジメジメ・ムシムシした鬱陶しい日々の到来となった。今年はカラ梅雨でなく、かなり本格的な、正しい雨期のようだ。そして同時に紫陽花(あじさい)の季節でもあるのだが、ぼくの住む地域では今日現在すでにその盛りも過ぎ、本来あるべき紫陽花の、色とりどりの美しさはすでに失われつつある。その咲きっぷりは彩度がどんどん低くなり、出来損ないの、決して美しいとは言い難い色あせたモノトーンに変容している。自然界のものでも、このように無様(絵にならない)な彩度低下を招くものなのだろうか? これを写真で表現することはとても難しい。ありのままに表現しても色が濁りすぎて絵にならないだろう。絵にするには多少のイメージ構築能力を必要とする。
中途半端な、どこかしわがれたモノトーンはとても貧相で悲しい。それはまさに、詩的にいえば「哀れに朽ちる」ともいえようが、直裁にいえば「腐れ落ちる」との表現がぴったりだ。あの色は腐臭を放っている。 しかもそれが集団で戯れるが如く、そしてまったく悪びれることもなく、醜状も露わに強固なる自己主張を、あろうことか多勢に無勢とばかり押し寄せてくるのだから、ぼくは思わず目を背けてしまう。あんな目障りなものはない。正視に耐えないのである。幼児語でいえばとにかく「バッチィ」。 紫陽花は、枯れ行く美学や深遠なる無常観のようなものを示そうとしていない。そのような意志がどこにも窺えないのだ。ぼくはその都度「おまえたち、花ともあろうものが、何たることだ!」と、毒突いて見せる。 花はいつ何時でも、神秘的で、エロスを感じさせなければいけないものなのだ。それが人間にとっての、第一の存在意義ではないか、と自儘を知りながらもいいたくなる。そのくらい、ぼくにとって「腐れ落ちる紫陽花」は堪え難いほど見すぼらしく醜悪な存在なのだ。 あまりにも侘しく、堪え性がなく、無愛想で、悲痛を通り越して胸焼けさえ生じさせる。儚く去りゆくという美しさがないため、そこには宗教的・哲学的風情が欠如している。その代用として、文学的要素を多少なりとも主張しているようにも感じさせるので、ぼくには迷いが生じ、曰く言い難しというかなり中途半端な感情を抱かせることになる。ここのところが、ますます癪の種である。こんな植物はぼくの知る限り紫陽花しかない。「こんなところで、紫陽花を痛罵してどうする!」とぼくは今、一人ごちているのだが。 ついでながら、もともとぼくは紫陽花の咲く環境そのものがどうにもいただけないのだ。花自体ではなく、彼らが生を営むその環境と雰囲気がぼくの性にはまったく合わない。どこかジメジメして妙に薄暗く、気味が悪い。湿気を好む苔のような「一念」(本来は「虚仮の一心」、もしくは「虚仮の一念」とも。こけのいっしん。愚かな者がただそのことだけに心を傾けて、やり遂げようとすること)というあっぱれな様子も感じられない。紫陽花は曖昧に咲く場所を何となく探し当てただけで、計画性というものがなく、ご都合主義的であり、しかも乱雑である。 そしてまた、もしあのなかに手を突っ込んだりしようものなら、得体の知れない何かに手をかじられ、傷つけられるような気がするのはぼくだけだろうか? 凶暴で指を噛み切ってしまう紫陽花にしか棲息しない巨大化したカタツムリのようなものが潜んでいるに違いなく、遠慮なく攻撃してくる。あるいはムカデとか体長50cm以上もある毒トカゲのような警戒すべき紫陽花専用の有毒新生物が、機を伺いながら這いずり回っているに違いないのだ。 湿気に蒸されたあの疑似熱帯雨林のなかは、窺い知ることのできない異様な世界が存在しており、ぼくはいつもあの不気味な光景を見ると言葉を失い、恐怖によりすっかり塞ぎ込んでしまう。生きた心地がしないのは、そのような気味の悪さとともに、すっかり精気を失った紫陽花と自分の姿をダブらせているからだろうかとも思うことがある。もちろん、必死で否定するのだが。 紫陽花についてぼくが何時の頃から上記したようなイメージを描くようになったかはよく自覚している。王子さくら新道(2012年1月早朝、終戦直後にできた長屋風木造居酒屋が火事で焼失した。東京都北区JR王子駅近辺)向前、陽のほとんど当たらぬ薄暗い飛鳥山斜面にたくさんの紫陽花が咲いていた。ぼくは昭和の名残のようなさくら新道によく撮影に出かけたものだが、そこに盛大に咲く紫陽花は陰気というか陰惨というか、ジメジメの代表格のような印象をぼくに植え付けた。それ以来、ぼくは紫陽花とは良い仲にはなれず、いつもいがみ合ようになってしまった。きっとお互いに補い合うようなものが発見できなかったからだと思う。 今まで、自己の既成概念を打ち破ろうと何度か度胸試しに腕を突っ込んでみようと思い立ったのだが、こんにちまでどうしてもその勇気が持てないでいる。一度でいいから誰かぼくの目の前でそんな蛮勇を振るってみてはくれないものだろうか。 こうなるともう如何にひまわりが、健康優良児であり、ぼくにとって好ましい植物(花)であるかが判然としてくる。ひまわりは、はたまた陽性で屈託がなく、コップに注がれた水の表面張力のような堪え性 !? を感じさせ、カラカラに干からびたその姿さえも、有名な「釈迦苦行像(断食するシッダールタ。2~3世紀。ラホール博物館蔵。パキスタン)」を連想させるものがある。つまりぼくには、ひまわりは永遠の生命を感じさせる何かがあるように思えてならない。 ところが生憎なことに、何故かひまわりより紫陽花に思わずレンズを向けてしまう自分がいるから嫌になる(最新の紫陽花写真は、第421回に掲載。100点満点でいえばどうにか62点)。かつてひまわりばかり撮っていた時期もあるが(40年ほど前)、忌々しくもひょっとして、今までに最も多く撮影した花は紫陽花かも知れない。文句をいいながらも、何か惹かれるものがあるのだろうと思う。しかし、まだその正体がぼく如きには見通せないでいる。 紫陽花の季節になるとぼくは毎年我が倶楽部の面々に「レンズにカビを繁殖させないように気をつけること」と通達するのだが、今年はもうしない。ここに、義理立てするかのように写真についての体裁を整えておこう。「この季節、カビにお気を付けください」と。 今回こそ、同輩たちの如何わしい美術館通いに悪態をつこうと思ったのだが、また話がずれてしまった。紫陽花のことを「計画性がない」なんていってられないわ。 http://www.amatias.com/bbs/30/453.html カメラ:Fuji FinePix X100。固定単焦点レンズ35mm(35mm換算)。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 重いカメラを持ち歩かず、ウォーキングの途中で。 絞りf8.0、1/1900秒、ISO400、露出補正-0.33。 ★「02さいたま市」 ファインダーを覗き込むこともなく、歩きながらシャッターを切る。たまにはお気楽写真もよし。 絞りf8.0、1/950秒、ISO400、露出補正-0.33。 |
| (文:亀山哲郎) |
| 2019/06/28(金) |
| 第452回:ぐじぐじ、うだうだ |
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「この連載は、商工会議所さんのホームページではどのような位置づけになっているの? コラム? ブログじゃないしね」という話を担当氏と交わした。交わしたというより、ぼくが一方的に電話で質問した。
連載を始めたのが2010年5月なので、もう丸々9年も経っている。9年間毎週のことながら約450回以上もぼくはこの連載の位置づけを確認することもなく、また知ろうともせず延々と続けてきた。なんといい加減な人間であることか! 9年前、担当氏から如何なる打ち合わせもなく、「亀山哲郎の写真よもやま話」というこそばゆい命名の執筆依頼を受けた。ぼくにしてみればそれは等身大以上のものであったけれど、片腹痛い思いをしながらも分際などまったく意に介すことなく書き綴ってきた。この連載は、ぼくの面の皮を厚くし、身の程知らずの何たるかを露呈し、自らを見上げた胆力 !? の持ち主に変身させた。この9年間にぼくは、身繕いを正すことなく、知らぬ間に、都合良くちゃっかり模様替えをしていたのだった。恥を曝せる者は上等な人間の部類に入るのだとの信念をぼくはここでも貫いている。 何故このような事態に陥ってしまったか、当初こそ拝命に従い「写真」的な内容を極力盛り込もうと努力したつもり(と一応いっておかなければならない)だったが、いつの間にか、ぼくは一人歩きをしながら、随分と変容を遂げていったように思う。この部分、まるで他人事のような言い草である。 写真の何かを伝えようとの思いと同等に、あるいはそれ以上に、ぼくは自己顕示欲の権化と化しながら、これ幸いとばかり普段からの鬱憤晴らしをここでしているようにも感じている。「こんなことでワタクシはいいのであろうか?」との疑問がふつふつと湧き上がり、無軌道な自分に不安も相まって担当氏に恐る恐る問い合わせたという次第。これでも少しは良心の呵責を感じていたのだ。 ことのついでにぼくはこんなことも彼にいってのけた。「通常、人が読みやすい、もしくは読む意欲を失わない文字数は1200前後と聞く」と。ぼくは、そんな人間工学的な知識をすでにしっかりと心得ているのだとのポーズを取って見せ、しかしながら敢えてそれをしないのだと訴えたかったようだ。 それを知りながらも、1200文字で拙文を収めようなどというかしこまった気持はさらさらなく、まずは主張したいことを粘っこくも執拗に記すとの気持が先に立っている。「だから私は嫌われる」といいつつ、それができないのは、1200文字で書きたいことを書けるほど、ぼくは文章を捌(さば)くことに長けてはいないということだ。 拙連載がホームページに於いてどのような位置づけであるのかの質問に、担当氏は間髪を入れず「 “連載エッセイ” という扱いです」と即答された。ぼくはその返答に少しばかり胸を撫で下ろした。隠さずにいえば、我が意を得たりという面もあった。 拙文を「エッセイ」などと気取る気持は毛頭ないのだが(第一、ぼくは物書きではないし)、実のところ半分くらいは電話をして良かったと思った。何故かというと、「写真にこだわった “窮屈な話はさておき” 」という大義名分を得られたような気がしたからだった。 写真の技術やそれに関連する事柄についての詳述は、その量にも限りというものがあるし、多くの書物やネットで見聞きできる性質のものだ。ぼくがここで改めて、技術や理論を開示しなければならないという問題でもなさそうだ。それより、写真についての考え方や意見に関しての自己主張には際限がない。作品は、時代とともに変化していくものだし、そうあるべきだというぼくの考えにも、そのほうが都合が良い。ぼくも、写真も、常に生き物なのだ。 物づくりについての信念らしきものを読者諸兄にお伝えするという大技を義務づけられているとするのであれば、写真ばかりでなく、美についての考察に改めて、あるいは際限なく目を向ける必要があるのだと考えている。もしぼくに何かの資格もどきのようなものがあるとすれば、それは「身もすくむような現場でたたき上げた場数の多さ」だけなのだが、それが拙文を著す唯一の拠り所ともなっている。 担当氏との会話は、ここから一歩進めて残りの半分について確認する必要があったのだが、ぼくは途端に気弱になり「エッセイはいいんだけれど、それはあくまで “写真” に関しての、という意味?」との確認をやり過ごしてしまった。その勇気がどうしても持てなかった。 しっかり聞くべきところをうやむやにしたまま、ぼくは墓穴を掘ってしまうであろうことを鋭く察知し、保身に走った。担当氏から「もう少し写真を撮るに際しての、具体的なお役立ち情報を記してください」との指摘を恐れたので、ぼくは気勢を制するつもりで、「枕ばかりで終わってしまうこともあるけれど、写真を掲載するのだから、それも大いにありということだよね」と豪気にも言い放ち、若い担当氏をひとまず押し切ることに成功した。 余談だが、「座右の銘は何?」との質問にぼくはいつも「モンテーニュ(ミッシェル・ド。フランスの哲学者、モラリスト。1533-1592年)の『随想録』(もしくは仏語で 『エセー』とも)」と答えてきた。『随想録』は、ぼくが青年期から現在に至るまでどっぷり浸ることのできる書物の最右翼である。心酔してきたといっても過言ではない。なので「エッセイ」などといわれると、ぼくはハッとし、思わず身を糺してしまうのだ。 今回は、我が同輩たちの奇妙で如何わしい美術館通いについて、悪たれ口を精一杯叩くつもりでいたのに、どこでこんな話になってしまったのだろうか? http://www.amatias.com/bbs/30/452.html カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。 茨城県結城市。 ★「01結城市」 ガラスに映った自分の姿をどこに配すかばかりを考えていたもんだから、一体この店は何だったのかがさっぱり分からない。 絞りf6.3、1/25秒、ISO100、露出補正-1.33。 ★「02結城市」 夕刻、雨の降り出しそうな模様だった。この日最後のカット。イマイチ、イメージが固定できないままシャッターを切ってしまった。帰心矢の如し。 絞りf9.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.33。 |
| (文:亀山哲郎) |