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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2019/07/12(金)
第454回:美術館通い
 最近は特に、美術館、音楽会、博物館など、いわゆる文化的、もしくは芸術的香りのする催しに疎遠になりつつあるのだが、ぼくはそれでいいと思っているし、自然なことでもあるとしている。
 年老いたことにより感受が鈍化したとか、興味が醒めたということではない。かつて美術館などで体験したものや見聞きしたものよりさらに新鮮で良質なるものに接したいと望むのだから、当然ながら選択肢が狭まり、機会も少なくなるというのはもっともな道理ではないか。ただ正直にいえば、「ものぐさ」(出不精とも)に託けることもしばしばあるけれど。

 そして、人生は図らずも最終的には、ほどよくプラスマイナス・ゼロとなるよう神様は上手いこと仕組んでいると思っているので、ぼくは若く多感な頃に一生分とはいわないが、多くのものを与えられ、その分得をしたのだと言い包(くる)めている。青年期から壮年期晩年に至るまで、寸暇を惜しんで足しげく通ったものだ。だから今、余生を思い、焦って美術館通いをしようとも思わない。
 ただ神様は万人に対し、プラマイ・ゼロとはいえ、時には粗相をしたり、味噌を付けたりするので、平等に様々なものを分け与えようとはしないものだから、人によっていろいろな差が生じてくる。そこに多少の一利一害があるが、それは神様による差別などではなく、当人の資質であろうと思う。不信心の極みのようなぼくがいうのだから、この説は怪しいものだが。

 老いによる「ものぐさ」と決め込むのはぼくに限ったことなのかどうか分からないのだが、その最たる理由をもし他に探すのであれば、ますます出不精の傾向が強くなったことだ。
 もともとの出不精がさらにそうなってしまった原因はいくつもあるのだが、そのひとつを挙げれば、雑踏というものが老いに従ってますます苦手となっていったことだ。特に雑音を浴びせられればぼくはたちまち精神を病み、1分ほどで頓死する。それほど、雑音には弱い。生まれつき免疫がなく、どうやっても耐性が育たないのだ。好きな音楽も聴こうとの意志を持たなければ、ただの雑音に過ぎず、うるさくて敵わない。
 特に近年、人気のある美術展は「静かに観賞」の環境どころではなく、ぼくには苦痛そのものだ。自然と足も遠のいてしまう。
 こんなことを書いているとまたもや肝心の議題に移れないので、このあたりでもう止め、同輩への憎まれ口を叩いておこう。

 ぼくは団塊世代のピークにあり、未だ小・中学校時代の友人知人との交流がある。男女に関係なく頻繁に会う人もいれば、ごくたまに会う人もいる。なにしろ人数が多いので普段交流がなくとも、街中でバッタリということもある。油断ならないのだ。
 男たちは定年退職し、暇を持て余し、他にすべきことがたくさんあるだろうに、選りに選って「これから美術館に行く」とか「美術館に行ってきた」などとこれ見よがしに、恥じらいもなくそうほざく。ぼくが “ほざく” などとあまり上品でない言葉を使ってしまったのは、よほど彼らの行状や料簡が気に染まぬからなのだろう。
 前回、「言葉の限りを尽くして痛罵された紫陽花」(読者よりのメール)同様に、ぼくは一度だけ美術館通いをする彼らに悪態をついておきたいのだ。大きなお世話であることも重々承知である。

 美術館であろうが博物館であろうが、どこへ行こうが個人の自由であるけれど、彼らは、そのようなところに出入りすること自体に意義を見出し、失笑を買うような優越感を誇っているように思え、あるいはまた、高尚なものに触れているのだと誇示しているようにも思え、善人でないぼくは意地の悪い目つきで「美術館って、よく行くの? なんで〜?」と皮肉を込めて相手をじっと覗き込む。時には錯覚だらけの彼らに感想を求めたりもする。

 彼らは、どうしても善人になり切れないぼくのシニカル(冷笑的)な態度にまったく動ずることなく、型通り「若い頃は忙しくて、行きたくても行けなかったからねぇ」と返してくる。本気でそう信じているから救い難い。いつも判で押したようにそんな返事の繰り返しだ。
 ぼくは心うち「ほら来た。嘘をつけ。10のうち9.9が嘘で、残りの0.1だけが真実だ」とつぶやく。「若い頃にはその気も関心もなかったのだが、余生を考えて『形だけでも美術に親しんだことがあるとの実績をつくり、自分を慰めておきたいのだ』」と正直にいえば、可愛げがあっていい。
 そしてまた、美術館という空間に我が身を置いて、自分は目下文化的生活に勤しみ、もしくは精神生活を送っているのだという一種の不健全で誤った安堵感に浸っているに違いないのである。それを他人が腐す資格などあろうはずもないのだが、同輩たちよ、それではあまりにも安普請に過ぎやしないかと、悪人のぼくはいつも彼らに聞こえないようにこっそりつぶやいている。その衝動をどうにも抑えきれないのだから、ぼくも始末が悪い。「オレも良い死に方はしないな」とほざいてみようか。
 歳を取ってから、やっつけ仕事のように足しげく美術館に通い出すのはみっともないから止めろといいたい。行くならこそっと、黙して行け。それがせめてもの美学ではないか。

http://www.amatias.com/bbs/30/454.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。
京都市上京区。

★「01京都市下京区」
小雨のなか、傘を差しながら四条大宮近辺をふらついてみた。いつも行く珈琲屋のおねえちゃんに「四条大宮のあたりにも京都が残ってますよ」と。その言葉が、ぼくの頭にも残っていた。
絞りf10.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.00。

★「02京都市下京区」
ぼくの知る懐かしい京都の街並みだった。
絞りf11.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/07/05(金)
第453回:紫陽花とカビ
 ジメジメ・ムシムシした鬱陶しい日々の到来となった。今年はカラ梅雨でなく、かなり本格的な、正しい雨期のようだ。そして同時に紫陽花(あじさい)の季節でもあるのだが、ぼくの住む地域では今日現在すでにその盛りも過ぎ、本来あるべき紫陽花の、色とりどりの美しさはすでに失われつつある。その咲きっぷりは彩度がどんどん低くなり、出来損ないの、決して美しいとは言い難い色あせたモノトーンに変容している。自然界のものでも、このように無様(絵にならない)な彩度低下を招くものなのだろうか? これを写真で表現することはとても難しい。ありのままに表現しても色が濁りすぎて絵にならないだろう。絵にするには多少のイメージ構築能力を必要とする。

 中途半端な、どこかしわがれたモノトーンはとても貧相で悲しい。それはまさに、詩的にいえば「哀れに朽ちる」ともいえようが、直裁にいえば「腐れ落ちる」との表現がぴったりだ。あの色は腐臭を放っている。
 しかもそれが集団で戯れるが如く、そしてまったく悪びれることもなく、醜状も露わに強固なる自己主張を、あろうことか多勢に無勢とばかり押し寄せてくるのだから、ぼくは思わず目を背けてしまう。あんな目障りなものはない。正視に耐えないのである。幼児語でいえばとにかく「バッチィ」。

 紫陽花は、枯れ行く美学や深遠なる無常観のようなものを示そうとしていない。そのような意志がどこにも窺えないのだ。ぼくはその都度「おまえたち、花ともあろうものが、何たることだ!」と、毒突いて見せる。
 花はいつ何時でも、神秘的で、エロスを感じさせなければいけないものなのだ。それが人間にとっての、第一の存在意義ではないか、と自儘を知りながらもいいたくなる。そのくらい、ぼくにとって「腐れ落ちる紫陽花」は堪え難いほど見すぼらしく醜悪な存在なのだ。

 あまりにも侘しく、堪え性がなく、無愛想で、悲痛を通り越して胸焼けさえ生じさせる。儚く去りゆくという美しさがないため、そこには宗教的・哲学的風情が欠如している。その代用として、文学的要素を多少なりとも主張しているようにも感じさせるので、ぼくには迷いが生じ、曰く言い難しというかなり中途半端な感情を抱かせることになる。ここのところが、ますます癪の種である。こんな植物はぼくの知る限り紫陽花しかない。「こんなところで、紫陽花を痛罵してどうする!」とぼくは今、一人ごちているのだが。

 ついでながら、もともとぼくは紫陽花の咲く環境そのものがどうにもいただけないのだ。花自体ではなく、彼らが生を営むその環境と雰囲気がぼくの性にはまったく合わない。どこかジメジメして妙に薄暗く、気味が悪い。湿気を好む苔のような「一念」(本来は「虚仮の一心」、もしくは「虚仮の一念」とも。こけのいっしん。愚かな者がただそのことだけに心を傾けて、やり遂げようとすること)というあっぱれな様子も感じられない。紫陽花は曖昧に咲く場所を何となく探し当てただけで、計画性というものがなく、ご都合主義的であり、しかも乱雑である。

 そしてまた、もしあのなかに手を突っ込んだりしようものなら、得体の知れない何かに手をかじられ、傷つけられるような気がするのはぼくだけだろうか? 凶暴で指を噛み切ってしまう紫陽花にしか棲息しない巨大化したカタツムリのようなものが潜んでいるに違いなく、遠慮なく攻撃してくる。あるいはムカデとか体長50cm以上もある毒トカゲのような警戒すべき紫陽花専用の有毒新生物が、機を伺いながら這いずり回っているに違いないのだ。
 湿気に蒸されたあの疑似熱帯雨林のなかは、窺い知ることのできない異様な世界が存在しており、ぼくはいつもあの不気味な光景を見ると言葉を失い、恐怖によりすっかり塞ぎ込んでしまう。生きた心地がしないのは、そのような気味の悪さとともに、すっかり精気を失った紫陽花と自分の姿をダブらせているからだろうかとも思うことがある。もちろん、必死で否定するのだが。

 紫陽花についてぼくが何時の頃から上記したようなイメージを描くようになったかはよく自覚している。王子さくら新道(2012年1月早朝、終戦直後にできた長屋風木造居酒屋が火事で焼失した。東京都北区JR王子駅近辺)向前、陽のほとんど当たらぬ薄暗い飛鳥山斜面にたくさんの紫陽花が咲いていた。ぼくは昭和の名残のようなさくら新道によく撮影に出かけたものだが、そこに盛大に咲く紫陽花は陰気というか陰惨というか、ジメジメの代表格のような印象をぼくに植え付けた。それ以来、ぼくは紫陽花とは良い仲にはなれず、いつもいがみ合ようになってしまった。きっとお互いに補い合うようなものが発見できなかったからだと思う。
 
 今まで、自己の既成概念を打ち破ろうと何度か度胸試しに腕を突っ込んでみようと思い立ったのだが、こんにちまでどうしてもその勇気が持てないでいる。一度でいいから誰かぼくの目の前でそんな蛮勇を振るってみてはくれないものだろうか。
 こうなるともう如何にひまわりが、健康優良児であり、ぼくにとって好ましい植物(花)であるかが判然としてくる。ひまわりは、はたまた陽性で屈託がなく、コップに注がれた水の表面張力のような堪え性 !? を感じさせ、カラカラに干からびたその姿さえも、有名な「釈迦苦行像(断食するシッダールタ。2~3世紀。ラホール博物館蔵。パキスタン)」を連想させるものがある。つまりぼくには、ひまわりは永遠の生命を感じさせる何かがあるように思えてならない。

 ところが生憎なことに、何故かひまわりより紫陽花に思わずレンズを向けてしまう自分がいるから嫌になる(最新の紫陽花写真は、第421回に掲載。100点満点でいえばどうにか62点)。かつてひまわりばかり撮っていた時期もあるが(40年ほど前)、忌々しくもひょっとして、今までに最も多く撮影した花は紫陽花かも知れない。文句をいいながらも、何か惹かれるものがあるのだろうと思う。しかし、まだその正体がぼく如きには見通せないでいる。

 紫陽花の季節になるとぼくは毎年我が倶楽部の面々に「レンズにカビを繁殖させないように気をつけること」と通達するのだが、今年はもうしない。ここに、義理立てするかのように写真についての体裁を整えておこう。「この季節、カビにお気を付けください」と。
 今回こそ、同輩たちの如何わしい美術館通いに悪態をつこうと思ったのだが、また話がずれてしまった。紫陽花のことを「計画性がない」なんていってられないわ。

http://www.amatias.com/bbs/30/453.html

カメラ:Fuji FinePix X100。固定単焦点レンズ35mm(35mm換算)。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
重いカメラを持ち歩かず、ウォーキングの途中で。
絞りf8.0、1/1900秒、ISO400、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
ファインダーを覗き込むこともなく、歩きながらシャッターを切る。たまにはお気楽写真もよし。
絞りf8.0、1/950秒、ISO400、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2019/06/28(金)
第452回:ぐじぐじ、うだうだ
 「この連載は、商工会議所さんのホームページではどのような位置づけになっているの? コラム? ブログじゃないしね」という話を担当氏と交わした。交わしたというより、ぼくが一方的に電話で質問した。
 連載を始めたのが2010年5月なので、もう丸々9年も経っている。9年間毎週のことながら約450回以上もぼくはこの連載の位置づけを確認することもなく、また知ろうともせず延々と続けてきた。なんといい加減な人間であることか!
 9年前、担当氏から如何なる打ち合わせもなく、「亀山哲郎の写真よもやま話」というこそばゆい命名の執筆依頼を受けた。ぼくにしてみればそれは等身大以上のものであったけれど、片腹痛い思いをしながらも分際などまったく意に介すことなく書き綴ってきた。この連載は、ぼくの面の皮を厚くし、身の程知らずの何たるかを露呈し、自らを見上げた胆力 !? の持ち主に変身させた。この9年間にぼくは、身繕いを正すことなく、知らぬ間に、都合良くちゃっかり模様替えをしていたのだった。恥を曝せる者は上等な人間の部類に入るのだとの信念をぼくはここでも貫いている。

 何故このような事態に陥ってしまったか、当初こそ拝命に従い「写真」的な内容を極力盛り込もうと努力したつもり(と一応いっておかなければならない)だったが、いつの間にか、ぼくは一人歩きをしながら、随分と変容を遂げていったように思う。この部分、まるで他人事のような言い草である。
 写真の何かを伝えようとの思いと同等に、あるいはそれ以上に、ぼくは自己顕示欲の権化と化しながら、これ幸いとばかり普段からの鬱憤晴らしをここでしているようにも感じている。「こんなことでワタクシはいいのであろうか?」との疑問がふつふつと湧き上がり、無軌道な自分に不安も相まって担当氏に恐る恐る問い合わせたという次第。これでも少しは良心の呵責を感じていたのだ。

 ことのついでにぼくはこんなことも彼にいってのけた。「通常、人が読みやすい、もしくは読む意欲を失わない文字数は1200前後と聞く」と。ぼくは、そんな人間工学的な知識をすでにしっかりと心得ているのだとのポーズを取って見せ、しかしながら敢えてそれをしないのだと訴えたかったようだ。
 それを知りながらも、1200文字で拙文を収めようなどというかしこまった気持はさらさらなく、まずは主張したいことを粘っこくも執拗に記すとの気持が先に立っている。「だから私は嫌われる」といいつつ、それができないのは、1200文字で書きたいことを書けるほど、ぼくは文章を捌(さば)くことに長けてはいないということだ。

 拙連載がホームページに於いてどのような位置づけであるのかの質問に、担当氏は間髪を入れず「 “連載エッセイ” という扱いです」と即答された。ぼくはその返答に少しばかり胸を撫で下ろした。隠さずにいえば、我が意を得たりという面もあった。
 拙文を「エッセイ」などと気取る気持は毛頭ないのだが(第一、ぼくは物書きではないし)、実のところ半分くらいは電話をして良かったと思った。何故かというと、「写真にこだわった “窮屈な話はさておき” 」という大義名分を得られたような気がしたからだった。

 写真の技術やそれに関連する事柄についての詳述は、その量にも限りというものがあるし、多くの書物やネットで見聞きできる性質のものだ。ぼくがここで改めて、技術や理論を開示しなければならないという問題でもなさそうだ。それより、写真についての考え方や意見に関しての自己主張には際限がない。作品は、時代とともに変化していくものだし、そうあるべきだというぼくの考えにも、そのほうが都合が良い。ぼくも、写真も、常に生き物なのだ。
 物づくりについての信念らしきものを読者諸兄にお伝えするという大技を義務づけられているとするのであれば、写真ばかりでなく、美についての考察に改めて、あるいは際限なく目を向ける必要があるのだと考えている。もしぼくに何かの資格もどきのようなものがあるとすれば、それは「身もすくむような現場でたたき上げた場数の多さ」だけなのだが、それが拙文を著す唯一の拠り所ともなっている。

 担当氏との会話は、ここから一歩進めて残りの半分について確認する必要があったのだが、ぼくは途端に気弱になり「エッセイはいいんだけれど、それはあくまで “写真” に関しての、という意味?」との確認をやり過ごしてしまった。その勇気がどうしても持てなかった。
 しっかり聞くべきところをうやむやにしたまま、ぼくは墓穴を掘ってしまうであろうことを鋭く察知し、保身に走った。担当氏から「もう少し写真を撮るに際しての、具体的なお役立ち情報を記してください」との指摘を恐れたので、ぼくは気勢を制するつもりで、「枕ばかりで終わってしまうこともあるけれど、写真を掲載するのだから、それも大いにありということだよね」と豪気にも言い放ち、若い担当氏をひとまず押し切ることに成功した。

 余談だが、「座右の銘は何?」との質問にぼくはいつも「モンテーニュ(ミッシェル・ド。フランスの哲学者、モラリスト。1533-1592年)の『随想録』(もしくは仏語で 『エセー』とも)」と答えてきた。『随想録』は、ぼくが青年期から現在に至るまでどっぷり浸ることのできる書物の最右翼である。心酔してきたといっても過言ではない。なので「エッセイ」などといわれると、ぼくはハッとし、思わず身を糺してしまうのだ。

 今回は、我が同輩たちの奇妙で如何わしい美術館通いについて、悪たれ口を精一杯叩くつもりでいたのに、どこでこんな話になってしまったのだろうか?

http://www.amatias.com/bbs/30/452.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
茨城県結城市。

★「01結城市」
ガラスに映った自分の姿をどこに配すかばかりを考えていたもんだから、一体この店は何だったのかがさっぱり分からない。
絞りf6.3、1/25秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02結城市」
夕刻、雨の降り出しそうな模様だった。この日最後のカット。イマイチ、イメージが固定できないままシャッターを切ってしまった。帰心矢の如し。
絞りf9.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2019/06/21(金)
第451回:データ保存の悩ましさ(補足)
 前回に引き続き、データ保存について書き残したことを未練がましくも補足(「続」ではない)としてお伝えしておこうと思う。とはいえ、このことは大上段に振りかぶって論じようとすれば、かなり専門的な知識が必要であることは明白なのだが、みなさんにしろぼくにしろ、まずは大半が写真の愛好家であり、記録メディアの専門家ではないであろうと思う。したがって、それぞれの編み出したメソードに添って、「保存」という悩ましくも厄介な課題を適宜扱っておられるのだろうと推察している。

 どの様な分野であれ、専門家と名の付く人は何故か「・・・でなければならぬ」とか「・・・であるべきだ」との断定的かつ窮屈な言辞を、素人に対してこれ見よがしに、鼻を膨らませながら弄したがる傾向にある。あなたの身の周りにもそのような人がたくさんいるのでは?
 では、プロの写真屋は果たして写真の専門家なのかというと、ぼくにはどうも判然としないものがある。第一、写真屋には当然のことながら国家試験もなく、資格審査のようなものもない。あるのは、理不尽極まりない徒弟制度に耐え忍んできたという無形文化財のような実績と矜恃だけである。
 「プロフェッショナル」という英単語を分厚い英英辞典で引いても、正しい定義がぼくにはよく分からないでいる。感覚的には「熟練者」とか「生業としている」との意味合いが強く感じられるので、ぼくはそのような解釈が妥当なのではないかと考えている。「専門家」は、「スペシャリスト」とか「エクスパート」との語彙がぼくにはしっくりくる。

 写真をはじめ、文学や絵画などなどは、厳格な数理・数式で成り立っているものではないし(成り立ちや約束事としての方程式はあるように思う)、スポーツのように点数で評価されたり、争われるものでもなく、人々の審美眼や慧眼に依拠したもので、それはあたかも浮き草の如し、とぼくは思っている。プロの写真屋とは、なんと儚くも心細いことか!
 専門家についてはさておき、世の中の多くの事柄が彼らによって形づくられていることに異論を挟む余地はないのだが、専門家というものはどうもその思考や流儀を門外漢にも押し付けがましく振る舞いたがる悪癖を有す。加え寛容さが不足している。「えっ、そんなことも知らないの?」という無神経で不届きな科白を平然と吐くあの蛮勇と不粋。そして、「親切」が「ありがた迷惑」に取って代わるということにも気がつかないでいる。得々とやるのだから、こちらはたまったものではない。これを称してぼくは「変態性エゴ」というのだが、興味のないことを強いられることほど鬱陶しいものはない。ことほど左様に、「融通」とか「切り盛りをする」という言葉に縁遠い人たちがたくさん現出することになる。
 その四角四面さをもって快刀乱麻を断つことができると大いなる勘違いしているのだから、敵わない。きっとそのような作法に辟易とした経験が誰しもあるでしょう?
 しかし、それが専門家たるものの自然の理であることを認めるにぼくはやぶさかではないのだが、ぼくらはまずそのような窮屈さから逃れて、一般的な約束事や、それにまつわる最大公約数的な原理原則を守ればそれで良いのではないかと考えている。それが至当というものだとも思う。

 毎度のことながら本題に入れず枕ばかり書き連ねているが、貴重な写真データをどのように管理・保存するかについて、多くの愛好家と接しても、喧々囂々(けんけんごうごう。大勢がやかましく騒ぎ立てること)となった経験がぼくにはあまりない。むしろ銀塩時代(フィルム時代)の好事家のほうが、フィルムや印画紙の保存に、より強い関心を示したように思えてならない。ぼくもその一派だった。昨今、デジタルのほうがデータを失いやすいにも関わらず、無頓着な人が多いように感じている。
 我が倶楽部に於いても、この話題に関して談論風発(談話や議論が活発に行われること)となったためしがない。とても大切な事柄であるのにほとんど話題にならない。データを飛ばしてしまい泣いた人、大枚を叩いて専門家に復元依頼をした人もいるが、それでもやはりどこか他人事(ひとごと)であるようだ。「明日は我が身」とか「人の振り見て我が振り直せ」との格言を軽んじているように思えてならない。
 データの損失は「自己責任」(好きな言葉ではないが)の範疇を出ることがなく、けれど専門家の手を経て復元できれば儲けものだ。常に復元可能とは限らないのだから、慎重の上にも慎重を期す “べき” であろう。「あとの祭り」ほど苦く、虚しいものはない。

 常識的な保存状態下では、10年に1度ほどデータをCD、DVD、BD(ブルーレイ・ディスク)などの記録メディアに焼き直すことをお勧めする。その時に、焼き直した日時を記しておけば、いろいろな意味で安心感を得られる。化学変化が恐いので、油性マジックペンでディスクに直接書き込むことはせず、ケースの外側に記しておけばなお安心。
 それに加え、メーカーは由緒ある国産品をお勧めする。ぼくは国粋主義者などではないけれど、この方面での「メイド・イン・ジャパン」は未だ健全であり、他の追随を許さぬものがある。
 そしてデータの記録面には、如何なるものも触れることは厳禁である。もし、誤って指紋などを付けてしまった場合は、できるだけ速やかに専用クリーナーで拭き取っておくこと。指の脂や汗が後々悪さをすることは想像に難くない。汚れたからといって、水やウォッカでごしごしやってはいけない。
 また、ディスクプレーヤーやレコーダーも使用頻度により一概には言い難いが、読み込みエラーを避けるためにレンズクリーニングを時折することもお忘れなく。
 以上思いつくままに、記録メディアの専門家でないぼくが常識的なことを再確認のためにお伝えしたけれど(第215回にも「データの保存」について述べているのでそちらも併せてお読みいただければと思う)、梅雨の今、レンズのカビ防止は要領を得ているが、さて上記の記録メディアに於けるカビの発生には幸か不幸か気づかずにいる。ここが専門家でない悲しさだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/451.html

カメラ:カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF35mm F1.4L USM。Fuji FinePix X100。
さいたま市桜区。
同じ場所を2年の歳月を経て、定点観測的に撮ったもの。現在は立派な道路になってしまった。

★「01さいたま市」
2009年2月撮影。夕暮れ、満月に近い月とともに。 
絞りf8.0、1/80秒、ISO200、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
2011年6月撮影。工事中の道路。Fujiの固定焦点(35mm。35mm換算)カメラで。
絞りf8.0、1/480秒、ISO200、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/06/14(金)
第450回:データ保存の悩ましさ
 拙稿を毎週律儀に読んでくれていると覚しき世話好きの友人が、久しぶりに電話をくれた。近況を報告し合いながら、ぼくをからかうようにこんなことをいう。
 「なぁ、かめさん。前号の題目に “最終回” とわざわざ書いてあったね。それがなんだかとても可笑しかった。笑ったよ。その次はきっと言い訳をしながら “最終回その2” なんてことをするんだろう? そしてその次は “最終回その3” とくる。そういうことをかめさんはしばしばする。なにしろお前さんはその手の前科持ちだしねぇ。いつだったか、 “これがホントの最終回” なんてのもあったな。あれは確か昨年の京都シリーズだ」と愉快そうに電話口で笑っていた。よくもまぁ、そんなつまらぬことを覚えているものだ。ホントに大きなお世話だよ。
 ぼくの未練がましさに託(かこつ)けて、わざわざ秋田県から長距離電話をしてくるのは何か事情があってのことに違いないのだが、あの口調や気配からして、せいぜい夫婦喧嘩くらいのことだろうと思っている。世話焼きも時にはいい迷惑だ。
 ぼくだって、世を忍び、人目を気にしながらこのような見苦しいしいことを人知れずこっそり(?)しているわけで、こう見えてもかなり気恥ずかしい思いをしているのだ。 “決まりが悪い” というのはこういう時に使う語句なのだろう。ぼくとて、人並みに “恥らい” というものを知っているつもりだ。

 「実をいうとね、前号は本文を書く前に、意識的にというか、用意周到というか、抜け目なく “最終回” と記しておいたんだよ。『今回で最終』としっかり自分に言い聞かせ、あらかじめ逃げ場を封じておかないとずるずるいつまでも書き続けてしまうことは、本人が一番よく知っているからね」と、ぼくは一応同意する振りを彼にして見せた。精米業を営む彼には美味い米を定期的にもらうための深謀遠慮なる事情があったからだ。
 だが白状すれば、未練を断ち切るために敢えて「最終回」と書いたというのは、真っ赤な嘘だ。ただ単に、事実は写真(五条楽園)の現像・補整が今週中には手を付けられず、間に合わないというだけのこと。正直に告白しているのだから、ぼくを指して嘘つき呼ばわりしてはいけない。正直さは人格を何倍にも向上させ、そして何ものにも勝る宝だとぼくは信じている。

 それにしても、帰郷以来、あまりにいろいろなことが降って湧いたように起こったものだから、本業を脇に置き、雑事にかまけざるを得ない状況に置かれ、目下なかなか補整のための時間が取れないでいる。自由に身動きができないのだ。
 とはいえ、月に2〜3度は日帰りで私的写真を撮りに近県を巡り、写真屋の所業として気が咎めぬ程度に励行し、取り繕ってはいるものの、当然のことながら、そちらにも手を入れる時間がない。原稿はなんぼでも(いくらでも)書けるが、写真の補整は時間がかかるのでとても同じペースというわけにはいかず、そこがとても悩ましい。
 理想をいえば、拙稿は可能な限り本文と写真の同時進行と心得るのが好ましいのだが、人生思うようにはいかないものだ。
 
 「困ったなぁ」と思いながら、この1週間近くぼくはある目的のため(友人の脅迫に屈して)、保存してある自分の撮った写真を分野毎に選び出すという面倒な作業を余儀なくされていた。
 写真データの保存や管理は誰もが頭を痛める難しくも厄介な問題なのだが、このことはそれぞれが工夫を凝らさなければならない大切な事柄でもある。どのような方法がベストなのかは個々人によって異なるであろうから、一概にはいえないが、「データの消失を未然に防ぐこと」が重要との考えに異存はないと思う。
 ぼくの方法は、撮影日と場所を記したフォルダを作り、そこにその日撮ったRawデータ(ぼくはRawデータでしか撮らない)と補整し終わったPSD(Photoshop形式)用のフォルダを作り、レイヤーを付けたまま保存しておく。レイヤーをつけておけば、いつでもやり直しが利くからだ。ただし容量は重くなるが、利点が大きいので、ぼくはデータの保存には好んで可逆圧縮のPSDやTIFを採用している。容量が問題となる人は、最も圧縮比を低くしたJpeg(非可逆圧縮)の採用がよいだろう。ただJpegは保存を繰り返す毎に画像が劣化していくので留意すること。
 
 フォルダがいくつかまとまれば、それをブルーレイディスクに保存する。数年前まではDVDに保存していたが、現在はブルーレイディスクを採用している。利点は容量が大きい(25GB、50GB)ことと、耐久性に優れている(といわれている)ので、この数年はもっぱらブルーレイディスクだ。
 それと併せて、外付けハードディスクを2つ用意し、そちらにも保存している。つまりぼくは3重の保険を掛けているということになる。2重にも3重にも保険を掛けるのは、撮影と同様である。
 しかしこれとて、ディスクに書き込まれたデータがいつまで生き長らえるか誰にも分からず、経年変化(データ自体ではなく、光学ディスクの物理的劣化という意味)による消失は免れようのないものだ。いつかは消えてしまう運命にある。ディスクの保存状態の良し悪しにもよるだろうが、今2000年に焼いたCDを再生してみたが、何の問題もなくPhotoshopで見ることができた。
 ディスクの寿命は10~100年(なんと曖昧な!)といわれるが、この件に関してぼくは「知らない」と答えるのが正直であり、正しくもあると考えている。もしかすると1〜90年かも知れない。けれど心配性な方、未練がましい方は、10年に1度くらいは書き換えたほうが無難だろうと思う。もちろん常識的な保存状態下でのことだ。直射日光が当たっていたり、高温多湿下は論外。
 さて、この話題に関しては書き足りないことがまだまだある。次回は「続」ではなく、「補足」程度にお話ししたいと思っている。

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カメラ:RICOH GR DIGITAL 2。固定単焦点レンズ。焦点距離5.9mm(35mm換算で28mm)。
千葉県勝浦市。
9歳の時、余命1年足らずと宣告された母は勝浦の病院に1年間ほど入院していた。ぼくは毎週父に連れられて見舞いに行っていた。勝浦の思い出は以前拙稿にて少しだけ述べたことがあるが、今回の掲載写真は、8年ほど前にコンデジを携えてふらっと訪れた時のもの。

★「01勝浦市」
釣り人2人。1人は釣れないのだろうか。椅子の下で不貞寝をしていた。
絞りf5.6、1/2010秒、ISO80、露出補正-0.33。

★「02勝浦市」
62年前にはここにコンクリートで囲ったプール、もしくは生け簀らしきものがあった。今はその名残さえすっかり消え失せ、代わりに若い男女が。
絞りf9.0、1/1700秒、ISO80、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2019/06/07(金)
第449回:京都の遊郭跡を訪ねる(11)最終回
 このテーマは10回までにしようと意を強めていたのだが、なんだか知らぬうちに、区切りの良い10回をオーバーしてしまった。随所に言い訳めいたものを散りばめながらも、今少しだけ気が咎めている。

 橋本遊郭と五条楽園に滞在した時間は、移動を除けばたかだか4時間強に過ぎない。第445回(7)にも記したことだが(連載ものなので重複は致し方ないものとお許し願いたい)、「恐れながら厚かましく、また太々しくもある・・・、この度胸と心胆に、我ながら開いた口が塞がらない」と精一杯の自嘲を示しながら、それでもやはりぼくは懲りないどころか、「継続は “力” なり」とか「塵も積もれば “山” となる」などとうそぶき、10回以下に止める気配をまったく見せなかった。野放し状態とでもいうべきだった。ぼくの心意気と心胆は、まるで野火のように方向性を失い、勝手気ままに、そして止めどなく広がっていった。こんな反省文など綴っているとどんどんやぶ蛇になるにも関わらずである。

 しかしよく考えてみると、ぼくに「力」も必要なければ、ましてやこんなことを「山」にしてどうする! との気持が強い。「力も山も」欲しくはなく一切不要なのだが、厚かましさによる開いた口はいつまで経っても抑止が効かない。これをして、 “減らず口を叩く” というようだ。でも悲しいかな、それは事実に違いない。ここにぼくの生まれながらにしての、やむを得ない複雑怪奇な事情による執拗一徹さと自己顕示欲が滲み出ている。
 口の悪い友人は、「滲み出ているのではなく、噴き出しているとかみなぎっているというほうが適切だ。それをかめさんは自覚しなければいけない」と茶々を入れてくる。大きなお世話だ。
 だが、このような性癖の主に、世間は「執着の人」とか「妄執の輩」との濡れ衣を、冤罪とも気づかずに着せるらしい。ついでに口やかましい人物だと決めつけてくる。「ついでに」決めるな!
 だが生憎、ぼくは『小言幸兵衛』(こごとこうべえ。世話好きだが口やかましい麻布古川の家主、田中幸兵衛を題材とした落語噺。転じて、口やかましい人を指す)タイプの人間ではない。
 
 そしてもうひとつは、精根尽き果てながら4時間強の自己的強制労働に赴いたその “宛てがい扶持” として、しっかり帳尻を合わせようとの姑息な考えに囚われているのかとも考えたのだが、否それはない。断固としてない。
 「純粋な創作活動というものは常に間尺が合わなくて当たり前。むしろそうあるべきだ」というのがぼくの昔からの変わらぬ信条でもある。私的写真撮影のための労働力を換金しようと企てることは、プロであるからこそ本末転倒であり、「天に唾す」ことにもなるとぼくは考えている。
 しかし、他人の純粋な好意や善意により「余儀なくお金になってしまう」場合が時折あり、それは別口だと、ぼくはちゃっかり澄ますことにしている。どこかに逃げ口上を見つけておかなくっちゃね。頑ななだけでは、無理が祟るから。
 何事も、自らの主義主張を一応の建て前にするのは、年相応のものがあるはずで、それはまた誰からも陰口の叩かれない優れた方便として取り上げてもいいのではないかと思う。この歳になって(ならなくてもだが)、後ろ指を指されるようなことは厳に警戒を要す。

 五条楽園については今も忘れられぬ思い出がまだある。ここの一角に仮住まいをしていた親戚に遊びに行った時のこと。叔母の学校の後輩で、家族ぐるみのつき合いをしていたSさん(当時20代の女性)に映画を観につれて行ってもらったことがあった。
 映画の題名は『フランケンシュタイン』(1931年アメリカ)で、街に貼られたカラーのポスター(映画はモノクロだった)を少年は矯めつ眇めつ(ためつすがめつ。あるものをいろいろな角度からよく見るようす)好奇心に満ちた目で眺めたものだ。そのイラストはおどろおどろしく、少年の感受をひどくくすぐるようなものだった。そこに描かれたフランケンシュタインの凄味ある顔に、好奇心と冒険心旺盛なぼくはぜひご対面を果たしたいと思ったものだ。
 Sさんが来宅し、ぼくを呼び寄せ「てっちゃんはどこに連れて欲しい?」と訊ねた。ぼくは即座に『フランケンシュタインが観たい』と甘えた。彼女は、ぼくのリクエストに快く応じてくれ、河原町四条にあった映画館に連れて行ってくれたのだ。
 ぼくがいつもねぐらにしていた場所は、祖父母や長兄夫婦の住む上京区の寺町今出川にあったが、親戚の家はそこから下る(京都では南へ行くことを “下る” という。表記は “下ル” )こと約4.5kmの所にあった。

 フランケンシュタインとの逢瀬に胸を膨らませ、ぼくは上映を待った。やがて映画が始まり、登場した人造人間であるフランケンシュタインの顔にぼくは飛び上がるほどの衝撃を受け、恐怖に戦いた。初めのうちは顔を手で覆い、指の隙間から覗き見をしていたが、次第に指の隙間では間に合わなくなり、ぼくはとうとう隣席のSさんの膝に顔を伏せてしまった。終演まで、ぼくは身じろぎもせず恐怖と闘いながら、Sさんにしがみついていた。迷惑なガキだ。
 その晩は恐くて眠れず、面倒見の良い優しい叔父が夜遅く寺町今出川までぼくをわざわざ送り届けてくれたものだ。叔父は親戚のなかでもお洒落で通っており、殊更靴にはご執心だった。翌日、叔父は何を思ったのか「てつろう、靴を買ってやろう」と、やはり河原町四条にあった靴屋に連れて行ってくれた。
 真っ白な革靴を買ってもらい、ぼくはご満悦で、昨夜の恐怖はもう忘れ去っていた。

 あれから約30年の月日が経ち、ぼくは『ミツバチのささやき』(ヴィクトル・エリセ監督。スペイン)をこんにちまでしばしば好んで観るようになった。この名画は、ぼくが京都で観たあの『フランケンシュタイン』が物語のベースとなっている。6歳の主人公、少女アナは町にやって来た移動映画の『フランケンシュタイン』を観るのだが、どこかの情けない10歳の男子よりずっと気丈だった。ぼくは30年後に顔を赤らめた。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
高瀬川沿いに建つ格式あるお茶屋の大店「三友楼」。立派な唐破風を備え、正面玄関の看板には「本家 三友」とある。夕陽を浴びながら、人気がなくひっそりと静まり返っていた。
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
お茶屋が転業して旅館となっている。外国人に大層人気があるのだそう。夕闇迫るなか、この日最後のカット。
絞りf9.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/05/31(金)
第448回:京都の遊郭跡を訪ねる(10)
 3月8日、昼下がりから橋本遊郭跡を撮影した後、その足で五条楽園に向かった。小さめのカメラバッグに最小限の機材を詰め込んで、一日二箇所という普段は滅多にしない欲張った撮影を敢行した。敢行とはいえ、 “勢い込んで” というにはほど遠く、躊躇しながら、あるいは仕方なく、あるいはまた “時間を惜しんで” というべきか。
 ぼくは自身の強欲を戒めながら、江戸時代の川柳をもじって「頭禿げても写真(本来は、 “浮気” )は止まず、止まぬはずだよ先がない」と嘆いてみせた。ぼくの頭髪は現在のところ薄くもならず健在であり、従ってもちろん禿げてもおらずだが、しかし残念ながら全毛白髪といったところだ。
 「『慌てる乞食は貰いが少ない』ともいうしなぁ」と、なんとか五条楽園回避の手立てを懸命に算段していた。体力に自信がなくなると、闇雲に突進するわけにもいかず、やりくりも楽じゃない。

 わずか4kgの携行とはいえ、撮影をしながら、まったくの飲まず食わず(ここが我が倶楽部の婦女子たちとは決定的に異なる)で、ベンチで休むこともなく、20,000歩弱(スマホの万歩計による。案外正確)を闊歩しながら被写体を渉猟するのは、やはり相当身に堪える。しかも、突っ立ったまま、棒立ちの姿勢でカメラを構えることはほとんどなく、シャッターを切る毎に、アングルに適した体勢を取らなければならないので(ミニ・スクワットのようなものだ)、あっちこっちの筋肉に負荷がかかり、錆びた蝶番(ちょうつがい)のようにギシギシと音を立てて軋むのだ。嘘です。時にはブルブルと震え、挙げ句こむら返りを起こしそうになり悲鳴をあげた。ホントです。
 そんな時、義弟の嫁がぼくを気遣って持たせてくれたこむら返りの特効薬(だそうな)と称する芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう。漢方)を服用する。効用は気の持ちよう次第なので、「これは大層よく利くのだ」と自己暗示をかける。単純なぼくはすぐにこのトリックに引っかかり、事なきを得るという寸法だ。 

 ぼくはヤクに頼りながら、萎えることなく、そして老いを養うこともなく、夕闇が迫るまで600回もシャッターという苛酷そのものの鞭に打たれ続けた。この日は、精根尽き果てたけれど、最後の1枚までぼくに精神の混濁はなく、正気を保つことができた。
 「やっぱり人生は気力かぁ」と、雑多なる自家撞着に陥りながら、茶目な混ぜっ返しを精一杯してみせた。そしてぼくは、五条楽園の雰囲気満点のお茶屋を眺めながら、どこか粋がっていた。
 ジジィに無理は禁物と知りつつも、この日の足掻(あが)きはなかなかのもので、我ながら見上げた根性であったと褒めてやりたい。ぼくは五条楽園で、撮影の成果は別として(ここが悲しい)、老いの哀感に咽びながら !? 気丈な振る舞いを見せたつもりだった。

 子供の頃遊んだ場所はすっかり忘却の彼方となっていたが、克明に記憶していることがいくつかある。そのうちのひとつ、家を一歩出ると多くの土佐犬がいたことだった。ぼくは人並み以上の犬好きだと自認するが、当時ここにいた土佐犬だけは恐さが先に立ち、撫でることができなかった。
 五条楽園には京都一の反社会団体、つまり指定暴力団の本部があり、その構成員も近隣に居を構えていたのだと思う。現在は大きな総本部ビルが建っているが、当時土佐犬は組長やその舎弟が飼っていたのだった。
 世情から窺えば、土佐犬は闘犬のために飼われていたと考えるのが順当だとも思えるが、あるいはその手の人たちが一種のステータス、もしくはその性情や肌合いから、犬を飼うなら土佐犬と定めていたのかも知れない。彼らの愛玩犬がチワワやトイプードルでは様にならないだろう。
 今思うとぼくが土佐犬に触(ふ)れることをしなかったのは、犬も飼い主も気が荒いと察し、「君子危うきに近寄らず」の教えに、子供心ながら従ったのではないだろうか。子供のぼくはそのような諺は知らなかったはずだが、きっと本能がそうさせたのではないだろうかと今になって思う。

 そしてもうひとつ。ある固有名詞(ここでは仮にAとしておく)が、今日に至るまで脳裏にこびり付いている。この固有名詞Aが、人名なのか場所の名前なのか、あるいは屋号のようなものなのか、果たして何であったのかが長年どうしても分からないでいた。というより、子供だったぼくが、世間にあまり馴染みのないAという固有名詞が何であるかを推察する能力がなかったのだと思う。しかし、半世紀近くぼくはその固有名詞を忘れず、しかも正体不明のまま放置していた。
 今年、五条楽園を歩きながら「Aとは何なのかの謎が解けるかも知れない」と考えていた。くたびれた足を引きずりながら、柵のない駐車場を横断しようとふと脇に目をやると、そこに置かれた二つの大きなゴミ箱の横腹にAと記されていたのだった。
 ぼくは咄嗟にAという固有名詞がかつての組長の苗字だと感づいた。半世紀ぶりの謎があっという間に、如何にも呆気なく氷解してしまったのだ。その呆気なさにぼくは深いため息をつき、しかし感慨に浸りながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 従姉妹がよく口にしていたAとその屋敷、そのそばにある今や世界に冠たる任天堂(山内任天堂)の本社などは未だ健在。点在するお茶屋や京町家などなど、寂れ行く五条楽園は異様なほどの静寂さに包まれていた。もう、土佐犬の姿も見当たらなかった。

http://www.amatias.com/bbs/30/448.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
かつてのお茶屋が居並ぶ。家に掲げられた住所表示の立て看板が面白い。「下京區 六軒通木屋町東入 岩瀧町」とあるが現在の住所表示ではない。「下京區」の横文字が右から書かれている。懐かしい「仁丹 大礼服マーク」もある。このような昔の住所表示がまだ随所に生きている。
絞りf11.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02五条楽園」
廃業したお茶屋の脇の路地。幅1mほどの路地を行くと高瀬川に出る。どこか典雅な絵がペンキで描かれていた。
絞りf11.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/05/24(金)
第447回:京都の遊郭跡を訪ねる(9)
 感覚的に橋本遊郭についての情報より、五条楽園についてのそれのほうがずっと多いような気がする。正確な理由は分からないが、五条楽園のほうが規模も大きく、また京都市の真ん中に位置していたがために、史料の類が多く存在しているからではないだろうか。
 加えて、上記したことの解明にはならないのだが、ぼく自身が遊郭や花街に関して何分(なにぶん)の知識も持ち合わせておらず、情報の収集・蓄積に事欠き、不案内であることが大きな要因として挙げられる。その点に関してはどうかお目こぼしをいただきたい。
 つまり遊郭の何たるかをぼくはよく知らないのである。ぼくの子供時分(小学校高学年)にはすでに使用されなくなった五条楽園のお茶屋(もしくは妓楼か)で、寝泊まりをし、かくれんぼなどをして遊び回った経験から、そこの一風変わった異様な雰囲気や、カビと埃の入り混じったような湿っぽい臭いなどが未だ脳裏に焼き付いて離れないという面を有しつつも、遊郭好事家からみれば、ぼくの知識など取るに足らないものだろう。ぼくは、遊郭などに対する感情移入だけは人並み以上だと認めるが、橋本や五条楽園について、公に述べる資格を欠いている。

 被写体に関する知識や理解をなおざりにすべきではないというのが、撮影の鉄則、とまではいわないが、ないよりはあるほうがイメージの構築には断然有利であることに異論はない。
 しかしそれが即ち、良い写真に直結するかしないかは残念ながら断言できないのだが、「知識を有していること」=「イメージしやすいこと(焦点が絞りやすいこと)」=「良い写真につながりやすいこと」との三段論法に頼りたくなるのが人情というものだろう。したがって、知識はとても有用で大切なものと心得、そのように自己暗示をかけたほうが結果は吉と出る、というのがぼくの長年の経験則である。何をするにも、お勉強はしないよりするに越したことはない。
 また、同じ被写体でも、個々人によって「目の付け所」がそれぞれに異なり、それをどう表現するかで写真のイメージや見た目がガラッと変化するので、写真は面白くもあり、逆に怖いともいえる。静物であっても同じ写真は二度と、しかも永遠に撮ることができないという現実にも直面する。

 拙連載では、ぼくの好きな分野である「街中の人物スナップ」は掲載しにくく(昨今の窮屈でヒステリックな世の中にあって、個人が特定できてしまうとの嫌いがあるのでぼくは掲載を控えている。ぼく自身はそれに頓着しなくてもいいと思っているのだが。巷に蔓延る癌細胞のような “言葉狩り” 同様、このような現象はひどく気味が悪い)、故に掲載写真の被写体はどうしても静物に偏りがちとなる。それも、ぼくの場合は建築物が多い。

 建築撮影に関して、仕事の写真では水平・垂直・平行を神経質に調整し、またそれにこだわらなければならず、蛇腹アオリの利く(物の形やパースを自在に変えられる)大型カメラの使用がもっぱらとなるが、私的写真に関しては、ご覧の通りかなりの、場合によってはエキセントリックな広角歪みをぼくは敢えてものともせず、その特質を心底愉しんでいる。
 このような描写は、おそらく好みの分かれるところだということもよく心得ている。きっとぼくの建築写真に眉をひそめる御仁も多かろうことは百も承知だ。私的な写真に、制約だらけの仕事の撮影作法を持ち込まず、自由気ままに写真を愉しみたいとの強い思いが、超広角レンズの遠近感を大胆に、好んで利用する最も大きな要因となっている。

 水平・垂直・平行にこだわりすぎると、かえって味わいのない、無難さだけが取り柄のつまらぬ写真になりがちということもあるし、また、遠近法を無視しているがために、実際の視覚とは異なった不自然さを免れぬ場合もままある。
 「建築写真は、誰が何といっても(誰も何ともいわないのだが)、水平・垂直・平行がキッチリ出ていること」を金科玉条のように唱えるのは、明らかに間違った教えである。賢明なる読者諸兄には、どうかそんな言い分を鵜呑みにして欲しくない。
 今は大型カメラを使わずとも、画像ソフトにより水平・垂直・平行が容易に出せる仕組みになっているが、それよりも、レンズの焦点距離による遠近感の違いを体得し、それを愉しんだほうが得るものが大きく、それが本道だとぼくは確信を持ってお伝えしておく。
 
 さて、肝心の五条楽園であるが、それは鴨川にかかる五条大橋(牛若丸と弁慶が一戦を交えた)の南西に位置する遊郭を指す。最盛期には約150近いお茶屋(芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。東京の「待合」に相当)と置屋(芸者や遊女を抱えている店)があったと伝えられる。鴨川と高瀬川の間の中州地帯には、多くのお茶屋があったが、京都の他の花街(例えば、祇園や先斗町、上七軒など)との違いは性風俗を扱っていたことだ。五条楽園は赤線地帯でもあった。いわば庶民派の花街であった。
 昭和33年の売防法施行後、五条楽園(それ以前は、七条新地)と名を変えたが、平成22年(2010年)売防法違反で一斉手入れを受け、「五条楽園」の看板も取り外された。つい最近のことである。廃業に追い込まれたり、解体されるお茶屋もあったが、折りからの観光ブームで旅館や料理店、ショップなどに転じたものもある。まだ往事の匂いが漂うが、ぼくの思い出の詰まったお茶屋はどこだったのか、さっぱり見当がつかなかった。次回の里帰り時には時間的な余裕を持って探し出してみようと思っている。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/447.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
高瀬川沿いにある元お茶屋。現在は旅館として活用されているようだ。
絞りf9.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
思わず「う〜ん、すごい!」と感嘆。夕陽の当たったコテコテの(ぼくの写真や文章そっくり)カフェー建築は古色蒼然とした「旅館」という看板が掲げられてあるが、現在活動しているのかどうかまったく不明。両脇の建築物もおどろおどろしく、人の気配はない。京都市内のど真ん中ですよ!
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/05/17(金)
第446回:京都の遊郭跡を訪ねる(8)
 今回の京都行きは撮影が第一目的ではなく、第439回:京都の遊郭跡を訪ねる(1)で記したように、義母の四十九日の法要とそれに関わるさまざまな後片付けをするためだった。
 しかし、鉄道好きのぼくはわくわくそわそわ、そして麻薬的な新幹線に大枚を叩いて乗り込み(あの速さはやはり非現実の極みであり、まさに夢見心地だ。因みに東海道新幹線の最高速度は285km/h)、せっかく我が家から550kmも離れた京都くんだりまで行くのだから、写真を撮らぬ手はない。
 ぼくは抜かりなく最小限の機材をバッグにこっそりと詰めた。写真屋なのだからもっと大べら(人目を気にせずにするさま)に振る舞ってもよさそうなものだが、今回ばかりは義母への敬意と感謝の意を示すため、厳粛なる気持で法要に向き合わなければと思っていた。ぼくがいつになく控え目で遠慮がちな挙動に出たのは、そんな意識が強く働いていたからだろうと思う。

 根無し草のようなぼくにとって、古希を通り越した今、つまり「余命」という言葉がより身近に、かつ現実的なものになるにつれ、あわよくば「京都はぼくの故郷」といってみたくもなっている。急に「里心」がついてしまったのだろうか。まさに今回は「里帰り」の気分だった。

 巷では、京都人に対する杓子定規で決まり切った悪評が存在する。あるいはまた、団塊の世代に対する不見識で否定的な意見を耳にすることもある。そのような意見を述べる人は、ほとんどの場合実体験からではなく、根も葉もない噂話、あるいは伝言ゲームのような又聞き、もしくは流言飛語の類に頼ったものが多い。
 しかし、そんなものはぼくにとってまったく「屁の河童」同然で、それに頓着したりこだわったりする人を、むしろ道理に暗くトンチンカンな人として憐れむくらいだ。決して血の巡りが良いとは思えないし、貧血のため目眩を起こしているのだ、と憚りなく揚言しておこう。

 何故かといえば、人間はこの世に生を受ける時、「場所も時も人種も」選べないからだ。己の意志によって、ぼくは京都に生まれたのではなく、そしてまた団塊の世代として生まれる時を選んだわけでもない。このような自明の理を解さない人は自己を一切顧みることなく、やはり何かが頭のなかで著しく欠損し、神経細胞が糜爛(びらん)してしまっているのだろう。
 私たちは、「差別だ」、「人権蹂躙だ」と叫びながらもそのような人々に囲まれ、闘いながら生きている。貧血気味の人たちは例外なく道理に疎く、この手の人々に対抗するには無手勝流の恬淡(てんたん。欲がなく、物事に執着しないこと)さが一番だ。そうすれば愉快この上なしなのだが、ぼくの精神はまだ青年の域を脱しておらず、未熟であるが故に、つい熱くなってしまうのである。

 出生について選択の自由がないことは、人間ばかりでなく、生あるすべてのものが背負っている厳格な掟であり、あるいは神との契約でもあり、そこで生じる超自然的な現象を、私たちは避けることができないという道理と原理に付き従っている。
 それを知ってか識らずか、人の出生にケチを付けたがるのは愚かさの極みでしかない。浅薄に過ぎる。もしそれをいいたいのであれば、京都人や団塊の世代を非難するのではなく、単に「出生以外の事柄については、かめやま個人が悪い」という言い方に分がある。

 何故このようなことをくどくど書いたかというと、今回触れる「五条楽園(旧七条新地)」に居を構えた複数の人たち(ぼくの親戚や知り合い)がいたからである。元妓楼や元遊郭に短い期間ではあるけれど間借りしていたがために(第439回に記載)、謂れなき遇(あしら)いを受けたのである。
 最も年齢が近く、仲の良い従姉妹は「 “よんどころない事情” により5年間五条楽園に住んでいたことが原因で、破談を経験した」と、天を恨むことなく語ってくれた。出生云々とは多少意味合いが異なるが、小学生の彼女に選択の自由はなかったわけで、すでにこの時不条理という罪を貧血気味の人々によりなすりつけられたのだった。

 橋本遊郭の撮影を終え、ぼくの足はガクガクしていた。大谷川の道なき土手を川に落ちぬように神経を尖らせて歩いたせいだった。若い頃の平衡感覚はすでに失われているのだと言い聞かせていたので、ぼくは慎重の上にも慎重を期して、身体を斜めにしながら小股で歩を進めた。普段使わない筋肉をふんだんに使ったおかげで、疲労によるヨロヨロ症状が激しくなっていたが、「もう一度京街道を歩きながら、妓楼の凝った細部(細工)に焦点を当て、それを写し撮っておこう」と、自らを励ました。これらは記録写真のようなものであり、ぼく自身のイメージを具現化するものではないので掲載は控える。
 時間は午後3時半を回り、普段であれば撮影終了とするところだが、今回は撮れる時に撮っておこうとの気持が勝ち、橋本駅から京阪電車で30分の清水五条駅に向かい、老体に鞭打ち子供時分に遊んだ五条楽園に行ってみることにした。

http://www.amatias.com/bbs/30/446.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
破風の格としては最も高い唐破風屋根が映える遊郭。戦前に建てられたもの。
絞りf11.0、1/15秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
カフェー建築の元お茶屋。何ともいえない雰囲気に、ぼくは胸が高鳴る。凄いものを見つけたと、心臓の鼓動が聞こえるような気がした。
絞りf9.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2019/05/10(金)
第445回:京都の遊郭跡を訪ねる(7)
 橋本遊郭の写真と文について、読者諸兄からの反応の多さにぼくは少しよろけ気味だ。地元の人たちとの会話時間を除けば、ぼくが橋本に滞在したのは2時間そこそこでしかない。知ったか振りをする気持は毛頭ないのだが、短い時間であれこれ気ままに感じ取ったことをそのまま記してきた。遊郭の知識も高が知れたもので、だから大層なことはいえない。
 そんな言い訳をしながらも、7話にわたって書き連ねてしまい、それこそ恐れながら厚かましく、また太々しくもあると自覚している。大した見聞も持ち合わせていないのに、これも仕事の一部とはいえ、耳目に触れたものを躊躇うことなく公に認(したた)めてしまうこの度胸と心胆に、我ながら開いた口が塞がらない。
 今ぼくは随分と自虐的であることを粧(よそお)っているけれど、知識の不足分は写真が補ってくれると、高を括っている。「百聞は一見にしかず」を引き合いに、ぼくは程よく難を逃れようとしている。ここが写真屋の強みだ。

 しかし思いの外、読者諸兄のなかには遊郭のあの独特な風情に非常な関心を寄せ、ついでに未練らしきものを残しておられる方が多いことを知り、その意外性もまた妙と感じている。
 特にあの時代を知るご年配の方々は、同時に戦時体験者でもあり、遊郭風情に未練を絶ち切れないというが如く、売防法以前の何かを懐古し、幻影らしきものを追い求め、またくすぐられるものがあるようだ。
 加え、年齢に関係なく、ぼくの推し測るところ、妓楼特有の凝った、そして風変わりな建築的佇まいに関心を示される方もいる。「実際の妓楼というものは見たことがないが、写真を見て橋本に行ってみたくなった」という声も複数届いた。
 売防法以前の遊里の姿が最も生々しく現存している橋本遊郭を、写真的な出来映えを度外視しても、記録しておいてよかったとぼくは思っている。失われつつある日本の文化を写真に収めておくのも写真屋の大切な役割と心得ている。たとえそれが遊郭であったにしてもである。

 遊郭や妓楼に興味を示すのは男衆だけだろうというぼくの一方的な思い込みは呆気なく外れ、意外や女性もいることを知った。ぼくの当て推量だが、それはきっと男衆の懐古にも似た心情とは異なり、純粋にフォトジェニックな興味・妙味からではないだろうかと思う。そしてまた、文化的な側面という意味もあるだろう。男は情緒が心にまつわりついて離れないという面が強いと思われる。こと遊郭に関していえば、女性にはそれがない。
 女性が娼妓や傾城(けいせい)に憧れの情を抱くとは考えにくいことだし、それどころか「人権運動家」、あるいは「その類の団体」からすればもっての外だろう。

 余談だが、昨今は、誤ったことや偏ったことを「人権」を出汁に声高に叫び、盾にしながら正当化しようとの傾向が多々見られるのは、まことに嘆かわしい限りだ。「人権」を錬金術や免罪符のように取り扱おうとする輩がいる。本来は尊ぶべき「人権」という言葉の価値を貶め、色あせたものにしていることに気の付かないお粗末な人種が多すぎる。今さらだが、「人権」とは、人が人たる当然の権利を指すが、権利と義務は常に同居し、同等なるものであることを忘れている。義務を顧みず、権利ばかりを主張する醜い品形に気づいてもらいたい。

 先日、映画の好きな読者からいただいたメールに以下のようなことが記されてあったので転載(許可済み)。なお、かっこ内はかめやまの補記。
 
 「映画『鬼龍院花子の生涯』の主人公である花子が、橋本遊郭で自殺する場面からこの映画は始まりますが、冒頭、夏目雅子(仲代達矢演じる侠客鬼龍院政五郎の養女・松恵)が日傘を差して降りてくるあの階段は今でもあるのですか? また、映画の最終場面の橋の上でのシーン。あの橋は今もあるのですか?」との質問だった。

 ぼくはこのDVDをレンタル店で借り、興味深く観た。夏目雅子演じる養女の松恵が、橋本の土手向こうを流れる淀川の堤防から階段を降り、橋本遊郭にやって来るシーンからこの映画は始まる。「昭和十五年・夏 京都・橋本遊廓」と字幕が出る。
 映画の公開は昭和58年(1982年)なので、撮影はおそらく昭和56~57年頃と思われ、したがって40年近く前ということになる。撮影当時の橋本が現在とどのように異なるかは分からないが、今でもこの階段は存在している。ただ、映画で観る階段は両脇が雑草で覆われているが、現在はコンクリートで固められている。幅も少し広くなっているような気もするが、映画のシーンが残像として頭に残っていれば、すぐに「ここだ」と分かるだろう。
 ラストシーン、松恵が橋本の妓楼で花子の遺体を確認した後、大谷川にかかる橋の上から花子が実父である政五郎に宛てた葉書を破り捨てる。小さな橋はすでに木製ではなくアスファルトにガードレールという今時の仕様になっている。橋の石柱(明治2年製。1869年)の根本がアスファルトに少し埋まってしまっているが、「柳谷わたし場」と読める。淀川の向こう岸、山崎への渡し場があったのだろう。

 ぼくは見ず知らずの人の質問に、要約すれば上記のような返信をした。彼が橋本を訪問されるかどうかは分からないが、今年3月にぼくが行った時、立派な妓楼に、「解体作業中につき、ご迷惑をおかけしております」との看板が掲げられ、足場が組まれていた。ぼくは妓楼とは無縁の生活を送ってきたが、身を切られるような痛みを覚えた。それは体験した事のないような痛みだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/445.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
遊郭南端の陸橋上から。中央に見える赤い屋根は遊郭唯一の湯屋橋本湯。左が大谷川。瓦葺き屋根の建物が残っている妓楼。
絞りf9.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02橋本」
橋本湯玄関。入母屋破風に乗せられた何とも立派な意匠瓦。中央には「橋本湯」とある。湯船や洗い場は一棟奥にあり、ここも妓楼の一角として使用されていたのだろうか? 謎は残る。銭湯は数年前に廃業してしまったとのこと。しかし、なんだか凄味のある銭湯だ。

(文:亀山哲郎)