【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

全372件中  新しい記事から  231〜 240件
先頭へ / 前へ / 14... / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 26 / 27 / 28 / ...34 / 次へ / 最終へ  

2013/03/15(金)
第142回:好きこそものの上手なれ?
 グループ展も無事終了いたしました。ご来場いただいた方々にこの場をお借りし、謹んでお礼申し上げます。
 当初、出展数の多さに心持ち懸念材料はあったものの、終わってみれば、好意的なご意見や感想が多く寄せられ、主催者としては反省ともども、取り敢えずは「めでたさも中くらいなりおらが春」といったところでしょうか。

 余談となりますが、グループ展会期中に複数の読者諸賢から拙「よもやま話」は時々分からない言葉や漢字が使用されているので辞書が手放せないとのご指摘をいただきました。猛省しております。すいません。
 文章の専門家でもないぼくがいうのは見当外れなのですが、日本語はひらがな、漢字、カタカナと、他言語にはない複雑で厄介な使われ方をしています。日本文字は世界にも数少ない表意文字ですから、ひらがなでなくわざわざ漢字を使用するのは文字の持つニュアンスを重んじ、またその方が自分の気持ちを表すうえで適切と感じる場合に限っています。逆に、第一人称をぼくは「ぼく」とひらがなで記し、決して「僕」と漢字では書きません。それぞれに自分なりの理由と法則のようなものがあり、それに従っているのですが、どちらでもいいような場合はできるだけひらがな表記を臨機応変に使い分けるように心がけているつもりです。また、あまり一般的でないと思われる漢字使用につきましては発音を記すようにいたしますので、ご承知おきいただければありがたく存じます。

 習い事をするうえで「好きこそものの上手なれ」とよくいわれますが、ぼくはこの諺にいつも半信半疑です。身の周りの写真好きの多くを観察していると、「好きであることのありよう次第」で、この諺は真実味を帯びたり、あるいはそうでなかったりするようです。好きなことのためには寝食を忘れ、やせ細るほどの労苦も厭わないのは上達することの確かな手続きであることに異論はありませんが、一方で人は好きなこととなると熱中のあまり視野が狭まり、勢いばかりが増し、却って上達の妨げになるのも事実であるように思います。もちろん、このことはぼく自身をも含めての事象です。好きなことに熱中しながら、自分の心身をどう捌(さば)き、コントロールするかが一番の課題なのでしょう。

 ぼくはといえば、毎日写真を撮っていなければ気が収まらないという質ではどうやらなさそうです。まるで他人事のような言い草ですが、ぼくは多作向きではなく、気まぐれ短期集中型です。撮りたいという気持ちに逸(はや)る一方で、雑事に追われ(言い訳に過ぎませんが)、なかなか写真を撮らない。撮りたい時に撮ればそれが一番良いと達観(ウソです)しているというか、淡々とし過ぎているのも困りものだと思っています。それでいて、他人には「撮らなければ何も始まらないのだから、とにかくたくさん撮りなさい。たくさん撮っているうちにある日突然何かが見えてくるものだよ(ホントです)」と言い続けているのですから、説得力なんてまるでありゃしません。

 いくら写真が好きだといっても、ただ闇雲にたくさん撮り、カット数を自慢気に話している人を時折見かけますが、それで良い写真が撮れるかは甚だ疑問です。そんな意味のない競争をしても仕方がありません。写真は時として何日も撮らない方がいいという場合だってあります。そんな時は、良い本を読んだり、美術館や図書館に通ったりしながら、機の熟すのを待つのもひとつの良い方法だとぼくは思います。撮らない勇気も必要なことがあるのです。ですからぼくは、とても勇気ある写真屋といえるのですが、勇気ばかりが空回りしているきらいが無きにしも非ずといったところです。
 “闇雲に”とは文字通り“闇のなかで雲をつかむ”が如き行為ですから、撮影者にとって撮影することの必然性と目的が欠如していることを意味し、必然性がなければいくら撮ったところで、ただの記録に過ぎず、従って自己表現の域には達しないということになります。
 上述した「好きであることのありよう」とは、以前にも述べたことがあるように記憶しますが、「やむにやまれぬ必然性に導かれて」と言い換えてもいいでしょう。気力と集中力を欠いている間はいたずらに撮らないことをお薦めしたいくらいです。写真に偶然はありませんから(被写体との出会いは偶然性に満ちていますが)、闇雲に無駄撃ちをいくら重ねても上達するものではないというのが、今日までのぼくの経験で得た答えのようなものです。

 習い事の常として、誰もが願う共通項のひとつは「どうすれば早く上手になることができるのか?」ということです。時折そのような難題を持ちかけられることがありますが、ぼくとて、とてもそれにお答えするような域には達していませんから、特効薬があればぼくが教えて欲しいくらいです。特効薬などないのかも知れませんが、そういいながらもまったく否定しがたいのは、どこかで「好きであること=特効薬」だと信じたい部分があるからだろうと思います。いつまでも「下手の横好き」では困りますから、「下手は上手の基」を信じる他なさそうです。
(文:亀山哲郎)

2013/03/08(金)
第141回:不遜ながら
 自分の写真倶楽部についてここであれこれ言及することは、読者諸賢に対して恐縮至極という思いもあるのですが、写真についての様々な題材を提供してくれるので、それは写真を志している方々にもなにがしかのヒントをご提供できるかも知れず、との思いからたびたび引き合いに出さしていただきます。

 個展やグループ展をしばしば経験していると来場者からいろいろな意見や感想、質問が寄せられます。少なくとも個展で、作者本人を目の前にしてネガティブな意見を述べる方は今までの経験上いませんが、しかしなかには示唆に富んだ貴重な意見を述べてくれる方はいます。共感を得られれば「人情としては嬉しい」ものですが、ぼく自身は不遜にも、「共感を得られようと得られまいと、ほとんど気にしていない」というのが本音です。

 展示依頼などをされた時(オリジナルプリントであれ印刷媒体であれ)、出展や掲載を躊躇しているような作品、つまり自己採点に照らし合わせて当確線上ギリギリにあるものなどが、「この作品は素晴らしいですね」とか「これが一番好きです」といわれると、そこに一種の戸惑いに近い感情が生じるというのが本来のありようなのでしょうが、実はそのようなことはほとんどありません。それどころか「然もありなん」とすべてが納得ずくです。
 少々シニカルな言い方になってしまいますが、ぼくが出展を躊躇する理由を一言であっけなく告白してしまうと、「この作品は、クオリティでは他のものに多少劣ることは重々承知だが、しかしながら一般受けする」というものです。
 民草は、一般に明るく、見映えのするものを好み、高い評価を与えます。ぼくも大衆の一人ですが、一般大衆の作品に対する評価の最大公約数はどの分野に於いても同じです。いくらS. バッハが偉大でも、流行歌や歌謡曲の方が慕われるのと同様です。そこまで極端な比較でなくとも、例えばアメリカの家庭に於いて壁面を飾っている絵は、A. ワイエスやJ.オキーフより、N.ロックウェルの方が圧倒的に多いのと同じことです。

 ぼくが当確線上の作品を迷いながら出展してしまうのは、良く言えば「サービス精神の表れ」であり、悪く言えば「媚びを売っている」からなのでしょう。
不特定多数の方々が押し並べて「これはいいね」という作品を意地悪くどこかに紛れ込ませておくことを、毎回ではありませんが、してしまうことがあります。これはかなり姑息な考え方です。「武士は食わねど高楊枝」の高邁な精神を意地でも貫き通したいのですが、商売人であるが故の悲しさ、致し方のないこともあります。嗚呼、反省、反省! また、数合わせのためにしぶしぶながら、ということもあります。ただしこれは、「このようなテーマのものを至急20点ばかり調達して」という依頼に限ってのもので、本格的な個展では躊躇するようなものは、いくら一般受けするという確信があっても出展することはありません。念のため。

 個展はクオリティに多少の幅があっても一定の作品数を統一したテーマに添って選び出さなければなりません。30点以上とか50点とか。全作品が自分の目指すクオリティに達するのは大変なことですし、それはもしかしたら不可能に近いことだと思うこともあります。自分に妥協を許さず、といってもどこかで妥協しなければ個展など催せるはずもありませんが、多くの作品のクオリティを揃えるにはある程度の撮影時間と回数を費やさないと、ぼくのような下手っぴな写真屋はなかなか成し難い。それでも何年かに一度は写真屋である以上していかなければなりませんから、怠け者のぼくには辛いものがあります。
 それに比べるとグループ展とは、一人あたりの作品点数も限られ1点−数点で済む場合がほとんどです。考えようによっては気が楽だと捉える向きもあるでしょうが、実はぼくはこちらの方がずっと恐いと感じます。
 他人の評価など気にしないとはいえ、否が応でも他者との比較が容易だからです。比較の結果が個性の違いで片付けられるものか、クオリティの差として見極められてしまうのか。これは来場者の好みや審美眼に頼るところとなります。確かな審美眼を有した人はごく稀ですから、地味で玄人好みのする写真はどうしても敬遠されがちです。

 ぼくの写真倶楽部は現在、指導者(というより牧童頭のようなもの)が2人と生徒(生徒という感覚ではなく同好の士。ぼくを「先生」と呼ぶ人はいませんから)が10人ですが、第139回で少しだけ述べた「写真的精神年齢」を高めることと「写真を見る目を養うことの大切さ」にも指導の重点を置いています。今、県立近代美術館で第7回フォト・トルトゥーガ展を開催中ですが、来場者の言によると異口同音に、「他の写真倶楽部とはずいぶん毛色が違う」のだそうです。
 今回は以前にもお話しした「津波の地を訪れる」(第121-125回)コーナーを特別に設け、同行者5人によるそれぞれの閖上(ゆりあげ)を展示したのですが、「同じ場所を撮っても、撮影者によってこれ程までに写真というものは異なるものか」とおっしゃる方がいる一方で、「作者名が記されていなければ同じ人が撮ったように見える」と、両極の感想が聞かれ、写真とは見る人によってまったくそれぞれなんだなぁとの感を深めました。
 写真展が終了したら改心し、「武士は食わねど高楊枝」に徹したいと決意を新たにしています。
(文:亀山哲郎)

2013/03/01(金)
第140回:写真は恐い
 言葉は、私たちが生まれついてから今日に至るまで、国籍や民族を問わず意志や感情を表す最も具体的な表現方法として無意識のうちに使用されています。
 しかし、言語には土地や地域の違いによって、海外はもとより国内でさえも通じない場合があります。言葉という具体的な表現方法がたちまち心許ないものになり、無意識にとはなかなかいきません。いや、それどころかかなり意識的なものになってしまいます。従って今のところ、言葉には残念ながら世界共通言語というものがありません。
 よく音楽などは「国境を越えた世界共通言語」といわれますが、音楽ばかりでなく写真もそのうちのひとつと考えてもいいでしょう。言葉ほどの具体性はありませんが、時として言葉以上に多くを語ることがあります。「百聞は一見にしかず」の諺通り、写真とは実に雄弁な語り手でもあり、言葉とはまた異なったリアリティを示してくれるものです。

 写真は真を写さないというのがぼくの持論なのですが、これは被写体や現象に対してであり、作者に対しては真を写すと公言しています。作品は作者の鏡であり、自分の姿形や佇まいを作品に投影しているものだと信じています。面白いくらいに作者の人柄や性格を表してしまうので、仇や疎かにできません。写真は、言葉に比べてずっと抽象的であるにも関わらずです。

 ぼくの長年の友人であるAさんは、常にプロの写真と接し、見定め、取り扱うデザイン関係の仕事に従事しているのですが、ぼくの写真倶楽部のグループ展に初めて訪れた時に、一人ずつの写真を見ながら「この方はこういう性格で・・・、職業はおそらく・・・、お歳は何歳くらいで・・・」と、見事に言い当てたものです。ぼくは、Aさんほど写真を見ることに練磨された人なら、作者についてのあれこれを当然のこととして受け止めたのですが、彼の隣で話を聞いていたメンバーの一人は、まるで狐につままれ、超能力者もしくは霊媒師でも見るかのような目で彼を見上げながら、「全部当たってる! 分かるんだ〜。写真って恐い! 恐い!」と呆気にとられつつ感心しきりでした。

 昔、ぼくが出版社で音楽とオーディオの編集をしていた頃、「読者訪問」と題して、オーディオ評論家とともに読者宅を訪問し様々なアドバイスをするという記事を担当していたことがあります。そのオーディオ評論家はぼくに大きな精神的財産を与えてくれ、また人生の師といってもいいほどの人でした。美の万事に通じ、大変な審美眼の持ち主でもありました。その彼がいうに「かめさん(ぼくのこと)、実際に読者宅で音を聴かせてもらわなくても、その方とお話しをすればどんな音がスピーカーから流れてくるかが分かるものだよ。音にはその人のお人柄がそっくりそのまま表れるものさ」と。
 まだ20代だったぼくは、オーディオについての知識は浅く、そんなものだろうかとの思いはあったものの、普段から父の語ることを見聞きしたり、その実際を目の当たりにしていたこともあり、創作とは人格が如実に反映されるものだという理屈らしきものは薄々知っていたつもりです。

 今ぼくは、来月5日(火)から埼玉県立近代美術館で催すフォト・トルトゥーガ展の準備で、メンバーから寄せられた出展作品約130点の写真データをつぶさに点検し、必要とあらば補正をしています。全員の人となりを知っていますから、ぼくのようにそれほど審美眼に長けていなくとも、上記したことがそっくりそのまま当てはまることを直に感じ取り、愉快な思いをしています。
 一見控え目な人、一見生真面目そうな人、一見破れかぶれな人、ややもすると人格が破綻していそうな人、几帳面な人、勝手し放題な人、世界は自分中心に回っていると信じ込んでいる人などなど、普段隠しているつもりでも、写真を見るとその裏側までもが到底隠しおおせるものでないことが分かります。写真がしっかりそれを物語っているのですから、やはり写真は恐ろしい。写真を見ながら「この人にはこういう面があるんだ。そういえば普段あまり気がつかないけれど、確かにそうだな。やはりね」という発見が次々にあり、ちょっと鬼の首を取ったような気分に浸っています。ただ、「へぇ、意外だったなぁ」ということはありません。確認というかダメ押しのようなものです。

 大袈裟な言い方をすれば、美に従事しようとする行為はエゴの発露の結果であり、そのなれの果てですから、否が応でも自身の姿を晒し出してしまうのでしょう。

 巨匠と謳われた映画監督の撮影をした時にこのように言われたことがあります。「よくカメラマンなどという恐ろしい仕事をしていますね。映画はごまかせる部分があるのだけれど、写真はごまかしようがないでしょう。最も端的に作者の姿を晒してしまう。写真というのは他の分野に比べ一番正直だからね」と。

 ぼくはよく「写真屋というのは恥晒し商売なんだよ。自分の作品が印刷物となって全国津々浦々まで行く。そこで“自分はこの程度の人間です”という宣言をしているようなものだから」といいます。恥を晒してでも写真を撮っていたいという人種が写真屋なのですね。
 世界は自分を中心に回っていると信じ込まないとやっていけそうにありません。
(文:亀山哲郎)

2013/02/22(金)
第139回:写真的精神年齢
 今年もCP+(総合的カメラ映像ショー)が開催されました。メーカーさんから招待状をいただいていたのですが、雑事に追われながらとうとう行くことができませんでした。それでなくとも、ぼくは世の中のカメラ事情には極めて疎く(うちの倶楽部の人の方がよく知っているくらいです)、ますます世捨て人のようになりつつあります。
 拙「よもやま話」で様々なことをみなさんにそれらしく述べつつも、ぼくは写真屋であってカメラ評論家ではありませんので、実は新しい機能だとか最新の技術的な事柄についてはあまりよく知らないし、関心も薄いのです。
 基本的には「新しい物好き」のくせに、流行の新機能については自分の写真生活になんら関わりのないことと割り切っています。我関せずと覚めた目で冷ややかに眺めています。従って、ぼくの常用カメラは旧態依然としており、オートフォーカスくらいはついていますが、それで必要にして十分。顔認識やブレ防止とか、涙の出そうなありがたい機能などとは今日までまったく縁がありません。悔しまぎれにいってしまえば、そんなものは普段写真を撮る上でまったく必要がないからです。新調しようとするカメラにそのような機能が嫌でもくっついているのであれば、ありがた迷惑といってもいいくらい。余計なお世話です。放っといてもらいたい。なんだかえらくヤケ気味ですね。

 普段、インターネットで何かを調べるということはあまりしないのですが、CP+の情報を伝え聞くに、「写真の腕前がなくても、予期せず“いい写真”が得られる機能」、「小学生でも一人で使えるカメラ」、「1枚の写真に複数のカットを組み合わせた”組写真“が簡単に作れる撮影モード」(以上、日経Trendy)などなど、ひとつひとつ突っ込みたくなるのですが、大人げないので「結構なことじゃないの」と他人事のようにひとまずはシニカルに受け止めておきましょう。
 テクノロジーの進化は認めるにやぶさかではありませんし、実際それにあやかって我々は生きているわけですから、安易なものがなにからなにまで良からぬものだと決めつけるほど頑迷ではないつもりですが、「写真的精神年齢」に及ぼす影響は多大であり、避けがたいものだと感じています。ややもすると看過できないものがあります。

 ぼくは、小さな写真クラブで一応指導者もどきを演じていますから、常にその相剋に悩まされています。勉強会後の飲み会では、できるだけ彼らとお喋りをする時間を設け、指導者の写真に対する考えを少しずつ伝えるようにしていますが、その真意がどのくらい浸透しているかは分かりません。写真の話はそっちのけで世間話の方が多いのですが、理解し合うことが目的ですからそれでいいと思っています。確実に上達していますから、多分それほど間違ってはいないのでしょう。
 時として、写真についての真面目な質問が酒とともに入り混じりギクリとさせられることも多々ありますが、若い人も多いので他愛のない話の中から写真のなにかを汲み取ってくれればと願っています。得てして指導者の色に染まることは自然の成り行きですが、欠点には目をつぶり(ぼくはつぶり過ぎる)、それぞれの利点を伸ばすことがぼくの役目だと言い聞かせています。
 従って、彼らが顔認識だとかブレ防止機能のついたカメラを持参しても、苦み走った、じゃなくてほろ苦い顔をしながらも極めて鷹揚な態度を取り続けています。使いこなせるようになればそれでいいのですから。それでもブレたり、ピントの合ってない写真を持ってきたら、指導者としてどう対処するかが大問題なのです。怒る? 怒らない(ホントは怒りたいこともある)。ブレてもピントが甘くても良い写真というものが世の中にはありますけれど、だからといって彼らに大声で「いいよ」と公言できない辛さがあります。怒る変わりに、なぜそうなったかを考えてもらうように仕向けているつもりなのですが、そうたやすく人を信じてはいけないということをぼくは学びました。
 優しく諭すように「ブレ防止とは」、「オートフォーカスとは」どういうものかに始まって、その便利な機能について「信ずる者は救われない」ということを説かなければなりません。
 ぼくはそんな時に、遁辞を弄するわけではありませんが、抽象論をあの手この手で引っ張り出し、抽象論というものは重ねれば重ねるほど具象論に近づいていくものだということも同時に学びました。また、「オレは写真を撮るのが専門で、教えるのは専門じゃないんだよね」と究極の逃げ口上を打つこともあります。

 「ブレない」、「しっかりピントを合わす」ということは露出とともに写真を撮る上で最も基本的な作業ですから、技術的なことについて普段うるさくいわないぼくもこの点についてだけは、神経質に目を配っています。
 昨今のカメラは、カメラが安直に余計なことをしてくれるので、この基本的な土台が崩壊しつつあります。基本的な知識や技術が疎かにされ、骨身惜しまず習得することを忘れさせているので、いざという時に応用が利かず、誰でもが撮る無個性で一様な写真の大洪水。油断すると「写真的精神年齢」、もしくは「写真的知能指数」の低下に導かれてしまいそうです。それが著しい様相を呈しているように思えてなりません。

 ぼくの言いたい本来の意味での「写真的精神年齢」とは別のところにあるのですが、それは機を改めてお話ししたいと思います。抽象論の羅列になってしまうかなぁ。
(文:亀山哲郎)

2013/02/15(金)
第138回:モノクローム(8)
 フィルム時代、ぼくはモノクロの撮影に出かける時はいつもコダックのモノクロ用75mm角ゼラチン・フィルター(正しくはラッテン・フィルター。ラッテンとは英国人のF. Wrattenに由来)をカメラバッグに10数枚忍ばせていました。かさばらず軽量ですので大変重宝したものです。それらは、ぼくにとってモノクロフィルムの感色性(「感色性」については第131回参照)を整えるための必須の道具立てでもありました。赤、緑、青、黄のそれぞれ濃度の異なったフィルターを取っ替え引っ替え使ったものです。今思い返すと、ぼくのように雑で面倒くさがり屋の男がよくもまぁそんなことを丹念に繰り返していたと不思議でなりません。

 しかし、ある時期を境にぼくはこの面倒で繁雑な作業から一気に解放されたのでした。それがデジタルとの出会いです。モノクロばかりでなく、さらに厄介なポジカラーフィルムのフィルター調整も同時に解除の運びとなり、玩具を与えられた子供のように目を輝かせ嬉々としながら、そのお手軽さに飛びつきました。やがて翻弄されるとはつゆ知らず、まさに欣喜雀躍。
 何事もメリットとデメリットは表裏一体ですから、そのデメリットをどのように克服し、呉越同舟とするかの方策を探るため、我ならぬ勤勉?!な日々を送っています。その状態が今日まで続いているというわけです。

 第131回で、「光の三原色であるR(赤)、G(緑)、B(青)とその補色関係にある色の三原色、C(シアン)、M(マゼンタ)、Y(黄)の関係を理解しておく必要がある」と述べました。この事柄はモノクロフィルムのフィルターワークには欠かせない知識ですが、デジタル写真に於いてもこの関係を把握しておけば画像ソフトを使ってカラー原画を思い通りのモノクロに変換しやすくなります。被写体と同系色のフィルターをかければ明るくなり、反対に補色フィルターをかければ暗くなるという具合です。
 例えば青空はブルーとシアンで構成されていますから、その補色である黄色や赤のフィルターをかければ暗くなります。フィルターの濃度を濃くしていけばいくほど空はどんどん暗くなり、夜空のようになります。
 新緑の頃には緑のフィルターをかければ、葉の明度が上がり新緑の清々しく爽やかな感じが表現できるということです。
 以前、ある場所でこの説明をした時に、デジカメのレンズにこれらのフィルターをかけると勘違いされた方がいました。そうではなく、あくまで画像ソフトを使用し(フィルター機能のついたもので、フィルター濃度も連続可変に調整できる)、モノクロ変換時に疑似フィルターをかけるという意味ですので、どうか誤解なきように。

 さて、今回はフィルター効果についての作例をあげておきます。本来はカラーチャートなどを用いてその効果をお見せすれば分かりやすいのですが、実際の被写体はそんな単純なものではなく、例えば一口に樹木や草の緑といっても無限に近い色が複雑に混じり合いながら成り立っています。それに目の錯覚が加わりますから、必ずしも理論通りにいくとは限りません。
 そのような理由からカラーチャートではなく、できるだけ様々な色の混在する実際の風景写真を作例として選びました。

 作例はデジカメ(初代EOS-1Ds)で2004年9月に、ロシア連邦カレリア共和国で撮ったものです。被写体は1650年に建てられたロシア正教会のチャペルです。このあたり一帯はロシアの木造建築群として1990年に世界遺産に登録されていますが、この教会も内部はフレスコ画に彩られ、現役の教会として今日まで使われています。
 Rawデータを現像しPhotoshopに受け渡し補整しました。彩度はイメージを損なわぬぎりぎりまで落としています。撮影時はカラー写真をイメージしており、今回初めてモノクロ化を試みましたが、どうもね、痛し痒しというところです。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/138.html

★「01カラー原画」。僅かに露出アンダー気味に仕上げました。色鮮やかな紅葉が表現目的ではありませんので、木々の彩度を落としてあります。
★「02デフォルト」は「01カラー原画」を、フランスDxO社のFilmPackというフィルムシミュレーション・ソフトを使ってデフォルト(初期設定)で仕上げたものです。これはぼくの常用ソフトで、画質劣化を最少に抑えることのできる優れものです。
★「03緑フィルター」は、上記ソフトで疑似緑フィルターをかけたもの。
★「04青フィルター」も同様に青フィルターをかけたもの。
★「05黄フィルター」も同様に黄フィルターをかけたもの。
★「06赤フィルター」も同様に赤フィルターをかけたもの。

 各種フィルターでこれ程までに異なる表情が覗えるということがお分かりだと思います。

★「07仕上げ」は、より印象的なものにするために「05黄フィルター」と「06赤フィルター」をレイヤーで重ね、それぞれの美味しい部分だけをいただき、画像を統合。そのうえでメリハリをつけるために部分的なコントラストと明度を調整した後、全体的なコントラストと明度を調整したものです。この作業はPhotoshopの「トーンカーブ」ツールだけで行いました。

 「02デフォルト」、「03緑フィルター」、「04青フィルター」は、どこか立体感に乏しく、また左端の赤く染まった紅葉の葉を1枚1枚補整することはできません。フィルター操作を適切に(自分のイメージに従ってという意)行えばそれぞれの色合いが表現可能となります。
(文:亀山哲郎)

2013/02/08(金)
第137回:モノクローム(7)
“例の”悪友がぼくを嘲弄するかの如く、「かめやまさんのことだから、この“モノクローム連載”は、とどのつまりパイロ現像液だとかアンスコ処方だとか、ガラス乾板の作り方などに行き着くに違いない。そうなるともう“ワンポイントアドバイス”どころではなく、オタク以外には誰も見向きもしない話となり、そういうことをよく認識しなくちゃいけない。いい歳をして暴走しちゃだめだよ」と余計なチャチャを入れてきました。これ実話です。いくらぼくが“我が道を行く”輩であっても、そのくらいは十分にわきまえております。

 ぼくがパイロ現像にはまったのは今からもう40年も昔のことで、アメリカの写真家E. ウェストン(Edward Weston 1886〜1958)の滑らかなグラデーションに魅せられ、「オレも一丁やってみるべぇ」となったからでした。海外の写真雑誌で、ウェストンはパイロ現像液を使っているとの記述があったのです。当時、日本ではその現像主薬となるピロガロールなど市販されておらず(日本は未だ現像やその器具については恐ろしいほどの後進国です)、若かったぼくは全国の化学薬品製造会社に片っ端から電話をかけまくり、担当者から「そんなものを一体何に使うのか?」と怪訝な口調で問われ・・・。こんなことを書き始めると、ヤツの術中にまんまとはまってしまうので、止めておきます。嗚呼、危ないところだった。
 で、この現像液を使うとですね、指の第一関節が真っ黒に変色してなかなか落ちずに・・・。未練がましいなッ、男のくせに。もう止めておけってば!

 しかし、現像液やフィルムの特性、印画紙などなどの使いこなしに明け暮れた(“呆けた”と言った方が正しいかも)お陰で、デジタル時代になってからも自分のモノクロ写真のあり方にはそれほど戸惑わずに済んだような気がします。すでに何度か述べましたが、デジタルはアナログ以上に精緻な暗室コントロールができ、粒状性なども含めて自在さに富んでいます。表現しようとする範囲がぐっと広がりました。少なくとも個人的には、「これぞ文明の利器。利用せずにおくものか」という意志を強固にしたのです。

 今回、もうひとつだけ作例を掲載しておきましょう。

 作例は1988年にフィルム(コダクローム64)で撮ったものですが、未公開写真です。何かが物足りないと感じていたので発表の機会を逸し、今日までしまい込んでいました。ですから作品のクオリティ云々はしないでください。
 場所は世界遺産に登録される以前の中央アジアはウズベキスタンのサマルカンドです。夕方とはいえ強い日差しと高コントラストです。自分の少年時代を彷彿とさせられ撮ったもので、懐かしさが先に立ちイメージが十分に描き切れなかったのかも知れないと思っています。撮られた少年はまったく気づいていません。
 歩道を歩いていると10mほど先に少年が見えました。木に白く塗られた防虫剤がやっかいでしたので(白飛びしてしまうかも知れないという恐れ。元々ポジカラーはネガカラーに比べコントラストが高い)、あらかじめ安全圏をみて露出補正をとっさに-1/2絞りくらいに。フォーカスは固定とし3mくらいにセットした記憶があります。ピント合わせをしていたら気づかれ、目と目が合った写真では少年特有の物憂い佇まいが逃げてしまいます。

 「01カラー原画」はポジフィルムをスキャニングし、少年に目が注がれるようにPhotoshopで草木の彩度を落としています。この写真は当初からカラーをイメージしたもので、モノクロが目的であればその必要はありません。その他、ほとんど操作はしていません。

 このカラー原画をPhotoshopの「白黒」ツールを使いモノクロ化しました。「白黒」ツールで示されるRGB、CMYの数値が「02白黒ツール」です。この数値はカラー写真の各色をどのくらいの明度にするかを示したものです。

 その結果が「03モノクロ変換」です。この画像の不満点は、もちろんぼくの主観ですが、
1. 少年の肌とパンツの質感描写が平坦なため相殺してしまっていること。
2. 樹木に塗られた防虫剤が少年の存在感を薄めている。
3. 道路の光と影のコントラストが弱いため、夏の日差しと写真全体の力が削がれている。この地の乾燥した空気感も不足。
4. 少年の頭と背景をもう少し分離させること。
5. 左上の樹木の描写(トーン)が中途半端で気に入らない。
6. 画面の周辺をわずかに焼き込んで視点を少年に。
7. 顔の明度をわずかに上げる。
 
 以上の不満点を解消しようと試みたのが「04完成」です。補整最後の段階で粒子を加えてあります。

 みなさんのモニターではどのように見えるか分かりませんが、第135回目の作例では柔らかい光を、今回のモノクロはかなり強いコントラストのものを扱っています。それだけにモノクロ化は難しい面があります。

 この少年は今、30過ぎのオヤジになっていることでしょう。元気にしているのかな? この写真を撮った当時、ぼくは40歳でしたが、今は白髪のジジイになりつつあります。あの頃は、写真ってもっと簡単なものだと思っていました。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/137.html


(文:亀山哲郎)

2013/02/01(金)
第136回:モノクローム(6)
 友人の挑発に乗って前回女性のモノクローム作例を掲載しましたが、どうにも腑に落ちない。彼の口車にまんまと乗ってしまったわけではなく、一片でも読者諸賢のお役に立てればというのが本音なのですが、性格のねじれた友人にしてみれば「あいつ、やっぱりおれの指示に従ったな」と含み笑いをしながら言い放つに違いなく、それが癪の種となり、余憤未ださめやらぬということころです。大人げないぼくには、そこが割り切れないというか釈然としません。「道理そこのけ無理が通る」ようで、至って居心地が悪い。
 こう書くとぼくはよほど負けず嫌いなのだろうと誤解されそうですが、事実はまったくそうではないのです。「人は人、自分は自分」を金科玉条のように言い聞かせ、それを一種のささやかで慎ましい美学として捉え、片意地を張って生きてきました。ですから、そんな思いを抱えながら1週間を過ごさなければならなかったことは、なおさらのこと、忌々しいこと限りなしです。

 また、読者からのメール(前号掲載)の行間を“深読み”すれば、「たまにはあんた、手抜きをせずに“ワンポイントアドバイス”も書きなさいよ」と指摘されているようでもあり、含みあるそのお言葉に腹の辺りがチクチクと痛みます。「お言葉に甘えて」というのは、元来、それに従ってしまうと事の多少に関わらず、いくらかでも後味の悪さを必ずや引きずりますよ、という意味なのでしょう。

 後味の悪さを残さないために、前号掲載のカラー原画からモノクロ変換後の補整ポイントとなる点について触れておきましょう。
 掲載写真はかなりリサイズされた画像ですから分かりにくいかも知れませんが、原寸の画像では、カラー原画に比べモノクロの肌の質感がより滑らかになっています。リサイズ画像でも、よく見るとそれがお分かりかと思います。滑らかになってはいますが、解像感は失われていません。
 カラーでもモノクロでも、女性の肌と髪は女性の命とも言うべきものらしく、解像感を失わない程度に滑らかに描写した方が喜ばれます。よく撮影前に「シワもシミも取ってくださいね」と冗談まじりに言われることがあります。過日も世界的に著名なピアニストの方にそう言われたばかりです。一応ここでは「冗談まじりに」と書いておきますが、彼女ばかりでなく女性はすべからく冗談まじりではなく、「本気で」、それも「大真面目に」そう訴えかけておられるように思えます。照れ隠しのために、「本気で言っているわけじゃないのよ」というポーズを必ず同時に取られます。そこに男には察しがたい底知れぬ女心の複雑さを見る思いです。気持ちはお察ししますが、シワもシミも恥ずべきものでなく、それをも含めたすべてがあなた自身でもあり、また人格というか人生の履歴でもあるので、ぼくも頷きながら「できるだけご希望にお応えしましょう」というポーズを取って見せるのです。ここだけの話ですが、それはあくまでポーズであり、ぼくにその気はほとんどないのです。ですが、ぼくは所謂“営業写真館”のカメラマンではないので、できる限り最小限の補整にとどめます。ぼくにだって多少の優しさというものはあるのですが、撮影に求められるものは外見的な美しさではなく、内面を写さなければクライアントがOKしてくれないからです。
 写真の話より、このようなことについて書いた方がずっと楽しいのですが、そうもいきませんので写真に話を戻します。

 前回の作例に限定してお話しすると、カラー原画をモノクロ変換し−−−どのようなトーンに変換するかは主観の問題ですので決まった法則があるわけではなく、一概には言えません−−−、それをPhotoshopのAdobe Bridgeで開き、「明瞭度」というツールを用い、明瞭度を下げれば滑らかな質感が得られます。それをいったんtif形式などで別名保存してから、その画像をPhotoshopでオリジナルの画像と重ね、レイヤーとし、部分的な修正が必要であればレイヤーマスクを作成して不要な部分をブラシで削り取っていくという作業です。

 Adobe Bridgeの「明瞭度」とまったく同じ機能がAdobe Lightroomにもありますし、他のソフトでも同様の機能を有するものがあります。アルゴリズムが異なりますから、当然同じ性質の滑らかさを得られるわけではありませんが、絵柄やイメージに沿ってぼくは何種類かの画像ソフトを適宜使い分けています。作例では肌と湖面の波立ちを同じ滑らかさにするわけにはいかず、滑らかさの異なった画像を作り、重ね合わせてレイヤーマスクで調整してあります。

 そして、さらに大切なこととして扱った部分は、見る人の視点が彼女の顔一点にキュッと注がれるような視覚効果を作り出すことです。そのためには周辺部の明度を落とせば、自然と視点が中心に向くという古来からの人間の心理的・視覚的効果を利用すればいいのです。
 加えて、光の方向性や光質を明確にするために彼女の顔のハイライトを強調し、輪郭をより明瞭にしました。画像全体が柔らかいので、この部分で画像にアクセントをつけ、リズム感を得、引き締めています。それにより顔の立体感も同時に描くことができました。カラーとモノクロの双方を見比べていただければ、その違いは一目瞭然で、ぼくの意図するところをご理解いただけるのではないでしょうか。

 これはほんの一例に過ぎず、写真とは無限と言っていいほど多種多様なシチュエーションがありますから、その都度撮影に際しては明確なイメージを描き、それに応じた表現(暗室作業)を適宜応用しなくてはなりません。そういうぼくも、いつも迷路に入り込み七転八倒しています。「言うは易く行うは難し」ですね。
 嗚呼、今回もやっぱりロシアに行きたくなっちゃったなぁ。
(文:亀山哲郎)

2013/01/25(金)
第135回:モノクローム(5)
 友人から「かめやまさん、あなたがモノクロについて書き出すと本当に20回の連載で収まるの? どう考えてもぼくは無理だと思うがなぁ。無理だ、無理だよ」とのメールが舞い込みました。言外に「おまえは、主張すべきところはしないと気が収まらない質だっていうことをオレはよく知っているからな。ちゃんとお見通しなんだぞ」という脅迫じみたニュアンスが行間にたっぷり含まれているように思えました。彼はカメラマンで、もう40年近くも親しいつき合いなのですが、ここ数年は会う機会がなく、メールのやり取りくらいでご無沙汰しています。今ぼくは彼の挑発に乗るべきかどうかを思案中です。
 続けて彼は、「話は変わるけれど、前回男性の作例を掲載したのだから、“女性の掲載はいろいろ問題がある”などと逃げずに、次回は女性の作例を示して欲しいものだ。そうでないとイマイチ説得力に欠けるんじゃない?」と、どこまでもぼくを執拗に煽ってきます。性格の良くない友人を持つと閉口します。

 読者の方からもメールをいただき、「かめやまさんのお話しは、もはや“ワンポイントアドバイス”という性質のものではなく、とてもハイレベルで、私のような素人にはとても実践に適用できるものではありませんが、知らないことや気のつかなかったことがたくさんあり、またプロの世界を垣間見ることができ、興味深く読んでいます」と、慇懃に遠慮深く述べられていました。
 前者は「やれるものならやってみろ」と挑発的であり、後者は行間などに頓着せずぼくに都合のよい「励まし」と解釈するようにいたしました。「“ワンポイントアドバイス”など気にしなくてもいいよ」と言われているようであり、意を強くしたぼくは、ありがたいお言葉として素直に受け止め、どこまでも前向きに捉えることにいたしました。読者とはありがたいもので、まさに「遠くの親戚より近くの他人」であります。

 しかし、悪友の挑発にひざまずき屈服したわけではないのですが、あくまで読者諸賢へのお役に立てればなにより、という健気な信条に基づいて女性の作例を掲載することに決意いたしました。ホントです。

 掲載の写真選びにはちょっと苦慮しました。掲載写真の人物が日本人であれば許可を得なくてはならず、では外国人ならよかろうと。それも正面写真ではちょっと気まずさもあり、では横顔にしようと。そして、読者のみなさんの学習意欲を削ぐような顔立ちではないこと。それはもちろん美人でなければならず、同じ美人でも「マイタウンさいたま」の格調を重んじ、知的美人でなくてはならないこと。そして、撮影時にモノクロをイメージして撮ったもの。しかもフィルムでなくデジカメで撮ったもの。という厄介な条件を当てはめていくと徐々に的が絞れて、写真選びも意外とスムーズにいきました。
 余談となりますが、雑誌や写真の教則本などで完全に学習意欲を喪失してしまうような妖怪めいた作例モデルの方々に出会うことがよくあります。ぼくなど、思わずパタッと本を閉じてしまいます。そのまま古本屋に直行することさえあります。「この筆者は一体何を考えているのだろう」とぼくはひどく訝ってしまうのです。そうなると書かれていることにも信憑性が持てず不信感ばかりが募ることになります。それが常人としての人情というものです。それは犯罪に近いものがあります。作例としては、それほどの器量良しでなくとも目的は達成できますが、それでもやはり面妖ならぬ妖面(造語ですいません)はないでしょう。ぼくの勝手な思い込みなのでしょうかねぇ。

 さて、作例の写真ですが、場所はロシアの古都ロストフ・ヴェリーキー(偉大なロストフという意)というとても美しい田舎町です。モスクワより北東225kmに位置します。田舎といってもここには湖畔に由緒ある立派なクレムリン(城砦という意)が佇んでいます(「01クレムリン」)。掲載写真の女性との馴れ初め?は拙エッセイ集(NHK出版2009年)に詳述してありますので、ご興味のある方はそちらをお読みください。なお、一言申し添えておくと、ロシアで美人を捜すにはまったく事欠きません。あっちこっち美人だらけのお国です。おまけに人懐っこいし。この国に妖怪などいないといってもいいくらい。

 小さな帆船に同舟し、彼女の背景は湖面です。彼女がカメラを意識しない時に撮っています。メタデータによると2004年9月30日午後4時04分となっています。9月の光とはいえここは北緯57度(日本の最北端稚内は45度)の地であり、その光はどこかおぼろ気で柔らかく頼りない。彼女の服装からも察しがつくようにその光は熱源としての役目を放棄し、物の輪郭を美しく描き出すことに一役買っています。物静かな知的美人を印象的に描くには単色のモノクロでこそその雰囲気が醸せます。撮影前にモノトーンでの十分なイメージトレーニングをして、光の方向と表情を見計らって、たった1枚だけシャッターを切っています。パチパチ・バシャバシャとシャッターを切って、その場の空気をかき乱しては何もなりません。こちらも静かな佇まいを装って、ひっそりといただいた1枚です(「03モノクロ」)。モノクロは粒状性をかけるのがぼくの流儀ですので、絵柄に合わせて軽くかけています。

 デジタル(EOS-1DsをISO100で使用)ですから、原画はカラーです(「02カラー」)。Rawで撮影・現像し、Photoshopで各部位のコントラスト、色調バランス、質感を整え、破綻のないカラー画像に仕上げています。カラーが最終目標ではありませんので、この程度で十分です。その後はモノクロ画像に変換し、イメージに従って慎重かつ入念に暗室作業を施しました。
 しかし、読者のお言葉に甘えて、まったく“ワンポイントアドバイス”になっていませんね。嗚呼、ロシアに行きたくなっちゃったなぁ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/135.html

(文:亀山哲郎)

2013/01/18(金)
第134回:モノクローム(4)
 通常、私たちが生まれた時より最も多く見慣れ、馴染んできたもののひとつに人間の肌があります。そのなかでも特に長い時間見つめてきた部分が顔です。言うまでもないことですが、特定の人を認識する一番確かな部分が顔だからです。足の指を見て人物を特定できる人はよほどのマニアであろうと思われます。かなり偏執的で風変わりな嗜好を持ち合わせていないと、そのような芸当はまずできるものではありません。

 モノクロはカラーを無彩色に置き換えたものですが、ポートレートや人物スナップなどをモノクロ化する時に最も注意を払う事柄は、顔をどのくらいの明度とコントラストに仕上げるかということです。肌(顔の)をどう表現するかという重要な課題は、カラーでもモノクロでも同様なのですが、モノクロは無彩色(単色)なだけに却ってごまかしの効かない部分があります。繰り返しになりますが、モノクロは明度とコントラストですべてを表現しなければならないからです。
 カラーはホワイトバランスと露出さえ合っていれば、取り敢えずはモデルとなった人物の肌色(肌合いも含めて)やその佇まいを表現することができます。なんとか許容範囲に収まってくれるというわけです。カラーが易しいという意味ではなく、カラーにはカラーの難しさがあるのですが、モノクロにはさらに厄介な問題が潜んでいるという意味です。

 一様に人間の肌といっても、人種、年齢、職業、男女の違いや光との兼ね合いなどによってその表現は様々です。この数学的な順列組み合わせは目まいを起こしそうです。欧米の書物などではA.アダムスが理論体系化したゾーン・システム(Zone System)によるところの方法論が紹介されています。日本ではゾーン・システムは欧米ほど一般化されていませんが、撮影からプリントに至るまでの彼のメソードは写真を愛好する人たちにとって大変有意義なものです。
 そのメソードによると、白人の肌に対する露出は反射光式露出計(カメラ内蔵の露出計も反射光式)で顔の明度(輝度)を計り、その露出値より1絞りオーバーに撮ることが一応の指針として示されています。ゾーンV(5)が露出計の示す値(18%中間グレー)ですから、それより露出補正+1絞りのゾーンVI(6)で撮影しなさいという意味です。これが白人の肌の“一応の”基準です。黄色人種である日本人の顔であれば、おおよそ+1/3〜+1/2絞りというとこでしょうか。しかし、これは一応の目安であり、上記した様々な条件に合わせて適宜変更を加えるべきでしょう。ぼくの個人的な見解では、日本人女性の肌色は白人に準じてもいいと思っています。一時流行った「ガングロ」は別として。

※「18%中間グレー」に関しては、第19回:風景を撮る(7)の添付ファイルをご覧ください。

 複雑なゾーン・システムを持ち出さずとも、一般論として女性の顔は明るめに表現した方がいろいろな面で災難が降りかかることが少ないと、長年の経験は教えてくれます。なにかと無難なのであります。コントラストを強くして肌の質感を強調するのも禁物です。画面全体のコントラストを強めたい場合、顔だけは選択範囲を作って避けるか、マスクをかけて影響が及ばぬように。
 そして、もうひとつのポイントは、女性は多くの場合口紅を塗っていますから唇の明度にも気を配ってください。唇(赤系)の明度が濃くなる(濃灰色)につれ厳しい表情になります。画像ソフトやフィルター(青系)などで赤系を濃くしようとすると、顔の赤み(血色)までもが濃く表現されることになり、どんどん恐い顔になっていきます。そんな過ちを犯すとそれこそ恐い顔でどやされることになります。ご用心あれ!
 男性はこの限りではなく、むしろ暗めに(18%グレー前後)表現した方が重みを増すようです。特に大地で仕事をしている年配者、例えばお百姓さんや漁師、林業などに携わっている男衆は、風雪に打たれた力強さがありますから、コントラストを上げてシワを強調するのもひとつの表現方法です。

 非常に大雑把な解説ですが、このようにモノクロは無彩色の濃淡で表情を描き出す、謂わば非現実の世界です。カラーより色濃いフィクションであるからこそ、人はそこにリアリティを感じ、時には愁いや懐旧の念にかられ、感情を大きく揺さぶられるという面を持っています。文学も映画もしかりです。フィクションの世界に遊ぶ愉しみと妙味妙趣をどうぞ味わってください。

 作例をいくつか添付しようと思ったのですが、今回の議題が顔であるために肖像権の問題をも含めて、恐い顔に変貌した女性をネット配信するには忍びなく、差し障りがないであろうと思われるものを1点だけご紹介するにとどめます。悪しからずご了承ください。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/134.html

「カラー原画」のデータ。フィルム:コダック社のコダクローム200。感度ISO200。カメラ:ライカM4。レンズ:ライカ・ズミクロン90mm F2.0。撮影場所・日時:アゼルバイジャン共和国バクー。1990年。フィルムスキャナーでデジタル化。
「モノクロ化」。Photoshop 「色相・彩度」ツールの「マスター」で一旦全色無彩色化し、その後各色の「明度」を調整。それだけではメリハリがないので、部分的に「トーンカーブ」ツールで微調整。
(文:亀山哲郎)

2013/01/11(金)
第133回:モノクローム(3)
 より良いモノクロ写真を撮るためには、撮影時にモノクロをイメージして撮らないとなかなか思うに任せないと前回述べましたが、考えて見ればカラーを不自然な無彩色に(色抜きをして)デフォルメしたものがモノクロですから、道理と言えば道理であるような気がします。自然界のものはすべて人間の視覚認識ではカラーですから、それを純黒から純白までの無段階の無彩色で表現すること自体がすでに虚構の世界であるとも言えます。
 モノクロに対する人間の心理学的分析はぼくにはできませんが、カラー写真が定常化した現在でもモノクロは廃れることなく、一部の愛好家にはなくてはならぬ表現手法となっています。モノクロは人間の目が捉えたカラーの世界とは異なる情趣を描くことができ、より強い印象を与える作用があるからでしょう。また、心情的にはより高い芸術性をそこはかとなく感じさせる面があることも確かです。かく言うぼくも、現在に至るまでモノクロなしに自身の作品の成り立ちはあり得ませんでした。非現実であるが故に、美の際立ちをことさらに強く感じ取っているからです。

 デジタル全盛となった今、モノクロはさらに饒舌で精緻な表現形態となったようにぼくは感じています。アナログの暗室作業には様々な制約と限界があったように思いますが、デジタルではそのような障壁が取り払われ、スキルを身につければ「出来ないことは何もない」とさえ思えるくらい広範囲にわたっての表現が可能です。描いたイメージをより深く、細かく執拗に追求できるので、ぼくのようなタイプの人間にはデジタルはうってつけなのかも知れません。ただ、「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、その警戒心を怠ってはならないと常に言い聞かせています。
 何でもできてしまうので、ほどほどのところに留めておく勇気を持たないと禁断の地に足を踏み入れてしまい、作品の品位を落としてしまうことになりかねません。最小限の補正で最大限の効果を得るのが最も良質なデータを得る秘訣です。

 デジタルのカラー原画を良質なモノクロにするためのポイントをいくつか挙げておきます。
 モノクロといえども、カラーの段階でできる限り良質なデータに仕上げることが肝心。Rawで撮影を行い、Raw現像時に可能な限りホワイトバランス、色かぶり補正、露光量、コントラスト、彩度などの調整を追い込み、破綻のないカラー画像に仕上げることが第一。その際、カラー画像は8bitではなく16bitで。
 話が前後しますが、撮影時には白飛び、黒つぶれのないように露出補正を慎重に行う必要があります。撮影データをカメラのヒストグラムで確認すれば判明します。被写体の輝度域が広過ぎてどちらかを犠牲にしなければならない場合は、イメージにもよりますが、基本的には白飛びを防ぐこと。つまりハイライト基準の露出です。
 16bitで生成されたカラー画像(代表的な画像形式はTIFFなどで、使用頻度の高いJPEGは8bitです。JPEGでのモノクロ変換はお薦めできません)をモノクロ変換するわけですが、変換時にどうしても画像の劣化をきたしてしまいます。トーンジャンプを含めた画像劣化を最小限に止めるためには16bitで作業するのがベストです。ただ、強引な補正をしてしまってはいくら16bitであっても、元も子もなくなります。
 ここまでが、ざっとですがモノクロ変換に必要な手続きです。


※ここでいう8bitとは2の8乗=256で、RGBがそれぞれ256色で成り立っていることを表す。同様に16bitは2の16乗=65,536色。TIFF形式は可逆圧縮法と呼ばれ、保存を繰り返しても基本的に画質劣化を招かない。JPEGは非可逆圧縮法で、保存を繰り返すほど画質が劣化する。


 アナログのモノクロは単一の色調ではなく、現像液や印画紙を使い分けることにより、例えば純黒調、温黒調、冷黒調などいくつかの色調を選ぶことができますが、デジタルでもそれを再現して楽しむことができます。セピア調などはその最たるものでしょう。セピアの語源は「イカ墨」という意味らしく、褐色もしくは茶色を指すのだそうです。昔は写真用のインクにも用いられたのだそうですが、現在では古く色褪せたモノクロ写真の色調を表していると考えるのが一般的です。なぜ古い写真がセピア色になるかという理由は省きますが、経年変化による退色・変色を避けるための処方(アーカイバル処理)を施したものは、40年の時を経ても(ぼくが24歳の時に施したものなど)何の変化もなく、未だ瑞々しさを保っています。
 個人的にはセピア調は嫌いではありませんが、作品にそれを用いることはありません。
 今日はちょっと遊び心というか悪戯心を出して、「おじいちゃんの遺品のなかからこんな古い写真が出てきた」というノスタルジックな演出をしてみました。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/133.html

「原画01」の写真データ。フィルム:コダック社のコダクローム64。感度ISO64。カメラ:ライカM4、レンズ:ライカ・ズミルックス35mm F1.4。撮影場所・日時:エストニア共和国タリン。1989年。このポジフィルムをフィルムスキャナーでデジタル化。

「退色セピア02」。Photoshopでモノクロ化し、セピア色のフィルターをかけ、周辺部を明るくし、最後に粒状をかけてあります。
(文:亀山哲郎)