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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2013/11/22(金)
第176回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(1)
 前回、「ありがたや、ズームレンズ!」と題してお話をしました。ちょっと身内の話になり恐縮なのですが、予想に違わずうちの写真倶楽部の人たちから不条理なクレームが相次ぎました。論旨は異口同音、口を尖らせて「私たちには“ズームを使うな”って口癖のようにいってるくせに、自分は“ありがたや”なんていいながら使っている。うちの指導者はまったく勝手なんだから。いい気なもんだわ!」と、収まりがつかぬようでした。
 ぼくは口を尖らすことなく、穏やかながらも厳しく「ズームレンズは不精者のためにあるのではない。不精者が使うといつまで経っても上達しないから、不精者の道具としてはひどく不適切なもの。指導者としては非常に正しく、まともなことをいっているに過ぎない。道具を使いこなすってのはね、道具の機能や性格を熟知し、機を見て使い分け、自分の手足のような感覚で操ること。それができるようになれば“ズームほどありがたく、便利なものはない”とぼくはいっているのだ。したがって、“ぼくはいい”となる」と三段論法を駆使し、“不精者”を強調しながら反駁の余地が寸分もないように言い含めたのでした。屁理屈には正論で対抗しなければなりませんからね。
 ぼくが「ズームレンズはできるだけ使用を控えるように」といっても、うちの“ほとんど”の人たちは馬耳東風、糠に釘で、ものぐさを決め込んでいます。糠に釘を打つのは極めて難儀な行為です。しかし、一応指導者もどきはそれらしく彼らを正していく義務感に駆られます。こんな理不尽な責め苦を負わされると、人は性格が歪んでいくものです。しかたなく、大技小技、あの手この手を繰り出すようになり、畢竟ぼくもどんどん悪賢くなっていきます。性格がよじれていくのは悲しみの極みですが、これもぼくの熱意の発露ですから致し方ないことだと悟っています。人の性格は、相手次第という面が多々あります。責任転嫁は人間の本能です。
 “ほとんど”は“全員”という意味でないことも、クレームが再燃しないようにいっておかないと。ぼくはこれでもけっこう気を遣い、大変なのです。ぼくの文言に律儀に従い、単レンズの心地よさに開眼した人もいますから、その人たちの名誉のためにも付記しておかなければなりません。しかし、このような甘言を弄していると、「この倶楽部は先生がエライのではなく、生徒がエラ〜イのよねぇ〜。そうよ、そうよ」などと頷き合いながら豪語する者が後を絶たないこともついでに付記しておきます。

 こんな輩を引き連れて、再び福島県の「立ち入り禁止区域」を訪ねました。11月8日〜12日までの4泊5日の旅でした。「この期間、ぼくは南相馬市のホテルに投宿しているので、来たい人は都合をみていつ来てもよろしい。ただし、場所が場所だけに、自身の合意をしっかり取り付けてから来ること」と彼らに申し伝えました。自身の合意とは、放射線被曝は足し算ですから、累積被曝量を自分がどこまで許容するかということです。
 「立ち入り禁止区域」の各自治体の許可を得るために、趣意書や訪問者の氏名、車種、ナンバーなどをあらかじめ申請する必要があります。人を連れて行く身となれば、放射線線量計(サーベイメーターとガイガーカウンター)や防護服などなどの手配で、事前の準備にかなりの時間を取られました。
 ぼくは今年6月に一度訪問していますから(第154回〜165回:「立ち入り禁止区域を訪ねる」を12回にわたって連載)、おおよその勝手と要領を知っていますが、今回は全員初めての人たちですから、前もってぼくの知り得る限りの注意事項をかなり執拗にメールで説いて回りました。なにしろ「糠に釘」の人たちですのでね。

 当初、誰もが仕事を持っていますから、無理を押してでも来られる人たちは多くても3、4人だろうと踏んでいたのですが、7人も希望者が集ったことはぼくにとってまったく意外な出来事で、それこそ想定外でした。それだけ彼の地には関心が強いということなのでしょう。
 震災と原発事故の悲劇は、日を追うにつれ人々の記憶から遠ざかり、薄れていくような気がしていましたが、「糠に釘」の人々も、写真を愛好する者として何かしらの使命感に突き動かされたに違いありません。撮影とは、ある事象に関心を持ち、惹かれ、行動することですから、それは何かの“目的ではなく”、自身の必然に導かれてというのが順正な言い方です。
 今回の「立ち入り禁止区域」の写真は、来年グループで発表することがすでに決まっています。福島行きが決定してから写真展の依頼がありましたので、写真展が“目的ではなく”、福島行きは自己の必然性からといえます。
 人類が初めて経験するような究極の場にあって、自身を含めたさまざまなことに思いを馳せ、そのありようを問い直す希有な機会と捉えたのかも知れません。非日常を超越する凄絶そのものの非現的世界に身を置くことで、強く濃密な年輪を形成できるとの自覚は、無難さからは何も生み出すことができないというぼくの信条に合致するものであり、「糠に釘」の人々もなかなか捨てたものではありません。

 多くの方々からご要望をいただき(ありがとうございます)、次回からその行状記の回を重ねたいと思っています。帰京後、1週間経ってやっと福島で撮影したものに目を通せたテイタラクでして、なんとか現像を間に合わせるよう精進いたします、はい。
(文:亀山哲郎)

2013/11/15(金)
第175回:ありがたや、ズームレンズ!
 今日は(11月14日)は「埼玉県民の日」だったのですね。もう半世紀以上、埼玉県にお世話になっているのに、この日が全体どういう日なのかもさっぱり分からない根無し草のぼくであります。かといって、幼少時代を過ごした生地京都市に特別な思いを抱いているわけでもなく、ぼくは根っからの風来坊的気質を有しているようです。「住めば都」といいますから、自分の住み慣れた土地に無関心を装っているだけなのかなとも思うのですが、それでも特別な思い入れはないようです。生地は自分で選びようがありませんが、死に場所は選べる確率が高いわけですから、少しでも居心地の良いところを見つけたいものです。
 ぼくの住んでいるさいたま市中央区(といっても浦和区に入り込んだような場所ですが)は、海も山もなく、これといった特色もありませんが、居心地はそう悪くない。平穏無事というか静かで便利な土地柄です。
 まぁ、死に場所は海外も含めて、どこでもよろしい、というのがぼくの本音かな。

 話は少し横道に逸れますが、海外旅行に行くのであれば、言葉もさっぱり分からない、生活習慣もまったく異なる所こそ、本当の旅の面白さに出会えるとぼくは信じ、そういう所に勇んで旅立っていますから(もちろん1人で)、想い出もそのような所のほうが圧倒的に印象深く、またいつまでも心に残っています。地球は狭くなったとはいえ、まだまだそういう所はたくさんあるようですから、同じ死ぬなら海外で“のたれ死に”のほうがぼくはいい。

 閑話休題。
 なぜ、今日が「埼玉県民の日」だと知ったかというと、埼玉県庁から仕事の依頼があり、埼玉会館に出かけたからでした。「県民の日コンサート−−生活の一部にクラシック音楽を−−」と題する演奏会の撮影でした。この撮影依頼がなければ、ぼくは「県民の日」を知らずに過ごしていたでしょう。
 久しぶりに聴くオーケストラの響きはとても心地の良いものでした。といっても、リハーサル時は舞台裏、舞台、客席を走り回り、本番では曲の終わる度に聴衆に迷惑をかけぬように客席の最上階から舞台近くまで駆け下り、中腰でバシバシとシャッターを切るわけですから、そりゃ〜もう、ヘトヘトになりました。おまけに集合写真まで撮るはめとなり(ぼくは営業写真館の受け持つような撮影は専門外なので、人の並べ方など要領が悪い)、慣れぬ手さばきながらも、「ワン・ツー・スリーのタイミングでシャッター切りますから、みなさん、その間だけ目つぶり我慢してくださいね」とか「あぁ、みんな硬いなぁ。もっとリラックスして。でも、“ピースサイン”なんてしないでよ」とか、口八丁手八丁でなんとか乗り切りました。
 オーケストラの演奏会の撮影は過去何度も経験していますが、相当体力を消耗します。なにしろ多勢に無勢ですから。その消耗を最大限に抑えて、というより救ってくれるのがズームレンズです。こんなありがたいものは世界広しといえども、そんじょそこらにはありません。普段、他人には「ズームレンズなんて百害あって一利なしだから、極力使わないように!」とぼくは信念を持って執拗にそう言い放つのですが、でもぼくはいい。文明の利器は最大限に利用してこそ現代人なんですから。「他人に厳しく、自分に甘い」わけではありません。ここのところ、どうぞ勘違いをなさらぬように。
 焦点距離によるパース(遠近感)や解像度を体に染み込ませ、ズームで引いたり、寄ったりぼくはしないからです。ズームレンズの焦点距離をあらかじめ決めておいて、そのうえで自分が動くのですから、原理的には単焦点レンズと変わりはありません。レンズ交換をするより自分が動いた方がはるかに速く、シャッターチャンスを逃すことからも免れやすいからです。それがズームレンズの本来の使い方であり、使いこなしだとぼくは思っています。

 ズームレンズは単焦点レンズに比べるとどうしても歪曲収差(第75回:「単焦点レンズとズームレンズ」を作例とともにご参照ください)が目立ちます。これは気味の悪い妖怪のようなものですが、使用ソフトがそのレンズに対応していればワンクリックで補正できるものがあります。アルゴリズムが優秀になり、以前ほど画質の劣化をさせず、安心して使えるようになってきたのはとても喜ばしいことです。

 そして、コンサートホールに於ける大敵はその暗さです。ズームレンズは通常単焦点レンズより開放F値が暗いので不利です。それを補うためにはどうしてもISO感度を上げることになります。指揮者のタクトはブレてもいいが、顔がブレてはまずい。もちろん手ブレは御法度。絞り優先で、ISO感度を頻繁に変えながら(これもデジタル最大の武器)、ぼくの右手3本指は休むことなく5時間も酷使され続けました。感度を上げていくと然るべくしてノイズが発生しますが(ノイズについては「第109回:ISO感度について」を作例とともにご参照ください)、こちらも最近は優れたノイズリダクションのついたソフトが市場に登場してきましたので、比較的高感度が使えるようになりました。最新のソフトをダウンロードして試してみたのですが、ノイズを減じる副作用として解像度が犠牲にされがちな点が、かなり改良されています。ただし、非常に複雑な計算をしているためか、Raw現像が1枚につき数分かかります。画質劣化を抑制してくれるこの機能と安心感、「時は金なり」か「量より質」を取るかは個人の自由です。
 今日の撮影はやむなくISO 800まで使いましたが、この最新ソフトでちょっとニンマリ。
(文:亀山哲郎)

2013/11/08(金)
第174回:私的与太話
 時々、いや非常にしばしば、この拙稿は誰に向けて書いているのだろうかとの思いに囚われます。いつも首をかしげながら、もう3年半も図々しく書き続けている。ぼくはいつからこんな厚かましいことを臆面もなくするようになってしまったのだろうかと、忸怩たる思いです。
 おぼろげな記憶を辿っていくと、連載を始めた頃には、読者諸兄の顔を思い浮かべながら「写真よもやま話」のタイトルに恥じぬ?ように、多少は何かのお役に立てるかも知れないと思えるようなことを、つまり教則本的なことを、それらしく書いていたような気がします。読み返してみれば、“気がする”のかそうでないのかが分かるのですが、ぼくは分別がありますから自分の書いたものを二度も読み返すことなど、余程の必要に迫られない限りしません。
 この連載を除けば、ぼくの書いてきた原稿は今まですべてが印刷媒体でしたから、まだインクの香りのするうちに、誤植がないかを一度だけ調べるに過ぎず、それ以降は読み返すなどという勇猛剛健さは今日まで持ち合わせていないのです。読み返せば冷や汗と脂汗にまみれることを知っていますから、それが嫌なのです。自分の分身と顔を付き合わすなんて、恥の繰り返しで、とても耐えられるものではありません。ぼくにとって、文章とはそういうものなのでしょう。それは多分、文章の技術や思想の稚拙さによるものであります。
 鏡や写真で自分の顔を、レコーダーで自分の声を、またお喋りをした自分の言葉を思い返すとゾッとして、その恥ずかしさに所在を失い、いたたまれなくなります。生き恥を曝すとはまさにこのことでしょう。ぼくはシャイなのです。

 しかし、写真はそうでもない。稚拙な写真を山ほど撮っていますが(その数たるや天文学的数字です)、文章とは異なり恥じらいを知らない。恥じないので、写真の良し悪しに関わらず、昔撮ったものでも、隙あらば磨けるものは磨いてやろうと引っ張り出すことがあります。特にイメージ通りに撮れた写真は、暗室作業の手を緩めない。
 ただそれは、以前にも述べたことがありますが、暗室作業で何かを発見しようとするものではありません。ダメな写真はいくら暗室作業を労しても、いかんともし難いものです。
 多少なりとも気に入った写真に執拗な暗室作業を繰り返すのは、現代の暗室道具の代表格であるPhotoshopが、日々進化を遂げているからです。使いこなせば撮影時のイメージ追求をかなりの精度で追い込めるということが大きな要因です。

 写真には「正解」というものがあるとぼくは信じています。誰でも初めから審美を見分ける目や心を持っているわけではありませんし、かく言うぼくもまだまだ途上人ですから、審美を語る資格があるとは考えていませんが、自ら信ずるところはあります。
 世の中には誰もが良いと感じる写真があることは事実ですし、また売れる(売りやすい)写真というものもありますが、しかし、それが即ち良い写真かというと必ずしもそうではありません。美しいものを美しく写すというのも良い写真のひとつの定義であることは認めますが、それ以前に撮影者の姿形、その佇まいが見えてこないといけない。作品に体重がしっかりかかっていなければなりません。

 森羅万象の美しさ、その美を素直に感じ取り、そして感動するところから理想の創造が生まれるわけですから、素直でないと理想のものが描けない(写せない)のです。「あの人はセンスがいい」とか「センスがない」という言葉をよく耳にしますが、それは言い換えれば、その人の心が素直であるかないかの違いです。また、「センス」とは、知識と経験の重層によって培われるものであって、それを先天的なものだとするのは偉大な虚偽と単なる責任逃れです。自己逃避といってもいい。
 誰も見たことのないような世界(虚構の世界)を表現し、写し出すことが写真本来の醍醐味であるわけですが、人間は自身の培ってきた知識や経験による思念に束縛され、なかなかそれを振り払うことができません。だからこそ、そこで今起こりつつある現実に正対し、実体験に挑むパワーが必要で、そうでないと堂々巡りとなり、少しも前に進めない。堂々巡りをしていると新しいものを取り込む力がどんどん失われていきます。新鮮な刺激を感じる体力が弱ってしまうのです。自戒を込めていつもそう自身に言い聞かせています。ぼくは、新鮮な刺激を得る方法をいくつか見出していますが、そのひとつは良書の熟読と内容への凝視、そしてまた、造化の過程を素直に見据えることです。

 高邁な理想を掲げることは大切なことですが、そこに至る道筋や、そしてまた辿り着くまでには人間臭紛々とした汚れのようなもの、誰でもが心内に宿すどろどろしたものを容認し、しっかり自覚しておかないと写真が浮ついたもの(見かけ上だけのもの)になってしまいます。写真ってそういうものが如実に浮かび上がってくるので、毎度お話しするように恐いんですよね。
 昨今は誰にでも写真が撮れるようになりました。写真が広く行き渡り、何でも簡単に記録したり、想い出の記念として写せることは良いことだと素直に認めますが、何事も功罪相半ばですから、手放しで喜べるようなものではありません。
 いくら科学が発達しても、自分の写したいものがカメラのなかにあるわけではありません。今思い返すとぼくの拙稿は、それを訴えたいがために、回を重ねているようにも思えます。

 今回は能書きばかり並べ立てましたので、ぼくの家の近辺での日常を撮ったものを、能書きのわりには大したものではありませんが掲載します。ぼくの撮るほとんどの写真は街中の人物スナップなので、それもかなり人物の顔がはっきり写っており、そうでないものを選びました。恥ずかしげもなく、です。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/174.html

★「01」:EOS-1DsIII。アンセル・アダムスの『月とハーフ・ドーム』に倣って。さいたま市中央区。撮影時に偏光フィルターをかけ、モノクロ変換時に疑似赤フィルターを。データ: EOS-1DsIII。EF50mm F1.8II。絞りf8.0。1/500秒。露出補正ノーマル。ISO 100。

★「02」:日没寸前のどしゃ降りのなか、車から降り、走ってくるバイクを正面から。さいたま市見沼区。データ: Fuji Fine Pix X100。レンズ焦点距離35mm (35mm換算)。絞りf3.2。1/70秒。露出補正-1.33。ISO 640。

★「03」:逆光のなか遊ぶ子供がジャンプするタイミングを計って。さいたま市浦和区。データ: EOS-1DsIII。EF50mm F1.8II。絞りf9.0。1/400秒。露出補正-0.33。ISO 200。
(文:亀山哲郎)

2013/11/01(金)
第173回:接写(5)
 「接写」について思いつくままに述べてきました。「接写」の面白さは、前回に少し触れましたが、肉眼ではついつい見逃してしまいそうなものを「接写」をすることにより、いろいろな発見の機会に恵まれることにあります。
 デジタル写真は、PCのモニターで細部を拡大表示ができますが、「接写」はそれとは撮影目的が根本的に異なります。PCモニターでの拡大は、すでに撮影されたものの拡大ですが、「接写」は撮影の時点ですでにファインダーなりカメラの液晶モニターで、大きく引き伸ばされ、当初から高倍率に撮影するものです。また、当然のことながら、物理的な面でも通常撮影の拡大表示とは精度が大きく異なります。飛んでいるトンボをいくらPCモニターで拡大しても、触覚や複眼まできれいに写し取ることはできませんが、「接写」なら鮮明に描写することができます。動くものの「接写」はかなりの困難さを伴いますが、これはひとつの例え話です。精密な構造や質感を伺い知ることができるという意味で、「接写」は通常の撮影とは異なる世界を垣間見ることができるということです。いわばルーペで覗き見るに似ています。

 昔、国立科学博物館で、標本として収蔵されている生物(主に昆虫や節足動物)の「接写」をしたことがあります。蝉の複眼や蜘蛛の口、蝶のゼンマイのような口吻など様々なものを朝から晩まで2週間ほど缶詰状態で撮影しました。撮影しながらいつも口をついて出た言葉が、「オッ、これはまるでエイリアンだ」と、感嘆ばかりしていた記憶があります。当時はもちろんフィルムでしたから、今手元にありませんが、衝撃と感動の連続でした。
 普段身近にいる(ある)ものが、実はこんなに複雑怪奇で、精密で、美しく、またグロテスクで、素晴らしい機能美を有していることに気づいたのでした。神の与え賜うた物の見事さに仰天したものです。人間の作り出したものも、時に素晴らしいものがありますが、生命の奏でる精緻な仕組みと構造的な機能美に於いて、神の創造物に敵うものはありません。「接写」は、そんな気づきをたくさん与えてくれました。「叶わぬ時の神頼み」っていうじゃありませんか。あれっ、ちょっと違うかな。

 またまた昔の話になりますが、20数年前にモンゴルで遊牧民と数日間ゲル(移動式組み立てテント)で生活し、そこでぼくは生きたサソリと初めての対面を果たしました。砂漠にゲルを張る時に、石ころを退(の)けるのですが、その下にサソリがいたのです。寝ている間にサソリに刺されないように、周辺の石を退けてサソリを駆除するわけです。捕獲したサソリは、箸でつままれて煮立った油の中に放り込まれ、遊牧民の貴重なタンパク源となる。なるほど感覚的にはエビの唐揚げのようで、味は悪くない。しかし、サソリの姿形にすっかり魅了され、「こんなに恰好のいい、プロポーションの美しい生き物は他にいない。神の創造はすごいものだと」と、感心しきりでした。まったく惚れ惚れとしたものです。
 ぼくは咄嗟に、生きたサソリを「接写」しようと思ったのです。素朴そのものの遊牧民のおっちゃんが、「刺されたら死ぬぞ!」とモンゴル訛りの怪しげなロシア語で脅しをかけてきました。当時モンゴルは独立した社会主義国でしたが、ソ連邦(15の共和国で構成)の16番目の共和国といわれていた時代です。
 サソリに無知だったぼくは脅迫的な「死ぬぞ」という言葉に怯え、接近戦に挑まず、少し遠慮がちな距離から撮ったのでした。

 「接写」は、接近戦になればなるほど被写界深度がどんどん浅くなりますから、パンフォーカスで撮りたい時に最小絞り(f値の大きなもの。f22とかf32など)でも追いつかない場合があります。ではどうすればいいのか? もうお気づきかも知れませんが、少しカメラを引いて、遠慮がちな距離を取ればいいのです。撮影倍率は多少低くなりますが、被写体のすべてにピントを合わせたいという時に、最も理に適った方法です。被写体の奥行きにもよりますが、f22まで絞った時には、このくらいの距離であればこの範囲にピントがくる、という経験則を、「接写」の達人になりたいのであれば、学んでおかなければなりません。
 レンズにより最小絞り値は異なりますが、深い被写界深度が欲しいからといってむやみに最小絞りを使うのは、回折現象により解像度が低下するのであまりお勧めできません。目一杯絞り込んでしまうというのははしたなくもあり、あまりに無遠慮というものです。ですから、最小絞りより1絞り開けたところまでと心得た方がなにかと安全であり、奥ゆかしくもあります。

 後に知ったことですが、ほとんどのサソリは人を死に至らしめるほどの毒ではないそうです。致命的な毒を持つものは極々少数派なのだそうです。モンゴルのものは、この極々少数派の優れものであったのかは、今となっては不明です。写真屋はカメラを手にすると、傍若無人の眼中人無し、恐いもの知らず、「君子、お構いなく危うきに近寄っちゃう」であることをぼくはよくよく自覚しつつ、ほどほどの遠慮を示したのは恐怖心からではなく、理性の成せる技であったと。モンゴルのサソリは猛毒の持ち主だったのだと思いたいですね。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/173.html

★「01真空管」: EOS-1DsIII。マクロEF100mm F2.8 USM。F14.0、1.6秒。露出補正+1。ISO 100。オーディオの好きだったぼくはかつて秋葉原通いをし、たくさんのアンプを作ったものです。これは既成のアンプですが、美しさに惹かれ遊び心で撮影。室内光。

★「02腐りゆく花」:Sigma DP2にクローズアップレンズをかけて。F9.0、1/40秒、ISO 100。露出補正-0.67。太陽光。腐りゆく花の色と姿に魅せられて。

★「03水滴」:Fuji Fine Pix X100の設定を“チューリップ・マーク”にして。
F3.2、1/220秒。露出補正-0.33。ISO 200。喫茶店内に射し込む夕陽のなかで。
(文:亀山哲郎)

2013/10/25(金)
第172回:接写(4)
 この連載で過去何度か述べたことでもあるのですが、ぼくの言い草は「写真は真を写さない」です。撮影者の真実はいつの場合も的確に描写しますが、物体や情景の真実を写すわけではないと思っています。真実の定義がなされていないので、異論の生じるところではありますが、写真は色も形も肉眼とはまるで異なる世界です。ではなぜ「真を写す」と書いて「写真」とするのかは、外来語であるPhotograph(photo は“光の”、graphは“描く”という意味だそうで、それをつないだ造語)をどう翻訳するか弱り果てた中国人が「写真」としたという記述をどこかで読んだことがあります。中国語では「真を写す」ことを「写真」と表現するのだとか。言葉の由来はこの際どうでもいいとして、それがいつ頃から日本で定着したのか知りませんが、ぼくの信念からその語彙は常に真っ向から対立していることは事実です。感覚的には「写真は光で描くもの」とぼくは捉えていますから、「光画」としたいくらいです。「写真展」などとせず「光画展」としたほうが、ずっと嘘偽りがなく、かつ文学的でありましょう? 来年のグループ展、個展はすべて「光画展」で通そうと思っています。

 ちなみに「写真」を広辞苑で引いてみると、言葉の起源は書いてありませんが、「ありのままを写しとること。写生。写実。物体の像、または電磁波・粒子線のパターンを、物理的・化学的手段により、フィルム・紙などの上に目に見える形として記録すること」とあります。「ありのまま」なのだそうです。ちなみのちなみに(変な言葉!)、「ありのまま」を引いてみると(しつこいな!)、「あるとおり。事実のまま。あるがまま。ありてい」とあります。
 広辞苑には毎日といってもいいほどお世話になっているので、あまり非難めいたことはいいたくないのですが、少しだけ肩入れしてみるに、「あたかも“ありのまま”と人が錯覚するような記録方式」とでも改訂して欲しいと思っています。もうひとつ肩入れしておくと、「写生」という解釈は正しかも知れない。ぼくの嫌いな英語では、「写真」は一般的に「ピクチャー」といいますから、「写真」も「絵画」も同じ考え方で扱うのがやはり自然なように思います。「絵画」より「写真」のほうが写実という点で勝っていると考えるのは、あまりに短絡に過ぎやしないかと思います。
 余談ですが、以前登場願ったJ君は、再び福島県の立ち入り禁止区域に詣でました。放射線は電磁波ですから、広辞苑のいうように何らかの痕跡をフィルムに残すに違いなく、今回彼は撮影の他にフィルムをビニールに包んで高線量地の軒下に埋めてきたといっていました。ぼくは来月にその地域を再訪するので、掘り起こしてこいと命じられています。

 人は、三次元のものを肉眼を通して脳に伝達し、形や色を認識するわけですから、メカニズムの異なったものが形成する二次元の世界が同じであるはずがありません。「写し取る」ことはあっても、それはやはり「それらしく見える」という範疇の錯覚に過ぎません。

 しかし「接写」をすると、大倍率でなくとも思わぬ発見に出会うことがしばしばあります。普段、肉眼が見逃していたものや見えなかったものが、突然視界に飛び込んでくる面白さがあります。人は物を見る時に、そこまで観察が行き届いていないということを実感させられるのです。時に現実より生々しく、時に幻想的でもあり、美しく、また醜くもあり、マクロの世界は物事の真理を大局的に捉える偉大な助っ人であるとぼくは感じます。それは顕正(けんしょう)の極みであり、至正至公にして「毫(ごう)も憾(うら)むるところなし」(つゆほども疑う余地がない)を痛感させられます。
 「木を見て森を見ず」とは、戒めの意味でよく使われますが、逆に「一葉を見ずして森を語ることなかれ」とぼくはいいたいのです。「接写」とは、「見て写す」ことの本質を如実に表す撮影行為だと考えています。

 今回は「接写リング」を使い、参考画像を作ってみました。「接写リング」の詳しい光学的理論は省略しますが、簡単にいってしまうと、レンズとカメラボディの間に空洞のリングを挟み、レンズの繰り出し量を実質的に増大させ撮影倍率を高くする手法です。「接写リング」は長さの固定されたものとズームレンズのように可変のものがあります。固定式は何種類かの長さのものが用意されており、用途によって(長い方がより高倍率となる)使い分けるようにします。
 注意していただきたいことは、空洞のリングを装着するわけですから、レンズとボディの電気的な連結が断たれてしまうことになります。オートフォーカスや絞り羽の調整ができなくなってしまうので、連結機能のついたものを選択することが肝心です。純正品であれば連結機能がついていますから事なきを得ますが、他社製品でも「〜用」と銘打ってあればまず大丈夫でしょう。購入の際は、「接写リング」を装着してもカメラの機能が従来通り使用できるかどうか確かめてください。また、純正でもレンズにより使用できないものがあるので、ご注意のほどを。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/172.html

★「01接写リング」:EOS-1DsIII、マクロEF100mm F2.8 USM。絞りf14、1.6秒。露出補正+0.67。ISO 100。室内の蛍光灯1灯で、三脚使用。厚さ12mmのリングで、金メッキを施した8つの電子接点により、ボディに情報を伝達。

★「02」:標準レンズ50mmを使い、最短距離45cmで撮影。チェスのキングは高さ10cm。ピントはキングの左目に合わせてあります。EOS-1DsIII、EF50mm F1.8II。絞りf5.6、0.4秒。露出補正+0.33。ISO 100。室内の蛍光灯1灯で、三脚使用。

★「03接写リング」:EF50mm F1.8II + 接写リング。最短でここまで寄れる(高倍率になる)。f5.0まで絞るとキングの両眼にピントがきています。
露出補正+0.33。ISO 100。室内の蛍光灯1灯で、三脚使用。

★「04接写リング」: 撮影条件は「03接写リング」と同じ。絞りだけを変え、f2.0に。この浅い被写界深度ではキングの右目がすでに被写界深度から外れ、ボケています。ピンポイントにだけピントを合わせ、他をぼかす方法としてよく使われます。このように柔らかい描写となります。

★「05繊維」:私的写真で「接写リング」を使った写真がほとんどなく、探すのに苦労しました。仕事の休憩中に表に出て撮ったもので、植物の名称はよく分かりませんが、葉脈が面白かったので。たまたま付けていたレンズに接写リングを装着。実物はこんな風にはまるで見えません。
EOS-1DsIII、EF85mm F1.2L USM + 接写リング。絞りf11、1/125秒、ISO100。露出補正-1.33。太陽光、手持ち。
(文:亀山哲郎)

2013/10/18(金)
第171回:接写(3)
 仕事以外に普段一眼レフカメラやマクロレンズを持ち出すことはほとんどありません。気の趣くままの街中スナップが主たるものですから、したがって接写での撮影をする機会にありつくことがなかなかないのです。たまに、喫茶店で自分の吸った煙草の吸い殻やグラスについた水滴にうっとりし撮るくらいです。灰皿やグラスを都合の良いところに移動させたりして、脚色や演出を施すのは嫌な質ですから、自身が動きながら光の方向を見極めようとするので、他人が見ると「あの人、一体何やってるのだろう?」と怪しまれることが年に2,3度くらいあります。せいぜいそのくらいの頻度ですから、接写用の機材(例えばクローズアップレンズ--レンズの前に付ける凸レンズ--など)を持ち歩くことはなく、もっぱら“チューリップ・マーク”に頼り、お世話になっています。APS-Cサイズのカメラはフルサイズに比べかなり寄れるので、お手軽で重宝しています。“チューリップ”様々といったところです。
 ただ仕事では、クライアントが気まぐれに、「これも撮ってください」、「あれも撮ってください」と単なる思いつきでいつ何時想定外のことをいい出すか知れたものではなく(デザイナーやアートディレクターという人種は無節操極まりなく、写真屋以上に自己本位な人たちが多い)、万事怠りなく想定内にしておかなければならず、カメラバッグには常にマクロレンズと接写リング(中間リングとかエクステンション・チューブともいう)を忍ばせています。これがないと安心して撮影に出かけることはできません。マクロレンズは一種の精神安定剤のような役割を果たしています。とにかく油断ならない人たち相手ですから。

 接写にはいろいろな機材がありますが、一眼レフを使用している人にとって、最も使い勝手が良く、画質を優先するのであればマクロレンズを使用するに限ります。一眼レフを使用している写真愛好家で、マクロレンズを所有していない人を指してぼくは“もぐり”だと、かなり手厳しいことを本気でいってきましたが、歳を取って物腰が柔らかくなりつつも、やはり「マクロレンズの1本くらいはお持ちなさいよ」と、人を言葉でやり込めてはいけないという思いから、言葉使いだけは穏和になっています。

 山好きの友人が一眼レフで高山植物を撮りたいのだがどんな機材が必要かと質問してきました。よくある質問です。彼曰く、カメラバッグに何本かのレンズを詰め込んで行くのだが、マクロレンズを加えるとなるとどうしても重量がかさみ、そこをなんとかしたいと。ぼくは「全然、なんとかならないよ。それより何故28〜300mmなどという横着の極みのような高倍率ズームレンズ持って行くの? そんなものは即刻やめて、すべて単焦点レンズで広角、標準、100mm程度のマクロレンズ3本だけで十分。その方がずっと上達が早いのに」と、物腰硬く言い放ちました。
 ズームレンズが悪いのではなく、レンズ焦点距離の違いによる画角やパースを把握せずに、自分は動かずズームレンズで被写体を近づけたり遠ざけたりして画角を決める、その安易な魂胆がぼくはどうにも気に入らない。それで、写真が上手になりたいと執拗に訴えかけてくるのだから、性格が悪すぎる。「道理そこのけ無理が通る」を押し通すのであれば、せっかく柔らかくなりつつあるぼくの物腰はカチカチに硬くなっていくのです。
 「いや、山は身動きができない場合があるので、ズームレンズは手放せないんだ。そのくらい分かるでしょ。だから聞いてるんじゃない。プロなんだからなにか知ってるでしょ」と、自家撞着を棚に上げて、ますます身勝手なことをいう。なんと弁解がましいことか。さがなく狡猾な彼に妙案を捧げたくはないが、ぼくは彼との今後の関係と展望を見渡し、常に優位に立っていたいので、恩着せがましくいい顔をして、「じゃあ、いろいろ勘案するに君の場合は接写リングを使えばいい。あれなら軽いし、かさばらない。山行きにはもってこいだよ。ただし、マクロレンズと異なり、ピントの合う範囲が限られており、マクロレンズのように無限遠などは撮れない。慣れを必要とするから、その勘を養うために練習してから使用すること」と、ぼくは「道理そこのけ無理が通る」に対抗し、「道理に向かう刃なし」を、身をもって示したのでした。

 今回は接写リングを使用した作例を作る時間がありませんでしたので、次回それを掲載いたします。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/171.html

★「やつで」。撮影データ: Fuji X100S。焦点距離(35mm換算、35mm)。絞りf 6.4、1/100秒、露出補正-1。ISO250。まだ芽を吹いたばかりのやつでの小さな葉。葉脈と葉の艶が表現できる光の角度を見極めながらカメラの位置を選ぶ。ドクダミの花がボケ過ぎず加減のよいところに絞り値を設定。主被写体よりドクダミのボケ加減に神経を配る。自然光。他人には三脚を使うべし、といいながらぼくの接写はいつも手持ち。「道理そこのけ無理を通し」ちゃう。

★「吸い殻」。撮影データ:Fuji Fine Pix X100。焦点距離(35mm換算、35mm)。絞りf 5.6、1/50秒、露出補正-0.33。ISO400。喫茶店で一休み中。退屈しのぎに撮った1枚で、イメージ通り撮れず。正直にいうと良い写真ではありません。文中で「吸い殻」と書いてしまったので、引っ込みがつかず、やむを得ず・・・。今後、気をつけよっと。
(文:亀山哲郎)

2013/10/11(金)
第170回:接写(2)
 プロ用以外のほとんどのデジタルカメラには、マクロ撮影機能が備わっています。みなさんもよくご存じのあの“チューリップ・マーク”や“花マーク”です。ぼくも御多分に洩れず、コンデジと称するものを今3台所有しています。2台は撮像素子がAPS-Cサイズですから、一般的なコンデジの範疇には入らないのかも知れません。コンデジとはいわないのかな? ポケットに入るかといえば、入らない。ですから、いわゆるコンデジは5年前に購入したR社の1台だけということになります。この3台はいずれもズームレンズではなく、レンズ固定式(単レンズ)ですから、ズームレンズ全盛の時代にあって、やはり一般的とはいえません。
 この3台は純粋に私的写真用として、そして写真をより気軽に愉しみたいとの思いで購入したものですから、ぼくにとってズームレンズである必要はまったくありませんでした。私的写真を撮るのにズームレンズなど使用したくないというのがぼくの本音です。
 撮像素子の小さい、ポケットに入るR社の“本物のコンデジ”を初めて使った時に、それまではフルサイズ一眼レフしか使ったことがありませんでしたから、いろいろな面でひどく戸惑いました。いくら使い込んでも、モニターを見ながら撮影する“あのスタイル”にどうしても馴染めず、さらに老眼ですからますます始末に負えない。小型カメラはファインダーを覗いて撮るものだという観念が骨の髄まで染み込んでいましたから、それは仕方のないことでした。“あのスタイル”は人間工学にも反し、ブレを招く大きな要因でもあります。
 ぼくが購入したR社のものは、コンデジとしては定評のある、優れた描写性能らしいのですが(比べる他の機種を知らないので)、いくら優秀でも撮像素子1/1.7型(7.6 x 5.7mm)はフルサイズ(36 x 24mm)の面積の約5%に過ぎず、もともと比較すること自体が論ずるに足りないことです。

 しかし、驚いたことがひとつだけあります。みなさんの方が、お詳しいかも知れないのですが、“チューリップ・マーク”にして、初めて接写をした時は唸りました。狼の遠吠えのように。被写体との最短距離が1.5cmなんて、なんということでしょう! 撮像素子が小さくなると「接写が利く」というメリットはあります。フィルム時代、スプレー缶の噴射ノズルや注射針の先端の撮影を依頼され、ベローズ(接写用に蛇腹のついた装置)にマクロレンズをつけて撮ったことが何度もありました。

 逃げ口上を打つわけではありませんが、コンデジの世界にはさっぱり知識がないので、「そういうもんですよ」とさりげなくいわれれば、「はぁ、そうなんですかぁ、知らなかったなぁ」と神妙に頷く他ありません。2,3のメーカーのコンデジ仕様を見たのですが、1cmも寄れるって今や常識?
 
 そして余談ですが、汎用のコンデジでは撮像素子が1/2.3型(6.2 x 4.6mm)とさらに小さくなり、それで1,600万画素? 明らかに過剰なスペックです。使ったことはありませんが、メーカーがどんなに知恵を絞り、研究しようとも、メーカーには申し訳ありませんが、道理としてきれいな画像が得られるわけがありません。画質の良し悪しは画素数ではなく、撮像素子の大きさに大きく依存するという信念をぼくは持っています。フィルムも同様で、135mm小型カメラで、いくら微粒子フィルムを使い、優れたレンズで撮ろうが、解像度もグラデーションの豊富さも大判フィルムには到底及ばないという事実を何十年も見せつけられてきましたから。
 カメラが写真を撮るわけではないといいつつも、しかしながら写真を趣味とし、少しでもその深淵に触れたいと思う人であれば、このようなカメラは使うべきではないとはっきり申し上げておきます。

 「接写」とは被写体に極力近づき、大きく写すということですから、1cmの近さに寄れるのは素晴らしいことです。ですが、手放しで喜べるかというとそうではありません。光の条件を見極めないと画像にカメラの影が出たり、思わぬものが写り込んでしまいます(作例を参照)。不自由な面も際立ってきます。
 また、「接写」はブレやすく、ピントが外れがちになるので極力三脚を使用するように勧めてきました。被写界深度がとても浅いので僅かな前後移動でピントが外れてしまうのです。ただ、三脚を使う際には、被写体との最短距離を厳密でなくともおおよそのところを把握しておく必要があります。マニュアルフォーカスでレンズを最大に繰り出し(最短距離にする)、ファインダーもしくはモニターを見ながらカメラを前後して、ピントの合ったところが最短距離です。
 おおよその最短距離を知っておかないと三脚を前後に、右往左往することになります。そして原則的にはマニュアルフォーカスを使います。被写界深度が非常に浅いので、任意のところにピントを合わせるには、どうしてもマニュアルフォーカスの方が使い勝手がいい。モニターで拡大してピントを合わすのが最も確実な方法です。レリーズも必需品です。レリーズが手元にない場合はセルフタイマーを使います。

 ここまでが最低限の技術なのですが、野外で実践しようとすると厄介な問題が悪霊のように立ちふさがり、ついて回ります。心地良いそよ風があなたの根気を試してやろうと執拗に忍び寄るのです。そんな時は♪ゆ〜りかごのう〜たを〜カ〜ナリヤが♪と歌いながらやり過ごしてください。「ゆりかごから墓場まで」っていうじゃありませんか。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/170.html

★「接写」。RICOH DIGITAL2。f4.0、1秒、ISO80、露出補正+0.67。被写体との距離=約3cm。約65年前のライカです。近づくことの影響が分かりやすいように、軍艦部を敢えて逆さまに撮っています。近くに寄り過ぎているので、銀梨地が一様でなくカメラの影が写っています。右側が赤くなっているのはシャッターを押す手の色が反射しているせいです。カメラが離れるにつれ、この現象は消失していきます。三脚使用。

★「人形」。EOS-1DsIII。マクロEF100mm F2.8 USM。F 4.5、1/125秒、ISO250、露出補正-0.33。
制作過程にある直径7cmの人形の顔。カメラ手持ち。
(文:亀山哲郎)

2013/10/04(金)
第169回:接写(1)
 今から10年以上も前、中学時代の同窓生から突然「ちょっと相談に乗ってくれ」という電話がありました。彼とは半年に一度ほど酒を酌み交わす仲だったのですが、電話の声があまりにも神妙だったので、すぐさま近くのファミリーレストランで会うことになりました。
 しばらく世間話をしていたのですが、コーヒーのお替わりをする頃に、急に深刻な顔つきになり、堰を切ったように訴えかけてきました。「かめちゃんさぁ、花をきれいに撮りたいんだけれどどうすればいい?」という非常な難問をふっかけてきたのです。「エッ、N君、写真なんか撮るの?」と、今まで写真には無縁だった彼に聞き返したのです。
 ぼくは自分をとても単純な人間だと思っていますし、「単細胞人間」だと自称していますが、他人にいわせると「変に理屈っぽい」のだそうです。分解すると、「変に」「理屈」「っぽい」となり、これはかなり多種多様なニュアンスを含んだ、変で、曖昧で、不得要領な日本語です。ぼくは自身の「単純な」を都合良くすり替えて、ちょっとすましながらもこの際、「明解な人間」なのだといいたくなってきました。
 今どちらでもいいので、百歩譲って「変に理屈っぽい」ぼくは、彼に「“きれい”ってどういう意味なの? きっとぼくが指すところの“きれい”と君のいうところの“きれい”の概念は大きく異なるだろうから、具体的に“こういう風に撮りたいんだけれど、ではどうすればいいのか”ということをしっかり述べてくれないと答えようがないよ」と明解に答えました。

 彼はそれにはあやふやな答えをし、「聞くも涙、語るも涙」をとつとつと語り始めたのです。彼の使用しているカメラはいわゆる「レンズ付きフィルム」とか「使い捨てカメラ」でした。そのカメラで花を画面一杯に撮ろうとすると距離が近すぎて、ピンぼけでどうにもならないから、どうしたものかという訴えだったのです。“きれい”がどうのこうのという以前の問題でした。
 そこで彼は考えた。写真を知らない彼は三日三晩考え続け、一工夫も二工夫も凝らして、レンズと花の間に虫眼鏡を挟んでみたというわけです。なるほど理屈としては正しい。要するに「クローズアップ・フィルター」としての役目を虫眼鏡に負わせたのです。彼にしては上出来のアイデアです。
 「それでいいんだよ、何も問題ないじゃない」というと、「いや、実は問題はここからなんだ」というのです。「右手にカメラ持って、左手で虫眼鏡持つでしょ。その虫眼鏡の位置が分からないので、何通りもやってみるわけね。そして、写真屋に飛び込んで現像してもらうんだけれど、写真屋のオヤジは確認のため『これ、Nさんの写真でいいんですよね?』と、他のお客の目など気にせず、何を撮ってるんだかさっぱり分からないボケボケの写真を1枚1枚晒すんだ。カッコ悪くてさぁ。何十枚かに1枚だけちゃんと写っているのがあるんだけれど、あとは何も写ってないかボッケボケだから、毎度大恥かいてしまって。それをかめちゃんに解決して欲しいんだよね」と、300枚くらいの写真を見せてくれました。久々に腹がよじれるくらい性悪のぼくは笑いました。「これこそ芸術だぁ〜」って。彼はホントに愛すべき男なのだと、ぼくは泪しながらそう感じました。
 N君も泪を堪えきれずにティッシュで目頭を押さえているのだけれど、悲しいのか可笑しいのかがぼくには分からず、しかし、めげることなく彼は話を続けます。「でさ、花はちゃんと写って、その前後をボーッとぼかしたいんだ。そういう写真ってあるでしょ。そういう風に撮ってみたいんだよ。どうすればいいのさ」と、すでにイメージは出来ているようでした。

 当時はまだフィルムが大半で、今のような良い性能のコンパクト・デジタルカメラを市場で見つけるのは困難でした。ですからぼくの答えは冷淡にならざるを得ず、「一眼レフカメラ+マクロレンズを使うしかないね」でした。ぼくは仕事ではまだフィルムとデジタルが半々という時期でしたが、使用してないN社のフィルム一眼レフを2台と交換レンズ群(マクロレンズを含めて)を彼に無代で譲ったのです。やはりぼくは冷淡じゃない。
 それから手取り足取り彼に花の撮り方(接写の手ほどき)を教示しました。1年もかからずに彼はとても良い花の写真を撮るようになりましたが、花しか撮れない「変に花っぽい男」になってしまったのでした。

 「接写」と一口にいっても、大変奥が深く多岐にわたるので、いくら「単純」かつ「明解」なぼくでも、一括りに語ることはできません。といってしまうと身も蓋もないので、あまり枝葉を伸ばさずに必要最低限の事柄に絞ってお話ししておきましょう。

 「接写」とは文字通り「接して写す」ことです。どのカメラにも(レンズ交換ができるものはそのレンズに対して)、どれだけ被写体に近づいて撮れるかという限界があります。言い換えればどれだけ大きく撮れるかということです。その限界を超えて近づいてしまうとピントが合わないということになります。N君の使用した「使い捨てカメラ」が、どの程度被写体に近づいて撮れるのかは分かりませんが、彼のイメージする「前後をぼかして撮る」とは「接写」に限らず、通常の撮影に於いても画面を整理したり、主被写体を浮かび上がらせる写真表現のひとつとしてとても重要な手法です。今回は光学的事実をひとつだけお話ししておきます。

 レンズは、被写体に近づけば近づくほど、同じ絞り値でも被写界深度がどんどん浅くなっていくという理屈(光学的原則)です。絞りによる被写界深度の違いについては、第42回で作例写真を示してありますので、そちらを参照してください。ただこの参考例はあくまでも絞りによる被写界深度を等距離で撮影したもので、被写体との距離が遠くなればピントの合う範囲が広がり、近くなれば狭くなります。
 被写体との距離が通常の撮影より近いのが「接写」ですから、被写界深度を知り、身につけておかないと思わぬ失敗(自分の意図したものと異なる写真)をしてしまうことになります。不安であれば、絞り優先で何枚か絞りを変えて撮り、保険をかけておくのもいいでしょう。
 今回は実写と、同一被写体を絞りを変えながら撮ったものを掲載しておきます。たまには写真らしい話をしておかないと。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/169.html

★「芙蓉」。Sigma DP2、焦点距離24.2mm(35mm換算41mm)、f 7.1、1/200秒、ISO 200、露出補正-1。APS-Cサイズの受光面積なので、フルサイズに比べ多少被写界深度が深くなります。お盆に餌付け?をしていたこうもりが死に、この花の下に埋めてやりました。

★EOS-1DsIII(フルサイズカメラ)、レンズ:CanonマクロレンズEF100mm F2.8USM。SDカードを模型に立てかけて撮りました。ピントは「Extreme」の「t」に合わせています。リサイズ画像で分かりにくいかも知れませんが、SDカードだけでもf22では完全にピントがきていません(被写界深度に入ってない)。F32まで絞り込んでやっとというところです。
 絞り開放値のf2.8〜f32まで、1絞りずつ掲載しておきました。
(文:亀山哲郎)

2013/09/27(金)
第168回:再び、フィルムとデジタル
 最近、昔撮った自分の写真を引っ張り出す機会があり、頬杖をつき呻り声を上げながら少しばかり考え込んでしまいました。自分が進化したかどうかということではなく、改めてフィルムとデジタルの違いによる写真表現の差異や一種郷愁にも似た感覚を覚えたのです。それは自分への郷愁でもあり、もちろん、フィルムかデジタルかという取るに足りない些末な事柄ではなく、自分の通ってきた写真の道程を考え直すよすがとしてよい機会だとも思えたのです。
 以前にも何度か述べましたが、現在のぼくはデジタル一辺倒ですから、フィルム時代を懐かしむことがしばしばあります。それは双方を経験した人であれば、ごく自然な感情でもありましょう。趣味人であればその懐かしさを放棄することなく大切にし、フィルムの世界に浸りその道を究めればいい。現に、ごく僅かですが、ぼくの知っている写真家にもそのような人がいます。しかし、ぼくはコマーシャルの写真屋ですから、時代とともに生き、現代の新しいテクノロジーを使いこなし、その利点を最大限に活用しなければならないという使命感に取り憑かれていることも確かです。フィルムにこだわりを持つ世界の著名な写真家もほとんどがデジタルに移行しています。
 では、フィルムが全体ぼくに何をもたらしてくれたのか、ぼくの体内で双方が奏でる不協和音の正体を、秋の夜長、屋外の虫の音とともに思い返してみました。

 デジタルを扱いつつ常に感じてきたことは、フィルムの持つ曖昧さでした。自分のデジタル画像を見るにつけ、「ゴキブリの足まで写さなくていいじゃないか」と、その思いは募るばかりです。「募る」のですから、その「曖昧さ」の部分には回帰したいという願望が含まれています。言い換えれば「部分的な憧れ」ともいえます。
 デジタルの性能が良くなるにつれそういった思いにますます囚われてしまうのですから、皮肉なものです。「デジタルは写り過ぎるんだよなぁ」が口癖(悪態?)となり、そのような思いにつきまとわれています。そこには画素数とか解像度では言い表せない“曖昧さのなにか”があるように思います。その「なにか」が、どうもよく分からない。それを一晩で解明するには、秋の夜長とはいえ、ぼくの頭では短過ぎるのです。写真の成り立つ(画像形成)方式がまったく異なったメカニズムですから、双方を同じ土俵の上で論じるのは意味のないことです。フィルムは化学反応であり、デジタルは科学に依存していますから、同じレンズを使ったとしても比較する部分が見つかりません。方式は異なれ、最終的には印画紙上に表現するわけですから、人は人情としてそれを比較したがり、短絡的な思考に陥るのではないでしょうか。善悪・醜美・是非・好き嫌いなどの溶液をひとつの容器に入れ、かき混ぜ、物事を論じようとするに似ているような気がします。

 「同じ条件で同じ物を撮ってみれば、その違いが分かるのではないか」という人もいます。事はそう単純なものではありません。カラーであれ、モノクロであれ、フィルムによっても、その現像条件によっても異なった結果を生じます。科学であるデジタルでも、そこに(コンピューターやソフトなどなど)人間が介在している以上、やはり結果はまちまちです。プリンターも機種によって発色も違えばトーンも異なるわけですから、公平な比較など到底できようもありません。

 フィルムの曖昧さに部分的な憧れがあるのであれば、デジタルは科学なのだから、どうにかすればそこに近づくことができるのではないかと、科学信奉者であるぼくは神様に、キリストでも、仏陀でも、アッラーでも、この際、鎮守様でも道祖神でもいいから、その知恵と情けを分けてくれとお願いしています。昨今の写り過ぎるデジタルカメラを見ていると、車でいえば遊びのないハンドルの危険性を思わせ、「曖昧さ」のためならぼくはお百度参りでも五体投地でも,仰せに与ればなんでもするという境地に達しています。

 通常のフィルムとは異なるのですが、ぼくは昔からポラロイド写真が好きでよく撮りました。得も言われぬその色合いが好きだったのです。数年前に製造が中止され、以後愛好家らが復活運動をしたそうですが、現在どうなったのかぼくは知りません。デジタルソフトにポラロイドのフィルムシミュレーションのできるものがいくつかありますが、ぼくの思い入れが強いせいか、どうもイマイチしっくりこないのです。やはり「曖昧さ」がないのです。「曖昧さ」=「味」と単純に捉えるのは危険ですが、デジタルカメラをぶら下げて被写体を見つけた時に、「これっ、ポラロイド!」と、思わず呟いてしまうことがあります。それで撮った写真に「曖昧さ」を付け加えることはなかなか出来ないのですが、それらしい色調はPhotoshopを使って再現できます。ポラロイドで撮れば本当にそうなるかは分かりませんが、あくまでイメージとしては追求しています。遊び心を持ってポラロイド調に仕上げたものを掲載してみます。遅まきながら、「曖昧さ」=「遊び心」かも、とたった今気がついた次第。

http://www.amatias.com/bbs/30/168.html

(文:亀山哲郎)

2013/09/20(金)
第167回:多数派と少数派
 実は、今さらなのですが、この連載を始めるまで、ぼくは世の中の写真愛好家の動向についてはほとんど関心がありませんでした。“ほとんど”というより“まったく”といったほうが正直なところです。拙「よもやま話」もすでに3年余の月日が経ちましたが、その間少し焦りながらも世間一般の写真の風向きや趨勢を伺い知ろうと努めてきたつもりです。愛好家の平均的な写真意識を、ネット音痴のぼくがネットをかき回しながら探り当てようとするのですから、それはいろいろな面で苦痛を伴う作業でもありました。
 それまでまったく無関心だった、いわゆる「クチコミ」だとか量販店のHPにある「〜の撮り方」などを眺めながら、「はぁ〜、世の中はそういうものか。しかしぼくには関係がないなぁ」という結論にいつもたどり着いたものです。そのようなものにはきっと何か役立つことが書かれていたり、示されているのかも知れませんが、それについてぼくが同じようなことをここで改めて書く必要があるのだろうかという大きな疑問に囚われてきました。
 「ぼくには関係がない」と感じることを、ここでみなさんに押し売りの如く書き連ねるのは気が引けるとともに、少し写真を知っていれば誰にでも書けるようなことを、写真の基本的なメカニズムを除いて、ぼくが書くのも必然性のあることとは思えません。異論反論はあって然るべきですが、ぼくが商売人として得たものを(まったく大したものではありませんが)、信念を持って自由に書いたほうが読者諸兄のお役に立つのではないか、あるいは興味を持ってもらえるのではないかという勝手な思い込みで今日まで書いてきました。

 覗いたことのなかった県展や市展にも足を運ぶようになりました。写真の良し悪しではなく、そこで垣間見えたものはぼくの写真に対する考え方や所懐とはかなりの隔たりがあるということでした。ということは取りも直さず、ぼくの思惟や方向性といったものは、少数派なのかも知れないということです。もちろんこのことは個人の生き方の問題であり、是非を論じる事柄ではありませんが、ぼくは常に少数派でいたいと願っています。多数受けではなく、少数の人々に深く分け入っていくことに写真の意義を見出しています。

 ぼくはコマーシャル写真で糊口の資を得ている人間ですが、それとは別に写真という手段を用いて自分の考えや感じたことを表現したり、写真屋であるが故に一般には知られがたい世界を覗く機会も得られやすく、そこで撮影したものを知ってもらったり、あるいは訴えかけることも写真屋の大切な仕事のひとつだと考えています。むしろ本業の分野より、自己表現の幅の広いこちらのほうがずっと自分にとっては甲斐のあることだと思っています。

 第161回で、「震災直後、おっとり刀で現地に駆けつけた有象無象(うぞうむぞう)の人々(救命・救助・報道・学術調査・復旧の専門家を除く)を尻目に、ぼくは地震・津波災害の地を積極的に訪れようとはしなかった」と、東日本大震災について一見冷ややかとも受け取れる書き方をしました。
 現代詩作家の荒川洋治氏が震災後に垂れ流された多数派の震災詩を指して、「『そうか詩ってこの程度のものだったのか』と人々を失望させた恐れがある」と痛烈な懸念を表明しています。確か、当時の現象を「詩の被災」だとも。その言葉を借りれば(写真には報道という意味合いもあり、実際に現地に赴かなければならず、単純に詩歌との比較は乱暴ですが)、震災写真には心打たれるもののほんの一握りを除いて、やはり「写真の被災」であったと思います。
 ぼくは社会派の写真屋ではありませんが、文学と異なり写真というものは映し出されたものの主語や述語を鑑賞者に委ねる場合が多々あり、ましてや震災や原発事故から一定の時を経ていますから、詩と同様に質の高いものに臨もうとするのであれば、相当に高度な技術を要すると考えています。

 また、荒川氏は「世の中の一般的な論調には同化せず、たとえ時事性が失われようとも鑑賞に堪えうる震災詩を書くためには準備に長い時間を必要とする」とも述べています。「時事性が失われようとも」という文言に異論の生じる隙間はたくさんあると思いますが、そもそも創作の原点はそういう浮き世離れしたところから発生するものではないだろうかとぼくは思います。ぼくは荒川氏の「時事性が失われようとも」に共感を覚えます。極論すれば、「世におもねて、本当に良いものが作れるのだろうか。決してそうではない」というのがぼくの信条でもあります。
 ぼくのような凡庸な写真屋は、写真屋でしか見えないことや感じ取ることのできない発見に苦悶し、躍起にならざるを得ません。その緩和的処方として、予備知識を蓄え、その中から抽出すべき重心を捉えないと、ブレが生じてしまうことを知っています。被写体との心的距離を一定に保ち、機が熟すのを待ってから、撮影の地に赴くのが鑑賞者への誠意ではないかとぼくは思っています。写真屋は国内外での社会現象や問題に無頓着でいられようはずはなく、今回なら震災や原発事故にどう向き合うかが世に問われているのだと思います。新聞やテレビを見ないぼくでさえそう思っています。写真を撮る行為は産業ではありませんから。
(文:亀山哲郎)