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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2019/05/24(金)
第447回:京都の遊郭跡を訪ねる(9)
 感覚的に橋本遊郭についての情報より、五条楽園についてのそれのほうがずっと多いような気がする。正確な理由は分からないが、五条楽園のほうが規模も大きく、また京都市の真ん中に位置していたがために、史料の類が多く存在しているからではないだろうか。
 加えて、上記したことの解明にはならないのだが、ぼく自身が遊郭や花街に関して何分(なにぶん)の知識も持ち合わせておらず、情報の収集・蓄積に事欠き、不案内であることが大きな要因として挙げられる。その点に関してはどうかお目こぼしをいただきたい。
 つまり遊郭の何たるかをぼくはよく知らないのである。ぼくの子供時分(小学校高学年)にはすでに使用されなくなった五条楽園のお茶屋(もしくは妓楼か)で、寝泊まりをし、かくれんぼなどをして遊び回った経験から、そこの一風変わった異様な雰囲気や、カビと埃の入り混じったような湿っぽい臭いなどが未だ脳裏に焼き付いて離れないという面を有しつつも、遊郭好事家からみれば、ぼくの知識など取るに足らないものだろう。ぼくは、遊郭などに対する感情移入だけは人並み以上だと認めるが、橋本や五条楽園について、公に述べる資格を欠いている。

 被写体に関する知識や理解をなおざりにすべきではないというのが、撮影の鉄則、とまではいわないが、ないよりはあるほうがイメージの構築には断然有利であることに異論はない。
 しかしそれが即ち、良い写真に直結するかしないかは残念ながら断言できないのだが、「知識を有していること」=「イメージしやすいこと(焦点が絞りやすいこと)」=「良い写真につながりやすいこと」との三段論法に頼りたくなるのが人情というものだろう。したがって、知識はとても有用で大切なものと心得、そのように自己暗示をかけたほうが結果は吉と出る、というのがぼくの長年の経験則である。何をするにも、お勉強はしないよりするに越したことはない。
 また、同じ被写体でも、個々人によって「目の付け所」がそれぞれに異なり、それをどう表現するかで写真のイメージや見た目がガラッと変化するので、写真は面白くもあり、逆に怖いともいえる。静物であっても同じ写真は二度と、しかも永遠に撮ることができないという現実にも直面する。

 拙連載では、ぼくの好きな分野である「街中の人物スナップ」は掲載しにくく(昨今の窮屈でヒステリックな世の中にあって、個人が特定できてしまうとの嫌いがあるのでぼくは掲載を控えている。ぼく自身はそれに頓着しなくてもいいと思っているのだが。巷に蔓延る癌細胞のような “言葉狩り” 同様、このような現象はひどく気味が悪い)、故に掲載写真の被写体はどうしても静物に偏りがちとなる。それも、ぼくの場合は建築物が多い。

 建築撮影に関して、仕事の写真では水平・垂直・平行を神経質に調整し、またそれにこだわらなければならず、蛇腹アオリの利く(物の形やパースを自在に変えられる)大型カメラの使用がもっぱらとなるが、私的写真に関しては、ご覧の通りかなりの、場合によってはエキセントリックな広角歪みをぼくは敢えてものともせず、その特質を心底愉しんでいる。
 このような描写は、おそらく好みの分かれるところだということもよく心得ている。きっとぼくの建築写真に眉をひそめる御仁も多かろうことは百も承知だ。私的な写真に、制約だらけの仕事の撮影作法を持ち込まず、自由気ままに写真を愉しみたいとの強い思いが、超広角レンズの遠近感を大胆に、好んで利用する最も大きな要因となっている。

 水平・垂直・平行にこだわりすぎると、かえって味わいのない、無難さだけが取り柄のつまらぬ写真になりがちということもあるし、また、遠近法を無視しているがために、実際の視覚とは異なった不自然さを免れぬ場合もままある。
 「建築写真は、誰が何といっても(誰も何ともいわないのだが)、水平・垂直・平行がキッチリ出ていること」を金科玉条のように唱えるのは、明らかに間違った教えである。賢明なる読者諸兄には、どうかそんな言い分を鵜呑みにして欲しくない。
 今は大型カメラを使わずとも、画像ソフトにより水平・垂直・平行が容易に出せる仕組みになっているが、それよりも、レンズの焦点距離による遠近感の違いを体得し、それを愉しんだほうが得るものが大きく、それが本道だとぼくは確信を持ってお伝えしておく。
 
 さて、肝心の五条楽園であるが、それは鴨川にかかる五条大橋(牛若丸と弁慶が一戦を交えた)の南西に位置する遊郭を指す。最盛期には約150近いお茶屋(芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。東京の「待合」に相当)と置屋(芸者や遊女を抱えている店)があったと伝えられる。鴨川と高瀬川の間の中州地帯には、多くのお茶屋があったが、京都の他の花街(例えば、祇園や先斗町、上七軒など)との違いは性風俗を扱っていたことだ。五条楽園は赤線地帯でもあった。いわば庶民派の花街であった。
 昭和33年の売防法施行後、五条楽園(それ以前は、七条新地)と名を変えたが、平成22年(2010年)売防法違反で一斉手入れを受け、「五条楽園」の看板も取り外された。つい最近のことである。廃業に追い込まれたり、解体されるお茶屋もあったが、折りからの観光ブームで旅館や料理店、ショップなどに転じたものもある。まだ往事の匂いが漂うが、ぼくの思い出の詰まったお茶屋はどこだったのか、さっぱり見当がつかなかった。次回の里帰り時には時間的な余裕を持って探し出してみようと思っている。
 
http://www.amatias.com/bbs/30/447.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
高瀬川沿いにある元お茶屋。現在は旅館として活用されているようだ。
絞りf9.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
思わず「う〜ん、すごい!」と感嘆。夕陽の当たったコテコテの(ぼくの写真や文章そっくり)カフェー建築は古色蒼然とした「旅館」という看板が掲げられてあるが、現在活動しているのかどうかまったく不明。両脇の建築物もおどろおどろしく、人の気配はない。京都市内のど真ん中ですよ!
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/05/17(金)
第446回:京都の遊郭跡を訪ねる(8)
 今回の京都行きは撮影が第一目的ではなく、第439回:京都の遊郭跡を訪ねる(1)で記したように、義母の四十九日の法要とそれに関わるさまざまな後片付けをするためだった。
 しかし、鉄道好きのぼくはわくわくそわそわ、そして麻薬的な新幹線に大枚を叩いて乗り込み(あの速さはやはり非現実の極みであり、まさに夢見心地だ。因みに東海道新幹線の最高速度は285km/h)、せっかく我が家から550kmも離れた京都くんだりまで行くのだから、写真を撮らぬ手はない。
 ぼくは抜かりなく最小限の機材をバッグにこっそりと詰めた。写真屋なのだからもっと大べら(人目を気にせずにするさま)に振る舞ってもよさそうなものだが、今回ばかりは義母への敬意と感謝の意を示すため、厳粛なる気持で法要に向き合わなければと思っていた。ぼくがいつになく控え目で遠慮がちな挙動に出たのは、そんな意識が強く働いていたからだろうと思う。

 根無し草のようなぼくにとって、古希を通り越した今、つまり「余命」という言葉がより身近に、かつ現実的なものになるにつれ、あわよくば「京都はぼくの故郷」といってみたくもなっている。急に「里心」がついてしまったのだろうか。まさに今回は「里帰り」の気分だった。

 巷では、京都人に対する杓子定規で決まり切った悪評が存在する。あるいはまた、団塊の世代に対する不見識で否定的な意見を耳にすることもある。そのような意見を述べる人は、ほとんどの場合実体験からではなく、根も葉もない噂話、あるいは伝言ゲームのような又聞き、もしくは流言飛語の類に頼ったものが多い。
 しかし、そんなものはぼくにとってまったく「屁の河童」同然で、それに頓着したりこだわったりする人を、むしろ道理に暗くトンチンカンな人として憐れむくらいだ。決して血の巡りが良いとは思えないし、貧血のため目眩を起こしているのだ、と憚りなく揚言しておこう。

 何故かといえば、人間はこの世に生を受ける時、「場所も時も人種も」選べないからだ。己の意志によって、ぼくは京都に生まれたのではなく、そしてまた団塊の世代として生まれる時を選んだわけでもない。このような自明の理を解さない人は自己を一切顧みることなく、やはり何かが頭のなかで著しく欠損し、神経細胞が糜爛(びらん)してしまっているのだろう。
 私たちは、「差別だ」、「人権蹂躙だ」と叫びながらもそのような人々に囲まれ、闘いながら生きている。貧血気味の人たちは例外なく道理に疎く、この手の人々に対抗するには無手勝流の恬淡(てんたん。欲がなく、物事に執着しないこと)さが一番だ。そうすれば愉快この上なしなのだが、ぼくの精神はまだ青年の域を脱しておらず、未熟であるが故に、つい熱くなってしまうのである。

 出生について選択の自由がないことは、人間ばかりでなく、生あるすべてのものが背負っている厳格な掟であり、あるいは神との契約でもあり、そこで生じる超自然的な現象を、私たちは避けることができないという道理と原理に付き従っている。
 それを知ってか識らずか、人の出生にケチを付けたがるのは愚かさの極みでしかない。浅薄に過ぎる。もしそれをいいたいのであれば、京都人や団塊の世代を非難するのではなく、単に「出生以外の事柄については、かめやま個人が悪い」という言い方に分がある。

 何故このようなことをくどくど書いたかというと、今回触れる「五条楽園(旧七条新地)」に居を構えた複数の人たち(ぼくの親戚や知り合い)がいたからである。元妓楼や元遊郭に短い期間ではあるけれど間借りしていたがために(第439回に記載)、謂れなき遇(あしら)いを受けたのである。
 最も年齢が近く、仲の良い従姉妹は「 “よんどころない事情” により5年間五条楽園に住んでいたことが原因で、破談を経験した」と、天を恨むことなく語ってくれた。出生云々とは多少意味合いが異なるが、小学生の彼女に選択の自由はなかったわけで、すでにこの時不条理という罪を貧血気味の人々によりなすりつけられたのだった。

 橋本遊郭の撮影を終え、ぼくの足はガクガクしていた。大谷川の道なき土手を川に落ちぬように神経を尖らせて歩いたせいだった。若い頃の平衡感覚はすでに失われているのだと言い聞かせていたので、ぼくは慎重の上にも慎重を期して、身体を斜めにしながら小股で歩を進めた。普段使わない筋肉をふんだんに使ったおかげで、疲労によるヨロヨロ症状が激しくなっていたが、「もう一度京街道を歩きながら、妓楼の凝った細部(細工)に焦点を当て、それを写し撮っておこう」と、自らを励ました。これらは記録写真のようなものであり、ぼく自身のイメージを具現化するものではないので掲載は控える。
 時間は午後3時半を回り、普段であれば撮影終了とするところだが、今回は撮れる時に撮っておこうとの気持が勝ち、橋本駅から京阪電車で30分の清水五条駅に向かい、老体に鞭打ち子供時分に遊んだ五条楽園に行ってみることにした。

http://www.amatias.com/bbs/30/446.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
破風の格としては最も高い唐破風屋根が映える遊郭。戦前に建てられたもの。
絞りf11.0、1/15秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
カフェー建築の元お茶屋。何ともいえない雰囲気に、ぼくは胸が高鳴る。凄いものを見つけたと、心臓の鼓動が聞こえるような気がした。
絞りf9.0、1/30秒、ISO100、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2019/05/10(金)
第445回:京都の遊郭跡を訪ねる(7)
 橋本遊郭の写真と文について、読者諸兄からの反応の多さにぼくは少しよろけ気味だ。地元の人たちとの会話時間を除けば、ぼくが橋本に滞在したのは2時間そこそこでしかない。知ったか振りをする気持は毛頭ないのだが、短い時間であれこれ気ままに感じ取ったことをそのまま記してきた。遊郭の知識も高が知れたもので、だから大層なことはいえない。
 そんな言い訳をしながらも、7話にわたって書き連ねてしまい、それこそ恐れながら厚かましく、また太々しくもあると自覚している。大した見聞も持ち合わせていないのに、これも仕事の一部とはいえ、耳目に触れたものを躊躇うことなく公に認(したた)めてしまうこの度胸と心胆に、我ながら開いた口が塞がらない。
 今ぼくは随分と自虐的であることを粧(よそお)っているけれど、知識の不足分は写真が補ってくれると、高を括っている。「百聞は一見にしかず」を引き合いに、ぼくは程よく難を逃れようとしている。ここが写真屋の強みだ。

 しかし思いの外、読者諸兄のなかには遊郭のあの独特な風情に非常な関心を寄せ、ついでに未練らしきものを残しておられる方が多いことを知り、その意外性もまた妙と感じている。
 特にあの時代を知るご年配の方々は、同時に戦時体験者でもあり、遊郭風情に未練を絶ち切れないというが如く、売防法以前の何かを懐古し、幻影らしきものを追い求め、またくすぐられるものがあるようだ。
 加え、年齢に関係なく、ぼくの推し測るところ、妓楼特有の凝った、そして風変わりな建築的佇まいに関心を示される方もいる。「実際の妓楼というものは見たことがないが、写真を見て橋本に行ってみたくなった」という声も複数届いた。
 売防法以前の遊里の姿が最も生々しく現存している橋本遊郭を、写真的な出来映えを度外視しても、記録しておいてよかったとぼくは思っている。失われつつある日本の文化を写真に収めておくのも写真屋の大切な役割と心得ている。たとえそれが遊郭であったにしてもである。

 遊郭や妓楼に興味を示すのは男衆だけだろうというぼくの一方的な思い込みは呆気なく外れ、意外や女性もいることを知った。ぼくの当て推量だが、それはきっと男衆の懐古にも似た心情とは異なり、純粋にフォトジェニックな興味・妙味からではないだろうかと思う。そしてまた、文化的な側面という意味もあるだろう。男は情緒が心にまつわりついて離れないという面が強いと思われる。こと遊郭に関していえば、女性にはそれがない。
 女性が娼妓や傾城(けいせい)に憧れの情を抱くとは考えにくいことだし、それどころか「人権運動家」、あるいは「その類の団体」からすればもっての外だろう。

 余談だが、昨今は、誤ったことや偏ったことを「人権」を出汁に声高に叫び、盾にしながら正当化しようとの傾向が多々見られるのは、まことに嘆かわしい限りだ。「人権」を錬金術や免罪符のように取り扱おうとする輩がいる。本来は尊ぶべき「人権」という言葉の価値を貶め、色あせたものにしていることに気の付かないお粗末な人種が多すぎる。今さらだが、「人権」とは、人が人たる当然の権利を指すが、権利と義務は常に同居し、同等なるものであることを忘れている。義務を顧みず、権利ばかりを主張する醜い品形に気づいてもらいたい。

 先日、映画の好きな読者からいただいたメールに以下のようなことが記されてあったので転載(許可済み)。なお、かっこ内はかめやまの補記。
 
 「映画『鬼龍院花子の生涯』の主人公である花子が、橋本遊郭で自殺する場面からこの映画は始まりますが、冒頭、夏目雅子(仲代達矢演じる侠客鬼龍院政五郎の養女・松恵)が日傘を差して降りてくるあの階段は今でもあるのですか? また、映画の最終場面の橋の上でのシーン。あの橋は今もあるのですか?」との質問だった。

 ぼくはこのDVDをレンタル店で借り、興味深く観た。夏目雅子演じる養女の松恵が、橋本の土手向こうを流れる淀川の堤防から階段を降り、橋本遊郭にやって来るシーンからこの映画は始まる。「昭和十五年・夏 京都・橋本遊廓」と字幕が出る。
 映画の公開は昭和58年(1982年)なので、撮影はおそらく昭和56~57年頃と思われ、したがって40年近く前ということになる。撮影当時の橋本が現在とどのように異なるかは分からないが、今でもこの階段は存在している。ただ、映画で観る階段は両脇が雑草で覆われているが、現在はコンクリートで固められている。幅も少し広くなっているような気もするが、映画のシーンが残像として頭に残っていれば、すぐに「ここだ」と分かるだろう。
 ラストシーン、松恵が橋本の妓楼で花子の遺体を確認した後、大谷川にかかる橋の上から花子が実父である政五郎に宛てた葉書を破り捨てる。小さな橋はすでに木製ではなくアスファルトにガードレールという今時の仕様になっている。橋の石柱(明治2年製。1869年)の根本がアスファルトに少し埋まってしまっているが、「柳谷わたし場」と読める。淀川の向こう岸、山崎への渡し場があったのだろう。

 ぼくは見ず知らずの人の質問に、要約すれば上記のような返信をした。彼が橋本を訪問されるかどうかは分からないが、今年3月にぼくが行った時、立派な妓楼に、「解体作業中につき、ご迷惑をおかけしております」との看板が掲げられ、足場が組まれていた。ぼくは妓楼とは無縁の生活を送ってきたが、身を切られるような痛みを覚えた。それは体験した事のないような痛みだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/445.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
遊郭南端の陸橋上から。中央に見える赤い屋根は遊郭唯一の湯屋橋本湯。左が大谷川。瓦葺き屋根の建物が残っている妓楼。
絞りf9.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02橋本」
橋本湯玄関。入母屋破風に乗せられた何とも立派な意匠瓦。中央には「橋本湯」とある。湯船や洗い場は一棟奥にあり、ここも妓楼の一角として使用されていたのだろうか? 謎は残る。銭湯は数年前に廃業してしまったとのこと。しかし、なんだか凄味のある銭湯だ。

(文:亀山哲郎)

2019/04/26(金)
第444回:京都の遊郭跡を訪ねる(6)
 ぼくが勝手に命名した “がんまち” じいさんたちの遊郭についての話をもう少しだけ。
 売防法が完全実施されたのは昭和33年(発令は31年。2年間の猶予期間を経て実施)からのことで、当時ぼくはちょうど10歳(小学4年)の小僧だった。
 初めてカメラを買ってもらった記念すべき歳で、嬉しくてたまらない頃であり、当然のことながら、まだ売春や遊郭の意味も知らず、ぼくの生活意識のなかにもそれに関連する言葉や単語は組み込まれていなかった。時折耳に入ってきた、いわゆる「赤線」の意味も知らなかった。

 ぼくはどこにでもいる年相応の純朴な少年だったわけだが、ただどことなく「 “赤線” は、大人たちの前では口にしてはいけない言葉のひとつ」なのだろうという微かな記憶が残っている。子供ながらに何か良からぬものとして感じ取っていたのだろう。
 心の片隅に、「赤い色をした線に囲われた地」は未知なる「新しい地」で、如何わしさと妖しさを合体させたサンクチュアリ(聖域。禁猟区)のようなものとしてどこか湿っぽく付着し、心の底に澱のように溜まっていた。ぼくばかりでなく、当時の少年にとって大人たちのいう「赤線」とは、どことなく際どい語感を漂わせていたように思う。
 同じ年頃のおませな悪童(いわゆる “悪ガキ” )たちのなかには、「赤線」や「新地」の正確な意味を知らずに口走り、大人ぶる者もいたが、彼らとて実態は何も知らなかったに違いない。ただ無邪気に大人を気取りたかったのだろう。そして大人を請け負いながら年少者に見栄を張っていただけなのだろうと思う。いずれにせよ、ぼくの世代は幸か不幸か、遊里・遊郭とは圏外の間柄だったのである。

 ところが、がんまちじいさん(84歳と85歳。昭和9年と10年生まれ)たちは血気盛んな時代を、合法であったことをいいことに(?)有効活用していたと思われる。であるので、彼らは十分にいろいろな意味で圏内にあり、合法という恩恵に浴しながら生きてきたのだった。
 ぼくは彼らの形風俗(なりふうぞく。恰好や身のこなし)による自身の推量に自信めいたものがあった。穿(うが)ち過ぎと思われるかも知れないが、もう何十年も職業写真屋として、レンズ越しに数えきれぬほど多くの人たちの表情を追いかけ、凝視しながら写し撮ってきた。人物の姿形や表情から、正確でなくとも、その人物像はおおよそのところ見当がつくというものだ。外れたことはほとんどない。

 遊郭での彼らの体験について、ぼくは言葉を濁すことなく直裁に訊いてみた。
 「お二人とも青春のはけ口を求めて、おおらかに女性たちと交遊されたのですよね? 今は非合法なので白眼視されることでも、当時は合法だったわけですから、それは天下晴れてのことだった。悪びれることもなかったのでしょう?」とぼくは二人の顔を覗き込み、笑顔を見せながらいった。
 “合法であるのだからそれで良いのです。やましいことなどありません。60年以上も昔のことなので、とっくに時効です” という態度・口振りを示さないと警戒されて、本音が聞けないとぼくは思った。彼らにしてみれば、ぼくは見ず知らずのよそ者なのだから。

 ひとりがもうひとりを指し、「Aちゃんは羽振りがよかったからお盛んだったよなぁ。わしは金が続かなかったから、まぁ3ヶ月に一度くらいだった。しかし、橋本では人の目を気にしなければいけなかったので、地元の人間は橋本では遊ばずに、大阪まで行ったものだ」と二人は顔を見合わせながら、屈託がなかった。思いの外、明け透けに語ってくれた。「3ヶ月に一度」というのが、この世界ではどのくらいの頻度を指すのか、ぼくには判断ができなかった。
 しかし、いくら合法とはいえ、地元で大っぴらにというのは決まりが悪いと感じるのは人情としてよく理解できる。だが彼らを “がんまちじいさん” と決めつけているぼくの身勝手な思いとはちょっとした齟齬が生じ、そこが何とも面白かった。彼らは結構な融通を示してくれたのだった。

 「終電など、橋本駅は大変混み合ったと聞きますが、そんなに?」と訊くと、「長い間には、橋本は浮き沈みがあったと聞いているが、私たちの知る売防法前はそりゃ〜あんた、かなりの賑わいだったものだ。しかし、遊女の自殺ばかりでなく、売防法で将来を儚んだ雇用主の悲劇もあったんだよ。Xさんもそうだったしなぁ」と、ひとりのがんまちが初めて悲しげな表情を見せた。橋本の悲劇を話してくれたのだった。
 「ぼくは弱者である遊女の死は同情の余地があるように思うが、雇用主のそれには俄に応じかねる」と、ぼくも直裁に申し上げた。ちょっとした沈黙が辺りを支配した。せっかくのがんまちとの邂逅を気まずいものにしたくなかったので、ぼくは話題を切り替えた。
 「鳥羽・伏見の戦い(慶応4年。1868年。戊辰戦争の初戦となった)で、戦場となった橋本に土方蔵三が新撰組を率いて旧幕府軍として陣を張り、逗留したとの史実がありますが、その痕跡のようなものをご存じでしょうか?」と訊ねた。
 二人のがんまちは顔を見合わせながら、「そのようなものは見たことも聞いたこともない。まことにお恥ずかしい」と、小さくなった背中をさらに丸めていった。
 彼らが“がんまち”であるというぼくの見立ては、もしかすると誤っているかも知れない。職業写真屋の目も怪しいものだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/444.html

今回の2点は、妓楼が取り壊され、更地となった場所(双方とも駐車場)から撮っている。歯抜けのように更地が点在するが、妓楼の多くは棟がつながっていたようだ。ひとつが取り壊されると、一方の妓楼は壁面がむき出しとなり、トタンの波板で囲われていた。そのようなものが多く目に付いた。

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
何とも味わいのあるガラス窓。このようなデザインは妓楼特有のもの。白い雲を飛ばさぬように露出を極力抑える。
絞りf8.0、1/400秒、ISO100、露出補正-2.67。

★「02橋本」
ちょうど波板の形が隣接する妓楼の取り壊された部分ではないだろうか。屋根の下に見える窓が面白い。PLフィルタ(偏光フィルタ)を使用し、空を落とす。
絞りf10.0、1/200秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/04/19(金)
第443回:京都の遊郭跡を訪ねる(5)
 前号にてご登場願った二人の “がんまち” (この言葉を標準語に翻訳するにはなかなか困難。強いていうなら “手前勝手” とか “我が強い” とか “頑固” を混ぜ合わせたニュアンスか?)なおじいさんたちの話によると、売防法(昭和31年。1957年)以前の橋本には、枕席にはべることのみを業とした娼妓(一般的には “公娼” を指すが、明治以降 “娼妓” は官制用語となり、それ以前の “遊女” と対比する)ばかりでなく、舞踊などの芸事にも長けた芸妓もいたので、あの異様に大きな建物(前回と今回に写真掲載)は検番ばかりでなく歌舞練場としても使用されていたはずだという。
 ぼくは判断材料を持ち合わせてはおらず、建物の中を覗き見ることもできないので、がんまちじいさんたちの話にただ頷きながらボールペンを走らせる他なかった。
 栄枯盛衰は世の習いであり、長い歴史を持つ橋本も、ぼくの推測だが過去には格式のある傾城(けいせい。太夫やその次位である天神などの上級遊女)が多くいた時代もあったに違いない。

 おじいさんたち(84歳と85歳)が遊郭で大らかに遊ぶことのできた時代を計算してみると、あくまでぼくの勝手な計算なのだが、彼らが18歳の時は昭和27年(1952年)なので、未だ合法であり、正々堂々と振る舞えたことだろう。今からもう67年も昔のことだ。彼らが遊郭を有効利用 !? したと仮定しての話だが。
 防売法により「橋本遊郭解散式」が、あの大きな検番兼貸席組合(グーグルの地図上には未だ「天寿荘」と記されている)の講堂で行われたのは昭和33年3月のことである(京都新聞)から、彼らが合法的に大手を振って遊ぶことができた期間は長くても6年間だったに違いないと、ぼくも彼らの “がんまち” を勇敢にも真似、手前勝手にそう割り出した。
 その当時は約80の妓楼、700名余の娼妓が登録されていたと聞くから、遊里としては相当充実していたと思える。 

 遊里にはいつも付きまとう人身売買ともいえる非人道的な習わしを廃除すべきとの「娼妓解放令」が、明治5年(1872年)に布告されたが、江戸時代以前からある古い遊郭は、その名目を「貸座敷」に改変したに過ぎず、名ばかりのもので実態は少しも変わることなく、娼妓を解放するには至らなかった。いわばザル法のようなもので、雇用主にとっては都合の良い、抜け穴だらけの布告だった。この「娼妓解放令」は、明治31年(1898年)の民法施行とともに廃止された。

 おじいさんたちは親御さんからの受け売りだと断りを入れ、メモを取るぼくに話を続けた。
 娼妓に対する待遇は極めて苛酷・悲惨といえるもので、病死が多発し、自殺者が相次いだとは、明治・大正・昭和を生き抜いてきた彼らの親御さんの話。遊女たちの悲劇に、「赤い自動車(救急車のことか)が橋本を所狭しと始終走り回る、そんな時代だったんですね」と、ひとりが腕組みをしながらボソッとつぶやき、更地の砂利を足で軽く撫で回した。

 そしてぼくの最も興味ある話題を持ち出す機会が到来したと感じ取った。それはつまり、妓楼に対する現在の住民の意識や如何にというものだった。
 善は急げと、ぼくは二人のご老人が大あくびをしないうちに議題を切り出さなければと思った。
 「往事の妓楼がこれ程見事にそのままの姿で残っていることに、よそ者のぼくはとても感動しているんですが、保存しようとの意識は住民の方にとってあるのでしょうか?」と。
 「残っている」のと「保存している」のとは、天と地ほどの差がある。「残っている」のは受動であり、自然消滅もやむなしとの意があり、「保存している」とは文化遺産として後世に残すという意を込めた能動であるからだ。

 そして、それに関連してもうひとつ。映画やテレビなどのドラマで利用された、いわゆるロケ地を地元の人たちは概ね地域振興や観光のために大いに活用しようと試みるものだ。ぼくは、時にはそれをとても押しつけがましく思い、煩わしく感じることがある。「だから何なのさ!」といった風に。
 ここ橋本は、任侠映画『鬼龍院花子の生涯』(1982年公開。ぼくは任侠映画にも、監督にも、役者にも興味がなかったので観ていなかったが、急遽観る羽目に)のロケが行われたところだ。映画の冒頭に「昭和十五年・夏 京都・橋本遊廓」と字幕が出る。
 ところが当地のどこにも『鬼龍院花子の生涯』のロケ地であったことの痕跡がまったく認められなかった。よく見かける「〜のロケ地」というこれ見よがしの立て看板や案内が見当たらないのだ。これはこれで心地良いのだが、地元の人はロケ地であったことなど歯牙にも掛けていないように思われ、それが不思議だった。

 妓楼について、おじいさんたちの言葉を要約すると、「国から街並保存の補助金が出るわけではないしね。ましてやここは遊郭。私たちはこの街並に愛着を持っているけれど、自然消滅していくのも時間の問題だと思っている。ここで育った者にとっては寂しい思いがするが、どうにもならないさ。ここがなくなる前に私たちが消えるよ」と本音が垣間見える。
 二人のご老体にとって、橋本はどうやら「おらが里のお国自慢」とはいえないようだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/443.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
検番兼組合講堂。歌舞練場であったかどうかは確認できなかった。敷地の中に入ってみたかったが私有地につき断念。
絞りf11.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02橋本」
妓楼の続く京街道。前回掲載写真とは逆方向から。太陽を背にして。入口だけは新しいが、他はかつてのままだ。
絞りf11.0、1/80秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/04/12(金)
第442回:京都の遊郭跡を訪ねる(4)
 3月上旬にしてはポカポカ陽気の橋本だった。妓楼が取り壊された更地で、80過ぎのおじいさん二人が滑舌よろしく相方(あいかた。ここでは配偶者のこと。遊里でいうところの遊女ではない)への不平不満を、時に口をすぼめながら、何時尽きるともなく、どこか得意気な様子でおしゃべりに興じていた。
 おじいさんのひとりが聞き役と覚しきもうひとりの相棒に、「嫁の悪口をあれこれいえるのは世間広しといえども、もうあんただけになってしまった。昨日もな、うちの嫁がわしに向かってこんなことを憚りなくいうんだ。聞いておくれよ。もう本当に嫌になるよ」(彼らの古式ゆかしい京都言葉を標準語に翻訳)を、壊れた蓄音機(古いなぁ)のように繰り返している。まさに老いの繰り言だ。

 人生のベテランの、相方に対する鬱憤晴らしの業をぼくも身につけ、磨きをかけても損はないと思い、後学のために耳を澄まして聞き入っていた。体(てい)の良い盗み聞きというやつだ。そして彼らがお互いに言い合う愚痴やぼやきに聞き耳を立て、ぼくは吹き出しそうになりながら笑いを堪えていた。
 心うち、「それって、悪いのはあんたたちのほうであって、奥さんに落ち度はないよ。いつだって男というのは身勝手で、まったくしょうのない生きものだ」と、彼らの常軌を逸したほどの我田引水ぶりに、ぼくは呆れながらも面白がっていた。
 その口上たるや、理論的にあまりにもごり押しが過ぎて、もしここに奥方がいれば、彼らは無残にも容赦のない返り討ちに遭うこと必至と思われた。木っ端微塵に粉砕されるに違いない。世間相場では、気弱な男たちは奥方には悲しいほど面と向かっていえないものである。ぼくもそうだ。
 しかしながら、彼らの話を聞いていると、あと10年経とうが、ぼくはこれほど身勝手な論理を振り回すようなジジィにはならないだろう、と今は思っている。もちろん、これは善悪の問題ではなく、性分のそれであろう。

 しかし、彼らは仕合わせだとぼくはつくづく思った。人も羨むほどの傍若無人さと牽強付会(けんきょうふかい。道理に合わないことを、自分の都合のいいように強引にこじつけること)を併せ持ち、ここに至れば即ちそれは憧憬の的ともいえる。生きるに恐いものなしだ。「人生、生きやすいだろうなぁ」とぼくは感嘆しきりだった。このような “眼中人無し” を踏襲できるのであれば、ぼくもこれからの老後は斯くありたいと願っている。

 挨拶だけはすでに済ませていたので、ぼくは彼らににじり寄り、仲間入りを果たそうと努めた。彼らに「溶け込む」ことに一意専心したのだった。このような時に限りぼくは自分を老人だと素直に認め、そしてなり切ってしまおうと自分に言い聞かせることにしている。
 前回述べたように、古希を過ぎた年相応の「人懐っこさ」を前面に押し立て、できることなら相手を懐柔してしまおうと目論んだ。「懐柔」は言い過ぎだが、ぼくはとにかく情報が欲しかった。
 陽が西から昇っても、生涯決してすることがないと信じて疑わないゲートボールやゴルフ(ゴルフは若い頃撮影で何度か経験がある)だって、「溶け込む」ことによって情報を得、それが写真に何某かの寄与を果たすとの確約が得られれば、ぼくはそれをすることを厭わないだろう。
 情報を得るということは、ことほど左様に自分を捨てて相手と同じ土俵に立たなければできないことだと、こんにちまで国内外を問わずそう学んできたし、正しかったと思っている。

 ぼくは頃合いを見計らいながら切り出した。「踏切の脇にある朽ち果てて、枯れ草の絡まった異常に大きな建物は何なのでしょうか? 歌舞練場(かぶれんじょう)のようなものがかつてここにはあったのですか?」と。
 「歌舞練場」とは、京都の祇園や先斗町、上七軒などの花街にある劇場兼芸妓や舞妓のための歌・舞踊・楽器などの練習場のことなのだが、ぼくの感覚では、橋本は花街というよりもっとドライな意味での色町だったと想像しており、ここに歌舞練場らしきものがあったのか、もしそうならここなのかを知りたかった。
 「花街」と「色町」の厳密な差異は辞書を繰ってもぼくの知恵では判然としないのだが、この問題はさておき、ぼくは時代の生き証人である二人のおじいさんの答えを待った。二人は互いに顔を見合わせながら、ぼくを厄介者扱いにせず、ありがたいことに「知る限り正確な情報提供者」であろうとしていた。
 「あれが歌舞練場だったかどうか記憶にないが、検番(料理屋、待合、芸者屋の業者が集まって作る三業組合の事務所の俗称。芸者の取り次ぎや玉代の計算などもしていた)であったことは確かだ」と、二人は60年以上も昔を懐かしむようにいった。「あの頃は、賑やかだったねぇ。どこを歩いても肩が触れ合うほど混雑していたもんだよ。あそこは貸席組合の講堂でもあったんだ」と、目を細めた。

 昭和31年に売防法が決まった後、町が廃れないように、広い組合講堂(約300坪。990u)を利用してラジウム温泉にすることを決め、組合員の協同出資で運営したとのこと。それがその後どうなったのか、二人の記憶はまことにあやふやで頼りないものだった。町で出会った他のお年寄りに聞いても埒が明かなかった。半世紀以上も昔のことなので、仕方がない。
 その後、この広い建物は中仕切りをして、集合アパートに鞍替えをしたそうだ。その痕跡は今も荒れ果ててはいるが残っている。噂ではこの検番は近いうちに取り壊されるらしい。
 史料の少ない橋本遊郭跡を訪ね、写真を撮りながらわずか3時間足らず。イメージを練るには要再訪というところか。

 お知らせ:4月16日(火)〜4月21日(日)まで、埼玉県立近代美術館にて我が写真倶楽部のグループ展を開催いたします。
 「第13回フォト・トルトゥーガ写真展 光と影の記憶 2019」。ご来場を心よりお待ち申し上げます。お気軽に、お声がけください。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
京街道に建ち並ぶかつての妓楼。細部にまで意匠を凝らした佇まいは重厚で、堂々たるものだ。風格さえ漂わせている。
絞りf13.0、1/100秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02橋本」
枯れ草に絡まれたかつての検番の裏側。最後はアパートとして使用され、その証として、何十本ものアンテナが共に朽ちていた。
絞りf11.0、1/160秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/04/05(金)
第441回:京都の遊郭跡を訪ねる(3)
 いろいろなところに撮影に行って、この頃見知らぬ人から声をかけられる機会がつとに多くなった。この珍妙で不可思議な現象は、特にこの数年の間に頻発している。
 声がけをしてくれる人たちは、この高齢化社会にあって暇を持て余した年齢の人々が、これ幸いとばかり満を持して話し相手を求め、ぼくのような鴨を探し出すのかと思いきや、ところが然にあらず、意外にも老若男女いろとりどりなのである。その年齢幅、実に大学生から80歳を超えるまでと、バラエティに富んでいる。写真を撮りに出かけると、好むと好まざるに関わらずあらゆる階層の人間的多様性にどっぷり浸れるというわけだ。

 何故このような現象が多発するようになったのか、その理由をぼくなりにあれこれ考えてみるに、ぼく自身が白髪の、身だしなみはともかくも、物腰だけは一見穏やかで優しい人間に見え(本当はそうなのだが)るらしく、何に対しても「はぁ、ごもっともでございます」と従順かつ素直な言葉しか発しない、少し頭のタガが緩み、かつ大べらな老人に見えるからかも知れない。ぼくはどうやら知らず識らずのうちに、相手に油断を与える特技を有しているらしいのだ。
 つまり、ぼくは人畜無害の平安な人柄であり、おおよそ人に危害を加えたり、悪態をついたりなど決してしないとの気風を十分に漂わせているらしい。どんな犬もぼくには尻尾を振ってくるので、動物的感覚と嗅覚の鋭い犬を以てしても、騙し遂せてしまう優れた技能をいつの間にか持ち合わせるようになったのだろうと思う。 “歳ここに至って” ということになるのかな?

 そしてもう一つは、人見知りの激しかった若い頃とは異なり、今誰彼となく、見ず知らずの人に気軽に声をかけることができるようになったからかも知れない。いつの頃からか、懐っこくなっていったようだ。そのことは反面、年老いて恥じらいを失うという最悪の事態に陥っているのかも知れない。ここ、極めて要注意である!
 「私はあなたの敵ではありません。こうしてお声がけするのはあなたに親しみを感じ、人格を尊重しているからです」を無言のうちに、しかも自然なかたちで体現できるようになったともいえる。そんなぼくの偽らざる心情が相手に直に伝わるのではないかと思っている。普段から無愛想が身についてしまっていては、そうもいかないだろう。眉間にシワを寄せていては誰も寄りついてはくれない。

 相手に警戒心を抱かせず、気さくなジジィを演じることができるようになったことは、人間として幾ばくかの成長を果たしているのだろうとぼくはほくそ笑んでいる。ただし、写真にはそのような気っ風が現れることのないよう、ぼくは過ぎたるほどの警戒色を強めている。写真は人が逃げ出すほどのものであってちょうど良い。いつもの繰り返しだが、古今東西、万人受けするような作品に碌なものはないのである。

 長い歴史を持つにも関わらず情報の少ない橋本遊郭について、現地をぶらつき、シャッターを押しながらも、ぼくの話に応じてくれそうな年配の人を探し出そうと努めた。
 年配の方は、喜んでお国自慢をするというのが通り相場だが、ここ橋本は遊里であったために当時から住み着いている住民は、どこか後ろめたさのようなものを託ち、話したがらないのではないかとぼくは案じた。
 ちょっと大袈裟に見えるカメラとレンズを右手にぶら下げながら、あれこれ被写体を物色するよそ者に対して、彼らはどのように接してくれるのだろうかということについても、実は興味津々だった。

 ぼくの身ごしらえは、何時如何なる場合でも写真屋然としないことを最優先としている。見るからに写真屋というのは、第一ぼくの生き方にそぐわないし、大袈裟にいえば美学にも大きく反し、あまり格好の良いものではない。「カメラマンでござい」って格好悪いよ。
 しかし、カメラとレンズだけは商売道具故大仰なものにならざるを得ず、ぼくはできるだけ目立たぬようにカメラを下に向けて持ち歩いている。肩にかける時は、脇に抱えるような仕草だ。写真屋はいつだって隠密風でなければならない。そして、抜き足差し足、忍者の如くでなければならない。

 妓楼が主を失い廃屋となり、やがて取り壊され、更地となった場所に年の頃80前後と覚しきおじいさん2人が立ち話中。世間話に熱中の様子だった。ぼくは彼らが好戦的でないか、友好的であるか、ぼくに石をぶつける気配がないか、などなどを一瞬にして判断しなければならなかったが、どうやら好人物のように思えた。この2人を逃しては絶対にいけないと、刹那ぼくは感じ取った。
 ぼくは愛想良く「こんにちはぁ。今日は暖かくていいですね」と標準語で接近を試みた。おじいさん2人も、ぼくをよそ者とすぐに悟ったようだったが、敵対視するでもなく、「そやなぁ、今日はぬくうてええわ(暖かくて良い)」とニコニコ顔で応じてくれた。未知との遭遇は、お互い良い滑り出しだった。

http://www.amatias.com/bbs/30/441.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。

★「01橋本」
日の当たった右の道路が京街道。妓楼がかつての姿そのままに建ち並ぶ異次元空間に唖然とさせられる。左の大きな妓楼は旧石原楼。
絞りf11.0、1/160秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02橋本」
橋本を流れる大谷川沿いに、妓楼の裏側が窺える。左の土手を越えると、木津川、宇治川、桂川が合流し淀川となる。古来より水陸交通の要所だった。土手に上がると昔コマーシャルで有名になったサントリー山崎蒸留所が見え、その向こうに「天下分け目の天王山」がある。天王山をめぐり、天正10年(1582年)羽柴秀吉と明智光秀が争った。
絞りf11.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2019/03/29(金)
第440回:京都の遊郭跡を訪ねる(2)
 橋本遊郭についての情報は既知のものもあるのだが、今回はそれに加え地元のご年配の方々7,8人から直接聞き取った事柄も含めて記すことにした。
 ご年配といっても売春防止法(以下、売防法)が施行されたのは今から62年前の昭和32年(1957年。法律的に公布されたのは昭和31年法律118号)だから、当時を知り、記憶に留めていると思われるのは、年齢的に少なくともぼくくらい(現71歳)のジジ・ババか、それ以上であろう。

 昭和32年に橋本遊郭は非合法なものとなり、神亀元年(724年)より1230余年隆盛を極めた遊里の灯は儚く消え、長い歴史の幕を閉じた。人々の織り成すそれぞれの人生は音を立てて崩れ落ち、そしてそこで生を営んできた遊女たちは蜘蛛の子を散らすようにどこかへ消えてしまった。
 正確には昭和33年3月(1958年)に「橋本遊郭解散式」が行われている(出典、京都新聞)。
 橋本の大遊郭は約80軒の妓楼があったが、吉原などとは異なり、文献や資料と思われるものがほとんど残されていないので(あるいは散逸してしまったか)、人々の記憶や言い伝えに頼る他なしといったところだ。だが反面、想像を働かせる余地が大いにある。そこが妙味だ。

 ぼくの訪問は売防法の施行からすでに62年の歳月を経ており、彼らの記憶がどのくらい正確なものかは確認のしようがなく、多数意見を採用するしか手がないのだが、今回は史実を辿る旅ではなく、ぼくの遊郭に対する「勝手な思い入れ」と文化の一大発祥地としての遊郭を自身の記憶として「記録に残しておく」ことを主眼に置いている。それは他者のためのものではない。
 「記録」といっても、もちろんそれは学術的なものではなく、ぼく流にかなりデフォルメされたものだ。少なくとも行政的云々というものではなく、どちらかというと文学的、もしくは文化的な趣に荷担したいとの思いが勝っている。

 橋本遊郭跡の最大の魅力でもあり特徴は、町の決して広くはない区画に、未だ20軒前後の元妓楼や関連施設が往事の姿そのままに残されていることだ。このような所は日本全国でぼくの知る限り橋本だけだと思われる。遊郭好事家にとっても(ぼくはまだ好事家というほどの域には達していないし、また知識も乏しい)、ここは見どころ満載の遊里である。
 未だ建築的に健在なる妓楼は60年以上の歳月を感じさせず、その別嬪さんぶりにただただ驚嘆するばかりである。やはり特有の美しさだと、ぼくは倫理や道徳云々を打ち捨てて、敢えてそう讃えたい。
 しかし、如何に「保存状態」が良好であっても、妓楼という性格上、歴史的文化遺産の仲間に入れずにいるのは、部外者から見れば、どこか不遇を託っているように思えてならないから不思議である。ぼくは倫理・道徳に取り入ることなく、どうしても妓楼特有の美を文化の一形態として大切にしたいのだ。
 なお、現存する立派な妓楼は一般の人が生活する個人宅となっており、主人を失った妓楼は朽ち果てるか、取り壊されるかのどちらかである。また、取り壊された後、更地になってしまった部分も多々あり、現在の橋本はそれらが渾然一体となっている。

 保存状態の良い妓楼の建ち並ぶそんな景観は写真屋にとって、否応なしに精神の高揚をもたらし、今撮っておかないと次はもうないかも知れず、そう思うとカメラを握る手がジトッと汗ばむのだった。今後、存在の保証がまったく得られないということは、やはり一写真屋の正念場と捉えてもいいのではないだろうか。
 また美的で意匠を凝らした外観は、ここで繰り広げられたさまざまな男女の出会いと別れのたゆたうような綾(あや)を十分に窺わせるものとして貴重な史料であるかのように思えた。そこには情あり、また金銭のやり取りのみという乾いたものまで、色とりどりのものがあったに違いない。他を寄せ付けず、そして計り知ることのできない男女の交流が行き場を失った水の流れのように澱み、何百年もどろどろと渦巻いていたはずである。
 ぼくも記録と情緒の板挟みに遭い、その合間を揺れ動き、何とも締まりのない精神状態で同じ場所を行ったり来たりしていた。だがいずれにせよ、どうやっても冷徹な記録主義者になりきれないぼくは、自分を体良くあやしながら「一期一会」という重宝な言葉に寄り添うことにした。ぼくは自身に手を焼き、「なるようにしかならないものさ」と、高を括ってみせた。
 
 写真は現場主義なので、建築学的(あくまで視覚的な面で)に興味あるものが現存し、目の前に出現することほど喜ばしく、そしてまた意欲をそそられるものはない。しかもありがたいことは、少々の皮肉を込めていうのだが、それらが行政の手を経ないでしっかり保存されて!?いることだ。誤解を恐れずにいえば、行政の手が加わるほど歴史的遺構はその姿や思考を歪めがちである。おまけに拝観料までちゃっかり取られてしまうのだ!
 橋本は遊郭という性質上、公的な保存の対象にはなりにくく、栄枯盛衰が自然な形で現存し、訪問する度に異なる姿となっていることを目の当たりにできる。完璧な保存を目的としたものより考古学的な意味合いに於いて興味深い面が多々あるとぼくは感じている。

 今回の3枚の掲載写真は、一軒の妓楼をアングルと時間を変えて撮ったものだ。この妓楼は駅から歩いて0分圏内であり、改札を出た途端に「ウワッ!」となるのが橋本。この日は、晴れたり、曇ったり、雨模様だったりと、まるでぼくの心境そっくりだった。  

http://www.amatias.com/bbs/30/440.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本。同じ場所を時間とアングルを変えて撮ってみた。時系列に3枚。

★「01橋本」
改札を出て踏切を渡るとすぐに妓楼が忽然と現れた。「そのままじゃん」しか言葉が出なかった。太陽は厚い雲に覆われどんよりとした光。
絞りf10.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.00。

★「02橋本」
逆方向から。欄間飾が美しい。右も完璧な妓楼。正面の線路向こうに見える大きな建物は、検番兼遊郭の組合講堂。橋本は一般観光客の訪れない美しい京都。
絞りf13.0、1/80秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「03橋本」
踏切の赤色灯が点滅。京阪電車橋本駅は京都市の中心祇園四条駅から約30分のところ。遊郭に興味ある方は是非に。
絞りf13.0、1/25秒、ISO100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2019/03/22(金)
第439回:京都の遊郭跡を訪ねる(1)
 「銚子の “銚” の字も書かれていないではないか」と前回の拙稿について、口さがない友人は愉快そうに囃し立てた。指摘されるまでもなく、執筆時、すでに気づいていたのだが、ぼくは書き直す気力を失っていた。
 一通りざっくり書いてしまった後、推敲しながら「あれっ」と、決まり悪そうにつぶやいた。銚子について一言も触れておらず、可笑しさが込み上げてきて、どうしたものかと思案したが、銚子の写真を掲載するのだから免罪符を与えられるに違いないと決めつけ、加筆するのはよした。「ぼくは写真屋なのだから」と何度も言い立て、自身を庇った。自己弁護に奔走したのである。単機能人間の面目躍如といったところだ。
 そしてまた、別の言い訳を用意し始めた。「写真について久しぶりに一端(いっぱし)にもエラっそうに述べているのだから、銚子に触れずとも許されて然るべきではないか」と愚図つきながらも確(しか)と言い聞かせた。ぼくは義務から解き放たれたような気がして、一旦安堵のため息をそっと、人知れずついてみた。

 翌日から、義母の四十九日の法要とさまざまな後片付けを手伝うため、1週間ばかり京都に滞在しなければならなかった。そんな事情で、執筆は手抜きこそしないがいろいろなことに気を割かれ、急いていたことは確かだった。
 その原稿を書いてから、ぼくは義母と共に過ごした最期の8ヶ月間の日々について、故人を慕い法要に集う人たちに宛てて、4,500文字を費やし文章を認(したた)めた。「よもやま話」の約2倍の量だった。それを12部プリントし、封筒に入れ、バッグに詰めた。義母に対する惜別の情と、ぼくのせめてもの供養のつもりだった。

 京都は昨年5月以来のことで(余談だが、新幹線は何度乗っても一大感動巨編だ。あのスピードは夢見心地であり、麻薬的でもあり、非現実の極みである)、拙稿にてその時の体験を17回にわたり連載させていただいたが、神社仏閣の撮影にすっかり手を焼いてしまったぼくは、今回それをきっぱり諦め(せっかくの京都なのに、我ながら情けない)、かねてより興味と関心のあった遊郭跡を撮ってみようと決めていた。
 多事多忙の合間を縫って、京都府八幡市橋本(ほぼ大阪府との境)にあった「橋本遊郭」跡やかつての「五条楽園」界隈(市内)に足を伸ばすことにした。

 遊郭について、ぼく自身それほど詳しいというわけではなく、小説や落語、映画で知るくらいのものだ。日本中にあった遊郭が急に姿を消したのは、非合法なものとなってしまったからである。
 売春防止法が施行されたのは昭和32年(1957年)で、翌33年(1958年)に赤線(昭和33年より以前に公認で売春が行われていた地域の俗称。非公認を青線といった)が廃止された。
 当時10歳のぼくに遊郭の存在や実際を知る術はなく、幸か不幸かそこで遊ぶ機会はなかった。あと10年早く生まれ、その活動を目にできれば、描くイメージも異なったものになったかも知れない。

 しかし、赤線が廃止されて間もなく、ぼくを可愛がってくれた京都の親戚が、どのような事情かは知らないが、「五条楽園」にある妓楼(ぎろう。遊女をおき、客を遊ばせる店。青楼。女郎屋とも)によんどころなく間借りをしたことがあった。従姉妹の話によると、まさに “よんどころない事情” からであった。
 もちろん非合法故、妓楼は廃業していたが、家はそのままで、造りや構造、様子や雰囲気などは異次元の世界だった。ぼくは3歳年下の従姉妹と一緒にやたら広い家の中を走り回ったり、かくれんぼをしたりして遊んでいたのだが、子供心ながらに「不思議な家やなぁ。ここは何だったのだろう?」と、色とりどりのガラスが埋め込まれた窓を見つめながら不思議がっていたことをよく覚えている。
 しかし、不思議に思いつつも聞くことがなかったのは、聞いてはいけない何かを薄々感じ取っていたからだと思う。如何わしく怪しげな何かを、子供の直感はしっかりと捉えていたのだろう。
 
 ぼんやりとした記憶だが、家に入ると湯屋の番台のようなものがあり、そこにおばあさんがいつも置物のようにポツンと座っていた。ぼくにとっては見知らぬおばあさんだったが、物言えば叱られるような気がして、話をしたことはなかった。
 ぼくは「あのおばあさんは誰?」とも聞かなかった。このことも前述したことと同様に、聞いてはいけないことのひとつのように思われた。今、思い返すと、ぼくが人を警戒することを覚えたのはこの時からだったような気がする。
 ともあれ、ぼくは上京区今出川の出町からこの妓楼に一夏のうちに何度か訪れ、寝泊まりをし、靴を買ってもらったり、映画に連れて行ってもらったり、とても可愛がってもらった。従姉妹の家族は、ここに5年間滞在したのだそうだ。

 この妓楼はぼくの小学校時代のほろ苦くも懐かしい思い出でもあるのだが、非合法化する前の遊郭の匂いが色濃く染みついており、同期できるものがどこかにあるに違いないとの思いが、約60年の時を経て、「橋本遊郭」や「五条楽園」に走らせたのではないだろうかと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/439.html

帰京して間がなく、今回掲載は1枚のみです。次回は帳尻を合わせて3枚掲載いたしますので、どうぞ悪しからず。

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
京都府八幡市橋本

★「01橋本」
橋本に残る妓楼のひとつ。今は一般の方が使用しているようだが、普通に使うには広すぎない? このような妓楼がまだずいぶん残されている。解体され更地になった場所から撮影。左の赤い波板も妓楼。
絞りf11.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.33。
(文:亀山哲郎)

2019/03/15(金)
第438回:念願の銚子に行ってみた(6)
 今まで何度かアナログ(フィルム)とデジタルの相対的な違いなどについて思いつくままに述べてきた。その仕組みや扱いばかりでなく、双方に対する考え方の差異についても言及してきたつもりだ。
 ぼく自身、写真に関わってきた年数はアマチュア時代を含めこんにちに至るまで60年を超えてしまったが(ぼくは途中下車の好きな人間故、中断していた時期もあるけれど)、デジタル撮影は今年で17年目を迎えたに過ぎない。

 デジタルは始めた当初から自身の仕事に直結していたので、勤勉に学ばざるを得なかったのだが、ぼくにとってデジタルはアナログに比べ仕組みが複雑過ぎて、難解な部分が多々あった。パソコンを始めとする未知なることなどなど。このことは、決して歳のせいばかりではないと強調しておきたい。
 知識や技術の習得に於いて必要でない部分もあったりして、その繁雑さから如何にして免れるかという問題にも多く直面したものだ。自分にとって要るものとそうでないものの選り分けが、たいそう厄介だった。未だデジタルは鋭意勉学中というところ。
 しかし、デジタルにはフィルムにはない長所もあるので(もちろんその逆もある)、それを最大限に利用すべく努めてきた。そのうちのひとつが暗室作業(画像補整。レタッチとも)である。特にカラー写真の扱いは特出すべきものがある。アナログのカラー調整(フィルム現像やプリント)はとても難儀なもので、素人にはなかなか手出しのできない分野でもある。
 デジタルはその難儀さを容易に克服できるのだから、これを利用しない手はない。アナログを懐かしみつつ(涙するほど懐かしい)、戻ることがないのは、デジタルのほうが思い描いた映像をより得やすいからだ。デジタルにはまだまだ不満もあるが、もうアナログには戻らないと腹を決めている。
 
 色温度やカラーバランスの調整(つまりホワイトバランス)もありがたく貴重な機能に違いないが、「デジタル最大の利点は暗室作業にある」とぼくは誰彼となくいってきた。拙稿でも繰り返し述べてきたことである。
 ぼくにとっては、仕事の写真であろうと私的な写真であろうと、アナログに比べはるかに “精緻で自由” な暗室作業が可能となるデジタルは無限の可能性を与えてくれるように感じている。このことは、写真に心血を注いできた多くの人たちに計り知れないほどの恩恵を与えている。ぼくはアナログ時代からずっとそのような恩恵が欲しくて仕方がなかったのだ。

 しかし、少なくとも「写真が趣味」といって憚らない人の多くが、デジタル暗室作業の御利益に与っていないのではなかろうかと、あるいは関心が薄いのではなかろうかと、お節介ながらぼくはいつも案じてしまう。人様に「それこそ宝の持ち腐れですよ」などというのはまことに烏滸がましく、大きなお世話であることを重々承知の上で、やはり声高に叫んでみたいのだ。それほどぼくは暗室作業を大切にしている。 

 何故このようなことをぐだぐだと記したかというと、読者の方々から、要約すれば「どのようにして写真を仕上げているのか? その実際を知りたい」とのご質問を時折受けることがあるからだ。
 今週はたまたま丸1週間留守にしており、その間に2件ばかり同様の問い合わせをいただいた。この件に関して、ぼくは正確で誠意ある受け答えができずに、実は辛い思いをしている真っ最中。

 デジタルの暗室道具(代表的な例としてAdobe社のPhotoshopなど)の恩恵にたっぷり浴している身として、ぼくの写真のトーンや仕上げなどに関心や好感を示していただくことはとても嬉しいことなのだが、写真の補整は1枚限りのメソードでしかなく、そのプロセスを説明できないというのが正直なところだ。そこが辛い。
 つまり、この画像には適した暗室作法だが、他のものには適応できず、最大公約数的なものを探すわけにもいかず、ぼくは質問のあるたびに狼狽えるばかり。このことは決して出し惜しみをしているわけではなく、撮影時に描いたイメージ(写真は生涯唯一無二のもので、同じ写真は2枚と撮れないのと同様)に「追いつけ追い越せ」とばかり、トーンカーブや彩度、明度やコントラスト、明瞭度やぼかし、そして気に添ったソフトのプリセットなどなどを総動員して作り上げるので、お伝えしたくもできないとの事情がある。そのプロセスは自身でさえ複雑怪奇なものと思えるくらいだ。同じ補整は二度とできない。

 デジタル撮影を始めて以来、ぼくはRawデータ(「生データ」という意味で、現像しないと可視化できない)でしか撮ったことがない。ぼくにとってそれはあくまで素材でしかなく、暗室作業を経て撮影時のイメージが初めて映像化されると考えている。
 作品自体のクオリティはシャッターを押した瞬間にすでに決定されており、ダメ写真を暗室作業でどうにかしようとしても、それはどうにもならぬとの現実を、ぼくは記憶にないほど体験してきた。
 素材が良くなければ暗室作業をどのように凝らしてもまったく無駄であるという無慈悲な現象に真っ向対峙しなければならない。分かっちゃいるんですけれどもね。

http://www.amatias.com/bbs/30/438.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
千葉県銚子市外川町。同じ場所を時間を変え、異なるアングルで撮ってみた。

★「01外川町」
西日に照らされた「防火水そう」の標識を空に浮かすか、建物と重複させるか悩んだ挙げ句の1枚。撮影日時:2月4日午後3時43分。
絞りf13.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。

★「02外川町」
陽は地平線の辺りにあり、雲が湧き上がる。撮影日時:2月4日午後5時02分。
絞りf11.0、1/30秒、ISO200、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)