![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2024/06/07(金) |
第693回 : 心霊写真 |
「心霊写真」とはいうものの、結論からいえば、ぼくは写真を始めて以来、プリントやネガ・ポジフィルム、デジタルデータを、高倍率のルーペやモニター上で穴の開くほど見つめてきた。その数、恐らく何10万枚に及ぶだろうが、世にいうところの「心霊写真」には、まだ一度たりともお目にかかっていない。故に、「心霊写真」の存在を真っ向から否定している。
写真は存在するものしか記録しないとの視点(化学・物理・光学・科学の面から)をもってすれば、ぼくの考えは至極まっとうで、合理的なものだと思っている。カメラは、人間の錯視や念力までは写してくれない。 ついでながら、「念写」もまやかしに過ぎない。手品に騙されてはいけない。手品はあってよいものだが、手品を用いて念写といい張る行為は詐欺同然である。ただ、この手のものは、まさしく『信じようと信じまいと』(R. L. リプレー著 “ Believe It or Not” 。ぼくの小学時の愛読書だった)である。 まやかしや怪しげなものを、生きるための一種の遊びや方便のようなものとして捉えるのは、人間の知恵なのであろう。 前回取り上げた「三頭山口駅」の廃墟は、ネット情報によると、「心霊スポット」なのだそうだ。ぼくは、世間で面白おかしくいわれる「心霊スポット」なるものにはとんと興味がなく、またそれらしい現象に見舞われたことは一度もないのだが、老い先を考えれば、たっぷり皮肉を込めて、是非ともお目通り願いたいものだ。ぼくのように、極めて暗示にかかりにくい質の人間は、「心霊スポット」とは無縁である。 「廃墟」イコール「心霊スポット」の図式がぼくにはないので、「心霊スポット」と銘打ったところに身を置いても、ぼくには霊感なるものがないのか、あるいは写真屋という職業柄、特にフィールドワークの際には、足元に神経を集中せざるを得ず、そのために霊的なものの一切を感じ取る隙がないのだと思う。平易にいえば、「そんなものに構ってはいられない」といったところだ。 こんなぼくでも、伊達や酔狂で写真を撮っているのではなく、どうあっても終始一貫、被写体の持つ現実に真正面から対峙せざるを得ず、「心霊スポットなど、どこ吹く風」というのが実態である。 今回の、撮影行のぼくの責務は、怪我をせず、写真をしっかり撮って、そのデータを家まで無事に持ち帰ることが最優先事項であり、因って霊的なものにかまけているどころではなかった。 過去、何万人もの人々が惨殺された現場や、あるいはまた、数多の怨念が渦巻くようなところに赴き、そこで撮影をした(それらは写真屋としての使命感に駆られてのもの)経験からしても、ぼくにはやはり霊的な写真(そのようなものがあるとすればだが)とは縁遠い。 悲惨な目に遭った人々や、そこでの出来事に思いを巡らせ、その有り様を想像逞しく脳裏に描くことはあっても、常にぼくは現実的で、霊的なものを感受することはなかった。 自分のイメージや空想に分け入り、そこで物語を勝手に描くことはままあるが、霊的なものにはのっけから反応を示すことなく、その伝どうあっても、ぼくはロマンティストではない。どちらかというと、 “可愛げのない、かなり即物的なやつ” だ。 そんなぼくは、実際に目にした体験や、信ずるに足る現象、科学での裏打ちが明らかにされているものなどについてしか、その存在を認めようとしない。それをして世間では、 “片意地” とか “偏屈” というのかも知れないが、これはぼくの性分なので仕方がない。 ただ、見たことのないものでも、その存在を疑う余地のないものについては、科学的実証を待たずして認めている。地球外生命体などはその一例だが、人類がそれに遭遇するかといえば、「決してあり得ないこと」と断定している。だが、地球外生命体はどこかに必ず存在するとするのが理知的な考えだし、実際、ぼくもそう信じている。 幼少時より、生家のすぐ近くにあった相国寺(しょうこくじ。京都市上京区。臨済宗相国寺派大本山。国宝や多くの重文を有す。金閣寺、銀閣寺、真如寺は、相国寺の山外塔頭)を始めとするお寺さんの境内や墓地を遊び場として走り回り、それを日常としていたので、霊的なものには不感症になっているのかも知れない。ぼくは「世間擦れ」をもじって、「墓場擦れ」なんていっている。 実際のところ、幽霊とかお化け、物の怪(もののけ)の存在をまったく認めておらず、したがって、闇夜の墓場などに、何の恐れもなく入って行ける。「肝試し」など、屁の河童。相手もそれを気取り、脅し甲斐がないことを悟るので、ぼくのような特異体質には近寄ってこないのだろう。むしろ、ぼくは幽霊より人間のほうが恐い。 幽霊や妖怪というものは愉快を与えてくれる。だが惜しむらくは、ぼくは彼らを夢のなかの遊具的な捉え方しかしていないので、極めて現実味に乏しく、そこが残念だ。ぼくは自分の考えに固執し過ぎており、それはあまり面白い生き方ではない。 唐突ながら、狸や狐には化けて出て欲しいし、河童、天狗、鬼にも、ぜひとも会ってみたい。妖怪変化や魑魅魍魎(ちみもうりょう)と戯れてみたいものだが、「恐いもの見たさ」との気持はほとんどなく、もっと無邪気に愉しめれば、こよなく喜ばしい。 https://www.amatias.com/bbs/30/693.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。 東京都西多摩郡奥多摩町。ロープウェイ。 ★「01三頭山口駅」 機械室。わずかな隙間からカメラをねじ込み、モニターを見ながら、タッチパネルでシャッターを切る。 絞りf5.0、1/8秒、ISO 3200、露出補正-1.67。 ★「02三頭山口駅」 乗り場へ向かう下り階段に膝をついて仰ぎ見る。1962年の営業運転以来の時空を写し取る。外を白く飛ばさぬよう、露出補正を慎重に決める。 絞りf5.6、1/13秒、ISO 640、露出補正-1.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/05/31(金) |
第692回 : 廃墟マニア(2) |
今回は「写真よもやま話」にそぐうべく、写真の話を少しばかりしてみようと思う。
ぼくは、三頭山口駅廃墟撮影で文明の利器の多大なる恩恵に浴した。その恩恵とは、暗所撮影時に於ける実用的なISO機能(高感度でもノイズが大幅に軽減されている)の素晴らしさである。この発見は、一昨年の「鉄道博物館」(EOS - R6使用)での使用に際して、そして昨年の「大谷資料館」(EOS - R6 MarkII)でも体感したことだが、今回の廃墟ではことさらその威力に助けられた。 写真の良し悪しは別として、撮影に支障を来すことがひとつでも減れば、士気も上がり、どれほどありがたいことか。最新カメラの利点のひとつを痛切に感じさせられた。足元が怪しくなりつつある後期高齢者のぼくにとって、この新兵器はとても頼り甲斐のあるものだった。涙がちょちょ切れ(関西の俗語)そうになった。 つけ加えるなら、優秀な高感度ISO性能に、優れた画像ソフトのノイズリダクション機能を併用することによって、その成果は倍加する。往々にして、高感度ISO使用時に発生するノイズ(画質を損ねる要因)を、画像ソフトで極力軽減しようとすると、得てして解像感やシャープネス、延いては画質が損われる傾向にあるが、その弊害を避けるべく優秀な画像ソフトを利用すれば(もちろん、そのスキルや感覚が必要だが)難を逃れることができる。やはり、何事に於いても、「禍福は糾(あざな)える繩の如し」である。 ノイズリダクション機能を上手に使いこなせば、特にRawデータに対しての効果は大きく、後処理の際にも有利に働く。 ノイズの発生しにくい低感度ISOを使用したいというのは人情だが、暗所に於いて良い画質を得たければ、どうしても露光時間が長くなり(ノイズが発生する長時間露光は極めて稀で、特殊な撮影下であろう)、三脚の使用を余儀なくされる。今回の廃墟のように足元が心許ない状況下での三脚使用は、時間的にも、体力的にも難儀を極める。そして、構図にも制約を及ぼしかねない。これらは、撮影者にとって見逃すことのできない由々しき問題となる。 ミラーレス一眼を新調する以前に愛用していたプロ仕様のEOS -1Ds III (2007年発売。ISO感度は100~1600だったが、ぼくは使用を400までとしていた)は大変優れた画質を提供してくれ、堅牢性をも含め、プロの道具として信頼に足るものだった。 だが、今回の廃墟撮影などの暗所では、ノイズの発生を勘案すれば、三脚を使用せざるを得なかっただろう。手持ち撮影では、如何にブレを防止するかに腐心しなければならず、心身ともに、か弱いジジィはさらに命を縮めたであろう。 三脚の使用が認められない「鉄道博物館」や「大谷資料館」でプライベートな写真を撮るには、工夫と気合いが必要とされるが、だがそれだけでは、写真は写ってくれないので、やはり弱りものだ。 今更なのだが、露出を決定する要素は、絞り、シャッタースピード、ISO感度、露出補正の4要素であり、これらが絡み合って決定される。そのどれもがシーソーのような関係で成り立っており、被写体から受けるイメージに対し、それらをどの様に組み合わせ、そして工面するかという問題に突き当たる。ぼくは、1枚撮る度にこの労力を強いられ、そして頭を悩まされてきたものだ。 これらの4要素は常に「あちらを立てればこちらが立たず」という関係で成り立っているので(上記した「シーソーのような関係」)、多少の数学的な頭脳回路を必要とする。とはいえ、ぼくのように数字にまったく弱い人間が何とかやってこられたのだから、大多数の人たちにとっては、容易く意のままに操ることができると思いたい。 だが、ある新聞社や出版社の写真部長から、「写真学校を卒業した新入社員が、この理屈を理解できず、右往左往する」という信じ難い話を異口同音に聞かされた。嘘のような本当の話である。ぼくは自分の耳を疑った。度肝を抜くような話である。「世にも不思議な物語」は実際にあるのだ。ぼくは今、「笑っている場合じゃないよ」と、これ幸いに、我が倶楽部の面々に向かって話しかけてもいる。 露出を決定する要素をどの様に操作するかは、撮影者次第であり、この物理的原理は、撮影者の意図を直接映像に反映するための基本中の基本である。あやふやな方は是非とも修得してもらいたい技術(知識)のひとつである。 画像の明暗は元より、被写界深度、レンズの周辺光量、色収差、コマ収差、画像全体の解像度などなどを考慮し、4要素を決定できるようになれば、こと撮影に関しては一人前だ。この理論的知識を生かすためには、どうしても場数を踏まなければならない。自身の描く画像に対して、咄嗟の判断ができるようになれば、さらに一人前だ。 題名とした「廃墟マニア」だが、今回は「暗所撮影で考えたこと」としたほうが相応しかったかも知れない。前号の冒頭で、ぼくは廃墟マニアではなく、それを語る資格もないと記したが、廃墟内部は電灯もなく暗いことが通例なので、足元や周囲に、十分に気を配る必要がある。くれぐれもご用心あれ。 写真のメリットや面白さは、被写体を見た目より暗く、または明るく表現することができるということだ。ここに正解はない。つまり「適正露出」なるものは、常に存在せず、撮影者の目的により千差万別。上記した露出の4要素をいかに捌(さば)くかは、写真愛好家の永遠の課題だろう。 https://www.amatias.com/bbs/30/692.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。 東京都西多摩郡奥多摩町。ロープウェイ。 ★「01三頭山口駅」 機械室。入口や壊れた窓から外光が射すが、機械の部分はほとんど真っ暗で目視するのが困難なくらいだった。デジタルは暗部が完全に潰れなければ、このように再現可能だ。ストロボを使うと空気感や雰囲気が失われるので、私的写真ではストロボを使うことは決してない。 絞りf5.0、1/8秒、ISO 4000、露出補正-1.00。 ★「02三頭山口駅」 機械室の上部へ這うように登ったところにある装置。この巨大なコンクリートは、ケーブルを固定するためのもの。 絞りf5.6、1/8秒、ISO 8000、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/05/24(金) |
第691回:廃墟マニア(1) |
「廃墟マニア」と題したものの、ぼく自身は生憎「廃墟マニア」ではなく、またそれを語る資格もない。「廃墟マニア」を認める写真好きの方々、すいません。
とはいうものの、たまたま廃墟や廃屋らしきものを見かけると思わず足を止め、観察したくなる。廃墟には、強いていうならば、そこはかとなく漂う魔性のようなものがある。その魅力とは、あくまで「フォトジェニックな」とか「廃墟の美」などの観点からである。それは、写真屋にとって見逃すことのできない出会いでもある。撮影意欲が反射的に湧き起こり、全身がカッと熱くなる。ぼくは、病膏肓(やまいこうこう)に入るのである。 廃墟に魅せられる大きな素因は、かつてそこに人々が住み、その様子を頭のなかに巡らせながら、往事を忍びつつ、さまざまな想像や幻想を掻き立てられるからだろう。それはぼくにとって、やはり魔性なのだ。また、そこに漂う郷愁や哀愁は、かなり直感的な心理作用を呼び起こす。ぼくでさえ、情緒的な心情に囚われる。 廃墟に出会った時、何か魅力的で「フォトジェニック」なものが、発見できるかも知れないと、多少の期待を抱き、胸がザワつく。それは写真愛好家だけでなく、多くの人が感じるところではないだろうか。 朽ちたものの魅力は、ある時は宗教的、あるいは心霊的な誘(いざな)いを含んでおり、我々を惑わす。ぼく自身は、世にいわれるところの、いわゆる「心霊スポット」とか「超常現象」などのまやかしにまったく無関心であり、そのようにどこか如何わしいものは、信ずるに足りないものと決めつけている。 被写体から受けるイメージを最優先に考える質の写真屋であるのに、その面に於いては至ってリアリストである。そして、科学信奉者でもあるのだが、科学で解明できないことはこの世にいくらでも存在していることはもちろん認めている。もし、ぼくに知的 !? 好奇心なるものがあれば、「不思議」とか「謎」の解明は、科学を頼りにするほか手がない。 有史以来、人類の「神頼み」は絶えることがなく、ぼくも本能的に(人並みに)持ち合わせているが、「良い写真が撮れますように」と願を懸けたことは一度もなく、したがって信仰もなく、故に自身を不信心者と公言している。そんな有り様なので、良い写真が撮れないのかなぁと、最近になってやっと気づき始めた。 もちろん、神社仏閣に立ち入るときは、ぼくだって頭を下げ、賽銭箱に向かって憚りながらも分相応な10円玉を1枚だけ投げ入れたりする。そして一丁前に神妙な面持ちで手を合わせたりもする。願掛けは、写真のことではなく、名誉のためでもなく、ましてや金銭でもなく、ただ一途に家族や友人の安寧に対してである。たかだか10円で叶うと思い込んでいるところがすごい。自分でも、厚かましくも気味の悪いやつだと思っている。 今回の掲載写真は、ぼくが高校1年時、実際に利用したことのある奥多摩湖ロープウェイ(東京都西多摩郡奥多摩町)である。今から約60年も昔のことなので細かい記憶は定かではないが、カメラをぶら下げ、当時世界最大の貯水量を誇る人造湖(奥多摩湖。小河内貯水池ともいわれる)を見たくて行ったのだった。だが、その感慨も今となっては幻となっている。ただ、その時に乗ったロープウェイだけが、朧気ながらも脳裏に残滓のように、危うくもへばり付いている。 この時に乗ったロープウェイは、昭和35年(1960年)に開業し、昭和41年(1966年)に一旦運行を停止したが、見通しの立たぬまま昭和50年(1975年)に廃止された。 ぼくは発作的に、「ここに行ってみるか。掲載写真のこともあるし」と呟いた。何故か本稿担当氏の薄笑いが、やはり幻のように浮かんでは消え、消えては浮かんだ。心底生真面目なぼくは、彼の薄笑いに怯えつつ、再びカメラを持って、60年ぶりに彼の地へ赴こうと決意した。 薄笑いは、ぼくに発作を起こさせるに十分な仕草だった。フリーランスというものは、いつも担当者の下部(しもべ)とならざるを得ないとの気の毒な宿命を負っている。「物の哀れ」(ここでは無常観的な哀愁)、ここに見つけたり、といったところか。 出立は例によって遅く、午後1時半。到着時間を早めたいので、関越自動車道、圏央道を利用し、所要時間2時間強といったところだった。 前日ネットで下調べをして分かったことは、ロープウェイの三頭山口駅(みとうさんぐちえき)に至る道が見つけにくく、しかも駅までの登りにかなり難儀するらしい。つまり、獣道のような道なき道を登坂しなければならないということだった。しかも急勾配とのことだ。 かつては、足腰に自信があったが、この2,3年徐々に衰えが増し、それを自覚すべく転倒を何度かしていたので、ぼくは身構えた。 30年ほど前、写真好きの中学時代の先生が、撮影の際に足元を見失って、転落死された。そのことが一瞬脳裏をかすめたが、「おれは、これでもプロフェッショナルだ。今まで散々修羅場をくぐり抜けてきたではないか」との励ましの声が頭のなかで響いた。声の主は、薄笑いではなく、真顔だった。 撮影の前に、近くに神社でもあれば、そこで願掛けをし、賽銭箱には「格上げをして20円とするか」と決め、ぼくは、ポケットを弄(まさぐ)っていた。(次号に続く) https://www.amatias.com/bbs/30/691.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。 東京都西多摩郡奥多摩町。ロープウェイ。 ★「01三頭山口駅」 画面左下のほうから、息も絶え絶えとなり登り詰めたところに、かつてぼくが利用したことのある駅が、鬱蒼とした木立のなかに忽然と姿を現した。雲行き怪しく、遠くに雷鳴が響いていた。 絞りf5.6、1/25秒、ISO 800、露出補正-1.00。 ★「02三頭山口駅」 改札をくぐり、乗降場所へ。60年近く放置されたままのゴンドラだが、たまに訪れる人のために、「みなさんのご協力により、きれいになっています。来た時よりキレイにお願いします。みとうさんぐち後援会」と記した紙が置かれてあった。このゴンドラの色は、いつかは分からぬが、往事の物と同じように塗り替えられたものだ。 絞りf5.6、1/13秒、ISO 320、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/05/17(金) |
第690回:ルーキー現る |
ぼくの主宰する写真倶楽部は今年で21年目を迎えた。「おれのような指導者に不向きな者が、何故21年も?」と我ながら摩訶不思議な心境でいる。当時は、写真を趣味として楽しもうとする人たち、将来はプロを志す人たち、親睦を深めようとの目論見だけを抱いていた人たち、暇を持て余し、することに事欠いている寂しい人たちなどの混在で、それぞれにてんでんバラバラだった。男女の構成比も半々で、もうぐちゃぐちゃ。まさに、入り乱れていた。
加え、年齢も職業もまちまちで、写真歴も事始めの人からかなりのベテランまでごった煮のような有り様。指導者もどきのぼくはいつも「ちゃんぎり舞い」(亡父の常套句で、 “きりきり舞い” の意。ぼくも父の佐賀弁をよく真似ていた)を余儀なくされた。お陰で、ぼくはこの奇っ怪な人々がもたらすところの心労が祟り、ご丁寧にもその間に2度の癌宣告まで受けてしまった。 メンバーは、地元埼玉県ばかりでなく、都内、神奈川県、栃木県と広範囲にわたり、色々な面でバラエティに富んだ、面白くもおかしな倶楽部だった。 未成年の学生さんを始め、ぼくより年配の人もおり、教室は本当に色取り取り、選り取り見取りといった模様だった。そんな景観が何年も雑然と広がっていた。 月日が経つにつれ、若い人は壮年期を迎え、仕事により力を注がざるを得ず、したがって倶楽部での活動が困難となり、やがてその年代層が減っていった。また、「親の介護」や「子育て」、「もう体力が保たない」という方も増え、種々雑多な面を持つ実にややこしい部隊だったが、現在は、自然淘汰というか、進化の過程で起こる収斂に似て、ぼくは癌の再発には至らず、今倶楽部の椅子はとても座り心地が良い。おそらく今のメンバーも同様であろう。 他のほとんどの倶楽部は、ぼくの知る限り、定年退職をした人たちが大勢を占め、若く見積もっても50歳代の人たちが点在するといったところだ。日本の実活動の人口構成からして、これを自然現象と捉えるのであれば、至極もっともなことだと思う。 我が倶楽部も現在は他の倶楽部と年齢構成は似たり寄ったりだが、良い意味での「大人」(ものの道理をしっかりわきまえることのできる人たち)として振る舞える人の集団となり、メンバーの誰もが居心地の良さを堪能している。ぼく自身も、この21年間で指導者もどきとして、最も過ごしやすい環境を得ている。おまけに、人が少なくなればなるほど、指導の的が絞れるのだから、古典落語の『三方一両損』ならぬ『両方一両得』である。 そんななか、今月より18歳の男子(大学1年生。以下K君)が、老化による脳細胞の衰え著しく、しかも糜爛(びらん)気味のメンバーのなかに、臆せず躍り込んできた。今まで、19歳が最若年だったので、K君は記録をも更新してくれた。K君の勇気と写真に対する熱意に敬意を表したい。この事実は、本当にたいしたものだと感服さえしている。 おばさま、おじさま、ジジ、ババのなかへの突入である。乱気流に飛び込む飛行機のようなものだ。ぼくには持てなかった気概をK君が示してくれたことをとても嬉しく思っている。と同時に、K君が学校を卒業するまでに最低でも4年。ぼくもこれからの4年間はしっかり写真を撮らなければいけないと意を新たにさせられた。何と、健気で殊勝な心得であることか。 月初めの勉強会に持参したK君の10数枚の写真を観て、ぼくが18歳の時に撮っていた写真を思い返しながら、「こんな写真は、ぼくには撮れなかったよ」との本音が、思わず口を衝いて出た。ぼくは社交辞令の一種であるお追従(ついしょう)を決していわない。それは相手に対して失礼だからだ。 K君の写真からは、どのような被写体を選び、それをどう表現したいのかが明確に伝わり、メンバーの誰もが青天の霹靂といったところだった。 こまごまとした指摘はもちろんあるものの、ぼくは「当分の間、このまま自由に、いろいろなものをたくさん撮りなさい」というのが、今は最適最良な指導だと直感した。しかしながら、「撮影時に、何を優先すれば良いのか」だけは伝えようと思っている。 「言い聞かせるより、先に尊重あり」がぼくの信条でもあるので、K君も同様に受け取ってもらえれば、前途洋々、ぼくも万々歳である。 今や写真人口は(いわゆる「インスタ映え」や「ナチュ盛り」を含めれば)、以前とはくらべものにならぬほど多いと、あるカメラメーカーの人から伺った。然もありなんとぼくも思う。 だが実際に、写真の基礎をしっかり学び、自己表現の手段として写真に臨む人は、写真人口の何パーセントくらいなのだろうかを勘案するに、これはぼくの勝手な推測だが、写真人口が多くなったのとは反比例し、減少しているのではないかという気がしている。 昨今の全般的な文化凋落の折、そのような人は希少価値とぼくは見ている。そしてまた、様々な機能が便利さや安易さの度を越えると、正当派写真愛好家は絶滅危惧種ともなりかねない。心配性 !? のぼくの一喜一憂は、そのような事象を「世の常なり」で片付けてもいいのだろうかと思っている。 「自己表現の手段」をどの様に定義し解釈するかは、多様な意見、見解があろうが、少なくとも鑑賞者を第一義に見立て、「いいね!」をたくさんもらうことを目的とした写真は、良し悪しの問題ではなく、ぼくとはほど遠い距離にある。もちろん、優れた写真のなかには、多くの人から好評を得るものがある。 ぼくが、ここでいいたいのは、その結果ではなく、感応した被写体に対峙し、止むに止まれずシャッターを押さざるを得ないその時の動機付け次第で、あなたの写真は変化するという事実なのである。心の持ちようで、結果が変化するのは写真も同様であり、自明の理であると思うのだが、それを混同すると、作品もかつての我が倶楽部のように、多種多様を越えて、ややこしさ一辺倒となってしまう。 とまれ、ぼくが若人と対峙するに、写真ばかりでなく皮相浅薄であってはならず、身を糺すべきと心する、希有なルーキーの出現だった。来月はもう1人新人がやって来るとのことだ。まさにぼくは、「牛に引かれて善光寺詣り」といったところだ。 https://www.amatias.com/bbs/30/690.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ :RF100mm F2.8L MACRO IS USM 。 埼玉県秩父市。三峯神社。 ★「01三峯神社」 昨年11月の訪問時に撮影したもの。薄暗いなか、慎重にシャッターを切った。 絞りf8.0、1/25秒、ISO 8000、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/05/10(金) |
第689回:たっぷり皮肉屋 |
ぼくにはまったく縁遠いゴールデンウィークも去り、世間も一心地ついたところだが、その間の混雑や渋滞を考えると撮影に出る気にもならず、相変わらずの怠け者を通してしまった。ぐうたらな生活ぶりだった。
かろうじて、上野の国立博物館で催されている「法然と極楽浄土」を、胸を躍らせながら観に行ったのが精一杯の働きであり、久しぶりに多少の知的好奇心を満たした。素晴らしい特別展だった。 定年をとっくに過ぎた同輩たちがよく口にする「どこそこの美術館、博物館に行ってきた」との科白にぼくはいつもうんざりするのだが、ぼくのそれは違うのだぞ、と声を大にして言い放ちたい気分にいつも襲われる。 彼らのそんな常套句を耳にするたびに、「そういうものは若い時にしてこそ、初めて血となり肉になるものだ。この歳になって、以前には持ち合わせていなかったものに目覚めたかのような錯覚を起こし、美に対する審美眼を養おうと足掻いても、もう遅い。幼少時からの、少なくとも若い頃からの継続的な積み重ねがないとなかなか難しいものだ。本当は、暇ですることがないので、美術館や博物館に行って有り余った時間をつぶしつつ、自分はこれでも良き精神生活を送っていると言い聞かせたいだけなんじゃないか。それを “思い込み” という」とぼくは、とても控え目にいう。 彼らは定形文のように、「若い頃は忙しくてねぇ、行けなかったんだ」と返してくる。「嘘つけ」とぼくは内心いつもそう呟く。本当のところ、抑えることのできぬ興味や知的好奇心が自身に内包していれば、どれほど忙しくても、そのような言い訳はせず、人は時間をなんとかやり繰りし、捻出するものだ。 人混みが大の苦手なぼくが、ゴールデンウィーク中に、博物館に出向いたのは、まさに快挙であり、誠にあっぱれな仕業といえる(フツーここまで自画自賛をするかねぇ)。体調の優れないなかにあっての挙は、押し止めることのできない渇望による衝動のようなものだった。「その日暮らし」とは、このようなことをいうのだろう。 少し横道に逸れるが、雑誌やムック本(特に男性向き)に特集された数ページを読み、部下などに「カルチエ = ブレッソン(フランスの写真家)はね」とか「サルバドール・ダリ(スペインの画家)というのはね」と、自身が昔から彼らの作品に親しんできたかのような口調で、社内や酒席などで配下の者に「君は知らないだろうが」という前置きを示し、得意気に語る手合いが必ずいる。ぼくは実際に何度かそのような光景を目の当たりにしてきた。「その知見たるや、たいしたものだ」とぼくは皮肉をたっぷり込めて眺めていた。まさにぼくは、皮肉屋たっぷりである。 皮肉ついでに、ぼくはある催し物で、自身のこれからの写真のありようについて、こんな一文を書いた。 「 『効能書きだけは十人前』 を標榜してから、もう何年もの月日が経ってしまった。だが、ぼくの良いところは自身の効能書きに陶酔するところだ。この事実は多分に冷笑的ではあるが、ひょっとすると、それはぼくが写真を撮ることの原動力となっているのかも知れない。否、きっとそうであるに違いない。 冷笑を示すことへの渇望は、世に対して、そして自身の、また巷に氾濫する写真に対してのそれである。つまり、あらゆることに我慢がならないのだ。 命を削るこの心的作用は、創造の原点であると信じているからこそ、とても心地が良い。横道に逸れっぱなしのぼくは、本来の意味である『天上天下唯我独尊』を地で行っているとの振りをし、夢見つつの憧憬を示そうとしているような気もする。76年も安穏と生きてきたのだから、ここらで正面から生死に対峙しようと、残り少ない時間を、自身のささやかなる写真に向け、幾ばくかの重石をかけなければと思っている。 釈迦の『唯我独尊』の本来の意味『唯だ、我、独りとして尊し』であり、その説法に倣い、環境や能力に依存することなく、尊い『私』を見出すため、テーマに束縛されず、感応の赴くままに『ごった煮の写真』に向けてシャッターを切り続けようと思っている」。 と、眉間に皺を寄せながら、今思うところを正直に記した。 掲載写真は、前号と同様に、未だ撮影に出かけられないでいるので、既にご紹介した撮影場所で撮ったものだが、ぼくの写真は年々暗く、陰鬱なものになって行く。音楽でいえば、完全な短調であり、口の悪い、誰かに似た皮肉屋の友人にいわせると、「ベートーヴェンやワーグナーの葬送曲、文学でいえばドストエフスキィ紛(まが)い」なのだそうだ。ぼくの好きな作家たちなので、たとえ紛いものであれ、「いつかはぼくも」と思うことにしている。それは大変な讃辞なのだと自身を鼓舞している。ぼくの写真は、一般受けしないことも重々承知しているので、なおさら光栄なことだとさえ思っている。 自分の写真が、上記した冷笑とどこか結びついているのかどうかは今のところ判然としないのだが、暗いといわれようが、作品は作者の人生観なのだから仕方がない。 目指すところは、質感描写を重んじ、空気感を醸し、そして重厚感があり、かつ文学的、美的であること。「三位一体」ならぬ「五位一体」の写真が1枚でも撮れれば、思い残すところなく終焉を迎えてもいいと思っている。 https://www.amatias.com/bbs/30/689.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ :RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF16mm F2.8 STM。 栃木県、静岡県。 ★「01栃木」 栃木市。撮影はこの1年以内のもの。歌麿通りの店先にぶら下がっていた傘。夕暮れ時、ガラス越しに。各種プリセットにアイコン状の大きさでこの画像が並ぶと、まるでコウモリがぶら下がっているように見える。「こうもり傘」とは言い得て妙だと、初めて気づく。 絞りf9.0、1/60秒、ISO 100、露出補正ノーマル。 ★「02静岡」 二岡神社本殿(といっても、建造物はこれしか見当たらなかった)。参拝者もいなければ神職の気配もない。いつこのお宮が造られたのかも分からない。お供え物が、申し訳程度に置かれていた。11月の日暮れ直前。 絞りf5.6、1/20秒、ISO 8000、露出補正-1.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/04/26(金) |
第688回:腹八分目 |
この1ヶ月間、忙しさに輪を掛けて体調不良にも悩まされ、先般掲載させていただいた成田山を最後に、以降1枚も写真を撮ることができずにいる。
特に体調不良は、普段から気弱なぼくにさらなる追い打ちをかけ、精神をも衰弱させてしまったような気がしている。これはいかんと思いつつも、目下のところ、「あと5年は、カメラを持って歩き回るのだ」という気概を殺がれそうな状勢にある。「病は気から」との諺に倣い、普段からの気の持ちようには、とくと留意しないといけない。 精神を病みそうな厄介な人々に囲まれると、ぼくは昔から言語障害となり、それに加え胃腸を病むことが多々ある。因果関係は定かでないが、ぼくはご丁寧にも胃がん、大腸がんの双方を体験している。 胃腸のほうは、古(いにしえ)からの賢人の健康術である「腹八分目」を踏襲すればいいのだが、今のぼくは悲しいかな、「腹八分目」の塩梅というか、「八分目」の境が分からなくなっているので、それはかなり絶望的な状況でもある。長寿の人は、どのような技を駆使して、「八分目」を感知するのだろうか。是非ご教示を賜りたいと思っているくらいだ。 年老いてからは、特段に食い意地が張っているわけではないのだが、知らずのうちに、もうこれ以上は無理だというところまで食べてしまうので、ぼくの胃腸は堂々巡りを繰り返し、一向に良くなる気配がない。食後に初めて食い過ぎに気づくのだから、情けない。ぼくの写真も同じ道を辿っていると思うと、まったく悔しいったらありゃしない。 修業時代、師匠のスタジオにはぼくを含めて3人のアシスタントがおり、2人はぼくよりずっと若く、20歳前後だった。食い盛りの若者たちで、撮影時の合間に出前を取ることが多かった。彼らはいつもかつ丼の大盛りを注文していたが、何度目かの時に、師匠はとうとう業を煮やし、「おまえら、いい加減にせいよ!」と大声で怒鳴った。そして、「おれだって大盛りを食いたいよ。だがな、そうすると血が頭に行かず、しかも緊張感がなくなるんだよ。そんなことで写真が撮れると思ったら大間違いだぞ! 腹八分目というのを知らんのか! 郷(くに)に帰れ!」と、厳つい顔をし、速射砲のようなテンポで痛罵した。 幸いにも、ぼくはそれまで大盛りを注文したことはなかったので(ぼくも当時は大食らいのほうだったけれど)、お陰様、師匠の憤激を買うことはなかったが、彼らの大盛りを横目で見つつ、本心をいえば、心底羨ましく思っていたものだ。食べたいものや量を自制しなければならないことは、とても辛いことだ。ぼくだって当時はまだ30代で、食い意地から逃れられる歳ではなかった。 若い彼らにくらべ、ぼくはある程度の社会人生活を経てきたので、仕事中に大盛りを注文し、それを平然と喰らうことにどこか抵抗感があったのだろうと思う。もしかしたら、これは欠かすことのできない作法だと考えていた節がある。亡父の、子に対する物言わぬ躾であったと、今更ながらに述懐している。亡父のお陰で、ぼくは師匠に、この件ではどやされずに済んだ。 昨今は、このような師匠(あるいは上司)の言葉を捉えて、「パワハラ」だとか、訳の分からぬ、実にけったいな言葉が氾濫していると聞く。ハラスメントは確かに人間の尊厳を損ね、侵すことであり、それは断じて慎むべきことは誰もが承知しているはずだが、「叱る」ということは、「いじめる」、「いやがらせをする」、「差別する」などとは大きく異なり、それを区別できない人たちが、コンプライアンス(法令遵守)を盾に、むやみやたらヒステリックに叫き散らしている。自分で自分の首を絞めていることが分かっていないように、ぼくには思えてならない。これぞまさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。 「○○ちゃん」と呼ぶのも、セクハラなんだそうで、だとすればぼくなどとっくに獄門の刑に処せられて然るべきであろう。なんてことだ! 嗚呼、治りかけの胃が、また痛くなってきた。 話は変わって、実は前述したように成田山以降、撮影に行けずにいるので、掲載写真に、はたと困ってしまった。そこでぼくは一計を案じ、過去に撮った写真のなかでまだ未掲載のものを探し当て、充当すれば良いとの知恵?を編み出した。今回は、その知恵に添うことに。 写真はソビエト時代末期、欧米や日本でも人気の高かったM. C. ゴルバチョフ(1931〜2022年。ソビエト連邦最後の最高指導者)の在任中、ウクライナ共和国の首都キエフ(現キーウ。現在は「ウクライナ共和国」ではなく、「ウクライナ」である)で撮影したもの。 印象的なこの赤い壁は、国立キーウ大学(創設1834年。190年の歴史を有す)の一部で、帝政ロシアのニコライ2世(1868〜1918年。ロマノフ王朝最後の皇帝)が、徴兵制に抗議した学生たちに怒り、大学の建物を「血の色」に塗りつぶさせたとの由来がある。因みに現ウクライナ大統領であるゼレンスキーの出身校でもある。 ぼくが訪問したのは、チェルノブイリ原発事故の1年後で、キエフの街(原発から約90km)には散水車が常時物々しく走り回っていた。ぼくも多分、被曝しただろう。 この赤い壁を人物入りでと願ったぼくは、人の往来を見定めて切り取ったのがこの1枚。 https://www.amatias.com/bbs/30/688.html カメラ:ライカM4。レンズ : ズミクロン35mm。 ウクライナ、キーウ市。 ★「ウクライナ」 撮影データは、フィルムのため不明。フィルムはコダクローム64。ISO 64。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/04/19(金) |
第687回:成田山詣で(2) |
成田山新勝寺にはかつて撮影(ガイドブック)のために訪れたことがあると述べた。今回の訪問はあの時(約30数年前)以来のことで、前号では新勝寺を指し「ぼくにとってさほど魅力的ではなかった」と記したが、当時のかすかな記憶を辿ると、今回もその印象はあまり変わってはいない。ただ、この日の天候が雨だったため、写真的には以前より興をそそられた。10年後、仮にぼくがまだ生きていても、今回の新勝寺の記憶は、ボケも手伝い、失せているのではないかと思える。
新勝寺は規模の大きな立派な仏寺なのだが、ぼくの写真的な琴線に触れるには、いまひとつ何かが不足している。雨降る広い境内に立ちながら、その理由をしきりに考えていた。 真っ先に思いついたことは、建造物が新しいからではないかということだった。一概に、「古いものには価値がある」との短絡的な見方をぼくはしないが、少なくともファインダーを通して見た限りに於いて、新勝寺はあまり魅惑的には映らなかった。 蛇足だが、ぼくは真言宗の開祖である弘法大師空海にどうも肌合いが悪いのだ。といっておきながら、ぼくが最も好きな仏寺のひとつである京都の東寺(教王護国寺。創建796年。多くの国宝や名宝を有する世界文化遺産。本尊は薬師如来)は、真言宗の総本山であるのだから、いい加減なものだ。きっと他に、新勝寺に惹かれぬ理由があるのだろうと思う。だがどう足掻いても、興味は 参道にある “鰻” に流れてしまう。ぼくのなかで、不遜ながら、新勝寺はどうしても鰻に太刀打ちできないでいるのだ。 奈良・京都の神社仏閣に吸い寄せられ、そこでシャッターを切るような熱が、どうも新勝寺からは得られにくいのである。やはり、建造物の歴史的古さや多様な美しさに起因するところ大というのが、偽らざるところなのだろう。 京都生まれのぼくが、幼少時を過ごした地に肩入れするわけでは決してないのだが、「お寺さん」の周辺の佇まいなども含めて、つまり、京都や奈良などの総体的な風情や情趣も、彼の地の由緒ある神社仏閣に、目に見えぬ影響を与えているように思う。神社仏閣だけが孤立して在るわけではないということだ。 聞くところによると、新勝寺の参拝者は社寺としては明治神宮に次いで全国第2位であり、寺院に限れば全国第1位を誇るとのことだ。創建も940年であり、由緒も京都に引けを取らないのだが、写真屋のぼくにとって、やはり撮影の意欲が等量というわけにはいかず、ぼくのハートを掴む力がどこか弱いと感じる。 学問的、学術的な面での詳述は、専門的知識を身に付けているわけではないので、説明できずに曖昧さが残るが、ぼくの半造語的文言に従えば、奈良や京都に限らず他所の由緒ある神社仏閣に漂う「感覚的神々しさ」とか「神秘的神々しさ」が物足りないのだろうと思う。新勝寺は、「故事来歴、曰く因縁」も遜色ないのだが、写真屋にとっては何かが物足りない。その体系的な説明がどうしてもできない。ここでもぼくは、いい加減なのだ。強引に付け足せば、「古都の空気感や雰囲気が欠如している」ということと「あまりにも実質的」と感じるからなのだろう。 新勝寺に打ち勝つことのできた鰻の写真について述べておくと、掲載写真はまさに成田に来たその証として、取り敢えず撮ったものだ。本来であれば、手を付ける前に撮るべきところを、一口食べてから「そうだ、撮るのを忘れた」と、慌てて撮ったというほどの体たらく。食べかけの鰻重写真というところだ。 外食時、その記念として写真を撮っておくという習慣がぼくにはないので、つい忘れたというのが事実である。食べかけの鰻重なので、ちょっと不調法な撮影だった。「一口手を付けただけなので、まぁいいか」というところだ。ホントにぼくは、いい加減だ。 店などの自然光下で料理を撮る時、最も注視することは、被写体に当たる主光線がどこから来ているかということ。コマーシャル写真での料理写真は、逆光をほど良く使い、材質のテカリやシズル感(sizzle。できたての料理がいかにもおいしそうな感じがすること。転じて、食欲や購買意欲を刺激すること。大辞林)を表現する。料理写真のライティングは如何に逆光を上手に使いこなすかにあるといってもいい。ここが通常の「物撮り」とは多少異なるところ。 掲載の鰻重写真は、まったくの自然光だが、ほど良く天井のタングステン・スポットライトからの光りを利用したもの。 仕事写真の場合、稀にライティングのできぬ条件下で撮影しなければならない時がある。そんな時は料理を窓際に持っていき、外光を逆光として利用したものだ。あるいは、外光の射さない店では、天井のライトがどこにあるかを意識し、料理を移動させたりもした。 この逆光効果は、料理が精気を失ったり、生き生きと見えたりするから面白い。もちろんスマホでも一眼レフでも同様なので、みなさんも贅沢品や高級品を頬張る前に、ぜひ一度お試しあれ。 https://www.amatias.com/bbs/30/687.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0L IS USM。 千葉県成田市。 ★「01成田」 新勝寺三重塔(1712年創建。重文)。高さは25mで、東寺の五重塔(高さ55m。木造としては日本一。国宝)の半分ほどだが、新勝寺の三重塔は、雲水紋の彫刻が施され、垂木は一枚板でつくられた珍しいもの。極彩色に彩られているが、ぼくの趣味とはかけ離れているので、特徴を失わぬ程度に、彩度を落とした。 絞りf8.0、1/40秒、ISO 500、露出補正-1.67。 ★「02成田」 上記した食いかけの鰻重。 絞りf11.0、1/30秒、ISO 3,200、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/04/12(金) |
第686回:成田山詣で(1) |
今から50年ほど前、ぼくがまだ編集者だった頃、親しくお付き合いをしていた方が千葉県成田山の近くにおり、彼の家まで時々車を飛ばし遊びに行ったものだ。趣味が同じだったこともあり、そして彼は生粋の、優れた職人でもあったので、彼との意見交換はとても楽しかった。彼はぼくより数歳年上だったが、いろいろなことについてすっかり意気投合したものだ。
当時のぼくは編集者として各方面の職人や芸術家(ぼくのなかでは、両者とも同じ位置づけなので、異論のあることは承知のうえで、一括りに「職人」とする)と親交があったが、彼らに一種特有の憧れと畏怖の念を抱いていた。 まだ20代のぼくは、いずれ優れた職人になりたいとの淡い夢を見ていたが、ぼくの膝元には本物の職人がたくさんおり、彼らの精神と生活態度、そしてその一挙手一投足をつぶさに観察するに、やはりそれは到底適わぬこととして、物深くも、遠回しにそっと眺めるのが精一杯といったところだった。 時が経ち、ぼくは写真で飯を食おうと、出版社をあっけらかんと辞め、それが起因で離婚騒動にも発展したが、美術工芸品の撮影では、知る人ぞ知るという師匠の元に弟子入りし、写真やプロとしての心得を学ぶことになった。 日本で一番歳を食ったアシスタントと揶揄されながらも、厳しい徒弟制度を2年間体験した後、どうにか写真屋もどきになった。今以て、 “もどき” である。 納税申告書の職業欄は、税務署職員の指示に従い「写真家」となっているが、職業欄を見るたびに、顔がポーッと火照る。「写真家」と書き込む時、手が震えるくらいだ。ぼくは精神が健康・健全なので、そんな自分を指し「おまえは、そんな代物かよ」と、都度発しなければ気が収まらない。これは自虐や謙遜などから発するのではなく、本心からそう思っている。写真だけで食っていけるのだから、ぼくは、 “もどき” で満足である。 修行中は、友人との交歓の余裕などあるはずもなく、必然的に往来がなくなり、疎遠になってしまった人も多くいるが、元々ぼくは群れることを嫌い、ひとりを好むので、まったく苦にはならず、それでよかった。「急いては事を仕損じる」というが、「群れては事を仕損じる」がぼくの行動指針である。 人生の師は必要不可欠だが、友人は可能な限り少ないほうが良いというのが、青年期からのぼくの確たる持論である。極論すれば、この歳になって友人は要らないとさえぼくは思っている。近くにいる人たちを大切にすれば、それで良いのだ。 先週の3日、心地良い雨音(どしゃ降り)で正午少し前に目が覚めた。掲載写真のネタが心許なかったので、ぼくは撮影の候補地をあれこれ探ってみた。どこへ行けば撮影のテンションが上がるかは、現地に行ってみないと何とも判断しかねるが、35年ほど前に撮影で訪れた成田山に決めた。 だが、そこがどんな様子だったか、ほとんど記憶にない。撮影の記憶が乏しいということは、ぼくにとってさほど魅力的ではなかったということだろうが、実は参道の名物である鰻に惹かれ(地元である浦和も同様に鰻が旨い)、横恋慕をしてみるかと思い立った。 ただ、疎遠となっていた同好の士である友人に会うつもりはなかった。撮影との両刀遣いは写真を無体にしてしまう。ぼくはそれほど器用ではないしね。 激しく降る雨のなか、市営駐車場に車を置き、カメラバッグの上から雨合羽(現代では、古式ゆかしい「雨合羽」はあまり使われず、どうやら「レインコート」というらしい)を羽織り、カメラを懐に抱いて、何はともあれ鰻を焼くあの魅惑的な香りに吸い寄せられるように、評判の店に入った。ウィークデイで、しかもこんな雨降りながら、入店客はかなり多く、満席ではないが、繁盛そのものだった。 出されたうな重に唾液がジュワーッと染み出し、お吸い物を一口味わってから、箸で鰻を切り、同時に適量の飯(ぼくはいつもこの量に悩む)を一緒に放り込んだ。久しぶりの鰻とあって、脳天に「至福」の二文字がツーンと突き刺さる。この一瞬のために、雨をものともせず車を走らせたのである。いや違う、撮影のためだった。 浦和に、ぼくの気に入っている鰻屋が2店あるのだが、「食べ物の比較論評はしてはいけない。それは、はしたなくも無作法だから」というのが、ぼくの昔からの考えだ。したがって、浦和か成田かは述べない。 酒も、料理も、出されたものはありがたく、しかも美味しくいただくのが、本物の通人であり、それが正しい行儀作法だと、一流どころ(シニアソムリエや利き酒の名人など)から無言で教えられた。ぼくも、行儀作法というものは知性そのものだと感じている。 彼らは決して品物を前に、能書きなど垂れないということを、過去何度も体験している。二流どころほど、したり顔で蘊蓄(うんちく)を傾けたがり、理解の乏しい知識をひけらかすものだ。 写真もまったく同じことだ。お〜っ、こわっ! https://www.amatias.com/bbs/30/686.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0L IS USM。 千葉県成田市。 ★「01成田」 新勝寺仁王門(1831年創建。重文)。人気のほとんど絶えた日没直後。どしゃ降りのなか、3番目の石灯籠にピントを合わす。フルサイズカメラなら、f11.0でパンフォーカスとなる。レンズ焦点距離は50mmちょうど。 絞りf11.0、1/40秒、ISO 3,200、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/04/05(金) |
第685回:掲載写真について |
遠隔地の友人から博多弁で、「もっと写真を掲載して欲しか。以前は3点以上の時もあったとに、今は、なして2点に減ってしまったと? 出し惜しみばしたらいけんばい」と、あたかもぼくが省エネ兼手抜きに走ったかのような文面で訴えてきた。
何食わぬ表情(文面)を装った博多女性は、ぼくより50歳も年下である。彼女の命令調九州言葉はぼくを少しばかり震撼させたが、しかし方言特有の、どこか愛嬌と可愛げのある博多弁に、ぼくはいつも上手いことたぶらかされている。これからどんどんボケるぼくには、危ういことである。 文面が標準語であれば、どんな印象を受けるのだろうか。ぼくはひどく叱られ、鞭打たれたような気持になって、不条理極まりない反省をし、そして意気消沈してしまうような気がする。それほど標準語は、ぼくにとって冷たく、ぶっきらぼうで、しかも味けのないものだ。 余談だが、彼女がネイティブである博多弁を使ってメールをするのはぼくだけだそうだから、その点女性というものはそつがなく、手の込んだことを素知らぬ顔をしてやって退(の)ける。ぼくはこの博多弁使いの達人にほとほと感心する。標準語でいいにくいことでも、方言であれば遙か年上の人間にもちゃらっといえてしまうことを、彼女はきっと十代の頃には、本能的に身に付けていたのであろう。男はその伝、真のあほやけん、そうはいかんと。 加え、ジジィは九州の血が半分入っていることを知っての仕業なのである。女性というものは誠に抜け目がない。歳の差50など物の数ではないということだ。ホントに大したものだ。その様、まさに百鬼夜行といったら、叱られるだろうか? とはいえ、ぼくは子供の頃から、九州言葉(佐賀・博多弁)で会話をしてくれた父に、方言ならではの豊かで細やかなニュアンスを自然に教えられ、その言葉遣いに心が和み、癒され、今更ながらに感謝している。 ぼくは今、彼女の指摘についていろいろな思いと考えに囚われているのだが、自身のことにはあまり深入りしないことにする。しかし、文章でも、写真でも、あるいは人間でも、「差し障りのない」ものは、往々に面白味がなく、深みもない。味がないので感動を生まないのである。それをして、「毒にも薬にもならぬ」という。 写真に喩えていうなれば、「毒にも薬にもならぬ」ようなものは、作者にとって必然性のない写真ということになる。写真の、特筆すべき重要な役割のひとつに「記録」がある。世の中の写真の99%以上がそれに属すとぼくは思っているのだが、残りの1%以下を「上手くやってのける」のは、凡人であるぼくには難しく、なかなか覚束ない。 1%以下のものとは、ぼくが時折使う「自己表現のための写真」のことである。つまり、「あなたしか撮れない写真」という意味であり、それが写真を愛好する人たちの最も望むものなのではないかと考えている。 写真を媒体とし、自身の考えや感じ方、人生に於ける立ち位置や役割、悲喜こもごもの記憶を1枚の印画紙(あるいはモニターなどの映像画面)に表現する行為は、醍醐味そのものであるのだが、しかしそれが思うようにできぬが故に悩みともなる。思い描くようには行かぬものだからこそ、希望を捨てることなく、いつまでも挑み続けるのだろう。 本稿にて、長い間写真を2枚ずつ掲載させていただいたが、何とか及第点(60点)を得るのは至難の業といってよく、これからは1枚掲載ということもあり得るので、どうかご理解をいただければと思っている。さぼる訳ではなく、楽をするのでもなく、及第点のやれないものを掲載することは、やはりぼくだって良心が痛むのだ。だが、掲載写真がまったく「無し」というのも、写真屋としてやるせない。 自身への責務として、作品の良し悪しに関わらず、自分を晒さなければと考えている。したがって、とんでもない駄作を掲載せざるを得ず、大いに恥を晒せばいいと考えている。 週に2枚も及第点のやれる写真など、実はそうそう撮れるものではないと、ぼくは信心に似たものを持っている。年に1万枚撮るとして、許せるものは精々2、3枚が関の山というのが、ぼくの偽らざる気持ちだ。いや、それどころか、2,3年に1枚くらい撮れれば御の字だとさえ思っている。 昔撮ったもので、得心したものを今見ると、「どうしてこんなものを後生大事に抱えていたのだろうか」ということがある。そして、ここが肝要なのだが、「昔、まったく感心しなかったものが、今見ると案外いける」といいたいところだが、ぼくの場合は決してそのようなことは起こり得ないことを涙ながらに告白しておく。世の中、そんな甘いものではないのだ。駄目なものは、今も昔も、あくまで駄目なのだ。 時を経て、自身の審美眼やら慧眼が進化する場合もあるだろうが、非常に残念ながらぼくに限ってそのような現象は今のところ起こっていない。変化することはあるかも知れないが、進化はどうやら期待できそうにない。わしゃ、ほんに、のさんとよ。 https://www.amatias.com/bbs/30/685.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0L IS USM。 栃木県足利市。 ★「01足利」 鑁阿寺(ばんなじ)の太鼓橋から堀の鯉を。錦鯉に混じって1匹だけ黒一色の鯉。差別をされる風もなく、人間よりずっと上等である。 絞りf7.1、1/125秒、ISO 400、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2024/03/29(金) |
第684回:年度末のあれこれ |
人事異動の季節となり、ぼくは異動する人々への奉仕を次から次へと否応なく仰せつかる。と、こんなけったいな(関西言葉。妙ちくりんな、の意)日本語遣いをせずとも、早い話が「人事異動の前に、もう一度ジジィをこき使っておこう」という彼らの魂胆が透けて見える。ぼくにとって、痛し痒しといったところだ。
ものの分かった風な顔をしたがる友人たちは、「その歳になって頼まれごとをされるなんて良いことじゃない」とか「忙しいなんて羨ましいよ」とか「ボケなくていいじゃない」などと判を押したような定型文を臆面もなく羅列しながら、したり顔で宣う。それこそ大きなお世話というもので、人の身にもなっていただきたい。「ボケの危うさはそっちのほうだろう」と悪態をついてみたくもなる。 仕事の依頼人(クライアント)を擁護する気持はないが、ただひとつ確かなことは、何故か忙しい時にはいろいろなことが計ったように重なり、それらがひとかたまりとなり、まるで雪崩のように弱った体目がけて襲ってくる。ぼくは危機を素早く感じ取り、ハッと我に返る。 わざわざこの忙しい時にタイミングを見計らって彼らは、申し合わせたかのように揉み手をしながらやって来る。気の良いぼくは断ることをしないから、いつも窮地に追いやられる。今ぼくは雪に埋もれてにっちもさっちも行かず、苦悶のなかで喘いでいる。 若ければそこから這い出る体力も精神力もあるのだが、今若い頃の活力を憂愁を帯びた面持ちで懐かしんでいる。だが一方、嘆きばかりでなく、子供が親に何某かの仕返しをしようと駄々をこねる、あの心地良さに酷似したものを感じる。それは、かまってもらうことに飢えた幼児特有の行為らしいのだが、ぼくは70年ぶりにそんなおかしくも複雑な気分を味わっている。 だが、現実はそんな甘酸っぱい思いに耽っているほど甘くはなく、ぼくはもう自棄のやんぱちで、どうにでもなれと開き直るのが精一杯。ただどんな場合でも、言い訳だけは決してしたくないので、いつどのようなタイミングで平身低頭し謝るかに無い知恵を絞っている。 「猫の手も借りたい」との現象は老若男女に平等に訪れる。目下、ぼくは久方ぶりに年不相応の激務をこなしつつあるのだが、声を潜めていうならば、実は先述の如くちょっと楽しいのである。 心身ともに衰えを自覚し始めたところなので、その流れに逆らって櫓を漕ぐのもまた楽しからずやといったところだ。 観念しているといきなり亡父の口癖が頭のなかで響いた。「そげんこつな、どげんかなるもんしゃ。死ぬわけではあらんめえし、と高ば(高を)括るとが一番。それにな、人生は取り敢えずや」なのだそうである。 ぼくは、特に「人生は取り敢えず」という含蓄に富む父の格言に若い頃から従おうとしてきた。解釈はその人次第だが、この言葉に救われたこと多々ありといったところだ。 クライアントに、「歳を取るとね、何故か意志に反して上手いこと事を運べなくなるものだ。迷惑をかけてしまい、ごめんね」と伏し目がちに、哀感のこもった調子で反省の弁を述べると、すべてが許されてしまうのだから、やはり愉快だ。もっと若い頃にこの術を身に付けておけばよかったと思うのだが、歳を取ったからこその技だということに気がつかないでいるから、ぼくはおめでたい。歳を取ると、いろいろおめでたくなるので、ものの道理として生きやすくもなるのだ。 今月のある日、拙稿の担当氏から「来年度の契約書をお送りしますので、判を押して送り返してください」と、有無をいわせぬ調子で、電話があった。「つべこべいわずに連載を継続せい」とのお達しである。この連載を始めたのは2010年5月のことで、14年目に突入ということになる。なんたること。ぼくはこうなることを想像だにしていなかった。 プロフィールにもあるように、商工会議所とのお付き合いは、会報誌の表紙写真を2003年から7年間担当させていただいたことから始まり、こんにちまで21年もの長きにわたってということになる。浮き世のしがらみのようなものなのだが、その間、この連載に於いて写真好きの人たちにどのような貢献を果たしてきたのかを顧みると、身震いする。いつも写真のことは放りっぱなしで、自分のことばかりを書き連ね、お茶を濁しているので、呆れるばかり。 「写真にまつわることや基本的なことを簡単でいいので、書きませんか?」の結果がこんなことになるとは考えもみなかった。当初の1年ほどは、写真の基礎的なことについてかなり真面目に記したが、それ以上のことは書物やネットで探ればよいことであり、ぼくが敢えて書く必要もなかったのだが、しかし任を解かれずにいたので、その後は自由気ままの勝手三昧となり、その暴走をこんにちまで許していただいている。 来年度となる次回から、少しは心を入れ替えることができるかどうか怪しい。鋭意努力をするつもりだが、この期に及んで約束などしてはいけない。 嗚呼、今回も写真のことなどにまったく触れることなくやり過ごしてしまった。良心の呵責に苛まれ、今宵も眠れそうにない。 https://www.amatias.com/bbs/30/684.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0L IS USM。 栃木県足利市。 ★「01足利」 鑁阿寺(ばんなじ。創建1196年。本堂は国宝)の境内に置かれた石仏。高校生の時、父に「庚申」の意味について詳しく教えられたが、今思い返すと朧気だ。 絞りf6.3、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。 ★「02足利」 廃屋となった建物の壁に設えられたギリシャ彫刻風レリーフ。材質は白の石膏状であるが、石膏ではなさそう。過去に何度か撮っているが、やっと思い描いたイメージに少しだけ近づくことができたかな、と疑問符付き。このような被写体はどう切り取るかだけが問題のように感じるが、その切り取りがなかなか思い通りにいかない。 絞りf7.1、1/50秒、ISO 200、露出補正ノーマル。 |
(文:亀山哲郎) |