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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2005/05/23(月)
第160回「病院から」
いやいや、とほほっ。こんなことになるなんて…。
今日は、病院からです。なっ、なんと158回のつづき。まさかつづきがあるとは思わなかったんだけど・・・。

すでに免疫を持っているかと思った翔(かける)がついにおたふくに。ちょうど前回の原稿を送ろうとしていた16日の朝。この日はゴルフの試合だったのですが、前日から身体がだるいと訴えていたので、試合が行われる狭山と川越の境にあるゴルフ場まで送っていってやることにしていました。
「なんか耳の下が痛くて、しこりがあるみたいなんだけど」
と言って翔が起きてきました。見てわかるほどではないのですが、触ってみると確かに耳下腺がしこっていて、さほどの力を加えていないのにかなり痛がります。
「んー、はっきりはしないけど、おたふくかもしれないなあ。だけど、今これくらいだったら、今日1日くらいは保つだろっ」
そうは言ってはみたものの、本当におたふくだったら、ちょっとうつむくだけでも、耳下腺が痛いから、いい結果を出すのは難しいだろうなと思いながら、帰りも私か妻が迎えに来てやるということにして、ゴルフ場で翔を車から降ろしました。
予定より1時間ほど遅れて翔から連絡があり、妻が迎えに行くことに。戻ってきた翔の顔は、明らかにおたふくの様相です。麻耶(まや)のことがあったので、小さい子どものようなわけにはいかないことは覚悟していました。思春期を過ぎた男性にとっては、無精子症の原因にもなる睾丸炎でも併発しようものなら、なおさら大変です。またまたネットを駆使していろいろと調べた結果、万一睾丸炎を併発したとしても、両方の睾丸が炎症を起こすことはまれで、世間でよく言われるように無精子症になることはほとんどないということがわかって、一安心。

翔は麻耶とほぼ同じような経過をたどりました。月曜の晩から熱が高くなり、火曜日、水曜日と39度くらいの熱が続きました。それが木曜日になるとすっと引いて、36度台に。これで終わると思ったのに、金曜日のお昼からまた38度6分の発熱。土曜日になるととうとう39度を超えてしまいました。対処療法以外有効な治療法がないとは言え、一応火曜日に受診して薬を飲んでいたのですが、もらった抗生物質が合わなかったらしく、身体中に発疹ができたりもしたので、土曜日に再び受診しました。
「入院も考えないとね。隔離できる部屋を持ってないと受けてもらえないところもあるからね」と先生に言われ、そうならないように祈りつつ、自宅で様子を見ていたのですが、夜になるにつれ熱は上がるばかり。39度3分、6分、40度3分。もらった解熱剤で何とかなるようなレベルを遙かに超えてしまって、結局入院させることに。土曜日の8時過ぎに近くの公立病院に運んで、入院させました。病院で計ったら40度9分。小さな赤ん坊ではないので、さすがにびっくりしました。

そして、今日は日曜日。今、私が一人で付き添っています。本来は付き添いは認められないのですが、熱がかなり高いので、付き添ってもいいとか。あまり歓迎すべきことではないですね。やや落ち着いてはきましたが。

こういうときにいつも腹が立つのは、学校と病院の対応。今までほとんど腹が立ったことのない翔の高校ですが、今回はちょっと。明らかにおたふくとわかった16日、23日(月)から中間テストなので、
「熱が下がってもすぐには学校に出られないから、家で勉強しなきゃね」と翔に言うと、教科書が学校だとか。担任とも懇談会で顔を合わせただけで話をしたことがなかったので、教科書を取りに行きがてら話をしてこようかなと、学校まで出かけていくと、おたふくだという連絡はすでに入れてあったのに、「具合はいかがですか」の一言がない。
「3年生は1学期の成績で評定平均を出すので、今度の試験は大事な試験ですから」
「はあ。本人もだいぶやる気になっていて、学校の勉強はおもしろいって言っています」
「なんとか受けてもらわないと。まあそう言っても、おたふくは学校に来てはいけないっていう病気なので、もう行ってもいいっていう証明をお医者さんからもらってもらわないといけないんですがね」
“何言ってんだ、こいつ。そんなことわかってるから、こうして1時間近くもかけて親がわざわざ学校まで教科書取りに来てるんだろうが!”。さらに、
「私もおたふくやってないので、うつされると困るんですがね」
“いったい早く来させたいのか、来させたくないのかようっ!”って感じ。

病院は、土曜日なので、時間外になってしまうことも考えて、朝のうちにベッドさえ空いていれば入院は可能ということを確かめてはおいたんですが、夜になってしまったので、来院する前に改めて電話を入れて、これまでの経過と入院させたい旨を伝えると、
「とにかく来ていただいて、受診していただかないと。入院するかしないかを決めるのは、こちらの医者ですから」
“当たり前だろうが!”。何分ぐらいで来られますかというから、10分くらいと答えておいたのに、病院に着いてから30分も待たされる。そんなうちにも、熱はどんどん上がって40度9分に。
“時間を聞いたのはいったいなんだったんだよぉ!”

当直の医者は医者で、ほとんど立っているのが不可能なくらいの息子を、背もたれもない丸椅子に座らせたまま、長時間経過を聞いている。
「ベッドが空いていれば入院できるって誰が言ったんですか?看護師?医者?医者がそう言ったの?そう言うことは医者と話さないとね」
“ふざけんじゃねえ! こんな総合病院の外来に電話をかけたって、電話口に医者が出るわけねえだろっ!”

みるみるうちに真っ青な顔になり、汗びっしょりの息子の様子に、妻が
「外の待合いのベンチに横にさせていいですか?」
と聞くと、近くで様子を見ていた小児科の当直医が、
「汗びっしょりで、つらそうですね」
とやっとベッドで診察してくれることになりました。いったい、医者も何を考えているんだか・・・。
「熱もかなり高いようだし、ご家族も希望しているっていうことで、入院してもらうことにしますから。隔離しなきゃいけないので、個室になるのでちょっと高くなりますがいいですか?」
“だからぁ、最初からそうしてくれって言ってんだろっ!”

今のところ、何か重大な病気があるっていうことではないんだけれど、早くよくなるといいんですが。
翔の世代は、おたふく風邪の予防接種の有効性と副作用(髄膜炎になる可能性がある)が問題になっていた時期で、どちらかというといろいろなものにアレルギーが強く表れる翔は、予防接種を受けていませんでした。もう、今となっては手遅れ。私の判断でそうしたわけだけれど、翔には申し訳ないことをしてしまいました。ただただ、反省です。

 
Re: 第160回「病院から」2005/06/03 21:34:12  
                     なっつん

 

どう考えても予防接種というのは人間の生きるチカラを奪っていると私は思うな、、。
本来鼻、のど、胃、腸っといった粘液を通るという過程があって病原菌は体内にはいるのに、皮下注射から病原菌がはいっていくのは身体にとってどんな風になるんだろう、という単純な疑問があるんですね。。

予防注射の中には水銀が含まれていてその害もささやかれていますよね。
水銀というものが本来身体にはいるべき物質ではないのだとすれば無理やりにいれられてしまった幼い小さな身体にはやはり負担になっているのだとも思います。

日本脳炎も昨日突然のように予防接種が廃止になりましたよね。今まで受けてきた人たちにはいっさいの危ない情報はながされておらず安全神話のもとに日々接種がおこなわれてきたのが現実です。
いつも、いつも被害を隠してその実態があきらかにされない現実に失望を感じます。そして被害がおきてからの対策、被害を隠すことに必死になる実情。
そしてその被害をうけるのはまじめに政府を信じている普通の人々。

なんだか「おかみ」のことをどこまで信じて良いのかわからない、、、なんて思ってしまうのは私だけでしょうか。。。

予防接種の是非を議論したいのではなく、ただ、その実際をもっと公表して親が判断しやすい状況を政府として整えてもらいたいし、また親も政府のいうことを完全に信じるのではなくやはり子どもの身体にはいるものをもっと真剣にしらべて吟味して、自己責任の下、自信をもって親のエゴをつらぬくべきだと思います。

もっと情報を開示し、病院と、親と、保健所と、学校と手をとりあっていける世の中であってほしいと願います。。
願うだけじゃなくて、行動ありき、、ですね。
前向きになにかはじめていかなくちゃ。。。




 

元の文章を引用する
(文:大関 直隆)

2005/05/16(月)
第159回「学校の復権」
昨年、公表された国際教育到達度評価学会(IEA)の学力調査結果で、日本の子どもたちの学力が低下していると公表されて以来、「ゆとり教育」を見直す方向で、文部科学省を始め各地方自治体すべてが、ほぼ足並みをそろえて進んでいます。その後、”ゆとり教育後”の子どもたちの学力が、”ゆとり教育以前”の子どもたちの学力を、ほぼすべての教科で上回っているという調査結果も発表されましたが、こちらには文部科学省や各地方自治体は反応薄。これは、中山文部科学大臣の”詰め込みというよりはたたき込み”という教育観と子どもたちにゆっくりと時間を過ごすことを許さず、隙のないスケジュールの中で何かを学ばせようとする社会的状況が大きく影響しているものだと思います。

ゆとり教育で実際に子どもたちがゆとりを得ていたかというと、必ずしもそうとは言えません。家庭の状況により、学校以外の時間をすべて自由な時間にしている子もあれば、それとは逆に学校以外の時間を塾や習い事といった別な管理形態の中に置く子もいます。ゆとり教育が当初考えられていたゆとりを子どもたちに与えたわけではなく、その是非は別として、少しずれた形で子どもたちに変化をもたらしたと言えるのではないかと思います。

埼玉県の場合、”ゆとり教育”以前に、中学校における”脱偏差値教育”があり、子どもたちに対する学校の影響力は、かなり低下していたと言えます。そこに”ゆとり教育”が追い打ちをかけるような形で実施され、保護者の学校に対する信頼が大きく揺らいだ上、子どもや保護者に対する学校の影響力は、さらに低下することになりました。その結果として、子どもに対する教育が”学校という公権力”から、保護者自身の手に移るという現象も起こりました。

けれども私は、”脱偏差値”や”ゆとり”自体が、即そういう結果を招いたとは考えていません。その間、教員の不祥事は相次ぎ、学校を標的とした事件も数多く起こりました。そして今も起こり続けています。教員に対するこれまでの信頼や学校の安全神話はすっかり崩壊してしまいました。雪印や三菱自動車、そしてJR西日本といった民間企業が起こす不祥事と何ら変わることがない性質の問題に、私たちが抱く公権力に対する不安と憤り。そういったものも含めた教育の状況が、今の結果をもたらしているのでしょう。

先日、埼玉県教育委員会が、子どもだけでなく親をも教育する方針を打ち出したという報道がなされました。子どもをどう育てていいかわからない親を支援するということなら、わからなくはありませんが、低下した学校の影響力を回復させることが目的なら、傲慢としかいいようがありません。

どちらかというと私は、学校教育に対して保守的な考えを持っているので、”学校はない方がいい”などと考えているわけではなく、学校に対する社会の信頼を回復することが大切だと考えています。学校が保護者や子どもからの信頼を回復するためには、親への教育をするなどということではなく、絶大なる権力を持つ学校の綱紀粛正から始めないと、本当の意味での信頼は獲得できないのだろうと思います。

親の教育力の低下を否定するものではありませんが、まず行政がしなければけないのは、学校が本来持たなければならない教育力を向上させること。そのことなくして学校への信頼回復はあり得ません。学校が現状から”復権”を果たすには、学校自ら傲慢さを捨て、謙虚になることが重要なのではないかと思います。
(文:大関 直隆)

2005/05/09(月)
第158回「わが家のゴールデンウィーク」
私の経営する陶芸教室は、お盆とお正月を除けば基本的に休みは祝祭日しかないので、ゴールデンウィークが唯一の休みらしい休みです(もっともカウンセリングの方はクライアントさんによって、お休みの日でないとという方もいるので、カレンダー通りというわけにはいかないのですが)。

「何しようかなあ?」なんて考えていると、いろいろなことが起こるもので、孫の蓮(れん)が「ほっぺが痛い」なんて言い出しました。よく見てやると、なんと耳下腺が腫れてる。
「ほらっ、仰向けにして上から見てみると、左の耳下腺が腫れてない?」
「あっ、ほんとだ!」

そっと両手で左右の耳の下に手を当ててみると、左の耳の下がかなり堅くなって腫れています。「麻耶(まや)は“虫歯じゃないの?”なんて言ってたけど、これはたぶんおたふくだよ」ということになって大騒ぎ。わが家の中で間違いなくおたふくの免疫を持っているのは、私と妻だけ。麻耶は腎臓病を患ったこともあって、予防接種はしていないし、罹った記憶もない。

「翔(かける)はどうだったっけ?」
「予防接種はしてないような気がする」
「罹ったっけ?」
「やってないような気がするなあ…」
これがなんと3日の朝。近くにやっている病院はなし。翔は翔で、6日、7日の試合のためにゴルフ部の合宿中。「翔、大丈夫かなあ? 連絡してみる?」慌ててメールを送って、“何でもないよ”という返事が返ってきたものの、考えてみれば罹っていればもうどうしようもないんだから、なにも不安にさせることもなかったのにとメールを送ったことを大後悔。

新聞を開いて近くで休日診療をやっているところを調べ、麻耶が電話をすると、「心配だったら連れてきてください」と言われました。よく意味も考えずに、麻耶が蓮をつれて病院に向かった後、インターネットを開いておたふくについて調べると、薬もなければ、治療のしようもない。“患部を冷やす”って書いてあるところもあれば、“冷やしても効果はない”って書いてあるところもあったりして、要するに“時がたてば治る”っていうか“時がたたないと治らない”っていうか・・・。

「そんな気がしたんだよ。もうすっかり忘れちゃったねえ」
自分で子どもを育てていたころには、親同士で情報交換をしたり、本を読んだり、病院の先生の話を聞いたり、病気に対する知識もずいぶん持っていたけれど、そういうことってけっこう忘れちゃうらしくて、“耳下腺が腫れているからおたふくかな?”っていう程度にはわかるけど、どう対処すればいいかなんて、何となくそんな気はするものの、すっかり飛んでしまってました。子育てっていうのは、次から次へといろいろなことが起こって、そのつど必要なことは吸収していくけれど、おたふくのように一度罹ってしまうと二度と罹らないような病気の場合は、罹ってしまった時点で必要がなくなってしまうので、忘れちゃうみたいですね。わが家の場合は、麻耶も翔も罹っているか罹っていないかもわからないので、しっかりと覚えていなくちゃいけなかったのかもしれないけれど、ある程度の年齢を過ぎちゃうと、子どもがよく罹る病気についてなんて、意識しなくなっちゃうものですね。子育てってそれでいいのかも???

こういうときのインターネットの威力は絶大で、病気のことならわからないことはほとんどないので、とても助かっています。もちろん大人の病気もね。ただし、勝手な素人判断を招く危険性はあるので要注意!

やっぱり麻耶は、まだ罹っていなかったらしく、3日の晩から耳下腺が痛くなって、4日には顔の形が変わるほど左の耳下腺が腫れてきてしまいました。蓮は熱を出すこともなくたった2日で治ってしまったのに、麻耶は39℃近くも熱が出て、未だに腫れが引きません。大人になって罹ると重いといいますが、ほんとにそうですね。翔は全然症状が出ていないので、気がつかないうちに罹っていたのかも・・・。罹っても症状がでない人も30%くらいいるみたいなので、翔は運良くそうだったのかもしれません。
(文:大関 直隆)

2005/04/25(月)
第157回「19歳コンビ大活躍!」
「来週からスクールに通うことにしたから」
と翔(かける)に告げると、
「ほんとにやんの?」
と信じられない様子。
「やるよ」
「ほんとに?」
「やるって言ってるだろ!」

翔がゴルフを始めたのは小学校4年生の時。家から車で15分程のところにあるゴルフ練習場へ、週に1〜2回送ってやっていました。娘の麻耶(まや)が一時やっていた時期はあったのですが、私も妻も全くゴルフをやりません。「まあ、たまには一緒に付き合ってやるか」とゴルフショップで安物のアイアンのセットと中古のドライバーを買って、ちょっと練習場の打席に立つくらいなもの。翔がゴルフを始めて8年も経つのに、打席に立って今までに打った球の数なんて、よく思い出せば計算できるかも…。ラウンドといえば、翔が小学生だったころ、青木功ジュニアクラブ(プロゴルファーの青木功が主宰する誰でも入会できるジュニアクラブ。年に数回全国各地で合宿があり、青木功本人のワンポイントレッスンが受けられる。ただし、合宿は参加多数の場合、参加経験のない人が優先)の会員特典(子どもと一緒ならばハーフラウンドが1,000円)で、翔と一緒にハーフラウンド(9ホール)を2回、それとは別に伊豆で行われたジュニア合宿について行って、待ち時間(寝泊まりも子どもとは別なので、2日間ずっと待ち時間)に1ラウンドしたことがあるだけ。そんなわけだから、翔にしても今さら父親がゴルフのスクールに入るということが信じられなかったのでしょう。

翔は現在、高校3年生でゴルフ部に入っています。親がゴルフをやらないなんていうのはウチくらいなもの。中にはレッスンプロもいれば、トーナメントプロもいる。詳しくは知らないけれど、ゴルフ場を持ってるなんて言う人もいるらしい。なんかもう私には想像を絶する世界。

高校ももう最後の年になって、翔もあと数回の公式戦を残すのみ。なんとか関東大会までは出場したことがあるものの、あと一歩というところで全国大会の出場経験はなし。いつも最後のところで甘さが出ちゃって崩れちゃう。やっぱりこれがゴルフを知らない家庭の限界かなあ?もし翔が本気でプロを目指そうとするのなら、このままではちょっと。そこで、私が立ち上がったわけです(ちょっと手遅れかも…)。

女子ゴルフ界は19歳コンビが大活躍。今やゴルフを知らない人も知っている宮里藍。そろそろじゃないかと言われて、その通り先週優勝を果たした横峯さくら。それに一歳年下のアマチュア、諸見里しのぶも加わって、今年はますます女子ゴルフの人気が沸騰しそう。

先週のトーナメントで優勝した横峯さくらは、お父さんがキャディーを務めることで有名でした。ワイドショーでも何度も取り上げられ、親子関係の手本としてコメンテーターたちも褒め称えています。宮里藍もお父さんが師。競技は違うけれど、卓球の福原愛やレスリングの浜口京子も親子関係がたびたび報道されました。どの親子を見ても、親と子の関係がとても近くて、親が子どもにすべてを掛けたことで成功した例。

横峯さくらが優勝したあと、お父さんもマスコミに引っ張りだこ。あるラジオ番組で、翌日ゲストで横峯さくらのお父さんが出演することを予告していました。司会をしている荒川強啓が「最近、親子関係が希薄な中で、横峯家の親子関係を見習ってほしい」旨のコメントを述べていましたけれど、ちょっと気になりました。

スポーツの世界で親子が力を合わせて、優秀な成績を収めることはよくあります。けれどもそれは、父親や母親が親という立場を超えた非常に優れた指導者(コーチ)であったからであって、普通の家庭の親子関係と同じ次元で語られるべきではない。横峯さくらのお父さんはプロのゴルファーではないけれど、コースの攻め方やパットのラインの読み方などとても優れていて、横峯さくらを知り尽くした誰よりも優秀なキャディーとして、優勝に貢献したわけです。

うちの研究所に相談に訪れる人の大半は、親子関係が近すぎる相談です。子育ての放棄や虐待など、子どもとの距離がとても遠くなっている親子が増えていることも事実ですが、まったく逆に親子関係が近すぎる親子も増えているということもまた事実です。

子どもとの距離を縮めたいなら、親自身が優秀な指導者になること。ただ、ベタベタと友達感覚だけで甘やかしている親子はほとんどの場合、子どもの自立がうまくいきません。

さて、我が家の場合、親が優秀な指導者になりうるんでしょうか? どうも、その辺が怪しいので、翔がプロゴルファーとして成功するのは並大抵のことじゃないかもね。
(文:大関 直隆)

2005/04/18(月)
第156回「人間の特徴」
前回の内容をさらに受けて。
「人間の持つ特徴は?」の問いにどんな答えを持つでしょうか?おそらくいろいろな答えが出てくると思います。「道具を使う」「火を使う」「言葉を使う」「考える」「意志がある」などなど。どれもその通りだと思いますが、私が人間の特徴としてどうしてもあげたいと思うのは、「直立二足歩行」(二本足で立って歩く)と「他の動物よりも未熟で生まれる」ということの二つです。

人間の持つ特徴というのは、子育て・教育を語る上で非常に重要です。それは、人間がその特徴を持ち合わせているからこそ、他の動物とは違う人間らしい子育てが生まれ、さらにその子育てが“人間”を作っていくと考えられるからです。

さいたま市にお住まいの元教育学会会長で東大名誉教授の大田堯(おおたたかし)氏はその著書の中で、人間が「直立二足歩行」をする理由について、「手が使えるよう」とか「遠くが見渡せるよう」とかいう理由をあげずに、「その気になったから」と言っています。なんだか禅問答みたいな理由ですが、「その気になったから」という言葉は、「直立二足歩行」を人間の特徴として考えるとき、妙にしっくりきます。ラッコやアライグマだって手は使うけれど立って歩くわけではないし、“遠くが見渡せる”というなら、ダチョウやキリンのように首が長くてもいいわけで、どれをとってもなんとなく不満が残ります。そんな中で、おそらく「その気になったから」という理由を否定できる人はいないんじゃないでしょうか?道具や火や言葉を使うといった特徴にも、当てはまるわけで、「考える」「意志がある」という言葉とも共通する。そういった意味では、「その気になる」ということが、人間の特徴と言えなくもない(もちろん、生物学的な特徴というわけじゃなくて、教育学的に見た特徴ということだけれど)。

また「未熟で生まれる」とはどういうことかというと、他の哺乳動物は生まれたときからその種の形状をし、生まれた直後にはその種の親が持つ特徴をほぼ100%持っているんだけれども、それに比べて人間の赤ちゃんは、親の形状とは違って頭がきわめて大きく、人間の持つ特徴をすべては持っていないということです。このことは、人間は生まれて間もない赤ちゃんの時には非常に弱い存在であるけれど、人間として生きるための多くのことを身につけることによって、優れた適応力を身につけ、他の動物に比べてとてつもなく強い存在になれるのだということにもつながるわけです。

赤ん坊の時からオオカミに育てられた「カマラ」と「アマラ」が、人間社会に戻ってからも、人間には戻れず短い生涯を終えたという話(興味のある方はネット上で「カマラとアマラ」で検索してみてください)は、教育学を学ぶ者にとってあまりにも有名な話です。この「カマラ」と「アマラ」の出来事は、人間が人間として生きることの教育の重要性を物語っているものであり、人間が人間としての正しい教育を受けなければ人間にはなれないという、一つの証明でもあります。

親や社会が子どもにどういったものを与えるかによって、子どもはどんなふうにでも育ちます。そして親が子どもに何を与えたらいいかということは、子育ての大きなテーマでもあります。今までの連載の中でも、子どもに何をどう与えるかということを折に触れ述べてきたつもりですが、“子どもは誰のものか”という視点で見ていくと、自ずから一つの方向性が見えてくるように思います。

人間は「その気になったから立った」という大田氏の話は、まさに子育ての勘所でもあります。この人間の特徴をふまえて、子育て・教育を考えていくことが重要なのではないでしょうか。
(文:大関 直隆)

2005/04/11(月)
第155回「子どもの自立を助けるもの その2」
今日はお風呂です。
私がお風呂に入っていると、孫の沙羅(さら)がやってきて、お風呂のドアの前に立つとどんどん服を脱ぎはじめました。まだ一人ですべてを脱ぎ着できない沙羅は、とりあえず自分で脱げるものをすべて脱いだところで、私の方を見て、
「お風呂はいる、お風呂はいる!」
と私に服を脱がせるように要求しています。
「沙羅ちゃんもお風呂はいるの?」
と私が確認をすると、
「うん!」
と大きくうなずいて、にっこりしました。

湯船に浸かった沙羅は、湯船から手を伸ばせば届くところにかけてあるネットの袋から、凧糸のような糸のついた25cmくらいの棒を出して、
「じいちゃん、つり。じいちゃん、つり」
と言っています。よく見ると、糸の先に磁石がついています。
「おさかな、おさかな」
と言いながら、沙羅が指を指しているネットの中を見ると、鯛、イルカ、クジラ、タコなどの形をしたプラスチックに磁石がついたものが入っていました。それを全部湯船に浮かべて、魚釣りの始まりです。
釣り竿についている磁石は、直径1pくらい、魚たちについている磁石は5、6oといったところですから、沙羅一人ではうまく釣れません。釣り竿にちょっと手を添えてやって、すべての魚(クジラやイルカは魚ではないけれど)を釣り上げると沙羅は大喜び。
「もっかい、もっかい」
ともう一度やることを催促し、結局同じことを4回やりました。

その後、お風呂に入る度にこの魚釣りを毎回やらされることになったのですが、クジラやイルカ、タコまでいるこの魚釣りは、小さな子どもにとってはとても楽しいもののようですが、大人から楽しさを与えられているという点で粘土遊びと同じ。

最近、カウンセリングや教育相談に訪れる子どもたちを見ていると、どの子も母子分離あるいは父子分離がうまくできていません。親から与えられることに慣れ、物だけでなく行動までが親の指示によって決定されていることがほとんどです。子どもが自立を果たすには、子ども自身の努力や工夫が不可欠ですが、そういったものが全くないように感じます。

前回、今回と2回にわたって述べたような遊びは、どんどん大人によって工夫され、子どもたちが考え、工夫する余地がなくなっています。もちろんTVゲーム、カードゲームも然りです。それだけでなく、現代社会が抱える問題の中で、子どもの行動範囲はどんどん縮小し、子どもの行う行為というものが、ほとんど大人の指示なしではできなくなってきています。大人から用意されたことをこなし、「××しなさい」という指示に従って行動する。そういう行動パターンの中からは、なかなか自立心は生まれてきません。
子どもに対して大人が過剰に手を貸すことを慎み、子どもの中から努力や工夫が生まれてくるような関わりを構築していくことが重要に思います。
おもちゃメーカーにすれば、いろいろと手を加えることで値段を上げているのでしょうから、企業戦略上は必要なことなのでしょうが、子どもの発達にはちょっとやりすぎなんじゃあないのかなあ???
粘土は粘土。まっさらな状態で作りたいものを作らせてあげたいですね。

 
Re: 第155回「子どもの自立を助けるもの その2」2005/04/14 22:54:11  
                     なっつん

 
大関様、こんにちは。

子供達は外に遊びにでても不審者などに気をつけないといけないし、また、遊び場も極端に減ってきていて、なかなか外で遊びづらくなってきている現実があるのでしょうね。
でも、それは今の社会の現実だから受け止めるしかない訳で、憂うよりもその中からどうしたら子供達が自立していけるのか、その方法を親や学校、社会が考えていかなくてはいけないのだと思います。

「大人から楽しさを与えられている」とは子供は感じていないだろうし、また、楽しさを与えられたからといって自立の妨げになるものではないと思います。粘土やおもちゃというものを与えなかったらその楽しさはわからないわけだから与える道具を大人が選んであげるというのは大事なことだと思うのです。そして与えるだけじゃなく一緒に楽しさを共有することで親子のかかわりも増えるでしょうし、子供を理解する手助けになるのではないでしょうか。
しかし自分の子供には与えたくないおもちゃ(例えばゲームなど)も周りのお友だちとの関係で欲しがったりすることもあるのですね。。。これが一番悩ましいところなのですが、自立へ向かう子供にどう与えたらいいのか、どう使うかということを子供が考えれるようなかかわり方をすることが大切なのだと思います。一概にこどもにだけゆだねても,親が○○してはいけない、と禁止をしてしまっても、自立はできないことだと思います。一緒に(親だけが決めるのではなく)ルールを決める、欲しがってもゲームの内容でふさわしくないものは理由をきちんと説明し与えない勇気を持つ、などが必要なのだと私は思っています。

母子分離、父子分離ができていない親子というのはきっとこういうかかわりが希薄だったので、自分の子どもを理解できていなくて発達や自立を「信じてあげる」ことができないのじゃないかな、、、と思うのです。

おもちゃは自立を妨げるものではなくて、大切なのは大関さんのような「手を添えてあげる」ことのような、押し付けじゃないかかわり方を親がしていくことと、よく子供のいうことを聞いてあげて子供が自分が考えていることやしていることを整理してあげることが大切なのじゃないかと私は思います。その結果親子の関係がうまくいくことで、子供が安心して自立することができていくのじゃないかと思ったりしています。

 

元の文章を引用する

 
すみません2005/04/18 8:43:15  
                     大関直隆

 
レスできなくて申し訳ありませんでした。
第156回に関連したことを述べておきましたので、是非お読みください。
子どもに何を与え、どう育てるかは誰もが悩むことですよね。
今後もなにか参考になるようなことが述べられればと思っています。
 

元の文章を引用する
(文:大関 直隆)

2005/04/04(月)
第154回「子どもの自立を助けるもの」
朝。
「じいちゃん、粘土遊びしよっ!?」
孫の蓮(れん)が寄ってきます。
「粘土あるの?」
「うん」
「買ったの?」
「うん」
どうやら昨日、粘土遊びのセットを買ったらしく、粘土のセットが入った袋を持ってきます。母親の麻耶(まや)と遊んだときに、電気ゴタツの上に置くテーブルを作業台代わりにしたようで、ベンチ型のおもちゃ箱の裏に立てかけてあるコタツのテーブルを出しに行きました。おもちゃ箱の脇にちょうどコンセントがあり、何本かのプラグが刺さっているため、電気のコードが邪魔をして、蓮一人ではうまくテーブルが引き出せません。蓮は粘土遊びをするかしないかの返事をちゃんとしていない私を、粘土遊びの仲間に引き入れることでテーブルを出してもらおうと、私のところへやってきて、
「じいちゃん、粘土あそびしよっ!?」
と再び寄ってきました。
そこへたった今、目を覚ました妹の沙羅(さら)がやってきました。沙羅は、蓮が「粘土あそびしよっ!?」と言うのを聞いていたらしく、
「ねんど、ねんど」
と言いながら、私のそばへ寄ってきます。蓮は、私に念を押すように「粘土遊びしよっ!?」ともう一度言うと、またテーブルを出しに行きますが、やはり思うようにいきません。すると、それを見た沙羅が私に向かって「しよっ!?」と粘土遊びの仲間に入ることを促してから、お兄ちゃんを手伝おうとテーブルを一緒に引っ張りに行きました。けれども、二人の力を合わせてもテーブルは引き出せません。
「粘土遊び」の仲間に入るか、入らないかの返事をはっきりしていなかった私が、テーブルを出すのを手伝いにいくと、蓮はとっても嬉しそうにニコッと笑いました。沙羅もよほど粘土遊びがやりたかったらしく、両手をあげて、
「ねんど、ねんど!」と飛び跳ねています。
蓮が袋から粘土と粘土遊びの道具をテーブルに出して、いよいよ3人で粘土遊びの始まりです。
「あれっ? 蓮くん、粘土どこ?」
テーブルの上に道具がたくさん広げられましたが、粘土が見当たりません。
「ここに入ってんの」
とフィルムのケースのようなものをいくつか、蓮が私に差し出しました。中を見ると、それぞれのケースに赤や黄色や緑などの粘土が入っています。一色がせいぜい卵1個分くらいでしょうか。
”えーっ、粘土ってこれだけ?”
コタツのテーブルいっぱいに広げられた粘土遊びの道具の多さと、あまりにも小さなケースに収められた主役であるはずの粘土の少なさにびっくりしました。
「じいちゃん、何作ろうかな? お船を作ろう!」
黄色の粘土と船型のケースをとり、ケースに粘土を詰めました。ケースでギュッと粘土を挟むと「お船」のできあがり。こんなに上手に「お船」を作ったのは初めてです。
「今度は車を作ろう!」
今度は緑の粘土を車型のケースに詰めて、ギュッと挟むと、
「ハーイ、車のできあがり!」
下敷きのようなプラスチックの板には、葉っぱや魚や動物といった型がいっぱい付いています。その他にもまるでクッキーの抜き型のようなハートや星といったものがいっぱい。
確かに便利といえば、便利だけれど、船も車も魚も熊も、ぜーんぶ同じ作り方であっという間にできちゃう。”船ってどういう形だっけ?”とか”熊の耳ってどこについてるの?”なんて考える必要なし。やっているうちにちょっとむなしさを感じて、
「おじいちゃん、スパゲッティを作ろっ!」
白い粘土でお皿を作り、オレンジの粘土をながーいヒモにして麺を作りました。お皿に盛った麺の上に、緑の粘土で作ったピーマンとピンクの粘土で作ったハムを乗せて、
「ハーイ、スパゲティのできあがり!」
スパゲティができたところに、おばあちゃんも加わって、4人でとっても美味しくスパゲティを食べました!

つづく
(文:大関 直隆)

2005/03/28(月)
第153回「子どもが無防備でいられる場所」
先日、県立の児童自立支援施設に呼ばれて、性教育についての講演を妻と二人でしてきました。
以前、子どもの非行問題のシンポジウムで、当時ここの寮長をなさっていたS氏と、シンポジストとしてご一緒させていただいたことがあり、その縁で施設を見学させていただいたことがあったので、ここにお邪魔するのは今回で2回目でした。
児童自立支援施設というのは、児童福祉法7条及び44条等によって規定された児童福祉施設で、「不良行為をなし、又はなすおそれがある児童及び家庭環境その他の環境上の理由により生活指導等を要する」と判断された子どもたちが、親から離れて生活をし、個々の児童の状況に応じた指導を受けることによって、その自立を支援することを目的とした施設です。児童相談所へ相談して入園する場合、家庭裁判所の決定により入園する場合等があります。
全国的に見ると、中学生の入園者が多いようですが、中には4歳という子もいるそうです。児童福祉法によるものなので、下限はありませんが、上限は基本的に18歳まで、事情により20歳まで延長もできます。
「不良行為をなし…」とはいっても、その内容はさまざまで、不良行為に至る原因が親からの虐待であったり、また、被虐待だけという子もいるそうで、保護の側面もあるのだなあという印象を受けました。
もちろん面会や外出等も認められているのですが、面会の多い子もいれば、全くない子もいるそうです。中学校卒業後は、施設から高校に通ったり、仕事に通ったりしている子もいます。

今回の講演は1時間半で、中学1年生と2年生を対象としたものでした。依頼されたときに、妻だけが行って性についての話をするのか、夫婦で行って家族の問題を話すのか、あるいはビデオ(「素敵なお産をありがとう」(日本クラウン発売))を見せて、家族についての話をするのか、とても迷いました。結局講演の前日まで迷ったあげく、施設の方々にも相談させてもらって、ビデオを見てもらうことにしました。
53分のビデオなので、ビデオを見る前に妻が15分、見た後に私が15分話をしました。出産を扱っているとはいえ、大きなテーマは家族です。いろいろな意味で正常な家族関係の中で育っているとは言えない施設の子どもたちが、どういう気持ちでビデオを見てくれるのかという不安もあったのですが、複雑な家族関係を持った子が多い中で、わが家の家族関係も複雑なこと、そして何よりも子どもたちの心がとても素直で純真なこともあって、家族というものを真っ直ぐと受けとめてくれたようでした。
前回、見学させていただいたのは、たしか7、8年前で、今とは社会情勢や子どもたちの状況はずいぶん違っていたと思うのですが、前回も今回も、同じように感じたことがありました。それは、子どもたちがずいぶん”無防備”だなということです。”無防備”というのは、誰に対しても自分の心を開いていて、自分の心を守ろうとしていないという意味です。私がPTA活動などでこれまで接してきた子どもたちは、皆いい子でしたが、それなりに自己防衛の手段を知っていて、ある程度の距離より近づこうとすると、必ず何らかのバリアを張られます。そのバリアを取り除くには、時間と手間をかけて、少しずつ信頼関係を築いていくしかないのですが、ここの施設の子どもたちには、そういったバリアを感じないのです。もちろん、すべての生活を共にしているということはあると思いますが、それにしても、”無防備”だなあと感じます。それがまたそこで生活するこの子たちの純粋さなのだと思いますが、親から痛めつけられ、社会から痛めつけられ、その無防備な心を受けとめてくれるところが他にないという社会は、どこか間違っているような気がしました。「社会はそんなに甘くない」、よくいわれる言葉ですけれど、子どもが無防備でいられる場所、子どもにとって社会全体がそんな場所であったら、どの子もみんな幸せに暮らせるのだろうなあと思うのですが…。
もちろん子ども自身が自己防衛できることも重要だけれど、私たちは無防備な子どもを受けとめられる大人でいたいですね。

 
Re: 第153回「子どもが無防備でいられる場所」2005/03/28 12:57:50  
                     なっつん

 
こんにちは。

両親がいて子どもがいて、、、という家庭をもっている人としか普段接する機会がない私は「普通」な子育てを中心に物事をかんがえることに慣れてしまっています。
ので、児童自立支援施設というところで生活している子供がいるということなんて、知ろうとしていませんでしたし、知りませんでした。

普通(だと考える)は家庭で愛情を子供に注ぐことが出来るけれども、愛情を受けることなく育った子供達が愛情を求める欲求が大関さんのおっしゃる「無防備」ということにつながるのだと思いました。
でも愛情、、、って本当にあいまいな表現で子供にとったら迷惑だと思ってることも親にとったら愛情という名のもとに押し付けてしまっていることも沢山あるんでしょうね。。。
子供に愛情を伝えていく簡単な方法、、、おしつけじゃない愛情を伝える方法があれば学びたいなあと思います。
そのヒントにはカウンセリングマインドを親が勉強する、、ということがあるんじゃないかと考えています。
押し付けない、、、子供の気持ちに沿う、、、本当にむつかしいことだけどちょっとしたスキルを教えてくださると子育てにいかせるんじゃないかなあ、、と思うので、是非是非カウンセリングマインドの子育ての特集して欲しいと思います。

質問ですが、具体的に子供達のどういう行動で「無防備」だなあ、と感じられたのか知りたいです。
よろしくお願いします。
 

元の文章を引用する

 
”無防備”という意味2005/03/31 17:08:26  
                     
                              http://www.ed-cou.com大関直隆

 
お答えが遅くなってすみません。
”無防備”という言葉は、私の感覚なので、
さらに言葉で説明するのは、とても難しいですね。
同じ子どもたちに会っても、そう感じない人の方が多いのかもしれません。
具体的に、どういうことでそう感じたかというと、
まず、子どもたちの表情です。
子どもたちにとって、そこの施設が生活の場であるということを差し引いても、
外部から入ってきた見ず知らずの私たちを迎えるときの表情に、
警戒の色がない。
2番目に、子どもたちの身のこなしというか、動きというか…
知らない人間とすれ違うにしては、緊張感がなく(悪い意味でなく)、開いている。
3番目に、視聴覚室で私たちを待っていてくれた子どもたちの歓迎ぶりが、
何も語らないうちから、とても親しげである。
言葉にするとそんな感じでしょうか。
なんだか感覚とはちょっと違う気もしますけれど…
あえて私が”無防備”という言葉を使ったのは、
おそらく、そこの子どもたちが、私たちにだけでなく、
そこを訪れる多くの人たちに
同じように接しているのではないかという気がしたからです。
子どもたちが、そういう振る舞いをしているのには、
いろいろな理由があると思います。
「大人からの愛情に飢えている」とか
「施設の職員が子どもたちに対して優しい」とか、
単純に言えるようなものではないと感じました。
子どもたちが元々持っているものが、そうさせているようにも感じますし、
そこの施設がそうさせているようにも感じます。
それは、施設のことや子どもたちのことを
もっとよく知らなくてはわからないのだろうと思います。

>>
押し付けない、、、子供の気持ちに沿う、、、本当にむつかしいことだけどちょっとしたスキルを教えてくださると子育てにいかせるんじゃないかなあ、、と思うので、是非是非カウンセリングマインドの子育ての特集して欲しいと思います。

今、学研の雑誌の編集者とおっしゃっているような本のプロットを立てようか、
なんていう話もちょっと持ち上がっているので、
そんな特集やれたらいいのですが…
ちょっと考えてみます。
 

元の文章を引用する

 
Re: ”無防備”という意味2005/04/02 18:58:37  
                     なっつん

 
大関様、お返事ありがとうございました。

無防備という言葉の裏側にはさまざまな意味があるのでしょうね。。。

私は無防備というのは普通の子供達の持つ感覚で、非行をおこしたり虐待を受けたりするような子供達が受けた傷のために心にバリアーをはってしまうものだと考えていたので、おっしゃることが理解できませんでした。

しかし、愛情に飢えていたり、やさしくされているから無防備になるわけじゃない、、というところを読んで、考えたことがあります。

今の多くの家庭は核家族な上にお父さんの帰りも遅く子供達に母親の愛情(というか怒りというか押し付け、、というか。。。)が過剰にいってしまうことがあるのかもしれません。
ひとりで子育てをしている私もイライラと声を荒げることもしばしば。。。
こどもにとったらどこか息がつまっているのかもしれないなあ、、と思います。そういう息がつまることを続けることで自分の本当の心を開放することができなくなってしまっているのかもしれませんね。
心の防衛反応は誰にでもあることだけど、その程度はその子の家庭によって違うのだと思います。

施設の子供達はそういう息が詰まる状態に、行政が対処して虐待から救ってくれたり、、非行をおこすことで反抗心をあらわすことができたこどもたちだったのかもしれない、、と思うとそういう子供達は自分を受け入れてくれる施設や人に出会うことで無防備な感覚になっているのかもしれない、、、と私は思いました。

自分が今見えている社会だけとしか関わっていなかった私はいろんな子供達やいろんな親やいろんな背景を知ろうとしていなかったことを反省しました。
見えない世界の子供達も自分が知っている子供達もみんなが幸せになれるように、親の方もいろいろと勉強していかなくてはいけないですね。



 

元の文章を引用する
(文:大関 直隆)

2005/03/22(火)
第152回「ゴミ、ゴミ、ゴミにタバコの吸い殻」
いよいよスギ花粉の飛散も本格化。
今年は早いうちから大騒ぎされていた割には、昨年暮れの暖かさが一転、年明けから寒い日が続き、なんだか例年より飛散時期が遅くなったようで、つい最近までは、比較的楽な日が続いていました。
”花粉の飛散量が例年の何十倍とか報道されているけれど、もしかすると花粉症対策グッズを製造販売しているメーカーとマスコミが結託してるんじゃないの? 11月の終わりくらいから、何となくいやな感じがして、抗アレルギー剤をもらって飲んでいたのが、効いてるのかな? いやいやアンテナが狂うはずがない。私の感覚では花粉をほとんど感じないし、街の中でもマスクをしている人の数がそう多くないので、やっぱりあんまり飛んでないんだよね”なんて、いろいろ考えながらいたわけだけれど、先々週くらいから、ドッときた感じ。目は痛い、くしゃみは出る、鼻水は垂れる、顔はかゆい…。とうとう肩こり、頭痛にノドの痛みまで始まっちゃって、”ああ、やっぱりきた〜”。

先週の水曜日は、お昼前から孫の蓮(れん)と沙羅(さら)を私が一人でみることになりました。どこに行って遊ぼうかと火曜日の晩から相談です。
「蓮くん、明日はどこへ行く? そうだ、お魚釣り行こうか!」
「うううー、うん。お魚釣りに行く!」
昨年の夏、息子の努(つとむ)が、蓮と沙羅をマス釣り(もちろん釣り堀ですけど)に連れて行ったことがあるのですが、二人ともはねるマスが怖かったらしく、それ以来釣りにはあまり行きたがりません。けれども、怖いところに行くときには、おじいちゃんがいれば安心という意識が蓮と沙羅にはあるようで、「うううー」と迷いながらも、翌日は近所の釣り堀に行くことになりました。
私の実家の近くにある大きな釣り堀は、平日でもおじいさんたちでいっぱい。釣りがどういうものだか理解をしていない蓮と沙羅が周りを駆け回っては大変なので、子ども用の池が別に設けてあるところに行くことにしました。
蓮も沙羅も最初は釣れた魚にびくびくしていましたが、1匹、2匹と釣れるうちに、だんだん慣れてきて、
「今度は蓮くんが釣るう!」
「沙羅ちゃんもぉ、沙羅ちゃんもぉ」
と1本借りた竿が、とりっこ状態。
あっという間に1時間が過ぎ、釣れた魚は真鯉20匹に真っ赤な緋鯉が1匹。
よほど楽しかったらしく、車に乗ると蓮は、
「赤いお魚さんも釣れたね。楽しかったね。明日も来ようね」
おいおい、そんな毎日来ないよ。
あと3時間。どうしようかな?というわけで、まずファミレスでお昼を食べて、その後は見沼田んぼ(今は植木畑だけれど)で、ヨモギを摘むことになりました。
ヨモギなんてどこにでも生えてるもので、しょっちゅう摘んでいたものだから逆にあまり深く考えたことがなかったらしく、「あれ? ぜんぜん生えてない」と、改めて畑の周りにヨモギがないことに気づいたりして。結局、畑の周りではなく芝川の土手で摘むことに。ところが、ヨモギはあったにはあったのですが、周りがとても汚い。とにかくゴミの多さにびっくり。どこまで行ってもゴミ、ゴミ、ゴミ。どこのヨモギだったら摘めるんだろう…。
蓮と沙羅は、珍しいものなら何でも興味を示すので、次から次へとどんどんゴミを拾っては、見せにきます。せっかく興味を持っているものを頭ごなしに怒るわけにもいかず、
「うーん、これなんだろうねえ?」
けれども、5個、10個となると”なんだろうねえ?”も限界。危ないものもあるので、一生懸命、ヨモギに興味を移させて、何とかビニール袋に半分ほどのヨモギを摘んで帰ってきました。
久しぶりに孫に癒された一日でしたが、帰ってくると涙はぼろぼろ、鼻水はだらー。
どうやら蓮も花粉症らしく、目が真っ赤。
「あああ、花粉症は孫との楽しみまで奪っちゃうのかねえ」

20数年前、三室に住んでいたころは、あんなにゴミはなかったのに…。もっと大人はマナーをよくしないと。こんな自然の中からも大人のマナーの悪さから、安全な子どもの遊び場が奪われているんだなあと実感した一日でした。
とっても恥ずかしい話だけれど、うちの庭(マンション1階の専用庭)には、すごい数のタバコの吸い殻が落ちています。道路から投げ込めるようなところではないので、間違いなく我が家の上階に住む誰かがベランダから捨てたものです。明らかに火をつけたまま捨てたと思われるものまであります。とてもじゃないけど許せる範囲のことじゃない。孫たちにとってはとっても大切な遊び場なのに、まさか自分の家の安全な遊び場までが大人のマナーによって奪われちゃうなんてね。今度の日曜日はマンションの管理組合の総会。しっかりと意見を言ってこなくちゃね。
ベランダからタバコの吸い殻を捨てるなんて絶対に許さないぞ!
(文:大関 直隆)

2005/03/14(月)
第151回「最近の政治家の発言 その2」
「それは小泉さん、ちょっと違うんじゃない!」
と言いたくなる。
小泉首相は1942年(昭和17年)生まれ。「我々の年代では教えてもらったことはないが、知らないうちに自然に一通りのことは覚える」なんていう発言は、軽々しくするべきじゃない。単純に自分の受けた性教育(まあ受けていないわけだけれど)が正しいということを主張したいなら、教育だけでなく「社会のすべてをその時代に戻してからにしてください」と言いたくなる。

正しいことも、間違ったことも含め性情報が氾濫し、子どもたちは自ら性についての情報を簡単に獲得できるようになっています。ところが、雑誌にしても、インターネットにしても、まず飛び込んでくる情報というのは、風俗産業のものばかり。人が人として持つべき性の知識というものは皆無です。これだけエイズのことが叫ばれているにもかかわらず、正しいエイズの知識を持った人は、少年少女のみならず大人の我々でも、ほとんどいないのでは? しかも、性についての正しくない情報の流布というのは、営利を目的として行われるので、情報を得ようとしていない人間にも入ってくるのに、正しい情報というのは得ようとした人間にのみ獲得できるものであって、自分で獲得しようとしない限り獲得することが難しい。そういう仕組みになっているということを小泉さんにももう少し考えてもらいたい。たしか答弁の中にも「年齢に応じた…」というようなことがありましたが、「知らないうちに自然に一通りのことは覚える」なんていうのは、ちょっと乱暴じゃないの。こんなこと言ってるから、衆議院議員の中からも中西一善容疑者みたいなのが出ちゃう。示談が成立して被害者が告訴を取り下げたらしいですけど、釈放後の会見でも「ぽん引きだと思った」みたいな発言があって、どこまで女性をバカにしたら気が済むんだろうと驚きました。

例の早大生らのサークルの強姦事件の際、太田誠一元総務庁長官が「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」と発言したのにもビックリ。どうも政治家は本質を見ないで発言するらしい。

この連載の第92、93回でも述べたように、性教育に対する考え方は人それぞれなので、今の学校教育における性教育が必ずしも正しいとは思いませんが、少なくとも「知らないうちに自然に一通りのことは覚える」なんていうことではなくて、やはり正しい知識をきちっと教えることが重要だろうと思います。もちろん、それぞれの年齢に応じて。

政治家ではありませんが、極めて政治家に近い猪瀬直樹氏が、先日の寝屋川の事件について、「こういう連中には勉強なんてさせるんじゃなくて、中学を卒業したら働かせればいいんですよ」とコメントしたのも、あまりにも乱暴な言い方でした。あたかも中卒や高校中退の子どもたちが、勉強はしたくなくて、お金を稼ぐことだけを望んでいるような言い方をしていましたが、果たして中卒や高校中退の子どもたちに働くことへの意欲が湧くような、きちっとした働き口があるのかどうか…。「そういう場所を与えろ」ということなのでしょうが、それは学歴のあるものから学歴のないものへの差別でしかなく、そんなものが犯罪の減少に繋がるわけがない。

あまり乱暴な意見や発言に振り回されることなく、常に地に足のついた子育てや学校教育にしたいものですね。
(文:大関 直隆)