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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2007/05/28(月)
第260回「会津 母親惨殺事件について思うこと」
ここのところ毎日のようにニュースを賑わしているのは、殺人事件。その中でも、とりわけ私たちに大きな衝撃を与えたのは、5月15日未明に会津若松市で起こった、17歳の少年による母親惨殺事件でしょう。
「母親殺し」というだけでも、私たちに充分なショックを与えるのに、母親の首を黒いショルダーバッグに入れ、警察署に自首をしたという事実は、私たち子どもを持つ親にとっては、身の毛がよだつような衝撃を与えました。

私がこの事件を知ったのは、インターネット上に配信される文字だけのニュースでした。「“母を殺した”17歳少年が生首を持って出頭」といったニュースの見出しを見ても、文字だけ、特にネット上に流れる文字だけというのは、次から次へと流れて去っていく情報に、あまり大きく心を動かしません。とはいえ、私にとって「文字だけ」ではあったにしても、それなりのインパクトのある事件ではありましたが、その後のテレビのニュースを見たときの印象というものは、インターネット上での文字とは、比べものにならないものがありました。

私がテレビでニュースを見たのは夕方で、すでに第一報ではありません。当然、マスコミには多くの情報が寄せられ、「殺害後の少年の異常行動」として、「インターネットカフェでDVDを観た」「タクシーに乗って出頭」「黒いショルダーバッグに母親の頭部を入れて・・・」というようなことが伝えられ、少年が出頭したという会津若松署の玄関の映像や少年の通う高校の記者会見の様子、少年を知る近所の人たちのコメントなどが、どの放送局からも流れていました。

生首を持っての自首ですから、事件の状況は、警察の記者会見などを通じて、早い段階から、ある程度明らかになります。事件の状況が詳しくわかればわかるほど、事件の凄惨さとは対照的に、少年の行動の冷静さが際立ってきます。マスコミにより「異常行動」という報道のされ方をした「インターネットカフェ」や「タクシー」のことも、私には異常とは感じられず、母親を殺して首を切断したあとの人間の行動としては、この少年の人間像からすると「普通の行動」だったように感じます。「わぁー」と冷静さを失い、衝動的に人を殺したというようなこととは違い、今回のように冷静さの中で進んでいった殺人の場合、自首をするという行動を考えるなら、高揚した気持ちを一旦収めるための時間的、空間的余裕というものが、少年には必要であったのだろうと思います。

この事件の内容とは別に、とても気になったことがありました。それは、少年の通っていた高校の会見です。
こういう状況下での会見は、その学校の持っている本質を非常によく表します。今回の記者会見は、学校側があまりにも冷静で、とても冷たいものを感じました。当然のことながら、記者の質問は編集で切られているので、具体的にどんな質問をされているのかはわかりませんが、学校の発言は、あまりにも「事件を起こした」ということに沿った内容になっており、しかもとても簡単に少年の学校での行動が公開されていく。こんなに個人情報にはうるさくなったにもかかわらず・・・。「普段はおとなしく、一人でいることを好んでいるようだった」「国公立大学の理系学部を志望」「科学部に所属していたが活動にはまったく参加していなかった」「昨年9月の修学旅行は、出発当日、少年本人から体調不良を理由に参加しないという連絡があった」「2年生の9月以降の欠席は計20日間。今年度に入って4月以降、登校したのは始業日の9日から5日間」。私には、テレビから流れる会見の様子が、まるで教室にいる生徒たちにその日の連絡事項を伝えるホームルームのように見えました。

「ここの学校は、自校の生徒をこんなふうに扱っているんだ!?」

まだ事件の概要しかつかめず、具体的なことは何一つはっきりしていないわけだから、こういう時の学校の発言というのは、言葉を選び、少年のプライバシーに配慮をしたものでなくてはならないはずです。それがどう聞いても、ワイドショーや週刊誌の興味を奮い立たせるような内容にしかなっていない。警察の詳しい取り調べもこれからなわけだから、「わが校の生徒が世間をお騒がせいたしましたこと、大変申し訳ございません」
それ以上のことは、「ただ今、警察での取調中ですので、全面的に警察に協力させていただきます」せいぜいそんなところではないかと思います。

まさか事件の原因のすべてが学校にあるなどという言い方をするつもりはないけれど、もし事件の原因の一端が、「少年の孤独」という部分にあるとすれば、学校のこうした姿勢にも責任はあるように思います。少年は「特殊で変な子」という言い方の高校に対して、少年を知る近所の人たちが、口を揃えて「いい子ですよ」と言うのが印象的でした。

この事件は、「特殊な事件」ではなく、誰の身近にも起こりうる「普通の事件」なのかもしれません。
(文:大関 直隆)

2007/05/21(月)
第259回「再び、赤ちゃんポスト」
毎週日曜日になると、どんな話題を取り上げようかと迷います。基本的に、月曜日の朝8時半までに原稿をテキストファイルで商工会議所の担当者の方にお送りしているのですが、何らかの事情で遅れてしまう(ある時は外出先で電波の状態が悪く送信できなかったり、ある時はメールに原稿のファイルを添付し忘れたり・・・ということがこれまでにもあったんですけど)と穴があいてしまうことになるので、極力入稿の遅れだけはしないようにしています。以前に「一週間前に送ってほしい」(来週の分を今週に)というお話もあったのですが、毎週の連載エッセイという性質上、話題はできるだけタイムリーにと思い、結局、月曜日の入稿直前に原稿を仕上げることにしています。

ここのところ、取り上げたいことがたくさんあり過ぎて困ります。その都度取り上げてはきているつもりですが、教育改革、代理出産、離婚後300日問題、少年犯罪、いじめ・不登校、子どものうつ、子どもの自殺、子どもの虐待、赤ちゃんポスト・・・。

明るい話題がないことがとても残念です。本来なら一つ一つを丁寧に取り上げ、数回にわたって述べた方がいいのかもしれないのですが、そういう余裕もないくらい様々なことが起こります。ここ数日でも、赤ちゃんポストへの3歳児の遺棄、母親殺害事件。それと時を同じくして教育改革関連3法案が衆議院を通過したのも何かの巡り合わせでしょうか。母親殺害事件にも触れてみたいのですが、まだ事件の概要がはっきりしてこないので、あらためて。

今日は再び、赤ちゃんポスト。
赤ちゃんポストへの3歳児の遺棄は、慈恵病院にとっても想定外のことだったようですが、この程度のことが想定外であったということが、そもそも問題なのだろうと思います。私は、この連載の第248回で『ポストがなければ捨てられないのに、ポストがあるから捨てられるということは起こるでしょう。それを「ポストのせいだ」と証明するのは難しいことですけれど。慈恵病院は「ポストがなければ、この子は死んでいたかもしれない」というような言い方をして、ポストに入れられる子が多ければ多いほど、ポストの正当性を主張するのだろうと思います。ポストがなかったら、捨てられないですんでいたかもしれない赤ちゃんなのに・・・。』と述べました。3歳児というのは、この時点での私にとってもちょっと「想定外」ではあったのですが、今回の件は、「ポストがなければ捨てられない」というのは、ほぼ間違いなかったのではないかと思います。そして、“言葉をしゃべれる”3歳児であったために、「ポストがなければ、死んでいたかもしれない」といういかにも正当なような慈恵病院の主張もできませんでした。

もちろん「育てられないと思っている両親に育てられることが幸せか」という議論はあるでしょう。けれどもそれでは、「両親に捨てられて育ったということが幸せか」ということになってしまいます。

私たちが考えなくてはいけないのは、「両親の元で育てられるような環境を社会がどう提供するか」ということです。私は、どこまでもどこまでも、そういう方向で努力をすること以外に、社会の取るべき道はないと考えています。「それでは死んでいく子どもは救えない」という人がいるかもしれませんが、だからといって「子どもを棄てる」という行為が正当化されるわけではないのです。「子どもを死なせない努力」というのは結局のところ「子どもを棄てさせない努力」なのです。だとすれば、「棄てる場所」が必要なわけはありません。

ドイツで暮らしている息子が6月か7月に一時帰国することになっています。ドイツでは「赤ちゃんポスト」が社会的にどう見られているのかを聞いてみようとは思いますが、先日見たテレビの報道は、慈恵病院の認可の前の報道とはかなり隔たりのあるものだったのに、びっくりしました。認可前には、ドイツではあたかも赤ちゃんポストが社会的に受け入れられているような報道(慈恵病院の会見での内容がそうなっていたということかもしれませんが)が先行していましたが、3歳児がポストに入れられてからのドイツでの街頭インタビューでは、設置自体を知っている人がほとんどおらず、しかも設置についての意見も賛成、反対で2分しているようでした。さらに、ポスト設置を周知させるためのキャンペーンを賛成派のグループが企画したところ、遺棄を助長するということでキャンペーン自体が中止に追い込まれたという報道もありました。

どちらが正しいのか息子によく聞いてみようとは思います。まあ、ドイツの状況がどうであれ、私の考えが変わるわけではないのですが・・・。

安易に救いの手を差しのべることで、生まれなくてもすむ不幸な子どもたちを増やすのではなく、本来私たちが行わなければならない救いの手を差しのべて、一人でも不幸な境遇に置かれる子どもたちを、減らしたいものです。
(文:大関 直隆)

2007/05/14(月)
第258回「花を愛する心、虫を愛する心」
先日、車で出かけたときのこと。
赤信号で停車すると、ちょうど止まったところのお宅のフェンスに、プランターがたくさんかけてありました。
「ここのお宅って、季節に合わせていつもいろいろな花が飾ってあるよなあ」
けっこう頻繁に通る道なので、花が飾ってあるのを知らなかったわけではありませんが、信号が青だとスーッと通過してしまうだけなので、この日のようにちょうど赤信号で花の前で止まったりしない限り、なかなか花が飾ってあるということに意識がいきません。けれども、かけてあるプランターの数も一つ二つではないので、花が飾ってあるということに意識がいきさえすれば、
「へえ、きれいだなあ」
「ずいぶんたくさん花が飾ってあるなあ」
というふうに、花にかなり強い印象を受けます。
この日はしっかりと花に意識がいったので、かなり丁寧に一つ一つのプランターを眺めることに。すると、プランターに貼り紙がしてあることに気付きました。
『花を持っていかないでください。ここの花を勝手に持っていくのは犯罪です』
と書いてあります。たくさんかけてあるプランターのきれいな花たちとは、似つかわしくない言葉です。「きれいだなあ」という感情が急に萎えて、しらけた気分になってしまいました。
「なんでこんな貼り紙するんだろう? せっかく花を飾ってるんだから、こんな貼り紙やめればいいのに…」
一旦はそういう感情が湧いてきて、そのお宅のことを非難するような気持ちになったのですが、その貼り紙をするまでのそのお宅の苦悩というか、苦労というか、そういったものが少なからず見えてきて、今度は花を持っていってしまう「花泥棒」に対する憤りを強く感じるようになりました。

陶芸教室で会員の皆さんとお茶を飲んでいるとき、「門の前に飾った鉢植えの花が3回も持っていかれてしまった」という話が出たことがありました。
「1回ならともかく、2回も3回もなくなるってことはね、ただの通りすがりの人っていうより、近くに住んでる人だと思うのよね。まったく許せない! 人の心っていったいどうなっちゃったんでしょう。盗んだ花を自分の家に飾って、気分いいわけないと思うんだけど。いったいどういう気持ちなんだろっ!」
「私も持っていかれたことあるよ。それもプランター。どうやって持っていっちゃうのかしらねえ。まさか歩きの人じゃないでしょ、あんなもん持って歩けないもん。車のトランクにでも乗せてっちゃうのかしらねえ。それも昼間なんだから、びっくり!」

ゴールデンウィークの見沼自然公園でのこと。
広い公園を、ずっと奥の方まで散歩していくと、演歌が流れてきました。
「なんでこんな公園で演歌なんか流してるんだろ? なんか全然合ってないよね」
もっと奥まで歩いていくとその音量は、どんどん大きくなっていきます。演歌の流れてくる方向に目をやると、どうも公園の敷地の中ではなく、公園に隣接している洋ラン販売のハウスから聞こえてきます。その音量といったら半端じゃない。話をするのにも不自由を感じるくらいの騒音。よく見ると、大きなスピーカーが二つ、しっかりと公園の方に向けられています。公園に来た人に注目をしてもらうための宣伝のつもりらしいのです。
「こんな大きな音で、しかも演歌なんて流して、宣伝になると思ってるのかねえ?」
「洋ラン」というイメージからはほど遠いその雰囲気に驚くと同時に、「花を育て、花を飾るという心」はどこに行ってしまったんだろうと思いました。
公園をさらに奥まで行くと、今度は5、6人で夢中になって土を掘り返している家族を見かけました。おおよそ20坪くらいの広さが掘り起こされていたでしょうか。それぞれの手に園芸用のスコップを持って、どんどん掘り起こしているので、最初何をしているのかわかりませんでしたが、どうやらカブトの幼虫を採っているようなのです。しかも、一番夢中になって掘っているのは子どもではなく、お父さんとお母さん。公園という公共の場所で、果たして許される行為なのか。そんなことまったく考えていないんでしょうね。
大人が子どもたちに伝えなくてはならないのは、「花がある」「カブトを飼っている」という単純な「状態」ではなく、「花やカブトを飼ったときの安らかな心」であったり、「自然を愛する心」であったりするはずなのに、そういった心はすっかりどこかに行ってしまって、残ったものは人の傲慢な欲だけになってしまったように感じました。

教育再生に一番必要なのは、競争心を煽ることでも、大人から子どもへのしつけでも、ましてや国家から国民への価値観の押しつけでもなく、「人としての優しさ」の大切さを子どもたちに伝えることです。無駄な税金を使って「子守歌を聞かせ、母乳で育児」などという笑っちゃうような提言を国民に押しつける前に、大人が「人としての優しさ」を取り戻せるよう、政策らしい政策を打ち出してもらいたいものです。
(文:大関 直隆)

2007/05/07(月)
第257回「人、人、人のゴールデンウィーク」
やってきましたゴールデンウィーク!
カウンセリングはもちろん、陶芸教室も祝祭日しか休みがないので、ゴールデンウィークは数少ない連休です。お盆と年末年始は一応連休にはしてありますが、お盆と年末年始というのは、仕事は休みとはいえ、実家に顔を出して、墓参りに行かなきゃいけない、年末年始のあいさつをしなくちゃいけない、年賀状は書かなくちゃいけない、と決まった“お仕事”があるので、実際休みといった実感がない。そういう意味では、私にとっての連休というのは、一年で唯一、ゴールデンウィークなんです。

昨年までは、5月3日の憲法記念日が、義母の誕生日ということもあって、義母を連れて県北のあまり混むことのない観光地(昨年は、本庄市児玉町にある長泉寺の「骨波田の藤」を見てきました)をウロウロとしていたのですが、義母が亡くなった今年は、孫を連れてさいたま市周辺をウロウロ。潮干狩りにも出かけました。妻の方の両親の介護がなくなったと思ったら、そろそろ私の方の両親の介護が必要となり、ここのところずっと私の実家に泊まりっぱなしなんですが、昼間はなんとか孫と遊ぶことができました。5月3日は、岩槻方面へ「カエル取り」、そしてそのあと見沼自然公園へ。4日は富津へ潮干狩り。5日は再びさいたま市、大崎公園へ。ざっと、こんな具合。

いやぁ、何年ぶりかで人混みの中で過ごしたゴールデンウィーク。
3日は人混みを避けていたので、「ゴールデンウィークだってこんなもんだよ」と高をくくっていたのですが、4日の潮干狩りは半端じゃない。「これでほんとの行き着くの?」って感じ。インターネットで調べたら、正午前が干潮のピークだっていうことだったので、9時過ぎくらいに富津に着くように出かけて、潮が引き始めたらすぐ潮を追うように海に入って、潮が引ききった辺りで、帰ってくる。まあ、そんな予定でした。ところが、実家に泊まっていることもあり、どうも予定通りに事が運ばない。熊手やビーチサンダルはもちろん、着替えの用意も持たなければならないので、一旦自宅に戻り、結局自宅を出たのが8時近くになってしまいました。当初の予定では、7時くらいに出る予定だったので、この時点ですでに1時間遅れ。これが大誤算で、首都高から大渋滞。高速川口線に入った途端、「葛西まで断続27キロ」の文字。完全に止まってしまうということはほとんどなく、なんとかそこは1時間ちょっとでクリアしたものの、京葉道路に入るところで、「穴川まで4キロ80分」の文字。

「これじゃあ干潮の間に着けないかも・・・」
仕方なく、京葉道路をあえて通り過ぎ、千葉北インターから一般道に出て、大きく迂回しもう一度高速道路に入り直すということに。それでも、さらにその先の館山道まで渋滞は続き、朝食を食べるつもりだった市原のサービスエリアには混雑で入ることもできず、結局富津まで直行ということになってしまいました。潮干狩り場のトイレはいっぱいで汚いだろうと予測して、手前のコンビニに入りましたが、そこでもトイレを待つ人がかなりいて、なんとか孫たちをトイレには入れたものの、かなりのタイムロス。

さらにさらに、「ぎりぎり干潮には間に合った!」と思いきや、潮干狩り場の手前1キロくらいのところから、駐車場に入る車の大行列。もちろん、潮干狩り場もすごい人でした。駐車場から眺めた海は、人でいっぱい。まったく砂なんて見えません。遠くから眺めていると、蜂の巣の中で働き蜂が折り重なってウジョウジョと動いている光景を思い出しました。それでもなんとか潮干狩りはできたのですが、2時過ぎくらいには帰ってくる予定が、帰りも渋滞で、とうとう7時になってしまいました。

5日の大崎公園も、農業祭でかなりの人出。孫たちが大好きな遊具には小学生が群がり、幼児が遊べるような状況ではありません。そんな中でも、起震車の体験をし、白バイにまたがり、消防車のホースを握り、それなりに楽しい時間を過ごして帰ってきました。かなり長い間、「混雑するゴールデンウィーク」というのを経験していなかったので、「いつもみんなこんな体験をしていたんだぁ」と今さらながら、感心(?)しました。

妻が、
「潮干狩りに行ったときも、大崎公園でも感じたんだけど、子どもたちは別として、どの家族もみんな大人は楽しそうな顔してないね」
と言いました。そう言われてみると、確かに私たちが最近いろいろな行楽地で出逢う大人の人たちと比べて、楽しそうではないように感じます。

「たぶんね、最近行楽地で見かけるのは、リタイアした夫婦がほとんどでしょ。そういう人たちは、旅行を楽しみにきているっていう感じなんだろうけど、ゴールデンウィークのお父さんやお母さんたちにとっては、家族サービスっていう仕事なんだよ、きっと。ほんとは家でのんびりしたいんだろうけど、ゴールデンウィークくらいはって、人混みと戦ってるんじゃないのかなあ」
そんな話をしながらそれなりに人混みを楽しんで過ごしたゴールデンウィークでした。
(文:大関 直隆)

2007/04/23(月)
第256回「選挙」
「今日ね、ダイヤモンドシティに行ったら、あそこの川のところでKさんが選挙カー止めて演説してたよ。だからね、車の中から手を振ってあげたら、“お車の中からのご声援、ありがとうございます”って言われた」
「あれっ、おまえ、直接知らないんだっけ? 降りていって声かけてあげれば喜ぶのに。“大関の娘です”って言えばわかるだろっ」
「だって、川の反対側で、こっちとあっちだったんだもん」
「そうかぁ。じゃあしょうがないな」

Kさんと初めて会ったのは、旧浦和で市会議員をしていたAさんが中心となって開いた環境保全の市民運動の会でした。そしてその後、たびたびAさんの事務所で顔を合わせるようになりました。妻が、浦和市立南高校で長年教師をしていたことや三室小学校でPTA会長をしたとき、かなりマスコミから注目されたこともあり、Aさんの会では、妻も私もよく意見を聞かれたり、話をしたりすることが多かったので、Kさんは私たちのことをよく知ってはいたようでしたが、私たちはと言えば、あまり自分から口を開かないKさんのことは、顔を知っているという程度で、視線が合えば軽く会釈くらいはしますが、それ以上の関係でもなく、話をしたこともありませんでした。今考えれば、Kさんは川口在住だったので、浦和のAさんの会では一歩引いていたということだったんでしょうね。

私にとって、Kさんの存在がクローズアップされたのは、突然私の地域の小学校のPTA会長になったときでした。私は、すでに真(まこと)、麻耶(まや)が在校中にPTA会長をしていたのですが、Kさんの存在はまったく知らず、KさんがPTA会長になったとき初めて、「ああ、あの人、Aさんのところでよく見かけた人だ! 同じ地域に住んでたんだぁ」というような具合でした。

翔(かける)の学年で再びPTAの役員をやることになり、その後何年間か、K・PTA会長の下、私は学年委員長をやらせてもらいました。Aさんのところで、よく顔を合わせていたとはいえ、実際に具体的な活動をやってみると、考え方ややり方にかなり違いがあり、ぶつかることもしばしばでした。そしてKさんは市会議員に。当選後もPTA会長を続け、お子さんの卒業後、私がPTA会長を引き受けることになりました。

Kさんとの関係は、それにとどまらず、なんと今度は息子さんが妻の教え子に。妻の元の職場も含め、狭い地域に住んでいるので、麻耶の担任だった先生の息子さんが妻の教え子になったり、私がPTA会長をしていたときの副会長や専門部長のお子さんが妻の教え子になったりと、よくあることではあるのですが、ちょっとビックリしました。

ところが、昨年、妻の教え子であったKさんの息子さんが、交通事故で亡くなってしまったのです。今回の選挙は、その息子さんの一周忌前。先日、ポストに入っていたKさんの出陣式のお知らせには、「息子さんの死」についての心境も語られていました。

金曜の朝、選挙事務所に陣中見舞いに行き、Kさんご夫妻と話をしていると、やはり一緒にPTAで役員をやっていたSさんがやってきました。手には、Kさんの出陣式のチラシを握っています。
「犬の散歩してたらさぁ、こんなのが小学校の前の掲示板のポスターの上に貼ってあったから、剥がしてきた」
チラシには、赤いマジックで書き込みがしてあります。文章の細かい部分にいちいち文句が書いてあり、息子さんについて触れた部分には、「選挙の具にするな!」というような書き込みがしてありました。確かに一つの主張として、言っていることもわからなくはないですが、「こんな書き込みをして、わざわざ掲示板のポスターの上に貼るかなあ」という感じ。1丁目、2丁目しかない本当に小さな地域ですから、町会の広報誌にKさんの息子さんが亡くなったことは載っていました。Kさんの市会議員という立場からすれば、町会内では周知の事実。Kさんは、「字を見れば、誰だかわかるんですよ」とは言っていましたが、まだ癒えない息子さんのことに触れられたのには、やや参った様子でした。

選挙で誰を推すかは、それぞれの考え方もあるので、違うのは当然。けれども、地方選挙での誹謗中傷のやり合いは、溝を作るだけで、何も生まれません。かなり昔のことですが、旧浦和のある学校では、PTA会長が保守系の市会議員、副会長が共産党の市会議員ということがあったり、PTA会長選が市議選の前哨戦になるというようなことがありました。PTAを政治に利用するのも「いかがなものか」(もちろんどこのPTA会則にも政治的中立を謳った文言があると思います)と思いますが、どちらを支持するということではなく、政治的意識が必要なこともまた確かです。政治的に相容れない部分はあるでしょうが、思想信条の違いだけがクローズアップされ、誹謗中傷のやり合いから、教育現場の混乱や不信感を増大させるのではなく、違いを認め合い、違いを越えた部分で地域の教育を進めたいものですね。

朝9時ごろ、孫の蓮(れん)を連れて、選挙に行ってきました。投票用紙に名前を書き、投票箱に入れた瞬間、蓮が小さな声で、
「捨てちゃうの?」
と聞きました。私は思わず「ぷっ」と吹き出してしまいましたが、蓮の言葉に「確かに!」とえらく納得がいきました。立会人の皆さんは、いつも地域の集まりでご一緒させていただいていた方々なので、大声で笑うわけにもいかず、私の顔を見てニコニコしています。一応説明はしましたが、蓮は投票所を出るまで、ずっといぶかしげな表情を浮かべていました。
(文:大関 直隆)

2007/04/16(月)
第255回「代理出産」
最近の出産医療の現場にはとても強い懸念を持っています。
大きく取り上げられるようになったのは、やはり高田延彦、向井亜紀夫妻の代理出産の件からだと思います。
つい先日も、最高裁判決がありました。
「タレントの向井亜紀さん(42)夫妻が米国の女性に代理出産を依頼して生まれた双子の男児(3)について、夫妻を両親とする出生届けを東京都品川区が受理しなかったことの是非が問われた裁判で、最高裁第2小法廷は23日、受理を区に命じた東京高裁決定を破棄し、出生届受理は認められないとする決定をした。
 古田佑紀裁判長は「現行の民法では、出生した子の母は懐胎・出産した女性と解さざるを得ず、代理出産で卵子を提供した女性との間に母子関係は認められない」とする初判断を示した。向井さん夫妻側の敗訴が確定した。」(3月24日 読売新聞)

もう少し最高裁判決を詳しく見てみると、
「実親子関係は,身分関係の中でも最も基本的なものであり,様々な社会生活上の関係における基礎となるものであって,単に私人間の問題にとどまらず,公益に深くかかわる事柄であり,子の福祉にも重大な影響を及ぼすものであるから,どのような者の間に実親子関係の成立を認めるかは,その国における身分法秩序の根幹をなす基本原則ないし基本理念にかかわるものであり,実親子関係を定める基準は一義的に明確なものでなければならず,かつ,実親子関係の存否はその基準によって一律に決せられるべきものである。したがって,我が国の身分法秩序を定めた民法は,同法に定める場合に限って実親子関係を認め,それ以外の場合は実親子関係の成立を認めない趣旨であると解すべきである。以上からすれば,民法が実親子関係を認めていない者の間にその成立を認める内容の外国裁判所の裁判は,我が国の法秩序の基本原則ないし基本理念と相いれないものであり,民訴法118条3号にいう公の秩序に反するといわなければならない。」
と述べています。

最高裁判所としては、「単に私人間の問題にとどまらず,公益に深くかかわる事柄であり,子の福祉にも重大な影響を及ぼすものである」ということが大変重要なわけで、大変良識的な判決であったと思います。

私のように子どもがいたり、孫がいたりするような者には、不妊の問題を語るのは大変難しいのですが、生殖医療の問題も含め、強く懸念しているのは、代理出産や生殖医療が、大きくお金と関わっていること、子どもができるということばかりが前面に出て、危険を伴うことだという報道が非常に少ないこと、子どもができないということがまるで犯罪被害者や交通事故の被害者のように「かわいそう」といった悲劇のヒロインに祭り上げられている(今は「かわいそうな女性」となっていますが、これが行き過ぎると「子どもを産めない女は女ではない」となりかねないと心配しています。1月の「女性は産む機会」という柳沢発言などとも重なって…)ことなどです。

最近の生殖医療の報道を見ていると、産む側あるいは親になる側の権利というか選択というか、そういうことを大きく報じ、「かわいそうだから救ってあげよう」という雰囲気を必要以上に演出しているように感じます。もちろん報道にだけ言えることではなく、世論の方向もそちらに傾きかけている。けれども、子どもが生まれ育つということの中心は、子どもであって、親の満足ではないはず。どうもそこの根幹部分が抜け落ちて、まるでペットを飼うとか、ぬいぐるみや人形をかわいがるというような感覚で、子どものことが語られているようにさえ感じます。

昨日(15日)、「体外受精による妊娠は妊娠異常が多い」という報道がありました。産婦人科学会でもさまざまな意見がある中、何が正確で、何が公平な発表・報道なのかということも、われわれには判断しにくい部分はありますが、単純に感情に惑わされることなく、子育ての本質を忘れないようにしたいものだと思います。
やはり、出産・子育ての主役は親ではなく、あくまで子どもなのですから。
(文:大関 直隆)

2007/04/09(月)
第254回「砂場の檻」
4月8日(日)は、統一地方選。私の住んでいる川口市では、埼玉県議会議員選挙が実施されました。投票所は、子どもたちが通った小学校の隣にある公民館。小学校と公民館の敷地は、小さな鉄の扉でつながっていて、行き来は自由。公民館で何か行事が開催され、子どもたちが公民館に集まっているときなどは、その小さな扉を行ったり来たりしながら、子どもたちは遊んでいました。

「蓮、沙羅。おまえたちも、一緒に選挙に行く?」
「うん!」
いよいよ来年の4月には、孫の蓮も小学生。最近、小学校に強い関心を示すので、「選挙にでも連れて行きがてら、小学校も見せてやろうかな」などと老婆心を働かせ、一緒に公民館まで連れて行くことになりました。投票が終わって、投票所になっているホールを出たあと、公民館の庭から小さな鉄の扉を通って、小学校の校庭に入ってみました。扉を入ったところは、プールになっていて、フェンス越しにプールに貯めてある水も見えます。
蓮、沙羅の母親の麻耶は、
「懐かしいなあ。ママはこのプールに入ったんだよ」
と、蓮と沙羅に話しかけます。少し前からスイミングスクールに通い始めた蓮と沙羅は、最近ではなんとか水に顔をつけられるようになり、ほんのちょっとだけ自信が付いたらしく、
「このプール入りたい!」
「蓮くん、このプールに入りたいんだぁ?」
「うん!」
「そうかぁ。今は入れないけど、来年は、蓮くんも小学生だから、来年の夏は、このプールに入れるよ。沙羅ちゃんも、その次の年には入れるからね」
「うん!」
「さて、来た道を帰るんじゃあおもしろくないから、こっちの道から帰る?」
と私が言ったときには、蓮はもうすでに来た道をどんどん戻りはじめていました。
「私と自転車で買い物に来るときは、いつも行きも帰りも今来た道を通るんだよ。だから、蓮は、他の道で帰れるって知らないんじゃないかなあ? ほら、来年ね、通学路をよく知ってる方がいいかなって。だから、いつも同じ道を通ることにしてるんだよ」
「ああ、そういうことね。じゃあいいよ、来た道を帰れば」

小学校の正門の前を右に曲がると、あとはわが家のマンションまで真っ直ぐです。蓮は、私たちよりもはるか前を、どんどん家に向かって歩いています。
「蓮くーん! パンダ公園で少し遊んでいこうか?」
妻が前を行く蓮に声をかけました。
「うーん!」
元気な返事が返ってきました。

小学校の正門の前にあるパンダ公園には、おじいさんが3人、子どもが3人遊んでいました。おじいさんたちは、ゲートボールの練習をしています。子どもたちは、自転車にまたがり、話をしていました。公園の入り口の正面には、大人の腰くらいの高さに焦茶色のフェンスで囲んだたたみ2畳分ほどの場所がありました。久しぶりにパンダ公園に来た私は、その囲いを初めて見ました。『ペットの糞害から守るため、フェンスをしてあります。中に入ったとき、外に出たときは、入り口を閉めてください』とあります。
中に入った沙羅が、
「じいちゃん、お山作ろう!」
と言いました。幼稚園のお迎えに行ったとき、幼稚園の近くの公園で、よく一緒に「お山」を作ります。沙羅は、それと同じように、私と一緒に「お山」を作ろうとしたのですが、とても私が一緒に入って「お山」を作るスペースはありません。
「じいちゃんも作りたいけど、じいちゃん入るには、ちょっと狭いんだよ、沙羅ちゃん」沙羅が「お山」を作るしばらくの間、動物園で動物をフェンス越しに見るように、沙羅を眺めていました。

孫と一緒に家を出、投票をし、公園に来るまでの間、とても温かい心でいたのですが、フェンスの中にいる沙羅の姿を見たとたん、まるで大きな氷を飲み込んだときのように、私の体の中をとても冷たいものが上から下へと広がっていくのがわかりました。
「夕方になると、犬を連れてきて、放す人がいるんだよ。そりゃあ、確かに大きな犬じゃないよ。それに飼い主は、噛まないと思ってるんだろうけど、小さい子どもたちは、遊べなくなっちゃうんだよ。噛まないまでも、小さい子に飛びつくことだってあるし・・・」

沙羅は、とっても楽しそうに「お山」を作って、フェンスから出てきました。蓮は、ブランコに乗っています。
「じぃーちゃーん! ほらっ、一人でこげるようになったんだよぉ!」
大きく揺れるブランコの上で、蓮は得意そうに笑っていました。マンションの前まで来ると、蓮と沙羅が言いました。
「じいちゃん、またパンダ公園、行こうね!」
「うん、行こうね」
私は、答えました。
(文:大関 直隆)

2007/04/02(月)
第253回「日本の親と中国・韓国の親 その3」
さて、3回目でやっと各論まで行き着きました。
「その1」でも述べたとおり、産経新聞の意図は、「日本の子どもたちは親のしつけがなっていなくて、子どもたちの中にいじめを容認する風土がある」っていうことですよね。もちろんそれは、日本青少年研究所の調査の意図ともつながるわけです。
「日本の小学生は中国や韓国に比べて家庭で注意を受ける割合が際立って低い」「家庭での教育力の低さが浮き彫りになっている」「最近の日本の親は、親と子は別個の存在と考える米国型の価値観に変化してきているため、子供に注意をしないのではないか」「「先生・親の言うことをよく聞きなさい」とよく言われる子供は2割前後で、両国の半分。先生と親の権威低下がうかがえた」などなど、日本は子どもを甘やかしている、と・・・。

私は、必ずしもそうは言えないと思うんです。注目する質問の項目がどこかということ、加えてその結果をどう見るかということで、それに対する評価が違ってきます。典型は「先生・親の言うことをよく聞きなさい」なんていう項目ですよね。「注意を受ける割合」ということを考えると、文化の違いによる「善」と「悪」の価値観はどうか、そしてその価値観に照らして「子どもたちは注意を受けるようなことをしているのか」が問題になります。まあ、ちょっと皮肉った言い方をすれば、「日本の子どもは、先生からも、親からも注意をされないくらい、いい子なのかもしれない」ということだって言えるわけでしょ。もっとも、「全体的な回答を見て判断しているんだ」といわれるかもしれませんが・・・。

ここで、調査項目をすべて挙げるわけにはいかないけれど、私はこの調査の結果わかったことは「中国」vs「日本・韓国」という構図だと思います。かたや今まさに経済発展をしようとしている超大国、かたや発展がある程度なされて持続的発展をどうするかという段階の、国土の小さな国という構図ですから、そういう区分けになることは当然です。とはいえ、それも文化の違いや現在置かれている政治的状況等に埋没して、確実に言えることではないように感じますが。

教育や子育ての根底に儒教的精神が共通して流れている、日・中・韓だけを比べようというところから、すでに世界標準ということにはまったく当てはまらない、つまらない調査なわけです。もし世界的な基準で考えるとすれば、少なくとも、ヨーロッパ、北米、南米、アジア、アフリカというような比較がまずあるべきで、どうしても日・中・韓で比較をしたいのなら、それをふまえてその後に、儒教的精神に基づいた日・中・韓があるべきなんでしょうね。誰だって、今の中国の教育が厳しい国家管理の中に置かれていると感じているのではないでしょうか。今まさに、大きな経済発展を成し遂げようとしている国ということを考えれば、ある意味当然なことです。そこに、日本の教育を戻そうとしている意図が強く感じられますよね。教育の参入への規制は緩和しつつ、教育の中身への関与は強くしていこうという政府の意図までが見え見えです。教育基本法の改正や、つい先日、報道された「道徳」の教科への格上げ問題など、こういう調査に対する発表が、布石になっているわけですね。

さて具体的に調査の結果で私がおもしろいと思ったのは、「朝、洗顔をする」という問いに、「いつもする」という回答が、日本・66.9%に対し、中国・92.8%、韓国・93.7%。ところが、「その1」でもあげましたが、「朝ごはんを食べる」との問いに「いつもする」は、日本・86.3%、中国・84.7%、韓国・62.5%。単純に生活習慣と捉えていることが意外にそうでもない。

日本では、「朝食抜き」の問題が、学力低下の原因の一つとして取り上げられることがよくあります。ところが、この数字を見ると、日本が一番朝食を摂っているわけで、韓国では3分の1以上の子どもが「朝食抜き」ということになる。これを見る限りでは、「日本の子どもの学力が落ちている」ということと、「朝食抜き」は学力低下の原因というのは、矛盾してますよね。しかも「朝食抜き」の原因は、「朝食さえ作らない最近の母親」という問題になっている。

帰宅時間もおもしろい。韓国は15時前が51.4%、15時〜16時が33.3%、日本は15時〜16時が51.8%、16時〜17時が37.0%、中国は16時〜17時が44.0%、17時〜18時が20.5%。この結果からすると、学校での授業時間が短いという最近の学校教育に対する批判が、必ずしも当たっていないことになる。もっとも、帰宅の時間は質問項目にあるのに、登校の時間はないのですが。
学校への遅刻についても、かなり開きがあります。日本と中国は、「全くない」が過半数なのに、韓国では、「たまにある」「ほとんどない」「全くない」で3分されています。

家庭での生活で興味深いのは、男女の役割。
家事は、日本・韓国で、ほとんど母親の負担であるのにもかかわらず、中国では「ほとんど母親」という回答は、家事のすべてにおいて約半数。どうしてこういうところを産経新聞は取り上げないんですかねえ。これは、家庭での生活を端的に表していると思うんですが。

項目数が多すぎて、すべてを取り上げるわけにはいきませんが、どこを見るかでずいぶん印象が違うもんですよね。
私は、この調査ではっきり言えることはあまりないと思いますが、強いて私流に解釈すれば、国家的な管理の中に置かれている中国に対し、もっとも自由なのが韓国。日本はというと、学校の管理が家庭にまで入り込んでいる部分があること(最近ではさらにそれを推し進めようとしているわけですが)、中国・韓国に比べて、資本主義が成熟していて、消費志向が強いということは言えるのではないかと思います。この結果から、直ちに母親や教師を批判することは到底無理。むしろ、批判されるべきは、教育や子育てにまで入り込んでいる国家の管理や子どもの心を無視した利益優先の財界主導の教育改革だと思うのですが、もしお時間があったら、すべての調査項目に目を通し、皆さんなりの判断をしてみてはいかがでしょうか。
(文:大関 直隆)

2007/03/26(月)
第252回「日本の親と中国・韓国の親 その2」
さて、前回の調査です。
「日本青少年研究所」は、1975年設立の団体で、青少年の意識調査、国際交流、さまざまなコンクールなどを行っています。所長は教育畑の出身の方ではなく、検事出身の千石保氏で、設立時から現在まで、ずっと所長を務めています。大変多くの大企業から協賛を受けており、これまでの調査でも、客観的とは言えないような、かなり大企業に都合のいい調査結果を発表してきています。

日本青少年研究所が調査の目的を発表していますので、ちょっと長くなりますが、ご紹介します。
「中国の北京、韓国のソウル、それに日本の東京は、3ヶ国の首都である。それぞれの小学4・5・6年生を対象にする調査は、これまでに実施されたことはない。
北京の子どもたちは、勉強漬けで大変な毎日を送っている、と伝え聞く。またソウルの子どもたちも、日本以上に激しい受験勉強を戦っているという。なにしろ、親の厳しさは、とても日本の比ではないとも言われている。
もっとも日本の小学生たちも例外ではないらしい。小学生たちは、とても忙しいといわれている。子どもが忙しいとは、どんなことなのか、大人にはよく分からないものがある。子どもの忙しさは、なんとなく勉強をめぐってのことと想像できるものの、不透明である。
次の時代を引き継ぐ子どもたちの日常生活を掴んでおくことは、大人たちの責任だろう。やがてどんな社会になるのか、どんな子どもに育てるかは、基本的な生活習慣がはっきりしないため、調査する必要がある。
子どもたちは、大きくなったら、どんな人間になりたいと思っているのか。仲好しの友達がいるのか。学校外ではどれほど勉強しているのか。放課後や休み時間は何をしているのか。
日本では、親と先生の権威がとても低下したといわれている。親と先生の関係はどうなのか。頑張ろうという気持ちがどれほどあるのか。物事に対する「やる気」はどうなのか。親のしつけは、時代とともに変わっているのか。しつけの理念というものがあるのだろうか。食べるのに困らない時代のしつけは、どんな目的があるのか。
こういったことを想像してみると、不透明さが次第にふくらんでくる。
まず、生活習慣の調査からはじめねばならない。起床時間、就寝時間、食事や生活習慣、親のしつけ、家事の手伝いなど子どもたちの日常生活の実態を把握するのはこの調査の目的である。」

これを読んだとき、ちょっと私の中に驚きが広がりました。
「この日本青少年研究所というのは、民? それとも官?」というような驚きです。前回、ご紹介した産経新聞の記事を読んだとき、財団法人としか冠が付いていないので、民間の研究機関かなあとは思ったのですが、産経新聞の記事の書きっぷり(「調査報告書で分かった」とか「家庭での教育力の低さが浮き彫りになっている」)から、民間だとしても当然何か学術的に調査をしているところなんだろうと想像しました。

ところが、この目的を読んでみると、なんだか最初から前提があるように感じる。小さな規模ではありますけれど、私も何度かアンケートを採ろうと思って、アンケートの案を作ったことがあります。一番気をつけるのは、自分が描いた目標に対し「誰に対して、どのような内容のアンケートを実施したら、より正確な結果が得られるか」ということです。そのあと、アンケートの結果をふまえ何かをやろうとすればなおさらのこと、内容を丁寧に精査します。

今回の日本青少年研究所の調査は、どうもその辺から、乱暴に見える。冒頭の「中国の北京、韓国のソウル、それに日本の東京は、3ヶ国の首都である。それぞれの小学4・5・6年生を対象にする調査は、これまでに実施されたことはない」というあたり、子どもの生活を比較するのに、なぜ中国、韓国、日本なのかが見えてこないし、あたかも国際的な比較のような雰囲気を醸し出してはいるのに、それぞれの首都の子どもたちを選んだことが、どうしてその国を代表する一般的な子どもたちを選んだことになるのかの説明もない。この目的だけを読んだだけでは、わかりにくいかもしれませんが、研究所の「最近の日本の親は、親と子は別個の存在と考える米国型の価値観に変化してきているため、子供に注意をしないのではないか」というコメントと合わせて読むと、疑問がふくらみます。米国の子どもが標本にないにもかかわらず、「日本の親は米国型価値観」と決めつけている。

また、今回の調査は、昔のデータは含まれないのに「日本では、親と先生の権威がとても低下したといわれている」「親のしつけは、時代とともに変わっているのか」と時代の流れにより変化したという日本の状況だけを取り上げ強調することで、中国、韓国に比べ、日本は「親と教師の権威の低下している」「しつけがあまい」ということを引き出そうという意図が見えます。

こんなふうに子どもたちに対する調査が進められていて、それがいかにも客観的事実であるかのようにマスコミを通して報道されている現実に、驚くとともに怖さを感じました。

前提をきっちり把握してもらいたくて、またまた、引用が長くなり、具体的内容まで入れませんでした。

次回こそ、内容を細かく見ていきます。
(文:大関 直隆)

2007/03/19(月)
第251回「日本の親と中国・韓国の親 その1」
産経新聞(ネット上の配信記事を読んだので、紙面ではどうなっていたのかはわかりません)によると、

日本の小学生は中国や韓国に比べて家庭で注意を受ける割合が際立って低いことが7日、財団法人「日本青少年研究所」の調査報告書で分かった。家庭でよく言われる注意事項23項目のうち21項目について3カ国中最下位で、家庭での教育力の低さが浮き彫りになっている。同研究所は「最近の日本の親は、親と子は別個の存在と考える米国型の価値観に変化してきているため、子供に注意をしないのではないか」とみている。
昨年10〜11月、東京、北京、ソウルの3都市の小学4〜6年生を対象に、各学校で書面形式で生活習慣を調査。計5249人から回答を得た。同研究所によると、同種の調査は初めてという。
親のしつけに関する設問では、家庭でよく言われる注意事項23項目のうち21項目で、日本の子供は中韓より注意される割合が低かった。特に「先生・親の言うことをよく聞きなさい」とよく言われる子供は2割前後で、両国の半分。先生と親の権威低下がうかがえた。
「よく勉強すれば、将来いい仕事がある」も17・8%と低く、中国(53・8%)、韓国(41・7%)と対照的。「好き嫌いしないで全部食べなさい」「嘘(うそ)をついてはいけない」「友達と仲良くしなさい」なども大幅に低かった。
一方、日常的な生活習慣では、毎朝歯磨きをする比率が63・9%、毎朝洗顔するのが66・9%にとどまり、それぞれ中韓より2割下回った。テレビを見ながら食事するのは46・0%と半数弱を占め、いずれも11%台だった中韓の4倍に達し、「ながら食事」の浸透ぶりをうかがわせた。
友人関係では、親友の有無や友人の数では3カ国とも大差はなかった。だが、「友人の喧嘩(けんか)を止めるか」との質問に、「必ずする」と回答したのは15・9%と中韓より10〜15ポイント低く、「しない」(22・5%)は5〜15ポイント上回った。

「へぇー、そうなんだぁ!?」
と興味深く読んでいたんですが、調査の集計結果がすべて掲載されているページ(http://www1.odn.ne.jp/youth-study/reserch/2007/tanjyun.pdf)があったので、アクセスしてみたら、
「???」
確かに、上の数字はその通りなんだけれど、大きな設問の中の小問も含めると120問を超える質問の中で、どこを取り上げるかで感じ方が全然違ってきてしまいます。
例えば、起床時間なら中国の子どもたちは、おおむね6時〜7時の間、日本は6時半〜7時半、韓国は7時〜8時の間です。「朝ごはんを食べる」との問いに「いつもする」は、日本・86.3%、中国・84.7%、韓国・62.5%。「寝る前に、歯磨きをする」は、日本・74.3%、中国・74.3%、韓国・69.2%。おもしろいものでは、「家から学校まで何で通っていますか」との質問に、「歩いて」が日本・96.0%、韓国・81.0%、中国・38.2%。中国では、「親の車で」という回答が23.7%(日本・0.3%、韓国・3.9%)もあるのです。
「友人」ということで見てみると、「喧嘩を止める」という日本の子どもは少ないことになっているけれど、「仲よしの友だちの人数」ということでは、「1〜2人」「3〜5人」「6〜10人」「11〜15人」(この上は5人刻みで30人までとそれ以上に分類)という括りで、中・韓は「3〜5人」と「6〜10人」に山が来るのに対し、日本は「6〜10人」「11〜15人」に山が来る。
産経新聞の意図は、日本の子どもたちは親のしつけがなっていなくて、子どもたちの中にいじめを容認する風土があるっていうことを強調したかったんだろうけれども、全体的に見て、文化の違いはあるけれど、親のしつけがなっていないとか、いじめを容認する風土があるなんていうことは、とても言えるものではありません。驚くなかれ、学校に行くのがとても楽しいと答えている割合は、韓国の22.4%に対し、日本は36.9%(もっとも中国は59.2%ですが)。

産経新聞の最後に付いている「親からしつけを受けていない「団塊ジュニア」が親になり、子どもに何を伝えればいいのかがわからなっているのではないか。学力は重視するが、人格形成はおろそかになっている。子どものうちにきちんとしつけないと、将来の自立を妨げることになりかねない。親だけでなく、社会全体でしつけていく視点も必要だ。」という斉藤哲瑯(てつろう)・川村学園女子大教授(教育社会学)のコメントに至っては、
「?????????????????」
「団塊の世代」って言うのは1947〜49年(場合によっては1952年、55年生まれまで含めることも)に生まれた人たちのことを言うんだけれど、今年58〜60歳になる人たち。この調査は小学校4年生(9〜10歳)から6年生(11〜12歳)を対象に行ったものだから、出産した年齢を25〜30歳として、母親の年齢はと言えば、一番若い人は25歳で出産した4年生の母親ということになるから34歳、一番高齢の人は、30歳で出産した6年生の母親ということになるから42歳。斉藤教授の話によれば、「団塊ジュニア」(1971〜74年の第2次ベビーブームに生まれた子を指すのが一般的ですが、おそらくここでは団塊の世代から生まれた子という意味で使っているものと思われる)が親になり、子どもに何を伝えればいいのかがわからなくなっているのだそうだから、34〜42歳の母親(父親の場合は一般的に言ってもっと年上。私のようなのは滅多にいないので)の親たちが58〜60歳?微妙なところだけれど、ちょっと無理があるんじゃないかなあ?
だいたい、“子どものしつけ”をしていなかったのは「団塊の世代」なんだぁ!?
「う〜ん、なるほどぉ」
そうなると「今どきの若い親は・・・」と最近の子育て事情を批判している「団塊の世代」の人たちは、自分たちの責任を痛感しなくてはいけないことになる。
こんなこと言っちゃっていいのかな? 私のエッセイじゃないんだから、感覚ではなく、学者は学者らしく、もう少し裏付けのあることを言ってほしいと思うんだけどなあ・・・。

報道をどう見るかっていうのもなかなか難しいですよね。この調査をした「日本青少年研究所」っていうところも、どうも意図的にいろいろなことをやっているところのようで、調査自体にもやや問題はあるようですが、調査結果を見るとなかなかおもしろい部分もあるので、次回は調査の内容について、もう少し深く掘り下げて、「大関直隆の感覚で見る日本、中国、韓国の子育て事情」について述べたいと思います。

つづく
(文:大関 直隆)