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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2007/12/25(火)
第290回「学力日本一の秋田県」
12月19日付朝日新聞は「もっと知りたい! 学力日本一 秋田の秘密 早寝・早起き・復習、当たり前」という記事を掲載しました。
そう言えば、全国学力調査で小学6年の全科目が1位だったのは、秋田県だったっけなあ・・・。

ん? そんなことどこかに飛んじゃってたけど、11月12日にアップした第284回「子育ては都会、それとも田舎?」の柳葉敏郎氏の話も秋田だったっけ。19日の朝日新聞の記事を見て、やっと全国学力テストのことと柳葉氏の田舎暮らしのことが結びつきました。

トホホッ。。。。。です。朝日新聞にしてやられたという感じ。
偶然の一致かもしれないんですけど、(いやいや、そんなわけはない!)最近の朝日新聞の傾向として、「子どもの心や優しさより学力」、「親の意見より学校の意見」といった傾向が強いので、全国学力調査の結果、「日本一が秋田だった」ということを考えると、「教育のために東京を捨てて秋田に住む」という柳葉氏の行動をさりげなく取り上げたわけは、一見子どもの「心や優しさ」を取り上げたように見せかけて、本当は「学力」だったんじゃないの?なんて考えちゃいます。実に朝日新聞らしいやり方です。おそらく、学力日本一が秋田になったので、「秋田、秋田」って秋田に関係している人を探したら柳葉氏にぶつかった、そんなところじゃないですかねえ?

もちろん柳葉氏が秋田に移ったのは調査の前だし、もし調査結果が出たあとだとしても、彼の意識の中に「学力日本一」があったなんていうことは考えられませんが・・・。うちは、ずっと朝日新聞(うちでも取って、カウンセリング研究所でも取って、陶芸教室でも取っているので、毎日同じものを3部も取っている)なので、まあ批判をしても仕方ないんだけれど、ちょっと最近の朝日新聞の記事ややり方には、そういうところが目について辟易とする部分があるので、ちょっと苦言を呈しておきます。

まあ、それはさておき、学力日本一の話。
秋田県が学力日本一になってから、全国各地から秋田県に視察団が訪れているんだそうですね。
この全国学力調査に関する記事で、毎日新聞は10月25日に「トップ秋田と最下位沖縄、経済格差も影響」という見出しで沖縄県が置かれた状況に目を向け扱いました。けれども、この見出しの付け方には、とても問題があったと思います。どう読んでも、秋田と沖縄との経済的格差のように取られてしまいます。おもしろいことに12月19日の朝日新聞の記事の中には『前東大学長の佐々木毅・学習院大教授(65)は「経済的・地理的な格差論議がさかんな中、これをひっくり返す結果だ」と驚く。出身の美郷町は県平均より良かった。「人口が減っている地域だけど、先生の目が行き届く環境なのではないか」』という部分がありました。誰が考えたって、秋田も豊かではないんですよね。「豊かだから学力が向上し、貧しいから学力が低下する」というシナリオは崩れているんです。学力上位の県には、富山県、福井県などが上げられています。首都圏の豊かさから考えれば、けっして豊かとは言えない地域です。

この調査には、私立学校の大半が不参加ではありましたが、私は、この調査の結果を見る限り、学校での学習と家庭での学習の大切さが浮き彫りになったと見ています。というと、秋田の多くの学校が取り組んでいる「家庭学習ノート」をまねて、宿題を多くだそうといった短絡的方向に行く学校や先生が多いのでしょうけれど、よく考えなければならないのは、そんな些細なことではなく、子どもを取り巻く社会環境だろうと思います。朝日新聞の記事の中の『(三種町立湖北小)研究主任の金田咲子先生は「遊ぶ所も少ないから、家族みんなが規則正しい生活を送っている」と言う』という部分はとても興味深い部分です。ここで言う「遊ぶ所」というのは、都会の「射幸心を煽る遊び場」(遊ぶところだけでなく、買い物をするところであったり、飲食をするところであったり)という意味だろうと思いますが、逆に秋田には柳葉氏が考えるような伸び伸びとした子どもを作る「遊び場」がたくさんある。かたや「射幸心を煽る遊び場」をたくさん作り、かたや勉強をやらせる「塾」をたくさん作る。子どものやることはどんどん増えて、忙しさの中に子どもたちは疲労する。本当の意味の子どもの遊び場はどっちが多いのか・・・。

来年孫が入学する小学校(私が子どもたちを通わせた小学校ですが)は、とても小さな学校で、とうとう隣の小学校と合併することになりました。それでも、おそらく一学年2クラスです。娘が説明会に行ってみると、どうも隣の地域の全ての子どもたちが入学するわけではないらしい。一部のお母さんたちが小さな学校の教育環境を心配して、もっと設備の整った規模の大きい蕨市内の学区へ移るらしいというのです。秋田県知事が言うには、「郡部の小さな学校が強く、教育環境が整っていると思われている秋田市が弱い」ということのようなのですが・・・。

子どもたちの置かれている状況をしっかり見つめ、学力の面でも心の面でも、真に子どもたちに与えなければならないのは何なのか、私たち大人が地に足をつけて考えなければならないときなのではないかと思います。
(文:大関 直隆)

2007/12/17(月)
第289回「インフルエンザの予防接種を初めて打ってみました」
今年、初めてインフルエンザの予防接種を受けてみました。インフルエンザの予防接種は、副作用の危険がある上、効かないというもっぱらの定説で、大阪赤十字病院小児科医師の山本英彦氏や子どもの健康相談などでも有名な毛利子来(たねき)氏を始め、予防接種そのものの中止を求めている方々や団体も数多くあります。
http://www.ne.jp/asahi/kr/hr/vtalk/infl_appeal0311.htm

医療に関する考え方は、人それぞれで、発熱の場合でも、どの程度の熱がどれくらいの期間続いたら、薬を使って下げるかという判断も、医師によってもまちまちです。もちろん、名のあるような重病がはっきりしている場合は別として、風邪やインフルエンザといった症状の場合は、とても難しい判断を迫られます。脳炎や脳症も、インフルエンザそのものより、圧倒的に解熱剤が原因ということも言われており、子どもへの薬の使用は、極力慎重であるべきことは言うまでもありません。

11月28日配信のロイター通信の記事でも、ワクチンよりも手洗い、マスクの有効性を伝えており、ネット上のフリー百科事典『ウィキペディア』にも、
「一般的な方法として最も効果が高いのはワクチンの接種であると言われていた。しかし2007年11月28日、ロイター通信社の配信ではインフルエンザや新型肺炎(SARS)などの呼吸器系ウイルスの感染を予防するには、薬よりも手洗いやマスクの着用といった物理的な方法が効果的との可能性を示す研究結果が明らかになった。国際的な科学者チームが51の研究結果を精査。所見を英医学会会報で発表した。研究チームでは「山のような証拠は、ワクチンや抗ウイルス薬がインフルエンザの感染を予防するのに不十分であることを示した」として、国の流行病対策プランはより簡単で安価な物理的手段に重点を置くべきだと提言している。」と記載されています。

そういうことを考えると、インフルエンザ予防接種の有効性といったものに対しては、疑いを持たざるを得ませんね。もちろん、有効性を示すデータというのは存在するわけですが、データの採り方そのもの(作為があるという意味で)に疑問を呈している人たちも多く、やはり少なくとも子どもには打たない方が無難ということでしょうか。

そんな考えの中で私が今年予防接種を受けたのは、「もし、効いたらラッキー!」という程度のことです。ある意味、人体実験とも言えなくはないですが、私の仕事も妻の仕事も身体が資本。特に妻のやっているカウンセリングは、妻でないとできないことがほとんどで、もし、インフルエンザで何日か寝込むことになれば、その分売上に響くのはもちろん、万一クライエントさんやカウンセラー資格取得講座にお見えの研修生の皆さんにうつしてしまったら大変です。私の方はと言えば、私自身のインフルエンザが妻ほど売上に影響することはありませんが、70代、80代の会員さんも多く、年輩の会員さんが重いインフルエンザや肺炎とかいうことにでもなれば、命にも関わってしまうことだってあります。そんな状況の中でも、基本的に休みはないし、私がいないと困ることもあるので、去年や一昨年などは、点滴をしながら仕事をしていたなんていうこともありました。

有効性を信じていないにもかかわらず、「もし効いたら・・・」なんて、矛盾だらけですが、ほんのわずかな期待を込めて、打ってみたというわけです。

問診票の裏を読んでサインをするよう書いてあるので、問診票の裏に目を通すと、とにかく副作用のことが延々と書いてある。これだけのことを読んでも、あなたは予防接種をしますか?ということなんでしょう。副作用については充分に説明はしましたよ、それでも打つって決めたのはあなたのですよっていうことなんですね。私は、そこをビクビクしながらクリアして打ったわけですが、とりあえず私には副作用は出なかったようです。卵とゼラチンにアレルギーのある方は要注意とか。私はいろいろなアレルギーを持っていますが、卵とゼラチンは大丈夫なんですよね、幸いなことに。

もし家族中が罹っても私がインフルエンザにならなければ、来年は妻も打つことになるのかな? まあ、人体実験はあまりしない方がいいですよね。

でももし効いたとしても、孫たちに打つことはないと思います。ドイツでバレエダンサーをしている努がまだ小さいころ、ペニシリンの注射を打ったことがありました。アレルギーがあるとはまったく思えなかったにもかかわらず、腕は腫れ、大きなしこりがかなり長い間消えませんでした。私も、まったくアレルギーはないと思っていたのに、10数年前に花粉症が発症してからというもの、スギ、ヒノキはもちろん、切り花もダメ、ポプリ、アロマ、ハーブもダメ。アレルギーの怖さは充分に知り尽くしたので、今年は大変なリスクを冒してしまいましたが、孫たちにだけは、大きなリスクは背負わせたくありません。

肝炎訴訟の解決が長引くなか、国には製薬会社の利益を優先させることなく、国民の安全に対する最大限の配慮をしてほしいものですね。
(文:大関 直隆)

2007/12/10(月)
第288回「異住所交流会」
「そちらに中山紀正(仮名)さんが入院していると思うんですが、何号室ですか?」
「そういうことにはお答えできないんですよ」
「えっ、親戚のものなんですが・・・」
「規則ですから」
「すぐそばまで来ているので、これから伺おうと思うんですが、入院はしてるんですよね?」
「それもお答えしかねるんですが・・・」
「えーっ!入院してるかどうかも教えてもらえないの?」
「はい、規則なので・・・。どなたかご親戚の方にご確認ください」
「だからぁ、私がその親戚だっちゅーの!」
水戸の近くの病院に義理の弟(正確に言うと元義理の弟)が癌で入院し、放射線治療を受けていると甥から聞いて、お見舞いに行こうとしたときの病院との電話のやり取りです。「元」なので、正確には親戚ではないし、普通だったら「お見舞い」でもないのですが、義父の通夜にもわざわざ水戸から駆けつけてくれて、義母が「今までもお世話になったし、孫の父親なんだからこれからも孫のことではお世話になるんだし」と言うので、婿と元婿というやや関係の遠い私が、病院を訪ねることになったのでした。

「どうしようかなあ?」と思いましたが、わざわざ水戸まできて、用も足さずに帰るわけにもいかないので、ややこしい関係でお見舞いに行く前から甥に負担をかけるのは嫌だなあと思いつつ、甥に電話をかけて、確かめることにしました。

個人情報保護法が施行されてから、こんなことがよく起こります。
先日、病院内で人違いから射殺されるという事件が起きましたが、あの場合は確認ができていれば、事件に巻き込まれなくてすんだケースでしたが、他人に教えてしまったことで、事件に巻き込まれるということも考慮してのことなんでしょうか。まあ、あまりそういった事件を聞いた覚えはないのですが・・・。

私の住んでいるマンションの管理組合の定時総会で、「名簿に電話番号を記載しないでほしい」という意見が出されたことがありました。個人情報保護法が制定される前のことで、管理組合では、毎年部屋番号と電話番号が記載された居住者名簿を作成して、全戸に配布していました。売られた名簿を元に頻繁に電話がかかってくるということが社会問題化していたときで、名簿の問題に敏感な人たちが出始めたころのことです。総会では、様々な意見が出ましたが、それまで、名簿があっていろいろな連絡やコミュニケーションが取れていたということもあり、電話番号はそれまで通り載せるということで決着しました。その後、個人情報保護法が施行となり、現在では電話番号だけでなく、名簿そのものを作らないことになっています。

今年も、そろそろ年賀状の季節。孫の通う幼稚園では「異業種交流会」ならぬ「異住所交流会」(そんなもの本当にあるわけはないですが)があるらしく、なにやら住所の書いた名刺のようなものを作っては、年賀状のやり取りをする人には渡しているようです。私も会社をやっている関係で、生命保険会社やこのエッセイでもお世話になっている商工会議所の「異業種交流会」には、何度か出席させていただいていて、名刺を交換することの意味・意義は充分に理解しているつもりですが、幼稚園までそんなことをしなくてはならなくなっているとは・・・。

どうやら、電話の連絡網だけはあるらしく、運動会や遠足といった行事の時には、電話がかかってくることはありますが、住所がわからない。そのため、年賀状を出すには、住所の書いてある名刺様のものを交換しておくのが手っ取り早いということなのでしょう。昔は名簿を見ては、「この人とはあまり関係がよくないから、年賀状を出しておこうかな?」なんて、関係改善を図ったりもしていたんですけれど、いまでは仲のいい人とだけのやり取りになっているんでしょうね。

確かに住所や電話番号が漏れるということのリスクもありますが、それが行き過ぎると「地域社会の崩壊」につながります。うちは10階建てマンションの1階にあるので、たまに上の階から物が落ちてくることがあります。さすがに下着が落ちてきたりしたときには、何も言ってこないこともありましたが、これまではほとんどの場合落とした本人か管理人室から連絡があり、取りに来ていました。ところが、名簿がなくなってからは、連絡があることが少なくなりました。これまでだったら、管理人室を通して連絡があったような場合でも、たいていは、直接謝罪の電話くらいはあったものですが、今では各階に1人いる理事を通してでなくては連絡が取れないので、「落とした」という連絡そのものもなくなりましたし、謝罪の電話があることもなくなりました。もちろん、「どこの部屋にどんな人が新たに越してきた」などということもわからないので、廊下や駐車場で顔を合わせ、「こんにちは!」なんて声をかけても、「あれっ?あんな人いたっけ?」ということも・・・。「これで不審者を見分けられるのかなあ?」という不安になることさえあります。

以前小学校での防災訓練では、電話が通じないという想定で、家から家へ直接伝えるという方法で、安否の確認や避難の仕方、誘導などを行うという訓練を行っていました。ところが、最近のようにここまで住所が非公開になってしまうと、ごく限られた、しかも普段自分に心地のいい人間関係しか存在しなくなっているので、地域の連携などまったく考えられません。

行き過ぎた個人情報の保護を改めようという動きもあるようですが、子どもを守るという観点から考えれば、何が本当に重要なのか、もう一度考え直す必要があるのではないかと思います。

つい先日「年賀ハガキ、買ったよねぇ? 何枚かもらってもいい?」と娘の麻耶が私に聞きました。今年も娘と孫は「異住所交流会」で名刺(?)交換をしたお友だちと年賀状のやり取りをすることになるんでしょうね、きっと。
(文:大関 直隆)

2007/12/03(月)
第287回「就学前検診」
最近のランドセル販売戦線は相当過酷ですね。塾や私立校というようなものは、単純に子どもの数が減ったから、経営が厳しくなるというものでもなくて、これまで塾や私立校に通っていなかった子どもたちをなんとか通わさせることができれば、これまで通りの経営は成り立つわけです。ここのところの公立学校離れというか、公立学校不信というか、もしかして、政府もぐるになって塾や私立校を後押ししているのではないかと思うくらいひどいものがあるので、受験熱が上がって、塾や学校によっては、むしろ経営状況がいいと言っても過言ではないのかもしれません。

ところが、ランドセルの業者は、少子化がもろに経営に響きますよね。私立小学校、中学校の台頭というようなものも、これまでのランドセルや学生カバンといったものとは違った指定カバンになったりするので、厳しい状況にさらに拍車をかけているのかもしれません。

娘の麻耶の話では、ランドセルの業者が幼稚園近くの集会所を借りて、予約会を開いているとか。ちょうどそれくらいのお子さんをお持ちの皆さんは、別になんとも思わずそういった予約会に参加していらっしゃるのかもしれませんけれど、私くらいの年齢の者からすると、大変驚きです。予約会そのものは、あったような気がするのです(たしか中学校入学前には、小学校で制服とカバンの販売会があったので)が、驚くのはその中身というか、戦略というか・・・。

「麻耶ぁ、お前もう蓮(れん)のランドセル買ったの?」
「買わないよ」
「だってここに、ランドセル背負ってる蓮の写真あるじゃないか」
「あっ、それね、幼稚園のそばの集会所でね、ランドセルの予約会があったんだけど、予約しなくても写真撮ってくれるんだよ。子どもが“これ”って言えば好きなランドセル背負わせて、写真を撮って、そういう皮のスタンドに入れてくれるの」
「へぇーっ。これ、スタンドだけだって、けっこう高そうじゃないか」
「まあね。でも、ランドセル屋さんて、皮は専門でしょ」
「なるほどぉ。そう言われてみればそうだな。ランドセルを作った切れ端ってことかな?」

その写真には恐れ入りました。なんというか、祖父母としては、そういう写真を見せられては、早速買ってやろうかなという気持ちになってしまうというか・・・。とは言え、私が麻耶に言った言葉は、「4月近くなれば、もっと安くなるだろっ!」だったんですが。

とまあ、そんな具合に孫の蓮本人も、娘の麻耶も、そして妻も私も、蓮の入学を楽しみにしているわけです。そしてこれはきっと、どこのうちでも同じなんじゃないかと思います。

ところが、あるお母さんから、就学前検診のこんな話を聞きました。

まず受付時間に昇降口に行く。先生と5年生のお兄さんが「こんにちは!」と元気に声をかけてくれる。次にお姉さんが親子を控え室まで連れて行ってくれる。ここまではいい感じ。

ところが教室に入った途端、年輩の女の先生が、「皆さ〜ん、いいですかぁ!椅子にはお母さんが座ってください!子どもを座らせないでください!5年生、いいですかぁ!」と何度も大声で叫ぶ。「いいですかぁ!机の上の封筒に書類が入っています、中身を確認してください!ありましたかぁ!いいですかぁ!わからない人は手を挙げて!」これで子どもが小学校に上がるというワクワクした楽しい気分がいっぺんに冷めてしまった。この「いいですかぁ!」というのは、どうやら「静かにしろ!」という合図らしい。途中で5年生の男の子が入ってきて、「○○さんという人いらっしゃいますか?」とお母さんたちに呼びかけると「“○○さんという方”と言いなさい!」と注意する。

それでもこれくらいは序の口。問診票に予防接種のことを書くと、保健室の先生らしき人(何も紹介がないのでわからない)が、「エッ、お母さん、この回まだしてないんですか!?これは1回では意味ないんですよ!」と強い口調で言う。「そんなことはわかってるけど、2回ほどあったちょうどその接種の日に熱を出してしまってできなかった」という事情を話す暇も与えない。さらに、配られた紙に「学校へのご要望や心配事などありましたら、どんなことでもお書きください」と書いてあったので、「子どもは学校は楽しいところだと思っているので、入学後もその思いが続くよう、よろしくお願いします」と書いて先生に渡すと、その場で読んで「お母さん、最初が大事です。お母さんが潰さないように気をつけてくださいね。お母さんが学校を嫌いにさせないよう気をつけてください」と逆に注意されてしまった。なんでも要望を書けって言うから、書いたのに!

お母さんは、とにかく教えてやろう、学校に従わせようという、その凄い勢いに腹が立ったそうですが、検診を終えて帰ってくる子どもが、「私の感情を察知してしまうと心配してしまうだろう」と気を取り直して「子どもは小学校に入学することをとても楽しみにしています。朝の散歩も小学校の通学時間に合わせてしているくらいですので、よろしくお願いします」と再度頭を下げてきたんだそうです。

いやいやいや、全ての先生が悪いわけではないけれど、学校というところがどれくらい子どもや保護者にプレッシャーをかけているのかということを充分理解して、親が学校と張り合わなければならないような関係にならないためにも、先生方には子どもや保護者の立場にたった声のかけ方をしてほしいものですね。
(文:大関 直隆)

2007/11/26(月)
第286回「物の見え方」
またまた笠間の楞厳寺(りょうごんじ)、ヒメハル工房の穴窯(薪で焚く比較的原始的な窯)で窯焚きです。これで穴窯焼成は4回目。だいぶ慣れてはきましたが、作品を窯から出してみるまでは、出来映えはわかりません。

1回目は、そのヒメハル工房を所有している橋本電炉工業の橋本さんにT氏を紹介していただき、T氏の指導のもとで焚いたせいか、窯焚きの途中、何度かトラブルに見舞われたものの、参加した会員さん(参加費用を払って作品を出した人)は大満足。
「次はいつやるんですか?」
の大合唱で、参加した人も、参加しなかった人も、次回穴窯焼成が待ち遠しいという状況になりました。

1回目の大成功のおかげで、2回目は参加希望者が続出。ヒメハル工房の穴窯の容量(18リッターの一斗缶で、約70スペース)があっという間に参加希望者で埋まり、結局2回焚くことに。薪の手配や私の負担も相当なものなので、続けてすぐというわけにも行きませんでしたが、1回目の3月に続いて、11月と翌年3月ということで、2回目、3回目の窯焚きをすることになりました。今後は11月に毎年1回、穴窯焼成をしていく予定です。

2回目以降は、T氏の指導を仰がずに自分たちだけで、なんとかしました。2回目は、まだまだ不慣れということもあり、T氏の教えを忠実に守っていたので、途中温度が上がらずに困ったことはありましたが、1回目よりさらにいい出来映えでした。3回目は2回目の自信が奢りにつながったのか、窯焚きの途中のドタバタやトラブルはなくなったものの、出来映えはあまり満足のいくものではありませんでした。
最後は作為ではなく窯任せ、炎任せという要素が強いので、さて今回はどうなりますか。

とりあえず、今のところ順調に進行しています。前回までの反省点をうまくクリアして、うまく焚けるといいのですが…。
陶芸というのは、「一窯、二土、三つくり」という言い方があるように、作品にとって最も重要なのが釉薬も含めた最後の行程である窯焚き。どんなに優れた形のものでも、窯焚きを失敗すれば台無しになってしまいます。その次が土。土が形よりも重要とされるのは、釉薬の発色というものが、土により大きく変わるということもあるのだろうとは思いますが、それよりも、やきものの風合いというものは、土の感じ、要するに柔らかいとか、堅いとかいうイメージで決まると言ってもいいからだと思います。
そして、最後がつくりです。つくりは最後とは言え、うちのような陶芸教室で陶芸をやろうとすれば、素地に施す装飾も含め、形を作るということは、「生徒」としてはほとんど陶芸の全てと言っても過言ではないほど重要な作業ですし、皆さんそれを楽しんでいます。

入会したての初心者の方には、まず湯呑みや小鉢といった日用雑器を作ってもらいます。特にカリキュラムを定めているわけではありませんが、身近で誰でも形をよく理解していること、そしてあまりうまくいかなかったとしても、とりあえず使えるだろうということで作ってもらっています。その次に作ってもらうものにカップがあります。コーヒーカップ、フリーカップ、どんな用途でもかまわないのですが、一つの技法として「取っ手をつける」ということを覚えてもらうために、作ってもらっています。

ところがここで、ほぼ100%、とてもおもしろい現象が起こります。皆さん、取っ手が大きすぎるんです。通常市販されているものの約倍くらいの大きさの取っ手をつけてしまう人がほとんどです。取っ手が大きすぎると、取っ手を持ったときに指と器の間に隙間ができてしまうため、器の重心が大きく前に離れてしまって、かなりの重さを感じてしまいます。器を持っただけでも、持ちにくさを感じますので、飲み物を入れたときにはさらに持ちにくいということになります。

人は、自分が意識をしたもの、よく見たものをその形の重要な要素として捉えます。コーヒーカップを持つとき、一番強い意識を持って見るのが、取っ手。どうしても取っ手に指をかけなくてはならないので当然のことですが、それが大きな取っ手につながっていると推測されます。

それと同じような現象を、幼児の描く絵に感じました。幼児の描く人の絵はどうかというと、まず100%実物より顔が大きい。それに加えて、手の位置が肩よりはるかに低い位置から伸びていることが多い。幼児は、人を意識するとき、その人の身体はあまり意識しません。顔を見て物事を訴えたり、その人の感情を理解しようとします。それが、あの独特な絵につながっていると考えられます。

そう考えると、コーヒーカップの取っての不思議な現象にも納得がいきます。これは、子どもの感覚を大人になっても失わない数少ない現象ですね。
子どもたちが強く持っているそうした現象、感覚を大人はしっかりと理解した上で子どもたちと接しないと、間違った接し方になるかもしれませんね。
(文:大関 直隆)

2007/11/19(月)
第285回「痛さをこらえる子どもたち」
さてさて今年もやってきました「エイペックスフェスタ」。
私の陶芸教室とカウンセリング研究所が入居している浦和駅西口、高砂小学校前にある「エイペックスタワー浦和」の商店会「エイペックス浦和会」では、毎年、この時期に「フェスタ」を開いています。年に一度のお祭りで、今年で4回目。テナントのほとんどが事務所と医院という大変苦しい商店会事情はあるのですが、外部のリサイクル運動市民の会にフリーマーケットをお願いしたり、あちこちからバンドや芸人を呼んだりして、なんとかこれまでやってきました。1回目こそ、かなりの予算をつぎ込みましたが、2回目からはとんでもない低予算。なんとかやりくりはしてきたものの、予算だけでなく、とにかく人手が足りない。一昨年から始めた餅つきは、つくのが間に合わないくらいの大好評ですが、浦和会のメンバーだけではつき手が足りず、昨年からは、「エイペックスタワー」居住者の管理組合の皆さんにまでお手伝いをしていただいているのが実情です。テナントと居住者の皆さんとの交流という点では、その餅つきが大変大きな役割を果たしているので、それなりに意味のあることではあるのですが。

浦和第一女子高校マンドリン部の皆さんにも、第1回目より演奏をお願いしているのですが、定期試験や校外模試の日程と重なり、なかなか実現できませんでした。今年は、やっと実現し、フェスタにお越しいただいた皆さんにも、大変楽しんでいただきました。

各テナントのショップや「浦和会」による地場産野菜の販売、子どもコーナー(お菓子の販売や簡単なゲームなど)、フリーマーケットなどの他、これまでメインのアトラクションだったのは、バンドの生演奏でした。バンド演奏を取りやめた今年、メインは「空手の演武」に取って代わった感じです。

たまたま1年半ほど前に極真空手の道場が、テナントとして入居し、昨年のフェスタから、メイン会場として使っている1階広場で、演武を行っています。子どもから大人まで、かなりの人数が参加してくれるので、それなりに賑やかです。昨年、圧巻だったのは、氷割り。分厚い大きな氷を素手で割るのにはビックリしました。今年は氷割りはありませんでしたが、塀に使うブロックを素手で割ったり、野球のバットを割ったり。

「なんか、トリックでもあるのかなあ?」と思ってしまうほどです。今年、ビックリしたのは、4本の束ねたバットを一蹴り(正確にいうと、ひと蹴り目で1本が割れ、ふた蹴り目で全部割れた)で割ってしまったこと。目の前で割られると、「おーっ!」という感じにさせられます。

小さな子どもたちの演武もあります。数十人の小さな子どもたちが並んで、板を割るのもなかなかのものです。とてもかわいらしかったのは、かけ声も勇ましく、
「おーっ!」(だったかな?)
と板を拳で殴ったとたん、
「痛ぇー!」
と叫んだ子がいたこと。思わず微笑んでしまいます。
「やっぱり、痛いよなあ。」
バット割りを見事成功した大人でも、しばらくびっこを引いていましたから。

バット割りを失敗して、何度も蹴っていた少年もいたのですが、さすがにこれ以上やらせるとケガをすると思ったのか、司会をしていたW氏が、止めました。実は前日、W氏と打ち合わせの会議で同席した際、高砂小学校でその日行われた「高砂祭り」でも演武を行い、ブロックが湿気ていたせいかW氏がブロック割りに失敗してしまったという話を聞いていました。手に相当なケガをしていました。あまりにも痛そうなので思わず、
「私にはできないなあ。痛いのは嫌です。痛いのになんでやるんですかねえ?」
と言ったら、W氏はニヤニヤしていました。

子どものころサッカーをやっていた私は、自分ではそれなりにやれていた方ではあったのだろうと思うのですが、中学の時、サッカー部に入り、「サッカーは向いてないなあ」とつくづく思いました。あの激しさにどうも性格がついて行けなかったみたいです。子どもがサッカーをやりたいと言い出したとき、性格的に無理じゃないかなあと思いました。スポーツには、体力や技術だけではない性格的な向き不向きがあります。結局、私はバレーボール、子どもたちはバドミントン、ゴルフということに。

板を割っている子どもたちを見て、
「いやーっ、大したもんだ」
と思いましたが、「やっぱりうちの子どもたちには無理だなあ」
そんなことを考えながら、子どもたちの演武を応援している、エイペックスフェスタでした。
(文:大関 直隆)

2007/11/12(月)
第284回「子育ては都会、それとも田舎?」
今朝(11月11日)の朝日新聞に俳優の柳葉敏郎氏が、昨年春から故郷の秋田で暮らすようになったという記事が掲載されていました。「子育ては秋田で」というのが、ずっと夢だったとのことで、小学校2年生のお嬢さんのPTAの学年部長も務めているそうです。

柳葉氏は、秋田県の中央よりやや南に位置する、仙北郡西仙北町(2005年、大曲市などの1市、6町、1村との合併により現在は大仙市)の農家の長男として生まれました。その後、小学校、中学校、高校と地元で育ちます。秋田県立角館高校卒後、18歳の頃に日本テレビの『スター誕生』に応募しますが落選。それがきっかけで上京して、劇団ひまわりに入団しました。その後は皆さんご存じの通り、「一世風靡セピア」のメンバーとしてデビューし、’88年以降、トレンディドラマに数多く出演し、「元祖トレンディ俳優」と呼ばれるようになりました。「踊る大捜査線」シリーズの室井慎次役は、一番の当たり役で、彼の俳優としての地位を確固たるものにしたと言えると思います。(ウィキペディア参考)

俳優という職業なので、仕事の中心は東京ということになるのでしょうが、1年の半分以上を秋田で過ごしている(逆に俳優だからできるということなのでしょうが)とか。その話からも、柳葉氏の「子育ては秋田で」のこだわりがわかるような気がします。

今から、25年ほど前、「田舎暮らし」を考えたことがありました。今でこそ、ポピュラーになった「田舎暮らし」ですが、当時はまだそれほど注目されていたわけではなく(というより、むしろ田舎暮らしは敬遠されていた)、月刊だったか、季刊だったかの「田舎暮らし」を扱った本と機関誌が数種類あっただけでした。そういう刊行物を見ると、「借り賃 0円」とかいう家や、数百坪の土地と家屋(かなり老朽化はしていますが)で「売値 20万円」なんていう物件がたくさんあって、心がときめいたものです。過疎地の物件がほとんどですから、中には廃校になった校舎や元旅館なんていうものまであります。私が一番心を動かされたのは、1,800万円はするものの、敷地6,000坪で、宿泊施設あり、工房(一度に10人くらいが電動ロクロで作陶ができる)あり、竹藪あり、雑木林あり、なんていう物件でした。しかも、庭には小川が流れているんです。

少子高齢化が進み、今では退職後にそういったところで生活する人たちが増えてきて、生活に適した格安の物件というのは、手に入りにくくなりました。ある程度の年金がもらえていれば、生活に困ることはありませんが、若いうちに「田舎暮らし」をしようとすれば、収入の確保と子育てをどうするかで悩みます。妻が高校の教員でしたので、「埼玉県内であれば」と、秩父音頭で有名な皆野町やさらにそこから北側になる児玉郡神泉村(現在は合併により神川町)に、実際に物件を見に行ったこともありました。結局、収入よりも、子育てのことで断念(学校まで徒歩で1〜2時間なんていう感じでしたので)しました。

柳葉氏の生活は、PTA役員の話や野球チームの話、町内会の話などが登場するので、それほどの「田舎暮らし」ではないのだろうと思いますが、「子育ては秋田で」という意味は、都会のあわただしい生活ではなく、ゆっくり時の流れていく、人と人とのふれあいが残る、伸び伸びとした子育てがしたかったということなのだろうと思います。「友達を5人も6人も連れてきたり、自転車で出かけて日が暮れるまで遊んできたり。秋田の子どもは東京より100倍元気だ」という表現から、柳葉氏の目指す子育ての方向が見えてきます。

あわただしく流れる時間の中で、塾に通わせ詰め込み教育をするのも一つの子育て、ゆっくりと流れる時間の中で、のびのび育てるのも一つの子育てです。学力向上のため、ゆとり教育が見直されている今、「ゆとり」ということが目指したものはなんだったのかもう一度じっくり考え、子どもを大切に育てていきたいものですね。
(文:大関 直隆)

2007/11/05(月)
第283回「興毅と大毅、藍とさくら」
亀田親子のことがこれほど大きくなるとは・・・。
揺れに揺れた大相撲問題もどこへやら。すっかり影が薄くなって、そのかわりに亀田大毅と内藤大介の世界タイトルマッチ問題が大きな問題になっています。

2005年7月1日、野村克也楽天監督(当時はシダックス監督)の古稀を祝うパーティが赤坂プリンスホテルで開催されたとき、たまたま私も出席させていただいていて、そこに来ていた亀田興毅を間近に見ました。パーティには、中曽根康弘氏をはじめ、亀井静香氏、中川秀直氏などの政治家や原辰徳氏、細川たかし氏といったスポーツ選手や芸能人など、多くの有名人が出席しており大盛況でした。

そういう中だったせいか、亀田興毅は、すでにかなりの注目を集めてはいましたが、昨今のような不遜な言動はまったくなく、スポーツ界の先輩たちにあいさつをして回っている彼に対する私の印象は、今ではすっかり定着した感のある「悪役」のイメージではなく、プロのアスリートを目指す少年という印象でした。どちらが彼の真実の姿かということは別にして、なぜ彼や弟・大毅があそこまで「悪役」になってしまったのかというと、スポーツにやたらといらない演出を施す民放各社の責任もとても大きいと思いますが、私は父親の存在があったからだと思います。

「誰が見たってそうだろっ」とお思いになるかもしれませんが、私の言っているのは、よく世間で言われている「父・史郎氏のひどさ」のせいと言うことではありません。私は、史郎氏がどんな父親であったにしろ、おそらく「何らかの形で亀田兄弟には問題が起こった」という意味で、「父親の存在があったから」と言っているのです。たまたま史郎氏のキャラが“ああいう人”でしたし、TBSや世の中が求めた親子像、ボクサー像というものが、“ああいうもの”だったのでしょう。政治の世界で小泉氏や安倍氏が支持されたのとも呼応しているのだろうと思います。もし、世の中の流れが違えば、もっといい“キャラ”はだったかもしれませんが、いずれにしろ亀田家には、何らかの「挫折」や「スランプ」といったものが待ちかまえていたのだろうと思うのです。

米国女子ゴルフツアー公式戦(国内女子ゴルフツアー第33戦)の「ミズノクラシック」は、上田桃子のアルバトロス(1ホールをパーより3打少ないスコアで回ること)を含む6アンダー(通算13アンダー)の活躍で、米国ツアー初優勝で終わりました。激しく賞金女王争いをしていた横峯さくらは、スコアが伸びず24位タイ、注目の宮里藍は、ここのところのドライバーの不調を引きずり、通算8オーバーで、78人中68位タイとこれまでの宮里からすると考えられないような結果に終わりました。

ゴルフというスポーツは非常にメンタルな部分が影響を与えるスポーツなので、宮里くらい技術が優れている選手でも、一度調子を崩すとなかなか立ち直れません。ここのところの宮里の不調の原因はどこにあるのか・・・。わが家では、宮里のスランプを、力を出し切れずに終わった全英女子オープンのインタビューのときから予想していました。

宮里の言葉を一語一句はっきりと覚えているわけではありませんが、
「あまりいい結果は残せなかったけれど、何よりもこの一週間、お父さん、お母さんと一緒に過ごせたことがよかった」という内容の話をしました。
「宮里は、さくらとは違うと思って期待してたのに、あんなこと言っているようじゃ、もうダメだね。きっとスランプになるよ」
日大でゴルフをやっている翔(かける)とそんな会話をしていました。
宮里のインタビューからは、それまでの闘争心にあふれた“強い宮里”のイメージがすっかり消え、ただの“いいお嬢さん”になってしまっていました。

横峯さくらも一時、父・義郎氏に甘えているようなそぶりが気になったことがあり、ややスランプに陥っているようにも見受けられましたが、義郎氏が参議院議員となり、その後の不倫騒動を経て、父娘関係に変化があったようで、精神的なダメージがなかったわけはないと思うのですが、かえって成績が向上し、賞金女王争いをしています。

亀田兄弟にしろ、宮里藍にしろ、ここのところの大きな試練は既定路線。親が“いい親”であろうと“悪い親”であろうと、問題は“いい”か“悪い”かではなく、「親子関係にどうけりをつけるか」です。

子育ての問題点の多くは、親子の距離のとり方です。それが、自営業者の跡取りでも、サラリーマンでも、スポーツ選手でも、まったく関係ありません。親子の距離がしっかり取れ、子どもが自立してこそ活躍できるのであり、またその逆に、距離が近すぎれば、どんなに非凡な能力を持っていたとしても潰れてしまいます。

亀田兄弟や宮里藍、横峯さくらも、しっかりと親子の距離を保って、非凡な才能を発揮してもらいたいものです。(プロ選手の敬称略)
(文:大関 直隆)

2007/10/29(月)
第282回「幸せのレシピ」
10月10日にパルコがオープンして、浦和の映画館が復活!
特別映画ファンというわけではないけれど、近くで簡単に映画が見られると思うと、ちょっと嬉しいです。毎日、忙しい生活を余儀なくされているので、上映時間に合わせて、行き帰りの時間を含め3〜4時間を確保するのは至難の業。パルコの中にユナイテッド・シネマが入ってくれたおかげで、シネマの入り口まで5分弱。「見たい映画に合わせて」というのはもちろんですけれど、「ちょっと時間が空いたから」という映画の見方が可能になりました。子どものころから「映画は好き」という意識はありましたが、実際に映画を見たのは、中学、高校のころに、テレビの深夜番組で見たというのがほとんど。映画館で見たなんていうのは、学生だったころ、「授業が休講になったから」見た経験くらいしかないので、「ちょっと時間が空いたから」なんていう映画の楽しみ方ができるというのは、私の人生の中で、とても画期的なことです。20歳前後から子育てに追われていたので、喫茶店や映画館でデートなどというのは皆無。なんだか人生ががらっと変わったような(ちょっと大げさ?)気さえします。

というわけで、オープン翌日の11日に「エディット・ピアフ」、そして26日に「幸せのレシピ」を見てきました。いやぁ、何年ぶりかで見た映画は、やっぱり楽しいですね。

エディット・ピアフは、シャンソン歌手で、皆さんご存じの♪あなたの 燃える手で あたしを抱きしめて♪(訳・岩谷時子)の「愛の讃歌」で有名ですね。テレビのコマーシャルでも、「愛の讃歌」が流れていたので、「愛の讃歌」を歌うシーンが出てくるのかなと思いきや「愛の讃歌」はたった2回(?)バックに流れるだけで、むしろ「La vie en rose」(ラヴィアンローズ)(これも有名な曲なので、タイトルからはわからない人が多いかもしれませんが、聞けば“この曲かぁ”ってなると思います。音が出ないので、うまく説明できなくてすみません。http://edith-piaf.narod.ru/piaf1950.html でダウンロードできます)の方が強く印象に残りました。この映画の見所は、たくさんありますが、子どものころのピアフの生活には、インパクトがありました。

「幸せのレシピ」は、完璧主義の料理長、ケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が、突然の姉の死により一緒に暮らすことになった9歳の姪ゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)との関係を必死で作ろうとしていく中で、ケイトとは正反対な性格の陽気で自由奔放な副料理長、ニック・パーマー(アーロン・エッカート)と恋に落ちるというストーリー。ドイツ映画「マーサの幸せレシピ」をハリウッド・リメイクしたものです。まったく意表を突くことのない真っ直ぐな展開で、楽に見られます。映画マニアの間では「ベタ」と言われて、あまり高い評価を得ていないようですが、私はとても楽しく見ました。

「子育て」から、とても遠いところで生きてきたケイトが、ゾーイとの関係を築いていこうとする中に、子育てのとても大事な部分を見た気がしました。高級レストランの料理長であるケイトは、自分の料理に対する価値観で、ゾーイに食事を作りますが、ゾーイはまったく口にしません。高級食材を使った一流の料理より、素朴で飾らない魚のフライやスパゲッティがいいのです。ケイトもニックとの関係の中でそれに気付いていきます。子どもの人格を認めること、大人の価値観を押しつけないこと、子どもの自主性を尊重すること・・・。様々な子育ての要素をこの映画中にはありました。

涙がこぼれそうになる場面もたくさんありましたが、オペラ好きなニックのおかげで、バックに流れるヴェルディの歌劇「椿姫」の「乾杯の歌」や1961年にトーケンズの歌で大ヒットした「ライオンは寝ている」などもとても楽しく聞けました。はまりすぎていて、これも「ベタ」なんだろうと思います。

もちろん子育ての映画ではありません。けれども、こんなところにも子育てのヒントはあるんですね。私はそんなところも気にしながら見ていましたけれど、こういう映画をそんなふうに見ていると、おもしろさも半減しちゃうかもしれませんが・・・。
(文:大関 直隆)

2007/10/22(月)
第281回「鳥取県倉吉市から その2」
この道の駅は、1階が売店、2階がレストランになっています。1階の売店には、よくあるお土産品、地場産の野菜や手作りのお菓子や味噌といったものの他、山陰の海らしい魚介類が、生けすで泳いでいました。

2階のレストランは、刺身定食、天ぷら定食など、海の幸中心のメニューです。中に入ってメニューを見ながら注文をしようと、即座に注文が通らなくて、いちいち口元に付けたマイクで厨房に確認しています。メニューに載っているのにないものばかり。結局「イカの刺身定食」に落ち着きました。

そんな有様でしたが、出てきた料理には大満足。見ただけで活きのよさがわかります。「要するに、その日によって捕れる魚が違うので、メニューはあってないようなもの」ということのようでした。

その晩は、三朝(みささ)温泉に泊まり、翌日の午前中、倉吉の町を散策しました。
倉吉という町は、けっして大きな都市ではありませんが、山名氏が最初に居城した地で、南総里見八犬伝の発祥の地でもあり、その歴史の重さを充分に感じることのできる町です。現在も打吹山(うつぶきやま)に城趾があります。観光に大変力を入れており、「倉吉レトロ」をキャッチフレーズに、白壁土蔵群の保存に力を入れたり、「赤瓦」(あかがわら)と称する9つの建物で、様々な特色あるレトロなショップを展開しています。(http://www.apionet.or.jp/kankou/index.htm

私が訪ねた日は、午前中ではありましたが、土曜日ということもあり、ちらほら観光客の姿も見受けられました。「観光のお客様無料」と書かれた契約車両とのスペースが混在した未舗装の駐車場に車を止め、町のなかを散策しました。ミニ鯛焼きを売っている店の前で、買おうか買うまいかと鯛焼きを見ていると、店の主人らしき人が「どうぞ、試食してみて」と鯛焼きを差し出します。餡の種類が何種類もあるので、次から次へと違った種類の鯛焼きを試食させてくれました。

「今買っちゃうと、持って歩かなきゃならないので帰りに寄ります」と約束し、さらに町の散策を続けていると、醤油を製造販売しているところを見つけました。中に入るとセンサーで「ピンポン、ピンポン」と音がしました。ところが、しばらく待っても人が出てくる気配がありません。再び入り口付近まで下がって「ピンポン、ピンポン」。店に並んだ商品を見ながら、どれくらい経ったでしょうか。まったく出てくる気配がありません。「すいませーん!」店の奥に向かって声をかけましたが、なんの返事もありません。

「誰もいないのかねえ? これじゃあ、盗まれてもわからないよねぇ」
再び、「ピンポン、ピンポン」。ようやく、おばさんが奥から出てきましたが、まるでスローモーションを見ているよう。なんとか、薄口醤油を買って、再び散策。今度は、造り酒屋があったので、時季外れとは思ったのですが、酒粕を買いたいと店の中へ。ところが、またまた、誰も出てきません。ここでもどれくらいの時間が経ったでしょうか。何度も何度も店の奥に向かって声をかけ、ようやくおばあさんが出てきました。
「今は漬物用しかないんですよ」
その返事を聞くために、どれくらいの時間を要したか…。
道を歩いていると、車庫から車が出てきました。のろのろしているわけではないのでしょうが、とにかくもたもたしています。じっと待って、車を先に出してやりました。
もし、東京やさいたまでこんなことが起こったら、腹が立ってしようがないのでしょうが、不思議とこの倉吉では腹が立たちません。それどころか「倉吉っていいところだなあ」、そんな気持ちが湧いてきました。

午後からは講演です。翔誕生の出産ビデオ「素敵なお産をありがとう」を見てもらい、その後私が30分、妻が30分話をしました。私の話は、ほぼいつも「それぞれの違いは違いとして認めること、そしてその違いを乗り越えるため時間と体験を共有すること、主夫としてこれまで私がやってきたこと」、そんな話が中心です。ところがこの日は、「倉吉っていいところですね。午前中に町のなかを探索したら、醤油屋さんで…」。そんな話をしているうちにあっという間に30分が経ってしまいました。講演が終わると妻が、
「あなたの話、いつもと全然違うから、どうフォローしようか困っちゃったじゃない!」
講演会後、主催者の皆さんと喫茶店で1時間ほどお話をしました。講演の時よりも詳しく醤油屋さんの話をすると、みんな大声で笑いました。酒屋さんの話をすると、さらに大笑い。皆さんが言うには、「倉吉ってそんなところですよ。のんびりしていて。ちょっと出かけるのに鍵なんてかけませんから。悪い人なんていません」。
その話を聞いて、倉吉という町が、なぜ私の心をくすぐったかがわかりました。今では、なかなか感じることのできなくなった「人を信じるという心がここにはあるからだ」そんな気がしました。

講演会の前に控え室を訪ねてくださった倉吉市の教育長さんもとても腰の低い方でした。その腰の低さも「市民を信じる」そんなところにあるのかなあと思います。
「倉吉ってのんびりしていて、ぎすぎすしていない、すごく住みやすいところじゃないですか?」
「ええ、とっても住みやすいところです。なんにもないですけどね」
「なんにもない?とんでもないですよ、歴史と文化があるじゃないですか、そして何よりも地域社会が崩壊していない。貴重なところだと思いますよ」
こんなところで子育てをしたら、子どもはずいぶんのびのび育つんだろうなあと、強く感じる2日間でした。
(文:大関 直隆)