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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2010/01/18(月)
第390回「入試に失敗したときは…」
「××日の6時っていうことでどうですか?」
「はい」
「何か嫌いな物とか食べられない物とかありますか?」
「いえ、特にないです」
「そう。じゃあ、こちらで適当に…」
「すみません。ありがとうございます」
「じゃあ、××日の6時にお待ちしていますね」
「はい。お邪魔させていただきます」

もう30年以上も前のことです。私は私立大学の法学部に入学していましたが、どうしても音楽を志すことに未練があり、法学部に籍を置いたまま、1年間ピアノと声楽のレッスンに通い、国立大学の教育学部音楽学科を受験しました。
高校での3年間は音楽部に在籍して、部長もやらせてもらっていたので、毎日指揮は振っていましたが、我が家は幼少から男の子にピアノを習わせるような家庭ではなかったので、ピアノは全くダメ。受験のため先生についてピアノを習い始めたのは、7月に20歳の誕生日を迎える年の3月でした。

とりあえずバイエルを1番から始めて、途中を多少省略したものの、3ヶ月くらいで何とか終わらせ、その後はひたすら試験で弾くソナタを弾き続けました。そんな間に合わせのピアノで大学受験を乗り切るのはやはり大変。本番の試験では、弾き始めたと思ったら、練習では一度も引っかかったことのないところで、すぐに引っかかってしまい、必死で次へ進もうとするのですが、焦れば焦るほど指が固まって、あっという間に、
「はい、そこまでで結構です」
と止められてしまう始末。

そのピアノはもちろんですが、それよりもむしろ、ピアノに時間を取られたことで、高校3年からの3年間ブランクのあった数学に全く歯が立たず、見事不合格。音楽の実技試験は、他の人の演奏も聴けるのでレベルも知ることが出来るんですが、どう考えても特に劣っているというようなことはなく、つっかえてしまったピアノを入れても、合格のレベルに達していたように思います。
「ああ、数学かあ…」
数学は、小中高と得意な教科だったので、何とも皮肉なもんですね。
私がピアノを習っていたO先生は、レッスンが厳しいことで有名な方でした。音楽大学や国立大の音楽学科を受験するとき、声楽の先生にレッスンに付くときなどに、
「ピアノはどなたに付いているんですか?」
と尋ねられることがあります。そこで、
「O先生です」
と答えると、
「じゃあ、ピアノは心配ないですね」
と言われるくらい、O先生は音楽関係の方たちからの信頼の厚い方です。ピアノのレッスンはとても厳しいのですが、レッスンが終わるとガラッと態度が変わり、掃除、洗濯、料理など家事全般を完璧にこなし、生徒への対応もとても優しくなります。

「私はね、合格した人には特別なことはしないんですけど、不合格になったときは、必ず一度我が家でお食事をしてもらうんですよ。今度、ご都合のいいとき、お食事にいらしてくださいね。家族で歓待しますから」

そんなわけで、私はO先生宅に招かれたのです。大変美味しいお料理とO先生ご家族からの暖かいお言葉をいただいて、ずいぶん心が癒され(ご主人は大学教授で妻の大学時代の音楽の恩師なので、本当のところ緊張しまくりだったのですが)、法学部に戻る決心がつきました。

この土曜、日曜とセンター試験が実施されました。いよいよ入学試験シーズン到来。皆さん合格目指して頑張っていることと思います。合格したときのお祝いは、当たり前のようにすると思いますが、その後のことを考えると、合格した人よりも「不合格になった人をどう慰めるか」の方が大事なのかもしれませんね。
皆さんの合格を祈ります!
(文:大関 直隆)

2010/01/12(火)
第389回「ベテルギウスがなくなっちゃう?」
えーっ、「ベテルギウス」がなくなっちゃう?
「ベテルギウス」と言えば、オリオン座の左上の1等星。あまり星に興味のない人でも、見たことがあると思います。

オリオン座は、冬の星座としてはあまりにも有名。冬に空を見上げると、3つの星が真っ直ぐ並んでいるのが目立つと思いますが、それを四角で囲んだように見えるのがオリオン座。

勇者オリオンは海の神ポセイドンの子で、有能な猟師でしたが、森の動物たちをむやみやたらに次々と殺してしまう乱暴者でした。そんなオリオンを見かねた大地の女神ガイアはさそりを使い、毒針で刺し殺します。その後オリオンとサソリは天にあげられ星座となったというお話。何となくは知ってますよね。

だからオリオンはサソリと同じ空には輝きません。オリオン座が冬を代表する星座なのに対し、さそり座は夏を代表する星座ですね。オリオン(座)は冬の間、空高いところに輝いていますが、さそり(座)が東の空から上るころには、西の空から隠れてしまいます。それだけではなく、さそりはオリオンを一撃で刺し殺したくらいですから、とても危険。そんなわけで、さそりが天で暴れた場合は、隣にいるケンタウルスのケイロン(いて座)が射殺することになっています。

ギリシャ神話がもとになっている星座の話って、ほんとによく出来ていますね。中国や日本にも別な話がありますが、こんな話が何千年もの昔(5千年前とも)から語り継がれているっていうのもすごいことです。

さて、当の「ベテルギウス」という名前の由来は定かではないようです。ウィキペディアによると、日本では「巨人の腋の下」という意味のアラビア語に由来すると言われているそうですが、あまり有力ではないそうです。

「ベテルギウス」は、こいぬ座の「プロキオン」とおおいぬ座の「シリウス」の3つの星で「冬の大三角形」と呼ばれていて、空がかなり明るい首都圏でも、よほど目が悪いとかいう事情でもなければ、ほとんどの人に確認出来ると思います。
赤色超巨星と言われ、直径は太陽の1000倍、太陽系における太陽と置き換えるとほぼ木星までが覆われる大きさとか…。すごいですねえ。

そんな「ベテルギウス」が近く超新星爆発へ向かうというのです。爆発しちゃうわけですから、当然なくなっちゃうわけですよね。爆発後はブラックホールになると考えられているようですが、そうなってしまったら、オリオン座がオリオン座じゃなくなっちゃって、冬の大三角形もなくなっちゃいますね。
さびしーっ!

爆発は数万年後かもしれないけれど、明日起こってもおかしくないくらい、爆発が近づいていると考えている専門家が多いようです。もし、爆発すると明るさは満月くらいだそうで、昼間でも見える。知ってる星の爆発なんて見たことないので、死ぬまでに爆発してくれないかなあ…。なんか宇宙の尺度って、人間の生命の尺度と全然違うので、頭が混乱してきちゃいますね。いくらなんでも、数万年は生きられないですもんね。
でも、地球から「ベテルギウス」までの距離は、600光年(640光年としたものもあります)とか。ということは、今私たちが見てる光は、600年前に放たれた光? もしかして、私が生まれるはるか前に爆発してるってこともあり得るんですね。
ロマンですねえ…。

目先のことばかりに追われていると、人間って夢がなくなります。子どもたちには、いっぱいロマンを持って生きていってほしいものですね。そのロマンが、必ず子どもの成長に役に立つと思うから。

お正月にとっても壮大なロマンの記事を見つけて、今年一年、大きな夢を持って生きて行けそうな気がしました。

今年もよろしくお願いします。
(文:大関 直隆)

2009/12/28(月)
第388回「♪買ってうれしい花いちもんめ・・・」
「じいちゃん、”花いちもんめ”ってどんな意味?」
「”花いちもんめ”って”♪買ってうれしい花いちもんめ”の”花いちもんめ”?」
「うん。今、”花いちもんめ”って書いてある看板あった」
車の後ろの座席に座った沙羅が、道端に出ていた”花いちもんめ”の看板を見かけたらしく、私に聞きました。

「う〜ん…。じいちゃん、わかんないなあ…。ばあちゃん、”花いちもんめ”ってどんな意味?」
「う〜ん…。どんな意味だろう? 私もわかんない。”もんめ”って言うんだから、重さだよねえ。貫とか匁(もんめ)とか、尺貫法のぉ…」
「そうだよねえ。1000匁で1貫だったかな? あとお金の単位も匁って言うんじゃないの? 時代劇に出てきたような気がする」
「”いちもんめ”分のほんのちょっとの花っていう意味? 子どものころから”花束”みたいな意味に思ってたんだけど、おっきな花束想像してた」
「でもさぁ、花束じゃあ”負けてくやしい花いちもんめ”の意味がよくわかんなくない?」
「そうだよねえ…。”あの子が欲しい”っていうのが引っかかるよねぇ。あまりいいイメージじゃないもんねぇ。子どもを取られちゃうわけだから…。あなた、なにかのついでに調べといてよ」

何となく発した沙羅の”花いちもんめってどんな意味?”という言葉が思わぬ展開になって、すっかり沙羅のことではなくなって、私と妻の一大議論に発展してしまいました。

夜になって、インターネットで”花いちもんめ”を調べてみました。ネット上には、様々な情報が流れていて、100%真実ということは言えませんが、いくつものサイトを見ても、ほとんど内容に違いはないので、紹介すると、
「食べることもままならない昔の貧しい人達が、自分達の子供(あるいは「女の子」という説も…)が泣く泣く子買いに買われていってしまう様子を歌ったものだという説があるようです。いわゆる「口減らし」ですよね。」(C&K Company)

「花って何?と思うかもしれませんが、花は女の子を現します。「勝って嬉しい」と言う言葉も何かの勝負で勝った、と言う事ではなく正確な言葉に直すと「買った(買って)」と言う言葉になります。「花=女の子」「買った」「あの子が欲しい」と言う言葉から、この歌の本当の意味が理解出来ますよね。」(むかしのおもちゃアルバム)

「【1】子買いの唄説 貧しい親が、人買いに「たんす、ながもち、どの子が欲しい?」と聞いて「あのこが欲しい」と答える。テレビ番組「愉快な音楽会」で紹介していたそうですが、ぜんぜん愉快じゃないなあ。
【2】色町で芸者を買う際の唄説 「花一匁」の匁(もんめ=3.75g)は重さの単位。「買ってうれしい花一匁、まけて(値切られて)くやしい花一匁」
この場合の花一匁は芸者のことを指すとのこと。
【3】やはり娘売り(女郎屋へ)唄説 貧しい農村から口減らしのために集団で女郎に売られてゆく娘さん達を「花1匁」と例えた。とあります。「お布団かぶってちょいと来ておくれ」「鬼が恐くていかれない」は、脱走しようにも監視がすごくてできないということ。」(関心空間)

などなど。
なるほどぉ…。どうやら人買いの歌であるらしいです。子どもたちに読み聞かせをする童話は、残虐性を持った民話が下敷きになっていることが多いということは、皆さんよくご存じかと思いいますが、こんなわらべうたや童謡の中にもこういう背景があったんですね。貧しい家の口減らしというのは、何とも悲しいことです。

今年も、あと数日。昨年のサブプライムローンに端を発した世界的不況の波は今年も収まることなく、日本中を覆いました。多くの人に期待された民主党政権も充分な成果を残したとは言えないうちに越年となり、デフレは進み、二番底を探る動き。現代社会で、あからさまな口減らしというものが行われることはないのでしょうが、赤ちゃんポストのような子捨てが認められたり、子どもの虐待が横行するとすれば、結局「花いちもんめ」の時代と変わらないのかもしれません。

来年こそ、子どもの受難がありませんように!
(文:大関 直隆)

2009/12/21(月)
第387回「“あなたのため”という魔物」
「金曜日に蓮と沙羅のスイミングがすんだら行くから」
「わかった」
「午後6時に終わるから、支度もすませておけば、8時半くらいには行けると思うんだ。土曜日にゴルフで宇都宮まで行かなきゃならないって言ってたけど、直接笠間から行っちゃうからいいやとか言って翔も行ってくれるってよ。だから翔に運転させるから。土曜日は翔も笠間に戻って、日曜日のお昼ごろ翔に運転させて、3時までに浦和に戻る」
「ふーん」
「3時から仕事が入っているから…」

今月16日(水)から20日(日)まで、年に1度の穴窯焼成でした。(第203回、第286回参照)ついさっき笠間から自宅へ帰ってきたところです。

今回は、水曜日の朝、自宅を出て、金曜日の午前中までは一人。金曜日の午前10時過ぎから陶芸の女性スタッフ2人が4時間ほど手伝いに来て、夜にはうちの家族が到着。翌土曜日の午前中に男性スタッフ1人と女性会員さんが2人手伝いにやってくる予定で、窯焚きに臨みました。終わりは日曜日のお昼前後の予定でした。ほぼ予定通りの進行で、お昼過ぎには窯焚きを終えることができました。

15日の朝、妻と一悶着ありました。
「土曜日はね、スタッフのM君が女性の会員さんを何人か連れてくるってよ。寝袋3つしかないからどうしようか?」
「ほーらっ、やっぱりあなたってそう言うんだ。いつ言うか、いつ言うかって思ってたんだけど、結局私たちが行かない方がいいと思ってるんでしょ?!」
「???」
「蓮と沙羅にだって、もうずっと前に言ってあったし、2人ともじいちゃんのお手伝いに行くんだって楽しみにしてるんだから!」
「だから、来るなって言ってるんじゃなくて、どうやって寝るのかって言ってるんだよ」
「そんなこと、ガタガタ言うことじゃないでしょ!どこでだって何だって適当に寝るからいいの!」
「そうはいかないでしょ。M君の他に2人来るか、3人来るか、4人来るか…。多くても全部で5人くらいだと思うけど、翔も行くんだからうちが4人で、私も入れると合わせて10人。蓮と沙羅は夜は寝てるしかないから、寝袋2つ使って、あと1つの寝袋を私とM君以外の(ずっと窯焚きをしているため私とM君は基本的に寝ない)6人が交代で寝るって言ったって、寝袋3つじゃどうしたって足りないでしょ!だからどこか泊まるとこ取らないと無理じゃないのって言ったんだよ」

穴窯の隣には工房があって、作業場の他に6畳の和室が付いています。寝られるのはその6畳の和室だけ。ホットカーペットがあるので、いつもその上に寝袋を並べて寝ています。外はもちろん氷点下。天気予報を見る限り、笠間の日曜日朝の最低気温は氷点下4℃。窯のある場所は、山の中腹で家もなくおそらくさらに2〜3℃くらいは低いと思われます。

「そんなこと、あなたが考えなくたっていいわよ!」
「そうはいかないでしょ。何人来るかわからないけど、女の子たちだって来るんだし、蓮と沙羅が来るってなったら、どうやって寝るかを考えないと…」
蓮と沙羅が窯焚きに来たがっていることは私もよく知っていたので、みんながうまく寝られる方法をと考えていたつもりでしたが、妻はそれを私が迷惑がっていると受け止めたようでした。あまり自分から謝ることのない妻ですが、しばらくすると私のそばに来て、
「さっきはごめん」と謝りました。

「さっきは、自分のことしか考えてなかった。あなたが大変だろうから手伝いに行ってやるって考えてた。でも、あなたはM君だって来るし、女の子たちも来るし、仕事なんだから色々考えなくちゃ行けないのは当たり前だし…。よく考えたら、私が蓮と沙羅を連れて行きたいと思ってるだけで、あなたにとっては本当はどうでもいいことだったのかもしれない。なのに、あなたにいろいろ考えさせちゃったんだよね。私のところに相談に来る人たちによくあるパターン…。“あなたのためにしてやってる”っていうことのおしつけ。
“誕生日にプレゼントあげるから絶対家にいてね”みたいな…。誕生日の人が主役のはずなのに、プレゼントを渡す方が主役になっちゃう。いつも私の考え方ってそうなのかも…。そういうとき喧嘩になるのかもなあ…。反省した」

“あなたのため”と思っていたことが、“自分のためだった”と妻は感じたようでした。親子の関係でもよくあることですよね。“子どものため”と思ってしていることが、実は“自分がしてやりたかった”だけだった。そんなこと考えたことありませんか。子どもが育っていってしまうとそんなことがよくあります。それに早く気づくことが子育てにとって大変重要なことなんでしょうね。

(文:大関 直隆)

2009/12/14(月)
第386回「児童生徒の問題行動調査 その2」
朝日新聞の記事の中にも、
「九州の小学校のベテラン男性教員も、キレる子どもたちを多くみてきた。例えば、高学年の男子は休み時間に友達と言い争いになり、イスを壁に投げつけたあと、窓ガラスをパンチして割り、けがをした。落ち着かせると「ああ、しまった」。うなだれて、小さな声で「ごめんなさい」としきりに言った。こうしたケースで親に知らせると、たいていは「信じられない」「うちではそんなことはまったくない」という答えが返ってくるという」

という部分がありました。基本的に子どもたちは「うちではキレない」わけです。これを学校や朝日新聞は「うちで甘やかされているために社会性が育たない」と捉え、「キレないうち(家)」の親子関係を問題視していると考えられます。
けれども、以前と比べて「街の中でキレる子ども」を多く見かけるということもない(少なくとも私は見たことがない)ので、その状況を冷静に考えてみると、「学校だけでキレる」ということになるのだろうと思います。

とすれば、当然問題は学校にあるということになります。そこを冷静に見ず、むやみやたらに学校でスキルを教えることは、下手をすればかえってキレる子どもを作りかねない。もちろん、うちにカウンセリングに訪れる子どもたちの様子から、私も甘やかされている子どもの状況というものは充分理解していますが、学校はもっと自己の責任を感じなければいけない。子どもがキレる直接の原因はどこにあるのかをきっちりと捉えるべきです。

孫の通う小学校では、やたらと子どもを脅します。
「名札を忘れたら遠足には連れて行きません」
「印鑑が押してないのでプールは入れません」…
依然と比べて「××がなければ、××させない」ということが、かなり多くなったように思います。「親からの訴訟に対する備え」ということもあるのでしょうけれど、「子どもの心をまったく無視した理不尽のなやり方」と感じることも多々あります。過剰反応ということです。

うちのクライエントさんの中には、授業中にちょっと集中を欠いただけで、教室から出され、授業を受けさせてもらえなかったお子さんもいます。どう見ても、教室から出されてしまうほど落ち着きのないお子さんではありません。よほど授業の展開がおもしろくなかったか、教師の子どもたちに対する対応が悪かったかしか、考えられません。果たしてそれは、どちらが追わなければいけない責任なんでしょうか。

こういった学校の対応に対して、子どもたちは抵抗する術を持ちません。教師に対して子どもや親からの反論というものは、まずその立場の違いからなかなかできるものではありません。なんとか反論なり抵抗ができたとしても、今度はそれを教師が受け入れることをしません。すっかりそういう枠組みになってしまっているのです。

また私は「キレる教師」というものが増えているようにも感じます。色々な学校で教師という立場の人たちを見ていると、教師自身が甘やかされて育っている。親に甘やかされて育ち、学校に就職した教師が、子どもたち同様、「コミュニケーション能力の不足」や「感情がうまく制御できなく」なっていて、多様な子どもたちを受け入れることができない。そしてそれが、子どもたちに対してキレるという状況が生みだしている。

今回の調査は、文部科学省が教育委員会を通じて全国の小中高校を対象に調査しているものなので、学校の都合による数字です。立場を替えて調査をするとまったく違った結果が出ることはよくあるので、どの程度の客観性があるのか疑わしいところですが、いずれにせよ、子どもの純粋な心を真っ直ぐ見つめ、子どもたちが苦しんでいる原因はどこにあるのか、学校も親も、それぞれが自分たちの責任をしっかり果たし、共に協力し合って子どもたちを育てていく必要があるのだろうと思います。
(文:大関 直隆)

2009/12/07(月)
第385回「児童生徒の問題行動調査 その1」
「小中校生の暴力 6万件」という見出しで、12月1日、朝日新聞東京本社版1面のトップニュースとして、
「文部科学省の30日の発表によると、3年連続増となった2008年度の件数は6万件に迫った。ごく普通の子が暴発し、我を忘れて級友に暴力をふるう――。現場の教員たちはこんなケースを数多く目の当たりにし、子どもたちの気質の変化を口にする。」
という記事が掲載されました。

近年、子どもたちが簡単に「キレる」と言われるようになりました。些細なことで、カーッとなり、怒鳴ったり、暴れたり…。

マスコミから流れてくるニュースを見ていると、
「えっ、こんなことで殺人?」
「えっ、こんなに簡単に人を殺しちゃうの?」
と思えるような事件が頻発し、「キレる」という状況が、子どもの世界で起こっているというより、社会全体で起こっているという状況がうかがわれます。
にもかかわらず、子どものコミュニケーション能力の低下だけが強調され、学校でもコミュニケーションの取り方を授業の中に取り入れ、成果を上げているような報道もなされています。

今回の朝日新聞の記事の中にも、
「教育委員会でも、子どもに感情のコントロールを覚えさせるための取り組みが始まっている。「次の日曜日に水泳の大会があるが、友達から『次の日曜、一緒に遊ばない?』と誘われた。どうする?」。さいたま市教委の用意した「上手に断る」ための授業には、こんな例題がある。小3から中1まで、市立の小中学校のすべてで実施しているプログラムだ。

まず「ごめん」と残念な気持ちを伝えて、「その日は水泳大会なんだ」と理由を言う。そして「だから遊ばない」と断り、最後に「再来週は遊ぼう」と代案を言う。この4段階が必要だと伝える。「暴力行為、不登校、いじめ。どれも子どものコミュニケーション能力不足に根がある」と同市教委。そこを解きほぐす指導が重要という考えだ。」
とさいたま市教委の取り組みが紹介されていました。
以前にも取り上げたことがありますが、これはどう考えても学校が教えなければならないようなことではありません。そこの部分で行政の施策としてまず重要なのは、幼児期から学齢期の子どもたちが自然に遊べる環境をどう整えるかであって、言葉でスキルを教えることではありません。コミュニケーションは、言葉で考え頭で理解するものではなく、経験から学んでいくものだから…。

今回の記事に関し、朝日新聞は一貫して小中学生の暴力が急増しているというスタンスで、記事を展開し、98年度からのグラフを掲載しています。そのグラフでは06年度から右肩上がりに急増していますが、毎日新聞は「暴力行為の報告基準や調査対象はこれまで数回見直しが行われ、06年度からは国立と私立も対象に加えたほか、軽微な事案も積極的に報告するよう求めるようになった。このため、過去のデータと単純比較することはできないが、」と前置きをした上で、「現在の基準になった06年度以降の2年間で約1万5000件増えている」と述べています。

私も、少なからず子どもの表現や行動が、これまでと違って来ているという感覚はありますが、朝日新聞(グラフの下にある「キーワード」という項目の中には「過去には、社会的な注目を集めるいじめ事件が起きると直近の調査でいじめの報告が急増し、その後減るというパターンが繰り返されている」と特記してありますが)の文科省や各教委や学校からの報告をあえて強調するような報道姿勢でいいのかどうか…。
この報道では「ダメな親、苦悩する教員」という方向性がただただ強調されることになってしまっています。

次回につづく
(文:大関 直隆)

2009/11/30(月)
第384回「年齢に応じた対応が…」
11月の上野動物園。
新型インフルエンザが猛威を振るっているとは言え、各学校もやや落ち着きを取り戻しつつある様子。上野動物園には、遠足の小学生の姿が戻ってきました。

上野動物園というと、皆さん様々な思い出があるのではないかと思います。
私も小学校1年生のときの遠足が上野動物園でした。母に言わせると「お前は神経質で何か行事っていうと必ず具合が悪くなるんだから」ということらしく、たしかに幼稚園の遠足は行きませんでした。
私の記憶違いでなければ、確か幼稚園の遠足は耳下腺炎で行かなかったと言われたような気がするので、そうだとすれば「必ず」っていうのは大げさな言い方で、幼稚園の遠足に行けなかったのは仕方のないことのようにも思うのですが、幼稚園に入園するまで、度々自家中毒になり、その原因は精神的なものと考えられていたので、母の意識の中にはそれの延長線上に幼稚園の遠足があったのだろうと思います。
周りから「必ず具合が悪くなる」と言われれば言われるほど、本当に具合が悪くなるもので、それまでの私に対しての話が本当か本当でないかは定かではありませんが、小学校の遠足の日、朝、下痢をしてグズグズしていたというのは確かで、私も上野動物園に行っても下痢をするのではないかとびくびくしながら上野動物園に出かけたのをよく覚えています。
結局一度もトイレに行くこともなく、水筒の蓋が固く閉まってしまっていて、どうやっても開かないので、先生に頼んで開けてもらったこと以外、何も困ったこともなく楽しい遠足でした。

子どものころ私は、上野動物園を「上野の動物園」と言っていました。それにはわけがあります。あるとき、上野動物園に行きました。正門から入って、ゾウやサルを見た後、
「下の動物園に行こっ!」
と私が言ったのです。どうやら私は、正門からイソップ橋までの東園を「上の」動物園、その先の西園(キリンやペンギン、こども動物園など)を「上の」に対して「下の」動物園と思っていたらしいのです。イソップ橋から先は下って低い場所にあるのでまったくその通りなのですが…。

子どものそういう勘違いってよくありますよね。そのため、「うえの」という言葉が、「上野」という場所を表している言葉であることをはっきりさせるため、周りが「上野の動物園」と言い始めたみたいです。そのためか、私は長い間「上野動物園」を「上野の動物園」と言っていました。
いまだに私の意識の中では「上野動物園」より「上野の動物園」の方がしっくりする感じなのですから、子どものころの記憶というものはすごいものだなあと思います。

子どもを連れて動物園に行くと、夢中になるのは子どもよりも大人。皆さんはどうですか。もちろん子どもも大喜びなのは間違いないんですが、
「ここがゾウ、ここを向こうに行くとシロクマがいて、そこをぐるっと回るとゴリラとライオン。向こうにイソップ橋があって、それを渡るとサイとかキリンとかカバとか…」
なんて大騒ぎになるのは大人。でも、ちょっと注意しなければいけないのは、大人が考えるより、子どもにとって動物園は広いということです。小さい子どもたちは、好きな動物が決まっているもので、すべての動物を見たいわけではないし、2、3歳の子どもにとって、上野動物園を1日ですべて周り尽くすのは、体力的にもとても大変なことです。
自分が子どものころのことを考えると「今日は上(東園)だけにしようね。下の動物園はまた今度ね」なんて言われたことを覚えているので、上野動物園の半分くらいが幼児にとってはぎりぎりの広さなのかもしれません。

孫の蓮と沙羅は、26日に遠足で上野動物園に行ってきました。なんとなんとその翌日が持久走大会。気持ちが高揚しているせいか、どうということはなかったけれど、小学校1年生にとってはちょっと負担だったのではないかと思います。

動物園、大人にとっても子どもにとっても、とっても楽しいですけれど、子どもの体力を考えて大人のペースでの遊びすぎには要注意ですね。
(文:大関 直隆)

2009/11/24(火)
第383回「子どもの万引き」
「今、お嬢さんからお話を伺っているんですが、とりあえずお引き取りにいらしていただけませんか?」
「はっ? どういうことですか?」
「万引をしたのではないかということで、事情を聞かせてもらっているんですが、一応お話は伺いましたので、お引き取りにいらしていただきたいんですが…」
こういう電話はもらいたくないものですが、娘が通っていた高校の近くにある某百貨店から、そんな電話をもらったことがありました。
「娘が万引きをしたっていうことですか?」
「いえいえ、”した”ということではないんですが、その疑いがあったので事情をお聞かせいただいた、ということです」
「してないのに、事情を聞いたっていうことですか?」
「”した””しない”ということではなく、その疑いがあったので、事情を聞かせていただいたということです」
「はあ、わかりました。急いで伺いますが、2時間くらいかかりますので、よろしくお願いします」

何も非がないのに、そんな嫌疑をかけられるはずもなく、娘にも万引きを疑われるような行動があったのか、あるいは万引きをしたのか…。そんなことを考えながら、娘を引き取りに行きました。娘が高校1年生のときのことです。

百貨店に着いて、店長さんと話をしました。「万引の疑いで事情を聞いた」というにしては、最初からかなり丁重な扱い。こ本当のところは「やってないという確信がある」、要するに「間違った」という認識があるんだなとすぐわかりました。

「うちの店舗でもかなりの万引き被害がありまして、特に若い女性や女子高生が好むようなものが万引きの対象になっています。大関様のお嬢様とお友達がかなり長時間にわたって店舗内でしゃがんでおられて、こちらといたしましては万引きを疑う状況だったので、一応こちらに来ていただき、事情をお伺いさせていただきました。
商品を隠し持っているとか、商品を盗ったところを見たというわけではありませんし、事情をお聞かせいただいたのも今回が初めてですので、警察にも学校にも連絡はしていません」
(ん? これは脅し? お宅の娘にも疑われるような行動があったんだっていうことを強調しておきたいわけね)
「通報が必要と思われるようなことだったっていうことですか?」
「いえ、そういうわけでは…。盗ったということではないので…」
「でも、疑っているわけでしょ?」
「いえいえ、盗ったかもしれないとこちらが思ったものですから、それで事情を…」
「”黒”だろうけど、証拠がないのでっていうことですか?」
「いえ、”黒”というわけでは…」
ムッとした表情で娘が、
「だから、さっきからしゃがんでただけだって言っているのに、ここまで連れてこられて親まで呼んだっていうことは、信じてないっていうことでしょ!?」
と言いました。

はあ、そういうこと…。要するに万引きしたと思って捕まえてみたら間違いだったけど、すみませんとも言えないので、親まで呼んで「店としては娘の素行が悪いから、当然のことをした」っていうことにしたいっていうことかあ…。
私も娘と同じように、ムッとしましたが、店長には「ご面倒をおかけしました」と丁寧にあいさつをして、娘を引き取ってきました。

私は、その後の娘との話で、「やってない」という確信を持っているわけですが…。
小・中学生の万引きが急増しているそうです。万引きをする理由にもいろいろあると思います。
「お金がなくて必要なものを盗る」「お金のあるないにかかわらず欲しい物があるから盗る」「スリルを得るために盗る」「ゲーム感覚で盗る」…。
うちの研究所に来る子どもたちにも、万引きの経験のある子がいます。「なぜ?」と聞くと「欲しかったから」という答えが返ってきます。いろいろ聞いてみると、その後盗った物を大事にしているわけでもなく、使っているわけでもなく、すぐに捨てられたり、その辺に放り出されたり、「必要だから盗った」のではないことがわかります。
そして、そういった子どもたちに共通して言えることは、「消費することになれて」いて、「人と同じ物を持っていないと我慢ができない」、「人よりもいい物を持っていたいという気持ちが強い」ということです。

万引きの増加を「不況で貧しい家庭が増えているから」と見る向きもあるようですが、豊かさ故に消費に慣らされた結果として、消費に対する抑制がきかず、欲しい物を手に入れるために万引きに走ると考えた方がいいように思います。
もっとも、それも「貧しさ故」と言えばその通りかもしれませんが…。

子どもの万引きの大きな原因の1つは、金儲けのためなら子どもの消費マインドまで利用しようとする大人たちのエゴだろうと思います。
万引きをした子どもを裁くのではなく、子どもが万引きをしようと思わない社会を作っていくことが、大人の責任ですね。
(文:大関 直隆)

2009/11/16(月)
第382回「クリスマスツリーの飾り方」
もうそろそろあちこちでイルミネーションが始まりましたね。
浦和駅東口のパルコ前の広場にもウサギがサッカーをしているイルミネーションが飾られました。レッズファンや浦和の旧住民にすれば、浦和=サッカーのようなイメージがあるので、サッカーのイルミネーションというのも納得はいくんでしょうが、ちょっとだけ「またサッカー?!」という気もします。
同級生の加藤好男君(日本代表コーチ)や田嶋幸三君(日本サッカー協会専務理事)、先輩の西野朗さん(ガンバ大阪監督)などの活躍ぶりを目にすると、浦和とサッカーの関わりの強さを感じます。とは言え、人間て、欲張りなものなので、逆にサッカーしかない寂しさも感じたりして…。

孫の蓮が、そのイルミネーションを見て、
「なんでサッカーなの?」
「じいちゃんが子どものころ、浦和はサッカーが強かったし、今もレッズがあるだろ。だからみんなまた浦和のサッカーチームが強くなったらいいなって思ってるからだよ」
「ふーん。でも蓮くんは、野球の方がいいなあ。野球、うまくなりたい!」
「そうかあ。野球がうまくなりたいんだぁ…」
「うん。ねえねえ、じいちゃん、なんで、ウサギがサッカーやってるの?」
これには私も答えに窮して、
「う〜ん、なんでだろう? よくわかんないなあ…。ウサギがかわいいからかなあ?」
なんで東口のイルミネーションは、ウサギなんですかねえ? 何か意味があるんでしょうか。浦和の調神社は、狛犬でなく狛ウサギがいることで有名。まさか調神社の兎信仰からきてる? そこまで深い意味があるんでしょうか?

我が家もそろそろクリスマスツリーを飾ろうかなあと思います。ツリーと言えば定番は、あの点滅する電球ですよね。緑のコードに色々な色の小さな電球がついていて、ついたり消えたりするやつ。
昔は、本物のもみの木に飾ったり、本物のもみの木を模した造花ならぬ造木(こんな言い方ありますかねえ)に様々な飾りを付けて、もちろんてっぺんには星を飾る。そこに電球を巻き付けて、最後は雪に見立てた綿を飾って「ハイ、できあがり!」みたいな…。出来上がるととっても嬉しかったものです。

そろそろそんなことを考えながら、庭にあるもみの木の植木鉢を家の中にあげる準備をして、昨日は飾りを買おうとパルコを訪れたんですが…。
思ったような飾りが置いてない。
「へっ、なんで? クリスマスの物ってないの?」
と思いきやそういうわけではなく、もうすでに出来上がっている物が置いてある。
「そういうことかあ…」
置いてあることは置いてあるんだから、きっとどこかに飾り付けの飾りもあるだろうと、あちこち見て回りましたが、見つからない。おそらく「浦和のパルコには」、そういった物があまり置いてないということだったんでしょうが、ちょっと寂しい気分に。

「確かに出来上がってる小さなツリーを買ってそのまま飾っちゃえば、飾るのも楽だし、もし来年まで取って置くにも便利だし…。当然かあ…」
でも、あのクリスマスツリーを飾るときのわくわく感、あれが大事なんですよね。あれがなくなっちゃったら、なんのためにツリーを飾るんだかわかんない!
どこの家にも煙突なんていうものはなくなり、我が家にやってくるサンタクロースは、まさか換気扇から入ってくるわけにも行かず、玄関から鈴を鳴らしながら入ってくる。

♪あわてんぼうのサンタクロース 煙突のぞいて落っこちた♪

なんてことあり得なくなりました。どんなに楽なクリスマスを迎えても、あの子どもの心のわくわく感だけは残しておいてやりたいものですね。まあ、本来のクリスマスの意味とは違いますが…。
(文:大関 直隆)

2009/11/09(月)
第381回「高校入試のあり方」
高校の正門前に貼り出された合格の番号を確認すると、真(まこと)は「合格した」という喜びいっぱいで、手続きに必要な書類を受け取るため受付に向かいました。
「君の学校の書類は、先に来た生徒さんにまとめて渡しました」
「そうですか。わかりました」
真は「僕の書類なのに他の人に渡しちゃうなんていうことあるのかなあ」とちょっと心に疑問を抱きながら、書類を手にする喜びを味わえないまま、中学校に報告に戻りました。

昇降口を入り職員室へ向かうと、途中で担任のK先生と会いました。K先生は、
「大関、おまえもダメだったかぁ…」
「・・・(えっ? 僕、落ちたの? そういえば手続きの書類も持ってない。やっぱり僕の書類はなかったんだ。だから、僕には書類を渡さなかったんだ!)」
真は何も言えず、その場にへたり込んでしまいました。涙がこみ上げてきました。
「(でも、番号あったのに…。何回も見直したし、確かめたし、うちにも電話をかけたら、おめでとうって言われたし…)」

K先生は、真の肩に手をかけ、慰めてくれている様子。
「先生、番号あったんです。書類は持ってないけど番号あったんです。先に行った誰かが書類を全部預かってきているはずなんですけど…」
K先生は気まずそうに、
「大関、おめでとう! おまえは受かったんだよな。おめでとう。よかったな、おめでとう!」
「(そうだよ、僕は受かったんだよ。番号あったんだから。職員室に書類だってあるはずだよ)先生、ありがとうございます!」

K先生は優しいいい方で、真のことをとても信頼してくれていて、とてもお世話になった先生でした。受験校を決める際、真と私と妻との話し合いの中で、真は公立の進学校一本で、押さえを受けたくないようなことを言っていました。三者面談では、「真が公立一本でと言っている」と伝えたつもりでしたが、何をどう勘違いしたのか、私立の押さえを受けるか受けないか、時間的にそろそろぎりぎりというときの三者面談で、
「お父さん、真君に押さえを受けさせてやってください!お願いします!僕の方で、勝手に高校と相談させてもらって、高校の方からはもう確約をもらっているんです。受験さえしていただければ、落ちることはありませんから!」
机に頭をぶつけるくらい頭を下げられ、どっちが頼んでいるんだかわからないような形で懇願されてしまい、真は私立の押さえを受けることになったという経緯があります。なぜ、K先生がそこまで私に真の私立高受験を勧めたかというと、理由は簡単。真が狙う公立の進学校には、真の実力では受からないと思ったからです。万一、押さえを受けないということになると、定員割れをした高校の二次募集に回らざるを得なくなり、それは真にとってもK先生にとっても不本意だということだったのでしょう。真の通う中学校からは、7人が同じ高校を受けました。7人の中で真はほぼ7番目。先に合否の報告に来た当然受かると思われた上位の子たちがことごとく不合格だったため、K先生には真の合格ということは、考えられなかったようです。それが「真、へたり込み事件」になったのです。

この年の合格者は、真を含め3人。7人中、4番、6番、7番目が合格するという奇妙な結果になりました。しかも、合格した3人は全員が運動部の部長。あっという間に「筆記試験の点数より内申書が重要なんだ」「やっぱり部長をやってないと不利なんだ」という噂が広がりました。このころは、妻もバリバリの公立高の教員。合否の基準がどうなっているかなんていうことは、もちろんよくわかっているし、真の受けた進学校には、ほんの数年前まで叔父が勤めていたこともあり、まったく同じ基準で合否の判定をしていることもよくわかっていました。

まだ当時は、推薦制度はありませんでしたから、内申書と入試の点数をある基準に従い五分五分で見るというのが当時の判定方法でした。その後、推薦入試が導入され、私立高に流れる前の公立高への囲い込みのようなやり方が、当たり前になりました。これは、中学校での子どもの評価が大きく影響するため、子どもをおとなしくさせるには好都合。子どもの様々な部分を評価するという点では、確かに筆記試験ではできない良さがありましたが、中学校の先生の評価次第で良くもなり、悪くもなるという点では、子どもたちにとってはあまりいい制度とは思えませんでした。基本的に、試験一本でやるという方が誰にでも開かれていて公平ということが言えるのではないかと、私は常々考えています。

つい先日、「公立高校の推薦入試が見直され始めた」という記事がネット上に流れました。推薦入試が、学力低下を招いたということが理由とのこと。私の考えとはやや違いますが、これでやっと公平な入試に近づいたような気がします。学力だけが人間の評価ではないということには諸手を挙げて賛成しますが、合否に重要なのが中学校の教員の評価だけということでは…。合格の基準が明確になり、誰もが納得のいく入試制度が確立するといいですね。

(文:大関 直隆)