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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2009/06/08(月)
第360回「便利なものの危うさ」
どちらかと言えば“新しいもの好き”の私は、ポケットベルに数字しか送れない頃から使っていました。その機能と言えば、ほぼ、「ピーッ ピーッ ピーッ」という呼び出し音がするだけ。今とは比べものになりません。その後はちょっと大きめの携帯電話も持ち、そして、今の携帯電話へとなっていったわけです。(第185回参照)

携帯電話の普及により、ずいぶん便利になりました。今や家庭用の一般電話や公衆電話は無用の長物と化した感があります。以前は、外部からの電話も多かった我が家でさえ、家の電話を使うことは稀。ドイツにいる息子からの電話を受ける時、こちらからドイツへかける時、そんなとき以外はほぼ使いません。最近では、国際電話も携帯でかけることが多くなりつつあります。

「もう、家の電話はいらないんじゃないの?」そんな話が出るくらいになりました。
公衆電話に至ってはどこにあるかもわからない。いつだったか、携帯を濡らしてしまい使えなくなってしまったことがありました。そのことを伝えようと公衆電話を探したら、見つからない。やっとのことで公衆電話を見つけても、今度は電話番号が思い出せない。もうすっかり公衆電話を使うという感覚がなくなってしまいました。まあ逆に、そのくらい携帯電話というものが欠かせないものになっているということですね。

ところがこの便利な携帯電話、不便なこともあります。不便という言い方はちょっと違うかもしれませんが、たとえば私のように会社を経営していると携帯電話のせいで、しっかり休むということが出来ないということ。うちの会社の業種と言えば、もちろんサービス業。基本的には休み無しでやっているわけですが、決まった休みがないということは、いつでも電話がかかってくるということでもあります。3、4カ月に一度、やっとの思いで休みを取って出かけても、携帯電話はどこまでも追いかけてきます。携帯に電話をかける側は、いつでもつながるものと考えているので、重要な用件もかかってくるかもしれません。電源を切るわけにも行かず、結局つまらない用件(一番多いのは営業の電話です)の電話まで受けることになってしまいます。ゆっくり露天風呂かなんかに入った後に受ける営業の電話なんて最悪です。
「こっちの様子がわからずに営業の電話なんてしてくるな!」
と怒鳴りたくなります。

また、携帯電話を使い始めたころは、妻との間でもよくトラブルになりました。
「私がかけるとなんで出ないのよ」
「気づかなかっただけだよ」
「いっつも出ないじゃないの!」
「そんなことないでしょ!何回かけたっていうんだよ!」
「何度もかけたけど出ないじゃないのよ!」
「“何度もかけた”じゃないでしょ!着信履歴は2回しか残ってないじゃないか!ポケットに入れて歩いているとわからないんだよ!」
そのころ妻は、携帯電話を持っていれば必ず出ると思っているらしく、ちょっとでも出ないことがあると大げんかになりました。実は、こちらからかけた時に妻が出ない回数の方が数倍も多かったのですけどね。最近はやっと慣れて、出る・出ないでトラブルになることはほとんどなくなりました。

すっかり普及した携帯電話。小学校の緊急連絡にも携帯電話のメールが使われるようになりました。前回の運動会中止の連絡もメールでした。全員に連絡が回るのにも時間はかからないし、我が家のように連絡網の電話がある度、「名簿はどこ?」と大騒ぎになるようなだらしのない家庭にとっては、大変ありがたいことです。でも、実際にメールで運動会中止の連絡を受けた私は、ちょっと違った感覚を持ちました。それは、人と話をしない寂しさというか、運動会が中止になった残念さを共有できない寂しさというか…。
これでいいのかなあという疑問が湧き起こりました。便利さを享受することによって失うものもあります。携帯メールによって、便利さは手に入れることが出来るけれど、人と人との関わりという子育てにとっての命とも言える大切なものを失ってしまう。メールを読んだ時、そんなことを感じました。
私がPTA会長をしていたころ、「役員会に出席したり、行事に参加することだけがPTA活動じゃないんです。学校に電話する、先生と話しをする、そんなことだって充分にPTA活動なんです」とよく会員の皆さんに話していました。携帯メールは、学校から一方的に流されるもので、PTA活動への参加、保護者の学校への関わりすら奪ってしまう危うさを持っている。保護者の学校に対する無関心を助長しないか…。

文明が進むことにより、どんどん便利なものが増えていきます。けれどもその便利さだけを享受するのではなく、便利さゆえに持っている危うさをしっかりと認識し、丁寧な子育てをしなければいけないのだなあとつくづくと考えさせられる、携帯メールの受信でした。

(文:大関 直隆)

2009/06/01(月)
第359回「子どもの気持ちを受け止めるのは…」
「じいちゃん、雨降ってる?」
「どうだろうねえ、あんまり降ってないみたいだけど…」
「ほんとだ、降ってない!」
ベランダ側の窓から外を眺めた蓮が叫びました。ガラス越しにはほとんど雨は見えませんが、よく見ると細かい雨がけっこう降っているようにも見えるので、
「どうだろうねえ…、窓を開けてよく見てごらん」
と私が促すと、蓮はベランダへ続く窓を開けて庭(我が家はマンションですが1階で、ベランダの向こうには専用庭があります)に出て行きました。ガラスを通さず開いた窓から直接外を見てみると、霧雨が降っているのがわかります。霧雨と言えども私に言わせれば完全に雨。9月に大型連休が入るため、今日(5月30日)に予定されていた小学校の運動会は、おそらく中止だろうと想像がつきました。

昨年も同じように運動会当日の早朝まで雨が降っていました。決行なのか中止なのか迷うところではありましたが、予報は「のち晴れ」。開会の時刻には何とか雨も上がって、校庭の整備に時間を取られたものの、15分遅れで運動会を始められました。
けれども、今年はちょっと状況が違うよう。低く垂れ込めた雲が切れる気配は全くなし。天気予報も、「雨」と言うわけではないものの、「のち晴れ」でもなく、どうやら1日中「曇り時々雨」とのこと。
残念ながら今日は中止だなあ…。
「じいちゃん、降ってないよ!」
おいおい、何言ってんだよ。どう見たって降ってるじゃないか。私の目には、細かい雨がしっかり見えてるぞ。
「そうかい?」
「うん。ほら、濡れないもん!」
そりゃあ、霧雨だからほんの数秒なら濡れた感じはしないだろうけど、まあ5分もすればびしょびしょに濡れちゃうんだよ。
「ふーん。でも、じいちゃんは中止だと思うよ」
そこで初めて私が中止という言葉を使うと、
「じゃあ、玄関の方から見てみる!玄関の方から見たら、降ってないかもしれないから!」
おいおい、そんなわけないんだよ。庭の方が降っていれば、玄関の方も降ってるの。だいたい玄関の方が降ってなくたって、学校が降ってれば中止なんだよ。
「うん、じゃあ玄関の方から見ておいで」
蓮は、急いで玄関の方へ飛んでいきました。
「玄関から見たら、降ってないみたいだよ」
こいつ、しぶといやつだなあ。雨は雨なんだよ。おそらくもうすぐ中止の連絡が学校から入るのに…。

ほどなく、学校から私の携帯に中止のメールが届きました。主に防犯の目的から、娘の麻耶の携帯と私の携帯が小学校からの連絡用に登録してあって、一斉に送られるメールが届きます。
昨日(5月29日、金曜日)も今日の雨を見越して、中止になった場合の土曜日の予定がメールで届いていました。今日届いたのは、「中止」決定のお知らせと改めての本日の予定。蓮にはかわいそうだけれど、まあ仕方のない決定です。予備日が火曜日なので、平日に休みが取れない保護者のために、一部の練習を体育館で行い、それを公開するとのこと。苦肉の策というところです。

雨には勝てず、ランドセルにお弁当を詰めて蓮も沙羅も出かけていきましたが、蓮の出かけたあとの部屋には、ティッシュペーパーがくしゃくしゃになって散乱していました。
昨年、自分の体の半分もあるような大きなてるてる坊主を作って、なんとか運動会が予定通りやれたことを思い出したのか、昨夜寝る前に一人で大きなてるてる坊主を作ったようです。そう言えば、「輪ゴムはどこ?」と探していました。

こんな子どもたちのけなげな気持ちを学校は真っ直ぐに受け止めているでしょうか。昨夜は、漢字練習のプリントが宿題に出されていました。どう考えても、今日の中止を見越して出した宿題のよう。効率を考える教師らしいやり方です。でも、寝る時間を割いてまでてるてる坊主を作っている蓮の気持ちを考えると、果たしてそれでいいのかなあと疑問に思います。
子どもと一緒になって「晴れ」を信じて疑わない学校(教師)の姿勢があってこそ、子どもも目を輝かせて様々なものに取り組む気持ちが湧いてくるのではないか。
カリキュラムに一日の遅れを出さないよう運動会の前日に宿題を出すよりも、子どもの気持ちを真っ直ぐ受け止め、子どものやる気を削がない方がよほど効率のいい勉強が出来るだろうと思うのですが…。

火曜日に運動会を見ることのできない妻が、体育館で行われている公開練習を見に行きました。そこには笑顔のない教師の怒鳴り声ばかりが響いていたそうです。
(文:大関 直隆)

2009/05/25(月)
第358回「新型インフルエンザ、備えは万全か」
3週間ほど前、NHKの番組を制作している会社から、「天才テレビくん」の撮影に陶芸教室を使わせてもらえないかという電話がありました。
「子どもを一人連れて行くので、撮影する場所を提供してほしい」とのこと。背景として陶芸をやっている大人の姿、作品、窯など、写り込ませたいということなので、広さも充分で窯もある戸田公園の「陶芸広場」で撮影することになりました。
撮影するのは、5月17日の日曜日。直前になって、「車で行くので、駐車場はありますか」との問い合わせ。撮影時刻が比較的早い時間帯で、うちの陶芸教室が混むのは、どちらかと言えば遅い時間帯。2台分ある駐車場の1台分を使ってもらうことにしました。

撮影当日。私の車はどこに止めようかなあ…。そこで、隣にある”セイムス”(薬局です)に止めさせてもらうことにしました。普段、日曜日とは言え、駐車場が全部ふさがってしまうようなことはないので、「まあ何か買えば、わざわざ断ることもないか」とセイムスで買い物をすることに…。
無駄な買い物をするのも嫌なので、薬局に売っているもので、今一番必要なものは何だろうと考えたあげく、出した結論は「マスク」。

「そう言えば、新型インフルエンザのニュースで、関西の薬局にマスクを買うための行列ができている」ってやってたっけ。早晩首都圏にも広がることは間違いないんだから、マスクを買っておこうと考えたわけ。
陶芸というとどうしてもホコリがひどいため、今年の花粉症の時期は、会員の皆さんが自由に使えるよう使い捨てマスクを洗面所に置いてみました。これがけっこう好評で、あっという間にマスクが全部なくなってしまったので、今後も続けて置いてみようかなと思っていたところだったのです。
ところが、そんな折インフルエンザでマスクがないというニュース。買えれば買っておこうとマスク売り場に行ってみると、やや売れた形跡はあるものの、60枚入りのマスクがけっこうたくさん置いてあったので5箱買いました。「2000円くらいになったから、3時間まで無料ってことで、まっ、いいかぁ!」と車は断らずに駐車させてもらっちゃいました。

「天才テレビくん」の撮影は、背景としてちょっとだけ写るかもしれないとのことだったのに、途中事情が変わって、台詞つきでしっかり出演してしまうことに。ON AIRになってみるまでわからないけれど、ひょっとすると、ほんの2〜3秒写るかもしれません。
放送は6月5日か12日とか。どんな風に写っているか、もし興味があったら見てください。

さて、天才テレビくんのおかげで、大量に買い込んだマスク。撮影日の午後から首都圏にも新型インフルエンザが広がりそうだというニュースが頻繁に流れました。翌月曜日になると、関東でもマスクが品薄に。この日も、もう少しマスクを買い足しておこうかなあと思いましたが、もうすでにほとんどの薬局が品切れ状態。早く落ち着いて、マスクが普通に買えるようになるといいのですが。

関西では感染が拡大しないよう、公立の学校、幼稚園、保育園などがすべて休校、休園になりました。新型インフルエンザが弱毒性であったとはいえ、重症化率や死亡率というものがはっきりしない段階では、結果として対策が大げさなものになったとしても、それはやむを得ないことです。一時、舛添厚労大臣の対応が冷静さを欠き、不安を増長させているという非難を浴びました。確かにそんな部分もあるにはあったけれど、大げさということで言えば、こういうときは大げさに越したことはないのかなあとも思います。
今回の感染拡大で問題点として明らかになってきたことは、直接には経済活動と無関係に見える小学校や幼稚園、保育園の休校、休園が経済活動に大きく影響を与えてしまうということです。うちも今一番心配しているのは、小学校が休校になったときの、孫の蓮と沙羅の面倒を誰が見るのかということです。
「共働きなんですけど、仕方がないので会社を休みました」とインタビューに答える女性が、ニュースで頻繁に流されていましたが、休めない会社、休めない自営業の人たちは、いつまで続くかわからない休校、休園にどう対処すればいいのか、まったく答えが見えません。うちの会社も毎月ぎりぎりのところで経営しています。会社として充分な蓄えがあるわけでもなく、むしろ日銭経営といった感じ。
日雇い労働が問題になっていますが、小さな会社の状況は、日雇い労働と何ら変わるところはありません。2週間子どもを誰かが見なければならないとすると、経営に深刻な影響を与えます。どんな対策を立てればいいのか、命とも関わる問題なだけに、早く適切な対策を考え出して欲しいものです。

今度の土曜日は小学校の運動会。来月には給食試食会があります。今のところ、首都圏では、中止になるほどの影響は出ないようですね。

マスクが買えずに困っていた陶芸教室の会員さんや近所のお宅のおじいさんなどにマスクを差し上げました。大量に買ったはずのマスクも残りが少なくなり、どうも自分用のマスクはなくなってしまいそうです。
(文:大関 直隆)

2009/05/18(月)
第357回「学校は誰のもの?」
「キャッチボール用のボール買ってきたんだよ。だからじいちゃん、今度キャッチボールやりに学校いこっ!」
「へーっ、キャッチボール用のボールってあるんだぁ?」
「うん。ほらっ、これだよ! 昨日、西武ドームで買ったんだよ。だから、今度じいちゃんも学校いこっ?!」
「そうだね」
「じゃあ、今度の土曜日ね。野球もやるんだよ。バットも持って。野球はね、キャッチボール用じゃなくて、こっちの硬い方。いっつもばあちゃんとやると蓮くんが勝つんだよ。だから、じいちゃんにも勝っちゃう!」
「沙羅ちゃんもやるぅ」
竹の子掘りの翌日、5月5日に西武ドームに行き、初めてスタンドで野球を見た蓮と沙羅は、興奮気味に話しました。

去る1月27日に開かれた住友生命主催の異業種交流会で、西武ライオンズの副社長、太田秀和氏の講演を聴きました。
講演後の交流会で抽選会があり、見事当たったのが5月5日の西武ライオンズvs楽天イーグルスのペアチケット。太田氏が提供してくれたチケットですから、もちろんいい席。バックネット裏のボックスシート脇の内野指定席でした。いただいた指定席なので、隣を買い足すというわけにもいかず、まだ小さい沙羅は膝の上に乗せればいいかということで、娘の麻耶と孫の蓮、沙羅は出かけていきました。
楽天「マー君」の登板を期待していたのですが、4連勝のあとの肩の張りで、登録抹消中。ちょっと期待はずれに終わるかな(もちろん蓮にも沙羅にもあまり関係ないことなのですが、あまり野球に興味のない麻耶にとっては自分の知っている選手が出るか出ないかが問題だったようで)と思いきや、西武ライオンズの先発が石井一久。麻耶は石井選手のヤクルト時代、一人で神宮球場に行って応援するくらいの大ファン。麻耶にとっても久しぶりの野球を楽しめたようでした。

試合終了後、選手が引き上げたグラウンドに観客を入れて、ダイアモンドを一周させてくれたとかで、初めて踏む「本物のベース」の感触と広いグラウンドに、大喜びで遊ぶ蓮と沙羅の写メが送られてきました。

学童保育に通うようになり、上級生のやる野球に興味を持ちだした蓮。野球がわかっているかと言えば、打った途端に3塁に走り出してしまうレベル。蓮がやりたがる「野球」なんて、まだまだ「野球」にはほど遠いけれど、それでもたくさん野球の楽しさを感じて帰って来たようでした。

さて、5月9日の我が家の「野球」。
日曜日の午前中は必ず、大人のソフトボールクラブ、午後には子どもの少年野球で小学校の校庭を使っているので、校庭の隅の方に、足でベースを書き、蓮くん言うところの「野球」をします。メンバーは、2人(蓮と”ばあちゃん”あるいは”じいちゃん”)または4人(蓮と沙羅、それにじいちゃん、ばあちゃん)。
たったそれだけでする野球ですから、もちろんダイアモンドは2塁のない三角ベース(一塁、二塁、ホームとベースが3つしかなく、本来ピッチャーの真後ろにある2塁がない。左右90度に開いているはずのダイアモンドも50〜60度くらいにしてある)。とってもコンパクトに「野球」ができます。

この日のメンバーは、蓮と私の2人。2人とはいえ、できればのびのび校庭を広く使って、思いっきり走り回りたいので、
「土曜日だけど、校庭使ってるかなあ?」
と蓮が言いながら校門を入っていきました。車がかなりの台数止まっていたので、何かやっているんだろうなあとは思いましたが、校舎のドアも開いている様子なので、校庭は空いてるかも? ソフトボールをやっていれば、いつも人影が見える辺りまで行っても人影が見えません。
「今日はやってないんじゃない?」
と蓮は言いましたが、カラーコーンがたくさん立っているのが見えたので、私は何かやってるんだなと感じました。校舎の角を曲がって校庭全体が見えると案の定、たくさんの人たちが校庭の中央付近にいて、受付まで設置してあります。
仕方がないので、校庭の反対側の隅の方へ移動しようと思いましたが、今まであまり見たこともない校庭の準備の仕方だったので、「何が始まるんだろうねえ?」と、蓮と2人で受付にいた女性に「何をやるんですか?」と聞いてみると、グラウンドゴルフの大会とか。「へえ、どんなものなんだろう」と考えながら、
「校庭全部使うみたいだから、今日はあっちの方でキャッチボールだけだね」
と蓮に声をかけて、隅の方に移動しようとしたとき、女性の隣に座っていた大会役員らしい男性が、
「そっちも使うよ」
といきなり蓮と私に声をかけました。精一杯投げたとしても10m飛ぶか飛ばないかわからない程度の蓮とのキャッチボールです。広い校庭の隅の、たたみ10畳ほどもあれば充分なキャッチボールのスペース。そんな場所さえ、奪ってしまおうとする大人。
ムッとしましたが、そこで喧嘩をして、野球に興味を持ちだした蓮の気持ちを削いでしまうのも嫌だったので、だまって校舎の陰に回り、キャッチボール用のふわふわのボールでキャッチボールをしました。

第56回でも取り上げた「校庭の開放」ですが、定期的に利用している地域の人たちは、校庭を使っているとはいえ、子どもたちにとてもとて気を遣ってくれているのですが、今回はどうやら外部からの人たちだったようで、「公式に借用しているのだから自分たちが使って当たり前」という態度でした。

子どもの体力の問題、親子の関わりの問題が社会問題化している昨今、キャッチボールをするほんのわずかなスペースさえ奪われてしまう子どもたちや親子に、責任を投げかけられるのか。大人の行動を根本から考え直す必要があるのではないでしょうか。
(文:大関 直隆)

2009/05/11(月)
第356回「ゴールデンウィークの出来事」
ゴールデンウィークが挟まり、だいぶ間が空きました。この間、高速道路の大渋滞あり、新型インフルエンザあり、株価の急騰ありと様々なことがありました。

残念ながら私も妻も、基本的には休み無し。何とか仕事のやり繰りをして、4日(月)だけは休むことにしました。連休も中日だったらそれほど渋滞もないだろうと高をくくって出かけたのですが、イヤイヤとんでもない。早く出た方が空いていたのか、遅く出た方が空いていたのか…。
8時半くらいに家を出て、東京外環から関越道で本庄・児玉インターまで行き、鬼石(おにし)を通って神川町へ。目指すは神川町営の矢納フィッシングパークだったんですが、大誤算。
外環は混んでいなかったものの、関越道の所沢インターを過ぎたあたりからのろのろになり、三芳パーキングエリアから先は、ちょっと動いては止まり、ちょっと動いては止まり…。結局、本庄・児玉まで高速で行くのはあきらめて、圏央道の鶴ヶ島インターで降り、一般道で小川、寄居を抜けて、神川町へ向かいました。
「高速道のサービスエリアかどこかの道の駅で朝食を取り、11時前には到着。お昼は釣ったニジマスを炭火で焼いてもらい、おにぎり片手にニジマスの塩焼きを食べる」つもりだったのに、朝食を取るうまい具合のところも見つけられず、朝はマクドナルドのドライブスルー。
やっとお昼過ぎに着いたフィッシングパークもこれまた大混雑。魚が疲れているのかなかなか釣れなかったけれど、なんとか1人1,000円で4匹のノルマを果たし、4人で計16匹也。ところがこのあとがまたまた大誤算。魚をさばいてもらって、炭火で焼いてもらうのにも長時間(それほどでもなかったけれど、さばいて、焼いて、食べてで2時間くらいかかりました)の順番待ち。
秩父の日帰り温泉でゆっくりして、竹の子掘り、イチゴ狩りという予定だったんですが、日帰り温泉はパスになってしまいました。

それでも何とか、竹の子掘りとイチゴ狩りはやったんですよ。秩父市街をちょっと外れた観光農園で竹の子(筍)掘りをやらせてくれるところがあり、そこでイチゴ狩りもできました。ここは大正解。客は我が家以外に無し。農園のお孫さんが、ちょうどうちの孫と同い年だったということもあり、すぐに仲良くなって、一緒に竹の子を掘ったり、イチゴ狩りをしたり…。
とても楽しい時間を、リーズナブルな値段(竹の子6キロを掘って、食べ放題のイチゴ狩りを5人で楽しんで、さらに家で留守番の娘の麻耶にイチゴを1パック詰めて、ジャスト7,000円也。もっとも孫の蓮はイチゴが苦手で摘んだイチゴを1つしか食べなかったんですが…)で過ごすことができました。

まあ、ちょっと渋滞に巻き込まれはしたけれど、近場の秩父へ孫たちと出かけたのは、正解だったということでしょうか。竹藪にニョキニョキ出ている竹の子に、大学生の翔も大興奮。孫たちだけでなく大人も楽しめた1日でした。もちろん帰ってすぐ、竹の子ご飯を炊きましたよ。堀り立ての竹の子は、味も香りも最高です。ぬかを入れて茹でた竹の子は、翌日近所にお裾分けしました。皆さんどんな風にして食べていただけたんでしょうか。

大型連休に入る前の4月28日、熊本県天草市(旧本渡市)の市立小学校で平成14年、臨時教員の男性が当時2年生だった男児の胸元をつかんで叱責した行為が、学校教育法の禁じる体罰に当たるかどうかが争われた訴訟の上告審があり、最高裁第3小法廷は、「教員の行為は体罰に当たらない」との判断を下し、体罰と認定して損害賠償を命じた1、2審判決を破棄して、原告側の請求を棄却しました。
これにより男児側の逆転敗訴が確定したことになります。具体的には、男性の臨時教員が「休み時間に女子児童をけった男児らを注意。男児が教員の尻もけったため、胸元をつかんで壁に押しつけ、もう、すんなよと怒った」ことにより、その後男児がPTSDを発症したということで、損害賠償を請求し、争われていました。報道の範囲内で考えれば、男児の行為も到底認められる行為ではなく、体罰が認められるかは微妙な事例でした。
ただ、1、2審判決で体罰が認められていただけに、それが逆転したことで、体罰の許容範囲が著しく広くなり、明らかに体罰と言えるようなことまでもが是認されるようなことが起こるかもしれません。とても心配です。

この件について、私の私的なブログ「専業主夫 大関直隆の“Live and let live.”」で取り上げたところ、@niftyのブログサイト「ココログニュース」(http://news.cocolog-nifty.com/cs/article/detail/blog-200905071657/1.htm)に私のブログが紹介されました。ご興味のある方は、ぜひ一読してみてください。

例年になく何かと騒がしい大型ゴールデンウィークでしたが、皆さんはどんな過ごし方をしましたか。大人にとってはちょっと疲れたゴールデンウィークだったかもしれないけれど、子どもたちとふれ合うとてもいい機会になったんじゃないでしょうか。
(文:大関 直隆)

2009/04/27(月)
第355回「草g君にいったい何が…」
23日、ショッキングなニュースが飛び込んできました。
「草g剛、公然わいせつで逮捕!」
その後、逮捕現場近くの自宅の家宅捜索まで行われたということで、国内だけでなく韓国まで大騒ぎになりました。

酒に酔って、公園で全裸になり大騒ぎをした、ということのようですが、家宅捜索は、最近の頻発する大麻事件を受けてのものだと思いますが、本人の尿から薬物反応もなかったということらしいので、いくら芸能界に薬物事件が多いとは言え、捜査に対する「ちょっとやりすぎ」の批判は免れないようにも思います。

刑法第174条(公然わいせつ)は、次のように規定しています。
「公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する」

広辞苑によると「公然」とは「@おおっぴらなさま。一般に知れわたったさま。おもむき。Aある事柄を不特定多数の人または利害関係ある人に秘密にせず、明白な形式でするさま」とあります。法律用語で「公然」という場合、基本的にはAの意味。深夜の公園で泥酔し、全裸になって騒ぐという行為が、果たして「不特定多数の人または利害関係にある人に秘密にせず」なのか、私の感覚ではちょっと疑問に思います。法律家ではないので、正確なことは言えませんけれど、「警察署に連行して、酔いを醒まして取り調べをし、”あんまり飲み過ぎて大騒ぎするんじゃないぞ”と諭して、無罪放免」そんなところでいいような気もします。

翌日の会見で、矢田次男弁護士が「自分の家と間違えていたのではないか」というような発言をしていましたが、「そんなことかもしれない」と私も思いました。非常に大酒飲みであった私の父のことを思うと、否定はできません。
大声で騒いだことにより、現場近くの住民が迷惑を被った以外、実質的に他に害を与えているわけでもなく、全裸を見て気分を害した人がいるわけでもなく、そんなことから言えば、刑法で罰するというのはちょっとやり過ぎじゃないでしょうか。まあ、有名すぎる人間の宿命ということもあるでしょうが。

とは言え、刑法で罰する、罰しないは別として、相当ひどいことであるということは間違いありません。普通の人が、いくら酒を飲んだからといって、みんな全裸になって騒いでしまうわけでもありませんし、いくら酒飲みだとはいえ、そこまで酒を飲んでしまう人が多くないことも確かです。
あまりにも売れっ子過ぎて、おごりが出たということもあるかもしれませんし、自分を見失うことの多い芸能界で、大きなストレスを抱えていたのかもしれません。いずれにせよ、社会に大きな影響を与える人物だけに、もっと自覚を持って生活してもらいたいものです。

さて、この事件を通して私が強く感じたのは、日本という国は、子どもに対して社会的ルールをきちっと教えていない国だなあということです。特にタバコや酒ということに関していえば、法律で規制されているにもかかわらず、妙に寛大です。
「おれも子どものころからよく酒を飲んでたんだぞ、だからおまえも飲んでみろ」
「おまえも1本どうだ?」
なんて言って、子どもにお酒やタバコを勧めている人はいませんか。20歳になるまでは、禁止されているわけだから、未成年者に勧めたら、勧めたものも罪に問われます。
家族で居酒屋などに行って食事をしている人たちの中には、明らかに未成年と思われる者に、酎ハイなんかを飲ませている家族も見受けられます。親が子どもに飲ませていると、店員が注意をするのも難しいですよね。自らお酒の強い人、タバコを吸う人には、そういう点にルーズな人が多い気がします。

最近、資産運用を子どもに教えようという気運が高まっています(どうもここのところの金融危機で腰砕けになってきてもいるようですが)。資産運用は、純粋に個人の問題。今回の草g君の件については、幸いに直接被害を受けた人はほとんどいませんでしたが、酒は他人に被害を与えることもしばしばです。タバコも受動喫煙の問題や吸い殻のポイ捨ての問題等で多くの人を非常に不快にさせています。「おまえが大きくなったら一緒に酒を飲むのが楽しみだ」なんて子どもに言う前に、酒やタバコがどれくらい人に迷惑をかけるかということをまずしっかり教えて、それから楽しいお酒の飲み方、タバコの吸い方を教えてみたらいいんじゃないでしょうか。

草g君は会見の中で今回の件についてはかなり反省しているようでした。けれども、最後は結局「お酒は美味しいものなので大人の飲み方をして楽しみたい」というようなことを言っていました。あらあら、こんな大騒動を起こしておきながら、たった一日経った会見でそんなこと言ってていいのかなあという気もしました。「二度とお酒はやらない」それくらいの覚悟をもってのぞまないと、同じような事件を起こしてしまうんじゃないでしょうかねえ。ちょっと心配ですね。
(文:大関 直隆)

2009/04/20(月)
第354回「学校は子ども気持ちを受け止められるか」
孫たちの新しい学年がスタートして10日あまりが経ちました。
今年は孫の蓮(れん)が2年生、沙羅(さら)が1年生。4月8日が始業式、9日が入学式でした。私の子どもたちが通っていたとき、PTA会長を何年かやらせていただいた関係で、来賓として入学式の招待状をもらいます。
去年の蓮の入学式には、孫の祖父という形で、保護者席で出席させてもらいましたが、今年は来賓として参加させてもらいました。
本来PTA活動というのは、その年その年の構成メンバーがその時代の実情に応じて活動するべきと考えているので、会長をやったあとに来賓としてお邪魔させてもらうのは、お世話になった校長先生や教頭先生がまだ異動にならない2〜3年と私自身の中で決めているので、それ以上あとに来賓として参加してこなかったんですが、昨年孫が入学し、運動会の招待状をいただいたにもかかわらず、知らんぷりして保護者席にいるわけにもいかず、昨年の運動会から来賓として出席させてもらうようになりました。そして、3月の卒業式、今回の入学式。

時の流れとともに、入学式の形態も大きく変わるもので、私が会長をしていたころは、来賓として参加するのは、PTAの三役だけ、児童が全員会場を出た後に、保護者だけを残して、会長、副会長からPTAの組織についての説明をし、入会の呼びかけをさせてもらっていた(形式的には入会は強制ではなく任意という形を取っていたので、必ず入会のお誘いをしていました。
もっとも私の知る限り、入会しない人はいませんでしたが)のですが、去年の式も今年の式も、来賓がいっぱい。式後にPTAの説明があったかどうかはわかりません(娘は何も言っていなかったので、たぶん何もなかったと思います)が、とにかく式の雰囲気は一変していました。
以前は、在校生が新しい仲間を迎える楽しい行事というイメージの式でしたが、今は全くの儀式という感じ。今年の式では緊張のあまりか途中で気分を悪くしてしまう1年生もいて、ちょっとかわいそうでした。

さて、うちの孫ですが、蓮は始業式の日、なんと朝4時に起きていました。学校に行きたくてしょうがないらしく、8時ちょっと前になると同じマンションに住むお友達のA子ちゃんが来るのを待ちかねて、「いってきまーす」と大きな声を出したかと思うと、後ろを振り返ることもなく、走っていってしまいました。まだ入学前の沙羅も、学童保育に行く関係で、その日も一足先に学校へ行ったのですが、兄の蓮と一緒に行こうと急いで着替えていたにもかかわらず、蓮のあまりの早さに付いて行けず、おいて行かれてしまいました。
「沙羅ちゃんも行くぅ、沙羅ちゃんも行くぅ」
と大声でぐずっていましたが、しばらくすると自分の着替えが遅かったことに納得したらしく、ニコニコしなが、母親と学校へ出かけていきました。
小学校の1、2年生なんて、こんなに純粋に学校に行きたいんですよね。いつから、いったい学校が楽しいところではなくなってしまうのでしょうか。
2、3日経ったところで、「蓮に学校は楽しい?」と尋ねたところ、ちょっと暗い顔になって、
「おもしろくない」
と言っていました。担任の先生が怖いんだそうです。
どうも学校というところは、教師の言うことを聞かせるということを中心に考えているようで、最初に子どもたちになめられてはいけないと、「まず一発かましとけ」とばかり、脅したり、怒鳴ったり…。こんなに学校へ行きたい子どもたちなんですから、「学校は楽しいところだよ」と子どもたちの気持ちを受けとめてさえくれれば、子どもたちも荒れることなく、よく言うことも効くんですが、そこまでの力量がある先生は少ないんですかねえ。残念なことです。

入学式のあいさつの中では、校長先生も沙羅の担任の先生も「楽しいところだよ」と子どもたちに向かって話しをしました。
本当にそうならいいんですが、2年生の懇談会の席上、体操着に「1年×組」と書いてあった子に「××君は1年×組に行きなさい」と先生が指導したということを保護者に対して披露したというようなことを娘が言っていましたので、その話を聞いただけでも、始まって早々子どもたちにとっては、楽しいところではなくなっているんだろうと想像はつきます。まだ2年生が始まったばかり。

「1年×組」と書いてあったとしても、そのことで授業に支障をきたすはずもなく、おそらく本人も気にしていただろうに、それに追い打ちをかけてしまったわけですから、その子と先生の間の信頼関係というものは、大変築きにくいものになってしまっただろうと思います。
そういうことの積み重ねが、将来不登校を生んだり、荒れる子どもを作ったりするということをもっと教師も学ぶべきですね。自分の学年を過ぎてしまえば、関係が切れてしまうという学校の仕組みの中では、あまり将来のことを気にしなくなっているのかもしれません。

このままずっと蓮も沙羅も学校へ行きたいという気持ちが続いてくれるといいんですが、はたしていつまで持続するんでしょうか…。
(文:大関 直隆)

2009/04/13(月)
第353回「サン・テグジュペリ 星の王子さま その2」
− 前回からのつづき −

自分の子育てに疑問がわいてきた私…

「ならわしって大事なんだ」
キツネが言いました。
「ならわしって、なに?」
という王子さまの質問に答えたキツネの言葉を、河野万里子氏は、
「ある一日を、ほかの毎日とはちがうものにすること、あるひとときを、ほかの時間とはちがうものにすること」
と訳しています。サン・テグジュペリの書いた原文を私は知らないのし、私に翻訳する力はないので、訳としてこの表現がいいかどうかはわかりませんが、この後に続く
「ここの猟師たちにはならわしがある。
毎週木曜日には、村の娘たちと踊るんだ。だから木曜日は天国さ! ぼくはブドウ畑まで、のんびり散歩にでかけられる。でももし猟師たちが、行きあたりばったりにしか踊らなかったら、毎日がみんな同じようになって、ぼくは少しも休日が取れなくなっちゃうよ」
と例を引いていることを考えると、「ならわし=ある一日をほかの毎日とはちがうものにすること。あるひとときをほかの時間とはちがうものにすること」という表現よりは、一般的に言って「決められたある一日、決められたあるひととき」というイメージで捉えていることがわかります。
河野氏は「ほかとはちがうものにする」という表現の方がより文学的と考えたんだと思います。いや、サン・テグジュペリが、そういうわかりにくい表現を用いたんですね、きっと。

私にとって、このキツネの「ならわしって大事なんだ」という言葉はとってもインパクトのある言葉でした。
どうも私の子育てには、「ならわし」はなかったのではないか…。

もちろんかなり強いはっきりとしたポリシーは持っているのですが、サン・テグジュペリの言う「ならわし=決められたこと」というメッセージを子どもたちに送ってきたかというと、ちょっと自信がなくなります。
私も妻も、どちらかというと保守的に物事を考える方なので、「事柄としてのならわし」、たとえば「レストランではネクタイ着用」のようなことは、教えてきたと思うのですが、サン・テグジュペリが言っているのは、どうもそういう「事柄としてのならわし」ではなく、「時間や空間としてのならわし」なんだろうと思います。
王子さまはキツネと出会う前に、砂漠で「花びらが三枚だけの、まったくなんでもない花」に出会います。
「人間たちはどこにいるんでしょう?」
という王子さまの問いに、その花は、
「もう何年も前に見たわ。でもどこにいるかは、さっぱり。風があちこち連れていくのよ。根がないんだもの、ずいぶん不便でしょうね」
と答えます。

おもしろい発想ですよね。普通に考えれば、「根があって動けないから不便」と考えると思うのですが、まったく逆の発想になっています。これは、「ならわし」と同じ発想だと思います。「ならわしがあって、自由ではないから困る」が普通の発想なんでしょうが、そこでも「ならわしは大事」となる。
よく読んでみると、この「根」や「ならわし」によって恩恵を受ける「根」があったり、「ならわし」があったりする側ではなくて、その周りのものたちなんです。そこがポイントですね。

子育てには、この「根」と「ならわし」がとても大事です。それは、子どもに安心を与えるからです。「もし、風があちこち連れていって親の居場所が不安定だったら、どこに帰れば親がいるのかわからなくなって、とても不安になる」、「もし、親の行動にならわしがなかったら、子どもも自由に飛び回れないし、待っている楽しみもない」。
親に「根」があり、「ならわし」があってこそ、子どもは安心して、自由に冒険が出来る。そんなところに子育ての本質があるように思います。

カウンセリングや教育相談にみえる多くの方たちの相談から、ふっと「星の王子さま」の「根」の話を思い出し、久しぶりに「星の王子さま」を読みました。どうもこの本は、読む年齢によっていろいろと考えさせられることの多い本です。

そうそう、「根」と「ならわし」が大事だからといって、間違っても子どもに根をくっつけたり、ならわしを作ったりしないでくださいね。恩恵を受けるのは周りですから。学校ではよくやっていますけどね。「根」があるのも、「ならわし」があるのも大人の方ですよ。
(文:大関 直隆)

2009/04/06(月)
第352回「サン・テグジュペリ 星の王子さま その1」
先週の日曜日。
「蓮くん、今日はどこ行くの?」
「映画!」
「いいねえ」
「うん! 映画見てね、それからどこかでお食事してから帰ってくるよ。だから、じいちゃんも、ばあちゃんも、お仕事のあとどこかで夕飯食べて来ちゃっていいよ」
「そう。じゃあ、帰って来てから映画のお話、聞かせてね」
「うん!」
孫の蓮と沙羅は、娘の麻耶に連れられ、出かけていきました。
そして今日。
「蓮くん! 今日はどこ行くの?」
「今日はね、茜ちゃんとバーベキューだよ」
「ふーん。楽しそうだね?」
「うん!」
「どこへバーベキューに行くの?」
「わかんない。じいちゃんとばあちゃんは、何時ごろ帰ってくる?」
「うーん、そうだなあ、7時ごろかな?」
「うん、わかった」
「おうちに帰ってきてから、いろいろお話、聞かせてね」
「うん!じいちゃん、ばあちゅん、行ってきます!」
蓮も沙羅も、とても楽しそうに出かけて行きました。

つい先日、ドイツの劇場でダンサーをしている長男の努から電話があり、今年は7月25日から2週間ほど帰国するとのこと。
努からの電話を切ったあと、翔が生まれる前はずいぶん子どもたちをいろいろなところに連れて行ったねという話になりました。
今の家に越してきたのが26年前。4人の子どもたちとの生活はかなり苦しくて、義母にもずいぶん助けてもらいましたが、住宅ローンの夏のボーナス加算が払えそうになくて、急遽伊勢丹のお中元の配送のアルバイトをしたこともありました。
お金がないので、そのころではまだ珍しかったワンボックスカー(今と比べるとびっくりするほどの内装や装備で、よく職人さんたちが乗っている業務用のワゴン車のシートが布になっているだけのようなものでした)で出かけては、川原でバーベキューをしたり、おにぎりを持ってハイキングやピクニック、といった遊びばかりでしたが。
もちろん、今のようにオートキャンプ場などまったくありませんので、山の中のパーキングに車を止めて、座席をフルフラットにしては車の中で寝るなんていうこともしばしばでした。それがまた私や妻、子どもたちにとってもとても楽しくて、いい思い出になっていますし、またそんな遊びの中から、私も子どもたちも様々なことを学んだ気がします。
翔が生まれたあとは、陶芸教室を始めてしまったり、麻耶が命に関わるような腎臓病を患ったり、長女の弘子と努が家を出て生活するようになったりしたため、めっきり頻度が少なくなってしまいました。

そんなことを思い出しながら、蓮と沙羅にもバーベキューとかキャンプとかさせたいねえという話になったので、どうやら麻耶も蓮と沙羅をバーベキューに連れて行くことにしたのではないかと思います。

「なんかあいつら、全然家にいないねえ。この前、バーベキューの話なんかしちゃったから、今日はバーベキューになっちゃったんだろうけど、家でゆっくり過ごすっていう休日も大切なんだけどね。どうも麻耶は子どもをどこかに連れて行くことばっかり考えていて、落ち着かないねえ。子どもたちが振り回されてる感じ」
妻とはそんな話になりました。

私も、突然「おい、出かけるぞ!」と、蛍の時期になると「これから蛍を見に行こう」なんて言っては、諏訪の方まで出かけたり、流星群が見えるなんていうと夜中に子どもを起こしては真っ暗闇を探して、日光の方まで行ってしまったりするような性格だから、娘も真似をしている部分もあるのかもしれません。もっとも出かける場所はまったく違うんですが。

サン・テグジュペリ「星の王子さま」(河野万里子訳・新潮社刊)の中で、前日に続いて王子さまがキツネのところにやってくるシーンで、キツネは王子さまにこう言います。
「同じ時間のほうがよかったんだけど」「たとえば、きみが夕方の四時に来るなら、ぼくは三時からうれしくなってくる。そこから時間が進めば進むほど、どんどんうれしくなってくる。そうしてとうとう四時になると、もう、そわそわしたり、どきどきしたり。こうして、幸福の味を知るんだよ!でも、きみが来るのが行きあたりばったりだと、何時に心の準備を始めればいいのか、ちっともわからない……ならわしって、大事なんだ」
うーん、なるほどぉ。
私は子どもをこう育ててきたかなあ?
自分の子育てにちょっと疑問がわいて…

つづく
(文:大関 直隆)

2009/03/30(月)
第351回「いよいよ4月、コンパの季節」
「おい翔(かける)、おまえ勧められても酒飲むなよ」
「うん」
「大学入ると、すぐ新歓コンパだとかいって、飲み会あるだろ。まだ二十歳になってないんだから、酒飲むっていうのも変な話しだけど、二十歳になってないってことより何より、一気飲みなんかしたら命に関わるんだからな」
「うん。だいたいオレ全然飲めないと思うよ。飲んだことないけど、梅酒の梅とか食べてもドキドキするし、ワインゼリーみたいなもの食べても、なんか酔っぱらったみたいな感じするもん」
「親が二人とも飲まないから、おまえもそんなに飲めるわけないよな。お母さんなんか、奈良漬けとかパウンドケーキに入ってる洋酒漬けのフルーツとかで酔っぱらって眠っちゃうくらいだからな」
「うん。そう思う」
「うちで塾やってたころ、お母さんが帰ってきた声がしたと思ったら、少しして真(まこと)が突然勉強教えてる部屋に入ってきて、”大変だよ、大変だよ!お母さんが倒れてうなってる!救急車、救急車!”って騒いだことあったけど、お母さんのそばまで行って顔を覗き込んだら、真っ赤な顔してすごい早さで大きな息をしてる。
で、”どうしたの、大丈夫?うちに帰ってくるまではなんでもなかったんでしょ?うちに帰って来てから何やったの?”って聞いたら”寒かったからガス台の上の鍋に入ってた甘酒をカップに3杯飲んだ”って言うだよな。
ほんとに救急車呼ぼうかと思うくらいの状態だったけど、”あっ、絶対それだ!”っていうことになって、”真、水!水をコップに持ってこい!って、いっぱい水を飲ませて酔いを醒まさせたことがあった。
酒粕で作った甘酒なんて、そんなにアルコールが入ってるわけ ないのにそんな状態だろ。おまえも似たり寄ったりだと思うぞ。真だって、3歳くらいの時に、一升瓶に入ってる100%の葡萄ジュース飲んで真っ赤になっちゃって大騒ぎになったことあるからなぁ。おまえもそういう遺伝子持ってるっていうこと忘れるなよ」
「うん。たぶん同じ。そんな気がする」

その時の翔はまだ18歳。大学で行われる公式な新歓の会などではもちろんお酒はなし。学生同士の飲み会があったかどうかは知らないけれど、年齢のこともあり飲めないこともあり、どうやらいつもウーロン茶かコーラくらいにしているとのことでした。
翔は誕生日が4月なので、翌年1月の成人式までにはだいぶ間がありました。
私も妻も飲まないことから、誕生日が来たからといって、翔もすぐに飲み出すということもなく成人式に。中学の同級生が集まる成人式は、だいたいどこでも飲みつぶれる子が出るくらい飲むのが一般的。
成人した子にとやかく言うのもあまりいいこととは言えないけれど、改めて翔に、「おまえは飲めないんだから、誰になんて言われようと一気飲みなんてするんじゃないぞ」と念を押しました。
ゴルフをやっている関係で、ボロ車ながらとりあえず翔専用の車というのがある翔は、どうやらお酒を飲むより車の運転の方が好きらしく、どこへでも車で出かけます。親としては事故も心配ですが、とりあえず一気飲みの心配は半減。あとは卒業のコンパと就職のコンパをクリアすれば一気飲みの心配だけはほぼなくなるかなあ…。

一気飲みで子どもらを亡くした家族でつくる「イッキ飲み防止連絡協議会」の調査によると、昨年の一気飲みによる急性アルコール中毒での死者は、全国で学生も含め5名で、92年の協議会発足以来3番目に多いとか。人に何かを強要するのはいじめにも等しく、場合によっては死を招くということを、きっちり教える必要があるのだろうと思います。

人と話をしているとよくお酒の話しになり、「大関さんは全然飲まないんですか?それじゃあ人生の楽しみが一つ少ないですねぇ」という言われ方をすることがあります。私にとっては「はあ?」という感じ。お酒を飲みことを楽しみと考えるのは飲む人の理屈。飲まない私にとってはお酒を飲むことは楽しみでもなんでもない。そこがなかなか飲む人にはわからないらしく…。

自分が飲むとどうしても飲むということの危険性には疎くなりがち。急性アルコール中毒もあり、アルコール依存症もあり…。私の父も一昨年亡くなるちょっと前に、認知症のような状態になり、母が市の相談会に出かけると「それはおそらくアルコール性の脳萎縮症でしょう」とその日の担当医に言われてしまいました。「酒は百薬の長」とは言われても、そこまで飲んだらただの害。
まだまだ成人に達しない子どもに対して「おまえも飲むか?」は禁句。そんな安易な言葉が子どもを死に近づけているかもしれませんよ。

間もなく迎える年度の変わり目は要注意。自分のことは自分で守れる意志の強い子に育てましょうね。
(文:大関 直隆)