大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。 |
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2009/03/23(月) |
第350回「ほめて育てることの落とし穴」 |
「久しぶりに沙羅を幼稚園に送っていったら、園庭まで行ったとき、急に後ろに隠れちゃうんだよ」
「なんで?」 「なんでだろうって思うでしょ?!私も何やってんだろうと思って後ろを見たら、園服のボタンを一生懸命掛けてるわけよ。そこへ行くまでは園服に手は通してたけど、羽織っただけで、ボタンは掛けてなかったのに夢中でボタンを掛けて、全部掛け終わったと思ったら、今度は帽子を何度も何度もかぶり直してるの。そのうち納得がいったらしく、ようやく後ろから出てきたんだよね」 「へーっ。なんでそんなことしたんだろ?」 「それがねえ、沙羅が言うには、先生にほめられたいんだって」 「えっ、何それっ?」 「ちゃんとしてるとほめてくれるんだって。だからほめられるために先生に見えないところで、園服のボタンをかけ直したり、帽子をかぶり直してるんだってさ。先生の近くに行くときは、ほめてもらえるようにきちんとしたかっこで行きたいんだって」 「ふーん。なるほど…」 「沙羅があんまり夢中になってやるから、ちょっとびっくりしちゃった」 「”子どもは怒って育てるんじゃなくて、ほめて育てる”ってやつね」 「そうそう。そうらしい」 「”ほめて育てれば、子どもはのびのび萎縮しないで育つ”っていう錯覚があるんだよね。全然そういうことじゃないんだけどね」 「そうだよね」 「”ほめる”っていう行為自体が悪いわけではないけれど、”ほめる”っていう行為を何か意図を持ってやったら、”怒る”っていう行為とさほど変わらないことになっちゃう。沙羅のそんな様子からするとその典型みたいな感じだね。”ほめられるからやる””ほめられたいからやる””ほめられないからやらない””ほめられないならやらない”そういう構図だよね。なんのためにボタンを掛けるのか、なんのために帽子をかぶるのか、そんなものはどこかに飛んじゃって、”ほめられるからやる””ほめられたいからやる”ただそれだけのことになっちゃってる。もっとも園服にも帽子にもそれほどの意味があるわけじゃないけどね。いやいや、だからもっとたちが悪いっていうことかな?結局、ちゃんとしないと怒られるから、ボタンをちゃんと掛けて、帽子をちゃんとかぶってっていうのと何も変わらないもんね」 「まったく」 ”ほめる”という行為は、ほめる側がほめられる側に対して”すごいなあ””えらいなあ”という感動や驚きがあって初めて成り立つわけで、何かをやらせるために”ほめる”という行為をすれば、ほめられる対象となった行為はもともとほめられる側の自発的行為であったわけではないわけだから、本来の”ほめる”という意味をねじ曲げてしまうことになります。 この時点で、”ほめて育てる”という行為は、単に大人の思惑通りにやらせるという手段でしかなくなってしまい、”結局やらされているだけだ”と子どもが気づいたときには、”やらされてよかったなあ”(例えば”小さいころ歯磨きは嫌だったけど、やらされたことで虫歯にならずにすんで今となっては嫌な歯磨きをやらされてよかったなあ”というような)と思わない限り、”騙されてやらされた”ということになり、”怒って育てる”以上に、子どもの心に大きな傷を負わせることにもなりかねません。 子育ての基本中の基本は、子どもに対して”誠実”であること。”ほめて育てる”、何となく心地よい言葉の、落とし穴にはまらぬよう、テクニックではなく”心”で子どもと接してあげてくださいね。 |
(文:大関 直隆) |
2009/03/16(月) |
第349回 「理想の家庭像ってなんだったっけ?」 |
「おいくつでいらっしゃいますか?」
「36歳です」 「そうですか。だったらとってもいい年齢ですよ。36歳っていうのは一番お見合いの申し込みが来やすい年齢なんです」 「ふーん」 「30代半ばから後半っていった辺りに申し込みが来る山があるんですよ」 「へーえ。何でですか?」 「子どもの関係ですよね」 「ふーん」 「みどり(仮名)さんは、結婚したらどんな家庭を作りたいと思ってますか?」 「うーん、私はね、バーベキューとかが好きなんですよ。だから川原に行ってみんなでわいわいやったり、オートキャンプ場に泊まったり…。そんな楽しい家庭が作りたいですね」 「なるほど…。そんな家庭像を描いている人って多いんじゃないかと思いますよ」 「そうですかねえ?」 「ええ。今、みどりさんがおっしゃってる家庭像っていうのは、ごく普通の家庭像だと思います。バーベキューやオートキャンプみたいなものが好きか、リゾートホテルや温泉旅館みたいなものが好きかは別として、皆さん、明るくて楽しい家庭を想像してるんじゃないですかねえ。ほとんどの皆さんがそうだと思いますよ。 それって、家族の中に子どもがいるって考えてますよねえ?夫がいて子どもが2〜3人いて、家族で楽しく過ごしている、そんな情景を頭の中に漠然と描いている。もちろん、年配の人で登録している人は全然別ですけど、”早く結婚しなきゃ”って焦っている人や親からやいのやいの言われている人っていうのは、全員とは言いませんけど、ほとんどそうなんじゃないですかねえ。それには、年齢的な上限があって、一般的に考えてぎりぎり30代っていうことになるんですよね。 40代になってからの初産っていうのもないわけではないけれど、やはりリスクが高い。うちのような結婚相談所で、条件から検索していくような場合には、そういうリスクは避けますよね。検索するための条件をコンピューターに入力するとき、年齢の幅を広く考える人でも”30〜40歳”って入れる人が多いんですよ。 もともと30代、40代の男性が多いですし、それだけじゃなくて、もっと年齢の高い男性、例えば私くらいの52歳とかあるいは55歳とか、それくらいの人でも初婚はもちろんですけど、バツイチの人で子どもを持ったことがないとかいう人だったら、上限はまず40歳くらいっていうことで検索すると思います。だから36歳っていうのは、それにぴったりな年齢なんです。20代っていうのも今度は若すぎて、選ばれにくいんですよ。20代でいきなり結婚相談所っていうのも、なんかあるんじゃないのって勘ぐられたりしますよねえ」 「ああ、そうか…」 「子どもがいるか、いないかっていうのは、そういう家庭像を大きく変えてしまうので、40歳までに結婚するかしないかっていうのは、80歳まで生きるとして、残りの40年がまるで違うものになってしまうんですよ。もちろん、子どもを作らないとか、子どもが出来ないっていう人生もあると思いますけど、結婚相談所のようなところに来る30代〜50代くらいの人は、みどりさんと同じような家庭像が頭の中にまずあって、それで結婚を考えている人が多いので、あまりいい言い方ではないけれど、”今が勝負”ってそんな感じですよね」 カウンセリング研究所の業務の一部として、結婚相談も行っているんですが、ご相談にみえる方のほとんどが、30代半ばから後半の女性です。ご本人も、ご両親も「子ども」を意識していらっしゃるということがよくわかります。実際子どもを持ってみると、自分が子どもを持つ前に描いていた家庭像の中に、無理矢理子どもを当てはめようとしてみたり、また、それとは逆に子どもに振り回されて、まったく思い描いた家庭像にならなかったり…。 いろいろなケースがあると思いますが、もし子育てに悩んだら、初心に返って、結婚前の理想の家庭像を思いだし、ちょっとリセットして、改めて理想の家庭像を目指してみるのもいいかもしれません。 |
(文:大関 直隆) |
2009/03/09(月) |
第348回「理由が論理的」 |
「この論文の試験、”あなたの考えを書きなさい”っていう問題ですけど、”あなたの考え”だから、”私の考え”を書けばいいんですよね?」
「そうですよ。論文の試験だから、別に”引っかけ問題”っていうわけじゃないので、裏があるわけじゃないし…。素直に”あなたの考え”を書いてくれればいいです」 「じゃあ、なんでも好きに書けばいいわけですよねぇ?私の考えを」 「そうですね」 「でも、先生の考えと違ったらどうするんですか?」 「もちろん、違ったっていいですよ。”あなたの考え”なんだから。私の考えと同じなら”いい点”、私の考えと違ったら”悪い点”、そういうわけじゃありません。 重要なのは、様々な情報を客観的な事実とそうでないものに振り分けて、それをあなたが自分の中で消化して、どう考えをまとめるかということです。 最近はコメンテーターが出てくるような番組の中で、皆それぞれ勝手なことを言っていますよね。どれが事実って言うわけでもなく、それぞれの自分の立場で都合のいい考えを述べているわけです。 それをあたかも”考え”ではなくて、”事実”と捉えてしまってものを考えたら、間違った結論になってしまいますよね。物事を正しく判断するには、何が真実かをきっちりと見極める必要があります」 「はあ…。この資料は、新聞か雑誌のようなものの記事だと思うんですけど、この資料には”最近のダイエット志向はよくない”って書いてありますよね。うちでは、私は自分もダイエットをしてるし、娘もダイエットをしてるんです。女性はスリムな方がきれいじゃないですかぁ。だから別に悪いことをしてるとは思ってないんですけど、”この記事は間違ってる”って書いちゃっていいんですか?」 「そうですね。記事に対する批判を書いてくれても一向にかまいませんけれど、”どうしてこの記事は間違っているか”あるいは”どうしてこの記事に反対なのか”っていう論拠をきちっと示してくださいね。 例えば、”女性はスリムな方がきれいだから”なんていう理由じゃダメですよ。”スリムな方がきれい”っていうのは、”事実”じゃなくて、それが”あなたの考え”そのものでしょ。それでは、事実に基づいた論理の展開ということにはならないんですよ」 「はあ…」 「あとは、記事のテーマをしっかりと捉えているかですよね。この前やった”彼女の豪快な笑い”についての記事に対して”我が家はいつも笑いが絶えない”なんて書いてくれてもダメなんですよ。自分の考え以前の問題でしょ、記事のテーマを間違って取ってしまったら。だから、問題の意味を正確に把握することも大事になるわけですよね」 「はあ…。むずかしいですね」 うちの関連団体のNPO法人でカウンセラーの認定試験をやっています。受験生がいつも苦労するのが論文の問題。出題する側は、いかに客観的基準で、いかに公平に点数を付けるかということで苦労しているわけですが、空欄補充のような問題と違って、文字さえ書いてマスを埋めれば見栄えはそれほど悪くないし、”自分の考え”なんだから何を書いてもいいと思って、とりあえずマスを埋めるだけで、”うまく書けた”と思っている人がたくさんいます。 もちろん、”考え”が採点者と違っても、論文ですからきちっと根拠が示されて、論理的展開がされていれば高得点になるのは当然です。けれども、”論文の試験はそういうことだ”と理解するには、何度も何度も論文を書くこと、様々な論文を読み比べてみることしかないのではないかと思います。また、出題をする側も、どんなテーマで、どんな評価の仕方をしたら、正しい評価が出来るのかということを、常に意識して問題を作る必要があります。 先日、熊本県の中学2年生向けの社会科の学力テストで、「川辺川ダム建設計画は1969年に始まったものの、賛成・反対派双方の意見に決着がつかず、いまだに解決の見込みがありません。あなたは、この川辺川ダムの建設に賛成しますか、反対しますか。賛成・反対いずれかに丸をつけて、その理由を書きなさい。」という問題が出題されたそうです。 事実、熊本県内では大問題になっているまさにそのダムの話しです。熊本県中学校教育研究会社会科部会が作成した問題だそうですが、県教委が「関係者の心情を思うと不適切。判断の根拠となる資料もなく、出題は配慮を欠いている」と批判したため、同部会会長も「配慮を欠き不適切だった」と述べているんだそうです。 理由が論理的かが採点のポイントで、配点は50点満点の1点ということなので、まあそんなものならいいかという気もするし、暗記ばかりで社会問題にとても疎い子どもたちが多い中、様々な問題に目を向けさせるという点では意味がなくはないのかなあという気もします。 けれども、テストという性格を考えた場合、出題者はどこまでも客観的で公平な基準というのを考えるべきです。 とくに、この問題のように、賛成か反対か丸をつけさせるということになれば、テスト慣れをした中学2年生は、あたかもディベートのような”理由が論理的”という採点基準を考える前に、賛成が正解なのか、それとも反対が正解なのかと迷ってしまって、論理的思考までたどり着けたかどうか…。学校でこういうものを扱おうとする意気込みというか、姿勢というか、そういうものはわからなくはないけれど、形が違うんじゃないの?と言いたくなります。 子どもたちに何を与え、どう育てるか、まだまだ議論が足りないし、生徒に接する教師の対応の甘さというものも感じます。子どもたちに論理的思考を求めることも大切ですけれど、教師の行動、対応にも、もっと論理性を追求してもらいたいものですね。 |
(文:大関 直隆) |
2009/03/02(月) |
第347回「花の咲かない植物はない?」 |
10日ほど前、7階のカウンセリング研究所の研修室で、カウンセラーの資格取得の講座に訪れている研修生の皆さんと話をしていたとき、ふと窓のそばに置いてあるドラセナ(アフリカ原産の観葉植物で、多くの種類があるそうですが、日本では「幸福の木」と言われる「フレグランスマッサンゲアーナ」がポピュラーです。「幸福の木」の由来についても様々あるようですが、興味のある方はネット上で検索してみてください。)を見ると、葉っぱの一番上のところが、なんだかちょっと変なことに気付きました。
「ん〜っ?」 最近近視が進みよく見えなくなった目をこらして、一生懸命見てみました。見れば見るほどなんだか変。ドラセナの葉っぱは先がとがっていて、顔を出したての新芽は、ちょうど水芭蕉の花(あの白いところ。葉っぱの変形したものらしいですね。 本当の花は真ん中のトウモロコシの芯みたいなやつです)のような形をしたものがまっすぐ上に伸びる感じになるんですが、なんだかどうも幹のような、棒のようなものが真ん中から出ているように見えます。 「ん〜っ?」 研修生とのレッスンが終わり、なんだろうと疑問を持った私は、近づいてよく見てみました。 「あっ、これって花?! えーっ! ドラセナって花咲くのぉ?!」 「花の咲かない植物はない?」いえいえそんなことはなくて、ちょっと調べてみると、植物には「花の咲くもの」と「花の咲かないもの」があるっていうことがわかります。もちろん、ドラセナのような植物は、「花の咲くもの」に分類される植物(花が咲いたって言ってるんだから当たり前ですよね)。きっと、原産のアフリカでは当たり前に花が咲いてるんでしょうね。とは言え、長年我が家にもドラセナがありますが、花を見たのは初めてです。 「幸福の木」に花が咲くなんて、今年はいいことあるのかも…。 そうそう、そう言えば、テーブルヤシも花が咲くっていうこと知ってました? やはり7階にあるテーブルヤシが、2カ月ほど前から花のようなもの(まったく花らしくはなくて、緑色の種かなあと思うようなものですが、ネットで調べてみたらだんだん黄色っぽい花になるみたいです)を付けているんです。 3年くらい前かなあ?たしかビニールの小さな黒いポットに入ったものを120円で買ってきました。ポットが小さくて不安定だったので、少し大きめの植木鉢に植え替えて育てていました。 どうやら、鉢を大きくすると株全体の大きさも大きくなるらしいです。「ちょっとテーブルの上に」とか「サイドボードの上に」なんていう飾り方をするなら、鉢を大きいものにせず、株が大きくならないようにしておいた方がいいみたいですね。 そういう意味では失敗の育て方なのかもしれません。ネットで調べたらとても勉強になりました。 それぞれ写真をお見せできるといいのですが、お見せできないのが残念です。 うちのカウンセリング研究所に教育相談にお見えになる皆さんは、最初とてもくらい顔をしてお見えになります。大きな問題を抱えているお子さんも少なくなく、解決の糸口がなかなか見えないこともあります。 でも、ドラセナやテーブルヤシのように花が咲くなんて夢にも思っていない植物だって、気がつけば花が咲いています。じつは、花を付けたドラセナも瀕死の状態だったんです。根の腐った部分を切り取って、別な鉢に植え替え、そっと見守っていたら、一時は茶色くなっていた葉も緑の新芽を出し、ドラセナ自身の力で花を付けたんです。 毎日花を見る度に、「人間だって同じだよなあ」と思います。 どんなに瀕死の状態にあっても、周りが温かく見守っていれば、必ず自分自身の力で花を咲かせ実を結ぶ。生きる力、育つ力、そんな力が子どもたちにはある。今は、どんなに苦しい状態に置かれた子どもたちだって、そっと見守っていれば、必ず花を咲かせる。 ドラセナやテーブルヤシの花は、そんなことを私に教えてくれました。 |
(文:大関 直隆) |
2009/02/23(月) |
第346回「窓から差し込む太陽の光」 |
「どこで食事する?」
と聞く妻に、 「あそこのスパゲッティ屋さんはどう?」 と私が答えると、 「う〜ん…」 「じゃあ、ほら、あそこの地下になんか洋食屋さんがあるよ」 「う〜ん…」 渋谷の街をあちこち歩いているのですが、なかなか食事をするところが決まりません。どうも、こういう時の決断力は私も妻もほとんどゼロ。まあ、よく言えば、相手の気持ちを慮って、自分勝手に「ここにしよう!」「あそこにしよう!」と言わないということなんだけれど、それが行き過ぎると、食事をする場所を探して、30分も1時間も渋谷の街を、ただ当てもなくウロウロウロウロするだけになってしまいます。実際そんなことがないわけでもなく、ウロウロしているうちに、 「うちに帰って子どもたちと食事してやろうよ。今から帰れば、一緒に食べられるんじゃないの?」 なんてなってしまったこともあるし、 「車で来てるんだから、帰り道に、ほらほらっ!あそこのファミレスに寄ればいいんじゃないの?」 なんてなってしまったこともありました。 妻との店選びがいつも難航するのは、妻が雰囲気重視で選ぶのに対し、私は味重視で店を選ぶせい。とは言え、たまに渋谷の街に繰り出した(そんなこと言っても、お恥ずかしいことに最近では2、3年に1度だけどね。 この前渋谷に行ったときは、街がすっかり変わってしまって、どこをどう歩いているのかまったくわかりませんでした)としても、どこの店がどんな雰囲気で、どんなメニューがあって、どんなふうに美味しいかなんていうことはまったくわからないので、外観や外に出してあるメニューだよりということですけど。 妻がもっとも嫌うのは、地下の店。何度もここでも述べた通り、戦争の記憶が多少ある妻にとっては、細くて狭い階段を地下に下りていくのは、防空壕を思い出すと言ってNG。そして地下のお店には、窓がない。 外が見えないというのは、心に圧迫感を感じるらしく、どんなにそこが美味しい店だとしても、積極的に入ろうとはしません。もちろん、絶対に入らないということでもないんですけど、 「そこの立ち食いそばでいいんじゃない?」 となってしまうくらいに、嫌なようです。 でも、これは妻だけかというと、私もどこかしらそういう部分があって、例えば窓が広くて明るいレストランと、地下で窓のないレストランとのどちらか一方を選ぶとすれば、やはり窓が広くて明るいレストランを選んでしまうと思います。 人間は複雑ですから、もちろん、その時の気分と、その店のメニューにもよりますけどね。 きっと地下に潜るのが好きな人もいますよね。前世(私にはそういう感覚はないのですが、もしそういうものがあるとすれば)が熊みたいに冬眠する動物だったなんていう人とかね。一人しんみり飲みたい人も、きっと地下の飲み屋さんがいいのかな…。 まあ、これは飲食店の話。 それでは、子どものことを考えてみるとどうか…。 子どもの成長には、やはり広い窓から差し込む太陽の光が必要に思います。私は案外暗い部屋が好きだけれど、そんな私ですら、暗い部屋にいたいような心持ちの時に、太陽の光をいっぱいに受けると、それまで沈んでいたり凍り付いていたりするような自分の心が、太陽の力で溶かされていくように感じたりします。 不登校のお子さんに、太陽の光をいっぱいに受けさせるなんていうことを、治療と称して行っている方もあるようですが、治療という是非は別として、「本人が嫌でないなら、まあ確かに気分は変わるだろうなあ」とは思います。うちのクライアントさんでも、同じようなシチュエーションは、十分考えられますので。 「窓から見える青い空を眺め、太陽の光をいっぱいに受け止める」、そんなことって、子どもの大きな夢をはぐくむ一つの原動力かもしれませんね。 地下の嫌いな妻とのレストラン選びで苦労したこの日も、結局うちに帰って食事をすることに。帰ったところで大したおかずはなし。なんと納豆とのりと卵。かろうじて味噌汁を作って、質素な食事になりました。窓はあるにはあるけれど、そこから見えるのは青い空ではなく、隣の駐車場に止まった車の屋根。窓はあっても子どもの大きな夢ははぐくめないかもね。 |
(文:大関 直隆) |
2009/02/16(月) |
第345回「とうとううちの近くの不二家が…」 |
「今日のお母さんの誕生日、どこでやる?」
「蓮と沙羅は不二家でやりたいって言ってるよ」 「はっ、また不二家!?」 「うん、沙羅はもうその気になってるけど…」 「しょうがないなあ。じゃあ、7時に不二家な。翔(かける)にも連絡してみろよっ」 「わかった」 2007年の不祥事発覚以来、足が遠ざかっていた不二家。去年の夏くらいから「そろそろいいかな」っていう感じで、誰かの誕生日の時は不二家レストランを利用するようになりました。とはいっても誕生日以外は行かないので、7月の私の誕生日に続いてこの時(12月の妻の誕生日)が2回目。久しぶりの不二家です。帰りにケーキも買えるので、誕生日にはうってつけ。でも、不祥事って人の心を冷めさせてしまうんですね。どうしても普段は足が遠ざかってしまいます。あんなにファンだったのに…。 にもかかわらず、なぜ誕生日は不二家レストランかというと、誕生日だということを告げると、ろうそくを吹き消すためのケーキ(本物ではないので食べられませんが)と踊るペコちゃん人形を持ってきてくれて、店内には「ハッピーバースデイ」の曲が流れ、店内全体が誕生日を祝っている雰囲気になる(全員が拍手をしてくれるあの一体感は何とも言えない)ことが一つ。「本日、××さんがお誕生日を迎えられました。おめでとうございます!」という店内放送までしてくれます。そして二つ目は記念写真を取ってくれること。さらにさらに3つ目は誕生日の人には、デザートが付くこと。 六本木や赤坂、渋谷といったところの小洒落たレストランやパブなら当たり前のサービス(六本木のレストランでは、10人くらいの外国人スタッフがテーブルの周りに集まって、まるでオペラでも聴いているような声で「ハッピー バースデイ トゥ ユー」と店内全体に響き渡る歌を歌ってくれたところもあった)ですが、ファミレスとなるとやはり不二家。デザートのサービスだけではない、あのペコちゃん人形の踊りと歌に引きつけられてしまうわけです。 7時に全員が不二家に集合すると、おのおの好きなものを注文しました。不二家と言えばデザート。私は、ファミレス界では不二家とデニーズがデザートの双璧だと思っていますが、不二家の場合、食事はやや若者向きで私の年齢にはちょっとというところはあります。まあ、そう言う人が多いのか、店内は若いお父さん、お母さんに連れられた子どもたちが中心。明らかにおじいちゃん、おばあちゃん(顔がそっくりなのですぐわかる)と思える人が一緒のグループもあります。どうやらほとんどのグループが誰かの誕生日で来ているよう。店内放送は入らなくても、どこからともなく、ペコちゃん人形が奏でる「ロック、ハッピーバースデイ」が何度となく聞こえ、その度に「おめでとう!」という声が響きます。 でも、ちょっとお客さんが少ないのが気がかり。やっぱり不祥事が影響しているんでしょうか。元気なペコちゃん・ポコちゃんは、子どもたちも元気にするんですがねえ…。 2月12日は沙羅の誕生日でした。 「沙羅ちゃん、どこかで食事する?」 「うん。不二家!」 沙羅はそう言ったものの、長女の弘子夫婦が最近横浜からうちの近くに越してきたので、一緒にお祝いをということになり、ちょっと奮発してロイヤルパインズへ。ちょっと贅沢な誕生パーティになりました。 昨日、たまたまその不二家の前を車で通りかかりました。すると辺りはは真っ暗。窓にはベニヤ板が貼られ、閉店してしまっていました。 「閉店しちゃったんだね。この前来たとき、ちょっとそんな感じしてたんだよね。沙羅の誕生日には、もう閉まってたのかねえ。閉まってるところに来ちゃったら、がっかりするところだったねえ」 ドラえもんやアンパンマンやその他の様々なキャラクター同様、ペコちゃん・ポコちゃんも子どもたちの人気者。子どもたちの心をしっかりと受け止めて、いつまでも元気なペコちゃん・ポコちゃんでいてほしいものですね。 |
(文:大関 直隆) |
2009/02/09(月) |
第344回「自信は人を変える!」 |
『河野アナが3月で寿退社することになったんだけど、その後のキャスターに市川さんがなるんだって!』
インターネットのそのニュースを知った私は、妻にメールを送りました。 「市川さん」なんて言ったって知り合いであるわけでもなく、ただのファン。テレビ朝日、報道ステーションのお天気担当の市川寛子アナウンサーは、我が家のアイドル的存在。 毎日、午後10時から放送の報道ステーションのお天気コーナーは、連日テレビ朝日がある六本木ヒルズの屋外の庭からの中継です。暑い日も寒い日も、時には薄着、時には厚着になりながら、淡々と天気予報を伝える「市川さん」。誰がやっても内容が違うわけではない天気予報を、いつも変わらず清楚に誠実そうに伝えるそんな姿が我が家では人気なんです。 「今日の市川さんは、鼻が真っ赤だったよ。あんなに寒いところで中継なんて大変だねえ」 「今日は、鼻声みたい。風邪でもひいたのかなあ?それとも花粉症でもひどいのかなあ?」 たかが天気予報ですが、市川さんは特別。仕事を終えて、妻と帰路につくのは毎晩10時過ぎ。 「今日は、市川さんに間に合うかねえ?」 「あれっ、もう市川さん終わっちゃってる!」 と、そんな具合に毎日「市川さん」の話題です。その「市川さん」が、今度はサブキャスターに抜擢される。これは、我が家にとって一大事。そして文頭のメールになったわけです。 「こっちはカウンセリングのセッション中なのに、なんのメールかと思ったら市川さんのメールなんだから!まったく忙しい時に何やってんのよ!」 と妻に怒られてしまいましたが、妻もまんざらでもない様子。その日の晩は、果たしてどんな顔で市川さんが登場するのか…。 ニュース番組の女性キャスターといえば、局の顔。日テレの櫻井よしこ、フジの安藤優子、テレ朝の小宮悦子。TBSは筑紫哲也の存在があまりにも大きくて、なかなか女性キャスターが注目を集めませんでした。渡辺真理がTBSからフリーになって一時ニュースステーション(現在の報道ステーションの前身)のサブキャスターになりましたが、渡辺真理ではちょっと物足りなかった。今ではNHKからフリーに転身した繕場貴子が筑紫哲也の亡き後、ニュース23のメインキャスターとして圧倒的な存在感を示しています。 あのTBSの人気アナ、小林麻耶アナウンサーがバラエティばかりの担当が嫌で、自分の夢だった報道のキャスターを務めるためにTBSを退社してフリーになる(フリーになって4月の番組改編でゴールデンタイムに登場する大型報道番組のキャスターになるらしいですが。 フリーになるのはもちろん年棒の問題が一番の理由なんだろうと思いますが)という話しがあるくらいニュースキャスターというのは女子アナにとって大きな目標であることは間違いありません。そんなニュースキャスターに市川さんがなる! 外部に対して発表があったということは、本人はもうとっくにわかっていたんでしょうが、発表をした今日はどんな顔しているのかなあと注目をしていると、 「あっ、なんかいつもより話し方がきつい。やっぱり、自信が出るとああいう話し方になるんだ!」 「ほんとだあ!」 あまりニュースを真剣に見ない娘の麻耶までが、 「ほんとだあ!ちょっと市川さんらしくないかもぉ。いつもすっごく謙虚そうなところがよかったのに、人が変わっちゃうんじゃないの?」 確かにそんな感じに見えました。(たぶん私たち見る側の気持ちの問題です) 人は、責任のある仕事を任せられると自信と誇りで、顔つきや態度が変わります。その自信と誇りが、人を大きく成長させます。子育ての基本も、子どもに責任のある仕事を任せること。その子の能力を精一杯尽くしてやり遂げることが出来る内容の仕事なら、みるみる成長していくのがわかりますよね。 最近は、責任のある仕事を任せようとすると、責任を背負うのを嫌って、逃げ出してしまう人も多いみたいですが、きっちりと責任を果たせる子どもを育てたいものですね。ただし、自信ばかりが周りの鼻につき、嫌われる人間にならないようにね。 キャスターになっても、鼻を真っ赤にしながら天気予報を伝える清楚で誠実な、今の市川さんでいてほしいなあ…。 (一部、敬称を略させてもらいました) |
(文:大関 直隆) |
2009/02/02(月) |
第343回「インセンティブ」 |
「ちょっと待って! 今のまこちゃんじゃない?」
「はっ?」 「だから、今のチャンネルだよ。戻して、戻して!」 私がリモコンでチャンネルを替えていると、突然麻耶が叫びました。 土曜日、日曜日は、夜のニュースが少なくて、ニュースを見ようと思っても苦労します。確かに、土・日というのは政治や経済のことでは動きの少ない曜日なので、まったく理解できないわけではないけれど、そうは言っても、事件や事故が起こらないわけはなし、いったいテレビ局っていうのは自分たちの役割をなんだと思ってるんだ!なんて、ほとんどニュースしか見ない私としては、腹立たしく思っていたりするわけです。 最近は、ネットのニュースの配信の方が早いので、政治・経済のおおよその動きや事件・事故の概要はテレビでニュースを見る前に、すでに頭に入っているんですが、やはりテレビのニュースというのは直接的であってわかりやすく、ネットではわからないことまでわかったり、ネットで読んだりするのとは、違った理解になったりすることもしばしばです。ですから、ニュースの内容を知っている、知らないにかかわらず、やはりテレビのニュースというのは私が仕事や生活をする上では、重要な役割を果たしています。 昨日(31日 土曜日)も、そのニュースをやっているチャンネルを探して、リモコンでチャンネルを替えていました。新聞を見ればいいんですよね。でも、最終的にはケーブルテレビのニュースだけを流しているチャンネルに合わせれば、必ずニュースが見られるので、いちいち新聞を見ることはせず、適当にチャンネルを替えてはニュースを探して、やっていなければケーブルテレビににチャンネルを合わせます。 平日ならば、家に帰るとまずニュースウォッチ9(まだ家に帰れず車の中で見ていることも多いです)、報道ステーション、ニュース23、ニュースJAPAN、そしてそれらが終わると、ケーブルテレビという具合にニュースのはしごをします。 そんなに見たって同じだろって思う方もあると思いますが、起こった出来事事態は同じでも、それに対するそれぞれの局の見方が違うので、けっこう飽きずに、いろいろな局のニュースを見てしまうんですよね。大事なのは、起こった出来事ではなくて、各局がどうそれをどう伝えるかということなんですね。 「そうそう、それそれ! ほらっ、まこちゃんだよ!」 「あれっ、ほんとだ! 真(まこと)、こんな番組に出てるんだ! あれっ、大竹君も出てる! なんだ、SET(真が所属しているスーパー・エクセントリック・シアター)のメンバーでやってんだぁ!」 チャンネルを合わせた瞬間は、ドラマかと思ったんですが、しばらく見ているとドラマではなく、ドラマ仕立てで解説をしている経済学の番組らしいことがわかってきました。そこで初めて新聞を見てみると、「出社が楽しい経済学」というNHK教育テレビの番組でした。 どうも毎回テーマを替えて毎週やっているらしいのですが、この日のテーマは、「インセンティブ」。「インセンティブ」という言葉は、ビジネスの世界ではよく使う言葉ですけれど、日本語に訳せって言われると、どうもなかなかピタっていう単語がないですねえ。「誘因」っていうのが一番いい訳ですかねえ…。 「あまり仕事をしない社員に仕事をさせるための仕掛け」というようなものが「インセンティブ」ですね。それは”アメ”の場合もあれば”ムチ”の場合もあります。番組の中にも出てきましたが、要するに「馬の鼻先に人参をつるす」あるいは「尻にムチを入れる」そんなようなことです。 歩合制の賃金や賞与、それとは反対の遅刻したら減俸なんていうのも「インセンティブ」ですし、番組にも登場した若い男性社員の士気を高めるために、美人の受付嬢や事務員を採用するなんていうのも「インセンティブ」です。 福利厚生としての社員旅行や永年勤続の表彰なんていうのもそうですね。”アメ”の場合は社員も得をしているんですが、”ムチ”の場合は、社員は得をしません。どんな内容のものであったにせよ経営者は”やらせる”立場であって、社員は”やらされる”立場です。基本的に経営者の立場に立った「仕掛け」ということになります。 でも、これに似た仕組みってどこかにもありませんか? そうです、学校にありますよね。「競争」や「罰」というのはまさに「インセンティブ」なわけです。成績や出欠で表彰したり、それとは逆に忘れ物をしたり、騒いだりすると罰を与えたり…。ひどいものになると給食を全部食べたらシール一枚とか、宿題を忘れたら掃除みたいな…。学校は「インセンティブ」でいっぱいです。 「インセンティブ」が、”やらせる””やらされる”という構造になっていて、基本的には”やらせる”側の利益追求の仕組みであることを考えれば、学校という教育の場に「インセンティブ」はふさわしいのかという疑問が生じます。 もちろん経済の論理が教育の場でそのまま働くわけではないけれど、民間人の校長への登用などというのは、まったくその経済の論理を教育に利用しようということであって、よほど注意を払わないと行き過ぎた「インセンティブ」につながります。 「インセンティブ」というのは、基本的には”やらせる”側の経営者の利益を追求しているものなのだということを肝に銘じて、教育の現場では行ってほしいものですね。 |
(文:大関 直隆) |
2009/01/26(月) |
第342回「子どもの夢」 |
いやぁ、オバマ大統領の就任式は、熱くこみ上げてくるものがありましたね。久しぶりに全世界が注目するような出来事でした。とうとう夜中の0時から朝4時半まで、テレビを見ちゃいました。
でもそう言うと、「いや、冷めた人たちもいるんだ」という人もいるかもしれません。あるいは「バラク・オバマが合衆国の大統領になったからって、飢餓で苦しむアフリカの子どもたちがすぐ救われるわけじゃない」という人もいるかもしれません。まったくそれはその通りです。しかもこれからどのような指導力を発揮して、どのようなアメリカ合衆国を作っていくのか、まったくの未知数なわけです。実際、そういうことを挙げて、現段階ではあまり高い評価をしていない人たちもいるようです。 私はどちらかというと、様々な出来事に一つ一つ感動して、騒いだりする方ではないので、いつもだったら、そう熱くなることもないのですが、今回は別。まだ移民2世でしかないアフリカ系黒人が世界を動かすアメリカ合衆国大統領になったということは、どう考えてもすごいことです。 1965年3月7日、「血の日曜日事件」が起きました。アラバマ州セルマから州都のモントゴメリーに向かって有権者登録を求めてデモ行進を行っていたアフリカ系住民とその支援者らに対し、白人の知事は公共の秩序を乱す恐れがあるとこれを非難。あらゆる手段を使ってデモを阻止すると宣言。ほとんど進むことのないうちに州警察などが無抵抗な黒人のデモ隊に対し、棍棒や催涙弾などを使って攻撃したため、多数の負傷者が出ました。 報道機関の目の前で起こった公権力によるこの残酷きわまりない流血事件は、テレビで報道されたため,公民権運動を支持する世論が形成される後押しとなり、あらゆる米国市民に選挙権を保障する法律がこの年に成立することとなりました。 今回のオバマ大統領誕生にあたってテレビでもずいぶん報道されましたので、ご存じの方も多いと思います。 私が生まれたのが1957年ですから、それから8年も後ということになります。東京オリンピックが1964年。それよりもまだ後ということですよね。それからわずか40年余り、世界を動かす合衆国大統領になる黒人が現れたということはとてもすごいことです。私はずっとCNNテレビのLIVE映像を見ていましたが、その放送の中で、演説が行われた連邦議会議事堂とホワイトハウスが黒人の奴隷によって建てられた、そして演説をしている場所から数百メートルのところに黒人奴隷を売買していたところがあったと語られたのは、大変象徴的なことでした。 今回のオバマ大統領就任にあたって、政治、経済、環境など様々な視点から報道がなされています。先日テレビでは、今回のオバマ大統領誕生は、黒人の子どもたちに夢を与えたとちょっと違った視点の話をしていました。私はその言葉が、とても心に響きました。「Yes We Can」、まさに黒人の子どもたちはそう思ったに違いありません。 今、日本の子どもたちの一番の問題は、「夢がない」ことですね。大きな志を持った子どもは少なくなりました。「夢は?」と聞くと「××中学(大学)に入学すること」「海外旅行に行くこと」なんて、とても矮小化した「夢」が返ってきます。「尊敬する人は?」と聞くと最も多い答えが「両親(父親・母親)」。これには唖然とします。 でも、子どもたちに「夢」がないのは子どもたちのせいではありません。そうです、私たち大人に「夢」がないのがいけないんです。バラク・オバマは、その「夢」を持っていた大人なんですね。 白人だったら、大統領になるという「夢」を持つことも、それほどのことではない(そりゃあ、それなりにすごいことですけどね。ブッシュにとってはそれほどすごいことでもなかったのかもしれません)かもしれないけれど、黒人が到底出来そうもない「大統領になる」という夢を持ったところがすごいことだったんですよね。まさに「Yes We Can」。 出来そうもないから「夢」なのであって、それに向かって必死で努力することが大切。日本の子どもたちに「夢」を持たせるには、出来そうもないことを実現する、そういう私たち大人の「Yes We Can」が必要なんですよね。 |
(文:大関 直隆) |
2009/01/19(月) |
第341回「子どもの歌声で癒される」 |
今日(1月18日)は、孫の蓮(れん)の通っている小学校の公開授業と音楽会。午前中が公開授業で、午後からが音楽会でした。
私が子どもを通わせていたころは、日曜日の授業参観を、父親参観とか両親学級なんていう言い方をしていましたが、家族形態が複雑化する流れの中で、参観日の呼び名も変わってきました。 現在では、離婚による一人親家庭があったり、未婚のシングルマザー家庭があったり、単身赴任による母子家庭状態の家庭があったりと、地域によっては呼称が、差別感を招いたりするような状況が生まれて来ているため、学校では呼称に配慮をしているようです。 学校というのは、子どもの心に大きく影響を与えるところだけに、当然のことなのですが、これまではあまりにもそういったことに無頓着だったんですね。そこの姿勢が、学校というところが抱える問題の根本なんだろうと思います。 たぶん呼称を替えたのは、それだけの理由ではないですよね。近年、経済の仕組みが大きく変わり、休日が必ずしも日曜日ではなくなりました。製造業中心の社会においては、週休が1日なのか2日なのかについての違いはあっても、曜日についてはほとんど土・日ということで決まっていましたが、サービス業中心の社会においては、土・日がメインの営業日なんていうことはよくあることです。百貨店やショッピングモールなんていうのは典型です。 レジャー産業もそうですね。シフト制の仕事も増加し、曜日とは無関係に月に何回の休みという労働形態や在宅なんていう労働形態も増えつつあります。私がやっている陶芸教室も、休みは祝祭日だけ。 主婦を中心とした皆さんやリタイアした男性の皆さんは平日の昼間にいらっしゃいますが、サラリーマンやOLの皆さんは、夜間や土・日にいらっしゃいます。平日昼間と夜間、土・日の会員数の割合はほとんど変わりません。 また、カウンセリング研究所は、予約制の年中無休、「盆も正月もない」状態。仕事をお持ちのクライエントさんは、土・日限定でいらっしゃる方も少なくありませんし、リストカットやOD(過量服薬)に曜日や時間はありません。そんなことも、父親参観、両親学級なんていう言葉が使われなくなった一因ですよね。 午後からは音楽会でした。子どもたちののびのびとした声は、こころに暖かい風を運んできてくれます。ベタな言い方をすれば、癒されます。川口市内でも規模の小さい小学校で、昨年春に同じ中学校区にある隣の小学校と合併したばかり。 合併により規模は大きくなりましたが、規模の小さい学校の良さは、そのまま引き継がれていて(合併した今でも、市内ではかなり小規模校であることに変わりはないのですが)、子どもたちに萎縮したところがなく、のびのびと学校生活を送っている感じ。孫のクラスなんて、まだまだ身体の小さい一年生なのに、19人しかいないわけですから、教室はがらがら。 単純に教室のスペースを考えただけでも、のびのび行動がとれるわけですから、気持ちも自然にのびのびしてきますよね。それが歌声にも反映されているという感じがしました。もちろん、そこで教師集団がどういう指導をするかということも重要なことですけれど…。 規模が倍近くなったということで、「らしさ」というものがなくなってしまうかと思っていましたが、私が子どもを通わせていたころとほとんど変わらない「らしさ」そのままでした。 子どもたちの演奏が終わった後、音楽大学の大学院でオペラを学んでいるというテノールとソプラノのお二人が「合併記念」ということで、歌を数曲披露してくれました。お二人とも大変いい声なんですけれど、これがちょっと…。妻はもちろんのこと、教育の様々な場面で音楽に関わってきた私とすると、何をどう子どもたちに伝えようとしているのかが、伝わってこない。 大切なことは、「歌っていいな」「音楽っていいな」と子どもたちに思わせることだと思うんですが、二人でたった5曲の時間が保たない。子ども(だけでなく大人も)が飽きてしまっているわけです。 「千の風になって」で始めたのはまだいいけれど(まあ「合併記念」だし、小学生なんだし、「私のお墓の前で…」っていうのもね。ちょっと場違い。 もう少しなんかないのかなあとは思いますが)、そのあとが「からまつ」(知ってますか? 一度くらいは聴いたことはあるとは思いますが…)「オ・ソレ・ミオ」ではね。 女性のほうはもっといけない。「皆さんもご存じだと思いますが…」と話したわりに、「はっ? この曲何?」という感じ。声楽をやっていた私ですら、知ってはいるけれど「タイトルなんだったっけ?」と今思い出せないくらい。 クラシックの歌を聴かせようということなんだから、子どもに媚びる必要はないけれど、「からまつ」や「オ・ソレ・ミオ」よりは、教科書で取り上げられている日本歌曲とか、「サンタ・ルチア」や「フニクリフニクラ」や子どもたちが楽器で演奏した「ラ・クカラチャ」だろうし、私にも思い出せないオペラのアリアじゃなくて、「カルメン」(主役のカルメンはメゾソプラノだけどね)とか「魔笛」の中から選んだりじゃあダメだったのかなあ? ソプラノだったら日本歌曲のなんだってよかったんだろうに…。ソプラノの自分の声にあったものということだったんでしょうけれど、ちょっと残念でした。そういう自分の歌いたい曲を選ぶんだったら、せいぜい衣装を派手にして、「オペラってこんな世界なんだよ」と伝えてくれたらよかったのにね。 ピアニストも含めて、衣装も地味地味。先生方の方が派手なくらい。教育の中で、文化を伝える難しさですね。まだまだ若い歌手のお二人だから、今後の成長に期待というところですかね。子どもだからって手を抜いたわけではないんだろうけれど、ちょっと勘違いがあったか、あるいは学校側の依頼の仕方に問題があったんでしょう。 それにしても、子どもの歌声っていいですね。身体を揺すりながら、一生懸命歌っている男の子。プロさながらにボンゴを叩いている男の子。派手な動きで楽しそうにアコーディオンを弾いている男の子。 そんな男の子たちの目立つ音楽会で、音だけでなく見ても楽しい音楽会でした。うちの孫はというと、楽しそうにはしているものの、歌詞がよくわからないのか途中でもごもご。 あらあら、「もっとしっかり歌えよぉ〜!」 |
(文:大関 直隆) |