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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2009/08/17(月)
第370回「××でなければできないこと」
またまた夏休みの話。

前回、お話しした稲取の宿はなかなかでした。子供用のプールはあるし、宿の前の海はほとんどプライベートビーチ状態。泳ぐこともできるし、釣りもできる。
部屋の窓から見下ろせるプールには一応監視員もいるので、小学2年生と1年生の蓮や沙羅でもプールにいる分には窓から眺めているだけでも危険を感じるようなことはありません。そして何よりも食事がおいしい。食事がおいしいと嬉しいですよね。
「やった〜っ!ここならもう一度来てもいいかも」

もう一度来たいと思う宿なんて、なかなかないんですけど、今回は珍しくそう思えるいい旅行になりました。もっとも、いつもは2人で泊まるのに今回は6人だったので、2人と比べると一人あたりの料金が5千円も違って、やけに割安感があったから、そのせいも大きいのかもしれませんね。

ドイツから帰国していた努に、今年(去年も伊豆須崎に行きました)も伊豆へ行くことを話すと、高校の同級生が「富戸」(ふと)(伊豆高原のそば)で焼き物をやっている高校の同級生のところに寄りたいと言うので、稲取からの帰りに寄ることになりました。
同級生のS君は、熊本で修行をして独立したそうで、蹴ろくろ(電気の力を使うのではなく、自分の足で蹴って回すろくろ。電動ろくろと違い、回転の速度が一定ではないので、作品に微妙なゆがみが出て、味わいのあるものが作れる)と薪窯(燃料に使う薪の種類やその時々の火の回り方によって作品に変化が出る)にこだわって作陶しています。
一応、釉薬はかけるので、釉薬をかけずに薪窯で焼くのに比べれば、はるかに短い時間で焼けるとはいえ、一昼夜は焚き続けるそうです。そのような作陶方法だとどうしてもある程度の広さが必要なので、5年前まで飛騨高山で作陶していたんだそうですが、あまりにも山奥過ぎて、販売ルートが確立できないので、伊豆に600坪の土地を買い、移ってきたんだそうです。
小学生と中学生の息子さんが一人ずついますが、小学校まで1キロ、中学校まで6キロ。それを毎日徒歩で通学しているんだそうです。うちの近所では考えられないことですね。そう言えば、うちから小学校まで200メートルもないくらいの距離なのに、沙羅は遠いから行きたくないと言っていたことがありました。

窯の裏は、林に覆われていますが、そこも敷地だとか。蓮は、息子さん二人に連れられて、林の中に入っていきました。しばらくすると、「クワガタを二匹捕ったよ」といって帰ってきました。
木を蹴飛ばしたら落ちてきたとかで、大喜びでした。そして、もう一度林の中に戻ると、今度は目の前をクワガタが歩っていたと言って、もう一匹捕まえてきました。うちでは買ってきたカブトムシを、プラスチックのケースで毎年ふ化させて飼っていますが、蓮にとって自然の中で生きているクワガタをこれほど身近に感じたのは初めてだったと思います。
うちにいると、すぐ「テレビになってしまう」蓮と沙羅ですが、どうやらここにはそれとは違ったものがあるようです。この間の蓮の誕生日に、娘の麻耶が携帯ゲーム機を買ってやっていました。ここには、そんなものは似合わない気がします。とはいえ、おそらくS君のお宅にもあるとは思いますが。

先日、テレビでニュースを見ていたら、お盆の帰省渋滞の報道をしていました。アナウンサーから、「何か渋滞対策は準備してきましたか」とマイクを向けられ、「子どもが飽きちゃうのでDVDをたくさん借りてきました」と話している人がいました。30キロ、40キロの渋滞は当たり前なので、大変だろうなあと思いつつ、「ああ、旅行に行くにも車の中でDVDかあ。窓の外にはいろいろな感動があるのになあ」とちょっと寂しい気持ちにもなりました。高速道路っていうのは、整備されている分、周りに変化がないので、ワゴン車の後ろに乗っている子どもたちは、飽きたら寝るくらいしかすることがありません。
大渋滞の中では仕方がないなあとも思うのですが、最近は街中でも子どもにDVDを見せている車をよく見かけます。その場にあるものを楽しむということが、だんだん失われていくこと気がしてとても気がかりです。
「その場にあるもの」というのは、言い換えれば「そこにしかないもの」であって、その瞬間にしか出会えないものです。どんなにつまらない場所、つまらないことであったとしても結局それは「××でしかできないこと」なのです。
人は、様々な感動の中で生きています。様々なものを見、聞き、触れ、成長していきます。多少、子どもたちもつまらない思いをしたり、眠くなったりするかもしれませんが、窓の外を眺めているとひょっとするとDVDよりはるかに大きい感動に出会えるかもしれないのにね。
(文:大関 直隆)

2009/08/10(月)
第369回「夏休みの日数」
今年の夏は、やたらと忙しい夏になりました。なぜかは、あまりはっきりしませんが、カウンセリン研究所、陶芸教室ともちょっと前までとは様変わりした感じ。相変わらず、経営状況は厳しいけれど、それでも妻は、朝9時くらいから夜10時近くまで、寸分の空きもなく働いている感じ(お昼は食べられないし、トイレに行くのも我慢しているくらいなので、身体を壊しそう)だし、陶芸の方も、今までになく、なぜか6、7月に新入会の方が増えたりと、とにもかくにも忙しい状態が続いています。
「少し休んだ方がいいんじゃないの?」
と妻に言っても、
「あなた、月末になるとお金、お金って言うから、休めないでしょ。とにかく休めばそれだけ売り上げが減って、会社潰れちゃうんだから!」
はあ、まあそう言われてしまえばその通りだけど、このまま行ったら本当に身体壊しそう。
陶芸教室は、曜日も自由、時間も自由みたいな今のようなフリータイム制では、一定の広さに対する会員数というのが、自ずと決まってくるらしく、ある一定の水準まで会員数が増えると頭打ち。逆にある一定の水準を下回ると、底を打って増加に転じる。それの繰り返しなので、爆発的に売り上げが伸びることもない。
カウンセリングはカウンセリングで、1時間一万円の料金で、一日に対応できるクライアントさんの数は、どんなに頑張っても5人がせいぜい。時間的にはもう少し余裕はあるにしても、かなりの緊張感をもって話を聞くので、それ以上はちょっと厳しい。
一人でカウンセリングだけをやっていたら、一日の休みもなく1ヶ月働いて5万円×30日で150万円。カウンセラー養成講座もやっているので、何とかなってはいるけれど、そこから家賃に事務員の人件費、光熱費に事務用品代などなど、様々な経費を差し引くと残らないどころか足りないくらい。そんなわけだから、一日だって休むわけにはいかないのが現状です。

ドイツでバレエダンサーをしている努が、7月25日、休暇で帰国しました。
「努も帰って来たし、蓮、沙羅もどこか連れてってやらないとかわいそうだから、どこかで2日くらい空けて、1泊してこようかねえ?」
やっと妻がそう言いだして、8月の初めに伊豆稲取で一泊してきました。
「孫たちが夏休みなのに1泊するのがやっとだね」
「そうだねえ。子どもたちが小さいころは、ずいぶんいろいろなとこ行ったけどねえ。毎年、軽井沢か八ヶ岳の貸別荘に行ってたもんね。両方行ったこともあったし、3泊したこともあったっけねえ。朝、窓から外を眺めたら、リスが出てきたりして…」
「いつのことかと思うよ。今の状況じゃ、全然無理だね、あんなこと」
「そうだねえ。父と母がいたから、どうしても連れて行かなくちゃっていうこともあったけど、それよりも何よりも、今は時間が取れない」
稲取から戻ると、蓮が「(ニジマスの)つかみ取りに行きたい」と言い出しました。去年、夏休みで努が帰国したとき行った湯西川の魚のつかみ取りが楽しかったらしく、今年も行きたいというのです。努がドイツに戻るのが12日。ちょっと日程的には詰まってしまいましたが、日帰りで連れて行ってやるか、ということになり、予定をちょっと無理に動かして、1日空けてやることにしました。
台風の影響で、土砂降りの雨でしたが、つかみ取りをしているときだけは運良く雨が上がって、蓮も沙羅も努も翔も大喜びでニジマスを追いかけていました。そして川治温泉でゆっくり温泉につかり、帰って来ました。
「ああ、これで今年の夏休みは終わっちゃったね。無理矢理、予定を詰めちゃったからお盆もなくなっちゃった」
8月6日、インターネットで配信されるニュースを見ていたら、「今年の夏休み、不況色濃く」という見出しで、明治安田生命が調査した夏休みについてのアンケートの記事が出ていました。夏休みの取得日数の全国平均は、7.7日とか。また、同日の楽天リサーチ調べでは、
3日以下 24.3%
4日  20.0%
5日  24.9%
6日   5.8%
7日   7.9%
8日   1.8%
9日  11.9%
10日以上 3.6%
取らない 14%
この調査結果を見てびっくり。今でこそ、うちも夏休みは取りにくくなっているけれど、妻が教員だったころはいったい何だったんだろう?と。7月の終わりに2泊3日でどこかに出かけ、お盆前の八月初めには2泊3日で海水浴。夏休みが終わる直前の8月終わりには同じく2泊3日でどこかに出かける。もちろんお盆は実家(浦和と熊谷ですけどね)へ墓参り。その他にも近場のプールに出かけたり、川原でバーベキューをしたり…。それが毎年の恒例行事。夏休みが終わるころには遊び疲れて、仕事モードに戻すのが大変だったりして…。

教員をしていたころはそれが当たり前と思っていたので、今の状況はずいぶん休みが少ないなあと思うけれど、やっぱり普通はそんなもんですよね。

8月10日で、孫たちの長い夏休み(もっとも7月いっぱいは学童保育に通っていましたけれど)も折り返し。ちょっと休みを取るのも厳しい状況だけれど、夏休みじゃないとできない経験を、子どもたちにはさせてやりたいものですね。
(文:大関 直隆)

2009/08/03(月)
第368回「現実味を帯びてきた18歳成人」
7月29日、成人年齢を18歳に引き下げる民法改正の是非を検討してきた法制審議会民法成年年齢部会は、18歳に引き下げるのが適当とする最終報告書を取りまとめました。

公職選挙法における選挙権についても、引き下げて成人年齢と一致させるのが望ましいとしましたが、消費者被害の対策の充実など、環境整備も必要であると指摘しました。
これは、一昨年成立した国民投票法が、投票年齢を原則18歳以上と定め、法制上の措置が講じられるまでは投票年齢を20歳以上としたものの、併せて付則で民法と公選法の年齢条文引き下げを10年の施行までに検討すると規定したことによるものです。最
終報告書は9月の法制審議会総会で議論することになっています。

諸外国の例を見ると、アジア諸国では20歳、21歳成人を取るところが多く(中国は18歳)、ヨーロッパ諸国ではほとんどの国が18歳成人(ちなみにアメリカ合衆国は州により異なりますが37州が18歳成人)というのが現状です。
マスコミの報道を見ていると、「18歳が世界標準」的な言い方をしているものをよく見かけます。確かに多くの州が18歳の米国やカナダ(6州)も一応18歳成人として考えればG7(ロシアを加えたG8)の国々で20歳成人を取るのは日本のみ。中国も前述の通り18歳成人なので、先進国を自負する日本にとっては、「国際標準に乗り遅れている」というような発想があるのかもしれません。

とは言え 、プエルトリコ14歳、キルギス・ネパール16歳、タイ・ニュージーランド・韓国20歳(韓国は2012年に19歳に引き下げ)、アルゼンチン・インドネシア・エジプト・シンガポール・マレーシア21歳(2008年現在)という現状を考えれば、18歳を世界標準とまで言っていいのかどうか…(ヨーロッパの他にキューバ、イスラエル、イラン、サウジアラビア、インド、ベトナム、モンゴル、ブラジルなども18歳です)。なぜこのよう成人年齢が違うかというと、一つは文化の違い、もう一つは兵役に取るための国家的ご都合主義によるものによって、決定しているということがあるようです。
成人年齢引き下げに対する、世論の動向はどうか…。

どうも多くの大人たちが、現在の18歳〜20歳の若者を「未熟」と捉えているようで、その未熟な若者に対し、成人年齢を引き下げ、選挙権を与え大人として扱うことで、責任と自覚が生まれると考える引き下げ賛成派と、20歳でさえ未熟、30歳になっても大人としての責任も自覚もない状況の中で、引き下げなんてとんでもない、ますます無責任な成人を増やすだけと考える引き下げ反対派に二分されているようです。

私は、どちらかと言えば、引き下げに賛成です。それは、現代の若者が大人としてふさわしいか、ふさわしくないかという観点からではなく、現状の法体系が、果たして20歳成人ということに矛盾はないのかと考えたとき、20歳成人というのにはやや無理があるのではないかと考えるからです。特に民法「第731条 男は、十八歳に、女は、十六歳にならなければ、婚姻をすることができない。」という規定と、「第753条 未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす。」という規定には、はなはだ疑問を感じます。婚姻可能な年齢が男女で違うということ、一方の父母の同意があれば婚姻でき、女性の場合で16歳、男性の場合で18歳でも成年に達したと見なされ、法律行為が可能になること等を考えると、成人年齢というものの根拠はいったい何なのかと思います。

一方で婚姻によって未成年でも成年として扱っておきながら、高校を卒業して18歳で職に就き、働いている若者は20歳に達していないからといって未成年として扱われる…。また風営法では18歳という年齢で線引きを行っているのに、競馬・競輪等の公営ギャンブルは20歳線引き、さらに自動車免許は18歳線引き…。

このような現状を踏まえると、本来どちらかに統一されて然るべきで、どちらに統一するかといえば、現状で認められているものを認められなくするというのはおかしな話しだから、やはり18歳で成人とするしかないだろうと思うわけです。

今後、どのような形で議論が進んでいくのか、まだまだわかりませんが、大人のご都合主義で、あるときは成年、あるときは未成年という扱いだけは避けてもらいたいものですね。

成人年齢を引き下げるということは、引き下げられたことにより成人になる若者に責任が生じることはいうまでもありませんが、早い年齢で成人にさせるためには、成人になるまでの大人の関わり方が重要になってくるわけで、私たち大人も子どもたちに対する責任を充分に感じながら、子育てをする必要を強く迫られるということに他なりませんね。
(文:大関 直隆)

2009/07/27(月)
第367回「脳死は人の死?」
思いの外、あっさりと臓器移植法案はA案で成立しました。
国会に提出されたいわゆるA案からD案までを簡単に説明すると、

A案(2006年3月31日第164国会衆法第14号)
 年齢を問わず、脳死を一律人の死とし、本人の書面による意思表示の義務づけをやめて、本人の拒否がない限り家族の同意で提供できる。

B案(2006年3月31日第164国会衆法第15 号)
 臓器移植の場合のみ脳死を人の死とすることは変えず、年齢制限を現在の15歳以上から12歳以上に引き下げる。

C案(2007年12月11日第168国会衆法第18号)
 臓器移植の場合のみ脳死を人の死とすることや書面による意思表示要件は変えずに、脳死判定基準を明確化(厳格化)するとともに、検証期間を設置する。年齢制限の変更は含まれていない。

D案(2009年5月15日第171国会衆法第30号)
 15歳未満の臓器提供について、家族の代諾と第三者の確認により可能とする。臓器移植の場合のみ脳死を人の死とすることや15歳以上の臓器提供手続きについては、含まれていない。

ということです。
1997年6月に成立したこれまでの臓器移植法では、第6条において、死亡した者が臓器提供の意思を生前に書面で表示して、さらに遺族が拒まない場合に限り「脳死した者の身体」を「死体」に含むものとして臓器を摘出できると規定されていました。
臓器提供の意思を書面をもって表明しなければならなかったため、脳死ということの意味を理解して臓器提供の意思を明らかにすることが不可欠であることから、臓器提供の意思表示に関しては、法律の運用上、15歳以上の者の意思表示が必要とされてきました。
法文には、年齢についての規定はありませんでしたが、民法の遺言可能年齢を参考に、実質15歳未満の臓器提供は不可能となっていました。
今回の改正案の採決は、脳死を人の死と認めるかどうか大きな争点でした。果たして日本に脳死を人の死とする文化があるのか…。

国会でどんな議論がなされるのか、連日マスコミも取り上げ、A案からD案まで採決し過半数に達する案が出るまで採決をしていく方式では、どの案も可決しないだろうというのが、大方の予想でした。
ところが思わぬ大差で衆議院でA案が可決。野党勢力が半数を超える参議院ではそうはいかないと思われていたところ、こちらもあっさりA案で可決成立してしまいました。
議員個人の倫理観の問題として、各党とも党議拘束をかけませんでしたが、自民党議員を中心にA案支持が広がり、可決したものです。議員の倫理観というよりは、むしろ何らかの政治的判断がこういう結果を生んだんだろうと思います。

一日も早い臓器移植法の改正を待ち望んでいた臓器移植患者団体連絡会の皆さんにとってこの結果は、とても喜ばしいものになりましたが、私は果たしてこれでよかったのか疑問が残ります。それは、臓器提供の問題は、法律の問題ではなく、提供する側の意識の問題と考えるからです。
確かに、法的には15歳未満の臓器提供はしやすくなったとは言えます。けれども自分の子どもが脳死状態になった時、それを人の死として受け入れられるかといえば、多くの人は「否」と答えるのでないでしょうか。脳死と宣告されたあとも成長し続ける少女の映像がニュースで繰り返し取り上げられていましたが、もし自分の子どもだったらと考えられると、受け入れられないだろうなあと感じながら見ていました。

おそらく臓器移植に必要なのは、法律ではなく、脳死を宣告される患者側の医師に対する信頼です。「この医師はなぜうちの子を脳死と判定したのか」、そんな疑問がわいてしまったら、臓器提供はおろか当然のことのように治療を続けることになります。
臓器移植しか生きるすべを持たない人たちのことを考えると、今回の改正により法律がそういう方向に進んだということは支持しますが、さしたる議論もなく可決してしまったことは、臓器提供の数が増えないという結果をもたらすのではないかと思います。おそらく脳死についてはもっと踏み込んだ議論が必要だったのでしょう。

先日、新型インフルエンザのタミフルに対する耐性菌が発見された時、社会への公表より先に論文掲載が行われるということが起きました。国民は、医師の行動が誰のためのものなのかということに強い疑問を持っています。土曜日に休暇でドイツから帰国した努に聞いてみたところ、ドイツですら医師に対する不信感はあり、「ドナーカードは持たない方がいい。もし身につけていて交通事故に遭うと助かるものも(臓器移植のために)殺されてしまう」と考えている人が多いそうです。

娘の麻耶は、重篤な腎臓病により死の目前まで行きました。そんな中、麻耶を救ったのは、主治医との信頼関係だったと思います。長期の入院期間中には様々なことがあり、麻耶の命を危うくする医療事故まで起こりました。それでも、主治医に対する信頼は揺らぐことがありませんでした。そんな信頼があってこそ、脳死を人の死と受け入れられるのだろうと思います。
もちろん、法整備は必要だったんだろうと思います。けれども、提供する側、提供される側、両者を納得へと導くのは、医師と患者の信頼関係しかありません。医師の利益優先とも取られかねない行動をなくし、国民の意識の中に信頼できる医療という意識が芽生えたとき、初めて臓器移植が可能になるのではないでしょうか。
(文:大関 直隆)

2009/07/21(火)
第366回「日食」
全英オープンゴルフのトム・ワトソン(59歳)vsスチュワート・シンク(36歳)のプレーオフの決着を朝方になるまで見ました。若かりし頃のジャック・ニクラウスとの名勝負を「真昼の決闘」というそうですが、今回のプレーオフをゴルフダイジェスト・オンラインは「黄昏の決闘」と表現していました。まさにそんな言葉がピッタリの名勝負でした。

子どものころから、その活躍をよく見てきたトム・ワトソンも還暦目前。全英オープンの最年長優勝記録は、1867年大会のトム・モリス・シニア(英国)で46歳3カ月だそうです。もし59歳10ヶ月のトム・ワトソンが優勝したら、142年前の記録を塗り替える、とてつもない大記録が生まれるところでした。

そんな緊張感漂うシーンで、私が気になったのは、59歳というワトソンの活躍ぶりもさることながら、ワトソンのゴルフではなく、首周りの皮膚の様子。
「こんなに年を取ったんだあ」という思いと「59歳でこんなに皮膚が荒れているんだあ」という思い。
「ずいぶんつまらないところに目がいくなあ」と自分でも不思議なくらいでしたが、おそらくジャック・ニクラウスやアーノルド・パーマー、ゲーリー・プレイヤーといったそのころ活躍していたプロゴルファーに比べ、若いころのワトソンというのが「色白で優しそうな顔立ちでどちらかというと女性的とも感じられるような雰囲気」だったことから来るものなのかもしれません。
「ああ、日焼けって人の肌をこんな風にしてしまうんだあ」と変なことを考えながら見ていました。

現在29歳の麻耶が小学5年生だった時、夏休み明けに「くろんぼ大会」を開くというプリントを持ってきました。もちろん、よくプールに入って日焼けした子を表彰しようという発想からのものです。折しも「ちび黒サンボ」や「ダッコちゃん人形」が黒人差別だということで新聞でも取り上げられていた時でした。腎臓病を患い、外で過激な運動ができなかった当時の麻耶にとっては、土俵にも上がれないということ、「くろんぼ」という言葉の響きが社会問題化している現状を連絡帳に書き、配慮をお願いしたところ、くろんぼ大会は中止になり、別な形で子どもたちの夏休みの生活を表彰することになりました。

アグネス・ラムに代表されるように、昔は「日焼けは健康美」とされていましたが、今では正反対。外で見かける女性は、しっかりと肌を覆って日焼けを避けるようになりました。太陽に対する考え方も、変われば変わるものですね。

今月22日は、日本でも46年ぶりに一部で皆既日食が見られるとか。新聞やテレビで大騒ぎになっていますが、私たちが昔太陽を見るのに使った黒い下敷きはダメなんだそうですね。太陽観察用のめがねを使用しないと、目に重大なダメージを与えかねないんだそうです。この話も、昔とは大違い。でももう日食めがねは手に入らない状態らしいし、どうやって観察したらいいですかねえ…。小学校のころ、欠けた太陽を下敷き越しに見たことが天体への興味の原点だったような気がするので、孫たちにも見せてやりたいものです。要は地球と月と太陽が一直線に並ぶというだけなんですが、宇宙の広さに比べたら、ほんのちっちゃなものが軌道上を回って一直線に並ぶことがあるなんて、すごく不思議なことですよね。

残念ながら、関東地方の天気は悪いようですが…。流星群の観察に日光までひとっ走りした時のように、太陽が出ているところまでひとっ走りしますかねえ。あんまり行き過ぎちゃうと欠け方が小さくなっちゃうし、難しいなあ…。また、孫たちと1メーターくらいのてるてる坊主でも作りますかねえ。

(文:大関 直隆)

2009/07/13(月)
第365回「いたずらの勧め」
「ねえねえ、花井さんのことが出てるよ!」
「えっ?」
「だから、花井さんだよ」
「”花井さん”て、あの花井さん?」
「そうだよ、あの花井さん。”花井”て他に知らないでしょ!」
「夕刊読んでて、いきなりでしょ。あんまり唐突だからさぁ、わかんなかったよ。新聞に載るようなことしてたっけ?」
「花井さん、”三谷幸喜と同級生だ”って言ってたでしょ。それでね、三谷さんが夕刊に連載してる記事に花井さんの名前が出てるの」
「へーっ。そう言えば、そう言ってた気がする」
「なんか名前入りで、すごいよ。”花井さん”て、こんなに三谷幸喜と親しんだ!?っていう感じ」
「へーっ」
「同窓会があって、三谷さんと一緒になって花井さんが先生にいたずらしたって”ハナイ”って名前入りで書いてあるよ」
「へーっ、そうなんだ。どんないたずらしたんだって?」
「高校の時の中島先生が住職をしているお寺で、同窓会があったんだって。それでね、中島先生が他の生徒たちと談笑してる時に、まず”シバタ”っていう人が木魚を連打して、次に三谷さんが木魚のとなりに置いてあった巨大な鐘をバチで思いっきり叩いて、最後に花井さんが壁に掛かってた紫色の法衣を着て、先生の前をさりげなく通ったんだってさ」
「がはっ、いい大人がそんないたずらしちゃうんだ!?」
「三谷さんまでは、中島先生も”そんなところにしとけよ”っていう感じだったらしいけど、さすがに紫色の法衣を着た花井さんを見た時は、”お前、何やってんだよ!”ってぶち切れたんだって。”ハナイ、お前ごときがそれを着るなんてあり得ないんだよ。早く脱げ”って言われたらしいよ」
「いやーっ、花井さん坊主頭で法衣が似合いそう」(笑)
「三谷さん曰く”遣唐使そっくり”だって」
「なんか目に浮かぶね」

高校時代の三谷幸喜さんらは、いたずらばかりしていたそうです。特に目的があるわけではなく、しいて言えば、同級生たちを楽しませたいということか、とおっしゃっています。

何となくわかるような気がしますよね。今回の5年ぶりの同窓会でも、「どこまでやったら中島先生が怒り出すか、試してみないか」と三谷さんが提案し、皆がそれに乗っかったということなんだそうです。

花井さんは、うちの本社(浦和カウンセリング研究所)と陶芸教室(Salon de flamme)の設計を担当してくれた人です。私が出す難題を一つ一つクリアしてくれて、大変満足のいく研究所、教室にしてくれました。テレビドラマに出てくるような隠し扉じゃないけれど、横にスライドすると扉になる作品棚とか、正面からも横からも入れられる本棚とか、4つを平らに置けばステージに、重ねておけばA4ファイルが入る棚になる箱とか、小さいのに人が乗っても壊れない展示棚とか…。無理難題をみーんな解決してくれました。

積極的に褒めたれることではないけれど、子どものころのいたずらっていうのは、子どもの想像力をかき立て、大人になってからの独創性につながっていくものなのでしょう。最近の学校はどうなんでしょうか。ちょっとしたいたずらも、こっぴどく怒られて許されないんでしょうか。
そう言えば私も中学校の時、教室の前扉を開けるとバケツから紙吹雪が降ってくるような細工をして美術の先生を待ち受けたり(これは先生が来るか偵察にいった同級生が慌てて扉を開けてしまい大失敗。
「誰だ、こんないたずらしたやつは!綺麗にかたづけろ!」ということに…)、5メートルほどにつないだ輪ゴムを黒板消しにつないで、さらにそのゴムを黒板の右端に引っかけて、先生が持った瞬間に黒板消しが飛んでいく仕掛けを作ったり(これは大成功。ゴムに引っ張られて、右に飛んだ黒板消しは、黒板の端に引っかけてあったゴムのおかげで、先生の足下をすごい勢いでかすめると、今度は左へ飛び、びっくりした先生は目を白黒…)、そんなことをしたものでした。でも、あまり怒られた記憶がありません。

自分の行動を正当化するわけではないけれど、そんないたずらの経験が、会社を経営する上での直感につながっているように思います。人生にとって想像力は欠かせないものの一つです。褒められたことではないとは言え、子どものそんな想像力を学校にはつぶしてもらいたくないものですね。
(文:大関 直隆)

2009/07/06(月)
第364回「保護者のクレーム研究?」
「保護者のクレーム研究」
−「新イチャモン科研」教員、弁護士ら設立−
今朝(5日)の朝日新聞にそんな見出しで、「新学校保護者関係研究会」が、独立行政法人日本学術振興会の補助金を受けて発足したという記事が載っていました。
いつも親の立場からものを言ってきたつもりの私としては、この見出しを見た途端、不愉快な気分に…。

「親のクレーム」?
はっ、ふざけんじゃねえ!
自分たちのやってることは全部正しいって思い込み、クレームの中身の検証もしないで、苦情を言う親を十把一絡げにクレーマー扱いしてるのはどこのどいつだあ!
だいたい「いちゃもん」とはなんだ、「いちゃもん」とは!
(広辞苑によると「いちゃもん」とは、「文句を言うために無理に作った言いがかり」という意味です)
「筋の通らない文句」というような意味だろうが!
親が言ってることは全部筋が通ってないって言うのかよぉ!
はっ? ふざけんじゃねえよお!

すっかり、ぶち切れた気分で見出しを見ました。 
もちろんいい先生方もたくさんいて、すべての先生が悪いわけではないけれど、この程度のことは、日常的にどこかで起こっていることの一部ですよね。学校で起こっていることに注意を払っていると、必ず毎年そんなことが何度か問題になるので、学校っていうところは内容が親の目にはさらされない基本的に密室に近い状態だから、なかなか表には出にくいけれど、その辺りのことに目をつぶったり、ひた隠しにして「クレーマー」っていうのもね…。
もしかすると、そのクレームとして片付けられていることの中に、学校が抱える構造的な問題に対する指摘もあるかもしれませんよね。

今、官僚制度が批判の矢面に立たされています。年金制度や医療・介護制度、減反政策や道路・鉄道建設など、官僚主導の政策には厳しい目が向けられています。
一時教員に対しても批判が吹き上がりましたが、それが教員個人に対する批判にとどまってしまったため、学校に対する官僚主義批判には広がりませんでした。個々の学校の中に官僚主義がはびこっていると思うのですが…。
おそらく他の省庁の政策に比べ、ある意味で地方分権が進んでいること、一つ一つの学校規模が小さく、閉鎖的で、学校の中で起こったことが学校以外に広がらないということがあるのだろうと思います。
東京都の石原知事や大阪府の橋下知事が、教育行政にも手を付けようとしているようですが、現状を見ている限り、官僚主義に対する改革というよりは、「ゆとり教育」に対する批判の域から出ておらず、むしろ一旦は否定された一昔前の文部省が進めた官僚主導の教育政策に近づけようとするミニ官僚主義(地方公共団体の官僚主義で国より規模が小さいという意味で)にも見えてきます。
問題は、教員の管理をしているのが同じ仲間の教員であるということにあるのに、なかなかそこには手を付けていません。その根本的な構造が、「学校に文句を言うものは悪」という体質を作っているのではないかと感じます。

さて、朝日新聞の記事に戻りますが、ムカムカしながら記事を読んでみると、「となりのクレーマー」の著者、関根眞一氏を招いて話を聞いたそうです。
関根氏は、元百貨店のお客様相談室長で、著書で苦情を寄せた顧客への誠意ある対応の大切さを説いたとか。関根氏曰く「学校の先生には相手から学ぶべきものはないというプライドが強いのではないか。このために親と激しく衝突してしまう。それを改善してもらうのがぼくの役目です」。
この研究会を立ち上げた大阪大大学院の小野田正利教授も、「親の注文を、はなからクレームととらえず、くみ取れるものを吸収する姿勢が大切。研究会では親と学校の良好な関係をどう築くか、多面的に考えていきたい」と話しているそうです。
ありゃ? これって私が常々言っていることと同じじゃん!

記事の最後に今月出版される「日本苦情白書」の数字が一部掲載されています。「近年、自分の職場では苦情が増えていると思うか」の問いに「思う」との答えは全産業平均では39.7%なのに対し、教育では53.7%。さらに原因を聞く質問では、「こちらの配慮不足」が全産業の50.3%に対し、教育31.2%。
なんだよ、この記事。見出しがひどすぎるんじゃないの?
週刊誌やスポーツ新聞じゃないんだから、あまり読者の血圧を上げないように、朝日新聞には、もう少し内容に沿った見出しを付けてほしいものですね。
うーん、どうやら先生方は、問題があると人のせいにする傾向が強いっていうことですかね。最近、教師を通じて親を指導しようっていう文科省や教育委員会の意向が強くなったように感じます。これこそまさに官僚主義。それが教師の親を見下したような、こんな傾向を作っているんだと思います。
石原知事も橋下知事も官僚主義に抵抗しているようですが、こと教育について考えれば、親を指導しようっていう先頭に立っていますよね。それって、官僚主義の最たるものじゃないですかねえ…。
(文:大関 直隆)

2009/06/29(月)
第363回「赤ちゃんが初めて呼ぶキャラはアンパンマン!」
今日(28日)の朝日新聞に「赤ちゃん、初めて呼ぶキャラは1位アンパンマン」という記事が載りました。
「えーっ、”ママ”か”まんま”じゃないの?!」
と思ったら、「初めて呼ぶキャラ」なので、
「へえ、そうなんだぁ!」
と感心してしまいました。
まったく、こんなわけのわからない、どうでもいいような調査をする人たち(NTTコミュニケーション科学基礎研究所の小林哲生研究員らだそうです)がいるんだなあと思ったんですが、いやいや待てよ、アンパンマンなんて書いてあるから、なんだこんなもんと思ったんだけど、赤ちゃんがどんなものに興味を持ち、どんなことから言葉として発するかという発達の観点から考えると、案外重要なことなのかもしれないと考え直しました。

カウンセリングを学んでいくと、「発達心理学」というのを学びます。人の加齢に伴う発達的変化を研究する心理学の分野で、以前は、子どもが大人になるまでの過程を発達と捉えて研究されていましたが、近年では、人は生涯を通して変化・成長を続けるものと捉えられるようになり、老齢期も含め考えられるようになってきました。

そして、この発達心理学で重要なのが、エリク・ホーンブルガー・エリクソンの提唱した「発達課題」(様々な心理学者が提唱し、一様ではありませんが、エリクソンが提唱したものが有名)です。「発達課題」とは、「人間が健全で幸福な発達をとげるために各発達段階で達成しておかなければならない課題であり、次の発達段階にスムーズに移行するために、それぞれの発達段階で習得しておくべき課題がある」とされています。(ウィキペディア参考)
エリクソンは、各発達段階を下記の8段階に分け、成功した場合、失敗した場合の心理的側面を示しました。(左が成功、右が失敗)
Stage One:乳児期 信頼vs不信
Stage Two:幼児前期 自律性vs恥・疑惑
Stage Three:幼児後期 積極性vs罪悪感
Stage Four:児童期 勤勉性vs劣等感  
Stage Five:青年期 同一性vs同一性拡散
Stage Six:初期成年期 親密感vs孤独感
Stage Seven:成年期 生殖性vs自己吸収 
Stage Eight:成熟期 自我統合感vs嫌悪・絶望

赤ちゃんが初めて呼ぶキャラの1位が、アンパンマンであるなんていうのも、発達心理学の観点から考えると、とても興味深いことかもしれません。
小林研究員によると、乳幼児は「あ」や「ぱ」などを発音しやすいとか、アンパンマンは顔が丸く親しみやすいのでは…とのことですが、確かにそういうことはあるかもしれません。母音の「あ」は、唇に力を入れて形を作る必要がないので、声帯を震わせて口を開けさえすれば、発音できます。また、子どもだけでなく、大人でさえ、尖ったものよりは丸いものに安心感を感じます。

キャラクターだけでなく、言語全体で見た場合、やっぱり1位は「まんま」(14.4ヶ月)、2位「はい(返事)」(15.6ヶ月)、3位「ばー」(15.5ヶ月)、4位「ママ」(15.8ヶ月)、5位「パパ」(15.9ヶ月)の順だそうです。母音が「あ」の言葉がずらっと並びました。この中で2位の「はい」だけは、唇を合わせることなく発音できる言葉ですが、これは、大人に無理に言わされているんじゃないかと思います。
私は、赤ちゃんは本来ものの区別をするための表現として、発音可能な少ない音の中から唇を閉じて開くということを利用して、表現を増やしているのだと思いますが、「はい」だけは、かなり異質で、子どもの発達の流れが切れた感じがしますので…。

また、米国や中国に比べ、日本の乳幼児はキャラクターをたくさん覚えるという報告があるそうです。麻生文化の表れかもしれませんが、キャラクターに頼らなければならない親子関係が垣間見られ、少し寂しい気もしますね。米国、中国を見習った方がいいとも思いませんけれど、人と人との直接のふれあいでしか、感じられないものもたくさんあるので、キャラクターに頼らない親子関係も大事にする必要があるかもしれませんね。
(文:大関 直隆)

2009/06/22(月)
第362回「”お父さんを尊敬”が6割超」
「これが、まさに今の若者が抱える問題の根源だなあ」、そんなふうに考えるのは、私だけでしょうか。

19日、ウェブサイトにニュースの配信をしているJ-CASTニュースに「生活支えるお父さん 女高生6割が「尊敬」」という記事が流れました。
「ピーネストが女子中高生2001人を対象に実施した「女子中高生の『父の日』に関する意識調査」(調査期間は2009年6月1日〜5日)で、自分の父親を尊敬しているかどうかについて質問したところ、「すごく尊敬している」「少し尊敬している」と回答した人は中学生で52.1%、高校生で61.1%だった。父親の威厳はそれなりに保たれているという結果である。」というものです。

うちのカウンセリング研究所を訪れる人たちの言動、街で見かける親子、テレビをはじめとするマスメディア、ネット上に流れる情報など、様々な角度から考えて、この数字には「そうだろうなあ」という感覚があります。
けれども、数字とは別に、「父親の威厳はそれなりに保たれている」という部分には、なんだか納得のいかないものがあります。”尊敬”=”威厳”という考え方はちょっと単純すぎるんじゃないでしょうかねえ…。これは、J-CASTニュースの誘導? 少なくとも、この記事を書いた(打った)人は、そう思いたかったということなんでしょう。

この連載で、何度も述べてきていることですが、私の感覚では、反対に威厳のなさが尊敬という言葉を導き出しているのではないかと思います。

ニュースの後半で、「…夜遅くまで働いている父親に対する感謝の声が寄せられています」と調査を行ったピーネストの担当者の言葉を紹介していますが、一方で、SGRの”まぁ〜さ”さんは、「(父親と娘の関係は)友達感覚に近くなっている」との指摘や「昔も内心では(父親を)尊敬していたとは思いますが、以前にも増して素直な子が増えたのでは」「少子化の影響で親との接点が多くなったため、コミュニケーションが濃くなったのだと思います。ただ、そのために両親の影響力は強くなっています。受験校を決めるにしても親に相談しますし、保護者同伴の(大学の)オープンキャンパスも増えていますしね」というジャーナリストの石渡嶺司さんの言葉を紹介しています。

その辺りのことは、私もこの連載の第207回、217回、268回、325回で述べてきました。最近、これは「親が子どもを自分のものと思い込み、自分の好きなようにしていいと思っていること」、「自分の思うようにするためなら、どんなお金もどんな労力もおしまないということ」、そんな親の態度から来ているのではないかと考えるようになりました。
そしてそれが子どもに対する「甘やかし」(第166回参照)ということにつながっている。甘やかされれば、子どもにとって自己実現(本来は「自己の素質や能力などを発展させ、より完全な自己を実現してゆくこと」という意味です。
正しき使い方ではないですが、ここでは「自分の欲求を満たす」というくらいの意味にとってください。)が可能になり、悪いことではないので、そこで親子の利害が一致し、大きくそっちに舵が切られている、そんな感じではないかと思います。
その親子共々の自己実現の達成割合によって、親を尊敬したり、尊敬していなかったりということが起こっているのではないか、と。
そう考えると、娘から尊敬されている父親が多いということは、父も娘も自己実現の達成割合が高いというわけで、要は「子どものわがままが通っている」ということなんじゃないでしょうか。

ニュースの最後に、「将来、自分のお父さんのような人と結婚したいと思うか」と質問したところ、「絶対にイヤだ」と答えた人は中学生で49.0%、高校生で44.1%。「どちらともいえない」とあわせると7割近くになる」という数字も掲載されています。子どもの将来の夢(自己実現)の中に「父親のような人と結婚する」というのが入っていないんでしょうね。

子育ての本質を、「親が子どもと一定の距離を置き、厳しさの中にも愛情を感じつつ、親を乗り越え自立させること」と捉えれば、このニュースの中の「尊敬」は、親としての威厳に当てはまるのか、はなはだ疑問が残るところですね。
(文:大関 直隆)

2009/06/15(月)
第361回「子どもは基本的にやる気がある」
「ねえねえ、沙羅はちょっと問題じゃないかなあ…。全然、出来ない。こっちの話を聞かないんだよねえ。このまま行ったら、相当遅れちゃうんじゃないかと思う」
「でしょ。だから、ずっと言ってんじゃない。(問題を解く)力がないっていうわけじゃなくて、おそらくその問題を解こうっていう気持ちがないんだと思うんだよね」
「”5は3と□”っていう問題が出来ないよ。出来ないっていうか、やろうとしないっていうか…。しばらく黙ってて、”わかんない”だからね。”指を使ってもいいから、よく考えてごらん”って言ったら”わかんないぃ!”ってぐずっちゃうんだよね。全然わかってないみたい」
「ふーん。でもね、この間、バレエの発表会があったでしょ。あれだけの振り付けをとにかく全部踊りきるわけだし、やる気満々で人に見せようとしてる姿勢からして、その程度の算数の問題が出来ないっていうのは、おかしいと思うよ」
「そうだよねぇ」
「2月生まれで身体も学年で一番小さいし、運動会なんかの様子を見てても”幼い”って感じだよね。問題の意味っていうか、問題に集中するっていうか、そういうことが、まだ小さい子のやるレベルでしか出来ないみたい」
「あんまりもたもたしてるから、私も怒鳴っちゃったよ。ドリルかなんか買ってきて、あなた見てやってよ」
「そうだね。算数の問題が出来ないのは、算数が出来ないっていうことじゃなくて、おそらく日常の生活が、落ち着いて何かに取り組むっていう気持ちにさせてないっていうことだよね。それに、まだ小学校の一年生くらいだと4月生まれの子と早生まれの子とではだいぶ差があるってこともあるかも。人生の6分の1がないわけだからね」
結局、私が翌日、ドリルを何冊か買ってくることになりました。
「じいちゃん、今日何時に帰ってくる? 8時?9時?」
「今日は、そんなに早くは帰ってこられないよ。10時半くらいかなあ?」
「えーっ!ばあちゃんは遅くてもいいから、じいちゃんだけでも帰ってこられないの?じいちゃんが先に帰って来て、あとでばあちゃんを迎えに行けばいいじゃん」
どうやら、私に早くドリルを届けさせて、とにかくドリルをやりたいということのようです。
「でも、じいちゃんも夜仕事あるからねえ…」
「ふーん。じゃあ、ドリルを買ったらドリルをおうちに置きに来てよ。それからお仕事に行けばいいでしょ!?」
どうも、どこまでもドリルをやりたいらしいということはわかったので、仕事の合間をぬってうちにドリルを届けました。
夜遅くになって、家に帰ってみると、どうやらドリルをやった形跡があります。虫食いのようにやりたいところだけ、あるいはわかるところだけをやったらしく、空欄だらけにもかかわらず、けっこう後ろの方まで書き込みがありました。まあ、これも沙羅の幼児性なのかもしれません。翌日から、一旦帰宅して、ドリルを見てやり、また仕事に戻るということにしました。
「沙羅ちゃん、最初から順番にやらないとダメだよ」
「だって、わかんないんだもん!」
「わからないところは、じいちゃんと一緒にやろうね」
1ページ目から、丁寧に見てやると、先日妻が「出来ない」と言っていた「5は3と□」という問題も難なく解いていきます。やはり学力の問題というよりは、気持ちの問題ということのようです。
「じゃあ、今日はここまでね」
「なんで?沙羅ちゃん次もやる!」
「今日はもういいから!夕飯食べて、明日早く起きられるようにもう寝なきゃダメだよ」
「もっとやりたい!」
「今日はもうここまでって言ってるでしょ!」
子どもの新しい知識への意欲っていうのには、びっくりさせられます。
子どもが勉強しなくて困っているっていうのは、やはりどこかで子どものやる気を削いでしまっているということなんでしょう。まあ、そういう点では家庭も学校も同じですね。
(文:大関 直隆)