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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2011/08/29(月)
第470回「人生の分かれ目 その1」
間もなく始まる2学期のために、孫の蓮は母親の麻耶と妹の沙羅と一緒に、22日、留学先の平島に向かいました(前回までの「じいちゃん、島へ行ける?」参照)。

島の他の子どもたちの帰島は、27日平島着の船ということだったので、一足早い帰島です。これまで何度か平島を訪れている麻耶と沙羅ですが、自分たちの学校のこともあり、島での滞在はいつも朝9時に着いて翌朝11時に船に乗るまでの26時間あまり。そのため島をゆっくり探索したり、蓮と遊んだりする時間がありませんでした。今回は、少し日にちに余裕があるということで、蓮とも相談し、22日鹿児島発の船で平島に向かい、28日平島発の船で帰ってくる予定で出かけて行きました。

前回、6月に平島を目指した麻耶は台風の影響で船が欠航。結局、鹿児島から屋久島に行きウミガメの産卵を見て、自宅に戻ってきました。7月の半ば、蓮を迎えに平島に向かおうとした私と妻は、やはり台風に阻まれ、予定の船が欠航。雲仙に2泊して台風をやり過ごし、次の船でなんとか蓮を迎えに行くことが出来ました。

そして今回。
26日、平島にいる麻耶からメールで、
「なんだか28日の船は欠航になるか、平島に寄港しないで鹿児島に戻ってしまいそうだから、遅れないように戻りたいなら、27日に奄美大島に向かう船に乗って、奄美大島から飛行機で帰った方がいいって島の人たちが言うんだよ。どうすればいいかなあ?」
と言ってきた(十島村営の「フェリーとしま」は鹿児島から7つの有人島に寄港しながら16時間半かけて奄美大島に行き、奄美大島から逆のルートで鹿児島に戻ります。それぞれの島周囲の波が高いときは接岸に危険を伴うので、その島には寄港せず次の島に向かいます)ので、
「そんなことは自分で決めなさい」
とメールを返したのですが、
「そうすると飛行機も取り直さなければならないし、島の人たちにあいさつする時間もなくなっちゃう」
とまたメールが来ました。

昨日(27日)もメールが来て、
「奄美大島に向うのはやめたんだけど、今日の船はなんとか人は降ろせたけど、波が高くてちゃんと接岸できなかった。それで食料が入っているコンテナを降ろせなかったのよ。この台風は速度が遅いから、10日間くらいは船も来られそうになくて、島の食料がなくなりそうだって言ってるよ。私達も10日も船が入らないと、持ってきた20万円じゃ民宿に払うお金が足りないよ。送ってもらうってことも出来ないし・・・」

我々が先日行った際にも、刺身のツマや長ネギ、生姜がないことから、ある程度は想像はしていましたが、私が考えていた以上に島の食糧の問題というのは、大きな問題のようです。魚以外の食料が簡単に手に入らない平島では、海が荒れると食料を運ぶコンテナが島に降ろせないだけでなく、漁にも出られないので、一気に食料不足が問題になります。離島の問題を改めて痛感させられました。
同じ日本でも、離島の生活というのは、首都圏に住んでいる私たちには、まったく想像もつかない生活なのですね。

去年、新潟の粟島を訪れたときに考えていた蓮自身の離島への留学のイメージというものは、これほど過酷な離島生活ではなかったのだろうと思います。いろいろ探したあげくたまたま蓮の留学先に決まったのが十島村の平島であり、そこは鹿児島から船で9時間かかる島だった。
離島に留学するという蓮自身の選択と留学先がたまたま平島であったという運命が、今後の蓮の人生を大きく左右することになると思います。
どんな人にも必ず大きな人生の岐路があるものです。「あのときこうしていれば…」「あのときこうしていなければ…」「あのとき××に出会ったから…」「あのとき××に出会わなければ…」、そんな風に思うことってありますよね。

8月初め、私のブログ「専業主夫 大関直隆の“Live and let live”」に1通のコメントが寄せられました。それは今からちょうど40年前、中学2年生の夏、北海道に転校していってしまった葛西隆能君からのものでした。
「私は中学2年の7月まで原山中学に在籍しバレー部に居た葛西隆能と申します。父親の急な転勤で原中から転校したのが 〜中略〜 突然のメールで驚かれたと思いますが、その後のバレー部がどうなったのか知りたくて連絡をさせていただきました。
埼玉県川口市××××  葛西隆能」
えっ、葛西君?

葛西君と過ごした時間は、中学生時代のほんの10ヶ月足らずの短い期間でしたが、彼は私の人生に大きな影響を与えた一人でした。

つづく

(文:大関 直隆)

2011/08/22(月)
第469回「じいちゃん、島へ行ける? その5」
たいら荘の庭には十数名の皆さんが集まっていました。
村会議員をしているというたいら荘のご主人Yさんは、しっかりとしたビジョンをお持ちの方で、そのお話から、地方を愛し、村を愛し、島を愛していることがよくわかります。
現在の平島小中学校の生徒・児童が、島のお子さん(蓮の里親さんのお嬢さん)が1人、先生方のお子さんが2人、島外からの留学生が4人(うち1人は島民の親戚のお子さん、うち一人は蓮)という構成で、来年度には島出身の子どもが1人もいなくなってしまう現状に大きな危機感を持っていて、「学校の存続は島の存続に関わる」とおっしゃっていました。
「大関さんは結婚相談もやっているんでしょ!? 島にも独身の男性がいるから誰か結婚相手を紹介してくださいよ」

インターネットがブロードバンド化されている(一昨年の皆既日食がきっかけでブロードバンド化されたそうです)こと以外まったく何もないということに加え、本土から船で9時間もかかる離島、平島に、そう簡単に嫁の来手がないことを一番よく知っているYさんは、笑顔で私に言いましたが、その目は決して笑っていませんでした。

翌朝、まだ学校の勤務がある教頭先生のお子さん(小学5年生)と蓮を除く子どもたちは、フェリーで島を離れました。里親のHさんもお父さんを残し、お母さんとお嬢さんは鹿児島に向かいました。
港で友達を見送った蓮がたいら荘に戻ると奥さんが、
「蓮、釣りに行くんでしょ。準備しな」
と声をかけてくれました。たいら荘のご主人が船で蓮と私と妻を釣りに連れて行ってくれるというのです。前日から釣りに行きたがっていた蓮でしたが、里親のHさんに
「釣りに行くなら、釣りのうまいやつが一緒じゃないと無理だから、明日連れて行ってやる」
と言われ、仕方なく前日は友達と野球をして遊んでいました。(それはそれで、友達みんなと私と妻というベストメンバー?で2チームに分かれ試合をしたのでとても楽しかったのですが)
私も蓮も釣りのことはHさんとの話と思っていたので、たいら荘の奥さんが声をかけてくれた意味がよくわかりませんでした。
「蓮、ほらっ、モタモタしないで早く準備しないと! 釣りをするにはタイミングってもんがあるんだよ。うちの人、蓮の準備ができるの待ってるんだから!」

驚いたことにそれは、たいら荘のご主人が蓮のために漁船(釣り船)を出し、釣り(というより漁といった方がピッタリくるのですが)に連れって行ってくれるという意味だったんです。
「釣りに行きたい」という蓮の気持ちがHさんからYさんに伝わっていたことにも驚いたし、蓮一人のために、「島で一番大きい」漁船(蓮曰く)を出してくれようとしているYさんのご厚意を、お礼のしようもないほどうれしく思いました。

島のそばとは言え、さすがに外洋。Yさん曰く「今日はべた凪」だったそうですが、私たちにとっては大しけ(ちょっとオーバー?でも本当にけっこうな波だったんです)の海を船は進みます。「釣り」というより「漁」というような「釣り」は、針とタコやイカの形をした疑似餌の付いたロープの先を海に放り込み、そのロープの元を握り、船を走らせるだけ。しばらく船を走らせると、握ったロープに「ガン」という手応えが…。ロープを蓮がたぐり寄せるとカツオが一本かかっていました。小一時間の釣りで、カツオ3本とキハダマグロを1本釣り上げ、島に戻りました。蓮はもちろん私も妻も初めての体験で、とても興奮しました。

「私がさばくから、蓮は”僕が釣りました”って島のみんなに配ってくるんだよ」
Yさんにそう言われた蓮は、釣った魚を先生方やHさんに配って回りました。みなさん、とても喜んでくれました。

蓮の平島での生活は、蓮にとっても私たちにとっても貴重な体験になっていることは間違いありません。「平島のよさは?」と聞かれれば、私は即座に「島民の皆さんの暖かさ」と答えると思います。
ただそこには複雑な思いがあって、屋久島や小笠原諸島のように「豊かな自然」と答えられない、評価の難しい小さな島の厳しい自然環境や生活環境があることも事実です。
蓮が一人で釣りをしようとしても、あまりに危険で子どもだけでは海に近づけない、遠くに冒険をしようとしても限られた島の中では「遠く」がない、平地が少なく、自由に作物が作れないので、採りたての魚の新鮮さはあっても、それをご馳走にする素材がない、魚以外の新鮮なものを食べようとしてもフェリーで運ばない限り手に入らない…。
もちろんパンや米といった主食でさえ同様です。そのフェリーも海がしければ島にはきません。

平島から戻って、いろいろな人に平島の話をしましたが、かなり長く話したあとでも、最後に皆さんに聞かれるのは、
「コンビニはあるの?」「レストランはあるの?」「電気屋さんとか洋品屋さんは?」とか…
はぁ、こりゃ全然わかってない!もう一度最初から話さないと…
「だからぁ、壊れかけみたいなジュースの自動販売機が2台、酒屋って書いてはあるけど、何を売ってるのかよくわからない酒屋のような普通の家が1軒、カップラーメン数個、お菓子を数種類、あとアイスクリームはあるけど、私たちにはいつやってるのかよくわからない駄菓子屋っていうか、雑貨屋っていうかが1軒。それだけだって言ってるでしょ! 菓子パン1個食べるんだって、鹿児島の親戚に頼んで船で送ってもらうんだよ!」
というわけです。

現在、様々なものに対する興味をどんどん広げつつある蓮が、子どもだけでは冒険もままならない平島の厳しい自然環境や閉ざされた生活環境の中で、どのように自由な創造性や豊かな人間性を養っていくのか、大きな課題も感じずにはいられない平島行でした。
港には島に残っていた教頭先生やたいら荘のYさんや多くの皆さんが見送りに来てくれました。
里親のHさんは、フェーリーにかけられたデッキからかなり離れた場所で着岸の手伝いをしていたので、ほとんど言葉を交わすことができませんでした。
「Hさんは?」
「あそこあそこ。バイクにまたがって手を振ってるのがそうだよ」
「ほんとだ!」
滞在中はほとんど話をしなかったシャイで優しいHさんですが、フェリーが岸から離れ、見送りの人がほとんどいなくなっても、最後まで手を振り続けてくれていました。私も妻も、そして蓮も、フェリーが港を離れ、Hさんの姿が遠く見えなくなるまで、ずっとずっと手を振り続けました。
(文:大関 直隆)

2011/08/08(月)
第468回「じいちゃん、島へ行ける? その4」
「蓮! 蓮!」
何度呼んでも、蓮は自分からこちらに来ようとはせず、うつむいているだけでした。そんな蓮に妻は自分から近づき、
「蓮くん、大きくなったねえ」
と声をかけます。私も、
「おまえ、ずいぶん細くなったなあ」
と声をかけました。それでも蓮の表情はほとんど変わらず、笑顔を見せることはありませんでした。そんな蓮の様子が大変気になりました。私も妻も、じいちゃん、ばあちゃんとの久しぶりの再会に照れているのではなく、平島の生活が蓮から笑顔を奪っていると感じたからです。「こんな子じゃなかったのに…」頭の中に何度も響きました。妻も同じような気持ちでいるようでした。
「この4ヶ月は蓮にとってなんだったんだろう。何とかしないと…」
そんなことを考えながら、迎えに来てくれていた車で3泊お世話になる民宿たいら荘に向かいました。

平島は思いのほか平地がなく、海の近くには家がありません。島全体が小高い山のような形状で、集落はその中腹にあり、それぞれの家もまとまってあるというよりは、数件ずつが小さなまとまりとなって、それが点在しているといった感じです。
集落は、その一カ所のみで、公共施設として、コミュニティーセンター(出張所兼「フェリーとしま」乗船券販売所)、診療所(医師はおらず、看護師が1名常駐)、小中学校(小学校、中学校で一つの学校になっている)があり、コミュニティセンターには、フェリーが着く日に開く「赤ひげ温泉」が併設されています。
民宿が3件ありますが、特に観光施設というものはなく、トカラ列島で唯一、列島全島を見渡せる大浦展望台や甌穴(岩盤のくぼみに入った小石が満潮時の潮の強い流れで回転して岩石を削ってできた丸い穴)、平家の穴(平家の落人が都からの追手を監視するため作った穴だと言われている)、千年ガジュマル(樹齢千年を超えると言われるガジュマルの木)などが数少ない観光スポットで、外から平島を訪れる観光客のほとんどは、釣りかバードウォッチングが目的です。

たいら荘で荷物をほどくと、持参したお土産を持って、まず学校へ向かいました。学校はたいら荘から徒歩で7、8分のところですが、道はアップダウンが激しく、距離以上に感じました。学校に行く途中、偶然学校から帰ってくる蓮と里親さんのお嬢さん(中学3年生)に逢いました。二人の様子は、とても仲が良さそうに見えたので、港での不安とはやや違うものを感じました。

校長先生はじめ、これまで何度かメールのやり取りをさせていただいた教頭先生、担任のH先生、その他全員の先生にお会いすることが出来ました。小中学生7名に対し9名の教員がいる学校というのは、私がこれまで経験してきた学校というものとは、かなり異質なもので、まるで映画やTVドラマにでも出てくる数十年も前の学校のようでした。
都会の学校の雑な管理教育とは正反対の暖かさ、人間同士のつながりというものが教師と生徒の間にあるように思います。夏休み前に、9名の先生方のうち7名が本土に出張で、私たちと同じ船で島に戻ってきたとのことでした。もうすでに終業式は終わってしまっていて、出張だった先生方は、台風の影響でフェリーが欠航になり、鹿児島で一週間ほど足止めされ、終業式には出席できなかったそうです。
蓮が言うには「終業式は先生が二人しかいなかったんだ」そうです。終業式に配られるはずだった夏休みの課題も帰島した先生方が本土から持ち帰る予定だったので終業式に間に合わず、このあとコミュニティセンターに子どもたちが呼び出され、そこで配られていました。

学校のあとは、里親のHさんのお宅へ向かいました。里親になってくださっているお父さんは発電所で働き、お母さんは学校で給食の調理員をしています。お話をしているとお二人が蓮をかわいがってくださっている様子がよくわかります。お嬢さんもとても気の利く優しいお嬢さんで、妹しかいない蓮にとっては、格別な生活になっているに違いないと思いました。

島を歩くと必ず皆さんに声をかけられました。
「蓮くんのおじいちゃんとおばあちゃんかね。蓮くん、大きくなったでしょ」
「蓮くんはとっても元気にやってるよ」
「こんなところによく来たよねえ」
道で会う人全員が蓮を知っているどころか、まるで叔父や叔母、親戚といったような雰囲気。大家族の中で育った私には、どことなく懐かしい感じを抱かせました。
この日の晩、島では島の生活の様々なことを話し合うための役員会が開かれました。
「役員会のあと、うちの庭に集まって飲み会やるみたいよ。よくやるんだよ、うちで。うちの人が村会議員をやってるから」
と、たいら荘の奥さんが声をかけてくれました。
「どういう人たちが集まるんだろうねえ? 島の皆さん全員で蓮を育ててくれているんだから、集まりの邪魔をしないように挨拶くらいはした方がいいんじゃないかねえ?」
夕飯のあと、部屋でウトウトしていると、外から何人かの声が聞こえてきました。

最終回のつもりがまたまた長くなっちゃいました。
とりあえず、つづく
(文:大関 直隆)

2011/08/01(月)
第467回「じいちゃん、島へ行ける? その3」
深夜11時50分に平島(たいらじま)目指して出航した「フェリーとしま」(奄美大島名瀬行)は鹿児島湾を静かに進みます。台風の余波はまったく感じられません。0時半過ぎ、
「全然揺れない。エンジンかけて止まってるバスに乗ってるくらい」と娘の麻耶にメールを送ると、
「出航して40分じゃ、まだ湾内じゃない?」の返信が。
ほんとかよぉ?もうずいぶん乗ってるのに…。まあ、最後までこんなもんじゃないの?と高をくくって、ウトウトと眠ってしまいました。
それから1時間ほどした1時半、突然目が覚めると、吐き気がこみ上げてきます。船が左右に大きく揺れているのがわかります。まるでエレベーターが停止するときに感じる、あのフワッとした感覚。そんな感覚が、一瞬の隙もなくずっと押し寄せてくる感じ。
「あぅ、気持ちわりぃ…。うっそ〜! こんなに揺れんの!? やっと1時間半、あと7時間半…。信じらんな〜い! もう降りた〜ぃ! はぁ…」
娘に、
「半端じゃなく揺れてる。寝てられるレベルじゃない」
とメールすると、
「でしょ〜(笑) 一番酔わないのは背中をつけて寝てること、ってKさんが教えてくれた」という返事が。
そう言われてもまだ娘の言うことが信じられず、「そういえば、高校で伊豆大島に行ったとき、やっぱり船が大きく揺れて、ほとんどの人が船酔いで、船室に転がっていたっけ。あのときは、甲板に出て、進行方向から来る風を身体いっぱいに受けながら、歌を歌っていたら酔わなかった」ということを思い出し、甲板に出てしばらく歌を歌っていました。
「酔っていないイメージ」を必死で作って歌ってみると、まあ多少は我慢が出来ます。1時間ほどはなんとかそれでしのいでいたのですが、ますます船の揺れは大きくなるばかり。大きな波を越えたあと、船底から響く「バッシャーン」という波の音が聞こえる度に「あぁ揺れてる〜」という意識が頭の中を駆け巡り、「酔っていないイメージ」なんてあっという間に吹き飛んで、それほど気持ちが悪いわけでもないのに、今度は勝手に「酔っているイメージ」が浮かんできてしまって、とても耐えられなくなりました。
「背中をつけて寝る」、まあ試してみるか…。

あと6時間以上船に乗っていなくてはならないことを考えると、娘の言うこと(Kさんの言うこと)を試してみるしかなくなりました。
「んっ? これなら何とか耐えられそう…」
たまには子どもの言うこと(というよりは船に乗り慣れているKさんの助言なわけですが)も素直に聞いた方がいいみたいです。
午前8時を過ぎると、平島の影がどんどん大きくなってきました。影が大きくなってきたとは言え、とても小さな島です。
「間もなく平島に入港します。お降りの方はお忘れ物のないようご準備をお願いします」
「あれが蓮のいる島? 無人島みたいだね」
平島が小さいことはデータの上でわかっていましたが、9時間も船に乗り、広い海を航行してきたあとに見ると、さらに小さく感じました。無人島のように見えるのは、おそらく海岸の近くに家が見えないからだろうと思います。
港を見れば、船が着くための整備は進んでいるので、無人島でないことはわかりますが、それはほんの一部。港湾設備にしても、「フェリーとしま」の大きさから想像するよりとても小さなもので、いろいろな観光地の観光船だけが着く乗船場程度のもののように感じました。

船の上から、港に出迎えに来てくれた島の皆さんが見えます。
「あれがHさん(蓮の里親さん)かなあ? あっ、そうだよ、きっと。ほらほら、たぶんあれがお嬢さん。あっ、蓮もいたぁ!」
約4ヶ月ぶりに見る蓮は、背も伸び、かなりスッキリとした体型になった感じ。船の上からでもそんな蓮の変わりようが見て取れました。
船を降り、Hさんをはじめ、蓮の学校の教頭先生、お世話になる民宿たいら荘の方にご挨拶をしました。一目見ただけで優しさの伝わってくるような方々です。
「ああ、やっぱり蓮をここに来させてよかった」
そんな思いがこみ上げてきました。
「あれっ? 蓮はどこ行った?」
蓮が見あたりません。あちこち目で追うと、島の皆さんに隠れるように、野球帽を目深にかぶり、一番後ろでもじもじしながらうつむいています。
「蓮! 大きくなったなあ!」
と声をかけると、ちょっと顔を上げてニコッとしましたが、またすぐにうつむいてしまいました。
ん? あんまり蓮らしくない…

最終回につづく
(文:大関 直隆)

2011/07/25(月)
第466回「じいちゃん、島へ行ける? その2」
17日は日曜日ということもあってか、滑り出しはとても順調。平成22年3月28日の中央環状線山手トンネルの開通により、首都高速5号池袋線から東名高速へ向かうのに、いつも渋滞で時間を取られていた竹橋JCTを通らずに行けるようになったので、曜日や時間帯によって我が家から東名高速までの所要時間は30分以上も短縮されることになりました。

「いつも通り海老名SAで止まるかねえ…」
これから1000キロを遙かに超える距離を走るというのに、自宅からたった70数キロしかない海老名SAで休憩を取るというと皆さんに笑われてしまうのですが、海老名SAで止まるというのは、私にとって出発の儀式のようなもの。
距離が遠ければ遠いほど、「よし、行くぞー!」みたいな心のギアチェンジが必要で、北九州や倉吉(鳥取県)に行く時も海老名SAで休憩していました。

ところが今回は、竹橋JCTを通らずにすんだおかげで、海老名SAまではたった45分足らず。結局「止まるのはやめよう!」と、心のギアチェンジなしに、雲仙を目指すことになったのです。

しかし、これが誤算。夕方5時過ぎくらいに出発し、海老名、浜名湖、大津…という休憩のイメージで、浜名湖で鰻を食べようと思っていたに、まず寄ったのは午後8時45分の大井SA。
連休のためかレストランは閉店の時刻が近いというのに、外まで並んでいる始末。およそ20分ほどでしたが待たされている間に、売り切れのメニューが続出。ショーケースの中のメニューのプレートが次々と裏返されます。そんな中で私が頼んだのは「マグロカツ丼」と「ミニ浜っこ丼(シラス丼)」、妻が頼んだのは「海鮮丼」。鰻ではなかったものの、一応、地のものらしきものだったので、「まっ、いいかぁ」という感じ。

ところが併せて頼んだドリンクバーにびっくり。私はホットコーヒー、妻はホットティーを飲もうとして頼んだのに、飲み物を取りに行ってみるとコーヒー、紅茶がない。とりあえず私は乳酸菌飲料、妻はオレンジジュースをカップ半分くらい注いで飲みました。
次にコーヒー、紅茶と席を立ったのですが、やはりコーヒー、紅茶が見あたらない。
よく見ると「ジュースドリンクバー」と書いてある紙が貼ってある。
「なにぃ〜!」
仕方なく、もう一度乳酸菌飲料とオレンジジュースになって…。不思議なもので、人間一つ調子が狂うとこんなものなんですよね。
とはいえ、順調な走りは続きます。

翌18日午前1時、大津SA着。3時40分、吉備SA着。6時30分、宮島SA着。8時30分、佐波川SA着。そしておまけに関門海峡を眺める壇ノ浦PAに10時15分着。やはり本州から地続きでない九州に渡るというのは何とも言えない感慨があるものです。しかも壇ノ浦PAは北九州に講演に訪れた時に宿泊した国民宿舎「めかり山荘」と楽しく見て回った「門司港レトロ」を海の向こうに見渡せる、関門橋の下関側の付け根のところにあります。
懐かしい気持ちで関門海峡を眺めながら、ふぐの唐揚げ(メニューは「ふく」となっていましたけど)と「ふぐの薄造り」(てっさ)を食べました。

そしてこの日宿泊する雲仙へ。雲仙では昭和天皇や美空ひばりさんも泊まったことがあるという老舗の宿に泊まりました。台風の影響もそれほど大きくなく、到着後は宿の周りを散策し、翌19日も台風の進路を考えて同じ宿に宿泊することにしまして、長崎観光をしました。回りたかったところをすべて回れたわけではありませんが、平和祈念公園では、多くの原爆犠牲者の方々に思いをはせ、シーボルトやグラバーの残した業績に感嘆しました。

そしていよいよ20日。鹿児島から離島、平島へ向かう日。フェリーは何とか出航予定とのこと。妻は何度か孫の蓮(れん)に長いメールを送っていましたが、返事がありません。

ところが、
「鹿児島でKさんにご挨拶してから蓮くんのところに行くからね」
(「Kさん」とは蓮の山海留学に当たって大変お世話になった当時の教育委員会の担当課長さんです。この四月住民課に移動になりました)
というメールにはすぐ「Kさんは住民課にいるよ」の返事が。
「まったく蓮は何を考えているのだか…。一生懸命に打ったメールには全然返事よこさないで、“Kさんは住民課にいるよ”だって」
「まったく変な子だね。そういう子だから、一人で離島に留学なんかするんだろうけどね」

午後4時頃に鹿児島に着き、教育委員会の皆さんと住民課にいるKさんにご挨拶をし、午後11時50分のフェリー出航までの間に夕飯を食べました。もちろん、鹿児島の黒豚です。
十島村が運行する「フェリーとしま」は思っていたより大きい船でした。指定寝台を取ろうとしたところ、満室とのこと。結局、2部屋しかない一等船室を取ることに。
一等船室って本当にすごいですね。二等船室は一人分が畳1畳ほどのスペースがあるので、ちょっと手を広げれば隣の人にぶつかってしまうのに。一等船室はというと、人数分のベッド、洗面台、お茶の用意。その上、隣には一等船室の利用者のみが使える20数畳はあると思われるサロン。もうただただ唸るのみ!写真がアップできないのが残念です。

深夜11時50分、汽笛とともに台風のしけが残る真っ暗な東シナ海を平島へ出港です。
じいちゃんも、島へ行くぞー!

つづく
(文:大関 直隆)

2011/07/19(火)
第465回「じいちゃん、島へ行ける? その1」
「また台風発生だって!」
「ほんとに?」
「まだ遠いけど、九州の方に来るらしいよ」

7月13日発生した台風6号は、当初の予想通り、九州に接近しました。勢力が相当大きい台風ということもあり、18日午後11時50分鹿児島発の「フェリーとしま」は早々と欠航が決定。孫の蓮(れん)のいる平島(たいらじま)へ、そのフェリーで向かう予定だった私と妻、そして私の母(蓮の曾ばーちゃん)は、予定の変更を余儀なくされました。

私が身体の問題で飛行機に乗れないため、私と妻は17日に自家用車で、私の母は18日に飛行機で鹿児島に向かい、鹿児島で落ち合うことになっていましたが、80歳になる私の母が、いつ出向するかもはっきりしないフェリーのために、大型の台風に向かうように1人旅をするのはちょっときびしいのではと「やめた方が…」と話しましたが、母から返ってきた答えは「行くって決めちゃったから」というものでした。「行く気になっちゃってるのを今更…」ということのようです。

いったんは「それならそれで」ということになったものの、やはり尋常でない大きさの台風が九州直撃はほぼ確実。18日羽田発鹿児島行の飛行機が果たして飛ぶのか、18日欠航の「フェリーとしま」の次回出航予定20日夜の便は果たして出向するのか、いったいいつからいつまでどこに足止めされ、どこに泊まればいいのか…予定のはっきりしないことだらけになってしまい、さすがに母は今回の平島行をあきらめることにしました。

今回の私たちの平島行は、夏休み期間中帰宅することになっている蓮の迎え。夏休み中は、蓮をお預かりいただいているHさんご家族も島を出るということのようだし、平島小中学校の先生方も、島を出て本土のお住まいにお戻りになるということらしいので、私たちは蓮を引き取りに平島に行かないわけには行きません。20日もダメなら、22日の便ででもです。18日の船で平島に行くという予定で、仕事を空けてしまったので、旅行自体の日程は変えず、家を出るのは17日、戻ってくるのが25日ということで出来るだけ台風の進路から遠いところ経由で、20日の午後には船の出る鹿児島に行けるよう段取りしました。

はじめに考えたのが、長年あこがれていた黒川温泉。以前北九州に講演に訪れたとき、最後の最後まで湯布院と迷ったあこがれの温泉。(第199回参照)その時は距離の関係であきらめたのですが、今回改めてインターネットで調べたり、電話をかけたり…。
黒川温泉から鹿児島までは4時間ほど。距離の点からいえば、ピッタリだったんですが、最終的目的地は平島で、その前座であることを考えると、宿の雰囲気と値段の関係がどうも納得がいかない。その上、台風の進路が九州東岸を南から北へなぞるように進むのが有力で、その通り進んだ場合、ちょうど黒川温泉に着く頃から激しい雨と風になり、ホテルから一歩も外に出られないのはもちろん、露天風呂には入れそうもない。しかも道路状況もあやしくなる。
温泉が魅力の黒川温泉で、露天風呂がダメというのはいかにも残念ということで、台風の進路から最も遠い、九州の北西部、しかも訪ねてみたい長崎周辺で探し、結局、鹿児島までの距離は遠いけれど、とりあえず18日は雲仙に泊まり、19日は台風の進み具合により、鹿児島に泊まるか、熊本にするか、あるいはそのまま雲仙にするか考えることにしました。
長崎は高校の修学旅行で一度訪ねたことがありますが、やはり一度はゆっくり訪れてみたい地。今回もゆっくりとはいかないけれど、天気さえ許せば、市内を観光してみたい。原爆死没者追悼平和祈念館、浦上天主堂、シーボルト記念館、グラバー園…。
そんな思いで出かけました。
17日、午後7時。台風に向かっていざ出発!
はたして雲仙に到着するのは何時になることやら。

距離は約1280キロ。1日で走破する距離としては、これまでの湯布院〜自宅を抜いて最長。食事とトイレ休憩(少し仮眠?)を含めて、16、7時間というところか…。
たかが孫の迎え、されど孫の迎え…。
しっかり“じじ、ばば”を楽しませてくれる孫に感謝、感謝!
さて、『じじばば珍道中』の始まりです!

つづく
(文:大関 直隆)

2011/07/11(月)
第464回「いい塩梅」
「痛いよぉ、痛いよぉ」
ドイツから一時帰国している努に怒られた孫の沙羅が、私が原稿を打っている部屋に来て、しつこく泣くので、「うるさーいっ! あっちへ行ってろーっ!」と今度は私に怒鳴られ、その様子を見ていた努にまたまた怒られ、私のいる部屋から遠い、玄関脇の部屋に無理矢理連れて行かれて、そこでなにやら痛がって泣いています。
その声がかすかにリビングまで聞こえてきていました。

努は先月23日に帰国したのですが、24日から娘の麻耶と沙羅(麻耶の娘)と3人で、孫の蓮(れん)(沙羅の兄)の山海留学をしている平島(たいらじま)に行く予定でした。ところが運悪く、台風の接近で、鹿児島から平島へ行く“フェリーとしま”が欠航。平島からご連絡をいただき、家から羽田に向かう前に欠航の情報はわかっていたんですが、安い航空券を取ったため、便の変更は不可。「とにかく鹿児島まで行ってあとは考える」ということで、3人は出かけて行きました。
元々の予定では、24日晩のフェリーで平島に向かい、25日平島着。麻耶と沙羅だけ26日朝のフェリーで鹿児島に向かい、26日夜鹿児島着。27日昼の飛行機で鹿児島を発ち、羽田に戻ってくるという予定でした。

努はというと、平島を発つのを麻耶と沙羅より1便遅らせ、7月1日のフェリーで平島を発ち、翌日鹿児島から屋久島へ行き、そこで数日キャンプをして自宅に帰ってくる、そんな予定だったわけです。結局、鹿児島に着いた3人は、平島ではなくフェリーが欠航にならなかった屋久島へ行くことに。
帰宅後学校がある麻耶と沙羅は平島行きをあきらめ屋久島で1泊後自宅に戻り、努だけが屋久島のあと平島に行くことになりました。
平島に行けなかった麻耶と沙羅は、行けなかったおかげで、屋久島でウミガメの産卵を見ることができ、家に戻ってきたときには、平島行きとはまた違った興奮状態でした。

「ウミガメが卵産むのを目の前で見たんだよ。手でも触れるくらいのところで産んでるんだよ。砂に穴を掘ってすごくたくさん産むんだよ。産んだら今度は、どんどん砂をかけて、かけたら産んだところがわからないように砂をならして…」
麻耶も沙羅も夢中で話してくれました。

そんな体験を努と共有した沙羅は、努が平島から自宅に戻ったあとも努にべったり。努は努で、母親の麻耶から事ある毎に激しく叱責される沙羅をかわいそうに思ったのか、沙羅が麻耶に怒られそうになると、すぐに引き取り、優しい口調で沙羅をなだめては、丁寧に諭したりしていました。

ところが今日(10日)は朝から3時間ほどテレビの取材で録画撮りがあったり、努、麻耶、沙羅の3人で私の実家(沙羅の曾祖母の家)に行ったりしたので、どうも沙羅がいい気になっていたらしく、マンションの廊下で靴に付けるフラッシュローラーを「はずす、はずさない」で、珍しく努が沙羅を強い調子で怒ったらしいのです。

それが文頭の出来事。
ちょうどそこへ妻が仕事から帰ってきました。
「沙羅が手首が痛いって泣いてる。相当ひどそう!」
(泣いてるのはわかってるけど、相当ひどそう?)
玄関を入るなり沙羅の様子を見た妻がそう言うと、氷を袋に入れて沙羅のところに行き、手首を冷やしながら、沙羅をリビングに連れてきました。
それからが大変。痛がって騒ぐ沙羅の手を氷で冷やすわ、休日診療の病院を探すわ…。沙羅の話では、「努に抱きかかえられて玄関脇の部屋に連れて行かれるとき、抵抗しようとして壁に手をついたら痛くなった」とのこと。ちょうどついた手の角度が悪かったらしく、どうやら軽いねんざをしたよう。
痛がってはいるものの15分くらい経っているのに腫れもないし、冷やして赤くなっていることを除けば赤みや内出血もない。「病院へ行くほどじゃないんじゃないの」ということに落ち着き、手首に切った段ボールを当て、私の持っていた湿布を貼って、包帯を巻いてやりました。

そこまですると、痛みはどこかに行ってしまったようで、普段通り笑ったり、悪態をついたりする沙羅に戻り、片手でですけれど、スプーンで私の作った唐揚げや肉じゃが、麻耶の切ったスイカをたくさん食べていました。

沙羅のねんざの直接の原因を作ってしまった努は、沙羅に謝ることしきり。私の見立てでは、痛がる沙羅もかなり大げさなようなので、沙羅を叱った努が沙羅に謝るようなことではないけれど、まあ怒り方もほどほどにという教訓というところですかねえ。
そういえば、私も真(まこと)に馬乗りになってふざけていたら、真がむち打ちのような状態になり、慌てて病院に連れって行ったことがありました。

日本にはいい言葉がありますよね、「いい塩梅(あんばい)」。料理の時の調味料の「塩」と「梅酢」の割合からきているらしいですけれど、物事の程度を料理に例えて言うなんて、いかにも日本的で情緒がありますよね。

皆さんも怒るのも、遊ぶのも子どもにとって「いい塩梅」ということで、いい子育てをしてくださいね!
(文:大関 直隆)

2011/07/04(月)
第463回「隠れた心理 その2」
この子は本当は勉強をしたいのかなあ、したくないのかなあ?

問題に向かっているときの様子を見ると、楽しそうとは言えないけれど、かといって嫌そうなわけでもない。まさかお母さんが子どもに目指させている将来のことをきっちり理解しているわけもなく、そう考えると問題に向かっているときのこの子の態度は、母親に対して媚びているのであって、むしろ母親に対するぎすぎすした話し方の方がこの子の本心?
少しうがった見方かもしれないけれど、問題を素直にこなす裏側には、母親に対する不満がくすぶっているようにも見えました。

カウンセリングや教育相談に訪れる方の多くは、表面には現れない心の葛藤を抱えています。じっくりお話を聞き、少し心が開いてきたところで、箱庭療法(心理療法の1つで、学校の机ほどの大きさの箱の中に砂を入れ、そこに様々な物や人形などを置いていく表現療法)を利用することもあります。
箱庭療法は、京都大学名誉教授で元文化庁長官の故河合隼雄氏が1965年に日本に紹介したもので、その後急速に広く普及しました。この箱庭療法が、日本ほど急速、かつ広範に普及した例は、世界にもないそうです。
それは、日本文化が、欧米に比べ非言語を重視する文化であるからだろうと考えられていますが、自然を模して造る日本庭園や盆という限られたスペースの中に自然の美を表現する盆石などが文化として根付いている日本においては当然のことですね。

「この盆栽、買ってく!」
日光戦場ヶ原のドライブインに寄ったとき、突然妻がそう言いました。
「はっ? なんで盆栽? いつも枯らしちゃうでしょ!?」
「買ってくって言ってんのに、そういうこと言うかなあ…。ったくぅ!」
「盆栽買うなんて言ったことないじゃん!」
「寄せ植えになってる盆栽って、箱庭に似てるでしょ。だから、研修室に置いておく」
「ほうっ。そういうことね。だいたいその寄せ植えの盆栽みたいに花の咲かない鉢植えは嫌いでしょ。どうかしたのかと思った」
「心理学とかカウンセリングじゃ、“療法”なんて偉そうに言ってるけど、日本にはもともと箱庭みたいなものがあるでしょ。例えば日本庭園とかこの盆栽とか。限られたスペースの中に自然の風景を表現するみたいな…。龍安寺の石庭なんかだってそうだよね。そういうものって一つの表現で、作る人も、観る人も心が癒されたりする。もちろん、作ったものにはその人の心が表れるし…。大人も子どもも箱庭を作らせるとおもしろいよ。人によってまるっきり違うもの作るから。人が作ったもの見ると“こんな風な作り方もあるんだぁ”みたいな…。あなたもやってみれば!?」

クライエントさんの作る箱庭には、様々な個性が表れます。一見おとなしそうに見える子どもの作る箱庭が武器やバイオレンスで満たされていたり、一見乱暴そうで、がたいの大きい男性の作る箱庭がかわいいキャラクターで満たされていたり…。
箱庭には、その人の隠れた心理が表れます。それまで心に大きな闇を抱えていた人が箱庭を作ることで癒されることもあれば、深層心理の分析に役立ち、自己を客観的に見られるようになることもあります。

ちなみに私は、箱の中の砂を出来るだけ丁寧に平らにならし、4〜5センチほどの人形(布製の小さなぬいぐるみのような)を必ずペアにして何カ所かに配置します。不思議なことに何回やってもそれは絶対に変わることがありません。というか、そうでないものは絶対選ばない。無理に違うものを選んで並べると、どうも心がモヤモヤして、結局また元に戻ってしまいます。そのモヤモヤとした感じは、耐えることが難しいんです。
本当に不思議です。

皆さんのお子さんにも、外からは見えない隠れた心理があるかも…。
ファミレスで塾の宿題らしきものをやっていたあの子の隠れた心理は如何に…!
隠れた心理が隠れたまま子どもが成長していくと、かなりの年齢になってから、様々な問題が吹き出すものです。
心に秘密があるということは自立という観点から、必ずしも悪いことではないけれど、それが重荷になるようなことであるなら、ない方がいいですね。親としては、子どもの心理を探るというよりは、重荷になるような隠れた心理を持たなくてすむような親子関係を築いていきたいものですね。
(文:大関 直隆)

2011/06/27(月)
第462回「隠れた心理 その1」
いつものように駅前のファミレスでお茶しながら、パソコンを打っていました。前の晩、両側の脇腹に出来た湿疹があまりに痒かったのとあまりの暑さによく眠れなかったせいか、ついうとうと。
「全部やったの?」
「まだ」
「なんでまだなのよ。もうとっくに終わってなきゃおかしいでしょ!」
どうやら、どこかの塾の宿題らしきものの話らしい。夢心地の、まさにその意識の中にそんな会話が飛び込んできました。夢なのか現実なのか、曖昧な意識。

そういえば、つい先日も、私の寝ている和室の襖のところに立って、
「お金もらえる? 5万円くらいでいんだけど…」
って言ってきたやつがいたっけ。
「急に5万円なんて言うんじゃないよ。財布にそんなに入ってるわけないだろっ!」
と言ったものの、しばらくしてタンスの中にある財布の中身を確かめにいこうとしたら、襖の向こうのリビングが真っ暗。
「?」 
どうやら財布の中身を確かめに立つまでは夢だったようで、いつもいつも翔から「お金」と言われる恐怖心が現れたらしい。その夢があまりにリアルでしかもナチュラルだったので、現実との区別がまったくつきませんでした。翌朝、
「おまえ、夜中に“お金”って来なかったよなあ?」
と翔に確かめると、
「行かないよ」
はぁ、やっぱり…。
そんなことがあったあとだったので、
「なんだ今度は? 孫が勉強を嫌がってやらないことに対するイライラ?」
と夢の中で冷静に考えている自分がいる始末。

「ちゃんとここからやりなさいよ!」
(あれっ? だんだん声が大きくなってきた…)
その威圧的な声に心ががさついて目を開けると、
(なんだ、現実かぁ!)
隣の席にお母さん、そのまた隣の席に孫の蓮と同じくらいの男の子が座っているじゃありませんか。うとうとする前は年配の女性(おばさんとおばあさんの中間くらいの)が二人、話をしていたのに…。いつの間にか入れ替わっていたんです。時計を見るとどうやら20分くらい経っています。

お母さんの声はますますヒートアップ。そのうち男の子の方も抵抗を始めます。
「お母さんのデザートの上にアイスが乗ってるでしょ。それ半分残しといてよ」
「アイスなんて乗ってない!」
「乗ってるじゃないかぁ!?」
「これはアイスじゃないでしょ!」
あらあら、こんなところで大手進学塾の問題集を広げながら親子げんか。やり取りがかなりとげとげしているので、ケンカになるのも無理はありませんよね。

いまごろ、うちの孫は平島の里親さんのところで、近づいてくる台風(24日のことなので)の備えをしているところだろうなあ…。
同じ年齢にもかかわらずこの落差。
隣に座った親子は、ぎすぎすとした会話をしながらも、それなりに問題をこなしていきます。問題に向かっている瞬間の男の子の様子は至って素直。口を飛び出す言葉とのギャップに違和感さえ覚えます。

どうやら、与えられた課題が全部すんだらしく、男の子がノートを閉じお母さんに渡すと、お母さんが解答を見ながら答え合わせを始めました。そして、男の子は“自分の作業は終わった”とばかり、お母さんの前に残された半分のデザートをお母さんが答え合わせをしているノートの上から手を出して、自分の前に置くと、やおら食べ始めました。

つづく
(文:大関 直隆)

2011/06/20(月)
第461回「人の行く裏に道あり… その2」
蓮から麻耶のところにメールが来ました。東MAXの弟、東智宏さんを携帯電話のカメラで撮ったらしい写真が添付されていました。さすが芸能人というか、ニコニコと明るく楽しそうな智宏さんの写真です。ずいぶん多くの時間を遊んでいただいたり、お話をしていただいたりしたようで、蓮曰く、
「話がすごく合う」
んだそうです。
おいおい、何を言ってるんだ!
東智宏さんが一生懸命合わせてくれていたに決まってるだろうが!
「野球のこととか、サッカーのこととか」
縁日や酉の市の露天商の人たちと普通に話をしている私を見て、
「じいちゃん、今の人とお友達なの?」
という蓮のことだから、ほんの少し話を合わせてくれただけで、とても仲良しの気が合う仲間とでも思ってしまうんでしょうね。
テレビではどんな扱いになっているんだか…
ドイツで踊っている努が、蓮のいる平島に行くため(?)に今週帰ってくることになりました。23日(木)に成田に着き、翌24日には羽田から鹿児島に向かい、その日の夜11時50分発のフェリーで平島に向かいます。
「向こうでキャンプするから、キャンプに必要なものを揃えておいてよ。こっちにそういう店がないし、日本に戻ってからだと時間がないから」

まったく変なことを頼んでくるやつです。平島には食料を調達できるようなお店もないので、キャンプをするとなれば、テントはもちろん、炊事をするための道具や食料自体が必要です。フェリーがしけで港に入れず、3日くらい滞在が延びることあり、当然米は2〜3sは必要。米を持って行くとなれば飯ごうだって必要です。ついさっき、麻耶とホームセンターまで行って、キャンプの道具を揃えるといくらくらいかかるのか調べに行ってきました。そのことを努にメールすると、
「屋久島に行きたいんだよね。屋久島がだめなら奄美大島。Amazonでテントを注文しようとしたら、クレジットカードでうまく買えなかったんだよ。だからそっちで注文しといてくれる?」
あほっ! それを早く言えっつーのっ!

屋久島や奄美大島なら観光地ですから平島とは違います。ツアーで行くようなところですから、もちろんお店もあるし食べるものに困らない。テントだって注文するだけなら簡単なこと。あーじゃこーじゃ麻耶と騒いでいたのは何だったんだっ!
そんな努も先日、政治家の表彰式のようなものがあって、メルケル首相の前で踊ったとか。努がモダンダンスを始めたきっかけは、なんと「妹の麻耶がやっていたから」。しかも、バレエやモダンダンスの世界は男が必要なのに男は少ない。だったら、もしかして仕事になるかもよ。そんな発想です。
おいおいそんな動機でプロのダンサーになるな!
やっぱり、熊川哲也君(ご両親がダンサーとかいうわけではないようですが)のように毛並みのいいサラブレッドでないと…。とりあえず、「熊川君と楽屋が一緒だったことはある」とか言ってましたが(笑)

真も真。進学高にいたわけだから、演劇を志すとしても、普通なら日大芸術学部演劇学科や早大演劇研究会あたりに入るっていうのがメジャー(表の道?)。ところがまったくそんな気もなく、「大学は行かないから!」と一人で騒いで、SET(スーパー・エキセントリック・シアター)へ。私や妻が反対するわけでもなし。にもかかわらず、「大学には行かない」と勝手に大騒ぎしたのはなんだったのか…。結局、どう見てもマイナーな演劇人。

そして翔も翔。ゴルフをまったくやらない父親の子として、ゴルフの道へ。だらだらとすでに日大の6年生(たまに新聞に載ると4年生として掲載されるんですけどね)。翔がゴルフを始めたのも、姉の麻耶がゴルフをやっていたから。どうも我が家のキーマンは麻耶らしい。やっと今年、初めて日本アマチュアゴルフ選手権に出場することになって…。数年前、埼玉県アマチュアゴルフ選手権で優勝争いをしたとき、新聞記者さんにインタビューされ、父親がゴルフをやらないことを話すと、ゴルフの成績よりも「お父さんがやらないのに珍しいねえ!」ともっぱらそっちの話題に。翔もやはり遼君や他の若いゴルファーのようではなく、どこかマイナーのイメージ。

株式投資の有名な格言に「人の行く裏に道あり花の山」(人気があり株価が上がると買いたくなり、人気がなく株価が下がると売りたくなるという投資家の心理を戒めたもの)というものがありますが、まさに我が家の子どもたちはそれを地でいってる感じ。

日頃、「人の行く裏に道あり花の山、表に道なしゴミの山」(これは私の創作。本当は「人の行く裏に道あり花の山 いずれを行くも散らぬ間に行け」という千利休の言葉らしいんですが…)と言っている私としては、本当に「花の山」があるといいと思うんですがね。子どもや孫たちが進んでいる「裏の道」に本当に「花」があるのかな?
少なくとも「人の行く裏に道あり茨道」とかならないといいですけどね。もっとも、一番重要なのは、「何が花なのか」ということなんでしょうけれど。
(文:大関 直隆)