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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2011/11/07(月)
第480回「幼稚園の送迎バスが押しつぶされた被災地、石巻市門脇町から」
<5月29日掲載 河北新報ニュース抜粋>
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1072/20110529_01.htm

 激震に襲われた門脇小。学校にいた児童約230人は校庭から墓地脇を抜ける階段を使い、日和山に避難した。日頃の避難訓練は津波を想定し、日和山に逃げることを鉄則としてきた。
 校庭にいた佐藤裕一郎教頭(58)は、住宅街の電柱が次々となぎ倒されるのを見た。津波が押し寄せてくることが分かった。校庭に避難していた住民約50人を校舎に誘導。間もなく、焦げた臭いと煙が漂ってきた。
 津波と火の手はすぐ近く。校庭からは逃げられない。職員は教壇を橋のように校舎裏の斜面に立てかけ、日和山方面へ逃げようと試みた。
 2階窓から脱出し、ひさしから教壇を渡した。地上からの高さは約2メートル。お年寄りも多かった。「山側に渡れば助かる。そう信じていた」と佐藤教頭。教職員と住民は手を取り合い、幅約1メートルの教壇を渡った。
 上へ、上へ。住民が安全な場所を求めて日和山へ急ぐさなか、1台のワゴン車が日和山から門脇町、南浜町地区へ向かって走っていた。
 日和幼稚園の園児12人を乗せた送迎バス。地震直後に園を出発し、南浜町などを回り5人の子どもを降ろした後、避難者でごった返す門脇小校庭に停車した。
 「バスを戻せ」。当時の園長、斎藤紘一さん(66)の指示を受け、幼稚園から教員2人が小学校脇の階段を駆け下りた。バスに追いついたが、園児を連れ戻すことはなかった。
 バスは再び出発した。途中、迎えに来た母親に園児2人を引き渡した。日和山に通じる坂の上り口で、バスは津波にのまれ、流された家に押しつぶされた。
 門脇町・南浜町地区一帯はすっかり炎に包まれ、13日午後6時ごろまで燃え続けた。
 14日、バスに乗っていた5人の園児は変わり果てた姿で見つかった。
 蛇田の佐々木純さん(32)は次女明日香ちゃん(6)を亡くした。「奪われずに済む命だった」。現場に行くたび、切なさがこみ上げる。

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今日(11月6日)、宮城県石巻市に来ました。
被災地を訪れるのは初めてです。そしてたった今、上記の石巻市立門脇小学校に行ってきました。
妻が、被災した方々、避難している方々に対する傾聴ボランティアに参加しているため、少しでもその方々のお気持ちに近づけるよう、どうしても被災地が見たいというので、とてもタイトなスケジュールではありますが、1泊2日で仙台から釜石くらいまでを視察してこようということになり、やってきました。
ここ、石巻市門脇町・南浜町地区は、ほとんど家がありません。完全に津波に流され、家の基礎を除けば、残骸すら存在しない家がほとんどで、家のないところを見るとただの空き地と錯覚するくらいの状態です。むしろ、かろうじてすべてを流されずに残った家を見ると、逆に津波の恐ろしさがわかるという奇妙な状態になっています。
多くのところで手を合わせ、黙祷して、写真やビデオを撮りました。この悲惨さを映像でお伝えできないのが残念です。門脇小学校は、津波による破壊だけでなく、津波によって流されてきた自動車などが積み重なり、そこから漏れたガソリンに引火して、火災を起こしました。そして3日間燃え続け全焼しました。その全焼した校舎は、見るも無惨な姿のまま、いまだにそこに残されています。
震災からすでに8ヶ月。たった一つの地域を見ただけでも、「高台移転」などという言葉がむなしく聞こえるほどのおびただしい数の家がなくなってしまったことがわかります。そんなことがいったいどうやって可能になるんだろう…。私たちに出来ることはいったい何なのか、被災地を見ることでますますわからなくなりました。門脇小学校の子どもたちが避難できたことが唯一の救いのように感じます。

明日は、現在釜石にお住まいで被災した、息子の翔が中学校でお世話になったサッカー部の顧問だったK先生のお宅や南三陸町、大槌町などを訪ねる予定です。
(文:大関 直隆)

2011/10/31(月)
第479回「学校教育はどこに向かってる?」
「沙羅ちゃん、今日音楽会だって?」
「うん!」
「何時から?」
「1時半から」
「午後からなんだぁ! じゃあ、行けるかもしれない」
「うん、わかった! でもね、演奏中は入れないから、遅れると見られなくなっちゃうよ」
「沙羅ちゃんたちは何番目?」
「1番最初。1時半から校長先生のあいさつとかがあって、それが終わったらすぐ」

おーっ、まるでクラシックの音楽会のよう。
会場の体育館は明るい上、演奏中でも会場内での移動は出来る。もちろん、私語は慎むにしても、保護者の人数分の椅子があるわけではないので、自分の子どもがよく見えるように立ち見の保護者が移動したり、ビデオ撮影、写真撮影もOK。にもかかわらず、演奏中は入場できない? 意味わかんなーい!

私も音楽をやっていたので、演奏中に会場に入られるのが気になることはわからなくはない。舞台上だけが明るく、客席がほぼ真っ暗な状態で後方のドアが開くと、舞台からはけっこう気になるし、演奏の音以外何も聞こえず、咳をしたり、ときに息をしたりするのもはばかられるような緊張感の中では、演奏中の入場が禁止なのは当然です。でも小学校の音楽会の目的は子どもたちが精一杯歌うことにもあるわけだし、それを保護者に見せることにもあるはず。沙羅の言ったことがどこまで本当かは定かではないけれど、とにかく子どもたちにそこまで厳しく感じさせる必要があるのだろうか、要するに子どもたちが騒がないようにするための脅し?と思いながら、沙羅の話を聞きました。

仕事の関係で、行けるとしても1時半ぎりぎり。沙羅の言ったことを信じるとしたら、1分でも遅れるわけにはいかないので、時間を気にしつつ、校長先生の話はどれくらいか話からなので、1時半に間に合うように沙羅の通う小学校へ向かいました。そこまでぴりぴり時間を気にしていなくてはならない自分が、おかしくも思えましたが…。
1時半を目指したおかげで、校長先生の話にも間に合いました。

沙羅の演奏の前に、開会宣言、校長先生の話、教頭先生の話、演奏中の諸注意があったのですが、これがまたわけがわからない。話の内容は理解できるし、それほど変なことを言っているわけではないんですが、どういうわけかやたらと敬語を使う。ところがこの敬語が誰に対して使っている敬語なのかわからない。私も敬語の使い方は下手なので、というかよくわかっていないので、「今のおかしい」と妻にときどき指摘されるくらいなんですけれど、そんな私が聞いていても、かなりひどい。
敬語というのは、敬語を使う立場の人間と、敬語を使われる立場の人間がいて成り立つもの。にもかかわらず、それがはっきりしないものだから、保護者に対して敬語を使い、子どもたちに敬語を使ったと思ったら、今度は教員に対して敬語を使っている。そんな曖昧なしゃべり方をしているものだから、とうとう主語につく助詞までがおかしくなって、「が」なんだか「は」なんだか「を」なんだか、めちゃめちゃになっちゃって…。
演奏中の諸注意だけは子どもたちに対して上から目線だから、立ち位置がはっきりしていたけれど、校長先生の話と教頭先生の話は立ち位置が定まらない。学校の現場の混乱を象徴しているような話っぷり。誰が誰のために何をすべきで、何をしようとしているのか、そこの部分が欠落して、批判されないよう表面だけを取り繕おうとしているんでしょうね。
それが教員の質の低下をごまかそうとしているものなのか、保護者の暴走に歯止めをかけるための戦略なのかは別にして、とても心配なことですが、学校教育が芯のあるしっかりしたものではなく、うわべだけの学校ごっこのようなものに成り下がっているように感じました。
(文:大関 直隆)

2011/10/24(月)
第478回 「箱庭恐るべし!」
妻が先日、日本箱庭療法学会で事例発表をしてきました。扱った事例は、心因性の視覚障害により目が見えないと訴えていた女児が、見えないと訴えて来所したときから徐々に見えるようになり、すっかり回復するまでに作った箱庭を段階的に検証しつつ、回復までの心の変化を追ったものです。

※箱庭療法
一般的に用いられているのは、外が茶、中が水色に塗られた57×72×7(p)の木箱の中に砂を入れ、カウンセラーが見守る中で、クライエントが人や動物、木や建物、山や川といった人形やおもちゃなどを砂の上に並べていく心理療法。遊戯療法の一つとして位置づけられている。
箱の中が水色に塗られているのは、中の砂を寄せることで箱の底の水色が表れ、海や川、池といった水が表現できるからである。米国や欧州で用いられているが、日本でも非常に広く普及している。1965年、故河合隼雄氏(元文化庁長官)により日本に紹介された。

箱庭の写真をお見せできれば、とてもわかりやすいのですが、写真が添付できないので、言葉で説明すると、箱庭の写真は全4枚で、次の通りです。

1枚目(第1回制作)
四角い箱の周りに砂が寄せてあり、真ん中に直径10センチほどの池(水色の底が見えている部分)があります。本人を表現しているのではないかと思われる人形(ほとんどがイルカです)が 周囲に寄せた砂の上に真ん中の池を見ているように置いてあります。

2枚目(第2回制作)
箱の周囲に砂が寄せてあるのは前回と変わりませんが、中央部の池が前回の10倍くらいの面積に広がっています。池の周りの砂で作った高台には前回同様、イルカが置かれています。

3枚目(第3回制作)
前回、前々回とはまったく違い、箱の真ん中に砂で作った山があります。すべての砂を真ん中に寄せて一つ山を作ったので、それなりに大きな山が出来ています。前回まで置いてあった本人を表現しているのではないかと思われる人形は一つもなく、山の周りもどちらかというと殺風景で、若干花などが置いてあります。

4枚目(第4回制作)
3回目と同じように山が作ってあり、山の頂上付近に宝箱のようなものが掘り起こされたように置いてあります。蓋が開けられ、中には石のような宝物らしきものが入っています。
ただし、この宝物とまったく同じものが、箱とは離れた山の麓の方にもむき出しでいくつか散らばらせてあります。

どうも言葉ではうまく説明できなくてすみません。目をつぶって、頭の中に情景を思い浮かべてみてください。
4つの箱庭を見ると、この女児の目指すものが池から山、そして山から山の中に埋められていた宝箱の中身へと順番に変わっていったのがわかります。人が目指すものを持ったとき、それは初めは漠然としたもので、自分の中でもイメージすることが困難です。
海や池といったものが自分の目標、目的である場合、その目標物が平らな水の中にあるため、場所を特定することができません。ところが目標とする場所が海や池から山に変わったとき、山は頂上がはっきりわかるので、目標としているものがはっきり見えてきたと考えられます。しかもこの女児の場合、それをさらに宝箱という形で表現しました。そして、大事な宝物と思われるものが箱の中だけでなく、箱の外にも散りばめられている。そう、この子にとって大事な宝物はどこにでもあるものだったんです。

実はこの子が求めていたものは、お父さんとお母さんの関係。仲のいい夫婦関係だったんです。カウンセリングを進めていく中で、ご両親がそれに気づき、状況を変えたことでこの子も目は見えるようになりました。
箱庭によって治ったわけではないけれど、治っていく過程が驚くほどはっきりと表現されていたんですね。人の深層心理って、子どもでも透けて見えちゃうんですね。
それにしても箱庭恐るべし!です。
あなたも箱庭作ってみませんか!
(文:大関 直隆)

2011/10/17(月)
第477回 「ついにNHK総合も制覇!」
何言ってんだか…。
とにかくNHK総合の「ドラクロワ」終わりました。
夜10時からだったことや比較的長く扱ってくれたこともあって、けっこう様々なところから反響がありました。とにかく私のブログ(専業主夫 大関直隆の“Live and let live.”)のアクセス数は、軽く1000超。そしてビックリしたのは、放送終了とほとんど同時に、なんとうちが初めて(正確に言うと報道番組でちょっとした取材を受けたことはそれまでにもあったので初めてではないんだけれど、現在の状況のきっかけという意味では最初の)テレビで扱ってもらったとき、「モーニングEye」(TBS)のリポーターとして我が家を訪問してくれた「今村優理子」さんから電話をいただいたこと。懐かしいお声に私も妻も大感激。
翔の出産映像の公開について取材を受けていたとき、夫婦の問題になると今村さんが涙をぼろぼろこぼしてしまって…。その時は理由がわからなかったんですけど、後でお葉書をいただいて、うちと同じような年の差の恋愛に悩んでいて、取材がきっかけで決心がついたと…。

夜遅くにいただいたお電話の声も大変弾んでいて、とてもお幸せそう。子どもの話などしていたらずいぶん長電話になってしまいました。銀座にカウンセリングルームをオープンさせる話をしたら、「じゃあ、そのうち銀座あたりでお食事を」なんていう話になりました。

土曜日には、妻も私も、そして子どもたちも全員お世話になったピアノの先生からもお電話をいただきました。実はこの先生のお嬢さんは妻の教え子という入り組んだ関係なんです。もうだいぶ前(半年くらい?いや、1年くらいかな…。年齢と共に記憶は曖昧になりますね)になりますが、伊勢丹の地下の食品売り場でお会いして立ち話をして以来です。さすがにNHKだなあという感じ。視聴率はわかりませんけれど、世代的にいって、私たちと様々な関わりを持ってくださっていた方がずいぶん見てくださったんだなあと思います。

メインは「女教師と男子生徒の恋愛」という内容でしたけれど、そこから表現されていることっていうのは、やはり「家族」ということなんですね。
今村さんはもちろんピアノの先生も、いろいろご自身のご家族のこともお話ししてくださいました。久しぶりということもありましたから、私も妻も、お二人のご家族(お孫さんのことも含めて)のお話もお聴きしたかったんですが、久しぶりということだけではなくて、内容のせいもあったんだろうと思います。
人を好きになり、結婚をし、子どもが生まれ、幸せな生活を営む…。そんな話っていうのは、誰もが自分自身の生活を振り返ることにつながっているのかもしれません。

「なんか今回の番組はずいぶん見た人がいっぱいいるみたいよ。で、やたらパパの評判がいんだけど、なんなのそれ?! 俳優みたいとか、すごくいい人だねとか…。まだ見てないからわかんないけど…。録画したんでしょ? ちょっと見せてよ。絶対おかしい。作りが変なんじゃん!」
と翔が帰ってくるなり騒ぎました。
「いっぱいっていうほど、視聴率高くないだろっ?」
「周りだよ、周り。ゴルフの関係の。テレビ出るって言っといたから」

まったくわけのわからないやつです。話したら見るだろっ、そりゃあ…。
まあいつものことではありますけれど、今回の番組も、ちょっと私をよく描き過ぎかな?
子どもたちからはかなりのブーイングが来てます。
まあ私から見ても、実際とはだいぶ違ったイメージに見えるので、子どもたちのブーイングにも納得です。ディレクターが私のファンだった?
子どもたちの紹介も男3人しかなくて…。女性差別だー!
スタジオも森三中の皆さんを含め、ゲスト全員が女性。男は私一人。男性差別だー!
というわけで、よく描かれ過ぎちゃったみたいですね。

社会のモラルという点から考えれば、ハチャメチャに生きてきちゃったわけで、後ろめたい気持ちもいっぱいです。珍しいからテレビは扱いたいんでしょうけれど、夫婦のこと、子どものこと、家族のこと、考えるきっかけになれば…。
どこのご家庭にも暖かい灯がともるといいですね。
(文:大関 直隆)

2011/10/11(火)
第476回「うっそー! 優勝?!」
「勝っちゃうかもしれない」
「はっ?」
「あと広島だけ。広島の選手が最終組で回ってるから、その結果待ち」
「宮城は?」
「もう終わってるけど、崩れた。昨日、良かった連中が総崩れなんだよ」
「神奈川は?」
「もう広島だけだよ。あとはもう可能性がない。広島か、埼玉か。イーブンで負け、1オーバーでタイ」

ほんとかよぉ?!
山口国体ゴルフ成年男子の競技が行われている宇部72(セブンツー)カントリークラブ、万年池東コースの18番グリーンからクラブハウスに向かう途中に設置されている大きな成績ボードは、あと数県の選手の結果の欄を残すだけでほぼ埋まっています。
確かに第1日225ストローク(3人の選手の合計ストローク)、第2日218ストローク、合計443ストロークの埼玉県を上回る県(都道府県)はありません。空欄の他県を見ても、ほとんどが第1日目で埼玉県とは大差がついており、ゴルフとしてはあり得ないようなスコアでホールアウトする以外に勝ちはなく、埼玉県を上回る可能性というのは、限りなく100%に近く無し。
残りの広島の選手の第1日のスコアと第2日の他の選手のスコアを比べると、イーブンパー(72打)でホールアウトするのは、可能性として極めて低そうです。
「ほんとに?」
「勝っちゃうかも…」

10月8日、9日に初めて国体のゴルフ競技に参加した翔(かける)の応援に、妻と二人で山口県の宇部72カントリークラブへ車で行ってきました。鹿児島港から船で9時間の平島(たいらじま)から月曜日に戻ったばかり。左足は肉離れ(前回参照)、右の膝もひどい関節痛で、7日(木)に車で1000キロはかなりの強行軍でしたが、息子の初めての国体ということになればしかたありません。というよりは、そんなことナンノソノ!(ただの孫バカ、親バカかな?)

「来るのはいいけど、ちょード派手な服装はやめてよ」
と翔に釘を刺されたにもかかわらず、
「ねえねえ、このコバトンの旗、車に付けて行くっていうのはどう?」
と、翔の部屋に置いてあった県からもらったらしい大きな紙袋の中からコバトンの小旗を出して真顔で言う妻に、
「埼玉県の国体関係者が高速道路にコバトンの旗を落としていったっていうのはまずいでしょ!」
と諭すと、
「そりゃそうだよ。高速道路じゃなくて、ゴルフ場に入るときだよ」
「目立つなって言われたんじゃないの? だいたい駐車場に入るときに車に旗が付いてたって、自己満足なだけで、翔にはわからないんだから、応援になってないでしょ!」
「だから、コースを回るときは持って行くんだよ」
「だからぁ、それがダメだって言うの! 目立つし、それだけじゃなくて、邪魔だって競技委員から注意されちゃうでしょ!」
「はぁ、ゴルフって応援に行ってもおもしろくないよね。何やってんだか、全然わからないし、誰と競争してるのかも全然わからない」

確かにその通りだけれど、それならそれでゴルフなんてやらせないで、サッカーでも野球でもやらせときゃよかったわけで…。応援で燃え尽きたい妻の気持ちもわからないではないけれど、今回はぐっと我慢、我慢。
(実は、親がいるといつも大崩れするので、初日の後半は宮島へ、2日目の前半は萩に行っていたんです。私は萩で粘土を大量に買い込んで、浦和の陶芸教室に送ってもらいました。息子の応援にかこつけて、ちゃっかり仕事もしていたわけです)

広島の選手がホールアウトしても、なかなかボードに記入されない。かなり長時間待たされて、ボードには8オーバー、80の数字が…。
ヤッター! 優勝!
と思ったときには、翔はすでにクラブハウスの中。
「ボードをバックに写真撮ろう!」
二人でコバトンの小旗を手に写真を撮り合っていると、
「優勝おめでとうございます。良かったですねえ。撮りましょうか?」
と見ず知らずの人に声をかけていただき、二人並んで写真を撮ってもらいました。コバトンの小旗も大活躍。無駄にはならなかったわけです。
ゴルフにほとんど興味のない私も妻も、国体の表彰式というものに出させてもらい、ゴルフというスポーツの雰囲気をしっかりと味合わせてもらいました。
そして、午後6時。自宅に向け約1000キロの帰路につきましたが、帰路全体の約半分の京都まで車を走らせ、その晩は京都泊まり。
「何年ぶり? 20年ぶり?」

朝から、金閣寺、銀閣寺、龍安寺、広隆寺を回って、自宅に着いたのは夜中の1時半。
この二週間、すっかり孫と子どもに楽しませてもらっちゃいました。
(文:大関 直隆)

2011/10/03(月)
第475回「たった7人の運動会」
10月1日、平島小中学校の運動会が開かれました。
孫の蓮の留学している鹿児島県十島村立平島小中学校は、小学生が3人、中学生が4人の小さな学校です。いったいどんな運動会になるのか楽しみに平島を訪れました。(第465回〜第469回参照)

「やあ、やっぱり遠いなあ…」
今回の目的は、運動会だけだったので、9月30日、午後11時50分の“フェリーとしま”に乗り、10月1日、9時前平島着。その日に運動会を見て、翌10月2日午前11時、平島を出て、その日の夜9時前に鹿児島着。その時間だと自宅に向かう手段がないので、鹿児島に1泊して3日朝、自宅に向けて鹿児島を出発するというタイトなスケジュールのため、体の具合で飛行機の乗れない私は新幹線、娘の麻耶と孫の沙羅は、飛行機を利用することになりました。

というわけで、今は鹿児島のホテルでこの原稿を打っています。娘と孫はすでにこのホテルを出て、飛行機です。(現在10月3日午前7時30分)
さて、平島小中学校秋期大運動会の話。

うちも含め、留学生の保護者はみなタイトなスケジュールで平島に向かうため、運動会の開始は、その日の朝到着の“フェリーとしま”の時間に合わせ9時半開会です。教頭先生をはじめ多くの島民の皆さんが、“フェリーとしま”の港湾労働に従事しているため遅めの開始になっています。民宿(といっても、現在、民宿を経営しているご夫妻が鹿児島にいらっしゃるので空き家状態になっているんですが)に荷物を置き、運動会の服装に着替えて、学校の隣にある運動会会場“健康広場”に向かいました。

“健康広場”は7月に訪れた時に子どもたちと野球をやった場所で、そのときはとにかく草が生い茂っていて、ボールがその草の中に入ると探すのにも一苦労するような状態でした。「あそこでほんとにやれるのかなあ?」と家では話しているくらいだったんですが、“健康広場”に行ってビックリ。子どもたちが走るトラックはきっちり整備され、ラインが引いてある。そしてそれ以外の場所は、草が短く刈られ、立派な陸上競技場のよう。グランド中央に建てられたポールからは四方にロープが張られ、万国旗が風にはためいていました。

「えっ! これ島の皆さんでやったんですか?」
蓮の里親のHさんに尋ねると、
「みんなでやりゃあ、たいしたことないよ」
おいおい、こりゃたいしたことだろ!

その一言に、この島で最も大きなイベントである平島小中学校運動会を島民全員で楽しいものにしようという島民の皆さんのお気持ちが現れているように感じました。
入場行進は、子どもたち+島民全員+私たち留学生の関係者+平島小中学校を卒業して現在は鹿児島で高校に通う卒業生(私たちと同じ船で平島に着き、私たちと同じ船で鹿児島に帰ってきました)。

「えっ、入場行進も出るんですか?」
「そうだよ、当たり前じゃない! みんな出るんだよ。競技も全部出るんだからね。大関さんは白組だから、このハチマキして」

と白いハチマキを渡されました。
おーっ! 全員参加型、運動会!
たった7人を赤組、白組に分けてどうやって運動会をやるのかと思ったら、島民全員を赤白に分けて戦います。当たり前といえば当たり前なんですが、ちょー高齢の方までハチマキをしているのには驚きました。

そして始まった開会式は、入場行進に始まり、校旗の掲揚、校長先生のご挨拶、若い力斉唱、準備運動…。昨年優勝の赤組からの優勝旗の返還もありました。厳粛に進む開会式に学校や島の意気込みを感じました。
子どもたちが練習を重ねてきた応援合戦を除いて、ほぼすべての競技が「子どもたち+卒業生+島民の皆さん+保護者」で進行していきます。
「頑張りすぎて、アキレス腱でも切ったら笑えねぇ!ってなっちゃうから気をつけないとね」
そういった矢先、子どもが投げたボールを保護者がキャッチして距離を競う競技に参加した私は、蓮の投げたボールがやや前の方に落ちそうになったので、慌てて前に出てキャッチしようとした瞬間、ビシッという音がして、ふくらはぎに激痛が走りました。ボールは何とかキャッチしたのですが、ふくらはぎは肉離れ。今も腫れが残っていて、そんなこともあろうかとうちから持ってきていた包帯をぐるぐる巻きにしています。
病院がなく、医師のいない平島の人々にとって、病気や怪我は最悪の事態にもつながりかねません。一昨年は、ゴール寸前で転倒し、鎖骨が折れて、鹿児島の病院に入院した人もあったとのことでした。運動会後の大人だけの反省会で、「今年は大関さんを除いて大きなけが人もなく無事運動会を終えることができ…」と教頭先生の挨拶があった時には、穴にも入りたい気持ちでした。

たった7人の運動会はとても盛大な運動会でした。Hさんの話では、
「島民の8割は来てるだろ。今日、鹿児島で運動会があって、出かけちゃってるのもいるから」
島全体で学校を守ろうという気持ちが大変強く伝わってきました。お昼を一緒に食べながら(里親のHさんのお宅でご用意いただいたとても豪華なお弁当です)、
「本当に皆さんいい人たちで、いい島ですよねえ」
と私が言うと、Hさんは、
「ここの島の住人は、みーんな同じなんだよ。平等っていうか…」
そうなんです。私もずっと感じていたことですが、校長も教頭もない、村会議員も自治会長もない、大人も子どもも、みんな平等なんです。もちろん子どもたちにしつけはしますけれど、けっして大人が威張らない。島という特殊な環境が作ってきた伝統なんですね、きっと。

運動会の競技に、ワラで縄を結って長さを競う競技がありました。年配の方の出番です。お年寄りもとても大事にされているのが伝わってきました。私が子どものころ、暮れになると父が神棚に上げる縄をワラで結っていたのを思い出しました。島の皆さんのお心が蓮にもしっかりと伝わっているといいのですが…。

足を引きずりながら、お昼前の新幹線で東京に向かいます。妻には、うちに着くころにはウサイン・ボルトの世界記録を更新できるくらいによくなってると思うと言ってはみたものの、整形外科直行で、松葉杖になりそうです。
(文:大関 直隆)

2011/09/26(月)
第474回 「ネクタイ売り場にはご用心!」
以前、子どもを連れてデパートのネクタイ売り場に行ったときのことです。私がネクタイを見ていると右後方で“ゴンッ”という音が。
売り場のおばさん(おねえさん?)がすぐに駆け寄ってきて、子どもの目線にしゃがんで、
「大丈夫? 痛かったでしょ」
状況がいまいち理解できていなかった私もその状況に、どうやら子どもがネクタイを見せるために半開きにしてある引き出しの角におでこをぶつけたらしいということがわかりました。
「“ゴンッ”って大きな音がしたもんね。痛かったでしょ」
と売り場のおばさんがさらに子どもを気遣って声をかけてくれました。
「どれどれ」
と子どものおでこを確認しましたが、泣き出すわけでもないので、おでこをちょっと確認して、抱き上げました。肩にべたっと顔をつけてべそをかいているようでしたが、痛がっている様子でもなし。しばらくすると、私も子どももおでこを引き出しにぶつけたことなどすっかり忘れ、普通に買い物をして帰ってきました。

お風呂に入ろうと、子どもの服を脱がせてやっているときに気づきました。なんと髪の毛の生え際に大きなこぶが…。そしてそのこぶには血の流れたあとまでありました。
「えっ? おまえ、これじゃすごく痛かっただろっ? ごめんな、気が付かなくて…」
ちゃんと見たつもりだったのに、どこを見ていたんだか…。
泣き出しもしない、痛がりもしないことをいいことに、対して気にも止めませんでしたが、これでは売り場のおばさんが気にするはずです。
ああ、私としたことが…。

ぶつかると言えば、人工衛星「UARS」。昨日(24日)、「UARS」は大気圏に突入し、どうやら北米上空を通過して米西海岸沖に落下したとのことです。今回は人や建物に当たるというような被害はなかったようですが、事前に報道された人に当たる確率は3200分の1、特定の一人について当たる確率は22兆分の1。これはいったいどういう意味? 数字は大きいし、ぴんとこない感じだけれど、要はまず当たらないっていうことが言いたかったのか、それとも当たることもあるから気を付けろって言いたかったのか…

宝くじの1等に当たる確率は1000万分の1らしいから、それからいうと22兆分の1はまず絶対に当たることはないっていうことなんでしょうね。とはいえ、用心に越したことはありませんから、気にしていた方も多いのでは? もちろん私も気にしていました。

「石橋をたたいて渡る」っていうことわざがあります。「非常に用心深いこと」を言ったことわざですが、妻に言わせると、私は「石橋をたたいても渡らない」タイプ。
でもそれじゃあ、川は渡れない。どうやって渡るかと言えば、石橋は渡らないのに泳いで渡っちゃいそう。他人が造った石橋は信用できなくても、自分の泳力は信用できるから(笑)

現在、カウンセリングルームの銀座進出の話が進行中で、先日銀座の物件を見に行ったときの話。8坪ほどの狭い部屋と15坪ほどの広い部屋を見たのですが、お金もないし、無理は出来ないから私としては「8坪の部屋で」ということで話を進めていました。すると妻から、「あのとき(物件を見に行ったとき)は、銀座に出すっていうだけで満足してたけど、やっぱり広い方が良いような気がする。広い方を借りるっていうことじゃダメかなあ?」とメールが来ました。
おいおい、何言ってんだよ! そんなに簡単にはいかないよ。で、私は、
「足場がしっかりしてから博打は打った方がいい二人とも博打が好きだから、博打は慎重に。いきなり札束をバンッて積まない積まない。しっかり見極めて、勝算があると思ったら一気に行く!」
とメールを送りました。
「博打かぁ!」
と妻には大ウケ。事業の拡大を「博打」と言った私も、えらく悦に入っていて…。
ネクタイ売り場で子どもがおでこをぶつけてしまったときの私は何だったんだろう…
石橋をたたいても渡らないくらい慎重な私と思っていたのに、大失態。ネクタイ売り場で引き出しが引き出されているのは当たり前。しかもそれが子ども頭の高さなのも当たり前。「引き出しなんて出しとくんじゃなーい!」なんて怒るわけにもいかないのだから、ならばネクタイ売り場で子どもをウロウロさせるべきではない。
石橋をたたいても渡らない私の性格とはまったく反対の、川を泳いで渡っちゃう、博打好きというのも私の一面。そんな私の一面が油断を招き、子どもをネクタイ売り場でウロウロさせてしまったのかな?

子育てに博打は禁物。慎重すぎて慎重すぎることはない。ただし、子どもが人生の分かれ目にさしかかったときには、博打を打とうとする子どもの背中を押してやる勇気も親には必要かも…。
そのあたりが子育ての難しさ、醍醐味かもしれませんね。
小さいお子さんをお持ちの方は、くれぐれもネクタイ売り場にはご用心!
(文:大関 直隆)

2011/09/20(火)
第473回「学校がなくなる」
「Kさんが電話ほしいんだって。電話番号、そこに書いといたけど」
「なんだろっ? 珍しいね」
「何にも言ってなかったけど」
他人の家に電話をするのはほぼ夜9時までと決めているのですが、PTA役員をやっている時でさえ、電話がほしいなどと言ってきたことのないKさんが「電話がほしい」なんてよほどのこと。すでに午後10時を回ろうとしていたのですが、とにかく電話してみることにしました。
「もしもし、大関ですが…」
「ああ、大関さん、どうも」

PTAの役員を一緒にやった奥さんからの電話だと思い、「奥さん、いらっしゃいますか」と言おうとしたその瞬間にご主人が話し始めたので、ちょっとビックリしました。
「お電話いただいちゃってすみません。中学校のことなんですけど、聞いてますか? 今、1年生が7人しかいなくて、このままだと来年廃校になりそうなんです。来年度、40人以上生徒が集まらなかった場合は、廃校にするって。突然なんですよ。1年生が少ないのはわかってたけれど、廃校なんていう話はこれまでなかったんです。それが突然廃校なんていう話されても…。1年生が7人なのに、いきなり40人以上なんて言われたって、今の6年生が全員そのまま中学に上がったって、ぎりぎりですよ」

「今年、小学校を卒業した子もそれくらいいましたよね?」

「卒業した子はいましたけど、ほとんど別な中学校に行っちゃったんです。中学校が何も手を打ってこなかったから。中学校は選択制でしょ、だから他の学校はいろいろ宣伝してるんです。説明会を何度も開いたりして…。なのにうちの学校は何もしない。だから生徒をみんな取られちゃったんですよ」

「最近、中学校とはあまり関わってないので知りませんでした」

「廃校にならないように何とかしようっていう気がないんですよ。教育委員会から“40人以上にならなかった場合は廃校”っていう説明があっただけで、中学校も結局教育委員会側ですよね」

「教員はどこの学校に行っても同じですからね。むしろあまり小規模校だと一人ひとりの負担も多くなるし、校長先生だって、本当のところ小規模校よりは大規模校の校長の方がいいでしょ。おそらく教育委員会の既定路線ですよね、すでに。今年7人で、来年もそんなもんなら、教員の人件費とか、学校の維持費とか、市内の他の中学校と比べたら生徒一人あたりの市の負担額はかなり多くなっちゃうでしょ。そう考えると、教育委員会の既定路線をひっくり返すのは難しいですよね。財政的にそれだけの余裕はないだろうし…。この地域の人口が増える可能性があって、子どもの数もこれから増えるかもしれないっていうんならすぐ廃校っていうこともないんでしょうけど…」

「とにかく40人ていうのをもう少し少なくしてもらって、教育委員会に対して、3年でも2年でも猶予がもらえるよう運動しようって言ってるんです。それと小学校の卒業生には地域の中学校へ進学してもらえるようにって。大関さんなら何かいい方法がないかなあと思って…」

娘から一度、中学校の1年生が少ないっていう話を聞いたことがありました。
その時に、7人しかいないと聞いたような気はするのですが、50人以上の小学校の卒業生がいて、まさか7人しかいないなどということは夢にも思わなかったので、あまり本気で話を聞かなかった気がします。
確か「中国人の子どもたちは小学校統合(3年前、うちの地域の小学校が隣の小学校と統合し、うちの地域の小学校が残りました)のときにもだいぶ引っ越したみたいだから、ほとんどどこかへ移っちゃったんだろ」(統合になった団地の小学校にはかなりの数の中国人の子どもがいましたが、小規模な小学校での子どもたちの学力に不安を持ったのか、多くの家庭が引っ越してしまいました)などと言ったように思います。
ところがKさんの話を聞いて、状況がまったく違うことがわかりました。規模がどんどん縮小する地域の中学校では、好きな部活動にも入れない、学力の低下も心配ということで、中学校の選択制を利用して、地域とは別な中学校に進学してしまったということのようでした。

廃校になった場合も、隣の中学校まではそれほど距離があるわけではありませんが、間に線路があるため、我が家のある地域は、中学校のない孤立した地域のようなイメージになります。中学校の存廃は、学校だけの問題にとどまらず、地域全体の大きな問題であることは間違いありません。平島のYさんが「学校の存続は島の存続に関わる」と強い危機感をお持ちになっていたのもよくわかります(第469回参照)。
地域から中学校がなくなるということは、これまで地域の中に生活の拠点のあった中学生が生活の拠点を地域外に移してしまうということであり、それは地域内に暮らす大人の人間関係をも希薄にさせてしまうことにつながります。特に中学校の選択制により、地域からより離れた学校を選ぶ生徒が多ければ多いほど(中学校に魅力がないというよりは、むしろ小学校における楽しい学校生活の欠如がそういう状況を生むのではないかと思います)、状況は深刻です。

地域力の再生が叫ばれる中、決して商工業地域でない、東京のベッドタウン、人口密度の高い住宅街でありながら、まるで過疎化が進行しているような状況は、地域社会の危機と言ってもいいのかもしれません。果たして、来年度の中学校の存廃がどうなるのか、推移を見守りつつ、何とか存続できるよう私なりに努力をしたいと思います。
(文:大関 直隆)

2011/09/12(月)
第472回「朝のあいさつ運動」
「ちわ」
「ちわ」
中学校のころのバレーボール部のあいさつはこんな具合。もちろん「こんにちは」の略なので、正確には「ちは」なんでしょうが。基本的にはすれ違ったりするときに、後輩が先輩に対して先に「ちわ」とあいさつをします。それに対して、「ちわ」ときっちり返してくれる先輩もいれば、ちょっと頭を下げてくれる先輩、もしかしてほんのちょっと目が笑ったかな?という先輩、まったく無反応の先輩…様々です。
まだそのあいさつに慣れないころは「ちわ」と言うのが照れくさくて、声が小さくなってしまうこともあったのですが、小さくなりすぎると、
「もっとしっかりあいさつしろよ」
と先輩に怒られたりしました。そんなことがあると、
「あいさつしたってちゃんとあいさつを返さない先輩だっていっぱいいるじゃん!」なんて内心ムッとするんですが、中学生や高校生にとって(特に強豪と言われる部では)先輩は絶対的存在。
「ほらっ、言ってみろ!」
なんて言われ、
「はい、“ちわ!”」
「まだ声が小さい」
「“ちわ!”」
「いつもそういう風にあいさつしろよ」
かなり封建的ですが、そんなことがあったもんです。いじめに近い部分もあるので、いろいろ指導も入り、最近は少なくなったんでしょうね。息子や娘のときは、あまり強い運動部に入らなかったということもあるんでしょうが、あまりそういうこともなかったように記憶しています。

その代わりと言っていいのか、私がPTAの用事で中学校を訪ねると、必ずすれ違う生徒全員が「こんにちはぁ!」と声をかけてくれました。中には遠くの方から、「こんにちは〜!」と大声で叫んでくれる生徒もいて、こちらが同様に大声で叫ぶわけにもいかず、その生徒にわかるように大きく頭を下げたり、ちょっと手を挙げて気づいたことを示したりと苦労することもありました。

先日、孫の沙羅が忘れ物をして、娘の麻耶が慌てて沙羅の後を追ったことがありました。沙羅に追いついたのは、ちょうど小学校の正門前。すると正門周辺に多くの地域の方がいて、子どもたちに「おはようございます」と声をかけていたんだそうです。以前から、校長先生や教頭先生が校門のところに立って、通学してくる子どもたちに声をかけてはいたのですが、さすがにそれが大勢になると麻耶にも違和感があったようで、
「忘れ物届けに行ったら大人がたくさんいるっていうのは、ちょっとばつが悪いよねえ」
とそんな言い方をしました。
「へえ、そんなに大勢いたんだ?」
と話を聞いていくと、どうやら「ばつが悪かった」のではなく、大勢の大人が、一人の子どもに次から次へと「おはようございます」とあいさつをし、それに対して子どもが大人一人ひとりに「おはようございます」と返していたのに違和感を感じたようで、
「だんだん声が小さくなって、うつむいていっちゃう子もいるし、だんだん声が大きくなって最後は怒鳴っちゃう子もいたよ」
と話しました。

様々なところで「あいさつ運動」とか「一声運動」とかが行われていますが、あいさつを「運動」にしてしまうと、あいさつが形骸化してしまって、本来のあいさつの意味が薄れてしまいます。(第408回参照)お互いにあいさつをすることはいいことですけれど、本来のあいさつの意味が失われないよう、形にとらわれないあいさつ運動にしてほしいものですね。
(文:大関 直隆)

2011/09/05(月)
第471回「人生の分かれ目 その2」
そのコメントには「その後、僕は北海道帯広市の中学・高校と進み、音楽の道へ進みました。キャデラックスリムというバンドでプロ活動をしてからバンド解散後は東京の会社に就職し、現在は埼玉県の東川口に在住です。キャデラックスリムで検索するといろいろと出てきます」
と書いてありました。

はぁ? 音楽? バンド? プロ? わけわかんない!
ほんとにあの葛西君?
でもあの葛西君だよなあ…
他に葛西君は知らないし、「バレー部に居た」って言ってるし…

でもよーく思い出して、よーく考えてみると、当時中学生としては珍しく確かにギターは弾けたような気がする、確かに目立つことが好きだったような気もする。ごめん葛西君!悪い意味じゃないので…(笑)
ほんの10ヶ月足らずとはいえ、葛西君には本当にお世話になりました。
葛西君のコメントに私は返事を送りました。

コメントありがとう。
驚きました。
あの葛西君?
あの葛西君なんだよねえ?
ちょー有名人?
とにかくビックリしました。
よく私のブログにたどり着きましたねえ?
名前も変わってしまっているし、原山中関係のキーワードではなかなか検索に引っかからないと思うのですが…。
懐かしいです。
よく一緒にパスの練習をしてもらいましたよね。
私は1年生の10月くらいにサッカー部からバレー部に移ったんです。
あの頃のサッカー部は現ガンバ大阪監督の西野朗さんが3年生にいて、同級生にオシムジャパンと岡田ジャパンでコーチをやっていた加藤好男君がいて、サッカー部も強かったんです。

ただ私は2年生の先輩がどうも苦手で、不登校気味になっていたのを、学年主任だった設楽先生が拾ってくれたんです。
バレー部に入ってからは、葛西君に一番面倒を見てもらったと思っていますよ。
よく「おかめや」に行って、いろいろ食べましたよね。餃子パンとか、コロッケパンとか、焼きそばとか…。いつも調理パンを5、6個と焼きそばと食べて、牛乳3本飲みました。
今じゃとても無理ですね(笑)

あの頃の私は、葛西君といる時間が一番長かったように思います。葛西君がいなかったら、バレー部も続いたかどうか…。私は2年生の最初の大会からエースをやらせてもらっていました。葛西君には本当に感謝しています。

結局私たちは、2年生の秋の新人戦が浦和市で2位(岸中学校に負けてしまって)で県大会に出場、県大会で2回戦負け(?)、3年生春の大会が浦和市で優勝、県大会でベスト16(?)、最後の夏の大会が浦和市で優勝、県大会3位。準決勝で優勝した大宮植竹中学に負けてしまいました。試合中もいろいろなドラマがあって、涙をいっぱいにためながら試合をしていたのを覚えています。でも、何回戦で負けたかなんて忘れちゃうもんですね。

あのころのメンバーは皆、「葛西君がいたら…」って思っていたと思います。
おそらくそれは確かで、葛西君がいたら、もっと成績がよかったと思います。
(略)

葛西君がなぜ私の人生にとって重要な一人なのかというと、彼が私の子どもから大人への脱皮に一役買っていると思うからです。中学生の葛西君は、私から見るとずいぶん大人に見えました。叔父叔母が大勢同居する大家族の中で直系として育てられた私は、思春期を迎えても、今ひとつ自我が確立できていなかったように思います。やや大人びて、やや不良っぽいというか、とてもまじめで正義感が強いのですが、それがまた自分が正しいと思えば大人にでもくってかかりそうな雰囲気を醸し出し、その自立した姿が、不良っぽいという印象に映っていたのかもしれません。

彼と行った「おかめや」は私の自立を促すのに充分な場所でした。「おかめや」がなかったとしたら、私の精神的自立心は遙か彼方に追いやられたような気がします。もし葛西君との出会いがなかったら、自分の考えや自分の生き方を貫こうとする「人としてのパワー」は生まれてこなかったろうと思います。今自分のそんな姿を想像しても、想像がつきません。

8月の終わりに葛西君と会いました。さすがにメジャーデビューをした風格がありました(笑)。でも、彼の生き方は中学生の頃の彼そのもののように感じました。お昼に会い、気が付いたときには、もう5時半でした。
「ジャンルは違うけど、私も高校では音楽部だったんだよ」
「もし、あのとき僕が転校しなかったら、同じ高校に行って一緒に何かやってたかもしれないね」
今回は、私の話ばかりをしてしまいました。今度会う時には、「キャデラックスリム」の話をゆっくり聞かせてもらおうと思います。
(文:大関 直隆)